周の太祖文皇帝は宇文氏を姓とし、諱は泰、字は黒獺、代郡武川の人である。その先祖は炎帝より出づ。炎帝が黄帝に滅ぼされ、子孫は朔野に遁れて居を定めた。その後、葛烏菟という者あり、雄武にして算略多く、鮮卑はこれに奉じて主と為し、遂に十二部落を総べ、代々大人となった。その裔孫に普回という者あり、狩猟の際に玉璽三紐を得、文に「皇帝璽」とあり、普回は天の授けと為し、己が特に異なるものと独り異にした。その俗、天子を「宇文」と謂う故に、国号を宇文とし、併せて氏と為した。普回の子莫那、陰山より南に徙り、始めて遼西に居を定め、これを献侯と曰い、魏の舅甥の国となった。莫那より九世を経て侯帰豆に至り、慕容晃に滅ぼされた。その子陵は燕に仕え、駙馬都尉に拝され、玄菟公に封ぜられた。慕容宝の敗れたるに及び、魏に帰順し、都牧主に拝され、安定侯の爵を賜う。天興の初め、魏は豪傑を代都に遷すに及び、陵は例に随い武川に徙居し、即ちその郡県の人となった。陵は系を生み、系は韜を生み、韜は皇考の肱を生み、皆武略を以て称された。肱は任侠にして気幹あり。正光の末、沃野鎮の人破六韓抜陵乱を起こし、その偽りに署せられたる王衛可瑰最も盛ん。肱は乃ち郷里を糾合し、瑰を斬り、その衆は乃ち散じた。後に鮮于修礼に陥り、定州軍に破られ、戦陣に没した。武成の初め、徳皇帝と追謚す。
帝は、徳皇帝の少子である。母は王氏と曰う。初めて孕むこと五月、夜に子を抱いて天に昇る夢を見、天に至らずして止む。覚めて、徳皇帝に告ぐ。徳皇帝喜びて曰く、「天に至らずとも、貴きこと亦極まれり」と。帝は生まれながらにして黒気蓋の如く有り、下りてその身を覆う。長ずるに及び、身長八尺、方顙広額、美須髯、髪長く地に委ね、手を垂れて膝を過ぎ、背に黒子有り、宛転として龍の盤うが如き形、面色紫光、人望みて畏敬す。少にして大度有り、家人生業に事えず、財を軽んじ施しを好み、賢士大夫と交結するを務めと為す。徳皇帝に随い鮮于修礼の軍に在り。葛栄が修礼を殺すに及び、帝は時に年十八。栄は将帥を任用するに当たり、その成すこと無きを察し、諸兄と謀りて去らんとす。計未だ行わざるに、会に栄滅び、因りて爾朱栄に随い晋陽に遷る。栄は帝兄弟の雄傑なるを忌み、遂に他罪を託して帝の第三兄洛生を誅す。帝は家の冤を以て自ら理め、辞旨慷慨、栄は感じてこれを免じ、益々敬待を加う。始めて統軍として栄に従い征討し、後に別将として賀抜岳に従い北海王顥を洛陽に討つ。孝庄帝 反 正し、功を以て寧都子に封ぜらる。後に岳に従い関中に入り、万俟醜奴を平げ、原州事を行なう。時に関・隴寇乱有り、帝は恩信を以て撫で、百姓皆喜びて曰く、「早く宇文使君に遇わば、吾等豈に逆乱に従わんや」と。帝嘗て数騎を従え野に在り、忽ち簫鼓の音を聞き、従者に問うも、皆これを聞かず、意に独りこれを異とす。
普泰二年、爾朱天光東に斉の神武を拒ぎ、弟の顕寿を留めて長安を鎮守せしめ、秦州刺史侯莫陳悦を召して東下せしむ。岳は天光必ず敗るるを知り、悦を留めて共に顕寿を図らんと欲すれども、計出す所無し。帝、岳に謂いて曰く、「今天光 尚 ほ近し、悦は未だ必ずしも二心無し、若しこの事を以てこれに告げば、恐らくはその驚懼せん。然れども悦は主将と雖も、物を制すること能わず、若し先ずその衆を説かば、必ず人に留心有らん。進んで爾朱の期を失い、退いて人情の変動を恐る。若しこれに乗じて悦を説かば、事遂げざる無からん」と。岳大いに喜び、即ち帝をして悦の軍に入りてこれを説かしむ。悦は遂に岳と共に長安を襲う。帝は軽騎を率いて前鋒と為り、華陰に追い至り、顕寿を擒う。岳が関西大行台と為るに及び、帝を左丞と為し、岳の府司馬を領せしめ、事の巨細を問わず、皆委ねて決せしむ。斉の神武は爾朱氏を除くに及び、遂に朝政を専らにす。帝は往きてこれを観んことを請い、 并 州に至る。神武は帝を常人に非ずと為し、曰く、「この小児眼目異なり」と。将にこれを留めんとす。帝は忠款を詭り陳べ、具に左右に託し、苦しみて復命を求め、倍道を行く。一日行きて神武乃ち悔い、上驛千里を発し、帝を追って関に至るも、及ばずして返る。帝還り、岳に謂いて曰く、「高歓豈に人臣たるや、逆謀未だ発せざるは、公兄弟を憚るのみ。侯莫陳悦は本実庸材、亦歓の忌む所と為らず、但だこれが為に備え、これを図るは難からず。今費也頭の控弦の騎、一万を下らず、夏州刺史解抜弥俄突、勝兵三千余人、及び霊州刺史曹泥、並びに僻遠を恃み、常に異望を懐く。河西の流人紇豆陵伊利等、戸口富実、未だ朝風を奉ぜず。今若し軍を移して隴に近づき、その要害を扼し、これに威を示し、徳を以てこれを懐かしめれば、即ちその士馬を収め、以て吾が軍を資とし、西は氐・羌を輯め、北は沙塞を撫で、軍を還して長安に至り、魏室を匡輔せん、これ桓文の挙なり」と。岳大いに悦ぶ。復た帝を遣わし闕に詣で事を請わしめ、密かにその状を陳ぶ。魏帝これを納れ、帝に武衛将軍を加え、還りて岳に報ぜしむ。岳は遂に軍を引き西に平涼に次す。岳は夏州が寇賊に隣接するを以て、良刺史を求めてこれを鎮めんと欲し、衆皆帝を挙ぐ。岳曰く、「宇文左丞は吾が左右の手、何ぞ廃せんや」と。沈吟累日、乃ち衆議に従い、帝を夏州刺史と為すことを表す。帝、州に至る。伊利は風望みて款附す。而して曹泥は猶斉の神武に使者を通ず。
