元史

志第三十一:選挙一

選挙の法は古くからある。周代には庠序学校を設け、郷三物をもって万民を教え賓興し、郷に挙げられ、司徒しと・司馬に昇り論定された後に官とした。両漢には賢良方正・孝弟力田などの科があり、詔策に奉対するなど、事はなお古に近い。隋・唐には秀才・明経・進士・明法・明算などの科があり、時に詩賦を兼用し、士は初めて本を棄てて末を逐う者が出た。宋は文治を大いに興し、専ら科目を尚び、当時は人を得ることが盛んではあったが、その弊は遂に文体が卑弱となり、士習が委靡し、識者はこれを病んだ。遼・金は北方にあり、俗は弓馬を尚んだ。遼の景宗・道宗も貢試を行い、金の太宗・世宗は屡々科場を開き、粗くも士を得たと称された。

元の初め、太宗が中原を得ると、直ちに耶律楚材の言を用い、科挙で士を選んだ。世祖が天下を定めた後、王鶚が計を献じ、許衡が法を立てたが、事は未だ果たして行われなかった。仁宗の延祐年間に至り、初めて旧制を斟酌してこれを施行し、士を取るには徳行を本とし、試芸には経術を先とし、士は挙首として上に応じ求める者、皆彬彬として輩出した。

しかし当時、仕進には多岐があり、銓衡には定制がなく、学校より出身する者には、国子監学・蒙古字学・回回国学・医学・陰陽学があった。薦挙により名を策する者には、遺逸・茂異・求言・進書・童子があった。宿衛・勲臣の家より出る者は、不次をもって待された。宣徽・中政の属に用いられる者は、重く内官とされた。また、蔭叙には循常の格があり、超擢には選用の科があった。直省・侍儀などより官に入る者も、清望と名付けられた。倉庾・賦税を任ずる者は、例として冗職と見なされた。盗を捕らえる者は功により叙し、粟を納める者は資により進み、工匠に至るまで皆班資に入り、輿隷もまた流品に躋った。諸王・公主には、投下をもって寵し、保任させた。遠夷・外徼には、長官を授け、世襲させた。凡そこの類は、いわゆる吏道雑にして多端なるものか。まして儒には歳貢の名があり、吏には補用の法がある。掾史・令史、書写・銓写、書吏・典吏と称し、設けられた名は枚挙に暇がない。省・台・院・部、路・府・州・県と称し、入る途は指計し難い。名卿大夫と雖も、往々にして是より要官に躋り、顕爵を受けた。而して刀筆の下吏は、遂に権勢を窃り、文法を舞うに至った。

故にその銓選の備わり、考核の精なるものは、随朝・外任、省選・部選、文官・武官、考数、資格と称し、一毫も越えることができない。而して或いは例を援き、或いは資を借り、或いは優陞し、或いは回降し、その情に縦って律を破り、公を以て私を済ますは、至明ならざれば察し難い。これ皆、文繁にして吏弊なるが故である。

今、旧編を採摭し、簡牘に載せる。或いは詳しく或いは略し、条分して類聚す。殆ど記述に勝えざるものがあるが、姑く一代の制を存し、選挙志を作る。

科目

太宗が初めて中原を取った時、中書令耶律楚材が儒術を用いて士を選ぶことを請い、従った。九年秋八月、詔を下して断事官朮忽䚟と山西東路課税所長官劉中に命じ、諸路を歴て試験を行わせた。論及び経義・詞賦を以て三科に分け、三日の程とし、専ら一科を治め、兼ねる能う者は聴し、但し文義を失わざるを以て中選とした。その中選した者は、その賦役を復し、各処の長官と同署して公事に与からしめた。東平の楊奐ら凡そ若干人を得、皆一時の名士であったが、当世或いは便ならずと為し、事はまた中止した。

世祖至元初年、旨有りて丞相史天沢に命じ当に行うべき大事を条具せしめ、嘗て科挙に及んだが、未だ果たして行われなかった。四年九月、翰林学士承旨王鶚ら、選挙法を行うことを請い、遠く周の制を述べ、次いで漢・隋・唐の取士科目に及び、近く遼・金の選挙用人を挙げ、本朝太宗の人を得たる効と合わせて、「貢挙法廃れて、士に入仕の階無く、或いは刀筆を習いて吏胥と為り、或いは僕役を執りて官僚に事え、或いは技巧を作し販鬻して工匠商賈と為る。今を以て論ずれば、惟だ科挙を以て士を取るは、最も切務なり、まして先朝の故典は、尤も追述すべし」と奏上した。帝曰く「此れ良法なり、其れ之を行え」と。中書左三部と翰林学士が議りて程式を立て、又「前代に依り国学を立て、蒙古人の諸職官の子孫百人を選び、専ら師儒に命じ経書を教習せしめ、其の芸成るを俟ちて、然る後に試用せば、庶幾くは勲旧の家より、人材輩出し、以て超擢に備えん」と請うた。十一年十一月、裕宗東宮に在りし時、省臣復た啓し、「去年旨を奉じて科挙を行わんとす、今翰林老臣等の議りし程式を以て聞かん」と謂う。令旨を奉じ、蒙古進士科及び漢人進士科に准じ、時宜を参酌し、以て制度を立てんとす。事未だ施行せず。二十一年九月に至り、丞相火魯火孫と留夢炎ら言う、十一月中書省臣の奏する所、皆天下儒を習う者少なく、而して刀筆吏より官を得る者多しと為す。帝曰く「将に之を若之何せん」と。対えて曰く「惟だ貢挙を以て士を取るを便と為す。凡そ蒙古の士及び儒吏・陰陽・医術は、皆試挙せしめば、則ち心を用いて学ばん」と。帝其の奏を可とす。継いて許衡も亦た学校科挙の法を議り、詩賦を罷め、経学を重んじ、新制と定む。事未だ及んで行わざるも、而して選挙の制已に立つ。

仁宗皇慶二年十月、中書省臣奏す「科挙の事は、世祖・裕宗累たび嘗て行うを命じ、成宗・武宗尋いで亦た旨有り、今以て聞かざれば、恐らくは或いは其の事を沮ぐ者有らん。夫れ士を取るの法は、経学は実に己を修め人を治むるの道、詞賦は乃ち章を摛き句を絵るの学、隋・唐以来、人を取るに専ら詞賦を尚ぶ、故に士習浮華なり。今臣等の擬する所、律賦・省題詩・小義を皆用いず、専ら徳行明経科を立て、此を以て士を取れば、庶幾くは人を得ん」と。帝然り之。十一月、乃ち詔を下して曰く、

惟れ我が祖宗は神武を以て天下を定め、世祖皇帝は官を設け職を分ち、儒雅を徴用し、学校を崇めて材を育するの地と為し、科挙を議りて士を取るの方と為す、規模宏遠なり。朕眇躬を以て、丕祚を承くるを獲、志を継ぎ事を述ぶるに、祖訓是れ式とす。三代以来を稽えれば、士を取るに各々科目有り、其の本末を要するに、挙人は宜しく徳行を以て首と為し、試芸は則ち経術を以て先と為し、詞章之に次ぐ。浮華実を過ぐるは、朕の取らざる所なり。爰に中書に命じ、古今を参酌し、其の条制を定めしむ。其れ皇慶三年八月を以て、天下の郡県、其の賢者能者を興し、有司に賦を充たし、次年二月京師に会試し、中選する者は朕将に親しく策せんとす。具に合行すべき事宜を後にす。

科場は、三歳毎に一度開試す。挙人は本貫官司より諸色戸内に推挙し、年二十五に及び、郷党其の孝悌を称え、朋友其の信義を服し、経明行修の士は、罪を結び保挙し、礼を以て敦遣し、諸路府に貢す。其れ或いは私に徇い濫挙し、へいびに応挙すべきにして挙げざる者は、監察御史・粛政廉訪司体察し究治す。

試験の規定:蒙古人・色目人は、第一場で経問五条を出題し、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の中から設問し、朱子の章句集注を用いる。その義理が精妙で明らか、文辞が典雅な者を合格とする。第二場で策一道を出題し、時務を題材とし、五百字以上に限る。漢人・南人は、第一場で明経経疑二問を出題し、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の中から出題し、ともに朱子の章句集注を用い、さらに自らの考えでまとめ、三百字以上に限る。経義一道を出題し、それぞれ一経を専攻し、『詩経』は朱子を主とし、『尚書』は蔡氏を主とし、『周易』は程氏・朱氏を主とし、以上の三経は古注疏を兼用し、『春秋』は三伝及び胡氏伝を用いることを許し、『礼記』は古注疏を用い、五百字以上に限り、格律に拘らない。第二場で古賦・詔・誥・章・表の中から一道を出題し、古賦・詔・誥は古体を用い、章・表は四六駢儷体とし、古体を参考にする。第三場で策一道を出題し、経史・時務の中から出題し、浮華な飾りを誇らず、ひたすら直截に述べることを務め、一千字以上で完成させる。蒙古人・色目人が、漢人・南人の科目を受験することを希望し、合格した者は一等を加えて官職を授ける。蒙古人・色目人は一つの榜(合格者発表)とし、漢人・南人は一つの榜とする。第一名は進士及第を賜り、従六品とし、第二名以下及び第二甲は、皆正七品とし、第三甲以下は、皆正八品とし、両榜ともに同じとする。

担当官司が試験開始の日時を遅延・誤りさせた場合は、監察御史・粛政廉訪司が糾弾し罪を治める。

流官の子孫の蔭叙は、すべて旧制の通りとし、試験を受けて合格することを希望する者は、優遇して一等を昇進させる。

官職にありながら未だ流内の品階に入っていない者が、試験を希望する者は聴許する。もし合格した者で、すでに九品以上の資格・等級がある者は、一階高いものに比附し、一等を加えて官職を授ける。もし品階がない者は、ただ試験の規定に従って優遇して選任・登録する。

郷試の実施場所、およびその他の条項については、中書省に命じて議定し施行させる。

ああ、経義を明らかにし行いを修め、真の儒者を用いることを得ん。風俗を移し易え、ますます至治の隆盛に至らしめん。汝ら諸方の者よ、我が深き意を体せよ。

中書省の定めた条項:

郷試に合格した者は、それぞれ解据(合格証明書)を与え、合格した答案を書き連ねて、行省は都省に移牒し、礼部に送り、腹裏の宣慰司及び各路は礼部に関申し、管轄する監察御史・廉訪司は、上記に従って答案を書き連ねて御史台に申し送り、都省に転呈し、照合勘案のよりどころとする。

郷試は、八月二十日に、蒙古人・色目人は、経問五条を試験し、漢人・南人は、明経経疑二問、経義一道を試験する。二十三日に、蒙古人・色目人は、策一道を試験し、漢人・南人は、古賦・詔・誥・章・表の中から一道を試験する。二十六日に、漢人・南人は、策一道を試験する。

会試は、省部が郷試の例に依り、翌年二月初一日に第一場を試験し、初三日に第二場を試験し、初五日に第三場を試験する。

御試は、三月初七日に行い、事前に試験官二員・監察御史二員・読巻官二員を奏上して委任し、殿廷に入って試験を行う。挙子一名ごとに、ケシクタイ(怯薛歹、親衛隊)一人が看守する。漢人・南人は、策一道を試験し、一千字以上で完成させる。蒙古人・色目人は、時務策一道を試験し、五百字以上で完成させる。

