文帝
隋の高祖文皇帝は姓は楊、諱は堅、小名は那羅延という。本籍は弘農郡華陰県の人で、漢の太尉楊震の十四世の孫である。楊震の八世の孫に、燕の北平太守楊鉉がいる。楊鉉の子の元寿は、北魏の初めに武川鎮の司馬となり、これにより神武の樹頹に家を定めた。元寿は太原太守の恵嘏を生み、嘏は平原太守の烈を生み、烈は寧遠将軍の禎を生み、禎は皇考(皇帝の父)の忠を生んだ。初め、禎は北魏末の喪乱に際し、中山に避難し、義徒を結集して鮮于修礼を討ったが、遂にその戦いで死んだ。北周の保定年間、皇考は勲功を顕彰され、柱国大将軍・少保・興城郡公を追贈された。
皇考は美しい鬚髯を持ち、身長は七尺八寸、容貌は魁偉で、武芸は群を抜き、識見と度量は深重で、将帥としての才略があった。十八歳の時、泰山に客遊していたが、梁の軍が郡国を陥落させたのに遭い、江南に連行された。北海王元顥が洛陽に入ると、これに従って共に帰還したが、元顥が敗れると、爾朱度律が召し出して帳下の統軍とした。後に独孤信に従い、幾度も軍功を立て、また信と共に魏の孝武帝に従って西遷した。東魏の荊州刺史辛纂が穣城を占拠すると、皇考は信に従ってこれを討ち、都督の康洛児・元長生と共に城に乗り入り、弓を引き絞って大声で呼ばわり、辛纂を斬って示し、城中を畏服させた。半年ほど経ち、東魏の逼迫により、信と共に帰還した。周の文帝(宇文泰)は召し出して帳下に置いた。かつて周文に従って龍門で狩猟した時、皇考は単身で一頭の猛獣に立ち向かい、左脇にその腰を抱え、右手でその舌を抜き、周文はその勇壮さを称えた。北臺では猛獣を「掩贍」と言うので、これをもって字とした。禽竇泰を討ち、沙苑の陣を破り、襄武県公に封ぜられた。河橋の戦役では、皇考は壮士五人と力を合わせて橋を守って戦い、敵は進むことができなかった。また李遠と共に黒水の稽胡を破り、怡峰と共に玉壁の包囲を解き、その功により雲州・洛州の二州刺史を歴任した。芒山の戦いでは、先鋒として敵陣に突入し、大都督に任ぜられた。
侯景が長江を渡り、梁が敗れると、周文は経略しようとし、皇考に都督荊等十五州諸軍事を授け、穣城に鎮守させた。梁の雍州刺史・岳陽王蕭察は、藩属と称してはいたが、なお二心を抱いていた。皇考は樊城から漢水のほとりに軍勢を閲し、旗を次々に替えて進軍した。実際は二千騎であったが、蕭察が楼閣に登ってこれを望見すると、三万と見誤り、恐れて服従した。また梁の随郡を攻め、これを陥落させ、その守将桓和を捕らえた。通過する城や戍は、風の便りに聞いて降伏を請うた。進軍して安陸を包囲すると、梁の同州刺史柳仲礼は安陸が守れぬことを恐れ、急ぎ帰還して救援に向かった。諸将は仲礼が到着すれば安陸は陥落し難くなると恐れ、急いで攻撃するよう請うた。皇考は言った。「仲礼は既に近い道におり、我が奇兵をもってこれを襲えば、一挙に必ず打ち破ることができ、そうすれば安陸は攻めずして自ら陥ち、諸城は檄文を伝えるだけで平定できよう。」そこで二千騎を選び、枚を銜ませて夜間に進軍した。漴頭で仲礼と遭遇し、これを捕らえ、その軍勢を悉く捕虜とした。安陸・竟陵は共に降伏した。梁の元帝は大いに恐れ、子の方略を人質として送り、盟書を送って、魏を石城を境とし、梁を安陸を境とするよう請うた。皇考はそこで軍を返した。爵位を進めて陳留郡公とし、大将軍の位に就いた。十七年、梁の元帝がその兄の邵陵王蕭綸を逼迫した。蕭綸は人質を北斉に送り、侵攻しようとした。梁の元帝は密かに周文に報告した。周文は皇考を派遣してこれを討たせ、蕭綸を捕らえ、その罪を数え上げて殺した。初め、皇考は柳仲礼を捕らえた時、彼を非常に厚遇した。仲礼が京師に至ると、かえって皇考を讒言し、軍中で多量の金宝を奪い取ったと述べた。周文は皇考の功績が重いとして、問わなかった。しかし皇考は仲礼を殺さなかったことを後悔していたので、ここに至って蕭綸を殺したのである。皇考は一年おきに再び出兵し、漢東の地をことごとく平定し、新たに帰附した者の心を大いに得た。魏の恭帝は普六茹の姓を賜い、同州の事務を行わせた。于謹が江陵を討伐した時、皇考は前軍となり、江津に駐屯し、その退路を遮断した。梁人は刃を象の鼻に結び付けて戦ったが、皇考がこれを射ると、二頭の象は逆に走り去った。江陵が平定されると、周文は蕭察を梁主として立て、皇考に命じて穣城を鎮守させた。周の孝閔帝が即位すると、召されて小宗伯となった。
帝(文帝楊堅)は、武元皇帝の長子である。皇妣は呂氏という。周の大統七年六月癸丑の夜、馮翊の般若寺において帝を生んだ。紫気が庭に満ちた。時に河東より来た尼がおり、皇妣に言うには、「この子の来歴は甚だ異なります。俗世間において養うことはできません」と。そこで帝を別館に住まわせ、自ら養育した。皇妣が帝を抱いていると、突然、頭に角が生え、体中に鱗が現れ、帝を地に落としてしまった。尼が外から見て言うには、「すでに我が子を驚かせてしまい、天下を得るのが遅くなるでしょう」と。帝は龍のような顎を持ち、額には五本の柱が頂上に入り込み、目つきは外に向かって光を放ち、手には「王」の字の文があり、上が長く下が短く、沈着で重々しかった。初めて太学に入った時、最も親しい者であっても、軽々しく接することはできなかった。十四歳の時、京兆尹薛善が功曹に辟召した。十五歳、皇考の功績により、散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司に任じられ、成紀県公に封ぜられた。十六歳、驃騎大将軍に昇進し、開府を加えられた。周の文帝(宇文泰)はこれを見て嘆じて言った、「この子の風骨は、世間の人ではない」。明帝が即位すると、右小宗伯に任じられ、大興郡公に進封された。明帝はかつて善相者である来和を遣わして帝を見させた。和は偽って答えて言った、「柱国を超えることはないでしょう」。その後、密かに帝に言った、「公は天下の君主となられるでしょう。必ず大いに誅殺を行った後に天下は定まるでしょう」。
九月壬子、周帝帝を進めて大丞相と為す。十月、周帝詔して皇曾祖烈を追贈して柱国・太保・都督十州諸軍事・徐州刺史・隋国公と為し、諡して康と曰う。皇祖禎を柱国・都督十三州諸軍事・同州刺史・隋国公と為し、諡して献と曰う。皇考忠を上柱国・太師・大冢宰・都督十三州諸軍事・雍州牧と為す。壬戌、陳王純を誅す。周帝帝を進めて大冢宰と為し、五府天官に総ぶ。十一月辛未、代王達・滕王悄を誅す。十二月甲子、周帝帝に相国を授け、百揆を総べ、都督内外諸軍事・大冢宰の号を去り、爵を進めて王と為す。隋州の崇業、鄖州の安陸・城陽、温州の宜人、応州の平靖・上明、順州の淮南、士州の永川、昌州の広昌・安昌、申州の義陽・淮安、息州の新蔡・建安、豫州の汝南・臨潁・広寧・初安、蔡州の蔡陽、郢州の漢東の二十郡を以て隋国と為す。剣履上殿、入朝趨かず、賛拝名を称せず、九錫の礼を備う。璽紱・遠遊冠を加え、相国印緑綟綬、位は諸侯王の上に在り。隋国は丞相以下を置き、一に旧式に依る。帝再び譲り、乃ち王爵を受け、十郡のみ。周帝詔して皇祖・皇考の爵を進めて並びに王と為し、夫人を王妃と為す。
大宗伯・大将軍・金城公趙煚を遣わして皇帝璽紱を奉らしめ、百官進むを勧め、帝乃ち之を受く。
三月、宣仁門の槐樹が連理となり、多くの枝が内側に寄り添った。壬午、白狼国が方物を献上した。丁亥、詔して犬馬・器玩・口味は献上してはならないと定めた。戊子、山沢の禁令を緩めた。己丑、盩啡の連理樹を移して宮庭に植えた。戊戌、太子少保蘇威を納言・吏部尚書を兼ねさせた。庚子、詔して前代の品爵は全て旧定のままとする。丁未、梁の蕭巋がその太宰蕭巖を使わして来朝させ、祝賀させた。夏四月辛巳、大赦を行った。戊戌、太常の散楽は全て免じて編戸とした。雑楽百戯を禁じた。辛丑、陳の者が周に聘問に来たが、到着した時には既に帝が禅譲を受けており、介国に案内した。この月、稽胡を徴発して長城を修築させ、二十日で終わらせた。五月戊午、邗国公楊雄を広平王に封じ、永康郡公楊弘を河間王に封じた。辛未、介公が薨去した。帝は朝堂で哀悼の礼を行い、諡して周静帝とした。六月癸未、詔して、初めて天命を受けた時、赤雀が降りて祥瑞となったことを以て、五徳相生を推し、火徳の色と定めた。その郊祀及び社・廟の儀礼は、服冕の儀に依り、朝会の服・旗幟・犠牲は全て赤を尚び、戎服は黄を尚ぶ。秋七月乙卯、帝が初めて黄服を着用し、百官ことごとく祝賀した。八月壬午、東京の官を廃した。甲午、楽安公元諧を遣わして青海で吐谷渾を撃たせ、破ってこれを降した。九月戊申、使者を遣わして戦死者の家を救済し給与した。庚午、陳の将軍周羅㬋が胡墅を攻め陥とし、蕭摩訶が江北を侵犯した。辛未、越王秀を益州総管とし、改めて蜀王に封じた。壬申、薛公長孫覧・宋安公元景山を並びに行軍元帥とした。陳を伐つためであり、尚書左僕射高譫に命じて諸軍を節度させた。この月、五銖銭を行った。冬十月乙酉、百済王扶余昌が使者を遣わして来朝し祝賀した。昌に上開府儀同三司・帯方郡公を授けた。戊子、新律を行った。壬辰、岐州に行幸した。十一月乙卯、永富郡公竇栄定を右武候大將軍とした。兼散騎侍郎鄭捴を遣わして陳に使わした。己巳、流星が壁を落ちるが如くあり、光が地を照らした。十二月甲申、礼部尚書韋世康を吏部尚書とした。庚子、岐州より帰還した。壬寅、高麗王高陽が使者を遣わして朝貢し、陽に大將軍・遼東郡公を授けた。太子太保柳敏が卒した。この年、靺鞨・突厥阿波可汗・沙鉢略可汗が並びに使者を遣わして朝貢した。
引き続き詔して左僕射高颎・将作大匠劉龍・鉅鹿郡公賀婁子幹・太府少卿高龍叉らに新都の創造を命じた。秋七月癸巳、詔して新たに都を置く場所の墳墓は、全て移葬して祭を設けさせ、なお人功を給し、主なき者は、官に命じて殯葬させた。甲午、新令を行った。冬十月、撤去破壊の故に、東宮に移り住んだ。内外の官人に禄を給した。癸酉、皇太子勇に兵を咸陽に駐屯させ、胡虜に備えさせた。庚寅、帝の病が癒え、観徳殿で百官を饗応し、銭帛を賜い、皆自ら取るに任せ、力を尽くして持ち出させた。辛卯、新都営造副監賀婁子幹を工部尚書とした。十一月丙午、初めて方陣戦法を定め、及び軍営図様を制定し、諸軍府に下し、以て突厥征伐に備えさせた。十二月辛未、帝は後園で武を講じた。甲戌、上柱国竇毅が卒した。丙子、新都を大興城と名付けた。乙酉、彭城公虞慶則を遣わして弘化に駐屯させ胡に備えさせた。突厥が周盤を侵犯し、行軍総管達奚長儒が虜に敗れた。丙戌、国子生で経に明るき者に束帛を賜った。丁亥、自ら囚徒を録した。この年、高麗・百済が並びに使者を遣わして朝貢した。
四年正月甲子朔、日蝕あり。太廟を祀る。辛未、南郊を祀る。壬申、梁主蕭巋来朝す。甲戌、北苑に於て大射し、十日にして罷む。壬午、斉州水害あり。辛卯、渝州にて獣を獲る。麋に似て、一角同蹄なり。壬辰、新暦を班す。二月乙巳、上、梁主を霸上にて餞る。庚戌、隴州に行幸す。突厥可汗阿史那玷厥、其の属を率いて来降す。夏四月己亥、総管・刺史に勅し、父母及び子年十五以上を、官に将て行くことを得ざらしむ。庚子、吏部尚書虞慶則を以て尚書右僕射と為し、瀛州刺史楊尚希を以て兵部尚書と為し、毛州刺史劉仁恩を以て刑部尚書と為す。五月癸酉、契丹主莫賀弗、使を遣はして降を請ひ、大将軍に拝す。六月庚子、囚徒を降す。壬子、済渠を開通し、渭より河に達し、以て運漕を通ず。甲寅、官人に制す。戦功なければ上柱国以下の戎官を授けず。雍・同・華・岐・宜の五州旱魃あるを以て、命じて今年の租調を出さしめず。戊午、秦王俊来朝す。秋七月丙寅、陳人聘問に来る。八月甲午、十使を遣はして天下を巡省せしむ。戊戌、衛王爽来朝す。壬寅、上柱国・太傅・鄧公竇熾薨ず。乙卯、陳の将夏侯苗、降を請ふ。上、通和を以て納れず。九月己巳、上親しく囚徒を録す。庚午、契丹内附す。甲戌、関中饑饉あるを以て、洛陽に行幸す。冬十一月壬戌、兼散騎常侍薛道衡を遣はして陳に使せしむ。甲戌、周の十二月を改めて臘蠟と為す。是歳、靺鞨及び女国並びに使を遣はして朝貢す。
五年春正月戊辰、詔して新礼を行ふ。壬申、詔して江陵総管を罷む。其の後、梁主旧に依らんことを請ひ、之を許す。三月戊午、尚書左僕射高颎を以て左領軍大将軍と為し、上柱国宇文忻を以て右領軍大将軍と為す。夏四月甲午、契丹、使を遣はして朝貢す。壬寅、上柱国王誼謀反し、誅さる。乙巳、詔して山東の大儒馬栄伯等を征す。戊申、車駕洛陽より至る。五月甲申、初めて義倉を置く。梁主蕭巋殂す。上大将軍元契を遣はして突厥の阿波可汗に使せしむ。秋七月庚申、陳人聘問に来る。壬午、突厥沙鉢略可汗、表を上りて臣と称す。八月甲辰、河南諸州水害あり。戸部尚書蘇威を遣はして振給せしむ。戊申、流星数百あり、四散して下る。九月乙丑、鮑陂を改めて杜陂と曰ひ、霸水を改めて滋水と曰ふ。丙子、兼散騎常侍李若を遣はして陳に使せしむ。冬十一月丁卯、晋王広来朝す。十二月丁未、囚徒を降す。
六年春正月甲子、党項羌が内附す。庚午、暦を突厥に班布す。壬申、戸部尚書蘇威をして山東を巡省せしむ。二月乙酉、山南荊浙七州に水害あり、前工部尚書長孫毗を遣わしてこれを振恤す。丙戌、刺史・上佐の制を定め、毎歳暮に更に入朝して考課を上せしむ。丁亥、丁男十一万を発して長城を修築せしめ、二旬にして罷む。庚子、大赦す。三月己未、洛陽の男子高德上書し、帝をして太上皇たらしめ、皇太子に位を伝えんことを請う。帝曰く、「朕は天命を承け、蒼生を撫育す。日旰も孜孜として、なお及ばざるを恐る。豈に近代の帝王に学び、事古に師せず、子に位を伝え、自ら逸楽を求むるに忍びんや」と。癸亥、突厥の沙鉢略可汗、使いを遣わして朝貢す。夏四月己亥、陳人聘問に来る。秋七月辛亥、河南諸州に水害あり。乙丑、京師に雨毛あり、馬尾の如く、長きものは二尺余、短きものは六七寸。八月辛卯、関内七州旱魃あり、その賦税を蠲免す。散騎常侍裴世豪を遣わして陳に使わす。戊申、上柱国・太師・申公李穆薨ず。閏月丁卯、皇太子洛陽を鎮守す。辛未、晋王広・秦王俊並びに来朝す。丙子、上柱国郕公梁士彦・上柱国杞公宇文忻・柱国舒公劉昉、謀反し、誅せらる。上柱国・許公宇文善、罪あり、除名せらる。九月辛巳、帝素服して射殿に御し、詔して百官に梁士彦等三家の資物を射取らしむ。丙戌、上柱国・宋安公元景山卒す。辛丑、詔して大象以来の死事の家を振恤す。冬十月己酉、河北道行台尚書令・并州総管・晋王広を雍州牧と為し、余官は元の如し。兵部尚書楊尚希を礼部尚書と為す。癸丑、山南道行台尚書省を襄州に置き、秦王俊を尚書令と為す。
七年春正月癸巳、太廟を祀る。乙未、諸州歳貢三人の制を定む。二月丁巳、東郊にて朝日を祀る。己巳、陳人聘問に来る。壬申、醴泉宮に幸す。是の月、丁男十万を発して長城を修築せしめ、二旬にして罷む。夏四月庚戌、揚州に於いて山陽瀆を開き、以て運漕を通ず。突厥の沙鉢略可汗卒す。癸亥、青龍符を東方総管・刺史に頒ち、西方は白武、南方は朱雀、北方は玄武を以てす。甲戌、兼散騎常侍楊周を遣わして陳に使わす。戸部尚書蘇威を吏部尚書と為す。五月乙亥朔、日蝕あり。己卯、武安・滏陽の間に隕石あり、十余里。秋七月己丑、衛王爽薨ず。八月庚申、梁主蕭琮来朝す。九月乙酉、梁の安平王蕭巖、其の国に於いて掠めて陳に奔る。辛卯、梁国を廃し、江陵を曲赦す。梁主蕭琮を柱国と為し、莒国公に封ず。冬十月庚申、同州に行幸す。先帝の居し給いし故に因り、囚徒を曲降す。癸亥、蒲州に幸す。丙寅、父老を宴し、上極めて歓びて曰く、「此の間の人物、衣服鮮麗、容止閑雅なり。良く仕宦の郷なるに由り、陶染して俗を成すなり」と。十一月甲午、馮翊に幸し、故社を祭る。父老詔に対し旨を失う、上大いに怒り、其の県官を免じて去る。戊戌、車駕馮翊より至る。
八年春正月乙亥、陳人聘問に来る。二月辛酉、陳人硤州を寇す。三月辛未、上柱国・隴西公李詢卒す。甲戌、兼散騎常侍程尚賢を遣わして陳に使わす。戊寅、詔して大いに陳を伐たんことを挙ぐ。秋八月丁未、河北諸州饑饉あり、吏部尚書蘇威を遣わしてこれを振恤す。九月癸巳、嘉州龍見ると言う。冬十月己未、淮南行台省を寿春に置き、晋王広を尚書令と為す。辛酉、陳人聘問に来るも、拘留して遣わさず。甲子、星孛牽牛にあり。太廟を享け、律を授け、晋王広・秦王俊・清河公楊素を並びに行軍元帥と為して陳を伐たしむ。ここに於いて晋王は六合より出で、秦王は襄陽より出で、清河公楊素は信州より出で、荊州刺史劉仁恩は江陵より出で、宜陽公王世積は蘄春より出で、新義公韓擒は廬江より出で、襄邑公賀若弼は呉州より出で、落叢公燕栄は東海より出で、総管合わせて九十、兵五十一万八千、皆晋王の節度を受く。東は滄海に接し、西は巴蜀に拒み、旌旃舟楫、数千里に横亘す。仍って陳国を曲赦す。十一月丁卯、車駕師を餞る。詔して陳叔宝を購求し、位上柱国・万戸公とす。乙亥、定城に行幸し、師を陳ねて衆に誓う。丙子、河東に幸す。十二月、車駕河東より至る。
九年春正月癸酉、尚書左僕射虞慶則を右衛大将軍と為す。丙子、賀若弼蒋山に於いて陳師を破り、其の将蕭摩訶を獲、韓擒師を進めて建鄴に入り、陳主叔宝を獲、陳国平ぐ。州四十、郡一百、県四百、戸五十万、口二百万を合わせる。癸巳、使いを遣わし節を持してこれを巡撫す。二月乙未、淮南尚書省を廃す。丙申、五百家を以て郷と為し、正一人、百家を以て里と為し、長一人の制を定む。夏四月己亥、驪山に幸し、親しく旋師を労う。乙巳、三軍凱入し、太廟に俘を献ず。晋王広を太尉と為す。庚戌、帝広陽門に御し、将士を宴し、頒賜各差あり。辛亥、大赦す。陳の都官尚書孔範・散騎常侍王瑳・王儀・御史中丞沈観等、其の主に邪佞にして以て亡滅を致せし者、皆これを辺裔に投ず。陳人は普く復を給すること十年、軍人は畢世徭役を免ず。陳の文武の衆才を擢げて用う。宮奴数千、帰すべき者はこれを帰し、其の余は尽く以て将士及び王公貴臣に分賜す。其の資物は、皆五垛に於いて王公以下に大射を賜う。得たる秦漢の三大鐘、越の二大鼓を毀つ。又亡陳の女楽を設け、公卿等に謂いて曰く、「此の声は啼くに似たり、朕これを聞き甚だ喜ばず、故に公等と一たび亡国の音を聴き、倶に永き鑑と為さんとす」と。
辛酉の日、吏部侍郎の宇文弼を刑部尚書とし、宗正卿の楊異を工部尚書とした。壬戌の日、詔して曰く、「今や率土大同し、含生性を遂ぐ。兵は威を立てるべしと雖も、戟ざるべからず。刑は化を助くるべしと雖も、専ら行うべからず。禁衛九重の余、鎮守四方の外、戎旅軍器は皆な停罷すべし。武力の子は、俱に学文すべし。人間の甲仗は、悉く皆な除毀せよ」。閏月丁丑、木魚符を総管・刺史に頒ち、雌一雄三とす。己卯、吏部尚書の蘇威を尚書右僕射とした。六月乙丑、荊州総管の楊素を納言とした。丁卯、吏部侍郎の盧愷を礼部尚書とした。時に群臣咸に封禅を請うたが、詔して許さず、曰く、「豈に一将軍を命じて一小国を除き、薄徳を以て名山に封じ、虚言を以て上帝に干るべけんや」。八月壬戌、広平王雄を司空とした。冬十一月壬辰、考使定州刺史の豆盧通らが上表して封禅を請うたが、上は許さず。庚子、右衛大将軍の虞慶則を右武候大将軍とし、右領軍将軍の李安を右領軍大将軍とした。甲寅、囚徒を降した。十二月甲子、太常卿の牛弘・通直散騎常侍の許善心・秘書丞の姚察・通直郎の虞世基らに詔して楽を議定せしめた。
十年春正月乙未、皇孫の昭を河南王とし、楷を華陽王とした。二月庚申、并州に行幸した。夏五月乙未、詔して曰く、「魏末喪乱し、宇県瓜分し、役軍歳動き、未だ遑て休息せず。兵士軍人は、権に坊府を置き、南征北伐し、居処定まらず、家に完堵無く、地に苞桑罕にして、恒に流寓の人となり、竟に郷里の号無し。朕甚だ之を湣む。凡そ是の軍人は、悉く州県に属すべく、墾田籍帳は、一に編戸に同じくすべし。軍府の統領は、宜しく旧式に依るべし」。山東・河南及び北方縁辺の地の新置軍府を罷めた。六月辛酉、人の年五十に制し、役を免じて庸に折る。秋七月癸卯、納言の楊素を内史令とした。庚戌、上自ら囚徒を録した。辛亥、高麗の遼東郡公高陽卒す。八月壬申、柱国の韋洸・上開府の王景を並びに持節として遣わし、嶺南を巡撫せしむ。百越皆な服す。九月丁酉、并州より至る。冬十月甲子、木魚符を京官五品以上に頒つ。十一月辛卯、国学に幸し、頒賜各差有り。辛丑、南郊を祀る。是の月、婺州の人汪文進・会稽の人高智慧・蘇州の人沈玄懀皆な挙兵して反し、自ら天子と称す。楽安の蔡道人・饒州の呉世華・永嘉の沈孝徹・泉州の王國慶・余杭の楊寶英・交恥の李春等は、皆な自ら大都督と称す。内史令の楊素に詔して討平せしむ。是の歳、吐谷渾・契丹並びに使いを遣わして朝貢す。
十一年春正月丁酉、平陳の所得たる古器は、多く妖変を為すを以て、悉く之を毀つことを命ず。丙午、皇太子妃元氏薨ず。上、東宮の文思殿に於いて哀を挙ぐ。二月戊午、大将軍の蘇孝慈を工部尚書とした。丙子、臨潁令の劉曠は政績尤も異なるを以て、擢て莒州刺史とす。辛巳晦、日蝕有り。夏五月乙巳、右衛将軍の元旻を左衛大将軍とした。秋八月壬申、滕王瓚薨ず。乙亥、上柱国沛国公の鄭訳卒す。是の歳、高麗・靺鞨並びに使いを遣わして朝貢す。突厥、七宝碗を献ず。
十五年春正月壬戌、車駕は斉州に駐留し、自ら疾苦を問う。丙寅、王符山に旅する。庚午、旱魃のため泰山を祀り過ちを謝し、大赦を行う。二月丙辰、私家の兵器所持を禁ず、関中・辺境はこの限りにあらず。河以東は馬に乗ることを許さず。丁巳、上柱国・蒋公梁睿卒す。三月己未、車駕は東巡より帰還す。五嶽と海瀆を望祭す。丁亥、仁寿宮に行幸す。夏四月己丑朔、大赦を行う。甲辰、趙州刺史楊達を工部尚書と為す。五月丁亥、京官五品以上に銅魚符を佩用させる制を定む。六月戊子、砥柱を鑿つことを詔す。庚寅、相州刺史豆盧通が綾文布を貢ぐも、朝堂においてこれを焼かしむ。辛丑、名山で祀典に在らざるものは、悉くこれを祀らしむと詔す。秋七月甲戌、邳公蘇威を遣わして江南を巡省せしむ。戊寅、仁寿宮より帰還す。辛巳、九品以上の官で、理をもって官を去る者は、並びに笏を執ることを聴すと制す。冬十二月戊子、辺境の糧食を一升以上盗めば、皆斬に処し、その家を籍没すと勅す。己丑、文武官は四考をもって交代すと詔す。この歳、吐谷渾・林邑等国並びに使いを遣わして朝貢す。
十六年春二月丁亥、皇孫裕を平原王に、筠を安成王に、嶷を安平王に、恪を襄城王に、該を高陽王に、韶を建安王に、蟹を潁川王に封ず。夏六月甲午、工商は進仕することを得ざると制す。并州に大蝗あり。辛丑、九品以上の妻・五品以上の妾は、夫亡の後改嫁することを得ざると詔す。秋八月庚戌、死罪を決する者は、三奏して後に行刑すと詔す。冬十月己丑、長春宮に行幸す。十一月壬子、長春宮より帰還す。
十七年春二月癸未、太平公史万歳が西寧を伐ち、これを克つ。庚寅、仁寿宮に行幸す。庚子、上柱国王世積が桂州の賊李光仕を討ち、これを平らぐ。三月丙辰、諸司の属官に犯ある者は、律令の外において斟酌して決杖することを聴すと詔す。辛酉、上自ら囚徒を録す。癸亥、上柱国・彭城公劉昶、罪状により誅せらる。庚午、御史柳彧・皇甫誕を遣わして河南北を巡省せしむ。夏四月戊寅、新暦を頒つ。五月庚申、玉女泉にて百僚を宴し、班賜各々差あり。己巳、蜀王秀来朝す。閏月己卯、群鹿殿門に入る。侍衛の内に馴れ擾る。秋七月丁丑、桂州人李世賢反し、右武候大将軍虞慶則を遣わして討ち平らぐ。丁亥、并州総管・秦王俊、事に坐して免ぜられ、王として邸に就く。九月甲申、車駕は仁寿宮より帰還す。庚寅、上侍臣に謂ひて曰く、「廟庭に楽を設くるは、もと神を迎ふるを以てす。斋祭の日、目に触るる多く感あり、この際に当たりて、何をか心と為すべき。路に楽を奏するは、礼として未だ允ならず。公卿宜しく更にこれを詳にすべし。」冬十月丁未、銅武符を驃騎・車騎府に頒つ。戊申、道王静薨ず。庚午、詔して曰く、「五帝は楽を異にし、三王は礼を殊にす、皆事に随ひて損益有り、情に因りて節文を立てる。仰ぎ惟ふに宗廟を祭享し、瞻敬して在るが如くす、罔極の感、情この日に深し。而るに礼畢みて路に昇れば、鼓吹音を発し、還りて宮門に入れば、金石響を振ふ、これ則ち哀楽同日にし、心事相違ひ、情の安んぜざる所、理実に未だ允ならず。宜しくこの往式を改め、礼教を弘むるを用ふべし。今より廟を享くる日、鼓吹を備ふるを須ひず、殿庭に楽県を設くること勿れ。」辛未、京下に大索す。十二月壬子、上柱国・右武候大将軍・魯公虞慶則、罪により伏誅せらる。この歳、高麗・突厥並びに使いを遣わして朝貢す。
十八年春正月辛丑、詔して曰く、「呉・越の人、往弊俗を承け、所在の処、私に大船を造り、因りて相集ひ結び、侵害有るに致る。江南諸州、人間に船長三丈以上のもの有らば、悉く官に括り入るべし。」二月甲辰、仁寿宮に行幸す。乙巳、漢王諒を行軍元帥と為し、水陸三十万をもって高麗を伐つ。夏五月辛亥、猫鬼・蠱毒・厭魅・野道の家を畜ふる者は、四裔に投ずと詔す。六月丙寅、高麗王高元の官爵を黜すと詔す。秋八月丙子、京官五品以上・総管・刺史に誌行修謹・清平幹済の士を挙げしむと詔す。九月己丑、漢王諒の軍、疾疫に遇ひて還り、死者十二三。庚寅、客を宿すに公験なき者は、刺史・県令にまで坐すと勅す。辛卯、車駕は仁寿宮より帰還す。冬十一月甲戌、帝自ら囚徒を録す。癸未、南郊を祀る。十二月庚子、上柱国・夏州総管・東萊公王景、罪により伏誅せらる。この歳、京師より仁寿宮に至るまで、行宮十所を置く。杞・宋・陳・亳・曹・戴・潁等の州に水害あり、詔して並びに庸調を免ず。
二十年春正月辛酉朔、突厥・高麗・契丹並びに使いを遣わして朝貢す。二月丁丑、雲無くして雷す。三月辛卯、熙州人李英林反し、行軍総管張衡を遣わしてこれを討つ。夏四月壬戌、突厥塞を犯すも、晉王広を行軍元帥と為し、これを撃破す。乙亥、天に声有りて水を写すが如く、南より北へす。六月丁丑、秦王俊薨ず。秋九月丁未、車駕は仁寿宮より帰還す。冬十月乙丑、皇太子勇及びその諸子を廃し、並びに庶人と為す。柱国・太平公史万歳を殺す。己巳、左衛大将軍・五原公元旻を殺す。十一月戊子、晉王広を皇太子と為す。天下地震す。京城大風雪。十二月戊午、東宮官属は皇太子に対し臣と称することを得ざると詔す。辛巳、仏及び天尊像・嶽鎮海瀆の神形を毀壊偷盗する者は、不道を以て論ず。沙門仏像を壊し、道士天尊像を壊す者は、悪逆を以て論ずと詔す。
秋七月丁卯(十二日)、州県に詔して賢哲を搜揚せしめ、皆、古今を明知し、安危を通識し、政教の本を究め、礼楽の源に達する者を取る。多少に限らず、挙げざるを得ず。徵召して送るには、必ず礼をもってすべし。八月壬申(十八日)、上柱国・検校幽州総管・落叢公の燕栄は罪により誅せられた。九月壬戌(九日)、常平官を置いた。甲子(十一日)、営州総管の韋沖を戸部尚書とした。十二月癸酉(二十一日)、河南の諸州に水害があり、納言の楊達を派遣してこれを振恤させた。
四年(604年)春正月丙辰(五日)、大赦を行った。甲子(十三日)、仁壽宮に幸した。夏四月乙卯(五日)、上(文帝)は不豫(病気)となった。六月庚午(二十一日)、大赦を行った。星が月中に入り、数日して退いた。長人が雁門に見えた。秋七月乙未(十七日)、日が青く光無く、八日にして復した。甲辰(二十六日)、帝の病は甚だしく、仁壽宮に臥し、百僚と辞訣し、上は手を握りて歔欷した。丁未(二十九日)、大宝殿にて崩じた。時に年六十四。詔して曰く、
乙卯(八月七日)、発喪した。河間の楊柳四株が、故無く黄落し、既にして花葉が復生した。八月丁卯(十九日)、梓宮が仁壽宮より至った。丙子(二十八日)、大興前殿に殯した。十月乙卯(九日)、太陵に葬った。同墳にして異穴なり。士庶で葬儀に赴く者は、皆、陵内を視ることを聴された。
帝の性質は厳重にして威容有り、外は質木(質朴)にして内は明敏、大略有り。初め政を得た始め、群情は附かず。諸子は幼弱、内には六王の謀有り、外には三方の乱を致し、強兵を握り重鎮に居る者は、皆、周の旧臣なり。上は赤心を推して、各々その用を尽くさせた。期月を過ぎずして三辺を克定し、十年に及ばずして四海を平一す。賦斂を薄くし、刑罰を軽くし、内には制度を修め、外には戎夷を撫し、毎旦朝を聴き、日仄れても倦みを忘れず。居処・服玩は、務めて節儉を存し、令行禁止、上下これを化した。開皇・仁壽の間、丈夫は綾綺を衣せず、金玉の飾り無し。常服は率ね布帛多く、装帯は銅・鉄・骨・角に過ぎず。財には嗇(吝)かったが、功有る者を賞賜するに至っては、亦、愛惜する所無し。毎に乗輿をして四出せしめ、路に上表者に逢えば、馬を駐めて自ら臨み問う。或いは潜かに行人を遣わし、風俗を采聴し、吏政の得失、人間の疾苦、留意せざる無し。嘗て関中の饑饉に遇い、左右を遣わして百姓の食する所を視させた。豆屑に雑糠を混ぜたものを得てこれを奏する者有り、上は流涕して群臣に示し、深く自ら咎責し、このために膳を損じ酒肉を禦さざること、殆ど一期に将(近)し。東に太山を拝するに及び、関中の戸口で洛陽に就食する者は、道路相属した。帝は斥候に勅し、輒りに驅逼することを得ざらしめ、男女を仗衛の間に参廁せしめた。扶老携幼する者に遇い逢えば、輒ち馬を引いてこれを避け、慰勉して去らしめた。艱險の処に至れば、負擔する者を見て、遽かに左右をして扶助せしめた。将士で戦歿する者有れば、必ず優賞を加え、仍使者をして、家に就きて労問せしめた。自ら強いて息まず、朝夕孜孜たり。人庶は殷繁にし、帑蔵は充実せり。未だ至道に臻す能わざりしも、亦、近代の良主と称するに足る。
然れども雅性沈猜にして、素より学術無く、小数を好む。神燭・聖杖は病を療するに堪え、又、王劭の石文を解して己の瑞と為すを信じ、大體に達せざること是の如し。故に忠臣義士、尽心竭辭するを得る者莫し。その草創の元勛及び功有る諸将は、誅夷され罪を獲て、存する者罕なり。又、詩書を悦ばず、楊素これにより旨に希て、遂に学校を除くを奏す。唯だ婦言を用い、諸子を廃黜す。暮年に逮び、法を執ること尤も峻しく、喜怒常を失い、殺戮に果りたり。嘗て左右をして西域の朝貢使を送りて関を出でしむ。その人の経る所の処、牧宰より小物を受け、鸚鵡・麖皮・馬鞭の属を饋るを聞きて大怒す。又、武庫に詣り、署中蕪穢にして理めざるを見て、ここに武庫令及び諸の遺を受くる者を執り、開遠門外に出で、自ら臨決し、死者数十人。又、往往潜かに令史を賂遺せしめ、府史で受くる者は必ず死し、寬貸する所無く、議者はこれをもって之を少しむ。
論
論ずるに、隋の文帝は基を樹て本を立て、徳を積み仁を累ねた。ただ外戚の尊たるをもって、孤を託するの任を受け、能に与するの議、未だ許されざる所と為す。ここを以て周室の旧臣、みな憤惋を懐く。既にして王謙は三蜀の阻みを固くし、期月を過ぎず、尉遅迥は全斉の衆を挙げ、一戦にして亡ぶ。これは人の謀に止まらず、抑も亦天の賛する所なり。この機運に乗じ、遂に周鼎を遷す。時に蛮夷夏を猾え、荊・揚未だ一ならず、日仄に劬労し、四方を経営す。楼船南に邁れば、則ち金陵険を失い、驃騎北を指せば、則ち単于塞に款く。『職方』の載する所、並びに疆理に入り、『禹貢』の図する所、みな正朔を受く。晋の武帝の呉会を克平し、漢の宣帝の亡を推し存を固むるも、義を比べ功を論ずれば、尚ぶこと能わざるなり。七徳既に敷かれ、九歌已に洽く、尉候警無く、遐邇粛清す。ここに於いて躬倹約を務め、徭賦を平らげ、倉廩実り、法令行わる。君子はみなその生を楽しみ、小人は各その業に安んじ、強きは弱きを陵がず、衆は寡を暴かず、人物殷阜し、朝野歓娛す。開皇二十年の間より、天下事無く、区宇の内、晏如たり。前王に考うれば、以て盛烈に参蹤するに足る。然れども素より術業無く、能く下を尽くすこと能わず、寛仁の度無く、刻薄の資有り、暮年に及び、この風愈扇す。又雅に瑞符を好み、大道に暗く、彼の維城を建て、権京室に侔しく、皆帝制と同じくして、適従する所無し。姑帰の言を聴き、邪臣の説に惑い、寵に溺れて嫡を廃し、托付所を失う。父子の道を滅ぼし、昆弟の隙を開き、その斧を尋ねるに任せ、本根を翦伐す。墳土未だ乾かず、子孫踵を継ぎて戮せられ、松槚才に列ねるも、天下已に隋有に非ず。惜しいかな!その衰怠の源を跡し、その乱亡の兆を稽うるに、文皇より起こり、煬帝に成る。由って来ること遠く、一朝一夕に非ず。その祀を絶つ忽諸、未だ不幸と為さざるなり。