楊播

楊播、字は延慶、弘農郡華陰県の人である。高祖父の結は慕容氏に仕え、中山相の位にあった。曾祖父の珍は道武帝の時に帰順し、上谷太守の位にあった。祖父の眞は河内・清河二郡の太守であった。父の懿は延興末年に広平太守となり、称賛される治績があった。孝文帝が南巡した時、官吏民衆が彼を称え、選部給事中に徴され、公平の誉れがあった。安南将軍・洛州刺史に任ぜられたが、未だ任地に赴かずして卒した。本官を追贈され、弘農公を加えられ、諡を簡といった。

播は本来字を元休といったが、孝文帝が賜って改めさせた。母の王氏は文明太后の外姑(母方の伯母)である。播は若い頃から行いを整え、礼を尽くして奉養した。中散に抜擢され、累進して衛尉少卿となった。陽平王頤らと共に漠北に出て蠕蠕を撃ち、大いに勝利を得た。武衛将軍に遷り、再び蠕蠕を征し、居然山に至って還った。車駕が南征した時、前将軍を仮授され、鐘離に従った。軍が帰還する際、詔により播が円陣を布いて防いだ。二晩対峙し、兵糧が尽き、賊の包囲は更に急となった。播は精騎三百を率い、賊の船列を巡って大呼し、「我今渡らんと欲す、戦える者は出よ」と言った。そこで押し渡ると、賊は敢えて動く者なかった。華陰子の爵を賜った。後に車駕に従い鄧城で崔慧景・蕭衍を討ち破り、平東将軍の号を進めた。時に車駕は沔水の城で威を耀かし、上巳の宴を設けた。帝は中軍彭城王勰と射を賭け、左衛元遙は勰の組にあり、播は帝の組にあった。遙が的を射て正中し、籌の限りは満ちた。帝は「左衛は籌足れり、右衛は解かざるを得ず」と言うと、播は「聖恩を仰ぎ恃み、必ず争わんことを庶幾う」と答え、そこで矢は正しく的に中った。帝は笑って「養由基の妙といえども、何ぞまた是れを過ぎんや」と言い、卮を挙げて播に賜り、「古人は酒をもって病を養う、朕は今卿の能を賞す、古今の殊なりと言うべし」と言った。太府卿に任ぜられ、爵を伯に進めた。

後に華州刺史となった。州に至り、人の田を借りたことを御史の王基に弾劾され、官爵を削られ、家で卒した。子の侃らは柩を停めて葬らず、訴えを披瀝すること数年を積んだ。熙平年中に至り、鎮西将軍・雍州刺史を追贈され、併せてその爵を復し、諡を壮といった。

播の子 侃

侃、字は士業、琴書を頗る愛し、特に計画を好んだ。当時、播の一門は朝廷に貴満し、子や甥は早くから通じていたが、侃のみは交遊せず、公卿で彼を知る者は稀であった。親戚友人が出仕を勧めると、侃は「もし良田あらば、何ぞ晩歳を憂えん、ただ才具なきを恨むのみ」と言った。三十一歳で華陰伯の爵を襲った。

揚州刺史長孫承業が彼を録事参軍に請うた。梁の 州刺史裴邃が不意を襲おうと謀り、密かに寿春の人李瓜花・袁建らを買収して内応させようとした。邃は既に兵士を整えていたが、寿春に疑いを覚えられるのを慮り、偽りの移文を送った。「魏は始めて馬頭に戍を置き、また白捺の旧城を修復せんと欲すと聞く。もし然らば、便ち稍々侵逼す。此れ亦た欧陽を営み、交境の備えを設くべし。今板卒は既に集う、唯だ信の還るを聴くのみ」と。幕僚は皆、実情を以て答えるべし、即ち白捺を修める意なしと云うべきだと欲した。しかし侃は言った。「白捺は小城、本来形勝の地にあらず。邃が兵を集め移文を遣わし、虚構の是の言を作すは、別の図りあること無からんや?」承業は「録事は移報を作るべし」と言った。移文には「彼の兵を纂むるは、別に意あるを想う、何ぞ妄りに白捺を構えん?他人心あり、予之を忖度す、秦人無しと謂うなかれ」とあった。邃は移文を得て、既に覚られたと思い、直ちに兵を散じた。瓜花らは期日に合わず、便ち相告発し、伏誅した者は十数家に及んだ。邃は後に竟に寿春を襲い、羅城に入って退き、遂に黎漿・梁城に営を列ね、日夜掠奪した。承業は侃を統軍に奏上した。

後に雍州刺史蕭宝夤が州を拠りて反すると、承業に従ってこれを討ち、侃を承業の行台左丞に任じた。軍は恒農に駐屯した。侃は承業に申し上げた。「今、賊は潼関を守り、形勝の地を全く占む。須らく北に蒲阪を取って、西岸に飛棹し、兵を死地に置かば、人に闘心あり、華州の囲みは戦わずして解け、潼関の賊は必ず風望んで潰散せん。諸処既に平らぎ、長安自ずから克たん。愚計録すべく、請う明公の前駆たらんことを。」承業はこれに従い、その子の子産らに騎兵を率いさせ、侃と共に恒農の北で渡河し、便ち石錐壁を占拠させた。そこで告示を発した。「今且く軍を此に停め、歩卒を待つと共に、兼ねて人情の向背を観ん。降伏の名を送る者は、各自村に還り、台軍が三つの烽火を挙げるを侯え。各々亦た之に応じ、降伏の款を示せ。其れ烽火に応ぜざるは、即ち降らざるの村なり、理須らく殄戮すべし。」人々は遂に伝え相告げた。実は未だ降らざる者も、偽って烽火を挙げ、一宿の間に、火光は数百里の内に遍く満ちた。城を囲む敵寇は、其の由る所以を測りかね、各自散り帰った。長安平定に、侃は頗る力があった。建義初年、岐州刺史に任ぜられた。元顥が内逼するに属し、行北中郎将を詔された。

孝荘帝が河北に遷ると、侃の手を執って言った。「朕が卿の蕃寄(地方重任)を停め、此の任に移したは、正に今日の為なり。但だ卿の尊卑百口、若し朕に随いて行かば、累する処大なり。卿は洛に還り、後図に寄すべし。」侃は言った。「寧ろ臣が微族を以てすべくも、頓に君臣の義を廃すべからず。」固く陪従を求めた。度支 めと 書を兼ね、給事黄門侍郎・敷西県公を授かった。車駕が南還するに及び、顥は梁の将陳慶之に北中城を守らせ、自らは南岸を占拠した。夏州の義士で顥に従い河中の渚を守る者がおり、密かに信を通じて款を示し、橋を破って功を立てんことを求めた。爾朱栄がこれに赴いた。橋が破れると、応接果たさず、皆顥に屠られた。栄は還軍の計を為さんとし、更に後挙を図らんとした。侃は言った。「若し今即ち還らば、人情失望せん。未だ若かず人材を召発し、唯だ多く筏を縛り、間に舟楫を以てし、河に沿いて広く布かん。数百里の中に、皆度勢有らしめよ。顥何れの処を防がんとするを知らん?一旦度るを得ば、必ず大功を立つ。」栄は大笑してこれに従った。ここに於いて爾朱兆らが馬渚の諸楊の南で渡河し、顥は便ち南走した。車駕が都に入り、侃は尚書を解かれ、正黄門となった。河を渡る功により、爵を済北郡公に進め、併せてその長子師仲を秘書郎に任じた。

当時用いられた銭は、人が多く私鋳し、次第に薄小となり、遂には風に飄ち水に浮かぶほどで、米一斗が殆ど一千銭に値した。侃は、人と官が並んで五銖銭を鋳造することを聴すべしと上奏し、人をして喜んで為さしめ、俗弊を改め得るとした。荘帝はこれに従った。後に侍中に任ぜられ、衛将軍・右光禄大夫を加えられた。

荘帝が爾朱栄を除かんと謀ると、侃は内弟の李 けい ・城陽王徽・侍中李彧らと皆その謀に参与した。爾朱兆が洛陽に入ると、侃は時に休暇中で、遂に逃れて華陰に帰った。普泰初年、天光が関西に在り、侃の子の妻の父韋義遠を遣わして慰撫し、盟を立ててその罪を許すことを約した。侃の従兄の昱は家禍となることを恐れ、侃に出て応ずるよう命じ、仮に彼が食言しても、一人の身が没するに過ぎず、百口の全きことを冀った。侃はこれに赴き、天光に害された。太昌初年、車騎将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈された。子の純陀が襲った。

播の弟 椿

播の弟に椿がいる。椿、字は延寿、本字は仲考であったが、孝文帝が賜って改めさせた。性質寛大で謹直であった。内給事となり、兄の播と共に禁闈に侍した。後に中部法曹となり、訴訟を裁くこと公正で、孝文帝に嘉された。文明太后が崩ずると、孝文帝は五日間食事をしなかった。椿は諫めて言った。「聖人の礼は、毀くるも性を滅ぼさず。陛下が万代に自ら賢ならんと欲せられんには、其れ宗廟を如何せん!」帝はその言に感じ、乃ち一たび粥を進んだ。宮輿曹少卿に転じ、給事中を加えられ、 州刺史として出向し、再遷して梁州刺史となった。

初めに、武興王楊集始が斉に降ったが、漢中より北へ向かい、旧領回復を図った。楊椿は集始に書を送り、利害を説いた。集始は書を手に取り使者に対し、「楊使君のこの書は、我が心腹の病を除くものなり」と言い、遂に降って来た。間もなく母の老齢を理由に解任されて帰還した。後に太僕卿を兼ねた。

秦州の羌呂苟児、涇州の屠各陳瞻らが反乱を起こすと、詔により楊椿は別将となり、安西将軍元麗に属してこれを討った。賊は峡谷を守って自らを固めた。或いは伏兵を置きその出入りを断ち、食糧が尽きるのを待って攻めようと謀り、或いは山の木を伐り払い、火を放って焼き払おうと言った。椿は言った、「いずれも良策ではない。賊が深く潜んでいるのは、正に死を避けているに過ぎぬ。今は三軍を戒めて侵掠を繰り返さず、賊に我らが険阻を見て進まぬと思わせ、我が軍を軽んじる心を起こさせ、然る後にその不意を襲えば、一挙に平定できよう」。そこで軍を緩めた。賊は果たして出て略奪し、そこで軍中の驢馬を餌として与えた。枚を銜えて夜襲し、陳瞻を斬って首を伝送した。正員の太僕卿となった。

初めに、献文帝の世に蠕蠕一万余戸が降附し、高平・薄骨律の二鎮に居住していた。太和の末に叛いて逃走し、ただ一千余家のみが残った。太中大夫王通、高平鎮将郎育らは淮北に移し置き、その後の反乱を防ごうと求めた。詔により楊椿がこれを移すこととなった。椿は上書し、裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず、それ故先朝はこれを荒服の間に居らせたのは、正に近きを悦ばせ遠きを来たらせんがためであると論じた。今新たに附く者多く、もし旧来の者が移されれば、新たな者は必ず安んぜず、愚かには不可と謂う、と。時に八座は従わず、遂に済州の黄河沿いに居住させた。冀州で元愉の難が起こると、果たして悉く河を渡って賊に赴き、所在で掠奪を行い、椿が策した通りとなった。後に朔州刺史に任ぜられた。州にあって、廷尉が楊椿が以前太僕卿であった時、百姓を招き入れ、牧田三百四十頃を盗み耕させたと奏上し、律に依り五歳の刑に処すべきとした。尚書邢巒は正始の別格に拠り、罪は除名すべきであり、籍に盗門と注記し、同籍の者は合門で仕官せずとすべきと奏した。宣武帝は新律が既に頒布された以上、旧制を雑用すべきでないとし、詔して断罪に依り、贖罪をもって論ずることとした。後に定州刺史に任ぜられた。

道武帝が中山を平定して以来、多く軍府を置き、以て互いに威圧し合った。凡そ八軍あり、各軍それぞれ兵五千を配し、食禄を受ける主帥は各軍四十六人であった。中原が次第に平定されるに及び、八軍の兵は漸次南辺の戍守に割かれ、一軍の兵はわずか千余りとなったが、主帥は依然としており、費う禄も少なくなかった。椿は表を上して四軍を罷め、その主帥百八十四人を減らした。椿は州にあって、黒山道修築の余功により、木を伐り私的に仏寺を造り、兵を役したため、御史に弾劾され、除名された。

後に累遷して雍州刺史となり、車騎大将軍・儀同三司の号を進められた。間もなく本官のまま侍中を加えられ、尚書右僕射を兼ね、行臺となり、関西諸将を節度した。暴疾に遇い、頻りに解任を乞うて啓上したところ、詔してこれを許し、蕭宝夤を代わりに刺史・行臺とした。

楊椿は郷里に帰り、子の楊昱が京師に還ろうとしているのに遇い、蕭宝夤が賞罰の言動を常憲に依らず、異心ある恐れがあると述べさせた。昱が還り、明帝及び霊太后に面して啓上したが、共に採用されなかった。宝夤が御史中尉酈道元を害するに及んで、尚も上表して自らを弁明し、楊椿父子に誹謗されたと称した。

建義元年、 司徒 しと となった。永安初年、位を進めて太保とし、侍中を加えられ、後部鼓吹を与えられた。元顥が洛陽に入ると、椿の子昱は顥に捕らえられた。また椿の弟楊順、順の子仲宣、兄の子楊侃、弟の子楊遁は皆、河内に従駕していたが、顥に嫌疑をかけられた。椿の家柄が世に顕重であるため、人心を失うことを恐れ、未だ罪を加えるに至らなかった。当時の人々はその憂いを助け、或いは椿に家族を連れて禍を避けるよう勧めた。椿は言った、「我が内外百口、何れの処にか逃れ竄らん?正に運に任せて坐するのみである」。

荘帝が宮中に還ると、椿は上書して頻りに老齢を理由に帰ることを請い、詔して侍中の服を着ることを聴し、朝服一襲、八尺の床帳、几、杖を賜い、朝参せず、安車に乗り、四頭立ての馬車を駕し、扶けを与え、伝詔二人を付け、仰せて所在の郡県に四時に礼を以て安否を問わしめた。椿は華林園で辞を奉り、帝は御座より下り、手を執り涙を流して言った、「公は先帝の旧臣、実に元老なり。但しその志を高尚とし、留まらぬ決意なれば、既に違え難く、深く淒切を用う」。椿もまた歔欷し、拝礼せんとしたが、帝は自ら執りて聴さなかった。絹布を賜い、羽林衛に送らせた。群公百僚は城西の張方橋で餞別し、行路の観る者は称歎しぬる者なし。椿は臨行に際し、子孫を戒めて言った。

我が家が魏に入った始めより、即ち上客となった。爾来今に至るまで、二千石の地方長官が絶えず、禄恤甚だ多し。親族姻戚知己旧友の吉凶の際には、必ず厚く贈り物を加え、往来する賓客僚友には必ず酒肉飲食を以てした。故に六姻朋友に遺憾無し。国家の初め、男子は彩色の服を好んだ。我は上谷の翁(高祖)の時の事は覚えていないが、然れども清河の翁(曾祖)の時の服飾は覚えている。常に翁が布衣に韋帯を着け、常に諸父を戒めて言うのを見た、「汝ら後世、もし今日より富貴なる者は、慎んで金一斤、彩帛百匹以上を蓄えるな、富をなすために用いるな」と。生業を興し利を求めることを聴さず、また勢家と婚姻することを聴さなかった。我が兄弟に至り、これを遵奉することができなかった。今汝らの服乗は次第に華美となり、我は以て恭儉の徳が次第に上代に及ばぬことを知る。又、我が兄弟は、家に在れば必ず同盤にして食し、もし近くに出かけ、帰らぬ時は必ずその還るを待った。また昼を過ぎても食せず、飢えを忍び互いに待ったこともある。我が兄弟八人、今存する者は三人、是故に別々に食するに忍びない。又、願わくは我が兄弟が終わるまで、異居異財せぬことを。汝らは目に見ている、虚仮ではない。聞くところによれば、汝ら兄弟には時に別の部屋で独り食いする者があるという。これまた我ら一代に及ばぬ。我は今日貧賤ではないが、然れども居住する舎宅を壮麗華飾に作らぬのは、正に汝ら後世が賢ならず、これを保守できず、勢家に奪われることを慮るが故である。

北都(平城)の時代、朝廷の法は厳しく急峻であった。太和の初め、我が兄弟三人は共に内職に居り、兄は高祖(孝文帝)の左右に、私(楊椿)と津は文明太后の左右に仕えた。当時は口頭の勅命により、諸内官を責め、十日に一度は密かに一事を挙げよと命じ、挙げなければ大いに怒り嫌った。多くは勅命に依って密かに挙げる者もあり、また太后と高祖の間で伝言し間を構える者もあった。我が兄弟は自ら互いに戒めて言った、「今二聖の近臣に忝くし、母子の間に居ることは難しく、深く慎むべきである。また人の事を挙げることも、いかで容易ならんや、たとえ怒責を受けても、軽々しく言うな」と。十余年の間、一人の罪過も言わなかった。時に大いに嫌われ責められ、答えて言うには、「臣らは人の言葉を聞かないのではないが、正に不審を恐れ、誤って聖聴を仰ぐことになるから、敢えて言わないのである」と。その後も終に言わず、賞を蒙り、二聖の間の言語も、終に敢えて軽々しく伝え通すことはなかった。太和二十一年、私は済州から来朝し、清徽堂で宴に預かった。高祖は諸貴に謂って言った、「北京(平城)の日、太后は厳明で、私は毎度杖罰を受けた。左右はこれによって是非を言う者あり。朕の母子を和ませた者は、ただ楊播兄弟のみである」と。遂に爵を挙げて兄と私に酒を賜った。汝らもし万一明主の知遇を蒙るならば、宜しく言語を深く慎み、軽々しく人の悪を論じてはならぬ。私は自ら文武の才芸、門望、姻援が他人に勝たぬと思っている。一旦位は侍中・尚書に登り、四たび九卿を歴任し、十たび刺史となり、光禄大夫・儀同・開府・ 司徒 しと ・太保となり、津は今また 司空 しくう となったのは、正に忠謹で口を慎み、人の過ちを論じたことがなく、貴賤なく、礼をもって接したから、このように至ったのである。聞くところによると、汝らは時俗の人を学び、客を坐して待つ者あり、勢門に駆けずらう者あり、軽々しく人の悪を論ずる者あり、貴勝を見れば敬重し、貧賤を見れば慢易する、これは人の行いの大いなる失い、立身の大いなる病である。汝が家は皇魏に仕えて以来、高祖以下に七郡の太守、三十二州の刺史があり、内外の顕職は、時の流れに比べ少ない。汝らもし礼節を存し、奢淫驕慢を為さず、仮に人に勝たずとも、足りて尤誚を免れ、足りて名家を成すことができる。私は今年始めて七十五歳、自ら気力を惟うに、なお朝覲して天子に堪えるが、孜孜として退くことを求めるのは、正に汝らに天下の満足の議を知らしめ、一門の法と為さんがためであり、苟も千載の名を求めるのではない。汝ら能く我が言を記すならば、我が百年の後、終に恨み無からん。

椿は華陰に還った。一年余りして、爾朱天光に害せられ、時人は怨痛しなかった者はなかった。太昌の初め、太師・丞相・ 都督 ととく ・冀州刺史を追贈された。子に昱あり。

椿の子、昱。

昱は字を元略といい、広平王懐の左常侍として起家した。懐は武事を好み、数度遊猟し、昱は毎度規諫した。正始年中、京兆・広平二王国の臣が多く縦恣であるとして、詔して御史中尉崔亮に窮案させ、都市で伏法した者三十余人、死ななかった者は悉く除名され、ただ昱と博陵の崔楷のみ忠諫によって免じられた。後に太学博士・員外散騎侍郎を除された。

初め、 尚書令 しょうしょれい 王肅が揚州刺史に除せられ、洛陽東亭に出頓した。酣の後、広陽王嘉・北海王詳らが播と論議して理を競い、播は屈しなかった。北海王は昱を顧みて言った、「尊伯(伯父)は性剛にして理に伏せず、大いに尊使君(父)に及ばない」と。昱は対して言った、「昱の父は道隆なれば則ち其の隆に従い、道洿なれば則ち其の洿に従う。伯父は剛なれば則ち吐さず、柔なれば亦茹まず」と。坐する者は其の能言を歎じた。肅は言った、「此の郎(昱)無くして、何ぞ二父の美を申すを得んや」。

延昌三年、本官を以て詹事丞を帯びた。時に明帝は懐抱の中にあり、出入に至っては、左右・乳母のみで、宮僚に聞かせ知らせなかった。昱は諫めて言った、「陛下は臣らを凡浅とせず、宮臣に備位させた。太子の動止は、宜しく翼従せしむべきである。比来以来、軽々しく出入し、進んでは二傅の導引の美無く、退いては群僚の陪侍の式を闕く。人に軌儀を示し、君臣の義を著わすと謂うべきではない。陛下若し太子を召すには、必ず手勅を降し、臣下に咸く知らしめ、後世の法と為すべきである」と。ここにおいて詔して、今より若し手勅に非ざれば、児(太子)を軽々しく出さしめず、宮臣で直に在る者は、万歳門に従うこととせしめた。太尉掾に転じ、兼ねて中書舎人となった。

霊太后は嘗て昱に謂って言った、「親姻が外に在り、人心に称せず、卿に聞く所あれば、慎んで隠すこと勿れ」と。昱は揚州刺史李崇が五車の貨を載せ、恒州刺史楊鈞が銀食器十具を造り、並びに領軍元叉に餉ったことを奏した。霊太后は叉夫妻を召して責め、泣いて責めた。叉は深く昱を恨んだ。昱の第六叔舒の妻は、武昌王和の妹であり、和は即ち叉の従祖父である。舒は早く喪し、一男六女あり、喪終わるや、元氏は別居を請うた。昱の父椿は親姻を集めて泣きながら謂って言った、「我が弟不幸にして早終す。今男は未だ婚せず、女は未だ嫁がず、何ぞ便ち別居を求むるや」と。聴かず。遂に憾みを懐いた。神亀二年、瀛州の人劉宣明が謀反し、事覚えて逃げ竄った。叉は和及び元氏を使わし、昱が宣明を匿ったと誣告させ、昱の父椿・叔津が並びに甲仗三百具を送り、不逞を謀図したと云う。叉は又其事を構成した。乃ち夜に遣わして昱の宅を囲み収めたが、並びに何も得られなかった。太后は状を問うた。昱は元氏が釁を構える端を具に対し、言は哀切に至った。太后は乃ち昱の縛を解き、和及び元氏を並びに死刑に処せんとした。然るに叉が相左右し、和は直に免官されたのみで、元氏は終に坐せられなかった。及んで叉が太后を廃するに及び、乃ち昱を出して済陰内史とした。中山王熙が鄴で起兵すると、叉は黄門盧同を遣わし鄴に詣でて熙を刑し、並びに党与を窮めた。同は叉の旨を希い、郡に就いて昱を鎖し鄴に赴かせ、百日囚訊して乃ち任に還した。

孝昌の初め、中書侍郎を除され、給事黄門侍郎に遷った。後に賊が豳州を囲み、詔して昱を兼侍中とし、節を持ち西北道大 都督 ととく ・北海王顥を催し、仍って軍に随って監察せしめた。豳州の囲み解く。雍州の蜀賊張映龍・姜神達は州内の虚を知り、攻め掩わんと謀った。刺史元修義は懼れて援を請い、一日一夜に書移九通せり。 都督 ととく 李叔仁は疑い遅れて赴かず。昱は言った、「若し長安守らずば、大軍自然に瓦散す。此の軍往くとも、何の益かあらん」と。遂に叔仁らと倶に進み、陣において神達を斬り、諸賊迸散した。詔して昱は旨を受けて催督したが、顥の軍は稽緩したとして、遂に昱の官を免じた。尋いで涇州刺史を除した。未だ幾ばくもせず、昱の父椿が雍州となり、昱を徴して吏部郎中を除した。及んで蕭宝夤らが関中に敗れると、昱を以て七兵尚書・持節・仮撫軍・ 都督 ととく を兼ね、雍州を防守せしめた。昱は賊に遇い失利して返った。後に鎮東将軍・仮車騎将軍・東南道 都督 ととく を除し、又 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられた。後に太山守羊侃が郡に拠り南に叛くと、侃の兄深は時に徐州行臺であり、府州は咸く深を禁じようとした。昱は言った、「昔、叔向は鮒也を以て見廃せられず。奈何ぞ侃の罪を以て深を罪せん。宜しく朝旨を呼ぶべし」と。群議を許さず。

朝廷に戻って間もなく、元顥が大梁を侵攻し脅かしたので、昱を南道大 都督 ととく に任じ、 滎陽 けいよう に駐屯させた。顥は済陰王暉業を捕らえ、虚に乗じて直ちに進軍し、城は陥落した。昱は弟と息子五人と共に門楼の上にいた。顥が到着し、昱を捕らえて下ろし、責めて言った、「卿は今死ぬのに甘んじるか」。答えて言った、「生きる望みはない。先ほど楼を下りなかったのは、正に乱兵を慮ったからである。ただ恨むらくは八十の老父に供養する者がいないこと、どうか小弟の一命を乞い、それで死んでも朽ちない」。顥の将軍陳慶之、胡光らが顥の帳前でひれ伏して言った、「陛下は江を渡って三千里、一矢も費やすことなく進まれた。昨日五百余人を殺傷し、楊昱を求めて快意を遂げたい」。景(顥)は言った、「私は江東で梁の主君が言うのを聞いた、初めて都を下った時、袁昂が呉郡で降らず、その忠節を称えたと。どうして昱を殺せようか」。そこで昱の下の統帥三十七人を斬り、皆蜀の兵に腹を割き心臓を取って食べさせた。

孝莊帝が帰還すると、前の官に復した。爾朱栄が死ぬと、昱は東道行臺として爾朱仲遠を防いだ。ちょうど爾朱兆が洛陽に入ったので、昱は京師に戻った。後に郷里に帰ったが、やはり天光に害された。太昌の初め、 司空 しくう 公・定州刺史を追贈された。

子の孝邕は、員外郎であったが、逃れて難を免れた。蛮地に匿れ、ひそかに渠率を結び、爾朱氏に報復しようと謀った。微服で洛陽に入ったが、爾朱世隆に殺された。

椿の弟 穎

椿の弟の穎は、字を惠哲といい、本州の別駕であった。

穎の弟 順

穎の弟の順は、字を延和といい、寛容で慎み深く篤実であった。孝荘帝擁立の功績により、三門県伯に封ぜられ、冀州刺史の位に至った。州を罷めて帰還する途中、害された。太昌の初め、太尉公・録尚書事・相州刺史を追贈された。子の辯は、字を僧達といい、東雍州刺史の位に至った。

順の子 仲宣

辯の弟の仲宣は、風度と才学があった。正平太守の位、恆農伯の爵位にあり、郡において有能な名声があった。京に戻り、兄弟は父と共に害された。太昌の初め、辯には儀同三司・恆州刺史が、仲宣には尚書右僕射・靑州刺史が追贈された。

仲宣の子 玄就

仲宣の子の玄就は、幼くして俊抜であった。捕らえられた時、九歳で、兵士の手を引いて言った、「諸々の尊属を害そうとするなら、どうか私を先に殺してほしい」。兵士が刀でその腕を斬り断ったが、なお死を請うてやまず、遂に先に彼を殺した。永熙の初め、汝陰太守を追贈された。

順の弟 津

順の弟の津。津は字を羅漢といい、本来の字は延祚であったが、孝文帝が改めるよう賜った。幼少より端正で謹厳、器量と風格をもって称された。十一歳の時、侍御中散に任ぜられた。当時孝文帝は幼少で、文明太后が朝政をみていた。津はかつて左右に侍していたが、突然咳き込んで声を失い、数升の血を吐き、それを袖に隠した。太后はその声を聞き、探したが見えず、その訳を尋ねると、全て実情を話したので、敬慎をもって知られるようになった。縑百匹を賜り、符璽郎中に遷った。津は禁中の機密に身を置くため、外と交遊せず、宗族や姻戚にもほとんど面会しなかった。 司徒 しと の馮誕は津と幼少より交友を結んだが、津はその貴寵ぶりを見て、常に退き避け、招かれると、多く病気を理由に行かなかった。誕はこれを恨んだが、津はますます遠ざかった。ある人が津に言った、「 司徒 しと は君の幼馴染みであるのに、どうして自ら外すのか」。津は言った、「勢家に厚遇されるのは、またいかに容易なことか。ただわが今日を全うするだけで足りる」。振威將軍に転じ、監曹奏事令を領した。孝文帝が南征する時、津を 都督 ととく ・征南府長史とした。後に長水 校尉 こうい に遷り、引き続き直閣を務めた。

景明年間、宣武帝が北芒に遊猟した時、津は陪従した。太尉・咸陽王禧が謀反を企てたので、帝は華林に馳せ入った。当時直閣の中に禧と共謀した者がおり、皆従駕の列にいた。禧が平定された後、帝は朝臣を顧みて言った、「直閣の半分は逆党であった。至忠でなければどうしてこの謀に与せずにいられようか」。そこで津を左中郎将に任じ、 ぎょう 騎將軍に遷し、引き続き直閣を務めさせた。

岐州刺史として出向すると、津は大小の事柄を自ら行い、孜々として倦まなかった。武功の人が絹三匹を持ち、城から十里の所で賊に奪われた。時に使者が駅伝を馳せて来ており、奪われた人がそれに告げた。使者が州に到着し、その状況を津に報告した。津はそこで教令を下し、ある色の衣を着て、ある色の馬に乗った者が、城の東十里で殺されたが、姓名は分からない、もし家人があれば、速やかに収容し視認せよ、と述べた。一人の老母が泣きながら出てきて、自分の子だと言った。そこで騎兵を派遣して追捕し、絹も共に回収した。これより以降、全境が畏服した。守令や僚佐に賄賂を取る者がいても、公にその罪を言わず、常に私信で厳しく責めた。そこで官属は感奮し、法を犯す者はなくなった。母の喪のため職を去った。

延昌の末、起用されて華州刺史となり、兄の播と前後して本州を牧し、当世これを栄えとした。先に、調絹を受けるに尺度が特に長く、事に因って縁り、共に進退し、百姓これを苦しめた。津は乃ち令して公尺に依りてその輸物を度らしめ、特に良き者には杯酒を賜って出でしめ、その輸する所少しく劣る者は、これを受けしむるも、ただ酒無きをもってその恥を示せり。ここにおいて競いて相い勧励し、官調は更に勝れり。

孝昌の中、北鎮擾乱し、旧京に侵逼す。乃ち津に安北将軍、北道大 都督 ととく を加え、尋いで左衛に転じ、撫軍将軍を加う。津始めて命を受け、出でて霊丘に拠る。而して賊帥鮮于修礼は博陵に起こり、定州危急す。遂に師を回して南に赴く。初めて城下に至るや、営壘未だ立たず、而して州軍は新たに敗れたり。津は賊既に勝に乗じ、士衆疲れ、柵壘未だ安からず、敵に擬すべからずとし、軍を移して城に入り、更に後の挙を図らんと欲す。刺史元固は賊既に城に逼る、弱を示すべからずと称し、乃ち門を閉じて内れず。津は刃を揮って門者を斬らんと欲し、軍乃ち得て入る。賊果たして夜至り、柵空なるを見て去る。その後、賊州城の東面を攻め、既に羅城に入る。刺史は小城の東門を閉じ、城中騒擾す。津は門を開いて出でて戦い、賊退き、人心稍々安んず。尋いで定州刺史を除かれ、又吏部尚書、北道行臺を兼ぬ。初め、津の兄椿この州に罪を得しは、鉅鹿の人趙略の書を投じたるに由る。津の至るに及んで、略は挙家逃走す。津は乃ち教を下して慰喩し、その還業を令す。ここにおいて闔州愧服し、遠近これを称す。時に賊帥鮮于修礼、杜洛周州境を賤掠し、孤城独立して、両寇の間に在り。津は戦具を修理し、更に雉堞を営む。又城中去ること城十歩、地を掘りて泉に至り、広く地道を作り、潜兵湧出し、炉を置きて鉄を鋳ち、持して以て賊に灌ぐ。賊遂に相告げて曰く、「利槊堅城を畏れず、唯だ楊公の鉄星を畏る。」と。津は賊帥元洪業等に書を以て喩し、並びに鉄券を授け、これに爵位を許し、賊帥毛普賢を図らしむ。洪業等感寤し、復書して云く、普賢を殺さんと欲すと。又云く、「賊城を囲まんと欲するは、正に北人を取らんが為なり、城中の所有の人、必ず尽く殺さるべし。」と。津は城内の北人は、悪党なりと雖も、然れども掌握中の物、未だ忍びて便ち殺さず、但だ子城に収め内れ、防禁するのみ。将吏その仁恕を感ぜざるは無し。朝廷初め鉄券二十枚を送り、津に委ねて分給せしむ。津は賊中の首領に随い、間行してこれを送る。修礼、普賢頗る亦これに由りて死す。

既にして杜洛周州城を囲む。津は力を尽くして捍守す。詔して衛将軍を加え、将士功有る者は津に任じて科賞せしめ、兵人に復を給すること八年とす。葛栄は 司徒 しと を以て津を説く。津は大いに怒り、その使を斬りて以ってこれを絶つ。攻囲を受くるより、三稔を経歴す。朝廷赴いて拯うこと能わず。乃ち長子遁を遣わして囲みを突いて出でしむ。蠕蠕の主阿那瑰に詣り、令して賊を討たしむ。遁は日夜泣訴す。阿那瑰はその従祖吐豆発を遣わし、精騎を率いて南に出ださしむ。前鋒已に広昌に達す。賊は益口を防塞す。蠕蠕遂に還る。津の長史李裔は賊を引き入る。津は苦戦して敵せず、遂に見え拘執せらる。洛周は津の衣服を脱がし、地牢の下に置くこと数日、将にこれを烹らんとす。諸賊還り相い諫めて止む。遂に害を免るるを得。津曾て裔と相見え、諸賊帥に対し大義を以てこれを責む。辞涙倶に発す。裔大いに慚ず。典守者以て洛周に告ぐ。これを責めず。葛栄の洛周を併すに及び、復た栄に拘せらる。栄破れて、始めて洛に還るを得。

永安二年、吏部尚書を兼ぬ。元顥内に逼る。荘帝将に親しく出でて討たんとす。津を以て中軍大 都督 ととく とし、領軍将軍を兼領せしむ。未だ行かず、顥入る。顥の敗るるに及び、津は乃ち入りて殿中に宿し、宮掖を掃灑し、第二子逸を遣わして府庫を封閉せしめ、各令して防守せしむ。帝の入るに及び、津は北芒に迎え、流涕して罪を謝す。帝深く嘉し慰む。尋いで津を以て 司空 しくう とし、侍中を加う。爾朱栄死す。津をして本官を以て兼 尚書令 しょうしょれい 、北道大行臺、 都督 ととく へい 州刺史と為らしめ、胡を討つ経略を委ぬ。津は馳せて鄴に至り、将に滏口より入らんとす。爾朱兆等の已に洛を克つに遇う。相州刺史李神等議して津と挙城して款を通ぜんと欲す。津従わず。子逸既に光州刺史と為り、兄の子昱時に東道行臺と為り、部曲を鳩率して梁、沛に在り。津は規して東転せんと欲し、更に方略を為さんとす。乃ち軽騎を率いて済州を望みて河を渡らんとす。而して爾朱仲遠已に東郡を陥す。図る所果たさず、遂に京師に還る。普泰元年、亦た洛に於いて害に遇う。太昌初、大将軍、太傅、 都督 ととく 、雍州刺史を贈られ、諡して孝穆と曰う。将に本郷に葬らんとす。詔して大鴻臚に節を持せしめ、喪事を監護せしむ。長子遁。

津の子 遁。

遁、字は山才。その家は貴顕にして、諸子弱冠、咸く王爵に縻さる。而して遁は性静退にして、年三十に近く、方に鎮西府主簿と為る。累遷して尚書左丞、金紫光禄大夫、亦た洛に於いて害せらる。太昌初、車騎大将軍、儀同三司、幽州刺史を贈られ、諡して恭定と曰う。

遁の弟 逸。

遁の弟逸、字は遵道、当世の才あり。員外散騎侍郎に起家し、功を以て爵華陰男を賜わる。建義初、荘帝猶お河陽に在り、逸独り往きて謁す。帝特く給事黄門侍郎を除き、中書舎人を領せしむ。朝士の禍を濫るるに及び、帝益々憂怖し、詔して逸に昼夜陪侍せしめ、常に御床の前に寝す。帝曾て夜中に逸に謂いて曰く、「昨来目を挙ぐるに唯だ異人を見る。卿に頼りて差し自ら慰む。」と。再び遷りて南秦州刺史と為り、 散騎常侍 さんきじょうじ を加う。時に年二十九、時に方伯の少きこと、これに先んずる者未だ有らず。仍て路阻まるを以て行かず、光州刺史に改む。時に災儉連歳、逸は倉粟を以て振給せんと欲す。而して所司は罪を懼れて敢えせず。逸曰く、「国は人を以て本と為し、人は食を以て命と為す。仮令これに因りて戾を獲るとも、吾が甘心する所なり。」と。遂に粟を出だし、然る後に表を申す。右僕射元羅以下、公儲闕け難しと謂い、並びに執りて許さず。 尚書令 しょうしょれい 、臨淮王彧は二万を貸すべしと為す。詔して二万を貸すことを聴す。逸は粟を出だしたる後、その老小残疾自ら存活すること能わざる者に、又州門に於いて粥を造りてこれを飼い、将に死せんとして済わる者万数を以て数う。帝聞きてこれを善しとす。逸は政を行うに人を愛し、尤も豪猾を憎み、広く耳目を設け、善悪畢く聞こゆ。その兵出使して下邑するも、皆自ら糧を持ち、人或いは食を設くる者あれども、暗室に在ると雖も、終に敢えて進まず、咸く楊使君に千里眼有り、那ぞこれを欺くべけんやと言う。州に在りて政績尤も美し。

その家の禍に及び、爾朱仲遠は使を州に遣わしてこれを害す。吏人は親戚を喪うが如く、城邑村落は齋供を営み、一月の中、所在絶えず。太昌初、 都督 ととく 郢二州刺史を贈られ、諡して貞と曰う。

逸の弟 謐。

逸の弟謐、字は遵和。員外 散騎常侍 さんきじょうじ を歴、功を以て爵恆農伯を賜わり、鎮軍将軍、金紫光禄大夫、衛将軍。晋陽に在りて、爾朱兆に害せらる。太昌初、驃騎将軍、兗州刺史を贈らる。謐の弟愔、事は後に列す。

津の弟 暐。

津の弟暐、字は延季。弘厚にして、頗る文学あり。位は武衛将軍、 散騎常侍 さんきじょうじ 、安南将軍を加う。荘帝初、河陰に於いて害に遇う。儀同三司、雍州刺史を贈らる。

楊播の家は代々純朴で篤厚であり、一族はみな礼儀と譲り合いを重んじ、兄弟は父子のように互いに仕え合った。播の性格は剛毅であり、椿と津は恭しく謙虚で、兄弟は朝になると堂に集まり、終日相対して、内室に入ることはなかった。美味しいものがあれば、一同が集まらなければ食さない。堂の間に、しばしば帷や幕で隔てて寝所とし、時にそこに休み、また共に談笑した。椿は年老いて、かつて他所で酔って帰ると、津が扶けて部屋に戻し、そのまま閤の前で仮寝して、安否を伺った。椿と津は六十歳を過ぎ、ともに三公の位に登ったが、津は常に朝夕に参上して問い、子や甥たちが階下に並ぶと、椿が座を命じなければ、津は座らなかった。椿が外出して、日が傾いても帰らぬ時は、津は先に食事をせず、椿が帰ってから共に食した。食事の時は津が自ら匙と箸を手渡し、味はすべて先に嘗め、椿が命じて初めて食した。津が 司空 しくう であった時、当時は府の長官は皆自ら属官を引き立てた。ある人が津に官職を求めて来ると、津は言った、「この事は家兄が決めるべきであり、どうして私に尋ねるのか。」初め、津が肆州刺史であった時、椿は京師の邸宅にいたが、四季の美味がある度に、使者の便に託して送り、もし送らぬ時は、先に口にしなかった。椿は送られて来る度に、それに向かって涙を流した。兄弟ともに孫がいたが、椿だけが曾孫を持ち、年は十五、六歳であった。椿は常に彼に早く娶わせ、玄孫を見たいと望んだ。楊昱より下の世代は、多く学問を尊び、当時の人々はこれを敬わぬ者はなかった。一家の内、男女百口、緦麻の服を着る者まで同じ竈で炊き、庭に不和の言葉はなかった。魏の世以来、盧陽烏兄弟と楊播兄弟のみがおり、当世で及ぶ者はなかった。

爾朱世隆らが楊椿の家を害そうとし、謀反の罪をでっち上げ、捕縛を上奏して請うた。節閔帝は許さなかったが、世隆が重ねて強く主張したため、已むなく詔を下した。世隆は歩兵と騎兵を遣わして夜にその邸宅を包囲し、爾朱天光も同日に華陰で楊椿を捕らえ、東西二か所で、老若を問わず皆禍に遭い、家は没収された。節閔帝は長く嘆き悔やんだ。

楊謐の弟、楊愔。

楊愔は字を遵彦といい、幼名を秦王という。子供の頃、口は言葉がうまく出ないようであったが、風度は深く聡明で、門を出入りするにも、戯れることはなかった。六歳で史書を学び、十一歳で『詩経』と『易経』を受け、『左氏春秋』を好んだ。幼くして母を亡くし、かつて舅の源子恭を訪ねた。子恭が彼と酒を飲み、何の書を読んでいるかと尋ねた。愔は「『詩経』を誦しています」と答えた。子恭が「『渭陽』の篇まで誦したか」と言うと、愔は号泣して咽び、子恭もまた彼に向かって嘆息し、酒を止めてしまった。子恭は後に楊津に言った、「常に秦王はあまり聡明でないと思っていたが、今後は刮目して見よう。」

楊愔の一家は四世代が同居し、家は非常に繁盛しており、兄弟で学問に就く者は三十余人いた。学問の庭前に林檎の木があり、実が落ちると、子供たちは皆争ったが、愔はぽつんと独り座っていた。彼の叔父の楊暐がたまたま学館に入り、これを見て大いに感心し、賓客に向かって言った、「この子は穏やかで度量があり、我が家の家風がある。」邸内に茂った竹があったので、愔のために林の辺りに別に一室を建て、独りでそこにいるように命じ、常に銅盤に盛ったご馳走で食事をさせた。そして諸子を督励して言った、「お前たちも遵彦のように謹厳であれば、自ずから竹林の別室や銅盤の重ねた肉の食事を得られるだろう。」愔の従兄の黄門侍郎楊昱は特に彼を器重し、かつて人に言った、「この子は乳歯がまだ抜けていないのに、既に我が家の龍文である。さらに十歳後には、千里の外に求めねばなるまい。」昱がかつて十余人と詩を賦した時、愔は一覧して誦し、一字も失わなかった。成長すると、清談ができ、音声の調子が美しく、風采は優れて悟りが早く、容姿・立ち居振る舞いが見事で、人々は彼を見て敬い驚かぬ者はなく、識者は多く遠大な将来を約束した。

正光年間、父に従って へい 州に赴いた。性格は静かで沈黙を好み、また山水を愛したので、 しん 陽の西県の甕山に入って読書した。孝昌初年、楊津が定州刺史となると、愔も父に従って任地に赴いた。軍功により羽林監に任じられ、魏昌男の爵位を賜ったが、拝受しなかった。中山が杜洛周に陥落すると、家族全員が囚われの身となった。間もなく洛周が滅び、また葛栄に捕らわれた。栄は娘を彼に娶せようとし、また偽りの官職を強いた。愔は病気と偽り、密かに牛血数合を口に含み、人々の前で吐き出し、それから仮に声を失って語らなかった。栄は本当だと思い、やめた。永安初年、洛陽に帰還し、通直散騎侍郎に任じられ、十八歳であった。

元顥が洛陽に入った時、愔の従兄の楊侃が北中郎将として河梁を鎮守していた。愔がちょうど侃の所に至ると、天子が都を失う事態となり、夜に黄河に至った。侃は車駕を迎えて北に渡しながら、密かに南へ逃げようとした。愔は固く諫めて止めさせ、共に車駕に扈従して建州に至った。通直 散騎常侍 さんきじょうじ に任じられた。愔は世の乱れが未だ治まらぬことを以て、志は隠退にあり、病と称して辞した。友人の中直侍郎の河間の人邢邵と共に嵩山に隠れた。

孝荘帝が爾朱栄を誅殺すると、その従兄の楊侃は帷幄の謀議に参与した。朝廷はその父の楊津を へい 州刺史・北道大行臺とし、愔はそれに従って任地に赴いた。邯鄲の人物で楊寛という者が、義勇兵として出藩することを求めたので、愔は楊津に彼を受け入れるよう請うた。間もなく孝荘帝が幽閉されて崩御し、愔はちょうど都に帰還しようとしていた時、邯鄲に至り、楊寛の家を通り過ぎたところを、寛に捕らえられた。相州に至り、刺史の劉誕に会うと、誕は愔が名家の盛徳であることを以て、大いに哀れみ、長史の慕容白沢に預けて監禁させた。隊主の鞏栄貴に防護・監禁させて都に送らせ、安陽亭に至ると、愔は栄貴に言った、「私は百代の忠臣として、誠を魏の朝廷に尽くしたが、家は亡び国は破れ、このような有様である。囚われの身とはいえ、どうして君父の仇に顔を向けられようか。一縄で自縊し、首を伝えて去らせてくれるなら、あなたの恩恵である。」栄貴は深く哀れみ感動し、遂に共に逃げた。愔は高歓(高昂兄弟)に身を寄せた。

数年潜み逃げた後、斉の神武帝が信都に至ると、遂に轅門に名刺を投じて出頭した。直ちに引見され、興隆の運を称揚し、家の災禍を訴えると、言葉は哀切で雄壮、涙が流れ落ちた。神武帝は顔色を改め、直ちに行臺郎中に任じた。南へ鄴を攻める時、楊寛の村を通り過ぎると、寛が馬前で叩頭して罪を請うた。愔は言った、「人が恩義を識らぬのは、まあ常の道理である。私は卿を恨まぬから、恐れるには及ばぬ。」当時鄴は未だ陥落せず、神武帝は愔に祭天の文を作らせ、燎祭が終わると城は陥った。これにより大行臺右丞に転じた。当時は覇業が草創期で、軍国の事務が広範であり、文書・檄文・教令はすべて愔と崔甗から出た。

家難に遭い、常に喪礼の身として振る舞い、食べるものは塩と米だけで、哀しみにやせ衰えて骨ばかりとなった。神武帝はこれを哀れみ、常に慰め開導した。韓陵の戦いでは、愔は毎度陣で先頭に立った。友人や同僚は皆怪しみ嘆いて言った、「楊氏は儒生であったが、今や武士となった。仁者は必ず勇ありとは、決して虚言ではない。」間もなく、上表して職務の解除と帰葬を請い、一門の内で、太師・太傅・丞相・大将軍を追贈された者が二人、太尉・録尚書及び 尚書令 しょうしょれい が三人、僕射・尚書が五人、刺史・太守が二十余人に及んだ。追贈の栄えの盛んなことは、古今に例がなかった。喪柩が発進する時、吉凶の儀仗と護衛が二十余里に亘り、会葬する者はほぼ一万人に及んだ。この日は厳冬の極寒で、風雪が激しく厚く、愔は裸足で歩き号哭し、見る者は哀しまぬ者はなかった。間もなく召されて しん 陽に赴き、元の職に留まった。

楊愔の従兄の幼卿は岐州刺史であったが、直言をもって帝の意に逆らい誅殺された。愔はこれを聞いて悲しみ恐れ、哀傷の余り発病し、後に急を告げて鴈門の温湯に赴き療養した。郭季素はその才能を妬み、書状を送って脅かして言うには、「高王が卿を帝の御許へ送ろうとしている」と。そして逃亡を勧めた。愔は遂に衣冠を水辺に棄て、あたかも水死した者の如く装い、姓名を変えて自ら劉士安と称した。嵩山に入り、沙門の曇謨征らと共に隠遁して世を避けた。また密かに光州に潜り、東へ向かって田横島に入り、講誦を業として、海辺の人士は彼を劉先生と呼んだ。太守の王元景は密かにこれを庇護した。

神武帝(高歓)は楊愔が生存していることを知り、愔の従兄の宝猗に書状を持たせて慰撫し諭させた。また光州刺史の奚思業に命じて捜索させ、礼を以て送り出させた。神武帝は彼に会って喜び、太原公開府司馬に任じ、長史に転じ、さらに大行臺右丞を授け、華陰県侯に封じ、給事黄門侍郎に遷り、庶女を妻として娶らせた。また 散騎常侍 さんきじょうじ を兼ね、梁への聘問使の主となった。碻磝に至ると、州内に愔の家の旧仏寺があった。精舎で礼拝し、太傅(父の楊津か)の御影を見て悲しみ感激し慟哭し、数升の血を吐き、発病して行くことができず、車に乗って病を抱えたまま鄴に帰還した。久しくして、本官のまま尚書吏部郎中を兼ねた。武定末年、声望と実質の美しさにより、吏部尚書を超拜され、侍中・衛将軍を加えられ、侍学と典選の職は従前の如くであった。

天保初年、本官のまま太子少傅を領し、別に陽夏県男に封ぜられた。また詔により太史を監し、尚書右僕射に遷った。太原長公主を尚った。これは即ち魏の孝静帝の皇后である。時に雉がその邸宅に集まることがあり、また開府儀同三司・尚書右僕射に拝され、華山郡公に改封された。九年、 尚書令 しょうしょれい に転じ、また特進・驃騎大将軍に拝された。十年、開封王に封ぜられた。文宣帝(高洋)が崩御した時、百官に涙を流す者なく、愔は悲しみに耐えられなかった。済南王(高殷)が後を嗣ぐと、任用と待遇はますます厚くなり、朝廷の儀礼と国家の命令は、彼一人が司る所となった。誠意を推し道理を体し、当時異議はなかった。乾明元年二月、孝昭帝(高演)によって誅殺された。時に五十歳。天統末年、 司空 しくう 公を追贈された。

楊愔は貴公子であり、早くから名声が高く、風采と識見・判断力は朝廷と民間で称賛された。家門は禍難に遭い、ただ二弟と一妹、及び兄の孫娘数人だけが残った。孤児幼子を養育し、慈愛に満ちた言葉と温和な顔つきは、全て仁厚から出たものであった。分義を重んじ、財貨を軽んじ、前後して賜与された物の多くを親族に分け与えた。従弟・甥など十数人を養い、皆に食事を与えた。頻繁に艱難に遭い、危険を冒して踏み行ったが、一食の恩恵にも必ず重く報い、命にかかわる仇でも捨て置いて問わなかった。典選を二十余年務め、人材を奨励抜擢することを己の任務とした。しかし士を取るのに多く言葉と容貌によったため、時に誹謗の言葉があり、愔の人材登用は貧しい者が瓜を買うのに似て、大きいものを取るのだと言われた。愔はこれを聞いても意に介さなかった。その聡明な記憶力と強記は、半面見ただけで忘れない。毎回召し出す時、あるいは姓だけを称し、あるいは名だけを称しても、誤りはなかった。後に選人(候補者)の魯漫漢という者が、自らを卑賤であると言い、ただ自分だけが認識されていないと訴えた。愔は言った、「卿は以前、元子思坊で禿尾の草驢に乗り、私の前を通り過ぎた時に下りもせず、方形の麹(麹塵の布か)で顔を隠していた。私がどうして卿を知らないことがあろうか」。漫漢は驚いて敬服した。またからかって言った、「名は体を定めるもの、漫漢(漫は広大、漢は男子)という名は果たして虚しくない」。また吏に人名を唱えさせた時、誤って盧士深を士琛と唱えた。士深が自ら申し出ると、愔は言った、「盧郎は潤い朗らかである。故に玉に比したのだ」。

公主を娶って以後、紫羅の袍と金鏤の大帯を着用した。李庶に会い、大いに恥じるところとなり、彼に言った、「我がこの衣服は、全て内廷で裁断されたものである。子将(李庶の字)に会って、無慚であることができぬ」。

宰相の地位に就いてからは、機務を経緯し総括し、千端万緒の事柄も、その精神は滞ることなく働いた。天保五年以後、天子(文宣帝)が徳を失うと、これを維持し匡救したのは、実に彼に依るところが大きかった。毎回天子が殿前に臨み、公卿が拝授され、号令を発し詔冊を宣揚する時、愔の言辞の気は温和で弁舌明晰、風采は秀でて発揚し、百官が観聴して悚然としない者はなかった。高位に居てからは、門を閉じて私的な交際を絶った。財貨を軽んじ仁義を重んじ、前後して賜与された物は巨万に積もったが、九族に分け与えた。書架と箱の中には、ただ数千巻の書物があるのみであった。太保・平原王の高隆之は愔と隣家であったが、愔はかつてその門外に富んだ胡人数人がいるのを見て、左右の者に言った、「我が門前には幸いにもこのような者はいない」。性質は周密で慎重を畏れ、常に不足しているかのようであり、毎回後の命令(追加の任命か)を聞くたびに、顔色を変えて憂いた。

文宣帝の病が重くなると、常山王(高演)・長広王(高湛)の二王が地位と地盤において親しく近く、深く後事を憂慮した。楊愔は尚書左僕射の平秦王高帰彦・侍中の燕子献・黄門侍郎の鄭子默と共に遺詔を受けて政務を補佐することとなり、皆二王の威望が以前から重いことを以て、猜忌の心を抱いた。初め しん 陽において、大行皇帝(文宣帝)の柩が殯宮にあり、天子(済南王高殷)が諒闇(喪に服す)中であったため、議して常山王を東館に置き、奏上すべき事柄は皆まず彼に諮問して決裁させ、二十日で止めることとした。また常山王をして梓宮に随従して鄴に行かせ、長広王を留めて しん 陽を鎮守させようとした。しかし執政者たちは再び疑念を生じ、二王はともに従って鄴に至った。子献は策を立て、太皇太后(婁太后)を北宮に処し、政権を皇太后(李太后)に帰そうとした。また天保八年以来、爵禄の賞与が多く濫発されていたので、この時、愔はまず自ら上表して自分の開封王の爵位を解き、その他不当に栄恩を窃んだ者たちも皆罷免・削減に従わせた。これにより、寵愛を失い職を失った者たちは皆心を二叔(常山・長広の二王)に寄せた。高帰彦は初めは同心であったが、後になって動きを反対にし、疎遠・猜忌の様子を全て二王に告げた。可朱渾天和もまた毎度言うには、「もし二王を誅殺しなければ、少主(高殷)は自ら安泰となる道理はない」と。宋欽道が帝に面奏し、二叔(二王)の威権が既に重いので、速やかに除くべきだと称した。帝は許さず、「令公(楊愔)と共に詳しくその事を議せよ」と言った。愔らは議して二王を刺史として出させることとし、帝が仁慈であるため、恐らく奏上しても聞き入れられないだろうと考え、皇太后に啓を通じ、安危の詳細を述べた。宮人に李昌儀という者がいた。北 州刺史の高仲密の妻で、仲密の事件に連座して宮中に入っていた。太后は昌儀と同族の情誼があり、非常に親しく愛していた。太后が啓を示すと、昌儀は密かに太皇太后に告げた。愔らはまた、二王をともに出させることはできないと議し、長広王を大司馬・ へい 州刺史とし、常山王を太師・録尚書事とすることを奏上した。二王が職を拝した時、尚書省で百官を大いに集めて会し、愔らは皆ともに赴こうとした。子默がこれを止めて言うには、「事は測りがたく、軽々しく身を投ずるべきではない」。愔は言った、「我らは至誠をもって国を体する者である。どうして常山王が拝職するのに、赴かぬ道理があろうか。何故突然このような慮りがあるのか」。長広王は朝、家僮数十人を録尚書後室に伏せさせ、また席上の勲貴数人と内通し、諸勲臣の子弟らと約束した。「酒が巡って愔らに至った時、我が各々双杯を勧める。彼らは必ず辞退するであろう。我が一度目に『捉酒(酒を掴め)』と言い、二度目に『捉酒』と言い、三度目に『何故捉えない』と言ったら、お前たちは即ち捕えよ」。宴席においてその通りにした。愔は大声で言った、「諸王は反逆し、忠良を殺そうとするのか。天子を尊び、諸侯を削ぎ、赤心をもって国に奉じているのに、このような目に遭うべきではない」。常山王は緩めようとしたが、長広王は「不可」と言った。ここにおいて愔及び天和・欽道は皆拳杖で乱打され、頭と顔から血を流し、各十人に押さえつけられた。薛孤延と康買に命じて子默を尚薬局で捕えさせた。子默は言った、「智者の言を用いなかったために、このようなことになった。豈に命ではなかろうか」。

二叔(高演)は高帰彦・賀抜仁・斛律金を率いて楊愔らを擁し、雲龍門に突入した。 都督 ととく の叱利騷を見かけ、招いたが進まず、騎兵に命じてこれを殺した。開府の成休寧が門を拒んだが、帰彦が説得して、ようやく入ることができた。楊愔らを御前まで送り届けた。長広王(高湛)と帰彦は朱華門の外にいた。太皇太后(婁昭君)が昭陽殿に臨御し、太后(李祖娥)と皇帝(高殷)は側に立った。常山王(高演)は磚(煉瓦)で頭を叩き、進み出て言うには、「臣は陛下と骨肉の親である。楊遵彦(楊愔)らは朝廷の権力を専らにし、威福を己のものとし、王公より以下、皆重足屏息し、互いに唇歯の関係を結び、乱の階梯を成している。もし早く図らなければ、必ずや宗廟社稷の害となろう。臣と高湛らは国家の大事を重んじ、賀抜仁・斛律金らは献皇帝(高歓)の事業を惜しみ、共に遵彦らを捕らえ、宮中に連れ入れたが、まだ敢えて刑戮を加えてはいない。専断の過失は、罪は万死に値する。」帝はその時黙っていた。領軍の劉桃枝の徒が階上を警護し、刀を叩いて仰ぎ見たが、帝は彼らを睨みつけなかった。太皇太后が衛兵を退けよと命じたが肯かず、また厲声で言った、「汝ら奴輩、今すぐに首が落ちるぞ!」そこでようやく退いた。そこで楊郎(楊愔)はどこにいるかと問うと、賀抜仁が言った、「片目はもう飛び出ております。」太皇太后は愴然として言った、「楊郎に何ができよう、生かしておいて悪いことがあろうか?」そこで帝を責めて言った、「この者らは逆心を抱き、我が二児を殺し、次には私に及ぼうとしている。どうしてこれを放っておくのか?」帝はなおも言葉が出なかった。太皇太后は怒り且つ悲しみ、王公は皆泣いた。太皇太后は言った、「どうして我が母子が漢人の老婆(李太后)の斟酌を受けることがあろうか。」太后は拝礼して謝した。常山王は頭を叩き続けてやまなかった。太皇太后は帝に言った、「どうして汝の叔父を慰めないのか?」帝はようやく言った、「天子といえども叔父に惜しむことはできません。どうしてこの漢人どもを惜しみましょうか!ただ児(私)の命を乞うばかりです。児は自ら殿を下ります。この者らは叔父の処分に任せます。」そこで皆斬った。長広王は子默(鄭頤)がかつて自分を讒言したことから、詔書を作ったので、まずその舌を抜き、手を切り落とした。

太皇太后は楊愔の喪に臨み、哭して言った、「楊郎は忠でありながら罪を得た。」御用の金で片目を作り、自らそれを(楊愔の眼窩に)納め、言った、「以って我が意を表す。」常山王もまた彼を殺したことを後悔した。以前から童謡にあった、「白羊の頭は禿げ、羖羊の尻に角が生える。」また言った、「羊よ羊よ野草を食らえ、野草を食らわねば我が道から遠ざかれ、遠ざからねば汝の脳を打つ。」また言った、「阿肼姑、禍なり;道人の姑夫、死なり。」羊は楊愔を指し、「角」の字は刀を用いる(「用」と「刀」で「角」)意、「道人」は廃帝(高殷)の小名を指し、太原公主(高歓の娘、楊愔の妻)はかつて尼となったことがあったので「阿肼姑」と言い、楊愔・燕子献・可朱渾天和はいずれも帝の姑(高歓の娘)を娶っていたので、「道人の姑夫」と言ったのである。

ここにおいて天子の命をもって、詔を下して彼らを罪した。罪は一身に止まり、家族は問わなかった。まもなく五家の財産を調査・没収しようとしたが、王晞が強く諫めたので、各家一房ずつを没収し、幼い子供は皆死に、兄弟は皆除名された。

楊遵彦(楊愔)が死ぬと、中書令の趙彦深をもって代わりに機務を総括させた。鴻臚少卿の陽休之はひそかに人に言った、「千里を渉ろうとするのに、騏驥を殺して蹇驢を栄えさせるとは、甚だ悲しいことだ!」楊愔の著した詩・賦・表・奏・書・論は甚だ多かったが、誅殺後に散失し、門生が集めたものは一万余言であった。

附 燕子献

燕子献、字は季則、広漢下洛の人である。少時、相者に言われた、「使役は胡・代にあり、富貴は斉・趙にある。」後に周の文帝(宇文泰)が関中で創業するのに遇い、典籤に用いられ、使命を帯びて蠕蠕に使わされた。子献は相者の言葉を験そうとして、帰順して来た。神武帝(高歓)は彼を見て大いに喜んだ。神武帝がかつて養った韓長鸞の姑を娘とし、これが陽翟公主であったので、遂に彼に嫁がせ、甚だ待遇された。文宣帝(高洋)の時、官は侍中に至った。済南王(高殷)が即位すると、委任はますます重く、尚書右僕射に任じられた。子献は元来力が多く、頭髪が少なかった。狼狽の際に、衆を押しのけて省門から走り出たが、斛律光が追いかけてこれを捕らえた。子献は嘆いて言った、「丈夫の計らいが遅れたために、ここに至った!」天統五年(569年)、 司空 しくう を追贈された。天和(可朱渾天和)の事は兄の元(可朱渾元)の伝に見える。

附 鄭頤

鄭頤、字は子默、彭城の人である。高祖の鄭據は、魏の彭城太守で、 滎陽 けいよう からここに移った。鄭頤は聡明で、文義にかなり渉猟したが、邪険で良からぬ人物であった。初め太原公(高洋)の東閣祭酒となった。天保年間(北斉)、次第に中書侍郎に昇進した。宋欽道(宋欽道)と特に親愛し、欽道は常に彼を師事した。楊愔は初め宋・鄭を軽んじ、礼を尽くさなかった。やがて自ら人主(皇帝)に結びつき、次第に制御できなくなった。欽道は以前から済南王(高殷)と親しく、互いに引き立て合い、言わないことはなかった。乾明初年(560年)、 散騎常侍 さんきじょうじ を拝命し、中書侍郎を兼ねた。二人の権勢は楊愔とほぼ匹敵した。楊愔が害された時、邢子才(邢邵)は涙を流して言った、「楊令君(楊愔)はその人なり、死ぬ日に佳き伴侶を得られなかったことを恨む。」鄭頤は後に楊愔と同じ詔で殿中尚書・広州刺史を追贈された。鄭頤の弟の鄭抗、字は子信、頗る文学があった。武平末年(北斉)、左右郎中を兼ね、文林館で待詔した。

楊敷

楊敷、字は文衍、楊播の族孫である。高祖の楊暉は、洛州刺史、恆農公を追贈され、諡は簡といった。曾祖の楊恩は、河間太守。祖父の楊鈞は、博学で記憶力が強く、頗る幹用があった。位は七兵尚書・北道行臺・恆州刺史・懐朔鎮将、侍中・ 司空 しくう 公を追贈され、臨貞県伯に進封され、諡は恭といった。父の楊暄、字は宣和。性質は通朗で、記憶力が強く学識があった。位は諫議大夫、別将として広陽王元深に従い葛栄を征討し、遇害した。殿中尚書・華州刺史を追贈された。

楊敷は少時から志操があり、然諾を重んじ、人々は彼を景慕した。魏の建義初年(528年)、祖父の楊鈞の爵位である臨貞県伯を襲封した。次第に廷尉少卿に昇進し、獄を断ずるのに平允をもって称された。周の孝閔帝が践祚すると、侯に爵位を進めた。天和年間(566年-572年)、汾州刺史となり、公に爵位を進めた。斉の将軍段孝先が衆を率いて来寇し、城は陥落し捕らえられた。斉人は彼を任用しようとしたが、楊敷は屈せず、遂に憂憤して鄴で卒した。子に楊素がいる。

楊敷の子 楊素

楊素、字は処道、少時から落拓として大志があり、小節に拘らなかった。世人は多く彼を知らなかったが、ただ従祖父の楊寛だけが深く彼を異とし、常に子孫に言った、「処道は群を逸し倫を絶ち、常の器ではなく、汝らが及ぶところではない。」後に安定の牛弘と志を同じくして学を好み、研究に倦まず、多くに通渉した。文をよくし、草書・隷書に巧みで、風角にも頗る留意した。美しい鬚髯があり、英傑の表れがあった。

周の大塚宰宇文護が彼を中外記室に引き立て、礼曹に転じ、大 都督 ととく を加えられた。周の武帝が親政を始めると、楊素は父が節を守って斉に陥り、朝廷の恩命を受けていないことを以て、上表して理を申し立て、再三に及んだ。帝は大怒し、左右に命じて斬らせようとした。楊素はまた言った、「臣は無道の天子に仕え、死ぬのはその分です。」帝はその言葉に悟り、楊敷に使持節・大将軍・譙・広・復三州刺史を追贈し、諡を忠壮とした。楊素を車騎大将軍・儀同三司に拝し、次第に礼遇された。常に詔を書かせたが、筆を下せばすぐに成り、詞義ともに美しかった。帝はこれを嘉し、言った、「善く自ら勉めよ、富貴を得られぬことを憂うるな。」楊素は応声して言った、「臣はただ富貴が臣に逼ることを恐れます。臣は富貴を図る心はありません。」

斉平定の役に及んで、楊素は麾下を率いて先駆けすることを請うた。帝はこれを許し、竹策を賜って言うには、「朕はまさに大いに駆策しようと欲するゆえ、この物をもって卿に賜う」と。斉王宇文憲に従って河陰において斉人と戦い、功により淸河県子に封ぜられ、司城大夫を授けられた。また宇文憲に従って しん 州を抜き、鷄棲原に兵を屯した。斉主が大軍を率いて至ると、宇文憲は懼れて夜遁した。斉兵に追撃され、衆多く敗れ散った。楊素は ぎょう 将十余人と力を尽くして苦戦し、宇文憲は辛うじて免れることができた。斉が平定されると、上開府を加えられ、成安県公に改封された。まもなく王軌に従って呂梁において陳の将軍呉明徹を破り、東楚州事を行った。弟の楊愼を義安侯に封じた。陳の将軍樊毅が泗口に城を築くと、楊素はこれを撃ち走らせ、樊毅の築いた城を平らげた。宣帝が即位すると、父の爵位である臨貞県公を襲い、弟の楊約を安成公とした。まもなく韋孝寬に従って淮南を巡行した。

隋の文帝が丞相となると、楊素は深く自ら結びつき、帝は大いにこれを重んじ、汴州刺史とした。洛陽に至ったとき、尉遲迥が乱を起こした。滎州刺史の宇文胄が武牢を拠って尉遲迥に応じたため、楊素は進むことができなかった。帝は楊素を大将軍に任じて宇文胄を撃ち破らせた。徐州総管に遷り、位は柱国となり、淸河郡公に封ぜられ、弟の楊岳を臨貞公とした。隋が禅を受けると、上柱国を加えられ、御史大夫に任ぜられた。その妻の鄭氏は性が嫉妬深く悍ましかったので、楊素は憤って言うには、「我もし天子となれば、卿は必ずや皇后たるに堪えぬであろう」と。鄭氏がこれを奏上したため、これによって罪に坐して免官された。

上方(文帝)は江表を図ろうとしていた。先だって、楊素はしばしば陳を攻め取る計略を進言していた。まもなく信州総管に任ぜられ、銭百万、錦千段、馬二百匹を賜って派遣された。楊素は永安に駐屯し、大艦を造り、名づけて五牙といった。上に五層の楼を築き、高さ百余尺、左右前後に六本の檣竿を置き、いずれも高さ百五十尺、戦士八百人を容れ、旗幟をその上に加えた。次を黄龍といい、兵百余を置いた。その余の平乗、舴艋などはそれぞれ差があった。大挙して攻伐するに及んで、楊素を行軍元帥とし、舟師を率いて三硤に向かわせた。流頭灘に至ると、陳の将軍戚欣が青龍百余艘を以て兵を屯し、狼尾灘を守って軍路を遮った。その地は険しく切り立っており、諸将はこれを憂いた。楊素は言うには、「勝負はこの一举にある。もし昼間に船を下せば、彼らは我らを見るであろう。灘流は迅急で、制すること人に由らず、我らはその利を失うであろう」と。そこで夜襲をかけた。楊素は自ら黄龍十艘を率い、枚を銜えて下った。開府の王長襲を遣わして南岸から戚欣の別柵を撃たせた。大将軍の劉仁恩に白沙の北岸に向かわせた。夜明けまでに到着してこれを撃ち、戚欣は敗れた。その衆を虜にしたが、労をねぎらってこれを帰し、秋毫も犯さず、陳人は大いに喜んだ。楊素は水軍を率いて東下し、舟艦は江を覆い、旌甲は日を耀かせた。楊素は平乗の大船に坐した。容貌雄偉で、陳人がこれを見て懼れ、言うには、「淸河公は即ち江神なり」と。

陳の南康内史の呂仲肅が岐亭に屯し、まさに江峡を押さえ、北岸の岩に纜を繋ぎ、鉄鎖三条を連ねて上流を横断し、戦船を遮った。楊素は劉仁恩とともに陸に登り、ともに進発し、まずその柵を攻めた。呂仲肅の軍は夜潰し、楊素はゆるやかにその鎖を取り除いた。呂仲肅はまた荊州の延洲を拠った。楊素は巴蜒の卒数千を遣わし、五牙四艘に乗せ、檣竿をもって賊の十余艦を砕き、遂にこれを大破し、呂仲肅は辛うじて身一つで免れた。陳主はその信州刺史の顧覚を遣わして安蜀城を鎮めさせ、荊州刺史の陳紀を公安に鎮めさせたが、皆懼れて逃走した。巴陵以東、敢えて守る者なし。湘州刺史の岳陽王陳叔愼は降伏を請うた。楊素は下って漢口に至り、秦孝王(楊俊)と会し、乃ち還った。荊州総管に任ぜられ、爵位は郢国公に進み、真食として長寿県千戸を賜った。その子の楊玄感を儀同三司とし、楊玄獎を淸河郡公とした。物万段、粟万石を賜い、これに金宝を加えた。また陳主の妹、女妓十四人を賜った。楊素は上(文帝)に言うには、「里の名が勝母であれば、曾子は入らず。逆人王誼が以前に郢に封ぜられました。臣は彼と同封となることを願いません」と。そこで越国公に改封された。まもなく納言に任ぜられ、内史令に転じた。

俄かに江南の人李稜らが乱を起こしたので、楊素を行軍総管としてこれを討たせた。帝は平定の日に、男子は悉く斬り、女婦は征人に賞し、陣において免れた者は賤に従うよう命じた。賊の朱莫問は自ら南徐州刺史と称し、盛んな兵をもって京口を拠った。楊素は舟師を率いて楊子津から入り、進撃してこれを破った。 しん 陵の顧世興は自ら太守と称し、その 都督 ととく の鮑遷らとともに再び来たりて拒戦した。楊素は迎え撃ってこれを破り、鮑遷を捕らえ、三千余人を虜にした。進撃して無錫の賊帥葉皓を撃ち、またこれを平定した。呉郡の沈玄懀、沈傑らが兵をもって蘇州を囲み、刺史の皇甫績が頻りに戦って利あらず、楊素は衆を率いてこれを救援した。沈玄懀は勢い迫られ、南沙の賊帥陸孟孫のもとに走り投じた。楊素は松江において陸孟孫を撃ち、大破し、陸孟孫、沈玄懀を擒にした。黝、歙の賊帥沈雪、沈能が柵を拠って自らを固め、またこれを攻め抜いた。

江浙の賊の髙智慧は自ら東揚州刺史と号し、呉州総管の五原西元契は会稽を鎮めていたが、その兵の盛んなのを見て降った。髙智慧はその衆を尽く屠り、元契は自殺した。髙智慧は船艦千余艘を持ち、要害を屯拠し、兵は甚だ勁であった。楊素がこれを撃ち、旦より申に至るまで苦戦してこれを破った。髙智慧は海に逃げ入った。これを追撃し、余姚から海を渡って永嘉に向かった。髙智慧が来たりて拒戦したので、楊素は撃ち走らせた。賊帥の汪文進は自ら天子と称し、東陽を拠り、その徒の蔡道人を 司空 しくう に任じて楽安を守らせた。楊素は進んで討ち、悉くこれを平定した。また永嘉の賊帥沈孝徹を破った。ここにおいて歩道を以て天臺に向かい、臨海郡を指した。遂に遺逸を捕らえ、前後百余戦し、髙智慧は閩越に遁れて守った。上(文帝)は楊素が久しく外で労しているとして、詔して馳伝して入朝するよう命じ、子の楊玄感に上開府を加え、彩八千段を賜った。楊素は余寇が未だ殄らず、後患とならんことを恐れ、また自ら行くことを請うた。詔して楊素を元帥とし、再び伝に乗って会稽に至らせた。

先だって、泉州の人王國慶は、南安の豪族であり、刺史の劉弘を殺し、州を拠って乱を起こした。自ら海路の艱難険阻は、北人の習うところにあらずとして、守備の兵を設けなかった。楊素は海を渡って急に至り、王國慶は慌てふためき、州を棄てて逃走した。楊素は諸将を分遣し、水陸より追捕させた。時に南海には先に五六百家あり、水に居て亡命し、号して遊艇子といった。髙智慧、王國慶はこれに依ろうとした。楊素は乃ち密かに人を遣わして王國慶を説き、髙智慧を斬って自ら効を表すよう命じた。王國慶は因って乃ち泉州において髙智慧を斬った。その余の支党は悉く降り、江南は大いに定まった。上は左領軍将軍の獨孤陀を遣わして浚儀に至り迎え労し、京師に到るまで、問う者日毎に至った。楊素の子の楊玄獎を儀同に任じ、黄金四十斤を賜い、銀甁を加え、金銭を以て実たし、縑三千段、馬二百匹、羊三千口、田百頃、宅一区を賜った。

蘇威に代わって尚書右僕射となり、髙熲とともに専ら朝政を掌った。楊素の性格は疎闊にして弁舌に長け、人物の評価は心に任せ、朝貴の内では、髙熲を頗る推し、牛弘を敬い、薛道衡には厚く接し、蘇威を蔑ろにするが如くに見た。その余の朝臣は、多く陵轢された。その才芸風調は、髙熲に優れていた。推誠して国を体し、物事を処するに平当たる、宰相たる識度については、髙熲には遠く及ばなかった。

まもなく楊素に命じて仁寿宮の営造を監させた。楊素は遂に山を平らげ谷を埋め、役を督すること厳急で、作る者多く死に、宮の側では時に鬼の哭く声を聞いた。宮が完成すると、上は髙熲に先に見させた。髙熲は奏上して、頗る綺麗を傷つけ、人丁を大いに損なうと称した。帝は悦ばず。楊素は懼れ、即ち北門において獨孤皇后に啓して言うには、「帝王の法には離宮別館あり、今天下太平、一つの宮を造るも何ぞ費用を損ずるに足らん」と。后はこの理を以て上を諭し、上は乃ち解した。ここにおいて銭百万、綿絹三千段を賜った。

開皇十八年、突厥の達頭可汗が辺境を侵犯したので、楊素を霊州道行軍総管とした。塞外に出てこれを討ち、賜物二千段・黄金百斤を賜う。先に諸将が虜と戦うときは、常に胡騎の奔突を慮り、皆兵車と歩騎を相参じ、鹿角を以て方陣を為し、騎兵を内に置いた。素は曰く、「これは自らを固める道なり」と。ここにおいて旧法を悉く除き、諸軍に騎陣を為さしむ。達頭これを聞き、大いに喜び、天の賜うところと為し、下馬して天を仰ぎて拝し、精騎十余万を率いて至る。素奮撃し、大いに破る。達頭重創を被って遁走し、衆は号哭して去る。優詔を以て縑二万匹及び万釘宝帯を賜い、子の玄感の位を大将軍に加え、玄奨・玄縦・積善は並びに上儀同とした。

素は権略多く、機に乗じて敵に赴き、応変方無し。然れども大抵は軍を統御すること厳整にして、令を犯す者あれば、立ちどころに斬り、寛貸すること無し。毎に将に寇に臨まんとするときは、輒ち人の過失を求めてこれを斬り、多きは百余、少なくも数十に下らず、流血前に盈ち、言笑自若たり。対陣に及べば、先ず一二百人を令して敵に赴かしめ、陣を陥とせば則ち已む。もし陥とす能わずして還らば、多少を問わず、悉くこれを斬る。また二百人を令して復た進ませ、還るも向の法の如し。将士股栗し、必死の心あり、これにより戦いて勝たざること無く、名将と称せらる。素は時に貴幸にして、言うこと従わざる無し。その素に従いて征伐する者は、微功も必ず録す。他の将に至っては、大功と雖も、多くは文吏に譴責せらる。故に素は厳忍と雖も、士もまたこれにより従うことを願う。

二十年、晋王広(楊広)が霊・朔道行軍元帥となり、素はその長史となり、王は卑躬して素に交わる。太子となるに及んで、素の謀なり。仁寿初年、高熲に代わって尚書左僕射となり、良馬十匹・牝馬二百匹・奴婢百口を賜う。その年、素を行軍元帥として、雲中より出でて突厥を撃ち、連続してこれを破る。突厥走り、夜に追いこれを及ぶ。将に復た戦わんとするに、賊の越逸を恐れ、その騎兵を稍々後らせ、ここにおいて親ら両騎を将い、並びに降った突厥二人と虜と並行し、これを覚えさせず。その頓舎未だ定まらざるを候い、後騎を促して掩撃し、大いにこれを破る。ここより突厥遠く遁走し、磧南に再び虜庭無し。功により子の玄感の位を柱国に進め、玄縦を淮南郡公とし、賞物二万段を賜う。

献皇后(独孤皇后)崩御に及び、山陵の制度多くは素より出づ。上(文帝)これを善しとし、詔を下して曰く、「君は元首、臣は則ち股肱、共に百姓を理め、義は一体を同じくす。上柱国・尚書左僕射・仁寿宮大監・越国公素は、志度恢弘、機鑑明遠、佐時の略を懐き、経国の才を包む。王業初めて基づき、覇図肇めて建つや、策名委質し、受脤出師し、凶魁を禽翦し、虢・鄭を克平す。廟算を頻りに承け、旌を江表に揚げ、戎律を毎に稟り、塞垣に長駆す。南指して呉越は粛清し、北臨して獯鬻は摧服す。端揆に居りてより、機衡に参賛し、朝に当たりて正色し、直言隠すこと無し。文を論ずれば則ち詞藻縦横し、武を語れば則ち権奇間出し、既に文にして且つ武、唯朕の命ずる所なり。任使する処、夙夜怠ること無し。献皇后奄かに六宮を離れ、遠日雲及び、塋兆安厝すること、素に委ねて経紀せしむ。然れども葬事は礼に依り、唯泉石を卜するのみ、吉凶に至っては、これに由らざるなり。素は義は上に奉ずることを存し、情は国を体するに深く、幽明倶に泰ならしめ、永く保って窮き無からしめんと欲す。陰陽の書は聖人の作る所、禍福の理は特に審慎を須うと為し、乃ち遍く川原を歴て、自ら占択し、元吉を図る志、孜孜として已まず。遂に神皋福壤を得て、山陵を営建す。素の此の心を論ずれば、事誠孝極まれり。豈に平戎定寇、その功業に比すべけんや。もし褒賞を加えずんば、何を以てか此の勧励を申さん。別に一子を義康郡公に封じ、邑一万戸とすべし。子子孫孫承襲して絶えず、余は故の如し」と。並びに田三十頃・絹一万匹・米一万石を賜う。金鉢一、金を以て実つ。銀鉢一、珠を以て実つ。並びに綾錦五百段を賜う。

時に素の貴寵日を追って隆し。その弟の約・従父の文思・弟の紀及び族父の異は並びに尚書・列卿となり、諸子は汗馬の労無くして、位は柱国・刺史となる。家僮数千、後庭の妓妾綺羅を曳く者千数を以て数う。第宅華侈にして、制は宮禁に擬す。鮑亨という者は文を属するに善く、殷胄という者は草隸に工なり、並びに江南の士人、高智慧に因りて没して奴と為る。親戚故吏、清顕に布列す。その盛んなることは近古未だ聞かず。煬帝初めて太子と為るや、蜀王秀を忌み、素とこれを謀り、その罪を構成し、後竟に廃黜せらる。朝臣に違忤する者あれば、たとえ賀若弼・史万歳・李綱・柳彧の如く至誠国を体する者と雖も、素は皆陰しくこれを中る。もし附会及び親戚ならば、才用無くとも、必ず進擢を加う。朝廷靡然として、畏附せざる者無し。唯だ兵部尚書柳述は、帝婿の重きを以て、数え上(文帝)の面前に於いて素を面折す。大理卿梁毗は、表を抗して素が威福を作すを言う。上漸くこれを疎忌し、後因って勅を出して曰く、「僕射は国の宰輔、細務に躬親すべからず。但だ三五日に一度、省に向かい評論して大事を論ずべし」と。外には優崇を示すも、実はその権を奪い、仁寿の末に終わるまで、復た省事を通判せず。上は王公以下に射を賜い、素の箭第一と為り、上は手ずから外国の献ずる所の金精盤(価値巨万)を以てこれを賜う。四年、仁寿宮に幸するに従い、宴賜重畳す。

上(文帝)の不 に及び、素は兵部尚書柳述・黄門侍郎元岩等と入りて疾に侍る。時に皇太子(楊広)は大宝殿に入居し、上に不諱あらんことを慮り、須らく予め防擬すべく、乃ち手ずから書を為し、封じて出だして素に問う。素は事状を条録して、太子に報ず。宮人潜かに上に送る。上これを見て大いに恚る。寵する所の陳貴人また太子の無礼を言う。上遂に怒を発し、庶人勇(楊勇)を召さんと欲す。太子素にこれを謀る。素は詔を矯って東宮の兵士を追い、台に帖して宿衛せしめ、門禁出入は並びに宇文述・郭衍の節度を取る。また張衡に令して疾に侍らしむ。上この日に崩ず。ここにより頗る異論有り。

時に漢王楊諒が反乱を起こし、茹茹天保を東蒲州に派遣して河橋を焼き切り、また王𨈭子を遣わして力を合わせて守備させた。楊素は軽騎五千を率いてこれを襲撃した。渭口に潜んで夜間に渡河し、夜明け前にこれを撃った。天保は敗れ、𨈭子は恐れて城を降した。詔があり、召還された。初め楊素が出発する際、賊を破る日数を計算したが、全てその量りの通りであった。帝はここにおいて楊素を へい 州道行軍総管・河北道安撫大使とし、楊諒を討たせた。時に晋・絳・呂の三州は皆楊諒のために城を守っており、楊素はそれぞれ二千人をもってこれを引き留めて去った。楊諒は趙子開に十萬余りの兵を擁させ、険しい道を遮断し、高壁に屯して陣を五十里に布いた。楊素は諸将に兵を臨ませ、自らは奇兵を率いて霍山に深く入り、崖谷に沿って進み、直ちにその営を指し、一戦にしてこれを破った。楊諒が任命した介州刺史梁修羅は介休に屯し、楊素の到着を聞いて恐れ、城を棄てて逃走した。清源に進み、 へい 州から三十里のところに至った。楊諒はその将王世宗・趙子開・蕭摩訶らを率いて来て防戦したが、またこれを撃破し、蕭摩訶を生け捕りにした。楊諒は退いて へい 州を守り、楊素は進軍してこれを包囲した。楊諒は窮して降伏し、残党は悉く平定された。帝は楊素の弟の修武公楊約を遣わし、手詔を携えて労い、楊素は上表して謝意を述べた。その月、京師に還った。帝の行幸に従って洛陽に至り、楊素に東京大監を兼ねさせた。楊諒平定の功により、その子の萬石・仁行・甥の玄挺を皆儀同三司とし、物五萬段・羅綺千匹・楊諒の妓妾二十人を賜った。大業元年、 尚書令 しょうしょれい に遷り、東京の甲第一区・物二千段を賜い、まもなく太師を拝し、その他の官は元の通りとした。前後における賞賜は数え切れなかった。明年、 司徒 しと を拝し、楚公に改封され、真の封戸二千五百戸を賜った。その年、病没し、諡して景武といった。光禄大夫・太尉公・弘農・河東・絳郡・臨汾・文城・河内・汲郡・長平・上党・河の十郡太守を追贈され、轀輬車・班剣三十人・前後部の羽葆鼓吹・粟麥五千石・物五千段を給され、鴻臚が喪事を監護した。帝はまた詔を下して碑を立てさせ、その盛美を顕彰した。楊素はかつて五言詩七百字をもって番州刺史薛道衡に贈ったが、詞気は穎抜し、風韻は秀上で、一時の盛作となった。まもなく卒去し、薛道衡は嘆じて言った、「人の将に死せんとするや、その言や善し、かくの如きか」と。『集』十巻。

楊素は策を立てて功を立て、また楊諒を平定する功績があったが、しかし特に帝に猜忌され、外には殊礼を示され、内情は甚だ薄かった。太史が楚の分野に大喪があると言ったため、楊素を楚に改封した。病臥の日、帝は毎回名医を診察させ、上薬を賜ったが、しかし密かに医者に問い、常に死なないことを恐れた。楊素もまた自ら名位が既に極まったことを知り、薬を服用せず、養生も慎まなかった。毎回弟の楊約に語って言った、「我はどうして更に生きる必要があろうか」と。

楊素は財貨を貪り、産業を営み求め、東西両京の居宅は奢侈華麗で、朝に壊され夕に復興し、営繕は止むことがなかった。また諸方の都会の地に至るまで、邸店・水磑・田宅は千百の数に及んだ。当時の議論はこれをもって彼を卑しんだ。子に玄感あり。

楊素の子 玄感

玄感は少時には晩成で、人多くこれを癡と言った。ただ楊素のみが毎回親しい者に言った、「この児は癡ではない」と。成長すると、美しい鬚髯を生やし、儀容は雄俊で、読書を好み、騎射に長じた。弱冠にして、父の軍功により柱国の位に至り、その父と共に第二品となり、朝会では同じ列に並んだ。後に文帝は玄感に一等を降下させよと命じたが、玄感は拝謝して言った、「陛下が臣を寵遇されること甚だしく、公庭において私的な敬意を示すことを許されるとは思いもよりませんでした」と。初め 郢州 えいしゅう 刺史を拝し、任地に着くと密かに耳目を布き、長吏の能・不能を察し、些細なことでも必ず知り、吏人は敬服し、皆その才能を称えた。後に宋州刺史に転じ、父の喪により職を去った。歳余りして、鴻臚卿を拝し、楚公の爵を襲ぎ、礼部尚書に遷った。性格は驕慢であったが、文学を愛重し、四海の知名の士多くその門に趨った。

後に朝綱が次第に乱れ、帝の猜忌も日増しに甚だしくなるのを見て、内心自ら安からず、遂に諸弟と共に密かに謀り、帝を廃して秦王楊浩を立てようとした。吐谷渾征従の際、達斗抜谷に還った時、従官は狼狽しており、玄感は行宮を襲撃しようとした。その叔父の楊慎が言った、「士心は尚お一にして、国に隙無し、図るべからず」と。玄感はそこで止めた。時に帝は征伐を好み、玄感は威名を立てようと欲し、密かに将領を求め、兵部尚書段文振に告げた。文振はこれを帝に白上し、帝はこれを嘉し、群臣に謂って言った、「将門に将あり、故に虚ならず」と。ここにおいて物千段を賜い、礼遇は益々厚くなり、頗る朝政に参与した。

帝が遼東を征するに当たり、玄感に黎陽で輸送を監督させた。玄感は遂に武賁郎将王仲伯・汲郡賛治趙懐義らと謀り、時を定めず進発した。帝は使者を遣わして逼迫催促したが、玄感は声高に言った、「水路に賊多く、前後して発すること能わず」と。その弟の武賁郎将玄縦・鷹揚郎将萬石は共に帝に従って遼東に幸していたが、玄感は密かに人を遣わして召し返した。時に来護児が水軍を率いて東萊より、海に入って平壤城に向かおうとし、軍は未だ発していなかった。玄感には大衆を動かす口実が無かったので、家奴を使者に偽らせ、東方より来たり、護児が軍期に遅れて反逆したと偽って称させた。玄感は遂に黎陽県に入り、城門を閉じて大いに勇夫を募った。ここにおいて帆布を取って冑甲とし、官属を設置するには皆開皇の旧制に準じた。傍らの郡に移書して来護児を討つことを名目とし、兵を発して倉庫の地で会するよう命じた。東光県尉元務本を黎州刺史とし、趙懐義を衛州刺史とし、河内郡主簿唐禕を懐州刺史とし、衆およそ一万を擁し、洛陽を襲撃しようとした。唐禕は河内に至り、馳せて東都に告げた。越王楊侗・戸部尚書樊子蓋らは兵を整えて防備した。修武県の人は相率いて臨清関を守り、玄感は渡河できず、遂に汲郡の南で黄河を渡った。乱に従う者は市の如く、数日にして、上春門に屯兵し、衆は十万余に至った。子蓋は河南賛務裴弘策にこれを防がせたが、弘策は戦いに敗れ、父老は競って牛酒を贈った。玄感は尚書省に屯兵し、毎回衆に誓って言った、「我が身は上柱国にあり、家には巨万の金が累なり、富貴に至りて、求むる所無し。今、家を破り族を滅ぼすを顧みざるは、天下の倒懸の急を解き、黎元の命を救わんがためである」と。衆は皆喜び、轅門に詣でて自ら効力を請う者は日に数千に及んだ。樊子蓋に与えた書には次のように言った。

忠義を立てるには、事に多途あり、機を見て作すは、蓋し一揆に非ざるなり。昔、伊尹は太甲を桐宮に放ち、霍光は劉賀を昌邑に廃す、此れ並びに公の度内にして、一二を披陳すべからず。高祖文皇帝は天命を誕膺し、此の区宇を造り、璣衡を在りて以て七政を斉し、金鏡を握りて以て六龍を馭し、無為にして至化流れ、垂拱して天下乂う。今上は宝暦を纂承し、宜しく洪基を固くすべきに、乃ち自ら天に絶ち、人を殄し徳を敗る。頻年に肆眚し、盗賊ここに於いて滋多し;所在に修営し、人力之が為に凋尽す。荒淫酒色、子女必ず其の侵を受く;耽玩鷹犬、禽獸皆其の毒を離る。朋党相扇ぎ、貸賄公行し、邪佞の言を納れ、正直の口を杜ぐ。加之、転輸息まず、徭役期無し;士卒溝壑に塡ち、骸骨原野を蔽う;黄河の北は則ち千里煙無く、江・淮の間は則ち鞠として茂草と為る。

玄感は代々国恩を受け、上将の位にあった。先公(楊素)は遺詔を奉じて言うには、『善き子孫は我が輔弼とせよ、悪しき子孫は我が屏黜せよ』と。それゆえ上は先の旨を稟じ、下は人心に順い、この淫昏を廃し、更に明哲を立てんとする。今、四海同心、九有ことごとく応じ、士卒は命を用い、私仇に赴くが如く、人庶は相趨き、義は公道に形を成す。天意と人事は、明らかに知るべし。公は独り孤城を害し、その勢い何ぞ久しく支えん。願わくは黔黎を念い、社稷を心とし、小礼に拘ること勿れ、自ら伊戚を胎すことなかれ。誰か謂らん、国家一朝ここに至らんとは。筆を執りて潸然たり、言うべき所の具わらざるなり。

遂に進んで東都城を逼る。刑部尚書衛玄が衆を率いて関中より来たり東都を援け、歩騎二万をもって瀍・澗を渡りて挑戦す。玄感は偽って敗北し、衛玄之を逐う。伏兵発し、前軍尽く没す。後数日、衛玄復た玄感と戦う。兵始めて合うや、玄感は詐って人をして大いに呼ばしめて曰く、「官軍已に玄感を得たり」と。衛玄の軍稍々怠り、玄感は数千騎と之に乗じ、大いに潰え、八千人を擁して去る。玄感は ぎょう 勇にして力多く、毎たび戦うに、親ら長矛を運び、身を以て士卒に先んじ、喑鳴叱吒し、当たる所震懾せざる莫し。論ずる者は之を項羽に方ぶ。又た撫馭を善くし、士は死を致すを楽む。是に由りて戦うに捷からざる無し。衛玄の軍日々に蹙り、糧又尽き、乃ち悉く衆を決戦し、北邙に陣し、一日の間に十餘合戦う。玄感の弟玄挺、流矢に中りて斃る。玄感稍々却く。樊子蓋復た兵を遣わして尚書省を攻め、又た数百人を殺す。

帝は武賁郎将陳稜を遣わして黎陽に於いて元務本を攻めしむ。武衛将軍屈突通は河陽に屯し、左翊衛大将軍宇文述は兵を発して継いで進み、右 ぎょう 衛大将軍来護児は復た来たりて援けんとす。玄感は前戸部尚書李子雄と計りて曰く、「屈突通は兵事に暁る。若し河を渡らば則ち勝負決し難し。分兵して之を拒ぐに如かず。渡河せしめざれば、則ち樊・衛は援を失わん」と。玄感之を然りとし、将に通を拒がんとす。子蓋其の謀を知り、数え撃つ其の営を。玄感果たして進まず。通遂に河を渡り、破陵に軍す。玄感は両軍と為し、西は衛玄を拒ぎ、東は屈突通を拒ぐ。子蓋復た兵を出して大戦し、玄感の軍頻りに敗北す。復た子雄と計り、子雄は之を勧めて直に関中に入り、永豊倉を開きて貧乏を振い、三輔は指麾して定まるべしと。府庫を拠有し、東面して天下を争わば、此れ亦た霸王の業なりと。

会に華陰の諸楊、鄕導たらんことを請う。玄感遂に洛陽を釈き、西に関中を図る。已に東都を破り、関西を取れりと宣言す。宇文述等諸軍之を躡う。弘農宮に至る。父老遮り説いて玄感に曰く、「宮城空虚にして、又た積粟多し。之を攻むれば下り易し。進めば敵人の食を絶ち、退けば宜陽の地を割かん」と。玄感之を然りと為す。留まりて三日攻むるも、城下らず。追兵遂に至る。玄感西に閿鄕に至り、上槃豆し、陣を布きて五十里に亙る。官軍と且つ戦い且つ行き、一日に三たび敗る。復た董杜原に陣し、諸軍大いに之を破る。玄感独り十余騎と竄る林木の間、将に上洛に奔らんとす。追騎至る。玄感之を叱す。皆懼れて返走す。葭蘆戍に至り、窘迫し、独り弟積善と歩行す。積善に謂いて曰く、「事敗れたり。我は人の戮辱を受くる能わず。汝我を殺すべし」と。積善之を殺す。因りて自ら刺すも死せず。追兵の執る所と為り、玄感の首と倶に行在所に送らる。其の屍を東都市に磔し、三日にして、復た臠にして之を焚く。余党悉く平ぐ。

其の弟玄獎は義陽太守たり。将に玄感に帰せんとす。郡丞周旋玉の殺す所と為る。玄縦の弟万石は、帝の所より逃れ帰る。高陽に至り、伝舎に止まる。監事許華、郡兵と之を執り、涿郡に斬る。万石の弟仁行は、官は朝議大夫に至り、長安に斬らる。並びに具に梟磔す。公卿玄感の姓を改めて梟氏と為さんことを請う。詔して可とす。

玄感の乱に、趙元淑なる者謀に預かる。誅さる。又た劉元進有り。亦た兵を挙げて之に応ず。

附 趙元淑

元淑は博陵の人なり。父世模は、初め高宝に従い、後衆を以て周に帰す。上開府を授けられ、京兆の雲陽に寓居す。隋文帝践阼し、恒に宿衛を典す。後晋王に従い陳を伐ち、力戦して死す。朝廷其の身の王事に死するを以て、元淑に父の本官を襲わしめ、物三千段を賜う。元淑性疎誕にして、産業に事えず、家は徒に壁立す。後驃騎将軍を授けらる。将に之に官せんとするに、自ら給する所無し。時に長安の富人宗連、家に千金を累ね、周に仕えて三原令たり。季女有り、慧にして色有り。連毎に賢夫を求め、元淑を聞き、相見ゆることを請う。連は風儀有り、談笑を美くし、元淑亦た之を慕う。其の家に至るに及び、服玩居処、将相に擬す。酒酣にして、女楽を奏す。元淑の未だ見ざる所なり。出づるに及び、連又た殷勤を致す。元淑再三来たり、宴楽前よりも更に侈なり。因りて須うる所を問う。尽く買いて之を与う。元淑謝を致す。連復た拝して女を以て之に妻せんことを求む。元淑感じて之を納む。遂に富人と為る。

楊素に従い楊諒を平げ、功を以て位を進めて柱国と為り、徳州刺史・潁川太守を歴任し、並びに威恵有り。入りて司農卿と為る。玄感異志有り。遂に結交す。遼東の役には、将軍を領し宿衛を典し、光禄大夫を加えられ、葛国公に封ぜらる。明年、帝復た高麗を征す。元淑を以て監渝を鎮せしむ。玄感の乱を作すに及び、其の弟玄縦は駕の所より逃れ帰る。路臨渝を経る。元淑其の小妻魏氏を出だして玄縦に見えしめ、対宴極めて歓び、因りて謀を通じ、並びに玄縦の賂遺を受く。玄感の敗るるに及び、人其の事を告ぐる者有り。帝之を吏に属す。元淑及び魏氏倶に涿郡に斬らる。其の家を籍没す。

附 劉元進

元進は余杭の人なり。少くより任侠を好み、州裏の宗と為らる。両手各長さ尺余、臂は膝を垂れて過ぐ。遼東の役に属し、百姓騒動す。元進自ら相表非常なりと以て、遂に亡命を聚む。会に玄感黎陽に起る。元進之に応ず。旬月、衆数万に至る。将に江を渡らんとして玄感敗る。呉郡の朱燮・晋陵の管崇も亦た兵を挙げ、衆七万有り。共に元進を迎え、奉じて以て主と為す。呉郡に拠り、天子と称し、燮・崇を倶に僕射と為し、百官を署す。帝将軍吐万緒・光禄大夫魚倶羅に令して之を討たしむ。緒の為に敗れ、朱燮戦死す。俄にして緒・倶羅並びに罪を得。江都郡丞王世充兵を発して之を撃つ。大流星有りて江都に墜つ。未だ地に及ばずして南に逝き、竹木を磨ぎ拂うて皆声有り、呉郡に至りて地に落つ。元進之を悪み、令して地を掘りて二丈入りて一石を得。径丈余。数日にして、石の在る所を失う。世充江を渡る。元進兵人を遣わし各茅を持たしめ、風に因りて火を放つ。世充大いに懼れ、将に営を棄てんとす。反風に遇い火転ず。元進の衆懼れて焼かれて退く。世充大いに之を破る。元進及び崇倶に世充の殺す所と為る。世充其の衆を黄亭澗に坑し、死者三万人。其の後董道沖・沈法興・李子通等並びに此れに乗じて起る。素の母弟約。

素の母弟 約

楊約は字を惠伯という。幼少の時に嘗て樹に登り、地に墜ちて陰部を傷つけ、これにより遂に宦官となった。性質は沈着で静か、内には多くの譎詐を抱き、学を好み記憶力が強かった。楊素は彼を友愛し、凡そ事を為すに当たっては、先ず楊約に籌策を求めてから行った。周の末年に、楊素の軍功により爵を安成縣公に賜り、上儀同三司に任ぜられた。文帝が禅を受けると、長秋卿・鄜州刺史・宗正・大理三少卿の位を歴任した。

時に皇太子は寵愛がなく、 しん 王楊廣は宗室の地位を奪おうと謀り、楊素が上に寵幸され、また楊約を雅に信じているのを利用して、乃ち張衡の計を用い、宇文述に大いに金宝を持たせて楊約を賄賂し、因って王の意を通じ、彼を説いて曰く、「正を守り道を履むことは、固より人臣の常の致すところなり。経に反し義に合することも、亦た達者の善き謀りなり。古より賢人君子、時に消息して、以て禍患を避けざるは莫し。公兄弟の功名は世を蓋い、事を用うること年有り、朝臣で足下の家に屈辱せられたる者は、勝げて数えんや。又た儲宮は以て欲する所行はれず、毎に執政を切歯す。公は自ら人主に結ぶと雖も、公を危うくせんと欲する者亦た多し。主上一旦群臣を棄てば、公亦た何を以てか庇を取らん。今皇太子は皇后に愛を失い、主上は素より廃黜の心有り、此れ公の知る所なり。今若し しん 王の立つことを請わば、賢兄の口に在るのみ。誠に能く此の時に因りて大功を建てば、王必ず骨髓に銘記す。斯れ則ち累卵の危きを去り、太山の安きを成すなり」と。楊約は之を然りとし、又た楊素に告げた。楊素は元より凶険であり、聞いて大いに喜び、乃ち手を撫って曰く、「吾が智慧は殊に此れに及ばず、汝に頼りて余を起す」と。楊約は其の計が行われると知り、復た楊素に謂って曰く、「今皇后の言は、上用いざる無し。宜しく機会に因り、早く自ら結託すべし。然らば則ち長く栄祿を保つのみならず、祚を子孫に伝えん。又た しん 王は身を傾けて士を礼し、声名日々に盛ん。躬を以て節儉を履み、主上の風有り。楊約の料るに、必ず能く天下を安んず。兄若し遅疑せば、一旦変有らば、太子をして事を用いしめんには、恐らく禍の至る日に無からん」と。楊素は遂に其の策を行い、太子は果たして廃された。

及び しん 王が東宮に入ると、楊約を引いて左庶子と為し、修武公に封じ、位を進めて大將軍とした。及び帝が崩ずると、楊約を遣わして京師に入らせ、留守の者を易え、庶人楊勇を縊殺し、然る後に兵を陳べて凶問を発した。煬帝は之を聞いて曰く、「令兄の弟、果たして大任に堪えたり」と。即位して数日、内史令に拝した。楊約は学術有り、兼ねて時務に達し、帝は甚だ之を信任した。後に右光祿大夫を加えられた。

及び帝が東都に在り、楊約に京師に詣でて廟を享けしむるを令す。行きて華陰に至り、其の先祖の墓を見る。遂に道を枉げて拝哭し、憲司に劾せられ、官を免ぜられるに坐した。尋いで浙陽太守に拝した。其の兄の子玄感は時に礼部尚書たり、楊約と恩義甚だ篤く、既に分離を悲しみ、形を顔色に現わした。帝謂いて曰く、「公近頃憂瘁す、得て乃ち叔父の為ならずや」と。玄感は再拝して流涕し曰く、「誠に聖旨の如し」と。帝も亦た楊約の廃立の功を思い、是より徴して朝に入らしめた。未だ幾ばくもせず卒し、楊素の子玄挺を以て後とした。

楊敷の叔父 楊穆

楊穆は字を紹叔といい、楊暄の弟なり。魏に仕え、華州別駕となった。孝武帝の末、弟の楊寬が澄城縣伯の爵を楊穆に譲ることを請い、詔して許した。 へい 州刺史に終わり、開府儀同三司・華州刺史を贈られた。

楊穆の弟 楊儉

楊穆の弟楊儉は、字を景則という。容儀偉く、才幹有り。位は北雍州刺史に至り、政は寛恵を尚び、夷夏之に安んず。後に従って沙苑にて斉の神武帝を破り、夏陽縣侯に封ぜられ、位は開府儀同三司・華州刺史に至った。卒し、諡して靜といった。

楊儉の子 楊異

子の楊異は、字を文殊という。風儀美く、器局有り。髫齔にして学に就き、日に千言を誦し、見る者之を奇とした。九歳にして父の憂いに遭い、哀毀礼を過ぎ、殆ど性を滅ぼさんとす。及び喪を免れたる後、慶弔を絶ち、戸を閉ざして書を読む。数年之間に、広く書記に渉った。周の閔帝の時、甯都郡太守となり、甚だ能名有り、爵を樂昌縣子に賜り、後数たび軍功を以て爵を進めて侯となった。隋の文帝が相となると、濟州の事を行った。及び践祚すると、宗正少卿に拝し、上開府を加えられた。蜀王楊秀が益州に鎮するに当たり、朝廷は綱紀を選ぶに盛んにし、楊異が方正直なるを以て、益州総管長史に拝し、尋いで西南道行臺兵部尚書に遷った。後に宗正卿・刑部尚書を歴任し、出でて呉州総管となり、甚だ能名有り。時に しん 王楊廣が揚州に鎮し、詔して楊異に毎歳一度王と相見え、得失を評論し、疑闕を規諫せしむ。官に卒す。子に虔遜有り。

楊儉の弟 楊寬

楊寬の子は蒙仁、楊儉の弟なり。少より大志有り、毎に諸児童と遊処するに、必ず高大の物を択びて之に坐し、見る者皆之を異とした。及び長じ、頗る属文を解し、尤も武芸を尚んだ。弱冠、奉朝請を除かれた。父の楊鈞が出でて恆州に鎮するに当たり、随従して効を展べんことを請い、乃ち髙闕戍主を授けられた。既にして蠕蠕乱れ、共主阿那瑰魏に奔る。魏帝詔して楊鈞に えい 送せしめ、楊寬も亦た従行した。時に北辺に賊起こり、鎮城を攻囲す。楊鈞卒し、城人等楊寬を推して守禦せしむ。尋いで城陥ち、楊寬は乃ち北走して蠕蠕に至り、後六鎮の賊を討ち破り、楊寬始めて還朝を得た。

廣陽王元深は楊寬と素より昵し、元深法を犯して罪を得、楊寬は逮捕された。孝莊帝侍中たりし時、楊寬と旧有り、之を宅に蔵し、赦に遇いて免るるを得た。宗正丞を除かれた。北海王元顥は少より楊寬を器重し、時に大行臺として北征し葛栄を征せんとし、楊寬を左丞と為さんと啓せんと欲した。楊寬は孝莊帝の厚恩未だ報いずと以て辞し、義は利を見て動かずと。元顥未だ之を許さず、元顥の妹婿李神軌元顥に謂って曰く、「匹夫も猶お志を奪うべからず、況んや義士をや」と。乃ち止めた。

孝莊帝践祚すると、累遷して洛陽令となり、 都督 ととく として太宰・上党王元穆に従い邢杲を討平した。師未だ還らず。元顥が洛に入るに属し、莊帝は出でて河内に居す。元天穆懼れ、諸将を集めて之を謀る。楊寬は元天穆に径ちに成皋を取るを勧め、兵を伊・洛に会わしむ。元天穆之を然りとし、乃ち成皋に趣き、楊寬と爾朱兆をして後拒たらしむ。尋いで衆議同じからずと以て、乃ち回りて石済に赴く。楊寬夜行して道を失い、遂に期に後る。諸将皆言う、楊寬は少より北海と周旋し、今来らざるなりと。元天穆答えて曰く、「楊寬は軽々しく去就する者に非ず、吾当に諸君の為に之を明らかにせん」と。言い終わって、候騎白して楊寬至ると。元天穆髀を撫って笑い曰く、「吾固より其の必ず来るを知れり」と。遽かに帳を出で迎え、其の手を握りて曰く、「是れ望む所なり」と。元天穆と倶に太行にて孝莊帝に謁した。仍って 都督 ととく と為り、従って河内を平げ、進んで北中を囲む。時に梁の陳慶之が元顥の為に兵を勒して北門を守り、元天穆は馬を駐めて囲外に在り、楊寬を遣わして城下に至り陳慶之を説かしむ。答えず、久しくして乃ち曰く、「賢兄撫軍在り、頗る相見えんと欲するや否や」と。楊寬答えて曰く、「僕の兄は既に力屈して凶威に、跡逆党に淪れり。人臣の理、何ぞ相見うるを煩わさん」と。元天穆之を聞き、此より弥敬した。

孝莊帝反正すると、太府卿・華州大中正を除かれ、澄城縣伯に封ぜられた。爾朱栄誅せられ、其の従弟爾朱世澄等出でて河橋を拠り、還って京師を逼る。楊寬を進めて使持節・大 都督 ととく と為し、機に随い捍禦せしむ。爾朱世隆楊寬に謂って曰く、「豈に大宰相の知る深きを忘れんや」と。楊寬答えて曰く、「太宰は礼を以て愛す、人臣の交わり耳。今日の事は、君に事うるの節なり」と。及び爾朱兆洛陽を陥とし、孝莊帝を囚執す。楊寬は洛に還るを得ず、遂に成皋より梁に奔る。建鄴に至り、莊帝 しい され崩ずるを聞き、楊寬は喪を発して礼を尽くし、梁武帝之を義とした。尋いで礼を以て送り返された。孝武帝の初め、給事黄門侍郎を除かれた。

孝武帝は斉の神武帝(高歓)と不和があり、そこで ぎょう 勇の士を召募し、宿衛を広く増員し、楊寛を閣内大 都督 ととく とし、禁旅を専ら統率させた。孝武帝に従って関中に入り、吏部尚書を兼ね、従駕の勲功を記録し、爵を進めて華山郡公となった。大統初年、太子太傅に遷る。五年、驃騎大将軍・開府儀同三司・ 都督 ととく ・東雍州刺史に任じられ、これは本州(華州)の刺史であった。廃帝の初年、尚書左僕射・将作大監となったが、事に坐して免官された。周の明帝の初年、大将軍に拝され、帝に従って蘭祥に赴き吐谷渾を討ち、これを破り、別に宜陽県公に封ぜられた。小塚宰に任じられ、後に禦正中大夫に転じた。武成二年、詔により楊寛は麟趾殿学士とともに経籍を参定した。

楊寛は性質通敏にして、器量と幹才があった。頻繁に数州の刺史を歴任し、清廉簡素と称された。台閣の職を歴任し、官に当たるにふさわしい誉れがあった。しかし柳機と協調せず、事件をでっち上げてその罪を確定させたため、当時の論評はこれをかなり非難した。保定元年、総管梁興等十九州諸軍事・梁州刺史に任じられた。州において薨去し、華・陝・虞・上・潞の五州刺史を追贈され、諡して元といった。子に文恩がある。

楊寛の子、文恩。

文恩は字を温才という。周において、十一歳の時、車騎大将軍・儀同三司・ 散騎常侍 さんきじょうじ に拝された。まもなく父の功績により、新豊県子に封ぜられた。天和初年、武都太守を代行した。十姓の獠が反乱を起こすと、文恩はこれを討伐平定した。さらに冀州の事務を代行した。党項羌が叛くと、文恩はまたこれを討伐平定した。資中・武康・隆山などの生獠および東山獠を進撃し、ことごとくこれを破った。陳王に従って斉の河陰城を攻め、また武帝に従って晋州を攻め落とし、上儀同三司を授けられ、承寧県公に改封された。寿陽の劉叔仁が乱を起こすと、清河公宇文神挙に従ってこれを討ち、鹆専井において戦い、陣中で叔仁を生け捕りにした。また別に王誼に従って鯉魚柵において賊を破った。後に累次の軍功により果毅左旅下大夫に遷った。

隋の文帝が丞相となった時、韋孝寛に従って武陟において尉遅迥を防ぎ、行軍総管宇文述とともにその将李俊を撃退し、こうして懐州の包囲を解いた。尉遅惇を破り、 鄴城 ぎょうじょう を平定し、いずれも功績があり、上大将軍に進んで授けられ、洛川県公に改封され、まもなく隆州刺史に拝された。開皇元年、爵を進めて正平郡公となった。後に魏州刺史となり、非常に善政を施し、職を去る時、官吏民衆は彼を慕い、碑を立ててその徳を称えた。冀州刺史に転じた。

煬帝が位を嗣ぐと、戸部尚書に徴召され、納言に転じ、右光禄大夫に改めて授けられた。江都宮に従駕したが、足の病のため、趨走して奏上することが堪えられず、再び戸部尚書を授けられ、位は右光禄大夫であった。官において卒し、諡して定といった。初め文恩は父の爵を継ぐべきであったが、自ら嫡子ではないとして、弟の楊紀に譲ったので、当世の人々はこれを称えた。

文恩の弟、楊紀。

楊紀は字を温范といい、若い頃から剛直で正しく、器量と見識があった。周において、爵を襲って華山郡公となった。累進して安州総管長史となり、兵を率いて斉安において陳の降将王瑗を迎え、陳の将周法尚と遭遇し、これを撃退し、功により開府に進んだ。入朝して虞部下大夫となった。文帝が丞相となった時、汾陰県公に改封された。梁睿に従って王謙を討ち、功により上大将軍に進んで授けられた。資州刺史・宗正少卿を歴任し、事に坐して除名された。後にまもなくその爵位を回復し、熊州刺史に拝され、上明郡公に改封された。宗正卿に任じられ、給事黄門侍郎を兼ね、礼部尚書の事務を判じた。荊州総管に遷った。卒し、諡して恭といった。

論ずるに。

論じて言う。楊播兄弟はともに忠毅謙謹をもって、内外の重任を担い、公卿牧守として、累朝にわたり栄華顕赫であり、いわゆる門生故吏は天下に遍くいた。しかるに言葉と顔色は恭順で、誠意の極みより出で、徳を恭しくし行いを慎み、世の師範たり、漢の陳紀の家法もこれを超えるものではなかった。後魏以来、ただこの一門のみである。諸子は優れて立ち、高官が庭に満ち、善を積んだ慶びは、まことに拠り所があるものであった。逆胡(爾朱栄ら)が朝廷を擅にし、淫刑をほしいままに毒を振るうに及び、この一族にしてこの禍いに遇うとは、何という報いの逆なことであろうか。楊愔は雅道風流、早くから同様の風格を備え、公望人物の推すところであった。乱虐の世に処し、機衡の重きに当たり、朝に善政あり、これがそれである。天下の命を寄せられ、六尺の孤を托されるや、旬朔も経たぬうちに、身は亡び君は辱しめられた。進んでは往事を送り居る者(先帝と幼主)に仕え、機微を観て主君を衛うことができず、退いては身を保ち名を全うし、寵を辞して福を招くことができなかった。朝廷の争いにおいては、既に義を仗って恩を断ち、猜忌の道においては、心を推して乱を受け入れる余地がなかった。これをもって変通の術は、彼の長じるところではなかったと知るべきである。楊素(処道)は若い頃より軽侠で、俶儻として羈絆されず、文武の資質を兼ね、英奇の謀略を包み、志は遠大を懐き、功名をもって自ら任じた。隋の文帝が六合を清めんとするに属し、腹心の寄せを委ねられた。妖気を牛斗の間に掃い、江海は波静かになり、 ぎょう 猛を龍庭において摧き、匈奴は遠く遁走した。もしその凶を夷え乱を静める功を論ずれば、功臣として彼の右に出る者なく、その奇策高文を覧れば、まさに一時の傑足りうる。しかし智詐をもって自ら立脚し、仁義の道によらず、時主に阿諛し、その心を高下した。離宮を営構し、君を奢侈に陥れ、冢嫡を廃せんと謀り、国を傾危に致した。終には宗廟を丘墟とし、市朝を霜露の地とせしめ、その禍敗の源を究めれば、実に楊素に由るものである。楊玄感は宰相の子として、二世の恩を受け、君の失徳に当たり、腹心を竭くすべきであった。身を致すことを議せず、先んじて鼎を問わんと図り、伊尹・霍光の事を仮称し、まさに王莽・董卓の心を逞しくせんとし、人神ともに疾み、敗れること踵を返す間もなかった。兄弟は菹醢の誅に就き、先人は焚如の酷を受け、あまりにも甚だしいことではなかったか。楊約は外に温柔を示し、内に狡算を懐き、蛇に足を画き、終には国の根本を傾け、遺育なからしめた、まことに相応しいことではなかったか。楊寛は関所の険夷を経て、ついに功名をもって自ら終わった。文恩は爵位を譲ることができた、それは仁に近いものと言えよう。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻041