神武は累代北辺にいたので、その習俗に慣れ、ついに鮮卑と同化した。成長して深沈で大度があり、財を軽んじて士を重んじ、豪侠の宗とされた。目には精光があり、頭は長く頬骨は高く、歯は玉のように白く、幼少より人傑の表があった。家は貧しく、武明皇后を娶るに及んで初めて馬を得、鎮に給して隊主となった。鎮将の遼西の段長は常に神武の容貌を奇異とし、言った、「君には天下を安んじ救済する才があり、ついに徒然たることはあるまい」と。早くも子孫のことを託した。貴顕に至り、段長を司空に追贈し、その子の寧を抜擢して用いた。神武は隊主から函使に転じた。かつて駅馬に乗って建興を過ぎた時、雲霧が暗く立ち込め、雷声がそれに随い、半日してやんだ。神霊の応ずるものがあるかのようであった。道路を行くごとに、往来して風塵の色がなかった。またかつて衆星を踏んで行く夢を見、覚めて内心喜んだ。函使として六年、洛陽に至るたび、令史の麻祥に使役された。祥はかつて肉を神武に食べさせた。神武は立ったまま食事する性分でなく、座ってそれを進んだ。祥は自分を侮ったと思い、神武を四十回笞打った。
洛陽から帰ると、財産を傾けて客を結んだ。親戚や旧知が怪しんで尋ねると、答えて言った、「私が洛陽に至ると、宿衛の羽林が相率いて領軍の張彜の邸宅を焼き、朝廷はその乱れを恐れて問わなかった。政治がこのようであるなら、事の成り行きは知れたものである。財物などいつまでも守れるものか」と。ここより天下を澄ませようとする志を持つに至った。懐朔の省事の雲中の司馬子如および秀容の人劉貴、中山の人賈顯智と奔走の友となった。懐朔の戸曹史の孫騰、外兵史の侯景もまた友誼を結んだ。劉貴はかつて一羽の白鷹を得、神武および尉景、蔡俊、子如、賈顯智らと沃野で狩りをした。一匹の赤兎を見つけ、捕えようとするたびに逃げ、ついに遠くの沢に至った。沢の中に茅屋があり、逃げ込もうとした時、犬が屋中から出てきてこれを噛み、鷹も兎もともに死んだ。神武は怒り、鳴鏑でこれを射ると、犬は倒れた。屋中から二人の者が現れ、神武の襟を激しく掴んだ。その母は両目が見えず、杖を引きずり、二人の子を叱って言った、「どうして大家に触れるのか」と。甕の中から酒を出し、羊を煮て客をもてなした。そして自ら暗相が得意であると言い、諸人を遍く探り、皆が貴くなると言い、指麾はすべて神武によるものとした。また言った、「子如は歴位して顕要となるが、顯智は終わりを善くせず」と。飲み終え、数里行ってから、引き返してさらに訪ねた。すると元より人が住んでおらず、さきほどの者は人でなかったのである。ここにより諸人はますます敬い異とした。
爾朱兆が晋陽より兵を挙げて洛陽に赴かんとするに及び、神武を召す。神武は長史孫騰をして辞し、絳蜀・汾胡が反乱を企てているため、委ねて去ることはできないと告げさせたので、兆はこれを恨んだ。騰が復命すると、神武は言う、「兆が兵を挙げて上を犯すは、これ大賊なり。我は久しく彼に事えることはできぬ」と。ここより初めて兆を図る計略を抱いた。兆が洛陽に入り、孝荘帝を捕らえて北に連れ去ると、神武はこれを聞いて大いに驚いた。また孫騰をして偽って兆を賀させ、機会を窺って密かに孝荘帝の所在を探らせ、これを劫いて義挙を起こさんとしたが、果たせなかった。そこで書を以て兆を諭し、天子を捕らえて海内に悪名を受くべからざることを言った。兆は受け入れず、帝を殺して爾朱世隆らと長広王曄を立てた。元号を建明と改め、神武を平陽郡公に封じた。費也頭の紇豆陵歩藩が秀容に入り、晋陽に迫ると、兆は神武を徴発した。神武は行かんとしたが、賀抜焉過児が緩やかに行くことを請い、彼を疲弊させようとした。神武はそこで逗留し、河に橋がなく渡れないと辞退した。歩藩の軍勢は盛んで、兆は敗走した。初め、孝荘帝が爾朱栄を誅した時、その党に必ず逆謀あるを知り、密かに歩藩に勅して、その背後を襲わせたのである。歩藩は既に兆らを破り、兵勢日に盛んとなるに及び、兆はまた神武に救援を請うた。神武は内に兆を図りつつ、また歩藩が後に難除きとなることを慮り、兆と力を合わせてこれを破り、藩は死んだ。兆は深く神武に徳を感じ、誓って兄弟となった。
