薛辯は、字を允白といい、河東郡汾陰県の人である。曾祖父の薛興は、晋の尚書右僕射・冀州刺史・安邑公に任じられ、諡を莊といった。祖父の薛濤は爵を継ぎ、梁州刺史の位に至り、諡を忠惠といった。都が陥落した際、皆が義烈をもって名を馳せた。父の薛強は、字を威明といい、幼少より大志を抱き、軍国を経営する謀略を胸に秘めていた。北海の王猛とは志を同じくし、親しく交わった。桓溫が関中に入った時、王猛は庶民の姿で彼に謁見した。桓溫は言った、「江東には卿に比する者はいない。秦の国には定めて多くの奇士がいるが、そなたのような者はまだ何人いるか。私は彼らと共に南へ行きたい。」王猛は言った、「公が乱を撥ね治世を救うことのできる者を求めるなら、友人薛威明こそその人です。」桓溫は言った、「その名はかねてより聞いている。」ちょうど朝廷の命令が届こうとしていた。薛強はこれを聞き、商山から来て謁見し、王猛と共に軍謀祭酒に任じられた。薛強は桓溫に大志はあるが成功しないことを見抜き、王猛に留まるよう勧めた。間もなく桓溫は敗れた。苻堅が立つと、王猛は重用された。その平陽公苻融が書を送り、車馬をもって薛強を招聘しようとした。王猛は屈すべきではないと考え、取りやめさせた。苻堅が河東に赴き張平を討伐した時、自ら数百騎を率いて薛強の陣営の下に馳せ至り、面会を求めた。薛強は主簿に命じて彼を責めさせた。そこで慷慨として宣言した、「この城には生きて降る臣はおらず、ただ節を守って死ぬ将軍があるのみである。」苻堅の諸将は攻撃を請うたが、苻堅は言った、「我が晋を平定する時を待て。自ら縄を背負って出てくるであろう。これを赦して、君に事える者を勧めよう。」後に苻堅が晋を伐ち、軍が敗れると、薛強は遂に宗族の強兵を統率し、その威勢は河輔に震い、陳川において慕容永を破った。姚興はこれを聞いて畏れ、使者を遣わして礼を厚くし命を加え、右光禄大夫・七兵尚書に徴し召し、 馮翊郡 公に封じ、左戸尚書に転じた。九十八歳で卒した。輔国大将軍・司徙公を追贈され、諡を宣といった。
薛辯は幼少より俊爽で、俶儻として大略が多く、これにより豪傑の多くが帰慕した。薛強が卒すると、再びその営(軍団)を継いで統率した。姚興に仕え、太子中庶子・河北太守を歴任した。薛辯は姚氏の運が衰えたことを知り、遂に職を棄てて家に帰り郷邑を守った。晋の将軍劉裕が姚泓を平定すると、直ちに相国掾に任じられた。間もなく平陽太守に任じられ、北道の鎮守防衛を委ねられた。長安が失陥すると、薛辯は遂に魏に帰順した。引き続き黄河の辺りで功を立て、平西将軍・東雍州刺史の位に至り、汾陰侯の爵を賜った。その年、宮闕に参じ、明元帝は深く器重した。翌年になってようやく任地に戻ることができた。帝は彼に言った、「朕は卿を西蕃に任じ、関右を志す。卿は良き謀略を終わりまで全うし、朕と共に長安の主人となるべきである。」薛辯は任地に戻ると、農を務め戦を教えた。常に数千の兵をもって、赫連氏を押し抗した。帝は大いにこれを褒め称えた。また 并 州刺史に任じられ、征されて大羽真に任じられた。泰常七年、官において卒した。帝はその図ったことが未だ成就しなかったことを以て、深く悼み惜しんだ。 并 ・雍二州刺史を追贈された。
子の薛謹は、字を法順という。容貌魁偉で、才高く博学であった。劉裕に従って江を渡り、府記室参軍の位に至った。薛辯が魏に帰順しようとした時、密かに薛謹に報せたので、薛謹もまた来奔した。河東太守に任じられ、後に汾陰侯の爵を継いだ。始光三年、宜都王奚斤と共に赫連昌を討ち、その東平公乙兜を捕らえ、蒲阪を陥落させた。そこで新旧の百姓を併せて一郡とし、平西将軍に任じられ、再び太守となった。神蒨三年、使持節・秦州刺史に任じられた。山胡の白龍が険阻に依って逆を為したので、太武帝は詔して南陽公奚眷と薛謹を共に都將とし、これを討平させ、涪陵郡公に封じた。太延初年、吐没骨を征討し、これを平定した。薛謹は郡から州に移り、威と恩を兼ねて施し、風化が大いに行われた。当時は兵乱の後で、儒雅の道が廃れていた。薛謹は命じて学校を立て、詩書を教えさせた。農閑期には、全てに学業を受けさせ、自ら邑裏を巡行し、親しく試験を加えた。河汾の地において、儒道が再び興った。真君元年、征されて内都坐大官に任じられ、政務を補佐した。深く賞重され、しばしば政道について諮問され、皇帝の臨幸は前後四度に及んだ。後に従駕して北討に赴いたが、中山王拓跋辰らと共に期日に遅れ、誅殺された。間もなく鎮西将軍・秦雍二州刺史を追贈され、諡を元公といった。
長子の初古拔、一名を車轂拔といい、本名は洪祚であるが、太武帝が名を賜ったものである。沈毅にして器識があった。弱冠の時、司徙崔浩は彼を見て非凡と認めた。真君年間、蓋呉が関右を擾乱し、薛永宗が河畔に屯して拠った。太武帝は親征した。詔して初古拔に宗族郷党を糾合させ、河際に堡塁を築き、二つの賊寇の往来の路を断たせた。事が平定されると、中散に任じられ、永康侯の爵を賜った。太武帝が南討した時、初古拔を都將とし、従駕して江に臨み帰還した。また陸真と共に反乱した氐の仇傉檀・強免生を討ち、これを平定した。皇興三年、 散騎常侍 に任じられ、文成帝の娘西河長公主を娶り、駙馬都尉に任じられた。その年、初古拔の族叔である徐州刺史薛安都が城を拠って帰順したので、勅して初古拔を彭城に派遣して慰労迎えさせ、南 豫 州刺史に任じられた。延興二年、鎮西大将軍・開府儀同三司に任じられ、爵を進めて平陽公となった。三年、初古拔は南兗州刺史游明根・南平太守許含らと共に善政により京師に徴された。献文帝は自ら労い励まし、再び州に還らせた。太和六年、爵を改めて河東公となった。卒すると、左光禄大夫を追贈され、諡を康といった。
長子の薛胤は、字を甯宗という。幼少より父の風があった。弱冠にして中散に任じられた。鎮西大将軍・河東公の爵を継ぎ、懸瓠鎮将に任じられた。間もなく持節・義陽道都將に任じられた。後に立忠将軍・河北太守に任じられた。郡は山河を帯び、俗に盗賊が多い。韓・馬の両姓がそれぞれ二千余家ずつおり、強さを恃み険阻に依って、最も狡猾で害が多く、道路を劫掠し、郷里を侵暴していた。薛胤が郡に着任すると、直ちにその奸悪な首魁二十余人を捕らえ、一度に誅戮した。これにより群盗は気を呑み、郡中は清く粛然とした。郡において卒した。諡を敬といった。
子の薛裔は、字を 豫 孫といい、爵を継いだ。性質豪爽で、盛大に園宅を営み、賓客や声伎を集め、思いのままに嬉遊した。洛州刺史の任において卒した。子の薛孝紳が爵を継ぎ、太中大夫の位に至った。薛孝紳は行いが険薄で、事に坐して河南尹元世俊に弾劾され、死んだ。後に華州刺史を追贈された。
