巻93

志第四十二: 食貨一

洪範八政においては、食が第一で貨がこれに次ぐ。およそ食貨は生を養う源である。民は食貨なくしては生をなすことができず、国は食貨なくしては用をなすことができない。それゆえ、古にその国をよく治めた者は、民から取らないわけにはいかなかったが、また過度に取ることもなかった。その大要は、収入を量って支出を定めることにある。伝に曰く、「財を生むには大道あり、これを生む者多く、これを食む者寡く、これを行う者疾く、これを用いる者舒かなり」と。これが先王の理財の道である。後世はそうではない。漢・唐・宋を見ると、その立国の初めには、かなり成法があったが、数代伝わるうちに、驕奢が生じた。往々にして取るに度なく、用いるに節がなかった。そこで漢には告緡・算舟車の令があり、唐には借商・税間架の法があり、宋には経制銭・総制銭の二銭があった。いずれも民を掊克して国を充たしたが、結局は民が困窮し国が滅んだ。嘆かわしいことである。

原文洪範八政,食為首而貨次之,蓋食貨者養生之源也。民非食貨則無以為生,國非食貨則無以為用,是以古之善治其國者,不能無取於民,亦未嘗過取於民,其大要在乎量入為出而已。傳曰:「生財有大道,生之者眾,食之者寡,為之者疾,用之者舒。」此先王理財之道也。後世則不然。以漢、唐、宋觀之,當其立國之初,亦頗有成法,及數傳之後,驕侈生焉。往往取之無度,用之無節。於是漢有告緡、算舟車之令,唐有借商、稅間架之法,宋有經、總制二錢,皆掊民以充國,卒之民困而國亡,可歎也已。

元の初め、民から取ることに定まった制度はなかった。世祖が法を立ててからは、すべて寛大を根本とした。その用い方は、宗戚に対しては歳賜があり、凶荒に対しては賑恤があった。おおむね親族を親しみ民を愛することを重んじ、特に農桑の一事に心を砕いた。理財の根本を知る者と言えよう。世祖はかつて中書省の臣に語って言った、「賜与は朕の命があっても、中書省は斟酌せよ」と。成宗もまた丞相完沢らに言った、「毎年、天下の金銀鈔幣の収入はどれほどか。諸王駙馬への賜与および一切の営建の支出はどれほどか。会計して報告せよ」と。完沢が答えて言った、「歳入の数は、金一万九千両、銀六万両、鈔三百六十万錠である。しかしなお用に足らず、至元鈔の元本から二十万錠を借りている。今後は敢えて節用を請う」と。帝はこれを嘉して受け入れた。世に元の治世は至元・大徳を第一とするというのは、まさにこのためである。

原文元初,取民未有定制。及世祖立法,一本於寬。其用之也,於宗戚則有歲賜,於凶荒則有賑恤,大率以親親愛民為重,而尤惓惓於農桑一事,可謂知理財之本者矣。世祖嘗語中書省臣曰:「凡賜與雖有朕命,中書其斟酌之。」成宗亦嘗謂丞相完澤等曰:「每歲天下金銀鈔幣所入幾何?諸王駙馬賜與及一切營建所出幾何?其會計以聞。」完澤對曰:「歲入之數,金一萬九千兩,銀六萬兩,鈔三百六十萬錠,然猶不足於用,又於至元鈔本中借二十萬錠矣。自今敢以節用為請。」帝嘉納焉。世稱元之治以至元、大德為首者,蓋以此。

それ以後、国用は次第に広がった。税糧・科差の二つを除くほか、すべて課税の収入は日増し月増しであった。天暦の頃に至っては、至元・大徳の頃の数と比べると、およそ二十倍に増えていた。しかし朝廷は一日の蓄えもなかった。それは収入を量って支出を定めることができなかったためである。とはいえ、前代の告緡・借商・経総制などの制度は、元にはいずれもなかった。これも寛大と言えよう。四海を兼ね有し、百年に及んで伝わったのには、理由があるのである。そこで前史の法にならい、その出入りの制度で考証できるものを取り上げる。第一は經理、第二は農桑、第三は税糧、第四は科差、第五は海運、第六は鈔法、第七は歳課、第八は塩法、第九は茶法、第十は酒酢課、第十一は商税、第十二は市舶、第十三は額外課、第十四は歳賜、第十五は俸秩、第十六は常平義倉、第十七は惠民薬局、第十八は市糴、第十九は賑卹。これらを篇に詳しく記し、食貨志を作る。

原文自時厥後,國用寖廣。除稅糧、科差二者之外,凡課之入,日增月益。至于天曆之際,視至元、大德之數,蓋增二十倍矣,而朝廷未嘗有一日之蓄,則以其不能量入為出故也。雖然,前代告緡、借商、經總等制,元皆無之,亦可謂寬矣。其能兼有四海,傳及百年者,有以也夫。故倣前史之法,取其出入之制可考者:一曰經理,二曰農桑,三曰稅糧,四曰科差,五曰海運,六曰鈔法,七曰歲課,八曰鹽法,九曰茶法,十曰酒醋課,十有一曰商稅,十有二曰市舶,十有三曰額外課,十有四曰歲賜,十有五曰俸秩,十有六曰常平義倉,十有七曰惠民藥局,十有八曰市糴,十有九曰賑卹,具著于篇,作食貨志。

經理

経界が廃れて後に經理が生じた。魯の履畝、漢の覈田はいずれもその制度である。民のうち強い者は田が多くて税が少なく、弱い者は産を失っても税が残る。經理なくしてはその害を取り除くことはできない。しかし經理の制度がもし不善であれば、その害はまたこれより甚だしいものがある。

原文經界廢而後有經理,魯之履畝,漢之覈田,皆其制也。夫民之強者田多而稅少,弱者產去而稅存,非經理固無以去其害;然經理之制,苟有不善,則其害又將有甚焉者矣。

仁宗延祐元年、平章章閭が言上した、「經理は大事であり、世祖がすでに行われたが、その間に欺瞞隠匿がなお多く、すべて実情を尽くしていない。熟田を荒地とする者があり、差役を恐れて戸を分ける者があり、富民が貧民の田を買ってその旧名のまま税を納める者もある。これによって歳入は増えず、小民は困窮を訴える。もし經理の法を行い、田を持つ家および各位下・寺観・学校・財賦などの田を、一切実情のままに自首させれば、税収に隠匿がなく、差徭も均しくなるでしょう」と。そこで官を派遣して經理させた。章閭らを江浙に、尚書你咱馬丁らを江西に、左丞陳士英らを河南に派遣し、行御史台の分台に鎮圧させ、枢密院に軍で防護させた。

原文仁宗延祐元年,平章章閭言:「經理大事,世祖已嘗行之,但其間欺隱尚多,未能盡實。以熟田為荒地者有之,懼差而析戶者有之,富民買貧民田而仍其舊名輸稅者亦有之。由是歲入不增,小民告病。若行經理之法,俾有田之家,及各位下、寺觀、學校、財賦等田,一切從實自首,庶幾稅入無隱,差徭亦均。」於是遣官經理。以章閭等往江浙,尚書你咱馬丁等往江西,左丞陳士英等往河南,仍命行御史臺分臺鎮遏,樞密院以軍防護焉。

その法は、あらかじめ榜を掲げて民に示し、四十日の期限を設け、その家の所有する田を官に自ら申告させる。あるいは熟田を荒地とし、田を蕩(沼沢地)とし、あるいは逃亡者の田産を隠し占め、あるいは官田を盗んで民田とし、民田を指して官田とし、および僧道が田をもって不正を行う者を、すべて諸人の告発を許した。十畝以下の場合は、その田主および管理する佃戸はいずれも杖七十七とする。二十畝以下の場合は一等を加える。一百畝以下の場合は一百七とする。以上の場合は北辺に流刑とし、隠した田は没官する。郡県の正官が調査せず、脱漏がある場合は、事の大小によって罪を論じ、重い者は除名する。これがその大略である。

原文其法先期揭榜示民,限四十日,以其家所有田,自實于官。或以熟為荒,以田為蕩,或隱占逃亡之產,或盜官田為民田,指民田為官田,及僧道以田作弊者,並許諸人首告。十畝以下,其田主及管幹佃戶皆杖七十七。二十畝以下,加一等。一百畝以下,一百七;以上,流竄北邊,所隱田沒官。郡縣正官不為查勘,致有脫漏者,量事論罪,重者除名。此其大略也。

しかし期限が急迫で、貪欲で苛酷な者が事を行い、富民と狡猾な吏が結託して奸計をなした。無いものを有るとし、虚偽のものを籍に記載することが往々にしてあった。そこで人は生きるに聊かず、盗賊が一斉に起こり、その弊害はかえって以前より甚だしかった。仁宗はこれを知り、翌年、三省の自実田租を免除する詔を下した。二年、時に汴梁路総管塔海もその弊害を言上した。そこで河南の自実田について、延祐五年を始めとして、毎畝その半額のみを課し、汴梁路は凡そ二十二万余石を減免した。泰定・天暦の初めに至り、また虚増の数をすべて改め、民はようやく安堵を得た。今、その数で考証できるものを取り、後に列挙する。河南省、総計官民の荒熟田一百一十八万七百六十九頃。

原文然期限猝迫,貪刻用事,富民黠吏,並緣為姦,以無為有,虛具于籍者,往往有之。於是人不聊生,盜賊並起,其弊反有甚於前者。仁宗知之,明年,遂下詔免三省自實田租。二年,時汴梁路總管塔海亦言其弊,於是命河南自實田,自延祐五年為始,每畝止科其半,汴梁路凡減二十二萬餘石。至泰定、天曆之初,又盡革虛增之數,民始獲安。今取其數之可考者,列于後云:河南省,總計官民荒熟田一百一十八萬七百六十九頃。

江西省、総計官民の荒熟田四十七万四千六百九十三頃。

原文江西省,總計官民荒熟田四十七萬(石)四千六百九十三頃。

江浙省、総計官民の荒熟田九十九万五千八十一頃。

原文江浙省,總計官民荒熟田九十九萬五千八十一頃。

農桑

農桑は王政の根本である。太祖は朔方より起こり、その風俗は蚕を待たずして衣とし、耕すを待たずして食とした。初めは特にこれを事としなかった。世祖が即位の初め、まず天下に詔して、国は民を根本とし、民は衣食を根本とし、衣食は農桑を根本とするとした。そこで『農桑輯要』の書を民に頒布し、民に本を崇め末を抑えさせた。その叡知英識は、古の帝王と異なることがなく、遼・金の比べるところではなかった。

原文農桑,王政之本也。太祖起朔方,其俗不待蠶而衣,不待耕而食,初無所事焉。世祖即位之初,首詔天下,國以民為本,民以衣食為本,衣食以農桑為本。於是頒農桑輯要之書于民,俾民崇本抑末。其睿見英識,與古先帝王無異,豈遼、金所能比哉。

中統元年、各路の宣撫司に命じて農事に通暁する者を選び、随所の勧農官に充てさせた。二年、勧農司を立て、陳邃・崔斌ら八人を勧農使とした。至元七年、司農司を立て、左丞張文謙を卿とした。司農司の設置は、専ら農桑水利を掌るためである。引き続き勧農官および水利を知る者を配置し、郡邑を巡行させ、勤惰を察挙させた。所在の牧民長官は農事を提点し、年末にその成否を等級づけ、司農司および戸部に転申する。任期満了の日には解由に注記し、戸部がこれを照査して、考課の殿最の根拠とした。また提刑按察司に命じてこれを体察させた。その法はまさに完璧と言えよう。

原文中統元年,命各路宣撫司擇通曉農事者,充隨處勸農官。二年,立勸農司,以陳邃、崔斌等八人為使。至元七年,立司農司,以左丞張文謙為卿。司農司之設,專掌農桑水利。仍分布勸農官及知水利者,巡行郡邑,察舉勤惰。所在牧民長官提點農事,歲終第其成否,轉申司農司及戶部,秩滿之日,注於解由,戶部照之,以為殿最。又命提刑按察司加體察焉。其法可謂至矣。

この年、また農桑の制一十四條を頒布した。條項が多くて全てを載せることはできないので、法とすべきものを載せる。県邑に所属する村疃において、凡そ五十家ごとに一社を立て、高齢で農事に通じた者一人を選んでその長とする。百家に増えた場合は、別に長一員を設ける。五十家に満たない場合は、近隣の村と合して一社とする。土地が遠く人家が疎らで、合することができない場合は、各自が社を立てることを許す。合して社とする場合でも、なお数村の中から、社長官司長を立てて農民を教え督励することを事とする。田を耕す者は、皆田の側に牌橛を立て、その上に某社某人と書き記し、社長は時を定めて点検し勧告誡める。教えに従わない者は、その姓名を籍に記し、提点官に授けて責めさせる。父兄を敬わず、また凶悪な者も同様とする。なおその犯した罪を門に大きく書き記し、改過自新するのを待ってこれを撤去する。もし一年を通じて改めない場合は、その者に本社の夫役を代わりに務めさせる罰を科す。社の中に疾病や凶喪のため耕作できない家があれば、衆人が力を合わせてこれを助ける。一社の中で災害や疾病が多い場合は、両社でこれを助ける。長となる者は、その身の役を免じ、郡県の官は社長を徴発や雑役に使ってはならない。農桑の技術は、旱魃に備えることを先とする。河渠の利については、その地の正官一員に委ね、時を定めて疏浚・修治させる。あるいは民力が不足する場合は、提挙河渠官がその軽重を審らかにし、官がこれを導く。地が高くて水が上がらない場合は、水車を作らせる。貧しくて造れない者は、官が材木を調えて与える。秋の収穫が終わった後、水を使った家を検分し、その費用を均等に負担させる。田に水がない場合は井戸を掘らせ、井戸を深くしても水が得られない場合は、区田法による耕作を許す。水田のある者は、必ずしも区種しなくてよい。なお区田の法を、農民に広く知らしめる。植樹の制は、丁男一人につき毎年桑または棗を二十本植える。土性が適さない場合は、榆や柳などを植えることを許し、その数も同様とする。雑果を植える場合は、丁男一人につき十本とし、いずれも生育した数を数える。多く植えたい者は許される。土地がない者および疾病のある者はこれに含めない。所在の官司が虚偽の申告をした場合は罪に処する。なお各社に苜蓿を播種させ、凶年に備えさせる。水辺の家は、また池を掘って魚を養い、鵞鴨の数を定め、さらに蓮藕・鶏頭・菱角・蒲葦などを植えて、衣食を助けることを許す。凡そ荒閑の地は、全て民に与え、まず貧しい者に給し、次いでその他の戸に及ぼす。毎年十月、州県の正官一員に命じて境内を巡視させ、蝗虫の卵が残っている土地があれば、様々な方法を設けてこれを除去させる。その心配りが周到細密であること、これまた仁であるかな。

原文是年,又頒農桑之制一十四條,條多不能盡載,載其所可法者:縣邑所屬村疃,凡五十家立一社,擇高年曉農事者一人為之長。增至百家者,別設長一員。不及五十家者,與近村合為一社。地遠人稀,不能相合,各自為社者聽。其合為社者,仍擇數村之中,立社長官司長以教督農民為事。凡種田者,立牌橛於田側,書某社某人於其上,社長以時點視勸誡。不率教者,籍其姓名,以授提點官責之。其有不敬父兄及凶惡者,亦然。仍大書其所犯于門,俟其改過自新乃毀,如終歲不改,罰其代充本社夫役。社中有疾病凶喪之家不能耕種者,眾為合力助之。一社之中災病多者,兩社助之。凡為長者,復其身,郡縣官不得以社長與科差事。農桑之術,以備旱暵為先。凡河渠之利,委本處正官一員,以時濬治。或民力不足者,提舉河渠官相其輕重,官為導之。地高水不能上者,命造水車。貧不能造者,官具材木給之。俟秋成之後,驗使水之家,俾均輸其直。田無水者鑿井,井深不能得水者,聽種區田。其有水田者,不必區種。仍以區田之法,散諸農民。種植之制,每丁歲種桑棗二十株。土性不宜者,聽種榆柳等,其數亦如之。種雜果者,每丁十株,皆以生成為數,願多種者聽。其無地及有疾者不與。所在官司申報不實者,罪之。仍令各社布種苜蓿,以防饑年。近水之家,又許鑿池養魚并鵝鴨之數,及種蒔蓮藕、雞頭、菱(芡)〔角〕、蒲葦等,以助衣食。凡荒閑之地,悉以付民,先給貧者,次及餘戶。每年十月,令州縣正官一員,巡視境內,有蟲蝗遺子之地,多方設法除之。其用心周悉若此,亦仁矣哉。

九年、勧農官に勤惰を挙察させた。ここにおいて高唐州の官は勤勉により位階を昇進し、河南陝県の県尹王仔は怠惰により職を降格された。これより毎年その制を申し明らかにした。十年、探馬赤に随所で社に入り、編民と同等とすることを命じた。二十五年、江南に行大司農司及び営田司を設置した。二十八年、農桑雑令を頒布した。この年、また江南の長吏が勧課で民を煩わせるため、その親行の制を廃し、文書を移して諭すのみに止めることを命じた。二十九年、勧農司を各道の粛政廉訪司に併合し、僉事二員を増員して農事の監察を兼務させた。この年八月、また提調農桑官の帳冊に誤差がある場合は、その数を検分して俸給を罰することを命じた。故に世祖の世の終わりまで、家ごとに豊かで人々は足るを得た。天下の戸数は凡そ千百六十三万三千二百八十一、人口は凡そ五千三百六十五万四千三百三十七、これが本業を重んじた明らかな効果の見られる所以である。

原文九年,命勸農官舉察勤惰。於是高唐州官以勤陞秩,河南陝縣尹王仔以惰降職。自是每歲申明其制。十年,令探馬赤隨處入社,與編民等。二十五年,立行大司農司及營田司於江南。二十八年,頒農桑雜令。是年,又以江南長吏勸課擾民,罷其親行之制,命止移文諭之。二十九年,以勸農司併入各道肅政廉訪司,增僉事二員,兼察農事。是年八月,又命提調農桑官帳冊有差者,驗數罰俸。故終世祖之世,家給人足。天下為戶凡一千一百六十三萬三千二百八十一,為口凡五千三百六十五萬四千三百三十七,此其敦本之明效可睹也已。

成宗大徳元年、農事を妨げる役務を廃止した。十一年、農事を煩わせることを禁じ、田畑をよく耕す者には賞を与え、遊惰な者には罰を科し、牧畜を放って禾稼桑棗を損なわせた者は、その償いを責めて後に罪に処することを申し明らかにした。ここにおいて大徳の治世は、ほとんど至元の頃に近づいた。しかし旱魃や霖雨の災害が相次いで起こり、飢饉が重なって至り、流亡して生業を失った民もまた多くあった。

