北史

卷八 齊本紀下 第八

世祖武成帝

世祖武成皇帝は諱を湛といい、神武皇帝の第九子にして、孝昭皇帝の同母弟である。儀表は瑰傑にして、神武は特にこれを鍾愛した。神武が荒遠の地を招き懐かせようとしていた時、帝のために蠕蠕の太子庵羅辰の女を娶り、鄰和公主と号した。帝は時に八歳、冠服は端厳、神情は閑遠にして、華戎ともに嘆異した。元象年中、長広郡公に封ぜられる。天保初め、爵を進めて王と為り、 尚書令 しょうしょれい に拝され、まもなく 司徒 しと を兼ね、太尉に遷る。幹明初め、楊愔ら密かに疎忌し、帝を大司馬と為し、 へい 州刺史を領せしむ。帝は既に孝昭と謀り、諸執政を誅し、太傅・録尚書事・京畿大 都督 ととく を領す。皇建初め、右丞相に進位す。孝昭が しん 陽に幸すと、帝は懿親として鄴に居守し、政事はことごとく委託を見る。二年、孝昭崩御し、遺詔して帝を征し大位を統べしむ。 しん 陽宮に至り、崇徳殿にて発喪す。皇太后、令して所司に遺詔を宣せしめ、左丞相斛律金、百僚を率いて敦勸し、三たび奏して乃ちこれを許す。

大寧元年冬十一月癸丑、皇帝、南宮にて即位す。大赦し、皇建二年を大寧と改元す。乙卯、 司徒 しと ・平秦王帰彦を太傅と為し、尚書右僕射・趙郡王睿を 尚書令 しょうしょれい と為し、太尉尉粲を太保と為し、 尚書令 しょうしょれい 段韶を大司馬と為し、豊州刺史婁睿を 司空 しくう と為し、太傅・平陽王淹を太宰と為し、太保・彭城王浟を太師・録尚書事と為し、冀州刺史・博陵王済を太尉と為し、 中書監 ちゅうしょかん ・任城王湝を尚書左僕射と為し、 へい 州刺史斛律光を右僕射と為す。孝昭皇帝の太子百年を楽陵郡王に封ず。庚申、詔して大使に天下を巡行せしめ、政の善悪を求め、人の疾苦を問い、賢良を擢進す。是の歳、周の武帝保定元年。

河清元年春正月乙亥、車駕、 しん 陽より至る。辛巳、南郊に祀る。壬午、太廟を享く。丙戌、妃胡氏を立てて皇后と為し、子緯を皇太子と為す。戊子、大赦し、内外百官に普く泛級を加え、諸父後たる者に爵一級を賜う。己亥、前定州刺史・馮翊王潤を尚書左僕射と為す。詔して普く屠殺を断ち、以て春令に順う。二月丁未、太宰・平陽王淹を青州刺史・太傅・領 司徒 しと と為し、領軍大将軍・宗師・平秦王帰彦を太宰・冀州刺史と為す。乙卯、兼 尚書令 しょうしょれい ・任城王湝を 司徒 しと と為す。詔して 散騎常侍 さんきじょうじ 崔瞻をして陳に聘せしむ。夏四月辛丑、皇太后婁氏崩ず。乙巳、青州刺史上言す。今月庚寅、河・済清む。河・済清むを以て、大寧二年を河清と改元し、罪人を降すこと各差有り。五月甲申、武明皇后を義平陵に祔葬す。己丑、尚書右僕射斛律光を 尚書令 しょうしょれい と為す。秋七月、太宰・冀州刺史・平秦王帰彦、州に拠りて反す。詔して大司馬段韶・ 司空 しくう 婁睿に討たしめ、これを禽う。乙未、帰彦を斬り、その三子及び党与二十人を都市に於いて刑す。丁酉、大司馬段韶を太傅と為し、 司空 しくう 婁睿を 司徒 しと と為し、太傅・平陽王淹を太宰と為し、 尚書令 しょうしょれい 斛律光を 司空 しくう と為し、太子太傅・趙郡王睿を 尚書令 しょうしょれい と為し、 中書監 ちゅうしょかん ・河間王孝琬を尚書左僕射と為す。癸亥、 しん 陽に行幸す。陳人聘を来たす。冬十一月丁丑、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 封孝琰をして陳に使せしむ。十二月丙辰、車駕、 しん 陽より至る。是の歳、太原王紹德を殺す。

二年春正月乙亥、帝、朝堂に臨み、秀・孝を策試す。太子少傅魏收を以て兼尚書右僕射と為す。己卯、兼右僕射魏收、阿縦を以て除名せらる。丁丑、武明皇后を以て北郊に配祭す。辛卯、帝、都亭に臨み見囚を録し、在京の罪人を降すこと各差有り。三月己丑、詔して 司空 しくう 斛律光に五営の軍士を督せしめ、軹関に戍を築かしむ。壬申、室韋国使いを遣わし朝貢す。丙戌、兼尚書右僕射趙彦深を左僕射と為す。夏四月、 へい ・汾・ しん ・東雍・南汾の五州、蟲旱して稼を傷つく。使いを遣わし振恤す。戊午、陳人聘を来たす。五月壬午、詔して城南の双堂の苑を以て、回らしめて大総持寺を造る。六月乙巳、齊州上言す、済河水口に八龍の天に昇るを見たり。乙卯、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 崔子武をして陳に使せしむ。庚申、司州牧・河南王孝瑜薨ず。秋八月辛丑、詔して三臺宮を以て大興聖寺と為す。冬十二月癸巳、陳人聘を来たす。己酉、周の将楊忠、突厥の阿史那木可汗等一十余萬を帥い、恒州より三道に分かれ、吏人を殺掠す。是の時、大雨雪連月、南北千余里、平地数尺。霜、昼下り、雨血す太原に。戊午、帝、 しん 陽に至る。己未、周軍、 へい 州に逼り、また大将達奚武を遣わし、数萬の衆を帥いて東雍及び しん 州に至り、突厥と相応ず。是の歳、室韋・庫莫奚・靺鞨・契丹並びに使いを遣わし朝貢す。

