黄河
黄河の水は、その源は遠く高く、その流れは大きく急であり、中国に禍患をもたらすものはこれより甚だしいものはない。前史には河の決壊による禍患が詳しく記載されている。
世祖至元九年七月、衞輝路新郷県の広盈倉の南、河北岸が五十余歩決壊した。八月、また百八十三歩崩壊し、その勢いは未だ止まず、倉から僅か三十歩のところまで迫った。ここにおいて都水監丞馬良弼を派遣し、本路の官とともに現地に赴いて視察させ、丁夫を徴発して力を合わせて修復完成させた。二十五年、汴梁路陽武県の諸所で、河が二十二箇所決壊し、麦・禾・家屋を押し流した。宣慰司に委ねて本路に夫役を徴発させ修治させた。
黄河が決壊・氾濫し、千里にわたり被害を蒙る。城郭を浸し、家屋を押し流し、禾稼を損ない、百姓はすでにその毒害に遭っている。それから後になって修治の方策を訪ね求め、しかも衆議紛紜として互いに利害を陳述し、当事者は疑惑して決断できず、必ず上って朝廷・省に請わなければならず、議定に至るまでに、その害はますます大きくなる。いわゆる未然に予防しない弊害である。およそ黄河が低水位の時は、水勢は緩やかに見え、見たところ害をなすには足りないが、ひとたび霖雨・長雨に遇えば、湍流・波浪は迅猛である。孟津以東では、土質が粗く薄く、砂地・塩分を含み、また導流・排水の方法を失っているので、崩壊・決壊・氾濫は、足を上げて待つばかりである。
近年、亳州・潁州の民は、幸いに河が北に移ったが、有司は遠慮することができず、計画を誤り、陂沢・湖沼をすべて陸地としてしまった。東は杞県の三叉口に至り、河を三つに分流させ、その勢いを弱めていたのは、すでに長年を経ていた。往年、帰徳・太康が建議し、相次いで南北の二つの分流を埋め塞いだため、ついに三河の水を合流させて一つにしてしまった。下流がすでに通暢でないので、自然と上流が溢れて災害となる。これによって見れば、これは自ら分流・排水の利を奪ったのであり、故にその上下流で決壊・氾濫が起こり、今に至るまで除去されないのである。今まさに水勢は下流に向かい、再び鉅野・梁山に戻ろうとする意向がある。およそ河の性質は遷移して常がなく、もし遠大な計画を立てて予防しなければ、数年を出ずして、曹・濮・済・鄆は必ず被害を蒙るであろう。
今いわゆる治水を行う者は、ただ議論が紛紜とするばかりで、皆良い策がない。水監の官は、すでに精選されたものでなく、河の利害を知る者は、百人いて一二人もいない。毎年駅伝を重ねてやって来るが、名目は巡河であっても、ただ故事をなぞるだけである。地形の高低を問えば、ぼんやりとして知らず、水勢の利病を訪ねれば、習熟していないことである。実才がなく、また経験・練達もない。あるいは妄りに事端を起こし、民を労し衆を動かし、水性に逆らい、かえって後患となる。
今の計略としては、汴梁に都水分監を設置し、廉潔・有能で水利に深く通じた人を巧みに選抜し、その職務に専任させ、員数を適量に保ち、頻繁に巡視させ、その防護を厳重にすることに如くはない。疏浚すべきは疏浚し、埋塞すべきは埋塞し、防禦すべきは防禦する。職掌がすでに専一であれば、事功を立てることができる。河がすでに決壊・氾濫し、民がすでに被害を受けた後で、粗略に修治して民を労するのと比べれば、どうして同日に論じることができようか。
ここにおいて省は都水監に議させ、大徳十年正月の省臣の上奏で許可されたものを照合した。先に都水監が正三品に昇格し、官を二員増員し、分監の印を鋳造し、御河を巡視し、欠壊を修復し、浅瀬・澱みを疏浚し、民船が順序を越えて乱雑に航行するのを禁じ、分巡提点に修治させると定めた。本監は議した。「黄河の氾濫・増水は、ただ一事であり、会通河のように堰・水門があり漕運があり分監が守備・治水するのと比べるのは難しい。先に御河のために官を増員し印を下賜し、兼ねて黄河を提点させた。もし専一に、分監を彼の地に置けば、御河の公事に支障があろう。況や黄河にはすでに関係する有司の正官が提調しており、今よりは分監の官吏を十月に派遣し、各所の官司とともに欠壊を巡視し、工事・資材を計算して監督・治め、年末までに完成させ、来春に分監の新任官が到着したならば、一つ一つ引き継ぎ、その後交代して帰還させれば、おそらく互いに誤りはなかろう。」
工部は大徳九年に黄河が決壊・流路変更し、汴梁に迫り、ほとんど浸水・没落に至ったことを照合した。本所の官司は臨機に董盆口を開削し、巴河に分流させてその勢いを弱め、ついに本流の水勢を緩やかにし、ともに支流に向かわせた。巴河がもともと狭隘で、水を収容しきれなかったため、翌年急いで蕭都水らを派遣して閉塞させたが、その勢いはますます大きく、ついに成功せず、連年禍害をもたらす原因となり、南は帰徳諸所から、北は済寧の地分に至るまで、今に至るまで止まない。本部は議した。「黄河の禍害は、他の河川と同様には扱い難い。長遠の計略を為そうとすれば、古今の水利に通暁する人を用いてその事に専任させなければ、終に補益はない。河南憲司の言上は詳細である。今、都水監は他に別見がなく、ただ旧例に依って議案を提出するのは妥当でない。もし官を適量に設置し、廉潔・有能で奉公し、地形・水勢に深く通じた者を精選し、河防の職務に専任させ、往来して巡視し、時に応じて疏浚・埋塞を行えば、おそらく禍害を除去できよう。」省は許可し、都水分監の官に河患の治水を専任させ、任期満了で交代させることを命じた。
各官が公議して言うには、「治水の道は、ただその性質の自然に順うべきである。嘗て大河が陽武・胙城より、白馬河間を経て、東北に海に入ることを聞く。歴年既に久しく、遷徙常ならず。毎年両岸に氾濫し、時に衝決あり、強いて閉塞すれば、正に農忙に及び、樁梢を科し、丁夫を発し、動かすこと数万に至り、費やすところ勝げて紀すべからず、その弊多端にして、郡縣嗷嗷たり、民聊生すべからず。蓋し黄河は遷徙を善くし、ただ下流に順って疏泄すべきなり。今相視するに、上は河陰より、下は帰徳に至るまで、夏の水漲を経て、常年に甚だしく、小黄口の分洩するが故に、並びに衝決なく、これその明らかなる験なり。詳しく陳州を視るに、最も低窪にして、河に瀕するの地、今年麦禾収穫せず、民の飢え甚だし。これを拯救せんと欲すれば、下流に疏くべきところなし。もし小黄村の河口を閉塞せば、必ず患いを隣郡に移す。上流の南岸を決すれば、則ち汴梁害せられ、下流の北岸を決すれば、則ち山東憂うべし。事両全し難く、小を遺して大に就くべし。もし陳村の差税を免じ、その飢民を賑い、陳留・通許・太康県の被災の家、例に依り取勘して賑恤し、その小黄村の河口は旧に従って通流せしむる外、月堤を修築し、並びに障水堤を築き、河口を閉ずるについては、別に擬議し難し」と。ここにおいて凡そ汴梁の管轄する州県の河堤、或いは既に修治し、及び疏通すべきと補築すべきとを条列して具備す。
至元五年正月、河北河南道廉訪副使奥屯言うには、「近年河は杞県小黄村口に決し、滔滔として南流し、これを禦遏する能わず、陳・潁の河に瀕する膏腴の地浸没し、百姓流散す。今水は汴城に迫ること遠からず数里、もし霖雨水溢に値せば、倉卒何をもってか防御せん。方今農隙なり、宜しく講究して、水をして故道に帰らしめ、江・淮に達せしむべし。ただ陳・潁の民その生を遂ぐるを得るのみならず、窃かに将来汴城を浸灌するを恐る、その害軽からざるべし」と。ここにおいて大司農司は都水監に下し、文を移して汴梁分監に修治せしむ。六年二月十一日より工を興し、三月九日に工畢す。総計す、北は槐疙疸の両旧堤より、南は窰務汴堤に至るまで、通長二十里二百四十三歩。護城堤一道を創修し、長さ七千四百四十三歩。下地に堤を修し、下広十六歩、上広四歩、高一丈、六十尺を一工とす。堤の東二十歩外に土を取り、内河溝七箇所、深浅高下闊狭一ならず、工を計ること二十五万三千六百八十、夫八千四百五十三を用い、風雨の工を妨ぐるを除き、三十日にして畢る。内流水河溝は、南北闊二十歩、水深五尺。河内に堤を修し、底闊二十四歩、上広八歩、高一丈五尺、積十二万尺、土を取ること稍遠く、四十尺を一工とし、三万工を計り、夫百人を用う。毎歩に大樁二を用い、計四十、各長一丈二尺、径四寸。毎歩に雑草千束を用い、計二万。毎歩に簽樁四を用い、計八十、各長八尺、径三寸。水手二十、木匠二、大船二艘、梯钁一副、繩索畢く備わる。
郝承務また言うには、「魏家道口塼堌等村、缺破の堤隁、累ねて樁土を下すも、衝洗して存せず、もしまた閉築せんとすれば、缺堤の周回皆泥淖にして、人居住すべからず、兼ねて土を取るの処なし。また沛郡安楽等保、去歳旱災、今また水澇し、禾稼を漂い、室廬を壊し、民皆食を缺き、差倩し難し。その水害を経ざる村保の民人は、先に已に遍く差して黄家橋・磨子口諸処の堤隁を補築せり、重役すべからざるに似たり。もし秋涼しく水退くを候い、夫を倩って經理すれば、庶幾くは民力を蘇らしめん。今衝破する新旧堤七箇所、共に長さ一万二千二百二十八歩、下広十二歩、上広四歩、高一丈二尺、夫六千三百四人、樁九百九十、葦箔一千三百二十、草一万六千五束を用うるを計る。六十尺を一工とし、風雨の工を妨ぐることなければ、五十日を度りて畢るべし」と。本県は言に準じ、八月三十日に夫二千四百二十を差し、郝承務に関請して役を督せしむ。
郝承務また言うには、「九月三日に工を興し修築す。十八日に大風、十九日に雨、二十四日にまた雨、これに縁り辛馬頭・孫家道口の障水堤隁また壊る。工役を計るに元の数に倍し、文を本県に移し、二千人を添差して同築せしむ。二十六日、元より成武・定陶の二県と分築する魏家道口八百二十歩修完す。十月二日、辛馬頭・孫家道口に至り、実を従って元の缺堤を丈量す。南北闊一百四十歩、内水地五十歩、深きは二丈に至り、浅きは八九尺に下らず、元の料に依り樁箔を用いて補築し、七日に至り完うす。また本処に月堤一道を創築す。西北より東南に斜めに長さ一千六百二十七歩、内成武・定陶分築一百五十歩、実に築くこと一千四百七十七歩、外に元の料の堌頭魏家道口の外堤未だ築かず。即ち工を興さんと欲すれども、冬寒く土凍るに縁り、来春を擬して候い、工を併せて修理せば、官民両便ならん」と。
済州河
済州河とは、新たに開きて漕運を通ぜしむるなり。
世祖至元十七年七月、耿参政・阿里尚書が奏上した、「姚演が河川開削のことを言上した件につき、阿合馬に旧臣らと集議させ、鈔一万錠を労賃とし、なお食糧を支給すべきである」と。世祖はこれに従った。十八年九月、中書省丞相火魯火孫らが奏上した、「姚総管らが言上するには、益都・淄萊・寧海の三州の一年分の賦税を免除し、これを労賃に充てて河川開削の費用とすべきと請う。平章阿合馬が諸老臣と議したところ、一年の民賦は多くとも、官が労賃を支給するのに比べれば、実施するのに甚だ便である」と。そこでこれに従った。十月、火魯火孫らが奏上した、「阿八失が開削した河川は済州を経由するが、その地にまた一つの河川があり、傍らに民田があるので、これを開削すれば甚だ便である。臣らが議するに、もしこの河川を開削するならば、阿八失が管轄する一方の屯田は、他処に移すべきであり、水勢を阻害しないようにすべきである」と。世祖はこれを移すよう命じた。十二月、オルチ(奥魯赤)・劉都水及び計算に精通した者一人を差し、宣差の印を与えて済州に赴かせ、河川開削の夫役を確定させた。大名・衞州の新附軍にもまた工事を助けに行かせた。
三十一年、御史臺が言上した、「膠・萊の海路は浅く渋滞しており、舟を通すことができない」と。台官玉速帖木児が奏上した、「阿八失が開削した河川について、省が牙亦速失来を派遣したが、漕運船が河川を行けば損失は少なく、海を行けば損害が多いという」と。やがて漕運の臣囊加䚟・万戸孫偉がまた言上した、「海路による漕運船は速くかつ便利である」と。右丞メチュディン(麦朮丁)がまた奏上した、「オヌウヌダイ(斡奴兀奴䚟)が三度にわたり文書を送り、阿八失が開削した河川は利益少なく損害多く、転漕には不便であると述べている。水手・軍人二万、舟千艘が現在閑却されて用いられていないが、これを用いれば、毎年百万石を漕運することができる。先に旨を奉じ、忙古䚟が来るのを待って共に議し、海路が便利であれば、阿八失の河川は廃止できるとされた。今、忙古䚟はすでに海路から糧を運んで帰還し、一二の南人が自ら万石の糧を運ぶことを志願し、すでにこれを許した」と。囊加䚟・孫万戸がまた軍を用いて海運を試験するよう請うた。省院官及び衆議は、「阿八失河に用いていた水手五千・軍五千・船千艘を、揚州省に与えて漕運を教習させる。今、この水手・軍人を用い、平灤の船に就かせ、利津から海路で漕運することを擬する」とした。世祖はこれに従った。阿八失が開削した河川はついに廃された。
滏河
滏河とは、滏水を引いて洺州の城濠を通じたものである。
至元五年十月、洺磁路が言上した、「洺州城中の井戸・泉の水は塩辛く苦く、住民の飲食用に供すると、多くは疾病を起こし、かつ死者が多い。旧渠を疏浚し、堰と水門を設置し、滏水を分引して洺州の城濠に灌漑し、民の用に供すべきである。計画によれば、河渠は東西に長さ九百歩、幅六尺、深さ三尺、二尺を一工とし、役工四百七十五、民は自ら器具を備え、年に二度水門を開き、かつ漕運の事を妨げない」と。中書省はその言を認可した。
広済渠
広済渠は懐孟路にあり、沁水を引いて黄河に至らしめた。
まもなく孟州等処の申し立てに基づき、親しく沁口に赴き、耆老に諮詢したところ、言うには、旧日沁水の正河内に土堰を築き、水を遮って広済渠に入れ、岸北に減水河道はあるが、水を吞み伏せることができず、後に霖雨に値して、田禾を蕩没したため、これを堵閉した。今もし枋口の上流の土岸及び浸水の正河に石堰を設置し、枋口と相平らかにし、もし水が溢れるに遇えば、水門口を閉塞し、水を石堰に漫流させ、再び本河に還し、また減水河からその勢いを分かち殺せば、このようにしておおよそ害とならない。河陽・武陟県の県尹と耆老らと会合して議したところ、もし旧広済渠を前に依って開削疏浚し、減水河もまた深く広く開削し、碾磨の設置を禁じ、水門・堰を設立し、下流から水を使用し、旱魃に遇えば水門を開いて田を灌漑し、涝に値すれば水門を閉じて水を退ければ、公私ともに便益である。懐慶路が工部に牒を備えて申し上げ、都水監が本路に回文し、官を委任して視察施行させた。
三白渠
京兆には旧来三白渠があり、元が金を伐って以来、渠堰が欠損し、土地は荒蕪した。陝西の人々は種蒔を欲するも、水利を得られず、賦税は不足し、軍事の興起に用いるものが乏しかった。
洪口渠
洪口渠は奉元路にある。
陝西省は屯田府の照会に準じ、洪口は秦より宋に至るまで一百二十激あり、三限を経由し、涇陽より下って臨潼に至る五県に分流し、民田七万余頃を澆溉する。田を験して夫一千六百人を出し、八月一日より隁を修め、十月に水を放ちて田を溉ぎ、年例とする。近頃奉元が亢旱のため、五載にわたり収穫がなく、人皆相食い、流移疫死者は十の七、八に及ぶ。今夫を差し、また用物を出することを命じれば、実に辦集できない。窃かに詳らかにするに、涇陽の水利は、三限に分けて水を引き田を溉ぐとはいえ、三原等県は地理遙遠で、時に周遍できず、涇陽北近は、ともに上限にあり、併せて南限・中限は、用水が最も便である。今次の修隁は、現存の戸は例に依って差役し、その逃亡の家の合出すべき夫数は、宜しく涇陽県近限の水利戸に一人を添差し、官が日ごとに米一升を給し、併せて工を修治すべきである。省は準じて鈔八百錠を出し、耀州同知李承事、及び本府総管郭嘉議並びに各処の正官に委ね、工役を計り、時直に照らして米を糴り給散させる。李承事が夫を督めて修築し、十一月十六日に完了した。
揚州運河
運河は揚州の北にある。宋の時は嘗て軍を設けて疏滌したが、世祖が宋を取った後、河は漸く壅塞した。至元末年、江淮行省が嘗てこれを言上したが、旨はあって濬治するも、有司の奉行は実効が見られなかった。
仁宗延祐四年十一月、両淮運司が言うには、「塩課は甚だ重く、運河は浅澀で源がなく、ただ天雨を仰ぐのみである。請う、加えて修治せられんことを」と。明年二月、中書が河南省に移文し、官及び運司・有司の官を選んで相視させ、工程費用を会計させた。ここにおいて河南行省委は都事張奉政及び淮東道宣慰司官・運司官に、州県倉場官と会して、遍歴巡視し集議させた。河長二千三百五十里、有司は瀕河の田有る家を差し、丁夫を顧倩して、一千八百六十九里を開修する。倉場塩司は課を辦するに妨げず、有司を協済して、四百八十二里を開修する。
運司が言うには、「近年課額が増加するが、船竈戸は日に日に貧苦となる。宜しく有司に通行して修治させ、官銭を省減すべきである」と。省臣が奏して準じられ、諸色戸内から丁夫一万人を顧募し、日ごとに塩糧銭二両を支給し、計用する鈔は二万錠、運司の塩課及び減駁船銭内から支用する。官を差し、都水監・河南行省・淮東宣慰司の官とともに専らこれを董じさせ、廉訪司に体察させ、樞密院は官を遣わして鎮遏させ、農隙に乗じて併せて工を疏治する。
練湖
練湖は鎮江にある。元が江南を有して以来、豪勢の家が湖中に隄を築き田を囲んで耕種し、侵占が広くなるにつれ、水を受けるに足らず、遂に泛溢を致した。世祖の末年、参政暗都剌が奏請して、宋の例に依り、人を委ねて提調疏治させ、その侵占する者は畝を験して賦を加えるべしと。
二月十八日、省臣が奏上した。「運河、練湖を開浚することは重い役事である。宜しく行省の議に従い、なお便宜を以て事に当たらせるべきである。」後に各監工官が言うには。「既に運河を三つの区間に分け、元の見積もりの深さ幅の丈尺に従って開浚し、三月四日に工事が完了した。このうち平江の崑山、嘉定二州は、実際の役日数は二十六日、常熟、呉江二州、長洲、呉県は実際の役日数は二十八日、その他は皆三十日役し、既に三月七日には水を溜めて舟を通した。」また練湖を監修する官が言うには。「任奉議が指図した元の見積もりに従い、堤防及び旧来の土台を増築し、合わせて幅を一丈二尺増し、平面から高底の灘脚まで、増築した部分の斜めの高さを合わせて二丈五尺とした。中堤の西の石䃮から東の旧堤の臥羊灘まで修築し、もし旧堤の高さ幅が既に見積もりの上にあるものは、崩れ欠けた所があれば、修築して完うさせた。中堤の西の石䃮から五百婆堤の西の上まで土を一尺高くし、欠けた所も補った。五百婆堤から馬林橋堤までは水勢がやや緩やかなので、修治する必要はなく、その堤底に滲漏のある所は、塞いだ。三月六日に鍬入れし、九日に役事に入り、十一日に工事が完了し、実際の役日数は三日であった。任少監の元の見積もりを照合すると、運河を開く夫一万五百十三人、六十日で完了、練湖を浚う夫三千人、九十日で完了、人夫一日あたり鈔一両、米三升を支給、合わせて鈔一万八千十四錠二十両、米二万七千二十一石六斗であったが、実際に徴発した夫は一万三千五百十二人、合わせて役日数三十三日、支給した鈔は八千六百七十九錠三十六両、糧は一万三千十九石五斗八升であった。元の見積もりと比べると、鈔九千三百三十四錠三十四両、糧一万四千二石二升を節減した。練湖は未完了であり、地形と水勢を視察して再議する。」
参政董中奉がまた言うには。「練湖には旧来湖兵四十三人がいたが、五十七名を補充し、合わせて百人とし、本路の州県で苗糧三石以下、二石以上の者から徴用し、専ら湖岸の修築を担当させる。提領二員、壕寨二人、司吏三人を設け、出身のある人の中から選任する。」工部が議した。「練湖に設ける提領等の印信は、湖兵と同様であるから、宜しく本省に諮って広く議論し案を立てるべきである。」また鎮江路が言うには。「運河、練湖は今や既に開浚されたが、もし法を設けて防備しなければ、民力を徒労に終わらせるだけである。本路の達魯花赤兀魯失海牙に命じて総じてその事を治めさせ、同知哈散、知事程郇に専ら斗門の開閉を管理させることとする。」行省はこれに従った。
呉松江
浙西の諸山の水は太湖に受け、下って呉松江となり、東に澱山湖に匯流して海に入るが、潮汐が往来し、逆に湧き上がって濁った砂が、上流で河口を埋める。このため宋の時は撩洗軍人を設置し、専ら修治を掌らせた。元が宋を平定した後、軍士は解散し、有司はこれを務めとせず、勢家が租占して蕩や田とし、州県が適任者を得ず、軽々しく許可したため、埋塞して通じず、公私ともにその利益を失うこと久しかった。
高治中が松江府の各州県官を集めて巡視し、河渠を合わせて浚渫することを議し、華亭県九箇所、計五百二十八里、該工九百六十八万四千八百八十二、役夫十六万一千四百十四、人日支糧二升、計米十九万三千六百九十七石六斗四升。上海県十四箇所、計四百七十一里、該工千二百三十六万八千五十二、日役夫二万六千百三十四、人日支糧二升、計二十四万七千三百六十一石四升、六十日で工事完了。官が糧を給し、民を雇って疏治する。もし来年豊作ならば、田地を持つ家を勧率し、五十畝につき夫一人を出させ、十畝以上は数に応じて合わせて出させ、ただ本保において開濬する。その権勢の家で、魚断を置き立て、あるいは沙塗に葦を植える者は、上に依って夫を出す。
澱山湖
太湖は浙西の巨浸であり、上流で杭・湖諸山の水を受け、瀦蓄した余りが分かれて澱山湖に匯し、東流して海に入る。
世祖の末年、参政暗都剌が言う。「この湖は宋の時に官を委し軍を差してこれを守り、湖傍の余地は侵奪を許さず、常にその壅塞を疏き、水勢を洩らした。今は管領する者がなく、遂に勢豪が水を絶ち堤を築き、湖を繞って田とした。湖が狭く瀦蓄に足らず、霖潦に遇うごとに、泛溢して害をなす。先日本省の官忙古䚟らが疏治を言い興したが、曹総管の金を受けて止んだ。張参議・潘応武らが相次いで建言し、識者みな便と為す。臣らが議するに、この事は行うに疑いない。しかし軍民相参じ、廉幹の官を選委して提督させ、行省の山住子・行院の董八都児子・行臺の哈剌䚟に親しく詣って相視させ、会計して合用の軍夫を擬禀すべきである。」世祖は言う。「利益美事、施行すでに遅し、これを行え。」既にして平章鉄哥が言う。「官を委して相視させ、計用夫十二万、百日で完了できる。先に軍民共役と奏したが、今民丁数多く、軍を調べる必要はない。」世祖は言う。「損あり益あり、みな均斉ならしめ、自ら疑惑することなかれ、その均科せよ。」
至元三十一年、世祖崩御し、成宗即位した。平章鉄哥が奏上した。「太湖・澱山湖は先に先帝に奏過し、民夫二十万を差倩して疏掘し既に完了した。今諸河は日に両潮を受け、漸く沙漲に至っている。もし旧来の宋の例に依らず、軍をして屯守させれば、必ずや坐して成功を隳す。臣らが議するに、常時の工役に軍を撥するのは、枢府でさえなお吝惜する。河道を屯守するのに軍八千を用いれば、必ず辞して遣わさないであろう。澱山湖の囲田賦糧二万石をもって、民夫四千を募い、軍士四千を調べてともに屯守させる。都水防田使司を立て、職掌は海賊を収捕し、河渠囲田を修治する。」伯顔察児および枢密院に議して聞奏することを命じた。ここにおいて枢府が言う。「嘗て澱山湖は宋の時に軍を設けて屯守したと奏した。范殿帥・朱・張らは必ずその故を知っているであろう。省官と集議して定め禀奏することを擬す。」旨ありてこれに従う。乃ち枢府官および范殿帥らを集めて共に議した。朱・張が言う。「宋の時に河道を屯守するには、手号軍を用い、大処は千人、小処は三四百を下らず、巡検司に隷属して管領した。」范殿帥が言う。「夫四千を差すのは、四十万戸を動揺させずにはできない。もし五千軍をして屯守させ、万戸一員を委して提調させれば、事あるいは可行である。」臣らもまた然りと為し、都水巡防万戸府の職名を与え、行院に隷属させる。」枢府官がまた言う。「もし源委を知る人にその詳を詢ね、都に至って定議を待つ。」これに従う。
塩官州海塘
泰定帝が即位して四年目の二月、風潮が大いに起こり、捍海小塘を衝き、州郭四里を壊した。杭州路が言うには、「都水庸田司と議し、北の地に塘を四十余里築こうとするが、工費が浩大である。先に鹹塘を修め、その高さと広さを増し、溝港を填塞し、かつ近くの北の備塘濠塹を深く浚い、用樁を密かに釘打ちすれば、おそらく防禦できるであろう」。江浙省は本路に修治を下命することを認めた。都水庸田司はまた言う、「速やかに丁夫を差し、水の入り衝くところを堵閉すべきである。その不足する工役は、仁和・錢塘及び嘉興附近の州県の諸色人戸内から斟酌して差倩する。今、淪没が止まず、旦夕に誠に憂慮すべきである」。工部が議するには、「海岸の崩壊は重事である。江浙行省に移文し、庸田使司・塩運司及び有司を督催して丁夫を発し修治させ、城郭を侵犯し、居民に害を遺すことなからしめるべきである」。五月五日、平章禿満迭児・茶乃・史参政等が奏する、「江浙省四月内、潮水が塩官州海岸を衝破した。庸田司官に夫を徴発して修堵させ、また僧侶に経を誦させ、さらに人を差して天師に祭りを行わせた。臣等が集議したところ、世祖の時に海岸がかつて崩れ、天師に命じて祈祀させたところ、潮は即時に退いた。今、直省舎人伯顔に御香を奉じさせ、天師に前例に依って祈祀させることができる」。制は「可」と曰う。既にして杭州路はまた言う、「八月以来、秋潮が洶湧し、水勢がますます大きい。今、沙地塘岸を築き、東西八十余歩、木櫃石囤を造ってその要処を塞いでいる。本省左丞相脱歓等が議するには、石囤四千九百六十を安置し、鎪嚙を抵禦してその急を救い、浙江に石塘を立てた例に比べて、久遠の計とすることができる。工物を計れば、鈔七十九万四千余錠、糧四万六千三百余石を用い、接続して興修することを擬す」。
龍山河道