薛安都、劉休賓、房法壽(曾孫豹、玄孫彥謙、族子景伯)、畢眾敬(曾孫義雲)、羊祉(子深、孫肅、弟子敦烈)
薛安都は、字を休達といい、河東郡汾陰県の人である。父の広は、晋の上党太守であった。安都は若い頃から勇猛で、騎射に長け、軽佻な任侠の徒を多く集めたため、諸兄はこれを憂慮した。安都は自ら分家して出ることを願い出て、一片の資産も取らず、兄がこれを許したので、別の屋敷に住んだ。遠近の交遊者は競って贈り物を送り、馬・牛・衣服・雑物がその庭に満ちた。真君五年(444年)、東雍州刺史の沮渠康と謀反を企てたが、事が発覚して宋に奔った。
南方においては武力によって登用され、宋の孝武帝が江州で挙兵すると、これに従って将軍とされた。和平六年(465年)、宋の湘東王(劉彧)がその主(前廃帝)劉子業を殺して自立し、これが明帝である。群情がこれに協せず、共に子業の弟である晋安王劉子勛を立てた。安都は沈文秀・崔道固・常珍奇らとともに兵を挙げてこれに応じた。宋の明帝は将軍の張永を派遣して安都を討たせた。安都は使者を派遣して魏に降伏し、援軍を請い、第四子の道次を人質として送った。献文帝(拓跋弘)は鎮東大将軍の尉元らを派遣してこれに赴かせ、安都を鎮南大将軍・徐州刺史に任じ、河東公の爵位を賜った。尉元らが彭城に入ると、安都は内心で後悔し、尉元らを謀殺しようと企んだ。尉元はこれを察知し、結局実行されなかった。安都は尉元らに多額の賄賂を贈り、罪を女婿の裴祖隆に負わせた。尉元は祖隆を殺し、安都の謀略を隠した。
皇興二年(468年)、畢眾敬とともに京師(平城)に朝見し、大いに礼遇と尊重を受けた。子・甥・一族の者たちは皆上客として遇され、ことごとく侯に封ぜられ、門生に至るまで登用されない者はなかった。また邸宅を造営して与えられ、館舎は高く麗しく、供給は甚だ厚かった。死去すると、仮黄鉞・秦州刺史・河東王を追贈され、諡を康といった。
子の道舣が爵位を襲い、平州刺史に至り、政績に称えられる声があった。相州刺史・秦州刺史を歴任し、死去した。道舣の弟の道異も、功績により第一客となった。早世し、秦州刺史・安邑侯を追贈された。道異の弟の道次は、京師に人質となっていたが、安邑侯の爵位を賜り、秦州刺史に至り、河南公に進んだ。
安都の従祖弟の真度は、初め安都とともに南方に奔ったが、安都に従って降伏し、上客となった。太和初年(477年頃)、河北侯の爵位を賜り、平州刺史として出向し、仮に陽平公とされ、後に伯に降格された。荊州刺史・東荊州刺史を歴任した。都が洛陽に遷った初め、真度はしばしば計略を献じて、まず樊城・鄧県を取るべきこと、その後南陽を攻めるべきことを勧めたため、大いに帝(孝文帝)に賞された。臨晋県伯に改封され、 豫 州刺史に転じた。景明初年(500年頃)、 豫 州が大飢饉となると、真度は上表して、毎日別に倉の米五十斛を出して粥とし、最も困窮する者を救うことを請うた。詔が下り、「真度の上表したところは、甚だ百姓を憂い救う意思がある。宜しく救済すべきである」とされた。華州刺史・荊州刺史を歴任し、朝廷に入って大司農卿となった。正始初年(504年頃)、揚州刺史に任ぜられた。朝廷に帰還し、金紫光禄大夫に任ぜられ、 散騎常侍 を加えられ、敷西県に改封された。死去すると、左光禄大夫を追贈され、諡を莊といった。十二人の子があり、嫡子の懐徹が封を襲いだ。
初め、真度は女妓数十人を有していた。賓客を集めるたびに、必ず彼女らに糸竹(楽器)を奏でさせ歌舞させ、絶え間なく前に侍らせ、声と色の楽しみを尽くした。庶長子の懐吉は、父の喪が一周忌を過ぎると、父の女妓十余人と楽器とを献上し、宣武帝(元恪)はこれを受け入れた。
懐吉は勇を好み、膂力があった。書学は得意ではなかったが、時事にも通暁していた。汾州刺史の任で死去した。懐吉は元来清廉な節操を励まさず、汾州刺史となると、特に収賄の評判があった。自分が庶子であることから、自分より優れた者を誘い、共に婚姻関係を結んだ。多くの親戚を引き連れ、皆同行させ、かつ彼らのために取り繕い、好き勝手に取らせ受けるに任せた。しかし賓客を慰労するにあたっては、物情を尽くし、送り迎えは寒暑を避けなかった。性来寡黙で、応対するときは、ただ黙然として返るばかりであった。先に人馬の数を指示しておくと、側近は密かに記録していた。やがて酒食が次々と供され、秣(飼料)や粟が続いて届き、別れようとする時には、銭や絹を贈り、下は賤しい者に至るまで、皆本来の望み以上であった。
真度の子らは既に多く、その母も一人ではなかった。同母兄弟は徒党を組み、それによって憎悪と愛着が生じた。興和年間(539年-542年)、遂に訴え出て、毒薬をもって互いに害し合っていると列挙した。公府に顕わになり、欠点や争いが発覚し、当時の人はこれを恥じた。
劉休賓は、字を處幹といい、本来平原郡の人である。祖父の昶は、慕容徳に従って黄河を渡り、北海郡都昌県に家を構えた。父の奉伯は、宋の北海太守であった。休賓は若くして学問を好み、文才があった。宋に仕えて兗州刺史となった。崔邪利の娘を娶り、子の文曄を生んだ。崔氏は先に実家に帰省して魯郡にいた。邪利が降伏すると、文曄母子は彼とともに魏に入った。慕容白曜の軍が到着すると、休賓は降らなかった。白曜は崔氏と文曄を連れてきて、休賓に報せた。また休賓の兄の延和の妻子を捕らえ、城下を巡視させた。休賓は白曜に答え、歴城が降伏するのを待って、即時に帰順すると約束した。密かに主簿の尹文達を歴城に派遣し、魏軍の形勢を観察させた。文達は白曜のもとに赴き、偽って伺候した。白曜は文達を升城に行かせ、その妻子に会わせた。文曄は泣き、爪と髪を信物とした。文達は戻り、再び白曜のもとを経由し、誓約して帰還し、休賓に会った。休賓は爪と髪を撫でて泣き、再び文達を派遣して白曜と期日を定めた。白曜は喜び、酒を地に注ぎ、山河に告げて誓い、休賓に背かないと誓った。文達は帰って休賓に、早く決断すべきだと言った。休賓はそこで兄の子の聞慰に告げた。聞慰は固執して認めず、遂に本来の約束は違えられた。白曜はまもなく著作佐郎の許赤彪を派遣して夜に梁鄒の南門に至らせ、城上の者に告げさせた、「休賓は文達を頻りに派遣して僕射(白曜)に降伏を約束したのに、どうして信義がないのか」と。そこで城内では互いに支え合い、降伏しようとしてもできなくなった。歴城が降伏すると、休賓はようやく出て命を請うた。平斉郡が立てられると、梁鄒の人々を以て懐寧県とし、休賓をその県令とした。延興二年(472年)に死去した。
