顕祖文宣帝
武定五年、神武帝が崩御したが、なお凶事を秘し、衆情は疑い驚いた。帝は内に巨痛を抱えながらも、外見は平常の如く、人情は頗る安んじた。魏帝(東魏孝静帝)は帝に尚書令・中書監・京畿大都督を授けた。
七年八月、文襄帝が賊に遇った時、帝は城東の双堂におり、事は倉卒に出たので、内外震駭した。帝は神色を変えず、指揮して部署を分け、自ら賊を細切れに斬りその首を漆塗りにし、喪を発することを秘した。ゆるやかに「奴が反逆し、大將軍が傷ついたが、大した苦しみはない」と言った。当時、内外これに驚異としない者はなかった。そこで魏朝を諷して皇太子を立てさせ、これにより大赦を行った。そして晉陽に赴き諸政を総べた。帝は内には明察であるが、外見は理解していないようであり、老臣や宿将は皆帝を軽んじた。ここにおいて帝は誠を推して下に接し、務めて寛厚に従い、事で不便なものは全て除き省いたので、衆情は初めて服した。
八年正月辛酉、魏帝は文襄帝のため東堂で哀悼の礼を行った。戊辰、詔して帝の位を進め、使持節・丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行臺・斉郡王とし、食邑一万戸とした。三月庚申、また斉王に進封し、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間の五郡を食邑とし、邑十万戸とした。帝が晉陽に居るようになってから、寝室は毎夜昼の如き光があった。王となった後、人が筆で己の額を点ずる夢を見た。朝、館客の王曇哲に語ると、「私は退くのであろうか」と言った。曇哲は拝賀して「王の上に点を加えれば主となります、進まれるべきです」と言った。五月辛亥、帝は鄴に行った。光州が九尾の狐を獲て献上した。甲寅、魏帝は兼太尉の彭城王元韶・司空の潘相楽を使わし冊書を奉り、帝の位を相国に進め、百揆を総べさせ、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間・高陽・章武・定州の中山・常山・博陵の十郡を食邑とし、邑二十万戸とし、九錫の殊礼を加え、斉王は元の如くとした。丙辰、魏帝は別宮に位を譲り、また兼太尉の彭城王元韶・兼司空の敬顕侊を使わし冊書を奉り禅位させ、璽書を帝に致し、併せて皇帝の璽綬を奉り、禅代の礼は全て唐・虞・漢・魏の故事に依った。帝は累表して固く辞したが、詔して許さなかった。ここにおいて尚書令の高隆之が百官を率いて即位を勧めた。
八月、詔して郡国に黌序を修立せしめ、髦俊を広く延いて儒風を敦述せしめ、その国子学生も亦旧に依りて銓補す。往者文襄皇帝の運びし蔡邕の石経五十二枚を、移して学館に置き、次に依りて修立す。また詔して直言正諫の士を求め、不次を以て待ち、牧人の官を命じて農桑を広く勧めしむ。庚寅の日、詔して曰く、「朕虚薄を以て、王業を嗣ぎ弘めんとす。思うに盛績を賛揚し、之を万古に播さんとする所以なり。史官筆を執り、聞く有りて墜つること無しと雖も、猶ほ緒言遺美、時に或いは未だ書かざるを恐る。位に在る王公・文武大小、降りて庶人に及び、爰に僧徒に至るまで、或いは親しく音旨を奉じ、或いは承伝旁説する所、凡そ文籍に載すべきものは、悉く条を分けて封上せよ」と。甲午の日、詔して曰く、「魏世に議定せし麟趾格は、遂に通制と為り、官司施用すれども、猶ほ未だ尽く善からず。群官更に論討して新令を定むべし。成らざるの間は、仍って旧格を以て事に従う」と。九月癸丑の日、領東夷校尉・遼東郡開国公・高麗王高成を以て使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷校尉とし、王・公は故の如し。丁卯の日、詔して梁の侍中・使持節・仮黄鉞・都督中外諸軍事・大将軍・承制邵陵王蕭綸を以て梁王とす。庚午の日、晋陽に行幸す。この日、皇太子涼風堂に入り居り、国を監す。冬十月己卯の日、法駕し、金輅に御し、晋陽宮に入り、内殿にて皇太后に朝す。辛巳の日、曲赦して并州太原郡晋陽県及び相国府四獄の囚とす。乙酉の日、特進元韶を以て尚書左僕射とし、并州刺史段韶を右僕射とす。壬辰の日、相国府を罷め、騎兵・外兵曹を留め、各々一省を立て、別に機密を掌らしむ。十一月、周の文帝師を帥いて陝城に至り、騎を分かち北に渡り建州に至る。甲寅の日、梁の湘東王蕭繹使いを遣わして朝貢す。丙寅の日、帝親しく戎を出し城東に次す。周の文帝軍容の厳盛なるを見て、歎じて曰く、「高歓死せず!」と。遂に班師す。十二月辛丑の日、車駕晋陽より至る。是歳、高麗・蠕蠕・吐谷渾・庫莫奚並びに使いを遣わして朝貢す。