原文成宗大德元年,罷妨農之役。十一年,申擾農之禁,力田者有賞,游惰者有罰,縱畜牧損禾稼桑棗者,責其償而後罪之。由是大德之治,幾於至元。然旱暵霖雨之災迭見,饑毀荐臻,民之流移失業者亦已多矣。

武宗至大二年、淮西廉訪僉事苗好謙が種蒔の法を献上した。その説は農民を三等に分け、上戸は地十畝、中戸は五畝、下戸は二畝または一畝とし、皆垣牆を築いて囲い、時を定めて桑の実を収採し、法に従って植えさせるというものであった。武宗はこれを善しとして施行した。その法は『斉民要術』等の書に出ているので、ここには詳しく記さない。三年、大司農に天下の農政を総括させ、勧課の令を修明し、牧養の地を除き、その余は民に秋耕を許すことを申し命じた。

原文武宗至大二年,淮西廉訪僉事苗好謙獻種蒔之法。其說分農民為三等,上戶地一十畝,中戶五畝,下戶二畝或一畝,皆築垣牆圍之,以時收採桑椹,依法種植。武宗善而行之。其法出齊民要術等書,茲不備錄。三年,申命大司農總挈天下農政,修明勸課之令,除牧養之地,其餘聽民秋耕。

仁宗皇慶二年、再び秋耕の令を申し明らかにし、ただ大都等五路のみはその半ばを耕すことを許した。秋耕の利は、陽気を地中に覆い隠し、蝗虫の遺った卵は皆日に曝されて死に、翌年に植える作物は、必ず常の禾よりも盛んになるからである。延祐三年、好謙の赴任した地では、植えた桑が皆成果を上げたので、ここにおいて諸道に示し範とさせ、これを式とすべきことを命じた。この年十一月、各社に地を出させ、共同で桑の苗を育て、社長にこれを統轄させ、各社に分け与えることを命じた。四年、また社桑を分け与えるのは不便であるとして、民にそれぞれ畦を作って植えさせることを命じた。法はたびたび変わったが、有司が上意を悉く遵うことができず、大方は空文と見なすのみであった。五年、大司農司の臣が言うには、「廉訪司が具申する栽植の数は、冊に書かれたものは、多くが不実である」と。これを見れば、勧課に怠る者は、有司のみが然るのではない。致和の後、農桑の令を申し明らかにしないことはなかった。天暦二年、各道の廉訪司が監察した勤勉な官は内丘の何主簿など凡そ六人、怠惰な官は濮陽の裴県尹など凡そ四人であった。その考うべきものは、ここに止まるのみである。

原文仁宗皇慶二年,復申秋耕之令,惟大都等五路許耕其半。蓋秋耕之利,掩陽氣於地中,蝗蝻遺種皆為日所曝死,次年所種,必盛於常禾也。延祐三年,以好謙所至,植桑皆有成效,於是風示諸道,命以為式。是年十一月,令各社出地,共蒔桑苗,以社長領之,分給各社。四年,又以社桑分給不便,令民各畦種之。法雖屢變,而有司不能悉遵上意,大率視為具文而已。五年,大司農司臣言:「廉訪司所具栽植之數,書于冊者,類多不實。」觀此,則惰於勸課者,又不獨有司為然也。致和之後,莫不申明農桑之令。天曆二年,各道廉訪司所察勤官內丘何主簿等凡六人,惰官濮陽裴縣尹等凡四人。其可考者,蓋止於此云。

税糧

元が民から徴収する方法は、大方唐の法に倣う。内郡から取るものは、丁税と地税と称し、これは唐の租庸調に倣ったものである。江南から取るものは、秋税と夏税と称し、これは唐の両税法に倣ったものである。

原文元之取民,大率以唐為法。其取於內郡者,曰丁稅,曰地稅,此倣唐之租庸調也。取於江南者,曰秋稅,曰夏稅,此倣唐之兩稅也。

丁税・地税の法は、太宗より始めて施行された。初め、太宗は毎戸ごとに粟二石を課したが、後に兵糧が不足したため、四石に増やした。丙申年に至り、ようやく科徴の法を定め、諸路に民戸の成年男子の数を検分させ、毎丁ごとに毎年粟一石を課し、驅丁は五升、新戸は丁・驅ともに半額とし、老幼はこれに含めない。そのうち耕作する者は、あるいはその牛具の数を検分し、あるいはその土地の等級によって徴収した。丁税が少なく地税が多い者は地税を納め、地税が少なく丁税が多い者は丁税を納める。工匠・僧・道は地を検分し、官吏・商賈は丁を検分する。虚偽の割り当てで不実の者は杖七十、二年の徒役に処する。なお毎年その数を冊に書き記し、課税所より省に申し上げて奏聞させ、違反した者は各々杖一百に処する。世祖に至り、旧制を申し明らかにし、ここにおいて輸納の期日・収受の様式・関防の禁令・会計の方法が、備わらないものはなかった。

原文丁稅、地稅之法,自太宗始行之。初,太宗每戶科粟二石,後又以兵食不足,增為四石。至丙申年,乃定科徵之法,令諸路驗民戶成丁之數,每丁歲科粟一石,驅丁五升,新戶丁驅各半之,老幼不與。其間有耕種者,或驗其牛具之數,或驗其土地之等徵焉。丁稅少而地稅多者納地稅,地稅少而丁稅多者納丁稅。工匠僧道驗地,官吏商賈驗丁。虛配不實者杖七十,徒二年。仍命歲書其數于冊,由課稅所申省以聞,違者各杖一百。逮及世祖,申明舊制,於是輸納之期、收受之式、關防之禁、會計之法,莫不備焉。

中統二年、遠方の倉への納糧は、沿河の近くの倉への輸納に止めることを命じ、毎石ごとに脚銭として中統鈔三銭を帯徴し、あるいは民戸が河倉へ赴いて輸納する場合は、毎石ごとに軽齎の中統鈔七銭に折納させた。五年、詔して僧・道・也里可温・答失蠻・儒人で田を耕す者は、白地は毎畝ごとに税三升を輸納し、水地は毎畝五升を輸納することを命じた。軍戸・站戸は地四頃を除いて免税とし、その余は全て徴収する。至元三年、詔して窵戸で他所で田を耕す者は、その丁税は附籍した郡で丁を検分して課し、地税は田を耕す所で地を検分して取ることを命じた。漫散の戸で河南等路に逃れた者は、現地の居民戸に準じて納税する。八年、また西夏中興路・西寧州・兀剌海の三か所の税を定め、その数は前の僧道と同じとした。

原文中統二年,遠倉之糧,命止於沿河近倉輸納,每石帶收脚錢中統鈔三錢,或民戶赴河倉輸納者,每石折輸輕齎中統鈔七錢。五年,詔僧、道、也里可溫、答失蠻、儒人凡種田者,白地每畝輸稅三升,水地每畝五升。軍、站戶除地四頃免稅,餘悉徵之。至元三年,詔窵戶種田他所者,其丁稅於附籍之郡驗丁而科,地稅於種田之所驗地而取。漫散之戶逃於河南等路者,依見居民戶納稅。八年,又定西夏中興路、西寧州、兀剌海三處之稅,其數與前僧道同。

十七年、遂に戸部に命じて諸例を大いに定めしむ:全科戸の丁税は、毎丁粟三石、驅丁粟一石、地税は毎畝粟三升。減半科戸の丁税は、毎丁粟一石。新収交参戸は、第一年五斗、第三年一石二斗五升、第四年一石五斗、第五年一石七斗五升、第六年丁税に入る。協済戸の丁税は、毎丁粟一石、地税は毎畝粟三升。随路、近倉には粟を輸納し、遠倉は毎粟一石につき、軽齎鈔二両に折納す。富戸は遠倉に輸し、下戸は近倉に輸す。郡県各々正官一員を差しこれを部し、毎石に鼠耗三升、分例四升を帯納す。凡そ糧の倉に到るは、時に従い収受し、朱銭を出給す。権勢の徒、税石を結攬する者はこれを罪し、仍って其の数を倍輸せしむ。倉官・攢典・斗脚人等、飛鈔して作弊する者は、並びに諸法に置く。輸納の期は、三限に分つ:初限十月、中限十一月、末限十二月。違う者は、初犯は笞四十、再犯は杖八十。成宗大徳六年、税糧条例を申明し、復た上都・河間の輸納の期を定む。上都は、初限次年五月、中限六月、末限七月。河間は、初限九月、中限十月、末限十一月。

原文十七年,遂命戶部大定諸例:全科戶丁稅,每丁粟三石,驅丁粟一石,地稅每畝粟三升。減半科戶丁稅,每丁粟一石。新收交參戶,第一年五斗,第三年一石二斗五升,第四年一石五斗,第五年一石七斗五升,第六年入丁稅。協濟戶丁稅,每丁粟一石,地稅每畝粟三升。隨路近倉輸粟,遠倉每粟一石,折納輕齎鈔二兩。富戶輸遠倉,下戶輸近倉,郡縣各差正官一員部之,每石帶納鼠耗三升,分例四升。凡糧到倉,以時收受,出給朱錢。權勢之徒結攬稅石者罪之,仍令倍輸其數。倉官、攢典、斗脚人等飛鈔作弊者,並置諸法。輸納之期,分為三限:初限十月,中限十一月,末限十二月。違者,初犯笞四十,再犯杖八十。成宗大德六年,申明稅糧條例,復定上都、河間輸納之期。上都,初限次年五月,中限六月,末限七月。河間,初限九月,中限十月,末限十一月。

