元史

志第四十一下: 百官八

元朝の官制の大要は、前に詳しく述べた。元統・至元以来、沿革増損の異なることが少なくない。至正年間に兵乱が起こり、四方に軍営が多くなると、中書省・枢密院ともに分省・分院を設けた。また行中書省・行枢密院の増設のほかにも、分省・分院があった。省・院から郡県に至るまで、それぞれに添設の官があった。そして各地の総兵官が便宜を図って事を行い、詔命に準じて官職を擬定して授け、姓名を具して軍功を奏聞すると、宣命・勅牒は求めに応じて与えられ、その実績を考覈する者はなかった。こうして爵位の名は日に日に濫れ、綱紀は日に日に乱れ、国土は日に日に狭まり、ついに滅亡に至ったのである。その掌故の文書が欠落して完全でないのは惜しい。今、有司の上進したものに基づいて、これを集めて記載し、前の志に附し、読む者がその得失治乱の概略を参考にできるようにしたい。

中書省。元統三年七月、中書省が奏請して、今後左丞相を置かないこととした。十月、伯顔に独り台司を長たらしめ、天下に詔した。至元五年十月、右丞相伯顔を大丞相に加えた。六年十月、脱脱を右丞相とし、左丞相を再び置いた。至正七年、議事平章四人を置いた。十二年二月、賈魯を添設左丞とした。三月、悟良哈台を添設参知政事とした。七月、また杜秉彝を添設参政とした。八月、哈麻を添設右丞とした。十三年六月、皇太子に中書令を領させ、旧制の如くとした。十四年九月、呂思誠を添設左丞とした。二十七年八月、枢密知院蛮子を添設第三平章とし、太尉帖里帖木児を添設左丞相とした。

中書分省。至正十一年、済寧に中書分省を置き、松寿を参知政事とした。十二年二月、中書右丞玉枢虎児吐華・左丞韓大雅が彰徳に分省を開いた。十四年、済寧分省参政帖里帖木児を平章政事に昇格させ、その後は守禦のため右丞を置くことがあった。十五年四月、彰徳分省は右丞・左丞各一員を除いた。十七年七月、平章答蘭、参政俺普・崔敬に陵州に分省させた。十一月、平章臧卜が冀寧に分省した。十八年三月、掃地王・沙劉が冀寧を陥落させ、臧卜は逃れた。五月、王・劉が北行し、総兵官察罕帖木児が瑣住院判を冀寧鎮守に遣わすと、臧卜は戻った。十九年、臧卜が卒した。二十年正月、右丞不花・参政王時に冀寧に分省させた。三月、鉄甲韓が至り、分省官は皆逃れた。二十一年、平章答蘭に鎮守させた。二十二年、答蘭は京師に還り、左丞剌馬乞剌・参政脱禾児に分省事を領させた。二十三年三月、また平章愛不花にこれを鎮守させた。八月、拡廓帖木児の兵が至り、冀寧分省は遂に廃止された。二十七年八月、添設平章蛮子に知院を兼ねさせ、保定に分省した。九月、太保・右丞相也速に軍馬を統領させ、山東に分省した。沙藍答里は依然中書左丞相・知枢密院として、大同に分省した。哈剌那海を大同分省平章とし、阿剌不花を参知政事とした。また冀寧に分省を置き、冀寧総管を参政に昇格させ、印を鋳造して与え、凡事は必ず大同分省に諮ってから行わせた。十月、また真定に分省を置いた。

六部。至元三年十二月、伯顔太師らの奏請が准じられ、吏部考功郎中・員外郎・主事を各一員ずつ設けた。至正元年四月、吏部に司績一員を置き、正七品とし、百官の行止を掌り、叙用・廕襲の憑拠とした。六月、中書の奏請が准じられ、戸部の事務が繁雑なため、現設の司計四員に加え、前至元二十八年の例に依り二員を添設した。十一月、吏・礼・兵・刑の四部は二庫に分け、戸・工の二部は二庫に分け、各々管勾一員を設けた。十二年正月、刑部に尚書・侍郎・郎中・員外郎各一員を添設した。十五年十月、済寧分省に兵・刑・工・戸の四部を置いた。

枢密院。至正七年、知枢密院阿吉剌が奏上した。「枢密院の故事では、議事平章二人も設けていた。」旨があり、復置を命じた。十三年六月、皇太子に枢密使を領させ、旧制の如くとした。十五年四月、僉院一員・院判二員を添設した。

