元史

本紀第七: 世祖四

七年春正月辛丑朔、高麗国王王禃が使者を遣わして来朝し賀した。丙午、耶律鑄・廉希憲を罷免す。尚書省を立て、制国用使司を廃止す。平章政事忽都答児を以て中書左丞相と為し、国子祭酒許衡を以て中書左丞と為し、制国用使阿合馬を以て平章尚書省事と為し、同知制国用使司事張易を以て同平章尚書省事と為し、制国用使司副使張惠・僉制国用使司事李堯咨・麦朮丁を並びに参知尚書省事と為す。己酉、太陰畢を犯す。諸投下官を中書省に隷属せしむるを敕す。壬子、驛券に印なき者は伝乗を許さざるを敕す。甲寅、高麗国王王禃、使者を遣わして来たり言う「比来詔を奉じて臣は既に位に復し、今七百人に従い入覲せんとす」と。詔して四百人を従えて来るを令し、余は之を西京に留めしむ。高麗西京を内属せしめ、東寧府と改め、慈悲嶺を以て界と為すを詔す。丁巳、蒙哥都を以て安撫高麗使と為し、虎符を佩かしめ、兵を率いて其の西境を戍守せしむ。戊午、均州・房州総管孫嗣、宋の統制朱興祖等を擒う。丙寅、兀魯吾民戸に鈔を賑恤す。丁卯、省・院・台の文移体式を定む。

二月辛未朔、前中書右丞相伯顔を以て枢密副使と為す。甲戌、高梁河に昭応宮を築く。丙子、帝行宮に御し、劉秉忠・孛羅・許衡及び太常卿徐世隆の起した朝儀を観て大いに悦び、酒を挙げて之に賜う。丁丑、歳饑を以て宮城修築の役夫を罷む。甲申、尚書省署を置く。乙酉、紙甲局を立つ。畜牧して禾稼桑果を損壊するの禁を厳に申す。壬辰、司農司を立て、参知政事張文謙を以て卿と為し、四道巡行勧農司を設く。乙未、宋の襄陽より歩騎万余人・兵船百余艘を出し、万山堡に来趨す。万戸張弘範・千戸脱脱、之を撃ち却け敗る。事聞こえ、各々金紋綾を賜うこと差有り。高麗国王王禃来朝し、皇子燕王に謁見を求む。詔して曰く「汝は一国の主なり、朕に見ゆれば足れり」と。禃、子愖を以て見えんことを請う。之に従う。禃に詔諭して曰く「汝の内附は後なり、故に諸王の下に班す。我が太祖の時、亦都護は先に附し、即ち諸王の上に歯せしむ。阿思蘭は後に附せし故に其の下に班す。卿宜しく之を知るべし」と。又詔して国王頭輦哥等に挙軍して高麗の旧京に入らしめ、脱脱朶児・焦天翼を以て其の国の達魯花赤と為し、禃を護送して国に還らしむ。仍て詔を下す「林衍の廃立は、罪赦すべからず。安慶公淐は、本より已むを得ざるを得たり、在所寛宥す。能く衍を執送する者有らば、旧え其の党に在りと雖も、亦必ず重ねて官秩を増すべし」と。世子愖、随朝及び主を尚ばんことを奏して乞う。許さず、其の父に随いて国に還るを命ず。

三月庚子朔、日食有り。河南等路及び陝西五路西しょく四川・東京等路行中書省を行尚書省と改む。尚書省臣言う「河西の和糴は、応に僧人・豪官・富民を一例として之を行ふべし」と。制して可とす。甲寅、車駕上都に幸す。丙辰、武清県の御河を浚う。丁巳、医官の品従を定む。戊午、益都・登州・萊州蝗旱有り、詔して其の今年の包銀の半を減ず。阿朮と劉整言う「襄陽を囲守するは、必ず水軍を教え、戦艦を造るを以て先務と為すべし」と。詔して之を許す。水軍七万余人を教え、戦艦五千艘を造る。

夏四月壬午、檀州に黒霜を隕すこと三夕。諸路に蒙古字学教授を設く。敕す「諸路の達魯花赤の子弟は蔭敍して散府諸州の達魯花赤に充て、其の散府諸州の子弟は諸県の達魯花赤に充て、諸県の子弟は巡検に充つ」と。御史台典事を都事と改む。癸未、軍官の等級を定む。万戸・総管・千戸・百戸・総把は軍士を以て差と為す。己丑、終南県を省きて盩厔に併入し、真定賛皇県・太原楽平県を復す。高麗行省、使者を遣わして来たり言う「権臣林衍死す、其の子惟茂擅りに令公の位を襲い、尚書宋宗礼に殺さる。島中の民皆出で降り、已に之を旧京に遷す。衍の党裴仲孫等復た余衆を集め、禃の庶族承化侯を立てて王と為し、珍島に竄入す」と。

五月辛丑、懐州河内県大雨雹有り。癸卯、陝西僉省也速帯児・厳忠範と東西川統軍司、兵を率いて宋兵と嘉定・重慶・釣魚山・馬湖江に戦い、皆之を敗り、三寨を抜き、都統牛宣を擒え、人民及び馬牛厳艦を俘獲すること算無し。甲辰、威州汝鳳川の番族八千戸内附し、其の酋長来朝す。宣命を授け、金符を賜う。丁未、東京路饑饉有り、兼ねて運糧造船の労役有るを以て、今年の絲銀の十分の三を免ず。同知枢密院事合答を以て平章政事と為す。乙卯、平灤路撫寧県を復し、海山・昌黎を之に併入す。丙辰、天下の戸を括す。尚書省臣言う「諸路の課程は、歳銀五万錠なり。民力を疲さしむるを恐る、宜しく十分の一を減ずべし。運司官吏の俸祿は、宜しく民官と同くすべし。其の院務官は量りて工食を給し、仍て所司の民に多く取るを禁ず。歳終に、其の増損を較べて加黜陟すべし。上都は地里遙遠にして、商旅往来容易ならず、特ち税を収むるを免して以て之を優すべし。惟だ市易の庄宅・奴婢・孳畜は、例に契本工墨の費を収む。管民官の遷転は、三十月を以て一考と為す。数たび変易に於て、人心苟且なり。今より請ふらくは六十月を以て遷転せしむべし。諸王の使者を遣わして諸物を取り索め及び鋪馬等の事は、今より並びに文移を以てすべく、口伝の教令を以てすべからず」と。並びに之に従う。宣徽院を光禄司と改め、秩正三品と為し、宣徽使線真を以て光禄使と為す。庚申、枢密院に命じて軍数を閲実せしむ。壬戌、東平府瑞麦を進む。一莖二穂・三穂・五穂なる者各一本。中都打捕鷹坊総管府を省きて工部に併入す。大名・東平等路桑蚕皆災有り、南京・河南等路蝗有り、今年の銀絲の十分の三を減ず。

六月丙子、西夏中興に市馬五百匹を敕す。庚辰、敕す「戍軍還るに、食乏しく及び病む者有らば、過ぐる所の州城村坊の主者に飲食医薬を給せしむ」と。丁亥、各路の洞冶総管府を罷め、転運司を以て兼領せしむ。謙州の甲匠を松山に徙し、牛具を給す。皇子南木合に馬六千・牛三千・羊一万を賜う。北辺の戍軍に馬二万・牛一千・羊五万を賜う。丙申、籍田を大都東南郊に立つ。民の擅りに宋境に入り剽掠するを禁ず。

秋七月辛丑、上林署を設く。乙卯、諸王拜答寒に印及び海青・金符二を賜う。庚申、初めて軍官に俸を給す。壬戌、諸道の回回軍を簽す。乙丑、諸路の礮手戸を閲実す。都元帥也速帯児等、地を光州に略し、宋兵を金剛台に敗る。遼東開元等路総管府を以て本路転運司事を兼ねしむ。山東諸路旱蝗有り。軍戸の田租を免じ、辺を戍る者に糧を給す。達魯花赤兀良吉帯に命じて上都の扈従畋獵の糧を給せしむ。

八月戊朔の日、環城を築いて襄陽を逼迫す。己巳の日、応昌府の饑饉を賑恤す。諸王拜答寒の部曲が饑饉を告ぐ、車馬ある者は黄忽児玉良の地に徒居せしめ、口数を計りて糧を給し、車馬なき者は粛州・沙州・甘州に就食せしむ。戊寅の日、隆興府総管昔剌斡脱、官銭を盗用したるを以て罷免さる。庚辰の日、御史大夫塔察児を以て枢密院事を同知せしめ、御史中丞帖只を御史大夫と為す。高麗世子王愖、聖誕節を賀し来朝す、辛巳の日、応昌府の官吏を設置す。辛卯の日、保定路霖雨禾稼を傷つく。

九月庚子の日、僧・道・也里可温にして家室ありて戒律を持せざる者、籍を占めて民と為すことを勅す。丁巳の日、太陰井宿を犯す。丙寅の日、河西の戸口を括り、田税を定む。宋将范文虎、兵船二千艘を以て襄陽を援けんと来たり、阿朮・合答・劉整、兵を率いて灌子灘に於いて逆戦し、千余人を殺掠し、船三十艘を獲、文虎退却す。西京饑饉、諸王阿只吉の所部をして太原に就食せしむことを勅す。山東饑饉、益都・済南の酒税を以て十の二を糧に収むることを勅す。

冬十月戊朔の日、両省に已に奏したる事を以て御史台に報ぜしむることを勅す。庚午の日、太白右執法を犯す。癸酉の日、宗廟祭祀の祝文、国字を以て書することを勅す。乙亥の日、宋人莒州を攻む。乙酉の日、太廟に享す。丁亥の日、南京・河南両路旱蝗あるを以て、今年の差賦を十の六を減ず。清州・滄州の塩二十四万斤を発し、南京の米十万石を転輸し、並びに襄陽の軍に給す。己丑の日、来年太廟の牲牢、豢豕を用いず、野豕を以て之に代え、時果は市せず、内園より取ることを勅す。車駕上都より至る。興中府を降して州と為す。山東淄萊路の饑饉を賑恤す。