当時、世隆・度律・彦伯が共に朝政を執り、天光は関右を占め、兆は并州を占め、仲遠は東郡を占め、各々兵を擁して暴虐を働き、天下はこれに苦しんだ。葛栄の衆で并州・肆州に流入した者は二十余万、契胡に陵暴され、皆生計を立てられなかった。大小二十六の反乱があり、誅夷された者は半ばに及んだが、なお草窃が止まなかった。兆はこれを憂い、神武に計を問うた。神武は言う、「六鎮の反残は、尽く殺すべからず。宜しく王の素より腹心とする者を選び、密かにこれを統率させよ。もし犯す者あれば、その帥を罪すれば、罪する者は少なくなる」と。兆は言う、「善し。誰を行わしむべきか」と。賀抜允が時に座に在り、神武を請うた。神武は拳でこれを殴り、その歯を一本折り、「生平天柱(爾朱栄)の時、奴輩は処分に伏して鷹犬の如し。今日天下は王に安置せられ、而るに阿鞠泥(賀抜允の小字)敢えて下を誣い上を罔う。請うてこれを殺せ」と言った。兆は神武を誠実と見なし、遂にこれを委ねた。神武は兆が酔っているのを見て、醒めた後に疑心を生じることを恐れ、遂に出て宣言した、「州鎮の兵を統率することを委ねられた。汾水の東に集まり令を受けよ」と。乃ち牙を陽曲川に建て、部署を陳べた。軍門に款く者あり、絳の巾袍を着て、自ら梗楊の駅子と称し、左右に側わりたいと願う。訪ねると、力を以て聞こえ、嘗て并州市において人を扼殺した者であった。乃ち親信に署した。兵士は元より兆を憎み神武を喜んでいたので、ここに至って来らざる者はなかった。暫くして、また劉貴をして兆に請わせ、并州・肆州が頻年にわたり霜旱があり、降戸は黄鼠を掘って食い、皆顔に穀色なく、徒らに人の国土を汚すのみであるから、山東に就食させ、温飽を得てから処分することを請うた。兆はその議に従った。その長史慕容紹宗が諫めて言う、「不可なり。今四方擾擾として、人異望を懐く。況んや高公は雄略あり、又大兵を握る。将に為すべからざるなり」と。兆は言う、「香火の重誓あり、何をか慮る所あらん」と。紹宗は言う、「親兄弟すら尚お信じ難し。何をか香火を論ぜんや」と。時に兆の左右は既に神武より金を受けていたので、紹宗と神武に旧隙あることを讒し、兆は乃ち紹宗を禁錮して神武の発向を促した。神武は乃ち晋陽より出でて滏口に向かった。路にて爾朱栄の妻の郷郡長公主が洛陽より来るに逢い、馬三百匹を尽く奪い換えた。兆はこれを聞き、乃ち紹宗を釈放して問うた。紹宗は言う、「猶お掌握中の物なり」と。ここにおいて自ら神武を追い、襄垣に至った。時に漳水が暴漲し、橋が壊れた。神武は水を隔てて拝し言う、「公主の馬を借りた所以は、他故あらず、山東の盗賊に備えんがためなり。王は公主の言を受け、自ら追賜せんと来る。今河を渡って死すとも辞せず。然れどもこの衆は便ち叛かん」と。兆は自らこの意無きを陳べ、軽馬にて渡り、神武と幕下に坐し、謝罪を陳べ、遂に刀を授けて頭を引き、神武に己を斬らせんとした。神武は大いに哭し、「天柱(爾朱栄)薨背してより、賀六渾(高歓の字)更に何をか仰がん。願わくは大家(爾朱兆)千万歳にして、力を以て用いられんことを。今傍人の構間ここに至る。大家何ぞ忍びて復たこの言を出ださんや」と言った。兆は刀を地に投じ、遂に白馬を刑して盟い、誓って兄弟となり、留まって宿し夜飲した。尉景が壮士を伏せて兆を捕らえんとしたが、神武は臂を嚙んでこれを止め、「今彼を殺せば、その党必ず奔り帰り聚結す。兵飢え馬痩せ、相支うるべからず。若し英雄屈起すれば、則ち害を為すこと滋し。姑くこれを置くに如かず。兆は勁捷なれども、凶狡にして謀無く、図るに足らず」と言った。翌朝、兆は営に帰り、また神武を召した。神武は将に馬に上ってこれに詣らんとしたが、孫騰が衣を牽いて乃ち止めた。水を隔てて肆に罵り、馳せて晋陽に還った。兆の心腹の念賢が降戸の家累を領して別に営を為した。神武は偽ってこれと善しとし、その佩刀を観て、因ってこれを取りてその従者を殺し、尽く散らした。ここにおいて士衆皆悦び、倍にして附従を願った。