試験官を選任するには、行省と宣慰司及び腹裏各路で、行台及び廉訪司があるところは、台憲官とともに協議して選任する。上都・大都は省部が選任し、内では監察御史、外では廉訪司官一員を監試とする。各試験場ごとに試験官・同考試官を各一員選任し、ともに現任官及び在閑の者で徳望・文学のある常選官の中から選任する。封弥官一員・謄録官一員を選任し、廉潔で有能な文資正官を充てる。すべて答案を謄録し、文書を移すには、皆朱書を用い、なお関防(不正防止)の方法を設け、私情を容れて不正を行うことがないようにする。省部の会試では、都省が知貢挙・同知貢挙官を各一員選任委任し、試験官四員、監察御史二員、弥封・謄録・対読官・監門等の官を各一員選任する。

郷試を行う行省は十一:河南、陝西、遼陽、四川、甘肅、雲南、嶺北、征東、江浙、江西、湖広。宣慰司は二:河東、山東。直隸省部の路分は四:真定、東平、大都、上都。

天下から合格者三百人を選抜して会試に赴かせ、そのうちから合格者一百人を選抜する。内で蒙古・色目・漢人・南人は分巻して試験し、各二十五人とする。蒙古人の合格者を七十五人選抜する:大都十五人、上都六人、河東五人、真定等五人、東平等五人、山東四人、遼陽五人、河南五人、陝西五人、甘肅三人、嶺北三人、江浙五人、江西三人、湖広三人、四川一人、雲南一人、征東一人。色目人の合格者を七十五人選抜する:大都十人、上都四人、河東四人、東平等四人、山東五人、真定等五人、河南五人、四川三人、甘肅二人、陝西三人、嶺北二人、遼陽二人、雲南二人、征東一人、湖広七人、江浙十人、江西六人。漢人の合格者を七十五人選抜する:大都十人、上都四人、真定等十一人、東平等九人、山東七人、河東七人、河南九人、四川五人、雲南二人、甘肅二人、嶺北一人、陝西五人、遼陽二人、征東一人。南人の合格者を七十五人選抜する:湖広十八人、江浙二十八人、江西二十二人、河南七人。

郷試・会試では、礼部韻略を持ち込むことを許すほか、その他の文字を持ち込むことは一切許さない。搜検懷挾官一員を選任し、挙人一名ごとに軍人一名を看守に当たらせ、軍人のいないところでは、巡軍を当たらせる。

試験院の監督・管理は、清廉かつ有能な官吏一名を選任し、場所を測量して席舎を配置し、必ず隔離して遠ざけるようにする。また、試験官が入院した後は、常時職務に当たり、外門を監視・警護する。

郷試・会試において、弥封・謄録・対読の各官の下に属する吏人は、各衙門から便宜的に選任・配置する。

試験答案が規定の格式に合わず、皇帝の御名や廟諱を犯したもの、また文理が誤りで支離滅裂なもの、塗りつぶしや訂正(乙)が五十字以上あるものは、採点対象としない。謄録所が受け取った試験答案は、全て朱筆で正文を書き写し、実際の塗りつぶし・訂正の字数を計算し、対読に誤りがないことを記した上で、朱書の答案を順次試験官の場所へ送る。もし朱書の答案に塗りつぶし・訂正がある場合も、同様に字数を記し、謄録官が署名・捺印する。採点が終わり、合格者・選抜者の人数が確定した後、答案の符号(字号)を書き写し、元の答案(墨卷)を請求し、監試官・知貢挙官・同試験官と共に対照して封を開き、開封する。

挙人の試験答案は、各自が三場分の答案用紙と下書き用紙をそれぞれ十二枚ずつ用意し、巻頭に三代の氏名・籍貫・年齢を記し、試験の半月前に印巻所へ提出する。帳簿に記録・受理し、印章で綴じ目に押印した後、それぞれ挙人に返還する。

試験当日は、日の出前に試験場に入り、日暮れに答案を提出する。受巻官が答案を弥封所へ送り、符号(字号)を作成して封をし、謄録所へ送る。

科挙が施行された後、もし各路からの歳貢や保挙された儒人などの文書が官に届いた場合は、全て郷里に戻って郷試を受験させる。

芸能人(倡優)の家系、および重い障害を患っている者、十悪や姦盗の罪を犯した者は、受験を許さない。

挙人は試験場内で騒ぎ立ててはならず、違反した者は処罰し、さらに二回の受験資格を停止する。

挙人と試験官に五服内の親族関係がある者は、自ら回避しなければならず、その場合は同試験官が答案を採点する。回避すべきであるのに自ら申告しない者は、一回の受験資格を停止する。

郷試・会試において、もしカンニング(懐挟)や他人に代筆させた者、漢人・南人で父母の喪に服している期間中に応挙した者は、いずれも二回の受験資格を停止する。

国子監学の歳貢生員および伴読の出身者は、従来の制度に従い、希望する者は受験を許可する。合格した者は、監学において得られるべき資格・官品の上で、優遇して任用する。

他の路に籍を附した蒙古・色目・漢人で、大都・上都に恒産があり、長年居住している者は、両都の官司が上記の例に従って推挙し、受験させる。その他の場所で籍を偽った者は、処罰する。

知貢挙以下の官吏が至公堂に集まり、実施すべき事項を協議・決定する。

弥封所で挙人の答案の封号や姓名を尋ねたり、漏洩した者は処罰する。試験問題が未発表のうちに漏洩した場合は、告発を許す。対読官が自ら対読せずに吏人に任せ、対読終了後に誤りがあり採点に支障をきたした場合は、罰する。謄録人が書写を慎重に行わず、誤りがあって採点に支障をきたした場合は、重く罰する。官司が故意に挙人に答案を私的に持ち出させたり、給仕人(祗応人)が知りながら伝達した場合は、告発を許す。監試官は試験院の事務を掌るが、採点には干渉してはならない。試験院の官吏で簾内にいる者は、簾外の官吏と話を交わしてはならない。関係者以外は理由なく試験の広間に入ってはならない。挙人が試験官を誹謗・中傷し、徒党を組んで騒ぎ、制止に従わない者は処罰する。挙人が受験の際、理由なく冠を着用せず、または勝手に座席を移動した者、たまたま親族・姻戚が隣席になったのに自ら申告しなかった者、カンニング・代筆・答案の受け渡しをした者は、全て退出させる。答案の巻頭にある家状(身分書)を破棄した者は、取り調べ処罰する。挙人が答案に余計な言葉を書いた者は、不合格とし、誹謗・中傷に及んだ者は取り調べ処罰する。試験当日、挙人のために文書を伝達し、それによって財物を受け取った者は、告発を許す。挙人が別の紙に下書きをした者は、掲示して不合格とする。答案の文中に、自身の苦労や家柄を述べてはならない。謄録所が点検して違反があれば、これ以上謄録せず、試験院に文書を送り掲示して不合格とする。他人の名を騙って受験し、別の姓名を立てた者、および財物を受け取って他人のカンニング・代筆・答案伝達をした者は、告発を許す。不合格となって不当に訴える者は処罰する。監門官は出入りを監察し、持ち込み可能な物品は封を開けて点検する。巡鋪官および兵卒は、騒ぎ立てたり、勝手に答案を見たり、挙人が理由なく往来するのを容認してはならず、公務以外では挙人と私語を交わしてはならない。答案の弥封に捺印が終わった後、三つの不成字(意味をなさない字)を符号として標記し、さらに塗りつぶし・訂正の箇所にも捺印する。

挙人一名につき、給仕・巡邏の兵卒一人を付ける。前夜に試験院に入り、席舎に分宿する。試験当日は、鐘の音を合図とする。第一の鐘で、院官以下全員が洗面・漱口する。第二の鐘で、監門官が鍵を開け、挙人が入院し、身体検査が終わると、すぐに解据(受験証明書)を提出する。礼生が「挙人再拝」と唱え、知貢挙官は簾越しに一拝を受け、跪いて一拝で答える。試験官は一拝を受け、一拝で答える。第三の鐘で、問題を頒布し、各自の席に着く。正午に食事が賜られる。答案を提出する際は、受巻所へ赴き、揖(拱手の礼)をして退き、話を交わしてはならない。受巻官が挙人の名前を記録帳に書き、挙人は揖をして退き、解据を受け取って試験院を出る。巡邏の兵卒も退出する。日暮れに鐘を一度鳴らし、試験院の門を閉ざす。第二場では、挙人が入院し、前と同じく身体検査を受け、十人ごとに一甲(組)とし、順に至公堂の下に立ち並び、揖を終えてから問題を頒布し、各自の席に着く。第三場も、前と同じ儀式による。

受卷官は受け取った試験答案をすべて揃え、順次に弥封官へ送付する。弥封官は家状草巻を腰封し印を押し、蒙古・色目・漢人・南人の巻を分け、三不成字を用いて番号を撰する。各受験者について累場同一の番号を用い、答案上に自ら書き、また簿内に標記し終えてから、謄録官へ牒送し、簿を置き、吏人に分給する。すべて朱書で正文を謄録し、なお原本の答案における塗抹訂正および謄録における塗抹訂正の字数を具え、巻末に謄録人の姓名を書き、謄録官は官職名を具えて署名し、印を押して縫目を封じ、対読所へ牒送する。翰林掾史は謄録済み試験答案の総数を具え、監察御史に呈報する。対読官は原本答案と朱書答案を自ら対読して誤りなく、官職名を具えて署名し、貢院へ呈解し、原本答案は弥封所へ返送する。各所の文書往来はすべて朱書を用い、試験答案は原本の番号に従って簿に附する。

試験官が答案を考査するにあたり、知貢挙は中央に座り、試験官は相対して向かい合って座り、公同で考校し、三等に分け、各等をさらに上中下に分け、墨筆で批点する。考校が定まった後、収掌試卷官が号簿内に分数を標記し、知貢挙官・同試官・監察御史・弥封官が公同で上記の原本答案を取り寄せ、番号を照合して開封し、知貢挙が試験答案の家状上に自ら省試第何名と書く。拆号が終わると、すべての試験答案を礼部架閣に付し、貢挙諸官は院を出る。中書省は中選挙人を二つの榜に分け、省門の左右に掲示する。

三月初四日、中書省が奏上して准可され、初七日に翰林国史院において挙人を御試することとし、監試官および諸執事を定めて委任する。初五日、各官が入院する。初六日、策問を撰して進呈し、上(皇帝)の採択を待つ。初七日、執事者が闕に向かって堂前に案を設け、その上に策題を置く。挙人が入院し、搜検が終わると、蒙古人は一甲をなし、順序を立てて立ち、礼生が導引して堂前に至らせ、闕に向かって両拝し、策題を賜り、また両拝し、それぞれ席に就く。色目人は一甲をなし、漢人・南人は一甲をなし、前の儀式と同様とする。各進士一人につき、蒙古の宿衛士一人を差し出して監視させる。日中の刻に、膳を賜る。進士が答案を納め終わると、院を出る。監試官が読巻官とともに、対した策によってその高下を第し、三甲に分けて進奏する。二つの榜を作り、勅黄紙に書き、内前の紅門の左右に掲示する。