四年春正月丙子、山胡が離石戍を囲む、帝は親征す。未だ至らざるに逃ぐ、ここに三堆戍を巡り、大いに狩猟して還る。戊寅、庫莫奚は使いを遣わして朝貢す。魏末より永安銭を用い、また数品あり、皆軽薄濫悪なり、己丑、新銭を鋳造し、文に常平五銖と曰う。二月、蠕蠕の鐵伐の父登注及び子庫提を送り返して北に還す。鐵伐はまもなく契丹に殺され、国人はまた登注を立てて主とす、やがてその大人阿富提らに殺され、国人はまた庫提を立てて主とす。夏四月、車駕は宮に還る。戊午、西南に雷の如き大声あり。五月庚午、林慮山において狩猟を校閲す。戊子、宮に還る。六月甲辰、章武王厙狄干薨ず。秋、北に冀・定・幽・安を巡り、やがて北に契丹を討つ。冬十月丁酉、車駕は平州に至り、ここに西道より長塹に向かう。甲辰、帝は歩いて山嶺を踰え、士卒に先立ち、指麾奮撃し、契丹を大いに破る。この行、帝は頭を露わし身を袒ぎ、昼夜休まず、千余里を行き、ただ肉を食い水を飲むのみ、気色ますます厲し。丁巳、碣石山に登り、滄海に臨む。十一月己未、帝は平州より還り、ここに晉陽に至る。閏月壬寅、梁の人使いを遣わして来聘す。十二月己未、突厥また蠕蠕を攻め、蠕蠕は挙国して来奔す。癸亥、帝は北に突厥を討ち、蠕蠕を迎え入れんとす。ここにその主庫提を廃し、阿那瓌の子菴羅辰を立てて主とし、これを馬邑川に置く。朔方において突厥を追う、突厥は降を請う、これを許して還る。ここより貢献相継ぐ。
六年春正月壬寅、清河王岳は江を渡り、夏首を剋す。梁の司徒・郢州刺史陸法和は降を請う。詔して梁の貞陽侯蕭明を以て梁主と為し、尚書右僕射・上党王渙を遣わしてこれを江南に送らしむ。二月甲子、陸法和を以て使持節・都督十州諸軍事・太尉・大都督・西南道大行臺と為す。三月丙戌、上党王渙は東関を剋ち、梁の将裴之横を斬る。丙申、車駕は晉陽より至る。文襄の二子を封じ、孝珩を広寧王、延宗を安德王と為す。戊戌、帝は昭陽殿に臨みて獄を決す。この月、寡婦を発して軍士に配し長城を築かしむ。夏五月、蕭明は建業に入る。六月甲子、河東王潘相樂薨ず。壬申、帝は親しく蠕蠕を討つ。甲戌、諸軍は祁連池に大会す。乙亥、塞を出で、厙狄谷に至る、百余里水泉無く、六軍は渇乏す、俄かに大雨。秋七月己卯、帝は白道に頓し、輜重を留め、みずから軽騎五千を率い、蠕蠕を追う。壬午、これを懐朔鎮に及ぶ。帝はみずから矢石を犯し、頻りに大いにこれを破り、ここに沃野に至る。壬辰、晉陽に還る。九月己卯、車駕は晉陽より至る。冬十月、梁の将陳霸先は襲って王僧辯を殺し、蕭明を廃し、また蕭方智を立てて主とす。辛亥、行幸して晉陽に至る。十一月、梁の秦州刺史徐嗣徽・南豫州刺史任約らは襲って石頭城を拠え、ともに州を以て内附す。壬辰、大都督蕭軌は衆を帥いて江に至り、都督柳達摩らを遣わして江を渡り、石頭を鎮守せしむ。己亥、太保・清河王岳薨ず。柳達摩は霸先に攻め逼られ、石頭を以て降る。この歳、高麗・庫莫奚ともに使いを遣わして朝貢す。詔して夫一百八十万人を発し長城を築かしむ、幽州北の夏口より、西は恒州に至る九百余里。
七年春正月辛丑、司空侯莫陳相を白水郡王に封ず。車駕、晋陽より至る。鄴城西にて馬射を行い、大いに衆庶を集めて之を観る。二月辛未、詔して常山王演らに涼風堂にて尚書奏案を読ましめ、得失を論定せしめ、帝自ら之を決す。三月丁酉、大都督蕭軌ら衆を率いて江を渡る。夏四月乙丑、儀同三司婁叡、魯陽蛮を討ち、大いに之を破る。丁卯、金華殿を造る。五月、漢陽王洽薨ず。帝、肉を以て慈を断つと為し、遂に復た食わず。六月乙卯、蕭軌ら梁の師と鍾山の西にて戦い、霖雨に遇い利を失い、軌及び都督李希光、王敬寶、東方老、軍司裴英起並びに没し、士卒還る者は十二三なり。乙丑、梁の湘州刺史王琳、馴象を献ず。秋七月乙亥、周の文帝殂す。是の月、山東の寡婦二千六百人を発して軍士に配し、夫有りて濫りに奪わる者十二三なり。十一月壬子、州三、郡百五十三、県五百八十九、鎮三、戍二十六を併省す。十二月庚子、魏の恭帝、周に位を遜る。是の歳、庫莫奚、契丹使いを遣わして朝貢す。三臺宮殿を広く修む。先に、西河の総秦戍より長城を築き東は海に至り、前後築く所、東西凡そ三千余里、六十里毎に一戍を置き、其の要害に州鎮を置くこと凡そ二十五所なり。
