北史

巻四 魏本紀第四

北魏

世宗宣武帝

世宗宣武皇帝の諱は恪、孝文皇帝の第二子である。母は高夫人という。初め、夢に日輪に追われ、床下に避けた。日が龍と化し、己を数回めぐった。目覚めて驚き悸え、やがて懐妊した。太和七年閏四月、帝は平城宮で生まれた。二十一年正月丙申、皇太子に立てられた。

二十三年四月丙午、孝文帝が崩御した。丁巳、太子は皇帝の位に即いた。諒闇の間、政務を宰輔に委ねた。五月、高麗国が使者を遣わして朝貢した。六月乙卯、侍臣を分遣し、州郡を巡行させ、民の疾苦を問い、守令を考察し、幽明を黜陟し、名賢を褒礼した。戊辰、皇妣を追尊して文昭皇后と曰う。秋八月戊申、遺詔に遵い、孝文皇帝の三夫人以下は、悉く免じて家に帰らしめた。癸丑、宮臣の位を一級増した。冬十月癸未、鄧至国の王象舒彭が来朝した。丙戌、長陵を謁した。丁酉、太廟を享した。十一月、幽州の人王惠定が衆を聚めて反し、自ら明法皇帝と称した。刺史李肅が捕らえて斬った。この年、州鎮十八が水害と飢饉に見舞われ、使者を分遣し、倉を開いて振恤した。

景明元年春正月辛丑朔、日蝕があった。壬寅、長陵を謁した。乙巳、大赦し、元号を改めた。丁未、斉の 州刺史裴叔業が寿春を以て内属した。二月戊戌、再び彭城王勰を 司徒 しと とした。斉の将胡松・李居士の軍が宛に屯し、陳伯之の水軍が寿春に逼った。夏四月丙申、 司徒 しと 彭城王勰・車騎将軍王肅がこれを大破した。己亥、皇弟恌が薨じた。五月甲寅、北鎮が飢饉に遭い、兼侍中楊播を遣わして巡撫振恤させた。六月丙子、 司徒 しと ・彭城王勰を大司馬とした。秋七月己亥朔、日蝕があった。斉の将陳伯之が淮南を寇した。八月乙酉、彭城王勰が伯之を肥口で破った。九月、斉州の人柳世明が衆を聚めて反した。冬十月丁卯朔、長陵を謁した。庚寅、斉・兗二州が世明を討って平げた。丁亥、彭城王勰を改めて 司徒 しと ・録尚書事に授けた。十一月丁巳、陽平王頤が薨じた。この年、州鎮十七が大いに飢え、使者を分遣し、倉を開いて振恤した。高麗・吐谷渾等国は並びに使者を遣わして朝貢した。

二年春正月丙申朔、長陵を謁した。庚戌、帝は初めて親政した。遺詔に遵い、 司徒 しと ・彭城王勰が老齢を以て邸に帰ることを聴した。太尉・咸陽王禧を進めて太保とし、 司空 しくう ・北海王詳を大将軍・録尚書事とした。丁巳、群臣を太極前殿に引見し、政務を覧る旨を告げた。壬戌、太保・咸陽王禧に太尉を領させ、大将軍・広陵王羽を 司空 しくう とした。大使を分遣した。幽明を黜陟した。二月庚午、宿衛の官の位を一級進めた。甲戌、大赦した。三月乙未朔、詔して比年連ねて軍旅有るを以て、正調の外は、皆蠲罷すと。壬戌、青・斉・徐・兗四州が大いに飢え、人死する者万余口。この月、斉の雍州刺史蕭衍が其の南康王宝融を奉じて主と為し、東に建鄴に赴く。夏五月壬子、広陵王羽が薨じた。壬戌、太保・咸陽王禧が謀反し、死を賜う。六月丁亥、諸州刺史を考課し、以て黜陟を加う。秋七月癸巳朔、日蝕があった。乙巳、蠕蠕が塞を犯す。辛酉、大赦した。九月丁酉、畿内の夫五万五千人を発し、京師三百二十坊を築かしめ、四旬にして罷む。己亥、皇后于氏を立てる。乙卯、寿春の営戸を免じ、並びに揚州に隷す。冬十一月丙申、驃騎大将軍穆亮を 司空 しくう とする。丁酉、大将軍・北海王詳を太傅とし、 司徒 しと を領す。壬寅、円丘を伊水の陽に改めて築く。乙卯、仍び其処に事有り。十二月、斉の直後張斉が其の主蕭宝巻を殺して蕭衍に降る。この年、高麗・吐谷渾等国は並びに使者を遣わして朝貢した。

三年春二月戊寅、旱魃の故を以て、詔して州郡に骸骨を掩わしむ。三月、斉の建安王宝夤が来奔す。夏四月、詔して撫軍将軍李崇に魯陽の反蛮を討たしむ。斉主蕭宝融、位を梁に譲る。閏四月丁巳、 司空 しくう 穆亮が薨じた。秋七月丁巳朔、日蝕があった。八月丁卯、前太傅・平陽公元丕を三老とする。九月丁巳、行幸して鄴に至る。丁卯、詔して使者に比幹の墓を弔わしむ。戊寅、鄴南にて武を閲す。冬十月庚子、帝躬み弧矢を禦し射て、遠く一里五十歩に及び、群臣射所に銘を勒す。甲辰、車駕宮に還る。十二月壬寅、太極前殿の初成を以て、群臣を饗し、布帛を賜うこと差有り。この年、河州大いに飢え、死者二千余口。西域二十七国並びに使者を遣わして朝貢した。