三年春正月庚申の朔、周の軍が城下に至りて陣す。城西に戦い、周軍及び突厥大いに敗れ、人畜の死者相枕し、数百里に絶えず。詔して平原王段韶に出塞を追わしめて還らしむ。三月辛酉、律令を班下し、大赦す。己巳、盗賊太師・彭城王高浟を殺す。庚辰、 司空 しくう 斛律光を以て 司徒 しと と為し、侍中・武興王高普を以て尚書左僕射と為す。甲申、 尚書令 しょうしょれい ・馮翊王高潤を以て 司空 しくう と為す。夏四月辛卯、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 皇甫亮を陳に使わす。五月甲子、帝晋陽より至る。壬午、 尚書令 しょうしょれい ・趙郡王高睿を以て録尚書事と為し、前 司徒 しと 婁睿を以て太尉と為す。甲申、太傅段韶を以て太師と為す。丁亥、太尉・任城王高湝を以て大將軍と為す。壬辰、行幸して晋陽に至る。六月庚子、大雨、昼夜止まず、甲辰に至りて乃ち止む。是の月、晋陽に訛言有りて鬼兵有りとし、百姓競いて銅鉄を撃ちて以て之を捍ぐ。楽陵王高百年を殺す。宇文媼を周に帰す。秋九月乙丑、皇子高綽を南陽王に、高儼を東平王に封ず。是の月、閻媼を周に帰す。陳人聘問に来る。突厥幽州を寇し、長城に入り、虜掠して還る。閏月乙未、詔して十二使を遣わし水澇の州を巡行せしめ、其の租調を免ず。乙巳、突厥幽州を寇す。周軍三道並び出で、其の将尉遅迥をして洛陽を寇せしめ、楊摽をして軹関に入らしめ、権景宣をして懸瓠に向かわしむ。冬十一月甲午、尉遅迥等洛陽を囲む。戊戌、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 劉逖を陳に使わす。甲辰、太尉婁睿軹関に於いて周軍を大破し、楊摽を禽す。十二月乙卯、 州刺史王士良城を以て周将権景宣に降る。丁巳、帝晋陽より南討す。己未、太宰・平陽王高淹薨ず。壬戌、太師段韶尉遅迥等を大破し、洛陽の囲みを解く。丁卯、帝洛陽に至り、洛州周軍の経たる処一年の租賦を免じ、州城内死罪以下の囚を赦す。己巳、太師段韶を以て太宰と為し、 司徒 しと 斛律光を以て太尉と為し、 へい 州刺史・蘭陵王高長恭を以て 尚書令 しょうしょれい と為す。壬申、帝武牢に至り、滑臺を経て、黎陽に次ぐ。経る所罪人を減降す。丙子、車駕洛陽より至る。是歳、高麗・靺鞨・新羅並びに使を遣わし朝貢す。山東大水、饑死者算うべからず。詔して発振給すと雖も、事竟に行われず。

四年春正月癸卯、大將軍・任城王高湝を以て大司馬と為す。辛未、晋陽に幸す。二月甲寅、詔して新羅国王金真興を以て使持節・東夷 校尉 こうい ・楽浪郡公・新羅王と為す。壬申、年穀登らざるを以て、酒の酤を禁ず。己卯、詔して百官の食廩を減ずること各差有り。三月戊子、詔して西兗・梁・滄・趙州、司州の東郡・陽平・清河・武都、冀州の長楽・勃海の水澇に遭える処の貧下戸に粟を給すること各差有りと雖も、家別に斗升のみにして、又多付さず。是の月、彗星見ゆ。物殿廷に隕ち、赤漆の鼓の如く、小鈴を帯ぶ。殿上の石自ら起ち、両両相対す。又神有りて後園の万寿堂前の山穴の中に見え、其の体壮大にして、其の面を弁えず、両歯絶白にして、唇より長く出づ。帝直宿の嬪御以下七百人皆之を見る。帝又之を夢む。夏四月戊午、大將軍・東安王婁睿事に坐して免ぜらる。乙亥、陳人聘問に来る。太史奏す、天文に変有り、其の占に当に王を易うべしと。丙子、乃ち太宰段韶をして兼太尉と為し、節を持ちて皇帝の璽綬を奉じ、位を皇太子に伝えしむ。大赦し、元を改めて天統元年と為す。百官進級し、罪を降し、各差有り。又詔して皇太子妃斛律氏を皇后と為す。ここに群公上りて尊号を太上皇帝と為し、軍国の大事、咸以て奏聞す。始めて政を伝えんとし、内参の乗子尚をして駅を乗りて詔書を鄴に送らしむ。子尚晋陽城を出で、人騎の後に随うを見るも、忽ち之を失う。未だ鄴に至らざるに其の言已に布かる。

天統四年十二月辛未、太上皇帝鄴宮の乾寿堂に崩ず。時に年三十二。謚して武成皇帝と曰い、廟号を世祖とす。五年二月甲申、永平陵に葬る。

後主

後主諱は緯、字は仁綱、武成皇帝の長子なり。母は胡皇后と曰い、海上に於いて玉盆に坐す夢を見、日が裙の下に入り、遂に娠有り。天保七年五月五日、 へい 州の邸に於いて帝を生む。帝少より容儀美しく、武成特に愛寵し、世子に拝す。武成大業を纂ぐに及び、大寧二年正月丙戌、皇太子に立てらる。河清四年、武成位を帝に禅す。

天統元年夏四月丙子、皇帝晋陽宮に即位す。大赦し、河清四年を改めて天統と為す。丁丑、太保賀抜仁を以て太師と為し、太尉侯莫陳相を以て太保と為し、 司空 しくう ・馮翊王高潤を以て 司徒 しと と為し、録尚書事・趙郡王高睿を以て 司空 しくう と為し、尚書左僕射・河間王高孝琬を以て 尚書令 しょうしょれい と為す。戊寅、瀛州刺史尉粲を以て太尉と為し、斛律光を以て大將軍と為し、東安王婁睿を以て太尉と為し、尚書右僕射趙彦深を以て左僕射と為す。六月壬戌、彗星文昌の東北に出で、其の大きさ手の如く、後稍長く、乃ち丈余に至り、百日にして乃ち滅す。己巳、太上皇帝詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 王季高を陳に使わす。秋七月乙未、太上皇帝詔して都水使者一人を増置す。冬十一月癸未、太上皇帝晋陽より至る。己丑、太上皇帝詔して太祖献武皇帝を改めて神武皇帝と為し、廟号を高祖とし、献明皇后を武明皇后と為す。其の文宣の謚号は、有司に委ねて議定せしむ。十二月庚戌、太上皇帝北郊に狩す。壬子、南郊に狩す。乙卯、西郊に狩す。壬戌、太上皇帝晋陽に幸す。丁卯、帝晋陽より至る。庚午、有司奏して高祖文宣皇帝を改めて威宗景烈皇帝と為す。是歳、高麗・契丹・靺鞨並びに使を遣わし朝貢す。河南大疫有り。