九年春二月丁亥、罪人を降す。己丑、詔して燎野は仲冬を限りとし、他時に火を行い昆虫草木を損ずることを得ず。三月丁酉、車駕晋陽より至る。夏四月辛巳、大赦す。是の月、北豫州刺史司馬消難、城を以て周に叛く。大旱あり、帝祈雨して降らざるを以てし、西門豹祠を毀ち、其の冢を掘る。五月辛丑、尚書令長広王湛を録尚書事と為し、驃騎大将軍平秦王帰彦を右僕射と為す。甲辰、前左僕射楊愔を尚書令と為す。六月乙丑、帝晋陽より北巡す。己巳、祁連池に至る。戊寅、晋陽に還る。是の夏、山東大いに蝗あり、人夫を差して捕え之を坑う。秋七月辛丑、畿内の老人劉奴等九百四十三人に版職及び杖帽を給し、各差有り。戊申、詔す、趙、燕、瀛、定、南営の五州、及び司州の広平、清河の二郡、去年螽澇にて田を損じ、兼ねて春夏雨少なく、苗稼薄き者は、今年の租税を免ず。八月乙丑、車駕晋陽より至る。甲戌、行幸して晋陽に至る。先に、丁匠三十余万人を発して鄴に三臺を営み、其の旧基に因りて高く博くし、大いに宮室及び遊豫園を起こす。是に至り、三臺成る。銅爵を改めて金鳳と曰い、金武を聖応と曰い、冰井を崇光と曰う。冬十一月甲午、車駕晋陽より至る。三臺に登り、乾象殿に御し、群臣に朝宴す。新宮成るを以てし、丁酉、内外に大赦し、文武の官並びに一大階を進む。丁巳、梁の湘州刺史王琳使いを遣わして蕭莊を立てて梁主と為すを請い、仍って江州を内属せしめ、庄をして之に居らしむ。十二月癸酉、詔して梁王蕭莊を以て梁主と為し、進めて九派に居らしむ。戊寅、太傅可朱渾道元を太師と為し、司徒尉粲を太尉と為し、冀州刺史段韶を司空と為し、録尚書事常山王演を大司馬と為し、録尚書事長広王湛を司徒と為す。大荘厳寺を起こす。是の歳、永安王浚、上党王渙を殺す。
十年春正月戊戌、司空侯莫陳相を大将軍と為す。辛丑、太尉長楽郡公尉粲、肆州刺史濮陽公婁仲遠並びに爵を進めて王と為す。甲寅、行幸して遼陽の甘露寺に至る。二月丙戌、帝甘露寺に於いて禅居深観し、唯だ軍国の大政のみ奏聞す。三月戊戌、侍中高徳正を尚書右僕射と為す。丙辰、車駕遼陽より至る。是の月、梁主蕭莊郢州に至り、使いを遣わして朝貢す。夏閏四月丁酉、司州牧彭城王浟を以て司空を兼ね、侍中高陽王湜を尚書左僕射と為す。乙巳、兼司空彭城王浟を以て兼太尉と為し、司空の事を摂せしめ、皇子紹廉を長楽王に封ず。五月癸未、始平公元世、東平公元景式等二十五家を誅し、特進元韶等十九家を禁止す。尋いで並びに之を誅し、男子は少長無く皆斬り、殺す所三千人、並びに漳水に投ず。六月、陳の武帝殂す。秋八月戊戌、皇子紹義を広陽王に封ず。尚書右僕射河間王孝琬を左僕射と為す。癸卯、詔す、諸軍人の内、或いは父祖姓を改めて元氏に冒入し、或いは仮託携認して妄りに姓元と称する者は、世数の遠近を問わず、悉く本姓に改復するを聴す。是の月、左僕射高徳正を殺す。九月己巳、行幸して晋陽に至る。
帝は沈着聡明にして遠大な度量あり、外見は愚鈍の如くとも、内には明らかに鑑識す。文襄(高澄)は年長にして英秀、神武(高歓)は特にこれを愛重し、百官はその風に承け、震懼せざる者なし。されど帝はよく自ら跡を晦まし、言を口にせず、常に自ら貶退し、言はことごとく従順なり、故に深く軽んぜられ、家人と雖も及ばずと為す。文襄が業を嗣ぐや、帝は次男として長ずるが故に猜嫌を受け、帝の后たる李氏は色美にして、宴會に預かる毎に、容貌は遥かに靖德皇后を超え、文襄はますます不平を抱く。帝は毎に后のために私的に服飾や玩好を調え、少しでも佳きものあれば、文襄は即ち逼取せしむ。后は憤り、時に与えざることあり。帝は笑いて曰く「此の物は猶お求むべきなり、兄が須うるに、何ぞ吝しむを容れんや」と。文襄は或いは愧じて取らず、帝は便ち恭しく受け、また飾り譲ることもなし。毎に退朝して邸に還れば、輒ち閤を閉じて静坐し、妻子に対するも、能く竟日言わず。或いは袒裼跣足して奔躍す、后が其の故を問うと、対えて曰く「爾が為に漫に戯るるなり」と。これ蓋し労苦に習うて肯て言わざるなり。寝所は夜に至りて嘗て光あり、巨細察する可く、后驚きて帝に告ぐ、帝曰く「慎んで妄りに言う勿れ」と。此れより唯だ后と寝し、侍御は皆な外に出だすことを命ず。
文襄崩じ、喪を発せず秘す、其の後漸く露はる、魏帝(孝静帝)窃かに左右に謂いて曰く「大将軍此れ殂す、天意に似たり、威権は当に王室に帰すべし」と。帝が晋陽に赴かんとするに及び、親しく昭陽殿に入り辞謁し、従者は千人、前に居て剣を執る者十余輩。帝は殿下数十歩に立ちて、而して衛士が階を升るや已に二百許り、皆な袂を攘げて刃を扣き、厳敵に対するが若し。帝は主者に伝奏せしめ、須らく晋陽に詣でんとす、言い訖りて、再拝して出づ。魏帝は色を失い、目を送って帝に曰く「此人は見容れられざるに似たり、吾れ何れの日に死するかを知らず」と。并州に至るに及び、将士を慰諭し、措辞は款実なり。衆皆な欣然として曰く「誰か左僕射(高洋)が令公に減ぜずと謂わんや」と。令公とは即ち文襄を指す。
