北史

巻二十七 列傳第十五

屈遵は、字を子度といい、昌黎郡徒何県の人である。学問が広く、多くの才能と技芸に通じていた。慕容垂に博陸県令に任じられた。道武帝が南方を征伐したとき、博陵太守の申永は南へ逃れて黄河の外へ奔り、高陽太守の崔宏は東へ海辺へ走った。所属する城の長吏たちは、多くが逃げ隠れたが、屈遵ひとり道武帝に帰順した。道武帝はかねてよりその名を聞いていたので、中書令に任じた。中原が平定されると、下蔡子の爵位を賜った。死去した。

子の屈須が爵位を継いだ。長楽太守に任じられ、信都侯に爵位を進めた。死去し、昌黎公を追贈され、諡を恭といった。

屈須の長子屈恆は、字を長生といい、沈着で純粋で度量があった。尚書右僕射の位を歴任し、侍中を加えられた。平涼を破った功績により、済北公の爵位を賜った。太武帝は彼に大政を委ね、車駕が出征するときは、常に中央に留まって鎮守した。襄城公の盧魯元とともに甲第を賜った。真君四年、落馬して死去した。時に帝は陰山に行幸しており、景穆帝(太子拓跋晃)が使者を駅伝に乗せて状況を奏上した。帝は大いに悼み惜しみ、使者に言った、「汝らは朕の良臣を殺したのだ、馬に乗る必要があろうか」と。そこで歩いて帰るよう命じた。征西大将軍を追贈され、諡を成公といった。

子の屈道賜が爵位を継いだ。屈道賜は騎射に優れ、機知に富んだ弁舌と気概があり、太武帝は大いに彼を重んじた。尚書右僕射の位に至り、侍中を加えられた。死去し、諡を哀公といった。

子の屈抜が爵位を継いだ。帝はその父祖を追慕し、十四歳で南部大人に任じた。時に太武帝が南征し、守将の胡盛之を捕らえて屈抜に預けた。酒に酔って気づかず、盛之は逃げた。太武帝は彼を斬るよう命じた。まさに斧の下に伏せんとしたとき、帝は悲しげに言った、「もし鬼に知覚があるならば、長生(屈恆)がその子孫のことを尋ねたとき、朕はどう答えるべきか」と。そこで屈抜を赦した。後に献文帝は彼が功臣の子であることから、営州刺史に任じた。

張蒲は、字を玄則といい、河内郡修武県の人である。本名は謨といった。父の張攀は慕容垂に仕え、兵部尚書の位に至り、清廉方正と称された。張蒲は若くして父の風範があり、慕容宝に仕えて尚書左丞となった。道武帝が中山を平定したとき、慕容宝の官人を叙用するにあたり、多くは品秩を下げられた。帝はかねてより張蒲の名を聞いていたので、そのまま尚書左丞に任じた。明元帝が即位すると、内都大官となり、泰昌子の爵位を賜った。諸々の訴訟を参決し、私的な請託は行われなかった。後に寿張子に改封された。太武帝が即位すると、張蒲が清貧で妻子の衣食が足りないのを以て、相州刺史とした。弱きを扶け強きを抑え、善を進め悪を退け、風俗教化が大いに行われた。官の任上で死去し、官吏や民衆は痛み惜しんだ。張蒲は謀臣の列にあり、しばしば将として出たが、朝廷で評するとき、常に筆頭とされた。平東将軍・広平公を追贈され、諡を文恭といった。子の張昭が継いだ。軍功により修武侯に爵位を進め、幽州刺史の位に至り、善政をもって称えられた。

穀渾は、字を元沖といい、昌黎の人である。父の穀袞は、三百斤の弓を引き絞り、勇気は一時に冠たるものがあった。慕容垂に仕え、広武将軍の位に至った。穀渾は若くして父の風範があり、任侠で気概を好んだが、晩年に至って節を折り経学を受業し、身なりは儒者のようであった。道武帝のとき、隷書に巧みなのを以て内侍左右となった。太武帝のとき、累進して侍中・儀曹尚書に至り、濮陽公の爵位を賜った。穀渾は正直で操行があり、性来、軽々しく迎合しなかった。しかし旧友故人を愛し重んじ、富貴をもって人に驕ることがなく、当時の人はこれを称えた。官にあっては廉潔正直で、太武帝に重んじられた。穀渾の子孫で十五歳以上の者は、ことごとく中書学生に補任された。死去し、諡を文宣といった。

子の穀闡は、字を崇基といい、爵位を継いだ。外都大官の位に至った。死去し、諡を簡公といった。子の穀洪は、字を元孫といい、尚書の位に至り、 滎陽 けいよう 公の爵位を賜った。性分が貪欲で奢侈で、僕妾の衣服は錦や綺を用いた。時に献文帝の母方の叔父李峻らが初めて到着し、官が衣服を給したが、穀洪はこれを横領した。有司に糾弾され、前後の贓罪をことごとく追及され、法に伏して誅された。子の穀穎は、太府少卿の位に至った。死去し、営州刺史を追贈され、諡を貞といった。子の穀士恢は、字を紹達といい、鴻臚少卿の位に至り、元城県侯に封ぜられた。太后(霊太后)が寵愛した鄭儼は、紹達が帝の間に入り込むことを恐れ、言葉のついでに、紹達を州の刺史にしようと言った。紹達は寵愛に耽り、出ることを望まなかった。太后はその罪をでっち上げ、彼を殺した。

穀渾の曾孫に穀楷がいる。穀楷は才幹と見識があり、次第に昇進して奉車都尉となった。片目が見えず、性格は非常に厳格で残忍で、前後して使者を奉じるたびに酷暴をもって名とし、当時の人は「瞎武(めくらの武人)」と号した。累進して城門 校尉 こうい となり、死去した。

公孫表は、字を玄元といい、燕郡広陽県の人である。慕容沖の尚書郎となった。慕容垂が長子を破ると、これに従って中山に入った。慕容宝が逃走すると、ついに帰順し、博士となった。初め、道武帝は慕容垂の諸子が要地を分拠し、権柄が移り変わることによって、ついに滅亡に至ったことを以て、公孫表は宮門に詣でて『韓非子』二十巻を献上した。道武帝はこれを良しとした。明元帝の初め、固安子の爵位を賜った。河西の飢えた胡人劉武が上党で反乱を起こすと、詔により公孫表にこれを討たせた。胡に敗れ、帝は深くこれを恨んだ。泰常七年、宋の武帝が崩御した。時に河南の侵奪した土地を取ることを議し、奚斤を 都督 ととく とし、公孫表を呉兵将軍・広州刺史とした。公孫表は滑台を陥落させると、ついに武牢を包囲した。車駕は汲郡に駐在した。始昌子の蘇坦と太史令の王亮が、公孫表が軍を武牢の東に配置し、地の利を得られない場所に置いたため、賊を時に及んで滅ぼせなかったと奏上した。明元帝はもともと術数を好み、また以前の恨みも積もっていたので、武牢を攻めて士卒に多くの傷が出ると、人をやって夜中に陣幕の中で絞め殺させた。賊がまだ退かないので、秘して公表しなかった。

初め、公孫表は勃海の封愷と親しくしていたが、後に子のために封愷の従娘を求め、封愷が許さなかったので、公孫表はこれを大いに恨んだ。後に封氏が司馬国璠に捕らえられたとき、帝は旧族であることを以て、これを許そうとした。公孫表がその罪を証言したので、封氏を誅した。公孫表は外見は温和だが内に猜忌心があり、当時の人はこれを軽んじた。公孫表はもともと王亮と同じ官署にいたが、出世すると、王亮を軽んじ侮ったので、死に至ったのである。

第二子の公孫軌は、字を元慶といった。明元帝のとき、中書郎となった。出征に従い、諸軍の司馬を補任された。太武帝が赫連昌を平定したとき、諸将帥をその府庫に引き入れ、それぞれ思いのままに金玉を取るよう命じた。諸将は懐いっぱいに取ったが、公孫軌ひとり取らなかった。帝は手を取って自ら金を探り出して彼に賜り、言った、「卿は財に臨んで廉潔である。朕が増して賜るのは、廉潔を眾人に顕わそうとするためである」と。後に大鴻臚を兼ね、節を持って氐の楊玄を南秦王に拝立した。国境に至ると、楊玄は郊外に出迎えなかった。公孫軌は楊玄に蕃臣の礼がないと責めた。楊玄は恐れ、郊外に出て詔命を受けた。使いを終えて帰り、詔に適ったので、尚書に任じられ、燕郡公の爵位を賜り、武牢鎮将として出向した。初め、太武帝が北征しようとしたとき、驢を徴発して糧食を運ばせ、公孫軌に雍州で調達を統轄させた。公孫軌は驢の持ち主に皆、絹一匹を加えるよう命じ、それを受け取った。百姓は言葉を作って言った、「驢に強弱はない、背中に輔(絹)があれば自ずと壮んだ」と。衆人は共にこれをあざ笑った。罪に坐して召還された。死去した。