薛抜の弟、洪隆は字を菩提といい、河東太守の位に至った。
薛弁の曾孫、洪隆の長子、薛驎駒。
長子の驎駒は読書を好み、秀才に挙げられ、中書博士に任じられた。斉の使者が来ると、詔により驎駒は主客郎を兼ねてこれをもてなした。没後、河東太守を追贈され、諡は宣といった。初め薛抜が西河公主を娶り、馮翊に賜田があったため、驎駒はそこに移り住んだ。こうして馮翊の夏陽に家を定めた。
薛弁の玄孫、驎駒の長子、薛慶之。
長子の慶之は字を慶集という。学業に優れ、文書事務に通暁し、廷尉丞の位に至った。廷尉寺は北城に隣接しており、かつて夏の日に寺の傍らで一匹の狐を得た。慶之と廷尉正の博陵の人崔纂は、城狐は狡猾で害をなすゆえ速やかに殺すべきか、あるいは成長を育む月であるから秋分を待つべきかと議論した。二卿の裴延俊と袁翻は、それぞれ同意と異論があった。戯れの議論とはいえ、その言葉の内容は見るべきものがあり、事柄は世に伝わった。後に左丞を兼ね、 并 州・肆州行台となり、龍丘子の爵を賜り、滄州刺史を代行した。葛栄に攻囲され、城は陥落した。まもなく病を得て没し、華州刺史を追贈された。
薛弁の玄孫、慶之の弟、薛英集。
慶之の弟、英集は性質が率直で物事にこだわらなかった。舅の李崇に従って揚州におり、軍功により累進して書侍御史・通直 散騎常侍 に至り、没した。英集の子は薛端である。
薛弁の五世孫、英集の子、薛端。
薛端は字を仁直といい、本名は沙陀である。志操があり、父の喪に遭い、喪に服する礼を尽くした。弟の薛裕と共に精神を奮い立たせ学問に励み、人付き合いをしなかった。十七歳の時、 司空 の高乾邕に召し出されて参軍となり、平陰男の爵を賜った。薛端は天下が乱れているのを見て、官を棄てて郷里に帰った。魏の孝武帝が西遷すると、周の文帝(宇文泰)は大 都督 の薛崇礼に命じて龍門を守らせ、薛端を同行させた。崇礼はまもなく守りを失い、東魏に降った。東魏は行台の薛修義に命じて乙幹貴を督し西進させ、楊氏壁を占拠させた。薛端は宗族や家僮らと先に壁中におり、修義はその兵に命じて薛端らを東へ渡らせようと迫った。ちょうど黄河を渡ろうとした時、日が暮れ、薛端は密かに宗室や家僮らと共にこれに背いた。修義も騎兵を遣わして追わせたが、薛端は戦いながら駆け、遂に石城柵に入り、難を免れた。柵の中には先に百戸がおり、薛端は彼らと力を合わせて固守した。乙幹貴らはたびたび慰撫の言葉を送ったが、薛端に降伏の意思がないと知ると、兵を引き上げて河東に帰った。東魏はまたその将の賀蘭懿と南汾州刺史の薛琰達を遣わして楊氏壁を守らせた。薛端はその配下を率い、さらに村人を招き諭し、多くの奇兵を設けてこれに臨んだ。賀蘭懿らは大軍があると疑い、東へ逃れ、船に赴く途中で溺死した者は数千人に及んだ。薛端はその兵器を収め、再び楊氏壁に戻った。周の文帝は南汾州刺史の蘇景恕を遣わしてこれを鎮守させた。降って書を下して労い、薛端を召し出して朝廷に赴かせ、大丞相府戸曹参軍とした。竇泰を捕らえるのに従い、弘農を回復し、沙苑で戦い、いずれも功があり、爵を伯に進めた。後に交城県伯に改封され、累進して吏部郎中に至った。
薛端の性質は強直で、奏請するたびに、権貴をも避けなかった。周の文帝はこれを賞賛し、故に端の名を賜り、名と実質が相応するようにさせようとした。選曹(吏部)に任じられてからは、まず賢能を尽くし、たとえ貴遊の子弟であっても、才能が劣り行いが薄い者は、一度も昇進させなかった。しばしば周の文帝に啓上して言うには、「官を設け職を分けるのは、もともと時務を安んずるためであり、もしその人を得なければ、むしろ職を空しくしておく方がよい。」周の文帝は深くこれに同意した。大統十六年、軍が東征する際、柱国の李弼が別道の元帥となり、すぐれた僚属を選んでいたが、数日たっても決まらなかった。周の文帝は李弼に言った、「貴公のために一人の長史を思いついたが、薛端に及ぶ者はいない。」李弼は答えて言った、「真の才です。」そこで彼を遣わした。尚書右丞に転じ、引き続き選事を掌った。
梁の主(後梁の蕭察)がかつて瑪瑙の杯を献上した。周の文帝はそれを持ち、丞郎たちを見回して言った、「樗蒲の頭(賽)を投げて盧(五子皆黒)を得た者に、この杯を与えよう。」すでに数人が投げて得られなかった。しばらくして薛端の番となり、彼は樗蒲の頭を取って言った、「この杯が貴いからではなく、ただ誠意を表したいと思うだけです。」そしてそれを投げると、五つの賽はすべて黒であった。文帝は大いに喜び、直ちにそれを薛端に賜った。
魏の皇帝(西魏の恭帝)が廃されると、近臣の中には文帝(宇文泰)に即位を勧める者がいた。文帝は薛端を召してこれを告げた。薛端は、三方(東魏・南朝梁など)が未だ統一されておらず、急いで正統の名号を称えることは、天下に度量の広くないことを示すことになると考えた。僭偽を平定し剪除するのを待ってから、それから民衆の推戴に従って即位されるよう請うた。文帝は薛端の背を撫でて言った、「我を成す者は卿である。卿の心が既に我と同じなら、身もまた我と異なることがあろうか。」そして自ら着ていた冠帯・袍・袴を脱いでことごとく薛端に賜った。吏部尚書に進めて授け、宇文の姓を賜った。薛端は長く選曹にいて、人倫を見抜く鑑識に優れ、その抜擢任用した者は、いずれもその才能を得ていた。六官が建てられると、軍司馬に任じられ、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵を侯に進めた。
周の孝閔帝が即位すると、再び転じて戸部中大夫となり、爵を公に進めた。晋公の宇文護が帝(孝閔帝)を廃そうとした時、群臣を召してこれを議した。薛端は大いに異同を論じたので、宇文護は喜ばず、蔡州刺史として出された。政治は寛大で恵み深く、人吏は彼を愛した。基州刺史に転じた。基州の地は梁・陳と接しており、事柄は鎮撫による必要があった。総管の史甯は司馬の梁栄を遣わして赴任を促がさせた。蔡州の父老が梁栄に訴え、薛端の留任を請うた者は千余人に及んだ。基州に着いてまもなく、没した。遺言で薄葬を戒め、府州からの贈り物は一切受け取るなと命じた。生前の官位を追贈され、大将軍を加えられ、文城郡公に進封され、諡を質といった。子の薛胄が後を嗣いだ。
薛弁の六世孫、薛端の子、薛胄。
薛胄は字を紹玄といい、幼少より聡明で、異書を読むたびに、その意味を理解した。常に訓詁注釈をする者が聖人の深い旨を会得していないと嘆き、自らの考えでこれを弁じたので、諸儒はみな称賛せざるを得なかった。性質は慷慨として、功名を立てる志があった。周の明帝の時、文城郡公の爵を襲い、累進して上儀同に至り、まもなく司金大夫に任じられ、後に開府を加えられた。