秋税・夏税の法は、江南に行わる。初め、世祖宋を平らげし時、江東・浙西を除き、其の余は独り秋税を徴するのみなりき。至元十九年、姚元の請を用い、江南の税糧に宋の旧例に依り、綿絹雑物に折輸せしむ。是の年二月、又た耿左丞の言を用い、米の三の一を輸せしめ、余は並びに鈔に入れて以て折とす。七百万錠を以て率とし、歳に羨鈔十四万錠を得。其の米を輸する者は、只だ宋の斗斛を用う。蓋し宋の一石は今の七斗に当たる故なり。二十八年、又た江淮の寺観田に命ず、宋の旧に有る者は租を免じ、続置の者は税を輸す。其の法亦た寛なりと謂うべし。

原文秋稅、夏稅之法,行于江南。初,世祖平宋時,除江東、浙西,其餘獨徵秋稅而已。至元十九年,用姚元之請,命江南稅糧依宋舊例,折輸綿絹雜物。是年二月,又用耿左丞言,令輸米三之一,餘並入鈔以折焉。以七百萬錠為率,歲得羨鈔十四萬錠。其輸米者,止用宋斗斛,蓋以宋一石當今七斗故也。二十八年,又命江淮寺觀田,宋舊有者免租,續置者輸稅,其法亦可謂寬矣。

成宗元貞二年、始めて江南夏税を徴するの制を定む。ここに於いて秋税は只だ租を輸するを命ずるのみとし、夏税は則ち木綿布絹絲綿等の物を以て輸す。其の輸する所の数は、糧を視て以て差とす。糧一石に或いは鈔三貫・二貫・一貫を輸し、或いは一貫五百文・一貫七百文を輸す。三貫を輸する者は、若し江浙省婺州等路・江西省龍興等路是れなり。二貫を輸する者は、若し福建省泉州等五路是れなり。一貫五百文を輸する者は、若し江浙省紹興路・福建省漳州等五路是れなり。皆其の地利の宜しきに因り、人民の衆きに因り、其中の数を酌みて之を取る。其の折輸する物は、各々時估の高下に随いて以て直と為す。独り湖広は則ち是れに異なり。初め、阿里海牙湖広を克つ時、宋の夏税を罷め、中原の例に依り、門攤に改科し、毎戸一貫二銭。蓋し夏税に視て鈔五万余錠を増すなり。大徳二年、宣慰張国紀夏税を科するを請う。ここに於いて湖・湘重ねて其の害に罹る。俄に詔して之を罷む。三年、又た門攤を夏税に改め併せて之を徴す。毎石計り三貫四銭之上、江浙・江西に視て差し重きと為す云う。其の官に在るの田は、民に佃種して租を輸するを許す。江北・両淮等の処の荒閑の地は、第三年始めて輸す。大徳四年、又た地広く人稀なるを以て更に一年を優し、第四年に納税せしむ。凡そ官田は、夏税皆科せず。

原文成宗元貞二年,始定徵江南夏稅之制。於是秋稅止命輸租,夏稅則輸以木綿布絹絲綿等物。其所輸之數,視糧以為差。糧一石或輸鈔三貫、二貫、一貫,或一貫五百文、一貫七百文。輸三貫者,若江浙省婺州等路、江西省龍興等路是已。輸二貫者,若福建省泉州等五路是已。輸一貫五百文者,若江浙省紹興路、福建省漳州等五路是已。皆因其地利之宜,人民之眾,酌其中數而取之。其折輸之物,各隨時估之高下以為直,獨湖廣則異於是。初,阿里海牙克湖廣時,罷宋夏稅,依中原例,改科門攤,每戶一貫二錢,蓋視夏稅增鈔五萬餘錠矣。大德二年,宣慰張國紀請科夏稅,於是湖、湘重罹其害。俄詔罷之。三年,又改門攤為夏稅而併徵之。每石計三貫四錢之上,視江浙、江西為差重云。其在官之田,許民佃種輸租。江北、兩淮等處荒閑之地,第三年始輸。大德四年,又以地廣人稀更優一年,令第四年納稅。凡官田,夏稅皆不科。

泰定の初め、又た所謂る助役糧有り。其の法、江南の民戸に田一頃以上の有る者に命じ、輸する所の税の外に、毎頃量りて助役の田を出だし、具に冊に書し、里正以て次に之を掌り、歳に其の入を収め、以て役に充つるの費を助く。凡そ寺観田は、宋の旧額を除き、其の余も亦た其の多寡を験し、田を出だして助役せしむ。民之に頼りて困窮せず、因りて並びに此に著す云う。

原文泰定之初,又有所謂助役糧者。其法命江南民戶有田一頃之上者,於所輸稅外,每頃量出助役之田,具書于冊,里正以次掌之,歲收其入,以助充役之費。凡寺觀田,除宋舊額,其餘亦驗其多寡令出田助役焉。民賴以不困,因并著于此云。

天下歳入糧数、総計一千二百十一万四千七百八石。

原文天下歲入糧數,總計一千二百十一萬四千七百八石。

腹裏、二百二十七万一千四百四十九石。

原文腹裏,二百二十七萬一千四百四十九石。

行省、九百八十四万三千二百五十八石。

原文行省,九百八十四萬三千二百五十八石。

遼陽省七万二千六十六石。

原文遼陽省七萬二千六十六石。

河南省二百五十九万一千二百六十九石。

原文河南省二百五十九萬一千二百六十九石。

陝西省二十二万九千二十三石。

原文陝西省二十二萬九千二十三石。

四川省一十一万六千五百七十四石。

原文四川省一十一萬六千五百七十四石。

甘粛省六万五百八十六石。

原文甘肅省六萬五百八十六石。

雲南省二十七万七千七百一十九石。

原文雲南省二十七萬七千七百一十九石。

江浙省四百四十九万四千七百八十三石。

原文江浙省四百四十九萬四千七百八十三石。

江西省一百一十五万七千四百四十八石。

原文江西省一百一十五萬七千四百四十八石。

湖広省八十四万三千七百八十七石。

原文湖廣省八十四萬三千七百八十七石。

江南三省天暦元年夏税鈔数、総計中統鈔十四万九千二百七十三錠三十三貫。

原文江南三省天曆元年夏稅鈔數,總計中統鈔一十四萬九千二百七十三錠三十三貫。

江浙省五万七千八百三十錠四十貫。

原文江浙省五萬七千八百三十錠四十貫。

江西省五万二千八百九十五錠十一貫。

原文江西省五萬二千八百九十五錠一十一貫。

湖広省一万九千三百七十八錠二貫。

原文湖廣省一萬九千三百七十八錠二貫。

科差

科差の名は二つあり、曰く絲料、曰く包銀。その法は各々その戸の上下を検分して科する。絲料の法は、太宗丙申年に始めてこれを行ふ。毎二戸絲一斤を出し、并せて路の絲線・顏色を官に輸す。五戸絲一斤を出し、并せて路の絲線・顏色を本位に輸す。包銀の法は、憲宗乙卯年に始めてこれを定む。初め漢民は包銀六両を科納す、是に至りて止む四両を徴し、二両は銀を輸し、二両は絲絹・顏色等の物を折収す。逮び世祖に及んで、その制益々詳なり。

原文科差之名有二:曰絲料,曰包銀。其法各驗其戶之上下而科焉。絲料之法,太宗丙申年始行之。每二戶出絲一斤,并隨路絲線、顏色輸于官;五戶出絲一斤,并隨路絲線、顏色輸于本位。包銀之法,憲宗乙卯年始定之。初漢民科納包銀六兩,至是止徵四兩,二兩輸銀,二兩折收絲絹、顏色等物。逮及世祖,而其制益詳。

中統元年、十路宣撫司を立て、戸籍科差条例を定む。然れどもその戸は大抵一ならず、元管戸・交参戸・漏籍戸・協済戸あり。諸戸の中に於て、又絲銀全科戸・減半科戸・止納絲戸・止納鈔戸あり。外に又攤絲戸・儲也速䚟児の管する納絲戸、復業戸、并せて漸成丁戸あり。戸既に等しからず、数も亦同じからず。元管戸内、絲銀全科係官戸は、毎戸係官絲一斤六両四銭・包銀四両を輸す。全科係官五戸絲戸は、毎戸係官絲一斤・五戸絲六両四銭を輸し、包銀の数は係官戸と同じ。減半科戸は、毎戸係官絲八両・五戸絲三両二銭・包銀二両を輸す。止納係官絲戸は、若し上都・隆興・西京等路の十戸十斤の者は、毎戸一斤を輸し、大都以南等路の十戸十四斤の者は、毎戸一斤六両四銭を輸す。止納係官五戸絲戸は、毎戸係官絲一斤・五戸絲六両四銭を輸す。交参戸内、絲銀戸は毎戸係官絲一斤六両四銭・包銀四両を輸す。漏籍戸内、止納絲戸は毎戸輸する絲の数、交参絲銀戸と同じ。止納鈔戸は、初年包銀一両五銭を科し、次年五銭を遞増し、四両に增至し、併せて絲料を科す。協済戸内、絲銀戸は毎戸係官絲十両二銭・包銀四両を輸す。止納絲戸は、毎戸輸する係官絲の数、絲銀戸と同じ。攤絲戸は、毎戸攤絲四斤を科す。儲也速䚟児の管する戸は、毎戸細絲を科し、その数は攤絲と同じ。復業戸并せて漸成丁戸は、初年科を免じ、第二年は減半し、第三年は全科し、旧戸と等し。然れども絲料・包銀の外に、又俸鈔の科あり、その法も亦戸の高下を以て等と為し、全科戸は一両を輸し、減半戸は五銭を輸す。是に於て以て合科の数を以て、大門攤を作り、三限に分けて輸納す。災に被れる地は、他の物を輸して折ることを聴す、その物各々時估を以て則と為す。凡そ儒士及び軍・站・僧・道等の戸は皆与せず。