文曄は志操があり、群書を広く読み、財を軽んじ義を重んじた。太和年間(477年-499年)、従兄の聞慰が南方に叛いたことに連座して、北辺に移住させられたが、孝文帝は特に代に還ることを許した。帝がかつて方山に行幸した時、文曄は大声で謁見を求め、父の功績が厚く賞が届かないことを訴えた。そこで都昌子の爵位を賜り、深く待遇され、協律中郎に任ぜられた。高陽太守の任で死去し、兗州刺史を追贈され、諡を貞といった。
休賓の叔父の旋之がおり、その妻の許氏が二人の子、法鳳と法武を生んだが、旋之は早世した。東陽が平定されると、許氏は二人の子を連れて魏に入ったが、孤貧で自立できず、母子ともに出家して尼僧となった。やがて還俗し、共に江南に奔った。法武は後に名を峻と改め、字を孝標といい、『南史』に伝がある。
房法壽、幼名は烏頭、清河郡東武城の人である。曾祖父の諶は燕に仕え、太尉掾の位にあった。慕容氏に従って斉に移り、子孫はここに家を定めたため、東清河郡繹幕の人となった。法壽は幼くして孤となり、若い頃より射猟を好み、軽率で勇猛果敢であり、諸々の小輩を結集して強盗を働いたので、宗族はこれを憂慮した。弱冠にして州より主簿に迎えられた。後に母が年老いたため、再び州郡の任命に応じず、常に猪羊を盗んで殺し、母に供えた。壮士を招集し、常に数百人を擁した。宋に仕えて魏郡太守となった。法壽の従祖弟の崇吉は、母と妻が慕容白曜に捕らえられたため、法壽に計らいを託し、法壽は崇吉と共に白曜に帰順した。詔により法壽を平遠将軍とし、韓騏驎と対となって冀州刺史とした。歴城・梁鄒が降伏すると、法壽・崇吉らは崔道固・劉休賓と共に京師に至った。法壽を上客とし、崇吉を次客とし、崔・劉を下客とした。法壽への供給は薛安都らに次ぎ、功により壮武侯の爵を賜り、田宅・奴婢を与えられた。性来酒を愛し、施しを好み、親旧・賓客は常に飢え飽きを共にし、困窮して常に豊かではなかった。畢衆敬らは皆その広い愛を尊んだ。卒す。青州刺史を追贈され、諡して敬侯という。
子の伯祖が襲爵したが、例により伯に降格され、斉郡内史を歴任した。伯祖は臆病で弱く、事を功曹の張僧皓に委ね、僧皓は大いに収賄し、伯祖の衣食は足りなかった。後に幽州輔国府長史の任で卒し、官を免ぜられ、死去した。子の翼は大城の戍主となり、宗安太守を兼ね、壮武侯の爵を襲いだ。
翼の子の豹、字は仲幹。体貌は魁偉で、音容は美しかった。十七歳の時、州より主簿に辟召された。王思政が潁川を占拠すると、慕容紹宗が出討し、豹は紹宗の開府主簿兼行台郎中となった。紹宗は自ら水難があると言い、戦艦の中で沐浴し、自ら水に飛び込んで、災いを鎮めようとした。豹は紹宗に申し上げた。「命は天にあり、人の理屈で延ばし保つことができましょうか。公に本当に水難があるならば、祈祷で退けられるものではなく、もし本当になければ、祈祷することなどありません。今、三軍の事は明公にあり、ただ天命に達観し道理に任せて、大吉を保つべきです。今、船に乗って水に入り、災いを防ぐと言うよりは、岸上で指揮して万全を保つ方がよいのでは。」紹宗は笑って言った。「俗習を免れられず、またそうしたまでだ。」間もなく紹宗は溺死し、当時の論評は豹を微を見通す者とした。清河中、謁者僕射に任じられ、西河太守に拝された。地は周の国境に接し、俗は稽胡と雑じり、豹の政治は清静を貴び、名声と実績が大いに顕れた。博陵太守に遷り、また有能な名があった。さらに楽陵太守に遷り、風俗教化を整え、美政と称された。郡は海に臨み、水の味は多く塩辛く苦かった。豹は命じて一井戸を掘らせると、甘泉を得たので、遠近の人々は政治の教化によるものとした。豹が罷免されて帰った後、井戸の味は再び塩辛くなった。斉が滅ぶと、遂に故郷に帰り、丘園で自ら養った。頻繁に征命されたが、固く病気を理由に辞した。牧守が初めて赴任する度に、必ず礼を贈り、官佐や邑宰は皆名刺を投じて敬意を表した。家で終わり、子がなく、兄の熊の子の彦詡が後を嗣いだ。彦詡は明弁で学識があり、殿中侍御史、千乗・益都二県令の位にあり、恵みある政治を行った。熊、字は子威、性は至孝で、聡明で節概があった。州より主簿に辟召され、清河・広川二郡の事務を行った。七人の子があった。
長子の彦詢が最も有名で、魏の勲門の嫡孫として永始県子の爵を賜り、特に叔父の豹に愛重された。病没すると、豹は急ぎを取って自ら柩を送り郷里に還し、悲痛に傷み惜しみ、家の宝を失ったとした。初め、彦詢が若い時に監館として、かつて陳の使者の江総をもてなした。陳が滅び、総が関中に入ると、彦詢の弟の彦謙を見て言った。「貴公は監館の弟か。」そして惨然として言った。「昔、使命により、言葉を交わすことができた。」彦詢が総に贈った詩は、今『総集』に載っている。
彦謙は早く孤となり、父を知らず、母と兄に養育された。長兄の彦詢は高雅で清い鑑識眼があり、彦謙の天性の穎悟さを奇とし、自ら読書を教えた。七歳で数万言を誦し、宗党の驚異となった。十五歳で叔父の子貞の後を嗣ぎ、継いだ父母に仕えることは実父母を越えた。子貞はこれを哀れみ、厚く養育した。後に継母の喪に遭い、五日間勺の飲み物も口にしなかった。伯父の豹に仕え、心力を尽くし、四季の珍果があっても、敢えて先に味わうことはなかった。期功の親族の喪に遇えば、必ず菜食で礼を終え、宗族の従兄弟らはこれを則とした。その後、博士の尹琳に学び、手から書物を離さず、遂に『五経』に広く通じた。文を綴ることを解し、高雅に言葉を弁じ、風概は人より高かった。
十八歳の時、斉の広寧王孝珩が齊州刺史となったのに合わせて、主簿に辟召された。当時、禁令の網目は粗く、州郡の 職 務は特に弛緩していた。彦謙が職に就くと、清廉簡素に法を守り、州境は粛然として、敬い畏れる者がないほどであった。周の軍が鄴に入り、斉主が東奔すると、彦謙を齊州中從事とした。彦謙は本朝の傾覆を痛み、忠義の士を糾合率い、密かに匡輔を謀ったが、事は果たせずに止んだ。斉が滅ぶと、家に帰った。周の武帝が柱国の辛遵を齊州刺史として遣わすと、賊帥の輔帯劍に捕らえられた。彦謙が書を送って諭すと、帯劍は慚愧し恐れて遵を州に送り返し、諸賊は皆それぞれ帰順した。隋の文帝が禅を受けた後、遂に郷里で悠々と過ごし、仕官の心はないと誓った。開皇七年、刺史の韋藝が固く推薦したため、已むなく命に応じた。吏部尚書の盧愷は一度会って重んじ、承奉郎に抜擢し、間もなく監察御史に遷した。後に陳が平定されると、詔を奉じて泉・括等十州を安撫した。使命を帯びて旨に適ったため、物百段・米百石・衣一襲・奴婢七口を賜った。
秦州総管録事参軍に遷った。朝集の時、左僕射の高熲が考課を定めた。彦謙は熲に言った。「『書経』には三載ごとに考績を行い、幽明を黜陟するとある。唐・虞以来、代々その法があり、黜陟が理に適い、褒貶に過ちがなければ、進める者は必ず賢を得、退ける者は皆不肖となる。もし誤りがあれば、法は虚設となる。近頃諸州の考課を見ると、見解が異なり、進退の多少が参差不揃いである。況んや愛憎を 肆 意にし、公平を損なっている。清介で孤直な者は、必ずしも高第ではなく、卑屈で諂う巧官が、却って上等に居る。真偽が混淆し、是非が乱れる。宰貴は既に精通せず、斟酌取捨するに、かつて駆使した者は多く識られていることで成し遂げ、台省を経ていない者は皆知られていないことで退けられる。また四方は遠く隔たり、詳しく知ることは難しく、ただ人数を基準に、半分を破り半分を成すのみである。ただ官員の多少を数えるだけで、善悪の衆寡を顧みない。妥当を求めようとしても、その道はない。明公は幽微を見通し、平心に物に接しておられる。今年の考課は必ず偏り枉ることがないでしょうが、もし前述の数件の事があれば、どう裁かれるか未だ審らかではありません。ただ遠く耳目を布き、精しく採訪を加えられることを願います。秋毫の善を褒め、繊介の悪を貶す。ただ至道を輝かすだけでなく、賢能を標榜奨励するに足ります。」言葉の気勢は侃々として、見る者は注目した。熲はこれに動容し、深く賞賛した。そこで河西・隴右の官人の行跡を次々と問うと、彦謙は響くように答えた。熲は諸州の総管・刺史に言った。「諸公と話すより、独り秦州の考使と語る方がよい。」数日後、熲は帝に言上したが、帝は用いることができなかった。
任期が満ちたため、長葛県令に転任し、大いに善政を施し、民衆は慈父と称した。仁寿年間、帝は節を持たせた使者を州県に巡行させ、長吏の能力の有無を察させた。房彦謙を天下第一とし、鄀州司馬に超擢した。官吏と民衆は号泣して互いに言うには、「房明府が今去られるなら、我々は何のために生きようか」と。その後、民衆は彼を思い、碑を立てて徳を称えた。鄀州は長らく刺史がおらず、州の事務はすべて彦謙に帰し、優れた政績があった。内史侍郎薛道衡は一代の文宗であり、地位と声望は清らかで顕著であった。彼が交際する者は、皆、海内の名賢であった。彦謙の人柄を重んじ、深く友誼と敬意を加えた。襄州総管となった時には、文書のやり取りが道を交錯させた。煬帝が位を継ぐと、道衡は番州の牧に転じ、彦謙の任地を通りかかり、数日間滞在し、涙を流して別れた。
黄門侍郎張衡もまた彦謙と親しくしていた。当時、帝は東都を営み、贅沢美麗の極みに達し、天下は失望した。また漢王(楊諒)が謀反を起こし、罪に陥る者が多かった。彦謙は張衡が権勢の座にありながら匡救できないのを見て、手紙を送って諭した。
ひそかに聞くに、賞は善を勧めるためのものであり、刑は悪を懲らしめるためのものである。故に疎遠で卑賤な者でも、善があれば必ず賞し、尊貴で賢い親戚でも、悪を犯せば必ず刑する。未だ罰は親を避け、賞は賤を遺すということはない。今、国家は天命を敬い受け、民の父母としており、刑賞の曲直は天に聞こえ上がり、畏れ慎んで照覧されるべきであり、また謹厳でなければならない。故に文王は言う、「我は朝夕、天の威を畏れる」と。これによって論ずれば、州と国とでは違いがあり、高低は懸け離れているが、民を憂い法を慎むその道理は一つである。
并 州の叛逆については、明らかに区別すべきである。もし楊諒が詔命が通じず、宗廟社稷の危険逼迫を慮り、兵を徴し衆を集めたのが、法を犯すためでなかったならば、その本来の心情を酌み、その刑罰を議論すべきである。上は聖主の兄弟友愛の意に副い、下は愚かな人々の疑惑の心を明らかにすべきである。もし内外に憂いがなく、後を継いで統治するのに、禍乱を好み、妄りに覬覦する心があったと確かに知るならば、管叔・蔡叔の誅罰は楊諒にあるべきである。悪を同じくする者が互いに助け合い、罪を逃れることはない。梟首し妻子を戮するのは、国の常刑である。しかし、籍没や流刑に処することは、冤罪や濫刑となる恐れがある。広大な天の網は、果たしてそうあるべきか。罪に疑いあれば軽くするという、この道理はどこにあるのか。昔、叔向は賄賂による裁判で死罪を免じ、晋国はこれを称賛した。張釈之は天子の行列を犯した者への刑を断じ、漢文帝は善しとした。羊舌肸(叔向)は弟を愛さなかったわけではなく、廷尉(張釈之)は軽々しく君に背いたわけでもない。共に法を執るに私心がなく、軽重を容れなかったのである。
そもそも聖人の大宝、これを神器という。天命でなければ、妄りに得ることはできない。故に蚩尤・項籍の 驍 勇、伊尹・霍光の権勢、老子・孔丘の才智、呂望・孫武の兵術、呉・楚の連なった磐石のごとき拠り所、呂産・呂禄が母弟として承けた基盤も、歴運の兆しに応じなければ、終に帝王の位にはつけなかった。ましてや取るに足らない一隅の地で、蜂や蟻のように集まり、楊諒の愚かで卑しい者、群小の凶悪な徒が、京畿を侵し、非分の望みを幸いとしようとするなど。天地開闢以来、文字の記すところ、帝王の跡は詳しく知ることができる。徳を積み仁を重ね、功績を豊かにし利益を厚くするのでなければ、誰がよく幽冥と現世に通じ、義が霊祇を感動させることができようか。故に古の哲王は、早朝から大いに顕彰し、薄氷を踏む思いで、朽ちるものを御するのに兢々と心にかけた。末世の驕りと放縦に至っては、戒め懼れることが全くなく、人の上に肆にし、欲望のままに嗜みを駆り立てた。全てを記載することはできないが、大略を述べる。
かつて、斉・陳の二国は、共に大位に居た。自ら天地と徳を合わし、日月と明らかさを同じくすると称し、憂虞を思わず、刑政を顧みなかった。近臣は寵愛を懐き、善を称え悪を隠した。史官は筆を曲げ、瑕を掩い美を記録した。故に民衆の嘆きは、終に視聴を閉ざされ、公卿の虚誉は、日々左右に敷陳された。法網は厳密で、刑罰は日増しに多く、賦役は頻繁に興り、老幼は疲弊苦しんだ。昔、鄭に子産、斉に晏嬰、楚に孫叔敖、晋に士会がいた。凡そこれらの小国でさえ、なお名臣が足りた。斉・陳の強国に、良き補佐役がいなかったわけではない。ただ、執政者が耳目を塞がれ、私心を懐き身を殉じ、国を忘れ家を憂い、外は同調し内は忌み嫌ったのである。仮に正直の士で、時務を処理する才能があっても、己に適さなければ、即座に排斥した。もし諂佞の輩で、行いに多くの穢れや悪があっても、己に益があれば、急いで推薦挙用した。このようにして賢を求めて、どうして得られようか。賢材というものは、腕力を尚ぶのでもなく、文華によるのでもない。ただ身を正し重任を負うことが必要である。確固として動かず、譬えば屋の棟、身の骨の如く、いわゆる棟梁・骨鯁の材である。斉・陳は骨鯁の臣を任用せず、讒諛の者を近く信じた。天は高くして卑きを聴き、その淫僻を監みられた。故に総べて神器を収め、我が大隋に帰したのである。もし二国が上天を敬い、鰥寡を恵み恤れ、方正正直な者を委任し、浮華を斥け遠ざけ、倹約を心とし、惻隠を務めとしていたならば、河朔の強富、江湖の険阻な隔たりがあり、各々その業を保ち、人は乱を思わず、泰山のごとき固さは、動かすことができなかったであろう。しかしながら、積み重なった薪の上に寝て、宴安は鴆毒であることを知らず、遂に禾黍が宗廟に生え、露が衣を濡らすこととなり、影を弔い胸を撫でても、何の嘆きも及ばない。故に『詩経』に云う、「殷の未だ師を喪わざるは、よく上帝に配す。殷を鑑とすべし、大命は易からず」と。万機の事、どれ一つ熟慮を要しないものがあろうか。
伏して考えるに、皇帝陛下は雲を望み日を就く(天子の徳)、仁孝は早くから顕れ、社を賜り珪を分かち、大成の規矩を示された。淮海を総統されるに及んで、盛徳は日々新たかであり、当璧の符(帝王となるべき兆し)は、遠近ともに皆属した。帝位を継いで間もなく、寛仁は既に布かれ、率土の蒼生は、足を上げて喜んだ。 并 州の乱は、変事が突然起こり、職楊諒の詭惑により、官吏民衆が誤らされたのである。本朝に怨みを構え、徳を棄てて賊に従った者ではない。しかるに有司の将帥は、彼らが望んで反したと称し、良善を誣陷するのみならず、また大いに皇猷を汚す恐れがある。
足下はかねてより重い任に当たり、早くより心膂として預かり、藩邸の時から、柱石として知られ、まさに竹帛に名を記し、万古に芳を伝えるべき方であり、稷・契・伊尹・呂尚、彼らだけがどうして特別な人であろうか。既に明時(聖代)に属する以上、謇諤(直言)を存し、当世の大いなる戒めを立て、将来の憲法の範とすべきであり、どうして曲げて人主に順い、愛によって刑を損ない、また脅従の徒に、横に罪譴を遺すことを許容できようか。辱くも眷遇を蒙り、ついで微誠を書き記す。野人の愚かで目が見えぬ者が、忌諱を知らないのである。
張衡は手紙を得て、嘆息したが、敢えて奏上して聞かせることはできなかった。
彦謙は王綱の振るわないことを知り、遂に官を去り、隠居して仕えなかった。蒙山の下に居を構え、その志を求めようとした。ちょうど司隷官が設置され、天下の知名の士を盛んに選んだ。朝廷は彦謙の公正さが宿著であり、時望の帰するところとして、司隷刺史に征し授けた。彦謙もまた慨然として天下を澄清する志があり、凡そ推薦挙用した者は、皆、人倫の模範であった。弾劾したことについては、当たった者に曾て怨言がなかった。司隷別駕劉灹は上を陵ぎ下を侮り、あら探しをして直と為し、刺史たちは彼を畏れ、皆彼に拝礼した。ただ彦謙だけが志を執って撓まず、対等の礼で長揖した。識者はこれを称賛した。
劉灹もまた恨まなかった。
大業九年、帝の車駕に従って遼東に渡り、扶餘道の軍事を監した。その後、隋の政治は次第に乱れ、誰もが節を変えたが、彦謙は直道を守り常を保ち、執政者にかなり嫉まれた。涇陽令として出向し、任地で没した。
彦謙は家に居て、子や甥が定時に挨拶に来るたびに、常に講義をして督励し、倦むことを知らなかった。家には旧来の家業があり、資産は元より豊かであったが、また前後して官に在って得た俸禄も、皆親族や友人を救済するために使い、家には余財がなかった。車や衣服、器物は、質素倹約を旨とした。幼少より成人するまで、一言一行、私利に及ぶことはなかった。たとえしばしば困窮しても、怡然として自得していた。かつて悠然と独り笑い、その子玄齢を顧みて言うには、「人は皆禄によって富むが、我はただ官によって貧しむ。子孫に遺すものは、清らかさにあるのみである」と。その文筆は、広大で優雅であり、古人の深い趣きがあった。また草書や隷書に優れ、その手紙を得た者は、皆これを宝物として愛玩した。太原の王劭、北海の高構、蓧県の李綱、中山の郎茂、郎穎、河東の柳彧、薛孺らは、皆当時名高い風雅な士であったが、彦謙は彼らと皆友人となった。冠蓋が列をなす中にあっても、門に雑多な賓客はいなかった。資質は文雅であり、政務に深く通じ、識者は皆遠大な器量を認めた。
初め、開皇年間に陳を平定した後、天下は統一され、論者は皆太平が来ると言った。彦謙はひそかに親しい趙郡の李少通に言った。「主上は猜疑心が強く、諫言を受け入れない。太子は卑弱であり、諸王が威を擅にする。朝廷ではただ苛酷な政治を行うのみで、遠大な体制を広めておらず、天下は安泰であっても、まさに危乱を憂うべきである」と。少通は初めそうではないと思った。仁寿・大業の頃になると、その言葉は皆的中した。貞観初年、子の玄齢が勲功を立てたことにより、徐州 都督 ・臨淄県公を追贈され、諡を定といった。
伯祖の弟の幼湣は、安豊・新蔡二郡太守であったが、事に坐して官を奪われた。家に居た時、突然門に客の声がするのを聞き、出て見ると何もなく、庭に戻ると、家の犬の群れに噛み殺され、死んだ。
景伯は字を良暉といい、法寿の族子である。祖父の元慶は、宋に仕えた。七郡の太守を歴任し、後に沈文秀の青州建威府司馬となった。宋の明帝が廃帝子業を殺すと、子業の弟の子勳が兵を起こした。文秀は後に子勳に帰順したが、元慶はこれに同調せず、文秀に害された。父の愛親は、献文帝の時、三斉が平定されると、例に従って内国に移され、平斉人となった。父が非命に斃れたため、喪服を終身着用した。
景伯は桑乾で生まれ、幼くして父を失い、孝行で知られた。家は貧しく、書写の仕事で自活し、母を養うことに非常に謹んでいた。尚書の盧陽烏が李沖に彼を称賛した。沖は当時選挙を管轄しており、彼を奉朝請に抜擢した。累進して斉州輔国長史となった。刺史が亡くなった際、州の事務を代行するよう命じられた。政治は寛大簡素を旨とし、民衆は安堵した。後に清河太守に任じられた。郡人の劉簡武はかつて景伯に無礼を働いたことがあり、彼が郡に着任すると聞き、一家で逃亡した。景伯は属県に厳命し、追捕して捕らえた。すぐにその子を西曹掾に任命し、山賊を説得させた。賊は景伯が旧悪を咎めないのを知り、一時に皆降伏した。論者はこれを称賛した。旧制では、守令は六年を任期としていた。任期満了で交代する際、郡人の韓霊和ら三百余人が上表して留任を乞い、さらに二年延長された。後に 司空 長史となったが、母の病気のため官を去った。
景伯の性格はまた淳朴で温和であった。経史に広く通じ、諸弟は彼を宗とし、厳しい親のように仕えた。弟が亡くなると、粗食で喪に服し、喪中は妻と同衾せず、憂い憔悴した様子は、重い喪に服しているようであった。次弟の景先が亡くなると、その幼弟の景遠も一年間哭礼を行い、やはり寝室に入らなかった。郷里では彼らについて「義あり礼あり、房家の兄弟」と言った。廷尉卿の崔光韶は人物を標榜することを好み、推賞することはなかったが、常に「景伯には士大夫の行いがある」と言った。母が亡くなると、景伯は喪に服し、塩や菜を食べなかった。このため水腫の病となり、長年治らなかった。家で死去し、左将軍・斉州刺史を追贈された。