枢密分院。至正十五年三月、衛輝に枢密分院を置いた。四月、彰徳分院に同知・副枢各一員、都事一員を添設した。直沽分院に副枢一員・都事一員を添設した。十六年、また沂州に分枢密院を置き、指揮使司をこれに隷属させた。

大宗正府。至元元年閏十二月、中書省の奏請が准じられ、世祖の時に大宗正府を立て、仁宗の時に大字を減じたが、今は世祖の旧制に遵い、依然として大宗正府とすべきであるとした。至正十年十二月、大宗正府に掌判二員を添設した。

宣文閣。至元六年十一月、奎章閣学士院を廃止した。至正元年九月、宣文閣を立て、学士は置かず、ただ授経郎及び監書博士に宣文閣の官銜を帯びさせた。

崇文監。至元六年十二月、芸文監を崇文監に改めた。至正元年三月、旨を奉じ、翰林国史院にこれを領させた。

詳定使司。至正十七年七月、四方献言詳定使司を置き、正三品とし、上陳された言論を考査し、善きものを選んで上聞に達し、実行に移すことを掌った。詳定使二員、正三品。副使二員、正四品。掌書記二員、正七品。中書官がこれを提調した。

司禋監。至正元年十二月、旨を奉じ、世祖の故事に依り、再び司禋監を立て、四品の印を与え、師翁の祭祀・祈禳の事を掌らせた。内監・少監・監丞各二員、知事一員、訳史・令史・奏差各二名を置いた。後に再び三品に昇格した。

延徽寺。至元六年二月、中書省が旨を奉じ、累朝の故事に依り、懿璘質班皇帝のオルドを建て、延徽寺を置いてこれを掌らせた。

規運提点所。至元六年十一月、太禧宗禋院隆祥使司を廃止した。十二月、中書が奏上し、宗禋院の管轄する会福・崇祥・隆禧・寿福の四総管府及び隆祥使司を、全て規運提点所に改め、正五品とし、なお万寧提点所一箇所を添置し、ともに宣政院に隷属させた。

諸路宝泉都提挙司は、至正十年十月に設置された。その所属に鼓鋳局(正七品)、永利庫(従七品)がある。至正銅銭の鋳造と交鈔の印造を掌る。

徽政院。元統元年十二月、太皇太后の故事に依り、皇太后のために徽政院を置き、官属三百六十六員を設立した。

資正院。至元六年十二月、中書省が完者忽都皇后のために資正院を置く旨を奉じ、正二品とした。院使六員、同知・僉院・同僉・院判各二員。首領官:経歴・都事各二員、管勾・照磨各一員。昭功万戸府の司属を、既に廃止された繕工司を除き、集慶路の銭糧を併せて収め、有司が毎年数を検分して資正院に撥付する。その他の司属は、全て資正院に付してこれを領せしめた。その後、正宮皇后が崩じ、完者忽都を冊立して皇后とし、崇政院に改置した。

東宮官属。至正六年四月、皇太子宮傅府を立て、長吉らを宮傅官とした。当時、太子は未だ冊宝を受けていなかった。至正九年冬、端本堂を立てて皇太子の学宮とした。諭徳一員(正二品)、賛善二員(正三品)、文学二員(正五品)、正字二員(正七品)、司経二員(正七品)を置いた。十三年六月、皇太子を冊立し、皇太子賓客二員(正二品)、左・右諭徳各一員(従二品)、左・右賛善各一員(従三品)、文学二員(従五品)、中庶子・中允各一員(従六品)を定置した。

詹事院。至正十三年六月、詹事院を立て、宮傅府を廃止した。詹事三員(従一品)、同知詹事二員(正二品)、副詹事二員(従二品)、詹事丞二員(正三品)を置く。首領官四員、中議二員(従五品)、長史二員(従六品)、管勾・照磨各一員(正八品)、蒙古必闍赤六人、回回掾史二人、掾史十人、知印二人、怯里馬赤二人、宣使十人。その所属に家令司あり、家令二員(正三品、二員は正四品か)、家丞二員(正五品)、典簿二員(従七品)、照磨一員(正九品)。府正司あり、府正二員(正三品)、府丞二員(正五品)、典簿二員(従七品)、照磨一員(正九品)。典宝監あり、典宝卿二員(正三品)、太監二員(従三品)、少監二員(従四品)、監丞二員(正五品)、経歴一員(従七品)、知事一員(従八品)、照磨一員(正九品)。儀衛司あり、指揮二員(従四品)、副二員(従五品)、知事一員(従八品)。十一月、典蔵庫(従五品)を置き、皇太子の銭帛を収掌せしむ。十七年十月、分詹事院を置く。詹事一員、同知・副使各一員、詹事丞二員、経歴一員、都事二員、照磨兼架閣一員、断事官二員、知事一員。