隋の文帝が禅譲を受けると、三度転じて兗州刺史となった。任地に着くと、囚人は数百人に及んだ。薛冑は剖断すること十日にして完了し、牢獄は空となった。陳州の者に向道力という者がおり、高平郡守を偽って、任地に赴こうとしていた。薛冑は途中でこれに出会い、その様子に怪しい点があるのを察知し、留めて詰問しようとした。司馬の王君馥が強く諫めたので、郡に赴くことを許した。しばらくしてこれを後悔し、すぐに主簿を遣わして向道力を追わせた。管下の者に徐俱羅という者がおり、かつて海陵郡守を務めたことがあったが、以前にすでに向道力に偽って代わられていた。任期が満ちる頃まで、公私ともに気づかなかった。徐俱羅は王君馥に言った、「向道力は以前に郡守を賜って代わった者です。使君(薛冑)はどうして疑うことができましょうか」。王君馥は徐俱羅の申し立てを根拠に、また強く薛冑に請うた。薛冑が叱責すると、王君馥はやっと止めた。ついに向道力を捕らえると、向道力は恐れて偽りを自白した。このように奸悪を暴き、隠れた罪を摘発することは、みなこの類であった。当時の人は彼を神明の如しと称した。以前、兗州城の東で沂水と泗水の二つの川が合流して南に流れ、大沢の中に氾濫していた。薛冑はついに石を積んで堰を築き、流れを西に注がせるように決め、陂沢はことごとく良田となった。また転運を通じさせ、その利は淮海にまで及び、百姓はこれを頼りとし、薛公豊兗渠と号した。
薛冑は天下が太平であると考え、ついに博士を遣わして泰山に登らせ古跡を観察させ、封禅の図及び儀礼について撰述して上奏した。帝は謙譲して許さなかった。 郢州 刺史に転じ、恵みある政治を行った。召し出されて衛尉卿に任ぜられ、さらに大理卿に転じ、法を執行するのに寛大で公平であり、称職と評された。刑部尚書に昇進した。当時、左僕射の高熲が次第に疎まれ忌避されるようになり、王世積が誅殺された際、高熲の事がこれに関連した。上(文帝)はこれによって高熲の罪を確定させようとした。薛冑は高熲の無実を明らかにし、その獄について正しい議論を行った。これによって上意に逆らい、枷をはめられ拘禁されたが、長じてから免じられた。相州の事務を検査し、非常に有能な名声があった。
漢王楊諒が 并 州で乱を起こし、その将の綦良を東方に派遣して土地を攻略させ、慈州を攻め脅かした。刺史の上官政が薛冑に援軍を請うたが、薛冑は楊諒の軍勢の鋒鋭を恐れ、敢えて拒むことができなかった。綦良がさらに兵を率いて薛冑を攻めると、薛冑は計略をもってこれを退けようとし、親しい者である魯世范を遣わして綦良を説得させて言った、「天下の事は未だ知れない。薛冑は人臣として、去就は必ずその所を得なければならない。どうして急いで攻め合う必要があろうか」。綦良はそこで兵を解いて去り、進んで黎陽を包囲した。後に綦良が史祥に攻撃されると、軍を捨てて薛冑のもとに帰ってきた。朝廷は薛冑が二心を抱いていると考え、鎖をかけて大理寺に連行した。相州の官吏や民衆は平素からその恩恵を慕っており、宮廷に赴いて薛冑の無実を訴える者は百余人に及んだ。薛冑は結局罪に坐して除名され、嶺南に配流されて防人とされ、途中で死去した。子の薛筠、薛献は名を知られた。
薛弁の五世孫、薛端の弟、薛裕。
薛端の弟、薛裕、字は仁友。若い頃から孝悌をもって州里に聞こえた。弱冠にして、丞相参軍事となった。当時、京兆の韋夐は放逸に志し安んじ、世務に関わらなかった。薛裕はその恬静さを慕い、数度にわたり酒肴を携えて訪ね、終日談笑して宴を楽しんだ。韋夐はついに従孫娘を薛裕に嫁がせた。薛裕はかつて親友に言った、「大丈夫たるもの、聖明の世運に当たりながら、灼然たる文武の用があって世に知られることがなければ、たとえ忙しく奔走しても、徒らに労苦するだけである。韋居士のごときは、退いても丘壑に隠れず、進んでも市朝に出ず、怡然として道を守り、栄辱も及ばない。なんと楽しいことか」。
薛裕はかつて韋夐の家で宴会に泊まったことがあった。後庭に井戸があり、薛裕が夜に戸外に出ると、誰かがその手を引こうとするかのようであった。薛裕が後ずさりしたところ、井戸に落ちてしまった。同席の者たちが共に彼を引き上げ、そこで薛裕に酒を勧めて言った、「さきほどは卿が韋夐に不測の事があらんことを憂えたが、幸いにも他事なくてよかった。この杯を尽くすべきだ」。薛裕は言った、「井戸に落ちたのは小さなことだ。まさにこれ以上のことがあろう」。人がそのわけを尋ねると、薛裕は言った、「近ごろ夢を見た。恐らくは両楹の憂いがあるだろう」。まもなく死去し、文章の士で誄を捧げた者は数人いた。周の文帝(宇文泰)は傷み惜しみ、洛州刺史を追贈した。
薛弁の六世孫、薛冑の従祖弟、薛濬。
薛冑の従祖弟、薛濬、字は道賾。父は薛琰、周の渭南太守。薛濬は幼くして孤となり、母を養って孝行で知られた。幼い頃から学問を好み、志操と行いがあった。周の天和年間、虞城侯の爵を襲い、新豊県令の位にあった。隋の開皇年間、尚書虞部侍郎、考功侍郎を歴任した。帝は薛濬が母に孝行であると聞き、その母が年老いているので、輿服・几杖・四季の珍味を賜い、当世の人々はこれを栄誉とした。後にその母が病気になると、薛濬の容貌は甚だ憂いに憔悴し、親戚や旧知でも彼とわからないほどであった。母の喪に服すと、詔により鴻臚寺が喪事を監護し、夏陽に帰葬した。時は厳冬の極寒であり、薛濬は喪服を着て徒歩で、霜雪を冒し、京から郷里まで五百余里を、足は凍えて指が落ち、傷から血が流れ続けた。朝廷と民間はこれを見て傷み痛んだ。州里からの贈り物や援助は、一切受け取らなかった。まもなく起用されて職務に就くと、上(文帝)はその衰弱が甚だしいのを見て、そのために顔色を変え、群臣を顧みて言った、「朕は薛濬が哀痛のあまり衰え萎えるのを見て、思わず悲感に駆られて胸が痛む」。長く嘆き驚いた。薛濬はついに喪に堪えられず、病んでまもなく亡くなった。その弟の薛謨は当時、晋王府兵曹参軍事として揚州にいた。薛濬は薛謨に遺書をしたためた:私は不幸にも、幼くして艱難酷薄に遭い、貧窮して遊行し、質素な住まいにあり、しばしば簞食瓢飲も絶えた。晩年に生まれ早く孤となり、『詩経』や『礼記』を聞くこともなかった。先人の遺した訓戒を奉じ、母の賢明で善良な教えを受けることができたおかげである。書物を背負い糧食を包み、艱難遠隔を厭わず、師に従って学業に就き、やめようとしてもやめられなかった。行いを磨き心を砥ぎ、困窮すればますます篤く、教義を胸に受け、ついに成長した。耒を捨てて朝廷に登って以来、今に至るまで二十三年になる。