公孫軌が死んだ後、帝は崔浩に言った、「朕が上党を通ったとき、父老たちが皆言うには、公孫軌が将軍として、賄賂を受け取って賊を野放しにし、今に至るまで残党が除かれないのは、公孫軌の罪であると。彼が初めて来たときは、単騎で鞭を執っていたが、去るときには、従う車が百輛あった。物を載せて南へ行き、丁零の渠帥が山に乗って公孫軌を罵った。公孫軌は怒り、公孫軌を罵った者の母を捕らえ、矛でその陰部を刺して殺し、言った、『どうしてこの逆子を産んだのか』と。下から逆さに裂き、四肢を引き裂いて山の木にかけた。これは忍び難きことを忍んで行ったものである。公孫軌は幸いに早死にしたが、今もし生きていたならば、朕は必ずや彼を族誅したであろう」と。

公孫軌は遂に封氏を娶り、子の睿を生む。睿は字を叔文といい、儀曹長の位にあり、陽平公の爵を賜わる。時に献文帝は苑内に殿を立て、中秘の群官に命じて名を制せしむ。睿は奏して曰く、「臣聞く、至尊至貴なるは帝王に崇きは莫く、天人挹損するは謙光に大なるは莫しと。臣愚かに以為う、宜しく崇光と曰うべし」と。奏は可とされる。南部尚書にて卒し、諡して宣と曰う。

睿の妻は崔浩の弟の女なり。子の良を生む。良は字を遵伯といい、聰明にして学を好む。尚書左丞となり、孝文帝の知遇を得る。良の弟の衡は字を道津といい、良は爵を推して之に譲る。衡は司直に至る。良は別の功により、昌平子の爵を賜わる。子の崇基が襲封す。

軌の弟の質は字を元直といい、経義に通じ、中書学生となり、稍く遷りて博士となる。太武帝が涼州を征する時、宜都王穆寿を留めて景穆帝を輔けしむ。時に蠕蠕が虚に乗じて塞を犯し、京師は震恐す。寿は雅に質を信任し、謀主と為す。質の性は卜筮を好む。卜筮者皆云う必ず来ずと、故に備えを設けず。質に由りて、国を敗るに幾し。後に屡々讜言を進め、超遷して尚書となる。卒し、広陽侯を贈られ、諡して恭と曰う。

第二子の邃は字を文慶といい、南部尚書の位にあり、襄平伯に封ぜられ、出でて青州刺史となる。邃が公務における遺跡が記すべきありと以て、詔を下して褒め述ぶ。官にて卒す。孝文帝は鄴宮に在りて、之が為に哀を挙ぐ。時に百度唯新たり、青州の佐吏は邃に服するを疑う。詔して曰く、「古に専らするは、理今に違ひ、今に専らするは、曩の義に太だ乖く。当に両途を斟酌し、得失を商量すべし。人吏の情も亦苟く順ふべからず。主簿云ふ、近代相承して斬服し、葬を過ぎて便ち除く、故の如くすべし。自余は服無く、大成寥落たり。諸境内の人を準へて、斉衰三月と為すべし」と。子の同始が爵を襲ふ。給事中にて卒す。

邃と睿は従父兄弟なり。睿は才器稍く優れ、又封氏の男、崔氏の婿なり。邃の母は雁門の李氏にして、地望懸隔す。钜鹿太守祖季真は北方の人物を多く識り、毎に云く、「士大夫は須らく好き婚親を当つべし。二公孫は同堂兄弟なる耳、吉凶会集するに、便ち士庶の異有り」と。

張済は字を士度といい、西河の人なり。父の千秋は、慕容永の ぎょう 騎將軍なり。永滅び、来奔す。道武帝之を善しとし、建節將軍に拝し、成紀侯の爵を賜ふ。済は書傳に涉獵し、清辯にして儀容を善くす。道武帝之を愛し、公孫表等と俱に行人と為り、散騎侍郎に拝し、爵を襲ふ。是に先だち、 しん の雍州刺史楊佺期が常山王遵に師を乞ひて姚興を禦がんとす。帝は済を遵の從事として遣はし、即ち之に報ず。済襄陽より還り、帝済に江南の事を問ふ。済曰く、「司馬昌明死に、子の德宗代はりて立ち、君弱く臣強く、全く綱紀無し。佺期臣に問ふ、『魏初め中山を伐つ、幾ばくの衆ぞ』と。臣答ふ、『四十余萬』と。佺期曰く、『魏の被甲戎馬、幾匹か有るべき』と。臣答ふ、『中軍精騎十余萬、外軍数無し』と。佺期曰く、『此を以て羌を討つは、豈に滅ぼさざらんや』と。又曰く、『魏中山を定め、幾戸を北に徙す』と。臣答ふ、『七万余家』と。佺期曰く、『何れの城に都す』と。臣答ふ、『平城に都す』と。佺期曰く、『此の大衆有りて、何を以て城を為さん』と。又曰く、『魏帝久しく平城に都せんと欲するか、将に移さんとするか』と。臣答ふ、『知る所に非ず』と。佺期朝廷山東に都せざるを聞き、貌に喜色有りて曰く、『洛城の救援は魏に仰ぎ恃む。若し保全を獲ば、当に必ず厚く報いん。羌に乗ぜらるるが如くは、寧ろ魏に取らしめん』と」と。道武帝其の辞を嘉し、其の使を厚く賞し、洛陽を救ふを許す。後に累次使して旨に称ふるを以て、勝兵將軍に拝す。卒し、子の多羅が爵を襲ふ。事に坐して除かる。

李先は字を容仁といい、中山盧奴の人なり。少くして学を好み、占相術を善くす。慕容永之を迎へて謀主と為し、永を勧めて長子城に據らしむ。永に仕へ、秘書監の位に至る。永滅び、中山に徙る。皇始初め、先は井陘に於て帰順す。道武帝先に問ひて曰く、「卿は何れの国の人ぞ。祖父及び身悉く何れの官を歴たりしや」と。先曰く、「臣本は趙郡平棘の人なり。大父の重は、 しん の平陽太守・大將軍右司馬なり。父の懋は、石季龍の楽安太守・左中郎将なり。臣は、苻丕の左主客郎、慕容永の秘書監・高密侯なり」と。車駕代に還り、先を尚書右中兵郎と為す。再び遷りて博士・定州大中正となる。帝先に問ふ、「何れの物最も善くして、人の神智を益すべしや」と。先曰く、「唯だ経書有り、三皇・五帝政化の典は、以て王者の神智を補ふべし」と。又問ふ、「朕天下の書籍を集めんと欲す、如何」と。対へて曰く、「主の好む所、集むるも亦難からず」と。帝是に於て天下に制を班し、経籍稍く集まる。

道武帝柴壁に於て姚興を討たんとし、先に計を問ふ。対へて曰く、「兵は正を以て合し、戦は奇を以て勝つ。姚興天渡に兵を屯せんと欲すと聞く、其の糧道を利とす。其の到る前に及び、奇兵を遣はして先づ天渡を邀へ、柴壁の左右厳しく伏兵を設け、其の表裏を備ふれば、興進むを得ず、住すれば又糧乏し。夫れ高き者は敵に棲せられ、深き者は敵に囚はるるは、兵法の忌む所なり。而るに興之に居る、戦はずして取るべし」と。帝其の計に従ふ。興果たして敗れて帰る。明元帝即位し、左右に問ふ、「旧臣の中誰か先帝の親信せし者ぞ」と。新息公王洛児曰く、「李先と云ふ者有り、先帝に知られたり」と。俄にして先を召し、韓子の『連珠論』二十二篇、『太公兵法』十一事を読ます。有司に詔して曰く、「先の知る所は、皆軍国の大事なり。今より常に内に宿せしめよ」と。先に絹彩及び御馬一匹を賜ひ、安東將軍・寿春侯に拝し、隷戸二十二を賜ふ。内都大官にて卒す。年九十五。詔して金縷の命服一襲を賜ひ、定州刺史・中山公を贈り、諡して文懿と曰う。子の国が爵を襲ふ。