魏の永熙三年正月、賀抜岳は曹泥を討たんと欲し、 都督 趙貴を夏州に遣わし帝と謀る。帝曰く、「曹泥は孤城阻遠、未だ憂うるに足らず。侯莫陳悦は貪にして信無し、是れ先ず図るべきなり」と。岳は聴かず、遂に悦と俱に泥を討つ。二月、河曲に至り、果たして悦の為に害せらる。衆散じて平涼に還る。唯だ大 都督 趙貴が部曲を率いて岳の屍を収め営に還る。三軍所属を知らず、諸将は 都督 寇洛の年最も長きを以て、兵事を総べることを推す。洛は素より雄略無く、威令行わず、乃ち位を避くることを請う。ここに於いて趙貴衆に言い、帝の英姿雄略を称え、若し喪を告げば必ず来りて難に赴かん、因りてこれを奉れば、大事 済 まんと。諸将皆善しと称す。乃ち赫連達をして馳せて夏州に至り帝に告げしむ。士吏咸しく泣き、留まりてその変を観んことを請う。帝曰く、「得難くして失い易きは時にして、終日を俟たざるは機なり。今早く赴かざれば、将に衆心自ら離るるを恐る」と。 都督 弥姐元進は悦に応ぜんと規し、密かに帝を図る。事発し、これを斬る。帝は乃ち帳下を率い、軽騎を以て馳せて平涼に赴く。時に斉の神武は長史侯景を遣わし岳の衆を招引す。帝、安定に至り、伝舎に於いてこれに遇う。吐哺して馬に上り、これに謂いて曰く、「賀抜公死すと雖も、宇文泰尚ほ存す、卿何を為すや」と。景色を失いて曰く、「我は猶お箭の如し、人の射る所に随うのみ」と。景はここに於いて還る。帝、平涼に至り、岳を哭すること甚だ慟す。将士悲しみ且つ喜びて曰く、「宇文公至る、憂うる所無し」と。斉の神武は又た景と常侍張華原・義寧太守王基を遣わし帝を労す。帝は命を受けず。基とは 旧 有り、将にこれを留めんとし、併せて景を留めんと欲す。並びに屈せず、乃ちこれを遣わす。時に斛斯椿帝の所に在りて曰く、「景は人傑なり、何の故にこれを放つや」と。帝も亦悔い、駅伝を以てこれを追うも及ばず。基も亦逃れて帰り、帝の雄傑なるを言い、その未だ定まらざるに及びこれを滅さんことを請う。神武曰く、「卿は賀抜・侯莫陳を見ざるか、吾は計を以て拱手してこれを取らん」と。沙苑の敗に及び、神武乃ち始めて追悔す。
この時、魏帝は神武帝(高歓)を除こうと図り、賀抜嶽が殺害されたと聞き、武衛将軍元毗を遣わして賀抜嶽の軍を慰労し、洛陽に帰還させる旨を宣した。元毗が平涼に到着すると、諸将は既に帝(宇文泰)を推戴していた。侯莫陳悦も詔勅で帰還を命じられたが、悦は既に神武帝に与していたので、召しに応じようとしなかった。帝は言った、「悦は忠良を枉げて害し、また詔命にも応じない。これは国の大賊である」と。そこで諸軍に戒厳を命じ、悦を討伐しようとした。元毗が帰還する際、帝は魏帝に上表し、高歓が河東に至り、侯莫陳悦が水洛にいるので、首尾敵を受けることになり、少し停頓を乞うと述べた。帝の本心は悦を討つことにあったが、朝廷の意向を測りかね、また軍勢が未だ集まっていなかったので、この言い訳を借りたのである。そこで元毗及び諸将と共に犠牲を裂いて盟誓し、共に王室を助けることを誓った。初め、賀抜嶽が河曲に駐屯していた時、軍吏が一人で歩いていると、突然一人の老人が現れて言った、「賀抜はこの軍勢を擁しているが、結局は何も成し遂げられない。東北から宇文という家の者が来るであろう。その後必ず大いに栄える」と。言い終わると見えなくなった。この時になって初めてその言葉が実証されたのである。
魏帝はそこで詔を下し、帝を大 都督 とし、即座に賀抜嶽の軍を統率させた。帝はそこで悦に手紙を送り、賀抜嶽を殺した罪を責め、また朝廷に帰順するよう諭した。悦はそこで詔書を偽造して秦州刺史の万俟普撥に与え、自分の援軍となるよう命じた。普撥はこれを疑い、封をしたまま帝に呈上したので、帝は上表して奏上した。魏帝はそこで帝に秦州・隴西を安定させる策を問うた。帝は悦を召し出し、内官を授け、あるいは瓜州・涼州の一藩として処遇するよう請うた。そうでなければ、結局は猜疑と憂いを招くことになると。三月、帝は軍を進めて原州に至り、諸軍が全て集結したので、悦を討つ意図を諭し、士卒は皆憤りを抱いた。四月、兵を率いて隴山を登り、兄の子の宇文遵を 都督 として留め、原州を鎮守させた。帝の軍令は厳粛で、秋毫も犯さず、百姓は大いに喜んだ。軍が木峡関を出ると、大雪が降り、平地で二尺の深さとなった。帝は悦が臆病で猜疑心が強いことを知っていたので、倍の速度で行軍し、その不意を衝いた。悦は果たして左右の者に異心があるのではないかと疑い、左右の者は不安を覚え、軍勢は遂に離反した。大軍が将に到ると聞き、略陽に退いて守り、一万余りを留めて永洛を守らせた。帝が到着し、これを包囲すると、城は降伏した。帝は即座に軽騎数百を率いて略陽に急行し、悦の軍に臨んだ。悦の部将は皆、悦に上邽に退いて守るよう勧めた。この時、南秦州刺史の李弼も悦の軍中にいたが、密かに使者を遣わして内応すると請うた。その夜、悦が軍を出そうとすると、軍は自ら驚いて潰走し、将兵の中には降伏して来る者もいた。帝は兵を放って奮撃し、これを大破した。悦はその子弟及び麾下の数十騎と共に逃走した。帝はそこで原州 都督 に命じて悦を追撃させ、牽屯山でこれを斬り、首を洛陽に伝送した。帝が上邽に至ると、悦の府庫の財物は山のように積まれており、全て士卒に賞与とし、毫厘も取らなかった。左右の者がひそかに一つの銀の甕を持ち帰ったが、帝はこれを知って罪に問い、即座に割いて将士に賜り、兵衆は大いに喜んだ。斉の神武帝(高歓)は関隴を平定したと聞き、使者を帝のもとに遣わし、深く結びつこうとした。帝は拒絶して受け入れず、神武帝の書状を封じて(魏帝に)上聞させた。
当時、神武帝は既に異心を抱いていたので、魏帝は深く帝を頼りとし、そこで帝に少しずつ軍を率いて東進するよう命じた。帝はそこで大 都督 の梁禦に歩騎五千を率いさせ、河と渭の合流地点を鎮守させようとし、河東を図る計画を立てた。魏帝は帝を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大 都督 ・略陽県公に進め、詔命を受けて封爵・任命を行う権限を与え、使持節の職は従前の通りとした。当時、魏帝は斉の神武帝を除こうと図っており、また兵を徴発するよう遣わして来た。帝はそこで前秦州刺史の駱超を大 都督 とし、軽騎一千を率いて洛陽に赴かせた。魏帝は帝を兼尚書左僕射・関西大行臺に進授し、その他の官職は従前の通りとした。帝はそこで方鎮に檄文を伝えた。