二年春正月辛卯、円丘を祀る。癸巳、太廟において祫祭を行う。詔して罪人を降すこと各差等あり。丙申、吏部尚書尉瑾を以て尚書右僕射となす。庚子、行幸して しん 陽に至る。二月庚戌、太上皇帝 しん 陽より至る。壬子、陳人聘問に来る。三月乙巳、太上皇帝詔して三臺を以て興聖寺に施す。旱魃の故に、禁囚を降す。夏四月、陳の文帝崩ず。五月乙酉、兼尚書左僕射・武興王普を以て 尚書令 しょうしょれい となす。己亥、太上皇帝の子儼を封じて東平王とし、仁弘を齊安王とし、仁固を北平王とし、仁英を高平王とし、仁光を淮南王となす。六月、太上皇帝詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 韋道儒をして陳に聘問せしむ。秋八月、太上皇帝 しん 陽に幸す。冬十月乙卯、太保侯莫陳相を以て太傅とし、大司馬・任城王湝を太保とし、太尉婁睿を大司馬とし、馮翊王潤を徙めて太尉とし、開府儀同三司韓祖念を 司徒 しと となす。十一月、大雨雪。盗賊太廟の御服を窃む。十二月乙丑、陳人聘問に来る。是歳、河間王孝琬を殺す。突厥・靺鞨国並びに使いを遣わして朝貢す。周に於いては天和元年なり。

三年春正月壬辰、太上皇帝 しん 陽より至る。乙未、大雪、平地三尺。戊戌、太上皇帝詔す、京官執事散官三品已上は、三人を挙げ、五品已上は、各二人を挙げ、事に称する七品已上、及び殿中侍御史・尚書都・檢校御史・主書及び門下錄事は、各一人を挙げよ。鄴宮九龍殿災あり、西廊に延焼す。二月壬寅朔、帝元服を加え、大赦す。九州の職人、各四級を進め、内外の百官、普く二級を進む。夏四月癸丑、太上皇帝詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 司馬幼之をして陳に使いせしむ。五月甲午、太上皇帝詔して領軍大将軍・東平王儼を以て 尚書令 しょうしょれい となす。乙未、大風、昼晦し、屋を発し樹を抜く。六月己未、太上皇帝詔して皇子仁機を封じて西河王とし、仁約を楽浪王とし、仁儉を潁川王とし、仁雅を安楽王とし、統を丹楊王とし、仁謙を東海王となす。閏六月辛巳、左丞相斛律金薨ず。壬午、太上皇帝詔して 尚書令 しょうしょれい ・東平王儼に尚書事を録せしむ。尚書左僕射趙彦深を以て 尚書令 しょうしょれい とし、並省尚書右僕射婁定遠を尚書左僕射とし、 中書監 ちゅうしょかん 徐之才を右僕射となす。秋八月辛未、太上皇帝詔して太保・任城王湝を以て太師とし、太尉・馮翊王潤を大司馬とし、太宰段韶を左丞相とし、太師賀抜仁を右丞相とし、太傅侯莫陳相を太宰とし、大司馬婁睿を太傅とし、大将軍斛律光を太保とし、 司徒 しと 韓祖念を大将軍とし、 司空 しくう ・趙郡王睿を太尉とし、 尚書令 しょうしょれい ・東平王儼を 司徒 しと となす。九月己酉、太上皇帝詔す、諸寺署の綰く所の雑保戸姓高き者は、天保の初め、優放有りと雖も、権仮に力用を免れざる者、今悉く雑戸を蠲ち、郡県に任属せしめ、一に平人に準ぜよ。丁巳、太上皇帝 しん 陽に幸す。是の秋、山東大水、人饑え、僵屍道に満つ。冬十月、突厥・大莫婁・室韋・百済・靺鞨等国、各使いを遣わして朝貢す。十一月丙午、 しん 陽大明殿成れる故を以て、大赦す。文武の百官二級を進む。 へい 州居城・太原一郡の来年の租を免ず。癸未、太上皇帝 しん 陽より至る。十二月己巳、太上皇帝詔して故左丞相・趙郡王琛を以て神武廟廷に配饗せしむ。

四年春正月壬子、詔して故清河王嶽・河東王潘相楽等十人並びに神武廟廷に配饗せしむ。癸亥、太上皇帝詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 鄭大護をして陳に使いせしむ。三月乙巳、太上皇帝詔して 司徒 しと ・東平王儼を以て大将軍とし、南陽王綽を 司徒 しと とし、開府儀同三司・広寧王孝珩を 尚書令 しょうしょれい となす。夏四月辛未、鄴宮昭陽殿災あり、宣光・瑶華等の殿に及ぶ。辛巳、太上皇帝 しん 陽に幸す。五月癸卯、尚書右僕射胡長仁を以て左僕射とし、 中書監 ちゅうしょかん 和士開を右僕射となす。壬戌、太上皇帝 しん 陽より至る。正月より雨なく、是の月に至る。六月甲子朔、大雨。甲申、大風、木を抜き樹を折る。是月、彗星東井に見ゆ。秋九月丙申、周人通和に来る。太上皇帝詔して侍中斛斯文略をして周に報聘せしむ。冬十月辛巳、 尚書令 しょうしょれい ・広寧王孝珩を以て録尚書事とし、左僕射胡長仁を 尚書令 しょうしょれい とし、右僕射和士開を左僕射とし、 中書監 ちゅうしょかん 唐邕を右僕射となす。十一月壬辰、太上皇帝詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 李翥をして陳に使いせしむ。是月、陳の安成王頊其の主伯宗を廃して自立す。十二月辛未、太上皇帝崩ず。丙子、大赦す。九州の職人普く一級を加え、内外の百官並びに両級を加う。戊寅、太上皇后の尊号を上りて皇太后となす。甲申、詔して細作の務及び所在の百工悉く之を罷む。又詔す、掖廷・ しん 陽・中山の宮人等、及び鄴下・ へい 州太官の官口二処、其の年六十已上、及び癃患有る者は、仰せて所司に簡放せしめよ。庚寅、詔す、天保七年已来、諸家縁坐に坐して配流せられたる者は、所在に令して還らしめよ。是歳、契丹・靺鞨国並びに使いを遣わして朝貢す。

