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元史
志第四十二: 食貨一
洪範八政においては、食が第一で貨がこれに次ぐ。およそ食貨は生を養う源である。民は食貨なくしては生をなすことができず、国は食貨なくしては用をなすことができない。それゆえ、古にその国をよく治めた者は、民から取らないわけにはいかなかったが、また過度に取ることもなかった。その大要は、収入を量って支出を定めることにある。伝に曰く、「財を生むには大道あり、これを生む者多く、これを食む者寡く、これを行う者疾く、これを用いる者舒かなり」と。これが先王の理財の道である。後世はそうではない。漢・唐・宋を見ると、その立国の初めには、かなり成法があったが、数代伝わるうちに、驕奢が生じた。往々にして取るに度なく、用いるに節がなかった。そこで漢には告緡・算舟車の令があり、唐には借商・税間架の法があり、宋には経制銭・総制銭の二銭があった。いずれも民を掊克して国を充たしたが、結局は民が困窮し国が滅んだ。嘆かわしいことである。
元の初め、民から取ることに定まった制度はなかった。世祖が法を立ててからは、すべて寛大を根本とした。その用い方は、宗戚に対しては歳賜があり、凶荒に対しては賑恤があった。おおむね親族を親しみ民を愛することを重んじ、特に農桑の一事に心を砕いた。理財の根本を知る者と言えよう。世祖はかつて中書省の臣に語って言った、「賜与は朕の命があっても、中書省は斟酌せよ」と。成宗もまた丞相完沢らに言った、「毎年、天下の金銀鈔幣の収入はどれほどか。諸王駙馬への賜与および一切の営建の支出はどれほどか。会計して報告せよ」と。完沢が答えて言った、「歳入の数は、金一万九千両、銀六万両、鈔三百六十万錠である。しかしなお用に足らず、至元鈔の元本から二十万錠を借りている。今後は敢えて節用を請う」と。帝はこれを嘉して受け入れた。世に元の治世は至元・大徳を第一とするというのは、まさにこのためである。
それ以後、国用は次第に広がった。税糧・科差の二つを除くほか、すべて課税の収入は日増し月増しであった。天暦の頃に至っては、至元・大徳の頃の数と比べると、およそ二十倍に増えていた。しかし朝廷は一日の蓄えもなかった。それは収入を量って支出を定めることができなかったためである。とはいえ、前代の告緡・借商・経総制などの制度は、元にはいずれもなかった。これも寛大と言えよう。四海を兼ね有し、百年に及んで伝わったのには、理由があるのである。そこで前史の法にならい、その出入りの制度で考証できるものを取り上げる。第一は經理、第二は農桑、第三は税糧、第四は科差、第五は海運、第六は鈔法、第七は歳課、第八は塩法、第九は茶法、第十は酒酢課、第十一は商税、第十二は市舶、第十三は額外課、第十四は歳賜、第十五は俸秩、第十六は常平義倉、第十七は惠民薬局、第十八は市糴、第十九は賑卹。これらを篇に詳しく記し、食貨志を作る。
經理
経界が廃れて後に經理が生じた。魯の履畝、漢の覈田はいずれもその制度である。民のうち強い者は田が多くて税が少なく、弱い者は産を失っても税が残る。經理なくしてはその害を取り除くことはできない。しかし經理の制度がもし不善であれば、その害はまたこれより甚だしいものがある。
仁宗延祐元年、平章章閭が言上した、「經理は大事であり、世祖がすでに行われたが、その間に欺瞞隠匿がなお多く、すべて実情を尽くしていない。熟田を荒地とする者があり、差役を恐れて戸を分ける者があり、富民が貧民の田を買ってその旧名のまま税を納める者もある。これによって歳入は増えず、小民は困窮を訴える。もし經理の法を行い、田を持つ家および各位下・寺観・学校・財賦などの田を、一切実情のままに自首させれば、税収に隠匿がなく、差徭も均しくなるでしょう」と。そこで官を派遣して經理させた。章閭らを江浙に、尚書你咱馬丁らを江西に、左丞陳士英らを河南に派遣し、行御史台の分台に鎮圧させ、枢密院に軍で防護させた。
その法は、あらかじめ榜を掲げて民に示し、四十日の期限を設け、その家の所有する田を官に自ら申告させる。あるいは熟田を荒地とし、田を蕩(沼沢地)とし、あるいは逃亡者の田産を隠し占め、あるいは官田を盗んで民田とし、民田を指して官田とし、および僧道が田をもって不正を行う者を、すべて諸人の告発を許した。十畝以下の場合は、その田主および管理する佃戸はいずれも杖七十七とする。二十畝以下の場合は一等を加える。一百畝以下の場合は一百七とする。以上の場合は北辺に流刑とし、隠した田は没官する。郡県の正官が調査せず、脱漏がある場合は、事の大小によって罪を論じ、重い者は除名する。これがその大略である。
