二月丁酉朔、詔して劉頡・程徳輝に淮西制置使夏貴を招かしむ。己亥、臨江軍を克つ。庚子、宋主㬎、文武百僚を率いて祥曦殿に詣り、闕を望み表を上り、藩輔たらんことを乞う。右丞相兼樞密使賈餘慶・樞密使謝堂・端明殿学士僉樞密院事家鉉翁・端明殿学士同僉樞密院事劉岊を遣わし、表を奉じて以て聞かしむ。宋主の祖母太皇太后もまた表及び牋を奉ず。是の日、宋の文武百司、臨安府を出で、行中書省に詣り、各その職を以て来見す。行省、制を承けて臨安を以て両浙大都督府と為し、都督忙古帯・范文虎、城に入り事を視る。辛丑、伯顔、張恵・阿剌罕・董文炳・左右司官石天麟・楊晦等をして城に入らしめ、軍民の銭穀の数を取り、倉庫を閲実し、百官の誥命・符印を収め、悉く宋の官府を罷め、侍衞禁軍を散免せしむ。宋主㬎、その右丞相賈餘慶等を遣わし、祈請使を充て、闕に詣り命を請わしむ。右丞相、呉堅・文天祥に命じて同行せしむ。行中書省右丞相伯顔等、宋主㬎の国を挙げて内附するを以て、表を具して賀を称す。両浙路、府八・州六・軍一・県八十一を得、戸二百九十八万三千六百七十二、口五百六十九万二千六百五十。丁未、詔して臨安新附の府州司県の官吏士民軍卒人等に諭して曰く。
間者、行中書省右丞相伯顔、使を遣わし来奏す、宋の母后・幼主及び諸大臣百官、已に正月十八日に璽綬を齎し表を奉じて降附すと。朕惟うに、古より降王必ず朝覲の礼有り、已に使を遣わし特ち往き迎致せしむ。爾等各職業を守れ、其れ妄りに疑畏を生ずること勿れ。凡そ帰附前に犯罪せしは、悉く従って原免す。公私の逋欠は、徴理すべからず。応に王師に抗拒し及び逃亡嘯聚する者は、並びにその罪を赦す。百官有司・諸王邸第・三学・寺・監・秘省・史館及び禁衞諸司は、各宜しく安居すべし。所在の山林河泊は、巨木花果を除く外、余の物は権に徴税を免ず。秘書省の図書、太常寺の祭器・楽器・法服・楽工・鹵簿・儀衞、宗正の譜牒、天文地理の図冊、凡そ典故の文字、並びに戸口版籍は、尽く仰せて收拾せしむ。前代の聖賢の後、高尚の儒・医・僧・道・卜筮、天文暦数に通暁する者、並びに山林の隠逸名士は、仰せて所在の官司、具に名を以て聞かしむ。名山大川、寺観廟宇、並びに前代名人の遺迹は、拆毀を許さず。鰥寡孤独自ら存すること能わざるの人は、量りて贍給を加う。
伯顔、就きて宋の内侍王埜を遣わし宮に入らしめ、宋国の衮冕・圭璧・符璽及び宮中の図籍・宝玩・車輅・輦乗・鹵簿・麾仗等の物を収めしむ。戊申、浙東西宣慰司を臨安に立て、戸部尚書麦帰・秘書監焦友直を以て宣慰使と為し、吏部侍郎楊居寛を以て同知宣慰司事と為し、並びに臨安府事を知らしむ。乙卯、詔して淮東制置使李庭芝・淮西制置使夏貴及び轄する所の州軍県鎮の官吏軍民に諭す。丁巳、焦友直に命じて宋の秘書省の禁書図籍を括らしむ。戊午、先農を東郊に祀る。淮西制置夏貴、淮西諸郡を以て来降す。唯だ鎮巣軍のみ復た叛く。貴、使を遣わしこれを招く。守将洪福、その使を殺す。貴、親しく城下に至り、福始めて降る。阿朮、これを軍中に斬る。淮西路、府二・州六・軍四・県三十四を得、戸五十一万三千八百二十七、口一百二万一千三百四十九。庚申、伯顔を召して宋の君臣を偕に朝に入らしむ。辛酉、車駕上都に幸す。資戒大会を順徳府開元寺に設く。伯顔、不伯・周青を遣わし泉州の蒲寿庚・寿晟兄弟を招く。甲子、董文炳・唆都、宋の随朝文士劉褎然及び三学の諸生を発して京師に赴かしむ。太学生徐応鑣父子四人、同じく井に赴きて死す。帝、既に宋を平げ、宋の諸将を召して問いて曰く、「爾等何ぞ降ることの易きや」と。対えて曰く、「宋に強臣賈似道有り、国柄を擅にし、毎に文士を優礼し、而して独り武官を軽んず。臣等久しく不平を積み、心離れ体解す。以て風を望みて款を送る所以なり」と。帝、董文忠に命じてこれに答えて曰く、「仮使似道実に汝曹を軽んずるも、特だ似道一人の過ちのみ。且つ汝が主何ぞ負うこと有らん。正に言う所の如くんば、則ち似道の汝を軽んずるも固より宜なり」と。
