齊の高祖神武皇帝は姓は高氏、諱は歓、字は賀六渾、勃海郡蓚県の人である。六世の祖は隠、 晉 の玄菟太守であった。隠は慶を生み、慶は泰を生み、泰は湖を生み、三代にわたり慕容氏に仕えた。慕容宝が敗れると、国は乱れた。湖は衆を率いて魏に帰順し、右将軍となった。湖は四人の子を生んだ。第三子の謐は魏に仕え、位は侍御史に至ったが、法に坐して懐朔鎮に移り住んだ。謐は皇考の樹生を生んだ。樹生は性質がおおらかで、家業に専念しなかった。白道の南に住んでいたが、しばしば赤い光や紫の気の異変があった。隣人は怪しんで、移住して避けるよう勧めた。皇考は言った、「どうして吉兆でないとわかろうか」と。平然と住み続けた。神武が生まれると皇妣の韓氏が亡くなり、同腹の姉の婿である鎮の獄隊の尉景の家で養育された。
神武は累代北辺にいたので、その習俗に慣れ、ついに鮮卑と同化した。成長して深沈で大度があり、財を軽んじて士を重んじ、豪侠の宗とされた。目には精光があり、頭は長く頬骨は高く、歯は玉のように白く、幼少より人傑の表があった。家は貧しく、武明皇后を娶るに及んで初めて馬を得、鎮に給して隊主となった。鎮将の遼西の段長は常に神武の容貌を奇異とし、言った、「君には天下を安んじ救済する才があり、ついに徒然たることはあるまい」と。早くも子孫のことを託した。貴顕に至り、段長を 司空 に追贈し、その子の寧を抜擢して用いた。神武は隊主から函使に転じた。かつて駅馬に乗って建興を過ぎた時、雲霧が暗く立ち込め、雷声がそれに随い、半日してやんだ。神霊の応ずるものがあるかのようであった。道路を行くごとに、往来して風塵の色がなかった。またかつて衆星を踏んで行く夢を見、覚めて内心喜んだ。函使として六年、洛陽に至るたび、令史の麻祥に使役された。祥はかつて肉を神武に食べさせた。神武は立ったまま食事する性分でなく、座ってそれを進んだ。祥は自分を侮ったと思い、神武を四十回笞打った。
洛陽から帰ると、財産を傾けて客を結んだ。親戚や旧知が怪しんで尋ねると、答えて言った、「私が洛陽に至ると、宿衛の羽林が相率いて領軍の張彜の邸宅を焼き、朝廷はその乱れを恐れて問わなかった。政治がこのようであるなら、事の成り行きは知れたものである。財物などいつまでも守れるものか」と。ここより天下を澄ませようとする志を持つに至った。懐朔の省事の雲中の司馬子如および秀容の人劉貴、中山の人賈顯智と奔走の友となった。懐朔の戸曹史の孫騰、外兵史の侯景もまた友誼を結んだ。劉貴はかつて一羽の白鷹を得、神武および尉景、蔡俊、子如、賈顯智らと沃野で狩りをした。一匹の赤兎を見つけ、捕えようとするたびに逃げ、ついに遠くの沢に至った。沢の中に茅屋があり、逃げ込もうとした時、犬が屋中から出てきてこれを噛み、鷹も兎もともに死んだ。神武は怒り、鳴鏑でこれを射ると、犬は倒れた。屋中から二人の者が現れ、神武の襟を激しく掴んだ。その母は両目が見えず、杖を引きずり、二人の子を叱って言った、「どうして大家に触れるのか」と。甕の中から酒を出し、羊を煮て客をもてなした。そして自ら暗相が得意であると言い、諸人を遍く探り、皆が貴くなると言い、指麾はすべて神武によるものとした。また言った、「子如は歴位して顕要となるが、顯智は終わりを善くせず」と。飲み終え、数里行ってから、引き返してさらに訪ねた。すると元より人が住んでおらず、さきほどの者は人でなかったのである。ここにより諸人はますます敬い異とした。
孝昌元年、柔玄鎮の人杜洛周が上谷で反乱を起こすと、神武は同志とともにこれに従った。その行いを醜いと思い、密かに尉景、段栄、蔡俊と図ったが、果たせずに逃げ、その騎兵に追われた。文襄および魏の永熙后は皆幼く、武明后は牛の上で彼らを抱き負った。文襄はたびたび牛から落ち、神武は弓を引き絞って彼を射って決別しようとしたが、后が段栄に呼びかけて救いを求め、頼みに段栄が降りて取ったので免れた。ついに葛栄に奔り、また秀容の爾朱栄のもとに亡命して帰った。先に劉貴が爾朱栄に仕え、盛んに神武の美点を言っていたが、この時ようやく会うことができた。憔悴していたため、特に奇異とは思わなかった。劉貴は神武に着替えさせ、再び会見を求めた。爾朱栄の厩舎に随行したが、厩には悪馬がおり、栄はこれを手入れするよう命じた。神武は手綱もつけずに手入れし、ついに蹄で蹴ることも噛むこともなかった。やがて立ち上がって言った、「悪人を制するのもこの馬のようである」と。栄は神武を床下に座らせ、左右を退けて時事を訪ねた。神武は言った、「公が十二谷の馬を持ち、毛色別に群れをなしていると聞くが、これをいったい何に用いようとするのか」と。栄は言った、「ただお前の考えを言え」と。神武は言った、「今、天子は愚昧で弱く、太后は淫乱で、孽寵が命を擅にし、朝政は行われない。明公の雄武をもって、時に乗じて奮発し、鄭儼、徐紇を討って帝側を清めれば、覇業は鞭を挙げる間に成し遂げられよう。これが賀六渾の考えである」と。栄は大いに喜び、語り合いは日中から夜半に及んでやっと出た。ここより常に軍謀に参与した。
後に爾朱栄に従って 并 州に移り拠り、揚州の邑人龐蒼鷹の所に至り、囲焦の中に滞在した。外から帰るたび、主人は遠くから地を揺るがすような足音を聞いた。蒼鷹の母はたびたび囲焦の上に赤い気が天に連なるのを見た。また蒼鷹はかつて夜に入ろうとした時、青衣の人が刀を抜いて叱って言った、「どうして王に触れるのか」と。言い終わると見えなくなった。初めは怪しいと思い、密かに覗いた。ただ赤い蛇が床上に蟠っているのを見て、ますます驚異に思った。そこで牛を殺して肉を分け、厚くもてなした。蒼鷹の母は神武を義子にしたいと求めた。志を得てから、その邸宅を第とし、南宅と号した。門巷は開け広く、堂宇は高く麗しいが、元住んでいた囲焦は、石で塗り固め、留めて壊さなかった。文宣帝の時に至り、ついに宮となった。やがて爾朱栄は神武を親信 都督 とした。この時、魏の明帝は鄭儼、徐紇を恨み、霊太后を脅迫した。まだ制することができず、密かに爾朱栄に兵を挙げて内に向かわせた。栄は神武を前鋒とした。上党に至ると、明帝はまた密詔を下してこれを停止させた。帝が突然崩御すると、栄はついに洛陽に入った。そこで帝位を 簒 奪しようとしたが、神武が諫めたので聞き入れられず、像を鋳て占うことを請うた。鋳造が成功せず、やめた。孝荘帝が立つと、策定の功により、銅鞮伯に封ぜられた。爾朱栄が葛栄を撃つ時、神武に命じて賊の中で別に王を称する者七人を降伏させた。後に行臺の於暉とともに泰山で羊侃を破った。まもなく元天穆とともに済南で邢杲を破った。累遷して第三鎮人酋長となった。かつて爾朱栄の帳内にいた時、栄は左右に問うた、「一日私がいなくなったら、誰が軍を主とすることができるか」と。皆が爾朱兆と称した。栄は言った、「彼はただ三千騎を統率して帰還できるだけである。私に代わって衆を主としうる者は、ただ賀六渾のみである」と。そこで兆に戒めて言った、「お前は彼の匹敵する者ではなく、ついにはその子の鼻を穿たれることになろう」と。そこで神武を晋州刺史とした。ここにおいて大いに収斂を集め、劉貴を通じて爾朱栄の下の要人に賄賂を贈り、その意をことごとく得た。時に州の庫の角が故なくして自ら鳴り、神武はこれを怪しんだ。間もなく孝荘帝が爾朱栄を誅殺した。