帝は諸軍に言った、「高歓は智は足りないが詐謀には余裕がある。今、西進すると声言しているが、その本心は洛陽に入ることにある。私は寇洛に馬歩軍一万余りを率いさせ、涇州から東進させ、王羆に甲士一万を率いさせ、先んじて華州を占拠させようと思う。歓がもし西から来れば、王羆は十分に抵抗できる。もし洛陽に入れば、寇洛が即座に汾州・晋州を襲撃する。私は速やかに車駕を進め、直ちに京邑(洛陽)に赴き、彼に進むには内顧の憂いがあり、退くには追撃される勢いがあるようにする。一挙に大定する、これが上策である」と。衆は皆、善しと称えた。七月、帝は兵衆を率いて高平から出発し、前軍は弘農に至った。しかし斉の神武帝が次第に京師に迫り、魏帝は自ら六軍を総率して河橋に駐屯し、左衛の元斌之と領軍の斛斯椿に武牢を鎮守させた。帝は左右の者に言った、「高歓は数日で八九百里を行く。兵法に通じた者が忌むところで、正にその機に乗じて撃つべきである。しかし主上は万乗の重きを以て、河を渡って決戦することができず、ただ渡津に沿って守りを固めている。しかも長河は万里、防禦は難しく、一か所でも渡河を許せば、大事は去る」と。即座に大 都督 の趙貴を別道行臺とし、蒲阪から渡河させ、 并 州に向かわせた。大 都督 の李賢に精騎一千を率いさせて洛陽に赴かせた。ちょうど斌之と斛斯椿が権力を争い、鎮防が守られず、魏帝は遂に軽騎で関中に入った。帝は儀仗衛兵を整えて奉迎し、陽驛で謁見し、冠を脱いで涙を流し謝罪した。そして魏帝を奉じて長安に都を定めた。草萊を払い、朝廷を立て、軍国の政は全て帝が決断した。そこで大将軍・雍州刺史を加授され、 尚書令 を兼ね、略陽郡公に進封された。別に尚書二人を置き、機に応じて処分させた。尚書僕射の職は解かれ、その他の官職は従前の通りであった。
初め、魏帝が洛陽にいた時、馮翊長公主を帝に配することを許したが、婚姻が整わないうちに魏帝は西遷した。この時に至り、詔を下して帝に尚せしめ、駙馬都尉に任じた。八月、斉の神武帝が潼関を襲撃して陥落させ、華陰に侵攻したので、帝は諸軍を率いて霸上に駐屯してこれを待った。神武帝はその将の薛瑾を留めて関を守らせ、自らは退却した。帝はそこで進軍して薛瑾を斬り、その兵卒七千を捕虜とした。長安に帰還し、丞相の位に進んだ。十一月、儀同の李虎と李弼・趙貴らを遣わして霊州の曹泥を討伐させた。李虎は黄河の水を引いて灌漑攻撃した。翌年、曹泥は降伏し、その豪帥を咸陽に移した。十二月、魏の孝武帝が崩御したので、帝は群公と共に策を定め、魏の南陽王元宝炬を嗣として尊立した。これが文帝である。
大統元年正月己酉、魏帝は帝を 都督 中外諸軍・録尚書事・大行臺に進め、安定郡王に改封した。帝は固く王号及び録尚書の職を辞退した。魏帝がこれを許したので、安定郡公に改封した。東魏の将、同司馬の子如が潼関を寇したので、帝は軍を霸上に駐めた。子如はそこで軍を返し、蒲津から華州を寇したが、刺史の王羆がこれを撃退した。三月、帝は有司に命じて二十四条の新制を作らせ、上奏して施行した。
二年五月、秦州刺史・建忠王の万俟普撥が配下を率いて東魏に入った。帝は軽騎でこれを追い、黄河の北千余里に至ったが、追いつかずに帰還した。
三年正月、東魏が龍門を寇し、軍を蒲阪に屯し、三道の浮橋を造りて河を渡らんとす。またその将竇泰を遣わして潼関に向かわしめ、高昂は洛州を囲む。帝は広陽に出軍し、諸将を召して謂いて曰く、「賊は吾が三面を掎し、また橋を造り、必ず渡らんとするを示す。これは吾が軍を綴らせ、竇泰をして西に入らしめんとするなり。かつ歡の起兵以来、泰は毎たび先駆をなし、下に鋭卒多く、屡勝ちて驕る。今これを襲えば必ず克つ。泰を克てば、則ち歡は戦わずして走らん」と。諸将皆曰く、「賊は近きに在り、これを捨てて遠きを襲わば、若し差跌せば、悔い何ぞ及ばん」と。帝曰く、「歡は前に再び潼関を襲い、吾が軍は霸上を過ぎず。今者大いに来たり、吾が但だ自ら守るのみと謂う。また得志に狃り、吾を軽んずるの心有り。これに乗じて撃てば、何くに往きて克たざらん。賊は橋を造ると雖も、径に渡る能わず、比する五日の中に、吾は泰を取らんことを必す」と。庚戌、帝は長安に還り、声言して隴右に向かわんと欲すとす。辛亥、魏帝に謁し、潜かに軍を小関に至らしむ。竇泰の卒、軍の至るを聞き、陣未だ成らず、帝これを撃ち、その衆を尽く俘え、泰を斬り、首を長安に伝う。高昂これを聞き、輜重を焚きて走り、斉の神武もまた橋を撤して退く。帝乃ち還る。六月、帝は行臺を罷めんことを請う。魏帝は前の命を重ねて申し、帝に録尚書事を授けんとす。固く譲りて乃ち止む。八月丁丑、帝は李弼、独狐信、梁禦、趙貴、於謹、若干惠、怡峰、劉亮、王徳、侯莫陳崇、李遠、達奚武等十二将を率いて東伐し、潼関に至る。帝乃ち師に誓いて曰く、「爾と衆有る者と、天威を奉じ、暴乱を誅す。惟れ爾衆士、爾が甲兵を整え、爾が戎事を戒め、財を貪りて敵を軽んずること無く、人を暴にして威を作すこと無く。命を用うれば則ち賞有り、命を用いざれば則ち戮有り。爾衆士、其れこれを勉めよ」と。乃ち於謹を遣わして先ず地を徇らしめ盤豆に至り、これを抜く。東魏の将高叔礼を獲て、長安に送る。戊子、弘農に至り、これを攻め、城潰く。東魏の陝州刺史李徽伯を禽え、その戦士八千を虜う。守将高千は走りて河を渡る。賀抜勝に命じて追い禽えしめ、並びに長安に送る。ここにおいて宜陽、邵郡皆帰附す。先に河南の豪傑にして東魏に応ずる者は、皆降る。