三月丁卯、樞密副使張易に命じて兼ねて秘書監事を知らしむ。伯顔、臨安に入り、郎中孟祺を遣わし宋の太廟四祖殿、景霊宮の礼楽器・冊宝及び郊天の儀仗、並びに秘書省・国子監・国史院・学士院・太常寺の図書祭器楽器等の物を籍す。戊辰、江南已附の州郡の軍器を括る。甲戌、阿朮、使を遣わし報す、廬州の夏貴已に降り、文天祥鎮江より遁去し、これを追うも獲ずと。荊湖南路行中書省言す、「潭州既に定まり、湖南の州郡降る者相継ぐ。即ち諸将を分命して其の地を鎮守せしむ」と。これに従う。宋の福王与芮、浙東より伯顔の軍中に至る。独松関の守将張濡、嘗て奉使廉希賢を殺せるを以て、これを斬り、その家を籍す。乙亥、伯顔等、臨安を発つ。丁丑、阿塔海・阿剌罕・董文炳、宋主の宮に詣り、宋主㬎に趣りて太后とともに覲に入らしむ。郎中孟祺、詔を奉じて宣読す、「免繫頸牽羊」の語に至り、太后全氏これを聞きて泣き、宋主㬎に謂いて曰く、「天子の聖慈に荷い汝を活かす、当に闕を望みて拝謝すべし」と。宋主㬎拝畢り、子母皆肩輿にて宮を出づ。唯だ太皇太后謝氏は疾を以て留まる。戊寅、諸路の儒戸にして文学に通ずる者三千八百九十を敕し、並びにその徭役を免ず。其の富実にして儒戸を以て役を避くる者は民と為す。貧乏なる者五百戸は、太常寺に隷す。敕して淮西廬州に総管万戸府を置き、中書右丞・河南等路宣慰使合剌合孫・襄陽管軍万戸邸浹を以て並びに行府事を行わしむ。庚辰、囊加帯、宋の玉璽を以て来上す。乙酉、贛・吉・袁・南安の四郡内附す。庚寅、郡王爪都に銀印を賜う。敕して上都の和顧和買並びに大都の例に依らしむ。中書右丞昔班を以て戸部尚書と為す。
閏月丙申朔、宣慰司を済寧路に置き、印造交鈔を掌り、江南の軍儲を供給せしむ。以前の西夏中興僉行中書省事暗都剌即思・大都路総管張守智を以て並びに宣慰使と為す。東川行樞密院総帥汪惟正、地を涪州に略し、山寨谿洞凡そ二十有三所を克つ。丁酉、湖広の阿里海牙・忽都帖木児を召して闕に赴かしめ、脱撥忽魯禿花・崔斌に命じて並びに留後鄂州と為す。辛亥、副枢張易に命じて宋の降臣呉堅・夏貴等を遣わし上都に赴かしむ。戊午、淮西万戸府、方山等六寨を招降す。甲子、西番僧の軍器を持つことを禁ず。中書省左右司郎中郝禎を以て参知政事と為す。
六月甲子朔(一日)、新たに附いた三衛の兵のうち老弱者を、家に帰還させるよう命じる。己巳(六日)、孔子の五十三世孫で曲阜県尹の孔治を兼ねて主祀事を権行させる。東征元帥府に命じて襄陽の生券軍五百を選抜し、侍衛軍に充てさせる。大名府に行戸部を設置し、交鈔の印造を掌らせ、江南貿易を通じさせる。庚午(七日)、西京の僧・道・也里可温・答失蛮などで室家を持つ者に、民と一体に賦を納めさせるよう命じる。辛未(八日)、阿里海牙に広西出征を命じ、増兵を請われたので、軍三万を選んで率いさせる。壬申(九日)、両浙大都督府を廃止する。鄂州・臨安に行尚書省を立てる。諸路に宣慰司を設け、行省の官がこれを兼ね、併せて相の官銜を帯びさせ、行省が立てられた所には宣慰司を立てない。甲戌(十一日)、大明暦に誤差が生じたため、太子賛善王恂に命じて江南の日官と共に局を置き新暦を造らせ、枢密副使張易にその事を監督させる。張易・王恂が上奏して言う、「今の暦家はただ暦術を知るのみで、暦理を明らかにする者は稀である。許衡のような老儒を得て商訂すべきである」。詔して許衡を京師に赴かせる。宋の揚州の姜才が夜に歩騎数千を率いて丁村堡に向かい、守将の史弼・苫徹が出戦し、百余級を斬首し、馬四十匹を獲た。翌朝、阿里・都督陳巖が湾頭堡の兵を率いてその退路を遮り、伯顔察児が続いて至り、率いた兵は皆阿朮麾下の兵であり、姜才軍は遠く旗幟を望み見て急ぎ逃走したので、遂に大いにこれを破り、米五千余石を獲た。阿朮はまた宋人が高郵の水路が不通なため、必ず陸路で糧食を輸送すると考え、千戸也先忽都に千騎を率いてこれを遮らせた。数日後、米の輸送隊が果たして来たので、米を担ぐ兵卒数千を殺し、米三千石を獲た。戊寅(十五日)、詔して平金録・平宋録及び諸国の臣服伝記を作らせ、なお平章軍国重事耶律鋳に国史監修を命じる。戊子(二十五日)、枢密院が上言して言う、「陳宜中・張世傑が福建に兵を集めて我が師を攻めようとしている。江西都元帥宋都帯が援軍を求めている」。安慶・蘄・黄等の郡の駐留兵を、宋都帯に率いさせるよう命じる。己丑(二十六日)、宋都帯が言うには、福建の魏天祐・游義栄が家を棄てて来附したので、魏天祐を管軍総管兼知邵武軍事とし、游義栄を建寧路同知に遥任し、管軍千戸に充てる。壬辰(二十九日)、詔を下して宋の揚州制置李庭芝以下の軍官及び通・泰・真・滁・高郵の大小官員を招諭する。また詔して陳宜中・張世傑・蘇劉義・劉師勇らを諭して降伏させる。李庭芝は朱煥を留めて揚州を守らせ、姜才と共に歩騎五千を率いて東へ逃走した。阿朮自ら百余騎を率いて馳せ去り、右丞阿里・万戸劉国傑に命じて分道して追撃し、泰州の西で追いつき、歩卒千人を殺し、李庭芝らは辛うじて城内に入ったので、遂に長い包囲塹を築いて守らせ、阿朮は独り東南面を担当し、その退路を断った。戸部尚書張澍を参知政事とし、北京で行中書省事を行わせる。
秋七月乙未、行中書省左右司郎中孟祺が亡宋の金玉宝及び牌印を携えて来朝し、太府監に収めさせた。丙申、淮安・宝応の民で邳州に流寓する者一万余口、その家に帰ることを聴許した。丁酉、宋の涪州観察使陽立の子嗣栄が、詔を下してその父を招諭することを請うた。これに従った。戊戌、閬州を保寧府に昇格させた。山丹城を省部に直隷させることを命じ、達魯花赤行者が引き続きこれを管轄した。壬寅、李庭の出征に際し、その部将李承慶らに鈔・馬・衣服・甲仗を差等を付けて賜った。乙巳、朱煥が揚州を以て降った。丁未、広西路静江府等の大小州城の官吏に降伏を促す詔を発した。甲寅、諸王孛羅に印を賜った。楊村から浮鶏泊に至る漕渠が迂遠であるため、孫家務経由に改めた。乙卯、宋の泰州守将孫良臣が李庭芝の帳下の卒劉発・鄭俊と共に北門を開いて降り、李庭芝・姜才を捕らえ、揚州の獄に繋いだ。丙辰、阿朮が総管烏馬児らに泰州を守らせ、その通州・滁州・高郵等の地が相次いで帰附した。淮東路では州十六・県三十三を得、戸五十四万二千六百二十四、口百八万三千二百十七であった。使者を遣わし香幣を捧げて嶽瀆后土を祀った。中書右丞阿里海牙を平章政事とし、僉書枢密院事・淮東行枢密院別乞里迷失を中書右丞とし、参知政事董文炳を中書左丞とし、淮東左副都元帥塔出・両浙大都督范文虎・江東江西大都督知江州呂師夔・淮東淮西左副都元帥陳巖を並びに参知政事とした。
