煬帝
八年の冬、大いに軍を起こして陳を伐ち、上を行軍元帥とした。陳が平定されると、陳の湘州刺史施文慶・散騎常侍沈客卿・市令湯慧朗・刑法監徐析・尚書都令史の暨慧を捕らえ、彼らが邪佞で民に害をなしたとして、石闕の下で斬り、三呉の民に謝罪した。ここにおいて府庫の資財を封じ、何も取らなかったので、天下は賢明と称えた。位を進めて太尉とし、路車・乗馬・袞冕の服、玄圭・白璧を各一対賜った。再び并州総管に任ぜられた。まもなく江南で高智慧らが集まって乱を起こしたので、上を揚州総管に転じ、江都に鎮めさせ、毎年一度の朝覲とした。高祖が泰山を祭祀した時は、武候大將軍を兼ねた。翌年、封国に帰った。数年後、突厥が辺境を侵したので、再び行軍元帥となり、霊武より出撃した。敵はおらず、凱旋した。太子の勇が廃されると、上を皇太子に立てた。この月、冊を受けることとなった。高祖は言った、「私は大興公として帝業を成した」。上に命じて大興(県)に邸を出させた。その夜、烈風大雪があり、地震山崩れが起こり、民家は多く壊れ、圧死者は百余りであった。仁寿初年、詔を奉じて東南を巡撫した。この後、高祖が仁寿宮に避暑するたびに、常に上に国事を監させた。
四年七月、高祖が崩御し、上は仁寿宮において皇帝の位に即いた。八月、梓宮を奉じて京師に還った。并州総管・漢王諒が兵を挙げて反したので、詔して尚書左僕射の楊素に討伐平定させた。九月乙巳、備身將軍の崔彭を左領軍大將軍とした。十一月乙未、洛陽に行幸した。丙申、丁男十余万を徴発して塹壕を掘らせ、龍門より東は長平・汲郡に接し、臨清関に至り、河を渡り、浚儀・襄城を経て上洛に至り、関防を設置した。癸丑、詔して曰く。
十二月乙丑、右武衛將軍の來護兒を右驍衛大將軍とした。戊辰、柱国の李景を右武衛大將軍とし、右衛率の周羅㬋を右武候大將軍とした。
己酉、呉州総管の宇文弼を刑部尚書とした。二月己卯、尚書左僕射の楊素を尚書令とした。三月丁未、詔して尚書令の楊素・納言の楊達・将作大匠の宇文愷に東京を営建させ、豫州城下の居民を移してこれを充実させた。戊申、詔して曰く、「輿論を聴き採り、庶民に謀り及ぶことにより、政刑の得失を明らかにすることができる。これにより、早朝より治世を思い、冤屈を必ず上聞させ、人倫の秩序を整えんとするものである。ところが地方長官は朝廷の委任に応えるべきでありながら、苟も僥倖を求め、考課のために虚偽の殿最を立て、実情を顧みない。綱紀はこれにより乱れ、冤屈は申し立てる術がない。山河の険阻により、自ら上達することができない。朕は故に東京を建立し、自ら存問しようとする。今、淮海を巡歴し、風俗を観察しようとする。忠言を求めても、ただ文書が煩雑になるばかりで、郷校の内では、聞くことがない。恐れ慎んで日夜心配し、寝食を労している。その民の下で、州県の官人の政務が苛酷で、百姓を侵害し、公に背き私に殉じ、民に不便なことを知る者は、朝廷に詣でて封事を奏上することを聴す。これにより四方の聡明が通じ、天下に冤屈なきことを期する」。また、皂澗に顯仁宮を営み、海内の奇禽・異獣・草木の類を採り集めて園苑を充実させた。天下の富商大賈数万家を東京に移した。辛亥、河南諸郡の男女七百万人を徴発して通済渠を開通させ、西苑より穀水・洛水を引いて河に達し、板渚より河を引いて淮に通じさせた。庚申、黄門侍郎の王弘・上儀同の於士澄を江南に遣わして木材を採らせ、龍舟・鳳拚・黄龍・赤艦・楼船など数万艘を造らせた。夏四月癸亥、大將軍の劉仲方が林邑を撃ち破った。五月庚戌、戸部尚書・義豊侯の韋沖が卒した。甲子、熒惑(火星)が太微垣に入った。秋七月丁酉、戦死者の家には、十年の租税を免除する制を定めた。丙午、滕王の綸・衛王の集はともに爵位を奪われ辺境に流された。閏七月甲子、尚書令の楊素を太子太師とし、安德王の雄を太子太傅とし、河間王の弘を太子太保とした。丙子、詔して曰く。