斉の神武懼れ、衆を率いて蒲阪を下り、将に自ら后土より済らんとす。その将高昂を遣わして三万人を以て河南に出さしむ。この歳、関中饑え、帝は弘農に館穀すること五十余日。時に軍士万人に満たず、神武の将に渡らんとするを聞き、乃ち還る。神武遂に河を渡り、華州を逼る。刺史王羆は厳しく守り、乃ち洛を渉り、許原の西に軍す。帝は渭南に至り、諸州の兵を征す、未だ会せず。将にこれを撃たんとす。諸将は衆寡敵せずとし、請うて且く歡の更に西するを待ちてこれを観んとす。帝曰く、「歡若し咸陽に至らば、人情転た騒擾せん。今その新たに至るに及び、これを撃つべし」と。即ち渭に浮橋を造り、軍士に三日の糧を賫し、軽騎渭を渡らしめ、輜重は渭南より、渭を夾して西す。十月壬辰、沙苑に至り、斉軍より六十余里を距つ。神武は軍を引いて来会す。癸巳、侯騎、斉軍の至るを告ぐ。帝は諸将を召して謀る。李弼曰く、「彼は衆、我は寡、平地に陣を置くべからず。この東十里に渭曲有り、先ずこれを拠りて以てこれを待つべし」と。遂に進みて渭に至り、水を背にし東西に陣を為す。李弼を右拒と為し、趙貴を左拒と為す。将士に命じて皆戈を葭蘆の中に偃し、鼓声を聞きて起たしむ。日晡、斉師至り、軍少なるを見て、競いて左に萃まり、軍乱れて列を成さず。兵将に交わらんとするに、帝は鼓を鳴らし、士皆奮い起つ。於謹等六軍これと合戦し、李弼等は鉄騎を率いて横にこれを撃ち、その軍を絶ちて二と為し、遂にこれを大破し、六千余級を斬り、陣に臨みて降る者二万余人。神武は夜遁し、これを追いて河上に至り、復た大いに克つ。前後その卒七万を虜い、その甲兵二万を留め、余は悉く帰らしむ。その輜重兵甲を収め、俘を長安に献ず。李穆曰く、「高歡は胆破れり。これを逐えば獲べし」と。帝は聴かず、乃ち軍を渭南に還す。時に征する所の諸州の兵始めて至る。乃ち戦う所に於いて、当時の兵に準じ、人ごとに樹一株を種え、柳七千根を栽え、以て武功を旌す。
魏帝は帝を柱国大将軍に進め、邑を増し並びに前五千戸とす。李弼等十二将もまた爵を進め邑を増す。左僕射、馮翊王元季海を行臺と為し、開府独狐信とともに歩騎二万を帥いて洛陽に向かわしむ。賀抜勝、李弼は河を渡り蒲阪を囲む。蒲阪鎮将高子信は門を開き勝軍を納る。東魏の将薛崇礼は城を棄てて走り、勝等これを追い獲る。帝は蒲阪に進軍し、汾、絳を略定す。初め、帝の弘農より関に入りし後、東魏の将高昂は弘農を囲む。その軍敗れたるを聞き、退きて洛陽を守る。独狐信は新安に至り、昂は復た走りて河を渡り、遂に洛陽に入る。梁、陳より已西、将吏降る者相属す。ここにおいて東魏の将堯雄、趙育、是雲宝は潁川より出で、降地を復さんと欲す。帝は儀同宇文貴、梁遷等を遣わして逆撃し、これを大破し、趙育来降す。東魏は復た任祥を遣わして河南の兵を率い堯雄と合わしむ。儀同怡峰は貴、遷等とともに復たこれを撃ち破る。また 都督 韋孝寛を遣わして 豫 州を取らしむ。是雲宝はその東揚州刺史那椿を殺し、州を以て来降す。
四年三月、帝は諸将を率いて朝廷に入り、礼が終わると華州に還った。七月、東魏の将侯景らが独狐信を洛陽に包囲し、斉の神武帝がその後を継いだ。帝は魏帝を奉じて谷城に至り、陣前に臨んで東魏の将莫多婁貸文を斬り、その兵衆を悉く捕虜として弘農に送った。そこで進軍して瀍水の東に至った。侯景らは夜に包囲を解いて去った。夜明けに、帝は軽騎を率いて河上まで追撃した。侯景らは北に河橋を占拠し、南は芒山に連ねて陣を布き、諸軍と戦った。帝の馬が流れ矢に当たり、驚いて奔り、軍中は擾乱した。 都督 の李穆が下馬して帝に馬を与えると、軍勢は再び奮い立った。ここにおいて大勝し、その将高昂・李猛・宋顕らを斬り、甲士一万五千人を捕虜とし、河に赴いて死んだ者は万を数えた。この日、布いた陣は既に大きく、首尾が遠く懸隔し、朝から未の刻まで、数十合戦い、霧気が四方に満ちて、互いに知ることができなかった。独狐信・李遠は右翼に、趙貴・怡峰は左翼に在ったが、戦い共に利あらず。また魏帝及び帝の所在を知ることができず、皆その兵卒を棄てて先に帰還した。開府の李虎・念賢らは後軍として、独狐信らの退却に遇い、即ち彼らと共に還った。これにより軍を返し、洛陽もまた失陥した。大軍が弘農に至ると、守将は皆既に城を棄てて西走していた。捕虜とした降卒で弘農に在った者は、互いに謀って門を閉ざし守備を固め、進攻してこれを抜き、その首魁数百人を誅した。大軍が東征した際、関中の留守兵は少なく、前後して捕虜とした東魏の士卒は、皆民間に散在しており、乱を謀った。李虎らが長安に至った時、策は尽きていた。そこで太尉の王盟・僕射の周恵達と共に魏の太子を輔けて渭水の北に出て駐屯した。関中は大いに震恐し、百姓は互いに掠奪し合った。ここにおいて沙苑で捕虜とした軍人趙青雀・雍州人の於伏徳らが遂に反した。青雀は長安の子城を占拠し、伏徳は咸陽を守り、太守の慕容思慶と各々降卒を収容して、還って来る軍を拒んだ。長安城の人は皆相率いて青雀を拒ぎ、毎日交戦した。魏帝は閿郷に留まり、帝にこれを討たせた。長安の父老が帝を見ると、悲しみ且つ喜んで言うには、「今日また公を見ることを得ようとは思わなかった。」と。士女は皆互いに賀した。華州刺史の宇文導が咸陽を襲撃し、思慶を斬り、伏徳を捕らえ、南に渭水を渡り、帝と会合して、青雀を攻め破った。太傅の梁景睿は先に病気のため長安に留まっていたが、遂に青雀と通謀し、ここに至ってまた誅され、関中は乃ち平定された。魏帝は長安に還り、帝は再び華州に屯した。十二月、是雲宝が洛陽を襲撃し、東魏の将王元軌は城を棄てて走り、 都督 の趙剛が広州を襲ってこれを抜き、襄州・広州以西の城鎮は再び西に帰属した。
五年冬、華陰において大規模な閲兵を行った。
六年春、東魏の将侯景が三鴉から出撃し、荊州を侵さんとした。帝は開府の李弼・独狐信に各々騎兵を率いて武関から出撃させると、侯景は乃ち還った。夏、蠕蠕が黄河を渡って夏州に至ったので、帝は諸軍を召して沙苑に屯させて備えた。
七年十一月、帝は十二箇条の制を施行するよう上奏し、百官が職事に勉めないことを恐れ、また令を下してこれを申し明らかにした。