八月己巳、武清蒙村の漕渠を穿った。漢軍都元帥闊闊帯・李庭に侍衛軍二千人を率いて西征することを命じた。漷陰県を漷州に昇格させた。乙亥、宋の淮東制置使李庭芝・都統姜才を揚州市で斬った。庚辰、襄陽統軍司を廃止した。車駕が上都より還幸した。太常卿脱忽思を遣わし銅爵一・豆二を以て太廟に献じた。四万戸総管オルチ(奥魯赤)を参知政事とした。
九月壬辰朔、国師益憐真に太廟で仏事を行わせた。己亥、太廟で祭祀を行い、常饌の外に野豕・鹿・羊・葡萄酒を加えた。庚子、姚枢・王磐に命じ、宋の三学生のうち実学ある者を選んで京師に留め、余りは家に帰ることを聴許させた。辛丑、瀘州の屯田軍四千を遣わし、重慶への転漕に当たらせた。癸卯、宋平定を以て天下に赦を下した。乙巳、高麗国王王愖が参議中賛金方慶の功績を上奏し、虎符を授けた。丙午、常徳府に歳貢の包茅を命じた。丁未、西川行枢密院に命じ檄を重慶に移し、内附を促させた。有司に命じ沿淮の城塁を破壊させた。辛亥、太白星が南斗を犯した。甲寅、太白星が南斗に入った。乙卯、吐蕃の合答城を寧遠府とした。辛酉、宋の宗臣で鄂州教授の趙与𤍟を召し出して闕に赴かせた。京師に資戒会を設けた。阿朮が入朝した。江淮及び浙東西・湖南北等の路で、府三十七・州百二十八・関一・監一・県七百三十三を得、戸九百三十七万四百七十二、口千九百七十二万一千十五であった。
冬十月甲子、陳巖の新城・丁村攻略の功により、金五十両を賜り、部将劉忠らには銀を差等を付けて賜った。乙亥、皇子北平王の出征軍士のうち貧乏なる者に羊馬幣帛を差等を付けて賜った。良民を娼妓とすることを禁じる法令を再布告した。丁亥、両浙宣撫使焦友直が臨安の経籍・図画・陰陽秘書を携えて来朝した。戊子、淮西安撫使夏貴が入朝を請い、その孫貽孫に宣撫司事を暫く領させることを求めた。これを聴許した。淮東左副都元帥アリ(阿里)を平章政事とし、河南等路宣慰使カラカスン(合剌合孫)を中書右丞とし、兵部尚書王儀・吏部尚書兼臨安府安撫使楊鎮・河南河北道提刑按察使ミリフシン(迷里忽辛)を並びに参知政事とした。参知政事陳巖に淮東で行中書省事を行わせた。
十一月癸巳、安西王の所部軍が万州を攻略した。丙午、阿朮の所部の有功将士二百三十九人に各々銀二百五十両を賜った。西川行院の忽敦が言上した。「所部の軍士は長く重慶を包囲し、逃亡する者が多い。軍一万を増やし、併せて詔を下して大良平に逃散した民を招誘することを乞う。」共にこれを聴許した。壬子、龍答温軍の有功者及び戦死者に銀鈔を差等を付けて賜った。癸丑、内外の諸司を併合・整理した。丁卯、太陰星が填星を犯した。庚申、管民及び理財の官は中書省が選任し、軍官は枢密院が議定することを命じた。襄漢・荊湖の諸城を破壊した。南平招撫使兼知峽州事趙真が、詔を下して夔州安撫張起巖を招諭することを請うた。これを聴許した。高麗国王王愖がその臣判秘書寺朱悦を遣わし、名を(睶)〔賰〕に改めたことを告げさせた。
十二月辛酉朔、熒惑星が鈎鈐を掩蔽した。十四年の暦を高麗に賜った。丁卯、雲南の蘿葡甸を元江府路に改めた。辛未、タハイ(塔海)の所部の戦士及び戦死者に銀鈔を差等を付けて賜った。忽不來ら戦功ある十九人に銀千二百両を賜った。壬申、李思敬が運使姜毅の言動が悖妄であると告発し、姜毅の妻子を証拠として指摘した。帝は言った。「妻子がどうして証人たりえようか。」詔して問わないこととした。乙亥、江南に設置した官府を定めた。辛巳、軍士が崇慶を囲んで守る労苦により、鈔六千錠を賜った。