初め、北魏の真君年間(太武帝の時)、内学者が奏上して言う、上党に天子気あり、雲は壺関の大王山に在りと。武帝(太武帝)はここにおいて南巡して以てこれを厭当せんとした。石を累ねて三封と為し、その北の鳳皇山を斬ってその形を毀った。後に上党の人で晋陽に居る者を上党坊と号し、神武は実にここに居た。この行に及び、大王山に宿り、六十日を経て進んだ。将に滏口を出でんとするに、倍に約束を加え、繊毫の物も侵犯を聴さず。将に麦地を過ぎんとする時、神武は輙ち歩みて馬を牽いた。遠近これを聞き、皆高儀同(高歓)の兵を将いて整肅なるを称え、益々帰心した。遂に前進して鄴の北に屯し、相州刺史劉誕に糧を求めたが、誕は供給しなかった。軍営の租米有り、神武自らこれを取った。
六月庚子の日、信都にて義兵を挙げたが、未だ爾朱氏に公然と背くことはなかった。李元忠が高幹と共に殷州を平定し、爾朱羽生の首を斬って来謁すると、神武帝は胸を打って言った、「今日こそ反逆を決行するぞ」。そこで元忠を殷州刺史に任じた。この時、兵威は既に振るい、爾朱氏の罪状を上表して弾劾した。世隆らはその上表を秘して通さなかった。八月、爾朱兆が殷州を攻め落とし、李元忠が来奔した。孫騰は、朝廷との連絡が絶たれている以上、仮の天子を立てなければ、衆望が繋がる所がないと考えた。十月壬寅の日、章武王元融の子で勃海太守の朗を奉じて皇帝とし、年号を中興とし、これが廃帝である。時に度律・仲遠の軍は晉陽に駐屯し、爾朱兆がこれと合流した。神武帝は竇泰の策を用い、反間の計を放った。度律・仲遠は戦わずして退き、神武帝は広阿において爾朱兆を破った。十一月、鄴を攻めた。相州刺史劉誕は城に拠って固守した。神武帝は土山を築き、地下道を掘り、所々に大きな柱を建てて一度に焼き払い、城を地中に陥没させた。麻祥は当時湯陰県令であったが、神武帝が彼を「麻都」と呼んだので、麻祥は恥じて逃げ去った。
やがて神武帝は洛陽に至り、節閔帝及び中興主(廃帝朗)を廃して孝武帝を立てた。孝武帝が即位すると、神武帝に大丞相・天柱大将軍・太師を授け、定州刺史を世襲させ、封戸を増やして前と合わせて十五万戸とした。神武帝は天柱大将軍を辞し、封戸五万を減じた。壬辰の日、鄴に帰還する際、魏帝は幹脯山で餞別し、手を執って別れた。七月壬寅の日、神武帝は軍を率いて爾朱兆を北伐した。封隆之が言うには、侍中斛斯椿・賀抜勝・賈顕智らはかつて爾朱氏に仕え、皆反噬した者である。今、京師で寵愛任用されているが、必ず禍いの隙を構えるであろうと。神武帝は深くもっともだと思った。そこで天光・度律を京師に帰し、斬らせた。遂に自ら滏口より入った。爾朱兆は晉陽を大いに掠奪し、北の秀容を保ち、并州は平定された。神武帝は晉陽が四方を要害に囲まれているため、大丞相府を建ててここに定住した。爾朱兆は秀容に至ると、兵を分けて険要を守り、出入りして寇掠した。神武帝は討伐の声を揚げたが、軍を出しては数度にわたり停止させたので、兆の警戒心は緩んだ。神武帝は、年の初めには宴会を開くであろうと推測し、竇泰に精鋭の騎兵を率いて急襲させた。一日一夜に三百里を行き、神武帝は大軍を率いてその後を継いだ。
時に司空高幹が密かに神武帝に啓上し、魏帝が心変わりしたことを伝えた。神武帝はその書を封じて魏帝に呈上すると、魏帝は高幹を殺した。また、東徐州刺史潘紹業を遣わし、密かに長楽太守龐蒼鷹に勅して、その弟の昂を殺させようとした。昂は先に兄の死を聞き、槊で柱を刺し、壮士を伏せて路上で紹業を捕らえた。袍の襟から勅書を得て、遂に来奔した。神武帝はその首を抱えて泣き言った、「天子が枉げて司空を害した」。急いで白武幡を持たせてその家族を労った。時に高幹の次弟の慎は光州におり、政務は厳猛で、また部下に収奪を放任していたため、魏帝は彼に代わる者を遣わした。慎は難を聞き、梁に奔ろうとした。