前日、礼部が中選進士に告諭し、翌日に闕前に詣でるよう命じ、所司が香案を設け、侍儀舍人が唱名し、謝恩し、放榜する。日を選んで翰林国史院において恩栄宴を賜い、押宴は中書省官が行い、すべて予め試験に関与した官はともに宴に与る。予め宴に与る官および進士はともに花を簪き、居所に至る。日を選んで恭しく殿廷に詣で、謝恩表を上る。翌日、中書省に詣でて参見する。また日を選び、諸進士が先聖廟に詣でて釈菜の礼を行い、第一人が祝文を具えて行事し、石に刻んで国子監に題名する。

延祐二年春三月、廷試進士を行い、護都答児・張起巖ら五十六人に及第・出身を差等を以て賜う。五年春三月、廷試進士護都達児・霍希賢ら五十人。

至治元年春三月、廷試進士達普化・宋本ら六十四人。

泰定元年春三月、廷試進士捌剌・張益ら八十六人。四年春三月、廷試進士阿察赤・李黼ら八十六人。

天暦三年春三月、廷試進士篤列図・王文燁ら九十七人。

元統癸酉科、廷試進士同同・李斉ら、さらに名額を増やして百人の数に及ぼす。ややその制を異にし、左右榜各三人、皆進士及第を賜い、余は出身を差等を以て賜う。科挙によって士を取ることは、これより盛んなるはなし。後三年、その制は遂に廃される。また七年にして復興し、遂に程式をやや変え、蒙古・色目人の明経二条を減じ、本経義を増やし、漢人・南人の第一場四書疑一道を本経疑に改め、第二場に古賦の外、詔誥・章表内にまた一道を科す。これが元の科目によって士を取る制度の大略である。

会試に下第した者については、延祐年間に創設された当初、丞相怗木迭児・阿散および平章李孟らが奏上して言う、「下第挙人で、年七十以上の者には従七品の流官として致仕させ、六十以上の者には教授を与え、元来出身のある者には応得の資品の上にやや優しく加え、出身のない者には山長・学正を与える。省札を受け、後の挙には例としない。今、来るのが遅くて試験に及ばなかった者は、まだ区別して用いていない。旨を取るべし」と。帝は言う、「下第の例に依って恩恵を与えよ、格として定めるな」と。

泰定元年三月、中書省臣が奏上する、「下第挙人は、仁宗延祐年間に、中書省に命じて各々教官の職を授け、その帰郷を慰めた。今は改元の初めであるから、恩沢は広く行き渡るべきである。蒙古・色目人で、年三十以上でかつ二度挙げられて及第しなかった者は教授を与え、それ以下は学正・山長を与える。漢人・南人で、年五十以上でかつ二度挙げられて及第しなかった者は教授を与え、それ以下は学正・山長を与える。先に資品出身のある者は、さらに優しく加える。仕官を望まない者は、国子員に備えさせる。後には格とすべからず」と。これに従う。その余の下第の士は、恩例を常に得ることはできず、間に書吏を試補して仕籍に登る者がある。ただ既に廃されて復興した後、その法は初めて変わり、下第者はすべて路府学正および書院山長を授けられる。また郷試備榜を増やして取ることも、郡学録および県教諭を授ける。ここにおいて科挙によって士を取ることは、人を得ることが盛んとなる。

学校

世祖至元八年春正月、初めて詔を下して京師蒙古国子学を立て、諸生を教習し、随朝の蒙古・漢人百官および怯薛歹官員の中から、子弟の俊秀なる者を選んで入学させるが、まだ員数は定めない。『通鑑節要』を蒙古語に訳して書き教え、生員の習学が成效を挙げたのを待ち、題を出して試問し、その対する所が精通している者を見て、量って官職を授ける。成宗大徳十年春二月、生員の廩饍を増やし、前の三十員を通じて六十員とする。武宗至大二年、伴読員四十人を定め、在籍の上名生員で学問優長なる者を以て補う。仁宗延祐二年冬十月、設けた生員百人(蒙古五十人、色目二十人、漢人三十人)であるが、百官子弟で就学する者は常に二三百人を下らず、その廩餼を増やすべきであるとして、庶民子弟一百十四員を減じ、陪堂で学業することを許し、現に供給する生員一百名の外、量って五十名を増やす。元来置いた蒙古二十人、漢人三十人、その生員の紙札筆墨は三十人分のみ給し、歳凡そ二回これを給する。

至元六年(1269年)秋七月、諸路に蒙古字学を設置す。十二月、中書省が学制を定めてこれを頒行し、諸路府の官の子弟を入学せしむ。上路は二人、下路は二人、府は一人、州は一人。その余は民間の子弟、上路は三十人、下路は二十五人。生徒たらんと志す者は、一身の雑役を免ず。『通鑑節要』を訳写して諸路に頒行し、これに習熟せしむ。成宗大徳五年(1301年)冬十月、また生員を定む。散府は二十人、上州・中州は十五人、下州は十人。元貞元年(1295年)、有司に命じて地を割き、諸路蒙古学生員に餼廩を給す。その学官は、至元十九年(1282年)に、路・府・州に教授を設置することを定擬し、国字(モンゴル文字)は諸字の右に在るを以て、府州教授一任は従八品に准じ、再び路教授一任を歴れば正八品に准じ、任を終えて本等に回り遷転す。大徳四年(1300年)、学正一員を添設す。上は国学より下は州県に至るまで、生員の高等なる者を挙げ、翰林に従って試験し、凡そ学官・訳史はこれを取って充てしむ。

世祖至元二十六年(1289年)夏五月、尚書省の臣言う、「亦思替非文字は用に施すべし。今、翰林院の益福的哈魯丁能くその字学を通ず。乞う、学士の職を授け、凡そ公卿大夫及び富民の子、皆漢人の入学の制に依り、日に習熟せしむべし」と。帝その奏を可とす。この歳八月、始めて回回国子学を置く。仁宗延祐元年(1314年)四月、復た回回国子監を置き、監官を設け、その文字は関防・取会の数目に便なるを以て、旧制に依り、篤く意を用いて教えを領せしむ。泰定二年(1325年)春閏正月、近年公卿大夫の子弟及び凡民の子の入学する者衆し。その学官及び生員五十余人、既に飲膳を給する者二十七人の外、助教一人・生員二十四人の廩饍を、並びに給することを令す。学の建置は国都に在り、凡そ百司庶府の設くる訳史は、皆本学より取って充てしむ。

太宗六年癸巳(1233年)、馮志常を以て国子学総教と為し、侍臣の子弟十八人を入学せしむ。世祖至元七年(1270年)、侍臣の子弟十一人を入学せしめ、長者四人をして許衡に従わしめ、童子七人をして王恂に従わしむ。至元二十四年(1287年)、国子学を立ててその制を定む。博士を設け、学事を通掌し、三斎の生員を分教し、経旨を講授し、音訓を是正し、上は教導の術を厳にし、下は肄習の業を考う。また助教を設け、学事を同掌し、而して専ら一斎を守る。正・録は規矩を申明し、課業の習熟を督む。凡そ読書は必ず先ず『孝経』・『小学』・『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』、次いで『詩』・『書』・『礼記』・『周礼』・『春秋』・『易』に及ぶ。博士・助教は親しく句読・音訓を授け、正・録・伴読は次第にこれを伝習す。講説は則ち読む所の序に依り、正・録・伴読も亦た次第にこれを伝習す。翌日、籤を抽き、諸生をしてその功課を復説せしむ。対属・詩章・経解・史評は、則ち博士が出題し、生員が草稿を作り、先ず助教に呈し、博士の定むるを俟ちて、始めて課簿に録して附し、以て考校の憑とす。その生員の数は二百人と定め、先ず百人及び伴読二十人を入学せしむ。その百人の内、蒙古人その半、色目人・漢人その半。許衡はまた諸生の入学雑儀及び日用の節目を著す。七年(1270年)、生員八十人を入学せしめ、永く定式と為してこれに遵行せしむ。

成宗大徳八年(1304年)冬十二月、始めて国子生の貢挙を定む。蒙古・色目・漢人、三歳毎に各一人を貢す。十年(1306年)冬閏十月、国子学は蒙古・色目・漢人の生員二百人を定め、三年毎に各二人を貢す。

武宗至大四年(1311年)秋閏七月、生員の定員三百人を定む。冬十二月、復た国子学の試貢法を立て、蒙古人は官六品を授け、色目人は正七品、漢人は従七品を授く。蒙古生を試むるの法は宜しく寛に従うべく、色目生は宜しく稍々密にし、漢人生は則ち科場の制を全うすべし。

仁宗延祐二年(1315年)秋八月、生員百人を増置し、陪堂生二十人を置く。集賢学士趙孟頫・礼部尚書元明善等の議する所の国子学貢試の法を用いてこれを更定す。一に曰く、斎を昇る等第。六斎は東西相い向かい、下の両斎、左を游藝と曰い、右を依仁と曰う。凡そ書を誦し説を講じ、小学・属対する者はこれに隷す。中の両斎、左を據徳と曰い、右を志道と曰う。四書を講説し、詩律を課肄する者はこれに隷す。上の両斎、左を時習と曰い、右を日新と曰う。易・書・詩・春秋の科を講説し、明経義等の程文を習う者はこれに隷す。各斎の員数は等しからず、毎季その習う所の経書課業及び規矩に違わざる者を考え、次第に遞昇す。二に曰く、私試の規矩。漢人は日新・時習の両斎を験し、蒙古・色目は志道・據徳の両斎を取る。本学は実に坐斋二周歳以上を歴て、未だ過ちを犯さざる者を挙げ、試みに充つるを許し令す。実に坐斋三周歳以上を歴るを限り、以て貢挙に充つ。漢人の私試は、孟月に経疑一道を試み、仲月に経義一道を試み、季月に策問・表章・詔誥科一道を試む。蒙古・色目人は、孟・仲月各々明経一道を試み、季月に策問一道を試む。辞理ともに優れる者を上等と為し、一分に准ず。理優れて辞平なる者を中等と為し、半分に准ず。毎歳終わりに、その年の積分を通計し、八分以上に至る者は高等生員に昇充し、四十名を額とし、内蒙古・色目各十名、漢人二十名。歳終わりに試貢し、員は必ずしも備えず、唯だ実才を取る。分同じくして闕少なる者有らば、坐斋の月日の先後多少を以て定む。その等に及ばず、並びに等に及びながらも闕無く未だ補われざる者は、その年の積分は並びに用いず、下年再び積算を行ふ。毎月二日の早朝、円揖の後、本学の博士・助教公座し、面して応試生員を引き、各々印紙を与え、式に依り題を出して試験し、懐挟・代筆を許さず。各々印紙を用い、真楷に書写す。本学の正・録が弥封・謄録し、余は並びに科挙の式に依る。助教・博士が次第に考定す。翌日、監官が覆考し、名簿内に各々得分数を籍記し、本学これを収掌し、以て歳終わりの通考を俟つ。三に曰く、黜罰の科条。私試積分の生員に応じ、その課業に事とせず及び一切規矩に違戾する者有らば、初犯は一分を罰し、再犯は二分を罰し、三犯は名を除く。学正・録に従って糾挙せしめ、正・録知見して糾挙せざる者は、本監に従ってこれを議罰す。既に高等生員に補せられたるに応じ、その規矩に違戾する者有らば、初犯は試みを一年殿し、再犯は名を除く。学正・録に従ってこれを糾挙せしめ、正・録知見して糾挙せざる者は、亦た本監に従ってこれを議罰す。在学生員に応じ、歳終わりに実に坐斋半歳に満たざる者は、並びに行って名を除く。月假の外、その余の告假は、並びに算を準ぜず。学正・録は歳終わりに通行して在学生員を考校し、蒙古・色目は別に議するを除く外、その余の漢人生員三年にして一経を通ぜず及び肯て勤学せざる者は、勒令して学を出さしむ。その余の責罰は、並びに旧規に依る。

泰定三年夏六月、積分法を改めて貢挙とし、すべて世祖の旧制に依る。その貢試の法は、監学の擬定に従い、おおよそ前法と略同であるが、防閑はやや厳密に加えられた。本学の正・録各二員、司楽一員、典籍二員、管勾一員、及び侍儀舎人は、旧例では積分生員を挙げてこれに充てたが、後に積分法が既に廃止されたので、上斎において年齢三十以上で学行が後学の模範となるに堪える者を正・録に挙げ、音律に通暁し学業が優れて豊かな者を司楽に、幹局が通敏な者を典籍・管勾に挙げた。侍儀舎人は、上斎・中斎において、礼儀に習熟し、声が洪亮で流暢で、かつ春秋の釈奠を掌り、毎月の告朔明賛を務め、衆人がその才能を認める者を挙げてこれに充てた。文宗天暦二年春三月、伴読の員数について、初めは二十人で毎年二人を貢したが、後に大徳七年に四十人で毎年六人を貢することと定め、至大四年に四十人で毎年四人を貢することと定め、延祐二年に毎年八人を貢するのは停滞しているとして、既に定員は四十名であるから、部令史に充てる者四人、路教授に充てる者四人とするのが適当であるとした。この後、また命じて貢した生員を、大比(科挙)のたびに選士し、天下の士とともに礼部で試験を受け、殿廷で策試を受けさせ、さらに備榜を増やして選抜を加えた。

国初、燕京が平定されたばかりの時、宣撫王楫が金の枢密院を宣聖廟とするよう請うた。太宗六年、国子総教及び提挙官を設け、貴臣の子弟を命じて入学させ学業を受けさせた。憲宗四年、世祖が潜邸にあって、特に命じて殿廷を修理させた。即位すると、玉の爵を賜い、永久に祭器とさせた。至元十三年、提挙学校官に六品の印を授け、遂に大都路学と改め、提挙学校所と称した。二十四年、都を北城に遷した後、国城の東に国子学を立てたので、南城の国子学を大都路学とし、提挙以下、官を設けるに差等があった。仁宗延祐四年、大興府尹馬思忽が殿門堂廡を重修し、東西両斎を建てた。泰定三年、府尹曹偉が環廊を増築した。文宗天暦二年、さらにこれを増広し、提挙郝義恭がまた斎舎を増築した。府尹郝朶而別から曹偉に至るまで、初めて生員を百人と定め、各名の月給の食糧は、京畿漕運司及び本路がこれを給した。泰定四年夏四月、諸生が初めて学において会食した。

太宗は中原を平定すると、すぐに学を建て、科を設けて士を取ることを議した。世祖中統二年、初めて諸路学校官を置くことを命じ、すべて諸生で進修する者は厳しく訓誨を加え、必ず成材させて選用に備えさせた。至元十九年夏四月、雲南諸路に皆学を建てて先聖を祀ることを命じた。二十三年二月、帝が徳興府行宮に御し、詔して江南の学校で旧来学田のあるものは、再びこれを給して士を養うとした。二十八年、江南諸路の学及び各県学内に小学を設立し、老成の士を選んでこれを教えさせ、あるいは自ら師を招き、あるいは父兄から家学を受ける者も、その便に従うことを許した。その他の先儒が教化を施した地、名賢が経行した所、及び好事の家で銭粟を出して学者を養う者は、ともに書院として立てた。すべて師儒で朝廷より命を受ける者は教授といい、路・府・上中州にこれを置いた。礼部及び行省・宣慰司より命を受ける者は、学正・山長・学録・教諭といい、路・州・県及び書院にこれを置いた。路には教授・学正・学録各一員を設け、散府・上中州には教授一員を設け、下州には学正一員を設け、県には教諭一員を設け、書院には山長一員を設けた。中原の州県の学正・山長・学録・教諭は、ともに礼部より付身を受けた。各省所属の州県の学正・山長・学録・教諭は、ともに行省及び宣慰司より劄付を受けた。すべて路・府・州の書院には、直学を設けて銭穀を掌らせ、郡守及び憲府の官が試験して補任した。直学が考満すると、またその業とする十篇を試験し、学録・教諭に昇進した。すべて正・長・学録・教諭は、あるいは集賢院及び台憲等の官が挙げてこれに充てた。教諭・学録が二考を経ると、正・長に昇進した。正・長が一考を経ると、散府・上中州の教授に昇進した。上中州の教授がまた一考を経ると、路の教授に昇進した。教授の上に、各省に提挙二員を設け、正提挙は従五品、副提挙は従七品とし、提挙はすべて学校の事を管轄した。後に直学の考満を州吏と改め、例として下第の挙人を正・長に充て、備榜の挙人を教諭・学録に充て、推薦のある者もまた参酌して用いた。京学及び州県学から書院に至るまで、すべてそこで学業に励む生徒は、守令がこれを挙薦し、台憲がこれを考覈し、あるいは教官として用い、あるいは吏属として取り立て、しばしば人材が輩出した。

世祖中統二年夏五月、太医院使王猷が言うには、「医学は久しく廃れており、後進は師授するところがない。ひそかに恐れるのは、朝廷が一時的に人を取るに当たり、学んだことがその伝えでないと、害が甚だ大きい。」そこで副使王安仁に金牌を授けて遣わし、諸路に医学を設立させた。その生員は、本人の検医差占等の役を免除することとし、その学が成就するのを待ち、毎月疑難を以て試験し、その答える優劣を視て、量を加えて勧懲した。後にまた医学の制を定め、諸路提挙を設けてこれを統轄した。すべて宮壼で必要なもの、省台で用いるもの、常調に転入し、親民官に任じられる者は、太医院から自ら遷転する者はこの例を見ることを得ず、また仕途を雑進させてはならないことを示した。しかし太医院の官は既に宣命を受け、皆文武の正官五品以上と同様に遷敍し、その余は旧品職を以て順次昇進し、子孫の廕用は正班の敍と同じとした。その掌薬は、都監直長に充て、御薬院副使に充て、大使に昇進し、考満すると旧例に依って流官に銓注した。諸教授は皆太医院が定擬し、各路の主善も教授と同様に擬して皆従九品とした。すべて随朝の太醫、及び医官の子弟、並びに路府州県の学官は、皆試験を必要とした。各所の名医の述べた医経文字は、悉く考校に従った。諸薬の産する所、性味の真偽は、悉く辨験に従った。随路の学校は、毎年十三科の疑難題目を出題し、詳細に太医院に呈し、諸路の医学に発下し、生員に式に依って医義を習課させ、年末に簿を置いて解納し本司に送り、その優劣を定めた。

世祖至元二十八年夏六月、初めて諸路に陰陽学を置いた。腹裏・江南において、もし陰陽に通暁する人があれば、各路官司が詳しく取勘し、儒学・医学の例に依り、各路に教授を設けてこれを訓誨した。術数に精通する者がいれば、毎年省府に録呈し、都に赴いて試験を受けさせ、果たして異能があれば、司天臺内で近侍を許した。延祐初年、陰陽人に儒・医の例に依らせ、路府州に教授一員を設け、すべて陰陽人を管轄させ、上は太史に属させた。

遺逸を挙げて隠跡の士を求め、茂異を擢て非常の人を待つ。世祖中統年間、許衡を徴し、懐孟路教官を授け、詔して懐孟等の処に子弟の俊秀なる者を選びて之を教育せしむ。是の年、又詔して金の進士李冶を徴し、翰林学士を授く。劉因を徴して集賢学士と為すも、至らず。又平章咸寧王野仙の薦を用い、蕭𣂏を徴すも起たず、即ち陝西儒学提挙を授く。至元十八年、詔して前代聖賢の後、儒医卜筮、天文暦数に通暁し、并せて山林隠逸の士を求む。二十年、復た劉因を召して右賛善大夫に拝すも、辞し、允さず。未だ幾ばくもせず親老を以て、乞うて終養し、俸給一も受けず。後に使いを遣わして命を家に授くも、疾を辞して起たず。二十八年、復た詔して隠晦の士を求め、有司をして具に名を以て聞かしむ。成宗大徳六年、臨川の布衣呉澄を徴し、応奉翰林文字を擢て、命を拝して即ち帰る。九年、詔して山林間に德行文学有り、治道を識る者を求め、使いを遣わして蕭𣂏を徴し、且つ曰く「或いは仕を楽しまざるも、試みに一来り、朕と語りて帰らしむべし」と。至大三年、復た呉澄を召し、国子司業に拝すも、病を以て還る。延祐三年、召して集賢直学士に拝すも、疾を以て赴かず。至治三年、召して翰林学士に拝す。武宗・仁宗累次蕭𣂏を徴し、集賢学士・国子司業を授くも、未だ赴かず、集賢侍講学士に改む。又太子右諭徳を以て徴す、始めて京師に至り、集賢学士・国子祭酒を授け、諭徳は旧の如し。仁宗延祐七年十一月、詔して曰く「比歳科挙を設立し、以て人材を取るも、尚慮うらくは高尚の士、丘園に跡を晦まし、従う可き無きを。各処其れ隠居行義有り、才徳高邁、治道に深く明らかにし、聞達を求めざる者有らば、所在の官司姓名を具し、牒を以て本道廉訪司に報じ、覆奏察聞し、以て録用に備えよ」と。又屡詔して下に言を求め、上に言を進むるを得しめ、時政を指斥するも、並びに譴責無く、往々其の言を采択し、其の人を任用し、諸の庶位に列し、以て治功を図る。其他著書立言し、教化に裨益し、後人を啓迪する者も、亦斟酌して録用し、常式と為すと著す。

童子挙は、唐・宋に始めて科に著わるも、然れども亦常員無し。成宗大徳三年、童子楊山童・海童を挙ぐ。五年、大都提挙学校所安西路の張秦山を挙げ、江浙行省張昇甫を挙ぐ。武宗至大元年、武福安を挙ぐ。仁宗延祐三年、江浙行省俞傅孫・馮怗哥を挙ぐ。六年、河南路張答罕を挙げ、学士完者不花丁頑頑を挙ぐ。七年、河間県杜山童を挙げ、大興県陳聃を挙ぐ。英宗至治元年、福州路連江県陳元麟を挙ぐ。至治三年、河南行省張英を挙ぐ。泰定四年、福州葉留畊を挙ぐ。文宗天暦二年、杜夙霊を挙ぐ。至順二年、制挙して答不歹の子買来を挙ぐ。皆其の天資穎悟、児輩を超出し、或いは能く経文を黙誦し、大字を書写し、或いは能く辞章を綴緝し、経史を講説するを以て、並びに令して国子学に入れ之を教育せしむ。惟だ張秦山は尤も篆籕に精しく、陳元麟は性理に通じ、葉留畊に四書の大義を問うと、則ち対えて曰く「父母に事えて能く其の力を竭くし、君に事えて能く其の身を致すに過ぎず」と。時に人以て遠大を之に期す。