大撫軍院。〔至正〕二十七年八月乙巳、皇太子に天下の軍馬を総べしむるを命ず。九月、皇太子が大撫軍院(従一品)を置く。知院四員、同知二員、副使一員、同僉一員。首領官:経歴・都事各二員、照磨兼管勾一員。二十八年閏七月、詔してこれを罷む。

大都分府。至正十八年三月、東安・漷州・柳林に日々警報あり、京師の備禦四隅に、皆大都分府を立てた。その官吏の数は、都府の半減に視る。

警巡院。至正十一年七月、左・右両巡院を正五品に陞格す。十八年、また大都の在城四隅に、各々警巡分院を立て、官吏は本院の半減に視る。

行中書省。至正十二年正月、江西・江浙行省は皆添設平章を除し、陝西行省は添設右丞を除す。閏三月、淮南江北等処行中書省を揚州に置き、淮西宣慰司・両淮塩運司・揚州・淮安・徐州・唐州・安豊・蘄・黄を皆これに隷せしむ。平章二員、右丞・左丞各一員、参政二員、及び首領官・属官合わせて二十五員を除す。為頭平章は、鎮南王傅府事の提調を兼ぬ。十一月に至り、始めて淮南江北等処行中書省の印を鋳てこれを給す。是年、江浙行省は添設右丞・参政を、四川行省は添設参政を置く。十六年五月、福建等処行中書省を福州に置き、印を鋳り官を設くること、各処行省の制の如し。江浙行中書省平章左答納失里・南台中丞阿魯温沙を以て福建行中書省平章政事と為し、福建閩海道廉訪使莊嘉を右丞と為し、福建元帥吳鐸を左丞と為し、司農丞訥都赤・益都路総管卓思誠を参政と為す。九月をもって福州に至り、帥府を罷め、省署を開く。十七年九月、山東行省を置き、大司農哈剌章を以て平章政事と為し、印を鋳てこれに与う。十八年、福建行省右丞朵歹は建寧に分省し、参政訥都赤は泉州に分省す。二十三年三月、広西行中書省を置き、廉訪使也児吉尼を以て平章政事と為す。また膠東行省を萊陽に置き、東方の事を総制す。二十六年八月、福建江西等処行中書省を置く。

行樞密院。至元三年、伯顏右丞相の奏請により、四川及び湖広・江西の境、並びに江浙の、凡そ三箇所に、各々行樞密院を設置し、好乱の民を鎮圧せしむることとなった。各箇所に知院一員、同知・僉院・院判各一員を設けた。湖広・江西の二省が管轄する地域は険阻で遠く、同僉一員を増設した。各院に経験一員、都事二員、照磨一員、客省副使一員、断事官二員、蒙古必闍赤二人、掾史六人、宣使六人、知印・怯里馬赤各一人、断事官訳史一人、令史二人、怯里馬赤・知印各一人、奏差二人を置いた。至四年二月、遂にこれを廃止した。至正十三年五月、嶺北行樞密院に断事官二員を増設し、先に既に四員を設けており、合わせて六員となった。また鎮撫司を立て、鎮撫二員を除授した。管勾所を立て、管勾一員を置き、照磨を兼ねさせた。後にまた僉院二員・都事一員を増設した。十五年十月、淮南江北等処行樞密院を揚州に設置した。十二月、河南行樞密院に院判一員を増設した。十六年三月、江浙行樞密院を杭州に設置した。知院二員、同知二員、副樞二員、僉院二員、同僉二員、院判二員。首領官:経験・知事各一員、断事官二員、経験一員。十八年、参政崔敬を山東等処行樞密院副使とし、漷州に分院を置き、屯田事を兼ねて管轄させた。十九年八月、察罕帖木児を河南行省平章政事とし、河南山東等処行樞密院知院を兼ねさせた。二十六年八月、福建江西等処行樞密院を設置した。