しかし期限が急迫で、貪欲で苛酷な者が事を行い、富民と狡猾な吏が結託して奸計をなした。無いものを有るとし、虚偽のものを籍に記載することが往々にしてあった。そこで人は生きるに聊かず、盗賊が一斉に起こり、その弊害はかえって以前より甚だしかった。仁宗はこれを知り、翌年、三省の自実田租を免除する詔を下した。二年、時に汴梁路総管塔海もその弊害を言上した。そこで河南の自実田について、延祐五年を始めとして、毎畝その半額のみを課し、汴梁路は凡そ二十二万余石を減免した。泰定・天暦の初めに至り、また虚増の数をすべて改め、民はようやく安堵を得た。今、その数で考証できるものを取り、後に列挙する。河南省、総計官民の荒熟田一百一十八万七百六十九頃。
江西省、総計官民の荒熟田四十七万四千六百九十三頃。
江浙省、総計官民の荒熟田九十九万五千八十一頃。
農桑
農桑は王政の根本である。太祖は朔方より起こり、その風俗は蚕を待たずして衣とし、耕すを待たずして食とした。初めは特にこれを事としなかった。世祖が即位の初め、まず天下に詔して、国は民を根本とし、民は衣食を根本とし、衣食は農桑を根本とするとした。そこで『農桑輯要』の書を民に頒布し、民に本を崇め末を抑えさせた。その叡知英識は、古の帝王と異なることがなく、遼・金の比べるところではなかった。
中統元年、各路の宣撫司に命じて農事に通暁する者を選び、随所の勧農官に充てさせた。二年、勧農司を立て、陳邃・崔斌ら八人を勧農使とした。至元七年、司農司を立て、左丞張文謙を卿とした。司農司の設置は、専ら農桑水利を掌るためである。引き続き勧農官および水利を知る者を配置し、郡邑を巡行させ、勤惰を察挙させた。所在の牧民長官は農事を提点し、年末にその成否を等級づけ、司農司および戸部に転申する。任期満了の日には解由に注記し、戸部がこれを照査して、考課の殿最の根拠とした。また提刑按察司に命じてこれを体察させた。その法はまさに完璧と言えよう。
この年、また農桑の制一十四條を頒布した。條項が多くて全てを載せることはできないので、法とすべきものを載せる。県邑に所属する村疃において、凡そ五十家ごとに一社を立て、高齢で農事に通じた者一人を選んでその長とする。百家に増えた場合は、別に長一員を設ける。五十家に満たない場合は、近隣の村と合して一社とする。土地が遠く人家が疎らで、合することができない場合は、各自が社を立てることを許す。合して社とする場合でも、なお数村の中から、社長官司長を立てて農民を教え督励することを事とする。田を耕す者は、皆田の側に牌橛を立て、その上に某社某人と書き記し、社長は時を定めて点検し勧告誡める。教えに従わない者は、その姓名を籍に記し、提点官に授けて責めさせる。父兄を敬わず、また凶悪な者も同様とする。なおその犯した罪を門に大きく書き記し、改過自新するのを待ってこれを撤去する。もし一年を通じて改めない場合は、その者に本社の夫役を代わりに務めさせる罰を科す。社の中に疾病や凶喪のため耕作できない家があれば、衆人が力を合わせてこれを助ける。一社の中で災害や疾病が多い場合は、両社でこれを助ける。長となる者は、その身の役を免じ、郡県の官は社長を徴発や雑役に使ってはならない。農桑の技術は、旱魃に備えることを先とする。河渠の利については、その地の正官一員に委ね、時を定めて疏浚・修治させる。あるいは民力が不足する場合は、提挙河渠官がその軽重を審らかにし、官がこれを導く。地が高くて水が上がらない場合は、水車を作らせる。貧しくて造れない者は、官が材木を調えて与える。秋の収穫が終わった後、水を使った家を検分し、その費用を均等に負担させる。田に水がない場合は井戸を掘らせ、井戸を深くしても水が得られない場合は、区田法による耕作を許す。水田のある者は、必ずしも区種しなくてよい。なお区田の法を、農民に広く知らしめる。植樹の制は、丁男一人につき毎年桑または棗を二十本植える。土性が適さない場合は、榆や柳などを植えることを許し、その数も同様とする。雑果を植える場合は、丁男一人につき十本とし、いずれも生育した数を数える。多く植えたい者は許される。土地がない者および疾病のある者はこれに含めない。所在の官司が虚偽の申告をした場合は罪に処する。なお各社に苜蓿を播種させ、凶年に備えさせる。水辺の家は、また池を掘って魚を養い、鵞鴨の数を定め、さらに蓮藕・鶏頭・菱角・蒲葦などを植えて、衣食を助けることを許す。凡そ荒閑の地は、全て民に与え、まず貧しい者に給し、次いでその他の戸に及ぼす。毎年十月、州県の正官一員に命じて境内を巡視させ、蝗虫の卵が残っている土地があれば、様々な方法を設けてこれを除去させる。その心配りが周到細密であること、これまた仁であるかな。