国の子の鳳は、中書博士なり。鳳の子の預は、字を元凱といふ。太和初め、秘書令・斉郡王友・征西大将軍長史を歴任し、馮翊太守を帯ぶ。府解け、郡罷まり、遂に長安に居す。古人の飧玉法を羨み、乃ち藍田に採訪し、躬往して攻掘し、環璧雑器の形を為す者を得ること、大小百余。頗る粗黒き者も有り、亦篋に盛りて還る。至りて之を観るに、皆光潤して玩ぶべし。預乃ち七十枚を椎きて屑と為し之を食らふ。余は多く人に恵む。後に預及び聞く者更に故処に玉を求むるも、皆見る所無し。馮翊公源懐の弟其の玉を得て、琢きて器佩と為すに、皆鮮明にして宝とすべし。預服すること経年、効験有りと云ふ。而して世事の寢食、皆禁節せず、又酒を好むを加へて志を損ふ。疾篤くに及び、妻子に謂ひて曰く、「吾酒色を絶たず、自ら死に致る、薬の過ちに非ず。然れども吾が屍体必ず異有るべし、速かに殯る勿れ、後人に飧服の妙を知らしめよ」と。時七月中旬、長安毒熱たり。預屍を停むること四宿、而して体色変はらず。其の妻常氏、玉珠二枚を以て之を琀す。口閉づ。常謂ひて曰く、「君自ら云ふ、飧玉に神験有りと、何ぞ琀を受けざる」と。言ひ訖りて、歯啓き珠を納る。因りて其の口を嘘くに、都て穢気無し。挙げて棺に斂むるに、堅直にして傾委せず。死する時遺れる玉屑数升有り、囊に盛りて諸棺中に納る。

先の末子は皎である。天興年間、密かに先に問うて曰く、「子孫は永く魏の臣となるか、それとも他姓に仕えることになるか」と。先は曰く、「国家の政化は長遠にして、極めを紀すべからず」と。皎は寇謙之の弟子となり、遂に服気絶粒すること数十年、恒山に隠棲す。年九十余にして、顔は少童の如し。一旦、沐浴して冠帯し、家人これを異とす。俄かに坐して卒す。道士は皆、その屍解仙道を得たりと称す。

皎の孫は義徽である。太和年間、儒学に博通し、才華ありて、清河王懌の府記室に補せらる。箋書表疏は、文に点を加えず、清典にして贍速、当世これを称す。また懌のために『輿地図』及び『顕忠録』を撰す。性、『老荘』を好み、甚だしく釈教を嗤う。霊太后の臨朝に属し、沙門惠憐ありて呪水を以て人に飲ませ、云く能く疾を癒すと。百姓奔湊し、日に千数を以てす。義徽、懌に白し、その妖妄を称す。因って義徽に奏を草して諫めしむ。太后その言を納る。元叉、懌を悪み、義徽を都水使者に徙す。俄にして懌害せらる。因って官を棄て大房山に隠る。

末子の蘭は、純孝を以て著聞し、辟召を受けず。孝昌年間、門閭を旌表す。

正光年間、文宣王亶嗣位し、義徽の雅正惇篤を思い、その孫の景儒を薦む。位は奉車都尉に至る。皇始より斉の受禅に至るまで、百五十年。先の言うところ、明らかな徴有り。

景儒の子は昭徽、博く稽古に渉り、脱略にして羈絆せず、時人これを播郎と称す。因って字を以て燕・趙に行わる。談論を善くし、宏弁有り、文を属するに任気にして、常則に拘わらず。志は隠逸を好み、葛洪の為人を慕う。師を尋ね道を訪う、千里をも遠しとせず。高尚に遇えば傾蓋して旧の如く、庸識を見れば王公と雖も蔑如す。初め道士と為り、中年詔挙に応じ、高唐尉と為る。大業年間、妻子を将いて嵩山に隠れ、号して黄冠子とす。文集十巻有り、学者に称せらる。

賈彝、字は彦倫、本は武威姑臧の人なり。六世の祖は敷、魏の幽州刺史・広川都亭侯、子孫因ってここに家す。父は苻堅の鉅鹿太守と為り、訕謗に坐して獄に繋がる。彝年十歳、長安に詣でて父を訟い、申し獲らる。遠近これを歎じ、僉に曰く、「此の子英英たり、賈誼の後、これに京たる莫し」と。弱冠、慕容垂の遼西王農の記室参軍と為る。道武先ずその名を聞き、常に使者を遣わして彝を垂に求めしむ。 垂弥 いよいよ 器敬を増す。垂その太子宝を遣わして来寇す。参合に大敗し、彝及びその従兄の代郡太守潤等を執る。道武即位し、尚書左丞に拝し、国政に参預す。天賜末、彝、温陽に詣で疾を療さんことを請い、叛胡に掠められ、姚興に送らる。数年を積みて遁帰し、また赫連屈丐に執られ、秘書監に拝せられ、卒す。太武赫連昌を平ぐ。子の秀その屍柩を迎え、代南に葬る。

秀の位は中庶子、陽都男の爵を賜わり、本州大中正と為る。献文即位し、爵を進めて陽都子と為す。時に丞相乙渾の妻は庶姓なりしが、公主の号を求め、屡々秀に言う。秀黙然たり。後公事に因り、第に就きて渾を見る。渾夫妻同坐し、厲色にて曰く、「爾は職事を管摂し、従わざる所無し。我が公主を請うも応ぜず、何の意ぞ」と。秀慷慨大言を以て対えて曰く、「公主の称は王姬の号、尊寵の極み、庶族の宜しくする所に非ず。秀は寧ろ今朝に就きて死せんも、後日に笑われんことを取らじ」と。渾の左右色を失わざる莫く、これが為に震懼す。秀神色自若たり。渾夫妻黙然として忿を含む。他日、乃ち太医給事楊惠富の臂に書き、「老奴官慳」の字を作し、令して以て秀に示さしむ。渾毎に隙を伺いてこれを陥れんと欲す。会に渾誅せらる。遂に難を免る。

時に秀は中書令勃海の高允と俱に儒旧を以て時に重んぜらる。皆方嶽に擬せられんと選ばるるも、詢訪を以て留められ、各長子をして郡に出づるを聴す。秀固く譲りて受けず、これを許す。始めより終わりに及び、五帝に歴奉す。大官に至らざるも、常に機要に当たる。廉清儉約、資産を営まず。年七十三、疾に遇う。詔して医薬を給し、几杖を賜う。時に朝廷の挙動及び大事決せざる毎に、尚書・高平公李敷を遣わし、第に就きて訪決せしむ。卒す。冀州刺史・武邑公を贈り、諡して簡と曰う。

子の俊、字は異鄰。爵を襲い、位は荊州刺史、例に依り爵を降して伯と為す。先ず是れ、上洛に荊州を置く。後洛州と改む。重山に在り、人学ぶことを知らず。俊表して学官を置く。州に在ること五載、清靖にして事寡く、吏人の安んずる所と為る。卒す。兗州刺史を贈る。子の叔休、爵を襲ぐ。

潤の曾孫は禎、字は叔願、学経史に渉り、喪に居るに孝を以て聞こゆ。太和年間、中書博士として中書侍郎高聰に副い江左に使す。還りて母老いて患うを以て、輒ち在家して定省し、坐して官を免ぜらる。後 司徒 しと 諮議参軍・通直 散騎常侍 さんきじょうじ と為り、冠軍将軍を加う。卒す。斉州刺史を贈る。

禎の兄の子は景俊、亦た学識を以て知名たり。京兆王愉の府外兵参軍と為る。愉冀州に逆を起こし、将にその官を授けんとす。受けず、これに死す。河東太守を贈り、諡して貞と曰う。

景俊の弟は景輿、清峻鯁正にして、州主簿と為り、遂に棲遅して仕えず。後葛栄冀州を陥す。疾を称して拝せず。景輿毎に膝を捫りて言いて曰く、「吾汝に負わず」と。栄を拝せざるを以てなり。

竇瑾、字は道瑜、頓丘衛国の人、自ら雲う漢の 司空 しくう 融の後なりと。高祖は成、頓丘太守、因ってここに家す。瑾少くより文学を以て知名たり。中書博士より中書侍郎と為り、繁陽子の爵を賜わる。軍国の謀に参じ、屡び功有り、爵を進めて衛国侯と為し、四部尚書に転ず。初め三秦を定む。人猶お去就す。長安鎮将・毗陵公に拝せらる。鎮に在ること八年、甚だ威恵著し。徴せられて殿中都官尚書と為る。太武親しくこれを待ち、賞賜甚だ厚し。蓋呉に従征す。呉平ぐ。瑾を留めて長安を鎮守せしむ。京に還り復た殿中・都官と為り、左右の執法を典む。太武歎じて曰く、「国の良輔とは、毗陵公の謂いなるかな」と。出でて冀州刺史と為り、清約沖素、当時に著称す。還りて内都大官と為る。興光初め、瑾の女婿郁林公司馬弥陀、選ばれて臨涇公主に尚す。瑾、弥陀に辞するを教う。誹謗咒詛の言有りと托し、弥陀と同誅せらる。唯だ少子の遵逃匿して免るるを得。

遵は楷篆を善くす。北京の諸碑及び台殿楼観宮門の題署は多く遵の書なり。位は濮陽太守、多く所受納す。その子の僧演、人婦と奸通し、部人の賈邈に告げられ、坐して免ぜらる。後書を善くするを以て庫部令に拝せられ、官に卒す。