その配下が言うには、「公の家は勲功重く、必ずや兄弟が相反することはないでしょう」。そこでぼろ衣を着て鹿車を推して勃海に帰った。使者に逢い、これも来奔した。ここにおいて魏帝と神武帝の間に隙が生じた。阿至羅の虜(部族)は正光以前は常に藩属を称していたが、魏朝に多事が続くにつれ、皆叛いた。神武帝は使者を遣わして招き入れ、すぐに帰順した。先に、寇賊が平定されたとして詔により行臺が廃止されていた。ここに至って異俗の民が帰降したため、再び神武帝を行臺尚書に任じ、機に応じて処分させた。神武帝は彼らに粟帛を与えたが、議論する者は徒らに費やして益がないと考えた。神武帝は従わず、以前のように撫慰した。その酋帥の吐陳らは恩を感じ、皆指麾に従った。曹泥を救い、万俟受洛幹を得て、大いにその用を収めた。河西の費也頭の虜(部族)紇豆陵伊利は苦池河に居住し、険要を恃み衆を擁していた。神武帝は長史侯景を遣わして度々招いたが従わなかった。
五月、詔を下し、雲ふ将に句呉を征せんとし、河南諸州の兵を発し、宿衛を増し、河橋を守らしむ。六月丁巳、密かに神武に詔して曰く、「宇文黒獺自ら秦・隴を平破してより、非分を多く求め、脱ふるに変常有らば、事資るに経略を以てす。但だ表啓未だ全く背戾せず、進討の事匆匆に渉る。遂に群臣を召し、其の可否を議す。僉に言ふ、仮に南伐と称し、内外戒厳す。一には則ち黒獺の不虞を防ぎ、二には則ち呉楚を威すべし」と。時に魏帝将に神武を伐たんとす。神武将帥を部署し、慮り疑はるるを慮り、故に此の詔有り。神武乃ち表して曰く、「荊州は蛮左に綰接し、畿服に密邇す。関隴は遠きを恃み、将に逆図有らんとす。臣今潜かに兵馬三万を勒し、擬て河東より渡らんとす。又恒州刺史庫狄幹・瀛州刺史郭瓊・汾州刺史斛律金・前武衛大将軍彭楽に兵四万を擬へしめ、其の来違津より渡らしめんとす。領軍将軍婁昭・相州刺史竇泰・前瀛州刺史堯雄・并州刺史高隆之に兵五万を擬へしめ、以て荊州を討たしめんとす。冀州刺史尉景・前冀州刺史高敖曹・済州刺史蔡俊・前侍中封隆之に、山東の兵七万、突騎五万を擬へしめ、以て江左を征せしめんとす。皆部を約勒し、処分を聴くに伏す」と。魏帝其の変を覚知し、乃ち神武の表を出し、群官をして之を議せしめ、神武の諸軍を止めんと欲す。神武乃ち并に在る僚佐を集め、其の博議を令す。還た表を以て聞こえ、仍ち信誓を以て自ら忠款を明らかにして曰く、「臣は嬖佞の間せらるる所と為り、陛下一旦疑ひを賜ひ、猖狂の罪を令す、爾朱の時の計なり。臣若し誠を尽くし節を竭くさず、敢へて陛下に負かば、則ち身天殃を受けて、子孫殄絶せしめん。陛下若し赤心を信じて垂れ、干戈を動かさしめず、佞臣一二人、願くは斟量して廃出せしめよ」と。辛未、帝復た在京の文武の議意を録し、以て神武に答ふ。舎人温子升をして勅を草せしむ、子升逡巡して未だ敢て作さず。帝胡床に据り剣を抜き色を作す、子升乃ち勅を為して曰く。
初め、神武京師より将に北せんとし、以て洛陽は久しく喪乱を経て、王気衰へ尽き、山河の固き有りと雖も、土地褊狭にして、鄴に如かずと為し、遷都を請ふ。魏帝曰く、「高祖河洛に鼎を定め、永永の基と為す。制度を経営し、世宗に至りて乃ち畢る。王既に功は社稷に在り、宜しく太和の旧事に遵ふべし」と。神武詔を奉ず。是に至りて、復た之を謀る。兵千騎を遣はして建興を鎮め、河東及び済州の兵を益し、白溝に於いて虜船し、洛に向かふを聴かず、諸州和糴の粟を、鄴城に運入す。魏帝又神武に勅して曰く、「王若し人情を厭伏し、物議を杜絶せんと欲せば、唯だ河東の兵を帰し、建興の戍を罷め、相州の粟を送り、済州の軍を追ひ、蔡俊に代を受けしめ、邸珍をして徐を出さしむるに在り。戈を止め馬を散じ、各々家業に事へしめよ。脱ふるに糧廩を須ふれば、別に転輸を遣はす。則ち讒人舌を結び、疑悔生ぜず。王は太原に高枕し、朕は京洛に垂拱し、終に足を挙げて河を渡り、干戈を以て相指さず。王若し馬首南に向かひ、鼎の軽重を問はば、朕武無しと雖も、止めんと欲して能はず。必ず社稷宗廟の為めに、万死の策を出さん。決は王に在り、朕の能く定むる所に非ず。山を為して簣を止む、相為に之を惜しむ」と。
魏帝時に任祥を以て兼尚書左僕射と為し、開府を加ふ。祥は官を棄て走りて河北に至り、郡を拠りて神武を待つ。魏帝乃ち文武の官に勅し、北来の者は去留に任す。詔を下して神武を罪状し、北伐を経営す。神武亦馬を勒めて宣告して曰く、「孤爾朱の権を擅にするに遇ひ、大義を四海に挙ぐ。主上を奉戴し、義幽明に貫く。横に斛斯椿の讒構せらるる所と為り、誠節を以て逆首と為す。昔趙鞅晋陽の甲を興し、君側の悪人を誅す。今者南邁するは、椿を誅するのみ」と。高昂を以て前鋒と為し、曰く、「若し司空の言を用ひば、豈に今日の挙有らんや」と。司馬子如神武に答へて曰く、「本より小なる者を立てんと欲するは、正に此の為めなり」と。魏帝関右に兵を征す。賀抜勝を行在所に赴かしめ、大行臺長孫承業・大都督潁川王斌之・斛斯椿を遣はして共に武牢を鎮めしむ。汝陽王暹をして石済を鎮めしめ、行臺長孫子彦に前恒農太守元洪略を帥ひて陜を鎮めしめ、賈顕智に豫州刺史斛斯元寿を率ひて蔡俊を伐たしむ。神武竇泰と左箱大都督莫多婁貸文をして顕智を逆はしめ、韓賢をして暹を逆はしむ。元寿の軍は泰に降る。貸文は顕智と長寿津に遇ふ、顕智陰に降るを約し、軍を引いて退く。軍司元玄之を覚り、馳せ還りて師を益すを請ふ。魏帝大都督侯幾紹を遣はして之に赴かしめ、滑臺の東に戦ふ。顕智は軍を以て降り、紹死す。
七月、魏帝みずから大軍を率いて河橋に駐屯した。神武は河北十余里の地に至り、再び使者を遣わして誠意を表明したが、魏帝は返答しなかった。神武はそこで軍を率いて黄河を渡った。魏帝は群臣に策を問うた。ある者は賀抜勝を頼って南に依ると言い、ある者は関中に西就すると言い、ある者は洛口を守って死戦すると言い、決まらなかった。そのうち元斌之が斛斯椿と権力を争って不和となり、斌之は椿を捨てて直ちに帰還し、帝を欺いて神武の軍が来たと偽った。即日、魏帝は長安に逃れた。己酉、神武は洛陽に入り、永寧寺に滞在した。八月甲寅、百官を召集して言うには、「臣たるものは主君に仕え、危乱を匡救すべきである。内にあって諫争せず、外に出て陪従せず、平時には寵愛と栄誉に耽り争い、急時には逃げ失せるようでは、臣下の節義はどこにあるのか!」そこで開府儀同三司の叱列延慶、兼尚書左僕射の辛雄、兼吏部尚書の崔孝芬、都官尚書の劉廞、兼度支尚書の楊機、散騎常侍の元士弼を捕らえ、皆これを殺し、二心ある者を誅したのである。士弼は家眷を没官した。神武は万機が廃れてはならぬと考え、百僚と議した。清河王元亶を大司馬とし、尚書の下舎に居て制を承り事を決することとした。王が警蹕を称したので、神武はこれを醜いと思った。神武はまもなく弘農に至り、ついに西進して潼関を陥とし、毛洪賓を捕らえた。長城に進軍すると、龍門都督の薛崇礼が降った。神武は河東に退き、行臺尚書長史の薛瑜に潼関を守らせ、大都督の庫狄溫に封陵を守らせ、蒲津の西岸に城を築いて華州を守り、薛紹宗を刺史とし、高昂に豫州の事務を行わせた。神武が晋陽を発してここに至るまで、合わせて四十通の啓上をしたが、魏帝は皆返答しなかった。
九月庚寅、神武は洛陽に還った。そこで僧の道栄を遣わして関中に表を奉ったが、またも返答がなかった。そこで百官・沙門・耆老を集め、推し立てるべき者を議した。孝昌以来の衰乱により、国統が中絶し、神主が依る所なく、昭穆の序を失ったこと、永安年間に孝文帝を伯としたこと、永熙年間に孝明帝を夾室に遷したことが、業を喪い祚が短かった原因であると考えた。そこで清河王の世子善見を立てることを議した。議が定まり、清河王に告げると、王は言った、「天子に父はない。もし我が子を立てるならば、余生を惜しまぬ。」そこでこれを立てた。これが孝静帝である。魏はここに始めて二つに分かれた。神武は孝武帝が既に西に去り、崤・陜を脅かすことを恐れ、洛陽はまた河外にあって梁の国境に近く、晋陽に向かうには形勢上連絡が取れないと考えた。議に従って鄴に遷都することとした。護軍の祖瑩がこれを支持した。詔が下って三日、車駕はただちに出発し、四十万戸が狼狽して道についた。神武は洛陽に留まって処分し、事が終わると晋陽に還った。これより軍国の政務はすべて相府に帰した。以前から童謡に「可憐青雀子、飛来鄴城里。羽翮垂欲成、化作鸚鵡子」とあった。好事者はひそかに言うには、雀子は魏帝の清河王を指し、鸚鵡は神武を指すという。初め、孝昌年間に、山胡の劉蠡升が天子を自称し、年号を神嘉とし、雲陽谷に居た。西土は毎年その寇掠を受け、これを胡荒と呼んだ。