九年、勧農官に勤惰を挙察させた。ここにおいて高唐州の官は勤勉により位階を昇進し、河南陝県の県尹王仔は怠惰により職を降格された。これより毎年その制を申し明らかにした。十年、探馬赤に随所で社に入り、編民と同等とすることを命じた。二十五年、江南に行大司農司及び営田司を設置した。二十八年、農桑雑令を頒布した。この年、また江南の長吏が勧課で民を煩わせるため、その親行の制を廃し、文書を移して諭すのみに止めることを命じた。二十九年、勧農司を各道の粛政廉訪司に併合し、僉事二員を増員して農事の監察を兼務させた。この年八月、また提調農桑官の帳冊に誤差がある場合は、その数を検分して俸給を罰することを命じた。故に世祖の世の終わりまで、家ごとに豊かで人々は足るを得た。天下の戸数は凡そ千百六十三万三千二百八十一、人口は凡そ五千三百六十五万四千三百三十七、これが本業を重んじた明らかな効果の見られる所以である。
成宗大徳元年、農事を妨げる役務を廃止した。十一年、農事を煩わせることを禁じ、田畑をよく耕す者には賞を与え、遊惰な者には罰を科し、牧畜を放って禾稼桑棗を損なわせた者は、その償いを責めて後に罪に処することを申し明らかにした。ここにおいて大徳の治世は、ほとんど至元の頃に近づいた。しかし旱魃や霖雨の災害が相次いで起こり、飢饉が重なって至り、流亡して生業を失った民もまた多くあった。
武宗至大二年、淮西廉訪僉事苗好謙が種蒔の法を献上した。その説は農民を三等に分け、上戸は地十畝、中戸は五畝、下戸は二畝または一畝とし、皆垣牆を築いて囲い、時を定めて桑の実を収採し、法に従って植えさせるというものであった。武宗はこれを善しとして施行した。その法は『斉民要術』等の書に出ているので、ここには詳しく記さない。三年、大司農に天下の農政を総括させ、勧課の令を修明し、牧養の地を除き、その余は民に秋耕を許すことを申し命じた。
仁宗皇慶二年、再び秋耕の令を申し明らかにし、ただ大都等五路のみはその半ばを耕すことを許した。秋耕の利は、陽気を地中に覆い隠し、蝗虫の遺った卵は皆日に曝されて死に、翌年に植える作物は、必ず常の禾よりも盛んになるからである。延祐三年、好謙の赴任した地では、植えた桑が皆成果を上げたので、ここにおいて諸道に示し範とさせ、これを式とすべきことを命じた。この年十一月、各社に地を出させ、共同で桑の苗を育て、社長にこれを統轄させ、各社に分け与えることを命じた。四年、また社桑を分け与えるのは不便であるとして、民にそれぞれ畦を作って植えさせることを命じた。法はたびたび変わったが、有司が上意を悉く遵うことができず、大方は空文と見なすのみであった。五年、大司農司の臣が言うには、「廉訪司が具申する栽植の数は、冊に書かれたものは、多くが不実である」と。これを見れば、勧課に怠る者は、有司のみが然るのではない。致和の後、農桑の令を申し明らかにしないことはなかった。天暦二年、各道の廉訪司が監察した勤勉な官は内丘の何主簿など凡そ六人、怠惰な官は濮陽の裴県尹など凡そ四人であった。その考うべきものは、ここに止まるのみである。
税糧
元が民から徴収する方法は、大方唐の法に倣う。内郡から取るものは、丁税と地税と称し、これは唐の租庸調に倣ったものである。江南から取るものは、秋税と夏税と称し、これは唐の両税法に倣ったものである。
丁税・地税の法は、太宗より始めて施行された。初め、太宗は毎戸ごとに粟二石を課したが、後に兵糧が不足したため、四石に増やした。丙申年に至り、ようやく科徴の法を定め、諸路に民戸の成年男子の数を検分させ、毎丁ごとに毎年粟一石を課し、驅丁は五升、新戸は丁・驅ともに半額とし、老幼はこれに含めない。そのうち耕作する者は、あるいはその牛具の数を検分し、あるいはその土地の等級によって徴収した。丁税が少なく地税が多い者は地税を納め、地税が少なく丁税が多い者は丁税を納める。工匠・僧・道は地を検分し、官吏・商賈は丁を検分する。虚偽の割り当てで不実の者は杖七十、二年の徒役に処する。なお毎年その数を冊に書き記し、課税所より省に申し上げて奏聞させ、違反した者は各々杖一百に処する。世祖に至り、旧制を申し明らかにし、ここにおいて輸納の期日・収受の様式・関防の禁令・会計の方法が、備わらないものはなかった。
