元史

志第十六: 河渠一

水が中国に患いとなることは、古くからある。その患いとなる所以を知れば、その利となる所以を知り、その患いが測り難いが故に、事前に備えを為し、あるいは事後に功績を収めることが出来るならば、これこそ水を善く治めてその利を通ずる者と言えよう。昔、禹は洪水を埋め、九河を疏け、九沢を陂てて、万世の利を開いた。周礼の地官の属に載る瀦防溝遂の法は甚だ詳しい。当時は、天下に水利でない所は無かったのである。先王の井田の制が壊れて後、水利の説が興った。魏の史起が漳河を鑿ち、秦の鄭国が涇水を引き、漢の鄭當時・王安世らは、或いは漕渠を穿つことを献策し、或いは水の決壊を防ぐ策を建てた。この数君子は皆その術を試みて遂に成功を収め、太史公の河渠書に未だ考うべきものがある。その後、凡そ好事喜功の徒は、多く興利の言を為し、その患いは顧みるに言い尽くせぬものがある。潤下は水の性であるのに、これに防を為してその怒りを殺ぎ、その衝を遏えようとするのは、また甚だ難いことではないか。ただその勢いに因ってこれを導き、蓄え得れば水を儲えて旱魃の災いに備え、泄せ得れば水を瀉して水潦の溢れを防げば、水の患いは息み、ここに無窮の利があるのである。

元は天下を有し、内には都水監を立て、外には各処に河渠司を設け、水利を興し挙げ、河隄を修理することを務めとした。双塔・白浮の諸水を決して通惠河と為し、漕運を助け、京師に転餉の労が無かった。渾河を導き、灤水を疏け、武清・平灤に墊溺の憂いが無かった。冶河を浚い、滹沱を障ぎ、真定は決嚙の患いを免れた。臨清に会通河を開き、南北の貨を通じた。陝西の三白を疏け、関中の田を溉いだ。江湖の淫潦を泄し、捍海の横塘を立て、浙右の民は水患を免れた。当時水利を善く言う者、太史郭守敬らの如きは、また未だ其の人無きにしも非ざりき。一代の事功、これ泯もすべからざる所以である。今故に其の開修の歳月・工役の次第を著し、歴って其事を叙べて分ち紀し、河渠志を作る。

通惠河

通惠河、その源は白浮・甕山の諸泉水より出づ。

世祖至元二十八年、都水監郭守敬詔を奉じて水利を興挙し、因って建言す。「通州より大都に至る河を疏鑿し、渾水を改めて引き田を溉ぎ、旧牐河の蹤跡に清水を導き、上は昌平県白浮村より神山泉を引き、西に折れ南に転じ、双塔・榆河・一畝・玉泉の諸水を過ぎ、西水門より都城に入り、南に匯りて積水潭と為り、東南より文明門に出で、東は通州高麗莊に至り白河に入る。総長一百六十四里一百四歩。清水口十二箇所を塞ぎ、共に長さ三百十歩。壩牐十箇所、共に二十座、水を節して漕運を通ずれば、誠に便益なり」と。これに従う。首事は至元二十九年の春に於いて、告成は三十年の秋、賜う名を通惠と曰う。凡そ軍一万九千百二十九、工匠五百四十二、水手三百十九、没官囚隄百七十二を役し、計二百八十五万工、楮幣百五十二万錠、糧三万八千七百石を用い、木石等の物は是に称う。役の興る日、丞相以下に命じて皆親ら畚鍤を操りて之を倡えしむ。牐を置く処、往々地中に旧時の磚木を得、時人これを感服す。船既に通行し、公私両便なり。先に通州より大都五十里、陸に官糧を輓き、歳若干万、民その悴に勝えず、是に至り皆之を罷む。

其の壩牐の名を曰く、広源牐。西城牐二、上牐は和義門外西北一里に在り、下牐は和義水門西三歩に在り。海子牐、都城内に在り。文明牐二、上牐は麗正門外水門東南に在り、下牐は文明門西南一里に在り。魏村牐二、上牐は文明門東南一里に在り、下牐は西より上閘に至る一里に在り。籍東牐二、都城東南王家荘に在り。郊亭牐二、都城東南二十五里銀王荘に在り。通州牐二、上牐は通州西門外に在り、下牐は通州南門外に在り。楊尹牐二、都城東南三十里に在り。朝宗牐二、上牐は万億庫南百歩に在り、下牐は上閘を去ること百歩に在り。

成宗元貞元年四月、中書省臣言う。「新開の運河牐には、軍一千五百を用い、守護を兼ねて往来の船内の姦宄の者を巡防すべし」と。これに従う。七月、工部言う。「通惠河に牐壩を創造し、費す所貲からず。既に成功したるも、全く主守の人に藉り、上下照略して修治す。今提領三員を設け、人夫を管領し、専一に巡護せしめ、印を降し俸を給さんことを擬す。其の西城牐は会川と改め、海子牐は澄清と改め、文明牐は仍って旧名を用い、魏村牐は惠和と改め、籍東牐は慶豊と改め、郊亭牐は平津と改め、通州牐は通流と改め、河門牐は広利と改め、楊尹牐は溥済と改む」と。武宗至大四年六月、省臣言う。「通州より大都に至る運糧河牐は、始め速成を務めたる故、皆木を用う。歳久しくして木朽ち、一旦倶に敗れば、然る後に力を致すも、将に其の労に勝えざるを見ん。今永固を計るに、磚石を用い、以て次に修治すべし」と。これに従う。後に泰定四年に至り、始めて修完す。

文宗天暦三年三月、中書省臣言う。「世祖の時、通惠河を開挑し、閘座を安置し、全く上源の白浮・一畝等の泉の水に藉りて漕運を通ぜしむ。今各枝及び諸寺観の権勢、私に隄隁を決ち、稻田・水碾・園圃を澆灌し、河浅くして漕事を妨ぐ。之を禁ぜんことを乞う」と。旨を奉ず。白浮・甕山より直ちに大都運糧河隄隁の泉水に至るまで、諸人勢を挟みて窃かに決すること毋れ。大司農司・都水監厳に之を禁ぜよ。

壩河

壩河、亦た名を阜通七壩と曰う。

成宗大徳六年三月、京畿漕運司言う。「歳に米百万を漕ぐは、全く船壩夫の力に藉る。氷開より発運し河凍する時に至るまで、計二百四十日、日に糧四千六百余石を運び、轄する所の船夫一千三百余人、壩夫七百三十、占役俱に尽き、昼夜息まず。今歳水漲し、壩隄六十余箇所を衝決す。既に修畢したるも、霖雨の衝き圮ち、運水の走泄するを恐る。此を以て河隄の浅澀低薄なる去処を点視し、修理を加えんことを請う」と。五月四日より入役し、六月十二日に畢る。深溝壩九歳、計一万五千百五十三工。王村壩二箇所、計七百十三工。鄭村壩一箇所、計一千百二十五工。西陽壩三箇所、計一千二百六十二工。郭村壩三箇所、計一千九百八十七工。千斯壩下一箇所、計一万工。総用工三万二百四十。

金水河

金水河、その源は宛平県玉泉山より出で、流れて和義門南水門に至り京城に入る。故に金水の名を得たり。

至元二十九年二月、中書右丞馬速忽らが言うには、「金水河が経由する運石大河及び高良河・西河には、いずれも河を跨ぐ跳槽があるが、今や損壊している。新たに造ることを請う」。この年六月に工事を起こし、翌年二月に完工した。