時に訛言ありて上党に聖人出ずと、帝これを聞き、一郡を徙さんとす。而して郡人張思進上言す、殿下は南宮に生まれ、坊の名は上党、即ち是れ上党に聖人出ずるなりと、帝悦びて止む。先ず是れ童謡ありて曰く「一束の藁、両頭然ゆ、河辺の羖䍽天に飛ぶ」と。藁然ゆる両頭は、文に於いて高と為し、河辺の羖䍽は水辺の羊、帝の名(洋)を指すなり。ここに於いて徐之才盛んに宜しく受禅すべきを陳ぶ。帝曰く「先父亡兄、功德かくの如く、尚お終に北面す、吾れ又何ぞ敢えて当たらんや」と。之才曰く「正に父兄に及ばざるが故に、須らく早く九五に升り、もし其れ作さざれば、人将に心を生ぜん。且つ讖に云う『羊盟津を飲み角天を拄つ』と、盟津は水なり、羊水を飲むは王の名なり、角天を拄つは大位なり。又た陽平郡界面星驛の傍に大水あり、土人は常に群羊数百を見る、立ち臥す其の中に、就きて視れば見えず、事讖と合う、願わくは王疑う勿れ」と。帝は高徳正に問う、徳正またこれを賛成す、ここに於いて始めて決す。乃ち李密をしてこれを卜せしむ、大横に遇う、曰く「大吉、漢文帝の卦なり」と。帝は乃ち象を鋳て以てこれを卜し、一写にして成る。段韶をして肆州に於いて斛律金に問わしむ、金来朝し、深く不可を言い、鎧曹宋景業が首めて符命を陳ぶるを以て、請うて之を殺さんとす。乃ち太后の前に於いて議す。太后諸貴に謂いて曰く「我が児は獰直、必ず自ら此の意無からん、直に高徳正禍を楽しみ、之を教うるのみ」と。帝意決し、乃ち兵を整えて東す。高徳正をして鄴に之かしめ、公卿を諷諭せしむ、応ずる者莫し。司馬子如遼陽に於いて帝を迎え、固く未だ可からずと言う。杜弼もまた馬を抱いて諫め、帝還らんと欲す、尚食丞李集曰く「此の行事小ならず、而して還ると言うや」と。帝偽りに東門に向かい之を殺さしめよと言い、而して別に絹十疋を賜うことを令す。四月、夜、禾魏帝の銅研に生じ、旦に数寸長じ、穂あり。五月、帝また東して鄴に赴き、左右に令して曰く「異言する者は斬れ」と。是の月、光州九尾狐を献ず。帝鄴城南に至り、召し入れ、并せて板策を齎す。旦、高隆之進み謁して曰く「此を用いて何を為さん」と。帝色を為して曰く「我自ら事を作す、若し族滅せんと欲するか」と。隆之謝して退く。ここに於いて乃ち円丘を作り、法物を備え、禅譲の事を草す。
極位に登りし後、神明転た茂く、外は柔らかにして内は剛く、断割に果敢にして、人窺う能わず。又た特に吏事に明るく、政術に心を留め、簡靖寛和にして、任使に坦かに、故に楊愔らは匡賛に尽くすを得、朝政粲然たり。兼ねて法を以て下を馭し、権貴を避けず、或いは違犯あるも、勲戚を容れず、内外粛然たる莫し。軍国の機策に至りては、独り懐抱に決し、規謀宏遠にして、人君の大略あり。又た三方鼎峙するを以て、甲を繕い兵を練り、左右の宿衛に、百保軍士を置く。毎に行陣に臨み、親しく矢石に当たり、鋒刃交接するも、唯だ前敵多からざるを恐る。屡々艱厄を犯し、常に剋捷を致す。嘗て蠕蠕を追い及び、都督高阿那肱をして騎数千を率い、其の走道を塞がしむ。時に虜軍猶お盛んにして、五万余人。肱兵少なきを以て益すを請う、帝更に其の半騎を減ず。那肱奮撃し、遂に之を大破す。虜主は巌谷を踰越し、僅かに身を以て免る。都督高元海・王師羅並びに武藝無く、先ず怯弱を称す、一旦交鋒するや、驍壮を踰ゆることあり。嘗て東山に游宴し、関隴未だ平らかならざるを以て、杯を投げ震怒し、魏收を前に召し、立って詔書と為し、遠近に宣示し、将に事として西行せんとす。是の歳、周文帝(宇文泰)殂し、西人震恐し、常に隴を度るの計を為す。
既に征伐四克し、威は戎夏に振るうも、六七年の後、功業を以て自ら矜り、遂に情に留まり耽湎し、淫暴を行なうこと肆りなり。或いは躬自鼓舞し、歌謳息まず、旦より通宵に、夜を以て晝に継ぐ。或いは形體を袒露し、粉黛を塗傅し、髪を散らし胡服を着け、錦綵を雑衣し、刃を抜き弓を張り、巿肆を游行す。勲戚の第には、朝夕臨幸す。時に鹿車・白象・駱駝・牛・驢に乗り、並びに鞍勒を施さず。或いは盛暑炎赫の時、日中に身を暴し、隆冬酷寒の時、衣を去りて馳走し、従者堪えずと雖も、帝は之に居て自若たり。街に坐し巷に宿し、処々に游行す。多く劉桃枝・崔季舒に負わせて行かしむ。或いは胡鼓を担ぎて之を拍つ。親戚貴臣、左右近習、侍従錯雑し、復た差等無し。淫嫗を徴集し、悉く衣裳を去らしめ、従官に分付し、朝夕臨視せしむ。或いは棘を聚めて馬と為し、草を紐て索と為し、逼遣して騎乗せしめ、牽引して来去せしめ、流血地に灑ぎ、以て娛樂と為す。凡そ諸の殺害は、多く支解を令し、或いは之を火に焚き、或いは之を河に投ず。沈酗既に久しく、弥よ以て狂惑し、毎に将に酔わんとするに至りては、輒ち剣を抜き手に掛け、或いは弓を張り矢を傅え、或いは牟槊を執持す。巿廛を游行し、婦人に問いて曰く「天子は何如」と。答えて曰く「顛顛癡癡、何ぞ天子を成さん」と。帝乃ち之を殺す。或いは衢路に馳騁し、錢物を散擲し、恣りに人をして拾取せしめ、爭競諠譁するを、方に喜びと為す。
太后はかつて北宮におり、小さな腰掛けに座っていた。帝はすでに酔っており、自ら床を持ち上げたので、太后は墜落し、かなりの傷を負った。酔いが醒めた後、大いに恥じ悔やみ、遂に多くの柴火を集めさせ、太后をその中に入れようとした。太后は驚き恐れ、自ら引き留めた。また地席を設け、平秦王高帰彦に杖を持たせ、口で自ら罪状を述べ、背中を脱いで罰を受けようとした。帝は帰彦に命じて、「杖で血が出なければ、直ちに汝を斬る」と言った。太后は涙を流し、前に進んで帝を抱きしめ、帝も涙を流して苦しく請うたが、太后からの許しを受けようとはしなかった。太后が聞き許すと、ようやく背中への杖を止め、足を五十回打ち、ことごとく徹底した。帝は衣冠を整えて拝謝し、悲しみに耐えられず、これにより酒を戒めた。十日後、また元のようになった。以来、耽溺はますます激しくなった。遂に李后の家に行幸し、鳴鏑で后の母崔氏を射ると、ちょうどその頬に当たり、そこで罵って言った、「我が酔っている時でさえ太后を識らなかったのだ、老婢めが何か用か!」と。馬鞭で乱打すること百回余り。三臺の構木は高さ二十七丈、両棟の距離は二百余尺、工匠は危険を恐れ、皆縄を付けて自らを防いだが、帝は棟の上を疾走し、全く怖れる様子がなかった。時には雅舞を舞い、回転しても節に合い、傍らで見る者は、寒心しない者はいなかった。また死囚を召し出し、筵を翼として、台から飛び降りさせ、その罪と刑戮を免じた。果敢でためらわない者は、ことごとく全うし、疑い恐れて躊躇する者は、あるいは損傷転落した。
深く耽溺酩酊すること久しく、次第に本性を損なった。大司農穆子容に怒り、彼に衣服を脱がせて伏させ、自ら射たが、当たらず、橛でその下の穴を貫き、腸に入った。楊愔を宰輔としながらも、彼に厠籌を進めさせた。その体が肥えているので、楊大肚と呼び、馬鞭でその背を打ち、流れる血が袍に染み渡った。刀子でその腹を切り裂こうとすると、崔季舒が俳優の言葉を借りて言った、「老いも若きも公子の悪戯は?」と。そこで刀子を引き抜いて去らせた。また楊愔を棺の中に置き、轜車に載せ、釘を打ち下ろそうとしたこと数回。かつて彭城王高浟の邸宅に行き、その母尓朱氏に言った、「そなたが我が母の婿を辱めた時を思い出すが、どうして耐えられようか」と。自ら手を下して斬殺した。また故僕射崔暹の邸宅に行き、崔暹の妻李氏に言った、「暹のことをよく憶えているか?」と。李氏は言った、「結髪の義深く、実に追憶を懐いている」と。帝は言った、「憶えているなら、自ら見に行け」と。自ら斬り、首を牆の外に棄てた。かつて晉陽にいた時、矟で戯れに都督尉子耀を刺すと、手に応じて死んだ。三臺の太光殿上で、都督穆嵩を鋸で殺した。また開府暴顕の家に行幸し、都督韓哲は無罪であったが、突然衆中から召し出し、数段に斬った。
魏の楽安王元昂は、后の姉の婿であり、その妻に色があった。帝はたびたび彼女の所に行幸し、昭儀に納れようとした。元昂を召し出して伏させ、鳴鏑で百余り射ち、凝血が垂れんとして一石ほどになり、遂に死に至った。後に帝は自ら弔問に行き、喪次で哭し、その妻を抱擁して迫った。なお従官に命じて衣服を脱がせて葬送の衣を助けさせ、兼ねて銭と綵を与え、信物と号し、一日の所得は巨万を超えようとした。后は泣いて食事をせず、姉に位を譲ることを乞い、太后もまた言上したので、帝の意はようやく解けた。寵愛した薛嬪は、その寵愛されていたが、突然、かつて高岳と私通したと思い込み、理由なく斬首し、それを懐に蔵した。東山の宴で、勧酬が始まった時、突然頭を探り出して、盆の上に投げた。その屍を支解し、その大腿骨を弄んで琵琶とした。一座は驚き怖れ、胆を喪わない者はいなかった。帝はようやくそれを取り上げ、それに向かって涙を流して言った、「佳人再得難し、甚だ惜しむべし」と。屍を載せて出て、髪を振り乱し歩きながら哭して従った。巷の凡庸で卑猥な者、人に識られることのない者であっても、突然召し出して鄴の下で斬らせた。徒罪から大辟に至る囚人を繋ぎ、簡抜して随駕させ、供御囚と号し、自ら手を下して斬殺し、それを持って戯れとした。凡そ屠害した者は、動もすれば多く支解し、あるいは烈火に投じ、あるいは漳流に棄てた。兼ねて外には長城を築き、内には臺殿を営み、賞賜費用が過度で、天下騒然とし、内外憯憯として、各々怨毒を懐いた。しかし平素より厳断して下に臨み、それに加えて黙識強記であったので、百官は戦慄し、敢えて非を行うことができなかった。かつて典御丞李集が面諫し、帝を桀紂よりも甚だしいと比べた。帝は縛って流中に置かせ、沈没すること久しく、また引き出させて言った、「我は桀紂と比べてどうか?」と。李集は言った、「先ほどより一層及ばない」と。帝はまた沈めさせ、引き出してさらに問うた。このように数回繰り返しても、李集の答えは初めのままだった。帝は大笑して言った、「天下にこのような痴漢があるとは!今にして龍逢・比干が俊物ではないと知った」と。遂に解放した。また引かれて謁見し、何か諫めようとする様子があったので、帝は引き出して腰斬させた。その斬るか赦すかは、測り知ることができなかった。
初め帝が即位した時、年号を天保と改めた。深い識見を持つ士人は言った、「天保の字は、一大人只十であり、帝は十を過ぎないであろう」と。また先に謡があった、「馬子石室に入り、三千六百日」と。帝は午年に生まれたので、「馬子」と言い、三臺は石季龍の旧居なので、「石室」と言い、三千六百日は十年である。また帝はかつて太山の道士に問うた、「我は幾年天子たるを得るか?」と。答えて言った、「三十年を得る」と。道士が出た後、帝は李后に言った、「十年十月十日、これ三十ではないか?我はそれを畏れる、これを過ぎれば憂い無し。人生に死あり、どうして惜しむことがあろうか、ただ正道(太子)がまだ幼く、人がこれを奪わんとすることを憐れむのみ」と。帝は期日に崩じ、済南王(太子殷)は遂に位を終えず、時に知命と為された。かつて晉陽に行幸し、夜に杠門嶺に宿った。嶺には数株の柏樹があり、皆千年に近く、枝葉は嫩茂で、神物が託されているようであった。時に帝はすでに酒に酔っており、嶺に向かって瞋罵し、一株に射当てると、間もなく、たちまち枯れて死んだ。また発言がたびたび当たり、時に人は故に神霊と謂った。猖獗ではあったが、専ら昏暴とは言われなかった。末年には遂に食事を摂ることができず、ただ数回酒を飲むのみで、麹糱が災いとなり、それにより斃れた。先に、霍州で楚夷王の女の冢を発掘したところ、尸は生きているようであり、珠襦玉匣を得た。帝はこれを珍重し、還って以て自らを殯した。
始祖(高)珽は険薄で過ち多く、帝はたびたび彼を罪し、毎に老賊と呼んだ。武成帝の時、高珽は任用され遇されると、武成帝に説いて言った、「文宣帝は甚だ暴虐であるのに、どうして文と称し得ようか?既に創業でないのに、どうして祖と称し得ようか?もし宣帝を祖とするならば、陛下が万歳の後、何と称するのでしょうか?」と。武成帝は高珽の説に溺れ、天統の初め、詔して謚を景烈と改め、廟号を威宗とした。武平の初め、趙彦深が執政すると、また上奏して帝の本来の謚を復し、廟号を顕祖としたという。
廃帝
初めに詔して国子博士の李宝鼎にこれを傅えさせたが、宝鼎が卒すると、再び詔して国子博士の邢峙に侍講させた。太子は年齢こそ若かったが、温かく寛大で明朗であり、人君の度量を備え、経学の業を貫通して総合し、時政を省みて覧ることに、甚だ美名があった。七年の冬、文宣帝が朝臣の文学者及び礼学官を宮中に召して宴会を開き、経義を以て互いに質疑させ、自ら臨席して聴いた。太子が自ら筆を執って質問を措定すると、座中の者は誰もが嘆美した。九年、文宣帝が晋陽に在った時、太子が国政を監理し、諸儒を集めて孝経を講義させ、楊愔に命じて旨を伝えさせ、国子助教の許散愁に言わせた、「先生は世に在って、何を以て自らを資とするか」と。散愁は答えて曰く、「散愁は少より以来、孌童の床に登らず、季女の室に入らず、簡策を服膺し、老いの将に至らんとするを知らず。平生の素懐は、斯くの如きのみ」と。太子は曰く、「顔子は屋を縮めて貞を称し、柳下は嫗して乱れずと雖も、未だ此の翁の白首にして娶らざるには若かざるなり」と。そして絹百匹を賜うた。後に文宣帝が金鳳台に登り、太子を召して囚人を手ずから斬らせた。太子は惻然として難色を示し、再三に渡ってその首を断たなかった。文宣帝は怒り、親しく馬鞭を以て太子を三度打った。これにより太子は気が悸え言葉が吃り、精神は時に昏乱するようになった。
初め、文宣帝が邢卲に命じて帝の名を殷、字を正道と制定させ、従ってこれを尤め、曰く、「殷の家は弟が及ぶ(兄終弟及)、『正』の字は一止、吾が身後にて児は得ることなからん」と。邢卲は懼れ、改めることを請うた。文宣帝は許さず、曰く、「天なり」と。因って昭帝(孝昭帝高演)に謂って曰く、「奪う時は但だ奪え、慎んで殺すこと勿れ」と。
孝昭帝