十一月壬寅の日、熒惑太微西垣上將を犯す。壬子の日、河西諸郡に於ける諸王の頓舍、僧・民協力して供給す。丁巳の日、兵二千を益し、前に発したる軍と合わせて六千と為し、高麗に屯田せしむることを勅す。忻都及び前左壁総帥史枢を以て、並びに高麗金州等処経略使と為し、虎符を佩し、屯田の事を領せしむ。仍て詔して高麗国王に侍儀司を立つることを諭す。安南国王陳光昞、使を遣わして来貢し、優詔を以て之に答う。復た淄萊路の饑饉を賑恤す。

閏月丁朔の日、高麗世子王愖還り、王禃に至元八年の暦を賜う。戊辰の日、繒段に日月龍虎を織り、及び龍犀を以て馬鞍を飾ることを禁ず。己巳の日、河西行省に鈔一万錠を給し、以て歳費に充つ。義州を以て婆娑府に隷せしむ。癸未の日、西夏提刑按察司管民官に詔諭し、僧徒の民田を冒して占拠するを禁ず。壬辰の日、農桑を勧課する賞罰の法を申明す。諸路に脱脱禾孫を設置することを詔す。

十二月丙申朔の日、司農司を改めて大司農司と為し、巡行勧農使・副各四員を添設し、御史中丞孛羅を以て大司農卿を兼ねしむ。安童、孛羅が台臣を以て兼領するは前に此の例無しと言う。旨有り:「司農は細事に非ず、朕深く此れを諭す、其れ孛羅をして之を総せしめよ。」陝西等路宣撫使趙良弼を命じて秘書監と為し、国信使に充て、日本に使わしむ。歳に太社・太稷・風師・雨師・雷師を祀ることを勅す。戊戌の日、懐孟の新民千八百余戸を徙して河西に居らしむ。壬寅の日、御史大夫の秩を正二品に昇む。河南韶州を降して澠池県と為す。宋重慶制置朱禩孫、諜者を遣わし書榜を持たせ来たりて安撫張大悦等を誘わんとす、大悦封を発せず、併せて諜者を東川統軍司に送致す。丁未の日、金歯・驃国三部の酋長阿匿福・勒丁・阿匿爪、内附し来たり、馴象三頭・馬十九匹を献ず。己酉の日、魚通路知府高曳失、宋の諜者を獲、詔して之を賞す。辛酉の日、都水監を大司農司に隷せしむ。諸王伯忽児を以て札魯忽赤の長と為す。高良河に大護国仁王寺を建つ。僧服の色を更めて定むることを勅す。

是歳、天下の戸一百九十三万九千四百四十九。先朝の后妃及び諸王に金・銀・幣・帛を賜うこと歳例の如し。死刑四十四人を断ず。

八年春正月乙丑朔の日、高麗国王王禃、其の秘書監朴恒・郎将崔有渰を遣わし来賀し、兼ねて歳貢を奉ず。丙寅の日、太陰畢宿を犯す。己卯の日、同僉河南等路行中書省事阿里海牙を以て尚書省事に参知せしむ。中書省臣言う:「前に旨有りて臣に枢密院・御史台と議して河南行省阿里伯等の置く所の南陽等処の屯田をせしむ、臣等以為うに凡そ屯田の人戸は皆内地の中産の民にして、遠く徙りて業を失う、宜しく之を本籍に還すべし。其の南京・南陽・帰徳等の民賦は、今より悉く米糧に折輸し、便近の地に貯え、以て襄陽の軍食に給すべし。前に屯田せし所は、阿里伯自ら無効を以て引伏す、宜しく州郡に令して民を募り耕佃せしむべし。」之に従う。史天澤老を告ぐ、允さず。勅す:「前に都城を築き、居民三百八十二戸を徙す、其の直を計りて之を償え。」枢密院断事官を設置す。兀都蛮を遣わし蒙古軍を率いて西方當當を鎮守せしむ。丙戌の日、高麗安撫阿海、珍島の地を略し、逆党に遇い、多く亡失有り。中書省臣言う:「諜知するに珍島の余糧将に竭きんとす、宜しく弱に乗じて之を攻むべし。」詔して許さず、険要を巡視し、常に之が備えを為さしむ。丁亥の日、管如仁・費正寅、国機の事を以て書と為し、謀りて崔継春・賈靠山・路坤を遣わし宋に入らしめんとす、事覚え窮治し、正寅・如仁・継春皆正典刑に処し、靠山・坤並びに遠方に流す。壬辰の日、勅す:「諸路鰥寡孤独疾病自ら存すること能わざる者、官廬舍・薪米を給す。」高麗国王王禃、使を遣わし表を奉り、世子愖の為に昏を請う。詔して辺将の賂を受け軍を放ち及び科斂するを禁ず。北京・益都の饑饉を賑恤す。