行御史臺。至正十六年九月二十八日、太尉納麟を江南諸道行御史臺御史大夫に任じ、次官以下は各々等第に従って選任することを命じた。この日、御史臺は旨を奉じて、行臺を紹興に移転設置した。十二月、行臺の官属を合わせ、行臺を開いて事務を執り行った。この年、河南廉訪司を沂州に設置した。十八年、御史臺の奏請により、江西湖東道粛政廉訪司が建寧路において仮に司を開いて事務を執り行うことを認めた。二十二年九月、山北廉訪司を惠州に仮に設置した。二十三年六月、済南路に再び粛政廉訪司を設置した。二十五年閏十月、御史大夫完者帖木児が奏上した:「江南諸道行御史臺の衙門は、かつて旨を奉じて紹興路に開設したが、近頃は道路が遮断され、湖南・湖北・広東・広西・海北・江西・福建等処の、凡そ文書がある場合、北の南臺に至るも風信が不便で、直接内臺に申し上げており、事の虚実を委ねることができない。宜しく福建に分臺を置き、印信を下賜し、湖南・湖北・広東・広西・海北・江西・福建の各道の文書を、分臺を経由して内臺に達せしめれば、事体において便利である。」旨があり、これに従った。十一月、なお河東廉訪司を冀寧に設置した。

行宣政院。元統二年正月、広教総管府十六箇所を廃止し、行宣政院を杭州に設置した。院使二員、同知二員、副使二員、同僉・院判各一員を除授した。首領官:経験二員、都事・知事・照磨各一員、令史八人、訳史二人、宣使八人。至元二年五月、西番の賊が起こり、行宣政院を設置し、也先帖木児を院使として討伐に向かわせた。至正二年、江浙行宣政院に崇教所を設け、行中書省の理問官に準じ、品秩は四品とし、僧侶と民衆の事を処理させた。

河南山東都水監。至正六年五月、連年の河川決壊による災害を以て、都水監を設置し、専ら疏浚と堵塞の任に当たらせた。

行都水監。至正八年二月、河水の災害により、詔して済寧鄆城に行都水監を立てた。九年、また山東河南等処行都水監を立てた。十一年十二月、河防提挙司を立て、行都水監に隷属させ、河道の巡視を掌らせ、従五品とした。十二年正月、行都水監に判官二員を増設した。十六年正月、また少監・監丞・知事各一員を増設した。

都水庸田使司。至元二年正月、都水庸田使司を平江に設置したが、間もなくこれを廃止した。至五年、再び立てた。至正十二年、海運が不通となり、京師に食糧が欠乏したため、詔して河南の窪地や水泊の地に、屯田を八箇所設置し、汴梁に都水庸田使司を増設し、正三品とし、稲田の植栽耕作の事を掌らせた。庸田使二員、副使二員、僉事二員。首領官:経験・知事・照磨各一員、司吏十二人、訳史二人。

都総制庸田使司。至正十年、河南江北等処都総制庸田使司を設置した。定員として都総制庸田使二員、従二品;副使二員、従三品;僉司六員、従四品を置いた。首領官:経験二員、従六品;都事二員、従七品;照磨兼管勾承発架閣一員、従八品;蒙古必闍赤・回回令史・怯里馬赤・知印各一人、令史十八人、宣使十八人、壕寨十八人、典吏四人。その属官には、軍民屯田総管府があり、凡そ五箇所、各々達魯花赤一員、従三品;総管各一員、正五品;同知各一員、正六品;府判各一員、従七品を置いた。首領官:経験各一員、従八品;知事各一員、従九品;提控案牘兼管勾承発架閣各一員、蒙古訳史各一人、司吏各六人、典吏各二人。また農政司があり、農政一員、正五品;農丞一員、正六品;提控一員、司吏二人を置いた。また豊盈庫があり、提領一員、正八品;大使・副使各一員、正九品を置いた。

分司農司。至正十三年正月、中書右丞悟良哈台・左丞烏古孫良楨に大司農卿を兼ねさせ、分司農司の印を給することを命じた。西は西山より、南は保定・河間に至り、北は檀州・順州に至り、東は遷民鎮に至るまで、凡そ官有地及び元来管轄する各処の屯田は、悉く分司農司に従って法を立て民を募り佃作させた。

大兵農司。至正十五年、詔して水田のある処に、大兵農司を置き、夫丁を招き誘い、有事の際には機に乗じて招討し、無事の際には栽植播種せしめた。司を設置した処は、保定等処大兵農使司・河間等処大兵農使司・武清等処大兵農使司・景薊等処大兵農使司という。その属官に、兵農千戸所があり、合わせて二十四箇所;百戸所があり、合わせて四十八箇所;鎮撫司各一を置いた。

都督ととく兵農司。至正十九年二月、大都督兵農司を西京に設置し、孛羅帖木児にこれを管轄させたのは、その請いに従ったものである。なお分司十道を置き、専ら屯田耕作の事を掌らせた。

茶運司。元統元年十一月、再び湖広江西榷茶都転運司を設置した。

塩運司。至正二年十一月、中書省は旨を奉じて塩法を講究し、杭州・嘉興・紹興・温台の四箇所に各々検校批験所を設置し、直隷運司とし、専ら塩商の引目を批験し、袋法・称盤等の事を均平することを奏准した。各所に検校批験官一員(従六品)、相副官一員(正七品)を置く。

漕運司。至元二年五月、京畿都漕運司に提調官・運副・運判各一員を添設した。〔至正〕九年、海道巡防官を添設し、正七品の印信を給降し、軍人・水手を統領し、糧船を防護することを掌らせた。巡防官二員、相副官二員。

防禦海道運糧萬戸府。至正十五年七月、台州海道巡防千戸所を防禦海道運糧萬戸府に昇格させた。九月、分府を平江に置く。

添設兵馬司。至正十年十月、中書省が奏上した:「東南千里の外に妖気現る。兵馬司四箇所を立て、防禦の職を掌らせるべし。」ここに大名兵馬司・東平兵馬司・済南兵馬司・徐州兵馬司を置く。各司に都指揮・指揮各二員、副指揮各四員、経歴・知事・提控案牘各一員、訳史各二人、司吏各十二人、奏差各八人、貼書各二十四人、忽剌罕赤各三十人、司獄各一員、獄丞各一員を置く。十一年、沂州分元帥府を廃し、兵馬指揮使司に改立した。十五年十月、済寧兵馬司に副指揮二員を添設した。

各処宝泉提挙司。〔至正〕十一年十月、河南行省及び済南・冀寧等の処に宝泉提挙司を置き、凡そ九所。江浙・江西・湖広行省に各一所。十二年三月、饒州路徳興県・信州路鉛山州・韶州岑水に銅冶場を置き、凡そ三箇所。各所に提領一員(正八品)、大使一員(従八品)、副使一員(正九品)を置く。流官の内で銓注する。直隷宝泉提挙司とし、浸銅の事を掌る。

湖南道宣慰使司都元帥府。至元元年六月に奏准し、湖南道宣慰使司が都元帥府を兼ね、管轄する路分の鎮守万戸軍馬を総領する。

邦牙等処宣慰使司都元帥府、至元四年十二月に設置。先に、緬地が雲南の極辺に位置するため、その酋長を帥として立て、三年に一度方物を貢がせていた。この時に来貢したので、故に官府を改立してこれを奨異した。

永昌等処宣慰使司都元帥府。至正三年七月、中書省が奏上した:「闊端阿哈の分地は西番に接続し、脱脱木児が没して以来、承嗣する者無し。達達の人畜は時に西番に劫奪殺傷され、甚だ不便である。」ここに永昌等処宣慰使司都元帥府を定置してこれを治める。宣慰使三員・同知二員・副使二員を置く。首領官:経歴・知事・照磨各一員、令史十人、蒙古訳史四人、知印二人、怯里馬赤一人、奏差八人、典吏二人。

山東東西道宣慰使司都元帥府、至正六年十二月に改立し、屯田を開設し、軍馬を屯駐させる事を掌る。

荊湖北道宣慰使司都元帥府。至正十一年十一月に奏准し、荊湖北道宣慰使司が都元帥府を兼ねる。

浙東宣慰司。至正十二年正月、宣慰使一員・同知一員・都事二員を添設した。

淮東等処宣慰使司都元帥府、至正十五年二月に設置。濠泗義兵万戸府及び洪澤等処の義兵を統率する。富民を招誘し、丁壮五千名を出す者は万戸とし、五百名は千戸とし、一百名は百戸とし、宣勅牌面を降してこれに与え、司を泗州天長県に置くことを命じた。

興元等処宣慰使司都元帥府、至正十五年十二月に設置。

江州等処宣慰使司都元帥府、至正十六年九月に奏准し、宣慰使都元帥は廷授とし、佐貳僚属は江西行省平章政事道童・火你赤に承制してこれを署することを命じた。

河南宣慰司。至正十九年十月、洛陽らくよう招討軍民万戸府を廃し、宣慰司を置き、張俊を宣慰使とした。

東路都蒙古軍都元帥府、至正八年正月に設置。

分元帥府。至正八年十二月、福建に盗賊が起こったため、汀州・漳州の二州に分元帥府を立て、これを討捕せしむることを詔す。十一月、買列的をして沂州に分元帥府を開かしめ、以て東海の群盗を鎮禦せしむ。十一年正月、湖南宝慶路に分元帥府を置き、また宝武分元帥府を置く。三月、山東分元帥府を登州に置き、登州・萊州・寧海州の三州三十六箇所の海口の事を提調せしむ。十二年二月、安東・安豊の二箇所に分元帥府を置く。