八年十月、斉の神武帝が汾州・絳州を侵し、玉壁を包囲した。帝は軍を出して蒲阪に至ると、神武帝は退き、汾水を渡ってこれを追撃し、遂に遁走させた。十二月、魏帝が華陰で狩猟を行い、将士を大いに饗応した。帝は諸将を率いて、行在所に朝見した。
九年二月、東魏の北 豫 州刺史高慎が州を挙げて帰順して来たので、帝は師を率いてこれを迎えた。三月、斉の神武帝が芒山に陣を布き、数日間進まなかった。帝は輜重を瀍曲に留め、軍士に枚を銜ませ、夜に芒山に登り、夜明け前にこれを撃った。神武帝は単騎で賀抜勝に追われ、辛うじて免れた。帝は右軍の若干恵を率いて、神武帝の軍を大破し、その歩卒を悉く捕虜とした。趙貴ら五将軍は左翼に在ったが、戦い利あらず。神武帝が再び合戦すると、帝もまた利あらず、夜に引き還った。関に入り、渭水のほとりに屯した。神武帝が陝に進むと、開府の達奚武らがこれを防ぎ、乃ち退いた。帝は芒山の諸将が軍律を失ったことを以て、上表して自ら貶黜を請うたが、魏帝は許さなかった。ここにおいて広く関隴の豪族を募り、以て軍旅を増強した。十月、櫟陽において大規模な閲兵を行い、還って華州に屯した。
十年五月、帝は京師に朝見した。七月、魏帝は帝が前後して上奏した二十四条及び十二条の新制が、中興の永式たるべきものとし、尚書の蘇綽に命じてこれを更に損益させ、総べて五巻とし、天下に頒布した。ここにおいて賢才を捜索簡抜して牧・守・令とし、新制を習熟させて派遣した。数年を経て、百姓はこれを便利とした。十月、白水において大規模な閲兵を行った。
十一年十月、白水において大規模な閲兵を行い、遂に西に狩猟して岐陽に至った。
十二年春、涼州刺史の宇文仲和が州を拠って反し、瓜州の人張保が刺史の成慶を害してこれに応じたので、帝は開府の独狐信を派遣してこれを討たせた。東魏の将侯景が襄州を侵したので、帝は開府の若干恵を派遣してこれを防がせ、穣に至ると、侯景は遁走した。五月、独狐信が涼州を平定し、仲和を捕らえ、その百姓六千余家を長安に移した。瓜州 都督 の令狐延が義兵を起こして張保を誅し、瓜州は平定された。七月、帝は諸軍を咸陽に大集結させた。
十三年正月、東魏の河南大行臺侯景が河南六州を挙げて帰順して来たが、潁川に包囲された。六月、帝は開府の李弼を派遣してこれを救援すると、東魏の将韓軌らは遁走した。侯景は遂に鎮所を 豫 州に移した。ここにおいて開府の王思政を派遣して潁川を占拠させ、李弼は軍を率いて還った。七月、侯景が密かに梁に帰附しようと図ったので、帝はその謀を知り、前後して侯景に配属した将士を悉く追還した。侯景は恐れ、遂に叛いた。冬、帝は魏帝を奉じて西に狩猟して咸陽に至った。
十四年春、魏帝は詔して帝の長子の覚を寧都郡公に封じた。初め、帝は元顥を平定し孝荘帝を迎え入れた功績により、寧都県子に封ぜられていた。ここに至り、これを郡に改め、以て覚を封じ、勤王の始めを顕彰するためであった。五月、魏帝は帝の位を太師に進めた。帝は魏の太子を奉じて西境を巡撫し、隴に登り、石に刻んで事績を記した。遂に原州に至り、北長城を歴て、大規模な狩猟を行った。東に五原に向かい、蒲州に至った時、魏帝の不 豫 を聞いて還った。到着すると、魏帝の病気は既に癒えており、乃ち華州に還った。この年、東魏の将高嶽が王思政を潁川に包囲した。
十五年春、帝は大将軍の趙貴に師を率いさせて王思政を救援させた。高嶽が洧水に堰を築いて城を灌漑したため、潁川以北は皆沼沢地となり、救兵は至ることができなかった。六月、潁川は陥落した。初め、侯景が建鄴を包囲した時、梁の司州刺史柳仲礼が臺城に赴いた。梁の竟陵郡守孫皓が郡を挙げて帰順したので、帝は大 都督 の苻貴に命じてこれを鎮守させた。建鄴が陥落すると、仲礼は司州に還り、来寇した。孫皓が郡を挙げて叛いたので、帝は大いに怒った。十一月、開府の楊忠を派遣して随州を攻め落とし、進んで仲礼の長史馬岫を安陸に包囲した。
十六年正月、柳仲礼が安陸を救援に来たので、楊忠が漴頭でこれを迎撃し、大破して仲礼を捕らえた。馬岫は城を以て降った。三月、魏帝は帝の第二子の震を武邑公に封じた。七月、帝は東征し、章武公の宇文導を大将軍に拝し、留守諸軍を総督させて涇水の北に屯し、関中を鎮守させた。九月丁巳、軍は長安を出た。雨が続き、秋から冬にかけて、諸軍の馬や驢が多く死んだ。遂に弘農の北に橋を造り黄河を渡り、蒲阪から還った。ここにおいて河南は洛陽から、河北は平陽以東から、遂に斉の領土となった。
十七年三月、魏の文帝が崩御し、皇太子が位を嗣いだ。帝は冢宰として百揆を総べた。十月、帝は大将軍の王雄を派遣して子午道から出撃させ、上津・魏興を伐ち、大将軍の達奚武を派遣して散関から出撃させ、南鄭を伐った。
廃帝元年の春、王雄が上津・魏興を平定し、その地に東梁州を置いた。四月、達奚武が南鄭を包囲した。一か月余りして、梁州刺史宜豊侯蕭修が州を挙げて達奚武に降った。八月、東梁州の百姓が州城を包囲したので、帝は再び王雄を派遣してこれを討たせた。
二年正月、魏帝は詔を下し、帝を左丞相・大行臺・ 都督 中外諸軍事に任じた。二月、東梁州が平定され、その豪族の首領らを雍州に移した。三月、帝は大将軍・魏安公尉遅迥を派遣して軍を率い、蜀において梁の武陵王蕭紀を討伐させた。四月、帝は精鋭の騎兵三万を率い、西へ隴を越え、金城河を渡り、姑臧に至った。吐谷渾は震え恐れ、使者を遣わしてその土地の産物を献上した。七月、帝は姑臧から帰還した。八月、尉遅迥が成都を陥とし、剣南が平定された。十一月、尚書の元烈が乱を謀り、誅殺された。
三年正月、初めて九命の典を作り、内外の官爵を序列づけた。第一品を九命とし、第九品を一命とし、流外品を九秩と改め、これも九を上とした。また州・郡・県を改めて置き、合わせて州四十六を改め、州一つを置き、郡百六を改め、県三百三十を改めた。魏帝が怨言を漏らしたので、ここに帝は公卿と議し、帝を廃して斉王廓を立てた。これが 恭 帝である。
恭帝元年四月、帝は群臣を大いに饗応した。魏の史官柳虬が簡牘の書を執って朝廷に告げて言うには、「廃帝は文皇帝の嗣子であり、七歳の時、文皇帝は安定公に託して言われた、『この子は、才能があればそれは公によるものであり、才能がなくてもそれは公によるものである。公は努めるがよい』と。公は既にこの重い託を受け、元輔の任に居り、また娘を入内させて皇后としたのに、遂に訓誨して成果を挙げることができず、廃黜に至らしめた。文皇帝が付属された意に背いている。この咎は安定公でなくて誰であろうか」。帝はそこで太常の盧辯に命じて誥を作らせ、公卿に諭して言わせた。「嗚呼、我が群後および衆士よ。文皇帝は繈褓の嗣子を我に託され、これを訓え諭し、成し遂げられることを望まれた。しかし我はその心を変えずにはおれず、ついに我が文皇帝の志を廃墜させるに至った。嗚呼、この咎を我はどうして避けられようか。我は実にこれを知っている。ましてや爾ら衆人の心においておや。我が顔は、ただ今厚かましいのみならず、後世において、我がことを口実とすることを恐れるのである」。乙亥、魏帝は詔を下し、帝の子の邕を輔城公に、憲を安城公に封じた。七月、西に狩りして原州に至った。梁の元帝が使者を遣わし、旧来の地図に基づいて疆界を定めることを請うとともに、斉と結託し、言辞が背いて傲慢であった。帝は言った。「古人に言う、天の棄つる所は、誰か能くこれを興さん、とはまさに蕭繹のことを言うのであろう」。十月壬戌、柱国の於謹・中山公護と大将軍の楊忠・韋孝寬らに歩騎五万を率いてこれを討たせた。十一月癸未、軍は漢水を渡った。中山公護と楊忠が精鋭の騎兵を率いて先にその城下に駐屯した。丙申、於謹が江陵に到着し、陣営を並べて包囲し守った。辛亥、その城を陥とし、梁の元帝を殺害し、その百官や士庶を捕虜として帰還させ、奴婢に没落した者は十余万、赦免された者は二百余家であった。蕭察を立てて梁の主とし、江陵に居らせ、魏の附庸とした。魏氏の初め、三十六国を統べ、九十九の大姓があったが、後には多く絶滅していた。この時に至り、諸将のうち功の高い者を三十六国の後とし、次ぐ者を九十九姓の後とし、統率する軍人もまたその姓に改めさせた。
二年、梁の広州刺史王琳が辺境を侵犯した。十月、帝は大将軍の豆盧寧を派遣して軍を率いこれを討たせた。
三年正月丁丑、初めて『周礼』を行い、六官を建てた。魏帝は帝の位を太師・大冢宰に進めた。帝は漢・魏の官制が煩雑なのを以て、前代の弊害を改革しようと考えた。大統年間の中頃、蘇綽・盧辯に命じて周制に依ってこれを改創させたが、まもなく六卿の官を置いたものの、撰次が未完成で、諸々の事務は依然として臺閣に帰していた。この時に至ってようやく完成したので、命じて施行させた。四月、帝は北巡した。七月、北河を渡った。魏帝は帝の子の直を秦郡公に、招を正平公に封じた。九月、帝は病に伏し、雲陽に還る途中、中山公護に遺命を受けて嗣子を輔弼することを命じた。十月乙亥、帝は雲陽宮で崩御した。長安に還って発喪し、時に年五十。十二月甲申、成陵に葬られ、文公と諡された。孝閔帝が禅譲を受けるに及んで、文王と追尊され、廟号を太祖とした。武成元年、文皇帝と追尊された。
帝は人を知り、任使に巧みで、諫言に従うことは流れに順うが如く、儒術を崇尚し、政事に明達し、恩信は物に及び、英豪を駕馭することができ、一度会った者は皆、命を用いんと願った。沙苑の戦いで捕らえた囚人捕虜を釈放して用い、河橋の戦役においては戦士として充てたが、皆その死力を得た。諸将が出征する際には方略を授けたが、勝たないことはなかった。性質は朴素を好み、虚飾を尊ばず、常に風俗を反し古始に復することを心がけていたという。
孝閔皇帝、諱は覚、字は陀羅尼、文帝の第三子である。母は元皇后という。大統八年、同州に生まれた。七歳で略陽郡公に封ぜられた。時に善く相を見る者、史元華が帝を見て、退いて親しい者に言うには、「この公子は至貴の相があるが、ただ寿命が長くないことを恨むのみである」と。
魏の恭帝三年三月、安定公の世子に命ぜられた。四月、大将軍に拝された。十月乙亥、文帝が崩御した。丙子、世子が位を嗣ぎ、太師・大冢宰となった。十二月丁亥、魏帝は詔を下し、岐陽の地を以て帝を周公に封じた。庚子、帝に禅位する詔を下して言うには、「我聞く、皇天の命は常ならず、ただ徳に帰す、と。故に堯は舜に授け、舜は禹に授けた。時に適うのである。天は我が魏邦を厭い、変を垂れて告げている。爾はこれを知らぬことはない。我は明らかでないとはいえ、敢えて天命を恭わず、有徳者に至らしめないことがあろうか。今、唐・虞の旧典に 踵 い、位を周に禅る。よって爾に布告するものである」。大宗伯の趙貴を使者として節を持たせ、冊書を奉じて言うには、「 咨 るかな周公よ、帝王の位は常ならず、有徳者が命を受ける。これはすなわち天道である。我はこの時に従い、広く唐・虞の常道を求め、我が魏の徳が旧きに終わることを言う。我が邦の大小、知らぬ者はない。今、どうして天道に 亢 い背いて有徳者に帰しないことがあろうか。時に諮詢謀議を用いたが、皆が言うには、公の 昭考 たる文公は、天地に 格 る勲徳があり、大いに 黔黎 を済われた。公に至っては、また自ら重光を宣べられた。故に玄象の徴が上に現れ、 謳訟 が下に奔走する。天の歴数は、用いるべき実在がここにある。我はどうして従わないことがあろうか。ここをもって聖典を 欽祗 し、位を公に譲る。公はこの天命を 享 け、万国を保有せよ。慎まざるべからず」。魏帝は朝廷に臨み、戸部中大夫・済北公元迪を遣わして皇帝の璽綬を致した。帝は固く辞したが、公卿百辟が勧進し、太史が祥瑞を陳べたので、ようやく従った。この日、魏帝は大司馬府にて位を譲った。