爾朱兆が晋陽より兵を挙げて洛陽に赴かんとするに及び、神武を召す。神武は長史孫騰をして辞し、絳蜀・汾胡が反乱を企てているため、委ねて去ることはできないと告げさせたので、兆はこれを恨んだ。騰が復命すると、神武は言う、「兆が兵を挙げて上を犯すは、これ大賊なり。我は久しく彼に事えることはできぬ」と。ここより初めて兆を図る計略を抱いた。兆が洛陽に入り、孝荘帝を捕らえて北に連れ去ると、神武はこれを聞いて大いに驚いた。また孫騰をして偽って兆を賀させ、機会を窺って密かに孝荘帝の所在を探らせ、これを劫いて義挙を起こさんとしたが、果たせなかった。そこで書を以て兆を諭し、天子を捕らえて海内に悪名を受くべからざることを言った。兆は受け入れず、帝を殺して爾朱世隆らと長広王曄を立てた。元号を建明と改め、神武を平陽郡公に封じた。費也頭の紇豆陵歩藩が秀容に入り、晋陽に迫ると、兆は神武を徴発した。神武は行かんとしたが、賀抜焉過児が緩やかに行くことを請い、彼を疲弊させようとした。神武はそこで逗留し、河に橋がなく渡れないと辞退した。歩藩の軍勢は盛んで、兆は敗走した。初め、孝荘帝が爾朱栄を誅した時、その党に必ず逆謀あるを知り、密かに歩藩に勅して、その背後を襲わせたのである。歩藩は既に兆らを破り、兵勢日に盛んとなるに及び、兆はまた神武に救援を請うた。神武は内に兆を図りつつ、また歩藩が後に難除きとなることを慮り、兆と力を合わせてこれを破り、藩は死んだ。兆は深く神武に徳を感じ、誓って兄弟となった。
当時、世隆・度律・彦伯が共に朝政を執り、天光は関右を占め、兆は 并 州を占め、仲遠は東郡を占め、各々兵を擁して暴虐を働き、天下はこれに苦しんだ。葛栄の衆で 并 州・肆州に流入した者は二十余万、契胡に陵暴され、皆生計を立てられなかった。大小二十六の反乱があり、誅夷された者は半ばに及んだが、なお草窃が止まなかった。兆はこれを憂い、神武に計を問うた。神武は言う、「六鎮の反残は、尽く殺すべからず。宜しく王の素より腹心とする者を選び、密かにこれを統率させよ。もし犯す者あれば、その帥を罪すれば、罪する者は少なくなる」と。兆は言う、「善し。誰を行わしむべきか」と。賀抜允が時に座に在り、神武を請うた。神武は拳でこれを殴り、その歯を一本折り、「生平天柱(爾朱栄)の時、奴輩は処分に伏して鷹犬の如し。今日天下は王に安置せられ、而るに阿鞠泥(賀抜允の小字)敢えて下を誣い上を罔う。請うてこれを殺せ」と言った。兆は神武を誠実と見なし、遂にこれを委ねた。神武は兆が酔っているのを見て、醒めた後に疑心を生じることを恐れ、遂に出て宣言した、「州鎮の兵を統率することを委ねられた。汾水の東に集まり令を受けよ」と。乃ち牙を陽曲川に建て、部署を陳べた。軍門に款く者あり、絳の巾袍を着て、自ら梗楊の駅子と称し、左右に側わりたいと願う。訪ねると、力を以て聞こえ、嘗て 并 州市において人を扼殺した者であった。乃ち親信に署した。兵士は元より兆を憎み神武を喜んでいたので、ここに至って来らざる者はなかった。暫くして、また劉貴をして兆に請わせ、 并 州・肆州が頻年にわたり霜旱があり、降戸は黄鼠を掘って食い、皆顔に穀色なく、徒らに人の国土を汚すのみであるから、山東に就食させ、温飽を得てから処分することを請うた。兆はその議に従った。その長史慕容紹宗が諫めて言う、「不可なり。今四方擾擾として、人異望を懐く。況んや高公は雄略あり、又大兵を握る。将に為すべからざるなり」と。兆は言う、「香火の重誓あり、何をか慮る所あらん」と。紹宗は言う、「親兄弟すら尚お信じ難し。何をか香火を論ぜんや」と。時に兆の左右は既に神武より金を受けていたので、紹宗と神武に旧隙あることを讒し、兆は乃ち紹宗を禁錮して神武の発向を促した。神武は乃ち晋陽より出でて滏口に向かった。路にて爾朱栄の妻の郷郡長公主が洛陽より来るに逢い、馬三百匹を尽く奪い換えた。兆はこれを聞き、乃ち紹宗を釈放して問うた。紹宗は言う、「猶お掌握中の物なり」と。ここにおいて自ら神武を追い、襄垣に至った。時に漳水が暴漲し、橋が壊れた。神武は水を隔てて拝し言う、「公主の馬を借りた所以は、他故あらず、山東の盗賊に備えんがためなり。王は公主の言を受け、自ら追賜せんと来る。今河を渡って死すとも辞せず。然れどもこの衆は便ち叛かん」と。兆は自らこの意無きを陳べ、軽馬にて渡り、神武と幕下に坐し、謝罪を陳べ、遂に刀を授けて頭を引き、神武に己を斬らせんとした。神武は大いに哭し、「天柱(爾朱栄)薨背してより、賀六渾(高歓の字)更に何をか仰がん。願わくは大家(爾朱兆)千万歳にして、力を以て用いられんことを。今傍人の構間ここに至る。大家何ぞ忍びて復たこの言を出ださんや」と言った。兆は刀を地に投じ、遂に白馬を刑して盟い、誓って兄弟となり、留まって宿し夜飲した。尉景が壮士を伏せて兆を捕らえんとしたが、神武は臂を嚙んでこれを止め、「今彼を殺せば、その党必ず奔り帰り聚結す。兵飢え馬痩せ、相支うるべからず。若し英雄屈起すれば、則ち害を為すこと滋し。姑くこれを置くに如かず。兆は勁捷なれども、凶狡にして謀無く、図るに足らず」と言った。翌朝、兆は営に帰り、また神武を召した。神武は将に馬に上ってこれに詣らんとしたが、孫騰が衣を牽いて乃ち止めた。水を隔てて肆に罵り、馳せて晋陽に還った。兆の心腹の念賢が降戸の家累を領して別に営を為した。神武は偽ってこれと善しとし、その佩刀を観て、因ってこれを取りてその従者を殺し、尽く散らした。ここにおいて士衆皆悦び、倍にして附従を願った。
初め、北魏の真君年間(太武帝の時)、内学者が奏上して言う、上党に天子気あり、雲は壺関の大王山に在りと。武帝(太武帝)はここにおいて南巡して以てこれを厭当せんとした。石を累ねて三封と為し、その北の鳳皇山を斬ってその形を毀った。後に上党の人で晋陽に居る者を上党坊と号し、神武は実にここに居た。この行に及び、大王山に宿り、六十日を経て進んだ。将に滏口を出でんとするに、倍に約束を加え、繊毫の物も侵犯を聴さず。将に麦地を過ぎんとする時、神武は輙ち歩みて馬を牽いた。遠近これを聞き、皆高儀同(高歓)の兵を将いて整肅なるを称え、益々帰心した。遂に前進して鄴の北に屯し、相州刺史劉誕に糧を求めたが、誕は供給しなかった。軍営の租米有り、神武自らこれを取った。
北魏の普泰元年二月、神武の軍は信都に次し、高幹・封隆之が門を開いて待ち、遂に冀州を占拠した。この月、爾朱度律が元曄を廃して節閔帝を立て、神武を羈縻せんとした。三月、乃ち節閔帝に白し、神武を勃海王に封じ、征して入覲せしめんとしたが、神武は辞した。四月癸巳、また東道大行臺・第一鎮人酋長を加授された。龐蒼鷹が太原来奔し、神武はこれを行臺郎と為し、尋いで安州刺史と為した。神武は山東に向かうより以来、士を養い甲を繕った。兵の侵掠を禁じ、百姓帰心した。乃ち偽りの書を作り、爾朱兆が六鎮の人を以て契胡の部曲に配せんとすると言い、衆は皆愁いた。また 并 州の符を作り、兵を徴発して歩落稽を討たんとし、万人を発して将に遣わさんとした。孫騰・尉景が偽って五日間留まることを請い、このようにすること再び。神武は親しく郊外にこれを送り、雪涕して執別した。人号慟し、哭声地を動かした。神武は乃ちこれを諭し、「爾らと共に郷客を失い、義同一家なり。意わず上において乃ち爾くの如く徵召す。直ちに西に向かえば已に死すべく、後軍期また当に死すべく、国人に配せられまた当に死す。奈何」と言った。衆は言う、「唯だ反あるのみ」と。神武は言う、「反は急計なり。須らく一人を推して主とすべし」と。衆は神武を奉らんと願った。神武は言う、「爾らの郷里は制し難し。葛栄を見ざるか。百万の衆と雖も、刑法無くば、終に自ら灰滅す。今吾を以て主と為すは、当に前と異にすべし。漢児を欺くことを得ず、軍令を犯すことを得ず、生死吾に任せば、則ち可なり。然らずんば、天下の取笑を為す能わず」と。衆は皆頓顙し、死生唯だ命に従う。神武は言う、「若し已むを得ずば、明日、牛を椎きて士を饗し、爾朱兆を討つ意を以て諭さん」と言った。封隆之が進みて言う、「千載一時、普天幸甚」と。神武は言う、「賊を討つは大順なり。時を拯うは大業なり。吾武ならずと雖も、死を以てこれに継がん。何ぞ敢えて譲らんや」と。
六月庚子の日、信都にて義兵を挙げたが、未だ爾朱氏に公然と背くことはなかった。李元忠が高幹と共に殷州を平定し、爾朱羽生の首を斬って来謁すると、神武帝は胸を打って言った、「今日こそ反逆を決行するぞ」。そこで元忠を殷州刺史に任じた。この時、兵威は既に振るい、爾朱氏の罪状を上表して弾劾した。世隆らはその上表を秘して通さなかった。八月、爾朱兆が殷州を攻め落とし、李元忠が来奔した。孫騰は、朝廷との連絡が絶たれている以上、仮の天子を立てなければ、衆望が繋がる所がないと考えた。十月壬寅の日、章武王元融の子で勃海太守の朗を奉じて皇帝とし、年号を中興とし、これが廃帝である。時に度律・仲遠の軍は 晉 陽に駐屯し、爾朱兆がこれと合流した。神武帝は竇泰の策を用い、反間の計を放った。度律・仲遠は戦わずして退き、神武帝は広阿において爾朱兆を破った。十一月、鄴を攻めた。相州刺史劉誕は城に拠って固守した。神武帝は土山を築き、地下道を掘り、所々に大きな柱を建てて一度に焼き払い、城を地中に陥没させた。麻祥は当時湯陰県令であったが、神武帝が彼を「麻都」と呼んだので、麻祥は恥じて逃げ去った。
永熙元年正月壬午の日、 鄴城 を陥落させ、これを占拠した。廃帝は神武帝を大丞相・柱国大将軍・太師に進めた。この時、青州建義大 都督 崔霊珍・大 都督 耿翔はいずれも使者を遣わして帰順し、汾州事務を代行していた劉貴は城を棄てて来降した。閏三月、爾朱天光は長安より、兆は 并 州より、度律は洛陽より、仲遠は東郡より、一同鄴に会した。兵数は二十万と号し、洹水を挟んで陣を布いた。節閔帝は長孫承業を行臺尚書とし、これを総督させた。神武帝は封隆之に鄴を守らせ、自らは出て紫陌に駐屯した。当時、馬は二千に満たず、歩兵は三万に至らず、衆寡敵せず。そこで韓陵に円陣を布き、牛や驢をつないで退路を塞いだ。ここにおいて将士は皆死を決し、四方から敵に赴いて撃った。爾朱兆は神武帝に己に背いたことを責めた。神武帝は言った、「そもそも力を合わせるのは、共に王室を輔けるためである。今、帝はどこにおられるか」。兆は言った、「永安(孝荘帝)が天柱大将軍(爾朱栄)を枉げて害したので、私は仇を討つだけだ」。神武帝は言った、「私はかつて天柱の謀議を親しく聞いた。汝は戸の前に立っていたではないか、どうして謀反でないと言えようか。そもそも君が臣を殺すこと、何の仇討ちがあろう。今日、義は絶えた」。そこで合戦し、大いにこれを破った。爾朱兆は慕容紹宗に胸を叩いて言った、「公の言を用いなかったために、こうなった」。軽装で逃げようとしたが、紹宗は旗を翻し角を鳴らして、散り散りの兵卒を収集し、軍容を整えて西へ向かった。高季式は七騎で追撃し、野馬崗を越え、兆と遭遇した。高昂はそれを見届けられず、泣いて言った、「我が弟を失った」。夜更けに、季式が帰還し、袖には血が満ちていた。斛斯椿は倍の速さで進み先に河橋を占拠した。初め、普泰元年十月、歳星・熒惑・鎮星・太白が觜宿・参宿に集まり、色は甚だ明るかった。太史が占って言うには、王者が興るであろうと。この時、神武帝は信都にて挙兵し、ここに至って兆らを破ったのである。四月、斛斯椿は天光・度律を捕らえて洛陽に送った。長孫承業は 都督 賈顕智・張歓を遣わして洛陽に入らせた。世隆・彦伯を捕らえて斬った。兆は 并 州に奔り、仲遠は梁州に奔り、遂にそこで死んだ。時に凶徒が既に除かれ、朝廷は慶賀して喜んだ。初め、戦いの前月、章武の人張紹は夜中に突然数騎の将に連れられて城を越え、一大将軍の前に至った。大将軍は紹に命じて軍の先導を鄴に向かわせ、天命を受けた者を助けて残賊を除くと言った。紹が振り返って見ると、兵は数知れず、整然として疾く、音もなかった。鄴に近づくと、ようやく放免された。合戦の日、爾朱氏の軍人は陣の外に兵馬が四方から迫るのを見たが、これは神の助けであった。
やがて神武帝は洛陽に至り、節閔帝及び中興主(廃帝朗)を廃して孝武帝を立てた。孝武帝が即位すると、神武帝に大丞相・天柱大将軍・太師を授け、定州刺史を世襲させ、封戸を増やして前と合わせて十五万戸とした。神武帝は天柱大将軍を辞し、封戸五万を減じた。壬辰の日、鄴に帰還する際、魏帝は幹脯山で餞別し、手を執って別れた。七月壬寅の日、神武帝は軍を率いて爾朱兆を北伐した。封隆之が言うには、侍中斛斯椿・賀抜勝・賈顕智らはかつて爾朱氏に仕え、皆反 噬 した者である。今、京師で寵愛任用されているが、必ず禍いの隙を構えるであろうと。神武帝は深くもっともだと思った。そこで天光・度律を京師に帰し、斬らせた。遂に自ら滏口より入った。爾朱兆は 晉 陽を大いに掠奪し、北の秀容を保ち、 并 州は平定された。神武帝は 晉 陽が四方を要害に囲まれているため、大丞相府を建ててここに定住した。爾朱兆は秀容に至ると、兵を分けて険要を守り、出入りして寇掠した。神武帝は討伐の声を揚げたが、軍を出しては数度にわたり停止させたので、兆の警戒心は緩んだ。神武帝は、年の初めには宴会を開くであろうと推測し、竇泰に精鋭の騎兵を率いて急襲させた。一日一夜に三百里を行き、神武帝は大軍を率いてその後を継いだ。