癸丑(の日)、冀州刺史楊文思を民部尚書に任ず。五月甲寅(の日)、金紫光禄大夫・兵部尚書李通は事に坐して免官となる。乙卯(の日)、詔して曰く、「先哲を旌表することは、饗祀に在りて式と為す。これをもって賢能を優礼し、遺愛を顕彰する所以なり。朕は永く前修を鑑み、名徳を想い尚おざりにせず、何ぞ嘗て九原に嘆きを興さず、千載に思いを属けざらんや。その自古以来の賢人君子、声を樹て徳を立て、世を佐け時を匡し、博く利し殊功を立て、人に益ある者ありしは、並びに宜しく祠宇を営立し、時にして祭りを致すべし。墳壟の処は、侵し践むことを得ず。有司は量りて条式と為し、朕が意に称えよ」と。六月壬子(の日)、尚書令・太子太師楊素を司徒と為す。豫章王暕を進めて斉王と封ず。秋七月癸丑(の日)、衛尉卿衛玄を工部尚書と為す。庚申(の日)、制して百官に考を計り級を増すことを得ざらしむ。必ず德行功能、灼然として顕著なる者ありて、これを擢ぶ。壬戌(の日)、籓邸の旧臣鮮于羅ら二十七人を擢んで、官爵差等あり。甲戌(の日)、皇太子昭薨ず。乙亥(の日)、上柱国・司徒・楚国公楊素薨ず。八月辛卯(の日)、皇孫倓を燕王と封じ、侗を越王と封じ、侑を代王と封ず。九月乙丑(の日)、秦王俊の子浩を立てて秦王と為す。冬十月戊子(の日)、霊州刺史段文振を兵部尚書と為す。十二月庚寅(の日)、詔して曰く、「前代の帝王、時に因りて創業し、君民して国を建て、礼は南面を尊ぶ。而して歴運推移し、年代永久、丘壟は残毀し、樵牧相趨き;塋兆は堙蕪し、封樹は弁ふ莫し。言を興して淪滅を論ずれば、懐に愴然たるものあり。自古以来の帝王陵墓には、随近の十戸を給し、その雑役を蠲み、以て守視を供せしむべし」と。
丙申(の日)、車駕北に巡狩す。丁酉(の日)、刑部尚書宇文弼を礼部尚書と為す。戊戌(の日)、勅して百司に禾稼を践暴することを得ざらしむ。その路を開くを須うるある者は、有司地の収むる所を計り、即ち近倉を以て酬賜し、務めて優厚に従え。己亥(の日)、赤岸沢に至り、太牢を以て故太師李穆を祭る。五月丁巳(の日)、突厥の啓民可汗、子の拓特勒を遣わして来朝す。戊午(の日)、河北十余郡の丁男を発し、太行山より并州に達して、以て馳道を通ず。丙寅(の日)、啓民可汗、その兄の子の毗黎伽特勒を遣わして来朝す。辛未(の日)、啓民可汗使いをして請わしむ、自ら塞に入りて輿駕を奉迎せんと、上許さず。癸酉(の日)、星孛す文昌に、上将星常に皆動揺す。六月辛巳(の日)、連谷にて狩す。丁亥(の日)、詔して曰く、
戊子(の日)、榆林郡に次まる。丁酉(の日)、啓民可汗来朝す。己亥(の日)、吐谷渾・高昌並びに使いを遣わして方物を貢ぐ。甲辰(の日)、上北楼に御し、河にて漁を観、以て百僚を宴す。秋七月辛亥(の日)、啓民可汗上表して変服し、冠帯を襲うことを請う。詔して啓民に、拝を賛えて名を称えず、諸侯王の上に在らしむ。甲寅(の日)、上郡城の東に大帳を御し、その下に儀衛を備え、旌旗を建て、啓民及びその部落三千五百人を宴す。百戯の楽を奏し、啓民及びその部落に賜うこと各差等あり。丙子(の日)、光禄大夫賀若弼・礼部尚書宇文弼・太常卿高熲を殺す。尚書左僕射蘇威は事に坐して免官となる。丁男百余万を発して長城を築き、西は榆林に鉤まり、東は紫河に至り、二旬にして罷み、死者十五六。八月壬午(の日)、車駕榆林を発つ。乙酉(の日)、啓民、盧を飾り道を清めて以て乗輿を候い、帝その帳に幸す。啓民、觴を奉じて寿を上べ、宴賜極めて厚し。上高麗の使者に謂いて曰く、「帰りて爾が王に語れ、当に早く来朝見すべし。然らざれば、吾と啓民と彼の土を巡らん」と。皇后もまた義城公主の帳に幸す。己丑(の日)、啓民可汗蕃に帰る。癸巳(の日)、楼煩関に入る。壬寅(の日)、太原に次まり、詔して晋陽宮を営む。九月己未(の日)、済源に次まり、御史大夫張衡の宅に幸し、宴享極めて歓し。己巳(の日)、東都に至る。壬申(の日)、斉王暕を河南尹・開府儀同三司と為す。癸酉(の日)、戸部尚書楊文思を納言と為す。