原文中統元年,立十路宣撫司,定戶籍科差條例。然其戶大抵不一,有元管戶、交參戶、漏籍戶、協濟戶。於諸戶之中,又有絲銀全科戶、減半科戶、止納絲戶、止納鈔戶;外又有攤絲戶、儲也速䚟兒所管納絲戶,復業戶,并漸成丁戶。戶既不等,數亦不同。元管戶內,絲銀全科係官戶,每戶輸係官絲一斤六兩四錢、包銀四兩;全科係官五戶絲戶,每戶輸係官絲一斤、五戶絲六兩四錢,包銀之數與係官戶同;減半科戶,每戶輸係官絲八兩、五戶絲三兩二錢、包銀二兩;止納係官絲戶,若上都、隆興、西京等路十戶十斤者,每戶輸一斤,大都以南等路十戶十四斤者,每戶輸一斤六兩四錢;止納係官五戶絲戶,每戶輸係官絲一斤、五戶絲六兩四錢。交參戶內,絲銀戶每戶輸係官絲一斤六兩四錢、包銀四兩。漏籍戶內,止納絲戶每戶輸絲之數,與交參絲銀戶同;止納鈔戶,初年科包銀一兩五錢,次年遞增五錢,增至四兩,併科絲料。協濟戶內,絲銀戶每戶輸係官絲十兩二錢、包銀四兩;止納絲戶,每戶輸係官絲之數,與絲銀戶同。攤絲戶,每戶科攤絲四斤。儲也速䚟兒所管戶,每戶科細絲,其數與攤絲同。復業戶并漸成丁戶,初年免科,第二年減半,第三年全科,與舊戶等。然絲料、包銀之外,又有俸鈔之科,其法亦以戶之高下為等,全科戶輸一兩,減半戶輸五錢。於是以合科之數,作大門攤,分為三限輸納。被災之地,聽輸他物折焉,其物各以時估為則。凡儒士及軍、站、僧、道等戶皆不與。

二年、復た科差の期を定め、絲料は八月を限り、包銀は初限八月、中限十月、末限十二月とす。三年、又命じて絲料は七月を過ぎず、包銀は九月を過ぎずとす。及び江南を平げて、その制益々広し。至元二十八年、至元新格を以て科差法を定め、諸差税は皆司県の正官人吏を監視して局を置き均科す。諸夫役は皆先づ富強、後に貧弱。貧富等しき者は、先づ多丁、後に少丁。

原文二年,復定科差之期,絲料限八月,包銀初限八月,中限十月,末限十二月。三年,又命絲料無過七月,包銀無過九月。及平江南,其制益廣。至元二十八年,以至元新格定科差法,諸差稅皆司縣正官監視人吏置局均科。諸夫役皆先富強,後貧弱;貧富等者,先多丁,後少丁。

成宗大徳六年、又命じて止輸絲戸は毎戸俸鈔中統鈔一両を科し、包銀戸は毎戸二銭五分を科し、攤絲戸は毎戸攤絲五斤八両を科す。絲料は八月を限り、包銀・俸鈔は九月を限り、布は十月を限る。大率世祖の旧に因りて増損す。

原文成宗大德六年,又命止輸絲戶每戶科俸鈔中統鈔一兩,包銀戶每戶科二錢五分,攤絲戶每戶科攤絲五斤八兩;絲料限八月,包銀、俸鈔限九月,布限十月。大率因世祖之舊而增損云。

科差総数:

原文科差總數:

中統四年、絲七十一万二千百七十一斤、鈔五万六千百五十八錠。

原文中統四年,絲七十一萬二千一百七十一斤,鈔五萬六千一百五十八錠。

至元二年、絲九十八万六千九百十二斤、包銀等鈔五万六千八百七十四錠、布八万五千四百十二匹。

原文至元二年,絲九十八萬六千九百一十二斤,包銀等鈔五萬六千八百七十四錠,布八萬五千四百一十二匹。

至元三年、絲百五万三千二百二十六斤、包銀等鈔五万九千八十五錠。

原文至元三年,絲一百五萬三千二百二十六斤,包銀等鈔五萬九千八十五錠。

至元四年、絲百九万六千四百八十九斤、鈔七万八千百二十六錠。

原文至元四年,絲一百九萬六千四百八十九斤,鈔七萬八千一百二十六錠。

天暦元年、包銀差発鈔九百八十九錠、𧴩一百一十三万三千一百一十九索、絲一百九万八千八百四十三斤、絹三十五万五百三十匹、綿七万二千一十五斤、布二十一万一千二百二十三匹。

原文天曆元年,包銀差發鈔九百八十九錠,𧴩一百一十三萬三千一百一十九索,絲一百九萬八千八百四十三斤,絹三十五萬五百三十匹,綿七萬二千一十五斤,布二十一萬一千二百二十三匹。

海運

元は燕に都し、江南より極めて遠く、而して百官諸府の繁、衛士編民の衆、江南に仰給せざるは無し。丞相伯顏海運の言を献じてより、江南の糧は春夏二運に分つ。蓋し京師に至る者は一歳多くは三百万余石に至り、民に輓輸の労無く、国に儲蓄の富有り、豈に一代の良法ならずや。

原文元都于燕,去江南極遠,而百司庶府之繁,衞士編民之眾,無不仰給於江南。自丞相伯顏獻海運之言,而江南之糧分為春夏二運。蓋至于京師者一歲多至三百萬餘石,民無輓輸之勞,國有儲蓄之富,豈非一代之良法歟。

初め、伯顏江南を平らげし時、嘗て張瑄・朱清等に命じ、宋の庫蔵図籍を以て、崇明州より海道に従ひ京師に載入せしむ。而して運糧は則ち浙西より江を渉り淮に入り、黄河に由り逆水して中灤旱站に至り、陸運して淇門に至り、御河に入り、以て京に達す。後又た済州泗河を開き、淮より新開河に至り、大清河に由り利津に至り、河海に入る。海口沙壅の因り、又た東阿旱站より運び臨清に至り、御河に入る。又た膠・萊河道を開き海に通ず。労費貲に堪へず、卒に成效無し。至元十九年、伯顏海道にて宋の図籍を載せし事を追憶し、海運行ふ可きと以為ひ、是に於て朝廷に請ひ、上海総管羅璧・朱清・張瑄等に命じ、平底海船六十艘を造り、糧四万六千余石を運び、海道より京師に至らしむ。然れども海洋を創行し、山に沿ひて㠗を求め、風信時を失ひ、明年に至りて始めて直沽に至る。時に朝廷未だ其の利を知らず、是の年十二月京畿・江淮都漕運司二を立て、仍て各分司を置き、以て綱運を督む。毎歳江淮漕運司に令して糧を中灤に運ばしめ、京畿漕運司は中灤より自ら大都に運ぶ。二十年、又た王積翁の議を用ひ、阿八赤等に令して新河を広く開かしむ。然れども新河は潮を候ひて以て入り、船多く損壊し、民亦之を苦しむ。而して忙兀䚟言ふ、海運の舟悉く皆至る焉と。是に於て新開河を罷め、頗る海運に事とし、万戸府二を立て、朱清を以て中万戸と為し、張瑄を千戸と為し、忙兀䚟を万戸府達魯花赤と為す。未だ幾ばくもせず、又た新河の軍士水手及び船を分ち、揚州・平灤両処に於て糧を運び、三省に命じて船(二)〔三〕千艘を済州河に造り糧を運ばしむ、猶ほ未だ専ら海道に於てせず。

原文初,伯顏平江南時,嘗命張瑄、朱清等,以宋庫藏圖籍,自崇明州從海道載入京師。而運糧則自浙西涉江入淮,由黃河逆水至中灤旱站,陸運至淇門,入御河,以達于京。後又開濟州泗河,自淮至新開河,由大清河至利津,河入海,因海口沙壅,又從東阿旱站運至臨清,入御河。又開膠、萊河道通海,勞費不貲,卒無成效。至元十九年,伯顏追憶海道載宋圖籍之事,以為海運可行,於是請于朝廷,命上海總管羅璧、朱清、張瑄等,造平底海船六十艘,運糧四萬六千餘石,從海道至京師。然創行海洋,沿山求㠗,風信失時,明年始至直沽。時朝廷未知其利,是年十二月立京畿、江淮都漕運司二,仍各置分司,以督綱運。每歲令江淮漕運司運糧至中灤,京畿漕運司自中灤運至大都。二十年,又用王積翁議,令阿八赤等廣開新河。然新河候潮以入,船多損壞,民亦苦之。而忙兀䚟言海運之舟悉皆至焉。於是罷新開河,頗事海運,立萬戶府二,以朱清為中萬戶,張瑄為千戶,忙兀䚟為萬戶府達魯花赤。未幾,又分新河軍士水手及船,於揚州、平灤兩處運糧,命三省造船(二)〔三〕千艘於濟州河運糧,猶未專於海道也。