景伯の子の文烈は、 司徒 左長史の位にあり、従父弟の逸祐と共に有名であった。
文烈の性格は温和で、怒ったことがなかった。吏部郎の時、長雨で食糧が尽き、婢を米を買いに行かせたが、そのまま逃げ出し、三四日してようやく戻ってきた。文烈はゆっくりと言った。「家中に食べるものがないのに、お前はどこから来たのか」と。結局鞭打つことはなかった。子の山基は隋に仕え、戸部侍郎・考功侍郎を歴任し、共に有能で知られ、当時に称賛された。
景先は字を光胄といい、幼くして孤貧であり、師に就く資がなく、その母が自ら『毛詩』と『曲礼』を教えた。十二歳の時、母に請うて言った。「どうして兄に雇われて働かせて私を養わせることができましょうか。どうか自分で衣服を調達してから学問に就かせてください」と。母は彼が幼いのを哀れんで許さなかったが、苦しい懇願により従った。そこで羊皮の衣を一つ得て、喜んで満足した。昼は薪を採り、夜は経史を誦読し、遂に広く通暁するに至った。
太和年間、例によって郷里に帰ることができ、太学博士に初任した。当時、太常の劉芳、侍中の崔光は当世の儒宗であったが、その精博さに感嘆し、著作佐郎を兼ねさせ、国史を編纂させた。侍中の穆紹もまた景先に『宣武起居注』を撰述させるよう上奏した。累進して歩兵 校尉 となり、尚書郎・斉州中正を兼ね、歴任した官職で皆その職務に称えられた。
景先は沈着聡明で方正であり、兄に仕えることを恭謹にし、外出時は告げ、帰宅時は顔を合わせ、朝夕に挨拶し、傍らに立ってしばらく経っても、兄もまた姿勢を正して座り、互いに賓客のように敬った。兄がかつて病気で臥せると、景先は湯薬を給仕し、衣冠を解かず、容貌は憔悴した。親友でこれを見た者は、哀しまない者はなかった。死去し、特に洛州刺史を追贈され、諡を文といった。景先は『五経疑問』百余篇を作り、その言葉は典雅で要を得ていた。符璽郎の王神貴がこれを補い、『弁疑』と名付け、合わせて十巻とし、見るべきものもあった。節閔帝の時、これを上奏した。帝は自ら巻物を手に取り、神貴と問答を交わし、その心遣いを称えた。子の延祐は、武定末年に太子家令となり、後に魏収に従って史書編纂に携わった。
景遠は字を叔遐といい、約束を重んじ、施しを与えることを好んだ。凶作の年が続くと、宗族を分かち養い;また大通りで飢えた者に食事を与え、多くの人を救済した。平原の劉郁が斉・兗の境界を通りかかると、突然賊に遭遇し、既に十余人が殺されていた。次に郁の番になると、叫んで言った。「貴方と同郷に近いのに、どうして殺されるのを見ていられようか」と。賊は言った。「同郷と言うなら、親族は誰か」と。郁は言った。「斉州主簿の房陽は私の従兄です」と。陽は景遠の幼名である。賊は言った。「私は彼の粥を食べて生き延びた。どうしてその親族を殺せようか」と。そこで衣服を返し、二十余人が命を救われた。
景遠は史伝を好み、章句の学はしなかった。天性少しせっかちで、家風には似ていなかった。しかし二人の兄に仕えることは非常に謹み深く、兄の孤児を養育し、恩情と教訓は非常に篤かった。益州刺史の傅豎眼はその名声と義を慕い、昭武府功曹参軍に推挙した。母が老いていることを理由に応じず、豎眼はこれを非常に恨んだ。家で死去した。子の敬道は、永熙年間に開府参軍となった。
畢衆敬は、小名を奈といい、東平郡須昌県の人である。若い頃から弓馬や狩猟を好み、軽率果敢な者と交わり、常に国境で盗み掠奪を業としていた。宋に仕え、太山太守の位にあった。湘東王劉彧がその主君の子業を殺して自立し、これが明帝である。衆敬を兗州に遣わして人を募らせた。彭城に到ると、刺史の薛安都が彼を呼び寄せて密謀し、言うには「晋安王には上流の名声があり、かつ孝武帝の第三子である。卿と共に西の晋安王に従おう」と。衆敬はこれに従った。東平太守の申纂は無塩城を拠点とし、彼らと同調しなかった。宋の明帝が子勳を平定すると、纂に兗州刺史を授けた。ちょうど誰かが衆敬の父の墓を暴き、その母の遺骨を散乱させた。衆敬は喪を発して喪服を着たが、纂の仕業ではないかと疑った。弟の衆愛は薛安都の長史であったが、やはり人を密かに済陰に遣わし、纂の父の墓を掘り返し、報復した。
安都が城を以て魏に入ると、衆敬はその謀に与からず。子の元賓は母並びに百口悉く彭城に在り、禍を交わすを恐れ、日夜啼泣し、使いを遣わして衆敬を請うたが、衆敬はなお従わなかった。衆敬は先に表を遣わして宋に謝し、宋の明帝は衆敬を兗州刺史に授けたが、元賓には他罪有りとして、独りこれを赦さなかった。衆敬は刀を抜き柱を破りて曰く、「皓首の年、唯だ此の子有り、今貸さずんば、何を以てか独り全からん!」と。尉元至るに及んで、乃ち城を以て降る。元は将を遣わして城に入らしめ、事定まる。衆敬は悔み恚り、数日食わず。皇興初年、就いて 散騎常侍 ・兗州刺史を拝し、爵を東平公に賜い、中書侍郎李璨と対にして刺史と為る。慕容白曜が無塩を攻克し、申纂を獲たが、纂を殺す意無し。而して城中火起り、纂は焼かれて死す。衆敬は無塩の克つを聞き、纂を殺さざるを懼れ、乃ち白曜に書を送り、並びに朝廷に表し、家の酷きは纂に由ると云う。纂の死を聞きて、乃ち悦ぶ。二年、薛安都と共に京師に朝し、甲第一区を賜う。後に復た兗州刺史と為り、征されて京師に還る。
衆敬は自ら奉養することを善くし、食膳豊華にして、必ず他方の遠味を致す。年既に七十、発須皓白なりと雖も、気力未だ衰えず、鞍を跨ぎ馳騁すること、少壮の若し有り。姻類に篤く、深く国士の風有り。張讜の亡きに当たり、躬から往きて営視し、至親の若し有り。太和年中、孝文帝は旧老を賓礼し、衆敬は高允と共に引かれて方山に至る。文武奢儉、好尚同じからずと雖も、然れども亦允と甚だ相愛敬し、膝を接して談款すること、平生の若し有り。後に篤老を以て、桑梓に還るを乞い、朝廷之を許す。衆敬臨還に当たり、真珠榼四具・銀装剣一口・刺彪矛一枚・仙人文綾一百匹を献ず。文明太后と帝は皇信堂に於いて引見し、酒饌車馬絹等を以て賜い、労して遣わす。兗州にて卒す。
子の元賓は、少より豪侠にして武幹有り、書史を渉猟す。父と共に勳誠を建て、京師に至り、倶に上賓と為り、爵を須昌侯に賜う。後に兗州刺史を拝し、仮に彭城公と為る。父子相代わって本州と為り、当世之を栄しむ。時に衆敬は老いて郷に還り、常に元賓を呼んで使君と為す。毎に元賓が政を聴く時、板輿に乗りて出で元賓の所に至り、先ず左右に勅して起つを聴かず、其の断決を観て、忻忻然として喜び顔色に見ゆ。衆敬は家業を善く持ち、猶能く田産を督課し、大いに儲積を致す。元賓は政を清平に為し、人物を善く撫し、百姓之を愛楽す。父憂に以て任を解く、喪中に、遥かに長兼殿中尚書を授く。卒し、衛尉卿を贈られ、諡して平と曰う。