四年の春正月乙巳、詔して河北諸郡の男女百余万を発して永済渠を開かせ、沁水を引いて南は河に達し、北は涿郡に通ぜしむ。庚戌、百官は允武殿において大射を行う。丁卯、城内の居民に米を各十石賜う。壬申、太府卿元寿を以て内史令と為し、鴻臚卿楊玄感を以て礼部尚書と為す。癸酉、工部尚書衛玄を以て右武候大将軍と為し、大理卿長孫熾を以て戸部尚書と為す。二月己卯、司朝謁者崔毅を遣わして突厥の処羅に使いせしめ、汗血馬を致す。三月辛酉、将作大匠宇文愷を以て工部尚書と為す。壬戌、百済・倭・赤土・迦羅含国、並びに使いを遣わして方物を貢ぐ。乙丑、車駕五原に幸す。因って塞を出で、長城を巡る。丙寅、屯田主事常駿を遣わして赤土に使いせしめ、羅罽を致す。夏四月丙午、離石の汾源・臨泉、雁門の秀容を以て楼煩郡と為す。汾陽宮を起つ。癸丑、河内太守張定和を以て左屯衛大将軍と為す。乙卯、詔して曰く、「突厥の意利珍豆啓民可汗、部落を率い、関塞に保附し、朝礼を遵奉し、戎俗を改めんと思う。頻りに謁覲に入り、屡に陳請有り。氈墻毳幕を以てするは、事窮まりて荒陋なり;上棟下宇、願わくは比屋に同じくせんと。誠心懇切、朕の重んずる所なり。宜しく万寿戍に城を置き屋を造り、其の帷帳床褥以上、事に随い量り給し、務め優厚に従い、朕の意に称えよ」と。五月壬申、蜀郡に三足烏を獲、張掖に玄狐を獲、各一。秋七月辛巳、丁男二十余万を発して長城を築き、榆林谷より東す。乙未、左翊衛大将軍宇文述、曼頭・赤水に於いて吐谷渾を破る。八月辛酉、親しく恒嶽を祠り、河北道の郡守畢く集まる。天下に大赦し、車駕の経る郡県は、一年の租調を免ず。九月辛未、天下の鷹師を征し、悉く東京に集め、至る者万余人。戊寅、彗星五車より出で、文昌を掃い、房に至りて滅す。辛巳、詔して長城の役者の一年の租賦を免ず。冬十月丙午、詔して曰く、「先師尼父、聖徳躬に在り、天縦の姿を誕発し、文武の道を憲章す;命世して期を膺け、茲に素王を蘊む。而して頽山の嘆、忽ち千祀を逾え;盛徳の美、百代に在らず。永く懿範を惟み、宜しく優崇有るべし。可に孔子の後を立てて紹聖侯と為し、有司其の苗裔を求め、録して上を申さしむべし」と。辛亥、詔して曰く、「昔周王下車し、首に唐虞の胤を封じ;漢帝歴を承け、亦た殷周の後に命ず。皆以て先代を褒め立て、昔を憲章する所以なり。朕景業を嗣ぎ膺け、傍らに雅訓を求め、一に弘益有らば、令典を欽若せん。周は夏殷を兼ね、文質大いに備わり;漢は天下有り、車書混一す;魏晋沿襲し、風流未だ遠からず。並びに宜しく後を立て、以て継絶の義を存すべし。有司可に其の胄緒を求め、列ねて聞かしむべし」と。乙卯、新式を天下に頒つ。
五年の春正月丙子、東京を改めて東都と為す。癸未、詔して天下に均田せしむ。戊子、上東都より自ら京師に還る。己丑、民間の鉄叉・搭鉤・刃の類を制し、皆禁絶す。太守は毎歳密かに属官の景跡を上す。二月戊戌、閿郷に次ぐ。詔して古帝王の陵及び開皇功臣の墓を祭らしむ。庚子、魏・周の官は廕と為すことを得ざるを制す。辛丑、赤土国使いを遣わして方物を貢ぐ。戊申、車駕京師に至る。丙辰、耆旧四百人を武徳殿に宴し、頒賜各差有り。己未、上崇徳殿の西院に御し、愀然として悦ばず、顧みて左右に謂いて曰く、「此れ先帝の居ます所、実に用て感を増し、情未だ安からず。此の院の西に、別に一殿を営め」と。壬戌、父母の子の官に随うを聴するを制す。三月己巳、車駕西に河右を巡る。庚午、有司言う、武功の男子史永遵、従父昆弟と同居す、上之を嘉し、物一百段、米二百石を賜い、其の門閭を表す。乙亥、扶風の旧宅に幸す。
九月癸未、車駕長安に入る。冬十月癸亥、詔して曰く、「徳を優れ年歯を尚ぶは、典訓に載す;事を尊び言を乞うは、義膠序に彰る。鬻熊師と為り、筋力を取らず;方叔元老、克く其の猷を壮んず。朕永く古を稽え、用て至理を求む。是を以て龐眉黄髪、更に収叙を令し;務め簡にして秩優にし、薬餌を虧かざらしめ、庶幾くは臥理に等しく、其の弘益を佇たん。今歳耆老赴集する者は、可に近郡に処置すべし。年七十已上、疾患沈滞にして職に居るに堪えざれば、即ち帛を給賜し、本郡に送還すべし。其の官七品以上に至る者は、量りて廩を給して以て其の身を終わらしむべし」と。十一月丙子、車駕東都に幸す。
六年春正月癸亥朔(六日の暦の始まり)、朝、盗賊数十人、皆白冠に練衣を着け、香を焚き花を持ち、自ら弥勒仏と称し、建国門より侵入す。監門者は皆稽首し、やがて衛士の武器を奪い、乱を起こさんとす。斉王楊暕が遭遇してこれを斬る。ここにおいて都下で大規模な捜索を行い、これに連座する者千余家。丁丑、角抵の大技を端門街で行い、天下の奇伎異芸ことごとく集まり、一ヶ月で終わる。帝はしばしば微行して往き観る。己丑、倭国使いを遣わして方物を貢ぐ。二月乙巳、武賁郎将陳棱・朝請大夫張鎮州が流求を撃ち破る。捕虜一万七千口を献じ、百官に頒賜す。乙卯、詔して曰く「帝図草創、王業艱難、皆股肱に依り、心徳を同じくして協力す。用いて能くその頽運を救い、大宝を膺けしむ。然る後に庸を疇り茂賞を賜い、国を開き家を承け、山河を誓いて、これを不朽に伝う。近代凋喪し、四海未だ一ならず。茅土妄りに仮し、名実相い乖く。これ永久を歴て、能く懲革する莫し。皇運の初、百度始まるも、なお旧貫に循い、改作する暇無し。今天下交泰し、文軌攸同じ。宜しく先典に率い遵い、永く大訓を垂るべし。今より以後、唯だ功勲有るのみ、賜封を得、仍子孫に承襲せしむべし」。丙辰、安德王楊雄を観王に改封し、河間王の子楊慶を郇王とす。庚申、魏・斉・周・陳の楽人を徴し、悉く太常に配す。三月癸亥、江都宮に幸す。甲子、鴻臚卿史祥を左驍衛大將軍とす。夏四月丁未、江・淮以南の父老を宴し、頒賜各差有り。六月辛卯、室韋・赤土並びに使いを遣わして方物を貢ぐ。壬辰、雁門の賊帥尉文通、衆三千を聚め、莫壁谷に保つ。鷹揚郎将楊伯泉を遣わして撃破す。甲寅、江都太守の制を定め、その秩を京尹と同じくす。冬十月壬申、刑部尚書梁毗卒す。壬子、戸部尚書・銀青光禄大夫長孫熾卒す。十二月己未、左光禄大夫・吏部尚書牛弘卒す。辛酉、朱崖の人王萬昌、兵を挙げて乱を為す。隴西太守韓洪を遣わして討ち平らぐ。
七年春正月壬寅、左武衛大將軍・光禄大夫・真定侯郭衍卒す。二月己未、上釣台に登り、楊子津に臨み、百僚を大いに宴し、頒賜各差有り。庚申、百済使いを遣わして朝貢す。乙亥、上江都より龍舟に御し通済渠に入り、遂に涿郡に幸す。壬午、詔して曰く「武に七徳有り、先ずこれに安民を以てす。政に六本有り、これに教義を以て興す。高麗、藩礼を虧失し、将に遼左に問罪せんとす。勝略を恢宣せんとす。国を伐つことを懐うと雖も、仍力を省くことを事とす。今涿郡に往き、民俗を巡撫す。その河北諸郡及び山西・山東にて年九十已上なる者は、版を授けて太守とす。八十なる者は、県令を授く」。三月丁亥、右光禄大夫・左屯衛大將軍姚辯卒す。夏四月庚午、涿郡の臨朔宮に幸す。五月戊子、武威太守樊子蓋を民部尚書とす。秋、大水、山東・河南三十余郡漂没し、民互いに売られて奴婢と為る。冬十月乙卯、底柱山崩れ、水偃しまに流ること数十里。戊午、東平太守吐萬緒を左屯衛大將軍とす。十二月己酉、突厥の処羅多利可汗来朝す。帝大いに悦び、殊礼を以て接す。この時、遼東の戦士及び饋運する者、道に填咽し、昼夜絶えず。苦役する者、始めて群盗と為る。甲子、都尉・鷹揚に勅し、郡県と相知り追捕せしめ、獲るに随い斬決す。
八年春正月辛巳、大軍涿郡に集まる。兵部尚書段文振を左候衛大將軍とす。壬午、詔を下して曰く
九月庚辰、上東都に至る。己丑、詔す「軍国は容を異にし、文武は用を殊にする。危きを匡い難きを拯うは、則ち覇徳の興る攸。人を化し俗を成すは、則ち王道の貴ぶ斯なり。時に撥乱に当たりては、屠販も以て朝に登るべく、世隆平に属しては、経術然る後に仕に升る。豊都爰に肇まり、儒服周行に預かる無く、建武の朝、功臣吏職に参せず。三方未だ一ならず、四海交争してより、文教に遑無く、唯だ武功を尚ぶ。官を設け職を分つも、罕に才を以て授けず、朝に班なり人を理むるも、乃ち勲を叙するに由る。足を抜きて行陣し、勇夫より出でざるは莫し。学敩の道は、既に習う所とせず、政事の方も、故に亦取る所無し。是非己に在りて暗く、威福下吏に専らす。貨賄を貪冒し、紀極を知らず、政を蠹み民を害するは、実にこれに由る。今より以後、諸勲官を授くる者は、並びに回授して文武職事と為すことを得ず。庶わくは彼の更張に遵い、調瑟に類を取らんことを。諸の名制を求め、美錦を傷つけざらんことを。若し吏部輒りに擬用する者は、御史即ち宜しく糾弾すべし」。冬十月戊寅、工部尚書宇文愷卒す。十一月己卯、宗女華容公主を以て高昌王に嫁す。辛巳、光禄大夫韓壽卒す。甲申、敗将宇文述・于仲文等を除名して民と為し、尚書右丞劉士龍を斬りて以て天下に謝す。是歳、大旱疫有り、人多く死に、山東尤甚だし。密かに江・淮南諸郡に詔し、民間の童女にて姿質端麗なる者を閲視し、毎歳これを貢がしむ。
九年春正月丁丑、天下の兵を徴し、民を募って驍果と為し、涿郡に集まる。壬午、賊帥杜彦永・王潤ら平原郡を陥とし、大いに掠めて去る。辛卯、折衝・果毅・武勇・雄武等の郎将官を置き、以て驍果を領せしむ。乙未、平原の李徳逸、衆数万を聚め、阿舅賊と称し、山東を劫掠す。霊武の白榆、妄りに奴賊と称し、牧馬を劫掠す。北は突厥に連なり、隴右多く其の患いを受く。将軍範貴を遣わして之を討たしむも、連年克つ能わず。戊戌、大赦す。己亥、代王侑・刑部尚書衛玄を遣わして京師を鎮守せしむ。辛丑、右驍衛将軍李渾を以て右驍衛大将軍と為す。二月己未、済北の人韓進洛、衆数万を聚めて群盗と為る。壬午、宇文述らの官爵を復し、又兵を徴して高麗を討たしむ。三月丙子、済北の人孟海公、兵を起こして盗と為り、衆数万に至る。丁丑、丁男十万を発して大興を城す。戊寅、遼東に幸す。越王侗・工部尚書樊子蓋を以て東都を鎮守せしむ。庚子、北海の人郭方預、徒を聚めて賊と為り、自ら盧公と号し、衆三万に至り、郡城を攻め陥とし、大いに掠めて去る。夏四月庚午、車駕遼を渡る。壬申、宇文述・楊義臣を遣わして平壤城に趣かしむ。五月丁丑、熒惑南斗に入る。己卯、済北の人甄宝車、衆万余を聚め、城邑を寇掠す。
六月乙巳、礼部尚書楊玄感、黎陽に於いて反す。丙辰、玄感東都を逼る。河南賛理裴弘策之を拒ぐも、反って賊に敗る。戊辰、兵部侍郎斛斯政、高麗に奔る。庚午、上班師す。高麗後軍を犯す。右武衛大将軍李景を後拒と為すを敕し、左翊衛大将軍宇文述・左候衛将軍屈突通らを遣わし、伝駅を馳せて兵を発し、以て玄感を討たしむ。秋七月己卯、所在に令して人を発し県府駅を城せしむ。癸未、余杭の人劉元進、兵を挙げて反し、衆数万に至る。八月壬寅、左翊衛大将軍宇文述ら、楊玄感を閿郷に破り、之を斬る。余党悉く平ぐ。
癸卯、呉の人朱燮・晋陵の人管崇、衆十万余を擁し、自ら将軍と称し、江左を寇す。甲辰、驍果の家を制し、賦役を蠲免す。丁未、郡県城、道を去ること五里已上なる者は、之に徙り就くべしと詔す。戊申、盗賊は其の家を籍没すと制す。乙卯、賊帥陳瑱ら三万、信安郡を攻め陥とす。辛酉、司農卿・光禄大夫・葛国公趙元淑、罪を以て伏誅せらる。九月己卯、済陰の人呉海流・東海の人彭孝才並びに兵を挙げて盗と為り、衆数万。庚辰、賊帥梁慧尚、衆四万を聚め、蒼梧郡を陥とす。甲午、車駕上谷に次す。供費給わざるを以て、上大いに怒り、太守虞荷らの官を免ず。丁酉、東陽の人李三児・向但子、兵を挙げて乱を為し、衆万余に至る。閏月己巳、博陵に幸す。庚午、上侍臣に謂ひて曰く、「朕昔先朝に従ひ、此に周旋す。年甫八歳。日月居らず、倏に三紀を経る。曩昔を追惟すれば、復た希ふべからず。」言未だ卒はざるに、涕を流して嗚咽す。侍衛する者皆泣き襟を沾す。冬十月丁丑、賊帥呂明星、衆数千を率ひて東郡を囲み、武賁郎将費青奴之を撃ち斬る。乙酉、詔して曰く、「博陵は昔定州と為り、地は沖要に居る。先王歴試の基、王化斯に遠し。故に以て道は『豳風』に冠たり、義は姚邑に高し。朕氓庶を巡撫し、爰に茲の邦に届く。郊廛を瞻望し、敬止を緬懐す。思ふ所以に慶沢を宣播し、覃かに下人に被せ、紀を崇め号を顕はし、式に令緒を光はさむ。博陵を改めて高陽郡と為すべし。境内の死罪以下を赦し、復を一年給ふ。」是に於て高祖の時の故吏を召し、皆量才して職を授く。壬辰、納言蘇威を以て開府儀同三司と為す。朱燮・管崇、劉元進を推して天子と為し、将軍吐万緒・魚倶羅を遣わして之を討たしむも、連年克つ能わず。斉の人孟譲・王薄ら衆十余万、長白山に拠り、諸郡を攻剽す。清河の賊張金称衆各数万、勃海の賊帥格謙、自ら燕王と号し、孫宣雅自ら斉王と号し、衆各十万、山東之に苦しむ。丁亥、右候衛将軍郭栄を以て右候衛大将軍と為す。十一月己酉、右候衛将軍馮孝慈、清河に於いて張金称を討つも、反って敗れ、孝慈之に死す。十二月甲辰、楊玄感の弟朝散大夫積善及び党与十余人の車裂に処し、仍て焚きて之を揚ぐ。丁亥、扶風の人向海明、兵を挙げて乱を為し、皇帝と称し、元号を白烏と建つ。太僕卿楊義臣を遣わして之を撃破す。
十年春正月甲寅、宗女を以て信義公主と為し、突厥の曷娑那可汗に嫁す。二月辛未、百寮に詔して高麗を伐つことを議せしむ。数日敢えて言う者無し。戊子、詔して曰く、「王役に竭力し、身を戎事に致すは、咸よ徇義に由り、勤誠に匪ざる莫し。命を草芥に委ね、骸を原野に暴す。言を興して之を念へば、毎に湣惻を懐ふ。往年罪を問ひ、将に遼濱に届かんとす。廟算勝略、進止を具有す。而るに諒は昏凶にして、成敗を識ること罔く、高颎は愎狠にして、本より智謀無し。三軍に臨むも猶ほ児戯の如く、人命を視ること草芥の如し。成規に遵はず、坐して撓退を貽す。遂に死亡する者衆くして、埋藏に及ばず。今宜しく使人を遣はし、分道して収葬せしむべし。遼西郡に於て祭を設け、道場一所を立つ。恩を泉壤に加へ、庶くは窮魂の冤を弭はん。沢を枯骨に及び、用て仁者の恵を弘めむ。」辛卯、詔して曰く。
丁酉、扶風の人唐弼、兵を挙げて反し、衆十万、李弘を推して天子と為し、自ら唐王と称す。三月壬子、行幸して涿郡に至る。癸亥、臨渝宮に次す。親しく戎服を禦し、黄帝を祃祭し、叛軍の者を斬りて以て鼓に釁す。夏四月辛未、彭城の賊張大彪、衆数万を聚め、県薄山に保ちて盗と為り、榆林太守董純を遣わして之を撃破斬る。甲午、車駕北平に次す。五月庚子、郡孝悌廉潔各十人を挙ぐることを詔す。壬寅、賊帥宋世謨、瑯邪を陥とす。庚申、延安の人劉迦論、兵を挙げて反し、自ら皇王と称し、元号を大世と建つ。六月辛未、賊帥鄭文雅・林宝護ら衆三万、建安郡を陥とし、太守楊景祥之に死す。秋七月癸丑、車駕懐遠鎮に次す。乙卯、曹国使いを遣わして方物を貢ぐ。甲子、高麗使いを遣わして降を請ひ、斛斯政を囚して送る。上大いに悦ぶ。八月己巳、班師す。右衛大将軍・左光禄大夫鄭栄卒す。冬十月丁卯、上東都に至る。己丑、京師に還る。十一月丙申、金光門外に於て斛斯政を支解す。乙巳、南郊に事有り。己酉、賊帥司馬長安、長平郡を破る。乙卯、離石胡の劉苗王、兵を挙げて反し、自ら天子と称し、其の弟六児を以て永安王と為し、衆数万に至る。将軍潘長文之を討つも、克つ能わず。是の月、賊帥王徳仁、衆数万を擁し、林慮山に保ちて盗と為る。十二月壬申、上東都に如く。其の日天下に大赦す。戊子、東都に入る。庚寅、賊帥孟譲衆十余万、都梁宮に拠る。江都丞王世充を遣わして之を撃破し、其の衆を尽く虜ふ。
十一年春正月甲午朔、百寮を宴す。突厥・新羅・靺鞨・畢大辭・訶咄・傅越・烏那曷・波臘・吐火羅・俱慮建・忽論・靺鞨・訶多・沛汗・龜茲・疏勒・于闐・安國・曹國・何國・穆國・畢・衣密・失範延・伽折・契丹等の国、並びに使を遣わして朝貢す。戊戌、武賁郎将高建毗、賊帥顔宣政を斉郡に破り、男女数千口を虜う。乙卯、蛮夷を大いに会し、魚龍曼延の楽を設け、頒賜各差有り。
二月戊辰、賊帥楊仲緒等、衆万余を率いて北平を攻む。滑公李景、これを破り斬る。庚午、詔して曰く、「険を設けて国を守るは、前経に著く。門を重ねて暴を禦ぐは、往策に事彰なり。これをもって土を宅し邦を寧んじ、邪を禁じ本を固む。然るに近代戦争に、居人散逸し、田疇に伍無く、郛郭修まらず。遂に遊惰をして実に繁ならしめ、寇攘未だ息まず。今天下平一し、海内晏如たり。宜しく人をして悉く城に居らしめ、田は近きに随いて給すべし。強弱相容れ、力役兼ねて済わしめ、穿窬その奸宄を厝く所無く、雚蒲その逋逃を聚うるを得ざらしむ。有司事条を具えて為し、務めて得所ならしめよ」。丙子、王須抜反し、自ら漫天王と称し、国号を燕とす。賊帥魏刀児、自ら歴山飛と称し、衆各十余万、北は突厥に連なり、南は趙を寇す。
三月丁酉、右驍衛大将軍光禄大夫郕公李渾・将作監光禄大夫李敏を殺し、並びにその家を族滅す。癸卯、賊帥司馬長安、西河を破る。己酉、太原に幸し、汾陽宮に避暑す。秋七月己亥、淮南の人張起緒、兵を挙げて盗と為り、衆三万に至る。辛丑、光禄大夫・右禦衛大将軍張寿卒す。
十一月丙辰、唐公が京師に入った。辛酉、遥かに帝を太上皇と尊び、代王侑を立てて帝とし、元号を義寧と改めた。上は丹楊に宮殿を建て、江左に退こうとした。烏鵲が来て幄帳に巣を作り、追い払っても止めることができなかった。熒惑が太微を犯した。石が江より浮かび楊子に入り、日光が四散して流血の如く、上はこれを甚だ忌み嫌った。
初め、上は自ら蕃王として、次第として立つべきにあらずとし、常に情を矯め行いを飾り、もって虚名を釣り、陰に宗を奪わんとする計りごとあり。時に高祖は文獻皇后を雅に重んじ、しかも性妾媵を忌む。皇太子勇は内に多く嬖幸あり、これをもって愛を失う。帝は後庭に子あれども皆これを育せず、私寵なきを示し、后に媚びを取る。大臣にして事を用うる者は、心を傾けてこれと交わる。中使が第に至れば、貴賤を問わず、皆曲げてその顔色を承け、厚礼をもって申し述ぶ。婢仆の往来する者は、その仁孝を称えざるはなし。また常に私かに宮掖に入り、文獻后と密謀す。楊素らは機に乗じて扇動し、遂に廃立を成す。高祖の大漸より諒暗の中に及び、蒸淫度なく。山陵始めて成るや、即ち事として巡遊す。天下の承平久しきを以て、士馬全盛なり。慨然として秦皇・漢武の事を慕う。乃ち盛んに宮室を理め、窮極侈靡なり。行人を召募し、分かち使いて絶域に至らしむ。諸蕃の至る者は、厚く礼賜を加え、恭命せざるあれば、兵をもってこれを撃つ。玉門・柳城の外に盛んに屯田を興す。天下の富室に課して分道して武馬を市わしめ、疋直十余万。富強これによりて凍餒する者は、十家にして九なり。
性多く詭譎なり。幸する所は、人に知らせんと欲せず。毎に幸する所には、輒ち数道に置頓す。四海の珍羞殊味、水陸必ず備えたり。求めて市うる者は遠きより至らざるなし。郡県の官人は、競いて食を献ず。豊厚なる者は進擢され、疏儉なる者は罪を得る。奸吏は侵漁し、内外虚竭す。頭会箕斂、人の聊生するなし。時に当たり、軍国の務多く、日暇あらず。帝方に驕怠にして、政事を聞くを悪む。冤屈理めず、奏請決すること罕なり。また臣下を猜忌し、専任する所なし。朝臣にして意に合わざる者は、必ずその罪を構えて族滅す。高颎・賀若弼は先皇の心膂、帷幄に参謀す。張衡・李金才は籓邸の惟旧、経綸に績著なり。その直道を悪み、その正義を忌む。その形なき罪を求め、丹頸の戮を加う。その余、君に尽礼し、謇謇として躬を匪ず。辜なく罪なきに、横に夷戮を受くる者は、勝え紀すべからず。政刑弛紊し、賄貨公行す。敢えて言う者なく、道路目を以てす。六軍息まず、百役繁興す。行く者は帰らず、居る者は業を失う。人饑えて相食い、邑落墟と為る。上はこれを恤れず。東西に行幸し、定まりて居する所なし。毎に供費給せざるを以て、逆に数年の賦を収む。至る所、唯だ後宮と流連耽湎し、惟だ日足らざるを思う。姥媼を招迎し、朝夕ともに醜言を肆にす。また少年を引き入れ、宮人と穢乱せしむ。不軌不遜、以て娯楽と為す。区宇の内、盗賊蜂起す。従官を劫掠し、城邑を屠陷す。近臣互いに掩蔽し、皆賊の数を隠し、実を以て対せず。或いは賊多しと言う者あれば、輒ち大いに詰責を受く。各おの苟も免れんことを求め、上下相蒙る。毎に出師すれば、敗亡相継ぐ。戦士尽力するも、賞賜を加えず。百姓辜なきに、咸く屠戮を受く。蒸庶怨みを積み、天下土崩す。禽らるるに至りて、しかもなおこれを寤らざりき。
恭帝
乙亥(二十九日)、張掖の康老和が兵を挙げて反した。十二月癸未(七日)、薛挙が自ら天子を称し、扶風を寇し、秦公が元帥としてこれを撃破した。丁亥(十一日)、桂陽の人曹武徹が兵を挙げて反し、通聖と建元した。丁酉(二十一日)、義師が驍衛大将軍屈突通を閿郷において捕らえた。乙巳(二十九日)、賊帥張善安が廬江郡を陥落させた。
戊辰(二十四日)、詔して唐王に九錫の礼を備え、璽紱・遠遊冠・緑綟綬を加え、位を諸侯王の上に置いた。唐国には丞相以下を置き、一に旧式に依る。五月乙巳朔(一日)、詔して唐王に冕十有二旒を賜い、天子の旌旗を立て、出警入蹕、金根車、五時の副車を備えた駕、旄頭雲罕車を置き、八佾の舞を舞わせ、鐘虡宮懸を設けた。王后・王子・王女の爵命の号は、一に旧典に遵う。戊午(十四日)、詔して曰く、「天、隋国に禍いし、大行太上皇(煬帝)江都にて盗(賊)に遇う。予小子を憫み、哀号永く感ず、惟うに荼毒を仰ぎ、仇復すべくも申さず。相国唐王は期運に応じ世を命じ、危きを扶け溺るるを拯い、北より南に徂き、東征して西は怨む。九合を総べて一匡にし、百勝を千里に決す。夷夏を糾率し、氓黎を大いに庇い、朕躬を保義するは、繄王に頼る。徳は造化に侔しく、功は蒼旻に格り、兆庶帰心し、歴数斯に在り。屈して人臣と為り、載ち天命に違う。当今九服崩離し、三霊改卜し、大運去りぬ。賢路を避けんことを請う。私僮(私の従者)に命じて駕を駆り、須らく藩国に帰らしむ。予は本より代王、及び予にして代わる、天の廃する所、豈に期して是の如くならんや。庶くは稽古の聖に憑り、以て四凶を誅し、幸いに惟新の恩に値い、預って三恪に充たん。皇祖に冤恥を雪ぎ、禋祀を守りて孝孫と為り、朝に聞きて夕に殞つとも、泉下に恨み無からん。今故事に遵い、旧邸に遜る。庶官群辟、改めて唐朝に事えよ。宜しく前典に依り、趣かに尊号を上るべし。重負を釋くが若く、泰きを感ずるに懐を兼ぬ。真人に手を仮し、俾めしめて醜逆を除かしむ」と。仍有司に勅し、凡そ表奏有る者は、皆以て聞こゆるを得ざらしむ。是の日、帝は位を大唐に譲った。(唐は帝を)酅国公と為した。
論
史臣曰く、煬帝は弱齢に在りて、早くより志尚有り、南は呉会を平げ、北は匈奴を卻け、昆弟の中に獨り聲績を著わす。ここに於いて情を矯め貌を飾り、厥の奸回を肆にす。故に獻后(独孤皇后)の鐘心を得、文皇(文帝)の慮りを革む。天方に亂を肇むるや、遂に儲兩(皇太子)に升る。峻極の榮基を踐み、丕顯の休命を承く。地は三代に廣く、威は八紘に振る。單于は頓顙し、越常は重譯す。赤仄の泉は都内に流溢し、紅腐の粟は塞下に充積す。其の富強の資を負い、厭き無き欲を逞うするを思う。殷周の制度を狹め、秦漢の規摹を尚ぶ。才を恃み己を矜り、明德に傲狠なり。内に險躁を懷き、外に凝簡を示す。冠服を盛んにして以て其の奸を塞ぎ、諫官を除きて以て其の過を掩う。淫荒度無く、法令滋彰なり。教は四維絕え、刑は五虐に參わる。骨肉を誅鋤し、忠良を屠劓す。賞を受くる者は其の功を見ること莫く、戮せらるる者は其の罪を聞くこと莫し。
驕怒の兵屢動き、土木の功息まず。頻りに朔方に出で、三たび遼左に駕す。旌旗萬里、徵稅百端。猾吏侵漁し、人堪命せず。乃ち急令暴賦を以て之を擾し、嚴刑峻法を以て之に臨み、甲兵威武を以て之を董う。是より海内騷然として聊生すべき無し。俄にして玄感黎陽の亂を肇め、匈奴雁門の圍み有り。天子方に中土を棄て、遠く揚・越に之く。奸宄釁に乘じ、強弱相陵る。關梁閉じて通ぜず、皇輿往きて返ること莫し。之に師旅を加え、之に饑饉を因り、道路に流離し、溝壑に轉死すること、十に七、八なり。ここに於いて相聚りて雚蒲(かんぽ、賊の巣窟)し、猬毛の如く起つ。大なるは則ち州を跨ぎ郡を連ね、帝を稱し王を稱し、小なるは則ち千百群を為し、城を攻め邑を剽す。流血川澤と成り、死人亂麻の如し。炊する者は析骸に及ばず、食する者は易子に遑無し。茫茫たる九土、並びに糜鹿の場と為り、惵惵たる黔黎、俱に蛇豕の餌と充つ。四方萬里、簡書相續く。猶お鼠竊狗盜を謂い、虞るに足らずと為す。上下相蒙り、肯て亂を念うこと莫し。蜉蝣の羽を振るい、長夜の樂を窮む。土崩魚爛し、貫盈惡稔る。普天の下、仇讎に非ざる莫く、左右の人、皆敵國と為る。終然悟らず、彼の望夷(秦二世の死んだ宮)に同じ。遂に萬乘の尊を以て、匹夫の手に死す。億兆感恩の士靡く、九牧勤王の師無し。子弟同しく誅夷に就き、體骨棄てられて掩うこと莫し。社稷顛隕し、本枝殄絕す。書契を肇むるより以て茲に至るまで、宇宙崩離し、生靈塗炭し、身を喪い國を滅ぼすこと、未だ斯の如き甚だしき有らざるなり。
『書経』に曰く、「天の作す災いは、なお違るべし。自ら作す災いは、逃るべからず」と。『左伝』に曰く、「吉凶は人に由る。妖は妄りに作さず」と。また曰く、「兵は猶ほ火の如し。戢めざれば将に自ら焚けん」と。隋室の存亡を観るに、この言葉に徴有り。
恭帝は年、幼沖に在りて、家難に遭う。一人徳を失い、四海土崩す。群盗螽の如く起こり、豺狼路を塞ぐ。南巢遂に往き、流彘帰らず。既に百六の期に鐘り、躬ら数終の運を践む。謳歌属する有り、笙鐘響きを変ず。堯・舜の跡に遵わざらんと欲すと雖も、庸して得んや。