北史

巻第七 斉本紀中第七(巻第八へ続く)

顕祖文宣帝

顕祖文宣皇帝は諱を洋、字を子進といい、神武帝(高歓)の第二子、文襄帝(高澄)の同母弟である。武明太后(婁昭君)が帝を懐妊した初め、毎夜赤い光が室を照らし、太后はひそかに怪しんだ。出産の時、侯尼于と名付けた。鮮卑語で「貴い子」という意味である。 しん 陽に生まれたので、一名を しん 陽樂といった。当時、神武帝の家は壁が立つのみの貧しさで、后(太后)は親族と相対し、共に寒さと飢えを憂えた。帝が生まれて数か月、まだ言葉を話せぬうちに、突然「生きられる」と言った。太后と左右の者は大いに驚き、敢えて言わなかった。成長すると、色黒く、頬が大きく下顎が尖り、鱗状の皮膚と重なった踝を持ち、物を見る目は落ち着いて定まっており、遊び戯れることを好まず、深沈として大度があった。 しん 陽に沙門がおり、時に愚かに、時に智にみえ、当時の人は測り知れず、阿禿師と呼んだ。太后が諸子を見せた時、順に禄位を尋ねた。帝に至ると、再三ただ天を指さすのみで、口からは何も言わず、見る者は異と感じた。神武帝がかつて諸子を連れて鳳陽門を通った時、龍が上にいたが、神武帝と帝のみが見た。内面は明敏であるが、容貌は足りないように見え、文襄帝は毎度嗤って「この者も富貴を得るというなら、相法もどうして解せられようか」と言った。神武帝は帝の容貌が醜く、神彩が甚だ発揚していないのを以て、かつて時事について問うたところ、帝はおおよそ弁え、もし一事を語れば必ず事の核心を得た。またかつて諸子に命じ、それぞれに乱れた糸を整理させたが、帝のみは刀を抜いてこれを斬り、「乱れるものは斬らねばならぬ」と言った。神武帝はこれを然りとした。またそれぞれに兵を配して四方に出させ、彭楽に甲騎を率いさせ偽って攻撃させたところ、文襄帝らは恐れて慌てたが、帝は軍を整えて彭楽と相まみえ、楽は冑を脱いで実情を述べたが、なおもこれを捕らえて献上した。これにより神武帝は異として称え、長史の薛琡に「この児の意識は我を超えている」と言った。琡もまたひそかに怪しんだ。幼少時、范陽の盧景裕に師事し、黙して識ることは人に優れ、自ら明かすことはなかったので、景裕も測り知れなかった。天平二年、太原郡公に封ぜられ、累進して尚書左僕射に至った。後に文襄帝に従って遼陽山を通った時、ただ帝のみが天門の開くのを見たが、他にこれを見た者はなかった。

武定五年、神武帝が崩御したが、なお凶事を秘し、衆情は疑い驚いた。帝は内に巨痛を抱えながらも、外見は平常の如く、人情は頗る安んじた。魏帝(東魏孝静帝)は帝に 尚書令 しょうしょれい 中書監 ちゅうしょかん ・京畿大 都督 ととく を授けた。

七年八月、文襄帝が賊に遇った時、帝は城東の双堂におり、事は倉卒に出たので、内外震駭した。帝は神色を変えず、指揮して部署を分け、自ら賊を細切れに斬りその首を漆塗りにし、喪を発することを秘した。ゆるやかに「奴が反逆し、大將軍が傷ついたが、大した苦しみはない」と言った。当時、内外これに驚異としない者はなかった。そこで魏朝を諷して皇太子を立てさせ、これにより大赦を行った。そして しん 陽に赴き諸政を総べた。帝は内には明察であるが、外見は理解していないようであり、老臣や宿将は皆帝を軽んじた。ここにおいて帝は誠を推して下に接し、務めて寛厚に従い、事で不便なものは全て除き省いたので、衆情は初めて服した。

八年正月辛酉、魏帝は文襄帝のため東堂で哀悼の礼を行った。戊辰、詔して帝の位を進め、使持節・丞相・ 都督 ととく 中外諸軍・録尚書事・大行臺・斉郡王とし、食邑一万戸とした。三月庚申、また斉王に進封し、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間の五郡を食邑とし、邑十万戸とした。帝が しん 陽に居るようになってから、寝室は毎夜昼の如き光があった。王となった後、人が筆で己の額を点ずる夢を見た。朝、館客の王曇哲に語ると、「私は退くのであろうか」と言った。曇哲は拝賀して「王の上に点を加えれば主となります、進まれるべきです」と言った。五月辛亥、帝は鄴に行った。光州が九尾の狐を獲て献上した。甲寅、魏帝は兼太尉の彭城王元韶・ 司空 しくう の潘相楽を使わし冊書を奉り、帝の位を相国に進め、百揆を総べさせ、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間・高陽・章武・定州の中山・常山・博陵の十郡を食邑とし、邑二十万戸とし、九錫の殊礼を加え、斉王は元の如くとした。丙辰、魏帝は別宮に位を譲り、また兼太尉の彭城王元韶・兼 司空 しくう の敬顕侊を使わし冊書を奉り禅位させ、璽書を帝に致し、併せて皇帝の璽綬を奉り、禅代の礼は全て唐・虞・漢・魏の故事に依った。帝は累表して固く辞したが、詔して許さなかった。ここにおいて 尚書令 しょうしょれい の高隆之が百官を率いて即位を勧めた。

天保元年夏五月戊午、皇帝は南郊で即位し、壇に登り、柴を焚いて天に告げた。この日、鄴の下で赤い雀を獲て、郊祀の場所に献上した。事が終わって宮に還り、太極前殿に御し、大赦を行い、元号を改めた。百官は二階級進め、六州の辺境に職務する者は三階級進めた。魏の孝荘帝以後、百官の禄は絶えていたが、ここに至って再び給することとなった。己未、詔して魏帝を中山王に封じた。皇祖の文穆王を追尊して文穆皇帝とし、皇祖妣を文穆皇后とし、皇考の献武王を献武皇帝とし、皇兄の文襄王を文襄皇帝とした。有司に命じて祖宗の諡を議して奏上させた。辛酉、王太后を皇太后と尊んだ。乙丑、魏朝からの封爵をそれぞれ差等をもって降格したが、信都で義に従い、及び霸朝(高氏政権)に力を宣べた者、ならびに西より来たる者、並びに武定六年以来南より来て帰化した者は、降格の限りに含めなかった。辛未、大使を四方に遣わして風俗を観察し、人の疾苦を問うた。甲戌、神主を太廟に遷した。

六月辛巳の日、詔して崇聖侯孔長を改封して恭聖侯とし、邑百戸を賜い、以て孔子の祀を奉ぜしめ、併せて魯郡に下し、時に廟宇を修葺せしむ。また詔して曰く、「吉凶の車服の制度、各々等差を為し、条式を具に立て、儉にして中を得しめよ」と。分遣して使人をして五岳・四瀆に致祭せしめ、その堯祠・舜廟より下り孔父・老君等、祀典に載する者に至るまで、咸く秩を序べて遺すこと無し。また詔して曰く、「冀州の勃海・長楽の二郡は、先帝始めて封ぜられたる国、義旗初めて起こりし地なり。 へい 州の太原・青州の斉郡は、覇朝の所在、王命の基と為る所なり。君子作る有り、貴くして本を忘れず、斉郡・勃海は併せて一年を復し、長楽は二年を復し、太原は三年を復すべし」と。壬午の日、詔して故太傅孫騰・故太保尉景・故大司馬婁昭・故 司徒 しと 高敖曹・故尚書左僕射慕容紹宗・故領軍万俟干・故定州刺史段栄・故御史中尉劉貴・故御史中尉竇泰・故殷州刺史劉豊・故済州刺史蔡侊等は、皆左右先帝し、皇基を経賛し、或いは不幸早く殂し、或いは王事に身を隕せり、使者を遣わして墓に就き致祭し、併せて妻子を撫問すべし。また詔して宗室を封じ、太尉高岳を清河王とし、太保高隆之を平原王とし、開府儀同三司高帰彦を平秦王とし、徐州刺史高思宗を上洛王とし、営州刺史高長弼を広武王とし、兼武 えい 将軍高普を武興王とし、兼武 えい 将軍高子瑗を平昌王とし、兼北中郎将高顕国を襄楽王とし、前太子庶子高叡を趙郡王とし、揚州県開国公高孝緒を脩城王とす。また詔して功臣を封じ、太師厙狄干を章武王とし、大司馬斛律金を咸陽王とし、 へい 州刺史賀抜仁を安定王とし、殷州刺史韓軌を安德王とし、瀛州刺史可朱渾道元を扶風王とし、 司徒 しと 公彭楽を陳留王とし、 司空 しくう 公潘相楽を河東王とす。癸未の日、詔して諸弟を封じ、青州刺史高浚を永安王とし、尚書左僕射高淹を平陽王とし、定州刺史高浟を彭城王とし、儀同三司高演を常山王とし、冀州刺史高渙を上党王とし、儀同三司高淯を襄城王とし、儀同三司高湛を長広王とし、高湝を任城王とし、高湜を高陽王とし、高済を博陵王とし、高凝を新平王とし、高潤を馮翊王とし、高洽を漢陽王とす。丁亥の日、詔して王子高殷を立てて皇太子とし、王后李氏を皇后とす。庚寅の日、詔して太師厙狄干を以て太宰とし、 司徒 しと 彭楽を太尉とし、 司空 しくう 潘相楽を 司徒 しと とし、開府儀同三司司馬子如を 司空 しくう とす。己亥の日、皇太子初めて東宮に入るを以て、畿内及び へい 州の死罪以下を赦し、余州の死罪以下囚を降す。秋七月辛亥の日、文襄妃元氏を尊んで文襄皇后とし、宮を静徳と曰う。また文襄の子孝琬を封じて河間王とし、孝瑜を河南王とす。乙卯の日、 尚書令 しょうしょれい ・平原王高隆之を以て録尚書事とし、尚書左僕射・平陽王高淹を 尚書令 しょうしょれい とし、御史中尉を改めて還って中丞と為す。詔して魏の御府の所有する珍奇雑綵、常に人に給せざる者を悉く内後園に送り、以て七日間の宴賜に供せしむ。

八月、詔して郡国に黌序を修立せしめ、髦俊を広く延いて儒風を敦述せしめ、その国子学生も亦旧に依りて銓補す。往者文襄皇帝の運びし蔡邕の石経五十二枚を、移して学館に置き、次に依りて修立す。また詔して直言正諫の士を求め、不次を以て待ち、牧人の官を命じて農桑を広く勧めしむ。庚寅の日、詔して曰く、「朕虚薄を以て、王業を嗣ぎ弘めんとす。思うに盛績を賛揚し、之を万古に播さんとする所以なり。史官筆を執り、聞く有りて墜つること無しと雖も、猶ほ緒言遺美、時に或いは未だ書かざるを恐る。位に在る王公・文武大小、降りて庶人に及び、爰に僧徒に至るまで、或いは親しく音旨を奉じ、或いは承伝旁説する所、凡そ文籍に載すべきものは、悉く条を分けて封上せよ」と。甲午の日、詔して曰く、「魏世に議定せし麟趾格は、遂に通制と為り、官司施用すれども、猶ほ未だ尽く善からず。群官更に論討して新令を定むべし。成らざるの間は、仍って旧格を以て事に従う」と。九月癸丑の日、領東夷 校尉 こうい ・遼東郡開国公・高麗王高成を以て使持節・侍中・驃騎大将軍・領護東夷 校尉 こうい とし、王・公は故の如し。丁卯の日、詔して梁の侍中・使持節・仮黄鉞・ 都督 ととく 中外諸軍事・大将軍・承制邵陵王蕭綸を以て梁王とす。庚午の日、晋陽に行幸す。この日、皇太子涼風堂に入り居り、国を監す。冬十月己卯の日、法駕し、金輅に御し、晋陽宮に入り、内殿にて皇太后に朝す。辛巳の日、曲赦して へい 州太原郡晋陽県及び相国府四獄の囚とす。乙酉の日、特進元韶を以て尚書左僕射とし、 へい 州刺史段韶を右僕射とす。壬辰の日、相国府を罷め、騎兵・外兵曹を留め、各々一省を立て、別に機密を掌らしむ。十一月、周の文帝師を帥いて陝城に至り、騎を分かち北に渡り建州に至る。甲寅の日、梁の湘東王蕭繹使いを遣わして朝貢す。丙寅の日、帝親しく戎を出し城東に次す。周の文帝軍容の厳盛なるを見て、歎じて曰く、「高歓死せず!」と。遂に班師す。十二月辛丑の日、車駕晋陽より至る。是歳、高麗・蠕蠕・吐谷渾・庫莫奚並びに使いを遣わして朝貢す。

二年春正月丁未の日、梁の湘東王蕭繹使いを遣わして朝貢す。辛亥の日、円丘を祀り、神武皇帝を以て配す。癸亥の日、親しく籍田を耕す。乙丑の日、太廟を享く。二月壬辰の日、太尉彭楽謀反し、誅せらる。三月丙午の日、襄城王高淯薨ず。己未の日、詔して梁の承制湘東王蕭繹を梁の使持節・仮黄鉞・相国とし、梁臺を建て、百揆を総べ、梁王として承制せしむ。庚申の日、 司空 しくう 司馬子如事に坐して免ぜらる。是月、梁の交・梁・義・新の四州刺史、各々地を以て内附す。西魏の文帝崩ず。夏四月壬辰の日、梁王蕭繹使いを遣わして朝貢す。六月庚午の日、前 司空 しくう 司馬子如を以て太尉とす。秋七月己卯の日、顕陽殿を改めて還って昭陽殿と為す。辛卯の日、殷州を改めて趙州と為し、以て太子の諱を避く。是月、侯景梁の簡文帝を廃し、蕭棟を立てて主と為す。九月壬申の日、諸の伎作屯牧雑色役隷の徒を免じて白戸と為す。癸巳の日、行幸して趙・定の二州に至り、因りて晋陽に至る。冬十月戊申の日、宣光・建始・嘉福・仁寿の諸殿を起す。庚申の日、蕭繹使いを遣わして朝貢す。丁卯の日、文襄皇帝の神主廟に入る。十一月、侯景梁主蕭棟を廃し、僭って偽位に即き建鄴に於て、自ら漢と称す。十二月、中山王殂ず。是歳、蠕蠕・室韋・高麗並びに使いを遣わして朝貢す。

三年春正月丙申、帝は代郡において庫莫奚を親征し、これを大いに破り、その捕虜を山東に配して百姓となす。二月、蠕蠕の主阿那瓌は突厥に破られ、瓌は自殺す。その太子菴羅辰及び瓌の従弟登注俟利、登注の子庫提はともに部衆を擁して来奔す。蠕蠕の残部は注の次子鐵伐を立てて主とす。辛丑、契丹は使いを遣わして朝貢す。三月戊子、詔して清河王岳・ 司徒 しと 潘相樂・行臺辛術に師を率いて南伐せしむ。癸巳、詔して梁王蕭繹を進めて梁主とす。夏四月壬申、東南道行臺辛術が広陵において伝国の八璽を送る。甲申、吏部尚書楊愔を以て尚書右僕射となす。六月己亥、清河王岳らは軍を返す。乙卯、車駕は しん 陽に幸す。冬十月乙未、黄櫨嶺に駐屯す。ここに長城を築き起こし、北は社于戌に至る四百余里、三十六の戍を立てる。十一月辛巳、梁主蕭繹は江陵において即位し、これ元帝なり、使いを遣わして来聘す。十二月壬子、車駕は宮に還る。戊午、 しん 陽に幸す。この歳、西魏の廃帝元年なり。

四年春正月丙子、山胡が離石戍を囲む、帝は親征す。未だ至らざるに逃ぐ、ここに三堆戍を巡り、大いに狩猟して還る。戊寅、庫莫奚は使いを遣わして朝貢す。魏末より永安銭を用い、また数品あり、皆軽薄濫悪なり、己丑、新銭を鋳造し、文に常平五銖と曰う。二月、蠕蠕の鐵伐の父登注及び子庫提を送り返して北に還す。鐵伐はまもなく契丹に殺され、国人はまた登注を立てて主とす、やがてその大人阿富提らに殺され、国人はまた庫提を立てて主とす。夏四月、車駕は宮に還る。戊午、西南に雷の如き大声あり。五月庚午、林慮山において狩猟を校閲す。戊子、宮に還る。六月甲辰、章武王厙狄干薨ず。秋、北に冀・定・幽・安を巡り、やがて北に契丹を討つ。冬十月丁酉、車駕は平州に至り、ここに西道より長塹に向かう。甲辰、帝は歩いて山嶺を踰え、士卒に先立ち、指麾奮撃し、契丹を大いに破る。この行、帝は頭を露わし身を袒ぎ、昼夜休まず、千余里を行き、ただ肉を食い水を飲むのみ、気色ますます厲し。丁巳、碣石山に登り、滄海に臨む。十一月己未、帝は平州より還り、ここに しん 陽に至る。閏月壬寅、梁の人使いを遣わして来聘す。十二月己未、突厥また蠕蠕を攻め、蠕蠕は挙国して来奔す。癸亥、帝は北に突厥を討ち、蠕蠕を迎え入れんとす。ここにその主庫提を廃し、阿那瓌の子菴羅辰を立てて主とし、これを馬邑川に置く。朔方において突厥を追う、突厥は降を請う、これを許して還る。ここより貢献相継ぐ。

五年春正月癸丑、帝は山胡を討ち大いにこれを破り、男子十二歳以上は皆斬り、女子及び幼弱はもって軍士に賞し、ここに石楼を平らぐ。石楼は険絶し、魏代より以て至ること能わざる所なり。ここにおいて遠近の山胡、懾伏せざるは莫し。この役、 都督 ととく 戦傷する者有り、その什長路暉礼は救う能わず、帝は命じてその五藏を刳り、九人をして分かち食わしむ、肉及び穢悪ことごとく尽きる。ここより威虐を行い始む。この月、周の文帝は西魏の帝を廃し斉王廓を立て、これ恭帝なり。三月、蠕蠕の菴羅辰叛く、帝は親征し大いにこれを破る、辰父子は北に遁走す。太保賀拔仁は違緩に坐し、その髪を抜き、免じて庶人とし、炭を負わせて しん 陽宮に輸送せしむ。夏四月、蠕蠕は肆州を寇す。丁巳、帝は しん 陽よりこれを討ち、恒州に至る。時に虜騎散走し、大軍はすでに還る、帝は麾下二千余騎を帥いて殿と為り、夜は黄瓜堆に宿す。蠕蠕の別部数万騎、鞍を叩いて進み、四面より囲み逼る、帝は安らかに睡り、平明にして方に起き、神色自若として、軍形を指画し、囲みを潰して出づ。虜は走り、これを追撃し、伏尸二十里、菴羅辰の妻子・生口三万余を獲る。五月丁亥、地豆干・契丹ともに使いを遣わして朝貢す。丁未、北に蠕蠕を討ち、また大いにこれを破る。六月、蠕蠕は遠く遁走す。秋七月戊子、肅慎は使いを遣わして朝貢す。壬辰、罪人を赦す。庚戌、北伐より至る。八月庚午、司州牧・清河王岳を以て太保と為し、安德王韓軌を以て大司馬と為し、扶風王可朱渾道元を以て大将軍と為し、 司空 しくう 尉粲を以て 司徒 しと と為し、太子少師侯莫陳相を以て 司空 しくう と為し、 尚書令 しょうしょれい ・平陽王淹を以て録尚書事と為し、常山王演を以て 尚書令 しょうしょれい と為し、上党王渙を以て尚書右僕射と為す。丁丑、行幸して しん 陽に至る。辛巳、録尚書事・平原王高隆之薨ず。冀州刺史段韶を封じて平原王と為す。この月、詔して常山王演・上党王渙・清河王岳・平原王段韶に衆を率いさせ、洛陽の西南において伐悪城・新城・厳城・河南城の四鎮を築かしむ。九月、帝はみずから臨幸し、もって西師を致さんとす。西師出でず、ここに しん 陽に至る。冬十月、西魏は江陵を陥とし、梁の元帝を殺す。梁の将王僧辯は建業に在り、その しん 安王蕭方智を推して太宰・ 都督 ととく 中外諸軍事と為し、制を承けて百官を置く。十二月庚申、車駕は北巡し、達速嶺に至り、みずから山川の険要を覧て、将に長城を起こさんとす。この歳、西魏の恭帝元年なり。

六年春正月壬寅、清河王岳は江を渡り、夏首を剋す。梁の 司徒 しと 郢州 えいしゅう 刺史陸法和は降を請う。詔して梁の貞陽侯蕭明を以て梁主と為し、尚書右僕射・上党王渙を遣わしてこれを江南に送らしむ。二月甲子、陸法和を以て使持節・ 都督 ととく 十州諸軍事・太尉・大 都督 ととく ・西南道大行臺と為す。三月丙戌、上党王渙は東関を剋ち、梁の将裴之横を斬る。丙申、車駕は しん 陽より至る。文襄の二子を封じ、孝珩を広寧王、延宗を安德王と為す。戊戌、帝は昭陽殿に臨みて獄を決す。この月、寡婦を発して軍士に配し長城を築かしむ。夏五月、蕭明は建業に入る。六月甲子、河東王潘相樂薨ず。壬申、帝は親しく蠕蠕を討つ。甲戌、諸軍は祁連池に大会す。乙亥、塞を出で、厙狄谷に至る、百余里水泉無く、六軍は渇乏す、俄かに大雨。秋七月己卯、帝は白道に頓し、輜重を留め、みずから軽騎五千を率い、蠕蠕を追う。壬午、これを懐朔鎮に及ぶ。帝はみずから矢石を犯し、頻りに大いにこれを破り、ここに沃野に至る。壬辰、 しん 陽に還る。九月己卯、車駕は しん 陽より至る。冬十月、梁の将陳霸先は襲って王僧辯を殺し、蕭明を廃し、また蕭方智を立てて主とす。辛亥、行幸して しん 陽に至る。十一月、梁の秦州刺史徐嗣徽・南 州刺史任約らは襲って石頭城を拠え、ともに州を以て内附す。壬辰、大 都督 ととく 蕭軌は衆を帥いて江に至り、 都督 ととく 柳達摩らを遣わして江を渡り、石頭を鎮守せしむ。己亥、太保・清河王岳薨ず。柳達摩は霸先に攻め逼られ、石頭を以て降る。この歳、高麗・庫莫奚ともに使いを遣わして朝貢す。詔して夫一百八十万人を発し長城を築かしむ、幽州北の夏口より、西は恒州に至る九百余里。

七年春正月辛丑、 司空 しくう 侯莫陳相を白水郡王に封ず。車駕、晋陽より至る。 鄴城 ぎょうじょう 西にて馬射を行い、大いに衆庶を集めて之を観る。二月辛未、詔して常山王演らに涼風堂にて尚書奏案を読ましめ、得失を論定せしめ、帝自ら之を決す。三月丁酉、大 都督 ととく 蕭軌ら衆を率いて江を渡る。夏四月乙丑、儀同三司婁叡、魯陽蛮を討ち、大いに之を破る。丁卯、金華殿を造る。五月、漢陽王洽薨ず。帝、肉を以て慈を断つと為し、遂に復た食わず。六月乙卯、蕭軌ら梁の師と鍾山の西にて戦い、霖雨に遇い利を失い、軌及び 都督 ととく 李希光、王敬寶、東方老、軍司裴英起並びに没し、士卒還る者は十二三なり。乙丑、梁の湘州刺史王琳、馴象を献ず。秋七月乙亥、周の文帝殂す。是の月、山東の寡婦二千六百人を発して軍士に配し、夫有りて濫りに奪わる者十二三なり。十一月壬子、州三、郡百五十三、県五百八十九、鎮三、戍二十六を併省す。十二月庚子、魏の恭帝、周に位を遜る。是の歳、庫莫奚、契丹使いを遣わして朝貢す。三臺宮殿を広く修む。先に、西河の総秦戍より長城を築き東は海に至り、前後築く所、東西凡そ三千余里、六十里毎に一戍を置き、其の要害に州鎮を置くこと凡そ二十五所なり。

八年春三月、大いに熱く、人あるいは暍死す。夏四月庚午、詔して蝦蟹蜆蛤の類を取るを禁じ、唯だ私家の魚捕りを許す。乙酉、詔して公私鷹鷂を取るを禁ず。太師咸陽王斛律金を以て右丞相と為し、前大將軍扶風王可朱渾道元を以て太傅と為し、開府儀同三司賀拔仁を以て太保と為し、 尚書令 しょうしょれい 常山王演を 司空 しくう 録尚書事と為し、長広王湛を 尚書令 しょうしょれい と為し、尚書右僕射楊愔を左僕射と為し、 へい 省尚書右僕射崔暹を右僕射と為し、上党王渙を録尚書事と為す。是の月、帝城東にて馬射し、京師の士女悉く赴き観ることを勅し、赴かざる者は軍法を以て罪す、七日にして乃ち止む。五月辛酉、冀州の人劉向、鄴に於いて謀逆し、党与皆伏誅せらる。秋八月己巳、庫莫奚使いを遣わして朝貢す。庚辰、詔す、丘郊禘祫時祭は、皆市にて少牢を取り、刲割すべからず、有司監視し、必ず豊備ならしむべし、農社、先蠶は、酒肉のみとし、雩、禖、風、雨、司人、司祿、霊星の雑祀は、果餅酒脯とす。唯だ当に誠敬を尽くすを務むべく、義は如在に同じし。辛巳、榷酤の制を定む。夏より九月に至るまで、河北六州、河南十三州、畿内八郡大いに蝗あり、鄴に飛び至り、日を蔽い、声は風雨の如し。甲辰、詔す、今年蝗に遭える処は、租を免ず。冬十月乙亥、梁主蕭方智、陳に位を遜る。陳の武帝使いを遣わして藩を称し朝貢す。是の歳、周の閔帝元年。周の冢宰宇文護、閔帝を殺して明帝を立て、又元を改む。初めて長城の内に重城を築き、庫洛拔より東は塢紇戍に至るまで、凡そ四百余里。

九年春二月丁亥、罪人を降す。己丑、詔して燎野は仲冬を限りとし、他時に火を行い昆虫草木を損ずることを得ず。三月丁酉、車駕晋陽より至る。夏四月辛巳、大赦す。是の月、北 州刺史司馬消難、城を以て周に叛く。大旱あり、帝祈雨して降らざるを以てし、西門豹祠を毀ち、其の冢を掘る。五月辛丑、 尚書令 しょうしょれい 長広王湛を録尚書事と為し、驃騎大将軍平秦王帰彦を右僕射と為す。甲辰、前左僕射楊愔を 尚書令 しょうしょれい と為す。六月乙丑、帝晋陽より北巡す。己巳、祁連池に至る。戊寅、晋陽に還る。是の夏、山東大いに蝗あり、人夫を差して捕え之を坑う。秋七月辛丑、畿内の老人劉奴等九百四十三人に版職及び杖帽を給し、各差有り。戊申、詔す、趙、燕、瀛、定、南営の五州、及び司州の広平、清河の二郡、去年螽澇にて田を損じ、兼ねて春夏雨少なく、苗稼薄き者は、今年の租税を免ず。八月乙丑、車駕晋陽より至る。甲戌、行幸して晋陽に至る。先に、丁匠三十余万人を発して鄴に三臺を営み、其の旧基に因りて高く博くし、大いに宮室及び遊 園を起こす。是に至り、三臺成る。銅爵を改めて金鳳と曰い、金武を聖応と曰い、冰井を崇光と曰う。冬十一月甲午、車駕晋陽より至る。三臺に登り、乾象殿に御し、群臣に朝宴す。新宮成るを以てし、丁酉、内外に大赦し、文武の官並びに一大階を進む。丁巳、梁の湘州刺史王琳使いを遣わして蕭莊を立てて梁主と為すを請い、仍って江州を内属せしめ、庄をして之に居らしむ。十二月癸酉、詔して梁王蕭莊を以て梁主と為し、進めて九派に居らしむ。戊寅、太傅可朱渾道元を太師と為し、 司徒 しと 尉粲を太尉と為し、冀州刺史段韶を 司空 しくう と為し、録尚書事常山王演を大司馬と為し、録尚書事長広王湛を 司徒 しと と為す。大荘厳寺を起こす。是の歳、永安王浚、上党王渙を殺す。

十年春正月戊戌、 司空 しくう 侯莫陳相を大将軍と為す。辛丑、太尉長楽郡公尉粲、肆州刺史濮陽公婁仲遠並びに爵を進めて王と為す。甲寅、行幸して遼陽の甘露寺に至る。二月丙戌、帝甘露寺に於いて禅居深観し、唯だ軍国の大政のみ奏聞す。三月戊戌、侍中高徳正を尚書右僕射と為す。丙辰、車駕遼陽より至る。是の月、梁主蕭莊郢州に至り、使いを遣わして朝貢す。夏閏四月丁酉、司州牧彭城王浟を以て 司空 しくう を兼ね、侍中高陽王湜を尚書左僕射と為す。乙巳、兼 司空 しくう 彭城王浟を以て兼太尉と為し、 司空 しくう の事を摂せしめ、皇子紹廉を長楽王に封ず。五月癸未、始平公元世、東平公元景式等二十五家を誅し、特進元韶等十九家を禁止す。尋いで並びに之を誅し、男子は少長無く皆斬り、殺す所三千人、並びに漳水に投ず。六月、陳の武帝殂す。秋八月戊戌、皇子紹義を広陽王に封ず。尚書右僕射河間王孝琬を左僕射と為す。癸卯、詔す、諸軍人の内、或いは父祖姓を改めて元氏に冒入し、或いは仮託携認して妄りに姓元と称する者は、世数の遠近を問わず、悉く本姓に改復するを聴す。是の月、左僕射高徳正を殺す。九月己巳、行幸して晋陽に至る。

冬十月甲午、帝晋陽宮の徳陽堂に於いて暴崩す、時に年三十一。遺詔す、凶事は一に儉約に従い、喪月の断は、三十六日を限りとし、嗣子百僚、内外遐邇、制を奉じ情を割き、悉く公除に従うべし。癸卯、喪を発し、宣徳殿に於いて歛む。十一月辛未、梓宮鄴に還る。十二月乙酉、太極前殿に於いて殯す。乾明元年二月丙申、武寧陵に葬る。謚して文宣帝と曰い、廟号を顕祖とす。

帝は沈着聡明にして遠大な度量あり、外見は愚鈍の如くとも、内には明らかに鑑識す。文襄(高澄)は年長にして英秀、神武(高歓)は特にこれを愛重し、百官はその風に承け、震懼せざる者なし。されど帝はよく自ら跡を晦まし、言を口にせず、常に自ら貶退し、言はことごとく従順なり、故に深く軽んぜられ、家人と雖も及ばずと為す。文襄が業を嗣ぐや、帝は次男として長ずるが故に猜嫌を受け、帝の后たる李氏は色美にして、宴會に預かる毎に、容貌は遥かに靖德皇后を超え、文襄はますます不平を抱く。帝は毎に后のために私的に服飾や玩好を調え、少しでも佳きものあれば、文襄は即ち逼取せしむ。后は憤り、時に与えざることあり。帝は笑いて曰く「此の物は猶お求むべきなり、兄が須うるに、何ぞ吝しむを容れんや」と。文襄は或いは愧じて取らず、帝は便ち恭しく受け、また飾り譲ることもなし。毎に退朝して邸に還れば、輒ち閤を閉じて静坐し、妻子に対するも、能く竟日言わず。或いは袒裼跣足して奔躍す、后が其の故を問うと、対えて曰く「爾が為に漫に戯るるなり」と。これ蓋し労苦に習うて肯て言わざるなり。寝所は夜に至りて嘗て光あり、巨細察する可く、后驚きて帝に告ぐ、帝曰く「慎んで妄りに言う勿れ」と。此れより唯だ后と寝し、侍御は皆な外に出だすことを命ず。

文襄崩じ、喪を発せず秘す、其の後漸く露はる、魏帝(孝静帝)窃かに左右に謂いて曰く「大将軍此れ殂す、天意に似たり、威権は当に王室に帰すべし」と。帝が晋陽に赴かんとするに及び、親しく昭陽殿に入り辞謁し、従者は千人、前に居て剣を執る者十余輩。帝は殿下数十歩に立ちて、而して衛士が階を升るや已に二百許り、皆な袂を攘げて刃を扣き、厳敵に対するが若し。帝は主者に伝奏せしめ、須らく晋陽に詣でんとす、言い訖りて、再拝して出づ。魏帝は色を失い、目を送って帝に曰く「此人は見容れられざるに似たり、吾れ何れの日に死するかを知らず」と。 へい 州に至るに及び、将士を慰諭し、措辞は款実なり。衆皆な欣然として曰く「誰か左僕射(高洋)が令公に減ぜずと謂わんや」と。令公とは即ち文襄を指す。

時に訛言ありて上党に聖人出ずと、帝これを聞き、一郡を徙さんとす。而して郡人張思進上言す、殿下は南宮に生まれ、坊の名は上党、即ち是れ上党に聖人出ずるなりと、帝悦びて止む。先ず是れ童謡ありて曰く「一束の藁、両頭然ゆ、河辺の羖䍽天に飛ぶ」と。藁然ゆる両頭は、文に於いて高と為し、河辺の羖䍽は水辺の羊、帝の名(洋)を指すなり。ここに於いて徐之才盛んに宜しく受禅すべきを陳ぶ。帝曰く「先父亡兄、功德かくの如く、尚お終に北面す、吾れ又何ぞ敢えて当たらんや」と。之才曰く「正に父兄に及ばざるが故に、須らく早く九五に升り、もし其れ作さざれば、人将に心を生ぜん。且つ讖に云う『羊盟津を飲み角天を拄つ』と、盟津は水なり、羊水を飲むは王の名なり、角天を拄つは大位なり。又た陽平郡界面星驛の傍に大水あり、土人は常に群羊数百を見る、立ち臥す其の中に、就きて視れば見えず、事讖と合う、願わくは王疑う勿れ」と。帝は高徳正に問う、徳正またこれを賛成す、ここに於いて始めて決す。乃ち李密をしてこれを卜せしむ、大横に遇う、曰く「大吉、漢文帝の卦なり」と。帝は乃ち象を鋳て以てこれを卜し、一写にして成る。段韶をして肆州に於いて斛律金に問わしむ、金来朝し、深く不可を言い、鎧曹宋景業が首めて符命を陳ぶるを以て、請うて之を殺さんとす。乃ち太后の前に於いて議す。太后諸貴に謂いて曰く「我が児は獰直、必ず自ら此の意無からん、直に高徳正禍を楽しみ、之を教うるのみ」と。帝意決し、乃ち兵を整えて東す。高徳正をして鄴に之かしめ、公卿を諷諭せしむ、応ずる者莫し。司馬子如遼陽に於いて帝を迎え、固く未だ可からずと言う。杜弼もまた馬を抱いて諫め、帝還らんと欲す、尚食丞李集曰く「此の行事小ならず、而して還ると言うや」と。帝偽りに東門に向かい之を殺さしめよと言い、而して別に絹十疋を賜うことを令す。四月、夜、禾魏帝の銅研に生じ、旦に数寸長じ、穂あり。五月、帝また東して鄴に赴き、左右に令して曰く「異言する者は斬れ」と。是の月、光州九尾狐を献ず。帝 鄴城 ぎょうじょう 南に至り、召し入れ、 へい せて板策を齎す。旦、高隆之進み謁して曰く「此を用いて何を為さん」と。帝色を為して曰く「我自ら事を作す、若し族滅せんと欲するか」と。隆之謝して退く。ここに於いて乃ち円丘を作り、法物を備え、禅譲の事を草す。

極位に登りし後、神明転た茂く、外は柔らかにして内は剛く、断割に果敢にして、人窺う能わず。又た特に吏事に明るく、政術に心を留め、簡靖寛和にして、任使に坦かに、故に楊愔らは匡賛に尽くすを得、朝政粲然たり。兼ねて法を以て下を馭し、権貴を避けず、或いは違犯あるも、勲戚を容れず、内外粛然たる莫し。軍国の機策に至りては、独り懐抱に決し、規謀宏遠にして、人君の大略あり。又た三方鼎峙するを以て、甲を繕い兵を練り、左右の宿衛に、百保軍士を置く。毎に行陣に臨み、親しく矢石に当たり、鋒刃交接するも、唯だ前敵多からざるを恐る。屡々艱厄を犯し、常に剋捷を致す。嘗て蠕蠕を追い及び、 都督 ととく 高阿那肱をして騎数千を率い、其の走道を塞がしむ。時に虜軍猶お盛んにして、五万余人。肱兵少なきを以て益すを請う、帝更に其の半騎を減ず。那肱奮撃し、遂に之を大破す。虜主は巌谷を踰越し、僅かに身を以て免る。 都督 ととく 高元海・王師羅並びに武藝無く、先ず怯弱を称す、一旦交鋒するや、 ぎょう 壮を踰ゆることあり。嘗て東山に游宴し、関隴未だ平らかならざるを以て、杯を投げ震怒し、魏收を前に召し、立って詔書と為し、遠近に宣示し、将に事として西行せんとす。是の歳、周文帝(宇文泰)殂し、西人震恐し、常に隴を度るの計を為す。

既に征伐四克し、威は戎夏に振るうも、六七年の後、功業を以て自ら矜り、遂に情に留まり耽湎し、淫暴を行なうこと肆りなり。或いは躬自鼓舞し、歌謳息まず、旦より通宵に、夜を以て晝に継ぐ。或いは形體を袒露し、粉黛を塗傅し、髪を散らし胡服を着け、錦綵を雑衣し、刃を抜き弓を張り、巿肆を游行す。勲戚の第には、朝夕臨幸す。時に鹿車・白象・駱駝・牛・驢に乗り、並びに鞍勒を施さず。或いは盛暑炎赫の時、日中に身を暴し、隆冬酷寒の時、衣を去りて馳走し、従者堪えずと雖も、帝は之に居て自若たり。街に坐し巷に宿し、処々に游行す。多く劉桃枝・崔季舒に負わせて行かしむ。或いは胡鼓を担ぎて之を拍つ。親戚貴臣、左右近習、侍従錯雑し、復た差等無し。淫嫗を徴集し、悉く衣裳を去らしめ、従官に分付し、朝夕臨視せしむ。或いは棘を聚めて馬と為し、草を紐て索と為し、逼遣して騎乗せしめ、牽引して来去せしめ、流血地に灑ぎ、以て娛樂と為す。凡そ諸の殺害は、多く支解を令し、或いは之を火に焚き、或いは之を河に投ず。沈酗既に久しく、弥よ以て狂惑し、毎に将に酔わんとするに至りては、輒ち剣を抜き手に掛け、或いは弓を張り矢を傅え、或いは牟槊を執持す。巿廛を游行し、婦人に問いて曰く「天子は何如」と。答えて曰く「顛顛癡癡、何ぞ天子を成さん」と。帝乃ち之を殺す。或いは衢路に馳騁し、錢物を散擲し、恣りに人をして拾取せしめ、爭競諠譁するを、方に喜びと為す。

太后はかつて北宮におり、小さな腰掛けに座っていた。帝はすでに酔っており、自ら床を持ち上げたので、太后は墜落し、かなりの傷を負った。酔いが醒めた後、大いに恥じ悔やみ、遂に多くの柴火を集めさせ、太后をその中に入れようとした。太后は驚き恐れ、自ら引き留めた。また地席を設け、平秦王高帰彦に杖を持たせ、口で自ら罪状を述べ、背中を脱いで罰を受けようとした。帝は帰彦に命じて、「杖で血が出なければ、直ちに汝を斬る」と言った。太后は涙を流し、前に進んで帝を抱きしめ、帝も涙を流して苦しく請うたが、太后からの許しを受けようとはしなかった。太后が聞き許すと、ようやく背中への杖を止め、足を五十回打ち、ことごとく徹底した。帝は衣冠を整えて拝謝し、悲しみに耐えられず、これにより酒を戒めた。十日後、また元のようになった。以来、耽溺はますます激しくなった。遂に李后の家に行幸し、鳴鏑で后の母崔氏を射ると、ちょうどその頬に当たり、そこで罵って言った、「我が酔っている時でさえ太后を識らなかったのだ、老婢めが何か用か!」と。馬鞭で乱打すること百回余り。三臺の構木は高さ二十七丈、両棟の距離は二百余尺、工匠は危険を恐れ、皆縄を付けて自らを防いだが、帝は棟の上を疾走し、全く怖れる様子がなかった。時には雅舞を舞い、回転しても節に合い、傍らで見る者は、寒心しない者はいなかった。また死囚を召し出し、筵を翼として、台から飛び降りさせ、その罪と刑戮を免じた。果敢でためらわない者は、ことごとく全うし、疑い恐れて躊躇する者は、あるいは損傷転落した。

深く耽溺酩酊すること久しく、次第に本性を損なった。大司農穆子容に怒り、彼に衣服を脱がせて伏させ、自ら射たが、当たらず、橛でその下の穴を貫き、腸に入った。楊愔を宰輔としながらも、彼に厠籌を進めさせた。その体が肥えているので、楊大肚と呼び、馬鞭でその背を打ち、流れる血が袍に染み渡った。刀子でその腹を切り裂こうとすると、崔季舒が俳優の言葉を借りて言った、「老いも若きも公子の悪戯は?」と。そこで刀子を引き抜いて去らせた。また楊愔を棺の中に置き、轜車に載せ、釘を打ち下ろそうとしたこと数回。かつて彭城王高浟の邸宅に行き、その母尓朱氏に言った、「そなたが我が母の婿を辱めた時を思い出すが、どうして耐えられようか」と。自ら手を下して斬殺した。また故僕射崔暹の邸宅に行き、崔暹の妻李氏に言った、「暹のことをよく憶えているか?」と。李氏は言った、「結髪の義深く、実に追憶を懐いている」と。帝は言った、「憶えているなら、自ら見に行け」と。自ら斬り、首を牆の外に棄てた。かつて しん 陽にいた時、矟で戯れに 都督 ととく 尉子耀を刺すと、手に応じて死んだ。三臺の太光殿上で、 都督 ととく 穆嵩を鋸で殺した。また開府暴顕の家に行幸し、 都督 ととく 韓哲は無罪であったが、突然衆中から召し出し、数段に斬った。

魏の楽安王元昂は、后の姉の婿であり、その妻に色があった。帝はたびたび彼女の所に行幸し、昭儀に納れようとした。元昂を召し出して伏させ、鳴鏑で百余り射ち、凝血が垂れんとして一石ほどになり、遂に死に至った。後に帝は自ら弔問に行き、喪次で哭し、その妻を抱擁して迫った。なお従官に命じて衣服を脱がせて葬送の衣を助けさせ、兼ねて銭と綵を与え、信物と号し、一日の所得は巨万を超えようとした。后は泣いて食事をせず、姉に位を譲ることを乞い、太后もまた言上したので、帝の意はようやく解けた。寵愛した薛嬪は、その寵愛されていたが、突然、かつて高岳と私通したと思い込み、理由なく斬首し、それを懐に蔵した。東山の宴で、勧酬が始まった時、突然頭を探り出して、盆の上に投げた。その屍を支解し、その大腿骨を弄んで琵琶とした。一座は驚き怖れ、胆を喪わない者はいなかった。帝はようやくそれを取り上げ、それに向かって涙を流して言った、「佳人再得難し、甚だ惜しむべし」と。屍を載せて出て、髪を振り乱し歩きながら哭して従った。巷の凡庸で卑猥な者、人に識られることのない者であっても、突然召し出して鄴の下で斬らせた。徒罪から大辟に至る囚人を繋ぎ、簡抜して随駕させ、供御囚と号し、自ら手を下して斬殺し、それを持って戯れとした。凡そ屠害した者は、動もすれば多く支解し、あるいは烈火に投じ、あるいは漳流に棄てた。兼ねて外には長城を築き、内には臺殿を営み、賞賜費用が過度で、天下騒然とし、内外憯憯として、各々怨毒を懐いた。しかし平素より厳断して下に臨み、それに加えて黙識強記であったので、百官は戦慄し、敢えて非を行うことができなかった。かつて典御丞李集が面諫し、帝を桀紂よりも甚だしいと比べた。帝は縛って流中に置かせ、沈没すること久しく、また引き出させて言った、「我は桀紂と比べてどうか?」と。李集は言った、「先ほどより一層及ばない」と。帝はまた沈めさせ、引き出してさらに問うた。このように数回繰り返しても、李集の答えは初めのままだった。帝は大笑して言った、「天下にこのような痴漢があるとは!今にして龍逢・比干が俊物ではないと知った」と。遂に解放した。また引かれて謁見し、何か諫めようとする様子があったので、帝は引き出して腰斬させた。その斬るか赦すかは、測り知ることができなかった。

初め帝が即位した時、年号を天保と改めた。深い識見を持つ士人は言った、「天保の字は、一大人只十であり、帝は十を過ぎないであろう」と。また先に謡があった、「馬子石室に入り、三千六百日」と。帝は午年に生まれたので、「馬子」と言い、三臺は石季龍の旧居なので、「石室」と言い、三千六百日は十年である。また帝はかつて太山の道士に問うた、「我は幾年天子たるを得るか?」と。答えて言った、「三十年を得る」と。道士が出た後、帝は李后に言った、「十年十月十日、これ三十ではないか?我はそれを畏れる、これを過ぎれば憂い無し。人生に死あり、どうして惜しむことがあろうか、ただ正道(太子)がまだ幼く、人がこれを奪わんとすることを憐れむのみ」と。帝は期日に崩じ、済南王(太子殷)は遂に位を終えず、時に知命と為された。かつて しん 陽に行幸し、夜に杠門嶺に宿った。嶺には数株の柏樹があり、皆千年に近く、枝葉は嫩茂で、神物が託されているようであった。時に帝はすでに酒に酔っており、嶺に向かって瞋罵し、一株に射当てると、間もなく、たちまち枯れて死んだ。また発言がたびたび当たり、時に人は故に神霊と謂った。猖獗ではあったが、専ら昏暴とは言われなかった。末年には遂に食事を摂ることができず、ただ数回酒を飲むのみで、麹糱が災いとなり、それにより斃れた。先に、霍州で楚夷王の女の冢を発掘したところ、尸は生きているようであり、珠襦玉匣を得た。帝はこれを珍重し、還って以て自らを殯した。

始祖(高)珽は険薄で過ち多く、帝はたびたび彼を罪し、毎に老賊と呼んだ。武成帝の時、高珽は任用され遇されると、武成帝に説いて言った、「文宣帝は甚だ暴虐であるのに、どうして文と称し得ようか?既に創業でないのに、どうして祖と称し得ようか?もし宣帝を祖とするならば、陛下が万歳の後、何と称するのでしょうか?」と。武成帝は高珽の説に溺れ、天統の初め、詔して謚を景烈と改め、廟号を威宗とした。武平の初め、趙彦深が執政すると、また上奏して帝の本来の謚を復し、廟号を顕祖としたという。

廃帝

廃帝高殷は字を正道、小名を道人といい、文宣帝の長子である。母は李皇后という。天保元年、皇太子に立てられ、時に年六歳。性質は敏慧で、初めて反語を学んだ時、迹字の下に注して「自反」と書いた。時に侍者はその故を知らず、太子は言った、「迹字の足傍もまた迹となる、これ自反ではないか」と。かつて北宮で宴し、独り河間王だけを入れることを許さず、左右がその故を問うと、太子は言った、「世宗(高澄)が賊に遇った所である、河間王がまたどうしてここにいることが適当であろうか」と。文宣帝は毎に言った、「太子は漢家の性質を得て、我に似ず」と、廃そうとして、太原王(高紹徳)を立てようとした。

初めに詔して国子博士の李宝鼎にこれを傅えさせたが、宝鼎が卒すると、再び詔して国子博士の邢峙に侍講させた。太子は年齢こそ若かったが、温かく寛大で明朗であり、人君の度量を備え、経学の業を貫通して総合し、時政を省みて覧ることに、甚だ美名があった。七年の冬、文宣帝が朝臣の文学者及び礼学官を宮中に召して宴会を開き、経義を以て互いに質疑させ、自ら臨席して聴いた。太子が自ら筆を執って質問を措定すると、座中の者は誰もが嘆美した。九年、文宣帝が晋陽に在った時、太子が国政を監理し、諸儒を集めて孝経を講義させ、楊愔に命じて旨を伝えさせ、国子助教の許散愁に言わせた、「先生は世に在って、何を以て自らを資とするか」と。散愁は答えて曰く、「散愁は少より以来、孌童の床に登らず、季女の室に入らず、簡策を服膺し、老いの将に至らんとするを知らず。平生の素懐は、斯くの如きのみ」と。太子は曰く、「顔子は屋を縮めて貞を称し、柳下は嫗して乱れずと雖も、未だ此の翁の白首にして娶らざるには若かざるなり」と。そして絹百匹を賜うた。後に文宣帝が金鳳台に登り、太子を召して囚人を手ずから斬らせた。太子は惻然として難色を示し、再三に渡ってその首を断たなかった。文宣帝は怒り、親しく馬鞭を以て太子を三度打った。これにより太子は気が悸え言葉が吃り、精神は時に昏乱するようになった。

十年十月、文宣帝が崩御し、癸卯の日、太子は晋陽の宣徳殿で帝位に即き、大赦を行い、内外の百官に普く汎級を加え、官を失い爵を失った者には、資品を回復することを聴許した。庚戌の日、皇太后を太皇太后と尊び、皇后を皇太后と尊んだ。詔して、九州の軍人で七十歳以上の者には板職を授け、武官で六十歳以上及び癃病で駆使に堪えざる者は、全て免放し、土木営造や金銅鉄の諸雑作工は一切停止させた。十一月乙卯の日、右丞相・咸陽王の斛律金を左丞相とし、録尚書事・常山王の高演を太傅とし、 司徒 しと ・長広王の高湛を太尉とし、 司空 しくう の段韶を 司徒 しと とし、平陽王の高淹を 司空 しくう とし、高陽王の高湜を尚書左僕射とし、河間王の高孝琬を司州牧とし、侍中の燕子献を右僕射とした。戊午の日、使者を分かち命じて四方を巡省させ、政事の得失を求め、風俗を省察し、人の疾苦を問うた。十二月戊戌の日、上党王の高紹仁を漁陽王に、広陽王の高紹義を范陽王に、長楽王の高紹廉を隴西王に改封した。この年は、周の武成元年である。

乾明元年、春正月癸丑の朔、元号を改めた。己未の日、詔して徭役と租賦を寛めた。癸亥の日、高陽王の高湜が薨去した。この月、車駕は晋陽より帰還した。二月己亥の日、太傅・常山王の高演を太師・録尚書事とし、太尉・長広王の高湛を大司馬・ へい 省録尚書事とし、尚書左僕射・平秦王の高帰彦を 司空 しくう とし、趙郡王の高叡を尚書左僕射とした。詔して、諸元の良口で宮内に配没され或いは人に賜わられた者は、全て放免した。甲辰の日、帝は芳林園に行幸し、親しく囚徒を録囚し、死罪以下の者を、降免すること各々差等があった。乙巳の日、太師・常山王の高演が詔を矯って 尚書令 しょうしょれい の楊愔・尚書右僕射の燕子献・領軍大将軍の可朱渾天和・侍中の宋欽道・ 散騎常侍 さんきじょうじ の鄭子默を誅殺した。戊申の日、常山王の高演を大丞相・ 都督 ととく 中外諸軍・録尚書事とし、大司馬・長広王の高湛を太傅・京畿大 都督 ととく とし、 司徒 しと の段韶を大将軍とし、前 司空 しくう ・平陽王の高淹を太尉とし、 司空 しくう ・平秦王の高帰彦を 司徒 しと とし、彭城王の高浟を 尚書令 しょうしょれい とした。また高麗王の世子の湯を使持節・領東夷 校尉 こうい ・遼東郡公・高麗王とした。この月、王琳が陳に敗れ、蕭莊は自ら脱出して和州に至った。三月甲寅の日、詔して軍国事は皆晋陽に申し、大丞相常山王の規筭に稟うべしとした。壬申の日、文襄帝の第二子の孝珩を広寧王に、第三子の長恭を蘭陵王に封じた。夏四月癸亥の日、詔して河南・定・冀・趙・瀛・滄・南膠・光・南青の九州は、往時に蝗害と水害のため、時稼を頗る傷つけたので、使者を分遣して塗を異にし贍恤させた。この月、周の明帝が崩御した。五月壬子の日、開府儀同三司の劉洪徽を尚書右僕射とした。

秋八月壬午の日、太皇太后の令により帝を廃して済南王とし、一郡を全食とし、大丞相・常山王の高演を入れて大統を継がせた。この日、王は別宮に居住した。皇建二年九月、晋陽で崩御し、時に年十七歳であった。

帝は聡明で慧く夙に成り、寛厚で仁智であり、天保の間、雅に令名があった。大位を継承すると、楊愔・燕子献・宋欽道らが共に補佐した。常山王が地は親しく望は重く、内外畏服していたこと、加之文宣帝が初めて崩御した日に、太后が本より彼を立てようとしたことを以て、故に楊愔らは皆猜忌を懐いた。常山王は憂い悩み、乃ち太后に白上して、その党を誅殺させた。時に平秦王の高帰彦も亦謀に預かっていた。皇建二年の秋、天文が変を告げ、帰彦は後害有るを慮り、仍ち孝昭帝に白上して、王が咎を当てるべきであるとした。乃ち帰彦を駅伝に馳せて晋陽に遣わし、彼を害させた。王が薨じた後、孝昭帝は不 となり、文宣帝が祟るのを見た。孝昭帝は深くこれを悪み、厭勝の術を備え設けたが益が無かった。薨じて三旬にして孝昭帝は崩御した。大寧二年、武寧の西北に葬り、謚して閔悼王とした。

初め、文宣帝が邢卲に命じて帝の名を殷、字を正道と制定させ、従ってこれを尤め、曰く、「殷の家は弟が及ぶ(兄終弟及)、『正』の字は一止、吾が身後にて児は得ることなからん」と。邢卲は懼れ、改めることを請うた。文宣帝は許さず、曰く、「天なり」と。因って昭帝(孝昭帝高演)に謂って曰く、「奪う時は但だ奪え、慎んで殺すこと勿れ」と。

孝昭帝

孝昭皇帝高演は字を延安といい、神武皇帝の第六子、文宣皇帝の同母弟である。幼くして英峙し、早くより大成の器量があり、武明皇太后に早くから愛重された。魏の元象元年、常山郡公に封ぜられた。文襄帝が執政すると、中書侍郎の李同軌を遣わして霸府に就かせ、諸弟の師とさせた。帝が覧る文籍は、その指帰を源とし、辞彩を好まなかった。毎に歎じて云う、「盟津の師と雖も左驂震えて衂かず」と、以て能と為した。遂に志を篤くして『漢書』を読み、李陵伝に至ると、恒にその為す所を壮とした。聡敏にして人に過ぎ、遊び処を共にする者については、一度その家諱を知れば、終身誤って犯すことが無かった。同軌が病卒すると、又命じて開府長流参軍の刁柔に代わらせたが、性厳褊で、誘訓の宜しきに適わず、中に遣り出された。帝は閤を送り出し、惨然として容を歛め、涙数行下り、左右の者誰もが歔欷しなかった。その敬業して旧を重んずること此の如しであった。天保の初め、爵を進めて王となった。五年、 へい 尚書令 しょうしょれい を除かれた。帝は断割を善くし、思理に長け、省内は畏服した。七年、文宣帝に従って鄴に還った。文宣帝は尚書の奏事に、多く異同有るを以て、帝に命じて朝臣と先ず得失を論定させ、然る後に敷奏させた。帝は政術に長け、割断は咸く其の理を尽くし、文宣帝は歎重した。八年、 司空 しくう ・録尚書事に転じた。九年、大司馬を除かれ、仍って録尚書事であった。

時に文宣帝は遊宴に溺れ、帝(孝昭帝高演)は憂憤し、その色に表れた。文宣帝はこれを察し、帝に言うには、「ただ汝がいる限り、我がどうして楽しみを恣にせざらんや」と。帝はただ泣き伏して拝礼し、終に言うところ無し。文宣帝もまた大いに悲しみ、杯を地に投げつけて言うには、「汝は我を嫌うらしい、今より敢えて酒を進める者は斬る」と。因って自ら用いる杯を取り、全て壊して棄てた。後にますます沈湎し、或いは諸貴戚の家に入り、力を較べて打ち拉ぎ、貴賤を限らなかった。ただ常山王(高演)が至ると、内外粛然とした。帝はまた密かに事条を撰し、諫めんとしたが、その友の王 けい は不可と為し、帝は従わず、隙を窺って極言したため、遂に大いに怒りに逢う。順成后は本来魏朝の宗室であり、文宣帝は帝に彼女を離れさせんと欲し、密かに帝の為に広く淑媛を求め、その寵を移さんことを望んだ。帝は旨を承けて納れること有りと雖も、情義はますます重かった。帝の性質は頗る厳しく、尚書郎中が剖断に過失有れば、輒ち捶楚を加え、令史に姦慝有れば、即ち考竟した。文宣帝は乃ち帝を前に立たせ、刀の環を以て脅を擬え、帝に罰せられた者を召し、白刃を臨めて帝の短を求めしも、皆陳ぶる所無く、方釈然とせしむ。此れより郎中を笞箠することを許さず。後に帝に魏の時の宮人を賜うも、酔って之を忘れ、帝が擅に取れりと謂い、遂に刀環を以て乱れに築かせ、此れに因って困頓に致す。皇太后は日夜啼泣し、文宣帝は為す所を知らず。先に友の王晞を禁錮せしが、乃ち之を赦し、帝に侍らしむ。帝は月余にして漸く瘳え、敢えて復た諫めず。文宣帝の崩ずるに及び、帝は禁中に居て喪事を護り、幼主即位するや、乃ち朝班に即く。太傅・録尚書事を除かれ、朝政は皆帝に決せらる。月余にして、乃ち藩邸に居る。此れより、詔敕多く帝に関わらず。客或いは帝に言うには、「鷙鳥巣を捨つれば、必ず卵を探る患い有り、今日の地、何ぞ宜しく屡々出づべきや」と。

乾明元年、廃帝に従って鄴に赴き、領軍府に居る。時に楊愔・燕子献・可朱渾天和・宋欽道・鄭子默等は帝の威望既に重きを以て、内に権逼を懼れ、帝を太師・司州牧・録尚書事と為し、長広王高湛を大司馬・録 へい 省尚書事と為し、京畿大 都督 ととく を解かんことを請う。帝は既に尊親たりながら猜斥せらるるを以て、乃ち長広王と狩を期し、野に於いて之を謀る。

三月甲戌、帝初めて省に上る。旦、領軍府を発す。大風暴起こり、御する車の幔を壊す。帝甚だ之を悪む。省に至るに及び、朝士咸に集う。坐定まり、酒数行く。坐に於いて 尚書令 しょうしょれい 楊愔・右僕射燕子献・領軍可朱渾天和・侍中宋欽道等を執る。帝は戎服し、平原王段韶・平秦王高帰彦・領軍劉洪徽と共に雲龍門より入り、中書省の前で 散騎常侍 さんきじょうじ 鄭子默に遇い、又之を執り、同じく御府の内に斬る。帝東閤門に至る。 都督 ととく 成休寧刃を抽いて帝を呵る。帝は高帰彦に之を諭さしむ。休寧は声を厲して大呼し従わず。帰彦は既に領軍たり、素より兵士に服せらるる所、皆仗を弛め、休寧方に歎息して罷む。帝入りて昭陽殿に至る。幼主・太皇太后・皇太后並びに出で御坐に臨む。帝は愔等の罪を奏し、専擅の辜に伏すを求む。時に庭中及び両廊下の えい 士二千余人、皆甲を被り詔を待つ。武 えい 娥永樂は武力絶倫、又文宣帝に重く遇せられ、刃を撫して効を思う。廃帝は吃訥し、兼ねて倉卒、言う所を知らず。太皇太后は又皇太后に誓い、帝に異志無く、唯逼るのみと云う。高帰彦は えい 士を敕労して厳を解かしむ。永樂乃ち刀を内めて泣く。帝は乃ち帰彦に侍 えい の士を引かせて華林園に向かわしめ、京畿の軍を以て門閤を守らしめ、娥永樂を園に斬る。詔して帝を大丞相・ 都督 ととく 中外諸軍・録尚書事と為す。相府の佐史は位一等を進む。帝尋いで しん 陽に如く。詔有り、軍国の大政、咸に諮決すべしと。

帝は大位に当たりて後、知る所は為さざる無く、其の令典を択び、名実を考綜し、廃帝は恭己して政を聴く。太皇太后尋いで令を下し少主を廃し、命じて帝に大業を統べしむ。

皇建元年八月壬午、皇帝 しん 陽宣德殿に即帝位し、大赦し、乾明元年を改めて皇建と為す。詔して太皇太后を奉り還って皇太后と称し、皇太后を文宣皇后と称し、宮を昭信と曰う。乙酉、詔す、太祖創業已来、諸に佐命の功臣有りて、子孫絶滅し、国統伝わらざる者は、有司近親を搜訪し、名を以て聞こえしむべし、当に量りて後を立てしむべしと。諸郡国の老人、各板職を授け、黄帽鳩杖を賜う。又詔す、謇正の士は、並びに進見を聴し事を陳ぶべしと。軍人戦に亡び王事に死する者は、時に以て申聞し、当に栄贈を加うべしと。督将朝士で名望素より高く、位歴通顕なるも、天保以来未だ追贈せられざる者も、皆録奏すべしと。又廷尉・中丞は、執法の所在、違を繩し罪を案ずるに、文を舞わし法を弄ぶことを得ざるべしと。其の官奴婢年六十已上は、免じて庶人と為すべしと。戊子、太傅長広王高湛を右丞相と為し、太尉平陽王高淹を太傅と為し、 尚書令 しょうしょれい 彭城王高浟を大司馬と為す。壬辰、詔して大使を分遣し、四方を巡省し、風俗を観察し、人の疾苦を問い、得失を考求し、賢良を搜訪せしむ。甲午、詔して曰く、「昔武王殷を剋ち、先ず往代を封じ、両漢魏 しん 、此の典を廃せず。元氏歴を統ぶるに及び、旧章に率わず。朕大業を纂承し、古典を弘めんと思う。但し二王三恪、旧説同じからず、是非を議定し、名を列ね条奏すべし。其の礼儀体式も亦仰ぎて之を議せよ」と。又詔す、国子寺官属を備え立つる可く、旧に依り生を置き、經典を講習し、歳時試験すべしと。其の文襄帝の運びし石経は、宜しく即ち学館に施列すべしと。外州の大学も亦典司を仰ぎ、勤めて督課を加うべしと。丙申、詔す、九州の勳人に重封有る者は、子弟に分授するを聴し、以て骨肉の恩を広むべしと。

九月壬申、詔して三祖の楽を議定せしむ。冬十一月辛亥、妃元氏を立てて皇后と為し、世子百年を皇太子と為し、天下に父後たる者に賜い、爵一級。癸丑、有司奏す、太祖献武皇帝の廟は宜しく武徳の楽を奏し、昭烈の舞を舞うべし。世宗文襄皇帝の廟は宜しく文徳の楽を奏し、宣政の舞を舞うべし。高祖文宣皇帝の廟は宜しく文正の楽を奏し、光大の舞を舞うべしと。詔して曰く「可」と。庚申、詔して故太師尉景・故太師竇泰・故太師太原王婁昭・故太宰章武王厙狄干・故太尉段栄・故太師万俟普・故 司徒 しと 蔡雋・故太師高乾・故 司徒 しと 莫多婁貸文・故太保劉貴・故太保封祖裔・故広州刺史王懷の十三人を以て太祖廟庭に配饗し、故太師清河王高岳・故太宰安德王韓軌・故太宰扶風王可朱渾道元・故太師高昂・故大司馬劉豊・故太師万俟受洛干・故太尉慕容紹宗の十一人を以て世宗廟庭に配饗し、故太尉河東王潘相楽・故 司空 しくう 薛脩義・故太傅破六韓常の三人を以て高祖廟庭に配饗す。是の月、帝親しく戎し北庫莫奚を討ち、長城を出づ。虜奔遁す。兵を分けて致討し、牛馬を大いに獲、括総して しん 陽宮に入る。十二月丙午、車駕 しん 陽に至る。

二年春正月辛亥、円丘を祀る。壬子、太廟にて禘を行う。癸丑、罪人を降す詔あり、各々差等あり。二月丁丑、内外の執事の官で従五品以上、及び三府の主簿・録事参軍、諸王の文学、侍御史、廷尉三官、尚書郎中、中書舎人に対し、二年の内に各一人を挙げる詔あり。冬十月丙子、 尚書令 しょうしょれい ・彭城王高浟を太保とし、長楽王尉粲を太尉とする。己酉、野雉が前殿の庭に棲む。十一月甲辰、詔して曰く、「朕はこの暴疾に嬰り、奄忽として逮ぶる所なし。今嗣子は沖眇にして、未だ政術に閑ならず。社稷の業重く、理は上徳に帰す。右丞相・長広王高湛は、機を研ぎ化を測り、道を体して宗に居り、人雄の望、海内瞻仰す。同胞共気、家国の憑る所なり。尚書左僕射・趙郡王高叡を遣わし旨を諭し、王を徴してこの大宝を統べしむべし。その喪紀の礼は、一に漢文に同じく、三十六日、悉く公除に従う。山陵の施用は、務めて儉約に従うべし。」これに先立ち、帝は不 ながらも聴覧に闕けず、この日、晋陽宮にて崩ず。時に年二十七。大寧元年閏十二月癸卯、梓宮は鄴に還る。上謚して孝昭皇帝と曰う。庚午、文静陵に葬る。

帝は聡敏にして識度あり、深沈にして能く断じ、窺測すべからず。身長八尺、腰帯十囲、儀望風表、迥然として独秀す。台省に居るより、政術に心を留め、簿領に閑明にして、吏の逮ばざる所なり。宸居に正位してより、ますます克勵し、徭を軽くし賦を薄くし、人の隠れを勤めて恤う。内に私寵なく、外に人物を収む。后父といえども、位は亦た特進にして別異無し。日昃に臨朝し、務めて人の善悪を知る。毎に左右に訪問し、直言を得んことを冀う。嘗て舎人裴沢に外の議論の得失を問う。沢率爾として対えて曰く、「陛下は聡明至公、自ら遠く古昔に侔うべし。然るに識あるの士、咸く細を傷つくと言う。帝王の度、頗る未だ弘からず。」帝笑いて曰く、「誠に卿の言の如し。朕初めて万機に臨み、慮り周悉せず、故に爾る致す所なり。この事安くか久しく行うべけん、後また疏漏を嫌わんことを恐る。」沢は因って寵遇を受く。その過ちを聞くを楽むこと此の如し。趙郡王高叡と厙狄顕安が侍坐す。帝曰く、「須抜は我が同堂の弟、顕安は我が親姑の子なり。今家人の礼を序し、君臣の敬を除く。我が逮ばざる所を言うべし。」顕安曰く、「陛下は妄言多し。」曰く、「何の若何ぞ。」対えて曰く、「陛下昔、文宣が馬鞭を以て人を撻つのを見て、常に非と為す。今これを行う、妄言に非ずや。」帝はその手を握りて之に謝す。又た直言をさせしむ。対えて曰く、「陛下は太だ細し。天子乃ち更に吏に似たり。」帝曰く、「朕は甚だ之を知る。然れども法来ること久しく、将に之を整えて無為に至らんとす。」又た王晞に問う。晞の答は顕安の如し。皆従容として受け納る。

性至孝なり。太后不 にして、南宮に出居す。帝は履を行くに正しからず、容色貶悴し、衣帯を解かず、殆ど四旬に将たらんとす。殿は南宮を去ること五百余歩、鶏鳴にして去り、辰時に方たり還る。来去徒歩し、輿輦に乗らず。太后の苦しむ所小しく増せば、便ち即ち閤外に寝伏し、飲食薬物、尽く皆躬親す。太后嘗て心痛み、自ら堪え忍ぶ能わず。帝立ちて帷前に侍し、爪を以て手心を搯み、血袖に流出す。諸弟を友愛し、君臣の隔て無し。雄勇にして謀あり。時に国富み兵強く、将に神武の遺恨を雪がんとし、意は平陽に頓駕し、進取の策を為さんとす。遠図遂げず、惜しいかな。

初め、帝は済南王と約し、相害わざることを。輿駕の晋陽に在り、武成の鄴に鎮するに及び、望気者云う「 鄴城 ぎょうじょう に天子気あり」。帝は済南の復興を恐れ、乃ち密かに鴆毒を行く。済南従わず、乃ち扼して之を殺す。後頗る愧悔す。初め内熱に苦しみ、頻りに湯散を進む。時に 尚書令 しょうしょれい 史姓趙の者あり、鄴にて文宣が楊愔・燕子献等に従いて西行するを見、言うに相与に復讎すと。帝は晋陽宮に在り、毛夫人と亦た之を見る。遂に漸く危篤に至り、禳厭の事を備え、或いは油を煑て四散に洒ぎ、或いは炬を把りて焼き逐う。諸厲方に殿梁に出で、山騎棟上に在り、歌呼自若として、了として懼るる容無し。時に天狗下る有り。乃ちその所に於いて武を講じ以て之を厭う。兔有りて馬を驚かす。帝墜ちて脇を絶つ。太后疾を視、済南の所在を問うこと三たびす。帝対えず。太后怒りて曰く、「殺し去れよ!吾が言を用いざる、死する其れ宜なり。」臨終の際、唯だ牀枕に扶服し、頭を叩きて哀を求む。使を遣わし詔して長広王を追い、大統に入り纂ぐを詔す。又た手書に云く、「宜しく吾が妻子を一つの好処に置くべし。前人に学ぶ勿れ。」

論す。

論じて曰く、神武は四方を平定し、威権己に在り。鄴に遷って後、主祭する人有りと雖も、号令の加うる所、政皆自ら出ず。文宣は鴻業に因循し、内外協従し、朝より野に及び、群心属望す。東魏の地、挙国楽推し、未だ期月せずして、遂に宸極に登る。始めは政事に心を存し、風化粛然たり。数年之間、朝野安乂す。その後酒を縦し欲を肆にし、事極めて猖狂、昏邪残暴、近代未だ有らず。饗国永からず、実にこの疾に由る。

済南は業を継ぎ、大いにその弊を革め、風教粲然たり。搢紳幸いと称す。股肱輔弼、其の誠を懐くと雖も、既に弘むるに道德を賛すること能わず、親懿を和睦すること能わず、又た遠慮して身を防ぎ、深謀して主を えい うこと能わず。断つべくして断たず、自ら其の災を取る。臣既に誅夷せられ、君尋いで廃辱せらる。皆な其の器に非ざるを任ずるの致す所なり。

孝昭は早く台閣に居り、故事通明、人吏の間、委ねざる所無し。文宣崩後、大いに前弊を革め、尊極に臨むに及び、心を留めること更深し。時人は其の明に服し其の細を譏る。情好古を稽え、率ね礼度に由る。将に先代の胤を封ぜんとし、且つ学校の風を敦くし、才賢を徴召して、文武畢く集う。時に周氏の朝政、宰臣に移り、主将相猜し、危殆無きにしも非ず。乃ち関右を眷み、実に兼 へい の志を懐く。経謀宏曠、諒や近代の明主なり。然るに降年永からず。その故何ぞや。豈に幽顕の塗、別に復報有るか、将に斉の基宇、止まること斯に在り、帝之を大にせんと欲すも、天許さざるか。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻007