至正親祀南郊
前段の八月初七日、太常礼儀院より礼部に関を移し、都省に具呈し、翰林・集賢・礼部等の官を会集し、典礼を講究す。九月内、承奉班都知孫玉鉉、親祀南郊の儀注を具録して云う: 致斎の日は刑殺の文書の奏を停め、享に応ずる執事官員は中書省において誓に涖す。享の前一日質明、所司は法駕儀仗を備え、かつ侍享官をして左右に分かれて崇天門外に敍立せしめ、太僕卿は御馬を控えて大明門外に立ち、侍儀官・導駕官は各公服を具し、擎執を備え、致斎殿前に立つ。通事舍人二員、門下侍郎・侍中を引いて殿に入り相向いて立つ。侍中跪奏して皇帝の中厳を請い、拝して興き、退出す。少頃、侍中を引いて跪奏して外辦を奏し、拝して興く。皇帝、致斎殿を出づ。侍中跪奏して皇帝の輿に升るを請い、侍儀官・導駕官は擎執を引擎して前導し、輦路を巡りて大明殿酉陛下に至る。侍中跪奏して皇帝の輿を降り殿に升るを請い、拝して興く。皇帝、殿に入り、即座に御す。舍人、執事等の官を引いて、殿午陛下に敍し、相向いて立たしむ。通班舍人、起居を賛し、〔班〕を引いて鞠躬平身を賛す。舍人、門下侍郎・侍中を引いて殿に入り御座前に至らしめ、門下侍郎・侍中は相向いて立つ。侍中跪奏して皇帝の殿を降り輿に升るを請い、拝して興く。侍儀官前導し、大明殿門外に至り、侍中跪奏して皇帝の輿に升るを請い、拝して興く。大明門外に至り、侍中跪奏して皇帝の輿を降り馬に乗るを請い、門下侍郎跪奏して車駕の進発を請い、拝して興き、動くに警蹕と称す。崇天門外に至り、門下侍郎跪奏して車駕の少駐を請い、衆官に上馬を勅し、拝して興く。侍中、旨を承け、退きて曰く「制可」と称し、門下侍郎退きて制を伝え、衆官に上馬を勅し、賛者承伝し、衆官に櫺星門外において上馬を勅す。少頃、門下侍郎跪奏して車駕の進発を請い、拝して興き、動くに警蹕と称す。華蓋繖扇儀仗百官左右前導し、教坊楽鼓吹は作さず。郊壇南櫺星門外に至り、門下侍郎跪奏して皇帝の権停を請い、衆官に下馬を勅す。侍中、制を伝え、衆官に下馬を勅し、卑より尊に及び儀仗は倒捲して〔北〕に至り、左右に駐立す。駕、内櫺星門に至り、侍中跪奏して皇帝の馬を降り、歩みて櫺星門に入るを請い、右偏門より入る。稍く西に、侍中跪奏して皇帝の輿に升るを請い、拝して興く。侍儀官および導駕官は擎執を引擎して前導し、大次殿門前に至り、侍中跪奏して皇帝の輿を降り、大次殿に入り就くを請い、拝して興く。皇帝、大次に入り就き、簾降り、宿衞は式の如し。侍中入り跪奏し、衆官に各斎次に退くを勅し、拝して興く。通事舍人、旨を承け、衆官に各斎次に還るを勅す。尚食、膳を進め訖り、礼儀使、祝冊を以て奏御署し訖り、奉じて出で、郊祀令これを受けて坫に奠む。
その享日の丑時二刻、侍儀官は擎執を備え、導駕官と同しく大次殿前に列す。通事舍人、侍中・門下侍郎を引いて大次殿に入る。侍中跪奏して皇帝の中厳を請い、衮冕を服するを請い、拝して興き、退く。少頃、舍人再拝して侍中を引いて跪版して外辦を奏し、拝して興き、退出す。礼儀使入り跪奏して皇帝の行礼を請い、拝して興く。簾捲きて大次を出づ。侍儀官は擎執を備え、導駕官と同しく前導す。皇帝、西壝門に至る。侍儀官・導駕官の擎執は壝門外に止まり、近侍官・代礼官は皆後より従い入る。殿中監跪いて大圭を進め、礼儀使跪いて皇帝の大圭を執るを請う。皇帝入りて行礼し、礼節は一に旧制の如し。行礼畢り、侍儀官は擎執を備え、導駕官と同しく前導し、皇帝還りて大次に至る。通事舍人、侍中を引いて入り跪奏し、皇帝の解厳を請い、衮冕を釈するを請う。五刻頃を停め、尚食は儀の如く膳を進む。所司は法駕儀仗を備え、侍享等の官と同しく左右に分かれて、郊南櫺星門外に敍立し、北を以て上とす。舍人、侍中を引いて入り跪奏し、皇帝の中厳を請い、拝して興き、退く。少頃、再び侍中を引いて跪版して外辦を奏し、拝して興く。皇帝、大次を出づ。侍中跪奏して皇帝の輿に升るを請い、侍儀官は擎執を備え、導駕官と同しく前導し、櫺星門外に至り、太僕卿、御馬を進め、侍中跪奏して皇帝の輿を降り馬に乗るを請い、拝して興く。門下侍郎跪奏して車駕の進発を請い、拝して興き、動くに警蹕と称す。櫺星門外に至り、門下侍郎跪いて皇帝の少駐を請い、衆官に上馬を勅し、拝して興く。侍中、旨を承け退きて曰く「制可」と称し、門下侍郎、制を伝え、衆官に上馬を勅し、賛者承伝し、衆官に上馬を勅す。少頃、門下侍郎跪奏して車駕の進発を請い、拝して興く。侍儀官は擎執を備え、導駕官と同しく前導し、動くに警蹕と称し、華蓋儀仗繖扇衆官左右前導し、教坊楽鼓吹は皆作す。麗正門裏石橋の北に至り、門下侍郎を引いて下馬し、跪奏して皇帝の権停を請い、衆官に下馬を勅し、賛者承伝し、衆官に下馬を勅し、舍人、衆官を引いて左右に分かれて、先ず紅門内に入り、倒捲して北に駐立す。甲馬軍士を引いて麗正門内石橋の大北に駐立せしめ、次第に倒捲して櫺星門外に至り、左右相向いて立たしむ。仗は櫺星門内に立ち、倒捲も亦た之の如し。門下侍郎跪奏して車駕の進発を請う。侍儀官は擎執を備え、導駕官は導きて崇天門より入り、大明門外に至る。侍中を引いて跪奏して皇帝の馬を降り輿に升るを請い、拝して興く。大明殿に至り、衆官を引いて相向いて殿陛下に立たしむ。皇帝の殿に入り座に升るを俟ち、侍中跪奏して皇帝の解厳を請い、衆官に皆退くを勅し、通事舍人、旨を承けて衆官に皆退くを勅す。郊祀の礼成る。
至正親祀太廟
至元六年六月、監察御史が上奏した。「かねて五行伝に聞くところによれば、宗廟を簡略にし祭祀を廃すれば、水は潤下せずと。近年雨の降る時期が遅れ、四方多く旱魃に遭い、しかも毎年祀事を減じ、成憲を変更している。その原因を推せば、恐らくは感応を招いているのであろう。謹んで思うに、国家は四海安寧、百有余年、歴代の聖帝が相継ぎ、典礼は整い、孝をもって天下を治めないことはない。古より宗廟の四時の祭祀は、皆天子自らがこれを享け、敢えて有司に摂行させたことはない。およそ天子の職務は、礼より大なるはなく、礼は孝より大なるはなく、孝は祭より大なるはない。世祖皇帝は新都城を定めて、まず太廟を建立された。これは本を知る者と言えよう。春秋の法によれば、国君が即位し、翌年に改元すれば、必ず告廟の礼を行う。伏して見るに、陛下が即位されてより、今に至るまで七年、未だ一度も自ら太廟に詣でたことがない。これは欠けた典礼のようである。今まさに政化を新たにし、旧制を共に遵ぶにあたり、告廟の典礼は、理に照らして親しく享けるべきである」。時に帝は上都におり、台臣がこれを奏聞した。旨を奉じて曰く、「大都に到着したならば、自ら祭祀を行おう」と。
九月二十七日、中書省が奏上して、十月四日に皇帝が親しく太廟を祀ることを以てし、詔して「可」と曰う。事前に告示して、太師・右丞相マジャルタイ(馬扎兒台)を亞獻官とし、枢密知院アルト(阿魯禿)を終獻官とし、知院ポピ(潑皮)・翰林承旨ラオジャン(老章)を助奠官とし、大司農アイヤチ(愛牙赤)を七祀獻官とし、侍中二人、門下侍郎二人、大禮使一人、劈正斧を執る者一人、禮儀使四人、その他は各々故事の如くとした。
有司が儀注を具えて云う。享の前一日、夜明けに、所司が法駕を崇天門外に備え、侍儀官が擎執を導き、同導駕官が公服を具え、致齋殿前の左右に分かれて班をなして侍立する。承奉舍人が門下侍郎・侍中を導いて殿門に入り、門下侍郎は相向かって立ち、侍中が跪いて奏上する、「臣某等の官、皇帝に中厳を請う」と。拝して興き、退出する。しばらくして、侍中を引いて版奏し外辦を奏し、拝して興き、退く。皇帝が齋室を出ると、侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿に昇られることを請う」と。輦路を巡り、正門より大明殿酉階下に至る。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿を降り殿に昇られることを請う」と。拝して興き、皇帝を導いて御座に即かしめる。執事官が午階下で起居を終え、舍人が侍中・門下侍郎を導いて殿に入り、御榻前に至る。門下侍郎は相向かって立つ。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に殿を降り輿に昇られることを請う」と。拝して興き、大明殿外に導く。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿に昇られることを請う」と。拝して興く。大明門外に至ると、太僕卿が御馬を進める。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿を降り馬に乗られることを請う」と。乗馬し終えると、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。拝して興き、進発する時に警蹕を称す。崇天門外に至ると、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕を少しく駐め、衆官に上馬を命じることを請う」と。拝して興く。侍中が旨を承けて退き、「制可」と称す。贊者が承伝し、衆官に上馬を命ずる。しばらくして、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。拝して興き、進発する時に警蹕を称す。太廟外の紅門内に導くと、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕を権(仮)に停め、衆官に下馬を命じることを請う」と。拝して興く。贊者が承伝し、衆官に下馬を命ずる。門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。石橋の南に至ると、侍中が跪いて奏上する、「皇帝に下馬し、歩いて神門に入られることを請う」と。拝して興く。皇帝が下馬し、侍儀官が同導駕官と共に前導し、皇帝が神門を歩いて入りやや西に進むと、侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿に昇られることを請う」と。拝して興く。