四年正月癸丑、竇泰の軍は敗れて自殺した。神武の軍は蒲津に駐屯したが、氷が薄く赴いて救援できなかったので、ついに軍を返した。高昂は上洛を攻略した。二月乙酉、神武は并・肆・汾・建・晋・東雍・南汾・秦・陜の九州が霜害と旱魃に見舞われ、人々が飢えて流散しているとして、所在の倉を開いて救済給付することを請うた。六月壬申、神武は天池に行き、瑞石を獲た。隠然と文字が浮き出ており、「六王三川」とあった。十一月壬辰、神武は西討し、蒲津から渡河し、衆二十万であった。周文は沙苑に軍を置いた。神武は地勢が険しいため少し退いたところ、西人が鬨の声をあげて進んだ。軍は大乱し、器甲十八万を棄てた。神武は駱駝に跨り、船を待って帰還した。
四年五月辛巳、神武は鄴に参朝した。百官に対し、毎月面会して政事を陳述させることを請うた。側微の者を明らかに揚げ、諫言を納れ邪佞を退けること。自ら獄訟を処理し、勤怠を褒貶すること。牧守に過失があれば、等級に従って連座させること。後宮においては、妃嬪を進める順序を定めること。後園の鷹犬は、全てこれを棄てること。六月甲辰、神武は晉陽に還った。九月、神武は西征した。十月己亥、西魏の儀同三司王思政を玉壁城に包囲した。敵を誘い出そうとしたが、西軍は敢えて出撃しなかった。十一月癸未、神武は大雪のため、士卒多く死んだので、ついに軍を返した。
四年八月癸巳、神武は西伐しようとし、鄴から晉陽で兵を集めた。殿中將軍曹魏祖が言うには、「なりませぬ。今八月は西方の王(酉)の月であり、死気が生気に逆らう。客軍には不利、主人たる守軍には可なり。兵を行えば、大将を傷つけましょう」と。神武は従わなかった。東西魏が兵を構えて以来、鄴の都では毎度先に黄と黒の蟻が陣をなして戦った。占う者は、黄は東魏の戎衣の色、黒は西魏の戎衣の色であり、世間ではこれによって勝敗を占った。この時、黄蟻が全て死んだ。九月、神武は玉壁を包囲して西軍を挑発したが、敢えて応じなかった。西魏の晉州刺史韋孝寬が玉壁を守った。城中から鉄面を出した。神武は兀盗に命じてこれを射させると、毎度その目に当てた。李業興の孤虚の術を用い、その北に攻め寄せた。北は天険である。そこで土山を築き、十道を穿ち、また東面に二十一道を穿って攻撃した。城中に水がなく、汾水から汲んでいた。神武は汾水の流れを変えさせ、一夜で完了した。孝寬は土山を奪い占拠した。軍を五十日留めたが、城は陥ちず、死者七万人、これを集めて一つの塚とした。星が神武の営に墜ち、衆驢が一斉に鳴き、士卒皆恐れ慄いた。神武は病を得た。十一月庚子、病を乗せて軍を返した。庚戌、太原公洋を鄴に鎮守させた。辛亥、世子澄を召して晉陽に至らせた。悪鳥が亭の樹に集まったので、世子は斛律光に命じてこれを射殺させた。己卯、神武は功績なく、都督中外諸軍事の任を解くことを上表した。魏帝は優詔を以てこれを許した。この時、西魏では神武が弩に中ったと伝えた。神武はこれを聞き、努めて坐して諸貴族に会見した。斛律金に勅勒歌を歌わせ、神武自らこれに和し、哀しみに感じて涙を流した。