三月乙丑、河東山西道按察司を増置した。河東陝西道を陝西四川道と改め、山北東西道を山北遼東道と改めた。甲戌、命じた、「元正・聖節・朝会において、百官の表章・外国の進献・使臣の陛見・朝辞の礼儀は、すべて侍儀司に属させる」。丙子、山東・河間・陝西三路塩課都転運司を都転運塩使司と改めた。己卯、中書省の臣が言うには、「高麗の叛臣裴仲孫が諸軍に退屯を乞い、その後内附すると言っているが、忻都はその請いを聞き入れていない。今、全羅道を得て居住し、直に朝廷に隷属したいと願っている」。詔して、その言葉を飾りとして年月を引き延ばしているとして、許可しなかった。辛巳、夏邑県を再び設置し、碭山をこれに編入した。穀熟を省いて睢陽に併合した。濱棣万戸の韓世安は、私的に食糧を貯蔵し、軍器を焼き払い、駅馬を詐って乗り、また諸王塔察児の益都四県の分地を勝手に請うたなどの事で罪に問われ、有司がたびたび上言したため、詔してこれを誅し、その家を没収した。甲申、車駕は上都に行幸した。乙酉、許衡は老病を理由に中書の機務を辞し、集賢大学士・国子祭酒に任じられた。衡は旧俸を返納したが、詔して別に新俸を与えた。国子学を設置するよう命じ、司業・博士・助教を各一員増設し、随朝の百官・近侍の蒙古・漢人の子孫および俊秀な者を選んで生徒とした。丁亥、熒惑(火星)が太微西垣上將を犯した。己丑、西夏中興等路行尚書省を設置し、趁海を行尚書省事に参知させた。尚書省に命じて天下の戸口を実数調査させ、条画を頒布して天下に諭した。益都等路の飢えを救済した。命じた、「有司は獄を留め訟を滞らせて、越訴に至らしめてはならない。違反した者は官民ともにこれを罰する」。皇子燕王の乳母趙氏を豳国夫人に封じ、その夫の鞏徳祿を追封して德育公とした。

夏四月壬寅、高麗鳳州経略司の忻都が言うには、「叛臣裴仲孫が使命を引き留め、険阻に拠って服従しないので、忽林赤・王国昌と分道して進討を願う」。これに従った。平灤路昌黎県の民に生まれた子が、夜中に光を放った。詔して養育を加えるよう命じた。ある者が不適切と考えると、帝は言った、「一人の善人を生むのは何と幸いなことか、嫉む心を持つな」。高麗に命じて軍を徴発し珍島を征討させた。癸卯、河南行中書省に歳用銀五十万両を与え、また襄樊の軍士には今後一人あたり月に米四斗を与えるよう命じた。甲辰、壮丁を徴発して宋に備えさせた。戊午、阿朮が万戸阿剌罕らを率いて宋の将范文虎らと湍灘で戦い、これを破り、統制の朱勝ら百余人を捕らえ、その軍器を奪った。阿朮・阿剌罕らに金帛を差等を設けて賜った。至元七年の諸路の災害により、今年の絲料を軽重の差を設けて免除した。

五月乙丑、東道の兵をもって襄陽を包囲守備させ、賽典赤・鄭鼎に兵を率いさせ、水陸ともに進軍して嘉定に向かわせ、汪良臣・彭天祥を重慶から出撃させ、札剌不花を瀘州から出撃させ、曲立吉思を汝州から出撃させて、牽制させた。僉省の也速帯児・鄭鼎を軍前行尚書事と改め、賽典赤を行省事として興元に置き、軍糧を転送供給させた。丙寅、牢魚国が来朝貢した。己巳、瓊華島で仏事を行った。辛未、大理国の三十七部を三路に分け、大理八部蛮酋が新たに帰附したので、詔を降して慰撫諭した。壬申、内外の儀仗を造った。丁丑、蔚州の飢えを救済した。己卯、史天沢に命じて軍国重事を平章させた。太府監を正三品に昇格させた。忻都・史樞が上表して珍島の賊徒が敗れ散り、残党が躭羅に逃げ込んだと述べた。辛巳、河西行省に金符・銀海青符を各一賜った。蒙古の官の子弟で学問を好む者に、算術をも兼ねて習わせるよう命じた。癸未、済州を済寧府に昇格させた。玉宸院を宣徽院に隷属させた。高麗国王王禃が使いを遣わして方物を貢いだ。

六月甲午、枢密院に命じた、「軍事に関するものは直接上奏し、必ずしも尚書省を経由する必要はない。ただし、銭糧に関わるものは報告せよ」。上都・中都・河間・済南・淄萊・真定・えい輝・洺磁・順徳・大名・河南・南京・彰徳・益都・順天・懐孟・平陽・帰徳の諸州県で蝗害が発生した。癸卯、宋の将范文虎が蘇劉義・夏松らの舟師十万を率いて襄陽を救援した。阿朮が諸将を率いて迎撃し、その戦船百余隻を奪い、敵は敗走した。平章の合答がまた万戸の解汝楫らを遣わして邀撃させ、その総管朱日新・鄭臯を生け捕りにし、大いにこれを破った。辛亥、命じた、「すべて管民官の管轄する銭穀公事は、すべて年末の考較を待て」。乙卯、河西・斡端・昂吉呵などの処の居民を招集した。己未、山東統軍司の塔出・董文炳が宋人が五河口を占拠しようとしていることを偵知し、城を築いて守備するよう請うた。しかし事機を失い、宋兵はすでにその地に柵を設けていた。事が聞こえ、塔出・文炳らを決罰するよう命じ、差等を設けた。遼州和順県・解州聞喜県で虸蚄(蝗の幼虫)が発生した。

秋七月壬戌朔、尚書省が太原の塩課を増やすことを請う、毎年鈔千錠を額とし、なお本路に兼ねて領せしむ、これに従う。回回司天臺の官属を設け、札馬剌丁を以て提点と為す。女直・水達達の軍を簽す。鄭元に祠祭岳瀆を領せしめ、司禋大夫を授く。丁卯、南人李忠進言す、運山侍郎張大悦嘗て宋と交通すと、その事実無きを以て、詔して大悦に諭す「宋は間を用いるに善し、朕は軽々しく信ぜず、疑懼を懐く毋れ」と。国王頭輦哥を以て尚書省を行わしむ北京・遼東等路に。辛未、左・右・中の三衞親軍都指揮使司を置く。乙亥、鞏昌・臨洮・平涼府・会・蘭等州に霜隕り禾を殺す。乙酉、宋の将来興国百丈山の営を攻む、阿朮これを撃ち破り、湍灘に追い至り、二千余級を斬首す。高麗世子王愖入質し、珍島の脅従民戸来降す。

八月壬辰朔、日食有り。癸巳、勅す「軍站戸の地四頃以上は、例に依り租を輸すべし」と。己亥、詔して宋の襄陽守臣呂文煥を招諭す。壬子、車駕上都より至る。成都統軍司を眉州に遷す。己未、聖誕節、初めて内外の仗及び雲和署の楽位を立てる。東川統軍司兵を引きて宋の銅鈸寨を攻む、守寨総管李慶等降り、慶を以て梁山軍事を知らしむ。

九月壬戌朔、都元帥阿朮に勅し、その部兵を以て漢南の地を略せしむ。癸亥、高麗世子王愖帰るを辞し、国王王禃に西錦を賜い、優詔してこれを諭す。甲子、劉整に鈔五百錠・鄧州の田五百頃を賜う、整辞し、民田三百戸を賜うことを改め、科調は旧の如し。河南行省の歳用に鈔二万八千六百錠を給す。丙寅、陝西五路西蜀四川行尚書省を罷め、也速答児を行四川尚書省事と為し興元に、京兆等路は直ちに尚書省に隷す。渦河に於いて宋軍を敗る。戊辰、成都府徳陽県を徳州に陞め、虢州を虢略県に降す。壬申、冑子脱脱木児等十人を選び国學に肄業せしむ。癸酉、益都府済州芝二本を進む。甲戌、西夏回回軍を簽す。太廟の殿柱朽ち壞る、監察御史都水劉晸の監造不敬を劾す、晸憂いて卒す。張易先ず期を告げ廟に、然る後に完葺せんことを請う、これに従う。丙子、勅す今歳太廟を享くるに犠牛を用いる毋れと。太陰畢を犯す。庚辰、右衞親軍都指揮使忽都等言す「五河の城堡既に成る、唯だ廬舍未だ完からず、凡そ材甓は皆宋境より出づ、精兵を率い分道して抄掠せんことを請う」と、これに従う。壬午、山東路統軍司言す宋兵膠州を攻む、千戸蒋徳等逆戦してこれを敗り、統制范広等五十余人を俘え、戦船百艘を獲たりと。癸未、詔す忙安倉の失陷米五千余石は、特ちに徴を免じ、仍ち諸王の非理なる需索を禁ずと。詔す四川の民力困弊を以て、茶塩等の課税を免じ、軍民の田租を以て沿辺の軍食に給すと。仍ち勅す「有司自今より茶塩の利を言う者有らば、違制を以て論ずべし」と。

冬十月癸巳、大司農臣言す「高唐州達魯花赤忽都納・州尹張廷瑞・同知陳思済は勧課効有り、河南府陝県尹王仔は勧課に怠る、宜しく黜陟を加え、以て勧懲を示すべし」と、これに従う。丁酉、太廟に享く。己未、檀・順等州風潦稼を害す。高麗に至元九年暦を賜う。

十一月辛酉朔、品官の子孫に儤直を勅す。勅して阿魯忒児等を遣わし大理を撫治せしむ。壬戌、諸路の交鈔都提挙司を罷む。乙亥、劉秉忠及び王磐・徒単公履等言す「元正・朝会・聖誕節・詔赦及び百官の宣勅には、公服を具し迎拝行礼すべし」と、これに従う。金の泰和律を行わるるを禁ず。国号を建てて大元と曰う、詔して曰く。

誕かに景命を膺け、四海を奄して以て尊に宅る。必ず美名有り、百王を紹ぎて紀統す。隆古より肇め、独り我が家のみに匪ず。且つ唐の言は蕩なり、堯之を以て著称す。虞の言は楽なり、舜之に因りて号を作す。馴せて禹興り湯造るに至り、互いに夏は大を名づけ殷は中を名づく。世降り以て還り、事古に殊なり。時に乗じて国を有つと雖も、義を以て制称せず。秦と為り漢と為る者は、初め起これる地の名に従い著す。隋と曰い唐と曰う者は、即ち封ぜられたる爵邑に因る。是れ皆百姓の見聞の狃習に徇い、一時の経制の権宜を要す。概ね至公に至りて、少しく貶する無きに非ず。

我が太祖聖武皇帝、乾符を握りて朔土より起ち、神武を以て帝図を膺く。天声を四震し、土宇を大いに恢め、輿図の広さ、古を歴て未だ有らざる所なり。頃者、耆宿庭に詣で、奏章を上り申請す、大業既に成るを謂い、宜しく早く鴻名を定むべしと。古制に在りて以て当然、朕が心に於いて何か有らんや。国号を建てて大元と曰うべし、蓋し易経「乾元」の義を取る。茲に大冶流形して庶品に於いて、孰れか名づけて資始の功を資さん。予一人万邦に於いて底寧し、尤も仁を体するの要に切なり。事は因革に従い、道は天人に協う。於戯、義に称して名づく、固より之を為す溢美に匪ず。休を孚く惟永く、尚お投艱に負かざるを期す。嘉んで敷天と与にし、共に大号を隆くす。

丙戌、四川省を成都に置く。上都の万安閣成る。

十二月辛卯朔、天下に国字学を興起せしむるを詔す。宣徽院闌遺・漏籍等の戸を以て金を淘ることを請う、帝曰く「姑く止めよ、吾が民を重ねて労する毋れ」と。乙巳、百官の俸を減ず。西夏の田を括る。塔出・董文炳を召して闕に赴かしむ。辛亥、太常寺を併せて翰林院に入れ、宮殿府を少府監に入る。甲寅、尚書省の遷入を中書省に詔す。

是歳、天下の戸一百九十四万六千二百七十。先朝の后妃及び諸王に金・銀・幣・帛を賜うこと歳例の如く、囊家等に羊馬の価鈔一万一千百六十七錠を賜う。死罪一百五人を断ず。

九年春正月庚申朔、高麗国王王禃がその臣礼賓卿宣文烈を遣わして来朝し賀し、兼ねて歳貢を奉ず。甲子、尚書省を中書省に併合し、平章尚書省事阿合馬・同平章尚書省事張易はともに中書平章政事とし、参知尚書省事張惠は中書左丞とし、参知尚書省事李堯咨・麦朮丁はともに参知中書政事とする。給事中・中書舎人・検正等の官を廃し、なお左右司を設け、六部を四つに省き、中書と改称す。丙寅、詔して不花及び馬璘を遣わし高麗を諭し、舟糧を具えて躭羅征伐を助けしむ。河南省兵を益すを請う、諸路に勅して軍三万を簽す。丁丑、皇子西平王オルチ・アルトゥムル・トゴ及び南平王トルルの所部と四川行省イェスデルの部下、並びにマングダイ等十八族・欲速公弄等の土蕃軍に勅し、ともに建都を征伐せしむ。新安州初め雄州に隷す、詔して県となし順天に属す。庚辰、北京・中興・四川・河南の四路行尚書省を行中書省と改む。京兆に復た行省を立て、なお諸王ジビ・テムルに命じて省断事官を設けしむ。西平王オルチに馬価の弓矢を給す。南平王トルルに銀印及び金銀符各五を賜う。辛巳、鳳州の屯田を塩・白の二州に移す。董文炳に勅し、時に南境を巡掠し、宋人に城堡を立てしむることなからしむ。勅す、「軍民田を訟うる者は、民田余有ればすなわちこれを軍に分ち、軍田余有ればまた民に分つ。なお能臣を遣わしてその直を聴かしめ、その軍奴民籍に入る者は、還ってこれを正す。」燕王に勅し、使を遣わし香旛を持たせ、岳瀆・后土・五台興国寺を祠らしむ。劉整に命じて漢軍を総べしむ。壬午、山東東路都元帥府統軍司を行枢密院と改め、イェスデル・タチュを以てともに行枢密院副使とす。乙酉、宣勅官を受くるの礼儀を定む。詔して元帥府統軍司・総管万戸府に軍籍を閲実せしむ。

二月庚寅朔、日本に奉使した趙良弼、書状官張鐸を遣わし日本の二十六人とともに、京師に至り見えんことを求む。辛卯、詔す、「ジャルグチは乃ち太祖開創の始めに置く所、位は百司の右にあり、その銀印を賜う。左右司を立てよ。」壬辰、高麗国王王禃がその臣斉安侯王淑を遣わし、国号改称を賀す。中都を大都と改む。甲午、アジュに命じて蒙古軍を典とし、劉整・アリハイヤに命じて漢軍を典とす。戊戌、去歳東平及び西京等の州県旱蝗水潦のため、その租賦を免ず。庚子、唐州泌陽県を復す。大都に中書省署を建つ。戊申、始めて先農を祭ること社を祭るの儀の如し。詔して諸路に水利を開浚せしむ。車駕上都に幸す。

三月乙丑、中書省に旨を諭し、日本の使人速やかに議して遣還せしむ。安童言う、「良弼は金州の戍兵を移し、日本に妄りに疑懼を生ぜしむることなからしめんことを請う。臣等以為く、金州の戍兵は彼の国の知る所、若し復た戍を移さば、恐らく宜しきに非ざらん。ただ来使に開諭し、この戍は乃ち躭羅のため暫く設くる所、爾等疑畏すべからざるのみ。」帝善しと称す。甲戌、民間の四教経を括り、これを焚く。蒙古都元帥アジュ・漢軍都元帥劉整・アリハイヤ、本軍を督して樊城の外郭を破り、首二千級を斬り、生擒に将領十六人を得、重囲を増築してこれを守る。済南路の饑を賑す。詔して医戸の差徭を免ず。

夏四月己丑、詔して土蕃・西川の界に寧河駅を立つ。辛卯、皇子アイヤチの所部に馬を賜う。丙午、西平王オルチの所部に米を給す。甲寅、大都路の饑を賑す。

五月戊午朔、和林転運司を立て、小雲失別を以て使とし、兼ねて交鈔使を提挙せしむ。己未、クコカイに海青銀符二を給す。辛酉、回回軍の簽を罷む。癸亥、バトゥ軍に勅し、怯鹿難の地に渠を開き田を耕さしむ。丙寅、徐・邳の二州の丁壮万人を簽し、邳州を戍らしむ。庚午、鉄冶戸を減ず。西蕃トルガン等の処の金銀鉱戸を罷めて民とす。漢人の衆を聚めて蒙古人と鬭毆するを禁ず。詔して躭羅及び済州を取ることを議す。辛巳、都城を修築するを勅し、凡そ費は悉く官より給し、諸民に取ることなからしめ、併せて伐木役夫の税賦を蠲す。甲申、諸路の軍戸の駆丁に勅し、至元七年以前に良に従い民籍に入る者は差を当て、余は良に従うと雖も、並びに本戸の軍力を助けしむ。乙酉、太白畢の距星を犯す。宮城初めて東西華・左右掖の門を建つ。詔して答里伯の所部の流民を安集せしむ。

六月壬辰、高麗国西京属城の諸ダルガチ及び質子金鎰等を遣わし帰国せしむ。乞里吉思屯田所の入租を減じ、なお南人百名を遣わし、牛具を給して往かしむ。この夜京師大雨、牆屋を壊し、圧死する者衆し。癸巳、籍田の儲くる所の糧を以て民を賑すを勅し、足らざれば、また近地の官倉を発してこれを済す。甲午、高麗饑を告ぐ、東京の米二万石を転じてこれを賑す。己亥、山東路行枢密院タチュ、四月十三日に歩騎を遣わし漣州に趨り、射龍溝・五港口・塩場・白頭河の四箇所の城堡を攻め破り、宋兵三百余人を殺し、人牛万計を虜獲し、第功賞賚差有り。辛亥、高麗国王王禃、躭羅の余寇を討たんことを請う。

秋七月丁巳朔、河南省臣言う、「往年民を徙して辺を実にし屯耕せしむるに、貧苦のため悉く散還して家に帰る。今唐・鄧・蔡・息・徐・邳の民、その田廬を愛し、なお故屯を守り、願わくは絲銀を以て準折し糧を輸し、而して内陸の州県粟を転じて軍に餉うる者は、反ってこれを厭苦す。臣議う、今歳沿辺の州郡は、宜しくその旧に仍り糧を輸し、内陸の州郡は、その戸数を験し、鈔に折じて沿辺に就き和糴せしむべし、庶幾くは彼此交便ならん。」制して曰く「可なり」。開元・東京等の路の諸漏籍戸を拘括す。私に回回暦を鬻ぐを禁ず。水達達部の饑を賑す。戊寅、諸王ババの部に銀鈔を賜い、都城の僧を集めて大蔵経九会を誦せしむ。壬午、和礼霍孫奏す、「蒙古字国子学を設く、而して漢官の子弟未だ学ぶ者有らず、及び官府の文移猶お畏吾字有り。」詔して今より凡そ詔令は並びに蒙古字を以て行い、なお百官の子弟を遣わし入学せしむ。乙酉、大羅鎮の居民を徙すことを免じ、令して租米を倍輸して鷹坊に給せしむ。詔して大都・京兆等の処の探馬赤奴戸の名籍を分閲せしむ。

八月丙戌朔、日食有り。戊子、群牧所を立て、牧馬及び尚方の鞍勒を掌らしむ。壬辰、忙安倉及び浄州に勅し、予め糧五万石を儲け、以て弘吉剌新たに徙る部民及び西人内附する者の廩給に備えしむ。兵を調えて全羅州の戍を増す。乙未、諸人の己が事を以て輒ち至尊の称号を呼ぶ者を禁ず。丁酉、オルト所を立つ。己亥、諸王クコチュ、分地の寧海・登・萊の三州を以て自ら一路と為し、他王に比し、歳賦は惟だ寧海に入り、益都に輸すること無からんことを請う、詔してこれに従う。癸卯、千戸崔松、宋の襄陽の援兵を敗り、その将張順を斬る、松等の将士に賜うこと差有り。乙巳、車駕上都より至る。丁未、延州を延津県と改め、陽武とともに南京に隷す。癸丑、遼東等路の饑を賑す。