大次殿門前に至ると、侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿を降り、大次に入られることを請う」と。拝して興く。簾を降ろし、宿衛は定式の如く。侍中が入り跪いて奏上し、衆官に各々齋次に還るよう命ずる。旨を承けた贊者が承伝し、衆官に各々齋次に還るよう命ずる。行礼の時、丑時二刻頃に至るのを待ち、侍儀官が擎執を備え、同導駕官と共に大次殿門前に立ち、舍人が侍中・門下侍郎を導いて大次座前に入る。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に中厳を請い、袞冕を着されることを請う」と。拝して興き、退く。しばらくして、再び侍中を引いて跪いて外辦を奏し、拝して興き、退く。禮儀使が跪いて奏上する、「皇帝に行礼されることを請う」と。侍儀官が同導駕官と共に皇帝を導き西神門に至り、擎執侍儀官と同導駕官は止まる。行礼が終わると、皇帝は西神門より出で、侍儀官が擎執を備え、同導駕官と共に皇帝を導き大次に還る。舍人が侍中を導き入り跪いて奏上し、皇帝に解厳し袞冕を脱がれることを請う。尚食が定式の如く膳を進め終えると、侍中が跪いて版奏し外辦を奏し、拝して興き、退く。皇帝を導き大次を出ると、侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿に昇られることを請う」と。拝して興く。侍儀官が同導駕官と共に前導し、神門外に至ると、太僕卿が御馬を進める。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に輿を降り馬に乗られることを請う」と。拝して興く。乗馬し終えると、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。拝して興き、退く。進発する時に警蹕を称す。櫺星門外に至ると、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕を少しく駐め、衆官に上馬を命じることを請う」と。拝して興く。侍中が旨を承けて退き、「制可」と称す。贊者が承伝し、衆官に上馬を命ずる。しばらくして、門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。拝して興き、進発する時に警蹕を称し、教坊の楽が振作する。麗正門裏の石橋の北に至ると、門下侍郎を引いて跪いて奏上する、「車駕を権(仮)に停め、衆官に下馬を命じることを請う」と。拝して興く。贊者が承伝し、衆官に下馬を命ずる。門下侍郎が跪いて奏上する、「車駕の進発を請う」と。侍儀官が擎執を導き、同導駕官と共に前導し、執事官が後に従い、皇帝は紅門裏の輦路より大明門外に至る。侍中が跪いて奏上する、「皇帝に馬を降り輿に乗られることを請う」と。拝して興く。侍儀官が擎執を導き、同導駕官と共に大明殿に導き、諸執事は殿下で相向かって立つ。皇帝が殿に入り御座に昇るのを待ち、侍中が跪いて奏上し、衆官に皆退くよう命ずる。贊者が承伝し、衆官に皆退くよう命ずる。
三皇廟祭祀の礼楽
至正九年、御史台が江西湖東道粛政廉訪使文殊訥(ブンシュヌ)の言上したところを具えて中書に呈した。その言うところは、「三皇は天を開き極を立て、その功は万世に及ぶ。京師では毎年春秋の祀事を行い、太醫官に命じて主祭させるが、礼を量るに相応しくない。国子学・宣聖廟の春秋釈奠の如く、上より中書省臣を遣わして代祀させ、一切の儀礼はその制に倣うことを請う」と。中書が礼部に付して礼官を集めて議させた。この年十月二十四日、平章政事タイブカ(太不花)・ディンジュ(定住)等が奏聞し、詔して「可」と曰う。ここにおいて太常に命じて儀式を定めさせ、工部に命じて祭器を鋳型作りさせ、江浙行省に命じて雅楽器を製作させた。後に太常博士に命じて楽曲の名を定めさせ、翰林国史院に命じて楽章十六曲を撰述させた。翌年、祭器・楽器がともに備わり、医籍百四十八戸を以て廟戸礼楽生に充てた。御薬院大使盧亨は平素より音律に習熟しており、命を受けて楽工四十二人を教え、各々その技を執らしめ、季秋九月九日に事を蔵めた。宣徽が礼饌を供し、光禄勲が内醞を供し、太府が金帛を供し、広源庫が薌炬を供し、大興府尹が犠牲・制幣・粢盛・殽核を供した。中書が奏擬して三献官を順次定め、諸執事は皆清望ある者を以て充てた。前日、内より御香が降り、三献官以下が公服を着て大楽儀仗を備え香を迎え、開天殿に至り安置する。退いて明日の祭儀を習い、習い終えて廟に就き斎宿する。京朝の文武百司と祭官もこれに同じくし、各々礼を以て助祭する。翰林の詞臣が祝文を具え、「皇帝敬って某官某を遣わして祭る」と曰う。
楽章(前巻の祀社稷楽章は、皆礼楽類の中にあり、今ここに附す)。
降神の儀、咸成の曲を奏す:
黄鐘宮、三成
ああ、偉大なる三聖、神妙なる化育は方所なし。天を継ぎ極を立て、憲章を百王に垂れる。ここに明祀を崇め、旧章に従う。霊よ来り下れ、輝かしき光あれ。
降神の儀、賓成の曲を奏す:
大呂角、二成
帝の徳は人に在り、日用にして知らず。神の天に在る、いわんや測り知るべけんや。辰良く日吉く、事を蔵するに儀あり。至誠をもって感じ、右に享するを尚ぶ。
降神の儀、顧成の曲を奏す:
太簇徴、二成
大道の行わるるは、古の先より肇る。功烈の加わる所、何ぞ千万年ぞ。これを尊びこれを奉じ、執事虔かにす。神や沛たり、泠風さつ然たり。
降神の儀、臨成の曲を奏す:
応鐘羽、二成
雅奏成りを告げ、神ここに降格す。位を妥安し、清廟奕奕たり。肸蠁潜かに通じ、豊融烜赫たり。我これを受け、百世斁くこと無からん。
初献盥洗、蠲成の曲を奏す:
姑洗宮
霊斿止まり、式燕して寧んず。吉蠲して享を致し、惟寅惟清。彼を挹ぎて茲に注ぎ、沃盥して升る。孚有り顒若たり、神明に交わる。
初献が昇殿するとき、『恭成の曲』を奏する。
南呂宮
斉明盛服し、恪恭に命祀を奉ず。洋洋として上に在り、遠からず具に邇し。左右周旋し、陟降庭に止まる。式礼に愆ること莫く、用て多祉を介す。
奠幣のとき、『祗成の曲』を奏する。
南呂宮
駿奔して列に在り、品物咸く備わる。礼厳かに載見し、式に量幣を陳ぶ。惟れ茲の篚実、肅として忱意を将う。霊兮安くか留まる、我が熙事を成す。
初献が降殿する。昇殿と同じ。
捧俎のとき、『闕成の曲』を奏する。
姑洗宮
我が祀如何、牲有りて滌に在り。既に全く且つ潔く、俎と為すこと孔碩なり。以て将い以て享けんとし、其の儀忒ること無し。神其れ嘗を迪し、純嘏是れ錫る。
初献が盥洗する。前と同じ。
初献が昇殿する。前と同じ。
大皡宓犧氏の位に酌献するとき、『闕成の曲』を奏する。
南呂宮
五徳の首、巍巍たる聖神。八卦作有り、誕に我が人を開く。物能く称する無く、玄酒尊に在り。歆監茲に在り、惟れ徳是れ親しむ。
炎帝神農氏の位に酌献し、闕成の曲を奏す:
南呂宮
耒耜の利、人これに頼りて生く。腹を鼓し哺を含み、帝の力名づけ難し。これに報いんとするの徳、黍稷は馨しからず。言を眷みてこれを顧み、享るに克誠に於てす。
黄帝有熊氏の位に酌献し、闕成の曲を奏す:
南呂宮
衣と為り裳と為り、乾に法り坤に效う。三辰順序し、万国来賓す。典祀常有り、多儀具に陳ぶ。純精鬯達し、弥文に籍らざるなり。
配位に酌献し、闕成の曲を奏す:
南呂宮
三聖儼として臨み、孰か其の食を侑えん。惟れ爾神有り、功を同じくし徳を合わす。丕に霊休を擁し、嘉席に留まりて娛しむ。歴世昭かに配し、永永として極まり無し。
初献、殿を降る。前と同じ。
亜献、闕成の曲を奏す:終献同じ。
姑洗宮
節を緩め歌を安んじ、載せて貳觴を升す。礼三終を成し、申して令芳を薦む。凡そ百職有るも、敢えて怠遑せず。神具に醉い止み、欣欣として楽康なり。
徹豆、闕成の曲を奏す:
南呂宮
籩豆が整然と並び、盛大な供え物は誠に時宜を得ている。礼儀の文飾は周到に行き渡り、撤去も遅れることはない。終わりを慎むこと始めの如く、進退に背くところはない。神よ我らに福を授け、豊かな恵みをもって安らぎ給え。
送神の曲、闕成の曲を奏す:
黄鐘宮
夜は如何なる様子か、明星煌々と輝く。霊は留まらず、風の如く挙がり雲の如く翔る。遥かに望んでも及ばず、その徳の音を忘れない。どうか光り輝く賜物を回らせ、吉祥として現れ給え。
瘞埋を望みて、闕成の曲を奏す:
姑洗宮
工祝が告げを致し、礼備わり楽終わる。犠牲と幣帛を加え、埋め終えてますます恭しい。精神はここに尽き、恵みの潤いは窮まりなし。福を蓄え美を賜い、万福来たりて崇まる。
顔子の考妣の封号と諡号
宋代の五賢の従祀
至正十九年十一月、江浙行省が杭州路の申し立てに基づき、本路の経歴司が提出した文書を受理した。提控案牘兼照磨承発架閣の胡瑜の牒状に準じて、かつて次のように述べている:
文治が興隆するならば、盛大な典礼を挙行すべきであり、儒者の先達を褒め称えるのは、将来を激励するためである。知るところある者は、黙しているべきではない。そもそも国家が民を教化し風俗を成すには、学校に先んずるものはなく、学校の設置には必ず先聖先師の祭祀を崇めるのは、その功績に報い勧めを示すためである。
我が朝の儒を崇め道を重んずる意は、前古を超越している。既に先聖に大成の号を加封し、また宋の儒者周敦頤らの封爵を追崇し、廟庭に従祀させている。功に報い勧めを示す道は、至りであると言えよう。然るに、役人の検討が尽くされず、尚お先儒楊時ら五人を遺漏し、従祀に列していない。これにより盛明の世に、なお欠けた典礼がある。ただ、故宋の龍図閣直学士、諡文靖、亀山先生楊時は、程門の道統の伝授を親しく得て、王氏(王安石)の経義の謬りを排し、南渡後、朱子・張栻・呂祖謙らの学問は、その源流脈絡、皆な楊時に出ている。故宋の処士、延平先生李侗は、河洛の学を伝え、朱熹に授け、凡そ集註に引く師説は、即ちその講論の主旨である。故宋の中書舎人、諡文定胡安国は、伊洛の道を聞き、志は春秋に在り、集伝を纂修して正経を輔翼し、天理を明らかにして世教を扶け、聖人の門に功有る者である。故宋の処士、太師栄国公を追贈され、諡文正、九峯先生蔡沈は、朱子に従学し、親しく指授を受け、書集伝を著して先儒の未だ及ばざる所を発明し、聖経に対して深く功有る者である。故宋の翰林学士、参知政事、諡文忠、西山先生真徳秀は、博学にして経を窮め、践履篤実である。当時、偽学の禁を立てて善類を閉じ込めたが、徳秀は後れて出で、独りこの斯文を己が任とし、講習躬行し、党禁が解けて正学が明らかになった。この五人者は、学問は道統の伝授を受け継ぎ、著述は儒先の秘奥を発揮し、その功は甚だ大きい。況んや科挙の取士において、既に胡安国の春秋、蔡沈の尚書集伝を表彰して尊用し、真徳秀の大学衍義も経筵の講読に備えている。これらは皆な国家の治道に補うところ有る者である。各人の出処は、詳しく宋史の本伝に見え、俱に名爵を追錫し、先聖廟庭に従祀すべきであり、以て儒風を敦厚にし、後学を激励することができる。もし上司に備えて呈し、朝省に申し達し、礼官に命じて典礼を討論させ、周敦頤らの例の如く、上奏して施行し、以て欠けた典礼を補うならば、我が道幸いである。
朱熹に斉国公を加封し、父に献靖を追諡する
其の朱熹を改封して斉国公と為す制詞に云う、「聖賢の蘊は諸経に載せられ、義理は実に先正に明らかなり。風節の厲は諸世に垂れ、褒崇は豈に異時に間はんや。鉅儒有らずんば、孰か寵数に膺らん。故宋の華文閣待制・累贈宝謨閣直学士・太師・追封徽国公・諡文朱熹は、異質に挺生し、蚤く科名を擢てる。郡県に試用して善政孔多、館閣に回翔して直言隠る無し。権姦屡挫き、志慮回らず。書を著し言を立て、乃が簡編の富を嘉す。君を愛し国を憂ひ、其が経済の長を負ふ。正学久しく中原に達し、渙号申に行はるる仁廟。諸の僉議に詢へば、故封を易むる宜し。国は営丘を啓き、爰に太公の境土を錫ふ。壤は洙泗に隣り、尚尼父の宮牆を観ん。英風を緬想し、新命を載欽す。追封して斉国公と為すべし、余は並びに故の如し」。
国俗旧礼
毎年、太廟に四祭あり、司禋監官一員を用ひ、名づけて蒙古巫祝と曰ふ。牲を省く時、法服を着し、三献官と共に殿に升り、室戸に詣りて腯を告げ、還りて牲所に至り、国語を以て累朝の帝后の名諱を呼びて之に告ぐ。明旦、三献の礼畢り、献官・御史・太常卿・博士復た殿に陞り、各室に分詣し、蒙古博児赤跪きて牲を割き、太僕卿朱漆の盂を以て馬乳を奉り酌奠し、巫祝国語を以て神に告げ訖り、太祝祝幣を奉り燎位に詣り、献官以下復た版位に載拝し、礼畢る。
毎年、駕幸上都し、六月二十四日を以て祭祀し、之を洒馬妳子と謂ふ。馬一、羯羊八、綵段練絹各九匹、白羊毛を以て纏め穗の若き者九、貂鼠皮三を用ひ、蒙古巫覡及び蒙古・漢人の秀才達官四員を命じて其の事を領せしめ、再拝して天に告ぐ。又太祖成吉思の御名を呼びて之を祝し、曰く、「天皇帝の福蔭を托し、年年祭賽する者なり」。礼畢り、掌祭官四員、各祭幣表裏一を以て之に与ふ。余幣及び祭物は、則ち凡そ与祭する者共に之を分つ。
毎年、九月内及び十二月十六日以後、焼飯院の中に於て、馬一、羊三、馬湩、酒醴、紅織金幣及び裏絹各三匹を用ひ、蒙古達官一員を命じ、蒙古巫覡に偕し、地を掘りて坎と為し以て肉を燎き、仍酒醴・馬湩を以て雑えて之を焼く。巫覡国語を以て累朝の御名を呼びて祭る。
毎年、十二月下旬、日を択び、西鎮国寺内の牆下に於て、平地を灑掃し、太府監綵幣を供へ、中尚監細氊鍼線を供へ、武備寺弓箭環刀を供へ、稈草を束ねて人形一、狗一と為し、雑色の綵段を剪りて其の腸胃と為し、達官世家の貴重なる者を選びて交射す。別速・札剌爾・乃蠻・忙古台・列班・塔達・珊竹・雪泥等の氏族に非ざれば、列に与ることを得ず。射て糜爛に至り、羊酒を以て之を祭る。祭畢り、帝后及び太子嬪妃並びに射者、各其の服する所の衣を解き、蒙古巫覡をして祝讚せしむ。祝讚畢り、遂に之を以て与へ、名づけて脱災と曰ふ。国俗之を射草狗と謂ふ。
毎年、十二月十六日以後、日を選び、白黒の羊毛を以て線と為し、帝后及び太子、頂より手足に至るまで、皆羊毛線を以て纏め繫ぎ、寢殿に坐す。蒙古巫覡呪語を念じ、銀槽を奉り火を貯へ、其中に米糠を置き、酥油を以て沃し、其の煙を以て帝の身を薰き、繫ぐ所の毛線を断ち、諸を槽内に納む。又紅帛長さ数寸を以て、帝手を以て之を裂き碎き、之に唾する者三たび、併せて火中に投ず。即ち服する所の衣帽を解きて巫覡に付し、之を脱旧災・迎新福と謂ふ。
凡そ后妃身を姙み、将に月辰に及ばんとすれば、則ち外の氊帳房に移り居る。若し皇子孫を生めば、則ち百官に金銀綵段を錫ひ、之を撒答海と謂ふ。弥月に及び、復た内寢に還る。其の帳房は、則ち以て近臣に頒賜す。
凡そ帝后疾有りて危殆にし、度るに愈ゆ可からずとすれば、亦た外の氊帳房に移り居る。不諱有れば、則ち就て其中に殯殮す。葬後、毎日羊二次を用ひ飯を焼き以て祭と為し、四十九日に至りて後已む。其の帳房も亦た以て近臣に賜ふ。
世祖至元七年、帝師八思巴の言により、大明殿の御座の上に白傘蓋一つを置き、頂部は素絹を用い、その上に泥金で梵字を書き、邪魔を鎮め国剎を護るという。以後毎年二月十五日、大明殿において白傘蓋仏事を啓建し、諸色の儀仗社直を用い、傘蓋を迎え導き、皇城内外を周遊し、衆生のために不祥を祓い福祉を導き迎えるという。毎年正月十五日、宣政院が中書省とともに奏上し、あらかじめ中書省が旨を奉じて枢密院に移文し、八衛より傘鼓手一百二十人、殿後軍の甲馬五百人、監壇の漢関羽神轎を擡舁する軍及び雑用五百人を撥発する。宣政院の管轄する官寺三百六十所は、佛像・壇面・幢幡・寶蓋・車鼓・頭旗三百六十壇の供給を掌り、各壇ごとに擎執擡舁二十六人、鈸鼓僧十二人を出す。大都路は各色の金門大社一百二十隊の供給を掌る。教坊司雲和署は大楽鼓・板杖鼓・篳篥・龍笛・琵琶・箏・𥱧の七色を掌り、合わせて四百人。興和署は妓女雑扮隊戲一百五十人を掌り、祥和署は雑把戲男女一百五十人を掌る。儀鳳司は漢人・回回・河西の三色細楽を掌り、各色ごとに三隊ずつ、合わせて三百二十四人。役務に従う者はすべて官より鎧甲袍服器仗を給され、いずれも鮮麗整斉を尚び、珠玉金繍で装束を奇巧にし、首尾三十余里に排列する。都城の士女、閭閻に聚まって観覧する。礼部官は諸色隊仗を点視し、刑部官は喧閙を巡綽し、枢密院官は城門を分守し、中書省官一員がこれを総督視察する。二日前、西鎮国寺において太子遊四門を迎え、高塑像を擡ぎ、儀仗を具えて入城する。十四日、帝師は梵僧五百人を率い、大明殿内で仏事を建てる。十五日、傘蓋を御座より恭しく請い出し、寶輿に奉置し、諸儀衛隊仗は殿前に列し、諸色社直及び諸壇面は崇天門外に列し、迎え導いて宮中より出る。慶寿寺に至り、素食を具え、食し終えてより行を起こし、西宮門外の垣海子南岸より、厚載紅門に入り、東華門を経て延春門を過ぎて西へ向かう。帝及び后妃公主は、玉徳殿門外に金脊吾殿綵楼を搭して観覧する。諸隊仗社直が金傘を還宮に送り、ふたたび御榻の上に恭しく置く。帝師僧衆が仏事を行い、十六日に至り罷散する。毎年これを常例とし、これを游皇城と謂う。あるいは事によりて輟むこともあるが、まもなくまた挙行する。夏六月の中、上京においてもまたこれと同じである。