水軍元帥府。至正二十六年二月、河淮水軍元帥府を孟津県に置く。

紹熙軍民宣撫司。至元四年、監察御史の言により、「四川は宋の時に、紹熙一府あり、六州・二十県・一百五十二鎮を統べたり。近年、雍・梁・淮甸の人民、彼の地に田疇広闊なるを見て、開墾して業を成す者、凡そ二十余万戸なり。」省部議定し、遂に奏して紹熙等処軍民宣撫司を置くことを准す。正官六員、宣撫使・同知・副使各二員。首領官三員、経歴・知事・提控案牘各一員。司獄一員、蒙古・儒學教授各一員、令史八人、訳使・知印・怯里馬赤各一人、奏差四人。隷する所、資州・普州・昌州・隆州の下州四箇所、盤石・内江・安岳・昌元・貴平の下県五箇所、巡検司一十三箇所、各おの制の如く官を設く。また都総使司を置き、御史大夫脱脱をして都総使を兼ねしめ、治書侍御史吉当普を副都総使とす。至元六年十一月、中書また台臣の冗官を裁減する事を言うに因り、遂に紹熙軍民宣撫司を罷む。

永順宣撫司。至正十一年四月、永順安撫司を改めて宣撫司に陞す。

平緬宣撫司。至正十五年八月、雲南の死可伐等の降るに因り、その子莽三をして方物を入貢せしめ、乃ち平緬宣撫司を置きて以てこれを羈縻す。

忠孝軍民安撫司。至正十一年七月、四川省の管轄する大奴管勾等洞長官司を革罷し、忠孝軍民府を立てる。至十五年四月、詔して忠孝軍民安撫司に改む。

忠義軍民安撫司。至正十五年四月、四川の羊母甲洞・臭南王洞長官司を罷め、忠義軍民安撫司を置く。また盤順府を罷め、盤順軍民安撫司を置く。

宣化鎮南五路軍民府。至正十五年四月、命じて四川に提調軍民鎮撫所・蛮夷軍民千戸所を置立せしむ。

団練安撫勧農使司。至正十八年九月、奉元延安等処団練安撫勧農使司を耀州に置き、鞏昌等処団練安撫勧農使司を邠州に置き、行省丞相朵朵・行台大夫完者帖木児をしてこれを領せしむ。各おの参謀一人を設く。毎道、使二人を置き、同知・副使各二人、検督六人、経歴・知事・照磨各一人。

防禦使。至正十七年正月、山東分省の咨に准じ、義兵を団結し、毎州に州判一員を添設し、毎県に主簿一員を添設し、詔して有司の正官は俱に防禦使の事を兼ね、宣慰使司の節制を聴かしむ。

屯田使司。至正十五年十二月、軍民屯田使司をはい県に置く、正三品。

屯田打捕総管府。至元四年五月、両淮屯田打捕総管府を正三品に陞す。

黎兵万戸府。元統二年十月、湖広行省咨す、「海南は僻遠の極辺に在り、南は占城に接し、西は交趾に隣し、海を環ること四千余里、中に百洞を盤踞し、黎・獠雑居す、宜しく万戸府を立ててこれを鎮むべし。」中書省奏して准じ、広西屯田万戸府の例に依り、黎兵万戸府を置く。万戸三員、正三品。千戸所一十三箇所、正五品。毎所、百戸所八箇所を領す、正七品。

水軍万戸府。至正十三年十月、水軍都万戸府を崑山州に置き、浙東宣慰使納麟哈剌を正万戸とし、宣慰使董摶霄を副万戸とす。十四年二月、鎮江水軍万戸府を立て、江浙行省右丞仏家閭をしてこれを領せしむ。十五年十月、水軍万戸府を黄河小清河口に置く。

義兵萬戶府。至正十四年二月、詔して河南・淮南両省に並びに義兵萬戸府を立てしむ。五月、南陽・鄧州等処に毛胡蘆義兵萬戸府を置き、土人を募って軍と為し、その差役を免じ、賊を討たしめて自ら効せしむ。先に、郷人自ら相団結し、毛胡蘆と号す、故に因って以て之を名づく。十五年四月、汴梁等処に義兵萬戸府を置く。十二月、宿州及び武安州に忠義・忠勤萬戸府を置く。

招討軍民萬戸府。至正二十年、鞏県を以て招討軍民萬戸府と為す。二十六年三月、嵩州軍民招討萬戸府を置く。

義兵千戸所。至正十年七月、中書の奏に准じ、広西平楽等古城竹山院・桑江隘・尊化郷・剌場嶺、湖南道州路・武岡路、湖北靖州路等処に、義兵千戸所を置く。毎所に千戸一員・弾圧一員・百戸十員を置く。なお義兵内より才勇功能を推選し、千戸・弾圧・百戸の職に充つ。首領官・都目各一員は、本省都吏目の選内より注授し、並びに本道帥府の節制に従う。湖南道州二処の千戸所は、帥府分司の処に設立し、本司調遣す。湖北靖州一処は、本省の摽撥に従い鎮守調遣す。総定九十六員、宣勅牌面印信を給降す。十三年十一月、江西に義兵千戸水軍千戸所を立つ。

奉使宣撫。至正五年十月、官を遣わし分道奉使宣撫せしめ、徳意を布宣し、民の疾苦を詢ね、寃滞を疏滌し、煩苛を蠲除し、官吏の賢否を体察し、明らかに黜陟を加う。罪有る者は、四品以上は職を停めて申請し、五品以下は便に処決す。民間一切の興利除害の事は、悉く挙行を聴す。その他必ず上聞に合すべき者は、条具して入告す。両浙江東道は、江西行省左丞忽都不丁・吏部尚書何執礼を以て之と為し、宣政院都事呉密を首領官と為す。江西福建道は、雲南行省右丞散散・将作院使王士弘を以て之と為し、国子典簿孟昉を首領官と為す。江南湖広道は、大都路達魯花赤抜実・江浙参政秦従徳を以て之と為し、留守司都事月忽難を首領官と為す。海北広東道は、平江路達魯花赤左答納失理・都水使賈惟貞を以て之と為し、都水照磨楊文在を首領官と為す。燕南山東道は、資正院使蛮子・兵部尚書李献を以て之と為し、太医院都事賈魯を首領官と為す。河東陝西道は、兵部尚書不花・枢密院判官靳義を以て之と為し、翰林応奉王継善を首領官と為す。山北遼東道は、宣政院同知伯家奴・宣徽僉院王也速迭児を以て之と為し、工部主事明理不花を首領官と為す。雲南省は、荊湖宣慰阿乞剌・両浙塩運使杜徳遠を以て之と為し、通政院都事楊矩を首領官と為す。甘粛永昌道は、上都留守阿牙赤・陝西行省左丞王紳を以て之と為し、沁源県尹喬遜を首領官と為す。四川省は、大都留守答爾麻失里・河南参政王守誠を以て之と為し、宣政院都事武祺を首領官と為す。京畿道は、西臺中丞定定・集賢侍講学士蘇天爵を以て之と為し、太史院都事留思誠を首領官と為す。河南江北道は、吏部尚書定僧・宣政院僉院魏景道を以て之と為し、中書検校哈爾丹を首領官と為す。至正十七年九月、詔して中書右丞也先不花・御史中丞成遵を以て奉使宣撫せしめ、彰徳・大名・広平・東昌・東平・曹・濮等処に、将帥を奨厲せしむ。

経略使。至正十八年九月初六日、経略使に命じて民の疾苦を問わしめ、叛逆を招諭せしむ。果たして怙終して悛まざる有らば、一応の大小官吏を総督し、兵を治め粟を裒め、士卒を精練し、成算を用いるを審かにし、紀律を申明せしむ。先ず江西・湖広・江浙・福建諸処を定め、併力して掎角と為し、務めて平復の効を収め、屠戮の威を尚ばず。江南各省の民義、君に忠にして上に親しみ、姓名上達すること能わざる者は、優しく撫存を加え、才を量り功を験し、官爵を授く。孝子順孫・義夫節婦・高年耆徳を旌表し、常に有司をして鰥寡孤独を存恤せしむ。官二員を選び経略使参謀官と為し、名士一人を辟きて案牘を掌らしむ。行軍司馬一員を設け、秩正五品、軍律を掌る。

選挙附録

科目

元は科目を以て士を取る、延祐より元統に至るまで凡そ七科、具に前志に見ゆ。既に罷めて復興したる後、至正二年三月戊寅、廷試挙人、拜住・陳祖仁等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、凡そ七十八人。国子生員十八人:蒙古人六名、従六品出身;色目人六名、正七品出身;漢人・南人合わせて六名、従七品出身。五年三月辛卯、廷試挙人、普顔不花・張士堅等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、前科の数の如し。国子生員も亦之の如し。八年三月癸卯、廷試挙人、阿魯輝帖穆而・王宗哲等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、前科の数の如し。国子生員も亦之の如し。是の年四月、中書省奏に准じ、監学生員は毎歳及分生員四十人を取り、三年に応貢会試する者は、凡そ一百二十人。例に取りし十八人の外、今後再び副榜二十人を取り、内に蒙古・色目各四名、前二名は司鑰に充て、下二名は侍儀舎人に充つ。漢人は十二人を取り、前三名は学正・司楽に充て、次四名は学録・典籍管勾に充て、以下五名は舎人に充つ。願わざる者は、其の還斎を聴す。十一年三月丙辰、廷試挙人、朶列図・文允中等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、凡そ八十三人。国子生員は旧制の如し。

十二年三月、旨有り:「省院臺南人を用いざるは、偏負有るに似たり。天下四海の内、吾が民に非ざるは莫し、宜しく世祖の時の人を用うるの法に依り、南人に才学有る者は、皆之を用いるを令すべし。」是より累科南方の進士、始めて御史と為り、憲司官と為り、尚書と為る者有り。十四年三月己巳、廷試挙人、薛朝晤・牛継志等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、凡そ六十二人。国子生員は旧制の如し。十七年三月、廷試挙人、侻徵・王宗嗣等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差有り、凡そ五十一人。国子生員は旧制の如し。

十九年、中書左丞成遵が建議して言う、「宋は景祐以来、百五十年、兵禍が無くとも、常に寓試の名額を設け、四方の遊士を待ち受けていた。今、淮南・河南・山東・四川・遼陽等の処、及び江南各省所属の州県にて、兵を避ける士民が京師に会集している。もし前代の故事に依り、別に流寓郷試の科を設け、避兵の士民に就試させ、在京の官員及び俸を請う掾史・訳史等の人で、その郷里親戚に係わる者に、罪を結んで保挙させ、大都路に移文して印卷し、その人数を験し、試官を添差し、別に考校を行い、各処の元額に依り、合格者を選んで充てるならば、国に人を得るの効があり、野に賢を遺すの歎き無からん。」と。既にして監察御史もまたこの事を建言し、中書が礼部に送って定擬させた、「かつて残破した処所の、その郷試元額は、蒙古・色目・漢人・南人総計百三十二人。今や流寓の儒人、応試の名数は、全盛の時に同じくし難く、その寓試の解額は、元額に照らし合わせて半減を量り擬し、合格の蒙古・色目各十五名、漢人二十名、南人十五名を取り、通じて六十五名とする。」と。中書省が奏して准可され、擬した如く施行された。而して是の歳、福建行中書省が初めて郷試を設け、七人を取ることを定額とし、而して江西流寓の福建に在る者もまた試に与り、通じて十五人を取り、京師に貢した。而して陝西行省平章政事察罕帖木児がまた請う、「今歳八月の郷試に、河南の挙人及び兵を避ける儒士は、籍貫に拘わらず、河南省の元額数に依り、陝州に就いて貢院を置き応試すべし。」と。詔もまたこれに従う。二十年三月、廷試挙人、買住・魏元礼等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差等有り、凡そ三十五人。国子生員は旧制の如し。二十三年三月丁未、廷試挙人、寶寶・楊輗等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差等有り、凡そ六十二人。国子生員は旧制の如し。是の年六月、中書省が奏す、「江浙・福建の挙人、海道を渉って京に赴く者に、六人あり、既に会試の期に後れたるは、宜しく教授の職を授くべし;その下の第三人もまた教授の職を以てこれを授くべし。徒にその跋渉険阻の労を慰めるのみならず、亦た遠方忠義の士を激勧するに及ぶ。」と。

二十五年、皇太子が河東に軍を撫す、正に大比の歳に当たり、拡廓帖木児が江南・四川等の処は皆兵に阻まれ、その郷試廃せざるは、唯だ燕南・河南・山東・陝西・河東数道のみなりとし、乃ち皇太子に啓して郷貢の額を倍増せしむ。二十六年三月、廷試挙人、赫徳溥化・張棟等に進士及第・進士出身・同進士出身を賜うこと差等有り、凡そ七十三人、その品秩を優遇す。第一甲は、承直郎を授け、正六品。第二甲は、承務郎を授け、従六品。第三甲は、従仕郎を授け、従七品。国子生員:蒙古七名、正六品;色目六名、従六品;漢人七名、正七品;通じて二十人。兵興已後、科目にて士を取るは、これに盛んなるは莫し;而して元の科を設くるも、亦た是の歳に止まるという。