元史

志第十五: 地理六 湖広 征東

湖広等処行中書省

湖広等処行中書省は、路三十、州十三、府三、安撫司十五、軍三を管轄し、属府三、属州十七、属県一百五十、番民総管一を領する。本省の陸站は一百箇所、水站は七十三箇所である。

江南湖北道粛政廉訪司

武昌路

武昌路は上等である。唐の初めは鄂州とし、また江夏郡と改め、さらに武昌軍に昇格した。宋では荊湖北路とした。元の憲宗末年、世祖が南征し、黄州の陽羅洑から橋梁を架け、鉄鎖を貫いて、鄂州の白鹿磯に至り、大軍がことごとく渡河し、進んで城下に迫り、数ヶ月包囲したが、やがて解囲して去り、帰還して帝位に即いた。至元十一年、丞相伯顔が陽羅洑から南渡し、権州事張晏然が城を降した。ここにおいて湖北の州郡はことごとく平定された。この年、荊湖等路行中書省を立て、本道安撫司を併合した。十三年、録事司を設置した。十四年、湖北宣慰司を立て、安撫司を鄂州路総管府と改め、鄂州行省を潭州行省に併合した。十八年、潭州行省を鄂州に遷し、宣慰司を潭州に移した。十九年、省の所在地の例に従い宣慰司を廃止し、本路は行省に隷属した。大徳五年、鄂州が最初に帰順したこと、また世祖の親征の地であることから、武昌路と改称した。戸数十一万四千六百三十二、人口六十一万七千一百一十八(至元二十七年の調査数)。司一、県七を領する。

録事司。

県七

江夏は中県。倚郭。 咸寧は下県。 嘉魚は下県。 蒲圻は中県。 崇陽は中県。 通城は中県。 武昌は下県。宋では寿昌軍に昇格し、江西の要衝の地であるためである。元はこれを踏襲した。至元十四年、散府に昇格し、本県を治所とした。後に府を廃止し、県を本路に属させた。戸数一万五千八百五、人口六万四千五百九十八。

岳州路

岳州路は上等である。唐では巴州とし、後に岳州と改めた。宋では岳陽軍とした。元の至元十二年に帰順した。十三年、岳州路総管府を立てた。戸数十三万七千五百八、人口七十八万七千七百四十三。司一、県三、州一を領する。

録事司。

県三

巴陵は上県。倚郭。 臨湘は中県。 華容は中県。

州一

平江州は下州。唐代は平江県、宋代もこれに因る。元の元貞元年に州に昇格。

常德路

常德路は上路。唐代は朗州。宋代は常徳府。元の至元十二年に常徳府安撫司を置く。十四年に総管府に改める。戸二十万六千四百二十五、口百二万六千四十二。司一、県一、州二を領す。州は一県を領す。

録事司。

県一

武陵は上県。

州二

桃源州は中州。宋代に県を置き、元の元貞元年に州に昇格。

龍陽州は下州。宋代は辰陽県、元の元貞元年に州に昇格。一県を領す:

沅江は下県。本来は朗州に属す。後に属す。

澧州路

澧州路は上路。唐代に澧陽郡に改め、また澧州に改む。元の至元十二年に安撫司を立てる。十四年に澧州路総管府に改む。戸二十万九千九百八十九、口百十一万千五百四十三。司一、県三、州二を領す。

録事司。

県三

澧陽、上県。倚郭。 石門、上県。 安郷。下県。

州二つ

慈利州、中州。唐・宋ともに県であったが、元の元貞元年に州に昇格した。

柿渓州。下州。

辰州路

辰州路、下路。唐は盧渓郡と改め、また辰州と改めた。宋はこれに因った。元は辰州路と改めた。戸八万三千二百二十三、口十一万五千九百四十五。領する県四つ:

沅陵、中県。 辰渓、下県。 盧渓。下県。 漵浦。下県。

沅州路

沅州路、下路。唐は巫州、また沅州と改め、また潭陽郡となり、また叙州と改めた。宋は鎮遠州であった。元の至元十二年、沅州安撫司を立てた。十四年、沅州路総管府と改めた。戸四万八千六百三十二、口七万九千五百四十五。領する県三つ:

盧陽、下県。 黔陽、下県。 麻陽。下県。

興国路

興国路、下路。本来は隋の永興県である。宋は永興軍を置き、また興国軍と改めた。元の至元十四年、興国路総管府に昇格し、旧来は江西に隷属した。三十年、江西より割いて湖広に隷属させた。戸五万九百五十二、口四十万七千六百十六。領する司一、県三つ。

録事司。至元十七年に立てた。

県三つ

永興、下県。倚郭。 大冶、下県。 通山。下県。

漢陽府

漢陽府は、唐の初めに沔州とし、また沔陽郡と改めた。宋では漢陽軍であった。咸淳十年、郡守の孟琦が城をもって帰順した。元の至元十四年に漢陽府に昇格した。戸数一万四千四百八十六、人口四万八百六十六。管轄する県は二つ。

漢陽は、至元二十二年に中県に昇格した。 漢川は下県である。

帰州

帰州は下州である。唐の初めに帰州とし、また巴東郡と改め、また帰州に復した。宋の端平三年、元の兵が江北に至り、そこで郡治を江南の曲沱に遷し、次いで新灘、また次いで白沙南浦に遷し、現在の州治がこれである。徳祐初年に帰附した。元の至元十二年、安撫司を立てた。十四年、帰州路総管府に改めた。十六年、州に降格した。戸数七千四百九十二、人口一万九百六十四。管轄する県は三つ。

秭帰は下県で、倚郭である。 巴東は下県である。 興山。

靖州路

靖州路は下路である。唐では夷州・播州・敍州(二つ〔三つ〕)の境であった。宋では誠州とし、また靖州と改めた。元の至元十二年、安撫司を立て、翌年、靖州路総管府に改めた。戸数二万六千五百九十四、人口六万五千九百五十五。管轄する県は三つ。

永平は下県である。 会同は下県である。 通道は下県である。

湖南道宣慰司

嶺北湖南道粛政廉訪司

天臨路

天臨路は上路である。唐では潭州長沙郡であった。宋では湖南安撫司であった。元の至元十三年、安撫司を立てた。十四年、行省を立て、潭州路総管府に改めた。十八年、行省を鄂州に遷し、湖南道宣慰司を潭州に移して治所とした。天暦二年、潜邸の際に幸せを得た地であるため、天臨路と改めた。戸数六十万三千五百一、人口百八万一千一十。管轄するものは、司一、県五、州七。