五年春正月辛亥、詔して金鳳等三臺未だ寺に入らざる者を、大興聖寺に施す。是月、定州刺史・博陵王済を殺す。二月乙丑、詔す、宮刑に応ずる者は、普く刑を免じて官口となす。又詔して鷹鷂を網捕し及び籠放の物を畜養するを禁ず。癸酉、大莫婁国使いを遣わして朝貢す。乙丑、東平王儼を改めて瑯邪王となす。詔して侍中叱列長文をして周に使いせしむ。是月、太尉・趙郡王睿を殺す。三月丁酉、 司空 しくう 徐顕秀を以て太尉とし、並省 尚書令 しょうしょれい 婁定遠を 司空 しくう となす。是月、行幸して しん 陽に至る。夏四月甲子、詔して へい 州尚書省を以て大基聖寺とし、 しん 祠を大崇皇寺となす。乙丑、車駕 しん 陽より至る。秋七月己丑、詔して罪人を降すこと各差等あり。戊申、詔して使いをして河北諸州雨無き処を巡省せしめ、境内偏りて旱るる者は、租調を優免せしむ。冬十月壬戌、詔して酒を造るを禁ず。十一月辛丑、詔して太保斛律光を以て太傅とし、大司馬・馮翊王潤を太保とし、大将軍・瑯邪王儼を大司馬となす。十二月庚午、開府儀同三司・蘭陵王長恭を以て 尚書令 しょうしょれい となす。庚辰、 中書監 ちゅうしょかん 魏収を以て尚書右僕射となす。

武平元年(570年)春正月乙酉朔(一日)、元号を改める。太師・ へい 州刺史・東安王婁睿が薨去。戊申(二十四日)、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 裴献之を陳に聘問せしむ。二月癸亥(九日)、百済王余昌を以て使持節・侍中・驃騎大将軍・帯方郡公と為し、王は元の如し。己巳(十五日)、太傅・咸陽王斛律光を以て右丞相と為し、 へい 州刺史・右丞相・安定王賀抜仁を録尚書事と為し、冀州刺史・任城王高湝を太師と為す。丙子(二十二日)、死罪以下の囚を赦免す。閏月戊戌(十五日)、録尚書事・安定王賀抜仁薨去。三月辛酉(八日)、開府儀同三司徐之才を尚書左僕射と為す。夏六月乙酉(四日)、広寧王高孝珩を 司空 しくう と為す。甲辰(二十三日)、皇子高恒誕生の故に、大赦を行ふ。内外の百官、普く二級を進め、九州の職人、普く四級を進む。己酉(二十八日)、詔して開府儀同三司唐邕を尚書右僕射と為す。秋七月癸丑(三日)、孝昭皇帝の子彦基を城陽王に、彦康を定陵王に、彦忠を梁郡王に封ず。甲寅(四日)、 尚書令 しょうしょれい ・蘭陵王高長恭を録尚書事と為し、中領軍和士開を 尚書令 しょうしょれい と為す。癸亥(十三日)、靺鞨使いを遣はして朝貢す。癸酉(二十三日)、華山王高凝を太傅と為す。八月辛卯(十一日)、行幸して しん 陽に至る。九月乙巳(二十六日)、皇子高恒を立てて皇太子と為す。冬十月辛巳(二日)、 司空 しくう ・広寧王高孝珩を 司徒 しと と為し、上洛王高思宗を 司空 しくう と為し、蕭莊を梁王に封ず。戊子(九日)、曲赦して へい 州の死罪以下の囚を赦免す。己丑(十日)、復た威宗景烈皇帝の諡号を改めて顕祖文宣皇帝と為す。十二月丁亥(九日)、車駕 しん 陽より至る。詔して左丞相斛律光をして しん 州道に出で、城戍を修めしむ。

二年(571年)春正月丁巳(十日)、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 劉環俊を陳に使はす。戊寅(三十一日)、百済王余昌を以て使持節・ 都督 ととく ・東青州刺史と為す。二月壬寅(二十五日)、録尚書事・蘭陵王高長恭を太尉と為し、 へい 省録尚書事趙彦深を 司空 しくう と為し、 尚書令 しょうしょれい 和士開を録尚書事と為し、左僕射徐之才を 尚書令 しょうしょれい と為し、右僕射唐邕を左僕射と為し、吏部尚書馮子琮を右僕射と為す。夏四月壬午(六日)、大司馬・瑯邪王高儼を太保と為す。甲午(十八日)、陳使いを遣はして連和を求め、周を伐たんと謀るも、朝議許さず。六月、段韶周の汾州を攻めて之を克ち、刺史楊敷を獲る。秋七月庚午(二十五日)、太保・瑯邪王高儼詔を矯りて録尚書事和士開を南臺に於て殺し、即日領軍大将軍庫狄伏連・書侍御史王子宣等を誅し、尚書右僕射馮子琮に殿中にて死を賜ふ。八月己亥(二十五日)、行幸して しん 陽に至る。九月辛亥(七日)、太師・任城王高湝を太宰と為し、馮翊王高潤を太師と為す。己未(十五日)、左丞相・平原王段韶薨去。戊午(十四日)、曲赦して へい 州界内の死罪以下を赦免し、各差有り。庚午(二十六日)、太保・瑯邪王高儼を殺す。壬申(二十八日)、陳人聘問に来る。冬十月、京畿府を罷めて領軍府に併入す。己亥(二十六日)、車駕 しん 陽より至る。十一月庚戌(七日)、詔して侍中赫連子悦を周に使はす。丙寅(二十三日)、徐州行臺・広寧王高孝珩を録尚書事と為す。庚午(二十七日)、録尚書事・広寧王高孝珩を 司徒 しと と為す。癸酉(三十日)、右丞相斛律光を左丞相と為す。

三年(572年)春正月己巳(二十七日)、南郊に祀る。辛亥(九日)、故瑯邪王高儼を追贈して楚帝と為す。二月己卯(七日)、衛菩薩を太尉と為す。辛巳(九日)、 へい 省吏部尚書高元海を尚書右僕射と為す。庚寅(十八日)、左僕射唐邕を 尚書令 しょうしょれい と為し、侍中祖珽を左僕射と為す。是の月、勅して『玄州苑御覧』を撰せしめ、後に名を『聖寿堂御覧』と改む。三月辛酉(二十日)、詔して文武の官五品已上に、各一人を挙げしむ。是の月、周冢宰宇文護を誅す。夏四月、周人聘問に来る。秋七月戊辰(二十九日)、左丞相・咸陽王斛律光及び其の弟幽州行臺・荊山公豊楽を誅す。八月庚寅(二十二日)、皇后斛律氏を廃して庶人と為す。太宰・任城王高湝を右丞相と為し、太師・馮翊王高潤を太尉と為し、蘭陵王高長恭を大司馬と為し、広寧王高孝珩を大将軍と為し、安德王高延宗を 司徒 しと と為す。領軍封輔相をして周に聘問せしむ。戊子(二十日)、右昭儀胡氏を拝して皇后と為す。己丑(二十一日)、司州牧・北平王高仁堅を 尚書令 しょうしょれい と為し、特進許季良を左僕射と為し、彭城王高宝徳を右僕射と為す。癸巳(二十五日)、行幸して しん 陽に至る。是の月、『聖寿堂御覧』成る。勅して史閣に付す。後に『修文殿御覧』と改む。九月、陳人聘問に来る。冬十月、死罪以下の囚を赦免す。甲午(二十七日)、弘徳夫人穆氏を拝して左皇后と為し、大赦を行ふ。十二月辛丑(五日)、皇后胡氏を廃して庶人と為す。是歳、新羅・百済・勿吉・突厥並びに使いを遣はして朝貢す。周に於ては建徳元年と為す。