中統二年、遠方の倉への納糧は、沿河の近くの倉への輸納に止めることを命じ、毎石ごとに脚銭として中統鈔三銭を帯徴し、あるいは民戸が河倉へ赴いて輸納する場合は、毎石ごとに軽齎の中統鈔七銭に折納させた。五年、詔して僧・道・也里可温・答失蠻・儒人で田を耕す者は、白地は毎畝ごとに税三升を輸納し、水地は毎畝五升を輸納することを命じた。軍戸・站戸は地四頃を除いて免税とし、その余は全て徴収する。至元三年、詔して窵戸で他所で田を耕す者は、その丁税は附籍した郡で丁を検分して課し、地税は田を耕す所で地を検分して取ることを命じた。漫散の戸で河南等路に逃れた者は、現地の居民戸に準じて納税する。八年、また西夏中興路・西寧州・兀剌海の三か所の税を定め、その数は前の僧道と同じとした。
十七年、遂に戸部に命じて諸例を大いに定めしむ:全科戸の丁税は、毎丁粟三石、驅丁粟一石、地税は毎畝粟三升。減半科戸の丁税は、毎丁粟一石。新収交参戸は、第一年五斗、第三年一石二斗五升、第四年一石五斗、第五年一石七斗五升、第六年丁税に入る。協済戸の丁税は、毎丁粟一石、地税は毎畝粟三升。随路、近倉には粟を輸納し、遠倉は毎粟一石につき、軽齎鈔二両に折納す。富戸は遠倉に輸し、下戸は近倉に輸す。郡県各々正官一員を差しこれを部し、毎石に鼠耗三升、分例四升を帯納す。凡そ糧の倉に到るは、時に従い収受し、朱銭を出給す。権勢の徒、税石を結攬する者はこれを罪し、仍って其の数を倍輸せしむ。倉官・攢典・斗脚人等、飛鈔して作弊する者は、並びに諸法に置く。輸納の期は、三限に分つ:初限十月、中限十一月、末限十二月。違う者は、初犯は笞四十、再犯は杖八十。成宗大徳六年、税糧条例を申明し、復た上都・河間の輸納の期を定む。上都は、初限次年五月、中限六月、末限七月。河間は、初限九月、中限十月、末限十一月。
秋税・夏税の法は、江南に行わる。初め、世祖宋を平らげし時、江東・浙西を除き、其の余は独り秋税を徴するのみなりき。至元十九年、姚元の請を用い、江南の税糧に宋の旧例に依り、綿絹雑物に折輸せしむ。是の年二月、又た耿左丞の言を用い、米の三の一を輸せしめ、余は並びに鈔に入れて以て折とす。七百万錠を以て率とし、歳に羨鈔十四万錠を得。其の米を輸する者は、只だ宋の斗斛を用う。蓋し宋の一石は今の七斗に当たる故なり。二十八年、又た江淮の寺観田に命ず、宋の旧に有る者は租を免じ、続置の者は税を輸す。其の法亦た寛なりと謂うべし。
成宗元貞二年、始めて江南夏税を徴するの制を定む。ここに於いて秋税は只だ租を輸するを命ずるのみとし、夏税は則ち木綿布絹絲綿等の物を以て輸す。其の輸する所の数は、糧を視て以て差とす。糧一石に或いは鈔三貫・二貫・一貫を輸し、或いは一貫五百文・一貫七百文を輸す。三貫を輸する者は、若し江浙省婺州等路・江西省龍興等路是れなり。二貫を輸する者は、若し福建省泉州等五路是れなり。一貫五百文を輸する者は、若し江浙省紹興路・福建省漳州等五路是れなり。皆其の地利の宜しきに因り、人民の衆きに因り、其中の数を酌みて之を取る。其の折輸する物は、各々時估の高下に随いて以て直と為す。独り湖広は則ち是れに異なり。初め、阿里海牙湖広を克つ時、宋の夏税を罷め、中原の例に依り、門攤に改科し、毎戸一貫二銭。蓋し夏税に視て鈔五万余錠を増すなり。大徳二年、宣慰張国紀夏税を科するを請う。ここに於いて湖・湘重ねて其の害に罹る。俄に詔して之を罷む。三年、又た門攤を夏税に改め併せて之を徴す。毎石計り三貫四銭之上、江浙・江西に視て差し重きと為す云う。其の官に在るの田は、民に佃種して租を輸するを許す。江北・両淮等の処の荒閑の地は、第三年始めて輸す。大徳四年、又た地広く人稀なるを以て更に一年を優し、第四年に納税せしむ。凡そ官田は、夏税皆科せず。
泰定の初め、又た所謂る助役糧有り。其の法、江南の民戸に田一頃以上の有る者に命じ、輸する所の税の外に、毎頃量りて助役の田を出だし、具に冊に書し、里正以て次に之を掌り、歳に其の入を収め、以て役に充つるの費を助く。凡そ寺観田は、宋の旧額を除き、其の余も亦た其の多寡を験し、田を出だして助役せしむ。民之に頼りて困窮せず、因りて並びに此に著す云う。
天下歳入糧数、総計一千二百十一万四千七百八石。
腹裏、二百二十七万一千四百四十九石。
行省、九百八十四万三千二百五十八石。
遼陽省七万二千六十六石。
河南省二百五十九万一千二百六十九石。
陝西省二十二万九千二十三石。
四川省一十一万六千五百七十四石。
甘粛省六万五百八十六石。
雲南省二十七万七千七百一十九石。
江浙省四百四十九万四千七百八十三石。
江西省一百一十五万七千四百四十八石。
湖広省八十四万三千七百八十七石。
江南三省天暦元年夏税鈔数、総計中統鈔十四万九千二百七十三錠三十三貫。
江浙省五万七千八百三十錠四十貫。
江西省五万二千八百九十五錠十一貫。
湖広省一万九千三百七十八錠二貫。
科差