録事司。宋には兵馬司があり、都監がこれを統領した。元の至元十四年に改めて設置した。

県五

長沙県、上県。倚郭(路治に隣接)。善化県、倚郭。衡山県、上県。南嶽衡山がここにある。寧郷県。上県。安化県。下県。

州七つ。

醴陵州、中州。唐・宋の時代はいずれも県であった。元の元貞元年(1295年)、州に昇格。

瀏陽州、中州。唐・宋の時代はいずれも県であった。元の元貞元年、州に昇格。

攸州、中州。唐の時代は県で、南雲州に属した。宋の時代は潭州に属した。元の元貞年間、州に昇格。

湘郷州、下州。唐・宋の時代はいずれも県であった。元の元貞元年、州に昇格。

湘潭州、中州。唐・宋の時代はいずれも県であった。元の元貞元年、州に昇格。

益陽州、中州。唐の時代は新康県。宋の時代は安化県。元の元貞元年、益陽州に昇格。

湘陰州、下州。唐・宋の時代はいずれも県であった。元の元貞元年、州に昇格。

衡州路

衡州路、上路。唐の初期は衡州とし、後に衡陽郡と改め、また衡州に戻した。宋もこれに因った。元の至元十三年(1276年)、安撫司を設置。十四年、衡州路総管府に改める。十五年、湖南宣慰司を設置し、衡州をその治所とした。十八年、宣慰司を潭州に移し、衡州はこれに隷属した。戸数十一万三千三百七十三、人口二十万七千五百二十三。司一、県三を領す。本路の屯田は百二十頃。

録事司。宋は兵馬司を立て、城内の民戸を五廂に分けた。元の至元十三年に改めて設置。

県三つ。

衡陽県、上県。倚郭。安仁県、下県。酃県。

道州路

道州路、下。唐代は南営州と為し、復た道州と改め、復た江華郡と為す。宋代はなお道州と為す。元の至元十三年、安撫司を置く。十四年、道州路総管府と改む。戸七万八千十八、口十万九百八十九。司一、県四を領す。

録事司。

県四

営道、中。倚郭きこう。 寧遠、中。 江華、中。 永明。下。

永州路

永州路、下。唐代は零陵郡を改めて永州と為し、宋代は之に因る。元の至元十三年、安撫司を置く。十四年、永州路総管府と改む。戸五万五千六百六十六、口十万五千八百六十四。司一、県三を領す。本路の屯田一百三頃。

録事司。

県三

零陵、上。倚郭。 東安、上。 祁陽。中。

郴州路

郴州路、下。唐代は桂陽郡を改めて郴州と為し、宋代は之に因る。元の至元十三年、安撫司を置く。十四年、郴州路総管府と改む。戸六万一千二百五十九、口九万五千一百十九。司一、県六を領す。

録事司。もと兵馬司有り、至元十四年に改めて立つ。

県六

郴陽、中。倚郭。旧は敦化県と為す、至元十三年、今の名に改む。 宜章、中。 永興、中。 興寧、下。 桂陽、下。 桂東。下。

全州路

全州路、下。石晉(後晋)が清湘県に全州を置き、宋はこれを踏襲した。元の至元十三年(1276年)、安撫司を置く。十四年(1277年)、全州路総管府に改める。戸数四万一千六百四十五、人口二十四万五百一十九。司一、県二を領す。

録事司。旧来は兵馬司があったが、至元十五年(1278年)に改めて設置。

県二

清湘、上。倚郭(治所所在地)。灌陽、下。

宝慶路

宝慶路、下。唐は邵州、また邵陽郡となす。宋は依然として邵州とし、さらに宝慶府に昇格させた。元の至元十二年(1275年)、安撫司を立てる。十四年(1277年)、宝慶路総管府に改める。戸数七万二千三百九、人口十二万六千百五。司一、県二を領す。

録事司。

県二

邵陽、上。倚郭(治所所在地)。新化、中。

武岡路

武岡路、下。唐は武岡県。宋は軍に昇格させた。元の至元十三年(1276年)、安撫司を置く。十四年(1277年)、武岡路総管府に昇格させる。戸数七万七千二百七、人口三十五万六千八百六十三。司一、県三を領す。本路の屯田は八十六頃。

録事司。旧来は兵馬司があり、四廂を管轄した。至元十五年(1278年)に改めて設置。

県三

武岡、上。倚郭(治所所在地)。新寧、下。綏寧、下。

桂陽路

桂陽路、下路。唐代は郴州。宋代に桂陽軍に昇格。元の至元十三年(1276年)、安撫司を設置。十四年(1277年)、桂陽路総管府に昇格。戸数六万五千五十七、人口十万二千二百四。〔管轄する司一、県三〕。

録事司。

県三

平陽県、上県。 臨武県、中県。 藍山県、下県。

茶陵州、下州。唐代は県で、南雲州に隷属。宋代は衡州に隷属し、軍に昇格した後、再び県となる。元の至元十九年(1282年)、州に昇格。戸数三万六千六百四十二、人口十七万七千二百二。

耒陽州、下州。唐・宋代はともに県で、湘東郡に隷属。元の至元十九年(1282年)、州に昇格。戸数二万五千三百十一、人口十一万十。

常寧州、下州。唐代は県で、衡州に隷属。宋代もこれに因る。元の至元十九年(1282年)、州に昇格。戸数一万八千四百三十一、人口六万九千四百二。

広西両江道宣慰使司都元帥府。大徳二年(1298年)、広西両江道宣慰司都元帥府が言上した:「先頃、黄聖許が叛乱を起こし、交趾に逃げ隠れ、水田五百四十五頃を遺棄した。渓洞の徭・獞の民丁を募り、上浪・忠州等の諸処で屯田を開き耕作させ、緊急時には賊を討たせるのは、甚だ便宜である。」これに従った。

嶺南広西道粛政廉訪司

静江路

静江路、上路。唐初は桂州、また始安郡と改め、また建陵郡と改め、また桂管を設置し、また静江軍に昇格。宋代も引き続き静江軍。元の至元十三年(1276年)、広西道宣撫司を立てる。十四年(1277年)、宣慰司に改める。十五年(1278年)、静江路総管府となる。元貞元年(1295年)、左右両江宣慰司都元帥府を併せて広西両江道宣慰司都元帥府とし、なお邕州に分司を置く。戸数二十一万八百五十二、人口百三十五万二千六百七十八。管轄する司一、県十。

録事司。

県十

臨桂県、上県。倚郭。 興安県、下県。 霊川県、下県。 理定県、下県。 義寧県、下県。 修仁県、下県、 荔浦県、下県。 陽朔県、下県。 永福県、下県。 古県、下県。

南寧路

南寧路、下路。唐初は南晉州と為し、また邕州と改め、また永寧郡と為す。元の至元十三年、安撫司を立てる。十六年、邕州路総管府と改め、左右両江の溪洞鎮撫を兼ねる。泰定元年、南寧路と改む。戸一万五百四十二、口二万四千五百二十。司一、県二を領す。

録事司。

県二。

宣化、下県。武縁、下県。

梧州路。

梧州路、下路。唐は蒼梧郡と改め、また仍って梧州と為す。宋これを因襲す。元の至元十四年、安撫司を置く。十六年、梧州路総管府と改む。戸五千二百、口一万九百一十。県一を領す。

蒼梧、下県。

潯州路。

潯州路、下路。唐は潯江郡と改め、また仍って潯州と為す。元の至元十三年、安撫司を置く。十六年、総管府と改む。戸九千二百四十八、口三万八十九。県二を領す。

桂平、下県。平南、下県。

柳州路。

柳州路、下路。唐は龍城郡と改め、また柳州と改む。元の至元十三年、安撫司を置く。十六年、柳州路総管府と改む。戸一万九千一百四十三、口三万六百九十四。県三を領す。

柳城、下県。倚郭。馬平、下県。洛容、下県。

慶遠南丹溪洞等処軍民安撫司。

慶遠南丹溪洞等処軍民安撫司、唐は龍水郡と為し、また粵州と改む。宋は慶遠府と為す。元の至元十三年、安撫司を置く。十六年、慶遠路総管府と改む。大徳元年、中書省臣言う、「南丹州安撫司及び慶遠路は相去ること近く、所隷の戸少なし、これを省せんことを請う」と。遂に慶遠南丹溪洞等処軍民安撫司を立てる。戸二万六千五百三十七、口五万二百五十三。県五を領す。

宜山県、下県。忻城県、下県。天河県、下県。思恩県、下県。河池県、下県。

平楽府

平楽府は、唐代に平楽県を置いて楽州とし、後に昭州と改め、また平楽郡となり、再び昭州に戻った。宋代もこれに因った。元代に平楽府と改めた。戸数七千六十七、口数三万三千八百二十。四県を管轄する。

平楽県、下県。倚郭。恭城県、下県。立山県、下県。龍平県、下県。

鬱林州、下州。唐代は南尹州とし、後に貴州と改め、また鬱林州となった。宋代もこれに因った。元の至元十四年、引き続き州の事務を行った。戸数九千五十三、口数五万一千五百二十八。三県を管轄する。

南流県、下県。興業県、下県。博白県、下県。

容州、下州。唐代は銅州を容州と改め、また普寧郡と改め、また管內経略使を置いた。宋代は寧遠軍であった。至元十三年、安撫司に改める。十六年、容州路総管府に改めた。戸数二千九百九十九、口数七千八百五十四。三県を管轄する。

普寧県、下県。北流県、下県。陸川県、下県。

象州、下州。唐代は象郡と改め、また象州と改めた。元の至元十三年、安撫司を立てる。十五年、象州路総管府に改めた。戸数一万九千五百五十八、口数九万二千一百二十六。三県を管轄する。

陽壽県、下県。来賓県、下県。武仙県、下県。

賓州、下州。唐代は嶺方県の地に南方州を置き、また賓州とし、また安城郡と改め、また嶺方郡と改め、再び賓州に戻った。元の至元十三年、安撫司を置く。十六年、下路総管府に改めた。戸数六千二百四十八、口数三万八千八百七十九。三県を管轄する。

嶺方県、下県。倚郭。上林県、下県。遷江県、下県。

横州、下州。唐代初期は簡州とし、また南簡州と改め、また横州と改め、また寧浦郡となった。元の至元十四年、安撫司を立てる。十六年、総管府に改めた。戸数四千九十八、口数三万一千四百七十六。二県を管轄する。

寧浦県、下県。倚郭。永淳県、下県。

融州、下州。唐代初期は融州とし、また融水郡と改め、後に再び融州となった。宋代は清遠軍であった。元の至元十四年、安撫司を置く。十六年、融州路総管府に改める。二十二年、散州に改めた。戸数二万一千三百九十三、口数三万九千三百三十四。二県を管轄する。

融水県、下県。 懐遠県、下県。

藤州、下州。唐は感義郡と改め、後に再び藤州となす。宋は州治を大江西岸に移す。元の至元十三年、なお州事を行ふ。戸四千二百九十五、口一万一千二百一十八。領する県二:

鐔津県、下県。 岑渓県、下県。

賀州、下州。唐は臨賀郡と改め、後に再び賀州となす。宋これに因る。元の至元十三年、なお州事を行ふ。戸八千六百七十六、口三万九千二百三十五。領する県四:

臨賀県、下県。倚郭。 富川県、下県。 桂嶺県、下県。 懐集県、下県。宋は広州に属す、至元十五年、以て本州に隷せしむ。

貴州、下州。唐は懐沢郡と改め、後に再び貴州となす。元の至元十四年、鬱林県を領す。大徳九年、県を省き、ただ州事を行ふ。戸八千八百九十一、口二万八百十一。貴州の地は八番に接し、播州と相去ること二百余里、乃ち湖広・四川・雲南の喉衿の地なり。大徳六年、雲南行省右丞劉深、八百息婦を征し、貴州に至りて夫を課し、宋隆済等を致して諸蛮を糾合して乱を為さしめ、水東・水西・羅鬼の諸蛮皆叛き、劉深誅せらる。

左江。左江は源州界より出で、合江鎮に至りて右江水と合して一となり、横州に流入して鬱江と号す。

思明路、戸四千二百二十九、口一万八千五百十。

太平路、戸五千三百十九、口二万二千百八十六。

右江。右江は源を峩利州に出し、大理の大槃水と通ず。大槃は大理の威楚州に在り。

田州路軍民総管府、戸二千九百九十一、口一万八千九百一。

来安路軍民総管府。

鎮安路。以上並びに闕く。

海北海南道宣慰司。

海北海南道粛政廉訪司。至元三十年立つ。

雷州路、下路。唐代初期は南合州とし、また東合州と改称し、また海康郡とし、また雷州と改めた。元の至元十五年、平章政事阿里海牙が南方の海外四州を征討し、雷州は帰順し、初め安撫司を置いた。十七年、この州を以て海北海南道宣慰司の治所とし、安撫司を総管府に改め、宣慰司に隷属させた。戸数八万九千五百三十五、人口十二万五千三百十。本路の屯田は百六十五頃余り。管轄する県は三:

海康県、中県。徐聞県、下県。遂溪県、下県。

化州路、下路。唐代に羅州・辯州を置いた。宋代に羅州を廃して辯州に併合した。また辯州を化州と改称した。元の至元十五年、安撫司を立てた。十七年、総管府に改めた。戸数一万九千七百四十九、人口五万二千三百十七。本路の屯田は五十五頃余り。管轄する県は三:

石龍県、下県。呉川県、下県。石城県、下県。

高州路、下路。唐代は高涼郡とし、また高州とした。宋代に高州を廃して竇州に併合し、後に再び置いた。元の至元十五年、安撫司を置いた。十七年、総管府に改めた。戸数一万四千六百七十五、人口四万三千四百九十三。本路の屯田は四十五頃。管轄する県は三:

電白県、下県。茂名県、下県。信宜県、下県。

欽州路、下路。唐代は寧越郡とし、また欽州とした。宋代はこれに因った。元の至元十五年、安撫司を置いた。十七年、総管府に改めた。戸数一万三千五百五十九、人口六万一千三百九十三。管轄する県は二:

安遠県、下県。霊山県、下県。

廉州路、下路。唐代は合浦郡とし、また廉州に改めた。元の至元十七年、総管府を設けた。戸数五千九百九十八、人口一万一千六百八十六。本路の屯田は四頃余り。管轄する県は二:

合浦県、下県。倚郭。石康県、下県。

乾寧軍民安撫司、唐代は崖州の瓊山県を以て瓊州を置き、また瓊山郡とした。宋代は瓊管安撫都監とした。元の至元十五年、海北海南道宣慰司に隷属させた。天暦二年、潜邸の際に巡幸された地であることを以て、乾寧軍民安撫司に改めた。戸数七万五千八百三十七、人口十二万八千一百八十四。本路の屯田は二百九十余頃。管轄する県は七:

瓊山県、下県。倚郭。澄邁県、下県。臨高県、下県。文昌県、下県。楽会県、下県。会同県、下県。安定県、下県。

南寧軍、唐代は儋州とし、昌化郡に改めた。宋代は昌化軍に改め、また南寧軍に改めた。元の至元十五年、海北海南道宣慰司に隷属させた。戸数九千六百二十七、人口二万三千六百五十二。管轄する県は三:

宜倫県、下県。昌化県、下県。感恩県、下県。

万安軍、唐代は万安州。宋代に軍に改めた。元の至元十五年、海北海南道宣慰司に隷属させた。戸数五千三百四十一、人口八千六百八十六。管轄する県は二:

萬安、下県。倚郭。陵水、下県。

吉陽軍、唐の振州。宋は崖州と改め、また(珠崖郡)〔朱崖軍〕とし、さらに吉陽軍と改めた。元の至元年間に降附し、後に海北海南道宣慰司に隷属した。戸数一千四百三十九、人口五千七百三十五。管轄する県は一:

寧遠。下県。

八番順元蛮夷官。至元十六年、潭州行省が両淮招討司経歴劉継昌を派遣して西南諸番を招降し、龍方零を小龍番静蛮軍安撫使とし、龍文求を臥龍番南寧州安撫使とし、龍延三を大龍番応天府安撫使とし、程延随を程番武盛軍安撫使とし、洪延暢を洪番永盛軍安撫使とし、韋昌盛を方番河中府安撫使とし、石延異を石番太平軍安撫使とし、盧延陵を盧番静海軍安撫使とし、羅阿資を羅甸国遏蛮軍安撫使とし、いずれも懐遠大将軍・虎符を授け、なお兵三千を以てこれを戍守させた。この年、宣慰使塔海は西南八番・羅氏等国で既に帰附したものを具して上奏し、洞寨は凡そ千六百二十有六、戸数は凡そ十万一千一百六十有八。西南五番は千一百八十六寨、戸数八万九千四百。西南番は三百十五寨、大龍番は三百六十寨。二十八年、楊勝の請いに従い、八番洞蛮を割いて四川行省より湖広行省に隷属させた。三十年、四川行省の官が言うには、「思州・播州は元来四川に隷属していたが、近ごろ湖広に改属された。今、土人はなお旧に従うことを願っている。」詔を下して問わせたところ、返答に云う、田氏・楊氏が言うには、先日闕廷に赴くに当たり、湖広を経由する道は甚だ便であり、況んや百姓は隣接し、駅伝は既に設けられているので、平章答剌罕に隷属することを願う、と。

羅番遏蛮軍安撫司。

程番武(勝)〔盛〕軍安撫司。

金石番太平軍安撫司。

臥龍番南寧州安撫司。

小龍番静蛮軍安撫司。

大龍番応天府安撫司。

木瓜𥝖狫蛮夷軍民長官。

韋番蛮夷長官。

洪番永盛軍安撫司。

方番河中府安撫司。

盧番静海軍安撫司。

盧番蛮夷軍民長官。

定遠府。

桑州。

章龍州。

必化州。

小羅州。

下思同州。

朝宗県、上橋県、新安県。

麻峡県、甕蓬県、小羅県。

章龍県、烏山県、華山県。

都雲県、羅博県。

管番民総管。

小程番。以下各々蛮夷軍民長官を設く。

中嶆百納等処。

底窩紫江等処。

甕眼納八等処。

独塔等処。

客当刻地等処。

天台等処。

梯下。

党兀等処。

勇都朱砂古𤬪等処。

大小化等処。

洛甲洛屯等処。

低当低界等処。

独石寨。

百眼佐等処。

羅来州。

那歴州。

重州。

阿孟州。

上龍州。

峽江州。

羅賴州。

桑州。

白州。

北島州。

羅那州。

龍里等寨。

六寨等處。

帖犵狫等處。

本當三寨等處。

山齋等處。

羨塘帶夾等處。

都雲桑林獨立等處。

六洞柔遠等処。

竹古弄等処。

中都雲板水等処。

金竹府。古𤬪県。

都雲軍民府。

万平等処。

南寧。

丹竹等処。

陳蒙。

李稍李殿等処。

陽安等処。

八千蛮。

恭焦渓等処。

都鎮。

平渓等処。

平月。

李崖等処。

楊並等処。

盧山等処。

乖西軍民府。皇慶元年に立て、土官阿馬に知府事を任じ、金符を佩かしむ。

順元等路軍民安撫司。至元二十年、四川行省九溪十八洞を討平し、その酋長を闕に赴かせ、その地の官を設くべき者とその人の官に入るべき者を定め、大なる処は州と為し、小なる処は県と為し、併せて総管府を立て、順元路宣慰司の節制に聴かしむ。

雍真乖西葛蠻等処。

葛蠻雍真等処。

曾竹等処。大徳七年、順元同知宣撫事阿重嘗て曾竹蠻夷長官と為り、その叔父宋隆濟諸蠻を結び乱を為すに及び、家を棄てて京師に朝し、その事の宜しきを陳べ、深く烏撒・烏蒙に入り、水東に至り、木樓苗・狫を招諭し、生け捕りに隆濟をして献ぜしむ。

龍平寨。

骨龍等処。

底寨等処。

茶山百納等処。

納壩紫江等処。

磨坡雷波等処。

漕泥等の処。

青山遠地等の処。

木窩普冲普得等の処。

武當等の処。

養龍坑宿徵等の処。

骨龍龍里清江木樓雍眼等の処。

高橋青塘鴨水等の処。

落邦札佐等の処。

平遲安德等の処。

六廣等の処。

貴州等の処。

施溪樣頭。

朵泥等の処。

水東。

巿北洞。

思州軍民安撫司。婺川県。

鎮遠府。

楠木洞。

古州八万洞。

偏橋中寨。

野鶏平。

徳勝寨偏橋四甲等処。

思印江等処。

石千等処。

暁愛瀘洞赤渓等処。

卑帯洞大小田等処。

黄道渓。

省渓壩場等処。

金容金達等処。

台蓬若洞住渓等処。

洪安等処。

葛章葛商等処。

平頭著可通達等処。

溶江芝子平〔茶〕等処。

亮寨。

沿河。

龍泉平。思州の旧治は龍泉にあり、その城を焼いたため、即ち治所を清江に移した。至元十七年、勅して安撫司を旧治に還し徙らしむ。

祐溪。

水特姜。

楊溪公俄等処。

麻勇洞。

恩勒洞。

大萬山蘇葛辦等処。

五寨銅人等処。

銅人大小江等処。

徳明洞。

烏羅龍干等処。

西山大洞等処。

禿羅。

浦口。

高丹。

福州。

永州。

迺州。

鑾州。

程州。

三旺州。

地州。

忠州。

天州。

文州。

合鳳州。

芝山州。

安習州。

茆䕼等の団。

荔枝。

安化上中下の蛮。

曹滴等の洞。

洛卜寨。

麥着土村。

衙迪洞。

会溪施容等の処。

感化州等の処。

契鋤洞。

臘惹洞。

労岩洞。

驢遅洞。

来化州。

客団等処。

中古州楽墩洞。

上里坪。

洪州泊李等洞。

張家洞。

沿辺溪洞宣慰使司。至元二十八年、播州の楊賽因不花が言上した。「洞民は近頃戸籍編成により、疑念を抱いて逃げ隠れしております。詔を下して招集を願います。」また言上した。「以前に授かった安撫の職務は順元宣慰司に隷属しており、その管轄地は四川行省に近いので、軍民宣撫司に改め、直に四川行省に隷属させてください。」これに従った。播州等処管軍万戸楊漢英を紹慶珍州南平等処沿辺宣慰使とし、行播州軍民宣撫使・播州等処管軍万戸を兼ねさせ、引き続き虎符を与えた。漢英は即ち賽因不花である。なお、請願された詔旨を頒布し、詔に曰く。「かつて前宋より帰順して以来、十五年以上を経て、戸数を調査実査することは、役所が当然知るべき事柄であり、諸郡皆然り、ただ爾ら播州のみではない。今より以後、皆その居を定め、流浪して住処を失った者は、招諭して旧業に復帰させ、役所は常に慰め慈しみを加え、煩わしく擾わすことなく、重ねて我が民を困窮させてはならない。」

播州軍民安撫司。

黄平府。

平溪上塘羅駱家等処。

水車等処。

石粉羅家永安等処。

六洞柔遠等処。

錫楽平等の処。

白泥等の処。

南平綦江等の処。

珍州思寧等の処。

水煙等の処。

溱洞涪洞等の処。

洞天観等の処。

葛浪洞等の処。

寨壩埡黎焦溪等の処。

小姑単張。

倒柞等の処。

烏江等の処。

旧州草堂等の処。

恭溪杳洞。

水囤等の処。

平伐・月石等の処。

下壩。

寨章。

横坡。

平地寨。

寨労。

寨勇。

上塘。

寨坦。

㖗奔。

平莫。

林種密秀。

沿河・祐溪等の処。

新添葛蛮安撫司。大徳元年、葛蛮安撫に駅券一を授く。

南渭州。

落葛谷・鵝羅椿等の処。

昔不梁・駱杯・密約等の処。

乾溪・呉地等の処。

噥聳・古平等の処。

甕城・都桑等の処。

都鎮・馬乃等の処。

平普・楽重墺等の処。

落同当等の処。

平族等の処。

独禄。

三陂・地蓬等の処。

小葛龍・洛邦・到駱豆虎等の処。

羅月和。

麦傲。

大小田・陂帯等の処。

都雲洞。

洪安画剤等処。

谷霞寨。

刺客寨。

吾狂寨。

割利寨。

必郎寨。

谷底寨。

都谷郎寨。

犵狫寨。

平伐等処。大徳元年、平伐の酋長が内附し、亦奚不薛に隷属することを請うた。これに従う。

安剌速。

思楼寨。

落暮寨。

梅求望懷寨。

甘長寨。

桑州郎寨。

永縣寨。

平里縣寨。

鎖州寨。

雙隆。

思母。

歸仁。

各丹。

木當。

雍郎客都等處。

雍門犵狫等處。

栖求等處仲家蠻。

婁木等處。

樂賴蒙囊吉利等處。

華山谷津等の地。

青塘・望懷・甘長・不列・獨娘等の地。

光州。

者者寨。

安化・思雲等の洞。

北遐洞。

茅難・思風・北郡・都變等の地。

必際県。

上黎平。

潘樂盈等の地。

誠州・富盈等の地。

赤畬洞。

羅章・特團等の地。

福水州。

允州等の地。

欽村。

硬頭三寨等處。

顏村。

水曆吾洞等處。

順東。

六龍圖。

推寨。

橘叩寨。

黃頂寨。

金竹等寨。

格慢等寨。

客蘆寨。

地省等寨。

平魏。

白崖。

雍門客當・楽頼蒙・囊大化・木瓜等の処。

嘉州。

分州。

平珠。

洛河・洛脳等の処。

寗溪。

甕除。

麦穯。

孤頂得同等の処。

甕包。

三陂。

控州。

南平。

独山州。

木洞。

瓢洞。

窖洞。

大青山骨記等の処。

百佐等の処。

九十九寨の蛮。

当橋山・斉朱谷列等の処。

虎列谷当等の処。

真滁・杜珂等の処。

楊坪・楊安等の処。

棣甫都城等の処。

楊友閬。

百也客等の処。

阿落伝等の寨。

蒙楚。

公洞龍木。

三寨の苗犵剌等の地。

黒土石。

洛賓・洛咸。

益輪の沿辺蛮。

割和寨。

王都谷浪寨。

王大寨。

只蛙寨。

黄平下寨。

林拱・章秀・拱江等の地。

密秀・丹張。

林種・拱幫。

西羅・剖盆。

杉木箐。

各郎西。

恭溪望成崖嶺等の処。

孤把。

焦溪篤住等の処。

草堂等の処。

上桑直。

下桑直。

米坪。

令其平尾等の処。

保靖州。

特団等の処。

征東等処行中書省。

征東等処行中書省は、府二つ、司一つ、勧課使五つを管轄す。大徳三年、征東行省を立てしも、間もなく廃止す。至治元年に再び立て、高麗国王を左丞相と為す。

高麗国。事蹟は高麗伝に見ゆ。至元十八年、王賰言う、「本国に駅站を置くこと凡そ四十、民と畜産と凋弊す」と。勅して併せて二十站と為す。三十年、沿海に水駅を立て、耽羅より鴨緑江に至り、へいせて楊村・海口、凡そ十三所。

瀋陽等路高麗軍民総管府。

征東招討司。

各道の勧課使。

慶尚州道。

東界交州道。

全羅州道。

忠清州道。

西海道。

耽羅軍民総管府。大徳五年に立てる。

河源附録

河源は古より見る所なし。禹貢に河を導くとあるも、ただ積石より始まるのみ。漢の使張騫は節を持ち、西域を経て、玉門を渡り、二水の交流するを見る。葱嶺より発し、于闐に趨き、塩沢に匯わり、伏流千里、積石に至りて再び出づ。唐の薛元鼎は吐蕃に使いし、河源を訪ね、悶磨黎山にてこれを得たり。然れども皆、歳月を歴て艱難に渉り、その得るところはこれに過ぎず。世の河源を論ずる者は、また皆二家に推本す。その説は怪迂にして、その実を総べれば、皆本真に非ず。思うに、漢・唐の時は、外夷未だ尽く臣服せず、而して道未だ尽く通ぜざる故に、その往くところ、毎に迂回艱阻にして、直ちにその処に抵りてその極みを究むる能わざるなり。

元、天下を有ち、薄海内外、人跡の及ぶところ、皆駅伝を置き、駅使往来すること、国中を行くが如し。至元十七年、都実を招討使と為し、金虎符を佩かしめ、河源を求め往かしむ。都実既に命を受け、是の歳河州に至る。州の東六十里に寧河駅あり。駅の西南六十里に山あり、殺馬関と曰う。林麓穹隘にして、足を挙ぐれば次第に高く、一日行きて巔に至る。西去すれば愈よ高く、四月を閲て、始めて河源に抵る。是の冬還りて報じ、併せてその城伝位置を図して以て聞かしむ。その後、翰林学士潘昂霄、都実の弟闊闊出に従いその説を得て、河源志を撰す。臨川の朱思本また八里吉思の家より帝師の蔵する梵字図書を得て、以て華文に訳し、昂霄の志すところと互いに詳略有り。今二家の書を取り、その説を考定し、同じからざるもの有れば、下に附注す。

按ずるに、河源は土蕃の朵甘思の西鄙に在り、泉百余泓有り、沮洳散煥にして逼視すべからず、方七八十里、高山に履き下瞰すれば、燦として列星の若く、故に名づけて火敦脳児と為す。火敦は訳して星宿と曰う。思本曰く、河源は中州の西南に在り、直に四川馬湖蛮部の正西三千余里、雲南麗江宣撫司の西北一千五百余里、帝師撒思加の地の西南二千余里なり。水は地より涌き出でて井の如し。その井百余、東北に流ること百余里、大沢に匯わりて、火敦脳児と曰う。群流奔輳し、近く五七里、二つの巨沢に匯わり、阿剌脳児と名づく。西より東へ、連属吞ぜいし、一日行きて、迤邐として東に騖きて川と成り、号して赤賓河と為す。また二三日、水西南より来たり、亦里出と名づけ、赤賓河と合す。また三四日、水南より来たり、忽闌と名づく。また水東南より来たり、也里朮と名づけ、合流して赤賓に入り、その流れ浸大にして、始めて黄河と名づく。然れども水なお清く、人渉るべし。思本曰く、忽闌河の源は南山より出づ。その地は大山峻嶺、綿亘千里、水流五百余里、也里出河に注ぐ。也里出河の源もまた南山より出で、西北に流ること五百余里、始めて黄河と合す。また一二日、八九股に岐れて、也孫斡論と名づけ、訳して九渡と曰い、通じて広さ五七里、馬を度すべし。また四五日、水渾濁し、土人は革嚢を抱き、騎してこれを過ぐ。聚落は木幹を糾い舟に象り、髦革を傅えて以て済り、僅かに二人を容る。ここより両山峡束し、広さ一里、二里あるいは半里、その深さ測るべからず。朵甘思の東北に大雪山有り、亦耳麻不莫剌と名づけ、その山最も高く、訳して騰乞里塔と曰い、即ち崑崙なり。山腹より頂に至るまで皆雪、冬夏消えず。土人言う、遠年氷を成す時は、六月に見ゆと。八九股の水より崑崙に至るまで、二十日行く。思本曰く、渾水より東北に流ること二百余里、懐里火禿河と合す。懐里火禿河の源は南山に在り、水は正北偏西に流ること八百余里、黄河と合し、また東北に流ること一百余里、郎麻哈の地を過ぐ。また正北に流ること一百余里、乃ち折れて西北に流ること二百余里、また折れて正北に流ること一百余里、また折れて東に流れ、崑崙山の下を過ぐ。番名は亦耳麻不〔莫〕剌。その山高峻非常にして、山麓綿亘五百余里、河は山足に随い東流し、撒思加の闊即、闊提の地を過ぐ。

河は崑崙の南を行くこと半日、また四五日、闊即及び闊提と地名する地に至る。二地は相属す。また三日、哈剌別里赤児と地名する地、四達の衝なり。寇盗多く、官兵これを鎮む。北に近き二日、河水これを過ぐ。思本曰く、河は闊提を過ぎ、亦西八思今河と合す。亦西八思今河の源は鉄豹嶺の北より出で、正北に流ること凡そ五百余里にして黄河と合す。崑崙以西は、人簡少にして、多くは山南に処る。山は皆穹峻ならず、水もまた散漫、獣には髦牛・野馬・狼・狍・羱羊の類有り。その東は、山益高く、地もまた漸く下り、岸狭隘にして、狐一躍にして越ゆべきところ有り。五六日行きて、水西南より来たり、納隣哈剌と名づけ、訳して細黄河と曰う。思本曰く、哈剌河は白狗嶺の北より、水西北に流ること五百余里、黄河と合す。また両日、水南より来たり、乞児馬出と名づく。二水合流して河に入る。思本曰く、哈剌河黄河と合してより、正北に流ること二百余里、阿以伯站を過ぎ、折れて西北に流れ、崑崙の北を経ること二百余里、乞里馬出河と合す。乞里馬出河の源は威・茂州の西北、岷山の北より出で、水北に流る。即ち古の当州の境、正北に流ること四百余里、折れて西北に流れ、また五百余里、黄河と合す。

黄河の水は北へ流れ、西へ転じて流れ、崑崙山の北を過ぎ、一筋に東北へ流れ、およそ半月行くと、貴德州に至る。地名は必赤里で、ここに初めて州治の官府がある。州は吐蕃等処宣慰司に隷属し、宣慰司の治所は河州にある。さらに四五日行くと、積石州に至る。これが禹貢の積石である。五日行くと、河州安郷関に至る。一日行くと、打羅坑に至る。東北へ一日行くと、洮河の水が南より来て黄河に入る。思本が言うには、乞里馬出河より黄河と合流し、さらに西北へ流れ、鵬拶河と合流する。鵬拶河の源は鵬拶山の西北に発し、水は真西へ七百余里流れ、札塞塔失地を過ぎて黄河と合流する。折れて西北へ三百余里流れ、また折れて東北へ流れ、西寧州・貴德州・馬嶺を過ぎて凡そ八百余里、邈水と合流する。邈水の源は青唐宿軍谷に発し、真東へ五百余里流れ、三巴站を過ぎて黄河と合流する。さらに東北へ流れ、土橋站・古積石州・来羌城・廓州・搆米站・界都城を過ぎて凡そ五百余里、河州を過ぎて野龐河と合流する。野龐河の源は西傾山の北に発し、水は東北へ凡そ五百余里流れて黄河と合流する。さらに東北へ一百余里流れ、踏白城・銀川站を過ぎて湟水・浩亹河と合流する。湟水の源は祁連山の下に発し、真東へ一千余里流れて浩亹河に注ぐ。浩亹河の源は刪丹州の南、刪丹山の下に発し、水は東南へ七百余里流れて湟水に注ぎ、それから黄河と合流する。さらに東北へ一百余里流れて洮河と合流する。洮河の源は羊撒嶺の北に発し、東北へ流れ、臨洮府を過ぎて凡そ八百余里、黄河と合流する。さらに一日行くと、蘭州に至り、北卜渡を過ぎる。鳴沙州に至り、応吉里州を過ぎ、真東へ行く。寧夏府の南に至り、東へ行くと、すなわち東勝州で、大同路に隷属する。源を発して漢地に至るまで、南北の澗溪、細流が傍らに貫通し、その極まりを知ることができない。山は皆草と石であり、積石に至って初めて林木が暢茂する。世に河は九折すると言うが、その地には二折があり、それは乞児馬出及び貴徳必赤里である。思本が言うには、洮水が河と合流してから、さらに東北へ流れ、達達の地を過ぎて凡そ八百余里。豊州西受降城を過ぎ、折れて真東へ流れ、達達の地・古天徳軍・中受降城・東受降城を過ぎて凡そ七百余里。折れて真南へ流れ、大同路雲内州・東勝州を過ぎて黒河と合流する。黒河の源は漁陽嶺の南に発し、水は真西へ凡そ五百余里流れて黄河と合流する。さらに真南へ流れ、保德州・葭州及び興州の境を過ぎ、また臨州を過ぎて凡そ一千余里、吃那河と合流する。吃那河の源は古宥州に発し、東南へ流れ、陝西省綏徳州を過ぎて凡そ七百余里、黄河と合流する。さらに南へ三百里流れて延安河と合流する。延安河の源は陝西蘆子関の乱山中に発し、南へ三百余里流れ、延安府を過ぎ、折れて真東へ三百里流れて黄河と合流する。さらに南へ三百里流れて汾河と合流する。汾河の源は河東朔州・武州の南の乱山中に発し、西南へ流れ、管州、冀寧路汾州・霍州、晋寧路絳州を過ぎ、さらに西へ流れて龍門に至り、凡そ一千二百余里にして初めて黄河と合流する。さらに南へ二百里流れ、河中府を過ぎ、潼関に至って太華大山と綿亘し、水勢は再び南へ行くことができず、そこで折れて東へ流れる。おおよそ河源は東北へ流れ、経歴する所は皆西番の地であり、蘭州に至るまで凡そ四千五百余里にして、初めて中国に入る。さらに東北へ流れ、達達の地を過ぎて凡そ二千五百余里にして、初めて河東境内に入る。さらに南へ流れて河中に至るまで、凡そ一千八百余里。通計九千余里。

西北地附録

篤来帖木児

途魯吉。

柯耳魯地。

畏兀児地。至元二十年、畏兀児四箇所の駅及び交鈔庫を設置。

哥疾寧。

可不里。

巴達哈傷。

途思。

忒耳迷。

不花剌。

那黒沙不。

的里安。

撒麻耳干。

忽氊(ホジェンド)。

麻耳亦囊(マルギナン)。

失哈耳(シガル)。

忽炭(ホータン)。

柯提(カト)。

兀提剌耳(オトラル)。

巴補(バブ)。

訛跡邗(ウズゲンド)。

倭赤(ウチ)。

苦叉(クチャ)。

柯散(カサン)。

阿忒八失(アトバシ)。

八里茫(バルマン)。

察赤(チャチ)。

也云赤(ヤユンチ)。

亦剌八里。

普剌。

也迷失。

阿里麻里。諸王海都が阿力麻里などの地に行営を置いたのは、その分地であったからである。上都より西北へ六千里行くと、回鶻の五城に至る。唐はこれを北庭と号し、都護府を置いた。さらに西北へ四、五千里行くと、阿力麻里に至る。至元五年、海都が叛き、兵を挙げて南へ来たので、世祖は北庭においてこれを迎え撃って敗り、さらに阿力麻里まで追撃したが、彼はまた二千余里も遠く遁走した。上は追うことを禁じ、皇子北平王に諸軍を統率させて阿力麻里に駐屯させてこれを鎮め、丞相安童を遣わしてこれを補佐させた。

哈剌火者。

魯古塵。

別失八里。至元十五年、八撒察里に虎符を授け、別失八里の畏兀城子の軍站の事務を掌らせた。十七年、万戸綦公直をして別失八里を戍守させた。十八年、諸王阿只吉の請いに従い、大和嶺から別失八里まで新たに駅站三十を置いた。二十年、別失八里・和州等処宣慰司を立てた。二十一年、阿只吉が使者を遣わして言うには、「もと只必帖木兒に隷属していた二十四城のうち、察帯の二城に達魯花赤を置き、闊端に付属させたため、省に隷属しなくなった」と。ここに至って詔旨を奉じ、「まことに言う通りであるならば、これを正しく戻せ」と。二十三年、侍衛の新附兵千人を遣わして別失八里に屯田させ、元帥府を置き、その地においてこれを総轄させた。

他古新。

仰吉八里。

古塔巴。

彰八里。至元十五年、朵魯知に金符を授け、彰八里の軍站の事務を掌らせた。

月祖伯。

撤耳柯思。

阿蘭阿思。

欽察。太宗甲午年、諸王抜都に命じて西域の欽叉・阿速・斡羅思などの国を征伐させた。歳乙未、憲宗をもまたこれに派遣した。歳丁酉、軍は寬田吉思海のほとりに至り、欽叉の酋長八赤蠻が海島の中に逃避したが、ちょうど大風が吹き海水が去って干上がったため、八赤蠻を生け捕りにし、ついで諸王抜都とともに斡羅思を征伐し、也列贊城に至り、七日でこれを陥落させた。歳丁巳、軍を出して南征し、駙馬剌真の子の乞歹を達魯花赤として、斡羅思・阿思を鎮守させた。歳癸丑、斡羅思・阿思の戸口を調査した。

アロス(ルーシ)。

ブリャール(ヴォルガ・ブルガール)。

サギラ。

ホラズム。

サイラム。

バルチュガン。

ジャンド。

アブー・サイード。

バグラン。

キシュ。

バグダード。

スルターニーヤ。

ホルムズ。

カズルーン。

シーラーズ。

シーラーズ。

クーファ。

ワーシト。

ウッキバラー。

モースル。

シルヴァーン。

ルール。

キルマーンシャー。

ランバサル。

ナハーヴァンド。

イスファハーン。

サヴェ。

カーシャーン。

デイラム。

フワール。

西模娘。

阿剌模忒。

可疾云。

阿模里。

撒里牙。

塔米設。

贊章。

阿八哈耳。

撒里茫。

朱里章。

的希思丹。

巴耳打阿。

打耳班。

巴某。

塔八辛。

不思忒。

法因。

乃沙不耳。

撒剌哈歹。

巴瓦兒的。

麻里兀。

塔里干。

巴里黑。

吉利吉思、撼合納、謙州、益蘭州等の地。吉利吉思とは、初め漢地の女四十人を以て烏斯の男と結婚させ、この義を取ってその地を名づけた。南は大都を去ること一萬餘里。相伝うところでは乃満部が初めここに居住し、元朝に至ってその民を分けて九千戸とした。その境は長さ一千四百里、広さはその半分、謙河がその中を経て西北に流れる。また西南に阿浦という水あり、東北に玉須という水あり、いずれも大きな湖沢で、謙河に合流し、昂可剌河に注ぎ、北は海に入る。風俗は諸国と異なる。その言語は畏吾児と同じ。廬帳に住み、水草に随って畜牧し、やや農耕を知り、雪に遇えば木馬に跨って狩猟を追う。土産は名馬、白黒の海東青。昂可剌とは、水に因って名づけられ、吉利吉思に附庸し、大都を去ること二萬五千餘里。その言語は吉利吉思と特に異なる。昼長く夜短く、日の没く時に羊の肋骨を炙いて熟する頃、東方は既に曙となる。即ち唐史に載せる骨利幹国である。烏斯もまた水に因って名づけられ、吉利吉思の東、謙河の北にある。その俗、毎年六月上旬、白馬牛羊を殺し、馬の乳を灑ぎ、皆烏斯沐漣に就いて河神を祭る。その始祖の出づる所であるという故である。撼合納は布嚢を言うが如し。蓋し口小さく腹巨き、地形これに類す。これに因って以て名と為す。烏斯の東に在り、謙河の源の出づる所である。その境上には唯二つの山口のみ出入りすべく、山水林樾、険阻甚だしく、野獸多くして畜字少なし。恒産なき貧民は、皆樺皮を以て廬帳を作り、白鹿にその行装を負わせ、鹿の乳を取り、松の実を採り、及び山丹、芍薬等の根を掘って食と為す。冬月もまた木馬に乗って出猟す。謙州もまた河に因って名づけられ、大都を去ること九千里、吉利吉思の東南、謙河の西南、唐麓嶺の北にある。居民数千家、悉く蒙古、回紇の人。工匠数局あり、蓋し国初に徙せし漢人なり。地沃衍にして禾稼に宜しく、夏に種き秋に成り、耘耔を煩わさず。或いは汪罕が初めこの地に居せしと云う。益蘭とは、蛇の称なり。初め、州境の山中の居人、一の巨蛇を見る。長さ数十歩、穴中より出でて河水を飲み、腥気数里に聞こゆ。これに因って州を名づく。至元七年、詔して劉好礼を遣わし、吉利吉思撼合納謙州益蘭州等処断事官と為し、即ちこの州に庫廩を修め、伝舎を置き、以て治所と為す。先に、数部の民俗、皆杞柳を以て杯皿と為し、木を刳って槽と為して以て水を渡り、鋳作して農器を作ることを解せず。好礼、朝廷に聞く。乃ち工匠を遣わし、陶冶舟楫を教う。土人これに便とす。

安南郡県附録

安南は、古の交趾なり。陳氏の叛服の蹟は、既に本伝に見ゆ。今その城邑の紀すべきものを取り、左方に録す。

大羅城路は、漢の交趾郡。唐は安南都護府を置く。宋の時、郡人李公蘊ここに国を立てる。陳氏の立つに及び、その属地に龍興、天長、長安ちょうあん府を置く。

龍興府は、本は多岡郷。陳氏国を有し、龍興府を置く。

天長府は、本は多墨郷、陳氏の祖父の生まれたる地。ここに行宮を建て、歳一度至り、本を忘れざるを示す。故に改めて天長と曰う。

長安府は、本は華閭洞、丁部領の生まれたる地。五代の末、部領ここに国を立てる。

帰化江路は、地は雲南に接す。

宣化江路は、地は特磨道に接す。

沱江路は、地は金歯に接す。

諒州江路は、地は左右両江に接す。

北江路は、羅城の東岸に在り、瀘江水が分かれて北江に入る。江には六つの橋がある。

如月江路。

南冊江路。

大黃江路。

烘路。

快路。

国威州は、羅城の南に在る。これ以下の州は、多く雲南・広西の境界に接し、州と名乗るも、その実は洞である。

古州は、北江に在る。

仙州は、古の龍編なり。

富良。

司農。一説に楊舎と云う。

定辺。一説に明媚。

万涯。一説に明黄。

文周。一説に門州。

七源。

思浪。

太原。一説に黄源。

通農。

羅順。一説に来神。

梁舍。一説に梁个。

平源。

光州。一説に明蘇。

渭龍。一説に乙舍。

道黄。すなわち平林場。

武寧。これ以下の県は、雲南・広西の境界に接し、名は県と雖ども、其の実は洞である。

万載。

丘温。

新立。

恍県。

紙県。

歴県。

闌橋。

烏延。

古勇。

供県。

窟県。

上坡。

門県。

清化府路は、漢代の九真である。隋・唐代は愛州であった。その属邑は、江・場・甲・社と号を改めた。

梁江。

波龍江。

古農江。

宋舍江。

茶江。

安暹江。

分場。古文場。

古藤甲。

攴明甲。

古弘甲。

古戰甲。

緣甲。

乂安府路は、漢代は日南郡。隋・唐代は驩州であった。

倍江。

惡江。

偈江。

尚路社。

唐舍社。

張舍社。

演州路は、本来は日南郡に属する県で、扶演・安仁といった。唐代に演州と改めた。

孝江。

多壁場。

巨賴社。

他袁社。

布政府路は、本来は日南郡象林県で、東は海に臨み、西は真臘に接し、南は扶南に隣接し、北は九徳に連なる。東漢末、区連が象林県令を殺し、自立して国を建て、林邑と称した。唐代に環王という者がおり、国を占に移し、占城と称した。今の布政はすなわち林邑の故地である。

安南の大羅城から燕京に至るまで、およそ百十五駅、計七千七百余里。

辺境の民が労役に服す。

占城。

王琴。

蒲伽。

道覽。

淥淮。

稔婆邏。

獠(蛮族の一種)。