四年春正月乙亥、親しく籍田を耕す。三月己巳、皇后先ず北郊にて蠶す。四月癸未朔、蕭宝夤を東揚州刺史とし、丹楊郡公・斉王に封ず。庚寅、南天竺国が辟支仏牙を献ず。戊戌、旱魃の故を以て、冤獄を鞫うるを命ず。己亥、膳を減じ懸を徹す。辛丑、澍雨大いに洽う。五月甲戌、梁州事を行なう楊椿、反氐を大破す。六月壬午朔、皇弟悦を汝南王に封ず。秋七月乙卯、三老平陽公元丕が薨じた。庚午、詔して塩池の利を復た収む。辛未、彭城王勰を太師とする。八月、勿吉国が楛矢を貢ぐ。冬十一月己未、武興国の世子楊紹先を武興王に封ず。

正始元年春正月丙寅、大赦し、元号を改む。夏五月丁未朔、太傅・北海王詳、罪を以て廃せられ庶人と為る。六月、旱魃の故を以て、楽を徹し膳を減ず。癸巳、詔して有司に旧典を修案せしめ、祗に六事を行わしむ。甲午、帝、旱魃の故を以て、親しく太廟に薦享す。戊戌、詔して周旦・夷・斉の廟を首陽山に立てしむ。庚子、旱魃の故を以て、公卿以下、咎を引き躬を責む。又た京師の見囚を録し、殊死以下は皆一等を減じ、鞭杖の坐は悉く之を原う。秋七月丙子、仮の鎮南将軍李崇、諸蛮を大破す。八月丙子、仮の鎮南将軍元英、義陽にて梁の将馬仙琕を破る。詔して洛陽令に大事有らば、面して敷奏するを聴す。乙酉、元英、義陽を攻め抜く。辛卯、英又た梁軍を大破し、仍て三関を清む。丁酉、英を中山王に封ず。九月、詔して諸州に徭役を蠲停せしめ、横に征発有ること無からしむ。蠕蠕塞を犯す。詔して左僕射源懷に之を討たしむ。冬十月乙未、詔して群臣の白衣募吏を断つ。十一月戊午、詔して有司に漢・魏の旧章に依り、国学を営繕せしむ。十二月丙子、苑牧の公田を以て代遷の戸に分賜す。己卯、詔して群臣に律令を議定せしむ。閏月癸卯朔、梁州事を行なう夏侯道遷、漢中に拠り来降す。乙丑、高陽王雍を 司空 しくう とする。この年、高麗が使者を遣わして来朝貢す。

二年春正月丙子、宕昌の世子梁彌博を宕昌王に封ず。二月、梁州の氐・蜀が反し、漢中の運路を絶つ。州刺史邢巒頻りに之を大破す。夏四月己未、城陽王鸞薨ず。乙丑、詔して曰く「中正の銓ぶる所は、但だ門第のみなり。吏部の彜倫、仍り才挙せず。八坐、往代の賢を擢ぐの礼を審議すべし。必ず才学並びに申し、資望兼ねて致さしめよ」と。邢巒、統軍王足を遣わして西伐せしめ、頻りに梁の諸軍を破り、遂に劍閣に入る。秋七月戊子、王足、梁軍を撃破し、因りて涪城を逼る。八月壬寅、詔して中山王英に襄沔を南討せしむ。冬十一月戊辰朔、武興王楊紹先の叔父集起謀反す。詔して光禄大夫楊椿に討たしむ。王足、涪城を囲む。益州諸郡の戍、降る者十二三、編籍を送る者五萬餘戸。既にして足、軍を引いて退く。是歳、鄧至国、使いを遣わして朝貢す。

三年春正月丁卯朔、皇子昌生まる。大赦す。壬申、梁・秦二州刺史邢巒、氐賊を連破し、武興を克つ。秦州人王智等、衆を聚め、自ら王公と号す。尋いで秦州主簿呂茍兒を推して主と為し、年号を建明とす。己卯、楊集起兄弟相率いて降る。二月丙辰、詔して讜言を求む。戊午、詔して右衛将軍元麗等に呂茍児を討たしむ。三月己巳、戎旅興るを以て、詔して諸の作を停む。己卯、楽良王長命、人を殺すに坐し、死を賜う。庚寅、平南将軍・曲江県公陳伯之、梁城より南奔す。夏四月丁未、詔して塩池の禁を罷む。五月丙寅、詔して時澤未だ降らず、春稼已に旱り、或いは孤老餒疾、人無く贍救せざるを以て、因りて死に致し、溝塹に暴露する者有らば、洛陽部尉に令し、法に依り棺埋せしむ。秋七月庚辰、元麗、秦賊を大破し、呂茍児及び其の王公三十餘人を降す。秦・涇二州平ぐ。戊子、中山王英、陰陵に於て梁の徐州刺史王伯敖を大破す。己丑、詔して定・冀・瀛・相・並・肆六州の卒十萬を発し、以て南軍を済す。八月壬寅、安東将軍邢巒、孤山に於て梁の将桓和を破る。諸将所在に克捷し、兗州平ぐ。壬戌、涇・秦・岐・涼・河五州を曲赦す。九月癸酉、邢巒、淮南に於て梁軍を大破し、遂に鐘離を攻む。冬十一月甲子、帝、式乾殿に於て京兆王愉・清河王懌・広平王懐・汝南王悦の為に『孝経』を講ず。是歳、高麗・蠕蠕国並びに使いを遣わして朝貢す。

四年夏四月戊戌、鐘離大水す。中山王英敗績して還る。六月己丑朔、詔して有司に前式に準い、国子を置き、太学を立て、四門に小学を樹てしむ。秋八月己亥、中山王英・斉王蕭宝夤、鐘離の敗に坐し、名を除かる。辛丑、敦煌人饑う。詔して倉を開き振恤す。九月己未、詔して宮極を徙正するを以て、庸績未だ酬いざるに、 司空 しくう ・高陽王雍を太尉と為し、 尚書令 しょうしょれい ・広陽王嘉を 司空 しくう と為し、百官悉く位を一級進む。庚申、夏州長史曹明謀反す。伏誅す。甲子、斜谷の旧道を開く。丙戌、司州人饑う。詔して倉を開き振恤す。閏月甲午、大司馬門に車馬出入することを得ざるを禁ず。冬十月丁卯、皇后于氏崩ず。碣石より劍閣に至るまで、東西七千里、二十二郡尉を置く。是歳、西域・東夷四十餘国並びに使いを遣わして朝貢す。

永平元年春三月戊子、皇子昌薨ず。丙午、去年旱儉するを以て、使者を遣わし所在に振恤せしむ。夏五月辛卯、帝、旱の故を以て、膳を減じ懸を徹す。六月壬申、詔して洛陽旧図に依り、聴訟観を修めしむ。秋七月甲午、夫人高氏を立てて皇后と為す。八月壬子朔、日蝕有り。癸亥、冀州刺史・京兆王愉、州に拠りて反す。丁卯、大赦し、元を改む。九月丙戌、前中山王英の本封を復す。戊戌、太師・彭城王勰を殺す。癸卯、仮鎮北将軍李平、信都を克ち、冀州平ぐ。冬十月、 州彭城人白早生、刺史司馬悦を殺し、州城に拠りて南叛す。十二月己未、尚書邢巒、懸瓠を克ち、早生を斬り、梁の将斉茍児等を禽す。是歳、北狄・東夷・西域十八国並びに使いを遣わして朝貢す。高昌国王曲嘉、表を上りて内徙を求む。

二年春正月、涇州沙門劉慧汪、衆を聚めて反す。詔して華州刺史奚康生に討たしむ。夏四月己酉、武川鎮饑う。詔して倉を開き振恤す。甲子、詔して縁辺の州鎮に、自今より一に寇盗の境外を聴かず。犯す者は境内と罪同じからしむ。五月辛丑、帝、旱の故を以て、膳を減じ懸を徹し、屠殺を禁断す。甲辰、華林都亭に幸し囚徒を録し、死罪以下一等を降す。六月辛亥、詔して曰く「江海方に同く、車書宜しく一なるべし。諸州の軌轍、南北等しからず。今四方に申敕すべく、遠近二つ無からしむ」と。秋八月丙午朔、日蝕有り。戊申、鄧至国の世子像覧蹄を其の国王と為す。九月辛巳、故北海王の子顥を北海王に封ず。壬午、詔して諸門闥の名を定む。冬十月癸丑、 司空 しくう ・広陽王喜を 司徒 しと と為す。庚午、 郢州 えいしゅう 七宝床を献ず。詔して納れず。冬十一月甲申、詔して含孕を屠殺するを禁じ、以て永制と為す。己丑、帝、式乾殿に於て諸僧・朝臣の為に『維摩詰経』を講ず。冬十二月、詔して五等諸侯、其の同姓なる者の出身は、公は正六下、侯は従六上、伯は従六下、子は正七上、男は正七下。異族の出身は、公は従七上、侯は従七下、伯は正八上、子は正八下、男は従八上。清修の出身は、公は従八下、侯は正九上、伯は正九下、子は従九上、男は従九下とす。是歳、西域・東夷二十四国並びに使いを遣わして朝貢す。

三年春二月壬子、秦州沙門劉光秀謀反す。州郡捕え斬る。癸亥、秦州隴西の羌、鎮将趙俊を殺し反す。州軍討ち平ぐ。三月丙戌、皇子詡生まる。大赦す。夏四月、平陽郡の禽昌・襄陵二県大疫す。正月より此の月に至るまで、死者二千七百三十人。五月丁亥、冀・定二州旱儉す。詔して倉を開き振恤す。六月甲寅、詔して天下に遺書を重ねて求む。冬十月辛卯、中山王英薨ず。丙申、詔して太常に館を立たしめ、京畿内外の疾病の徒をして、咸く居処せしむ。医署を厳敕して師を分ち救療せしめ、其の能ふと否とを考へて賞罰を行はしむ。又た有司に令し諸の医工を集め、惟だ精要を簡び、三十巻を取って九服に班はしむ。十二月辛巳、江陽王継、事に坐し名を除かる。甲申、詔して青州に孝文皇帝廟を立つ。殿中侍御史王敞謀反す。伏誅す。是歳、西域・東夷・北狄十六国並びに使いを遣わして朝貢す。

四年春正月丁巳、汾州の劉龍駒が徒党を集めて反乱を起こし、詔を下して諫議大夫薛和にこれを討たせた。二月壬午、青・斉・徐・兗の四州の民が甚だしく飢え、使者を派遣して救済した。三月壬戌、 司徒 しと ・広陽王元嘉が薨去した。夏四月、梁がその鎮北将軍張稷及び馬仙琕を派遣して朐山を寇し、詔を下して徐州刺史盧昶に軍勢を率いてこれに向かわせた。五月己亥、代京の銅龍を移して天泉池の西に置いた。丙辰、詔を下して天文学を禁じた。冬十一月、朐山城が陥落し、盧昶は大敗して帰還した。十二月壬戌朔、日蝕があった。この年、西域・東夷・北狄の二十九国が共に使者を派遣して朝貢した。

延昌元年春正月乙巳、連年の水害旱害により百姓が飢え困窮しているとして、使者を分遣して倉を開き救済した。丙辰、 尚書令 しょうしょれい 高肇を 司徒 しと とし、清河王元懌を 司空 しくう とした。三月甲午、十一の州郡で大水があり、詔を下して倉を開き救済した。京師の穀物が高価であるため、倉粟八十万石を出して貧者を救済した。己未、安楽王元詮が薨去した。夏四月、旱魃のため、粟を食う家畜の飼育を断つ詔を下した。丁卯、詔して曰く「都を嵩県に遷してより、年やがて二紀に及ぶが、博士は端然として虚禄に甘んじている。静かにこれを思うに、慚愧と慨嘆の念を併せ持つ。厳しく有司に命じ、国子学は孟冬に完成させよ。太学・四門学は来年の暮春に完成させるようにせよ」。戊辰、旱魃のため、詔を下して尚書に群司と共に獄訟を審理させた。辛未、詔を下して飢えた民を六鎮に移し穀物を得させた。丁丑、帝は旱魃のため、膳を減らし懸楽を撤いた。癸未、詔して曰く「肆州で地震が起こり地が裂け陥没し、死傷者が甚だ多い。亡くなった者は追うべくもないが、病気の者は療治を加えるべきである。太医・折傷医を派遣し、必要な薬を与えて治療に当たらせよ」。乙酉、大赦を行い、元号を改めた。理訴殿・申訟車を設置する詔を下し、冤罪窮乏の理を尽くさせた。五月丙午、詔を下して天下の粟を持つ家に対し、一年分の供給の外は、全て飢えた民に貸し与えさせた。二月よりこの月まで雨が降らなかった。己未晦、日蝕があった。六月壬申、慈雨が大いに潤した。戊寅、河南の牝馬の禁令を解除した。庚辰、詔を下して太倉の粟五十万石を出し、京師及び州郡の飢えた民を救済した。冬十月乙亥、皇子元詡を立てて皇太子とした。十一月丙申、詔を下して東宮が建てられたことを理由に、天下の父の後を継ぐ者に爵一級を賜い、孝子順孫廉夫節婦は門閭を旌表し、粟帛を量り与えた。十二月己巳、詔を下して、守宰で御史に弾劾され赦免された者、及び考課が中第であった者は、皆交代させた。この年、西域・東夷の十国が共に使者を派遣して朝貢した。

二年春正月戊戌、帝は申訟車に乗り、自ら冤罪の訴訟を審理した。二月丙辰朔、京師の貧民を救済した。甲戌、六鎮が大飢饉に見舞われたため、倉を開いて救済した。己卯、太尉・高陽王元雍の位を進めて太保とした。閏月辛丑、苑牧の地を代遷民で田の無い者に賜った。この春、民が飢え、死者は数万口に及んだ。夏四月庚子、絹十五万匹を以て河南郡の民を救済した。五月甲寅朔、日蝕があった。この月、寿春で大水があった。平東将軍奚康生らに歩騎数千を率いて赴かせた。六月乙酉、青州の民が飢え、詔を下して使者に倉を開き救済させた。甲午、揚州を曲赦した。辛亥、帝は申訟車に乗り、自ら冤罪の訴訟を審理した。この夏、十三郡で大水があった。秋八月辛卯、詔を下して水害旱害飢饉により百姓が多く罪に陥っているため、死刑以下を減刑した。九月丙辰、貴族豪門が奢侈を尊び習っているとして、詔を下して尚書に厳しく限級を立て、その放逸を節制させた。冬十月、詔を下して恒・肆で地震があり、人が多く死傷したため、一年間の租賦を再び免除した。十二月丙戌、洛陽・河陰の二県の租賦を免除した。乙巳、詔を下して恒・肆で地震があり、人が多く災害に見舞われ、課丁が全くおらず、老幼が単独で立ち、家に賦役免除の資格がない者には、それぞれ廩粟を賜い、次の収穫まで繋がせるようにした。この年、東夷・西域の十余国が共に使者を派遣して朝貢した。

三年春二月乙未、詔して曰く「肆州秀容郡敷城県・雁門郡原平県は共に去年四月以来、山が鳴り地震が起こり、今に至るまで止まない。天の譴責が咎を顕わにしている。朕は甚だ懼れる。病苦を恤れ、刑罰を寛くして、災いの譴責に答えよ」。夏四月、青州の民が飢えた。辛巳、倉を開いて救済した。乙巳、上は申訟車に乗り、自ら冤罪の訴訟を審理した。秋八月甲申、帝は朝堂に臨み、百官を考課して陟黜を加えた。冬十一月辛亥、詔を下して 司徒 しと 高肇を大将軍・平蜀大 都督 ととく とし、歩騎十五万を率いて西の益州を伐たせた。丁巳、幽州の沙門劉僧紹が徒党を集めて反乱を起こし、自ら浄居国明法王と号した。州郡が捕らえて斬った。十二月庚寅、詔を下して明堂を建立した。この年、東夷・西域の八国が共に使者を派遣して朝貢した。

四年春正月甲寅、帝は御機嫌が優れなかった。丁巳、式乾殿にて崩御した。時に三十三歳。二月甲戌朔、上尊謚して宣武皇帝とし、廟号を世宗とした。甲午、景陵に葬った。

帝は幼少より大度で、喜怒を顔色に表さず、高雅な性質で倹約質素であった。初め、孝文帝は諸子の志尚を観ようと、宝物を大いに並べ、その取るに任せた。京兆王元愉らは皆競って珍玩を取ったが、帝はただ骨如意を取ったのみであった。孝文帝は大いにこれを奇とした。及びて庶人元恂が徳を失うと、孝文帝は彭城王元勰に言った「我は常々この児に非凡な志相があると疑っていたが、今や果たしてそうであった」。かくて見立てられて儲貳となった。経史を雅く愛し、特に仏教の義理に長け、講論に至っては、夜を徹して疲れを忘れた。風儀に優れ、容貌美しく、朝に臨んでは深く沈黙し、端厳として神の如く、人君の器量があった。

粛宗孝明帝

粛宗孝明皇帝、諱は詡、宣武皇帝の第二子である。母は胡充華という。永平三年三月丙戌、宣光殿の東北にて生誕し、光が庭中を照らした。延昌元年十月乙亥、皇太子に立てられた。