官位は聞こえ高くはなかったが、俸禄によって喜んで親に及ぶことができ、なんとか長寿を保ち、親の生前に孝養を尽くして終えられようと願っていた。どうして誠心誠意が感じられず、禍いと酷薄が重なって来ようとは。兄弟ともに奪情(喪中起用)され、粗末な小屋で哀訴を申し上げることもできなかった。これによって心を叩き血を泣き、気を失い魂を砕く思いである。やがて傷は大きく隙は深く、苦痛に耐えられず、手を啓き足を啓き(臨終の言葉)、幸いにも全き身で帰ることができた。もし死してなお知覚があるならば、地下で先人に従うことができるであろう。これこそ至上の願いではないか。ただ、お前が孤独に宦途にあり、遠く辺境の地にいることを思うと、この悲しみはどう言い表せようか。すでに手紙をしたため、お前に会って決別したいと願い、死を忍んでお前を待ち、すでに十日を経た。お前はまだ来ないうちに、今と昔となってしまい、はるかに遠く永遠の別れとなる。遺恨は何と言おうか。努めよ、努めよ。
書を書き終えて絶命した。役人がこれを上聞すると、文帝はこれに涙を流し、使者を降して冊書を持たせて弔祭させた。薛濬の性質は清廉で倹約であり、死んだ日には家に残った財産はなかった。
薛濬がまだ子供の頃、宗族の子供たちと澗のほとりで遊んでいたとき、一匹の黄色い蛇を見た。角と足があった。他の子供たちを呼んで一緒に見せたが、誰も見えなかった。不吉だと思い、帰宅して大いに憂い憔悴した。母が尋ねると、ありのままを答えた。ちょうど胡僧が家に来て食物を乞うたので、母がそのことを告げた。僧は言った、「これはこの子の吉兆である。かつこの子は早くから名位を得るが、しかし寿命は六七を過ぎないであろう」。言い終わって出て行き、忽然として見えなくなった。後に四十二歳で亡くなり、六七という言葉は的中した。子の薛乾福は、武安郡司倉書佐となった。
薛弁の孫、薛洪隆の弟、薛湖。
薛洪隆の弟、薛湖、字は破胡。若い頃から節操があり、学問に志を篤くし、専心して講習に励み、時務に関わらず、人と争わず、よく徳義をもって人を服させた。兄弟で争い、隣里で訴訟を起こす者がいても、薛湖に聞かれるのを恐れ、皆内心から悔い改めた。郷里はその風教に感化され、皆敬譲を第一とした。三度州都に召され、二度主簿に辟召されたが、州将は心を傾けて礼を尽くしたが、薛湖はやむを得ず応じた。本州の中従事、別駕となり、河東太守に任ぜられた。兄弟ともに本郡の太守となり、当世の人々はこれを栄誉とした。さらに詔を受けて仇池都将となった。後に郡を罷め、家で亡くなった。八人の子があり、長子の薛聰が名を知られた。
薛弁の曾孫、薛湖の子、薛聰。
薛聰、字は延智。方正で理識があり、自らをよく標榜し、みだりに遊興したり交際したりしなかった。暗室の中にいても、終日謹み深く威厳があり、見る者はみな凛然として敬意を加えた。広く典籍を博覧し、精力は人に優れ、先人の言行については多く究明し理解した。言葉による弁論や応対は、特にその長じるところであった。父の喪に遭い、墓のそばに小屋を建てて住み、哭泣の声は、通りかかる人を酸鼻に感じさせた。兄弟仲は篤く睦まじかったが、家の教えは非常に厳しく、諸弟は結婚し官にあっても、常に杖罰を免れず、彼らは薛聰に対して恭しくしていた。弱冠に至る前に、州から主簿に辟召された。
太和十五年、著作佐郎に初めて任官した。当時、孝文帝は氏族に心を留め、官品を正定していた。士大夫が官途に就く場合、優れた者でも奉朝請を超えることはなかった。薛聰は初任官から著作佐郎に任ぜられ、当時の論評はこれを称えた。後に書侍御史に転じ、凡そ弾劾するに当たっては、権勢を憚らなかった。孝文帝が時に寛大に赦そうとすると、薛聰は必ず諫争した。帝は常々言った、「朕は薛聰を見ると、畏れずにはいられぬ。ましてや他の者たちであろうか?」と。これより貴戚は手を控えるようになった。累進して直閣将軍となり、給事黄門侍郎・ 散騎常侍 を兼ね、直閣将軍の職は元の通りであった。
薛聰は深く孝文帝に知られ、外に対しては徳器ある者として遇し、内では心腹として信頼を寄せられた。親衛の禁兵を委ねられ、総管して統領した。故に太和年間の終わりまで、常に直閣将軍を帯びていた。群臣が朝を罷めた後も、薛聰は常に帷幄に陪侍し、昼夜を分かたず語り合った。時政の得失について、事前に謀議に参与し、動くごとに匡正諫言し、その多くは聞き入れられた。しかし重厚沈黙で、外からはその内情を窺うことができなかった。帝が名位を進めようとすると、苦しんで辞退して受けなかった。帝もまた雅量をもってこれを察し、彼に言った、「卿の天爵は自ずから高い。固より人爵の栄えるところではない」と。また羽林監に任ぜられた。
帝はかつて朝臣と海内の姓氏・地望・人物について論じ、戯れて薛聰に言った、「世間の人々は卿の一族の薛氏を蜀人と言うが、果たして蜀人なのか?」と。聰は答えて言った、「臣の遠祖の広徳は、代々漢朝に仕え、当時の人々は漢と呼びました。臣の九世の祖の薛永は、劉備に従って蜀に入り、当時の人々は蜀と呼びました。臣が今陛下に仕えているのは、虜(北朝の民)であって蜀ではありません」。帝は手を打って笑い、「卿は幸いにも自ら蜀でないことを明らかにしたのに、どうしてまた朕を苦しめるのか」と言った。聰は戟を投げ出して退出した。帝は「薛監は酔ったのだ」と言った。このように知遇を得ていた。
二十三年、帝の南征に従駕し、御史中尉を兼ねた。宣武帝が即位すると、 都督 ・斉州刺史に任ぜられ、政治は簡素で静謐を旨とした。州において卒去し、官吏民は追慕し、彼が座っていた榻を留めて遺愛を偲んだ。征虜将軍・華州刺史を追贈され、諡して簡懿侯といった。魏の前二年(西魏の紀年か)、重ねて車騎大将軍・儀同三司・延州刺史を追贈された。子の薛孝通が最も著名である。
孝通は字を士達という。博学で俊才があった。蕭宝夤が関中を征する時、驃騎大将軍府事に参じるよう招き、礼遇は甚だ厚かった。宝夤が異心を抱こうとした時、孝通はその兆しを悟り、墓参りを口実に帰郷を求め、許された。同僚は皆怪しみ、引き留めたが、ただ笑って答えず、急いで郷里に帰った。宝夤は後に果たして逆命を起こした。