庚寅、浙東西・江東西・淮東西・湖南北の府州軍県の官吏軍民に詔を下して諭した。「かつて万戸・千戸がその民を漁奪したため、逃散を招いた。今は悉く人民を元の籍の州県に帰属させる。凡そ管軍将校及び宋の官吏で、勢力を以て民の田廬産業を奪った者は、各々その主に返させよ。主がなければ、近隣の生産手段なき人民に与えよ。その田租商税・茶塩酒酢・金銀鉄冶・竹貨湖泊の課程は、実情に従って徴収せよ。凡そ故宋の繁冗な科差・聖節上供・経総制銭等百有余件は、悉く免除する。」伯顔が言上した。「張惠が宋の府庫を守りながら、命を待たずに管鑰を開けた。」詔して阿朮にその事を詰問させ、併せて江之東西・浙之東西・淮之東西の官吏等に、新旧の銭穀を検査・照合するよう諭した。浙西・浙東・江西・江東・湖北の五道宣慰使を置いた。江陵を上路に昇格させた。瑞安府を再び温州とした。隴州を散府とした。薊州に再び豊閏県を置いた。臨洮渭源堡を県に昇格させた。諸王に例年の如く金・銀・幣・帛を賜った。諸王乃蛮帯らに羊馬の代価を賜った。阿朮らの戦功を賞し、及び降臣呉堅・夏貴らに銀・鈔・幣・帛を各々差等を付けて賜った。伯顔・阿朮らに青鼠・銀鼠・黄鼬の只孫衣を賜り、その余の功臣には豹裘・獐裘及び皮衣帽を各々差等を付けて賜った。
この年、東平・済南・泰安・徳州・漣海・清河・平灤・西京西三州は水旱により食糧が欠乏したため、軍民站戸に米二十二万五千五百六十石・粟四万七千七百十二石・鈔四千二百八十二錠余を賑給した。平陽路は旱魃、済寧路及び高麗瀋州は水害があり、共に今年の田租を免除した。死罪三十四人を処断した。
十四年春正月癸巳、行都元帥府の軍が広東に至り、循州知州劉興が城を以て降る。丙申、江南平定に因り、百姓が軍への供給に疲弊せるを以て、諸路の今年納入すべき絲銀を免ず。嗣漢天師張宗演に演道霊応冲和真人の号を賜い、江南諸路の道教を領せしむ。戊戌、高麗の金方慶等乱を為す、高麗王にこれを治めしむるを命じ、なお忻都・洪茶丘に兵を飭り備えを禦がしむ。癸卯、諸道の提刑按察司を復立す。甲辰、阿朮に鋭軍一万人を選んで闕に赴かしむるを命ず。丁未、梅州知州銭栄之が城を以て降る。戊申、三衞の軍士の貧乏なる者八千三百五十二人に各々鈔二錠・幣十匹を賜う。己酉、耶律鑄に鈔千錠を賜う。甲寅、宋の福王趙与芮の家貲にして杭・越にあるものを、有司に京師に輦致せしめ、その家に付す。丙辰、建都・羅羅斯四路を立て、烏木等の処を守戍し、並びに官属を置く。己未、白玉・碧玉・水晶の爵六つを以て、太廟に献ず。上都・隆興・北京・西京の四路の猟戸二千を括めて兵と為す。江淮等路都転運塩使司及び江淮榷茶都転運使司を置く。嗣漢天師張宗演に命じ、長春宮において周天醮を修めしむ、宗演は江南に還り、その弟子張留孫を京師に留めしむ。
二月辛酉、征東都元帥洪茶丘に兵二千を将いて上都に赴かしむるを命ず。壬戌、瑞州安撫姚文龍、張文顕を率いて来降す、その家属は宋人の害する所と為り、文龍・文顕等に鈔を差等有りて賜う。癸亥、彗星東北に出で、長さ四尺余り。甲子、使者を遣わして岳瀆后土を代祀せしむ。丙寅、安西王傅の銅印を銀印に改む。永昌路山丹城等の駅を立て、なお鈔千錠を給して本と為し、息を取らしめて駅伝の須を給せしむ。諸王只必鉄木児言う、「永昌路の駅戸百二十、供給に疲れ、妻子を質して役に応ず。」詔して鈔百八十錠を賜いこれを贖い還す。丁卯、荊湖北道宣慰使塔海、帰州の山寨四十七所を抜く。戊辰、先農を東郊に祀る。甲戌、西川行院不花、衆数万を率いて重慶に至り、浮屠関に営し、梯衝を造り将にこれを攻めんとす、その夜都統趙安城を以て降る。張珏、船を江中に艤し、その妻妾と共に涪州に順流して走る、元帥張徳潤舟師を以てこれを邀え、珏遂に降る。車駕上都に幸す。辛巳、北京に命じ福海の統ぶる所の軍三百を選んで上都に赴かしむ。壬午、吉・撫二州の城を隳し、隆興は西江に濱し、姑くこれを存す。なお汀州の軍馬を選び瑞金県を守禦せしむ。丙戌、連州守過元龍既に降りて復た叛く、塔海兵を将いてこれを討つ、元龍城を棄てて遁る。丁亥、南恩州知州陳堯道・僉判林叔虎城を以て降る。詔して僧亢吉祥・怜真加加瓦を以て並びに江南総摂と為し、釈教を掌らしめ、僧の租賦を除き、寺宇を擾す者を禁ず。大司農・御史大夫・宣徽使兼領侍儀司事孛羅を以て枢密副使と為し、宣徽使を兼ね、侍儀司事を領せしむ。
三月庚寅朔、冬雨雪無く、春の沢未だ継がざるを以て、使者を遣わし便民事を翰林国史院に問わしむ、耶律鑄・姚枢・王磐・竇黙等対えて曰く、「足食の道は、唯だ浮費を節するにあり、穀を靡すの多きは、醪醴麹糵に踰ゆる無し。況んや周・漢以来、嘗て明禁有り。祈賽神社、費亦貲せず、宜しく一切禁止すべし。」これに従う。辛卯、湖広行中書省言う、「広西二十四郡並びに已に内附し、議て行中書省を潭州に復し、広南西路宣撫司を静江に置く。」詔して鄭鼎の将うる所の侍衛軍万人を京師に還らしめ、崔斌・阿里海牙を同しく静江に駐ましめ、忽都鉄木児・鄭鼎を同しく鄂漢に駐ましめ、賈居貞・脱博忽魯禿花を同しく潭州に駐ましむ。癸巳、行都水監に行漕運司事を兼ねしむ。甲午、鄭鼎の部ぶる所の軍士の静江を撫定したる労を以て、命じて家に還り少しく休ましめ、期して六月に上都に赴かしむ。乙未、福建の漳・泉二郡の蒲寿庚・印徳傅・李珏・李公度皆城を以て降る。丁酉、馬三万二千二百六匹を括め、孕駒なる者はその主に還す。壬寅、広東肇慶府新封等州皆来降す。癸卯、寿昌府の張之綱、従叛に坐し棄市す。乙巳、中外の軍民官の佩ぶる所の金銀符を、色組を以て肩腋に繫ぎ、褻瀆無からしむるを命じ、具に令と為す。庚戌、建寧府通判郭纘城を以て降る。黄州帰附官史勝入覲し、その部ぶる所の将校于躍等三十一人の戦功を聞かしむ、命じてこれに官す。僉書東西川行枢密院事昝順言う、「比に同知隆州事趙孟烯を遣わし詔を齎し南平軍都掌蛮・羅計蛮及び鳳凰・中壠・羅韋・高崖等の四寨を招諭せしむるに皆降る。田・楊の二家、豕鵝夷民も、亦各使者を遣わし款を納む。」壬子、宝応軍人施福その守将を殺し、淮東都元帥府に降る、詔して福を以て千戸と為し、金符を佩ばしむ。癸丑、汪惟正に命じ東川より移り鞏昌に鎮ましむ。行中書省制を承け、閩浙の温・処・台・福・泉・汀・漳・剣・建寧・邵武・興化等の郡の降官を以て、各その郡を治めしむ。潭州行省使者を遣わし上言す、「広南西路の慶遠・欝林・昭・賀・藤・梧・融・賓・柳・象・邕・廉・容・貴・潯皆降り、府一・州十四を得。」襄陽府襄陽県を復立す。平章政事・浙西道宣慰使阿塔海を平章政事と為し、行中書省事を江淮に行わしむ。郡王合答を平章政事と為し、行中書省事を北京に行わしむ。
夏四月甲子、宋の特磨道将軍農士貴・安平州知州李維屏・来安州知州岑従毅等、所属の州県溪洞百四十七・戸二十五万六千を以て来附す。癸酉、各路の転運司を省き、事を総管府に入る。塩転運司四を設く。碉門・黎州に榷場を置き、吐蕃と貿易す。丙子、安撫趙与可・宣撫陳巖を召し入覲せしむ。丙戌、江南における銅錢の行用を禁ず。均州に南漳県を復立す。
五月癸巳、大都の酒禁を厳に申す、犯す者はその家貲を籍没し、貧民に散ず。辛丑、千戸合剌合孫渾都海の戦いに死す、その子忽都帯児に命じて職を襲わしむ。癸卯、広南西路宣撫司を宣慰司に改む。広西の欽・横二州を改めて安撫司を立てしむ。各道の提刑按察司に農事を勧むることを兼ねしむ。江南帰附官に勅し、三品以上なる者は質子一人を遣わし入侍せしむ。西番の長阿立丁甯占等三十一族来附し、戸四万七百を得。丙子、融州安撫使譚昌謀を不軌と為し、伏誅す。辛亥、河南・山東水旱に因り、河泊課を除き、民に自ら漁るを聴す。乙卯、蒙古・漢軍を選び相参して宿衛せしむ。思州安撫使田景賢に詔諭す。又た瀘州西南番蛮王阿永、筠連・騰串等処の諸族蛮夷に詔諭し、その来附せしむ。真人李徳和に命じ済瀆を代祀せしむ。
六月丙寅、涪州安撫使陽立とその子嗣榮が相次いで帰順した。立を夔路安撫使に、嗣榮を管軍総管に任じ、ともに虎符を佩用させ、さらに鈔百錠を賜う。壬寅、広州征討で戦死した家にそれぞれ銀五十両を賜う。丁丑、尚膳院を設置し、官秩は三品とし、提点尚食・尚薬局の忽林失を尚膳使とした。その所属する司は七つある。庚辰、陽立の配下の戦士に鈔千錠を賜う。甲申、荊湖北道宣慰使の黒的が間諜を得て、夔府が兵を出して荊南を攻めようとしていると報告した。陽立らに命じて塔海と合流して防がせた。丁亥、崇明沙を崇明州に昇格させた。行省参政・行江東道宣慰使の阿剌罕を中書左丞・行江東道宣慰使とし、湖北道宣慰使の奥魯赤を参知政事・行湖北道宣慰使とした。
秋七月戊子朔、大名・済寧の印鈔局を廃止した。壬辰、盗みを犯した者はすべて棄市に処すと命じた。符宝郎の董文忠が言うには、「盗みには強盗と窃盗があり、贓物にも多寡があるので、すべて法に照らして処するのは難しいようです。」帝はその言葉を認め、急いでその命令を止めさせた。丁酉、今後は符を佩用した使臣と軍情の緊急の場合を除き、駅伝を利用することを許さないと命じた。戊戌、北方にいる羊馬の群れについて、八月の間に北口の諸関から放ち出して京畿の禾を踏み食いすることを厳禁し、違反した者はその家畜を没収すると申し渡した。癸卯、諸王の昔里吉が阿力麻里の地で北平王を襲撃し、右丞相の安童を拘束し、諸王を誘い脅して反乱を起こし、海都に通好しようとした。海都は受け入れず、東道の諸王も従わなかったので、西道の諸王を率いて和林城の北に至った。詔して右丞相の伯顔に軍を率いて防がせた。諸王の忽魯帯が配下を率いて帰順し、右丞相の伯顔らの軍と合流した。丙午、行御史台を揚州に設置し、都元帥の相威を御史大夫とした。八道の提刑按察司を設置した。戊申、東川都元帥の張徳潤らが涪州を攻め取り、大いにこれを破り、安撫使の程聡・陳広を生け捕りにした。江西に行中書省を設置し、参知政事・行江西宣慰使の塔出を右丞とし、参知政事・行江西宣慰使の麦朮丁を左丞とし、淮東宣慰使の徹里帖木児・江東宣慰使の張栄実・江西宣慰使の李恒・招討使の也的迷失・万戸の昔里門・荊湖路宣撫使の程鵬飛・閩広大都督兵馬招討使の蒲寿庚をいずれも参知政事とし、行江西省の事務を執らせた。壬子、大都の商税を専売とした。丁巳、湖北宣慰司が兵を動員して司空山を攻め、寿昌・黄州の二郡を奪回した。宋を平定した将帥・軍士および簡州の軍士で広西で戦死した者に銀鈔をそれぞれ差等をつけて賜う。回水窩の淵聖広源王に善佑の号を加封し、常山の霊済昭応王に広恵の号を加封し、安丘の雹泉霊霈侯を追封して霊霈公とした。参知政事・行江東道宣慰使の呂文煥を中書左丞とした。
八月戊午朔、不花に行院西川を命じた。丁卯、成都路の倉庫が余剰米五千石を収めたが、按察司がすでにその罪を問うたので、その米を西川の兵に給することとした。辛未、常徳府総管の魯希文が李三俊と結託して乱を企てたが、事が発覚したので、行省に命じてこれを誅殺させた。車駕は上都の北で狩猟を行った。
九月壬辰、鑌鉄製の海青円符を作った。丙申、広南東路の広・連・韶・徳慶・恵・潮・南雄・英徳などの諸郡がすべて帰順した。甲辰、福建行省は宋の二王がその管内にいるため、都督の忙兀帯と招討の高興に命じて兵を率いて討伐させた。昂吉児・忻都・唐兀帯らが兵を率いて司空山寨を攻め、これを破り、張徳興を殺し、その三人の子を捕らえて帰った。壬子、福建路宣慰使・行征南都元帥の唆都が、招討使の百家奴・丁広を派遣して建寧の崇安などの県および南剣州を攻め取らせた。
冬十月丙辰朔、日食があった。己未、太廟で祭祀を行った。庚申、湖北宣慰使の塔海が略地して夔府の太原坪に至り、その将を捕らえて誅殺した。辛酉、蓋州の狩猟の禁令を解除した。乙亥、宋の張世傑・文天祥がまだ降伏していないため、阿塔海に命じて精鋭の兵を選んで隆興などの諸城を防がせた。無籍の軍人が大軍に従って略奪することを禁じ、関所や渡し場を通らせない。己卯、降臣の郭暁・魏象祖が入朝し、幣帛をそれぞれ差等をつけて賜う。壬午、黄州に宣慰司を設置した。甲申、播州安撫使の楊邦憲が言うには、「本族は唐より宋に至るまで、代々この地を守り、およそ五百年になります。先ごろ聖旨を奉じて旧に従うことを許されましたが、璽書を賜りたい。」これに従った。行省参政の忽都帖木児・脱博忽魯禿花・崔斌をいずれも中書左丞とし、鄂州総管府達魯花赤の張鼎・湖北道宣慰使の賈居貞を参知政事とした。
十一月戊子、枢密院の臣が言うには、「宋の文天祥がその徒の趙孟瀯とともに兵を起こしたが、行中書が兵を発してこれを攻め、孟瀯を殺し、天祥はただ身一つで逃れた。」詔してその妻子を京師に送らせた。右副都元帥の張徳潤が涪州の戦功を上奏したので、鈔千錠を賜う。乙未、すべて宝鈔を偽造した者およびこれに同意した者はともに死刑に処し、これを使用した者は死刑を減じて杖刑に処し、これを法令として定めた。庚子、中書省に命じて内外に檄文を発し、江南がすでに平定されたので、宋は亡宋と呼び、行在は杭州と呼ぶべきであると諭させた。吏部尚書の別都魯丁を参知政事とした。
十二月丙辰、中灤・唐村・淇門の駅を設置した。丁卯、大都の物価が高騰したため、官倉の米一万石を放出し、貧民に売り出して救済した。庚午、梁山軍の袁世安がその城および金石城の軍民を率いて降伏した。壬申、潭州行省が祁陽県を奪回した。賊の首魁羅飛を斬り、残党をすべて平定した。乙亥、都元帥の楊文安が咸淳府を攻めてこれを陥落させた。十五年暦を高麗国に賜う。参議中書省事の耿仁を参知政事とした。冠州および永年県が水害に遭い、今年の田租を免除した。任河を疏導し、民田三千余頃を回復した。諸王に金・銀・幣・帛などを例年のごとく賜う。諸王の也不干・燕帖木児ら五百二十九人に羊馬の代価として鈔八千四百五十二錠を賜う。拜答児ら千三百五十五人の戦功を賞し、金百両・銀一万五千百両・鈔百三十錠および納失失・金素の幣帛・貂鼠豹の裘・衣帽などをそれぞれ差等をつけて賜う。
この年、東平・済南などの郡の飢民を救済し、米二万一千六百十七石・粟二万八千六百十三石・鈔一万百十二錠を給した。死刑囚三十二人を処断した。