四年正月丁巳、宣武帝崩御す。この夜、太子即ち皇帝の位に即く。戊午、大赦を行う。己未、西征東防の諸軍を召還す。庚申、詔して太保・高陽王元雍をして西栢堂に入居せしめ庶政を決せしめ、任城王元澄を 尚書令 しょうしょれい と為し、百官をして総己して二王に聴かしむ。二月庚辰、皇后高氏を尊びて皇太后と為す。辛巳、 司徒 しと 高肇京師に至り、罪を以て死を賜う。癸未、太保・高陽王元雍の位を進めて太傅と為し、太尉を領せしむ。 司空 しくう ・清河王元懌を以て 司徒 しと と為し、驃騎大将軍・広平王元懐を以て 司空 しくう と為す。乙亥、胡充華を尊びて皇太妃と為す。三月甲辰朔、皇太后出家して尼と為り、金墉城に移り住まわしむ。丙辰、詔して宮臣の位を一級進む。乙丑、文武群官の位を一級進む。夏六月、沙門法慶冀州に於いて衆を聚めて反し、阜城令を殺し、自ら大乗と称す。秋八月乙亥、領軍於忠詔を矯りて左僕射郭祚・尚書裴植を殺し、太傅・高陽王元雍の官を免じ、王を以て第に還らしむ。丙子、皇太妃を尊びて皇太后と為す。戊子、帝宣光殿に於いて太后に朝す。大赦を行う。己丑、 司徒 しと ・清河王元懌を進めて太傅と為し、太尉を領せしむ。 司空 しくう ・広平王元懐を以て太保と為し、 司徒 しと を領せしむ。任城王元澄を 司空 しくう と為す。庚寅、車騎大将軍於忠を以て 尚書令 しょうしょれい と為し、特進崔光を車騎大将軍と為し、並びに儀同三司とす。壬辰、江陽王元継の本国を復し、済南王元彧の先の封を復して臨淮王と為す。群臣奏請して皇太后の臨朝称制を請う。九月乙巳、皇太后親しく万機を覧る。甲寅、征西大将軍元遙法慶を破り斬り、首を京師に伝う。安定王元燮薨ず。冬十二月辛丑、高陽王元雍を太師と為す。己酉、鎮南将軍崔亮梁の将趙祖悦の軍を破り、遂に硤石を囲む。丁卯、帝・皇太后景陵を謁す。是歳、東夷・西域・北狄十八国並びに使いを遣わして朝貢す。

熙平元年春正月戊辰朔、大赦を行い、元を改む。荊沔 都督 ととく 元誌大いに梁軍を破る。吏部尚書李平を行臺と為し、討硤石諸軍を節度せしむ。二月乙巳、鎮東将軍蕭宝夤淮北に於いて梁将を大破す。癸亥、初めて秀才の対策を聴き、第中上以上を叙す。乙丑、鎮南崔亮・鎮軍李平等硤石を克ち、趙祖悦を斬り、首を京師に伝え、その衆を尽く俘虜とす。三月戊辰朔、日蝕あり。夏四月戊戌、瀛州の人飢うるを以て、倉を開き振恤す。五月丁卯朔、炎旱を以て、命じて獄訟を厘察し、作役を権停す。庚午、詔して華林の野獣を山沢に放つ。秋七月庚午、牛殺しの禁を重ねて申す。八月丙午、詔して古帝諸陵の四面各五十歩、耕稼を聴かず。九月丁丑、淮堰破れ、梁の淮に縁る城戍村落十余万口、皆海に漂い入る。是歳、吐谷渾・宕昌・鄧至・高昌・陰平等国並びに使いを遣わして朝貢す。

二年春正月、大乗の余賊、復た相い聚まって瀛州を攻む。刺史宇文福これを討平す。甲戌、大赦を行う。庚寅、詔して大使を遣わし四方を巡行せしめ、疾苦を問い、孤寡を恤み、幽明を黜陟す。二月丁未、御史中尉元匡を封じて東平王と為す。三月丁亥、太保・ 司徒 しと を領く広平王元懐薨ず。夏四月丁酉、詔して京尹の統ぶる年高き者に、板を賜い郡県各差あり。戊申、開府儀同三司胡国珍を 司徒 しと と為す。乙卯、皇太后伊闕石窟寺に幸す、即日宮に還る。安定王元超を改封して北平王と為す。五月庚辰、天文の禁を重ねて申し、犯す者は大辟を以て論ず。秋七月乙亥、儀同三司・汝南王元悦人を殺すに坐し官を免じ、王を以て第に還らしむ。己巳、太廟を享く。八月戊戌、道武帝以来の宗室年十五以上の者を顕陽殿に宴し、家人の礼を申す。己亥、詔して庶族の子弟年未だ十五ならざる者は、入仕を聴かず。庚子、詔して咸陽・京兆二王の子女、還りて属籍に附せしむ。丁未、詔して太師・高陽王元雍をして門下に入居せしめ、尚書の奏事を参決せしむ。冬十月、幽・冀・滄・瀛・光の五州飢うるを以て、使いを遣わし巡撫し、倉を開き振恤す。是歳、東夷・西域・氐・羌等十一国並びに使いを遣わして朝貢す。