科差の名は二つあり、曰く絲料、曰く包銀。その法は各々その戸の上下を検分して科する。絲料の法は、太宗丙申年に始めてこれを行ふ。毎二戸絲一斤を出し、并せて路の絲線・顏色を官に輸す。五戸絲一斤を出し、并せて路の絲線・顏色を本位に輸す。包銀の法は、憲宗乙卯年に始めてこれを定む。初め漢民は包銀六両を科納す、是に至りて止む四両を徴し、二両は銀を輸し、二両は絲絹・顏色等の物を折収す。逮び世祖に及んで、その制益々詳なり。
中統元年、十路宣撫司を立て、戸籍科差条例を定む。然れどもその戸は大抵一ならず、元管戸・交参戸・漏籍戸・協済戸あり。諸戸の中に於て、又絲銀全科戸・減半科戸・止納絲戸・止納鈔戸あり。外に又攤絲戸・儲也速䚟児の管する納絲戸、復業戸、并せて漸成丁戸あり。戸既に等しからず、数も亦同じからず。元管戸内、絲銀全科係官戸は、毎戸係官絲一斤六両四銭・包銀四両を輸す。全科係官五戸絲戸は、毎戸係官絲一斤・五戸絲六両四銭を輸し、包銀の数は係官戸と同じ。減半科戸は、毎戸係官絲八両・五戸絲三両二銭・包銀二両を輸す。止納係官絲戸は、若し上都・隆興・西京等路の十戸十斤の者は、毎戸一斤を輸し、大都以南等路の十戸十四斤の者は、毎戸一斤六両四銭を輸す。止納係官五戸絲戸は、毎戸係官絲一斤・五戸絲六両四銭を輸す。交参戸内、絲銀戸は毎戸係官絲一斤六両四銭・包銀四両を輸す。漏籍戸内、止納絲戸は毎戸輸する絲の数、交参絲銀戸と同じ。止納鈔戸は、初年包銀一両五銭を科し、次年五銭を遞増し、四両に增至し、併せて絲料を科す。協済戸内、絲銀戸は毎戸係官絲十両二銭・包銀四両を輸す。止納絲戸は、毎戸輸する係官絲の数、絲銀戸と同じ。攤絲戸は、毎戸攤絲四斤を科す。儲也速䚟児の管する戸は、毎戸細絲を科し、その数は攤絲と同じ。復業戸并せて漸成丁戸は、初年科を免じ、第二年は減半し、第三年は全科し、旧戸と等し。然れども絲料・包銀の外に、又俸鈔の科あり、その法も亦戸の高下を以て等と為し、全科戸は一両を輸し、減半戸は五銭を輸す。是に於て以て合科の数を以て、大門攤を作り、三限に分けて輸納す。災に被れる地は、他の物を輸して折ることを聴す、その物各々時估を以て則と為す。凡そ儒士及び軍・站・僧・道等の戸は皆与せず。
二年、復た科差の期を定め、絲料は八月を限り、包銀は初限八月、中限十月、末限十二月とす。三年、又命じて絲料は七月を過ぎず、包銀は九月を過ぎずとす。及び江南を平げて、その制益々広し。至元二十八年、至元新格を以て科差法を定め、諸差税は皆司県の正官人吏を監視して局を置き均科す。諸夫役は皆先づ富強、後に貧弱。貧富等しき者は、先づ多丁、後に少丁。
成宗大徳六年、又命じて止輸絲戸は毎戸俸鈔中統鈔一両を科し、包銀戸は毎戸二銭五分を科し、攤絲戸は毎戸攤絲五斤八両を科す。絲料は八月を限り、包銀・俸鈔は九月を限り、布は十月を限る。大率世祖の旧に因りて増損す。
科差総数:
中統四年、絲七十一万二千百七十一斤、鈔五万六千百五十八錠。
至元二年、絲九十八万六千九百十二斤、包銀等鈔五万六千八百七十四錠、布八万五千四百十二匹。
至元三年、絲百五万三千二百二十六斤、包銀等鈔五万九千八十五錠。
至元四年、絲百九万六千四百八十九斤、鈔七万八千百二十六錠。
天暦元年、包銀差発鈔九百八十九錠、𧴩一百一十三万三千一百一十九索、絲一百九万八千八百四十三斤、絹三十五万五百三十匹、綿七万二千一十五斤、布二十一万一千二百二十三匹。
海運
元は燕に都し、江南より極めて遠く、而して百官諸府の繁、衛士編民の衆、江南に仰給せざるは無し。丞相伯顏海運の言を献じてより、江南の糧は春夏二運に分つ。蓋し京師に至る者は一歳多くは三百万余石に至り、民に輓輸の労無く、国に儲蓄の富有り、豈に一代の良法ならずや。
初め、伯顏江南を平らげし時、嘗て張瑄・朱清等に命じ、宋の庫蔵図籍を以て、崇明州より海道に従ひ京師に載入せしむ。而して運糧は則ち浙西より江を渉り淮に入り、黄河に由り逆水して中灤旱站に至り、陸運して淇門に至り、御河に入り、以て京に達す。後又た済州泗河を開き、淮より新開河に至り、大清河に由り利津に至り、河海に入る。海口沙壅の因り、又た東阿旱站より運び臨清に至り、御河に入る。又た膠・萊河道を開き海に通ず。労費貲に堪へず、卒に成效無し。至元十九年、伯顏海道にて宋の図籍を載せし事を追憶し、海運行ふ可きと以為ひ、是に於て朝廷に請ひ、上海総管羅璧・朱清・張瑄等に命じ、平底海船六十艘を造り、糧四万六千余石を運び、海道より京師に至らしむ。然れども海洋を創行し、山に沿ひて㠗を求め、風信時を失ひ、明年に至りて始めて直沽に至る。時に朝廷未だ其の利を知らず、是の年十二月京畿・江淮都漕運司二を立て、仍て各分司を置き、以て綱運を督む。毎歳江淮漕運司に令して糧を中灤に運ばしめ、京畿漕運司は中灤より自ら大都に運ぶ。二十年、又た王積翁の議を用ひ、阿八赤等に令して新河を広く開かしむ。然れども新河は潮を候ひて以て入り、船多く損壊し、民亦之を苦しむ。而して忙兀䚟言ふ、海運の舟悉く皆至る焉と。是に於て新開河を罷め、頗る海運に事とし、万戸府二を立て、朱清を以て中万戸と為し、張瑄を千戸と為し、忙兀䚟を万戸府達魯花赤と為す。未だ幾ばくもせず、又た新河の軍士水手及び船を分ち、揚州・平灤両処に於て糧を運び、三省に命じて船(二)〔三〕千艘を済州河に造り糧を運ばしむ、猶ほ未だ専ら海道に於てせず。