時に文宣帝は遊宴に溺れ、帝(孝昭帝高演)は憂憤し、その色に表れた。文宣帝はこれを察し、帝に言うには、「ただ汝がいる限り、我がどうして楽しみを恣にせざらんや」と。帝はただ泣き伏して拝礼し、終に言うところ無し。文宣帝もまた大いに悲しみ、杯を地に投げつけて言うには、「汝は我を嫌うらしい、今より敢えて酒を進める者は斬る」と。因って自ら用いる杯を取り、全て壊して棄てた。後にますます沈湎し、或いは諸貴戚の家に入り、力を較べて打ち拉ぎ、貴賤を限らなかった。ただ常山王(高演)が至ると、内外粛然とした。帝はまた密かに事条を撰し、諫めんとしたが、その友の王晞は不可と為し、帝は従わず、隙を窺って極言したため、遂に大いに怒りに逢う。順成后は本来魏朝の宗室であり、文宣帝は帝に彼女を離れさせんと欲し、密かに帝の為に広く淑媛を求め、その寵を移さんことを望んだ。帝は旨を承けて納れること有りと雖も、情義はますます重かった。帝の性質は頗る厳しく、尚書郎中が剖断に過失有れば、輒ち捶楚を加え、令史に姦慝有れば、即ち考竟した。文宣帝は乃ち帝を前に立たせ、刀の環を以て脅を擬え、帝に罰せられた者を召し、白刃を臨めて帝の短を求めしも、皆陳ぶる所無く、方釈然とせしむ。此れより郎中を笞箠することを許さず。後に帝に魏の時の宮人を賜うも、酔って之を忘れ、帝が擅に取れりと謂い、遂に刀環を以て乱れに築かせ、此れに因って困頓に致す。皇太后は日夜啼泣し、文宣帝は為す所を知らず。先に友の王晞を禁錮せしが、乃ち之を赦し、帝に侍らしむ。帝は月余にして漸く瘳え、敢えて復た諫めず。文宣帝の崩ずるに及び、帝は禁中に居て喪事を護り、幼主即位するや、乃ち朝班に即く。太傅・録尚書事を除かれ、朝政は皆帝に決せらる。月余にして、乃ち藩邸に居る。此れより、詔敕多く帝に関わらず。客或いは帝に言うには、「鷙鳥巣を捨つれば、必ず卵を探る患い有り、今日の地、何ぞ宜しく屡々出づべきや」と。
三月甲戌、帝初めて省に上る。旦、領軍府を発す。大風暴起こり、御する車の幔を壊す。帝甚だ之を悪む。省に至るに及び、朝士咸に集う。坐定まり、酒数行く。坐に於いて尚書令楊愔・右僕射燕子献・領軍可朱渾天和・侍中宋欽道等を執る。帝は戎服し、平原王段韶・平秦王高帰彦・領軍劉洪徽と共に雲龍門より入り、中書省の前で散騎常侍鄭子默に遇い、又之を執り、同じく御府の内に斬る。帝東閤門に至る。都督成休寧刃を抽いて帝を呵る。帝は高帰彦に之を諭さしむ。休寧は声を厲して大呼し従わず。帰彦は既に領軍たり、素より兵士に服せらるる所、皆仗を弛め、休寧方に歎息して罷む。帝入りて昭陽殿に至る。幼主・太皇太后・皇太后並びに出で御坐に臨む。帝は愔等の罪を奏し、専擅の辜に伏すを求む。時に庭中及び両廊下の衞士二千余人、皆甲を被り詔を待つ。武衞娥永樂は武力絶倫、又文宣帝に重く遇せられ、刃を撫して効を思う。廃帝は吃訥し、兼ねて倉卒、言う所を知らず。太皇太后は又皇太后に誓い、帝に異志無く、唯逼るのみと云う。高帰彦は衞士を敕労して厳を解かしむ。永樂乃ち刀を内めて泣く。帝は乃ち帰彦に侍衞の士を引かせて華林園に向かわしめ、京畿の軍を以て門閤を守らしめ、娥永樂を園に斬る。詔して帝を大丞相・都督中外諸軍・録尚書事と為す。相府の佐史は位一等を進む。帝尋いで晉陽に如く。詔有り、軍国の大政、咸に諮決すべしと。
帝は大位に当たりて後、知る所は為さざる無く、其の令典を択び、名実を考綜し、廃帝は恭己して政を聴く。太皇太后尋いで令を下し少主を廃し、命じて帝に大業を統べしむ。
九月壬申、詔して三祖の楽を議定せしむ。冬十一月辛亥、妃元氏を立てて皇后と為し、世子百年を皇太子と為し、天下に父後たる者に賜い、爵一級。癸丑、有司奏す、太祖献武皇帝の廟は宜しく武徳の楽を奏し、昭烈の舞を舞うべし。世宗文襄皇帝の廟は宜しく文徳の楽を奏し、宣政の舞を舞うべし。高祖文宣皇帝の廟は宜しく文正の楽を奏し、光大の舞を舞うべしと。詔して曰く「可」と。庚申、詔して故太師尉景・故太師竇泰・故太師太原王婁昭・故太宰章武王厙狄干・故太尉段栄・故太師万俟普・故司徒蔡雋・故太師高乾・故司徒莫多婁貸文・故太保劉貴・故太保封祖裔・故広州刺史王懷の十三人を以て太祖廟庭に配饗し、故太師清河王高岳・故太宰安德王韓軌・故太宰扶風王可朱渾道元・故太師高昂・故大司馬劉豊・故太師万俟受洛干・故太尉慕容紹宗の十一人を以て世宗廟庭に配饗し、故太尉河東王潘相楽・故司空薛脩義・故太傅破六韓常の三人を以て高祖廟庭に配饗す。是の月、帝親しく戎し北庫莫奚を討ち、長城を出づ。虜奔遁す。兵を分けて致討し、牛馬を大いに獲、括総して晉陽宮に入る。十二月丙午、車駕晉陽に至る。