四年(573年)春正月戊寅(十三日)、 へい 尚書令 しょうしょれい 高阿那肱を録尚書事と為す。庚辰(十五日)、詔して兼 散騎常侍 さんきじょうじ 崔象を陳に使はす。是の月、鄴都・ へい 州並びに狐媚有り、多く人の髪を截つ。二月乙巳(十日)、左皇后穆氏を拝して皇后と為す。丙午(十一日)、文林館を置く。乙卯(二十日)、 尚書令 しょうしょれい ・北平王高仁堅を録尚書事と為す。丁巳(二十二日)、行幸して しん 陽に至る。是の月、周人聘問に来る。三月辛未(七日)、盗信州に入り、刺史和士休を殺す。南兗州刺史鮮于世榮之を討つ。庚辰(十六日)、車駕 しん 陽に至る。夏四月戊午(二十五日)、大司馬・蘭陵王高長恭を太保と為し、大将軍・定州刺史・南陽王高綽を大司馬と為し、大司馬・太尉衛菩薩を大将軍と為し、 司徒 しと ・安德王高延宗を太尉と為し、 司空 しくう ・武興王高普を 司徒 しと と為し、開府儀同三司・宜陽王趙彦深を 司空 しくう と為す。癸丑(二十日)、皇祠を祈る。壇壝蕝の内忽ち車軌の轍有り。案験するに、傍ら人跡無く、車の来たる所を知らず。乙卯(二十二日)、詔して以て大慶と為し、天下に告げ班す。己未(二十六日)、周人聘問に来る。五月丙子(十三日)、詔して史官に更に『魏書』を撰せしむ。癸巳(三十日)、領軍穆提婆を尚書左僕射と為し、侍中・ 中書監 ちゅうしょかん 段孝言を右僕射と為す。是の月、開府儀同三司尉破胡・長孫洪略等陳将吳明徹と呂梁の南に於て戦ふ。大敗し、破胡走りて免れ、洪略戦歿す。遂に秦・涇の二州を陥とす。明徹進みて和・合の二州を陥とす。是の月、太保・蘭陵王高長恭を殺す。六月、明徹進軍して寿陽を囲む。壬子(十日)、南苑に幸す。従官暑に死する者六十人。録尚書事高阿那肱を 司徒 しと と為す。丙辰(十四日)、詔して開府王師羅を周に使はす。秋九月、鄴の東に校獵す。冬十月、陳将吳明徹寿陽を陥とす。辛丑(一日)、侍中崔季舒・張雕虎・ 散騎常侍 さんきじょうじ 劉逖・封孝琰・黄門侍郎裴澤・郭遵を殺す。癸卯(三日)、行幸して しん 陽に至る。十二月戊寅(九日)、 司徒 しと 高阿那肱を右丞相と為す。是歳、高麗・靺鞨並びに使いを遣はして朝貢し、突厥使いを遣はして婚を求む。

五年の春正月乙丑、左右の娥英を各一人置く。二月乙未、車駕は晋陽より至る。朔州行臺・南安王思好、反す。辛丑、行幸して晋陽に至る。 尚書令 しょうしょれい 唐邕ら、大いに思好を破り、火に投じて死に、その屍を焚き、その妻李氏とともにす。丁未、車駕は晋陽より至る。甲寅、 尚書令 しょうしょれい 唐邕を以て録尚書事と為す。夏五月、大いに旱す。晋陽に死せる魃を得たり、長さ二尺、面と頂とに各二目あり。帝これを聞き、木を刻んでその形を為し以て献ぜしむ。庚申、大赦す。丁亥、陳人淮北を寇す。秋八月癸卯、行幸して晋陽に至る。甲辰、高勱を以て尚書右僕射と為す。是の歳、南陽王綽を殺す。

六年の春三月乙亥、車駕は晋陽より至る。丁丑、妖賊鄭子饒を都市に烹す。是の月、周人聘問に来る。夏四月庚子、 中書監 ちゅうしょかん 陽休之を以て尚書右僕射と為す。癸卯、靺鞨使いを遣わして朝貢す。秋七月甲戌、行幸して晋陽に至る。八月丁酉、冀・定・趙・幽・滄・瀛の六州、大水す。是の月、周師洛川に入り、芒山に屯し、洛城を攻逼す。火船を放ち浮橋を焚く。河橋絶つ。閏月己丑、右丞相高阿那肱を晋陽より遣わしてこれを防がしむ。師は河陽に次ぐ。周師、夜遁す。庚辰、 司空 しくう 趙彦深を以て 司徒 しと と為し、斛律阿列羅を 司空 しくう と為す。辛巳、軍国の資用足らざるを以て、関市・舟車・山沢・塩鉄・店肆に税し、軽重各差あり。酒禁を開く。

七年の春正月壬辰、詔す。去秋以来、水潦あり、人饑えて自立せざる者は、所在において大寺及び諸の富戸に付し、その性命を済せ、と。甲寅、大赦す。乙卯、車駕は晋陽より至る。二月辛酉、雑戸の女を括り、年二十以下十四以上にして未だ嫁せざる者、悉く省に集む。隠匿する者は、家長死刑に処す。二月丙寅、風西北より起こり、屋を発し樹を抜く。五日にしてやむ。夏六月戊申朔、日蝕あり。庚申、 司徒 しと 趙彦深薨ず。秋七月丁丑、大雨霖ふる。是の月、水澇を以て、使いを遣わし流亡の人戸を巡撫す。八月丁卯、行幸して晋陽に至る。雉、御坐に集まる。これを獲る。有司敢えて聞こゆることなし。詔して邯鄲宮を営む。