二十四年、始めて行泉府司を立て、専ら海運を掌り、万戸府二を増置し、総べて四府と為す。是の年遂に東平河運糧を罷む。二十五年、内外に分ち漕運司二を置く。其の外に在る者は河西務に司を置き、海道糧事の接運を領す。二十八年、又た朱清・張瑄の請を用ひ、四府を併せて都漕運万戸府二と為し、只だ清・瑄二人に令して之を掌らしむ。其の属に千戸・百戸等の官有り、各翼に分ち、以て歳運を督む。
至大四年、官を江浙に遣はし海運の事を議す。時に江東寧国・池・饒・建康等処の運糧は、率ね海船に令して揚子江より逆流して上らしむ。江水湍急にして、又多く石磯有り、走沙漲浅し、糧船俱に壊れ、歳歳之れ有り。又た湖広・江西の糧は真州に運び泊して海船に入る。船大にして底小、亦た江中に宜しきに非ず。是に於て嘉興・松江の秋糧を以て、并せて江淮・江浙財賦府の歳辦糧を運に充つ。海漕の利は、蓋し是に至りて博し。
凡そ糧を運ぶ毎に、石毎に脚価鈔有り。至元二十一年、中統鈔八両五銭を給す。其の後遞減して六両五銭に至る。至大三年、福建・浙東の船戸平江に至り糧を載する者は、道遠く費広しを以て、通増して至元鈔一両六銭、香糯一両七銭と為す。四年、又た二両に増し、香糯二両八銭、稻穀一両四銭と為す。延祐元年、遠近を斟酌し、復た其の価を増す。福建船運の糙粳米は毎石一十三両、溫・台・慶元船運の糙粳・香糯は毎石一十〔一〕両五銭、紹興・浙西船は毎石一十一両、白粳の価同じ、稻穀は毎石八両、黒豆は毎石糙白糧の例に依りて之を給す。
初め、海運の道は、平江劉家港より海に入り、揚州路通州海門県黄連沙頭・万里長灘を経て開洋し、山㠗に沿ひて行き、淮安路塩城県に抵り、西海州・海寧府東海県・密州・膠州界を歴て、霊山洋を放ち東北に投じ、路多く浅沙有り、行くこと月余りにして始めて成山に抵る。其の水程を計るに、上海より(揚)〔楊〕村馬頭に至るまで、凡そ一万三千三百五十里。至元二十九年、朱清等其の路険悪なるを言ひ、復た生道を開く。劉家港より開洋し、撐脚沙に至り沙觜に転じ、三沙・洋子江に至り、匾(檐)〔擔〕沙・大洪を過ぎ、又た万里長灘を過ぎ、大洋を放ちて青水洋に至り、又た黒水洋を経て成山に至り、劉島を過ぎ、芝罘・沙門二島に至り、萊州大洋を放ち、界河口に抵る。其の道稍々径直なり。明年、千戸殷明略又た新道を開く。劉家港より海に入り、崇明州三沙に至り放洋し、東に向ひて行き、黒水大洋に入り、成山を取りて西に転じ劉家島に至り、又た登州沙門島に至り、萊州大洋に於て界河に入る。舟行するに風信時に当れば、浙西より京師に至るまで、旬日に過ぎずして已む。前の二道を視るに最も便なりと云ふ。然れども風濤測る可からず、糧船漂溺する者は歳として之れ無きは無く、間亦た船壊れて其の米を棄つる者有り。至元二十三年始めて運官に責めて償はしむ。人船俱に溺るる者は乃ち免ず。然れども河漕の費を視れば、則ち其の得る所蓋し多し。
歳運の数:
至元二十年、四万六千五十石、至る者四万二千一百七十二石。二十一年、二十九万五百石、至る者二十七万五千六百一十石。二十二年、十万石、至る者九万七百七十一石。二十三年、五十七万八千五百二十石、至る者四十三万三千九百五石。二十四年、三十万石、至る者二十九万七千五百四十六石。二十五年、四十万石、至る者三十九万七千六百五十五石。二十六年、九十三万五千石、至る者九十一万九千九百四十三石。二十七年、一百五十九万五千石、至る者一百五十一万三千八百五十六石。二十八年、一百五十二万七千二百五十石、至る者一百二十八万一千六百一十五石。二十九年、一百四十万七千四百石、至る者一百三十六万一千五百一十三石。三十年、九十万八千石、至る者八十八万七千五百九十一石。三十一年、五十一万四千五百三十三石、至る者五十万三千五百三十四石。
元貞元年、三十四万五百石。二年、三十四万五百石、至る者三十三万七千二十六石。