帝は聡敏にして識度あり、深沈にして能く断じ、窺測すべからず。身長八尺、腰帯十囲、儀望風表、迥然として独秀す。台省に居るより、政術に心を留め、簿領に閑明にして、吏の逮ばざる所なり。宸居に正位してより、ますます克勵し、徭を軽くし賦を薄くし、人の隠れを勤めて恤う。内に私寵なく、外に人物を収む。后父といえども、位は亦た特進にして別異無し。日昃に臨朝し、務めて人の善悪を知る。毎に左右に訪問し、直言を得んことを冀う。嘗て舎人裴沢に外の議論の得失を問う。沢率爾として対えて曰く、「陛下は聡明至公、自ら遠く古昔に侔うべし。然るに識あるの士、咸く細を傷つくと言う。帝王の度、頗る未だ弘からず。」帝笑いて曰く、「誠に卿の言の如し。朕初めて万機に臨み、慮り周悉せず、故に爾る致す所なり。この事安くか久しく行うべけん、後また疏漏を嫌わんことを恐る。」沢は因って寵遇を受く。その過ちを聞くを楽むこと此の如し。趙郡王高叡と厙狄顕安が侍坐す。帝曰く、「須抜は我が同堂の弟、顕安は我が親姑の子なり。今家人の礼を序し、君臣の敬を除く。我が逮ばざる所を言うべし。」顕安曰く、「陛下は妄言多し。」曰く、「何の若何ぞ。」対えて曰く、「陛下昔、文宣が馬鞭を以て人を撻つのを見て、常に非と為す。今これを行う、妄言に非ずや。」帝はその手を握りて之に謝す。又た直言をさせしむ。対えて曰く、「陛下は太だ細し。天子乃ち更に吏に似たり。」帝曰く、「朕は甚だ之を知る。然れども法来ること久しく、将に之を整えて無為に至らんとす。」又た王晞に問う。晞の答は顕安の如し。皆従容として受け納る。
性至孝なり。太后不豫にして、南宮に出居す。帝は履を行くに正しからず、容色貶悴し、衣帯を解かず、殆ど四旬に将たらんとす。殿は南宮を去ること五百余歩、鶏鳴にして去り、辰時に方たり還る。来去徒歩し、輿輦に乗らず。太后の苦しむ所小しく増せば、便ち即ち閤外に寝伏し、飲食薬物、尽く皆躬親す。太后嘗て心痛み、自ら堪え忍ぶ能わず。帝立ちて帷前に侍し、爪を以て手心を搯み、血袖に流出す。諸弟を友愛し、君臣の隔て無し。雄勇にして謀あり。時に国富み兵強く、将に神武の遺恨を雪がんとし、意は平陽に頓駕し、進取の策を為さんとす。遠図遂げず、惜しいかな。
初め、帝は済南王と約し、相害わざることを。輿駕の晋陽に在り、武成の鄴に鎮するに及び、望気者云う「鄴城に天子気あり」。帝は済南の復興を恐れ、乃ち密かに鴆毒を行く。済南従わず、乃ち扼して之を殺す。後頗る愧悔す。初め内熱に苦しみ、頻りに湯散を進む。時に尚書令史姓趙の者あり、鄴にて文宣が楊愔・燕子献等に従いて西行するを見、言うに相与に復讎すと。帝は晋陽宮に在り、毛夫人と亦た之を見る。遂に漸く危篤に至り、禳厭の事を備え、或いは油を煑て四散に洒ぎ、或いは炬を把りて焼き逐う。諸厲方に殿梁に出で、山騎棟上に在り、歌呼自若として、了として懼るる容無し。時に天狗下る有り。乃ちその所に於いて武を講じ以て之を厭う。兔有りて馬を驚かす。帝墜ちて脇を絶つ。太后疾を視、済南の所在を問うこと三たびす。帝対えず。太后怒りて曰く、「殺し去れよ!吾が言を用いざる、死する其れ宜なり。」臨終の際、唯だ牀枕に扶服し、頭を叩きて哀を求む。使を遣わし詔して長広王を追い、大統に入り纂ぐを詔す。又た手書に云く、「宜しく吾が妻子を一つの好処に置くべし。前人に学ぶ勿れ。」
論す。
論じて曰く、神武は四方を平定し、威権己に在り。鄴に遷って後、主祭する人有りと雖も、号令の加うる所、政皆自ら出ず。文宣は鴻業に因循し、内外協従し、朝より野に及び、群心属望す。東魏の地、挙国楽推し、未だ期月せずして、遂に宸極に登る。始めは政事に心を存し、風化粛然たり。数年之間、朝野安乂す。その後酒を縦し欲を肆にし、事極めて猖狂、昏邪残暴、近代未だ有らず。饗国永からず、実にこの疾に由る。
済南は業を継ぎ、大いにその弊を革め、風教粲然たり。搢紳幸いと称す。股肱輔弼、其の誠を懐くと雖も、既に弘むるに道德を賛すること能わず、親懿を和睦すること能わず、又た遠慮して身を防ぎ、深謀して主を衞うこと能わず。断つべくして断たず、自ら其の災を取る。臣既に誅夷せられ、君尋いで廃辱せらる。皆な其の器に非ざるを任ずるの致す所なり。
孝昭は早く台閣に居り、故事通明、人吏の間、委ねざる所無し。文宣崩後、大いに前弊を革め、尊極に臨むに及び、心を留めること更深し。時人は其の明に服し其の細を譏る。情好古を稽え、率ね礼度に由る。将に先代の胤を封ぜんとし、且つ学校の風を敦くし、才賢を徴召して、文武畢く集う。時に周氏の朝政、宰臣に移り、主将相猜し、危殆無きにしも非ず。乃ち関右を眷み、実に兼并の志を懐く。経謀宏曠、諒や近代の明主なり。然るに降年永からず。その故何ぞや。豈に幽顕の塗、別に復報有るか、将に斉の基宇、止まること斯に在り、帝之を大にせんと欲すも、天許さざるか。