至大四年七月、旨を奉じて金水河の水を引き、光天殿西花園の石山前の旧池に注がしめ、閘を四つ設けて水を調節した。閏七月に工事を起こし、九月に完成した。凡そ夫匠二十九人を役し、工数二千七百二十三を為し、妨工を除くと、実に六十五日を役した。

隆福宮前河

隆福宮前河、その水は太液池と通ず。

英宗至治二年五月、勅を奉じて云う、「昔、世祖の時に、金水河で手を濯ぐことを禁じた。今では馬を洗う者がある。秋に疏滌するに至るまで、諸人に汚穢せしむることなきを禁ぜよ」。ここに於いて修浚を会計し、三年四月に工事を起こし、五月に完工した。凡そ軍八百人を役し、工数五千六百三十五を為した。

海子岸

海子岸、上は龍王堂に接し、石を以てその四周を甃く。海子は一名積水潭と曰い、西北諸泉の水を聚め、流行して都城に入り、ここに匯して汪洋たること海の如し。都人の因って名づく。

仁宗延祐六年二月、都水監が前後を計会し、元の修めた旧石岸と相接せしむ。凡そ石三百五を用い、各長さ四尺、幅二尺五寸、厚さ一尺、石灰三千斤、該る工数三百五、丁夫五十人、石工十人、九月五日に工事を起こし、十一日に完工した。

至治三年三月、大都河道提挙司が言うには、「海子南岸の東西道路は、両城の要衝に当たり、金水河はその上を浸潤し、海子の風浪はその下を衝嚙す。かつ道狭く、時に潰陷泥濘し、車馬往来に艱し。もし石を以てこれを砌かば、実に永久の計なり」。泰定元年四月、工部が工物を応副し、七月に工事を起こし、八月に完工した。凡そ夫匠二百八十七人を用いた。

雙塔河

雙塔河、源は昌平県孟村の一畝泉より出で、雙塔店を経て東に至り、豊善村に至り、榆河に入る。

至元三年四月六日、巡河官が言うには、「雙塔河は時に将に泛溢せんとす。早く備えを為さずんば、潰決に至るを恐る。臨期卒に措手し難し。ここに水口を閉づる工物を計会し、都水監に開申す。雙塔河を創開してより、未だ堅久に及ばず。今や已に水漲の時に及びぬ。倘は決壊し、水勢を走泄して、運船に悩ましむること不便なり」。省、制国用司に給して所需を給するを準じ、都水監が夫を差して修治せしむ。凡そ閉づべき水口五箇所、用工二千一百五十五。

盧溝河

盧溝河、その源は代地より出で、名づけて小黄河と曰う。流濁なる故なり。奉聖州の界より、宛平県の境に流入し、都城より四十里の東麻谷に至り、二派に分かれる。

太宗七年歳乙未八月勅す、「近く劉冲祿が言うには、『水工二百余人を率い、已に期に依りて盧溝河の元破れたる牙梳口を築閉せり。もし堤を修めて固護せずんば、時に漲水して衝壊するを恐れ、或は利を貪る人の盗決して溉灌するあらん。請う令を以てこれを禁ぜよ』と。劉冲祿は就きて主領すべし。衝塌盗決せしむることなからしめよ。犯す者は違制を以て論じ、二年を徒し、決杖七十。もし修築に遇う時は、用いる丁夫・器具、応に差すべき処はこれを調発すべし。その旧有水手人夫の内、五十人は官を差して存留し妨げず。已に委ねて管領せしめ、常に切に巡視体究せしめ、歳一たび交番す。所司応副せざる者はこれを罪す」。

白浮甕山

白浮甕山は、すなわち通恵河の上流の源の出づる所である。白浮泉水は昌平県の界にあり、西に折れて南に流れ、甕山泊を経て、西水門より都城に入る。

成宗大徳七年六月、甕山等処の看牐提領が言うには、「閏五月二十九日より始まり、昼夜雨止まず、六月九日夜半、山水暴漲し、堤上に漫流し、水口を衝決す。」ここにおいて都水監は官を委して軍夫を督し、九月二十一日より役に入り、今月の終わりに工を輟む。実に役する軍夫九百九十三人。十一年三月、都水監が言うには、「白浮甕山河堤を巡視するに、崩壊三十余里、宜しく荊笆を編んで水口と為し、以て水勢を泄すべし。」笆口十一箇所を修めることを計り、四月に工を興し、十月に工畢る。

仁宗皇慶元年正月、都水監が言うには、「白浮甕山堤は、低薄崩陷の処多く、修治すべし。」来春二月に役に入り、八月に修完す。総べて修める長さ三十七里二百十五歩、計七万三千七百七十三工。延祐元年四月、都水監が言うには、「白浮甕山下より広源牐堤隁に至るまで、多くは淤澱浅塞し、源泉微細にして、流れを通ずること能わず、疏滌を擬す。」ここによりて工程を会計し、軍千人を差して疏治す。

泰定四年八月、都水監が言うには、「八月三日至六日、霖雨止まず、山水泛溢し、甕山諸処の笆口を衝壊し、民田を浸没す。」工物を計料し、工部に移文して支給を関して修治す。八月二十六日より工を興し、九月十三日工畢る。軍夫二千名を役し、実に役する九万工、四十五日。

渾河

渾河は、本盧溝水なり、大興県より流れて東安州・武清県に至り、漷州の界に入る。

至大二年十月、渾河水、左都威衛営西の大堤を決し、南流に泛溢し、左右二翊及び後衛の屯田の麦を没す。ここにより左都威衛が言うには、「十月五日、水、武清県王甫村の堤を決し、広さ五十余歩、深さ五尺許、水西南に漫りて平地を流れ、円営倉局を環り、水没せざるもの幾ばくも無し。恐らくは来春氷消え、夏雨水作れば、衝決して渠を成し、軍民害を受くべし。或いは営司を遷置し、或いは多く軍民を差して修塞し、庶幾くは墊溺を免れん。」三年二月十二日、省は左右翊及び後衛・大都路に官を委して工を督し修治することを準下し、五月二十日に至り工畢る。

皇慶元年二月十七日、東安州が言うには、「渾河水溢れ、黄堝堤一十七箇所を決す。」都水監は工物を計り工部に移文す。二十七日、枢密知院塔失帖木児が奏す、「左衛が言うには渾河堤口二箇所を決し、屯田浸して耕種せず、既に軍五百を発して修治す。臣等議す、水を治むるは有司の職なり、宜しく中書をして所属に戒め用心して修治せしむべし。」これに従う。七月、省委の工部員外郎張彬が言うには、「渾河を巡視するに、六月三十日霖雨、水漲して丈余に及び、堤口二百余歩を決し、民廬を漂わし、禾稼を没す。官を委して修治し、民丁を発して雑草を刈り興築を乞う。」

延祐元年六月十七日、左衛が言うには、「六月十四日、渾河、武清県劉家荘の堤口を決す。軍七百を差し、東安州の民夫と協力して同じくこれを修む。」三年三月、省議す、「渾河堤隁を決し、田禾を没し、軍民害を受く。既に奏聞す。官を差して相視す。上は石径山金口より、下は武清県界の旧堤に至るまで、長さ計三百四十八里。中間旧に因りて修築するもの大小四十七箇所、漲水の害する所修補に合うもの一十九箇所、堤無く創修するもの八箇所、疏通すべきもの二箇所。工計三十八万一百、軍夫三万五千を役し、九十六日にして畢るべし。もし通じて築せば則ち役大にして成り難く、就きて分かち三年と為してこれを為すべし。省院官を差し、先ず軍民夫匠万人を発し、その要処を修むるに興工す。」今月二十日、枢府は軍三千を撥し、中衛僉事を委してこれを督修治すと奏す。七年五月、営田提挙司が言うには、「去歳十二月二十一日、屯戸広武屯北の渾河堤二百余歩将に崩れんとするを巡視す。恐らくは春首土解け水漲すれば、浸没して患いと為らんことを乞うて修治す。」都水監は濠寨を委し、営田提挙司官・武清県官と会し、夫を督して広武屯北の陷薄堤一箇所を修完す。計二千五百工。永興屯北の堤低薄一箇所、計四千一百六十六工。落垈村西の衝圮一箇所、計三千七百三十三工。永興屯北の崩圮一箇所、計六千五百十八工。北王村荘西の河東岸より白墳児に至り、南は韓村西道口に至るまで、計六千九十三工。劉邢荘西の河東岸北は宝僧百戸屯より、南は白墳児に至るまで、計三万七百十二工。総べて用工五万三千七百二十二。

泰定四年四月、省議す、「三年六月内霖雨、山水暴漲し、大興県諸郷の桑棗田園を泛没す。枢府に移文し、七衛の屯田及び見在の軍内に於て、三千人を差して修治す。」

白河

白河は、漷州の東四里に在り、北は通州潞県より出で、南は通州の境に入り、また東南は香河県の界に至り、また流れて武清県の境に入り、静海県の界に達す。

至元三十年九月、漕司が言うには、「通州の運糧河は全く白・榆・渾三河の水を仰ぎ、合流して潞河と名づく。舟楫の行ことここに年有り。今歳新たに牐河を開き、渾・榆二河の上源の水を分引す。故に李二寺より通州三十余里、河道浅澀す。今春夏旱天にて、深さ二尺に止まる処有り、糧船通ぜず、小料船を用いて搬載を改め、歳月を淹延し、糧数を虧かす。先に、都水監白河を相視す。東岸呉家荘前より、大河の西南に就き、斜めに小河二里許を開き、榆河を引いて合流し深溝壩下に至らしめ、以て漕舟を通ぜんとす。今丈量す。深溝・榆河上湾より、呉家荘龍王廟前の白河に至り、西南は壩河に至るまで八百歩。及び巡視し、知るに榆河上源築閉せられ、その水尽く通恵河に趨る。ただ白仏・霊溝・一子母の三小河水の榆河に入る有るのみ。泉脈微にして舟に勝つこと能わず。擬すらくは呉家荘より龍王廟前に就き白河を閉じ、西南に小渠を開き、水を壩河上湾より引いて榆河に入らしめ、庶幾くは漕運すべし。また深溝楽歳五倉は、新旧糧七十余万石を積貯す。站車輓運艱緩なり。ここにより通州城北の通恵河積水を訪視す。深溝村西の水渠に至り、楽歳・広儲等倉に甚だ近し。積水の処より旧渠に由り北に四百歩を開き、楽歳倉の西北に至らしめ、小料船を以て運載すれば甚だ便なり。」都省これに准ず。通恵河は通州城北より、楽歳西北に至るまで、水陸共に長さ五百歩、計役八万六百五十工。

大徳二年(1298年)五月、中書省が都水監に文書を下付した。運糧河の堤防は楊村から河西務までの三十五里で、葦一万九千百四十束、軍夫二千六百四十九名を用い、三十日で完成する見込みであった。そこで本監は役人を分遣して濠寨を率い楊村に至り、損壊した堤防を巡視し、巡河夫を監督して修理させた。霖雨により水が溢れたため、工事は当初の見積もりより倍増し、寺洵口の北から蔡村・清口・孫家務・辛莊・河西務の堤防は、元の見積もりの葦草を用いて、低く薄い部分を修補し、月堤を新たに築き、かなりの成果を上げた。楊村の両岸に向かい合う出水河口四箇所は、葦草が不足したため、軍夫に採取・刈り取りを命じ、九月に工事を中止した。楊村の河は上流は通恵河などの諸河に接続し、下流は滹沱河に入り江淮に至り、官民の舟船が都邑に直達することを可能にし、国に利をもたらし民に便を供する。しかし楊村の堤岸は、修理するそばから崩壊する。これはおそらく工事が堅固でないためであり、徒らに工役を煩わせるだけである。未修理の部分は、来春、水が引き土が乾くのを待ち、軍夫を動員して修治すべきである。

延祐六年(1319年)十月、省の臣が言上した。「漕運の糧儲および南方から来る諸物資・商人の舟船は、すべて直沽を経由して通恵河に達する。今、岸が崩れ泥が浅くなっており、早急に疏浚しなければ、舟の航行に支障を来し、必ずや物価が高騰するであろう。都水監は水利を専管する職責であるから、役人一名を分遣し、時宜に応じて巡視させ、崩壊や浅瀬があれば適宜修築させ、工力が不足する場合は、有司が人夫を差し出して助役させ、怠慢な者は糾明処罰すべきである。」これに従った。

至治元年(1321年)正月十一日、漕司が言上した。「夏季に海運糧一百八十九万余石を運搬し、往復して漕運するには、河道の通暢が完全に頼りである。今、小直沽の汊河口では潮汐の往来により、七十余箇所に淤泥が堆積し、漕運が通行できない。都水監に文書を移して疏滌させるべきである。」工部が議した。「今は農作業が始まる時期であり、また民衆の多くが食糧に苦しんでいる。軍を差し出して助役しなければ、民力では及ばない。」枢密院が言上した。「軍人は不足している。」省が議した。「もし民丁を徴発すれば、今は春耕の時期であり、年貢の収穫を妨げる恐れがある。大都で民夫三千名を募集し、日当として傭鈔一両・糙粳米一升を支給し、正官に提調させ、日数を検証して支給し、都水監および漕司の役人に共同で監督させるべきである。」四月十一日に工事に着手し、五月十日に完工した。

泰定元年(1324年)二月、枢密府の臣が上奏した。「臨清萬戶府が言上するところによれば、至治元年の霖雨により、運糧河の岸が決壊したので、軍を差し出して修築すべきである。臣らが議するに、これは確かに利益ある事柄である。本府に軍三百名を差し出して労役に就かせるよう命ずべきである。」これに従った。三年(1326年)三月、都水監が言上した。「河西務の菜市灣で水勢が堤防を衝き齧り、倉庫に近接しているため、将来禍患となるであろう。劉二総管営の対岸、河の東岸において、河を遮断して堤防を築き、水流を旧河に合流させるよう改修すれば、後患を防ぐことができる。」四年(1327年)正月、省の臣が上奏し許可され、枢密府が軍五千名を差し出し、大都路が夫五千名を募集し、日当として糙米五升・中統鈔一両を支給し、本監と工部が役人を委任し、前えいの董指揮と共同で監督した。この年三月十八日に着工し、六月十一日に完工した。

致和元年(1328年)六月六日、臨清御河萬戶府が言上した。「泰定四年八月二日、河が氾濫し、営の北門の堤防約五十歩を破壊し、旧樁木百余本を流出させ、崩壊はなお止まっていない。」工部が議した。「河岸が崩壊しているのは、修理すべき道理である。すでに都水監が工事に必要な物資を計算し、各所から支給している。その役夫三千名について、もし民を徴発することを予定するなら、春先であり農作業を妨げる恐れがある。枢密院に文書を移して軍を派遣させるべきである。」省は、旧堤岸を修理し、新河口の東岸を拡幅することを許可した。工事量は五万九千九百三十七、軍三千名、木匠十名を用いる。

天暦二年(1329年)三月、漕司が言上した。「かつて開削した劉二総管営対岸の河は、旧河に比べて運糧の経路が迂遠である。役人を派遣して視察させ、旧河を再開削するのが便利であることを乞う。」四月九日、上奏が許可され、軍七千名を差し出し、兵部員外郎の鄧衡・都水監丞の阿里・漕使の太不花らに工事の監督・修浚を委任した。後に冬の寒さのため、凍結が解けるのを待って着工することとした。三年(1330年)、工部が大都に文書を移し、近郊で民夫三千名を募集し、日当として糙粳米三升・中統鈔一両を支給し、兵部は辛侍郎に改めて委任し、元の役人とともに開削工事を行わせた。

至順元年(1330年)六月、都水監が言上した。「二十三日の夜、白河の水が急に一丈余り上漲し、観音寺に新しく修築した護倉堤については、すでに有司に人夫を差し出させ救護を監督した。今、水は一尺余り引き、伏槽(低水位期)を待って工事に着手すべきである。」

御河

御河は、大名路魏県の境界から発し、元城県泉源郷の于村渡を経て、南北約十里、東北に流れて包家渡に至り、下流は館陶県の三口に接続する。御河の上流は交河県から始まり、下流は清池県の境界に入る。また永済河は清池県の西三十里にあり、南皮県から流れて来て清州に入る。今、これを御河と呼んでいる。

至元三年(1266年)七月六日、都水監が言上した。「運河は二千余里に及び、公私の物資を漕運し、利益は甚だ大きい。兵乱以来、修治が行われず、清州の南、景州の北において、三十余箇所の岸口が崩壊し、十五里の河流が淤塞している。癸巳年(1293年)に朝廷が夫四千名を動員して修築・浚滌を行い、ようやく舟の通行が可能となった。今また三十余年が経過し、主管する官もいない。滄州の地分では、水面が平地より高く、堤防の防護に完全に依存している。その園圃の家が堤防を掘って井戸を作り、深さは丈余、あるいは二丈に及び、水を引いて蔬菜や花卉を灌漑している。また河に臨む人民が堤防から土を取るため、次第に破損し、水勢が漏れ出し、舟の航行を阻害し運糧を妨げるだけでなく、民居を流出させ、禾稼を水没させる恐れがある。長蘆以北、索家馬頭以南の水中には、暗に樁橛が隠れており、舟船を破損し、糧物を損なう。」部が議して、河に臨む州県の副次官に河防の事を兼務させ、各地分を巡視し、もし破損があれば直ちに衆を率いて修治し、樁橛を抜き去り、なお園圃の家が堤防を穿って井戸を作り、樹木を植え土を取ることを禁ずるべきであるとした。都省がこの議を許可した。七年(1270年)、省の臣が言上した。「御河の水が武清県に氾濫している。疏浚に要する役夫は十名、八十日で完工できる見込みである。」これに従った。

至大元年(1308年)六月二十九日、左翼屯田萬戶府が呈上した。「五月十八日申時、水が会川県孫家口岸を決壊し約二十余歩、南流して本管の屯田を灌漑した。すでに河間路・武清県・清州の有司に文書を移し、多くの丁夫を出させ、管轄して修治させている。」これにより枢密院が河間路・左翊屯田萬戶府に檄を飛ばし、軍を差し出して共同で築塞させた。十月、大名路濬州が言上した。「七月十一日から十七日まで連日雨が降り、清河・石河の二河の水が李家道で氾濫し、東南に横流した。社長の高良らに尋ねたところ、水源は衞輝路汲県の東北から発し、本州の淇門西にある旧黒蕩泊に連なり、溢れ出て岸を越え、黄河の古堤を漫流し、東北に流れて本州の斉賈泊に入り、再び御河に入り、門民の家屋を流出させた。窃かに考えるに、今年は水勢が逆行し、また下流の漳水が漲溢して、せき止められて通じることができず、このような事態を招いたのであり、実に人力では克服できない。また西関の水手の佐聚が称するには、七月十二日卯時、御河の水が急に三尺上漲し、十八日にはさらに四尺増え、その水は逆流していた。明らかに下流の漲水がせき止めて逆流させたのである。役人を派遣して巡視・修治させることを提案する。」

延祐三年七月、滄州が言うには、「清池県の民が訴えるに、往年景州呉橋県の諸所において御河の水が溢れ、堤岸を衝き決し、万戸千奴が恐らくその屯田を傷つけることを恐れ、軍を差して旧来の泄水郎児口を築き塞ぎ、故に水の泄るる所なく、民の廬及び既に熟した田数万頃を浸し、官を遣わして疏き開き、水を海に引き入るることを乞う。及び七月四日、呉橋県柳斜口東岸三十余歩を決し、千戸移僧また軍を遣わして郎児口を閉塞し、水壅ぎて泄るるを得ず、必ずや張管・許河・孟村三十余村の黍穀廬舎を漂蕩せしむるに至らん、故に本州官を摘んで相視し、移文して会し開くことを約す、従わず。」

泰定元年九月、都水監は官を遣わして丁夫五千八百九十八人を督かせ、是の月二十八日に工を興し、十月二日に工畢る。

灤河

灤河は、源を金蓮川の中に発し、松亭の北を経て、遷安の東、平州の西を過ぎ、灤州に臨んで海に入る。王曾の『北行錄』に云う、「偏槍嶺より四十里、烏灤河を過ぐ。東に灤州あり、河に因りて名と為す」と。

至元二十八年八月、省臣が奏上して言うには、「姚演が言うには、勅命を奉じて灤河を疏濬し、上都へ漕運するにあたり、沿河に露囷を建てる工匠と什物を支給してほしいと請い、さらに来年に用いる漕船五百艘、水手一万人、牽船夫二万四千人を予備することを乞う。臣らが集議したところ、近年東南は凶作で、民力は疲弊しており、船を造り人夫を徴発することは、その事軽からず、一時に並行して行えば、必ず重い困窮を招く。まず船十艘を造り、水手を量って撥付して試行し、もし実際に便利であれば、続けて増加することを請う。」と。制はその奏を可とし、まず五十艘をもってこれを行い、なお能ある人を選んで事に同ぜしめた。

大徳五年八月十三日、平灤路が言うには、「六月九日より霖雨が降り、十五日の夜に至り、灤河と淝・洳の三河が共に溢れ、城の東西二箇所の旧護城堤及び東西南三面の城牆を衝き崩し、横流して城内に入り、郭外の三関の河に臨む所及び城内の官民の屋廬・糧物を漂わし、田苗を没し、人畜を溺らせ、死者甚だ多く、しかも雨なお止まず。二十四日の夜に至り、灤・漆・淝・洳の諸河水復た漲りて城内に入り、残りの屋は漂蕩して殆ど尽きたり」と。乃ち吏部の馬員外を委ねて都水監官と共に之を修めしむ。東西二堤は、工を計うるに三十一万一千五十、鈔八千八十七錠十五両、糙粳米三千一百一十石五斗、樁木等の価鈔二百七十四錠二十六両四錢。

延祐四年六月十六日、上都留守司が言うには、「正月一日、城南の御河西北岸が水に衝かれて嚙まれ、次第に崩壊に至っている。もし修治しなければ、来春の水が氾濫し、民家を漂没させる恐れがある。また開平県が言うには、四月二十六日に霖雨があり、二十八日の夜までに、東関の灤河の水が漲り、北岸を衝き損じた。修築を計画すべきである。本司が議するに、今まさに仲夏の霖雨であり、その水が再び溢れれば、必ず大いに害をなすであろう。そこで官を委ねて夫匠を督し、役を興す。開平は民夫を発するが、幼小で役に堪えられない。軍を調発して作役に供し、速やかに完成させたい。」五月二十一日、留守司が言うには、「灤河の水が漲り堤防を決壊した。修築に用いる軍は六百人と計算され、宜しく枢密院に差調させ、官がその食を給すべきである。」制が曰く、「今まさにその時である。枢密院に移文して軍を発し、速やかにこれを行わせよ。」虎賁司が軍三百人を発してこれを治めた。

泰定二年三月十三日、永平路屯田総管府が言うには、「国家の経費は全て民より出で、民の生ずる所は農作に過ぎず。本屯は田を開き糧を収めて、以て内府の用を供億す。重からざるに非ず。馬城の東北五里許の張家莊龍湾頭を訪うに、昔、有司が夫を差し堤を築き、以て灤水を防ぎ、西南は清水河に連なり、公安橋に至るまで、皆本屯の地分なり。去歳霖雨に水溢れ、衝盪して皆尽き、屯民の田苗を浸し死せしめ、終歳収穫無し。今方農隙に当たり、若し預め修せざれば、必ず害を致さん。」工部は文を移し都水監に、濠寨及び本屯の官並びに灤州の官を差し親しく詣り相視せしめ、督めて有司に夫を差し補築せしむ。三年五月十日、上都留守司及び本路総管府が言うには、「大西関南馬市口の灤河より北の堤を巡視するに、侵嚙して漸く崩れ、預め治めざれば、恐らくは夏霖雨に水泛し、居民に害を貽さん。」ここに於いて都城所に送り丈量せしめ、物を用いて修治するを計り、工部は文を移し上都分部に施行せしむ。七月二日、右丞相塔失帖木児等奏す、「斡耳朵思の住冬営盤、灤河の走凌河水に衝き壊され、将に護水堤を築かんとす。宜しく枢密院に軍千二百人を発して以て役に供せしむべし。」之に従う。枢密院は軍千二百人を遣わさんことを請う。

河間河

河間河は河間路の界内にある。

泰定三年三月、都水監が言うには、「河間路の水害について、古儉河は北門外より始まり、旧に依りて疏通し、大成県界に至り、以て上源の水勢を洩らし、塩河に引入るべし。古陳玉帯河は軍司口より浚治し、雄州帰信県界に至り、以て淀濼の積潦を導き、之を易河に注ぐべし。黄龍港は鎖井口より開鑿し、文安県玳瑁口に至り、以て濼水を通じ、火焼淀を経て、転じて海に流入すべし。計らうに河、疏くべきもの三十箇所、総役夫三万、三十日にして畢るべし」と。是の月、省臣奏して准じ、断事官定住を遣わし、同元委都水孫監丞及び本処の有司官と、旁近の州県に於いて丁夫三万を発し、日ごとに鈔一両・米一升を給し、先ず古陳玉帯河に詣らしむ。尋いで歳旱民饑を以て、役興り人労罷し、年登るを候ちて之を為す。

冶河

冶河は真定路平山県の西門外にあり、井陘県より流れて来て、本県の東北十里の地において滹沱河に入る。

元貞元年正月十八日、丞相完澤等が言うには、「往年、先帝は真定の冶河を開くことを命じられ、既に丁夫を発して役に就かせたが、先帝の昇遐に遭い、衆を聚めることを以てこれを罷めた。今、旧制に遵い、その事を卒えしむることを請う」と。これに従う。

皇慶元年七月二日、真定路が言上するには、「龍花・判官莊の各所で堤防が破損し、工事の資材を計算した。省に申請して都水監及び本路の官を派遣させ、平山県西北から、滹沱河と冶河の合流地点を経て視察し、急流が真定西南関に注ぎ込んでいるのを見た。これにより再び協議し、冶河の旧河道に照らし、平山県西北の河内から、滾水石堤を改修し、下流に龍塘堤を築き、東南の水碾村まで、河道を一里改めて引き、蒲吾橋の西で、河道を一里改めて開削する。上流は平山県西北から、下流は寧晋県まで、その堆積を疏浚し、堤防を築いてその上流を旧河に分け入れ、その勢いを弱める。また、程同・程章の二つの石橋が水勢を阻み咽せているので、減水用の月河を二道開削することを計画した。これは長持ちし、かつ便利である。下流の欒城県を視察し、南の趙州寧晋県を見ると、諸河の北の下流は地形が低く、水が氾濫する恐れがあり、欒城・趙州を経て、石橋を破壊し、河流を阻害して害をなすであろう。これにより、欒城県の北、聖母堂の東、冶河の東岸に減水河を開削することを議し、真定の患いを取り除くことができる。」省がこれを認可し、二年二月に、都水監が官を委ねて本路及び廉訪司の官とともに、平山県に赴いて視察し、修治の費用を計算した。総計すると冶河は、平山県北関西の龍神廟北の独石から始まり、全長五千八百六歩、総役夫五千人、工数十八万八百七、風雨による工事妨害がなければ、三十六日で完了する。

滹沱河

滹沱河は、源を西山に発し、真定路真定県の南一里にあり、藁城県の北一里を経て、平山県の北十里を流れる。『寰宇記』には霊寿県の西南二十里を経ると記載されている。この河は真定の諸郡を連ね貫き、流れ去る所は、皆滹沱水という。

延祐七年十一月、真定路が言上するには、「真定県城南の滹沱河が、北の堤を決壊し、城に近づき浸食している。毎年修築しているが、その源流はもともと微かで、冶河とは通じていなかったと聞く。後に二水が合流し、その勢いが急に猛くなり、たびたび金の大堤を破壊して患いとなっている。本路のダルガチ(達魯花赤)ハサン(哈散)が至元三十年に言上し、冶河を引き開いて独自の流れとし、滹沱河の水勢は十のうち三四が退いたことを認可された。至大元年七月、水が南関の百余家を流し、冶河口を淤塞させ、その水は再び滹沱河に戻った。その後、毎年決壊の患いがあり、大徳十年から皇慶元年までの事例を大略挙げると、順次堤防を修築し、巻き掃きに用いた葦や草は二百余万束、官が支給した夫の食糧と雇い賃の準備に百余万錠を費やした。また延祐元年三月から五月にかけて、堤防二百七十余歩を修築し、その明堂・判官・勉村の三箇所では、橋の木材をそのまま用いて杭とし、夫五百余人を徴発して一ヶ月余り従事させたが完了できなかった。近年米価が高騰し、民は食に窮し、丁男を持つ者は本人が役に応じ、単丁の者は必ず人を雇わねばならず、人一日の雇い賃は三五貫を下らない。前の工事が未だ終わらぬうちに、次の役事が次々と来る。七月八日には、また李玉飛などの荘及び木方・胡営などの村の三箇所の堤防、長さ一千二百四十歩が衝き崩され、官を派遣して視察し、夫を差し出して月堤を築くことを申請した。延祐二年、本路の前総管マスフ(馬思忽)がかつて冶河を開削したが、すでに再び埋もれ塞がっている。今年は長雨が降り、水が北岸の数箇所で溢れ、田畑の作物を浸水させた。この河はもともと康家荘村の南を流れていたが、いつの頃か村の北に移った。数年修築するにあたり、皆堤防の北から土を取ったため、南が高く北が低くなり、水はますます低きに就いて侵食する。西は木方村から、東は護城堤まで、およそ二千余歩、来春までには必ず修治しなければならない。杭と梢で土堤を築くのも、永久の計ではない。もし木方村の南にある旧く埋もれた枯れ河を疏浚し、水を南に流し導き、北岸の河口に水門を閉じ、南岸から土を取って堤防を築き、下流の合頭村の北で本河に合流させるならば、このようにして城からやや遠ざければ、おそらく患いがなくなるであろう。」都水監が官を派遣して視察し、河を堰き止めて堤防を築くこと、幅千余歩、新たに開く古い岸は、幅わずか六十歩であり、千歩の勢いを制御できない恐れがある。もし北岸の破損し低く薄い箇所について、元の見積もりに比べ、夫役を増やし、葦や草の巻き掃きで補築するならば、葦・草・丁夫の費用を計算し、もし民間に責めて調達させるとすれば、今年は旱魃と水害が相次ぎ、民の食糧が乏しいので、各州県の上中戸に均等に割り当て、その代金及び食米は官銭から支給することを計画する。二月二十日に工事を開始し、役夫五千人、工数十六万七百十九、三十二日で完了する見込みである。総計すると、滹沱河北岸の防水堤十箇所を補築し、長さ一千九百十歩、高さと幅は一様でなく、総計三百四十万七千七百五十尺、推掃梯二十五台を用い、各梯に大檩三本、小檩三本、計大小檩百五十本、草三十五万八百束、葦二十八万六百四十束、梢柴七千二百束を要する。

至治元年三月、真定路が言上するには、「真定県の滹沱河は、水かさが増すたびに堤岸を衝き、民田を浸水させる。すでに丁夫を募って差し出し修築し、廉訪司の官とともに視察し検討した。もし木方村の南にある旧く埋もれた河道を疏浚し開削し、水を東南に流し導き、北岸を水門で閉鎖し、むしろ河南から土を取り、合頭村まで修築して本河に合流させるならば、おそらく民が安堵できるであろう。」都水監と真定路の官が視察し議して言うには、「水を治める者は、無理をせず、その性質に順うのである。滹沱河口を水門で閉鎖し、河を堰き止めて千余歩の堤防を築き、古い河岸を掘り開いて幅六十歩、長さ三十余里とし、水を東南に流れを変えるのは、長雨の時、水が両岸を打ち付け、河を堰き止めた堤防が水の性質に逆らい阻む。新たに開いた旧河は、幅わずか六十歩で、どうして千歩の勢いを受け止められようか。上流が咽せば下流は滞り、必ず決壊に至り、官銭を浪費し、民力を空しく労するだけである。もしその自然に任せ、河北岸の旧堤を元の見積もりに比べ、工事資材を増やし、法に従って巻き掃きし、堅固に修築するならば、まことに官民のため益となる。」省が認可し、滹沱河北岸の縷水堤十箇所を補築することとし、全長一千九百十歩、役夫五百名、計十六万七百三十九工。

泰定四年八月七日、省臣が奏上した。「真定路が言うには、滹沱河の水が連年氾濫して害をなしており、都水監・廉訪司・真定路及び河に臨む州県の官と耆老が会議したところ、その源は五台諸山から来て、平山県王母村の山口に至り、平定州娘子廟の石泉冶河と合流する。夏秋の霖雨で水が漲り、城郭を瀰漫し、毎年民を労して堤を築くも、害を除くことができない。王子村・辛安村から河を穿ち、長さ四里余りで魯家湾の旧澗に接続し、さらに二百余歩を開削して冶河に合流させ、その勢いを分かち殺すべきである。また木方村の滹沱河南岸の故道を三十里疏滌し、北岸には杭を打ち捲掃を施し、堤を築いて水を防ぎ、東流させるよう命じる。今年は材を儲え、九月に役を起こし、十一月の完工を期す。用いる石・鉄・石灰等の物、夫匠の工糧は、官が供給する。力は省け功は多く、永久に害が無かろう。工部が議するには、もしその請うところに従って二河を並行して治めるならば、役は大きく民は労する。先ず冶河を開削することを擬し、その真定路が徴発する民夫は、もし足りなければ隣郡の順徳路から人夫を差し募り、日に中統鈔一両五銭を与え、もし民田を侵礙すれば、官がその価を酬う。中書省都水監は官を差し、水利に通じた濠寨を率い、本路及び当該州県の用工を監督し、廉訪司は力を添えてことごとく成就させ、滹河については近い将来に改めて議する。」詔してこれに従う。九月、都水監の官及び本道廉訪司・真定路に委ねて、有司とともに工を併せて修治を監督させた。後に真定路が言うには、「閏九月五日を始めとして工を興したところ、趙州臨城諸県の申し立てによれば、天寒く地凍り、用工が困難である。春暖を待って開闢するのが便であるため、十月七日には人民を放散した。」部が議するには、人夫は既に散じたので、その擬したところに準ずべきである。凡そ既に給した夫鈔は二万六千八百三十二錠、地価銭は六百三十錠であった。

会通河

会通河は、東昌路須城県安山の西南に起こり、寿張を経て西北に東昌に至り、さらに西北に臨清に至り、以て御河に逾る。

至元二十六年、寿張県尹韓仲暉・太史院令史辺源が相次いで建言し、河を開き閘を置き、汶水を引いて舟を御河に達せしめ、公私の漕販を便利ならしむべきと。省は漕副馬之貞を遣わし、源らとともに地勢を按視し、工用を商度させ、ここに開くべき状を図上した。詔して楮幣一百五十万緡・米四万石・塩五万斤を出し、以て傭直とし、器用を備え、旁郡の丁夫三万を徴し、駅伝して断事官忙速児・礼部尚書張孔孫・兵部尚書李処巽らを遣わしてその役を董せしめた。事を始むるはこの年の正月己亥、須城安山の西南に起こり、臨清の御河に止まる。その長さ二百五十余里、中に閘三十一を建て、高低を度り、遠近を分かち、以て蓄洩を節す。六月辛亥に成る。凡そ役工二百五十一万七百四十八、賜うに会通河と名づく。

二十七年、省は馬之貞の言う霖雨で岸が崩れ、河道が淤浅したので、修濬を加うべきであるとし、放罷された輸運站戸三千を撥して、専らその役に供え、なお木石等を採伐させて用に充てるよう奏した。この後、毎年都水監官一員を委ね、分監の印を佩かせ、令史・奏差・濠寨官を率いて往き職務として巡視させ、かつ工を督し、閘を石に易え、損ずるところの緩急を視て後先とする。泰定二年に至り、始めて事を畢くことを得た。

会通鎮の閘三・土壩二は、臨清県の北にある。頭閘は長さ一百尺、闊さ八十尺、両直身は各々長さ四十尺、両鴈翅は各々斜長三十尺、高さ二丈、閘空の闊さ二丈。至元三十年正月一日に工を興し、凡そ夫匠六百六十名を役し、十月二十九日に工畢す。中閘は南、隘船閘に至ること三里。元貞二年七月二十三日に工を興し、大徳二年三月十三日に工畢す。夫匠四百四十三、長広は上閘と同じ。隘船閘は南、李海務閘に至ること一百五十二里。延祐元年八月十五日に工を興し、九月二十五日に工畢す。夫匠五百、閘空の闊さ九尺、長広は同上。土壩二。

李海務閘は南、周家店閘に至ること一十二里。元貞二年二月二日に工を興し、五月二十日に工畢す。夫匠五百二十七名、長広は会通鎮閘と同じ。

周家店閘は南、七級閘に至ること一十二里。大徳四年正月二十一日に工を興し、八月二十日に工畢す。夫匠四百四十二、長広は上と同じ。

七級閘二つ:北閘は南、南閘に至ること三里。大徳元年五月一日に工を興し、十月六日に工畢す。夫匠四百四十三名、長広は周家店閘の如し。南閘は南、阿城閘に至ること一十二里。元貞二年正月二十日に工を興し、十月五日に工畢す。夫匠四百五十名、長広は北閘と同じ。

阿城閘二つ:北閘は南、南閘に至ること三里。大徳三年三月五日に工を興し、七月二十八日に工畢す。夫匠四百四十一名、長広は上と同じ。南閘は南、荊門北閘に至ること一十里。大徳二年正月二十五日に工を興し、十月一日に工畢す。夫匠四百四十六名、長広は上と同じ。

荊門閘二つ:北閘は南、荊門南閘に至ること二里半。大徳三年六月初一日に工を興し、十月二十五日に工畢す。役夫三百十名、長広は同じ。南閘は南、寿張閘に至ること六十五里。大徳六年正月二十三日に工を興し、六月二十九日に工畢す。長広は北閘と同じ。

寿張閘は南、安山閘に至ること八里。至元三十一年正月一日に工を興し、五月二十日に工畢す。

安山閘は南、開河閘に至ること八十五里。至元二十六年に建つ。

開河閘は南、済州閘に至ること一百二十四里。

済州閘三つ:上閘は南、中閘に至ること三里。大徳五年三月十二日に工を興し、七月二十八日に工畢す。中閘は南、下閘に至ること二里。至治元年三月一日に工を興し、六月六日に工畢す。下閘は南、趙村閘に至ること六里。大徳七年二月十三日に工を興し、五月二十一日に工畢す。

趙村牐より南、石佛牐に至る七里、泰定四年二月十八日に工を起こし、五月二十日に工事完了。

石佛牐より南、辛店牐に至る一十三里、延祐六年二月十日に工を起こし、四月二十九日に工事完了。

辛店牐より南、師家店牐に至る二十四里、大徳元年正月二十七日に工を起こし、四月一日に工事完了。

師家店牐より南、棗林牐に至る一十五里、大徳二年二月三日に工を起こし、五月二十三日に工事完了。

棗林牐より南、孟陽泊牐に至る九十五里、延祐五年二月四日に工を起こし、五月二十二日に工事完了。

孟陽泊牐より南、金溝牐に至る九十里、大徳八年正月四日に工を起こし、五月十七日に工事完了。

金溝牐より南、隘船牐に至る一十二里、大徳十年閏正月二十五日に工を起こし、四月二十三に工事完了。

沽頭牐二つあり:北の隘船牐より南、下牐に至る二里、延祐二年二月六日に工を起こし、五月十五日に工事完了;南牐より南、徐州に至る一百二十里、大徳十一年二月に工を起こし、五月十四日に工事完了。

三汊口牐より塩河に入り、南、土山牐に至る一十八里、泰定二年正月十九日に工を起こし、四月十三日に工事完了。

土山牐より南、三汊口牐に至る二十五里、塩河に入る。

兖州牐。

堈城牐。

延祐元年二月二十日、省臣が言うには、「江南行省が起運する諸物は、皆会通河を経由して都に達するが、その河が浅く渋滞し、大船がその中に充塞し、他の船の往来を阻礙している。毎年、省・臺が人を差して巡視させるが、その差した官が言うには、河を開いた当初は、百五十料の船の航行のみを許していたが、近年、権勢の人々や富商大賈が、貨利を貪り、三四百料あるいは五百料の船を造り、この河で航行させているため、官民の舟楫の通行を阻滯させている。もし沽頭に小石牐を一つ設け、百五十料の船の航行のみを許せば便利であろう。臣らが議するに、言うところに依るべきであり、中書及び都水監が官を差し、沽頭に小牐を一つ設け、また臨清において牐を設けるに相応しい場所を見定め、同様に小牐を一つ設け、二百料以上の船を禁約し、河に入って運航することを許さないようにすべきである。」これを従う。

至治三年四月十日、都水分監が言うには、「会通河のはい県以東の金溝・沽頭などの所は、地形が高峻で、旱天の時は水が浅く舟が渋滞するため、省部は既に二つの滾水堰を設置することを認可した。近年の延祐二年に、沽頭牐の上に隘牐を一つ増設し、巨舟を制限したが、霖雨の度ごとに、三つの牐の月河・截河土堰が、ことごとく衝き破られる。秋から人夫を徴発して薪を刈り、冬に水が落ちるか、あるいは来年の春先に修治するが、工事が浩大で、動員する丁夫は千百、束薪は十万を超え、数ヶ月を経てようやく完了し、労費は万倍に及ぶ。さらに延祐六年は雨が多く水が溢れ、月河・土堰及び石牐の雁翅が日々衝撃・侵食され、土と石が離れ、深さ数丈に及び、その工事は倍増し、今に至るまで完了していない。今もし金溝・沽頭及び隘牐の三箇所に現存する石材を用い、沽頭の月河内に堰牐を一所修築し、さらに隘牐を金溝牐の月河、あるいは沽頭牐の月河内に移設すれば、水が大きい時は大牐を全て開き、水を通流させ、水が小さい時は金溝の大牐を閉じ、上流の隘牐を開き、沽頭では隘牐を閉じて正牐を開き舟を通せば、このようにして毎年の修治の費用を省き、また丁夫が冬の寒さの中、水に入る苦しみを免れることができ、誠に一労永逸となる。」

工部に移文し、官を委ねて有司と共同で議させる。そこで濠寨を差し、済寧路の官と会して相視させ、併せて金溝牐の提領周徳興に問うたところ、言うには毎年夏秋の霖雨の際に牐堤が衝失し、必ず水が落ちるのを待ち、役夫を動員して薪を採り修治するが、三両月を下らずしてようやく完了し、冬の寒さに水仕事は、苦しみ言い尽くせない。監察御史の上言を合わせて検証すると、延祐初年、元の省臣もまた巨舟を制限するために隘牐の設置を請うたことがあった。臣らが議するに、その言は妥当であり、これに従うことを請う。そこで議定した:梭板等の船は御河・江・淮で航行可能なものであるから、これを遣り出してその行く所に任せ、金溝・沽頭の両牐の中に隘牐を二つ設け、各々幅一丈とし、大船を制限する。もし通恵河・会通河で運航しようとする者は、百五十料のみを許し、違反者はこれを罪し、併せてその船を没収する。大都・江南の権勢ある紅頭花船も、同様に往来を許さない。沽頭の隘牐を撤去移設し、金溝大牐の南に置き、なお運環牐とし、その間の空地の北に滾水石堰を築き、水が漲れば大小三つの牐を開き、水が落ちれば大牐を鎖閉し、隘牐のみで舟を通す。もし小料の船及び官用の巨物がある場合は、上司に申し禀して、一時的に大牐を開くことを許し、なお金溝牐の牐板を増やして水を貯め、舟の航行を便利にする。沽頭の截河土堰は、例に依り石堰に改修し、旧来の土堰三道を全て除去する。金溝牐の月河内に滾水石堰を創建し、長さ一百七十尺、高さ一丈、幅一丈。沽頭牐は河内より截河堰を修築し、長さ一百八十尺、高さ一丈一尺、底幅二丈、上幅一丈。

泰定四年四月、御史臺の臣が言うには、「河道を巡視したところ、通州から真州・揚州に至るまで、都水分監及び河に臨む州県の官民を会集し、利害を尋ね考証したが、二つの問題に尽きる。一つは堰き止めと決壊、二つは航行である。卑職が詳しく参酌するに、古より国を立てるには、漕運を導くことには皆定式があった。世祖が衆策を尽くし、万民を救済し、河渠を疏浚し、清・済・汶・泗の水を引き、閘を設けて水を調節し、以て燕薊・江淮を通じさせ、舟楫万里に及び、古来未だかつてなかった。後人は成規を固く守り、ただその廃れたものを挙げて修復するだけで、実に万世無窮の利益である。そもそも水性は流れ変化して常ならず、久しく廃して修せざれば、旧規は次第に壊れ、智者有りといえども、善後策を施すことができない。故に詳しく歴訪し視察し、古を酌み今に準え、衆議を参考に合わせ、管見を述べる。もし採録を蒙れば、水監に責任を持たせ、謹んで守って失わず、能事は尽きる。利病の源を窮めず、頻りに歳ごと人を差し、文書だけの巡視を具えれば、徒に煩擾を為すのみで、事に益するところがない。都水監が元来立てた南北の隘閘は、各々幅九尺、二百料以下の船は梁頭八尺五寸で、閘に入ることができる。愚民は利を貪って飽くことなく、隘閘に制限されるため、減舷添倉の長船を改造して八九十尺に至り、甚だしきは百尺、皆五六百料となり、閘内に入れば回転できず、動もすれば浅く座礁し、余りの舟を阻礙する。これは隘閘の法が、その長短を制限できないためである。今、卑職が真州に至り、造船の作頭に問うたところ、閘を過ぎる船は梁八尺五寸の船で、長さ六丈五尺に該当し、二百料と計算されるという。これにより参酌するに、隘閘の下の岸に石則を立て、船が閘に入る際には必ず検量し、長さが則を超えなければ、然る後に放入し、違反した者はこれを罪すべきである。閘内の旧来の長船には、期限を立てて遣り出させるべきである。」省が都水監に下し、濠寨官に委ねて済寧路の委官と約会し、共に歴視し議擬させた。隘閘の下約八十歩の河北に二つの石則を立て、中間を六十五尺離し、舟がそこに至った時、様式通りに検量して、初めて閘に入ることを許し、長きもの有れば罪して退かしめる。また東昌路の官と親しく詣でて議擬し、元来立てた隘閘の西約一里に、既に定めた丈尺に依り、石則を置いて行舟を検量し、元の料に依らざる者を罪した。

天暦三年三月、詔を以て中外に諭す。「都水監が言うには、世祖は国家の財用を費やし、会通河を開闢して、以て漕運を通じさせた。往来の使臣、下番の百姓、及び随従の使臣、各枝の斡脱権勢の人が、閘に到っても水則を待たず、勢いに恃んで看閘人等を捶撻し、頻りに啓放する。また漕運の糧船は、凡そ水浅きに遇えば、河内に土壩を築き、水を積んで以て漸次舟を行わせるため、以て閘を壊す。乞うらくはこれを禁治する事を。命ずるに、後は諸王駙馬各枝の往来使臣、及び斡脱権勢の人、下番使臣等、並びに運官の糧船は、もし閘に到れば、旧来の定例に依り啓閉し、もし前の如く水則を待たず、勢いに恃んで守閘人等を捶拷し、勒令して閘を啓き、及び河内に土を用いて壩を築き閘を壊す人は、その罪を治める。もし守閘の人が、聖旨有るを恃み、閘を啓くべき時に、故意に遅延し、使臣客旅を阻滯し、欺いて銭物を要すれば、乃ち常憲を畏れざるなり。」仍って監察御史、廉訪司に令して常に体察を加えしむ。

兖州閘

兖州閘は既に前に見えたり。

至元二十七年四月、都漕運副使馬之貞言う。

山東東西道宣慰使司の牒文に准ずるに、兖州閘堰の事を相視す。先だって至元十二年、丞相伯顏に蒙りて江淮より大都に達する河道を訪問せられしに、之貞乃ち言う、宋・金以来、汶・泗相通の河道は、郭都水が按視し、以て漕運を通ずべしと。二十年に中書省奏准し、兵部李尚書等を委ねて開鑿せしめ、石閘十四を修めることを擬す。二十一年省之貞を委ねて尚監察等と同しく相視せしめ、石閘八、石堰二を修めることを擬す。既に修め畢わりたるを除く外、石閘一、石堰一、堽城石堰一有り、今に至るまで未だ修めず。済州以南に据るに、徐・邳沿河の縴道橋梁は、二十三年邳州水站を添立し、文を沿河州県に移し、修治已に完うす。二十三年之貞を調して漕運副使に充て、閘を管し綱船を接放することを委ぬ。沿河の縴道は、元来崩損したる去処無く、前年の例に当たり、麻麦盛んなる時、官を差し縴道を修理し、地主を督責して麻麦を割刈せしめ、並びに滕州に於いては稻堰を開決し、泗源磨堰を差し、人を呂梁百步等の谼に於いて、及び済州閘に於いて監督し、江淮綱運の船隻をして、谼を過ぎ閘を出でしめ、阻滯して客旅に苟くも銭物を取らしめず。新たに開かれたる会通並びに済州汶・泗相通の河は、自然の長流河道に非ず、兖州に閘堰を立て、泗水を約して西流せしめ、堽城に閘堰を立て、汶水を分かちて河に入れ、南は済州に会し、六閘を以て水勢を撙節し、啓閉して舟楫を通放し、南は淮・泗に通じ、以て新たに開かれたる会通河に入り、通州に至る。

近く去歳四月、江淮都漕運使司言う、本司の糧運は、済河を経て東阿に至り交割す。前者の済州運司は、時に依らず文を瀕河官司に移し縴道を修治せしめ、もし緩急の処所有らば、正官は招を取って省に呈し、路の経歴、県の達魯花赤以下は就便に断罪す。今済州漕司は革罷せられ、その河道は都漕運司に撥属して管領せしむ。本司の糧運未だ東阿に到らざるに、凡そ阻滯有るは、並びに本司の遅慢なり。迤南の河道は、此より人管領する者無く、時に依らず水勢泛溢し、堤岸摧塌し、河道を澀滯す。又済州閘は、前に済州運司の正官親臨して監視し、その押綱の船戸は敢えて分爭せず。即目各処の官司は人を差して管領すれども、綱官船戸と各統摂無く、水勢を爭い要し、及び攙越して閘を過ぎ、互いに敺打し、以て船隻を損壞し、官糧を浸没せしむ。東阿の河道を撥付して江淮都漕運司に提調管領せしめ、庶幾くは糧運を誤らざらんことを擬す。都省焉に准ず。

又江淮都漕運司副使の言に准ずるに、官を委ねて閘堰を見管するを除く外、汶・泗、堽城の二閘一堰、泗河兖州閘堰、済州城南閘に据るは、乃ち会通河上源の喉衿なり。去歳流水衝壞して堽城汶河土堰、兖州泗河土堰を衝き、必ず文を兖州、泰安州に移し夫を差して修閉せしむべし。又漲水に被りて梁山一帯の堤堰を衝破し、水勢を走洩し、旧河に通入せしめ、以て新河の水小さくし、糧船を澀らしむ。乞うらくは文を断事等官に移し、転じて東平路に下し修閉せしむ。上流は江淮漕運司に撥属し、下流は之貞の管領に属す。もし已後に新河の水小さければ、直に下って済州監閘官に、並びに泰安、兖州、東平に修理せしむ。兖州石閘一所、石堰一道、堽城石閘一道に据るは、用うべき材物已に行い措置完備し、必ず修理すべし。初め之貞の相視会計を経たりと雖も、即今管領に隷せず、乞うらくは文を江淮漕司に移し修治せしむ。その泰安州堽城安、梁山一帯の堤岸、済州閘等の処は、江淮漕司に撥属せられたりと雖も、今後倘若水漲きて堤堰を衝壞せば、亦乞うらくは照会して東平、済寧、泰安に、もし文字を承れば、亦仰せ奉行せしむ。又東阿、須城界の安山閘は、糧船旧河より来往せざるため、江淮の委ねたる監閘官已に去り、目今人看管する者無く、必ず之貞修理すべく、此を以て権に人を委ねて守らしむ。