二年正月、竇泰は突然爾朱兆の本拠に到達した。兵士たちは宴会で休み怠けていたところ、突然泰の軍を見て驚いて逃げた。赤洪嶺で追撃してこれを破った。兆は自縊した。神武帝は自ら臨み、手厚く葬った。慕容紹宗は爾朱栄の妻子及び残った兵衆を率いて烏突城に拠って自保した。降伏すると、神武帝は故義のため彼を甚だ厚く遇した。神武帝が洛陽に入った時、爾朱仲遠の部下の 都督 橋寧・張子期が滑臺から帰順した。神武帝は彼らが乱を助け、かつ数度反覆したとして、皆斬った。斛斯椿はこれにより内心安からず、南陽王宝炬及び武衛将軍元毗・魏光祿・王思政と共に魏帝に神武帝を讒構した。舎人元士弼もまた、神武帝が詔勅を受ける際に大不敬があったと上奏した。故に魏帝は賀抜嶽に心を寄せるようになった。初め、孝明帝の時、洛下で両つの「拔」が互いに打ち合うという謡言があった。「銅拔が鉄拔を打つ、元家の世に将末す」と。好事の者は二つの「拔」を拓拔・賀拔とし、共に衰敗の兆しであると言った。
時に 司空 高幹が密かに神武帝に啓上し、魏帝が心変わりしたことを伝えた。神武帝はその書を封じて魏帝に呈上すると、魏帝は高幹を殺した。また、東徐州刺史潘紹業を遣わし、密かに長楽太守龐蒼鷹に勅して、その弟の昂を殺させようとした。昂は先に兄の死を聞き、槊で柱を刺し、壮士を伏せて路上で紹業を捕らえた。袍の襟から勅書を得て、遂に来奔した。神武帝はその首を抱えて泣き言った、「天子が枉げて 司空 を害した」。急いで白武幡を持たせてその家族を労った。時に高幹の次弟の慎は光州におり、政務は厳猛で、また部下に収奪を放任していたため、魏帝は彼に代わる者を遣わした。慎は難を聞き、梁に奔ろうとした。その配下が言うには、「公の家は勲功重く、必ずや兄弟が相反することはないでしょう」。そこでぼろ衣を着て鹿車を推して勃海に帰った。使者に逢い、これも来奔した。ここにおいて魏帝と神武帝の間に隙が生じた。阿至羅の虜(部族)は正光以前は常に藩属を称していたが、魏朝に多事が続くにつれ、皆叛いた。神武帝は使者を遣わして招き入れ、すぐに帰順した。先に、寇賊が平定されたとして詔により行臺が廃止されていた。ここに至って異俗の民が帰降したため、再び神武帝を行臺尚書に任じ、機に応じて処分させた。神武帝は彼らに粟帛を与えたが、議論する者は徒らに費やして益がないと考えた。神武帝は従わず、以前のように撫慰した。その酋帥の吐陳らは恩を感じ、皆指麾に従った。曹泥を救い、万俟受洛幹を得て、大いにその用を収めた。河西の費也頭の虜(部族)紇豆陵伊利は苦池河に居住し、険要を恃み衆を擁していた。神武帝は長史侯景を遣わして度々招いたが従わなかった。
天平元年正月壬辰、神武は西征して費也頭の虜紇豆陵伊利を河西にて伐ち、これを滅ぼし、その部落を河東に遷す。二月、永寧寺の九層浮屠に災いあり。既にして東萊より至る人有り、雲ふ、及び海上の人皆海中に之を見る、俄かに霧起こり、乃ち滅す。説く者は以て天意と為す。若し曰く、「永寧災を見るは、魏寧からざるなり。東海に飛び入るは、勃海応ずるなり」と。魏帝既に異図有り、時に侍中封隆之と孫騰と私に言ふ、隆之は妻を喪へり、魏帝は以て従妹を妻せんと欲す。騰も亦未だ之を信ぜず、心に隆之を害し、其の言を斛斯椿に泄らす、椿は以て魏帝に白す。又孫騰は仗を帯びて省に入り、擅に御史を殺し、並びに亡来して奔る、称す魏帝は舎人梁続を前に於いて撾つと。光禄少卿元子幹は臂を攘めて之を撃ち、騰に謂ひて曰く、「爾の高王に語れ、元家の児の拳正に此の如し」と。領軍婁昭は疾を辞して晋陽に帰る。魏帝は是に於いて以て斛斯椿に領軍を兼ね領せしめ、督将及び河南・関西の諸刺史を分置す。華山王鷙は徐州に在り、神武は邸珍をして其の管龠を奪はしむ。建州刺史韓賢・済州刺史蔡俊は皆神武と同義なり、魏帝之を忌む。故に建州を省して以て賢を去り、御史中尉綦俊をして俊の罪を察せしめ、開府賈顕智を以て済州と為す、俊之を拒む。魏帝愈々怒る。
五月、詔を下し、雲ふ将に句呉を征せんとし、河南諸州の兵を発し、宿衛を増し、河橋を守らしむ。六月丁巳、密かに神武に詔して曰く、「宇文黒獺自ら秦・隴を平破してより、非分を多く求め、脱ふるに変常有らば、事資るに経略を以てす。但だ表啓未だ全く背戾せず、進討の事匆匆に渉る。遂に群臣を召し、其の可否を議す。僉に言ふ、仮に南伐と称し、内外戒厳す。一には則ち黒獺の不虞を防ぎ、二には則ち呉楚を威すべし」と。時に魏帝将に神武を伐たんとす。神武将帥を部署し、慮り疑はるるを慮り、故に此の詔有り。神武乃ち表して曰く、「荊州は蛮左に綰接し、畿服に密邇す。関隴は遠きを恃み、将に逆図有らんとす。臣今潜かに兵馬三万を勒し、擬て河東より渡らんとす。又恒州刺史庫狄幹・瀛州刺史郭瓊・汾州刺史斛律金・前武衛大将軍彭楽に兵四万を擬へしめ、其の来違津より渡らしめんとす。領軍将軍婁昭・相州刺史竇泰・前瀛州刺史堯雄・ 并 州刺史高隆之に兵五万を擬へしめ、以て荊州を討たしめんとす。冀州刺史尉景・前冀州刺史高敖曹・済州刺史蔡俊・前侍中封隆之に、山東の兵七万、突騎五万を擬へしめ、以て江左を征せしめんとす。皆部を約勒し、処分を聴くに伏す」と。魏帝其の変を覚知し、乃ち神武の表を出し、群官をして之を議せしめ、神武の諸軍を止めんと欲す。神武乃ち 并 に在る僚佐を集め、其の博議を令す。還た表を以て聞こえ、仍ち信誓を以て自ら忠款を明らかにして曰く、「臣は嬖佞の間せらるる所と為り、陛下一旦疑ひを賜ひ、猖狂の罪を令す、爾朱の時の計なり。臣若し誠を尽くし節を竭くさず、敢へて陛下に負かば、則ち身天殃を受けて、子孫殄絶せしめん。陛下若し赤心を信じて垂れ、干戈を動かさしめず、佞臣一二人、願くは斟量して廃出せしめよ」と。辛未、帝復た在京の文武の議意を録し、以て神武に答ふ。舎人温子升をして勅を草せしむ、子升逡巡して未だ敢て作さず。帝胡床に据り剣を抜き色を作す、子升乃ち勅を為して曰く。
初め、神武京師より将に北せんとし、以て洛陽は久しく喪乱を経て、王気衰へ尽き、山河の固き有りと雖も、土地褊狭にして、鄴に如かずと為し、遷都を請ふ。魏帝曰く、「高祖河洛に鼎を定め、永永の基と為す。制度を経営し、世宗に至りて乃ち畢る。王既に功は社稷に在り、宜しく太和の旧事に遵ふべし」と。神武詔を奉ず。是に至りて、復た之を謀る。兵千騎を遣はして建興を鎮め、河東及び済州の兵を益し、白溝に於いて虜船し、洛に向かふを聴かず、諸州和糴の粟を、 鄴城 に運入す。魏帝又神武に勅して曰く、「王若し人情を厭伏し、物議を杜絶せんと欲せば、唯だ河東の兵を帰し、建興の戍を罷め、相州の粟を送り、済州の軍を追ひ、蔡俊に代を受けしめ、邸珍をして徐を出さしむるに在り。戈を止め馬を散じ、各々家業に事へしめよ。脱ふるに糧廩を須ふれば、別に転輸を遣はす。則ち讒人舌を結び、疑悔生ぜず。王は太原に高枕し、朕は京洛に垂拱し、終に足を挙げて河を渡り、干戈を以て相指さず。王若し馬首南に向かひ、鼎の軽重を問はば、朕武無しと雖も、止めんと欲して能はず。必ず社稷宗廟の為めに、万死の策を出さん。決は王に在り、朕の能く定むる所に非ず。山を為して簣を止む、相為に之を惜しむ」と。
魏帝時に任祥を以て兼尚書左僕射と為し、開府を加ふ。祥は官を棄て走りて河北に至り、郡を拠りて神武を待つ。魏帝乃ち文武の官に勅し、北来の者は去留に任す。詔を下して神武を罪状し、北伐を経営す。神武亦馬を勒めて宣告して曰く、「孤爾朱の権を擅にするに遇ひ、大義を四海に挙ぐ。主上を奉戴し、義幽明に貫く。横に斛斯椿の讒構せらるる所と為り、誠節を以て逆首と為す。昔趙鞅晋陽の甲を興し、君側の悪人を誅す。今者南邁するは、椿を誅するのみ」と。高昂を以て前鋒と為し、曰く、「若し 司空 の言を用ひば、豈に今日の挙有らんや」と。司馬子如神武に答へて曰く、「本より小なる者を立てんと欲するは、正に此の為めなり」と。魏帝関右に兵を征す。賀抜勝を行在所に赴かしめ、大行臺長孫承業・大 都督 潁川王斌之・斛斯椿を遣はして共に武牢を鎮めしむ。汝陽王暹をして石済を鎮めしめ、行臺長孫子彦に前恒農太守元洪略を帥ひて陜を鎮めしめ、賈顕智に 豫 州刺史斛斯元寿を率ひて蔡俊を伐たしむ。神武竇泰と左箱大 都督 莫多婁貸文をして顕智を逆はしめ、韓賢をして暹を逆はしむ。元寿の軍は泰に降る。貸文は顕智と長寿津に遇ふ、顕智陰に降るを約し、軍を引いて退く。軍司元玄之を覚り、馳せ還りて師を益すを請ふ。魏帝大 都督 侯幾紹を遣はして之に赴かしめ、滑臺の東に戦ふ。顕智は軍を以て降り、紹死す。
七月、魏帝みずから大軍を率いて河橋に駐屯した。神武は河北十余里の地に至り、再び使者を遣わして誠意を表明したが、魏帝は返答しなかった。神武はそこで軍を率いて黄河を渡った。魏帝は群臣に策を問うた。ある者は賀抜勝を頼って南に依ると言い、ある者は関中に西就すると言い、ある者は洛口を守って死戦すると言い、決まらなかった。そのうち元斌之が斛斯椿と権力を争って不和となり、斌之は椿を捨てて直ちに帰還し、帝を欺いて神武の軍が来たと偽った。即日、魏帝は長安に逃れた。己酉、神武は洛陽に入り、永寧寺に滞在した。八月甲寅、百官を召集して言うには、「臣たるものは主君に仕え、危乱を匡救すべきである。内にあって諫争せず、外に出て陪従せず、平時には寵愛と栄誉に耽り争い、急時には逃げ失せるようでは、臣下の節義はどこにあるのか!」そこで開府儀同三司の叱列延慶、兼尚書左僕射の辛雄、兼吏部尚書の崔孝芬、都官尚書の劉廞、兼度支尚書の楊機、 散騎常侍 の元士弼を捕らえ、皆これを殺し、二心ある者を誅したのである。士弼は家眷を没官した。神武は万機が廃れてはならぬと考え、百僚と議した。清河王元亶を大司馬とし、尚書の下舎に居て制を承り事を決することとした。王が警蹕を称したので、神武はこれを醜いと思った。神武はまもなく弘農に至り、ついに西進して潼関を陥とし、毛洪賓を捕らえた。長城に進軍すると、龍門 都督 の薛崇礼が降った。神武は河東に退き、行臺尚書長史の薛瑜に潼関を守らせ、大 都督 の庫狄溫に封陵を守らせ、蒲津の西岸に城を築いて華州を守り、薛紹宗を刺史とし、高昂に 豫 州の事務を行わせた。神武が晋陽を発してここに至るまで、合わせて四十通の啓上をしたが、魏帝は皆返答しなかった。
九月庚寅、神武は洛陽に還った。そこで僧の道栄を遣わして関中に表を奉ったが、またも返答がなかった。そこで百官・沙門・耆老を集め、推し立てるべき者を議した。孝昌以来の衰乱により、国統が中絶し、神主が依る所なく、昭穆の序を失ったこと、永安年間に孝文帝を伯としたこと、永熙年間に孝明帝を夾室に遷したことが、業を喪い祚が短かった原因であると考えた。そこで清河王の世子善見を立てることを議した。議が定まり、清河王に告げると、王は言った、「天子に父はない。もし我が子を立てるならば、余生を惜しまぬ。」そこでこれを立てた。これが孝静帝である。魏はここに始めて二つに分かれた。神武は孝武帝が既に西に去り、崤・陜を脅かすことを恐れ、洛陽はまた河外にあって梁の国境に近く、晋陽に向かうには形勢上連絡が取れないと考えた。議に従って鄴に遷都することとした。護軍の祖瑩がこれを支持した。詔が下って三日、車駕はただちに出発し、四十万戸が狼狽して道についた。神武は洛陽に留まって処分し、事が終わると晋陽に還った。これより軍国の政務はすべて相府に帰した。以前から童謡に「可憐青雀子、飛来 鄴城 里。羽翮垂欲成、化作鸚鵡子」とあった。好事者はひそかに言うには、雀子は魏帝の清河王を指し、鸚鵡は神武を指すという。初め、孝昌年間に、山胡の劉蠡升が天子を自称し、年号を神嘉とし、雲陽谷に居た。西土は毎年その寇掠を受け、これを胡荒と呼んだ。
二年正月、西魏の渭州刺史可朱渾道元が衆を擁して内属を願い出たので、神武はこれを迎え入れた。壬戌、神武は劉蠡升を襲撃し、これを大破した。己巳、魏帝は詔を下して神武を褒め、相国とし、黄鉞を仮授し、剣履上殿、入朝不趨を許した。神武は固く辞した。三月、神武は娘を蠡升の太子に娶せようとし、その不備に乗じようとした。辛酉、密かに軍を率いて襲撃した。その北部王が蠡升の首を斬って送ってきた。その衆はまたその子の南海王を立てた。神武は進撃して、また南海王を捕らえ、その弟の西海王・北海王・皇后・公卿以下四百余人、胡・魏五万戸を獲得した。壬申、神武は鄴に朝見した。四月、神武は遷都した民にそれぞれ差等をつけて食糧を給することを請うた。九月甲寅、神武は州・郡・県の官が多く法に背いているとして、使者を出して人民の疾苦を問うことを請うた。
三年正月甲子、神武は庫狄幹ら一万騎を率いて西魏の夏州を襲った。自ら火食せず、四日で到着し、槊を縛って梯とし、夜にその城に入り、その刺史の費也頭賀抜俄弥突を生け捕りにし、そのまま用いた。 都督 の張瓊を留めて鎮守させ、その部落五千戸を移して帰った。西魏の霊州刺史曹泥とその婿の涼州刺史劉豊が使者を遣わして内属を請うた。周文が泥を包囲し、水を引いてその城を灌漑した。水に沈まないところは四尺のみであった。神武は阿至羅に命じて騎兵三万を発し、直ちに霊州を渡り、西軍の背後に回り出させ、馬五十匹を獲たので、西師は退いた。神武は騎兵を率いて泥と豊生を迎え、その残りの戸五千を抜き取って帰り、泥の官爵を復した。魏帝は詔を下して神武に九錫を加えようとしたが、固く辞したので、やめた。二月、神武は阿至羅に命じて西魏の秦州刺史建忠王万俟普撥を脅迫させ、神武は衆を率いてこれに応じた。六月甲午、普撥はその子の太宰受洛幹・豳州刺史の叱干宝楽・右衛将軍の破六韓常および督将三百余人とともに部衆を擁して来降した。八月丁亥、神武は斗尺を均一にすることを請い、天下に頒布した。九月辛亥、汾州の胡の王迢触・曹貳龍が衆を集めて反した。百官を置き、年号を平都とし、神武はこれを討って平定した。十二月丁丑、神武は晋陽より西討し、兼僕射行臺の汝陽王元暹・ 司徒 の高昂らを遣わして上洛に向かわせた。大 都督 の竇泰は潼関より入った。