二十四年、始めて行泉府司を立て、専ら海運を掌り、万戸府二を増置し、総べて四府と為す。是の年遂に東平河運糧を罷む。二十五年、内外に分ち漕運司二を置く。其の外に在る者は河西務に司を置き、海道糧事の接運を領す。二十八年、又た朱清・張瑄の請を用ひ、四府を併せて都漕運万戸府二と為し、只だ清・瑄二人に令して之を掌らしむ。其の属に千戸・百戸等の官有り、各翼に分ち、以て歳運を督む。

原文二十四年,始立行泉府司,專掌海運,增置萬戶府二,總為四府。是年遂罷東平河運糧。二十五年,內外分置漕運司二。其在外者於河西務置司,領接運海道糧事。二十八年,又用朱清、張瑄之請,併四府為都漕運萬戶府二,止令清、瑄二人掌之。其屬有千戶、百戶等官,分為各翼,以督歲運。

至大四年、官を江浙に遣はし海運の事を議す。時に江東寧国・池・饒・建康等処の運糧は、率ね海船に令して揚子江より逆流して上らしむ。江水湍急にして、又多く石磯有り、走沙漲浅し、糧船俱に壊れ、歳歳之れ有り。又た湖広・江西の糧は真州に運び泊して海船に入る。船大にして底小、亦た江中に宜しきに非ず。是に於て嘉興・松江の秋糧を以て、并せて江淮・江浙財賦府の歳辦糧を運に充つ。海漕の利は、蓋し是に至りて博し。

原文至大四年,遣官至江浙議海運事。時江東寧國、池、饒、建康等處運糧,率令海船從揚子江逆流而上。江水湍急,又多石磯,走沙漲淺,糧船俱壞,歲歲有之。又湖廣、江西之糧運至真州泊入海船,船大底小,亦非江中所宜。於是以嘉興、松江秋糧,并江淮、江浙財賦府歲辦糧充運。海漕之利,蓋至是博矣。

凡そ糧を運ぶ毎に、石毎に脚価鈔有り。至元二十一年、中統鈔八両五銭を給す。其の後遞減して六両五銭に至る。至大三年、福建・浙東の船戸平江に至り糧を載する者は、道遠く費広しを以て、通増して至元鈔一両六銭、香糯一両七銭と為す。四年、又た二両に増し、香糯二両八銭、稻穀一両四銭と為す。延祐元年、遠近を斟酌し、復た其の価を増す。福建船運の糙粳米は毎石一十三両、溫・台・慶元船運の糙粳・香糯は毎石一十〔一〕両五銭、紹興・浙西船は毎石一十一両、白粳の価同じ、稻穀は毎石八両、黒豆は毎石糙白糧の例に依りて之を給す。

原文凡運糧,每石有脚價鈔。至元二十一年,給中統鈔八兩五錢,其後遞減至于六兩五錢。至大三年,以福建、浙東船戶至平江載糧者,道遠費廣,通增為至元鈔一兩六錢,香糯一兩七錢。四年,又增為二兩,香糯二兩八錢,稻穀一兩四錢。延祐元年,斟酌遠近,復增其價。福建船運糙粳米每石一十三兩,溫、台、慶元船運糙粳、香糯每石一十〔一〕兩五錢,紹興、浙西船每石一十一兩,白粳價同,稻穀每石八兩,黑豆每石依糙白糧例給焉。

初め、海運の道は、平江劉家港より海に入り、揚州路通州海門県黄連沙頭・万里長灘を経て開洋し、山㠗に沿ひて行き、淮安路塩城県に抵り、西海州・海寧府東海県・密州・膠州界を歴て、霊山洋を放ち東北に投じ、路多く浅沙有り、行くこと月余りにして始めて成山に抵る。其の水程を計るに、上海より(揚)〔楊〕村馬頭に至るまで、凡そ一万三千三百五十里。至元二十九年、朱清等其の路険悪なるを言ひ、復た生道を開く。劉家港より開洋し、撐脚沙に至り沙觜に転じ、三沙・洋子江に至り、匾(檐)〔擔〕沙・大洪を過ぎ、又た万里長灘を過ぎ、大洋を放ちて青水洋に至り、又た黒水洋を経て成山に至り、劉島を過ぎ、芝罘・沙門二島に至り、萊州大洋を放ち、界河口に抵る。其の道稍々径直なり。明年、千戸殷明略又た新道を開く。劉家港より海に入り、崇明州三沙に至り放洋し、東に向ひて行き、黒水大洋に入り、成山を取りて西に転じ劉家島に至り、又た登州沙門島に至り、萊州大洋に於て界河に入る。舟行するに風信時に当れば、浙西より京師に至るまで、旬日に過ぎずして已む。前の二道を視るに最も便なりと云ふ。然れども風濤測る可からず、糧船漂溺する者は歳として之れ無きは無く、間亦た船壊れて其の米を棄つる者有り。至元二十三年始めて運官に責めて償はしむ。人船俱に溺るる者は乃ち免ず。然れども河漕の費を視れば、則ち其の得る所蓋し多し。

原文初,海運之道,自平江劉家港入海,經揚州路通州海門縣黃連沙頭、萬里長灘開洋,沿山㠗而行,抵淮安路鹽城縣,歷西海州、海寧府東海縣、密州、膠州界,放靈山洋投東北,路多淺沙,行月餘始抵成山。計其水程,自上海至(揚)〔楊〕村馬頭,凡一萬三千三百五十里。至元二十九年,朱清等言其路險惡,復開生道。自劉家港開洋,至撐脚沙轉沙觜,至三沙、洋子江,過匾(檐)〔擔〕沙、大洪,又過萬里長灘,放大洋至青水洋,又經黑水洋至成山,過劉島,至芝罘、沙門二島,放萊州大洋,抵界河口,其道差為徑直。明年,千戶殷明略又開新道,從劉家港入海,至崇明州三沙放洋,向東行,入黑水大洋,取成山轉西至劉家島,又至登州沙門島,於萊州大洋入界河。當舟行風信有時,自浙西至京師,不過旬日而已,視前二道為最便云。然風濤不測,糧船漂溺者無歲無之,間亦有船壞而棄其米者。至元二十三年始責償於運官,人船俱溺者乃免。然視河漕之費,則其所得蓋多矣。

歳運の数:

原文歲運之數:

至元二十年、四万六千五十石、至る者四万二千一百七十二石。二十一年、二十九万五百石、至る者二十七万五千六百一十石。二十二年、十万石、至る者九万七百七十一石。二十三年、五十七万八千五百二十石、至る者四十三万三千九百五石。二十四年、三十万石、至る者二十九万七千五百四十六石。二十五年、四十万石、至る者三十九万七千六百五十五石。二十六年、九十三万五千石、至る者九十一万九千九百四十三石。二十七年、一百五十九万五千石、至る者一百五十一万三千八百五十六石。二十八年、一百五十二万七千二百五十石、至る者一百二十八万一千六百一十五石。二十九年、一百四十万七千四百石、至る者一百三十六万一千五百一十三石。三十年、九十万八千石、至る者八十八万七千五百九十一石。三十一年、五十一万四千五百三十三石、至る者五十万三千五百三十四石。

原文至元二十年,四萬六千五十石,至者四萬二千一百七十二石。二十一年,二十九萬五百石,至者二十七萬五千六百一十石。二十二年,一十萬石,至者九萬七百七十一石。二十三年,五十七萬八千五百二十石,至者四十三萬三千九百五石。二十四年,三十萬石,至者二十九萬七千五百四十六石。二十五年,四十萬石,至者三十九萬七千六百五十五石。二十六年,九十三萬五千石,至者九十一萬九千九百四十三石。二十七年,一百五十九萬五千石,至者一百五十一萬三千八百五十六石。二十八年,一百五十二萬七千二百五十石,至者一百二十八萬一千六百一十五石。二十九年,一百四十萬七千四百石,至者一百三十六萬一千五百一十三石。三十年,九十萬八千石,至者八十八萬七千五百九十一石。三十一年,五十一萬四千五百三十三石,至者五十萬三千五百三十四石。

元貞元年、三十四万五百石。二年、三十四万五百石、至る者三十三万七千二十六石。

原文元貞元年,三十四萬五百石。二年,三十四萬五百石,至者三十三萬七千二十六石。

大徳元年、六十五万八千三百石、到着したものは六十四万八千百三十六石。二年、七十四万二千七百五十一石、到着したものは七十万五千九百五十四石。三年、七十九万四千五百石。四年、七十九万五千五百石、到着したものは七十八万八千九百十八石。五年、七十九万六千五百二十八石、到着したものは七十六万九千六百五十石。六年、百三十八万三千八百八十三石、到着したものは百三十二万九千百四十八石。七年、百六十五万九千四百九十一石、到着したものは百六十二万八千五百八石。八年、百六十七万二千九百九石、到着したものは百六十六万三千三百十三石。九年、百八十四万三千三石、到着したものは百七十九万五千三百四十七石。十年、百八十万八千百九十九石、到着したものは百七十九万七千七十八石。十一年、百六十六万五千四百二十二石、到着したものは百六十四万四千六百七十九石。

原文大德元年,六十五萬八千三百石,至者六十四萬八千一百三十六石。二年,七十四萬二千七百五十一石,至者七十萬五千九百五十四石。三年,七十九萬四千五百石。四年,七十九萬五千五百石,至者七十八萬八千九百一十八石。五年,七十九萬六千五百二十八石,至者七十六萬九千六百五十石。六年,一百三十八萬三千八百八十三石,至者一百三十二萬九千一百四十八石。七年,一百六十五萬九千四百九十一石,至者一百六十二萬八千五百八石。八年,一百六十七萬二千九百九石,至者一百六十六萬三千三百一十三石。九年,一百八十四萬三千三石,至者一百七十九萬五千三百四十七石。十年,一百八十萬八千一百九十九石,至者一百七十九萬七千七十八石。十一年,一百六十六萬五千四百二十二石,至者一百六十四萬四千六百七十九石。