大徳元年、六十五万八千三百石、到着したものは六十四万八千百三十六石。二年、七十四万二千七百五十一石、到着したものは七十万五千九百五十四石。三年、七十九万四千五百石。四年、七十九万五千五百石、到着したものは七十八万八千九百十八石。五年、七十九万六千五百二十八石、到着したものは七十六万九千六百五十石。六年、百三十八万三千八百八十三石、到着したものは百三十二万九千百四十八石。七年、百六十五万九千四百九十一石、到着したものは百六十二万八千五百八石。八年、百六十七万二千九百九石、到着したものは百六十六万三千三百十三石。九年、百八十四万三千三石、到着したものは百七十九万五千三百四十七石。十年、百八十万八千百九十九石、到着したものは百七十九万七千七十八石。十一年、百六十六万五千四百二十二石、到着したものは百六十四万四千六百七十九石。
至大元年、百二十四万百四十八石、到着したものは百二十万二千五百三石。二年、二百四十六万四千二百四石、到着したものは二百三十八万六千三百石。三年、二百九十二万六千五百三十三石、到着したものは二百七十一万六千九百十三石。四年、二百八十七万三千二百十二石、到着したものは二百七十七万三千二百六十六石。
皇慶元年、二百八万三千五百五石、到着したものは二百六万七千六百七十二石。二年、二百三十一万七千二百二十八石、到着したものは二百十五万八千六百八十五石。
延祐元年、二百四十万三千二百六十四石、到着したものは二百三十五万六千六百六石。二年、二百四十三万五千六百八十五石、到着したものは二百四十二万二千五百五石。三年、二百四十五万八千五百十四石、到着したものは二百四十三万七千七百四十一石。四年、二百三十七万五千三百四十五石、到着したものは二百三十六万八千百十九石。五年、二百五十五万三千七百十四石、到着したものは二百五十四万三千六百十一石。六年、三百二万一千五百八十五石、到着したものは二百九十八万六千十七石。七年、三百二十六万四十六石、到着したものは三百二十四万七千九百二十八石。
至治元年、三百二十六万九千四百五十一石、到着したものは三百二十三万八千七百六十五石。二年、三百二十五万千百四十石、到着したものは三百二十四万六千四百八十三石。三年、二百八十一万千七百八十六石、到着したものは二百七十九万八千六百十三石。
泰定元年、二百八万七千二百三十一石、到着したものは二百七万七千二百七十八石。二年、二百六十七万千百八十四石、到着したものは二百六十三万七千五十一石。三年、三百三十七万五千七百八十四石、到着したものは三百三十五万千三百六十二石。四年、三百十五万二千八百二十石、到着したものは三百十三万七千五百三十二石。
天暦元年、三百二十五万五千二百二十石、到着したものは三百二十一万五千四百二十四石。二年、三百五十二万二千百六十三石、到着したものは三百三十四万三百六石。
鈔法
鈔は唐の飛銭、宋の交会、金の交鈔に始まる。その法は物を母とし、鈔を子として、子母相権して行う、すなわち周官の質剤の意である。元の初め、唐・宋・金の法を倣い、行用鈔あり、その制は文籍によりて考うる可きものなし。
世祖中統元年、始めて交鈔を造り、絲を本とす。銀五十両ごとに絲鈔一千両を易え、諸物の価値、皆絲の例に従う。是年の十月、また中統元宝鈔を造る。その文、十を以て計るもの四:一十文、二十文、三十文、五十文と曰う。百を以て計るもの三:一百文、二百文、五百文と曰う。貫を以て計るもの二:一貫文、二貫文と曰う。毎一貫は交鈔一両に同じ、両貫は白銀一両に同じ。また文綾を以て織りて中統銀貨と為す。その等五あり:一両、二両、三両、五両、十両と曰う。毎一両は白銀一両に同じ、然れども銀貨は未だ行はれざるなり。五年、諸路に平準庫を設け、物価を平らかにするを主とし、相い依り準じて低昂に至らざらしめ、仍て鈔一万二千錠を給し、以て鈔本と為す。至元十二年、釐鈔を添造す。その例三あり:二文、三文、五文と曰う。初め、鈔印は木を以て版と為す、十三年銅を鋳て之に易う。十五年、釐鈔は民に便ならずと以て、復命して印するを罷む。
然れども元宝・交鈔行わるること既に久しく、物重く鈔軽し。二十四年、遂に至元鈔を改造し、二貫より五文に至るまで、凡そ十有一等、中統鈔と通行す。毎一貫文は中統鈔五貫文に当つ。中統の初めに依り、随路官庫を設立し、金銀を貿易し、鈔法を平準す。花銀一両ごとに、庫に入るればその価至元鈔二貫、庫より出づれば二貫五分;赤金一両、庫に入るれば二十貫、庫より出づれば二十貫五百文。鈔を偽造する者は処死し、首告する者は鈔五錠を賞し、仍て犯人(偽造者)の家産を以て之に給す。その法最も善しと為す。
至大二年、武宗復た物重鈔軽しと以て、至大銀鈔を改造し、二両より二釐に至るまで定めて一十三等と為す。毎一両は至元鈔五貫、白銀一両、赤金一錢に準ず。元の鈔法、是に至りて蓋し三変せり。大抵至元鈔は中統の五倍、至大鈔はまた至元の五倍なり。然れども期年に及ばず、仁宗即位し、倍数太多くして軽重宜しからずと以て、遂に銀鈔を罷むるの詔あり。而して中統・至元の二鈔は、元の世を終わるまで、蓋し常に行わる。
凡そ鈔の昏爛する者は、至元二年、官を委ねて交鈔庫に就き、新鈔を以て倒換し、工墨三十文を除く。三年、二十文に減ず。二十二年、復た故の如くに増す。その貫伯分明にして、微かに破損ある者は、並びに行用せしめ、違う者は之を罪す。倒したる鈔は、毎季諸路就きて課税正官をして、解きて省部に赴かしめて焚毀せしめ、行省に隷する者は就きて之を焚く。大徳二年、戸部昏鈔を二十五様と定む。泰定四年、又た焚毀する所を定め、皆廉訪司官をして監臨せしめ、行省に隷する者は、行省官同じく監す。その制の大略かくの如し。
銭貨について言えば、九府圜法が成周で行われて以来、歴代廃されたことはなかった。元の交鈔・宝鈔はいずれも銭を単位としていたが、銭は鋳造されなかった。武宗至大三年、初めて銭法を行い、資国院・泉貨監を立ててこれを管轄させた。その銭は至大通宝といい、一文は至大銀鈔一厘に相当する。大元通宝といい、一文は至大通宝銭十文に相当する。歴代の銅銭はすべて古例に従い、至大銭と通用させた。当五・当三・折二の銭は、いずれも旧来の比率で用いた。翌年、仁宗は再び詔を下し、鋳造が供給に追い付かず、新旧の銭が混用されて弊害が甚だしくなったため、銀鈔とともに廃止して用いず、立てた院・監もすべて廃止し、専ら至元鈔・中統鈔を用いることとした。
年間の鈔発行高:
中統元年、中統鈔七万三千三百五十二錠。二年、中統鈔三万九千百三十九錠。三年、中統鈔八万錠。四年、中統鈔七万四千錠。
至元元年、中統鈔八万九千二百八錠。二年、中統鈔十一万六千二百八錠。三年、中統鈔七万七千二百五十二錠。四年、中統鈔十万九千四百八十八錠。五年、中統鈔二万九千八百八十錠。六年、中統鈔二万二千八百九十六錠。七年、中統鈔九万六千七百六十八錠。八年、中統鈔四万七千錠。九年、中統鈔八万六千二百五十六錠。十年、中統鈔十一万百九十二錠。十一年、中統鈔二十四万七千四百四十錠。十二年、中統鈔三十九万八千百九十四錠。十三年、中統鈔百四十一万九千六百六十五錠。十四年、中統鈔百二万千六百四十五錠。十五年、中統鈔百二万三千四百錠。十六年、中統鈔七十八万八千三百二十錠。十七年、中統鈔百十三万五千八百錠。十八年、中統鈔百九万四千八百錠。十九年、中統鈔九十六万九千四百四十四錠。二十年、中統鈔六十一万六百二十錠。二十一年、中統鈔六十二万九千九百四錠。二十二年、中統鈔二百四万三千八十錠。二十三年、中統鈔二百十八万千六百錠。二十四年、中統鈔八万三千二百錠、至元鈔百万千十七錠。二十五年、至元鈔九十二万千六百十二錠。二十六年、至元鈔百七十八万九十三錠。二十七年、至元鈔五十万二百五十錠。二十八年、至元鈔五十万錠。二十九年、至元鈔五十万錠。三十年、至元鈔二十六万錠。三十一年、至元鈔十九万三千七百六錠。
元貞元年、至元鈔三十一万錠。二年、至元鈔四十万錠。
大徳元年、至元鈔四十万錠。二年、至元鈔二十九万九千九百十錠。三年、至元鈔九十万七十五錠。四年、至元鈔六十万錠。五年、至元鈔五十万錠。六年、至元鈔二百万錠。七年、至元鈔百五十万錠。八年、至元鈔五十万錠。九年、至元鈔五十万錠。十年、至元鈔百万錠。十一年、至元鈔百万錠。
至大元年、至元鈔百万錠。二年、至元鈔百万錠。三年、至大銀鈔百四十五万三百六十八錠。四年、至元鈔二百十五万錠、中統鈔十五万錠。
皇慶元年、至元鈔二百二十二万二千三百三十六錠、中統鈔十万錠。二年、至元鈔二百万錠、中統鈔二十万錠。
延祐元年、至元鈔二百万錠、中統鈔十万錠。二年、至元鈔百万錠、中統鈔十万錠。三年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。四年、至元鈔四十八万錠、中統鈔十万錠。五年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。六年、至元鈔百四十八万錠、中統鈔十万錠。七年、至元鈔百四十八万錠、中統鈔十万錠。
至治元年、至元鈔百万錠、中統鈔五万錠。二年、至元鈔八十万錠、中統鈔五万錠。三年、至元鈔七十万錠、中統鈔五万錠。
泰定元年、至元鈔六十万錠、中統鈔十五万錠。二年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。三年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。四年、至元鈔四十万錠、中統鈔十万錠。
天暦元年、至元鈔三十一万九百二十錠、中統鈔三万五百錠。二年、至元鈔百十九万二千錠、中統鈔四万錠。