四年正月癸丑、竇泰の軍は敗れて自殺した。神武の軍は蒲津に駐屯したが、氷が薄く赴いて救援できなかったので、ついに軍を返した。高昂は上洛を攻略した。二月乙酉、神武は 并 ・肆・汾・建・晋・東雍・南汾・秦・陜の九州が霜害と旱魃に見舞われ、人々が飢えて流散しているとして、所在の倉を開いて救済給付することを請うた。六月壬申、神武は天池に行き、瑞石を獲た。隠然と文字が浮き出ており、「六王三川」とあった。十一月壬辰、神武は西討し、蒲津から渡河し、衆二十万であった。周文は沙苑に軍を置いた。神武は地勢が険しいため少し退いたところ、西人が鬨の声をあげて進んだ。軍は大乱し、器甲十八万を棄てた。神武は駱駝に跨り、船を待って帰還した。
元象元年三月辛酉、神武は固く丞相の職を解くことを請い、魏帝はこれを許した。四月庚寅、神武は鄴に朝見した。壬辰、晋陽に還った。酒禁を解き、併せて宿衛の武官を救済恤むことを請うた。七月壬午、行臺の侯景・ 司徒 の高昂が西魏の将軍獨孤信を金墉に包囲した。西魏帝と周文がともに来援した。大 都督 の庫狄幹が諸将を率いて先鋒となり、神武は衆を総べて続いて進んだ。八月辛卯、河陰で戦い、西魏軍を大破し、数万を俘獲した。 司徒 の高昂・大 都督 の李猛・宗顯がこれに死んだ。西師の敗北に際し、獨孤信は先に関中に入り、周文はその 都督 の長孫子彦に金墉を守らせ、ついに営を焼いて遁走した。神武は兵を遣わして追撃して崤に至ったが、追いつかずに還った。初め、神武は西師が侵攻してくるのを知り、晋陽より衆を率いて馳せ赴いた。孟津に至ったが、渡河しないうちに軍に勝敗があった。やがて神武が黄河を渡ると、子彦もまた城を棄てて走った。神武はついに金墉を破壊して還った。十一月庚午、神武は京師に朝見した。十二月壬辰、晋陽に還った。
興和元年七月丁丑、魏帝は神武を相国・録尚書事に進めた。固く辞したので、やめた。十一月乙丑、神武は新宮が完成したので、鄴に朝見した。魏帝は神武と宴射し、神武は階下に降りて賀した。また勃海王及び 都督 中外諸軍事の任を辞したが、詔は許さなかった。十二月戊戌、神武は晋陽に還った。
二年十二月、阿至羅の別部が使者を遣わして降伏を請うたので、神武は兵を率いてこれを迎えに出て、武州塞を出たが、見えなかった。大いに狩猟を行って帰還した。
三年五月、神武は北境を巡行し、使者を遣わして蠕蠕と通好した。
四年五月辛巳、神武は鄴に参朝した。百官に対し、毎月面会して政事を陳述させることを請うた。側微の者を明らかに揚げ、諫言を納れ邪佞を退けること。自ら獄訟を処理し、勤怠を褒貶すること。牧守に過失があれば、等級に従って連座させること。後宮においては、妃嬪を進める順序を定めること。後園の鷹犬は、全てこれを棄てること。六月甲辰、神武は 晉 陽に還った。九月、神武は西征した。十月己亥、西魏の儀同三司王思政を玉壁城に包囲した。敵を誘い出そうとしたが、西軍は敢えて出撃しなかった。十一月癸未、神武は大雪のため、士卒多く死んだので、ついに軍を返した。
武定元年二月壬申、北 豫 州刺史高慎が武牢を拠り西叛した。三月壬辰、周文が兵を率いて高慎を救援し、河橋南城を包囲した。戊申、神武は芒山においてこれを大いに破り、西魏の督将以下四百余人を捕え、捕虜斬首は六万に及んだ。この時、軍士に驢を盗み殺した者がおり、軍令では死罪に当たった。神武は殺さず、 并 州に至ってこれを処断しようとした。翌日、再び戦い、西軍に奔って、神武の所在を告げたので、西軍は精鋭を尽くして攻めてきた。衆は潰え、神武は馬を失い、赫連陽順が下馬して、これを神武に授け、蒼頭の馮文洛と共に扶けて馬上に上げ、共に逃走した。従う者は歩騎六七人であった。追騎が至ると、親信 都督 の尉興慶が言うには、「王は去れ。興慶の腰辺に百の矢あり、百人を殺すに足る」と。神武はこれを励まして言うには、「事が成れば、汝を懐州刺史とする。もし死ねば、汝の子を用いよう」と。興慶は言うには、「子は幼い。兄を用いることを願う」と。これを許した。興慶は戦い、矢尽きて死んだ。西魏の太師賀拔勝が十三騎を以て神武を追い、河州刺史劉洪徽がそのうち二騎を射当てた。勝の槊が神武に中らんとした時、段孝先が横から勝の馬を射て倒したので、ついに免れた。 豫 ・洛二州が平定され、神武は劉豐に追撃と土地の巡行を命じ、恒農に至って還った。七月、神武は周文に書を送り、孝武帝を殺した罪を責めた。八月辛未、魏帝は詔して神武を相国・録尚書事・大行臺とし、その他は元の通りとした。固く辞したので、やめた。この月、神武は肆州北山に城を築くことを命じ、西は馬陵戍から、東は土隥に至るまで、四十日で完了した。十二月己卯、神武は京師に参朝した。庚辰、 晉 陽に還った。
二年三月癸巳、神武は冀・定二州を巡行し、ついで京師に参朝した。冬春の旱魃のため、租税の免除、窮乏の救済、死罪以下の赦免を請うた。また老人に板職を授けること、それぞれ等級を異にすることを請うた。四月丙辰、神武は 晉 陽に還った。十一月、神武は山胡を討ち、これを破り平定した。俘獲一万余戸を諸州に分配した。
三年正月甲午、開府儀同三司爾朱文暢・開府司馬任胄・ 都督 鄭仲禮・中府主簿李世林・前開府参軍房子遠らが神武を害そうと謀り、十五日の夜の打蔟(火祭り)に乗じ、刃を懐いて入ろうとした。その同党の薛季孝が告げたので、皆誅殺された。丁未、神武は 并 州に 晉 陽宮を置き、配流された者を住まわせることを請うた。三月乙未、神武は鄴に参朝した。丙午、 晉 陽に還った。十月丁卯、神武は上言し、幽・安・定三州は北で奚・蠕蠕と接するので、険要の地に城戍を修築してこれを防ぐことを請うた。自ら臨んで巡視し、厳重堅固でない所はなかった。乙未、神武は芒山の捕虜の桎梏を解き、世間の寡婦に配偶させることを請うた。
四年八月癸巳、神武は西伐しようとし、鄴から 晉 陽で兵を集めた。殿中將軍曹魏祖が言うには、「なりませぬ。今八月は西方の王(酉)の月であり、死気が生気に逆らう。客軍には不利、主人たる守軍には可なり。兵を行えば、大将を傷つけましょう」と。神武は従わなかった。東西魏が兵を構えて以来、鄴の都では毎度先に黄と黒の蟻が陣をなして戦った。占う者は、黄は東魏の戎衣の色、黒は西魏の戎衣の色であり、世間ではこれによって勝敗を占った。この時、黄蟻が全て死んだ。九月、神武は玉壁を包囲して西軍を挑発したが、敢えて応じなかった。西魏の 晉 州刺史韋孝寬が玉壁を守った。城中から鉄面を出した。神武は兀盗に命じてこれを射させると、毎度その目に当てた。李業興の孤虚の術を用い、その北に攻め寄せた。北は天険である。そこで土山を築き、十道を穿ち、また東面に二十一道を穿って攻撃した。城中に水がなく、汾水から汲んでいた。神武は汾水の流れを変えさせ、一夜で完了した。孝寬は土山を奪い占拠した。軍を五十日留めたが、城は陥ちず、死者七万人、これを集めて一つの塚とした。星が神武の営に墜ち、衆驢が一斉に鳴き、士卒皆恐れ慄いた。神武は病を得た。十一月庚子、病を乗せて軍を返した。庚戌、太原公洋を鄴に鎮守させた。辛亥、世子澄を召して 晉 陽に至らせた。悪鳥が亭の樹に集まったので、世子は斛律光に命じてこれを射殺させた。己卯、神武は功績なく、 都督 中外諸軍事の任を解くことを上表した。魏帝は優詔を以てこれを許した。この時、西魏では神武が弩に中ったと伝えた。神武はこれを聞き、努めて坐して諸貴族に会見した。斛律金に勅勒歌を歌わせ、神武自らこれに和し、哀しみに感じて涙を流した。
侯景は平素より世子を軽んじ、かつて司馬子如に言ったことがある。「王(神武)がいる間は、私は異心を抱きません。王がおられなくなれば、鮮卑の小児(世子)と共に事を為すことはできません」と。子如はその口を押さえた。この時至り、世子が神武の書を作り、景を召した。景は先に神武と約束しており、書を得て、その背に微かに点があれば来るとしていた。書が届くと、点がなく、景は来なかった。また神武の病を聞き、ついに兵を擁して自らを固めた。神武は世子に言うには、「我は病ではあるが、汝の顔にはなお憂色がある。どうしたのか」と。世子は答えなかった。また問うて言うには、「侯景の叛くことを憂えているのではないか」と。答えて言うには、「そうです」と。神武は言うには、「景は河南を専制すること十四年、常に飛揚跋扈の志があった。ただ我が養えるからであり、どうして汝が御することができようか。今四方未だ定まらず、急いで哀しみを表してはならぬ。庫狄幹は鮮卑の老公、斛律金は勅勒の老公、共に性質剛直で、終に汝を負かすことはない。可朱渾道元・劉豊生は遠くより我に投じた者で、必ず異心はない。賀拔焉過兒は朴実で罪過なく、潘相樂は今は道人となったが、心和厚であり、汝兄弟はその力を得るであろう。韓軌は少し愚直であるから、寛大に扱うがよい。彭相樂は心腹として得難いから、よく防護するがよい。侯景に匹敵し得る者は、ただ慕容紹宗のみである。我はわざと彼を重用せず、汝に残してやったのだ。深く殊礼を加え、経略を委ねるがよい」と。
五年正月朔、日蝕があった。神武は言うには、「日蝕は我のためか。死すとも何の恨みがあろう」と。丙午、魏帝に啓を陳べた。この日、 晉 陽において崩じた。時に年五十二。秘して喪を発さず。六月壬午、魏帝は東堂において三日間哀悼の礼を行った。緦衰の喪服を定め、凶礼は漢の大将軍霍光・東平王蒼の故事に依ることを詔した。仮黄鉞・使持節・相国・ 都督 中外諸軍事・斉王の璽紱・辌車・黄屋左纛・前後羽葆鼓吹・軽車介士を追贈し、兼ねて九錫の殊礼を備えさせた。諡して献武王と曰う。八月甲申、鄴西北の漳水の西に葬られた。魏帝は紫陽に臨んで送った。天保初年、追尊して献武帝とした。廟号を太祖とし、陵を義平と曰う。天統元年、諡を改めて神武皇帝とし、廟号を高祖とした。
神武帝(高歓)の性格は深沈にして厳格、終日威厳があり、人はその心を測ることができず、機略権謀の際には変化神の如しであった。軍国大計に至っては、独自に胸中に運営し、文武の将吏もこれに関与することは稀であった。軍衆を統御するには法令厳粛、敵に臨んで勝利を制するには、方策は定まった形がなく、聴断は明察で欺くことができず、人を知り士を好み、勲旧をことごとく保護した。性格は行き届き、文教を行う時は常に懇切丁寧であった。事を指し心を論ずるに、綺麗な文飾を尊ばず、人を抜擢し任を授けるには、才能を得ることにあり、もしその堪えるところあれば、賤しい者からも抜擢し、虚名のみで実のない者は任用されることが稀であった。諸将が出討する時、方略を奉じて行えば、ことごとく勝利し、指示に違反すれば多く敗走した。質素を尊び、刀剣や鞍勒に金玉の飾りはなかった。若い頃は大酒を飲んだが、大任を担ってからは三杯を超えなかった。家に居ても官にいる如く、仁恕をもって士を愛した。初め范陽の盧景裕は明経で称され、魯郡の韓毅は書に巧みで顕れたが、共に謀逆の罪で捕らえられたが、恩恵を蒙り邸館に置かれ、諸子を教授した。文武の士で、節を尽くして事に従い捕らえられても罪に問われない者は多く、故に遠近帰心し、皆力を尽くそうと思った。南では梁国と和し、北では蠕蠕(柔然)を懐柔し、吐谷渾・阿至羅もことごとく招き入れ、その力を用い、遠大な規略であった。
世宗文襄皇帝は諱を澄、字を子惠といい、神武帝の長子である。母は婁太后という。生まれながらに聡明で、神武帝はこれを異とした。魏の中興元年(531年)、勃海王の世子に立てられた。杜詢に就いて学問し、聡明で悟りが人より優れ、詢は大いに感服した。二年、侍中・開府儀同三司を加えられ、孝静帝の妹の馮翊長公主を娶った。時に十二歳、神情俊爽で、既に成人のようであった。神武帝が時事の得失について試みに問うと、弁析して理に中らぬことはなかった。これより軍国の籌策に皆参与した。天平元年(534年)、使持節・ 尚書令 ・大行臺・ 并 州刺史を加えられた。三年、朝政を輔佐するため入朝し、領軍左右・京畿大 都督 を加えられた。当時の人々はその器量と識見を聞いてはいたが、まだ少年として見ていた。しかし機略は厳明で、事に疑滞なく、ここに朝野は粛然とした。元象元年(538年)、吏部尚書を摂行した。魏は崔亮以後、選人は常に年功を以て制度としていた。文襄帝は前の方式を改め、選抜はただ人材を得ることにあり、また尚書郎を淘汰し、優れた人物と家柄を選んでこれを充てた。才名ある士は皆推薦抜擢され、仮に未だ顕位に居ない者があれば、皆その門下に招き、賓客とした。山園で遊宴する度に必ず招き連れ、弓を執り詩を賦し、各々その長所を尽くして楽しみとした。興和二年(540年)、大将軍を加えられ、 中書監 を領し、なお吏部尚書を摂行した。正光年間(520-525年)以後、天下多事であり、在任の群官で廉潔な者は少なかった。文襄帝は吏部郎の崔暹を御史中尉に奏上し、権豪を糾弾し、容赦するところがなかった。ここに風俗は改まり、私的な不正は途絶え、街路に掲示して経国政術を詳しく論じ、なお直言の道を開き、事を論じ上書して苦言を切に至らせる者があれば、皆寛容に扱った。
武定四年(546年)十一月、神武帝が西征したが、病に罹り、軍を返した。文襄帝は急いで軍中に赴き、侍衛して晋陽に還った。五年正月丙午、神武帝が崩御したが、喪を発さずに秘した。辛亥、 司徒 侯景が河南に拠って反逆し、潁州刺史司馬世雲が城を挙げてこれに応じた。景は 豫 州刺史高元成・襄州刺史李密・広州刺史暴顕らを誘い捕らえた。 司空 韓軌に命じて軍を率いてこれを討たせた。四月壬申、文襄帝は鄴に朝見した。六月己巳、韓軌らは潁州から軍を返した。丁丑、文襄帝は晋陽に還り、ここに喪を発し、文武に告げ諭し、神武帝の遺志を述べた。七月戊戌、魏帝(孝静帝)は詔して文襄帝を使持節・大丞相・ 都督 中外諸軍・録尚書事・大行臺・勃海王とした。文襄帝は上表して位を辞し、王爵を停めることを願った。壬寅、魏帝は詔して太原公高洋に軍国を摂理させ、中使を遣わして諭させた。八月戊辰、文襄帝は上表して神武帝の遺令を申し上げ、国邑を減らし、将督に分封して各々差等をつけることを請うた。辛未、鄴に朝見し、固く丞相を辞した。魏帝は詔して言った、「既に朝野の拠り所、安危の係る所であるから、その本懐を遂げさせることはできず、権宜の処置を要する。前の大将軍に復し、その他は元の通りとせよ」。壬辰、尚書祠部郎中元瑾・梁の降人茍済・長秋卿劉思逸及び淮南王元宣洪・華山王元大器・済北王元徽らが文襄帝を謀害しようとしたが、事が発覚して誅殺された。九月己亥、文襄帝は旧勲で明らかながら未だ録されていない者をことごとく求め表彰賞賜することを請うた。朝士で名声と行いが聞こえ、あるいは年老い病気で満ちて辞職を告げる者は、その本来の官秩に準じて州郡を授け、実際に職務に就かせず、子孫に蔭位を許した。天平元年以来、事に遇って官を失った者は、本来の資格に復することを許した。豪貴の家が山沢を占有することを許さず、その邸宅・車服・婚姻・送葬で奢侈僭越限りない者は、ことごとく禁断することを命じた。太昌元年(532年)以来、将帥で殊功異効のある者の子弟で十歳以上の者は、第に依って出身することを許すことを請うた。兵士で従征し、陣場に身を殞した者は、その家の租税を免除する。もし才能を隠し世を避ける者がいれば、礼を以て招致し、才能に随って抜擢叙用する。営構の官を罷める。朝廷の百官で怠惰勤めず、職務を廃する者は、その居る官を免ずる。清廉で事を成し遂げ、明らかに知られる者は、即ち超えて叙用し、常式に拘らない。辛丑、文襄帝は晋陽に還った。
武定六年(548年)正月己未、文襄帝は鄴に朝見した。二月己卯、梁が使者を遣わして文襄帝を慰め、併せて和を通じることを請うた。文襄帝はその和を許したが返書はしなかった。侯景の反逆の時、南兗州刺史石長宣は大いに呼応し、諸州刺史・守・令・佐史多くは連座して誤った。景が破られた後、ことごとく捕らえられ、尚書は皆極刑に処せられたが、文襄帝はことごとく減刑を請い、ここに長宣を斬り、その他は皆寛大に宥した。三月戊申、文襄帝は朝臣及び牧・守・令・長に各々賢良及び 驍 武胆略で辺城を守るに堪える者を推挙することを請い、務めて才能を得ることにあり、元の職や素性に拘らない。称事六品・散官五品以上で朝廷が既に知っている者は、推挙の限りではない。称事七品・散官六品以下及び州・郡・県の雑白身(無官の者)は、在官・解職を問わず、皆推挙するに任せ、才能に随って進擢する。辛亥、文襄帝は南に黎陽に臨み、武牢で黄河を渡った。洛陽から、太行を経て晋陽に戻った。道中で朝士に書を遺わし、戒め励ました。ここに朝野は風化を受け、震え肅する者なくはなかった。六月、文襄帝は北辺の城戍を巡視し、振恤と賜与を各々差等をつけて行った。七月乙卯、文襄帝は鄴に朝見した。八月庚寅、晋陽に還った。大行臺慕容紹宗と太尉高嶽・大 都督 劉豊をして潁川で王思政を討たせた。先に、文襄帝は行臺尚書辛術に諸将を率いさせて江淮の北を攻略させたが、この時までに、獲た所は凡そ二十三州であった。
七年(五四九年)四月甲辰、魏帝(東魏孝静帝)は文襄(高澄)の位を相國に進め、齊王に封じ、緑綟綬を授け、拝礼の際に名を称さず、朝廷に入るに急ぎ足せず、剣を帯び履を穿いて殿上に上ることを許し、冀州の勃海・長楽・安德・武邑・瀛州の河間の五郡を食邑とし、封戸十五万戸とし、使持節・ 都督 中外諸軍事・録尚書・大行臺の官は従前の如くとした。丁未、文襄は朝廷に入り、固く辞退したが、魏帝は許さなかった。五月戊寅、文襄は軍を率いて鄴より潁川へ赴いた。六月丙申、潁川を陥とし、西魏の大将軍王思政を生け捕りにしたが、その主君に忠節を尽くしたことを以て、釈放して賓客の礼をもって遇した。七月、文襄は鄴にて朝見し、魏帝に皇太子の立てを請うとともに、爵位と殊礼を再び辞退したが、返答はなかった。
八月辛卯、盗賊に遭って崩じた。初め、梁の将軍蘭欽の子の京が捕虜となり、文襄は彼を厨房に配属させた。蘭欽が身代金を出して贖おうとしたが、許されなかった。京が再び訴え出ると、文襄は厨房を監督する下僕の薛豊洛に命じて彼を杖打たせ、「さらに訴えるならば、汝を殺すであろう」と言った。京はその仲間六人と謀って乱を起こそうとした。時に文襄は魏の禅譲を受けようとしており、陳元康・崔季舒と左右を退けて北城東柏堂にて謀議していた。太史が啓上して言うには、宰輔星が甚だ微かであり、変事は一ヶ月以内に起こると。時に京が食事を進めようとしたが、文襄はこれを退け、人に「昨夜、この奴が我を斬る夢を見た」と言い、また「急いで殺してしまえ」と言った。京はこれを聞き、刀を盆の下に隠し、声を上げて食事を進めると称した。文襄はこれを見て怒り、「我はまだ食事を求めていない。どうして急に来るのか」と言った。京は刀を振りかざして「汝を殺さんとするのだ」と言った。文襄は自ら飛び退き、足に傷を負い、寝台の下に隠れた。賊の仲間が到着し、寝台を取り除いたため、ついに 弑 せられた。時に年二十九。秘して喪を発さなかった。翌年(五五〇年)正月辛酉、魏帝は太極殿東堂にて哀悼の礼を行い、詔して物八万段を贈り、凶事の礼は漢の大将軍霍光・東平王劉蒼の故事に依り、仮黄鉞・使持節・相國・ 都督 中外諸軍事・齊王の璽紱を追贈し、巉輬車・黄屋左纛・後部羽葆鼓吹・軽車介士を備え、九錫の礼を具え、諡して文襄王と曰う。二月甲申、義平陵の北に葬られた。天保(北斉の年号)の初め、追尊して文襄皇帝と称し、廟号を世宗とし、陵を峻成と曰う。
文襄は姿容美しく、言笑を善くし、談謔の際にも、従容として弘雅であった。性質は聡明で機敏、多くの籌策を有し、朝廷に当たり相として、聴断流るるが如し。士を愛し賢を好み、礼をもってこれに接し、神武(高歓)の風有り。然れども少壮にして気性猛く、刑法を厳峻にした。高慎が西に叛き、侯景が南に翻ったのは、単に元来の心が狼戾であったばかりでなく、兼ねてまたその威略を恐れたためでもあった。情欲は奢淫に走り、行動は制度に背き、嘗て宮殿の西に邸宅を造営し、牆院は高く広く、聴事の堂は宏壮で、太極殿に次ぐものであった。神武が入朝し、これを責めたため、やっと止めた。
論じて曰く、昔、魏氏が統御を失い、中原は動揺離散した。齊の神武は晋州の地より起こり、冀方に大号し、屡戦して凶徒を剪滅し、一麾して京洛を清め、主君を尊び国を匡し、功は天下を済わした。既にして魏の武帝(孝武帝)は権威の逼迫を避けようと図り、天命の数が既に尽きたが、かえって関中と河東の分裂を速めることとなった。文襄は継いで霸道を受け、威略は昭著であり、内には奸逆を除き、外には淮夷を拓き、貪残を擯斥し、人物に情を存した。然れども志は峻法に在り、下を御するに急であり、前代の王者の徳とは、同じからざる所有り。蓋し天意と人心は、生を好み殺を悪む。吉凶報応は、未だ皆影響するとは限らぬ。総じて論ずれば、善を積めば慶多し。然れども文襄の禍が忽せにした所より生じたのは、蓋し由る所有り。
目次へ戻る※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。