李䐶は、字を元盛といい、幼名を真奴といい、范陽の人である。曾祖父の産、産の子の績は、二代にわたり慕容氏の下で名を知られた。父の崇は、馮跋の吏部尚書・石城太守であった。太武帝が和龍に至ると、崇は十余郡を率いて帰順し、太武帝は大いに礼遇して李公と呼んだ。北幽州刺史・固安侯に任ぜられ、卒すると襄侯と諡された。䐶の母は身分が低く、諸兄から軽んじられた。崇は言った、「この子が生まれた時、相見が貴いと言った。私が観察するに、あるいは未だ知るべからざるものがある。」そこで都に入れて中書学生とした。太武帝が中書学に行幸し、彼を見て異とし、従者に指して言った、「この小児は終に朕の子孫のために用いられるであろう。」よって目をかけた。帝の舅の陽平王杜超に娘があり、貴戚に嫁がせようとしたが、帝は言った、「李䐶は後必ず官途に達し、家門を益すであろう。彼に娶らせるがよい。」遂に婚を勧めて成った。南人李哲は常に䐶が必ず貴達すると言った。杜超が死ぬと、帝は自ら三日間哭した。䐶は超の女婿として、喪位に出入りすることができた。帝は左右に指して言った、「この人の挙動を見よ、衆に異ならざるや?必ず朕が家の事を幹す臣となるであろう。」䐶は聡明機敏で弁が立ち、記憶力が強く明察であった。初め、李霊が文成帝の博士となり、詔により崔浩が中書学生の中で器量学業の優れた者を選んで助教とせよとの命があった。浩はその弟子の箱子と盧度世・李敷の三人を挙げてこれに応じた。給事高讜の子の祐・尚書段霸の児侄らは、浩がその親戚に阿党していると考え、景穆帝に言上した。浩が不公平であるとして、太武帝に聞こえた。太武帝の意は䐶にあり、言った、「どうして幽州刺史李崇の老翁の児を取らぬのか?」浩は答えて言った、「前にも䐶は選に合うと申しましたが、ただ先に外任に出ていたため、取らなかったのです。」帝は言った、「䐶の帰還を待ち、箱子らは罷めよ。」遂に中書助教・博士に任じ、入って文成帝に経を授けた。

文成帝が即位すると、䐶は旧恩により親しく寵遇され、儀曹尚書に遷り、中秘書を領し、扶風公の爵を賜わった。その母孫氏を容城君に追贈した。帝は群臣を顧みて言った、「朕が学び始めた歳、情未だ専らにできず。既に万機を総べれば、温習する暇もない。是故に儒道実に闕けたり。豈にただ予が咎のみならんや、抑も亦師傅の勤めざるなり。所以に爵賞を仍えて隆くするは、蓋し旧を遺さざるがためなり。」䐶は冠を免じて拝謝した。出て相州刺史となった。政は清簡で、百姓はこれを称えた。䐶は上疏して州郡ごとに学官を立て、士望の流れ、衣冠の裔が就いて学業を受け、その経芸に通明な者は上って王府に至らしめることを求めた。書が奏上されると、献文帝はこれに従った。䐶の政績が諸州の最であるとして、衣服を加えて賜わった。ここから遂に驕矜自得の志を持ち、人の財物や商胡の珍宝を受け取った。兵士が告発した。尚書李敷は䐶と幼少より仲が良く、常に彼をかばった。ある者が奏聞するよう勧めたが、敷は許さなかった。献文帝が䐶の罪状を聞くと、檻車で䐶を召還し、拷問して罪に当てた。敷兄弟が疏遠排斥されようとした時、有司が中旨として敷兄弟を嫌う意をほのめかし、䐶に敷らの隠れた罪を告発させれば自らを全うできると勧めた。䐶は深く望むところではなく、またその事を知らなかったが、その女婿の裴攸に言った、「私は李敷とは、族世は遠いが、情は一家の如し。事ここに至ってこの勧めあり。昨来、簪を引きて自ら刺し、帯をもって自ら絞ったが、死に至らなかった。且つまたその事を知らない。」攸は言った、「何のために彼のために死なんとするのか。敷兄弟の事の兆しは知るべし。馮闌という者がおり、先に敷に殺された。その家は切にこれを恨んでいる。ただ闌の弟を呼んで問えば、委細を知るに足る。」䐶はその言に従った。また趙郡の範標が敷兄弟の事状を詳しく列挙した。有司がこれを聞上すると、敷は罪に坐した。詔して䐶の貪冒は死に応ずるが、李敷兄弟を糾弾した故に免ず、とし、百鞭の髡刑に処し、賤役に配した。

䐶が免官された時、平寿侯の張讜が䐶に会い、語り合って彼を奇とした。人に謂って言った、「これは佳士なり、終に久しく屈することなからん。」間もなく再び太倉尚書となり、南部の事を摂った。范標の献策を用い、千里の外より戸別に転運させ、倉に輸送させた。そのため所在で滞留し、歳月を停延させた。百姓は競って貨賂を用い、各々先を求めた。ここにおいて遠近大いに困弊した。道路の群議に曰く、「畜聚斂の人、盗臣に如かず。」と。䐶の弟の左軍将軍の璞が䐶に言った、「範標はよく人に色を降し、人に辞を仮することを善くするが、徳義の言を聞かず、ただ勢利の説あるのみ。その言を聴けば甘く、その行いを察すれば賊なり。所謂諂諛讒慝、貪冒奸佞なり。早く絶たざれば、後悔追いつかず。」䐶は従わず、ますます彼を信じ、腹心の事は皆標に告げた。䐶は既に献文帝に寵愛され、軍国の大議に参与し、選挙を兼ねて典し、権は内外に傾き、百官はみな節を曲げてこれに事えた。標は無功のまま起家して盧奴令に拝された。

献文帝が崩ずると、䐶は 司空 しくう に遷り、范陽公に爵を進め、出て侍中・鎮南大将軍・開府儀同三司・徐州刺史となった。範標は文明太后が䐶を憤っていること、また内外が彼を憎んでいることを知り、太和元年、旨に迎合して䐶が外で叛くことを告発した。文明太后は䐶を京師に召還し、その叛状を言った。䐶は言った、「そのようなことはない。」標を引いて䐶を証言させた。䐶は言った、「お前は妄りに我を知ると云う。私はまた何を言わんや。然りといえども、お前は我が厚徳を顧みず、忍んでこれを為すとは、不仁甚だしい。」標は言った、「公が標に施した徳は、李敷が公に施した徳に比べてどうか。公は昔、敷に対して忍んだ。標今どうして敢えて公に対して忍ばざらんや?」䐶は慨然として言った、「私は璞の言を用いず、自らこの憂いを招いた。心に万の悔いあり、何ぞ嗟いて及ばんや!」遂に誅された。

璞は字を季直といい、性質惇厚で、人物を多く識った。宜陽侯の爵を賜わり、太常卿となった。

韓延之は、字を顕宗といい、南陽堵陽の人で、魏の 司徒 しと 韓曁の後裔である。晋に仕え、建威将軍・荊州従事の位に至り、転じて平西府録事参軍となった。晋の将軍劉裕が司馬休之を伐つに当たり、未だ江陵に至らぬうちに、密かに延之に書を送って招いた。延之は返書し、その言辞は甚だ激厲で、曰く、「劉裕足下、海内の人、誰か足下が此の心を見ざらん。而して復た国士を欺誑せんと欲するか!」その不屈ぶりはこのようであった。事は『南史』宋本紀に見える。延之は裕の父の名が翹、字が顕宗であることから、そこで己の字を顕宗とし、子の名を翹とした。蓋し劉氏に臣としないことを示したのである。後に姚興に奔った。泰常二年、司馬文思らと共に魏に入った。明元帝は延之を武牢鎮将とし、魯陽侯の爵を賜わった。

初め、延之は柏穀塢に往来し、魯宗之の墓を省み、ここに終焉しようとの志があった。そこでその孫に謂って言った、「河洛は三代の都たり。朝廷必ず此れに居する者あらん。我が死せば、北の代に葬る労を取るな。即ち此処に就くべし。」子はその言に従い、遂に宗之の墓の次に葬った。延之の後五十余年にして孝文帝が都を遷すと、その孫の数家は即ち祖墓の北の柏穀塢に居した。