元年春正月、天王即位し、柴燎を焚いて天に告げ、百官を路門にて朝せしむ。皇考文公を追尊して文王と為し、皇妣を文後と為し、大赦を行う。魏帝を封じて宋公と為す。この日、槐里より赤雀を献ず。百官奏議して曰く、「帝王の興るや、正朔を改めざるはなく、天より之を受くるを明らかにし、人の視聴を革むるなり。尼甫に逮び、諸れの陰陽を稽へ、夏の時を行ふと云ひ、後王改易せず。今魏の暦告げ終り、周室命を受く。木を以て水を承け、実に行録に当たり、正に夏時を用ひ、聖道に遵ふべし。惟ふに文王玄気の祥を誕し、黒水の讖有り、服色宜しく烏を尚ぶべし」と。制して曰く、「可なり」と。大 司徒 ・趙郡王李弼を以て太師と為し、大宗伯・南陽公趙貴を以て太傅・大冢宰と為し、大司馬・河内公獨孤信を以て太保と為し、大宗伯・中山公護を以て大司馬と為し、大将軍寧都公毓・高陽公達奚武・武陽公豆盧寧・小司冠陽平公李遠・小司馬博陵公賀蘭禪・小宗伯魏安公尉迥等を並びに柱国と為す。壬寅、円丘を祀る。詔して曰く、「予本神農より出ず、其の二丘に於いては、宜しく厥の主を作すべし。始祖獻侯、土を遼海に啓き、南北郊に配す。文考の徳五運に符し、天の明命を受け、明堂に祖り、以て上帝に配す」と。癸卯、方丘を祀る。甲辰、遂に太社を祭る。初めて市門税を除く。乙巳、太廟を享く。丁未、幹安殿に会し、賞を班ち各差有り。戊申、有司に詔して使者を分命し、風俗を巡察せしめ、人の得失を求め、高年に礼餼し、鰥寡を恤れしむ。辛亥、南郊を祀る。壬子、王后元氏を立てる。辛酉、太廟を享く。癸亥、親ら籍田を耕す。
二月癸酉朔、東郊にて朝日す。戊寅、太社を祭る。丁亥、柱国・楚国公趙貴謀反し、誅せらる。太保獨孤信罪に坐し免ぜらる。甲午、大 司空 ・梁国公侯莫陳崇を以て太保と為し、大司馬・晋国公護を以て大冢宰と為し、柱国・博陵公賀蘭禪を以て大司馬と為し、高陽公達奚武を以て大司寇と為し、大将軍・化政公宇文貴を以て柱国と為す。三月己酉、衛国公獨孤信に死を賜ふ。癸亥、六府の士員を三分の一に省く。夏四月壬申、死罪已下の囚を降す。壬午、成陵に謁す。丁亥、太廟を享く。五月己酉、帝将に漁を観んと昆明池にてす。博士姜頃諫む、乃ち止む。秋七月壬寅、帝右寢にて訟を聴き、多く哀れみ宥す所あり。辛亥、太廟を享く。八月戊辰、太社を祭る。辛未、死罪已下の囚を降す。甲午、詔して二十四軍に賢良を挙げしむ。九月庚申、太守を改めて郡守と為す。
帝の性剛果にして、晋公護の専を忌む。司会李植・軍司馬孫恒、先朝の佐命を以て、左右に侍し入り、亦護の権重きを疾み、乃ち宮伯乙鳳・賀拔提等と潜かに帝に請ひて護を誅せしむ。帝之を許す。又宮伯張先洛を引く。先洛以て護に白す。護乃ち植を出して梁州刺史と為し、恒を潼州刺史と為す。鳳等更に帝に奏し、将に群臣を召し入れ、此に因りて護を誅せんとす。先洛又之を白す。時に小司馬尉綱宿衛兵を総統す。護乃ち綱を召し殿中に入れ、詐りて鳳等を呼び事を論じ、次第に執へて護の弟に送り、並びに之を誅す。綱乃ち禁兵を罷む。帝左右無く、独り内殿に在り、宮人に令して兵を執り自ら守らしむ。護大司馬賀蘭祥を遣はし帝を逼り位を遜らしめ、略陽公に貶し、遂に旧邸に幽す。月余日を経て、 弑 し崩ず。時に年十六。植・恒等も亦害に遇ふ。
武帝護を誅したる後に及び、乃ち詔して曰く、「故略陽公は至徳純粹、天姿秀傑なり。魏の祚告げ終り、宝命将に改まらんとするに属し、謳歌允に集り、歴数攸に帰す。上は蒼霊の慶に協ひ、下は後祗の錫を昭らかにす。而るに禍肘腋に生じ、釁蕭墻に起り、白武驂を 噬 み、蒼鷹殿に集り、神器を幽辱し、乗輿を 弑 酷し、冤結は生霊に結び、毒流は宇県に流る。今河海清に登り、氛沴消蕩す。追尊の礼、宜しく徽号を崇むべし」と。太師・蜀国公迥を遣はし南郊に於いて、上謚して孝閔皇帝と曰ひ、陵を静陵と曰ふ。
世宗明皇帝は諱を毓と曰ひ、小名を統萬突と曰ふ。文皇帝の長子なり。母は姚夫人と曰ふ。永熙三年、文帝夏州に臨み、統萬城に生まる。因りて以て名と為す。大統十四年、寧都郡公に封ぜらる。魏恭帝三年、累遷して大将軍に至り、隴右を鎮む。孝閔践阼し、位を進めて柱国と為し、転じて岐州刺史と為る。美政有り。孝閔廃せらるるに及び、晋公護岐州より帝を迎へしむ。九月癸亥、京師に至り、旧邸に止る。群臣上表して進むを勧め、法駕を備へ奉迎す。帝固く譲り、群臣固く請ふ。乃ち之を許す。
元年秋九月、天王即位し、大赦す。乙丑、延寿殿にて郡臣を朝す。冬十月癸酉、太師・趙国公李弼薨ず。己卯、大将軍・昌平公尉綱を以て柱国と為す。乙酉、円丘を祀る。丙戌、方丘を祀る。甲午、太社を祭る。陽平公李遠に死を賜ふ。辛未、梁敬帝位を陳に遜る。十一月庚子、太廟を享く。丁未、円丘を祀る。十二月庚午、成陵に謁す。庚辰、大将軍・輔城公邕を以て柱国と為す。戊子、長安の見囚を赦す。甲午、詔して元氏の子女、趙貴等の事に坐する以来、所有官口に没入せられたる者、悉く之を免す。
二年春正月乙未、大冢宰・晋公護を以て太師と為す。辛亥、親ら籍田を耕す。癸丑、王后獨孤氏を立てる。丁巳、雍州に於いて十二郡を置く。三月甲午、北 豫 州刺史司馬消難州を挙げ来たり附く。雍州刺史を改めて牧と為し、京兆郡守を尹と為す。庚申、詔して三十六国・九十九姓、魏より南徙して以来、皆河南人と称す。今周室既に関中に都す。宜しく改めて京兆人と称すべしと。夏四月己巳、太師・晋公護を以て雍州牧と為す。辛未、死罪囚を一等降し、五歳刑已下は皆之を原ゆ。甲戌、天王后獨孤氏崩ず。甲申、敬後を葬る。五月乙未、大 司空 ・梁国公侯莫陳崇を以て大宗伯と為す。六月癸亥、嚈噠国使いを遣はし朝貢す。己巳、板授して高年の刺史・守・令と為し、鰥寡孤独を恤れしむこと各差有り。長安を分ちて萬年縣と為し、並びに京城に居らしむ。壬申、使いを遣はし分行して州郡に、囚徒を理め、風俗を察し、骸を掩ひ胔を埋む。秋七月、順陽三足烏を献ず。八月甲子、群臣上表して慶を称す。是に於いて大赦し、文武普く級を進む。九月辛卯、大将軍楊忠・王雄を並びに柱国と為す。甲辰、少師元羅を封じて韓國公と為し、以て魏の後を紹がしむ。丁未、行幸して同州の故宅に至り、詩を賦す。冬十月辛酉、突厥使いを遣はし朝貢す。癸亥、太廟成る。乙亥、功臣瑯邪貞獻公賀拔勝等十三人を以て文帝廟庭に配享す。壬午、大赦す。