神龜元年春正月甲子、詔して氐の酋長楊定を陰平王と為す。壬申、詔して京畿及び諸州の老人に板を給し郡県各差あり、及び鰥寡孤独に粟帛を賜う。庚辰、詔して雑役の戸或いは清流に冒入するを以て、所在の職人は、皆五人相保せしむ。保に任ずる人無き者は、官を奪い役に還す。乙酉、秦州の羌反す。幽州大いに飢え、死者三千七百九十人。詔して刺史に倉を開き振恤せしむ。二月己酉、詔して神龜瑞を表すを以て、大赦を行い、元を改む。東益州の氐反す。三月、南秦州の氐反す。夏四月丁酉、 司徒 しと 胡国珍薨ず。甲辰、江陽王元継を改封して京兆王と為す。六月、正月より雨降らず、是の月辛卯、澍雨乃ち降る。秋七月、河州の人卻鉄匆衆を聚めて反し、自ら水池王と称す。閏月甲辰、恒州銀山の禁を開く。八月癸丑朔、詔して京師の見囚殊死以下、悉く一等を減ず。甲子、卻鉄匆行臺源子恭に詣で降る。九月戊申、皇太后高氏瑤光寺に於いて崩ず。冬十月丁卯、尼礼を以て高太后を芒山に葬る。十二月辛未、詔して曰く「人生終わり有り、下りて兆域に帰す。京邑隠振し、口億万に盈ち、貴賤憑む所有りて、未だ定むる所有らず。今制す、幹脯山以西、九原と為さんことを擬す」と。是歳、東夷・西域・北狄十一国並びに使いを遣わして朝貢す。

二年春正月辛巳朔、日蝕あり。丁亥、詔して曰く「皇太后捴挹自ら居り、称号備わらず。宜しく旧典に遵い、宇内に詔と称し、以て黎蒸元元の望に副わん」と。是の月、文昭皇太后高氏を改葬す。二月乙丑、斉郡王元佑薨ず。庚午、羽林千余人征西将軍張彜の第を焚き、彜を毆傷し、その子均を焼き殺す。乙亥、大赦を行う。丁丑、詔して直言を求む。壬寅、詔して旱の故を以て、命じて旧に依り雩祈し、冤獄を察理し、胔骼を掩埋し、窮寡を振恤す。三月甲辰、澍雨大いに洽う。夏五月戊戌、 司空 しくう ・任城王元澄を 司徒 しと と為し、京兆王元継を 司空 しくう と為す。秋八月乙未、御史中尉・東平王元匡事に坐し官爵を削除さる。九月庚寅、皇太后嵩高山に幸す。癸巳、宮に還る。冬十二月癸丑、 司徒 しと ・任城王元澄薨ず。庚申、大赦を行う。詔して淫祀を除き、諸雑神を焚く。是歳、吐谷渾・宕昌・嚈噠等国並びに使いを遣わして朝貢す。

正光元年(五二〇年)春正月乙亥朔(一日)、日蝕あり。夏四月丙辰、詔して尚書長孫承業をして北蕃を巡撫せしめ、風俗を観察せしむ。五月辛巳、炎旱の故を以て、詔して八坐に命じ見囚を鞫し、枉濫を申す。秋七月丙子、侍中元叉・中常侍劉騰、帝を奉じて前殿に幸し、皇太后の詔を矯り、政を帰し位を遜る。乃ち皇太后を北宮に幽し、太傅・清河王懌を殺し、禁旅を総勒し、事を殿中に決す。辛卯、帝元服を加え、大赦し、元を改む。内外の百官位一等を進む。八月甲寅、相州刺史・中山王熙、兵を挙げて騰を誅せんと欲す。果さず、殺さる。九月壬辰、蠕蠕の主阿那瑰来奔す。戊戌、太師・高陽王雍を以て丞相と為す。冬十月乙卯、儀同三司・汝南王悦を以て太尉と為す。十一月己亥、阿那瑰を封じて朔方郡公・蠕蠕王と為す。十二月壬子、詔して蠕蠕王阿那瑰を送りて北に帰らしむ。辛酉、 司空 しくう ・京兆王継を以て 司徒 しと と為す。

二年(五二一年)春正月、南秦州の氐、反す。二月、車駕国子学に幸し、『孝経』を講ず。三月庚午、国子学に幸し、孔子を祠り、顔回を以て配す。甲午、右衛将軍奚康生、禁中に於いて元叉を殺さんとす。果さず、叉の為に害せらる。儀同三司劉騰を以て 司空 しくう と為す。夏四月庚子、 司徒 しと ・京兆王継の位を進めて太保と為す。壬寅、儀同三司崔光を以て 司徒 しと と為す。五月丁酉朔、日蝕あり。秋七月己丑、旱の故を以て、詔して有司に命じ旧典を修案し、六事を祗行せしむ。八月己巳、蠕蠕の後主郁久閭侯匿代、来奔して懐朔鎮に至る。十二月甲戌、詔して 司徒 しと 崔光・安豊王延明等に命じ服章を議定せしむ。庚辰、東益・南秦州の氐の反を以て、詔して河間王琛に討たしむ。利を得ず。是歳、烏萇・居密・波斯・高昌・勿吉・伏羅・高車等の国並びに使を遣わして朝貢す。

三年(五二二年)春正月辛亥、籍田を耕す。夏四月庚辰、高車国の主覆羅伊匐を以て鎮西将軍・西海郡公・高車国王と為す。五月壬辰朔、日蝕あり。六月己巳、旱の故を以て、詔して分遣して有司に命じ、馳せて嶽瀆及び諸山川の雲雨を興す能う百神に祈らしむ。冤獄を理め、土功を止め、膳を減じ懸を徹し、屠殺を禁止せしむ。冬十一月己丑朔、日蝕あり。己巳、円丘を祀る。丙午、詔して暦を班し、大赦す。十二月癸酉、太保・京兆王継を以て太傅と為し、 司徒 しと 崔光を以て太保と為す。是歳、波斯・不溪・亀茲・吐谷渾並びに使を遣わして朝貢す。

四年(五二三年)春二月壬申、故咸陽王禧を追封して敷城王と為し、京兆王愉を臨洮王と為し、清河王懌を范陽王と為し、礼を以て葬を加う。丁丑、河間王琛・章武王融並びに貪汙を以て爵を削り名を除く。己卯、蠕蠕の主阿那瑰、衆を率いて塞を犯す。尚書左丞元孚を遣わして北道行臺と為し、節を持ちて之を諭さしむ。蠕蠕の後主郁久閭侯匿代、来朝す。 司空 しくう 劉騰薨ず。夏四月、阿那瑰、元孚を執いて北に遁る。秋八月癸未、故范陽王懌を追復して河間王と為す。九月丁酉、詔して太尉・汝南王悦に入り門下に居らしめ、丞相・高陽王雍と尚書奏事を参決せしむ。冬十一月癸未朔、日蝕あり。丙申、趙郡王謐薨ず。丁酉、太保崔光薨ず。十二月、太尉・汝南王悦を以て太保と為す。徐州刺史・北海王顥、貪汙に坐し、爵を削り官を除く。是歳、宕昌・庫莫奚国並びに使を遣わして朝貢す。

五年(五二四年)春正月辛丑、南郊に祀る。三月、沃野鎮の人破六韓抜陵、反し、衆を聚めて鎮将を殺し、真王元年と号す。夏四月、高平の酋長胡琛、反し、自ら高平王と称し、鎮を攻めて抜陵に応ず。別将盧祖遷、之を撃ち破る。五月、 都督 ととく 北征諸軍事・臨淮王彧、攻討す。五原に於いて敗れ、官爵を削除さる。壬申、詔して 尚書令 しょうしょれい 李崇を大 都督 ととく と為し、広陽王淵等を率いて北討せしむ。六月、秦州城の人莫折大提、城に拠りて反し、自ら秦王と称し、刺史李彦を殺す。大提間も無く死し、子の念生代わりに立ち、僭って天子と称し、年号を天建とし、百官を置立す。丁酉、大赦す。秋七月戊午、河間王琛・臨淮王彧の本封を復す。是の月、涼州の幢帥於菩提・呼延雄、刺史宋潁を執え、州に拠りて反す。念生、其の兄高陽王天生を遣わし隴東を下り寇す。八月甲午、雍州刺史元誌、西討す。隴東に於いて大敗し、岐州に退き守る。丙申、詔して諸州鎮の軍元より配に犯さざる者は、悉く免して編戸と為す。鎮を改めて州と為し、旧に依りて称を立つ。九月壬申、詔して尚書左僕射・斉王蕭宝夤を西道行臺・大 都督 ととく と為す。撫軍・北海王顥の官爵を復し、 都督 ととく と為す。並びに諸将を率いて西討せしむ。乙亥、帝明堂に幸し、宝夤等を餞る。吐谷渾の主伏連籌、兵を遣わして涼州を討つ。於菩提走り、追いて之を斬る。城人趙天安、復た宋潁を推して刺史と為す。冬十月、営州城の人劉安定・就徳興、城に拠りて反し、刺史李仲遵を執う。城人王悪児、安定を斬りて降る。徳興東に走り、自ら燕王と号す。十二月、詔して太傅・京兆王継を太師・大将軍と為し、諸将を率いて西討せしむ。汾州正平・平陽の胡、叛逆す。詔して征東将軍・章武王融の封爵を復し、大 都督 ととく と為し、衆を率いて之を討たしむ。莫折念生、兵を遣わして涼州を攻む。城人趙天安、復た刺史を執えて之に応ず。是歳、嚈噠・契丹・地豆幹・庫莫奚等の国並びに使を遣わして朝貢す。

孝昌元年(525年)春正月庚申、徐州刺史の元法僧が城を拠りて反し、自ら宋王と称し、年号を天啓とす。その子景仲を遣わして梁に帰す。梁はその将 章王綜を遣わして彭城に入り守らしむ。法僧はその僚属を擁して南に入る。詔して臨淮王彧・尚書李憲を 都督 ととく とし、安豊王延明を東道行臺と為し、ともに徐州を討たしむ。癸亥、蕭宝夤及び征西将軍崔延伯、賊を黒水にて大破す。天生退きて隴に入り、涇・岐及び隴悉く平ぐ。太師・大将軍・京兆王継を太尉と為す。二月、詔して故楽良王長命の爵を追復し、その子忠をしてこれを紹がしむ。戊戌、大赦す。三月甲戌、詔して五品以上に、各々知る所を薦めしむ。夏四月辛卯、皇太后復た朝に臨み政を摂し、群臣を引きて面陳して得失を陳ぶ。壬辰、征西将軍・ 都督 ととく 崔延伯、涇川にて大敗し、戦歿す。六月癸未、大赦し、元を改む。蠕蠕の主阿那瑰、抜陵を大破す。是の月、諸将彭城を逼り、蕭綜夜に潜み出でて降る。梁の諸将奔退し、衆軍追躡し、免るる者十に一二。秋八月癸酉、詔して遠近の貢献珍麗を断ち、違う者は官を免ず。柔玄鎮の人杜洛周、上谷にて反し、年号を真王とす。九月乙卯、詔して天下の諸調の半を減ず。壬戌、詔して五品以上に、各々知る所を挙げしむ。辛未、曲赦して南北秦州す。冬十月、蠕蠕使いを遣わし朝貢す。十一月辛亥、詔して父母年八十以上なる者は、皆官に居ることを聴す。時に四方事多く、諸蛮復た反す。十二月、山胡の劉蠡升反し、自ら天子と称す。

二年(526年)春正月庚戌、広平王懐の長子誨を封じて范陽王と為す。壬子、太保・汝南王悦をして太尉を領せしむ。是の月、五原の鮮于修礼、定州にて反し、年号を魯興とす。二月庚申、帝及び皇太后大夏門に臨み、親しく冤訟を覧る。三月庚子、中山王熙の本爵を追復し、その子叔仁をしてこれを紹がしむ。夏四月、大赦す。戊申、北討 都督 ととく 河間王琛・長孫承業、利を得ずして奔還す。詔して並びに官爵を免ず。五月丁未、車駕将に北討せんとし、内外戒厳す。前給事黄門侍郎元略、梁より朝に還り、義陽王に封ず。丞相・高陽王雍を大司馬と為す。六月己巳、曲赦して齊州す。絳蜀の陳双熾、衆を聚めて反し、自ら始建王と号す。曲赦して平陽・建興・正平の三郡す。詔して鎮西将軍・ 都督 ととく 長孫承業に仮し、双熾を討たしめ、これを平ぐ。丙子、義陽王略を改封して東平王と為す。戊寅、詔して京兆王継の本封江陽王を復す。戊子、詔して曰く「運艱棘に属し、歴載茲に於る。朕が威徳遐くに被すること能わず、経略遠きに及ぶこと無し。何を以てか黄屋に苟くも安んじ、黔黎に愧じざらんや。今便ち正殿を避居し、蔬食素服す。当に自ら招募し、忠勇を収集すべし。其れ直言正諫の士、敢えて決し義に徇うの夫有らば、二十五日、悉く華林東門に集めよ。人別に引見し、共に得失を論ぜん」と。秋八月丙子、広川県公元を進封して常山王と為す。戊子、武城県公子攸を進めて長楽王と為す。癸巳、賊帥元洪業、鮮于修礼を斬りて降を請う。賊党葛栄の為に殺さる。九月辛亥、葛栄、 都督 ととく 広陽王深・章武王融を博野白牛邏にて敗る。融陣に歿す。栄自ら天子と称し、国号を斉とし、年を広安と称す。冬十一月戊戌、杜洛周幽州を攻め陥し、刺史王延年及び行臺常景を執る。丙午、京師の田租を税し、畝五升。公田を借賃する者は、畝一斗。閏月、市を税し、人出入する者、各々一銭、店舎を五等と為す。梁の将元樹、寿春を逼る。揚州刺史李憲、力屈して降る。初め州県及び長史・司馬・戍主副の質子を京師に留む。詔して「頃者旧京淪覆し、中原喪乱す。宗室子女、属籍七廟内に在りて雑戸濫門に拘え辱しめらるる者は、悉く離絶を聴す」と。是歳、疊伏羅・庫莫奚国並びに使いを遣わし朝貢す。

三年(527年)春正月甲戌、 司空 しくう 皇甫度を 司徒 しと と為し、儀同三司蕭宝夤を 司空 しくう と為す。辛巳、葛栄殷州を陥し、刺史崔楷節を固くして之に死す。甲申、詔して銭を鑄るの制を峻す。蕭宝夤、涇州にて大敗し、北海王顥尋いでまた敗走す。曲赦して関西及び正平・平陽・建興す。戊子、 司徒 しと 皇甫度を太尉と為す。己丑、四方未だ平らかならざるを以て、詔して内外戒厳し、将に親征せんとす。二月丁酉、詔して輸賞の格を開く。粟を瀛・定・岐・雍の四州に入るる者は、官斗二百斛に一階を賞し、二華州に入るる者は、五百石に一階を賞す。多少を限らず、粟畢りて官を授く。虜賊潼関を据う。三月甲子、詔して将に西討せんとし、中外戒厳す。虜賊走り、潼関を復す。秋七月、相州刺史・安楽 王鑒 おうかん 、州を据えて反す。己丑、大赦す。八月、 都督 ととく 源子邕・李神軌・裴衍、鄴を攻む。丁未、鑒を斬り、相州平ぐ。九月己未、東 州刺史元慶和、城南を以て叛く。秦州城人杜粲、莫折念生を殺し、自ら州事を行ふ。冬十月戊申、曲赦して恒農以西河北・正平・平陽・邵郡及び関西諸州す。甲寅、雍州刺史蕭宝夤、州を据えて反し、自ら斉と号し、年を隆緒と称す。十一月己丑、葛栄冀州を攻め陥し、刺史元孚を執り、居人を逐い出だし、凍死者十の六七。十二月戊申、 都督 ととく 源子邕・裴衍、栄と戦い、陽平東北にて敗れ、並びに歿す。是の月、杜粲、駱超の為に殺さる。超使いを遣わし罪に帰す。是歳、蠕蠕使いを遣わし朝貢す。

武泰元年(528年)春正月乙丑、皇女を生む。秘かに皇子と言ふ。丙寅、大赦し、元を改む。丁丑、雍州人侯終德相率いて蕭宝夤を攻む。宝夤渭を渡りて走り、雍州平ぐ。二月癸丑、帝顕陽殿に崩ず。時に年十九。

幼主釗

甲寅、皇子即位し、大赦す。皇太后詔して曰く。

乙卯、幼主即位す。儀同三司・大 都督 ととく 爾朱栄、表を抗して入り奔赴せんことを請い、兵を勒して南す。是の月、杜洛周、葛栄の為に併さる。三月甲申、上り尊謚して孝明皇帝と曰す。乙酉、定陵に葬る。廟号を肅宗とす。四月戊戌、爾朱栄河を済る。庚子、皇太后・幼主崩ず。

論じて曰く、宣武聖考の徳業を承け、天下風化を想望す。垂拱無為にして、辺僥稽服す。而して寛を以て下を摂し、従容として断ぜず。太和の風替はる。之を漢世に比すれば、元・成・安・順の儔か。宣武の後、元成を継ぎ、孝明沖齢に業を統べ、霊后婦人専制し、人を用いるに非人を以てし、賞罰乖舛す。ここに於いて釁宇内に起り、禍邦畿に延ぶ。卒に享国長からず。抑亦淪胥の始めなり。

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※本コンテンツはAIによる機械翻訳をベースに構成されています。正確な内容は原文(北史)をご参照ください。

原本を確認する(ウィキソース):北史 巻004