冬十月丙辰、帝、大いに祁連池に狩す。周師、晋州を攻む。癸亥、帝、晋陽に還る。甲子、兵を出し、大いに晋祠に集む。庚午、帝、晋陽を発つ。癸酉、帝、陣を列べて行き、上りて鶏棲原に至り、周の斉王憲と相対す。夜に至りて戦わず。周師、陣を斂めて退く。十一月、周の武帝、長安に退き還り、偏師を留めて晋州を守らしむ。高阿那肱ら、晋州城を囲む。戊寅、帝、囲む所に至る。十二月戊申、周の武帝、来たりて晋州を救う。庚戌、城南に戦い、斉軍大いに敗る。帝、軍を棄てて先に還る。癸丑、晋陽に入る。憂懼して何れの所にか之くべきかを知らず。甲寅、大赦す。帝、朝臣に謂いて曰く、「周師甚だ盛んなり、 若何 いかん せん」と。群臣皆曰く、「天命未だ改まらず、一得一失は、古より皆然り。百賦を停め、朝野を安んじ、遺兵を収め、城を背にして死戦し、以て社稷を存すべし」と。帝の意なお猶予す。北朔州に向かわんと欲す。乃ち安德王延宗・広寧王孝珩らを留めて晋陽を守らしむ。若し晋陽守られずんば、即ち突厥に奔らんと欲す。群臣皆曰く不可と。帝その言に従わず。開府儀同三司賀抜伏恩・封輔相・慕容鍾葵ら宿衛の近臣三十余人、西に奔りて周師に就く。乙卯、詔して兵を募り、安德王延宗を遣わして左広と為し、広寧王孝珩を右広と為す。延宗入りて帝に見ゆ。帝、北朔州に向かわんと欲するを告ぐ。延宗泣いて諫む。従わず。帝密かに王康德と中人斉紹らを遣わし、皇太后・皇太子を北朔州に送らしむ。丙辰、帝、城南の軍営に幸し、将士を労う。その夜、遁れんと欲す。諸将従わず。丁巳、大赦す。武平七年を改めて隆化元年と為す。その日、穆提婆、周に降る。詔して安德王延宗を除いて相国と為し、備禦を委ぬ。延宗流涕して命を受く。帝乃ち夜に五龍門を斬りて出づ。突厥に走らんと欲す。従官多く散ず。領軍梅勝郎、馬を叩いて諫む。乃ちこれを回らして鄴に至らしむ。時に唯だ高阿那肱ら十余騎、広寧王孝珩・襄城王彦道続きて至り、数十人を得て同行す。戊午、延宗、衆議に従い、即ち皇帝の位に即くこと晋陽に於いて、隆化を改めて徳昌元年と為す。庚申、帝、鄴に入る。辛酉、延宗、周師と晋陽に於いて戦い、大いに敗れ、周師に虜とせらる。帝、人を募ることを遣わし、重ねて官賞を加う。この言有りと雖も、而も竟に物を出さず。広寧王孝珩奏請して宮人及び珍宝を出だし、将士に班賜せんことを請う。帝悦ばず。斛律孝卿、中に居り、委を受けて甲を帯びて処分す。帝の親ら労わることを請う。帝の為に辞を撰す。且つ曰く、「宜しく慷慨流涕し、人心を感激すべし」と。帝既に衆に臨み出で、将にこれに令せんとす。復た受けたる言を記せず。遂に大笑す。左右も亦群咍す。将士解せざるは莫し。ここに於いて大丞相より已下、太宰・大司馬・三師・大将軍・三公等の官、並びに員を増して授く。或いは三、或いは四、数うるに勝えず。甲子、皇太后、北道より至る。文武一品已上を引いて朱華門に入る。酒食及び紙筆を賜い、以て周を禦ぐの方略を問う。群臣各異議す。帝何れに従うべきかを知らず。又た高元海・宋士素・盧思道・李徳林らを引いて皇太子に禅位せんことを議せんと欲す。先に、気を望む者の言う、当に革易有るべしと。ここに於いて天統の故事に依り、位を幼主に授く。

幼主

幼主の名は恒、帝の長子なり。母は穆皇后と曰う。武平元年六月、鄴に生まる。その年十月、立てて皇太子と為す。

隆化二年(577年)春正月乙亥の日、皇帝の位に即く。時に年八歳。元号を承光元年と改め、大赦を行う。皇太后を太皇太后と尊び、帝を太上皇帝とし、后を太上皇后とする。ここにおいて黄門侍郎顔之推・中書侍郎薛道衡・侍中陳德信らが太上皇帝を勧めて河外に赴き兵を募り、改めて経略を行い、もし叶わなければ南の陳国に投ずべしとす。これに従う。丁丑の日、太皇太后・太上皇は鄴より先に済州へ向かう。周の軍が次第に迫る。癸未の日、幼主もまた鄴より東へ走る。己丑の日、周軍は紫陽橋に至る。癸巳の日、城の西門を焼き、太上皇は百余騎を率いて東へ走る。乙亥の日、河を渡り済州に入る。その日、幼主は大丞相・任城王高湝に禅位し、侍中斛律孝卿に命じて禅文と璽紱を瀛州に送らせる。孝卿はこれを周に帰順する。また任城王の詔として、太上皇を無上皇と尊び、幼主を守国天王とす。太皇太后は済州に留め置き、高阿那肱を留守に遣わす。太上皇は皇后とともに幼主を連れて青州へ走り、韓長鸞・鄧颙ら数十人が従う。太上皇は青州に至ると、すぐに陳に入る計略を立てる。しかし高阿那肱が周軍を呼び寄せ、斉主を生け捕りにすることを約す。そしてたびたび人を遣わして告げ、賊軍は遠くにあり、すでに人をして橋路を焼き断たせたと云う。太上がゆえに停頓し緩慢となる。周軍がたちまち青州に至り、太上は窮迫し急ぎ、陳に逃れんとし、金の囊を鞍の後に置く。長鸞・淑妃ら十数騎とともに青州南の鄧村に至り、周の将軍尉遅綱に捕らえられ、鄴に送られる。周の武帝は賓主の礼をもって抗礼し、太后・幼主・諸王とともに長安に送られる。帝を温国公に封ず。

建徳七年(578年)に至り、宜州刺史穆提婆と謀反を企てたと誣告され、高延宗ら数十人とともに、老若を問わず皆死を賜る。神武帝の子孫で存命する者は一二に過ぎず。大象(579-580年)の末に至り、陽休之・陳德信らが大丞相隋公(楊堅)に啓上し、収葬を請う。これを聴き、長安北原の洪瀬川に葬る。