袁式、字は季祖、陳郡陽夏の人、漢の 司徒 しと 袁滂の後裔である。父の袁深は、晋の侍中であった。袁式は南方に在りて、武陵王司馬遵の諮議参軍を歴任した。劉裕が権力を執ると、袁式は姚興に帰順した。姚泓が滅亡すると、北魏に帰順し、上客として遇され、爵位陽夏子を賜った。 司徒 しと 崔浩と一度面会しただけで、国士の交わりを尽くした。当時、朝廷の儀礼典章は全て崔浩によって定められており、崔浩は袁式が故事に博通していることを以て、常に草創の際には彼に顧みて諮問した。性質は長者であり、羈旅漂泊の身であっても、清貧にして節度を守り、士の節を失わなかった。当時の人々は彼を甚だ敬重し、皆「袁諮議」と呼んだ。延和二年に至り、衛大将軍・楽安王拓跋範が雍州刺史となると、詔により袁式は中書侍郎高允と共に従事中郎に任ぜられたが、辞退して免ぜられた。

袁式は沈静にして道を楽しみ、広く書伝を遍覧し、『倉頡篇』・『爾雅』の詁訓に至っては、特に留意を払った。『字釈』を著したが完成しなかった。太安二年に卒去し、 州刺史を追贈され、諡は粛侯といった。

子の袁済は父の爵位を襲い、魏郡太守の位にあり、政治に清廉なる称があった。甯遠将軍を加えられた。宋王劉昶が開府すると、召されて諮議参軍となった。

毛修之、字は敬文、 滎陽 けいよう 郡陽武県の人である。代々晋に仕えた。劉裕が関中を平定した時、子の劉義真を留めて長安を鎮守させ、毛修之をその司馬とした。劉義真が敗れると、毛修之は統万に没落した。太武帝が赫連昌を平定した時、彼を捕らえた。呉兵を率いさせ、功により呉兵将軍に任ぜられた。毛修之は南方人の飲食を作ることができ、自ら煎じ調理し、多くは意に適うものであった。太武帝は親しく彼を遇し、累進して尚書となり、爵位南郡公を賜り、常に太官に在って進御の膳を主管した。和龍征討に従軍した時、諸軍が城を攻め、行宮の人員が少なかった。宋の旧将朱修之が雲中将軍としており、呉兵を率いて叛逆を企てた。和龍に入り、海を渡って南方に帰還しようと望んだ。毛修之に告げたが、聞き入れられず、やむなく止めた。この日、毛修之がいなければ、大変事が起こるところであった。朱修之は遂に馮弘のもとに奔った。毛修之はまた軍功により、特進・撫軍大将軍に昇進し、その位は崔浩の次にあった。

崔浩は、彼が中国の旧門であることから、博洽ではないがなお書伝に渉猟しているとして、共に論説した。次いで陳寿の『三国志』に及び、「古の良史の風があり、その著述する所は、文義が典正で、班固の『漢書』以来、陳寿に及ぶものはない」と言った。毛修之は言った、「昔、蜀中に在った時、長老の言を聞くに、陳寿はかつて諸葛亮の門下の書佐となり、百回の鞭打ちを受けたことがある。故にその武侯(諸葛亮)を論じて『応変はその長ずる所に非ず』と言ったのである」。崔浩はそこで論じて言った、「承祚(陳寿)の亮を評するは、むしろ故義により過美の誉あり、恨みを挟んだ言葉ではない。亮が劉備に相たるは、英雄奮発の時であり、君臣相得て、魚水の喩えがあった。しかるに曹氏と天下を争うことができず、荊州を委棄し、 巴蜀 はしょく に退き、窮して崎嶇たる地を守り、辺夷の間に僭号した。これは下策である。趙佗とを並べることはできても、管仲・蕭何の次に匹敵するとは、過ぎたる評価ではないか。かつ亮は既に蜀を拠るも、勢力を量らず、威厳を厳しくし法を切にし、蜀人を控勒し、辺夷の衆を以て上国に対抗せんとした。兵を隴右に出し、再び祁山を攻め、一たび陳倉を攻めたが、疏遅して機会を失い、摧衄して返った。後に秦川に入り、さらに野戦を求めた。魏人はその意を知り、戦わずしてこれを屈した。智窮き勢尽き、病を発して死んだ。これによって言えば、どうして古の善将、見て難きを知るに合致しようか」。毛修之は崔浩の言葉を然りとした。後に外都大官の任で卒去し、諡は恭公といった。

毛修之は南方に四人の子があったが、ただ子の毛法仁のみが北魏に入った。文成帝の初め、金部尚書となり、爵位を襲い、殿中尚書に転じた。毛法仁は言声が壮大で、軍旅や田狩に至っては、唱呼して処分する声が山谷に振るった。卒去し、征東大将軍・南郡王を追贈され、諡は威といった。

朱修之は、宋に仕えて 司徒 しと 従事中郎となった。滑台を守り、安頡に捕らえられた。太武帝はその固守を善しとし、宗室の女を妻とさせ、雲中鎮将とした。後に馮弘のもとに奔った。馮弘は彼を江南に送った。安頡が滑台を攻克した時、宋の陳留太守厳稜は倉垣を戍守していた。山陽公奚斤の軍が潁川に至ると、厳稜は文武五百人を率いて奚斤のもとに詣で降った。明元帝はその誠款を嘉し、爵位郃陽侯を賜い、仮の荊州刺史とした。帝の南討に従駕し、還って上客となった。太武帝が践祚すると、帰化の功により中山太守に任ぜられ、清廉の称があった。家で卒去した。子の厳幼玉が爵位を襲いだ。厳稜については旧書に伝があるが、今ここに附す。朱修之は宋において顕達し、事績は全て『南史』に具えられている。

唐和、字は幼起、晋の西宜安の人である。父の唐繇は、涼土の喪乱に際し、涼武昭王李暠を河右に推戴した。涼が滅亡すると、唐和は兄の唐契と共に甥である武昭王の孫李宝を携え、伊吾に避難した。人衆二千余家を招集し、蠕蠕に臣従した。蠕蠕は唐契を伊吾王とした。

二十年を経て、唐和と唐契は使者を遣わして北魏に降ろうとしたが、蠕蠕に逼迫され、遂に部衆を擁して高昌に至った。蠕蠕は部帥の阿若を遣わして唐和を討たせ、白力城に至った。唐和は先んじて高寧を攻撃した。唐契は阿若と戦って没し、唐和は余衆を収めて前部国に奔った。時に沮渠安周が横截城に屯し、唐和はこれを攻め抜いた。安周の兄の子の沮渠樹を斬り、また高寧・白力の二城を攻克した。使者を遣わして状況を上表した。太武帝はこれを嘉し、しばしば璽書を賜った。後に唐和は前部王車伊洛と共に沮渠安周を撃破した。太武帝が万度帰を遣わして焉耆を討たせると、詔により唐和と車伊洛は率いる所領を率いて万度帰のもとに赴き、柳驢以東の六城を説き下した。そこで共に波居羅城を撃ち、これを抜いた。後に共に亀茲を征し、万度帰は唐和に焉耆を鎮守させた。時に柳驢の戍主乙真伽が叛こうとしたが、唐和は直ちにその城に入り、乙真伽を捕らえて斬った。これによって西域は平定され、唐和の力による所があった。

正平元年、唐和は宮闕に詣でた。太武帝は優遇寵愛し、上客として遇した。文成帝は、唐和が先朝に帰誠したことを以て、酒泉公に封じた。太安年間、済州刺史となり、甚だ称えられる治績があった。召されて内都大官となった。獄訟を評決するに、捶楚を加えず、疑いを察して実情を得ること多く、世間はこれをもって彼を称えた。卒去し、征西大将軍・太常卿・酒泉王を追贈され、諡は宣といった。

子の唐欽、字は孟真、陝州刺史の位にあった。爵位は侯に降格された。卒去し、子の唐景宣が爵位を襲いだ。東都太守の任で卒去した。

唐契の子の唐玄達は、性質果毅にして、父の風があった。叔父の唐和と共に宮闕に帰順し、共に上客となり、晋昌公に封ぜられた。献文帝の時、華州刺史の位にあった。太和十六年、侯に降格された。子の唐崇、字は継祖、爵位を襲いだ。

寇讃、字は奉国、上穀郡の人であるが、難を避けて 馮翊郡 ひょうよくぐん 万年県に徙った。父の寇修之、字は延期、苻堅の東萊太守であった。寇讃の弟の寇謙は道術に通じ、太武帝に敬重されたため、故に寇修之に安西将軍・秦州刺史・馮翊公を追贈した。命服を賜り、諡は哀公といった。詔して秦・雍二州にその墓碑を建立させた。また寇修之の母を馮翊夫人と追贈し、宗族従兄弟で太守・県令・侯・子・男を追贈された者は十六人、その職に臨んだ者は七郡・五県であった。

韋賛は若い頃から清廉潔白で知られていた。身長八尺、姿形は厳然として聳え立ち、礼に合わぬことは行わなかった。苻堅の僕射韋華は、州内で高名な達人であり、年齢や境遇は異なっていたが、常にその風采と人柄をもって遇した。韋華が馮翊太守となると、韋賛を功曹に召し出した。後に襄邑令に任じられた。姚泓が滅びると、秦・雍の民千余家が韋賛を主君に推戴し、魏に帰順した。河南郡太守に任じられた。その後、河南・ 滎陽 けいよう ・河内に逃れて来た秦・雍の民は、戸数が万に達し、韋賛は南雍州刺史・軹県侯に任じられ、洛陽に雍州の郡県を設置して彼らを慰撫した。これにより流民は幼児を背負って、遠方から続々と到来し、以前の三倍となった。韋賛の爵位は河南公に進み、安南将軍を加えられ、南蛮 校尉 こうい を兼任し、刺史の任はそのままとした。洛・ 二州の僑置郡を分けてその管轄に加えた。地位は高く爵位は重かったが、人をもてなすのに倦むことはなかった。

初め、韋賛が貴くなる前、相者の唐文に面会したことがあった。唐文は言った。「貴殿の額の黒子が冠の中に入っています。位は方伯に至り、公に封ぜられるでしょう。」彼が貴くなった時、唐文は百姓の礼で拝謁し言った。「明公は昔の言葉をお思い出しでしょうか。」韋賛は唐文を座らせて言った。「かつて卿は杜瓊が官長になれないと言ったが、人々は皆そうではないと言った。杜瓊が盩厔令になった時でさえ、卿はまだ相の中に見えないと言い、果たして杜瓊は急病で、拝命前に亡くなった。昔、魏舒は主人の子が死んだのを見て、自分が必ず公に至ると悟った。私は常に卿の杜瓊についての言葉が的中したことを、この望み(公になること)が叶う兆しと信じてやまなかったのだ。」そして衣服と良馬を唐文に賜った。韋賛は州に十七年在任し、公私ともに大いに名声を得た。年老いて致仕を求めた。死去し、遺言で薄葬を命じ、その時の衣服で納めた。太武帝は悼み惜しみ、諡して宣穆といった。子の元宝が爵位を襲った。

元宝の弟の韋臻は、字を仙勝という。十二歳の時、父の喪に遭い、喪に服して孝行で称された。財を軽んじ士を好んだ。献文帝の末、中川太守となった。当時馮熙が洛州刺史であり、政治は貪虐と評されていたが、仙勝はわずかに彼に附くことができ、その意を大いに得た。後に弘農太守となった。収賄の罪で御史に弾劾され、ついに免官となり、家で死去した。

子の祖訓は、順陽太守となった。祖訓の弟が祖礼である。兄弟ともに孝友で篤厚であり、白髪になるまで同居した。父母が亡くなって久しいが、なお生前に過ごした部屋に、帳や几杖を整え設け、季節の折々に堂を開いて並んで拝礼した。涙を流して供物を捧げ、あたかも宗廟のようにした。吉凶の事があれば必ず先に告げ、遠出する時や帰って来た時も同様にした。祖礼は、宣武帝の末に河州刺史となった。在任数年、郤鉄匆の反乱に遭い、また城中の者から都に赴き、その貪婪な様子を十六条に列挙して訴えられた。赦令に遇って免罪となった。久しくして廷尉卿を兼ね、また尚書を兼ねた。権勢のある家を畏れ避け、顔色を窺い、確固たる主張を持つことができなかった。後に蛮が三鴨で反乱を起こすと、 都督 ととく として追討に当たり、戦死した。衛大将軍・七兵尚書・雍州刺史・昌平男を追贈された。祖礼の弟が韋俊である。

韋俊は字を祖俊という。性質は寛大で優雅、幼い頃から識見と度量があり、学問を好み記憶力が強かった。性質はまた廉潔で思いやりがあり、財利を心にかけなかった。家人がかつて人に物を売り、一匹の絹を利益として得たことがあった。韋俊は後でそれを知り、言った。「財を得て行いを失うのは、私の取るところではない。」持ち主を訪ねて返した。選抜されて孝文帝の挽郎となり、奉朝請に任じられた。大乗の賊が起こり、燕・趙が擾乱すると、韋俊は護軍事に参じて東征し、功により員外散騎侍郎を授けられた。累進して 司空 しくう 府主簿となった。当時霊太后が臨朝し、食禄官の十分の一を減じて永寧仏寺を造営し、韋俊にその監督を命じた。費用は巨万に上ったが、主管官吏は欺瞞隠蔽できなかった。寺が完成すると、また極めて壮麗であった。霊太后はこれを賞賛し、左軍将軍に任じた。孝昌年間、朝議で国用が不足しているとして、塩池都將を設置し、その秩は上郡に比した。前後この職に就いた者は多くが侵奪隠匿を行ったため、韋俊をこれに任じ、なお主簿を兼ねさせた。

永安初年、華州の史底が 司徒 しと 楊椿と田畑を争訟した。長史たちは楊椿が権勢があるため、皆楊椿が正しいと言い、田を楊椿に与えようとした。韋俊は言った。「史底は貧しい者であり、楊公が横暴にその土地を奪おうとしている。もし不足する者を損ねて有余る者に与えようとするなら、付和雷同するのを見せられることになり、お引き受けするわけにはまいりません。」遂に土地を史底に返還した。孝荘帝は後にこのことを知り、韋俊が正義を守って屈しないことを賞賛し、司馬に任じた。楊椿に附いた者たちは皆責められた。

二年、梁州刺史として出向した。当地の風俗は荒々しく、多くが盗賊となっていた。韋俊はそこで郡県に命じて学校を設立させ、耕桑を勧め、礼譲を厚くした。数年の中に、風俗はたちまち改まった。梁がその将曹琰之を派遣して魏興に駐屯させ、日を継いで築城した。琰之はたびたび辺境を侵擾し、辺境の民はこれを憂いた。韋俊は長史杜林道を派遣してその城を攻め落とし、琰之をも捕らえた。琰之は梁の大将景宗の末弟であった。これにより梁人は恐れた。魏室に多事が続き、州もまた僻遠の地であったため、梁人は外援のないことを知り、大軍を魏興に駐屯させ、攻め取ろうと図った。韋俊は将士を慰撫激励し、人々は命を捧げようと思った。梁人は彼が衆心を得ていることを知り、敢えて逼迫しなかった。韋俊は州で清貧に過ごし、産業を営まず、その子らは皆徒歩で帰還した。官吏や民は韋俊を見送り、道中に留まり引き止め、久しくしてようやく州境を出ることができた。

大統三年、東魏は韋俊に洛州刺史を授けたが、韋俊はこれにより帰朝を謀った。五年、家族と親族四百口を率いて関中に入り、秘書監に任じられた。当時軍国は創始期で、典籍は散逸していた。韋俊は初めて令史を選任し、経籍を書き集め、四部の群書が次第にほぼ完備するようになった。鎮東将軍を加えられ、安西県男に封ぜられた。十七年、 散騎常侍 さんきじょうじ を加えられ、やがて重病と称して、再び朝覲しなくなった。恭帝三年、若口引氏の姓を賜った。孝閔帝が即位すると、爵位は子に進んだ。武成元年、驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。

韋俊は年齢こそ高かったが、志と識見は衰えていなかった。子孫を教授するには、必ずまず典礼を重んじた。明帝は儒学を尊び徳を重んじ、特に彼を欽賞し、たびたび恩賜を加え、会いたいと思った。韋俊はやむなく入朝し、帝は同席に座らせ、洛陽の旧事を尋ねた。韋俊は身長八尺、鬚や鬢は真っ白で、容姿挙措は端麗、音韻は清朗であった。帝は彼と談論し、知らず知らずのうちにたびたび膝を進めた。韋俊が辞去して帰る時、帝は自らその手を執り、言った。「公は年齢も徳も共に尊く、朕が欽慕するところである。乞言の事は、公に望むところである。たびたび会い、空虚な思いを慰めてほしい。」御輿を命じて帝の前で乗り出させた。左右を顧みて言った。「このようなことは、善を積んだ者だけがこれを招くことができる。ただ今重んぜられるのみならず、また万古に伝わるであろう。」当時の人は皆これを栄誉とした。八十二歳で死去した。武帝は嘆き惜しみ、本官を追贈し、冀定瀛三州諸軍事・冀州刺史を加え、諡して元といった。

韋俊は仁義に篤く、期功の親族の中に孤児や幼い者がいれば、衣食の豊かさや質素さを、彼らと共にした。若い頃、 司徒 しと 崔光に認められ、崔光はその子の崔勵に韋俊と友誼を結ばせた。韋俊が崔光を訪ねるたび、常に清談で日を移した。小宗伯盧辯は韋俊の学業と品行が共に高貴であるとして、師友の礼をもって遇した。暇があるたびに、韋俊を訪ねて終日宴談した。常に人に言った。「安西君に会わないと、煩悩憂いが去らない。」彼が通人からこのように敬重されたのである。子の韋奉は、位は儀同大将軍・順陽郡守・洵州刺史・昌国県公に至った。