北海王元顥が洛陽に入ると、同族の薛永宗・薛修義らがまた徒党を集めて乱を起こし、これに呼応しようとした。孝通は親しい者と謀り、「北海王は虚を衝いて遠く入ったが、呉の兵は長く留まれず、事は必ず成らない。今もし永宗らと挙兵すれば、滅族の道である」と言った。そこで近親を率い、河東太守の元襲と共に城を守って固く防いだ。宝夤が平定され、元顥が退走すると、この事に関わった者は皆禍に遭ったが、孝通と同調した者のみが免れた。事が収まると、洛陽に入り、員外散騎侍郎に任ぜられた。爾朱天光が関右を鎮守する時、上表して関西大行台郎中とし、深く信任された。関中平定に、その力に与かり、功により汾陰侯の爵を賜った。孝荘帝が幽閉されて崩御し、元曄はまた血縁が遠いため、社稷の主を改めて議した。孝通は、広陵王元恭が高祖(孝文帝)の猶子(甥)であり、また近親にあり、平素から令望があると考えた。長年ものを言わないのは、理として陽に 瘖 であるに違いない。これを奉じて主とすれば、天意と人心が和するだろう、と言った。爾朱世隆らは皆疑った。孝通は密かに天光を助けてこれを探らせた。広陵王は「天何ぞ言わんや」と言った。ここに定策し、これが節閔帝である。大議を首唱した功により、銀青光禄大夫・ 散騎常侍 に任ぜられ、中書舎人を兼ね、藍田県子に封ぜられた。孝通は官位を以て亡兄の景懋に追贈することを求め、また自分には侯爵があるので、兄の息子の薛舒に転授するよう請うた。節閔帝は上奏文を覧て感傷し、侯爵は重いので転授は許されないとして、詔を下して褒め称えた。特に景懋に撫軍・北雍州刺史を追贈した。孝通はまもなく中書郎に転じ、深く節閔帝に知遇を得て重んじられた。
普泰二年正月乙酉、中書舎人元翽が酒肴を献上した。帝は元翌及び孝通らと宴を開き、弦管を奏で、元翽に笛を吹かせた。帝もまた自ら和した。そこで元翌らに嘲(からかいの詩)を作らせ、酒を韻とした。孝通は「既に堯舜の君に逢い、願わくは万年の寿を上ぐ」と言った。帝は「平生玄黙を好むも、慚ずるは万国の首たるを」と言った。帝は「卿の言う寿は、どうして徒然であろうか!」と言い、直ちに酒を酌んで孝通に賜り、さらに嘲を作るよう命じ、中断を許さなかった。孝通は直ちに忠を韻に立てた。帝は「卿は忠臣の心を忘れない」と言った。元翽は「聖主万機に臨み、世を享くること永く窮まり無し」と言った。孝通は「豈に唯だ草木に被るのみならん、方に亦た昆虫に及ばん」と言った。元翌は「朝賢既に済済たり、野苗又た芃芃たり」と言った。帝は「君臣魚水の体、書軌華戎を一にす」と言った。孝通は「微臣慶渥を信ず、何を以てか華嵩に答えん」と言った。この時、孝通は内では機密を掌り、外では朝政に参与し、軍国の動静について、事前に謀議に参与した。加えて人物を引き立て、知名の士を多く推薦した。
外兄の裴伯茂は性質豪放で、多くのものを軽んじた。ただ孝通を欽賞し、著述があるごとに、共に異同を参酌した。孝通は裴の宏放が過ぎると思い、常々彼に言った、「兄は阮籍・嵇康を管仲・楽毅と比べてどう思うか?」と。これは自ら経綸の才を許し、裴の傲りを抑えようとしたのである。裴は笑って答えず、宏放は元の通りであった。
時に斉の神武帝が河朔に挙兵し、相州刺史劉誕を攻め落とした。爾朱天光は関中よりこれを討たんとした。孝通は関中の険固なること、秦漢の旧都たるを以て、予め鎮撫の謀をめぐらし、後の計とすべきことを説き、たとえ河北に利あらずとも、なおこれを拠るに足るとした。節閔帝は深く然りとし、誰を任ずべきかを問うた。孝通は賀抜岳とともに天光に仕え、また周の文帝(宇文泰)と旧交があった。二人はともに先に関右におり、因ってともにこれを推薦した。そこで岳を超擢して岐・華・秦・雍諸軍事、関西大行台、雍州牧に任じた。周文帝を左丞とし、孝通を右丞とした。詔書を携えて駅伝を馳せて関中に入り、岳らに授け、ともに長安を鎮守せしめた。岳は深く器重し、師友の礼をもって遇した。孝通は周文帝と兄弟の契りを結び、情誼は特に厚かった。後に天光が韓陵にて敗れると、節閔帝は遂に関中に入ることができず、斉の神武帝に幽閉廃位された。孝武帝即位後、神武帝がようやく志を得て、賀抜岳を冀州刺史として召し出そうとした。岳は恐れ、単騎で朝に入らんとした。孝通はそこで岳に謂うには、「高王(神武帝)は数千の鮮卑をもって爾朱の百万の衆を破り、その鋒鋭は誠に敵い難し。然れども公の両兄(賀抜允・賀抜勝)は太師・領軍として、元よりその上位に在り。侯深・樊子鵠・賈知・斛斯椿・大野胡也杖・吒呂延慶の徒は、爾朱の世においては皆その同輩なり。韓陵の役、この輩は前後して降附せしも、皆事勢の危逼によるもので、その本心にあらず。高王より見れば、曹操の孔融、司馬懿の諸葛誕の如きものなり。今あるいは京師に在り、あるいは州鎮を拠る。これを除けば人望を失い、これを留めれば腹心の疾となる。たとえ孫騰を闕下に置き、婁昭を鉤陳に処すとも、必ずや建安の時の如くならざるは明らかなり。今これを観るに、隙難は未だ已まず。吐萬仁(爾朱兆)は退逸したるといえども、なお 并 州に在り。高王の計は、先ずこれを平殄するを須う。今方に群雄を綏撫し、内外を安置せんとす。何ぞその巣穴を去りて、公と関中の地を争わんや。かつ六郡の良家の子、三輔の礼義の人、幽・ 并 の 驍 騎を超え、汝・潁の奇士に勝る者、皆公を仰ぎ係り、その智力を効さんとす。華山を拠りて城雉と為し、黄河に因りて池塹と為せば、退守して封泥を失わず、進兵して建水に同じ。乃ち束縛して人の制を受かんと欲するは、鄙ならずや」と。言い終わらざるに、岳は孝通の手を執りて曰く、「君の言うところ是なり」と。乃ち謙遜の辞をもって上啓し、征に応ぜず。
太昌元年、孝通は使いとして入朝し、そのまま京師に留め置かれ、重ねて中書侍郎に任ぜられた。永熙三年三月、常山太守として出され、なお節閔帝に任用された故による。孝武帝が西遷するに及び、ある者は孝通が周の文帝と親密に交わり、かつ賀抜岳を立てて関中を鎮守させる計略を設けたことを称し、遂に拘束され、晋陽に赴かんとした。引見に及んで、皆これに憂えた。孝通は神気従容として、言辞道理は切実正しく、斉の神武帝は更に相欽歎し、即日に赦免した。然れどもなお疑忌を抱き、位秩を加えず、ただ坐客として引き入れ、時に文典の大事を訪うるのみであった。斉の神武帝が剣履上殿を譲る上表は、なお彼に文を作らしめた。曾て諸人とともに晋祠に詣で、皆膝を屈して礼を尽くした。孝通ひとり手を捧げて拝せず、顧みて言うには、「これは諸侯の国なり、吾れより去ること何ぞ遠からん、恭にして礼にあらざれば、神の笑うところとならん」と。拝する者慚じた。興和二年、鄴にて卒す。西魏の前二年(大統二年か)、周の文帝は旧好を追軫し、上奏して車騎將軍・儀同三司・青州刺史を追贈させた。北斉の武平初年、また鄭州刺史を追贈した。文集八十巻、時に行われた。
薛辯の五世の孫、孝通の子に道衡あり。