九月甲子、宋の襄陽の将張貴が輪船で城を出て、流れに順って突撃し戦った。阿朮・阿剌海牙らは烽火を上げ火を燃やし、江を照らして昼の如くにし、舟師を率いて転戦すること五十余里、櫃門関に至り、張貴及び将士二千余人を生け捕りにした。丙寅、枢密院に勅す。「諸路の正軍貼戸及び同籍の親戚奴僕で、丁年既に長じ、諸王権要に依って役を避ける者は、並びにこれを軍に還せ。ただ匠芸精巧なる者は名を以て聞かせよ。」癸酉、同僉河南省事崔斌が右丞阿里が軍数二万と妄りに奏上したことを訴える。勅して杖罰を加えてこれを罷免す。甲戌、水軍総管府を罷む。東川元帥李吉らが開州を攻略し、石羊寨を抜き、宋の将一人を擒らえる。統軍使合剌らの兵が合州及び渠江口を掠め、戦船五十艘を獲る。銀幣を賜うこと差等あり。丙子、民夫三千人を発して巨木を遼東に伐たしめ、その家の徭賦を免ず。戊寅、太陰、御女を犯す。益都路の饑えを賑恤す。

冬十月丙戌朔、皇子忙哥剌を安西王に封じ、京兆を分地として賜い、六盤山に兵を駐めしむ。使者を遣わし詔を持って扮卜・忻都国を諭す。壬辰、太廟に享く。癸巳、趙璧を平章政事とし、張易を枢密副使とする。乙未、渾河の堤を築く。戊戌、熒惑、填星を犯す。己亥、七月より十一月の終わりまで狩猟を聴すことを勅し、余月はこれを禁ず。癸卯、文州を立てる。初めて会同館を立てる。

十一月乙卯朔、詔して至元十年の暦を以て高麗に賜う。壬戌、北京の民夫六千を発し、乾山に木を伐たしめ、その家の徭賦を蠲免す。諸王只必帖木児が新城を築き成る。永昌府と名づけて賜う。丙寅、昔剌斡脱の負う所の官銭を蠲免す。丁卯、太陰、畢を犯す。光州に城す。無籍軍を遣わして宋の境を掠めしむ。己巳、屯田軍二千・漢軍二千・高麗軍六千を発し、なお武衛軍二千を益し、躭羅を征することを勅す。辛未、高陵の儒者楊恭懿を召す。至らず。癸酉、前に樊城外郭を抜いた功により、千戸劉深らに金銀符を賞賜す。己卯、中書省左右司を併せて一と為す。宋の京湖制置李庭芝が書を作り、永寧の僧を使わし金印・牙符を齎らせ、来たりて劉整に盧龍軍節度使を授け、燕郡王に封ぜんとす。僧、永寧に至り、事覚る。上聞き、張易・姚枢に雑問せしむを勅す。時に劉整軍中より至り、言う「宋は臣が襄陽に用兵するを患い、以て是を以て臣を殺さんと欲するなり。臣は実に知らず」と。勅して整に書を作らせてこれに返答せしめ、整を賞賜し、軍中に還らしむ。永寧の僧及びその党友を誅す。参知行省政事阿里海牙言う「襄陽は囲まれ久しく未だ下らず。宜しく先ず樊城を攻め、その声援を断つべし」と。これに従う。回回の亦思馬因が巨石砲を創作して来たり献ず。用力省くして撃つ所甚だ遠し。命じて襄陽軍前に送り用いしむ。

十二月乙酉朔、諸路府州司県の達魯花赤管民長官に詔し、諸軍奥魯を兼管せしむ。丁亥、粛州等処の駅を立てる。東平府の民五万余戸を以て、復た東平路と為す。辛丑、諸王忽剌出が逃民を高麗界中に拘括す。高麗達魯花赤その事を上る。詔して高麗の民なお未だ安集せずとし、これを禁め罷む。宋の互市を議する使者を遣わし南に帰らしむ。戊午、北平王南木合に軍馬一万二千九百九十一・羊六万一千五百三十一、及び諸王塔察児に軍幣帛を賜う。辛亥、宋の将昝万寿来たり成都を攻む。僉省厳忠範出戦して利あらず、退きて子城を保つ。同知王世英ら八人城を棄てて遁る。詔して辺城の失守は罪主将に在り、世英らは遁れども、その罪を免し、ただ使者を遣わし忠範を縛り京師に至らしむ。癸丑、拱衛司を陞めて拱衛直都指揮使司と為す。

この歳、天下の戸一百九十五万五千八百八十。先朝の后妃及び諸王に金・銀・幣・帛を賜うこと歳例の如し。死罪三十九人を断ず。大聖寿万安寺を建つ。