韋奉の弟の韋顒は、若くして学問を好み、最も有名であった。喪に服して哀痛のあまり身を毀した。位は儀同大将軍、掌朝・布憲・典祀下大夫、小納言を務め、濩沢郡公に封ぜられた。

酈範は、字を世則といい、范陽郡涿鹿県の人である。祖父の紹は、慕容宝の下で濮陽太守を務め、郡を挙げて降伏したため、道武帝より兗州監軍に任じられた。父の嵩は、天水太守であった。范は、太武帝の時、東宮に給事した。太武帝が即位すると、先朝の旧勲を追録し、永寧男の爵を賜った。奉礼郎として太武帝と景穆帝の神主を太廟に奉遷し、爵を子に進めた。征南大将軍慕容白曜の司馬となった。三斉を平定するに当たり、范は多く策を進言し、白曜はその謀を用いたため、上表して青州刺史に任じた。爵を侯に進め、冠軍将軍を加えられ、後に尚書右丞となった。後に平東将軍・青州刺史に任じられ、范陽公を仮された。范が以前に州を解任されて京に還った時、夜に陰毛が踝を払う夢を見た。後日これを語った。当時、斉に占夢の者史武進がおり、言うには、「公は斉の下で豪盛となるでしょう。使君が東秦を臨撫し、その道が海岱に光り、必ずや再び全斉を牧し、再び営丘に禄を受けることでしょう。」范は笑って答えて言った、「私は卿のために必ずこの夢を験すであろう。」果たしてその言の如くであった。時に鎮将の元伊利が、范が外賊と交通していると上表した。孝文帝は詔して范に言った、「鎮将伊利が卿が船を造り玉を市い、外賊と交通し、卿の罪を陥れんと謀り、州任を窺っていると上表した。有司が推問検証したところ、虚実自ら明らかとなり、有罪の者は今その罪に伏した。卿は明らかに算略を為し、再び疑うことなかれ。」朝廷に還り、京師で卒した。諡して穆といった。子に道元がある。

道元は字を善長という。初め永寧侯の爵を襲い、例により伯に降格された。御史中尉李彪は、道元が執法清刻であるとして、太傅掾から引き抜いて書侍御史とした。彪が僕射李沖に奏劾されると、道元は属官として連座して免官された。景明年中、冀州鎮東府長史となった。刺史の于勁は、順皇后の父であったが、関中を西討しており、州には至らず、道元がその職務を行って三年に及んだ。為政は厳酷で、吏民はこれを畏れ、奸盗は他境に逃れた。後に試みに魯陽郡を守り、道元は上表して学校を設立し、学教を崇め奨励した。詔して言った、「魯陽は本来蛮人の地で、大学を立てなかった。今これを聴許し、良き太守文翁の教化を成すがよい。」道元が郡に在任すると、山の蛮人はその威名に服し、寇と為すことを敢えてしなかった。延昌年中、東荊州刺史となり、威猛を以て政を行い、冀州に在った時と同様であった。蛮人が朝廷に赴き、その苛酷峻烈を訴え、前刺史の寇祖礼を請うた。また、戍兵七十人を遣わして道元を京に送還させることとなり、二人は共に連座して免官された。

後に河南尹となった。明帝は、沃野・懷朔・薄骨律・武川・撫冥・柔玄・懷荒・禦夷の諸鎮を全て州に改め、その郡・縣・戍の名称は、古い城邑に準じて定めるよう命じた。詔して道元に節を持ち黄門侍郎を兼ねさせ、駅伝を馳せて大 都督 ととく 李崇と共に設置の適宜を図り、去留を裁減させた。時に諸鎮が叛乱したため、果たさずして還った。孝昌初年、将を遣わして揚州を攻めさせたが、刺史の元法僧がまた彭城で反叛した。詔して道元に節を持ち、侍中を兼ね、行台尚書を摂行させ、諸軍を節度させ、僕射李平の故事に依らせた。軍は渦陽に至ったが、敗退した。道元は追討し、多く斬獲を得た。後に御史中尉に任じられた。

道元は元来厳猛の称があり、権豪も初めは頗るこれを憚った。しかしながら、是正することができず、声望は更に損なわれた。司州牧・汝南王悦は側近の丘念を寵愛し、常に寝起きを共にした。州官を選ぶ時も、多くは念によるものであった。念は常に悦の邸に匿れ、時折その家に帰っていたが、道元は密かに探知し、念を捕らえて獄に付した。悦は霊太后に啓上し、念の身命の保全を請うたところ、赦免の勅があった。道元は遂にその命を尽くし(処刑し)、これによって悦を弾劾した。

時に雍州刺史蕭宝夤の反状が稍々露わになり、侍中・城陽王徽は元来道元を忌んでいたため、朝廷を諷して、道元を関右大使として遣わさせた。宝夤は道元が己を図ることを慮り、その行台郎中郭子帙に命じて道元を陰盤の驛亭に包囲させた。亭は岡の下にあり、常に岡の下の井戸の水を飲んでいた。包囲されると、井戸を十余丈穿っても水を得られなかった。水が尽き力が屈し、賊は遂に牆を越えて入った。道元はその弟の道闕と二人の子と共に害された。道元は目を瞋って賊を叱り、声を厲して死んだ。宝夤は尚もその父子を収斂させ、長安城東に殯した。事が平定されると、喪が還され、吏部尚書・冀州刺史・安定県男を追贈された。

道元は好学で、奇書を歴覧し、『水経』四十巻に注を撰し、『本志』十三篇を著した。また『七聘』及び諸文を為し、皆世に行われた。しかし兄弟と篤く睦まず、又多に嫌忌があり、時の論はこれを軽んじた。子の孝友が爵を襲った。

道元の第四弟の道慎は、字を善季といい、歴史伝記に渉猟し、幹局があった。正平太守の位にあり、能吏の名があった。長楽相に遷った。卒し、平州刺史を追贈された。

道慎の弟の道約は、字を善礼といい、朴質で鈍重であり、琴書を頗る愛した。性来、人に請い求めることが多く、栄利を以て干謁することを好み、乞い請うて已まず、多く人に笑い弄ばれた。世に坎壈し、飢寒を免れなかった。晚年に東萊・魯陽の二郡太守を歴任した。為政は清静で、吏民はこれに安んじた。

范の弟の道峻の子の惲は、字を幼和という。好学で文才があり、特に吏幹に長じていた。秀才に挙げられ、射策して高第となった。尚書外兵郎を歴任した。行台の長孫承業に引き抜かれて行台郎となった。惲は武用をも兼ね、常に功名を自ら期した。承業に計を進める毎に、多くは採用された。功により魏昌県子を賞された。惲は軍中において啓上して自身の官爵を減じ、父の追贈を請うた。詔して征虜将軍・安州刺史を授けた。惲は後に唐州刺史崔元珍と共に平陽を固守した。爾朱栄が兵を称して朝廷に赴くと、惲と元珍は従わず、栄の行台郎中樊子鵠に城を陥とされ、害された。所作の文章は、頗る世に行われた。慕容氏の書を撰したが、完成しなかった。

子の懷則は、 司空 しくう 長流参軍となった。

韓秀は、字を白武といい、昌黎の人である。祖父の宰は、慕容俊の下で謁者僕射となった。父の景は、皇始初年に魏に帰順し、宣威将軍・騎都尉に拝された。秀は尚書郎を歴任し、遂昌子の爵を賜った。文成帝は秀が聡敏で弁舌明晰、喉舌の任に才あると称え、遂に王言の出納を命じ、機密をも掌らせた。行幸遊猟の際には、左右に随侍した。献文帝が即位すると、給事中に転じ、征南慕容白曜の軍事に参じた。延興年中、尚書が奏上して、敦煌一鎮は西北の遠隔地に介在し、寇賊の通路に当たり、堅固でないことを慮り、涼州に移転したいとし、群臣が会議して皆然りと認めた。秀のみが言った、「これは国を蹙めることであり、土を拓くのには適しません。愚考しますに、敦煌の設置は、その来り久しく、強寇に隣接していても、兵士は平素より習熟し、常の如く戍を置けば、自ら全うするに足ります。もし姑臧に移転すれば、人々が異心を懐くことを慮り、あるいは重い移転を貪り留まり、徙ることを情願しないでしょう。もし寇を引き入れて内侵させれば、深く国の患いとなります。且つ遠きを捨てて近きに就けば、遙かな防備に欠けが生じます。一旦廃止すれば、これは戎の心を啓くこととなり、夷狄が交わり構え、互いに往来するでしょう。関右は荒れ擾い、烽火の警報絶えず、辺境の役事煩く興り、艱難は甚だしくなります。」乃ち秀の議に従った。後に平東将軍・青州刺史となった。卒し、子の務が爵を襲った。

務は字を道世といい、性質は端謹で、吏幹があった。定州平北長史となり、頗る収賄があり、御史中尉李平に弾劾された。廷尉に付されたが、赦に会って免じられた。後に龍驤将軍・ 郢州 えいしゅう 刺史に任じられた。務は七宝の床と象牙の席を献上した。詔して言った、「昔、晋武帝が雉頭の裘を焚いたことを、朕は常に嘉した。今、務の献ずる所も、これと同類である。奇麗の物は、風素に乖いている。その家人に付すがよい。」後に賊を破ったと詐って上表したため、免官された。久しくして、太中大夫に拝され、左将軍の号を進められ、卒した。

堯暄は、字を辟邪といい、上党郡長子県の人である。本名は鐘葵といったが、後に賜って暄と改めた。祖父の僧頼は、道武帝が中山を平定した際、趙郡の呂含と共に真っ先に帰順した。暄は聡明で理解が早く、容貌も美しかった。千人軍将となった。太武帝はその恭順謹直ぶりを認め、中散に抜擢した。後に北部尚書を兼ねた。当時、三長制が始めて設けられると、暄は東道十三州使となり、戸籍を改めて編成し、独り車一乗と厩舎の馬四匹を賜った。暄は前後して征戦に従軍し、また出使して検案すること三十回余り、いずれも己を律し公に奉ずる称賛があった。衣服、彩絹、奴婢などの物を賞賜され、爵位を平陽伯に賜った。百官が改めて設置されると、太僕卿を授かり、大司農に転じた。平城で没した。孝文帝はそのために哀悼の意を表し、相州刺史を追贈した。初め、暄が徐州に至った時、州城の楼観を見て、その華美過ぎるのを嫌い、あちこちで破壊撤去させた。このため、後にはさらに荒廃した。孝文帝が彭城に行幸した際、これを聞いて、「暄はまだ追って斬ることができる」と言った。暄の長子の洪が爵位を継いだ。

洪の子の傑は、字を永壽という。元象年間、開府儀同三司、樂城縣公となった。

洪の弟の遵は、臨洮太守の位にあった。没し、諡を思といった。

遵の弟の榮は、員外散騎侍郎の位にあった。

子の雄は、字を休武といい、若い頃から ぎょう 勇果断で、財を軽んじ気節を重んじた。燕州刺史、平城縣伯の位にあった。爾朱兆に従って齊の神武帝と戦い、廣阿で敗れたが、配下を率いて定州を占拠し神武帝に帰順した。その従兄の傑は兆の下で滄州刺史であったが、やはり使者を遣わして降伏した。神武帝は彼ら兄弟共に誠意があると見て、傑をそのまま行瀛州事とした。雄を傑に代えて瀛州刺史とし、爵位を公に進めた。当時は法網が粗く、役人は互いに収奪に励んでいた。ただ雄のみは道理に適ったものだけを取って、下の者には恩恵をもって接したので、官吏や民衆から非常に慕われた。

魏の孝武帝が関中に入ると、雄は大 都督 ととく となった。高昂に従って賀拔勝を穰城で破り、そのまま 州刺史に任じられた。元洪威が潁川を占拠して叛いた。叛徒の趙繼宗が潁川太守の邵招を殺し、樂口を占拠して北の洪威に呼応した。雄がこれを討つと、繼宗は敗走した。城内では雄が出征した隙に州城を占拠し西魏に呼応した。雄は再び行台の侯景と共にこれを討ち平らげた。

梁の将の李洪芝、王當伯が平郷城を襲撃して陥落させたが、雄は両名を共に捕らえた。また梁の司州刺史陳慶之を破り、さらに南荊州を包囲した。東方からの援軍が到着しないうちに、雄はその城を陥落させた。梁が元慶和を魏王として立て、南境を侵擾した。雄は南頓でこれを大破した。まもなく行台の侯景と共に梁の楚城を破った。 州の民が上書し、改めて雄を刺史としてくれるよう請い、再び 州の事務を行った。

潁州長史の賀若統が刺史の田迅を捕らえ、州を占拠して西魏に降った。詔により雄は広州刺史の趙育、揚州刺史の是寶と共に行台の任祥に従ってこれを攻めた。西魏の将の怡鋒が祥らを破ると、育と寶はそれぞれ帰還し、城を占拠して敵に降った。雄は散り散りになった兵を収容し、大梁を守った。周の文帝がその右丞の韋孝寬らを遣わして 州を攻めると、雄の 都督 ととく の程多寶がこれに降った。刺史の馮邕を捕らえ、雄の家族及び部下の妻子数千人を捕え、長安へ送ろうとした。樂口に至った時、友の外兵参軍の王恆伽、 都督 ととく の赫連俊らが大梁からこれを遮って奪った。多寶を斬り、雄の家族を収容して大梁に戻った。雄は別働隊で樂口を破り、丞伯を捕らえ、進軍して縣瓠を討った。再び雄を行 州事とした。西魏は是寶を揚州刺史として項城に拠らせ、義州刺史の韓顯を南頓に拠らせた。雄は一日のうちにこの二城を陥落させ、顯とその長史の嶽を捕らえ、寶は逃走した。驃騎大將軍、儀同三司を加えられ、やはり侯景に従って魯陽を平定し、再び 州刺史に任じられた。

雄は武将ではあったが、性質は寛厚で、政治を行うにあたっては大綱を挙げるのみであった。辺境に十年在任し、しばしば功績を挙げた。人物を愛し、多く施し与えたことでも、これまた称賛された。興和四年、鄴で没し、 司徒 しと を追贈され、諡を武恭といった。子の師が後を嗣いだ。

柳崇は、字を僧生といい、河東郡解県の人である。七世の祖の軌は、 しん の廷尉卿であった。崇は方正雅量で器量があり、身長八尺、美しい鬚と明るい目を持ち、学問と品行を兼ね備えていた。秀才に挙げられ、射策で高第となった。初めて官に就き太尉主簿となり、尚書右外兵郎中に転じた。当時、河東、河北の二郡が境界を争った。その間に塩池の豊かさと虞坂の便益があり、郡守や県令、百姓は皆、他郡に割譲されることを恐れ、公私入り乱れて争い、朝廷に喧噪が絶えなかった。孝文帝は崇を遣わして裁定させ、上下の訴訟を止めさせた。荊州、郢州が新たに帰附した際、南の敵寇が窺い騒擾したので、また詔により崇は節を持ち州郡と共に経略し、慰撫宣諭の任を加えられた。帰還後、太子洗馬、本郡中正に遷った。

累遷して河中太守となった。崇が初めて郡に赴任した時、郡民の張明が馬を失い、十数人を疑って捕らえていた。崇は彼らに会うと、賊事については問わず、一人一人別に温顔をもって接し、さらにその親が老いて存命かどうか、農業の収穫はどれほどかと尋ね、微かにその言葉と表情を観察した。すぐに真犯人である呂穆ら二人を捕らえ、残りは皆釈放して帰した。郡中は畏服し、管内は平穏となった。官で没し、岐州刺史を追贈され、諡を穆といった。崇の作った文章は、寇乱により散逸した。長子の慶和は、性格が沈着静穏で、時流に競わなかった。給事中、本郡中正の位にあり、没した。慶和の弟の楷は、字を士則という。身長八尺、草書をよくし、広く文史に涉猟した。撫軍司馬の位にあった。

論じて曰く、屈遵は学問をもって機微を知った。恆は器量を受けて委任された。張蒲、谷渾は、文武の才を用いられ、代々顕赫であった。善いことではなかろうか。公孫表は初めは一介の士として知られ、終わりには軽薄さのために罪を得た。軌は初めに探金の賞を受け、末には財利の嫌疑に陥った。終わりを全うし得る者は少ない。固より虚しいことではない。張濟は四方に使して、名声を広める美事があった。李先は学術と良謀を持ち、三代にわたって遇された。賈彝は早くから時の称誉を博した。秀は強権を畏れなかった。竇瑾、李䐶は、当時、良吏・能吏と称された。瑾は一言の疑わしい言葉により、䐶は旧来の猜疑心のために、共に一族の誅戮を受けた。まことに悲しむべきことである。韓延之は事える所に忠誠を尽くし、国士の烈節があった。袁式は崔公に遇されることを得て、博雅さをもって重んじられた。脩之は晩年に誠意を示した。唐和は万里を隔てて義を慕った。寇贊は誠信をもって賞賛された。酈范は才智の器であり、物事に通達していた。道元は命に遭い、鬚を噛むような剛直な風骨を示した。韓秀は辺境について議論し、遠方を統御する計略を得ていた。堯暄は聡察をもって地位を得、礼遇は生前も死後も加えられた。構(堯暄の子孫か)と崇は素業を有する資質があり、器量と品行は代々受け継がれた。盛んなことよ。

目次へ戻る

※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻027