元史

志第十九: 礼楽二

制楽始末

太祖の初年、河西の高智耀の言により、西夏の旧楽を徴用した。太宗十年十一月、宣聖五十一代の孫である衍聖公の孔元措が来朝し、帝に言上して曰く、「今、礼楽は散失し、燕京・南京等の処には、亡金の太常の旧臣及び礼冊・楽器が多く存している。詔を降して収録を乞う」と。ここに詔を降し、各処の管民官に命じ、もし亡金の礼楽を知る旧人があれば、その家族とともに東平に移住させ、孔元措に率いさせ、本路の税課所においてその食を給することとした。十一年、孔元措は詔を奉じて燕京に至り、金の掌楽許政・掌礼王節及び楽工の翟剛ら九十二人を得た。十二年夏四月、初めて登歌楽の製作を命じ、曲阜の宣聖廟において練習させた。十六年、太常は許政の推挙する大楽令の苗蘭を東平に遣わし、工人を指導して琴十張を造らせた。一絃・三絃・五絃・七絃・九絃のものが各二張である。

憲宗二年三月五日、東平万戸の厳忠済に命じて局を立てさせ、冠冕・法服・鐘磬・筍簴・儀物を製作し練習させた。五月十三日、太常の礼楽人を日月山に赴かせるよう召した。八月七日、学士の魏祥卿・徐世隆、郎中の姚枢らが、楽工の李明昌・許政・呉徳・段楫・寇忠・杜延年・趙徳ら五十余人を率いて行宮に謁見した。帝が礼楽製作の始めを問うと、徐世隆は答えて曰く、「堯・舜の世に、礼楽は興りました」と。時に李明昌らは各々鐘・磬・笛・簫・篪・塤・巣笙を執り、帝の前でこれを奏した。曲が終わると、再び合奏し、凡そ三度終えた。十一日、初めて登歌楽を用いて日月山において昊天上帝を祀った。祭祀が終わると、駅伝で楽工を東平に還すよう命じた。

三年、時に世祖は潜邸に居り、東平府公事を勾当する宋周臣に命じて大楽礼官・楽工人等を兼ねて率いさせ、常に練習させ、また万戸の厳忠済に既に降された詔に従って慰撫させるよう命じた。六年夏五月、世祖は潜邸として灤州に駐在し、教令を下して厳忠済に宋周臣を督させ、得た礼楽の旧人に練習させ、宜しく故事の如く努めて行い、疎かにせぬよう命じた。冬十一月、楽工で老いて職務に堪えられぬ者は、子孫に代えさせ、不足する者は、他の戸から補うよう勅した。

中統元年春正月、宣撫の廉希憲らに命じ、太常の礼楽人を燕京に召し寄せた。夏六月、許唐臣らに命じて楽器・公服・法服を製作させた。秋七月七日、工事が完了した。十一日、新製の雅楽を用い、中書省において祖宗を饗した。礼が終わると、祭事に参与した官及び礼楽人百四十九人に差等を付けて鈔を賜った。八月、太常の礼楽人に再び東平に還るよう命じた。二年秋九月、太常少卿の王鏞に命じて東平の楽工を率いさせ、常に監督視察して練習させ、朝廷の用に備えさせた。

五年、太常寺が言上して曰く、「古より帝王は功成って楽を作り、楽には各々名があり、盛徳を形容するものはここにある。伏して皇上の践祚以来を拝見するに、至治に心を留め、声名文物について、承平の旧に復することを思し召される。まず有司に勅して、登歌・宮懸・八佾の楽舞を修め完備させ、郊廟の用に備えさせた。古典に照らせば、宜しく徽称があるべきである。謹んで歴代の楽名を案ずるに、黄帝は咸池・龍門・大巻、少昊は大淵、顓頊は六莖、高辛は五英、唐堯は大咸・大章、虞舜は大韶、夏禹は大夏、商湯は大濩、周武は大武という。近代に降っても、皆その名がある。宋は総名を大晟とし、金は総名を大和とした。今、輿議を採り、暫く数名を以てし、伏して詳定を乞う。曰く大成、尚書に『簫韶九成、鳳凰来儀』とあるに按ずる。楽記に曰く『王者功成りて楽を作る』、詩に云う『展なり大成』。曰く大明、白虎通に言う『唐堯の徳の如く、能く天人の道を大いに明らかにす』に按ずる。曰く大順、易に曰く『天の助くる所は順なり』、また曰く『天に順いで人に応ず』。曰く大同、楽記に曰く『楽は同を為し、礼は異を為す』。礼運に曰く『大道の行わるるや、故に人は独り其の親を親とし、独り其の子を子とせず、是を大同と謂う』。曰く大、易に曰く『豫は順を以て動く、故に天地之の如し』。象に曰く『雷地に出て奮う、豫なり。先王は楽を作りて徳を崇め、殷に之を薦めて上帝に上し、以て祖考に配す』」と。中書省は遂に名を大成の楽と定め、乃ち上表して賀を称した。表に曰く、「離日は中天にあり、既に文明の化を覩る。豫雷は地に出で、又た正大の音を聞く。神人も以て和し、祖考来たりて格る。欽惟く皇帝陛下は、洪業を潤色し、太平に意を游ばせ、爰に龍邸の潜まるより、久しく鳳儀の奏を敬す。宝位に登り及んで、鼎司に命を申し、堂上の登歌は陳ぶると雖も、尚ほ庭前の佾舞は闕くと謂う。方に厳なる禋祀に当たり、声容を備うべし。天語の一宣するに属し、乃ち春官の畢会す。臣等は素より学術無く、徒らに汗顔有り。旧署の師工を求め、仍て累朝の典故を討つ。図に按じて器を索め、永く声の和するを言い、積黍の中に鐘律を較べ、絶絃の後に琴調を続ぐ。金は模し、石は琢ち、簴は斯く竪き、筍は斯く横たわり、八音を合して克く諧い、三歳を閲して始めて就る。文武両階の干羽を列ね、帝王四面の宮庭を象り、一に哇淫の声を洗い、盛大の挙と謂うべし。既に雅器を完うし、未だ嘉名を錫わらず。蓋し聞く、軒・昊以来、倶に咸・雲の号有り、莖・英・章・韶は以て徳を象り、夏・濩・武・勺は以て功を表す。洪惟く国朝は、天命を受くるを誕し、地大物鉅、人和歳豊なり。宜しく古記の文に符し、大成の楽と称すべし。漢庭に議を聚め、章を作るは敢て一夔を望むに及ばず。舜殿に弦を鳴らし、率いて舞うは百獣を観んことを願う」と。

至元元年冬十一月、寺観や民家に散在する金の楽器を徴発した。先に、燕京の鐘・磬等の器物を徴発して到着したものは、凡そ三百九十九事で、翟剛に下して鑑別検分させ価を給した。この時、大興府はまた徴発した鐘・磬の楽器十事を進上した。太常は因って言上して曰く、「亡金の散失した楽器は、もし燕京のみで拘り徴発するならば、未だ尽きざるが如し。各路の寺観民家においてこれを徴発するに合い、多くは鋳造を省くべし」と。ここに奏して各道の宣慰司に檄を飛ばし、鐘三百六十七、磬十七、錞一を徴発して到着させ、太常に送らせた。また中都・宣徳・平灤・順天・河東・真定・西京・大名・済南・北京・東平等の処において、大小の鐘・磬五百六十九を徴発して到着させた。その完備しているものは、景鐘二、鎛鐘十六、大声鐘十、中声鐘一、少声鐘二十七、編鐘百五十五、編磬七である。その完備していないものは、景鐘四、鎛鐘二十三、大声鐘十三、中声鐘一、少声鐘四十五、編鐘二百五十一、編磬十四である。

三年、初めて宮懸・登歌楽・文武二舞を太廟に用いた。先に、東平万戸厳忠範が奏上した。「太常登歌楽器・楽工は既に完備しているが、宮懸楽・文武二舞は未だ備わっていない。総じて四百十二人を用い、東平の漏籍戸を以てこれに充てることを請う。用いる楽器は官が備え置く。」制可。中書省臣に議して行うことを命じた。ここにおいて中書は左三部・太常寺・少府監に命じ、興禅寺に局を置き、官の楊天祐・太祝の郭敏にその事を監督させ、大楽正の翟剛に音律を弁験させ、楽器を受け取る官を充てた。丞相の耶律鑄また言う。「今、宮懸大楽を製するに、内に編磬十二簴あり、諸処において石材を選びこれを作るべし。」太常寺は新たに撥付された宮懸楽工・文武二舞四百十二人が未だその芸を習わないとして、大楽令の許政を東平に遣わしてこれを教えさせた。大楽署が言う。「堂上下の楽舞官員及び楽工が用いる衣服・冠冕・靴履等の物は、製造を行うことを乞う。」中書礼部は太常博士に準じて移文し、制度を議定し、所属する所に下して製造させた。宮懸楽器が既に完成すると、大楽署の郭敏が名数を開列して上申した。編鐘・磬三十六簴、樹鼓四、建鞞・応同一座。晋鼓一、路鼓二、鞀鼓二、相鼓二、雅鼓二、柷一、敔一、笙二十七、巣と竽。塤八、篪・簫・籥・笛各十、琴二十七、瑟十四、単鐸・双鐸・鐃・錞・鉦・麾・旌・纛各二、編鐘百九十二を補鋳し、霊壁石磬もその数に同じ。省臣が言う。「太廟殿室がまさに完成し、宮懸楽器がことごとく備わった。東平の楽工を徴発し、京師に赴かせて練習させ、廟享を待つことを請う。」制可。秋七月、新たな楽服が完成し、楽工が東平より至った。翰林院に命じて八室の楽章を定撰させ、大楽署に舞節を編運させ、これらを練習させた。

冬十一月、太廟に事あり、宮懸・登歌楽・文武二舞ことごとく備わった。その迎送神の曲を来成之曲といい、烈祖を開成之曲、太祖を武成之曲、太宗を文成之曲、皇伯考朮赤を弼成之曲、皇伯考察合帯を協成之曲、睿宗を明成之曲、定宗を熙成之曲、憲宗を威成之曲といった。初献・升降を粛成之曲、司徒しとの俎を奉ずるを嘉成之曲、文舞退き武舞進むを和成之曲、亜終献・酌献を順成之曲、徹豆を豊成之曲といった。文舞を武定文綏之舞といい、武舞を内平外成之舞といった。第一成は王罕を滅ぼすを象り、二成は西夏を破り、三成は金を克ち、四成は西域を収め河南を定め、五成は西しょくを取り南詔を平げ、六成は高麗を臣とし交趾を服するを象る。詳しくは楽舞篇に見える。

十二月、近畿の儒戸三百八十四人を籍して楽工とした。先に、東平の楽工を召し用いたのは凡そ四百十二人であった。中書は東平が地遠いとして、その戸九十二を留めるのみとし、余は尽く還し遣わし、再び民籍に入れた。

十一年秋八月、内庭の曲舞を製した。中書は皇帝の冊宝を上るに当たり、太常太楽署に無射宮大寧等の曲及び上寿の曲譜を編運することを下した。当時、殿庭に雅楽を用いることを議したが、後に行われなかった。

十三年、近畿の楽戸多く逃亡し、僅かに四十二を得るに過ぎなかったため、再び東平の楽工を徴用した。十六年冬十月、太常卿の忽都于思に命じて太常の楽工を召し集めさせた。この月十一日、大楽令の完顔椿らが楽工を率いて香閣に参じ、文郎の魏英が迎神の黄鐘宮曲を舞い、武郎の安仁が亜献の無射宮曲を舞った。十八年冬十月、昭睿順聖皇后がまさに廟に祔せられんとするに当たり、昭睿順聖皇后室の曲舞を製した。

十九年、王積翁が亡宋の雅楽器を京師に徴発することを奏請し、八作司に置かせた。二十一年、大楽署が「宜しく本署に付して収掌せしむべし」と言上したので、中書は八作司に命じてこれを与えた。鎛鐘二十七、編鐘七百二十三、特磬二十二、編磬二十八、鐃六、単鐸・双鐸各五、鉦・錞各八。二十二年冬閏十一月、太常卿の忽都于思が奏上した。「大楽が現に用いる石磬は、声律が協わない。古典を稽えるに、磬石は泗濱に優るものはない。女直は未だこれを得たことがない。今、泗は封疆の内にある。その石を取って以て磬を製すべし。」従った。音律を審かに聴く大楽正の趙栄祖及び磬材を識別弁別する石工の牛全を選び、泗州に詣でてこれを採らせ、磬の璞九十を得て、編磬二百三十を製した。大楽令の陳革らに命じて選別させ、律に応ずるもの百五を得た。二十三年、忽都于思また奏上した。「太廟の楽器、編鐘・笙匏は歳月を経て朽ち損じ、音律が協わない。」ここにおいて編鐘八十一を補鋳し、律に合うもの五十、笙匏三十四を造った。二十九年四月、太常太卿の香山が石を採って編磬を増製することを請い、孔鑄を駅伝にて馳せさせて泗州に往かせ、磬の璞五十八を得て、磬九十を製した。大楽令の毛荘らがこれを審聴し、律に応ずる磬五十八を得た。ここにおいて編磬は初めて備わった。

三十年夏六月、初めて社稷を立て、大楽の許徳良に命じて曲譜を編運させ、翰林国史院に楽章を撰述させた。その降送神を鎮寧之曲といい、初献・盥洗・升壇・降壇・望瘞位はいずれも粛寧之曲、正配位の玉幣を奠めるを億寧之曲、司徒の俎を奉ずる・徹豆を豊寧之曲、正配位の酌献を保寧之曲、亜終献を咸寧之曲といった。按ずるに、社稷・先農を祭り、及び大徳六年に天地五方帝を祀るに、楽章は皆、金の旧名を用いた。宣聖を釈奠するも、また宋に因って改めなかった。詳しくは楽章篇に見える。三十一年、世祖・裕宗が廟に祔せられ、大楽署に命じて曲譜舞節を編運させ、翰林に定めて楽章を撰述させた。世祖室を混成之曲、裕宗室を昭成之曲といった。

成宗大徳九年、新たに郊壇を建てて既に完成したので、大楽署に命じて曲譜舞節を編運させ、翰林に楽章を撰述させた。十一月二十八日、圜丘を祀るにこれを用いた。その迎送神を天成之曲といい、初献の玉幣を奠めるを欽成之曲、酌献を明成之曲、登降を隆成之曲、亜終酌献を和成之曲、奉饌徹豆を寧成之曲、望燎は登降の如く、ただ黄鐘宮を用いた。文舞を崇徳之舞といい、武舞を定功之舞といった。

十年、江浙行省に命じて宣聖廟の楽器を製造させ、宋の旧楽工の施徳仲に審較して律に応ずるものを較べさせ、京師に運ばせた。秋八月、廟祀して宣聖を祀るに用いた。先に翰林に命じて新たに楽章を撰述させ、楽工にこれを習わせた。降送神を凝安之曲といい、初献・盥洗・升殿・降殿・望瘞はいずれも同安之曲、奠幣を明安之曲、奉俎を豊安之曲、酌献を成安之曲、亜終献を文安之曲、徹豆を娛安之曲といった。蓋し旧曲なり。新楽章は遂に用いられなかった。

十一年、武宗が即位し、天地に祭告するにあたり、大楽署に命じて皇地祇酌献の大呂宮一曲及び舞節を編纂させ、翰林に楽章を撰述させた。曲名はない。九月、順宗・成宗の二室を廟に合祀し、大楽署に曲譜舞節の編纂を下命し、翰林に楽章を撰述させた。順宗室は慶成之曲と称し、成宗室は守成之曲と称した。

至大二年、親しく太廟を享祭した。皇帝が入門するときは順成之曲を奏し、盥洗・升殿には至元年間の初献升降の肅成之曲を用いた(これも順成之曲と称する)。出入小次には昌寧之曲を奏し、迎神には至元年間の來成之曲を用い、思成と改称した。初献・摂太尉の盥洗・升殿には肅寧之曲を奏し、酌献の太祖室には従前の曲を用い、開成と改名した(開成はもと至元年間の烈祖の曲名であり、その詞は太祖の旧曲である)。睿宗室には従前の曲を用い、武成と改名した(これも至元年間の太祖の曲名であり、その詞の「神祖創業」以下は従前のままである)。皇帝の飲福・登歌には釐成之曲を奏した(新製の曲)。文舞退・武舞進には従前の曲を用い、肅寧と改名した(旧名は和成、その詞は「天生五材、孰能去兵」以下である)。亜終献・酌献には従前の曲を用い、肅寧と改名した(旧名は順成、その詞は「幽明精禋」以下である)。徹豆は豐寧之曲と称し(旧名は豐成、詞語も異なる)、送神は保成之曲と称し、皇帝が廟廷を出るのも昌寧之曲と称した。太常集禮に曰く、「楽章は孔思逮の本に拠ってこれを録す。国朝の楽章は皆成の字を用い、凡そ寧の字を用いるものは、金の曲である。国初の礼楽の事は、悉く前代の旧工を用い、故常に循い習い、遂にその旧を用いるものあり。またその詞を用いずして、旧号を冒するものもあり、郊祀先農等の楽がこれである。」

冬十二月、初めて先農楽章を製し、太常の登歌楽をもってこれを祀った。先に、登歌楽をもって先農を祀ることを命じられ、社稷を祭るの制の如くせよとあった。大楽署が言うには「礼、先農を祀るは社の如し」と。そこで祭社の林鐘宮鎮寧等の曲を録して上進したが、これは金の曲である。三年冬十月、曲阜の宣聖廟に登歌楽を置いた。初め、宣聖五十四代の孫で左三部照磨の思逮が言うには、「闕里の宣聖祖廟において、釈奠の礼を行うこと久しく欠け、祭服・登歌の楽が未だ寵賜を受けていない。もし江浙行省に移牒し、各処の贍学祭餘の子粒内において、登歌楽器及び祭服を製造し、祭祀に備えさせれば、神に事える礼を尽くすことができるであろう」と。中書はその請いを允し、江浙に移文して製造させた。この時、楽器が完成し、闕里に運び送って用いた。十一月、詔して二十三日冬至に、南郊において昊天上帝を祀り、太祖を配祀することを命じ、大楽署に配位及び親祀の曲譜舞節を編纂させ、翰林に楽章を撰述させた。皇帝出入中壝の黄鐘宮曲二、盥洗の黄鐘宮曲一、升殿登歌の大呂宮曲一、酌献の黄鐘宮曲一、飲福登歌の大呂宮曲一、出入小次の黄鐘宮曲一。いずれも曲名はない。四年夏六月、武宗を廟に合祀し、楽正の謝世寧らに曲譜舞節の編纂を命じ、翰林侍講学士の張士観に楽章を撰述させ、曲名は威成之曲とした。

仁宗皇慶二年秋九月、登歌楽を用いて太上皇睿宗を真定の玉華宮において祀った。これより毎年これを用い、延祐七年春三月に奏上して廃止した。延祐五年、各路府の宣聖廟に雅楽を置き、古楽に習熟した楽師を選んで生徒を教習させ、春秋の祭祀に供えさせることを命じた。六年秋八月、三皇廟の楽を置くことを議したが、果たして行われなかった。七年、仁宗を廟に合祀し、楽正の劉瓊らに酌献の楽譜舞節の編纂を命じ、翰林に楽章を撰述させ、曲名は歆成之曲と称した。

英宗至治二年冬十月、登歌楽を太廟において用いた。この月、英宗を廟に合祀し、大楽署に楽譜舞節の編纂を下命し、翰林に楽章を撰述させ、曲は獻成之曲と称した。文宗天暦二年春三月、明宗を廟に合祀し、大楽署に楽譜舞節の編纂を下命し、翰林に定めて楽章を撰述させ、曲は永成之曲と称した。

登歌楽器

金部

編鐘一簴、鐘十六個。型に金を流してこれを造る。筍簴(横木を筍、支柱を簴という)は皆、彫刻彩色し羽飾りを立て、塗金の双鳳五体を配し、中央に博山を列ね、崇牙十六個、紅絨の組で懸垂する。簴の趺(台座)は青龍が地に敷かれ、緑油の臥梯二つを加え、両側に跗(足)を付す。筍の両端は金の螭首で、鍮石の璧翣を銜え、五色の銷金流蘇を付け、紅絨の組でこれを繋ぐ。鉄の杙が四本あり、傾斜を防ぐのに用いる。太室では地甓に支障があるため、石麟に替えた。簴の額には金飾の篆字で識す。鐘を撃つものは茱萸木で作り、竹を合わせて柄とする。凡そ鐘は、未だ奏されざるときは黄羅で覆い、雨のときは油絹で覆う。磬もまた同じ。元初、鐘は宋・金の旧器を用い、その識に「大晟」「大和」「景定」とあるものがこれである。後に増製し、併せて用いた。

石部

編磬一簴、磬十六個。石でこれを造る。紅絨の紃で懸垂し、簴の跗は狻猊の形。磬を拊つものは牛角で作る。その他の筍簴・崇牙・樹羽・璧翣・流蘇の制は、全て鐘と同じ。元初、磬もまた宋・金の旧器を用いた。至元年間に至り、初めて泗濱の霊壁石を採ってこれを造った。

絲部

琴十面。一絃・三絃・五絃・七絃・九絃のものが各二面。桐を削って表とし、梓を底とし、冰絃、木軫、漆質、金徽。長さ三尺九寸。首の幅五寸二分、通足の中の高さ二寸七分、両側各高二寸。尾の幅四寸一分、通足の中の高さ二寸、両側各高一寸五分。皆、黄綺の夾囊に収めて貯える。琴卓は緑で漆を塗る。

瑟四面。その制、底面ともに梓木を用い、表面に彩色を施し、両端に錦を描く。長さ七尺。首の幅一尺一寸九分、通足の中の高さ四寸、両側各高三寸。尾の幅一尺一寸七分、通足の中の高さ五寸、両側各高三寸五分。朱絲を絃とし、凡そ二十五本、各々柱を設け、両頭に孔があり、疏通して相連なる。黄綺の夾囊に収めて貯える。架四つ、緑で漆を塗り、金で飾った鳳首八つ。

竹部

簫二架。竹を編んでこれを造る。毎架十六管、幅一尺六分。黒漆に金の鸞鳳を描いて飾りとし、鍮石の釘鉸を付す。黄絨の紃で人の項に掛け、左右さらに紅絨の絛結を垂らす。架は木で作り、高さ一尺二寸、排簫とも号す。黄囊で覆う。

笛二つ、竹を断ちてこれを作る。長さ一尺四寸、七孔、また長笛と号す。朱糸を以て纏い、紅絨の条結を以て垂らす。黄囊を以て韜む。

籥二つ、制は笛の如く、三孔。朱糸を以て纏い、紅絨の条結を以て垂らす。黄囊を以て韜む。

篪二つ、髹色は桐葉の如く、七孔。朱糸を以て纏い、紅絨の条結を以て垂らす。黄囊を以て韜む。

匏部

巢笙四、和笙四、七星匏一、九曜匏一、閏餘匏一、皆斑竹を以てこれを作る。玄髹の底、管を匏中に置き、簧を管端に施し、参差として鳥翼の如し。大なるものを巢笙と曰い、次を和笙と曰い、管皆十九、簧もまた然り。十三簧のものを閏餘匏と曰い、九簧のものを九曜匏と曰い、七簧のものを七星匏と曰う。皆黄囊を以て韜む。

土部

塤二つ、陶土を以てこれを作る。囲み五寸半、長さ三寸四分、形は称錘の如し。六孔、上一、前二、後三。黄囊を以て韜む。

革部

搏拊二つ、制は鼓に似て小さく、中に糠を実じ、外は朱を以て髹し、緑雲を以て絵し、青絨の条を以て繋ぐ。両手を用い、或いは搏ち或いは拊ち、以て登歌の楽を節す。

木部

柷一つ、桐木を以てこれを作る。状は方桶の如く、上に山を絵し、粉を以て髹し、旁に円孔を為し、椎を中に納む。椎は杞木を以てこれを作り、之を撞きて以て楽を作す。

敔一つ、桐木を以て製す。状は伏虎の如く、彩絵を以て飾りと為し、背に二十七の鉏鋙刻有り、下に槃を以て承く。長さ二尺四寸の竹を用い、十茎に破り、其の名を籈と曰い、其の背を櫟きて以て楽を止む。

宮縣楽器

金部

鎛鐘十二簴、一簴に一鐘、制は編鐘を視て大きく、十二辰の位に依り特縣す。また辰鐘と号す。筍簴は朱髹、塗金し、彩絵して飛龍を描く。跗は東に青龍、西に白虎、南に赤豸、北に玄麟。素羅の五色流蘇。余の制は並びに編鐘と同じ。

編鐘は十二のきょあり、一簴ごとに十六の鐘を備える。その制は登歌の項に見える。以下、楽器の制が登歌と同じものは、重ねて記載しない。

石部

編磬は十六の簴あり、一簴ごとに十二の磬を備える。その制は登歌の項に見える。筍簴(きょの横木)は鎛鐘と同じ。

絲部

琴は二十七あり、一絃のものが三、三絃・五絃・七絃・九絃のものが各六。

瑟は十二あり。

竹部

簫十、籥十、篪十、笛十。

匏部

巢笙十。

竽十、竹で作る。巢笙とともにいずれも十九のしたを有するが、ただ指法がそれぞれ異なる。

七星匏一、九曜匏一、閏餘匏一。

土部

塤八。

革部

晋鼓一つ、長さ六尺六寸、面の直径四尺、周囲一丈二尺、穹隆きゅうりゅうたる部分は鼓面の三分の一を占め、穹径六尺六寸三分の一。面に雲龍を描き飾りとし、その臯陶こうとうは朱漆を塗り、下に彩色を施した趺座ふざで支え、鼓と合わせて高さ一丈余り。郊祀に用いるものは、馬革で張る。

樹鼓四つ、各樹に三つの鼓。その制は高さ六尺六寸、中央に柱を立て、建鼓という。柱の末端に翔鷺しょうろを飾り、下に小円輪を設ける。また重斗じゅうと方蓋ほうがいとし、ともに彩色を施す。四隅に竿があり、各々璧翣へきしょう流蘇りゅうそを垂らし、下に青狻猊せいさんげい四つをとする。建鼓の傍らに二つの小鼓を挟み、へいおうといい、楽懸がくけんの四隅に樹てる。踏床ふしょう鼓桴こふはともに朱漆を塗る。

雷鼓二つ、制は鼓に似て小形、馬革で張り、その柄を持って振ると、傍らの耳が自ら打つ。郊祀に用いる。

路鼓二つ、制は雷鼓の如し、ただし馬革を用いない。宗廟祭祀に用いる。

木部

節楽の器

文舞の器

武舞の器物

旌二つ、制は纛の如し、杠の首に鳳を栖らせ、以て武舞を導く。

干六十四、木を以て之を作り、彩繪を加う。舞人の執る所。

戚六十四、制は剣の如し。舞人の執る所。礼記注に「戚は斧なり」と。今の制は古と異なる。

金錞二つ、銅を範として之を作り、中は虚ろ、鼻は狻猊に象り、木の方趺あり。二人錞を挙げ、趺の上に築く。

金鉦二つ、制は銅槃の如く、懸けて之を撃ち、以て楽を節す。

金鐃二つ、制は火斗の如く、柄あり、銅を以て匡と為し、其の上を疏かにして鈴の如く、中に丸あり。其の柄を執りて之を揺すれば、其の声鐃鐃然たり、以て鼓を止むるに用う。

単鐸・双鐸各二つ、制は小鐘の如く、上に柄あり、金を以て舌と為し、以て武舞を振わす。両鐸一柄に通ずる者、号して双鐸と曰う。

雅鼓二つ、制は漆筩の如く、羊革を以て鞔き、旁に両紐あり。工人之を持ち、地に築きて以て舞を節す。

相鼓二つ、制は搏拊の如く、韋を以て表と為し、之に糠を実つ。其の両端を拊すれば、以て楽舞の節を相う。

鼗鼓二つ。

舞表

表四つ、木の杆、方石を鑿ちて之を樹つ、以て舞人の兆綴を識す。