武成元年(五六一年)春正月己酉、太師・ 晉 公の宇文護が上表して政権を返上した。帝は初めて万機を親裁し、軍旅の事はなお宇文護が総轄した。初めて 都督 諸州軍事を総管と改称した。三月癸巳、六軍を整列させ、帝みずから甲冑を着け、東方において太白星を迎えた。吐谷渾が辺境を侵した。庚戌、大司馬・博陵公の賀蘭祥を遣わして衆を率いてこれを討たせた。夏五月戊子、有司に詔して周の暦を作らせた。己亥、正武殿において訴訟を聴いた。辛亥、大宗伯・梁国公の侯莫陳崇を大 司徒 とし、大司寇・高陽公の達奚武を大宗伯とし、武陽公の豆盧寧を大司寇とし、柱国・輔城公の宇文邕を大 司空 とした。乙卯、詔して曰く、「近頃たびたび官司が赦前の事を糾弾発覚する者があるが、有司は今後これを推究してはならない。ただ庫蔵と倉廩は、海内の者と共にするものである。漢の皇帝が言うには、『朕は天下のために財を守るのみ』と。もし公家の財畜・銭粟を侵盗した者があれば、魏朝の時の事は年月が既に遠いので、一切問う必要はない。周が天下を有して以来、赦宥を経たものであっても、事跡が知りうるものは、有司はすみやかに推究窮明すべきである。実を得た日には、その罪を免じ、法に従って賠償させること。」賀蘭祥が洮陽・洪和の二城を攻め落とし、吐谷渾は遁走した。閏月、高昌が使を遣わして朝貢した。六月戊子、大雨が長く降った。公卿大夫士から牧守・黎庶に至るまでに詔し、各々封事を上奏し、直言極諫し、憚る所なきことを命じた。水害に遭った者については、有司は時宜をみて巡検し、条列して奏聞すべし。庚子、詔して曰く、「潁川(宇文泰)は我に従い、これ元勲という。父城(宇文泰の拠点)を忘れず、実に王業を起こした。文考(宇文泰)は天地草昧に属し、造化の権輿たり、かの流亡を拯い、この頽運を匡べんとした。英賢の尽力に頼り、文武が同心し、大功を翼賛し、帝業を克く隆興した。そして堅を被り鋭を執り、風に櫛ぎ雨に沐し、永く疇昔を言えば、まことに憮然たる思いである。もし功成り名遂ぎ、国を建て符を割くならば、予はただこれを喜ぶ。王事に致死し、妻子の帰する所なき者があれば、朕は甚だこれを傷しむ。凡そ先王に従って夏州に向かい、夏州より従来し、現存する者及び薨亡した者を併せて、量りに応じて銭帛を賜い、朕の意に称えよ。」この月、陳の武帝(陳霸先)が崩じた。秋八月己亥、天王の称を改めて皇帝と称し、文王(宇文泰)を追尊して文皇帝とした。大赦し、元号を改めた。癸丑、御正を四人増員し、位は上大夫とした。冬十月、斉の文宣帝(高洋)が崩じた。
二年(五六二年)春正月癸丑朔、紫極殿において群臣を大会し、初めて百戯を用いた。三月辛酉、重陽閣が完成し、芳林園において群臣・公侯・列将・卿大夫及び突厥の使者を会し、銭帛を賜うこと各々差等があった。夏四月、帝は糖䊚を食して毒に遇い、庚子、大漸した。詔して曰く、
その詔は即ち帝の口授であった。辛丑、帝は延寿殿において崩じた。時に年二十七。謚して明皇帝と曰い、廟号を世宗という。五月辛未、昭陵に葬った。
帝は寛大で明らかく仁厚く、九族を敦睦し、人君の度量があった。幼くして学を好み、群書を博覧し、文を属するに善く、詞彩は温麗であった。即位に及んで、公卿以下文学ある者八十余人を集め、麟趾殿において経史を刊校した。また衆書を捃采し、伏羲・神農以来より、魏末に至るまでを叙べて『世譜』と為し、凡そ百巻。著した文章十巻。
論じて曰く、昔、水運(北朝の運)将に終らんとするや、群凶命に放ち、或いは権威主を震わせ、或いは釁逆天に滔いだ。皆、大宝は力をもって致すべく、神器は求めて得べしと謂い、而して卒に誅夷継及し、亡ぶこと旋踵を待たず。是れ天命に底有るを知る、庸ぞ慆かんや。周の文帝(宇文泰)は爰に潜躍よりしより、衆は一旅無く、戎馬の際に駆馳し、行伍の間に躡足す。時に能に与するに属し、運に聖を啓くに膺り、義勇を鳩集し、同盟を糾合し、一挙にして仇讎を殄ぼし、再駕にして帝室を匡う。ここにおいて内は帷幄に詢い、外は材雄に杖り、至誠を推して人を持ち、大順を弘めて物を訓う。高氏は甲兵の衆を藉り、戎馬の強を恃み、屡々近畿に入り、志図吞 噬 す。英謀電発し、神旆風馳するに及んで、弘農に城濮の勛を建て、沙苑に昆陽の捷有り、威を取り覇を定め、弱を以て強と為す。元宗(北魏)の衰緒を紹ぎ、隆周の景命を創め、南は江・漢を清め、西は巴・蜀を挙げ、北は沙漠を控え、東は伊・瀍に据う。乃ち魏・ 晉 を擯落し、古昔を憲章し、六官の廃典を修め、一代の鴻規を成す。徳刑並用し、勲賢兼叙し、遠く安んじ近く悦び、俗阜んで人和し、億兆の望帰する所有り、揖譲の期允に集る。功業此の如し、人臣以て終わる、盛んなり哉。雄略時に冠たり、英姿世に不ならず、天与神授、緯武経文する者を求めずして、孰く能く此れに与からんや。昔、漢の献帝蒙塵し、曹公夾輔の業を成し、 晉 の安帝播蕩し、宋の武帝匡合の勛を建つ。徳を校え功を論ずれば、綽乎として余裕有り。渚宮に制勝し、闔城孥戮し、蠕蠕帰命し、種を尽くして誅夷するに至っては、事は権道より出ずと雖も、用は徳教に乖けり、斯れ過ちと為す。
孝閔帝(宇文覚)は既に安んぜられた業を承け、楽推の運に膺り、明皇帝(宇文毓)は代邸の尊に処し、大宗の緒を纂ぐ。始めは権臣命を専らにし、終わりは政私門より出ず。倶に芒刺の疑いを懐き、用て幽弒の禍を致す。惜しい哉。
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