元賓は魏に入り、初め東平の劉氏を娶り、四子有り、祖朽・祖髦・祖帰・祖旋。妻元氏を賜い、二子を生む、祖栄・祖暉。祖朽最も長く、祖暉は祖髦に次ぐ。故事に依れば、前妻先ず子有りと雖も、後賜の妻子皆嫡を承く。故に劉氏先に亡く、祖暉は重服せず。元氏後に卒し、祖朽等は三年終礼す。
祖栄は早卒し、子の義允が祖の爵東平公を襲ぐ、例に降りて侯と為る。卒し、子の僧安が襲ぐ。
祖朽は身長八尺、腰帯十囲。経史を渉猟し、文詠を好み、人と交わることを善くす。父の爵須昌侯を襲ぎ、例に降りて伯と為る。本州中正を以て統軍と為り、邢巒に隷して梁師を討ち、功を以て南城県男に封ぜらる。散騎侍郎・中書侍郎を歴任す。神龜末、東 豫 州刺史を除かる。祖朽は辺を善く撫し、清平にして信有り、百姓之を称す。後に瀛州刺史と為り、卒す。吏部尚書・兗州刺史を贈られる。子無く、弟祖帰の子義暢を以て後と為し、爵を襲がしむ。
義暢は傾巧にして士業無く、時要を通ずるを善くし、位は中書侍郎・兗州大中正。後に 散騎常侍 を除かるが、事に坐して伏法す。祖髦は兄祖朽が別に南城に封ぜられたを以て、須昌伯を回授されて之を襲ぎ、位は東平太守、本州別駕にて卒す。
祖暉は早くより器幹有り、豳州刺史と為り、全守の勳を以て、新昌県子に封ぜらる。蕭宝夤の退敗に逢い、祖暉は城を抜き、東に趣き華陰す、坐して官爵を免ぜらる。尋いで豳州事を行う。建義年中、詔して州・爵を復す。後に賊宿勤明達の攻撃を受け没す。長子の義勰が爵を襲ぐ、斉の禅を受け、例に降る。義勰の弟は義雲。
義雲は小字を陀児と云い、少より粗侠なり。家は兗州北境に在り、常に行旅を劫掠し、州裏之を患う。晩く方に折節して官に従い、累遷して尚書都官郎中と為る。性厳酷にして、事多く幹了す。斉の文襄相と為り、以て職に称うと為し、普く偽官を勾せしめ、専ら車輻を以て考掠し、獲ること甚だ多しと雖も、然れども大いに怨謗を起こす。曾て司州の吏に訟せられ、其の減截有りと云い、並びに文書を改換すと。文襄は其の偽を推すを以て、眾人の怨望するも、並びに問う所無し。乃ち吏を拘え、数えて之を斬る。此に因りて鋭情訊鞫し、威名日盛なり。
文宣の禅を受け、書侍御史を除かれ、勳親を避けず弾射す。累選して御史中丞と為り、繩劾更に切なり。然れども豪横にして平らかならず、頻りに怨訟せらる。前に汲郡太守翟嵩の啓列に依れば、義雲の従父兄僧明が官債を負い、先に京畿長史に任ずるも、其の属を受けず、限を立てて切征す、此に由り嫌いを挟み、数え御史を遣わして郡を過ぎ訪察せしめ、相推繩せんと欲す。又、私に工匠を蔵し、家に十餘機の織錦有り、並びに金銀器物を造るに坐し、乃ち禁止せらる。尋いで釈放を見、以て 司徒 左長史と為す。
尚書左丞司馬子瑞、義雲を奏弾し、称して曰く、「天保元年四月、竇氏皇姨の祖載の日、内外百官第に赴き吊省す;義雲は唯だ御史を遣わして名を投ずるのみで、身遂に赴かず。又、義雲啓して云う、'喪婦孤貧なり。後に李世安の女を娶りて妻と為す。世安身は父服未だ終わらずと雖も、其の女は祖に就き既に平吉なり、特だ暗迎を乞い、敢えて礼を備えず。'と。及び義雲成婚の夕、衆礼備え設け、克日に閣を拝す;騶を鳴らし路を清め、盛んに羽儀を列ね;兼ねて台吏二十人を差し、其の鮮服を責め、車後に侍従せしむ。直だ苟くも成婚を求むるのみにて、上を誣罔す。義雲の資産宅宇、豪室と称するに足る、忽ち孤貧を通すも、亦た矯詐なり。又、駕幸 晉 陽に、都坐判す、'起居表を拝す、四品以下五品以上は、令して前一日に予め南都に赴き表に署せしめ;三品以上は、臨日に署し訖る。'と。義雲は乃ち例に乖き、表に署する日、表を索めて家に就き先ず署し、臨日に遂に私忌を称して来らず。」と。是に於いて詔して廷尉に付して罪を科せしむ。尋いで勅して推免す。子瑞又た義雲の事十余条を奏弾す、多く煩碎にして、罪は罰金に止まり、除免に至らず。
子瑞の従兄消難は北 豫 州刺史と為る。義雲は御史張子階を遣わして州に詣り風聞を採らしめ、先ず其の典簽家客等を禁ず。消難危懼し、遂に叛いて周に入る。時論は罪を義雲に帰し、其の子瑞に報いんと規るを云う。事亦た上聞す。爾前の宴賞には、義雲常に預かるも、此より後の集には見ること稍く疎く、声望大いに損ず。乾明初年、子瑞は御史中丞に遷る。鄭子默正に任用せらるるに、義雲の姑は即ち子默の祖母なり、遂に度支尚書を除かれ、左丞を摂す。子默誅された後、左丞便ち解く。
孝昭帝が晋陽に赴かれると、高元海は鄴に留まったが、畢義雲は深く彼に依附した。彼が仏教を信奉していることを知り、常に彼に従って講義を聴き、このために親密となり、至らぬところはなかった。孝昭帝が危篤に陥ると、武成帝を顧命の臣とした。高帰彦が都に至ると、武成帝はなお疑惑を抱いた。元海は犢車を遣わして義雲を迎え、北宮に入れて参内させ審議させ、遂に元海らと共に即位を勧めた。引き続き従って晋陽に幸し、時政に参与した。まもなく兗州刺史に任じられ、後部鼓吹を与えられたが、これは本州(出身地)であった。意気揚々として得意となり、吏部尚書(銓衡)の任に挙げられることを望み、諸人が自ら陳述するのを見て、逆に引き入れを許諾した。また、離別は一時的なもので、長く州に在るのではないと言った。以前から鐃吹を持っていたが、按部(巡察)や行遊の際には、両方の鼓吹を併用した。なお元海に書簡を送り、時事を論じ述べた。元海が宮中に入った時、うっかり落としたのを、給事中の李孝貞が得てこれを奏上した。このため、元海は次第に疎遠となり、孝貞はこれによって兼中書舍人となった。また高帰彦が反逆を起こすと、義雲は州で私的に人馬を集め、甲冑兵器を蓄え、自衛しようとしたが、実際に他意はなく、密かに啓上された。帰彦が捕らえられると、また彼の朋党が専権を振るったと列挙され、このために追還された。武成帝はなお彼の過去の忠誠を考慮し、結局罪を加えず、兼七兵尚書に任じた。
義雲の性格は豪放で縦横無尽、施し恵みを行うことをかなり心がけていた。累世にわたり本州刺史を務め、家は財に富み、困窮する士人を多く救済した。貴顕になると、感情のままに驕り奢り、邸宅を壮大に造営し、間もなく完成させた。閨門(家庭内)は穢れ雑多で、その評判は朝野に遍く知れ渡った。郎官であった時、左丞の宋遊道と公務上のことで憤り争った。遊道は朝廷で彼を辱めて言った。「『雄狐』の詩は、千年の後もお前のためにあるのだ」。義雲は一言も答えなかった。しかし酷く暴虐で残忍、人の道理の及ぶところではなかった。家庭内では特に甚だしく、子や孫、僕隷は常に傷が体中に満ちていた。