子の道衡、字は玄卿。六歳にして孤となり、専精好学す。十歳の時、『左伝』を講じ、子産が鄭を相する功を見て、『国僑賛』を作り、頗る詞致あり、見る者これを奇とした。その後、才名益々著し。北斉の司州牧・彭城王高浟が兵曹従事に引き入れた。尚書左僕射楊愔これを見て嗟賞し、奉朝請を授けた。吏部尚書隴西の辛術と語り、歎じて曰く、「鄭公業(後漢の鄭泰)亡びず」と。河東の裴讞これを見て曰く、「鼎が河朔に遷りて、吾れは'関西孔子'(楊震を指すか)と謂えども、その人に遇うこと稀なり。今また薛君に遇う」と。
武成帝即位後、 散騎常侍 を兼ね、周・陳二国の使者に対応した。武平初年、詔により諸儒とともに五礼を修定し、尚書左外兵郎に任ぜられた。陳の使者傅縡が斉に聘した時、道衡は主客郎を兼ねてこれに対応した。縡は詩五十韻を贈り、道衡これに和し、南北に称美された。魏收曰く、「傅縡の謂うところは、蚓を以て魚に投ずるなり」と。文林館に待詔し、范陽の盧思道・安平の李徳林と斉名し親善した。また本官のまま中書省に直し、まもなく中書侍郎に拝され、なお太子侍読を参じた。北斉後主の世、次第に親任され、侍中斛律孝卿とともに政事に参与した。道衡は周に対する備えの策を具に陳べたが、孝卿は用いなかった。
斉が滅亡すると、周の武帝は御史二命士に引き入れた。後に郷里に帰り、州主簿より入って司禄上士となり、隋の文帝が丞相となると、元帥梁睿に従って王謙を撃ち、陵州刺史を摂った。大定年中、儀同に授かり、邛州刺史を守った。文帝が禅を受けると、事に坐して除名された。
河間王楊弘が突厥を北征する時、召して軍書を典掌せしめた。還りて、内史舎人に任ぜられた。その年、 散騎常侍 を兼ね、陳に聘する使主となった。道衡は因って奏上して曰く、「陛下は比来三代の霊に継ぎ、九州を平らげられたり。豈に区区の陳を以て、久しく天網の外に在らしめんや。臣今使いを奉じ、藩を称することを責めんことを請う」と。帝曰く、「朕は且く含養し、度外に致す。言辞を以て相折ることなかれ」と。江東は雅に篇什を好み、陳主は特に雕虫を愛す。道衡の作る所ある毎に、南人はこれを吟誦せざるはなかった。
八年(開皇八年)に陳を伐つに及び、淮南道行台尚書吏部郎に拝され、文翰を兼ねて掌った。王師が江に臨むや、高熲は夜の帳中に謂いて曰く、「今度は必ず江東を平定するか否か、君試みに言え」と。道衡答えて曰く、「凡そ大事の成敗を論ずるには、先ず至理を以て断ずるを須う。『禹貢』に載する所の九州は、本より王者の封域なり。郭璞に云う、'江東は三百年偏王し、還って中国と合す'と。今その数将に満たんとす。運数を以て言えば、その必ず克つこと一なり。徳有る者は昌え、徳無き者は亡ぶ。古より興滅、皆この道より由る。主上は躬みて恭倹を履み、庶政を憂労す。叔宝(陳後主)は峻宇雕牆、酒に酣え色に荒ぶ。その必ず克つこと二なり。国を為すの体は、任寄に在り。彼の公卿は、員を備うるのみ。小人の施文慶を抜きて政事を委ね、 尚書令 江総は唯だ詩酒に事とり、本より経略の才に非ず。蕭摩訶・任蛮奴はその大将たりと雖も、一夫の用のみ。その必ず克つこと三なり。我は道有りて大なり、彼は徳無くして小なり。その甲士を量るに、十万を過ぎず。西は巫峡より、東は滄海に極るまで、これを分かてば勢懸けて力弱く、これを聚めれば此れを守りて彼を失う。その必ず克つこと四なり。席捲の勢い、その疑い無きに在り」と。熲は忻然として曰く、「君の成敗を言うこと、理甚だ分明なり。本より才学を以て相期せしも、籌略の乃ち爾るを意わざりき」と。還りて吏部侍郎に任ぜられた。
後に人物を抜擢したことで罪に坐し、彼が蘇威と徒党を組み、任用に私意があったという言上があり、除名の上、嶺表に配流された。晋王楊広は当時揚州におり、密かに人を遣わして道衡に勧め、揚州経由の道を行き、上奏して留めようとした。道衡は王府を好まず、漢王楊諒の計略を用いて、江陵の道より出立して去った。まもなく詔により召還され、内史省に直った。晋王はこれにより彼を恨んだ。しかしその才能を愛し、なお大いに礼遇した。数年後、内史侍郎を授けられ、上儀同三司を加えられた。道衡は文を構えるたびに、必ず隠れて空いた書斎に坐り、壁に向かって臥し、戸外に人の気配がすると怒った。その沈思はこのようなものであった。帝は常々言った。「道衡の作文は我が意にかなう。」しかし迂闊で荒唐な点を戒めた。後に帝は楊素、牛弘に言った。「道衡は老いた。駆使して勤労させているので、朱門に戟を陳列させるのがよい。」そこで上開府に進められ、物百段を賜った。道衡は無功を理由に辞した。帝は言った。「汝は長く階陛に労し、国家の大事は皆汝が宣べ行った。これが汝の功でないというのか。」
道衡は久しく枢要の地位に当たり、才名はますます顕著となった。太子、諸王は争って交わりを求め、高熲、楊素は平素より推重し、名声は盛大で、当時並ぶ者なかった。仁寿年間、楊素が朝政を専掌した。道衡は既に楊素と親しく、上は道衡に長く機密を知らせたくないと思い、出向させて襄州総管を検校させた。道衡は一旦出されることとなり、悲しみ慕う気持ちに耐えず、言葉に詰まって嗚咽した。帝は悲しそうに顔色を変えて言った。「汝の光陰は晩年となり、侍奉は誠に労多かった。朕は汝に養生させようと思っていた。今汝が去るのは、朕が一臂を断たれるようなものだ。」そこで物三百段、九環の金帯と時服一襲、馬十匹を与え、慰労して送り出した。任にあっては清廉簡素で、吏民はその恵みを懐かしんだ。
煬帝が位を嗣ぐと、潘州刺史に転じた。一年余りして、上表して致仕を求めた。帝は内史侍郎虞世基に言った。「道衡が来たら、秘書監をもって遇すべきだ。」道衡が到着すると、『高祖文皇帝頌』を上った。帝はこれを見て喜ばなかった。蘇威を顧みて言った。「道衡は先朝を美しく致す。これは『魚藻』の義である。」そこで司隸大夫に拝し、罪に置こうとした。道衡は悟らず、司隸刺史房彦謙は平素から親しく、必ず禍が及ぶと知り、賓客を絶ち、言葉を低くしてへりくだるよう勧めたが、道衡は用いなかった。ちょうど新令について議論し、長く決まらなかった時、道衡は朝士に言った。「もし高熲が死なずにいたならば、令はとっくに施行されていただろう。」ある者がこれを奏上した。帝は怒って言った。「汝は熲を憶うのか?」執法者に付して推問させた。道衡は大過ではないと思い、司法官庁に早く解決を促した。上奏の日、帝が赦すことを期待し、家人に命じて食事を整え、客や見舞いの者に備えさせた。上奏がなされると、帝は自尽を命じた。道衡は全く予期せず、自決することができなかった。司法官庁が重ねて奏上し、絞め殺した。妻子は且末に徙された。時に七十歳。天下はこれを冤罪とした。集七十巻あり、世に行われた。
子は五人あり、薛收が最も知名である。族父の薛孺の後を嗣いだ。
薛孺は清貞で孤高、世俗と交わらなかった。経史を渉猟し、才思があり、大文は作らなかったが、作る詩詠は、おおむね清遠であった。開皇年間、侍御史、揚州総管司功参軍となった。常に方正剛直を以て自ら処し、府の僚属は多くこれを快く思わなかった。襄城郡掾の任で卒した。歴任した官には皆能吏の名声があった。道衡は特に彼を友愛し、薛收が生まれると、すぐに薛孺の後嗣とした。薛孺の宅で養育され、成長するまで、ほとんど実の父母を知らなかった。太常丞胡仲操がかつて朝堂で薛孺に刀子を借りて爪を切ろうとした。薛孺は仲操が雅士ではないと思い、遂に与えなかった。その妄りに交わらず、清介で独り行う様は、皆この類いである。
道衡の兄薛溫、字は尼卿。沈着聡明で器量があり、墳典を博覧し、特に隷書を善くした。周に仕えて上黄郡守となった。周が斉を平定すると、燕郡太守に転じ、簡約で恵みある政治で称された。宣政元年、爵位を斉安県子と賜った。郡の任で卒した。子の薛邁が嗣いだ。
薛邁、字は弘仁、性質寡黙で、言葉の弁論に長けていた。開皇初年、爵位の斉安子を襲い、鐘山に改封された。太子舎人などを歴任した。大業年間、刑部侍郎、選部侍郎の二官を務めた。
道衡の従父弟薛道実は、礼部侍郎、離石郡太守の位に至り、世に知名であった。甥の薛徳音は俊才があり、游騎尉より起家した。魏淡の『魏史』編修を補佐し、史書が完成すると、著作佐郎に遷った。越王楊侗が東都で称制し、王世充が僭号を称した時、軍書や羽檄は皆その手に出た。世充が平定されると、罪に坐して誅殺された。その文筆は多く世に行われた。
薛聰の弟薛和は、南青州刺史となった。薛和の子が薛善である。
薛善、字は仲良。若くして 司空 府参軍となった。再遷して塩池都將となった。孝武帝が西遷すると、魏は河東を秦州と改め、薛善を別駕とした。薛善の家は元より富み、僮僕数百人を有した。兄の薛元信は気性が豪奢で、食事は常に方丈に並べ、座客は常に満ち、弦歌が絶えなかった。しかし薛善は独り恭しく己を律して質素に従い、閑静を愛し楽しんだ。
大統三年、斉の神武帝が沙苑にて敗れ、善の族兄崇礼を留めて河東を守らせた。周の文帝は李弼を派遣してこれを包囲したが、崇礼は堅固に守って陥落させなかった。善は密かに崇礼を説得したが、なお疑いを抱いて決断しなかった。時に善の従弟馥の妹婿である高子信が防城 都督 として城南面を守っており、馥を遣わして善のもとに来て、『西軍に応接しようと思うが、ただ力が及ばないことを恐れる』と言った。善は直ちに弟の済に命じて門生数十人を率いさせ、信、馥らと共に関門を斬って弼の軍を引き入れた。この時、謀議に加わった者は皆五等爵を賞された。善は、背逆して帰順するのは臣子の常情であり、どうして一家の大小が皆封邑を賜ることを許されようかと考え、弟の慎と共に固辞して受けなかった。周の文帝はこれを称え、善を汾陰県令とした。善は才幹が強く明敏で、一郡で最も称えられた。太守の王羆はこれを賞美し、善に六県の事務を兼ねて監督させた。まもなく行台郎中となった。
当時、軍費を供給するために屯田を広く設置しようとし、そこで司農少卿に任じられ、同州夏陽県の二十屯監を管轄した。また夏陽の諸山に鉄冶を設置し、再び善を監とし、毎月八千人を徴用して軍器を製造させた。善は自ら監督し、併せて慰撫を加えたので、甲兵は精良で鋭利であり、皆その苦しみを忘れた。大丞相府從事中郎に転じた。屯田の功績を追論し、龍門県子の爵位を賜った。黄門侍郎に転じ、河東郡守に任じられ、驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、宇文氏の姓を賜った。六官が建てられると、工部中大夫に任じられ、博平県公に爵位を進めた。再び戸部中大夫に転じた。
当時、晋公の宇文護が政権を執っており、儀同の斉軌が善に言った、「兵馬や万機の政務は天子に帰すべきである。どうしてなお権門にあるのか」。善はこれを宇文護に報告したので、護は軌を殺した。善が己に忠実であるとして、中外府司馬に引き立て、司会中大夫に転じ、六府の事務を補佐して総理させた。京兆尹を加授され、なお司会の職務を行った。出向して隆州刺史となり、益州総管府長史を兼ねた。召還されて武威少府に任じられた。死去し、三州刺史を追贈された。帝は善が斉軌の事を告げたことをもって、諡を繆公とした。子の褒が後を嗣ぎ、官は高陽郡守に至った。
善の弟の慎は、字を伯護という。学問を好み、文章を綴ることができ、草書を得意とした。同郡の裴叔逸、裴諏之、柳虯、范陽の盧柔、隴西の李璨と共に親しく交わった。丞相府墨曹参軍として初めて官に就いた。周の文帝は行台省に学を設置し、丞郎および府佐の中から德行が明敏な者を選んで生員とした。皆に昼は公務を処理させ、夜は講習に就かせ、先に『六経』を学ばせ、後に子史を学ばせた。また諸生の中から德行が淳厚で美しい者を選んで侍読とした。慎と李璨、および隴西の李伯良、辛韶、武功の蘇衡、譙郡の夏侯裕、安定の梁曠、梁礼、河南の長孫璋、河東の裴挙、薛同、 滎陽 の鄭朝ら十二人が、共にその選に応じた。また慎を学師とし、諸生の課業を知らせた。周の文帝は雅に談論を好み、併せて名僧で深く玄宗を識る者百人を選び、邸内で講説させた。また慎ら十二人に命じて仏教の義理を兼ねて学ばせ、内外に通じさせた。これにより四方は競って大乗学を修めた。学において数年を過ごし、再び慎を宜都公の侍読とした。累進して礼部郎中となった。六官が建てられると、膳部下大夫に任じられた。慎の兄の善はまた工部に任じられ、共に清要な地位にあり、当時の人はこれを栄誉とした。
周の孝閔帝が即位すると、禦正下大夫に任じられ、淮南県子に封じられた。師氏、禦伯中大夫を歴任した。保定の初年、出向して湖州刺史となった。管轄地域は蛮夷と雑居しており、常に劫掠を務めとしていた。慎はそこで諸豪帥を集め、朝廷の旨を詳しく宣べ、なお首領に毎月一回参上させ、あるいは言上すべき事がある者は、時節を限らなかった。慎は会う度に必ず殷勤に勧告し、及び酒食を賜った。一年の間に、一致して従い教化された。諸蛮は互いに言った、「今日初めて刺史が真の人の父母であることを知った」。皆欣悦した。これより繈負して来る者が千余戸に及んだ。蛮の習俗では、婚娶した後は、父母が健在でも、即ち別居する。慎は守令に言った、「牧守令長は人を教化する者である。どうしてその子が妻を娶れば、父母と離別するようなことがあろうか。これは単に民衆の習俗の過失であるだけでなく、また牧守の罪でもある」。慎はそこで自ら誘導し、孝慈を示した。併せて守令を派遣し、各々その管轄する部民に諭させた。数戸の蛮が、別居して数年を経て、遂に戻って侍養し、及び行って果物や膳を得れば、帰って父母に奉った。慎はその善に従う速さを以て、詳細に状況を上聞したので、詔がありその賦役を免除した。ここにおいて風化が大いに行われ、華夏の習俗と同じくなった。まもなく蕃部中大夫となった。病気のため職を去り、家で死去した。文集があり、世に広く伝えられた。