至大元年、百二十四万百四十八石、到着したものは百二十万二千五百三石。二年、二百四十六万四千二百四石、到着したものは二百三十八万六千三百石。三年、二百九十二万六千五百三十三石、到着したものは二百七十一万六千九百十三石。四年、二百八十七万三千二百十二石、到着したものは二百七十七万三千二百六十六石。

原文至大元年,一百二十四萬一百四十八石,至者一百二十萬二千五百三石。二年,二百四十六萬四千二百四石,至者二百三十八萬六千三百石。三年,二百九十二萬六千五百三十三石,至者二百七十一萬六千九百十三石。四年,二百八十七萬三千二百一十二石,至者二百七十七萬三千二百六十六石。

皇慶元年、二百八万三千五百五石、到着したものは二百六万七千六百七十二石。二年、二百三十一万七千二百二十八石、到着したものは二百十五万八千六百八十五石。

原文皇慶元年,二百八萬三千五百五石,至者二百六萬七千六百七十二石。二年,二百三十一萬七千二百二十八石,至者二百一十五萬八千六百八十五石。

延祐元年、二百四十万三千二百六十四石、到着したものは二百三十五万六千六百六石。二年、二百四十三万五千六百八十五石、到着したものは二百四十二万二千五百五石。三年、二百四十五万八千五百十四石、到着したものは二百四十三万七千七百四十一石。四年、二百三十七万五千三百四十五石、到着したものは二百三十六万八千百十九石。五年、二百五十五万三千七百十四石、到着したものは二百五十四万三千六百十一石。六年、三百二万一千五百八十五石、到着したものは二百九十八万六千十七石。七年、三百二十六万四十六石、到着したものは三百二十四万七千九百二十八石。

原文延祐元年,二百四十萬三千二百六十四石,至者二百三十五萬六千六百六石。二年,二百四十三萬五千六百八十五石,至者二百四十二萬二千五百五石。三年,二百四十五萬八千五百一十四石,至者二百四十三萬七千七百四十一石。四年,二百三十七萬五千三百四十五石,至者二百三十六萬八千一百一十九石。五年,二百五十五萬三千七百一十四石,至者二百五十四萬三千六百一十一石。六年,三百二萬一千五百八十五石,至者二百九十八萬六千一十七石。七年,三百二十六萬四千六石,至者三百二十四萬七千九百二十八石。

至治元年、三百二十六万九千四百五十一石、到着したものは三百二十三万八千七百六十五石。二年、三百二十五万千百四十石、到着したものは三百二十四万六千四百八十三石。三年、二百八十一万千七百八十六石、到着したものは二百七十九万八千六百十三石。

原文至治元年,三百二十六萬九千四百五十一石,至者三百二十三萬八千七百六十五石。二年,三百二十五萬一千一百四十石,至者三百二十四萬六千四百八十三石。三年,二百八十一萬一千七百八十六石,至者二百七十九萬八千六百一十三石。

泰定元年、二百八万七千二百三十一石、到着したものは二百七万七千二百七十八石。二年、二百六十七万千百八十四石、到着したものは二百六十三万七千五十一石。三年、三百三十七万五千七百八十四石、到着したものは三百三十五万千三百六十二石。四年、三百十五万二千八百二十石、到着したものは三百十三万七千五百三十二石。

原文泰定元年,二百八萬七千二百三十一石,至者二百七萬七千二百七十八石。二年,二百六十七萬一千一百八十四石,至者二百六十三萬七千五十一石。三年,三百三十七萬五千七百八十四石,至者三百三十五萬一千三百六十二石。四年,三百一十五萬二千八百二十石,至者三百一十三萬七千五百三十二石。

天暦元年、三百二十五万五千二百二十石、到着したものは三百二十一万五千四百二十四石。二年、三百五十二万二千百六十三石、到着したものは三百三十四万三百六石。

原文天曆元年,三百二十五萬五千二百二十石,至者三百二十一萬五千四百二十四石。二年,三百五十二萬二千一百六十三石,至者三百三十四萬三百六石。

鈔法

鈔は唐の飛銭、宋の交会、金の交鈔に始まる。その法は物を母とし、鈔を子として、子母相権して行う、すなわち周官の質剤の意である。元の初め、唐・宋・金の法を倣い、行用鈔あり、その制は文籍によりて考うる可きものなし。

原文鈔始于唐之飛錢、宋之交會、金之交鈔。其法以物為母,鈔為子,子母相權而行,即周官質劑之意也。元初倣唐、宋、金之法,有行用鈔,其制無文籍可考。

世祖中統元年、始めて交鈔を造り、絲を本とす。銀五十両ごとに絲鈔一千両を易え、諸物の価値、皆絲の例に従う。是年の十月、また中統元宝鈔を造る。その文、十を以て計るもの四:一十文、二十文、三十文、五十文と曰う。百を以て計るもの三:一百文、二百文、五百文と曰う。貫を以て計るもの二:一貫文、二貫文と曰う。毎一貫は交鈔一両に同じ、両貫は白銀一両に同じ。また文綾を以て織りて中統銀貨と為す。その等五あり:一両、二両、三両、五両、十両と曰う。毎一両は白銀一両に同じ、然れども銀貨は未だ行はれざるなり。五年、諸路に平準庫を設け、物価を平らかにするを主とし、相い依り準じて低昂に至らざらしめ、仍て鈔一万二千錠を給し、以て鈔本と為す。至元十二年、釐鈔を添造す。その例三あり:二文、三文、五文と曰う。初め、鈔印は木を以て版と為す、十三年銅を鋳て之に易う。十五年、釐鈔は民に便ならずと以て、復命して印するを罷む。

原文世祖中統元年,始造交鈔,以絲為本。每銀五十兩易絲鈔一千兩,諸物之直,並從絲例。是年十月,又造中統元寶鈔。其文以十計者四:曰一十文、二十文、三十文、五十文。以百計者三:曰一百文、二百文、五百文。以貫計者二:曰一貫文、二貫文。每一貫同交鈔一兩,兩貫同白銀一兩。又以文綾織為中統銀貨。其等有五:曰一兩、二兩、三兩、五兩、十兩。每一兩同白銀一兩,而銀貨蓋未及行云。五年,設各路平準庫,主平物價,使相依準,不至低昂,仍給鈔一萬二千錠,以為鈔本。至元十二年,添造釐鈔。其例有三:曰二文、三文、五文。初,鈔印用木為版,十三年鑄銅易之。十五年,以釐鈔不便於民,復命罷印。

然れども元宝・交鈔行わるること既に久しく、物重く鈔軽し。二十四年、遂に至元鈔を改造し、二貫より五文に至るまで、凡そ十有一等、中統鈔と通行す。毎一貫文は中統鈔五貫文に当つ。中統の初めに依り、随路官庫を設立し、金銀を貿易し、鈔法を平準す。花銀一両ごとに、庫に入るればその価至元鈔二貫、庫より出づれば二貫五分;赤金一両、庫に入るれば二十貫、庫より出づれば二十貫五百文。鈔を偽造する者は処死し、首告する者は鈔五錠を賞し、仍て犯人(偽造者)の家産を以て之に給す。その法最も善しと為す。

原文然元寶、交鈔行之既久,物重鈔輕。二十四年,遂改造至元鈔,自二貫至五文,凡十有一等,與中統鈔通行。每一貫文當中統鈔五貫文。依中統之初,隨路設立官庫,貿易金銀,平準鈔法。每花銀一兩,入庫其價至元鈔二貫,出庫二貫五分;赤金一兩,入庫二十貫,出庫二十貫五百文。偽造鈔者處死,首告者賞鈔五錠,仍以犯人家產給之。其法為最善。

至大二年、武宗復た物重鈔軽しと以て、至大銀鈔を改造し、二両より二釐に至るまで定めて一十三等と為す。毎一両は至元鈔五貫、白銀一両、赤金一錢に準ず。元の鈔法、是に至りて蓋し三変せり。大抵至元鈔は中統の五倍、至大鈔はまた至元の五倍なり。然れども期年に及ばず、仁宗即位し、倍数太多くして軽重宜しからずと以て、遂に銀鈔を罷むるの詔あり。而して中統・至元の二鈔は、元の世を終わるまで、蓋し常に行わる。

原文至大二年,武宗復以物重鈔輕,改造至大銀鈔,自二兩至二釐定為一十三等。每一兩準至元鈔五貫,白銀一兩,赤金一錢。元之鈔法,至是蓋三變矣。大抵至元鈔五倍於中統,至大鈔又五倍於至元。然未及期年,仁宗即位,以倍數太多,輕重失宜,遂有罷銀鈔之詔。而中統、至元二鈔,終元之世,蓋常行焉。

凡そ鈔の昏爛する者は、至元二年、官を委ねて交鈔庫に就き、新鈔を以て倒換し、工墨三十文を除く。三年、二十文に減ず。二十二年、復た故の如くに増す。その貫伯分明にして、微かに破損ある者は、並びに行用せしめ、違う者は之を罪す。倒したる鈔は、毎季諸路就きて課税正官をして、解きて省部に赴かしめて焚毀せしめ、行省に隷する者は就きて之を焚く。大徳二年、戸部昏鈔を二十五様と定む。泰定四年、又た焚毀する所を定め、皆廉訪司官をして監臨せしめ、行省に隷する者は、行省官同じく監す。その制の大略かくの如し。

原文凡鈔之昏爛者,至元二年,委官就交鈔庫,以新鈔倒換,除工墨三十文。三年,減為二十文。二十二年,復增如故。其貫伯分明,微有破損者,並令行用,違者罪之。所倒之鈔,每季各路就令納課正官,解赴省部焚毀,隸行省者就焚之。大德二年,戶部定昏鈔為二十五樣。泰定四年,又定焚毀之所,皆以廉訪司官監臨,隸行省者,行省官同監。其制之大略如此。

銭貨について言えば、九府圜法が成周で行われて以来、歴代廃されたことはなかった。元の交鈔・宝鈔はいずれも銭を単位としていたが、銭は鋳造されなかった。武宗至大三年、初めて銭法を行い、資国院・泉貨監を立ててこれを管轄させた。その銭は至大通宝といい、一文は至大銀鈔一厘に相当する。大元通宝といい、一文は至大通宝銭十文に相当する。歴代の銅銭はすべて古例に従い、至大銭と通用させた。当五・当三・折二の銭は、いずれも旧来の比率で用いた。翌年、仁宗は再び詔を下し、鋳造が供給に追い付かず、新旧の銭が混用されて弊害が甚だしくなったため、銀鈔とともに廃止して用いず、立てた院・監もすべて廃止し、専ら至元鈔・中統鈔を用いることとした。

原文若錢,自九府圜法行于成周,歷代未嘗或廢。元之交鈔、寶鈔雖皆以錢為文,而錢則弗之鑄也。武宗至大三年,初行錢法,立資國院、泉貨監以領之。其錢曰至大通寶者,一文準至大銀鈔一釐;曰大元通寶者,一文準至大通寶錢一十文。歷代銅錢,悉依古例,與至大錢通用。其當五、當三、折二,並以舊數用之。明年,仁宗復下詔,以鼓鑄弗給,新舊資用,其弊滋甚,與銀鈔皆廢不行,所立院、監亦皆罷革,而專用至元、中統鈔云。

年間の鈔発行高:

原文歲印鈔數:

中統元年、中統鈔七万三千三百五十二錠。二年、中統鈔三万九千百三十九錠。三年、中統鈔八万錠。四年、中統鈔七万四千錠。

原文中統元年,中統鈔七萬三千三百五十二錠。二年,中統鈔三萬九千一百三十九錠。三年,中統鈔八萬錠。四年,中統鈔七萬四千錠。

至元元年、中統鈔八万九千二百八錠。二年、中統鈔十一万六千二百八錠。三年、中統鈔七万七千二百五十二錠。四年、中統鈔十万九千四百八十八錠。五年、中統鈔二万九千八百八十錠。六年、中統鈔二万二千八百九十六錠。七年、中統鈔九万六千七百六十八錠。八年、中統鈔四万七千錠。九年、中統鈔八万六千二百五十六錠。十年、中統鈔十一万百九十二錠。十一年、中統鈔二十四万七千四百四十錠。十二年、中統鈔三十九万八千百九十四錠。十三年、中統鈔百四十一万九千六百六十五錠。十四年、中統鈔百二万千六百四十五錠。十五年、中統鈔百二万三千四百錠。十六年、中統鈔七十八万八千三百二十錠。十七年、中統鈔百十三万五千八百錠。十八年、中統鈔百九万四千八百錠。十九年、中統鈔九十六万九千四百四十四錠。二十年、中統鈔六十一万六百二十錠。二十一年、中統鈔六十二万九千九百四錠。二十二年、中統鈔二百四万三千八十錠。二十三年、中統鈔二百十八万千六百錠。二十四年、中統鈔八万三千二百錠、至元鈔百万千十七錠。二十五年、至元鈔九十二万千六百十二錠。二十六年、至元鈔百七十八万九十三錠。二十七年、至元鈔五十万二百五十錠。二十八年、至元鈔五十万錠。二十九年、至元鈔五十万錠。三十年、至元鈔二十六万錠。三十一年、至元鈔十九万三千七百六錠。

原文至元元年,中統鈔八萬九千二百八錠。二年,中統鈔一十一萬六千二百八錠。三年,中統鈔七萬七千二百五十二錠。四年,中統鈔一十萬九千四百八十八錠。五年,中統鈔二萬九千八百八十錠。六年,中統鈔二萬二千八百九十六錠。七年,中統鈔九萬六千七百六十八錠。八年,中統鈔四萬七千錠。九年,中統鈔八萬六千二百五十六錠。十年,中統鈔一十一萬一百九十二錠。十一年,中統鈔二十四萬七千四百四十錠。十二年,中統鈔三十九萬八千一百九十四錠。十三年,中統鈔一百四十一萬九千六百六十五錠。十四年,中統鈔一百二萬一千六百四十五錠。十五年,中統鈔一百二萬三千四百錠。十六年,中統鈔七十八萬八千三百二十錠。十七年,中統鈔一百一十三萬五千八百錠。十八年,中統鈔一百九萬四千八百錠。十九年,中統鈔九十六萬九千四百四十四錠。二十年,中統鈔六十一萬六百二十錠。二十一年,中統鈔六十二萬九千九百四錠。二十二年,中統鈔二百四萬三千八十錠。二十三年,中統鈔二百一十八萬一千六百錠。二十四年,中統鈔八萬三千二百錠,至元鈔一百萬一千一十七錠。二十五年,至元鈔九十二萬一千六百一十二錠。二十六年,至元鈔一百七十八萬九十三錠。二十七年,至元鈔五十萬二百五十錠。二十八年,至元鈔五十萬錠。二十九年,至元鈔五十萬錠。三十年,至元鈔二十六萬錠。三十一年,至元鈔一十九萬三千七百六錠。

元貞元年、至元鈔三十一万錠。二年、至元鈔四十万錠。

原文元貞元年,至元鈔三十一萬錠。二年,至元鈔四十萬錠。

大徳元年、至元鈔四十万錠。二年、至元鈔二十九万九千九百十錠。三年、至元鈔九十万七十五錠。四年、至元鈔六十万錠。五年、至元鈔五十万錠。六年、至元鈔二百万錠。七年、至元鈔百五十万錠。八年、至元鈔五十万錠。九年、至元鈔五十万錠。十年、至元鈔百万錠。十一年、至元鈔百万錠。

原文大德元年,至元鈔四十萬錠。二年,至元鈔二十九萬九千九百一十錠。三年,至元鈔九十萬七十五錠。四年,至元鈔六十萬錠。五年,至元鈔五十萬錠。六年,至元鈔二百萬錠。七年,至元鈔一百五十萬錠。八年,至元鈔五十萬錠。九年,至元鈔五十萬錠。十年,至元鈔一百萬錠。十一年,至元鈔一百萬錠。

至大元年、至元鈔百万錠。二年、至元鈔百万錠。三年、至大銀鈔百四十五万三百六十八錠。四年、至元鈔二百十五万錠、中統鈔十五万錠。

原文至大元年,至元鈔一百萬錠。二年,至元鈔一百萬錠。三年,至大銀鈔一百四十五萬三百六十八錠。四年,至元鈔二百一十五萬錠,中統鈔一十五萬錠。

皇慶元年、至元鈔二百二十二万二千三百三十六錠、中統鈔十万錠。二年、至元鈔二百万錠、中統鈔二十万錠。

原文皇慶元年,至元鈔二百二十二萬二千三百三十六錠,中統鈔一十萬錠。二年,至元鈔二百萬錠,中統鈔二十萬錠。

延祐元年、至元鈔二百万錠、中統鈔十万錠。二年、至元鈔百万錠、中統鈔十万錠。三年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。四年、至元鈔四十八万錠、中統鈔十万錠。五年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。六年、至元鈔百四十八万錠、中統鈔十万錠。七年、至元鈔百四十八万錠、中統鈔十万錠。

原文延祐元年,至元鈔二百萬錠,中統鈔一十萬錠。二年,至元鈔一百萬錠,中統鈔一十萬錠。三年,至元鈔四十萬錠,中統鈔一十萬錠。四年,至元鈔四十八萬錠,中統鈔一十萬錠。五年,至元鈔四十萬錠,中統鈔一十萬錠。六年,至元鈔一百四十八萬錠,中統鈔一十萬錠。七年,至元鈔一百四十八萬錠,中統鈔一十萬錠。

至治元年、至元鈔百万錠、中統鈔五万錠。二年、至元鈔八十万錠、中統鈔五万錠。三年、至元鈔七十万錠、中統鈔五万錠。

原文至治元年,至元鈔一百萬錠,中統鈔五萬錠。二年,至元鈔八十萬錠,中統鈔五萬錠。三年,至元鈔七十萬錠,中統鈔五萬錠。

泰定元年、至元鈔六十万錠、中統鈔十五万錠。二年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。三年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。四年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。

原文泰定元年,至元鈔六十萬錠,中統鈔一十五萬錠。二年,至元鈔四十萬錠,中統鈔一十萬錠。三年,至元鈔四十萬錠,中統鈔一十萬錠。四年,至元鈔四十萬錠,中統鈔一十萬錠。

天暦元年、至元鈔三十一万九百二十錠、中統鈔三万五百錠。二年、至元鈔百十九万二千錠、中統鈔四万錠。

原文天曆元年,至元鈔三十一萬九百二十錠,中統鈔三萬五百錠。二年,至元鈔一百一十九萬二千錠,中統鈔四萬錠。