侯景は平素より世子を軽んじ、かつて司馬子如に言ったことがある。「王(神武)がいる間は、私は異心を抱きません。王がおられなくなれば、鮮卑の小児(世子)と共に事を為すことはできません」と。子如はその口を押さえた。この時至り、世子が神武の書を作り、景を召した。景は先に神武と約束しており、書を得て、その背に微かに点があれば来るとしていた。書が届くと、点がなく、景は来なかった。また神武の病を聞き、ついに兵を擁して自らを固めた。神武は世子に言うには、「我は病ではあるが、汝の顔にはなお憂色がある。どうしたのか」と。世子は答えなかった。また問うて言うには、「侯景の叛くことを憂えているのではないか」と。答えて言うには、「そうです」と。神武は言うには、「景は河南を専制すること十四年、常に飛揚跋扈の志があった。ただ我が養えるからであり、どうして汝が御することができようか。今四方未だ定まらず、急いで哀しみを表してはならぬ。庫狄幹は鮮卑の老公、斛律金は勅勒の老公、共に性質剛直で、終に汝を負かすことはない。可朱渾道元・劉豊生は遠くより我に投じた者で、必ず異心はない。賀拔焉過兒は朴実で罪過なく、潘相樂は今は道人となったが、心和厚であり、汝兄弟はその力を得るであろう。韓軌は少し愚直であるから、寛大に扱うがよい。彭相樂は心腹として得難いから、よく防護するがよい。侯景に匹敵し得る者は、ただ慕容紹宗のみである。我はわざと彼を重用せず、汝に残してやったのだ。深く殊礼を加え、経略を委ねるがよい」と。
神武帝(高歓)の性格は深沈にして厳格、終日威厳があり、人はその心を測ることができず、機略権謀の際には変化神の如しであった。軍国大計に至っては、独自に胸中に運営し、文武の将吏もこれに関与することは稀であった。軍衆を統御するには法令厳粛、敵に臨んで勝利を制するには、方策は定まった形がなく、聴断は明察で欺くことができず、人を知り士を好み、勲旧をことごとく保護した。性格は行き届き、文教を行う時は常に懇切丁寧であった。事を指し心を論ずるに、綺麗な文飾を尊ばず、人を抜擢し任を授けるには、才能を得ることにあり、もしその堪えるところあれば、賤しい者からも抜擢し、虚名のみで実のない者は任用されることが稀であった。諸将が出討する時、方略を奉じて行えば、ことごとく勝利し、指示に違反すれば多く敗走した。質素を尊び、刀剣や鞍勒に金玉の飾りはなかった。若い頃は大酒を飲んだが、大任を担ってからは三杯を超えなかった。家に居ても官にいる如く、仁恕をもって士を愛した。初め范陽の盧景裕は明経で称され、魯郡の韓毅は書に巧みで顕れたが、共に謀逆の罪で捕らえられたが、恩恵を蒙り邸館に置かれ、諸子を教授した。文武の士で、節を尽くして事に従い捕らえられても罪に問われない者は多く、故に遠近帰心し、皆力を尽くそうと思った。南では梁国と和し、北では蠕蠕(柔然)を懐柔し、吐谷渾・阿至羅もことごとく招き入れ、その力を用い、遠大な規略であった。
世宗文襄帝
武定六年(548年)正月己未、文襄帝は鄴に朝見した。二月己卯、梁が使者を遣わして文襄帝を慰め、併せて和を通じることを請うた。文襄帝はその和を許したが返書はしなかった。侯景の反逆の時、南兗州刺史石長宣は大いに呼応し、諸州刺史・守・令・佐史多くは連座して誤った。景が破られた後、ことごとく捕らえられ、尚書は皆極刑に処せられたが、文襄帝はことごとく減刑を請い、ここに長宣を斬り、その他は皆寛大に宥した。三月戊申、文襄帝は朝臣及び牧・守・令・長に各々賢良及び驍武胆略で辺城を守るに堪える者を推挙することを請い、務めて才能を得ることにあり、元の職や素性に拘らない。称事六品・散官五品以上で朝廷が既に知っている者は、推挙の限りではない。称事七品・散官六品以下及び州・郡・県の雑白身(無官の者)は、在官・解職を問わず、皆推挙するに任せ、才能に随って進擢する。辛亥、文襄帝は南に黎陽に臨み、武牢で黄河を渡った。洛陽から、太行を経て晋陽に戻った。道中で朝士に書を遺わし、戒め励ました。ここに朝野は風化を受け、震え肅する者なくはなかった。六月、文襄帝は北辺の城戍を巡視し、振恤と賜与を各々差等をつけて行った。七月乙卯、文襄帝は鄴に朝見した。八月庚寅、晋陽に還った。大行臺慕容紹宗と太尉高嶽・大都督劉豊をして潁川で王思政を討たせた。先に、文襄帝は行臺尚書辛術に諸将を率いさせて江淮の北を攻略させたが、この時までに、獲た所は凡そ二十三州であった。
七年(五四九年)四月甲辰、魏帝(東魏孝静帝)は文襄(高澄)の位を相國に進め、齊王に封じ、緑綟綬を授け、拝礼の際に名を称さず、朝廷に入るに急ぎ足せず、剣を帯び履を穿いて殿上に上ることを許し、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間の五郡を食邑とし、封戸十五万戸とし、使持節・都督中外諸軍事・録尚書・大行臺の官は従前の如くとした。丁未、文襄は朝廷に入り、固く辞退したが、魏帝は許さなかった。五月戊寅、文襄は軍を率いて鄴より潁川へ赴いた。六月丙申、潁川を陥とし、西魏の大将軍王思政を生け捕りにしたが、その主君に忠節を尽くしたことを以て、釈放して賓客の礼をもって遇した。七月、文襄は鄴にて朝見し、魏帝に皇太子の立てを請うとともに、爵位と殊礼を再び辞退したが、返答はなかった。
八月辛卯、盗賊に遭って崩じた。初め、梁の将軍蘭欽の子の京が捕虜となり、文襄は彼を厨房に配属させた。蘭欽が身代金を出して贖おうとしたが、許されなかった。京が再び訴え出ると、文襄は厨房を監督する下僕の薛豊洛に命じて彼を杖打たせ、「さらに訴えるならば、汝を殺すであろう」と言った。京はその仲間六人と謀って乱を起こそうとした。時に文襄は魏の禅譲を受けようとしており、陳元康・崔季舒と左右を退けて北城東柏堂にて謀議していた。太史が啓上して言うには、宰輔星が甚だ微かであり、変事は一ヶ月以内に起こると。時に京が食事を進めようとしたが、文襄はこれを退け、人に「昨夜、この奴が我を斬る夢を見た」と言い、また「急いで殺してしまえ」と言った。京はこれを聞き、刀を盆の下に隠し、声を上げて食事を進めると称した。文襄はこれを見て怒り、「我はまだ食事を求めていない。どうして急に来るのか」と言った。京は刀を振りかざして「汝を殺さんとするのだ」と言った。文襄は自ら飛び退き、足に傷を負い、寝台の下に隠れた。賊の仲間が到着し、寝台を取り除いたため、ついに弑せられた。時に年二十九。秘して喪を発さなかった。翌年(五五〇年)正月辛酉、魏帝は太極殿東堂にて哀悼の礼を行い、詔して物八万段を贈り、凶事の礼は漢の大将軍霍光・東平王劉蒼の故事に依り、仮黄鉞・使持節・相國・都督中外諸軍事・齊王の璽紱を追贈し、巉輬車・黄屋左纛・後部羽葆鼓吹・軽車介士を備え、九錫の礼を具え、諡して文襄王と曰う。二月甲申、義平陵の北に葬られた。天保(北斉の年号)の初め、追尊して文襄皇帝と称し、廟号を世宗とし、陵を峻成と曰う。
文襄は姿容美しく、言笑を善くし、談謔の際にも、従容として弘雅であった。性質は聡明で機敏、多くの籌策を有し、朝廷に当たり相として、聴断流るるが如し。士を愛し賢を好み、礼をもってこれに接し、神武(高歓)の風有り。然れども少壮にして気性猛く、刑法を厳峻にした。高慎が西に叛き、侯景が南に翻ったのは、単に元来の心が狼戾であったばかりでなく、兼ねてまたその威略を恐れたためでもあった。情欲は奢淫に走り、行動は制度に背き、嘗て宮殿の西に邸宅を造営し、牆院は高く広く、聴事の堂は宏壮で、太極殿に次ぐものであった。神武が入朝し、これを責めたため、やっと止めた。
論
論じて曰く、昔、魏氏が統御を失い、中原は動揺離散した。齊の神武は晋州の地より起こり、冀方に大号し、屡戦して凶徒を剪滅し、一麾して京洛を清め、主君を尊び国を匡し、功は天下を済わした。既にして魏の武帝(孝武帝)は権威の逼迫を避けようと図り、天命の数が既に尽きたが、かえって関中と河東の分裂を速めることとなった。文襄は継いで霸道を受け、威略は昭著であり、内には奸逆を除き、外には淮夷を拓き、貪残を擯斥し、人物に情を存した。然れども志は峻法に在り、下を御するに急であり、前代の王者の徳とは、同じからざる所有り。蓋し天意と人心は、生を好み殺を悪む。吉凶報応は、未だ皆影響するとは限らぬ。総じて論ずれば、善を積めば慶多し。然れども文襄の禍が忽せにした所より生じたのは、蓋し由る所有り。