薛寘は、河東汾陰の人である。祖父の遵顔は、魏の河東郡守、安邑侯であった。父の乂は、清河、広平二郡の太守であった。寘は幼い頃から典籍を読み、文章を綴ることを好み、奉朝請として初めて官に就いた。魏の孝武帝に従って西遷し、郃陽県子に封じられた。廃帝元年、著作佐郎を兼ね、国史を編修した。まもなく中書侍郎に任じられ、起居注を編修した。中書令に転じた。燕公の于謹が江陵を征伐した時、寘を司録とし、軍中の謀略に寘は皆参与した。江陵が平定されると、爵位を伯に進めた。朝廷はまさに制度を改め創設し、『周礼』を行おうとし、そこで寘に小宗伯の盧辯と共に古今を斟酌させ、共に詳細に定めさせた。六官が建てられると、内史下大夫を授けられた。
周の孝閔帝が即位すると、爵位を侯に進め、禦正中大夫に転じた。当時、前 中書監 の盧柔は学業が優れて深く、文藻が華麗で豊かであり、寘はこれと肩を並べたので、世に盧・薛と称された。久しくして、位を進めて驃騎大将軍・開府儀同三司とし、出向して淅州刺史となった。任上で死去し、官吏や民衆は哀惜した。虞州刺史を追贈され、諡を理といった。著した文筆二十余巻があり、世に行われた。また『西京記』三巻を撰し、引証が該博で詳しく、世にその博聞を称えられた。寘は性、至孝であり、年齢は既に衰え、職務は繁雑で広範であったが、温清の礼に至るまで、朝夕違うことがなかった。当時、これをもって称えられた。子の明が後を嗣いだ。大象の末、儀同大将軍、清水郡守となった。
薛憕は、字を景猷といい、河東汾陰の人である。曾祖父の弘敞は、赫連の乱に遭い、宗族を率いて襄陽に避難した。憕は早くに父を喪い、家は貧しかった。自ら耕して祖母を養い、暇があれば文籍を読んだ。疏宕で拘らず、当時の人はこれを奇異としなかった。江南では人を取るに、多く世族を以てした。憕の家は代々貴い官に就いた者がなく、初官は侍郎を超えなかった。既に寄寓の身であり、抜擢任用されなかった。常に歎いて言った、「どうして五十年も幘を戴き、一 校尉 のまま死に、頭を低く傾け、俯仰して人に向かうことができようか」。常に鬱々として志を得ず、人々の間にある時は、常に勝達を凌駕し、才を負って気ままに振る舞い、世禄の門に趨ったことはなかった。左中郎将の京兆韋潜度が言った、「君の門地は低くなく、身材も劣らない。どうして裾を整えて数回吏部に参上しないのか」。憕は言った、「『世胄は高位を躡み、英俊は下僚に沈む』。古人はこれを歎息とした。私はひそかにこれに従うことができない」。潜度は人に告げて言った、「この年少者は実に慷慨であるが、ただ時に遭わないだけだ」。
孝昌年間、杖を執って洛陽に還った。先に憕の従祖父の真度が族祖父の安都と共に徐・兗を擁して魏に帰順し、その子の懐俊が憕に会い、非常に親善した。爾朱栄の廃立に属し、憕は遂に河東に還り、懐俊の家に滞在した。人物と交わらず、終日読書し、自ら抄録し、二百巻に及んだ。ただ郡守の元襲が時折招いて礼を尽くし、これと対等の礼で交わった。懐俊は常に言った、「汝は郷里に還り、産業を営まず、妻を娶ろうとしない。また南に渡ろうとするのか」。憕も気に留めなかった。普泰年間、給事中に任じられ、伏波将軍を加えられた。
斉の神武帝(高歓)が兵を起こすと、薛憕は東へ赴いて陳・梁の間を遊歴し、同族の薛孝通に言った、「高歓は兵を擁して上を陵ぎ、喪乱が今まさに始まろうとしている。関中は地形に勝れた地であり、必ず覇王がこれを拠るであろう」。そこで孝通とともに長安へ遊歴した。侯莫陳悦がこれを聞き、行台郎に召し、鎮遠将軍・歩兵 校尉 に任じた。悦が賀抜岳を害すると、軍人は皆互いに慶賀し慰め合った。憕だけが親しい者に言った、「悦の才略は元より乏しく、みだりに良将を害した。敗亡の事態は、その期遠からず。我々は今すぐに人の虜となるであろう。何の慶びがあろうか」。長孫稚は憕の言葉を然りとし、ともに憂色を示した。間もなく周の文帝(宇文泰)が悦を平定し、憕を記室参軍に抜擢した。孝武帝(元脩)が西遷すると、征虜将軍・中散大夫を授けられ、夏陽県男に封ぜられた。文帝(宇文泰)が即位すると、中書侍郎に任じられ、安東将軍を加えられ、爵位を伯に進めた。
大統四年、宣光殿・清徽殿が初めて完成し、薛憕はその頌を作った。文帝はまた二つの欹器を作らせた。一つは、二仙人が一つの鉢を共に持ち、同じ盤の中にあり、鉢の蓋には山があり、山には香気があり、一仙人がまた金瓶を持って器の上に臨み、水を傾けて山に灌ぐと、瓶から出て器に注ぎ、煙気が山中に発するもので、これを仙人欹器といった。一つは、二つの荷が同じ盤の中にあり、互いに一尺離れ、中に蓮があり、器の上に垂れ下がり、水を荷に注ぐと、蓮から出て器に満ち、鳧雁や蟾蜍で飾ったもので、これを水芝欹器といった。二つの盤はそれぞれ一つの台の上にあり、鉢は円く台は方形で、中に人がおり、三才の象である。いずれも清徽殿の前に置かれた。形は觥に似て方形であり、満ちれば平らになり、溢れれば傾く。薛憕はそれぞれ頌を作った。
大統の初め、儀礼制度は多く欠けていた。周の文帝は薛憕に盧辯・檀翥らと参酌してこれを定めさせた。世の変乱に流離した故に、音楽を聴かず、たとえ暗い部屋で独り居ても、常に悲しみの表情があった。後に事に坐して死んだ。子の薛舒が嗣ぎ、礼部下大夫・儀同大将軍・聘陳使副に至った。
論じて言う。薛辯は魏の初めに、功業を早く樹て、家門は爵位を受け、栄名を替えることがなかった。薛端は謙虚で直諫することを以て知られ、薛胄は公平を以て自ら任じた。薛浚の孝悌は、平素からの家風が成したものである。薛道衡は風雅の道を代々伝え、世に文宗を擅にし、良き声望の帰するところであり、徒然ではなかった。しかし運は末世の叔父(煬帝)に逢い、ついに誅戮に陥った。痛ましいことよ。薛仲良は任は繁劇なれども、広く益して名声を流し、しかも斉王(宇文憲)に諂い宇文護に陷れ、以て権寵を求め、諡号を繆とされた。これは豈に虚しいことであろうか。薛寘と薛憕はともに学問は該博と称され、文は雕龍を擅にし、或いは鳳池に揮毫し、或いは麟閣に著書し、皆禄位に居り、各々琳琅を逞しくした。彼の徐陵・陳琳に擬するも、後生の畏るべきに慚じ、その任遇を論ずれば、実に当時の良選であった。
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