庶子の善昭という者がおり、性格は極めて凶暴頑固で、義雲の侍婢と私通した。(義雲は彼を)数えきれぬほど鞭打ち、籠頭を着けさせ、庭の木に繋ぎ、秣を食べさせ、十余日たってから解放した。夜中、義雲が賊に害されると、それは善昭の佩刀であり、善昭の庭に遺されていた。善昭は難を聞いて駆けつけ泣き叫んだ。家人が佩刀を発見すると、善昭は恐れ、すぐに逃げ出し、平恩の別荘に身を投じた。翌朝、武成帝は舍人の是蘭子暢に命じて邸宅で推問させた。この前、義雲は新たに少室の范陽盧氏(の女性)を側室に迎え、美しい容貌を持っていた。子暢は盧氏が姦人の仕業を疑い、拷問を加えようとした。盧氏は善昭がそうであったと詳しく述べた。そこで捕らえ、臨漳の獄に繋ぎ、斬ろうとした。邢邵が上言し、これは大逆であり、義雲はまた朝廷の貴人であるから、発掘(死体を暴く)してはならないと言った。そこで獄中で斬り、死体を漳水に棄てた。
祖父の畢祖は建寧太守の位にあった。子の畢義遠は平原太守の位にあった。義遠の弟の義顕、義攜は、性格共に豪放で軽率であった。天平年間以後、梁の使者が往来し、兗城を経由した。前後の州将は、義攜兄弟が魚料理の調理が上手で、器物が鮮やかで華美であるため、常に長史を兼ねさせ、賓客を接待宴席に接した。畢祖旋は、太尉行参軍となった。卒すると、都官尚書、斉・兗二州刺史を追贈された。
畢衆敬の弟の衆愛は、兄に従って魏に帰順し、功績により第一客とされ、爵位を钜平侯と賜った。卒すると、徐州刺史を追贈された。諡は康といった。
子の畢聞慰は、字を子安という。器量と才幹があり、爵位を襲い、例により伯に降格された。延昌初年、累進して清河内史となったが、固く病気を理由に辞任した。後に試みに広平内史を守った。正光初年、相州刺史中山王元熙が兵を起こし、元叉を誅殺しようと謀った。聞慰はその使者を斬り、兵を発して抵抗した。元叉は自分に忠実であると考え、滄州刺史に昇進させ、非常に政績があった。後に 散騎常侍 、東道行台に任じられ、まもなく 都督 、安楽王元鑒の軍司馬となり、元法僧を攻めたが敗れた。都に逃げ戻り、弾劾されたが、赦令に遇って免罪された。卒すると、 散騎常侍 、兗州刺史を追贈され、伯の爵位は元の通り、諡は恭といった。
子の畢祖彥は、字を修賢という。書物や伝記に広く通じ、風度は優雅で、当時に知られた。侍御史として元法僧の監軍となり、法僧が反乱すると、脅迫されて南(梁)に入った。後に帰還し、中書侍郎を歴任し、爵位の钜平伯を襲った。卒すると、尚書右僕射、兗州刺史を追贈された。祖彥の弟の祖哲は、秘書郎となった。諸畢氏は朝廷に仕え、栄華貴顕に乏しくなかったが、家庭内の風紀が整わず、当時に軽蔑された。
申纂という者は、もと魏郡の人で、申鍾の曾孫である。皇始初年、道武帝が中山を平定すると、纂は一族を挙げて南に逃亡し、済陰に家を構えた。無塩におり、宋に仕えて兗州刺史となった。敗北した後、子の景義は魏に入った。
羊祉は、字を霊祐といい、太山郡钜平県の人で、晋の太僕卿羊琇の六世孫である。父の規之は、宋の任城県令であった。太武帝が南征し、鄒山に至ると、規之は魯郡太守の崔邪利及びその属県の徐遜、愛猛之らと共に降伏し、爵位を钜平子と賜り、雁門太守に任じられた。
羊祉の性格は強情で、刑名の学を好んだ。 司空 令、輔国長史となり、爵位の钜平子を襲った。公の資財を侵奪窃盗し、私的に居宅を営み、有司がこれを取り調べると、死罪に相当した。孝文帝は特に許して遠方への流刑とした。後に帰還した。景明初年、将作都將となり、左軍将軍を加えられた。四年、節を持って梁州軍司となり、反乱した氐を討伐した。正始二年、王師が蜀を伐つと、祉は仮節龍驤将軍、益州刺史とされ、剣閣から出撃したが帰還した。また本将軍のまま秦・梁二州刺史となり、征虜将軍を加えられた。天性残酷で忍びず、また清廉潔白ではなく、人を掠めて奴婢とする罪に坐した。御史中尉の王顯に弾劾され、免官された。高肇が政権を執ると、祉は再び起用されて光禄大夫となり、仮平南将軍・持節とされ、歩兵騎兵三万を率い、先鋒として涪に向かった。到着しないうちに、宣武帝が崩御し、軍を返した。夜中に軍を進めたが、山に二つの道があり、兵士が迷って道を失った。祉はすぐに隊副の楊明達を斬り、首を路傍に梟した。中尉の元昭に弾劾されたが、赦令に遇って免罪された。後に平北将軍を加えられたが、拝命しないうちに卒した。安東将軍、兗州刺史を追贈された。
太常少卿の元端と博士の劉台龍が諡号について議して言うには、「祉は志に埋輪の心を存し、強禦を避けず、また戎律を賛し、熊武を裁き、節を仗して藩を撫し、辺夷に徳を識らしめ、化は殊類に沾い、繈負仁を懐く。謹んで諡法に依れば、布徳行剛を景と曰う。宜しく景と諡すべし」。侍中の侯剛と給事黄門侍郎の元纂らが駁して言うには、「臣聞く、名と器のみは妄りに仮すべからず。諡を定めるには行いを準え、必ずその跡に当てるべし。按ずるに祉は志性急酷にして、所在に過威あり、布徳は稀に聞こえず、暴声は屡発す。しかるに礼官虚述し、景と諡す。ただ一人を失するのみならず、実に朝則を毀つ。請う、還して外に付し、行いを準えて更に虚実を量らしめよ」。霊太后は令して言う、「駁に依りて便ち議せよ」。元端と台龍が上言して言うには、「窃かに惟うに、諡は行いの跡、状は跡の称なり。然るに尚書は銓衡を司どり、庶物を厘品す。もし状と跡乖けば、抑えて受けず、その実状を録し、然る後に寺に下し、諡法に依り状を準えて科上すべし。豈に行跡を捨て、外に求め、状と称を去りて、何を将てか準えん。祉を検するに、母老を以て藩を辞す。乃ち手詔を降して云う、『卿は綏撫年有り、声実兼ねて著しく、辺を安んじ境を寧んずるは、実に朝望に称う』と。その没するに及び、また顕贈を加え、祉が誠累朝に著しく、効出内に彰る、岷区に牧を作し、字萌の績驟聞すと。詔冊褒美し、倫望に替えず。然れども君子人の使うや、器にするのみ。義に求備無し。徳には数徳あり、優劣同じからず。剛にして能く克つも、亦た徳と為す。謹んで諡法に依れば、布徳行剛を景と曰う。前議を以て允当と謂う」。 司徒 右長史の張烈と主簿の李枿刺が称して言うには、「祉が歴官累朝、官に当たり允称す。西南を委捍し、辺隅靖遏す。行いを準えて名を易え、奨誡の在る所なり。窃かに体例を虧かさずと謂う」。尚書の李詔また奏を述べて府寺の議を以て允当とし、霊太后その奏を可とした。
祉は官に当たってより、強禦を憚らず。朝廷は剛断と為し、時に検覆有り、毎に使いに出さしむ。然れども刑名を好慕し、頗る深文に過ぎ、経る所の処、人は天狗下と号す。及び出で将として州に臨むも、並びに恩潤無く、兵人はその厳虐を患う。子に深有り。
深は字を文泉と為し、早くより風尚有り、学は経史に渉り、兼ねて几案に長ず。少時に隴西の李神俊と同志相友す。 司空 記室参軍より、再び尚書駕部郎中に遷る。時に郎官を沙汰し、才実を精に務む。深は才堪を以て留めらる。公に在りて明断、尚書僕射の崔亮と吏部尚書の甄琛咸く之を敬重す。明帝が釈奠の礼を行い、『孝経』を講ず。深は儕輩の中に独り引聴を蒙り、時論之を美とす。
正光の末、北地の人車金雀らが羌・胡を率いて反叛し、高平の賊宿勤明達が豳・破諸州を寇す。北海王顥が 都督 ・行台と為りて之を討つ。深を行台右丞・軍司と為し、仍って郎中を領す。顥敗れ、京に還る。頃いて、尚書左丞に遷る。蕭宝夤反し、華州を攻囲し、王平・薛鳳賢ら逆を作す。勅して深に給事黄門侍郎を兼ねさせ、大行台・僕射の長孫承業と共に潼関に会し、進止を規模せしむ。事平ぎ、功を以て爵を新泰男と賜う。霊太后曾て芒山に幸し、僧尼を集めて斎会し、公卿尽く坐に在り。太后深を引見し、欣然として之を労問す。左右を顧みて言う、「羊深は真の忠臣なり」と。坐を挙げて傾心す。
荘帝践祚し、太府卿を除し、又二兗行台と為る。深は軍国を処分し、損益機に随い、亦た時に誉有り。初め爾朱栄が朝士を殺害す。深の第七弟の侃は太山太守と為る。性粗武にして、遂に郷人を率いて外に梁寇を招く。深は彭城に在り、忽ち侃の書を得、深を招きて同じく逆せんとす。深慨然として流涕し、使人を斬り、並びに表を収めて聞す。荘帝乃ち詔を下してその忠烈を褒め、朝に還りて勅を受くべしと令す。乃ち京師に帰り、名を除かる。久しくして、金紫光禄大夫を除す。元顥洛に入り、深に黄門侍郎を兼ねさす。景平ぎ、官を免ず。普泰初、 散騎常侍 ・衛将軍・右光禄大夫と為り、起居注を監す。
天下多事より、東西の二省、官員委積す。節閔帝勅して深と常侍の盧道虔・元晏・元法寿に人を選び補定せしめ、奉朝請以上より、各々沙汰有らしむ。尋いで侍中を兼ぬ。節閔帝甚だ之を親待す。時に膠序廃替し、名教陵遅す。深乃ち疏を上し、国学を修立し、胄子を広く延べんことを請う。帝之を善しとす。孝武初、中書令を除す。永熙三年、深に御史中尉・東道軍司を兼ねさす。及び帝関に入り、深は樊子鵠と共に斉神武に従わず、兗州に於いて兵を起こす。子鵠深を署して斉州刺史と為す。天平二年正月、東魏軍討ちて之を破り、陣に斬る。
深の子の肅、武定末に儀同・開府・東閣祭酒。学尚を以て知名。乾明初、冀州中従事と為る。趙郡王が巡省大使と為り、肅は遅緩にして職に任ぜずと解かる。朝議は肅に罪無しとし、尋いで之を復す。武平中、文林館に入り書を撰す。尋いで武徳郡守と為る。
祉の弟の霊引、法律を好む。李彪が中丞と為る時、之を書侍御史と為さんとす。固く辞す。彪頗る之を銜む。及び三公郎と為り、兄の祉の事を知りながら糾さざるに坐し、彪劾奏して官を免ず。甚だ 尚書令 の高肇に昵しまる。京兆王愉は肇と深く相嫌忌す。及び愉出鎮して冀州す。肇は霊引を愉の長史と為し、以て相間伺せしむ。霊引私に肇の勢を恃み、毎に愉に折る。及び愉逆を作すに及び、先ず霊引を門に斬る。時論云う、「ただ愉自ら臣ならざるのみならず、抑も亦た肇及び霊引の致す所なり」と。事平ぎ、平東将軍・兗州刺史を贈り、諡して威と曰う。
子の敦、字は元礼、性は閑素を尚び、学は書史に渉る。父が王事に死するを以て、給事中を除す。出でて本州別駕と為る。公平正直にして、非法を見れば、終に判署せず。後に衛将軍・広平太守と為り、甚だ能名有り。奸吏局蹐し、秋毫も犯さず。雅性清儉にして、歳饑に属し、家饋未だ至らず、人をして外に陂沢を尋ねしめ、藕根を采りて之を食わしむ。疾苦有るに遇えば、家人衣を解きて米を質し、以て之を供す。然れども政は威厳を尚ぶ。朝廷その清白を以て、穀一千斛、絹一百匹を賜う。官に卒す。吏人奔哭し、悲慟せざる莫し。衛大将軍・吏部尚書・兗州刺史を贈り、諡して貞と曰う。武定初、斉神武は敦及び中山太守の蘇淑が官に在りて法を奉じ、清約自ら居するを以て、宜しく追褒を見るべく、仍って上言して旌録を加うることを請う。詔して各々帛一百匹、粟五百斛を賞し、郡国に下し、咸く聞知せしむ。
霊引の弟の瑩、字は霊珍、兗州別駕従事。子に烈有り。
烈は字を信卿と為し、少より通敏にして、頗る自ら修立し、成人の風有り。書を読むを好み、名理を言う能く、玄学を以て知名。魏の孝昌末、烈の従兄の侃が太山太守と為り、郡に拠りて兵を起こし外に叛く。烈潜かに共謀を知り、深く家禍を懼れ、従兄の広平太守の敦と馳せて洛陽に赴きて難を告ぐ。朝廷将に厚賞を加えんとす。烈人に告げて云う、「譬えば手を斬りて躯を全うするが如し。存する者大なるが故のみ。豈に従兄の敗に幸いして、以て己の利と為さんや」と。卒うに受くる所無し。
天保年間(550年-559年)、累進して尚書祠部郎中・左右戸郎中となり、在官中いずれもその職に適うと称された。陽平太守に任ぜられ、能吏としての名声があった。当時しばしば蝗害があったが、陽平郡の境には蝗が入らず、詔書を以て褒め称えられた。光禄少卿・兗州大中正に転じた。天平初年(534年)、義州刺史に任ぜられたが、老齢のため郷里に帰り、家で卒した。
烈は家伝の素業を継ぎ、閨門を修飾し、世に称された。一門の女は再醮しない。北魏の太和年間(477年-499年)、兗州に一つの尼寺を建立し、寡居して子のない女は皆出家して尼となり、皆戒行を保った。烈は天統年間(565年-569年)に尚書畢義雲と兗州大中正の職を争った。義雲は盛んに門閥代々、本州刺史を称揚し、「卿の家は代々我が家の故史(旧来の属官)である」と言った。烈は言う、「畢軌が誅殺されて以来、人物は寂しい。近頃の刺史は皆、境界の上で、互いに得たものであり、何を言うことがあろうか。我が家の漢代の河南尹、晋朝の太傅(薛宣・薛兼)のように、名徳学行、百世に伝えられる美事には及ばない。しかも男は清く女は貞く、以て冠たるに足り、その他にも称すべき点が多い」と。蓋し義雲の帷薄(家内の淫乱)を譏ったのである。
烈の弟の修は才幹があり、尚書左丞の任上で卒した。子は玄正。武平末年(576年)、将作丞。隋の開皇年間(581年-600年)、戸部侍郎。隴西郡贊務の任上で卒した。
論じて曰く、薛安都は一介の武夫に過ぎないが、去就を軽んじたとはいえ、実に東南(の乱)を引き起こした。事窮まりて変を図り、而して竟に寵祿を保ったのは、優れている。休賓は窮して委質し、孝標は東南に名重く、法壽は拓落不羈にして、克く其の後を昌にし、景伯兄弟は儒素にして、良く称えるに足る。衆敬は地を挙げて誠を納め、朝国に栄耀し、人と位並び列し、時に乏しきこと無し。羊祉の剛酷の風は、死を得るを幸いとす。深は才幹を以て事に従い、声跡称すべし。敦・烈は己の遵う所を持し、殆ど時の彦である。
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