帝は幼少より聡明で善良であったが、成長するにつれ、やや文章を綴ることを学び、文林館を設置して諸文士を招いた。しかし言葉は訥弁で、志量・風度がなく、朝士に会うことを好まず、寵愛された私的な昵近の者でなければ、言葉を交わすことはなかった。性質は懦弱で人に堪えず、見つめられるとすぐに怒り責めた。奏事する者は、三公・ 尚書令 しょうしょれい ・録尚書事といえども仰ぎ見ることを得ず、皆大旨を略述し、驚いて走り去った。災異・寇盗・水旱のたびごとに、みずからを貶損することもなく、ただ各所で斎会を設け、これをもって徳を修めるとした。巫覡を深く信じ、解釈と祈祷には方策がなかった。初め、瑯邪王が挙兵した時、報告者が誤って庫狄伏連の反逆と云ったが、帝は「これは必ず仁威(高儼の字)である」と云った。また斛律光の死後、諸武官が高思好を大将軍に推挙したが、帝は「思好は反逆を好む」と云った。いずれもその言の如くであったので、ついに自ら策に遺算なしとし、ますます驕り放縦となった。盛んに「無愁の曲」を作り、帝みずから胡琵琶を弾じてこれを歌い、侍従して唱和する者百数を数え、世間ではこれを無愁天子と称した。かつて出て群れをなす病人(厲鬼)を見て、ことごとく殺した。あるいは人を殺し、面の皮を剥いでこれを見た。陸令萱・和士開・高阿那肱・穆提婆・韓長鸞らに天下を宰制させ、陳徳信・鄧長颙・何洪珍が機権に参与した。各々親党を引き立て、非分の地位に抜擢し、官は財によって進み、獄は賄によって成り、その政を乱し人を害する所以は、備えて記し難い。諸官の奴婢・閹人・商人・胡戸・雑戸・歌舞人・見鬼人で濫りに富貴を得た者は、万を以て数えよう。庶姓で王に封ぜられた者は百数を数え、もはや記録し得ず、開府儀同三司は千余、儀同三司は数えきれない。領軍将軍は一時に三十人おり、文書を連判するに、各々「依」の字を書き、姓名を具えず、誰であるか知る由もなかった。諸貴寵の祖・父を追贈するに、官位は年に一度進め、極位に至って止む。宮掖の婢でさえ郡君に封ぜられ、宮女で宝衣玉食の者は五百余人。

一つの裙(裳)の値は一万匹、鏡台の値は千金、競って奇巧を凝らし、朝に衣て夕に弊れる。武成帝の奢侈華麗を受け継ぎ、帝王当然のことと為す。さらに宮苑を増築し、偃武修文台を造り、その嬪嬙諸院の中に、鏡殿・宝殿・瑇瑁殿を建て、丹青彫刻は当時に妙を極めた。また晋陽に十二院を建て、その壮麗は鄴下を超えた。愛好は恒常でなく、しばしば毀してはまた復した。夜は火を以て照らして作事し、寒さには湯を以て泥と為す。百工は困窮し、休息する時なし。晋陽の西山を鑿って大佛像と為し、一夜に油万盆を燃やし、光は宮内を照らした。また胡昭儀のために大慈寺を建て、未完成のうちに穆皇后の大宝林寺と改む。工巧を窮め極め、石を運び泉を埋め、労費は億を数え、人牛の死者は勝げて記し難し。御馬には氈罽を敷き、食物は十余種あり、牝牡を合わせんとする時は青廬を設け、牢饌を具えて親ら観る。犬には梁肉を飼い、馬や鷹犬には儀同・郡君の号があった。故に赤彪儀同・逍遙郡君・陵霄郡君あり。高思好の書に所謂「馱龍」「逍遙」はこれである。犬には馬上に褥を設けてこれを抱き、闘鶏もまた開府と号した。犬馬鶏鷹は多く県幹(封戸)を食んだ。鷹の飼育されるものは、少しずつ犬の肉を割いてこれを飼い、数日にして死に至る。また華林園に貧窮の村舎を立て、帝みずから弊衣を着て乞食児と為る。また窮児の市を設け、躬自交易す。西辺の諸城を模写して築き、黑衣(宦官か)を羌兵と為し、鼓噪してこれを陵ぎ、親ら内参を率いて臨み拒み、あるいは実に弓を彎げて人を射る。晋陽より東巡し、単馬を馳せ騖け、衣は解け髪は散らして帰る。また不急の務を好み、かつて一夜に蠍を求め、旦に至り三升を得た。特に非時の物を愛し、求め取るは火急で、皆朝に徴し夕に辦ぜしめねばならなかった。権勢ある者はこれに乗じ、一を貸して十を責めた。賦斂は日々重く、徭役は日々煩わしく、人力既に尽き、帑蔵は空竭す。ここにおいて諸佞幸に官を売ることを賜い、ある者は郡を二つ三つ得、ある者は県を六つ七つ得、各々州郡を分け、下って郷官に逮るも、多くは中旨によって降された。故に「敕用州主簿」「敕用郡功曹」あり。ここにおいて州県の職司は多く富商大賈より出で、競って貪縦を為し、人の聊生するなし。鄴都および諸州郡よりして、所在征稅、百端俱に起こり、凡そこれらの諸役は皆武成帝の時に始まり、帝に至って増広された。しかし帷薄の淫穢は嘗て有らず、ただこの事は武成帝より優れていると云う。

初め、河清(562-565年)の末、武成帝が大猬が 鄴城 ぎょうじょう を攻め破る夢を見たので、境内の猬の膏を索めてこれを絶たんとした。識者は後主の名声(「緯」か)が猬と相協うことを以て、斉の亡ぶ徴と為す。また婦人は皆髪を剪り剔いで仮髻を着け、危く邪にして、その状は飛鳥の如く、南面に至れば髻の心は正しく西を指す。始め宮内にこれを為し、四方遠くに及ぶ。天意は若し「元首翦落し、危側にして、西に走るべし」と云わんとするか。また刀子を為す者、刃は皆狭細にして、名付けて「尽勢」と曰う。遊童の戯れる者は、好んで両手に縄を持ち、地を拂って却って上に跳び、かつ「高末」と唱う。高末の言は、蓋し高氏の運祚の末なり。然らば則ち乱亡の数は、蓋し兆し有りと云うべし。

論ずるに、

論ずるに、武成帝は風度が高く爽やかで、経略と計算は広大長遠であり、文武の官はともに謀略と力を尽くし、帝王の度量があった。しかし、凡庸な小人物を愛でて親しみ、朝政の権を委ね、帷幔の間においては淫侈が度を過ぎ、滅亡の兆しはここにあると言えようか。天象が変異を告げ、皇位を元子に伝えたが、名号は異なれども、政事はなお己が出すところであった。その跡には虚飾があり、事は典憲に非ず、聡明をもって下に臨むこと、どうして容易に欺くことができようか。また、河南王・河間王・楽陵王などの諸王は、あるいは時の嫌疑により、あるいは猜忌により、皆罪なくして斃れ、いわゆる天命を知り天道に任せてその大義を体するものではなかった。後主は中庸の資質を持ちながら、染まりやすい性質を抱き、先人の訓戒を永く語りながら、教えは義方に非ず。繈褓の時より、位を伝えるに至るまで、正人と隔たり、その善道を閉ざした。徳を養う所の履み行いは、春に誦し夏に弦するものとは異なり、庭を過ぎて聞く所は、軌に非ず物に非ざるものばかりであった。中官や乳母を以て輔け、麗色と淫声を以て属し、巘紲の娯楽を縦にし、朋淫の好みを恣にした。語に曰く「悪に従うこと崩るるが若し」とは、その易きを言うのである。武平年間の御世においては、ますます淪胥するを見、朝士と接すること稀で、政事に親しまず、一日万機の務めを凶族に委ねた。内には帷幄に侍し、外には詔勅を吐き、威は風霜の如く厳しく、志は天日を回らさんとした。人を虐げ物を害し、搏み ぜい むこと厭うことなく、獄を売り官を鬻ぎ、渓壑の如く満たし難かった。重ねて名将が禍を遺し、忠臣が顕に戮せられ、浸溺の萌芽を見始めると、やがて土崩の勢いを観るに至った。周の武帝が機に乗じ、遂に区夏を混一したのは、悲しいかな。蓋し桀紂の罪人は、その亡ぶこと忽ちなり、自然の理である。

鄭文貞公魏征が総じてこれを論じて曰く、神武帝は雄傑の姿を以て、始めて覇業の基を築き、文襄帝は英明の略を以て、叛を伐ち遠きを柔げた。当時は君を喪いても君有り、師を出すに律を以てし、河陰の役では宇文氏を摧くこと反掌の如く、渦陽の戦いでは侯景を掃うこと枯れ木を拉ぐが如しであった。故に西隣を気圧し、威を南服に加え、王室はこれに頼り、東夏は心を宅すことができた。文宣帝は累世の資に因り、楽推の会に膺り、地は当璧に居り、遂に魏の鼎を遷した。譎詭非常の才を懐き、屈奇不測の智を運らし、俊乂を網羅し、明察をもって下に臨み、文武の名臣はその力を用いることを尽くした。自ら戎に親しみ塞に出で、将を命じて江に臨ませ、単于を龍城に定め、長君を梁国に納れた。外内充実し、疆場に警め無く、胡騎はその南侵を息め、秦人は東顧を敢えてせず。既にして荒淫に徳を敗り、狂を作すを念わず、善を行いて身を亡ぼすに至らずとも、余殃は以て後に伝わるに足りた。寿を終えるを得たのは幸いであり、胤嗣永からざるは宜なるかな。孝昭帝は地逼り身危うく、逆を取り順に守り、外には文教を敷き、内には雄図を蘊み、将に区域を牢籠し、函夏を奄有せんとした。享齢永からず、績用成ること無く、もし天が年を仮せば、足らしめて秦・吳をして旰食せしめ得たであろう。武成帝が即位しては、雅道陵遅し、昭帝・襄帝の風は摧けて既に墜ちた。後主に至っては、外内崩離し、衆は平陽に潰え、身は青土に擒にされた。天道は深遠にして、或いは未だ談じ易からず、吉凶は人に由り、抑も揚榷すべきであろう。斉の全盛を観るに、控帯して遐阻を制し、西は汾・ しん を包み、南は江・淮を極め、東は海隅に尽き、北は沙漠に漸った。六国の地、我れその五を獲、九州の境、彼その四を分つ。甲兵の衆寡を料り、帑蔵の虚実を校し、千里を折衝するの将、帷幄に六奇の士を比べ、二方の優劣を較ぶれば、等級を以て言を寄する無し。然れどもその太行・長城の固きは、自ら若く、江・淮・汾・ しん の険しきは、移らず、帑蔵輸税の富めるは、未だ虧けず、士庶甲兵の衆きは、缺けず。然るに前王は之を用いて余り有り、後主は之を守りて足らず、その故は何ぞや。前王の時を御するや、雨を沐い風を櫛し、その溺るるを拯いその焚かるるを救い、信あれば必ず賞し、過てば必ず罰し、安んじて之を利し、既にその存亡を共にしたれば、故にその生死を同じくするを得た。後主は然らず、人を以て欲に従い、物を損ない己を益す。墻を彫り宇を峻くし、酒を甘んじ音を嗜み、廛肆は宮園に遍き、禽色は外内に荒ぶ。晝を俾て夜と作し、水無くして舟を行い、欲する所は必ず成り、求める所は必ず得た。既に軌に非ず物に非ず、又聴受に暗く、忠信は聞こえず、萋斐必ず入る。人を視ること草芥の如く、悪に従うこと順流の如く、佞閹は当軸の権に処り、婢媼は回天の力を擅にす。官を売り獄を鬻ぎ、政を乱し刑を淫にし、刳剒は忠良に被り、祿位は犬馬に加わる。讒邪並び進み、法令多く聞こえ、瓢を把る者は百人に止まらず、樹を揺する者は一手に非ず。ここに於いて土崩瓦解し、衆叛親離し、周道を顧み瞻れば、皆西帰の志有り。方に更にその宮観を盛んにし、窮極まで荒淫を極め、黔首の誣う可きを謂い、白日を指して自ら保たんとす。倒戈の旅を駆り、前歌の師に抗い、五世の崇基、一挙にして滅び、豈に金石を鐫る者は功を為し難く、枯朽を摧く者は力を為し易きに非ずや。抑も又聞く、「皇天親無く、唯だ徳を輔く」、「天時は地利に如かず、地利は人和に如かず」と。斉は河清の後より、武平の末に逮るまで、土木の工息まず、嬪嬙の選已む無し。征稅尽き、人力殫き、物産その求に給する無く、江海その欲を贍うこと能わず。いわゆる火既に熾えたり、更に薪を負いて以て之を足し、数既に窮まれり、又悪を為して以て之を促す。大廈の燔えず、期を延べて歴を過ぎんことを求むるは、亦難からずや。これに由りて言えば、斉氏の敗亡は、蓋し亦人に由る、惟だ天道に匪ず。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻008