韓麒麟は、昌黎郡棘城の人である。自らは漢の大司馬韓増の後裔であると称した。父の韓瑚は、秀容・平原の二郡太守であった。麒麟は幼くして学問を好み、姿容は美しく、騎射に長じた。景穆帝が国政を監理した時、東曹主書となった。文成帝が即位すると、漁陽男の爵位を賜った。父が亡くなると、喪に服する礼を守った。後に征南将軍慕容白曜の軍事に参じた。升城を攻撃した際、兵士に多くの負傷者が出た。城が陥落すると、白曜は彼らを生き埋めにしようとした。麒麟は諫めて言った。「今まさに進取を図るにあたり、寛厚を示すべきです。強敵が目前にいるのに、その兵衆を坑殺すれば、三斉の地を容易に図ることはできなくなるでしょう。」白曜はこれに従い、皆に元の生業に戻ることを許したので、斉の民は大いに喜んだ。後に白曜は上表して、麒麟と房法寿とを対にして冀州刺史に任じた。白曜が東陽を攻撃した時、麒麟は義租六十万斛と、攻戦の器械を献上したので、軍需は欠乏することがなかった。白曜が誅殺されると、麒麟は長年、官途に停滞した。
孝文帝の時、斉州刺史に任じられ、魏昌侯の爵位を仮授された。在官中は刑罰を少なくし、従事の劉普慶が麒麟に言った。「明公は方夏に節を仗っておられながら、一人も斬戮なさらないのは、どうして威を示されるのですか。」麒麟は言った。「人が法を犯さなければ、何を斬るというのか。もし斬断によって威名を立てねばならぬというなら、そなたをもってこれに当てよう。」普慶は慚愧して恐れ、退いた。麒麟は、親しく付き従う者が台官の地位に至らず、士人が沈淪抑圧されているのを以て、上表して請うた。守宰に欠員があれば、豪族や名望家を推挙任用し、吏員を増員し、賢哲を広く招くべきである。そうすれば華族は栄誉を受け、良才は登用され、徳を懐き土に安んずる心が、あるいはここにあるだろう、と。朝廷の議論はこれに従った。
太和十一年、京都は大飢饉となり、麒麟は時務を上表して述べて言った。
古の先哲の王は、国を経営し政を立てるに、九年分の蓄積があって、これを太平と称した。故に自ら千畝の籍田に立ち、以て百姓を率いた。これによって衣食は豊かになり、礼教は興って行われた。中世に至っても、この業を尊び、粟を納める者には敵を斬った者と同じ爵位を与え、田を力耕する者には孝悌と同等の賞を与えた。これは実に百王の常軌であり、政治の先務である。今、京師の民衆は、田を耕さない者が多く、遊食の口は三分の二を占める。およそ一人の男が耕さなければ、あるいはその飢えを受く、というのに、まして今は動かすに万を以て数えるほどである。故に近年山東は水害に遭い、人に餓死者があり、今秋は京都が旱魃に遇い、穀価が高騰した。これは実に農人が勧められず、平素から蓄積が無かった故である。
伏して惟うに、陛下は天より授けられた欽明さにより、その道は三皇五帝よりも高く、上には覆載の恩沢を 垂 れ給うが、下には凍え飢える人がいる。これは皆、有司がその制度を為さず、長吏がその根本を恤れないためである。天下が太平な日が久しく、豊作が数年続いたので、競って誇り合い、次第に奢侈の風俗となった。故に耕す者は日々少なく、田は日々荒れる。穀物と絹布は府庫に尽き、宝貨は市里に満ち、衣食は家に乏しいが、麗しい衣服は道に溢れている。飢寒の根本は、実にここにある。愚かには考えますに、凡そ珍玩の物は、皆禁断すべきである。吉凶の礼は、格式を備え、貴賤に区別があって、人が質素に帰するようにすべきである。天下の男女を制し、口数を計って田を与える。宰司は四季に巡行し、台使は毎年一度検査し、勤めて勧め課し、厳しく賞罰を加える。数年の中には、必ず豊かな蓄えができ、凶災に遇っても、流亡を免れるであろう。
往年、戸籍を校比した際、租賦は軽少であった。臣が統べる斉州では、租粟はようやく俸給を給するに足り、少しも倉に入るものは無い。これは人にとっては利益であっても、長く続けることはできない。もし戦役が起こるか、あるいは天災に遭えば、供給の方法は、取って救済する所が無いであろう。絹布を減らし、穀租を増やすことを請う。豊年には多く蓄積し、凶年には出して救済する。いわゆる私人の穀物を、官に寄せて蓄積するのである。官に蓄積があれば、人は凶年に遭わない。
官の任上で卒去し、その子に遺言して、素棺に収め、事は倹約に従うよう命じた。
麒麟は生来恭順謹慎であり、常に律令を座の傍らに置いた。臨終の日、俸給として得た絹が数十匹あるのみで、その清貧はこのようなものであった。 散騎常侍 ・燕郡公を追贈され、諡は康といった。長子の興宗は、字を茂先という。好学で文才があり、秘書中散の位に至った。卒去し、漁陽太守を追贈された。
子の子熙は、字を元雍という。若い頃から自らを修め整え、頗る学識があり、清河王元懌の郎中令となった。初め、子熙の父は爵位を弟の顕宗に譲ったが、顕宗は受けなかった。子熙は父の平素の志を成し遂げ、結局も襲爵しなかった。顕宗が卒去すると、子熙は別に爵位を賜ることを蒙り、そこで先の爵位を弟の仲穆に譲った。兄弟の友愛はこのようなものであった。母が亡くなると、喪に服する礼を守った。子熙は元懌に眷遇されたため、官位を空け、その喪が終わった後、再び任用された。元叉が元懌を害した時、長く葬ることができなかった。子熙はこのことを憂い憔悴し、田野に隠居した。常に言うには、王が復封され、礼をもって改葬されなければ、終身仕官しないと誓う、と。後に霊太后が政権に返り咲き、元叉を 尚書令 とし、その領軍の職を解いた。子熙は元懌の中大夫劉定興・学官令傅霊舣・賓客張子慎と共に宮門に伏して上書し、元懌の冤罪を理め、元叉・劉騰の誣告を極言した。上書が奏上されると、霊太后はその義を認め、子熙を中書舎人に抜擢した。後に遂に劉騰の棺を剖き、元叉に死を賜った。まもなく国史を修めた。建義の初め、黄門侍郎を兼ね、まもなく正任となった。
子熙は清廉で自らを守り、人と交際しなかった。また幼くして孤児となり、叔父の顕宗に養育された。顕宗が卒去すると、顕宗の子の伯華はまだ幼かったので、子熙は友愛して同母兄弟と同じように接した。成人してもなお同居し、車馬や資財は、その費用に従い、言葉や顔色に表れることはなかった。また上書して自分の官階を分けて伯華に与えることを請い、そこで伯華は東太原太守に任じられた。伯華が郡に在任中、刺史の元弼に辱められた。子熙は泣いて朝廷に訴えた。明帝は詔を下して検査を遣わし、元弼は大いに譴責を受けた。
爾朱栄が葛栄を捕らえ、京師に送った。荘帝は面と向かってその罪状を数えようとしたが、子熙は、栄は既に元凶であり、必ず死ぬと自覚しているので、もしも不遜なことがあってはならず、面会すべきではないと考えた。爾朱栄はこれを聞いて大怒し、子熙の罪を請うた。荘帝は許して責めなかった。邢杲が反逆を起こすと、詔により子熙は慰労に赴いた。杲は偽って降伏し、子熙はこれを信じた。楽陵に到着すると、杲は再び反逆し、子熙は帰還した。廷尉に付される罪に坐し、大辟の刑に論ぜられたが、死を恕されて免官となった。孝武帝の初め、著作を領し、冊勲の功により歴城県子に封ぜられた。天平の初め、侍読となり、国子祭酒に任じられた。子熙は倹素で貧しさに安んじ、常に退いて静かにすることを好んだ。鄴に遷都する初め、百官には皆兵力が給されたが、当時、祭酒は閑職と見なされ、二人だけが給された。ある者が陳請するよう勧めたが、子熙は言った。「朝廷が自ら祭酒に兵を与えないのであって、韓子熙の何事か関わろう。」論者はこれを高く評価した。元象年中、衛大将軍を加えられた。
先に、子熙は弟と共に王氏を娶って妻としたが、これは姑の娘であり、二子を生んだ。子熙はまだ再婚せず、後に寡婦の李氏と密通して三子を生んだ。王と李は不和で、互いに訴えあった。子熙はこのため恥じ恨み、病を発してしまった。死去し、遺言で贈官や諡を求めぬよう戒めたが、その子は遵守できず、遂に奔走して求めた。武定初年、驃騎大将軍・儀同三司・幽州刺史を追贈された。
興宗の弟、顕宗は字を茂親という。剛直で、面と向かって諫言することができ、また才学もあった。沙門の法撫は、三斉でその聡明さが称えられていた。かつて顕宗と試験をして、百余名の人名を書き写し、各々一遍読み上げた後、直ちに復唱させたところ、法撫には尚一二の誤りがあったが、顕宗には全く誤りがなかった。法撫は嘆じて言うには、「貧道は生まれてこの方、ただ郎君にのみ敬服する」と。
太和初年、秀才に挙げられ、対策で甲科となり、著作佐郎に任じられた。後に中書侍郎を兼ねた。遷都が決まると、顕宗は上書した。
第一に、ひそかに聞くところでは、陛下の御輿は今夏、三斉を巡幸されなければ中山に行幸されるとのことである。ひそかにこれは良策ではないと考える。なぜか。当今の徭役は早く止めるべきであり、洛京は速やかに完成させるべきである。費用を節減すれば徭役は簡素化でき、力を併せれば洛京は容易に成し遂げられる。願わくは早く北京に還り、諸州の供帳の費用を省き、南州は雑徭の煩わしさを免れ、北都は分離の嘆きを止めさせられたい。洛京は時を待たず完成し、遷る者も皆帰るが如くであろう。
第二に、古より聖帝は必ず倹約を美とし、乱主は必ず奢侈が禍をもたらす。仰ぎ思うに先朝は皆、宮室を質素にし経略に力を尽くされた故に、基盤は広がり開け、業と祚は隆盛安泰であった。今の洛陽の基址は、魏の明帝が営んだもので、前代に嘲笑された。伏して願うに、陛下には損之又損されたい。近頃、北都の富家は競って邸宅を誇っているが、今、遷徙に際し、禁令を明らかにし、貴賤に規制を設け、制度を超えぬようにすべきである。大路を整え広げ、溝渠を通じ利させ、官署を区別し、士人と庶民を異なる所に住まわせ、百世にわたって改めることなき規範を永く垂れさせられたい。
第三に、ひそかに聞くところでは、陛下が洛陽に還られる際、軽々しく数千騎を率いられるとのことである。臣は甚だ陛下のなさるべきことではないと考える。千金の子ですら、軒端に坐さぬことを戒める。ましてや万乗の尊、四海を富有されるお方が。道を清めて行く尚、轡や車輪の過失を恐れるのに、まして山河を踏み渡られて三思されぬとは。
第四に、ひそかに考えるに、陛下は耳で法の音を聴き、目で古典を玩み、口で百官に対し、心で万機を慮り、日が傾いて食事し、夜半に就寝される。これに孝思の極みが時と共に深まり、文章の業は日に篇巻を成している。聡明なるお方が用いられるには、未だ煩わしいとは言えぬが、しかし神を養い性を保ち、限りなき福祚を広げる道ではない。荘周が言うには、「形は有限であり智は涯がない。有限の形をもって、涯なき智に使役されるは危うい」と。これが愚臣の不安とする所以である。
孝文帝はこれをかなり採用された。顕宗はまた上言した。
前代は人材を取るに、必ずまず名を正した。故に賢良方正の称があった。今、州郡が貢挙するのは、ただ秀才・孝廉の名があるだけで、秀才・孝廉の実がない。朝廷はただその門閥を検査するのみで、再び罪に問わない。これでは別に門閥を貢挙させて士人を叙用すればよいのであって、何ぞ秀才・孝廉の名を仮る必要があろうか。門閥とは、その父祖の遺功であり、何ぞ皇家に益するところがあろう。時に益するものは、賢才のみである。もしその才があれば、屠殺・釣り・奴隷・虜囚の賤しい者でも、聖皇は臣とすることを恥じず、もしその才がなければ、三皇の後裔であっても、自ら賤役に落ちるのである。議論する者に、今の世には奇才が無いから、門閥によって士を取る方が良いと言う者もいる。これも誤りである。世に周公・召公がいないからと言って、宰相を廃して置かぬことができようか。ただその一寸の長、一銖の重さがある者を較べ、即ち先に叙用すれば、賢才は遺れることはない。
また言うには、帝王が尊位に居て下を治める所以は、威である。兆民が悪を改めて善に従う所以は、法である。故に国や家を持つ者は、必ず刑法を以て政とし、人の命はここに存する。罪有れば必ず罰し、罰は必ず罪に当てれば、たとえ鞭打ちの軽い刑であっても、人は敢えて犯す者はいない。制度有りて行われず、人が僥倖を得れば、たとえ三族誅殺の重い誅罰でも、厳粛にすることはできない。太和以来、盗みで市で棄てられる者は多くないが、遠近は厳粛に清まっている。これによって言えば、奸を止めるは防ぎ検査するに在り、厳刑に在らず。今、州郡の牧守は、当時の名声を求め、一時的な法を行い、台閣の百官もまた皆、深酷を以て私無きものとし、仁恕を以て盗みを容れるものとする。互いに励まし合い、遂に風俗となった。陛下は九重の内に居て、人を赤子の如く視られるが、百官は万務の要を分かち、下を遇すること仇敵の如くである。これは即ち堯・舜は一人のみで、桀・紂は千百おり、和気が至らぬは、蓋しこれに由る。宜しく百官に示し、元元の命を恵むべきである。
また言うには、昔、周王が犬戎に逐われて東に河洛に遷り、鎬京は尚、宗周と称して根本を存した。光武帝は中興とは言うが、実は草創であり、西京に尚、京兆尹を置き、また旧を廃さなかった。今、陛下は先業を光り輝かせ、中土に遷都され、古を考え礼を復し、ここに於いて盛んである。『春秋』の義に按ずるに、宗廟有るを都と謂い、無きを邑と謂う。これは改めることなき典である。況んや北代は、宗廟在り、山陵託され、王業の基、聖躬の載る所、その神郷福地たるは、実にまた遠大である。今、直ちに郡国と同様にするは、臣はひそかに不安である。愚かに考えるに、代京には畿を建て尹を置き、一に故事の如くすべきである。本を崇くし旧を重んじ、以て万葉を光らすべきである。
また言うには、「洛京の制度を見るに、住民は官位によって従い、族類によってはない。しかし官位は常なるものではなく、朝に栄えて夕に悴むこともある。すると衣冠の士が賤役の邑に沈み、奴隷が肥沃の里に顕れる。物事の顛倒、或いはここに至る。古の聖王は必ず四民を異なって住まわせたのは、その業を定め志を専一にさせんがためである。業が定まれば偽らず、志が専一ならば淫らでなく、故に耳目に習うものは、督めずして成り、父兄の教えは、厳しくせずして成る。仰ぎ思うに太祖道武皇帝は、基を創め乱を撥い、日も暇あらぬほどであったが、尚、士人と庶民を分け、雑居させず、伎芸・工匠・屠畜・酒売りは各々住む所があった。ただ科条禁令を設けず、売買は思いのまま、高く売り安く買い、住居が錯雑していた。仮に一箇所で箏を弾き笛を吹き、緩やかに舞い長く歌い、一箇所で厳しい師が苦しい訓戒をし、『詩』を誦し『礼』を講じたとして、童子に任意に従うことを許せば、舞堂に走り赴く者は万を数え、学館に往く者は一人もいないであろう。これは伎作が雑居すべからず、士人が異なる所に住むべからざる明らかな証拠である。故に孔父は仁に裏付けられた美を説き、孟母は三度の移転の訓戒を広めた。賢聖の明らかな教え、このように重い。今、伎作の家に士人の風礼を習わせるのは、百年かかっても難しい。士人の児童に伎作の容態を真似させるのは、一朝にして得られる。士人を同じ所に住まわせれば、礼教は容易に興り、伎作が雑居すれば、風俗は改め難い。朝廷は人材を選挙する毎に、その一つの婚姻、一つの官職を較べて昇降するのは、何と細密なことか。伎作の官途については、高官華族と門を接ぎ甍を連ねることを得るのは、何と粗略なことか。今、古を考え極を建て、中区に光り輝く都を定め、凡そ移住する所は皆、公の土地である。伎作を分けるは一言に在り、何を疑って盛美を損なうことがあろうか。
また曰く、南の偽朝(南朝)が相継いで、淮北の地を窃有し、中華の称を擅にせんと欲し、かつ辺境の民を招誘せんがために、中州の郡県を僑置した。皇風(北魏の徳化)が南に被って以来、そのまま改めず、重名あるもの凡そ甚だ衆く、これ以て疆域を区画し物土を定むる所以に非ず、必ずや名を正すの謂いである。愚かには、地理の旧名に依り、一に皆厘革し、小なる者は併合し、大なる者は分置すべきと為す。及び中州の郡県は、昔戸少なきを以て併省したるもの、今人口既に多し、亦た旧に復すべし。人君たる者は、天下を家と為し、私する所有るべからず。故に倉庫の儲貯は、水旱の災を俟ち、軍国の用に供す。功徳有る者に至りて、然る後に加賜す。末代に及んで、乃ち寵の隆まる所となり、賜賚限り無し。比より以来、亦た甚だ過ぎたり。朝に在る諸貴は、禄を受くる軽からず、土は本より綺羅を被り、僕妾は梁肉に厭き、而して復た厚賚を屡加え、動もすれば千を以て計る。若し鰥寡に分賜せば、贍済実に多からん。如し悛革せずんば、豈に「周急不継富」の謂いならんや。
また曰く、諸宿衛内直の者は、宜しく武官には弓矢を習わしめ、文官には書伝を諷誦せしむべし。其の蒲博の具を繕わしめ、以て褻狎の容を成し、徒らに朝儀を損じ、事実に益無からしむるなかれ。此の類の如きは、一に宜しく禁止すべし。
帝は之を善しとす。
孝文帝曾て顕宗及び程霊虯に謂いて曰く、「著作の任は、国書を司どる。卿等の文は、朕自ら委悉す。中省の品は、卿等の聞く所なり。若し古人に取況せんと欲せば、班固・司馬遷の徒は、固より遼闊なり。若し当世に求めんとせば、文学の能は、卿等応に崔孝伯を推すべし。」又た顕宗に謂いて曰く、「卿の才能を校すれば、中第に居るべし。」程霊虯に謂いて曰く、「卿と顕宗とは、復た差降有り、下上に居るべし。」顕宗曰く、「臣が才第短浅、崔光に比すれば、実に隆渥なり。然れども臣窃かに謂う、陛下は古を貴びて今を賤しむ。昔揚雄が『太玄経』を著すや、当時免れず覆甕の譚有り、二百年の外にして、則ち諸子を越ゆ。今臣の撰する所、未だ帝載を光述するに足らずと雖も、然れども万祀の後、祖宗の巍巍たる功を仰ぎ観、上には陛下の明明たる徳を睹るも、亦た何ぞ『唐典』の欽明に謝し、『虞書』の慎徽に謝せんや。」帝曰く、「仮使朕虞舜に愧じること無くんば、卿復た何如なるか堯の臣に。」顕宗曰く、「陛下堯・舜に斉蹤し、公卿寧んぞ二八の儔に非ざらんや。」帝曰く、「卿が著作たるは、僅かに名を奉職するのみ、未だ良史に非ず。」顕宗曰く、「臣仰いで明時に遭い、直筆懼るる所無く、又た金を受けず、安眠美食す、此れ遷・固に優るなり。」帝之を哂う。後に員外郎崔逸等と朝儀を参定す。
帝曾て諸官に詔して曰く、「近代已来、高卑の出身、恒に常分有り。朕の意に為す所は可なりとし、復た以て不可と為す、宜しく之を校量すべし。」李沖曰く、「未だ審らかず、上古已来、官を置き位を列ぬるは、膏梁の児の地を為さんと欲するか、政を益し時を賛せんと欲するか。」帝曰く、「倶に人を為さんと欲す。」沖曰く、「若し人を為さんと欲せば、陛下今日何を為すぞ専ら門品を崇め、才を抜くの詔有らざる。」帝曰く、「苟も人に殊なるの技有らば、知られざるを患えず。然れども君子の門は、仮使当世の用に当たる者無くとも、要は自ら德行純篤なり、朕是を以て之を用う。」沖曰く、「傅岩・呂望は、豈に門を以て見挙せらるべけんや。」帝曰く、「此の如きは世を済う者稀なり、曠代に一両有るのみ。」沖諸卿士に謂いて曰く、「適に諸賢に救いを請わんと欲す。」秘書令李彪曰く、「師旅寡少、未だ援と為すに足らず、意に懐う所有り、敢えて聖日に尽く言わざらんや。陛下若し専ら地望を以てせば、魯の三卿を審らかにせず、孰れか四科に若かん。」帝曰く、「猶お向の解の如し。」顕宗進みて曰く、「陛下洛邑に光宅し、百礼惟新たり、国の興否、此の一選を指す。且つ国事を以て之を論ずれば、中秘監・令の子は、必ず秘書郎と為るか、頃来監・令を為る者の子は、皆な為るべからずや。」帝曰く、「卿何ぞ当世の膏腴にして監・令を為る者を論ぜざる。」顕宗曰く、「陛下は物類すべからざるを以てし、貴を以て貴を承け、賤を以て賤を襲わしむべからず。」帝曰く、「若し高明卓爾、才具俊出する者あらば、朕も亦た此の例に拘わらず。」後に本州中正と為る。
二十一年、車駕南征し、顕宗を以て右軍府長史・統軍と為す。赭陽に次ぐ。斉の戍主成公期、其の軍主胡松・高法援等を遣わし、並びに蛮賊を引き来たりて軍営を撃つ。顕宗拒戦し、法援の首を斬る。顕宗新野に至る。帝曰く、「何ぞ露布を作さざる。」顕宗曰く、「臣頃に鎮南将軍王肅が賊二三、驢馬数匹を獲るを見るに、皆な露布と為す。臣東観に在り、私に毎に之を哂う。近く雖も威霊を仰憑し、醜虜を摧くを得たりと雖も、兵寡く力弱く、禽斬多く無し。脱し復た長縑を高曳し、功捷を虚張せば、尤みて之に效わば、其の罪弥甚だし。所以に毫を斂め帛を巻き、解上するのみ。」帝笑いて曰く、「卿が此の勳の如きは、誠に茅社に合すべし、須らく赭陽平定を俟ち、検審して相酬わん。」新野平ぐ。顕宗を以て鎮南広陽王嘉の諮議参軍と為す。顕宗上表し、頗る自ら矜伐し、前の征勳を訴う。詔して曰く、「顕宗進退に檢無く、我が清風を虧く、尚書に付して推列して以て聞かしめよ。」兼尚書張彝、顕宗の官を免ずるを奏す。詔して白衣を以て諮議を守らしめ、其の後効を展ばさしむ。顕宗既に意を失い、信に遇い洛に向かうに及び、乃ち五言詩を作り御史中尉李彪に贈り、以て憤結を申す。二十三年卒す。顕宗馮氏の『燕志』・『孝友伝』各十巻を撰す。景明初、赭陽の勳を追い、爵を章武男と賜う。子伯華襲ぐ。
程駿、字は驎駒、本は広平曲安の人なり。六世の祖良、晋の都水使者、事に坐して涼州に流さる。祖父肇、呂光の人部尚書。駿少くして孤貧、喪に居りて孝を以て称さる。劉延明に師事し、性機敏にして学を好み、昼夜倦むこと無し。延明門人に謂いて曰く、「一隅を挙げて以て三隅を反す者は、此の子之に亜ぐ。」駿延明に白して曰く、「今名教の儒は、咸に老荘の其の言虚誕にして、実要に切せず、以て世を経るべからずと謂う。駿は然らずと為す。夫れ老子は抱一の言を著し、荘生は性本の旨を申す、斯の如き者は、至順と謂うべし。人若し一に乖けば、則ち煩偽生じ、性を爽くすれば、則ち沖真喪わる。」延明曰く、「卿年尚幼し、言老成の若し、美哉。」是に由りて声譽益播る。沮渠牧犍之を擢て東宮侍講と為す。
太延五年、涼州平ぐ、京師に遷す。 司徒 崔浩の知る所と為る。文成践阼し、著作郎と為る。皇興中、高密太守を除く。尚書李敷、駿実に史才有り、方に直筆を申さんとすと奏し、之を留めんことを請う。書奏し、之に従う。献文帝屡ひ駿を引きて『易』・『老』の義を論じ、顧みて群臣に謂いて曰く、「朕此人と言う、意甚だ開暢なり。」駿の年を問う。対えて曰く、「六十一。」帝曰く、「昔太公老いて文王に遭う、卿今朕に遇う、豈に早からざらんや。」駿曰く、「臣雖も才呂望に謝す、陛下の尊西伯を過ぐ。天の余年を仮するを覬い、『六韜』の效を竭さん。」
延興の末、高麗王璉が掖庭に女を納めることを求め、駿を 散騎常侍 に仮任し、安豊男の爵を賜い、節を持って高麗に赴き女を迎えさせた。駿は平壤城に至る。或る者が璉を勧めて曰く、「魏は昔、燕と婚姻を結びながら、後にこれを伐った。それは行人がその夷険を具にしたからである。今もし女を送れば、馮氏と異ならざることを恐れる」と。璉は遂に偽って女の喪を言う。駿と璉は往復すること経年、義方を以て璉を責む。璉はその忿りに耐えず、遂に駿の従者の酒食を断ち、これを逼辱せんと欲したが、憚って敢えて害せず。会に献文が崩じ、乃ち還る。秘書令に拝す。
初め、神主を太廟に遷すに当たり、有司が奏上して、旧事によれば、廟中の執事官は例として皆爵を賜う。今は宜しく旧事に依るべしと。詔して百寮に評議せしむると、群臣咸く旧事に依るべしと為す。駿独り以て不可と為し、表して曰く、「臣聞く、名器は帝王の貴ぶ所、山河は区夏の重きものなり。是を以て漢祖に約有り、功無くば侯せずと。未だ宗廟に事に預かりて、疆土に賞を受くるを見ず。復た帝王の制作と雖も、相沿襲せず。然れども一時の恩沢、豈に長世の軌と為すに足らんや」と。書奏して、これに従う。文明太后、群臣に謂いて曰く、「事を言うは、固より正直にして古典に准うべし。安ぞ暫時の旧事に依附すべきや」と。駿に衣一襲、帛二百匹を賜う。又詔して曰く、「駿の歴官は清慎にして、事を言う毎に愜う。門に挟貨の賓無く、室に道を懐うるの士有り。帛六百匹を賜うべし。その儉徳を旌せよ」と。駿は悉くこれを親旧に散ず。
性、介直にして、時栄を競わず。太和九年正月、病篤く、遺命して曰く、「吾が存するに尚お儉薄なり。豈に没して奢厚と為すべけんや。昔、王孫裸葬、感有りて然るなり。士安籧篨、頗る亦矯厲す。時服を以て斂うべく、明器は古に従え」と。初め駿の病甚だ篤きに、孝文・文明太后、使者を遣わして更にその疾を問わしめ、侍御師徐謇に勅して診視せしめ、湯薬を賜う。臨終に、詔して小子公称を中散とし、従子霊虯を著作佐郎とす。及び卒すや、孝文・文明太后これを傷惜す。東園秘器・朝服一称・帛三百匹を賜い、兗州刺史・曲安侯を贈り、諡して憲と曰う。所作の文章は、自ら集録有り。
李彪、字は道固、頓丘衛国の人也。孝文の賜う名なり。家は寒微、少くして孤貧、大志有り、学を好み倦まず。初め長楽監伯陽に業を受く。伯陽これを称美す。晩に漁陽の高悦・北平の陽尼等と将に名山に隠れんとす。果たさずして罷む。悦の兄閭は博学高才、家に典籍富み、彪は遂に悦の家に於いて手写し口誦し、寝食する暇無し。既にして郷里に還る。平原王陸睿、年将に弱冠、雅に志業有り。東徐州刺史博陵崔鑒の女を娶り、路冀・相を由る。彪の名を聞きてこれに詣る。師友の礼を修め、これを州郡に称す。遂に孝廉に挙げられ、京師に至り、館して業を受く。高閭これを朝貴に称し、李沖これを礼すること其れ厚く、彪深く宗附す。
孝文の初、中書教学博士と為る。後、 散騎常侍 ・衛国子を仮し、斉に使す。秘書丞に遷り、著作事に参ず。成帝以来、太和に至るまで、崔浩・高允国書を著述し、編年序録して『春秋』の体と為すも、時事を遺落す。彪と秘書令高祐始めて遷・固の体に従うことを奏し、紀・伝・表・志の目を創む。
古の先哲王の制を為すや、天子より公卿に至り、下は抱関撃柝に及ぶまで、その宮室車服、各々差品有り。小は大を僭せず、賤は貴を踰えず。夫れ然る故に上下序にして人の志定まる。今時、浮華相競い、情常守無し。大いに功を消すの物、巨に力を費やすの事、豈に謬ならざらんや。夫れ功を消す者は、錦繡彫文是れなり。力を費やす者は、広宅高宇、壮制麗飾是れなり。その男業を妨げ女工を害する者、言うに勝えんや。漢文の時、賈誼疏を上り、今の王政長太息すべきもの六と云う。此れ即ち其の一なり。夫れ上の好む所、下必ずこれに従う。故に越王勇を好めば士多く軽死し、楚王瘠を好めば国に饑人あり。今二聖躬り儉素を行い、詔令殷勤なるも、而して百姓の奢未だ革まざるは、豈に楚・越の人の易く変ずること彼の如く、大魏の士の難く化すること此の如きや。此れ蓋し朝制宣べられず、人未だ徳を見ざるがこれを然らしむるなり。臣愚かに以為う、第宅車服、百官以下庶人に至るまで、宜しく其の等制を為すべし。貴は賤を逼さず、卑は高を僭せず、以て其の侈意に称し、用いて経典に違うべからざらしむべし。
『易』に称す、「器を主る者は長子に若くは莫し」と。『伝』に曰く、「太子は塚嫡の粢盛を奉ず」と。然らば則ち祭に主無ければ宗廟饗うる所無く、塚嫡廃すれば則ち神器伝うる所無し。聖賢其の此の如きを知り、故に誥を垂れて以て長世の法と為す。昔、姬王此の道を得たり。故に儒術を恢崇して以て世嫡を訓う。世嫡是れに於いて習いて懿徳を成し、用て大いに黎蒸に協う。是を以て世統黎元、祀八百を載す。逮う嬴氏の秦に君たるや、義方を以て厥の塚子を教えず。塚子是れに於いて習いて凶徳を成し、肆虐を以て黔首に臨む。是を以て饗年永からず、二世にして亡ぶ。亡ぶと興ると、道は師傅に在り。故に『礼』に云う、「塚子生るるや、因りて礼を挙げて、士をして之を負わしめ、有司斉粛端冕して、南郊に見ゆ」と。塚嫡の重きを明かにし、天に現わるるなり。「闕を過ぐれば則ち下り、廟を過ぐれば則ち趨る」と。孝敬の道を明かにすなり。然れども古の太子、赤子たるより教固より以て行わる。此れ則ち遠世の鏡なり。高宗文成皇帝、少時の師の教えを勤めざるを慨き、嘗て群臣に謂いて曰く、「朕学を始めし日、年尚お幼沖、情専らに能わず。既に万機に臨み、温習する遑あらず。今これを思うに、豈に唯だ予が咎のみならんや、抑も亦師傅の勤めざるなり」と。尚書李䐶冠を免じて謝す。此れ則ち近日の鑑とすべきなり。伏して惟うに、太皇太后は高宗を翼賛し、顕祖を訓成し、巍巍たるの功をして、邈乎として前王にせしむ。陛下幼くより鞠誨を受け、聖敬日躋し、及び儲宮誕育するや、復た親しく撫誨し、日省月課し、実に神慮を労す。今誠に宜しく古に准いて師傅を立て、以て太子を詔導すべし。詔導正しければ則ち太子正しく、太子正しければ則ち皇家慶有り、皇家慶有れば則ち人事幸甚なり。
『記』に云う、国に三年の儲えなければ、国その国に非ずと謂う。光武帝は一畝の実らざるを以て、牧守に罪を及ぼす。聖人の世を憂い穀を重んずるは、殷勤にして彼の如く、明君の人を恤み農を勧むるは、相切にして此の如し。近年山東に飢え、去歳京師に儉し、内外の人庶、出入して豊に就く。既に営産を廃し、疲困乃ち加わり、又国体に於いて、実に虚損有り。若し先に多く穀を積み、安んじて之を与うれば、豈に老弱を駆督し、口を糊するを千里の外にせんや。今を以て古に況せば、誠に懼るべし。臣以為う、州郡の常調九分の二を析き、京都の度支歳用の余りを、各官司を立てるべし。年豊なれば糴して倉に積み、時儉なれば則ち私の二を加え、人に糶すべし。此くの如くすれば、人は必ず田に事えて官絹を買い、又財を貯めて官粟を取らんと務めん。年登れば則ち常に積み、歳凶なれば則ち直に給す。又別に農官を立て、州郡の戸十分の一を取って屯人と為すべし。水陸の宜しきを相い、頃畝の数を料り、贓贖雑物余財を以て牛を市い科して給し、其の力を肆わしむべし。一夫の田、歳に六十斛を責め、其の正課並びに征戍雑役を甄るべし。此の二事を行えば、数年の中に、則ち穀積みて人足り、災有りと雖も害せず。
臣又聞く、前代の明王は皆遠人を懐かしむるを務め、賢を礼し滞を引く。故に漢高は趙に過ぎ、楽毅の胄を求め、晋武は廓定し、呉・蜀の彦を旌す。臣謂う、河表七州の人の中に於いて、其の門才を擢き、引いて闕に赴かしめ、中州の官比に依り、能に随いて之を序すべし。一には聖朝の新旧を均しくするの義を広むる可く、二には江・漢の有道に帰するの情を懐かしむる可し。
漢の制、旧に獄を断じて重きを報ずるは季冬を尽くし、孝章の時に至りて十月を尽くすに改め、以て三微を育す。後歳旱し、論者十月を尽くさずして獄を断ずるを以て、陰気微にして陽気泄る、以て故に旱を致すとす。事公卿に下る。尚書陳寵曰く、「冬至に陽気始めて萌し、故に十一月に射幹・芸・荔の応有り、周は以て春と為す。十二月に陽気上通し、雉雊き鶏乳す、殷は以て春と為す。十三月に陽気已に至り、蟄虫皆震う、夏は以て春と為す。三微成りて著しく、以て三統を通ず。三統の月に獄を断じて流血するは、是れ天意を稽えざるなり。」と。章帝其の言を善しとし、卒に十月に断ず。今京都及び四方に獄を断じて重きを報ずるは、常に季冬を竟く、三正を推して三微を育さず。寬宥の情、毎に昔に過ぎ、之に遵う典憲、猶或いは闕然たり。今豈に所謂陽を助けて発生し、微に奉ずるの仁を垂るるというや。誠に宜しく遠く周典を稽え、近く漢制を采り、天下に獄を断ずるは初秋より起り、孟冬に尽くすべし。三統の春に於いて、斬絞の刑を行わず。此くの如くすれば則ち道幽顕に協い、仁後昆に垂れん。
古えに大臣坐して廉ならずして廃せられる者有り、廉ならずと謂わず、乃ち簠簋飾らずと曰う。此れ君の以て貴臣を礼し、其の過ちを明言せざる所以なり。臣に大譴有れば、則ち白冠氂纓盤水に剣を加え、室に造りて死を請う。此れ臣の以て罪を知りて敢えて刑を逃れざる所以なり。聖朝大臣を賓遇するや、礼古典を崇ぶ。太和より降り、罪を負いて大辟に当たるべき者、多く帰第して自尽するを得たり。遣わすの日、深く隠湣を垂れ、言発して淒泪す。百官見ざる莫く、四海聞かざる莫し。誠に将死の心を感ぜしめ、戚属の情を慰むるに足る。然れども恩は衷より発し、未だ永制を著さず。此れ愚臣の以て敢えて末見を陳ぶる所以なり。
昔漢文の時、人丞相勃の謀反を告ぐる者有り、逮えて長安の獄に系し、頓辱するに皁隸と同し。賈誼乃ち上書し、極めて君臣の義を陳べ、是の如くすべからざるを陳ぶ。夫れ貴臣なる者は、天子其の為に容を改めて体貌し、吏人其の為に共に俯伏して敬貴す。其の罪過有れば、之を廃するは可なり、之に死を賜うは可なり。若し之を束縛し、之を司寇に輸し、之を搒笞し、小吏之を詈罵するは、殆ど以て衆庶に見せしむる所以に非ざるなり。将に刑せんとするに及び、臣は則ち北面して再拝し、跪いて自裁す。天子曰く、「子大夫自ら過ち有るのみ、吾子に遇うに礼有り。上人をして抑えて之を刑せしめず。」と。孝文深く其の言を納る。是れより後、大臣罪有る者は、皆自殺して刑を受けず。孝武の時に至り、稍々復た獄に下る。良に孝文之を行えるも、当時にして永制と為さざるが故なるのみ。今天下道有り、庶人の議わざるの時、安んぞ朝に瞽言を陳ぶべけんや。且つ万世の後、体を継ぐの主、漢武の事有るが若き有らんことを恐る。焉んぞ恩を行えて当時にし、長世の制を著さざらんや。
『孝経』に父子の道は天性と称す。蓋し一体にして同気なるを明らかにし、共にす可くして離る可からざる者なり。其の罪有りて相及ばざるに至りては、乃ち君上の厚恩なり。而して情無きの人、父兄獄に係るも、子弟惨惕の容無く、子弟即ち刑せらるるも、父兄愧恧の色無し。宴安して栄位にあり、游従自若たり。軍馬仍華にして、衣冠猶飾る。寧んぞ同体共気、憂を分かち戚を均しくするの理なるや。臣愚かに以為う、父兄犯有れば、宜しく子弟に素服肉袒せしめ、闕に詣でて罪を請わしむべし。子弟坐有れば、宜しく父兄に露板して咎を引き、所司の解くを乞わしむべし。若し職任必要にして、許すべからざるは、慰勉して留むべし。此くの如くすれば、凡薄を敦厲するに足り、人をして恥ずる所有るを知らしめん。
『礼』に云う、臣大喪有れば、君三年其の門を呼ばず。此れ聖人の情に縁り礼を制し、以て孝子の情を終わらしむるなり。周季陵夷し、喪礼稍々亡ぶ。是を以て要糸至りて即戎し、素冠刺を作す。虐秦に逮うるや、殆ど皆泯ぶ。漢初、軍旅屡興し、古に遵う能わず。宣帝の時に至り、人軍に従い屯すべき者、大父母・父母の死に遭い、未だ三月に満たざるは、皆徭役せず。其の朝臣の喪制、未だ定聞有らず。後漢元初の中に至り、大臣重憂有りて、始めて去官して終服するを得たり。魏武・孫・劉の世に暨び、日々干戈を尋ね、前世の礼制、復た廃れて行われず。晋の時、鴻臚鄭默親に喪有り、固く終服を請う。武帝其の孝誠に感じ、遂に令を著して常と為す。
聖魏の初、乱を撥ぎ正に反す。未だ遑あらずして終喪の制を建つ。今四方虞無く、百姓安逸す。誠に孝慈の道洽わり、礼教の興行するの日なり。然れども愚臣の懐く所、窃かに尽くさざる有り。伏して見るに、朝臣大憂に丁る者、仮満して職に赴き、錦を衣て軒に乗り、郊廟の祀に従い、玉を鳴らし緌を垂れ、節慶の宴に同じうす。人子の道を傷つけ、天地の経を虧く。愚謂う、父母の喪に遭う者有れば、皆終服を得しむべし。若し其の人無くして官曠くる有れば、則ち優旨を以て慰喻し、起して事を視せしむべし。但だ所司を綜理し、出納を敷奏するのみにて、国の吉慶には、一に預からしむる無し。其の軍戎の警有れば、墨縗して役に従う。礼に愆ると雖も、事の行う宜き所なり。
帝覧て之を善しとし、尋いで皆施行す。彪稍々礼遇を見る。詔して曰く、「彪は宿に清第に非ず、代に華資を闕くといえども、然れども識性厳聡にして、学墳籍に博く、剛弁の才、頗る時に用いるに堪う。吏職に優なるを兼ね、朝美を載せ宣ぶ。若し庸を賞し績を叙せずんば、将に何を以て勤能を勧奨せん。特に秘書令に遷す。律令を参議するの勤を以て、帛五百匹、馬一匹、牛二頭を賜う。」と。其の年、員外 散騎常侍 を加え、斉に使わす。
斉はその主客郎劉繪を派遣して応接させ、宴楽を設けた。李彪は音楽を辞退した。席に着くと、李彪は言った、「先ほど音楽を辞退したのは、貴殿がまだご理解いただけていないからであろう。我が皇帝は天性の孝心により、先帝を追慕して限りなく、故に今日の喪除けの議論があるのである。去る三月の晦日、朝臣は初めて縗裳を除いたが、なお素服で政務に従事している。裴・謝(南朝の使者)が北方にいる以上、当然このことを心得ているはずである。今音楽を辞退するのは、貴殿も怪しまないと思う」。劉繪は答えて言った、「魏朝の喪礼は結局何に依拠しているのかお尋ねしたい」。李彪は言った、「高宗(北魏文成帝)は三年喪、孝文帝は一ヶ月を超えた。今聖上は養育の深恩を追慕し、慈訓の厚徳に感じて、殷と漢の間に報いるもので、礼の変を得たと言えよう」。劉繪はまた問うた、「もし古に従おうとするなら、なぜ三年を終えないのか」。李彪は言った、「万機は久しく空しくすべきでないから、至慕の情を断ち切って、群臣の議に従うのである。喪服を変えることは三年と異ならず、期限を一期に定めるのは、礼を失うと言えようか」。劉繪は言った、「汰(大)なるかな叔氏(李彪)、専ら礼をもって人を許す」。李彪は言った、「聖朝自らが曠代の制を為すのであって、どうして人を許すことに関わるのか」。劉繪は言った、「百官がみな己を総べて塚宰に聴くならば、万機が空しくあることを何ぞ慮れん」。李彪は言った、「五帝の臣は、君に及ばないから、君自らその事を攬る。三王の君臣は智が等しいから、共に機務を治める。主上が親ら攬るのは、軒轅・堯の遠き軌跡に倣うものである」。李彪が帰還しようとしたとき、斉の主(武帝)は親ら李彪に言った、「卿が以前使節として帰還した日に、阮籍の詩を賦して云った、'ただ願わくは長く閑暇にして、後歳また来りて遊ばん'。果たして今日のようになった。卿が今回帰るにあたり、また来る道理があるか」。李彪は答えて言った、「重ねて阮籍の詩を賦します、'宴衍清都の中、一去して永くや'」。斉の主は惘然として言った、「清都(洛陽)はそのようにあるとして、一去することが何事か!卿のこの言葉を見るに、長き別れとなりそうだ。朕は殊礼をもって見送りとしよう」。そこで親ら琅邪城に至り、山に登り水に臨み、群臣に命じて詩を賦させて別れを送らせた。そのように重んぜられたのである。李彪は前後六度使命を帯び、南人はその剛直博学を奇とした。後に御史中尉となり、著作郎を領した。
李彪は孝文帝に寵愛された上に、性格もまた剛直であったから、多くを弾劾糾挙し、遠近これを畏れた。豪族は息を潜めた。帝は常に李生と呼び、従容として群臣に言った、「我に李生あるは、漢に汲黯あるがごとし」。後に 散騎常侍 に除され、御史中尉を領し、著作の職務を解かれた。帝は流化池で群臣を宴し、僕射李沖に言った、「崔光の博識、李彪の剛直、これこそ我が国が賢を得る基である」。
車駕が南征すると、李彪は度支尚書を兼ね、僕射李沖・任城王澄らと共に留台の事務を参理した。李彪は元来剛直で豪放な性格であり、李沖らと意見が合わず、遂に声色に現れ、少しもへりくだる心がなかった。李沖はその前後の罪過を積み重ね、尚書省で李彪を拘禁し、上表して言った、「臣が案ずるに、李彪はかつて凡品の中にあって、特に才能により抜擢され、清華の望みに等しく、東観で文を司り、恩眷に綢繆し、憲台を厳正にし、左に金璫を加え、右に蟬冕を珥した。東省(尚書省)においては、恩に感じ節を励まし、忠をもって徳に報いるべきである。しかるに名を窃み職を辱しめ、身をもって違傲をなし、勢いを矜り高ぶり、公然と僭越放逸を行った。禁省に坐して官の材木を冒して取り、軽々しく乗黄(天子の車)を駕し、何ら憚るところがない。志を肆にして傲然とし、愚聾のごとく視聴する。これが忍びられるなら、誰が懐かぬことがあろうか。臣は今、見る事実をもって李彪の居る職を免じ、廷尉の獄に付することを請う」。李沖はまた上表して言った、
臣が李彪と相識って以来、垂二十二年になる。李彪が初めて南朝に使した時、その色厲辞辯を見て、臣の愚かな見識では、抜きん出た一人であると思った。李彪が官位昇達し、言宴に参与するようになってから、李彪が古今を平章し、人物を商略するのを聞いた。侍筵の席で言葉を発し、衆英の中で論を啓く。忠を賞し正を識り、発言は懇切で、ただ直を語り、言葉に隠避するところがなかった。臣は下愚ながら、その正直を欽んだ。その司直(御史中尉)に初めて居た時、志を執って直行し、その弾劾するところは、弦に応じて倒れた。赫々たる威は下国に振るい、粛々たる称は京師に著しく、天下は目を改め、貪暴な者は皆手を束ねた。しかし時に臣に私的にその威暴を云う者があったが、臣は直繩の官は人の忌み疾むところであり、風謗の際には音謠が生じやすいと考え、心に承信しなかった。
往年、河陽の事で、曾て李彪と領軍府で共に太尉・ 司空 及び領軍諸卿らと集まり、廷尉の尋問した囚徒を閲した。時に冤罪を訴える者がおり、二公及び臣は少し聞き取りたいと思った。語理が未だ尽きないうちに、李彪は振り怒り、東の座で袂を攘げて赫(怒り)を揮い、口に賊奴と称し、左右を叱吒した。高声大呼して言うには、「南台(御史台)から我が木手を取って来い、奴の肋骨を折ってやれ!」。この言葉はあったが、結局取ることはなかった。即ち言うには、「南台の尋問は、ただ冤罪で生きることを恐れ、終に冤罪で死ぬことはない」。時に諸人はその冤罪が甚だ重く、自首して実を言う者が多いことから、また李彪を難じる気持ちがあり、遂に各々黙してしまった。この事に因って、臣は遂に濫りがあることを疑い、その威虐を知った。それでも益多く損少ないと思い、故に申し上げて徹(通)さず、実に臣として知る無きを聞かざるの義を失った。去年の大駕南行以来、李彪が尚書を兼ね、日夕共に事に当たり、始めてその言と行いが食い違い、己を是とし人を非とし、専恣無忌憚、身を尊び物を忽(軽)にすることを知った。臣と任城王は卑躬曲己し、その欲するところは屈従しないことはなかった。事に依って実を求めれば、悉く成る験(証拠)がある。もし臣の列挙する事実が真実ならば、急ぎ李彪を有北(北方の辺地)に投じて、奸矯の乱政を除くべきである。もし臣の列挙に証拠がなければ、臣を四裔に放って、青蠅の白黒(讒言による汚れ)を止めるべきである。
帝は懸瓠におり、上表を覧て歎愕して言った、「どうして留京がこのようなことになったのか!」。有司は李彪に大辟の刑を処すべきとしたが、帝はこれを許し、除名のみとした。
李彪は間もなく本郷に帰った。帝が北へ鄴に幸すると、李彪は野服で草茅の臣と称し、鄴の南で拝迎した。帝は言った、「朕は卿が既に死んだと思っていた」。李彪は答えて言った、「子(孔子)が生きておられるのに、回(顔回)何ぞ敢えて死なん」。帝は悦び、因って言った、「朕は卿に常に貞松を志とし、歳寒を心とすことを期した。卿は国に報い、心を尽くして用いられるべきであったのに、近頃見た弾劾文は、全くその所以に反する。卿がこの譴責を受けたのは、朕と卿のためか?宰事(宰相の職務)のためか?卿自ら取ったのか」。李彪は言った、「臣の過ちは己から来て、罪は自ら招いたものであり、実に陛下が横に臣に罪を与えたのではなく、また宰事が無辜に臣を濫りにしたのでもない。臣の罪は既にこのようであるから、東皋の下に伏すべきであり、遠く属車の清塵を点ずるべきではない。ただ聖躬が不 豫 (ご病気)と承るに及び、臣は肝胆地に塗れんばかりであり、故に敢えて至ったのであって、罪を謝するために来たのではない」。帝は言った、「朕は卿を用いたかったが、李僕射(李沖)を思い出してできなかった」。帝は間もなく宋弁の言葉を容れ、再び採用しようとした。留台からの上表が届き、李彪が御史賈尚と共に庶人恂(元恂)の事を窮めて尋問し、理に誣げ抑えられたところがあると奏請して李彪を収監するよう求めた。李彪は自ら事が冤罪であると訴え、帝は李彪にそのようなことがないと明らかにし、左右を遣わして慰勉した。牛車で散載させて洛陽に送ることを許した。赦令に会って免罪となった。
宣武帝が即位すると、李彪は王肅に託り、また郭祚・崔光・劉芳・甄琛・邢巒らと詩書を往来し、互いに称え重んじた。因って旧職への復帰と史官の事を修めることを論じて求め、王肅らは左右(援助)すると約した。李彪は乃ち上表して言った、
我が皇魏が中華を覆うこと、歳は百齢を越え、年は十紀に近し。史官の叙録、未だ其の盛を充たさず。これに東観中に圮ち、冊勳闕あり、美は日に随いて落ち、善は月に因りて稀なり。故に諺に曰く、「一日書かざれば、百事荒蕪す」と。太和の十一年に至り、先帝、先後名儒博達の士を召し、以て麟閣の選を充す。時に臣の衆短を忘れ、臣の片志を採り、臣に出納を令し、臣に丞職を授け、猥かに斯の事に属し、与に譲る所なし。高祖時に詔して臣に曰く、「爾が雅志を平らげ、爾が筆端を正せ。書いて法たらざれば、後世何をか観ん」と。臣奉じて周旋し、敢えて失墜せず。
伏して惟うに、孝文皇帝は天地の宝を承け、祖宗の業を崇ぶ。景功未だ就かず、奄焉として崩殂す。凡百の黎萌、天地なきが若し。陛下に遇うを頼み、明睿の真を体し、保合の量に応じ、大明を恢めて以て物を燭し、静恭を履んで以て邦を和す。天は其の気を清め、地は其の静を楽む。重明疊聖と謂うべく、元首康なるかな。『記』に曰く、「善く跡する者は人に其の行を継がしめ、善く歌う者は人に其の声を継がしめんと欲す」と。故に『伝』に曰く、「文王これを基とし、周公これを成す」と。然れども先皇の茂勳聖達、今王の懿美洞鑒、前に代を準うれば、其の徳悔い無し。時なるかな時なるかな、光昭せざるべけんや。二儀に徳を合するは、先皇の陶鈞なり。日月に明を斉うるは、先皇の洞照なり。四時に慮を周うるは、先皇の茂功なり。鬼神に契を合するは、先皇の玄燭なり。都を遷し邑を改むるは、先皇の達なり。是を変えて協和するは、先皇の鑒なり。書軌に思いを同じうするは、先皇の遠なり。四夷に守るは、先皇の略なり。海外截有るは、先皇の威なり。礼岐陽に由るは、先皇の義なり。楽を岱郊に張るは、先皇の仁なり。鑾幽漠に幸するは、先皇の智なり。南荊を燮伐するは、先皇の礼なり。中に升り成を告ぐるは、先皇の肅なり。宗社に親虔するは、先皇の敬なり。兗実闕無きは、先皇の徳なり。物を開き務を成すは、先皇の貞なり。人文を観るは、先皇の蘊なり。弊を革め新を創るは、先皇の志なり。孝慈道洽むは、先皇の衷なり。先皇に大功二十あり、これに謙尊にして光り、為して有たざるを加うれば、四三皇にして六五帝なりと謂うべし。誠に宜しく功を竹素に書き、声を金石に播くべし。
臣窃かに謂う、史官の達する者は、大なるは則ち日月と其の明を斉うし、小なるは則ち四時と並び其の茂し。故に能く声を無窮に流し、義を来裔に昭す。是を以て金石は滅すべく、而も風流泯まざるは、其れ唯だ載籍か。諺に曰く、「相門に相有り、将門に将有り」と。斯れ其の性のみに非ず、蓋し習いの得る所を言うなり。窃かに謂う、天文の官、太史の職、もし其の人あらば、宜しく其の世を継ぐべし。是を以て談・遷は世事にして功立ち、彪・固は世事にして名成る。此れ乃ち前鑒の軌轍、後鏡の蓍亀なり。然れども前代史官の業を終えざる者は、皆陵遲の世にして、善を容るる能わざるなり。是を以て平子は史を去りて賦を成し、伯喈は閣に違いて志に就く。近き僭 晉 の世に、佐郎王隱有り、著作虞預に毀せられ、官を亡くして家に在り。晝は則ち樵薪して爨を供し、夜は則ち文を観て綴を属し、『 晉 書』を集成し、一代の事を存す。司馬紹、尚書に勅して唯だ筆劄を給するのみ。国の大籍、私家に成る。末世の弊、乃ち此くの如きに至る。此れ史官の時に遇わざるなり。今大魏の史は、職は則ち身貴く、祿は則ち親栄え、優哉遊哉、式穀爾を令して休まん。而るに典謨恢めざるは、其れ以て有るなり。而して故著作漁陽の傅毗、北平の陽尼、河間の邢産、広平の宋弁、昌黎の韓顯宗並びに文才を以て挙げられ、注述は是に同じ。並びに年を登せず永からず、茂績を終えず。前著作程霊虯同時に応挙し、共に此の務を掌る。今他職に徙し、官司に非ず。唯だ著作崔光一人、任を移さざれども、然れども侍官両兼す。故に載述闕を致す。
臣聞く、載籍の興るは、大業に由り、雅頌の薦に垂るるは、徳美に起る。昔し史談其の子遷に誡めて曰く、「当世に美有りて書かざれば、汝が罪なり」と。是を以て久しくして美を見る。孔明蜀に在り、史官を以て留意せず。是を以て久しくして譏を受く。『書』に「庶官を曠くす無かれ」と称し、『詩』に「職其の憂いを思う」と有り。臣今司に非ざれども、然れども昔斯の任に忝くす。故に草茅を以て自ら疏せず、敢えて此に言及す。語に曰く、「患えは之を為す者は必ずしも知らず、之を知る者は為すを得ず」と。臣誠に知らず、強いて之を為さんと欲するのみ。窃かに尋ぬるに、先朝臣に名彪を賜うは、遠くは則ち『漢史』の叔皮に擬し、近くは則ち『 晉 史』の紹統に准う。名を推し義を求め、罷めんと欲するも能わず。今都下に求めて一静処を乞い、国籍を綜理し、以て前志を終えん。官事力を給し、以て須うる所を充たせ。大録を光啓する能わざれども、庶幾くは飽食終日せざらん。近くは則ち期月に就く可く、遠くは則ち三年に成る有らん。正本は麟閣に蘊め、副貳は名山に蔵せん。
時に 司空 北海王詳、 尚書令 王肅之を許す。肅其の祿無きを以て、頗る相賑餉す。遂に秘書省に在り、王隱の故事に同じ、白衣にて史を修む。
宣武親政す。崔光表して曰く、「臣昔彪に致され、之と同業積年、其の志力貞強、考述倦むこと無し。頃来契闊し、多く廃離す。近く蒙り起用せられ、還り厥の事を綜す。老いて弥厲し、史才日新なり。若し旧職を克復し、専功殆まず、必ずや能く『春秋』を昭明し、皇籍を闡成せん。既に先帝厚く委ね、宿歴高班す。纖負微愆、応に滌洗に従うべし。愚謂う、宜しく常伯を以て申し、正しく著作を綰くべし」と。宣武許さず。詔して彪を通直 散騎常侍 を兼ね、汾州事を行わしむ。彪の好む所に非ず、固く請うて行かず。洛陽に卒す。
初め彪中尉と為り、号して厳酷とす。奸款得難きを以て、乃ち木手を為りて其の脅腋を撃つ。気絶して復属する者時に有り。又汾州の叛胡を慰諭し、其の凶渠を得て、皆面を鞭ちて之を殺す。彪病むに及び、体上往々にして瘡潰れ、痛毒備極す。汾州刺史を贈り、諡して剛憲と曰う。彪秘書に在ること歳余、史業竟に未だ就くに及ばず。然れども区画書体するは、皆彪の功なり。『春秋三伝』を述べ、合せて十巻を成す。其の余詩頌賦誄章表を著すは別に集有り。
彪宋弁と管・鮑の交を結ぶと雖も、弁大中正と為り、孝文と私議し、猶以て寒地を以て之を処し、微かに相優仮せんと欲せず。彪亦之を知り、恨みと為さず。弁卒す。彪之を痛むこと已む無く、之が為に哀誄を為し、辛酸を備え尽くす。郭祚吏部と為り、彪子の志の為に官を求む。祚乃ち旧第を以て之を処す。彪位常伯に在り、又尚書を兼ぬるを以て、祚応に貴遊を以て之を抜くべしと謂い、深く忿怨を用い、言色に形す。時論此を以て祚を非とす。祚毎に曰く、「爾と義和至友なり、豈に爾を饒りて我を怨まんや」と。任城王澄と彪先も亦穆ならず。雍州と為るに及び、彪澄に詣り、志の為に其の府寮を求む。澄釈然として啓し、列曹行参軍と為るを得。時に澄の美を称す。
志は字を鴻道といい、博学で才幹があり、十余歳にして既に文を綴ることができた。彪はこれを奇異とし、崔鴻に言った、「そなたは鴻道と共に洛陽の二鴻となるがよい」。鴻はそこで彼と親しく交わり往来した。
彪に娘があり、幼くして聡明であった。彪は常にこれを奇異とし、書学を教え、経伝を読誦させた。かつて密かに親しい者に言った、「この子は必ずや我が家を興すであろう、卿らもその力を得るだろう」。彪の没後、宣武帝はその名を聞き、婕妤として召し出した。宮中にあって常に帝の妹に書を教え、経史を誦読し授けた。初め彪は志と婕妤を奇異とし、特に器重して愛した。公私の席上では必ず自ら称揚し詠んだので、これによって孝文帝に重んじられた。彪の没後、婕妤は果たして掖廷に入り、後宮の人々は皆彼女を師と仰いだ。宣武帝の崩御後、比丘尼となり、経義に通暁し、法座で講説すると、諸僧は感歎して重んじた。
志は歴任した官において、いずれも実績を挙げた。桓叔興が外叛すると、南荊州は荒廃した。領軍の元叉がその才能を挙げて撫導に適任とし、抜擢して南荊州刺史とした。建義の初め、叛いて梁に入った。
志の弟の游は、才能と行いがあった。兄の志に従って南荊州におり、爾朱氏の乱に遭遇し、志と共に江左に奔った。子に昶がいる。
昶の小名は那という。性質は峻厳で急であり、交遊を濫りにしなかった。幼年ですでに文を綴ることを理解し、洛下に名声があった。当時洛陽に初めて明堂が設置されると、昶は十数歳で『明堂賦』を作った。十分に優れているとは言えぬまでも、その才と作意は見るべきものがあった。見た者は皆、家風があると言った。初めて周文帝に謁見すると、周文帝は深くこれを奇異とし、手厚く資給を加え、太学に入らせた。周文帝は学生に会うたびに、必ず昶にその才能と行いを尋ねた。昶は神情が清く悟り、応対は明瞭で弁舌が立ち、周文帝は常に称賛した。綏徳公の陸通が盛んに僚属を選ぶにあたり、昶を司馬とするよう請うた。周文帝はこれを許した。昶は年少であったが、陸通は特に待遇を加え、公私の事は全て彼の決断に委ねた。また二千石郎中を兼ね、儀注を掌った。累進して都官郎中、相州大中正となった。昶は郎官の地位にあったが、周文帝は常に書記の任を彼に委ねようとした。そこで丞相府記室参軍・著作郎・国史修撰とし、転じて大行台郎中・中書侍郎、さらに黄門侍郎とし、臨黄県伯に封じた。かつて彼に言った、「卿の祖父は昔、中朝において御史中尉であった。卿は操り尚ぶところが貞固であり、理として家風を墜とすべきではない。ただ孤は中尉が弾劾の官であり、愛憎の所在であるため、直ちに卿に授けなかっただけである。しかしこの職は久しく空位であり、卿に代える者はいない」。そこで昶を御史中尉とするよう奏上し、宇文の姓を賜った。
六官が建てられると、内史下大夫に任じられ、侯に爵位を進めた。明帝の初め、禦伯中大夫を代行した。武成元年、中外府司録に任じられた。保定の初め、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、転じて禦正中大夫となった。当時、近侍の清要な職には盛んに国の英才が選ばれ、昶および安昌西の元則、中都公の陸逞、臨淄公の唐瑾らを並べて納言とした。まもなく公に爵位を進めた。五年、昌州刺史として出向した。州において病を得て、入朝を求めた。詔してこれを許した。京に至らぬうちに卒去した。相州・瀛州の二州刺史を追贈された。
昶は、周文帝の世から既に枢要の任に当たっていた。兵馬の処分は専ら彼に委ねられ、詔冊の文筆は全て昶の作るところであった。晋公の宇文護が政を執ってからも、委任は以前の通りであった。昶は常に言った、「文章の事は、後世に流れるに足らず、国を経め教化を致すことこそ、古人に及ぶことができるであろう」。故に作った文筆は、まったく草稿を残さず、ただ政事に心を留めるのみであった。また父が江南にあり、自身は関右に寓居しているため、幼少から終わるまで、酒を飲み音楽を聴くことはなかった。当時の論はこれをもって称えた。子の丹が後を嗣いだ。
高道悦は、字を文欣といい、遼東新昌の人である。曾祖父の策は、馮跋の 散騎常侍 ・新昌侯であった。祖父の育は、馮弘の建徳令であった。太武帝が東征すると、部を率いて帰順し、建忠将軍・斉郡建徳二郡太守を授けられ、肥如子の爵位を賜った。父の玄起は、武邑太守となり、そこで勃海蓧県に居住した。
道悦は年少の時、中書学生・侍御主文中散となった。後に諫議大夫となり、正色をもって官に当たり、強権を憚らなかった。車駕が南征し、秦・雍の地で兵を徴発し、大々的に秋季に洛陽で閲兵・集結することとなった。道悦は、使者の書侍御史薛聡・侍御史主文中散元志らが期日に違反したことを奏上してその罪を挙げた。また兼左僕射・吏部尚書・任城王の澄は、朝廷の高位にあり、軍機の任に属しながら、兵士の使者が集まるか否かを、かつて検討して奏上しなかったと奏上した。尚書左丞の公孫良は枢轄の職にありながら、蒙昧にして挙げなかった。現状の事実をもって澄・良らの居る官を免ずるよう請うた。当時、道悦の兄の観が外兵郎中であったため、澄は道悦に兄を党する負い目があると奏上した。孝文帝は詔して責めた。しかし事が恩赦を経ていたため、遂に取り上げられず論じられなかった。詔して言った、「道悦は資性忠篤であり、操りを貞亮に受けている。法に居ては平粛の規を樹て、諫に処しては必ず犯す節を著わす。王公はその風骨の鯁直を憚り、朕は実にその一徹さを嘉する。謇諤の誠、何ぞ黯・鮑に愧じようか。主爵下大夫とし、諫議は元の通りとせよ」。
車駕が鄴に行幸した時、また御史中尉を兼ね、洛京を留守した。当時、宮闕は築かれ始めたばかりで、宗廟や倉庫は未だ構築されておらず、車駕は水路で鄴に行幸しようとした。既に都水に命じて構築用の材木を回収させ、舟楫を造らせていた。道悦は上表して諫め、宮殿居宇の工事を欠いて遊嬉の用に供することは、損耗が格段に大きいと考えた。また深淵と浅瀬の危険は、古今共に慎むところである。そこで帝は遂に陸路を行くことに従った。道悦を転じて太子中庶子とし、正色をもって朝廷に立ち、厳然として犯しがたく、宮官上下は皆畏れ憚った。
太和二十年秋、車駕が中嶽に行幸し、詔して太子の恂を金墉城に入居させた。しかし恂は密かに代に戻ることを謀り、道悦が前後して規諫したことを憤り、遂に禁中で彼を殺した。帝は非常に悲しみ惜しみ、 散騎常侍 ・営州刺史を追贈し、併せて使者を遣わしてその妻子を慰め、また詔して使者に喪事を監護させた。旧塋に葬り、諡して貞侯といった。宣武帝はまた忠節を追録し、長子の顕族を給事中に任じた。顕族もまた忠厚をもって称され、右軍将軍の任で卒去した。
顕族の弟の敬猷は、風度があった。蕭宝夤が西征する時、驃騎司馬に引き抜いた。宝夤が謀逆を企てると、敬猷は行台郎中の封偉伯らと共に密かに義挙を図ったが、謀が漏れて殺された。滄州刺史を追贈され、一子に官途につくことを許された。道悦の長兄の嵩は、字を昆侖といい、魏郡太守となった。
嵩の弟の雙は、清河太守となった。賄賂を貪った罪で、市で刑に処せられようとしたが、赦令に遇って免じられた。当時、北海王の詳が録尚書事であったが、雙は多く金宝を納めたので、 司空 長史に任じられた。後に涼州刺史となったが、専ら貪暴をほしいままにし、罪により免官された。後に高肇に賄賂を贈り、再び起用されて幽州刺史となった。貪穢の罪で弾劾されたが、判決前に赦令に遇い、再び任に就いた。間もなく卒去した。
雙の弟の観は、尚書左外兵郎中・城陽王鸞の司馬となった。赭陽に南征した時、先駆けて戦死し、諡して閔といった。
甄琛、字は思伯、中山郡毋極県の人、漢の太保甄邯の後裔である。父の甄凝は州の主簿であった。甄琛は幼少より聡明で悟りが早かった。家門の内では兄弟と戯れふざけ、礼法をもって自らを律することはなかった。経書や史書を学び読み、文筆に長じていると称された。しかし容貌は背が低く醜く、風采は乏しかった。秀才に挙げられ、都に入って数年を経たが、しばしば囲碁に日を費やし、夜通しでもやめなかった。手元に仕える下僕に常に燭を執らせ、時に居眠りをすると大いに杖で打った。このようなことは一度や二度ではなかった。後に奴は痛みに耐えかねて言った。「郎君は父母のもとを離れて官途に就かれたのである。もし読書のために燭を執るのであれば、罪を免れるとは申さぬ。しかし囲碁のために日夜休むことなく、これが都に上るお心であろうか。しかも杖罰を加えられるとは、理不尽ではござらぬか。」甄琛は茫然として恥じ入った。そこで許赤彪から書物を借りて研究し学び、見聞は日増しに優れたものとなった。太和の初め、中書博士に任じられ、諫議大夫に転じた。時に上奏することがあれば、孝文帝にも知られ賞された。宣武帝が即位すると、甄琛を中散大夫とし、兼ねて御史中尉とした。甄琛は上表して言う。
『月令』には、山林や藪沢において、野菜や禽獣を採取できる者は、皆、野虞がこれを教え導く、とある。互いに侵奪する者は、罪を赦さない。これは人を導いて禁じず、有無を通じて互いに助け合うことを明らかにしたものである。『周礼』には川沢の禁があるが、それはまさに資源を枯渇させぬよう防ぐためであり、必ず時を定めて採取させるのである。これはいわゆる公のため保護し、さらに人のためにこれを守るということである。今、天が民衆のために塩を生み出し、国が民衆のためにこれを保護している。仮にその利益を得たとしても、それは富が口元に専有されるだけで、四肢には及ばぬ。かつ天下の夫婦は、毎年粟や絹を貢ぎ、四海の所有は一人に奉仕するために備えられている。軍国に必要な資材は、百姓から取り立てて給する。天子がどうして貧しさを憂え、安易に一つの池を禁じようか。臣はしばしば上古の人を愛する事跡を観、時に中世の重税に関する書を読むが、彼らの遠大さに嘆息し、この近視眼的な狭量さを惜しまぬことはない。今、偽りの弊害が相継ぎ、依然として関市の税を重んじている。大魏の宏大な度量は、穀物と絹帛の納入のみを受けることにある。これによって遠方で聞く者は、皆その徳を称え歌うのである。言葉に、出納の吝嗇は有司の福、恵みを施す難しさは人君の禍、とある。府庫に蔵する物でさえ、施さぬために災いとなるのに、まして府庫外の利益を、どうして民衆に吝しむことができようか。塩の禁令を緩め、豊かに遠くまで行き渡らせることを願う。『周礼』に倣い川衡の法を置き、これを監督し導くだけでよい。
詔して八座に付し、可否を議して奏聞させた。彭城王元勰、兼尚書の邢巒らが上奏した。
甄琛の列挙する所は、ただ坐談すれば理は高くとも、実行すれば事が欠けることを恐れるのみである。ゆえに躊躇し、可とするとは言い難い。ひそかに思うに、大道が去った後、恩恵が生じる。下は上に奉じ、上は下に施し、卑高の理は睦まじい。常に財が国に行き渡らず、恵沢が人に厚く及ばぬことを恐れるが故に、方々を尽くしてその実情を明らかにし、法を立ててその志を行わしめるのである。山沢から貨を取り立てるに至っては、人の貢ぎを軽くするためであり、関市に税を立てるのは、十分の一の蓄えを補うためである。これを取りあちらに与えるのは、己の利のためではない。あちらを回してこちらに就けるのは、身のためではない。いわゆる天地の産物を集め、天地の人に恵みを与え、造物主の富を借りて、造物主の貧しきを救うのである。この泉池を禁ずるのは、太官の御用に専有させぬためであり、この匹帛を皆で分かつのは、後宮の資とするためではあるまい。潤いが己に在らぬならば、彼と我の理は一つであり、積んで散じるのに、どうして吝しむことがあろうか。しかし施行以来、主管する者が多く怠り、出入りの間で事が法の如く行われていない。これは用いる者に方策が無いのであり、興した者に誤りがあるのではない。朝廷の識者がその間の営みを聞くに至らしめた。今これを廃すれば、以前の旨を失うことを恐れる。前の方式に依るべきである。
詔して言う。「塩を司る税は、古より通ずる典である。しかし制度を興して人を利するのは、世によって異なることもある。甄琛の上表は、まさに政を助け俗を輔けるものと言えよう。その前の計略に従うがよい。尚書は厳しく豪強を禁ずる制を為せ。」
詔して甄琛に八座の議事に参与させ、まもなく正しく中尉とした。侍中に転じ、中尉を兼任した。甄琛は眉を伏せて畏れ避け、貴遊を糾弾することができず、弾劾する者は概ね下級官吏であった。当時、趙修が寵愛され貴ぶと、甄琛は身を屈めてこれに仕えた。甄琛の父の甄凝は中散大夫、弟の甄僧林は本州の別駕であったが、皆趙修に頼って取り次ぎを求めた。趙修の奸詐な事が露見し、明日に収監して取り調べるという日に至って、ようやくその罪を挙げたのである。趙修の鞭打ちの刑の執行を監督した時でさえ、まだ隠し哀しむ様子であったが、人に告げて言うには、「趙修は小人で、背中は土牛のようだ、実によく鞭杖に耐える。」識者はこれをもって非難した。趙修が死んだ翌日、甄琛は黄門郎の李憑と共に朋党の罪で召され尚書省に赴いた。兼尚書の元英、邢巒がその阿附の様子を厳しく追及した。かつて甄琛が官を拝した時、賓客が皆集まったが、邢巒は遅れて来た。甄琛が邢巒に「どこで蛆を放って来たのか、今晩になってやっと顧みるのか」と言った。言葉の戯れとはいえ、邢巒は色を変えて憤りを抱いた。この時に至り、大いに推し究めた。 司徒 、録尚書事、北海王元詳らが上奏して言う。
謹んで案ずるに、侍中、領御史中尉の甄琛は、直法の職に身を置き、糾弾摘発を司どるべき者である。風俗が邪で響きが汚れていても、なお弾劾糾すべきである。まして趙修が公を侵し私を害し、朝野が切歯しているのに、甄琛はかつて陳奏せず、かえって往来し、内外に影響を与えて、その談論と称賛を招いた。布衣の父をして、正四品の官に超登させ、七品の弟をして、三階の禄を越えて陟らせた。先皇の選挙の典を損ない、聖明の官人選を汚した。また黄門郎の李憑と相表裏を為した。李憑の兄が封を叨るのを知りながら言わなかった。趙修の罪悪が顕わになってから、ようやく弾奏を加えたのである。生きている時はその勢力に附き、死ぬと即座にこれを排斥する。天の功を窃り、己の力と為し、上は朝廷を欺き、下は百官を罔く。その鄙劣で詐りの行為は、ここに甚だしい。謹んで律に依り科断し、職を免ずることを請う。その父の中散大夫の位は、実に叨越であり、皇族帝孫といえども、この例はない。既に倫理に合わぬを得たのであるから、収奪を下すことを請う。李憑は趙修に朋党し附き、親しみ頼りとし、皇風を黒く染め、正しい教化を塵とし鄙んだ。これを糾さずして、どうして阿諛を粛正し整え、忠節を奨励し励まそうか。居る官を免じて風紀を粛正することを請う。
上奏は許可された。甄琛は遂に免官されて本郡に帰された。左右で連座して死罪や免官となった者は二十余人に及んだ。
初め甄琛は父母が老いているため、常に官を解いて扶養することを請うたので、孝文帝は本州の長史を授けた。貴顕に達した後は、帰郷を請うことはなく、この時に至ってようやく帰った。数年供養し、母の喪に遭った。母の鉅鹿曹氏は孝行の性分があった。夫の家を去り、百里を超える道のりであったが、魚肉や野菜果物など美味しい食べ物を得るたびに、必ず僮僕に走らせて母に捧げさせ、その後でようやく自ら食した。甄琛は母の喪服が終わらないうちに、また父を喪った。甄琛は墓域の内に自ら松柏を植え、厳冬にも土を掘り運んだ。郷里の老人はこれを哀れみ、皆力を加えて助けた。十余年のうちに、墳墓は完成し樹木は茂った。弟の僧林と共に、同居して生涯を終えることを誓い、専ら家産に事を営み、自ら農園に躬親し、時に鷹や犬で馳逐して自ら楽しんだ。朝廷に大事があると、なお上表して意見を述べた。
久しくして、また 散騎常侍 に任じられ、給事黄門侍郎、定州大中正を兼任し、大いに親寵を受けた。門下の諸事を委ねられ、外では尚書省に参与し、内では帷幄に侍した。孝文帝の時、甄琛は主客郎を兼ね、斉の使者彭城の劉纘を迎え送った。甄琛はその器量と容貌を欽慕し、常に嘆賞した。劉纘の子の劉昕は朐山の戍主であった。劉昕が死に、家族が洛陽に入った。娘が二十歳に満たなかったが、甄琛は劉昕の娘を妻に迎えた。婚礼の日、詔して厨費を給した。甄琛が好んだことは、宣武帝の時に戯れに言われた。河南尹に転じ、黄門侍郎、大中正はもとのままとした。甄琛は上表して言う。
国家が代に都を置いていた頃は、盗賊が多いことを患い、世祖太武皇帝は自ら発憤して、主司を広く設置し、裏宰はみな下代の令長及び五等散男で経略のある者でなければこれを任じることができなかった。また吏士を多く置き、その羽翼とした。これを崇めて重んじたので、はじめて禁止することができた。今、遷都して以来、天下はますます広くなり、四方の遠方から赴会する者が多く、事は代都を超えている。寇盗が公然と横行し、劫害が絶えない。これは諸坊が混雑し、整理が行き届かず、主司が暗弱で、検察に堪えられないからである。今、尹を選ぶのに南金のような人材ではなく、裏尉は鉛刀で切るようなもので、都邑を清粛にしようと望んでも、得ることはできない。里正は流外四品に過ぎず、職は軽く任は細かく、多くは下才である。人は苟且を懐き、督察することができず、故に盗賊が奸を容れ、百の賦が理を失う。辺境の小県は、領するものは百戸に過ぎないが、令長はみな将軍をもってこれに居る。京邑の諸坊は、大きいものは千戸あるいは五百戸を領し、その中にはみな王公卿尹、貴勢姻戚、豪猾僕隸がおり、奸徒を蔭養し、高門邃宇で、干問することができない。辺県と比べれば、難易が同じではない。今、あれを難しくしこれを易しくするのは、実に未だ愜わざるものがある。
王者が法を立てるには、時に従い宜しきに従う。先朝が品を立てたのは、必ずしも即時に定めるものではない。施行して観察し、不便ならば改める。今、閑官静任においてさえ、長兼を聴くのに、まして煩劇な要務において、簡能な者を下して領せしめないわけにはいかない。武官の中から八品将軍以下で幹用があり貞済なる者を取って、本官の俸恤をもって裏尉の任を領せしめ、各々その禄を食ませることを請う。高き者は六部尉を領し、中き者は経途尉を領し、下き者は里正を領する。そうでなければ、裏尉の品を少し高くし、下品の中から応遷すべき者を選び、進めてこれに任じることを請う。そうすれば督責する所があり、輦轂は清まるであろう。
詔して曰く、「里正は勲品に進め、経途は従九品、六部尉は正九品の諸職の中から簡取すればよい。何ぞ必ずしも武人でなければならないことがあろうか」と。甄琛はまた奏して、羽林を遊軍とし、諸坊巷において盗賊を司察させた。ここにおいて京邑は清静となり、後世は皆これに倣った。
転じて太子少保となり、黄門はもとの通り。高肇が死ぬと、甄琛はその党として再び朝政に参ずるのは宜しくないとして、出されて営州刺史となり、涼州刺史に遷った。なお高氏との昵懇を理由に、内に置くことを欲しなかった。久しくして吏部尚書となった。間もなく定州刺史を除されたが、固く辞して曰く、「陛下が東宮におられた時、崔光は少傅、臣は少保でありました。今、崔光は車騎大将軍・儀同三司・開国公となっています。故僕射の游肇は当時侍中で、臣と官階が似ておりました。游肇は省において僕射となり、死後に車騎将軍・儀同三司・冀州刺史を贈られました。臣は今、ちょうど征北将軍・定州刺史に任ぜられようとしています。生きている師保が死んだ游肇に及ばないのです」と。詔書をもって慰めて遣わした。甄琛は郷里に至ると、衣錦して昼に遊び、大いに満足を称え、政体は厳細であったが、甚だ声聞はなかった。
崔光が 司徒 の授けを辞した時、甄琛は崔光に書を送り、表面上は抑揚をつけていたが、内実は附会していた。崔光もその意を推し量り、返書をして彼を喜ばせた。車騎将軍・特進に徴され、また侍中を拝した。その衰老を以て、詔して御府の杖を賜い、朝直の時は杖をついて出入りした。卒すると、詔して東園の秘器を給し、 司徒 公・尚書左僕射を贈り、後部鼓吹を加えた。太常が諡を文穆と議したが、吏部郎の袁翻が上奏して曰く、
礼を案ずるに、諡は行いの跡であり、号は功の表であり、車服は位の章である。ここをもって大行は大名を受け、細行は細名を受ける。行いは己より生じ、名は人より生ずる。故に棺を閉じて後に諡を定め、皆その生時の美悪を累ねて、将来の勧戒とするのである。身は死すとも、名を常に存せしめる。凡そ薨亡する者は、所属が即時に大鴻臚に言上し、本郡の大中正に移す。その行跡功過を条記し、中正の移しを受けて、公府に言上し、太常部の博士に下して評議させ、諡を列上する。諡が法に応じない者は、博士は選挙に実を以てせざるの論に坐するが如し。もし行状が失実ならば、中正は博士の如くに坐する。古より帝王、殷勤に重んじ慎んだのは、褒貶の実とするためである。今の行状は、皆その家より出で、その臣子に君父の行いを自言せしめ、もはや是非の事はない。臣子が君父を光揚せんと欲するは、ただその跡の高からず、行いの美しからざるを苦にするが故に、極辞を肆にして、もはや限量がない。その状を観るに、則ち周・孔が連鏕し、伊・顔が衽を接する。その諡を論ずるに、文を窮め武を尽くしても、これに加わるものはない。然るに今の博士は古と異なり、ただその行状に依るのみで、また先ずその家人の意を問う。臣子の求むるところ、便ち議上する。皆、斟酌と奪、是非を商量することを復たせず。号諡の加わること、泛階と異なることなく、専ら極美を以て称とし、もはや貶降の名はない。礼官の失、一にここに至る。甄 司徒 の行状を案ずるに、至徳は聖人と蹤を斉しくし、鴻名は大賢と跡を比す。文穆の諡、何ぞ加えるに足らん。ただ近来の贈諡は、例によって普く重く、甄の流れは、復た諡せざるものはない。諡法に依り、慈恵愛人を孝と曰うに宜しく、諡して孝穆公とすべきであると謂う。
今より以後、太常・ 司徒 に明らかに勒し、この如き行状で、言辞が流宕して、もはや節限のないものは、悉く裁量を請い、受け付けないことを聴く。なお前の失いに踵く者は、皆法司に付して罪を科する。
詔してこれに従った。甄琛の祖載の時、明帝は親しく送り、車を降りて輿に就き、吊服して哭し、舎人を遣わしてその諸子を慰めた。
甄琛は性軽簡で、嘲謔を好んだので、風望は少なかった。然れども明解で幹具があり、官に在っては清白であった。孝文帝・宣武帝より、咸く相知遇された。明帝は師傅の義を以て礼を加えた。著した文章は、鄙碎で大體がなく、時に理詣のものがある。《磔四声》、《姓族廃興》、《会通緇素三論》及び《家晦》二十篇、《篤学文》一卷は、頗る世に行われた。
甄琛の長子の侃は、字は道正、秘書郎の位にあった。性険薄で、多く盗賊と交わり通じた。甄琛に従って在京し、酒色を以て夜に洛水の亭舎に宿り、主人を毆撃した。司州に劾せられ、州獄に淹留した。甄琛は大いに慚慨した。広平王の元懐が牧となったが、甄琛と先に協わず、具案して窮推しようとした。甄琛は左右に托して聞かせ、宣武帝は元懐に寛放を敕した。元懐は固くこれを執し、久しくして特旨により甄侃を出した。これより沈廢し、家で卒した。
侃の弟の楷は、字は德方。粗く文学があり、頗る吏事を経た。甄琛が啓して秘書郎を除した。宣武帝が崩じ、未だ葬らざるに、楷は河南尹丞の張普惠等と飲み戯れ、官を免ぜられた。後、稍く遷って尚書儀曹郎となった。当官の称があった。明帝の末、丁憂して郷里に在り、定州刺史の広陽王元深が甄楷を召し兼長史とし、州の任を委ねた。尋で鮮于修礼・毛普賢等が北鎮の流人を率いて州の西北の左人城で反するに属し、村を屠り野を掠め、州城に向かった。州城内には先に燕・恒・雲三州の避難戸があり、修礼等は声をあげて、この輩を将いて共に挙動せんと欲すと言った。甄楷は人情の安からざるを見て、変の起こるを慮り、走って三州の人の中で粗暴なる者を収めて殺し、以て外賊を威した。刺史の元冏・大 都督 の楊津等が至ると、甄楷は家に還った。後、修礼等は甄楷が北人を屠害したことを忿り、遂にその父の墓を掘り、棺を載せて城を巡り、報復を示した。孝荘帝の時、中書侍郎に徴された。後、斉の文襄王がこれを取って儀同府諮議参軍とした。卒し、驃騎将軍・秘書監・滄州刺史を贈られた。
琛の従父の弟の密は、字を叔雍という。清廉で慎み深く、嗜欲は少なく、経書や史書に広く通じていた。世俗の貪欲な競争を嫌い、栄誉や寵愛をむさぼることを忌み嫌い、かつて『風賦』を作ってその意を表した。後に中山王英の軍事に参じた。英が鍾離で敗退したとき、同郷の蘇良が賊中に没したので、密は私財を尽くしてこれを贖った。蘇良が帰還すると、全財産を傾けて密に報いようとしたが、密は一切受け取らず、「君を救ったとき、もとより財貨を求めたわけではない。どうして贖うという意図があろうか」と言った。葛栄が河北を侵擾したとき、詔により密は相州行台となり、 鄴城 を守って援護した。荘帝は密が鄴を全うした功績により、安市県子の爵位を賜った。孝静帝の初め、衛尉卿となり、在官中は公平で正直な評判があった。出向して北徐州刺史となり、任地で没した。驃騎将軍・儀同三司・瀛州刺史を追贈され、諡を靖といった。
琛と同じ郡の張纂は、字を伯業という。祖父の珍は、字を文表といい、慕容宝の度支尚書であった。道武帝が中山を平定すると、魏に入り、涼州刺史の任で没し、諡を穆といった。纂は経書や史書に広く通じ、優れた気概と風格があり、勝れた人々と交際した。楽陵太守となったが、郡において多くの収賄を行った。御史が来たと聞くと、郡を棄てて逃走し、そこで除名され、やがて没した。天平の初め、定州刺史を追贈された。纂の叔父の感は、字を崇仁といい、器量と学業があったが、州郡の招聘には応じなかった。
子の宣軌は、幼くして孤となり、母に仕えて孝行で知られた。累進して相州撫軍府司馬となった。宣軌は性質が率直で、財を軽んじ施しを好んだ。葛栄が城を包囲したとき、刺史の李神とともに固守の功績があり、功により中山公の爵位を賜った。後に事に坐して鄴で死んだ。纂の従弟の元賓は、奉朝請の位にあった。外甥の高昂が貴顕となると、上奏して瀛州刺史を追贈された。
高聰は、字を僧智といい、もとは勃海の人である。曾祖父の軌は、慕容徳に従って青州に移り、北海郡の劇県に居住した。父の法昂は、若くして車騎将軍王玄謨に従って征伐し、功により員外郎に至ったが、早くに没した。聰は生まれて母を失い、祖母の王氏が養育した。大軍が東陽を攻略すると、聰は平城に移され、蒋少遊とともに雲中の兵戸となり、困窮してあらゆることをした。族祖父の允は彼を孫のように見て、大いに援助を与えた。聰は経書や史書に広く通じ、かなりの文才があった。允はこれを嘉し、しばしばその美点を称え、朝廷に言上したため、これにより少遊とともに中書博士に任じられた。侍郎に転じ、高陽王雍の傅となり、次第に孝文帝に知遇を得た。太和十七年、員外 散騎常侍 を兼ね、斉に使した。後に太子左率を兼ねた。
聰はわずかに弓馬を習い、将略を自任した。孝文帝は南征に意欲的で、専ら王肅に軍事について諮問した。聰は王肅に頼み、偏将として自らの力を尽くしたいと願った。王肅が帝に言上したため、輔国将軍の仮号を与えられ、王肅の節度を受け、ともに渦陽を救援した。聰は軽躁で臆病で威厳がなく、賊と交戦すると、風の便りに退却敗走した。孝文帝は死罪を許し、平州に流した。瀛州に至ったとき、刺史の王質が白兎を捕らえ、献上しようとして、聰に表文の作成を依頼した。帝は表文を見て、王肅を顧みて言った、「下僚にどうしてこのような才能があるのか、朕が知らなかったのは」。王肅は言った、「高聰が北に流された折に、あるいは彼が作ったものでしょう」。帝は悟って言った、「必ずやそうであろう」。
宣武帝の初め、聰は再び密かに京師に戻り、高肇に六輔(輔政大臣)を廃するよう説いた。宣武帝が親政すると、給事黄門侍郎に任じられ、後に 散騎常侍 を加えられた。帝が鄴に行幸して帰還する際、河内郡懐県の地で、帝は一里五十余歩の距離に矢を射た。侍中の高顕らが上奏し、この盛事奇跡は必ずや記述すべきであり、射宮に銘を刻んで永遠に聖なる技芸を顕彰するよう請うた。そこで射所に銘を刻み、聰がその文を作った。趙修が寵愛されると、聰は深く朋党として付き従った。詔により趙修の父を追贈する際、聰が碑文を作り、出入りに同じ車に乗り、碑石を見て回った。聰は趙修に会うたびに、迎え送りに礼を尽くした。聰はまた趙修のために上表文を作り、当時の時宜に適ったことを述べ、自ら安泰となる術を教えた。これにより互いに親しく馴れ合った。趙修が死ぬと、甄琛・李憑は皆罷免されたが、聰は深く危惧を抱き、先んじて疎遠な宗族としての情誼を以て、ひそかに高肇に仕え、ついに自ら免れることができたのは、高肇の力によるものであった。趙修が権勢を握っていたとき、聰は身を屈めてこれに仕えたが、死ぬと、言うことには必ず悪口を言った。茹皓が寵愛されると、聰はまた媚びて付き従い、招かれるたびに、茹皓の才識は趙修の比ではないと言った。そして茹皓を通じて田宅を請願し、すべて許された。茹皓が罪を得て誅殺されると、聰は死ぬのが遅すぎたと思った。その情義に薄いことは皆このようなものであった。
侍中の高顕が護軍となると、聰がその職務を代行した。高顕とその兄の高肇は、聰が離間工作をしたのではないかと疑ってその職を求めた。聰が代行して十余旬の間、機密要事に出入りし、言うことは真実味がなく遠慮がなく、貴顕を頼り権力を因って、声色に耽り、賄賂収受の噂は遠近に聞こえた。中尉の崔亮は高肇がわずかに恨んでいることを知り、遂に面と向かって聰の罪を陳べ、出向して 并 州刺史とした。聰は去就に巧みで、高肇が自分を嫌っていることを知り、身をかがめて承り奉り、高肇は遂に以前のように彼を遇した。聰は 并 州で数年を過ごし、多く法に従わず、また太原太守の王椿と不和となり、再び大使御史に挙奏された。高肇は毎度宗族としての私情で援護し、事は沙汰止みとなった。宣武帝の末、 散騎常侍 ・平北将軍に任じられた。
明帝が即位すると、彼が平素高肇に付き従っていたため、出向して幽州刺史とした。まもなく高肇の党与として、王世義・高綽・李憲・崔楷・蘭氛之とともに中尉の元匡に弾劾されたが、霊太后は皆特にこれを許した。聰は遂に家に廃され、人事を断絶し、ただ園果の経営に努め、世に高聰梨と称され、珍異とされた。またただ声色をもって自ら楽しんだ。後に光禄大夫に任じられ、没した。霊太后はその死を聞き、しばらく嘆き惜しんだ。青州刺史を追贈され、諡を献といった。
聰は妓女十余人を抱え、子の有無にかかわらず皆籍に妾として登録し、その情を喜ばせた。病にかかると、他の者に適わせまいとして、皆に指を焼き炭を呑ませ、出家して尼僧とさせた。聰の作った文章は二十巻ある。長子の雲は、字を彦鴻といい、輔国将軍・中散大夫の位にあった。河陰で害に遇い、兗州刺史を追贈された。
論じて言う。韓麒麟は才能・器量・識見・実用によって、遂に斉の士に記録された。顕宗は文学をもって自立し、時務をしばしば陳べたが、実録の功績については、聞くところがない。子熙は清廉な志操を守り、栄誉はその器量を過ぎた。程駿は才業が認められ、当時の優れた策士であった。李彪は微賤の家柄から生まれ、明らかな世に抜擢され、軽車を駆って急に指し示され、その名声は江南を驚かせ、筆を執り言を立てて、遂に良史となった。しかし直なる法規を手にし、気を奮い目を見開いて、堅固に持する術がなく、末路には躓いた。百里を行く者は九十里を半ばとするというが、彪のことを言うのであろう。高道悦の忠直な風骨は、世に畏れられたが、正しい者を醜く扱い禍を招いたことは、悲しむべきことではなかろうか。甄琛は学問を尚び刀筆の才により、早くから名声を樹て、三朝に遇い、終には崇高な地位に至った。高聰は才能が認められ、名声と地位は顕著であった。しかし異なる道を同じく奔り、皆危うく覆る轍を経たことは、惜しむべきことである。
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