元史

志第十二: 地理三 陝西 四川 甘肅

陝西等処行中書省

陝西諸道行御史臺。

陝西等処行中書省は、路四、府五、州二十七、属州十二、属県八十八を管轄する。本省には陸站八十箇所、水站一箇所がある。

奉元路、上。唐初は雍州とし、後に關内道と改め、また京兆府と改め、また京城を以て西京とし、また中京と曰い、また上都と改めた。宋は陝西を〔永興〕・秦鳳・熙河・涇原・環慶・鄜延の六路に分けた。金は陝西を併せて四路とした。元の中統三年、陝西四川行省を立て、京兆に治所を置いた。至元初年、雲陽県を涇陽に併合し、櫟陽県を臨潼に併合し、終南県を盩厔に併合した。十六年、京兆を安西路総管府と改めた。二十三年、四川に行省を置き、この省を陝西等処行中書省と改めた。大徳元年、雲南行臺を此処に移し、陝西行臺とした。皇慶元年、安西を奉元路と改めた。戸三万三千九百三十五、口二十七万一千三百九十九。壬子年の数。司一、県十一、州五を領する。州は十五県を領する。

録事司。

県十一

咸寧、下。 長安ちょうあん、下。 咸陽、下。 興平、下。 臨潼、下。屯田一千二十余頃。 藍田、下。 涇陽、下。至元二年、高陵県に併入。三年に再び立てる。屯田一千二十余頃。 高陵、下。 鄠県、下。 盩厔、下。屯田九百四十三余頃。 郿県。下。旧は郿州、柿林県を添置した。至元元年、郿州を省いて郿県とし、柿林を廃した。

州五

同州、下。唐初は同州とし、また馮翊郡ひょうよくぐんと改め、また再び同州に復した。宋は定国軍とした。金はこれに因った。元は仍って同州とした。五県を領する:

朝邑、下。 白水、下。 郃陽、下。 澄城、下。 韓城。下。唐・宋は(郃)〔韓〕城県とし、金は(禎)〔楨〕州と曰う。至元元年、州を廃す。二年に再び立てる。六年、州また廃し、只県を設ける。

華州、下。唐は鎮国軍と改める。宋は鎮潼軍と改める。金は金安軍と改める。元は再び華州とする。西嶽華山ここに在り。三県を領する:

華陰、下。 蒲城、下。 渭南。下。屯田一千二百二十二余頃。

耀州、下。唐初は宜州を立て、後に華原県とし、後にまた耀州とした。宋は感義軍とし、また感徳軍と改め、また耀州として旧の如し。金はこれに因った。元の至元元年、華原県を州に併合し、また美原を富平に併合した。三県を領する:

三原県、下県。富平県、下県。同官県、下県。

乾州、下州。唐代は高宗の乾陵が所在することにより、醴泉県を奉天と改め、さらに昇格して乾州とした。宋代は醴州と改めた。金代は再び乾州に改めた。元の至元元年、奉天県を州に併合した。五年、再び奉天を設置し、好畤県を廃してこれに併せ、さらに永寿県を割いて所属させた。後にまた奉天を醴泉と改めた。三県を管轄する:

醴泉県、下県。武功県、下県。永寿県、下県。宋代・金代は邠州に属した。至元十五年、県治を麻亭に移した。

商州、下州。唐代初期は商州、後に上洛郡と改め、また商州に復した。宋代及び元代もこれに因った。一県を管轄する:

洛南県、下県。

延安路、下路。唐代初期は延州、後に延安郡と改め、また延州となった。宋代は延安府。金代は鄜延路。元代は延安路に改めた。戸数六千五百三十九、人口九万四千六百四十一。壬子年の数値。八県、三州を管轄する。州は八県を管轄する。本路の屯田は四百八十余頃。

県八

膚施県、下県。甘泉県、下県。宜川県、下県。元初に司候司を設置。至元六年、廃止して宜川県に併合。延長県、下県。延川県、下県。安定県、下県。本来は宋代の旧堡で、元の壬子年に安定県に昇格。至元元年、丹頭県を分置。四年、丹頭県を本県に併合。安塞県、下県。本来は金代の旧堡で、壬子年に県に昇格。保安県、下県。金代は保安州、至元六年、降格して県となった。

州三

鄜州、下州。唐代初期は鄜州、後に洛交郡と改め、また鄜州に復した。宋代・金代もこれに因った。旧来は洛交・洛川・鄜城・直羅の四県を管轄した。元の至元四年、鄜城県を洛川県に併合し、また洛交県・直羅県を州に併合した。六年、坊州を廃止し、中部・宜君の二県を割いて所属させた。三県を管轄する:

洛川県、下県。中部県、下県。宜君県、下県。

綏德州、下州。唐代の綏州、後に上郡と改め、また綏州となった。宋代は綏徳軍。金代は州となり、八県を管轄した。帰順後、嗣武県を米脂県に併合し、綏平県を懐寧県に併合した。至元四年、定戎県を米脂県に併合し、懐寧県を青澗県に併合し、また義合県・綏徳県を本州に併合した。二県を管轄する:

青澗県、下県。米脂県、下県。

葭州、下州。唐代は銀州。宋代は晋寧軍。金代は葭州に改めた。元の至元六年、通秦・弥川・葭蘆の三県を州に併合し、太和県を神木県に併合し、建寧県を府谷県に併合した。三県を管轄する:

神木県、下県。元初、古麟州の神木寨に雲州を創立。至元六年、州を廃止して県とした。呉堡県、下県。府谷県、下県。後唐は府州。元初に州治を建てた。至元六年、廃止して県とした。

興元路、下。唐は梁州とし、また漢中郡と改め、また興元府となす。宋は旧名に従う。元は興元路総管府を立て、久しくして、鳳州・金州・洋州の三州をこれに隷属せしむ。宋の時は南鄭・西県・褒城・廉水・城固の五県を領し、後に廉水を廃して南鄭に併入す。元初めに西県を割き出して沔州に属せしめ、洋州の西郷県を来属せしむ。戸二千百四十九、口一万九千三百七十八。至元二十七年の数。県四、州三を領す。

県四

南鄭、下。城固、下。褒城、下。西郷、下。

州三

鳳州、下。唐初めは鳳州とし、後に節度府に昇る。宋は団練州とす。至元五年、在郭の梁泉県を州に併合し、興元路に隷属す。

洋州、下。唐は洋川郡と改め、また洋州に復し、後は更革常ならず。宋はまた洋州とす。元の至元二年、興道・真符の二県を省きて州に併入す。

金州、下。唐は西城郡を改めて金州とす。宋は金房開達四州路に昇る。元は散州とす。

陝西漢中道粛政廉訪司。

鳳翔府、唐は扶風郡とし、また鳳翔府とし、西京と号す。宋・金はその名に因る。元初めに平涼府・秦州・隴州・徳順州・西寧州・鎮原州を割きて鞏昌路に隷属せしめ、恒州を廃し、その領する盩厔県を安西府路に隷属せしめ、尋いで鳳翔路総管府を立てる。至元九年、散府に更む。戸二千八十一、口一万四千九百八。壬子年の数。県五を領す。

鳳翔、下。屯田九十余頃あり。扶風、下。岐山、下。宝鶏、下。麟游、下。

邠州、下。唐は豳州とし、字が幽に類するを以て邠と改む。宋・金以来皆これに因る。県二を領す。

新平、下。淳化、下。至元七年、三水県を本県に併合す。

涇州、下。唐は安定郡と改め、後はなお涇州とす。宋は彰化軍と改む。旧は保定・長武・霊台・良原の四県を領す。金は保定県を涇川と改む。元初めに都元帥府に隷属せしめ、総司を立てて邠州を管轄せしめ、後に鞏昌都総帥府に属し、あるいは平涼府・陝西省に隷属し、その隷するところ一ならず、今は直に省に隷す。県二を領す。

涇川、下。涇州の治所ここにあり、即ち保定なり。霊台、下。至元七年、併せて涇川に帰す。十一年復た立て、良原を併合し、而して長武はなお涇川に併合す。

開成州、下。唐は原州。宋は鎮戎軍。金は鎮戎州に昇る。元初めはなお原州とす。至元十年、皇子安西王秦・しょくを分治し、遂に開成府を立て、なお上都と視し、上路と号す。至治三年、州に降る。県一、州一を領す。

県一

開成。

州一

広安州。もとは鎮戎の地であり、金が県に昇格させ、鎮戎州に隷属させたが、戦乱で荒廃した。元の至元十年、安西王が西土を封守し、開成路を立てると、広安県と改め、民を募って居住させた。間もなく戸口が繁栄した。十五年、州に昇格し、なお本路に隷属した。

荘浪州。下。沿革は欠落している。成宗大徳八年二月、荘浪路を降格して州とした。

鞏昌等処総帥府。

鞏昌府は、唐初に渭州を置き、後に隴西郡と称したが、まもなく吐蕃に陥落した。宋がその地を回復し、鞏州を置いた。金は鞏昌府とした。元初に鞏昌路便宜都総帥府と改め、鞏昌・平涼・臨洮・慶陽・隆慶の五府及び秦・隴・会・環・金・徳順・徽・金洋・安西・河・洮・岷・利・巴・沔・龍・大安・褒・涇・邠・寧・定西・鎮原・階・成・西和・蘭の二十七州を統轄し、また成州において金洋州の事務を行った。至元五年、安西州を割いて脱思麻路総管府に属させた。六年、河州を吐蕃宣慰司都元帥府に属させた。七年、洮州を安西州に併合した。八年、岷州を割いて脱思麻路に属させた。十三年、鞏昌路総管府を立てた。十四年、再び便宜都総帥府の事務を行い、その年に隆慶府及び利・巴・大安・褒・沔・龍等の州を割いて広元路に隷属させた。二十一年、また涇・邠二州を陝西漢中道宣慰司に隷属させ、帥府の統轄するものは、鞏昌・平涼・臨洮・慶陽の府、合わせて四;秦・隴・寧・定西・鎮原・階・成・西和・蘭・会・環・金・徳順・徽・金洋の州、合わせて十五となった。戸四万五千百三十五、口三十六万九千二百七十二。壬子年の数。司一、県五を領す。

録事司。

県五

隴西、下。 寧遠、下。 伏羌、下。もとは旧寨であり、至元十三年に県に昇格した。 通渭、下。 鄣県。下。宋は塩川寨と称し、金は鎮とした。至元十七年、今の県を置いた。

平涼府は、唐では馬監であり、原州に隷属した。宋では涇原路とし、平涼軍に昇格した。金は平涼府を立てた。元初に潘原県を平涼に併合し、化平を華亭に併合し、鞏昌帥府に隷属させた。県三を領す:

平涼、下。屯田一百一十五頃。 崇信、下。 華亭。下。

臨洮府は、唐の臨洮軍である。宋では鎮洮軍とし、また熙州とした。金は臨洮府とした。元の至元十三年、再び渭源堡を昇格させて県とした。県二を領す:

狄道、下。 渭源。下。

慶陽府は、唐の慶州である。宋の環慶路、慶陽軍と改め、また府に昇格した。金は慶原路(慶源路の誤りを訂正)とした。元初に慶陽散府と改め、至元七年、安化・彭原をこれに併合した。県一を領す:

合水県、下県。

秦州、中州。唐初は秦州とした。宋は天水郡とした。金は秦州とした。旧来は六県を管轄した。元の至元七年、鶏川県・隴城県を秦安県に合併し、治坊県を清水県に合併した。三県を管轄する。

成紀県、中県。 清水県、中県。 秦安県、下県。

隴州、中州。唐は汧陽郡と改め、また隴州に復した。宋・金は防禦使を置いた。旧来は四県を管轄した。元の至元七年、呉山県・隴安県を汧源県に合併した。十三年、防禦使を廃して散郡とした。呉山があり西鎮とされる。二県を管轄する。

汧源県、中県。 汧陽県、下県。

寧州、下州。唐初に北地郡を寧州と改めた。宋・金はこれに因った。元の至元七年、襄楽県・安定県・定平県を州に合併した。一県を管轄する。

真寧県、下県。

定西州、下州。本来は唐の渭州西市であり、五代で先零に陥落した。宋は定西城を置いた。金は定西県と改め、また州に昇格させ、安西県を置き(倚郭)、通西二寨を置き、ともに県を置いて所属させた。元の至元三年、三県を本州に合併した。屯田四百六十七頃。

鎮原州、下州。唐の原州、また平涼郡とした。宋・金はこれに因った。元は鎮原州と改め、鎮戎州の東山・三川の二県を所属させた。至元七年、例によって州県を合併し、ついに臨涇・彭陽及び東山・三川の四県を本州に合併した。屯田四百二十六頃余。

西和州、下州。唐の岷州、また和政郡と改め、また岷州に復した。宋は西和と改称した。旧来は三県を管轄したが、大潭・祐川は軍興により久しく廃され、ただ長道一県のみあり、元の至元七年、これも本州に合併した。

環州、下州。唐は威州と改めた。宋は環州に復し、後に慶州とともに環慶路を定めた。金は慶陽府に隷属した。元初は散郡とした。旧来は通遠一県を管轄し、元の至元七年に州に合併した。

金州、下州。本来は蘭州の龕谷寨であり、金は寨を県に昇格させ、龕谷を金州の治所とした。元の至元七年、県を州に合併した。

静寧州、下州。宋の慶曆年間、渭州の隴干城をもって徳順軍を置き、また隴干県を置いた。金は州に昇格させた。元初に治平県・水洛県を隴干県に合併し、後にまた隴干県を廃し、静寧州と改めた。一県を管轄する。

隆徳県、下県。

蘭州、下州。唐初に設置し、後に金城郡と改め、また蘭州に復した。宋・金はこれに因った。元初は阿干一県及び司候司を管轄し、至元七年に司県を本州に合併した。

会州、下。唐初に西会州と改め、また粟州となり、また会寧郡となり、また会州となった。宋は敷川県を置いた。金は保川県を置いたが、河西に陥落し、州の西南百里の会川城に僑治し、新会州と称した。元初に新会州を棄て、所属する西寧県に遷した。至元七年、県を州に併合した。

徽州、下。元兵が蜀に入ると、鳳州の二県が真っ先に降伏したため、鳳州は依然として梁泉に治め、別に南鳳州を河池に置いて治めた。後にまた永寧郷を県に昇格させ、両当とともに属邑とした。至元元年、徽州と改めた。七年、河池・永寧の二県を州に併合した。領する県一:

両当。下。

階州、下。唐初に武州を置き、また武都郡と改め、また階州と改名した。宋はこれに因った。現在の州治は柳樹城にあり、旧城の東八十里にある。旧来は福津・将利の二県を領したが、至元七年に本州に併合した。

成州、下。唐初は成州であり、また同谷郡と改め、後に依然として成州となった。宋はこれに因った。旧来は同谷・栗亭の二県を領した。元初の壬寅の年、田世顯が成都府を率いて帰附したため、栗亭に遷し、栗亭管民司事を行わせ、成州に隷属させず、天水県を割いて来属させた。至元七年、同谷・天水の二県を州に併合した。

金洋州、本来は興元路に隷属していたが、戊戌の年、雷・李の二将が民戸を率いて帰附したため、成州に遷し、自ら金洋州事を行わせた。

土蕃等処宣慰司都元帥府。至元九年、土蕃西川の界に寧河駅を立てた。

河州路。下。領する県三:

定羌、下。 寧河、下。 安郷。下。

雅州。下。憲宗戊午の年、雅州を攻め破り、石泉の守将趙順が城を以て降伏した。領する県五:

名山、下。 瀘山、下。 百丈、下。 栄経、下。 厳道。下。

黎州。下。至元十八年、黎・雅州の民千百五十四戸に鈔二千三百八錠を与え、牛具・種子の資とした。領する県一:

漢源。下。

洮州。下。領する県一:

可当。下。

貴德州。下州。

茂州。下州。領する県二:

汶山県、下県。汶川県、下県。

脱思麻路。

岷州。下州。

鉄州。下州。

碉門魚通黎雅長河西寧遠等処宣撫司。至元二年、雅州碉門安撫使高保四に虎符を授け、高保四言う、「碉門に旧来城邑あり、中統初めに宋人に廃せられ、衆は山に依りて柵を為し、碉門を去ること半舎、故城を復して戍せんと欲し、守佃に便ならん」と。秦蜀行省に勅す、「彼中の緩急、卿等相度し、須らく其の宜を得べし、城復すべくんば、当に之を助成すべし」と。三年、四川行枢密院に諭し、人を碉門・岩州西南の沿辺に遣わし、丁寧に官吏軍民に告諭し、来帰を願う者有らば、方便に接納し、用意して存恤し、百姓貧しき者は之を賑し、近裏の城邑に徙らんことを願う者には屋舎を以て之を与えよ。

礼店文州蒙古漢児軍民元帥府。河州以下此に至るまで多く闕く、其の余は朵甘思・烏思蔵・積石州の類の如き尚多く、載籍疏略にして、能く詳録する莫し。

四川等処行中書省

四川等処行中書省、路九・府三を為し、属府二、属州三十六、軍一、属県八十一。蛮夷種落は其の数に在らず。本省陸站四十八箇所、水站八十四箇所。塩場十二箇所、俱に塩井の出づる所。井凡そ九十五眼、成都・夔府・重慶・叙南・嘉定・順慶・広元・潼川・紹慶等の路の管する州県の万山の間に在り。

西蜀四川道粛政廉訪司。

成都路、上路。唐は蜀郡を改めて益州と為し、又成都府と改む。宋は益州路と為し、又成都府路と為す。元初め撫定し、総管府を立て、録事司を設く。至元十三年、成都・嘉定・崇慶の三府を領し、眉・邛・隆・黎・雅・威・茂・簡・漢・彭・綿の十一州、後に嘉定自ら一路を為し、眉・雅・黎・邛を以て之に隷す。二十年、又黎・雅を割きて吐蕃招討司に属し、崇慶を降して州と為し、隆州は仁寿県に併入し、本府に隷す。戸三万二千九百十二、口二十一万五千八百八十八。至元二十七年の数。司一・県九・州七を領す。州は十一県を領す。

録事司。

県九

成都県、下県。唐・宋は成都府の治所と為す。至元十三年、本県の元管大城内西北隅を以て録事司に併入す。華陽県、下県。新都県、下県。郫県、下県。温江県、下県。双流県、下県。新繁県、下県。仁寿県、下県。唐は陵州と為す。宋は隆州と為す。元至元二十年、此の州地荒れ民散ずるを以て、併せて仁寿県と為し、成都府路に隷す。金堂県、下県。宋は懐安軍に属す。元初め懐州に昇め、而して県の属する所旧の如し。至元二十年、州を併せて金堂県と為し、成都府路に隷す。

州は七つ。

彭州、下州。唐代に濛州を置き、また彭州とした。宋代及び元代もこれに因る。二県を領す:

濛陽県、下県。 崇寧県、下県。

漢州、下州。唐代は徳陽郡とし、また漢州とした。唐より宋に至るまで、兵革に苦しみ、民は生を聊かにせず。元の中統元年、再び漢州を立てる。三県を領す:

什邡県、下県。 徳陽県、下県。至元八年、徳州に昇格。十三年、再び県とし、成都路に隷属。十八年、再び本州に属す。 綿竹県、下県。至元十三年、戸数少なきを以て州に併合、後に再び置く。

安州、下州。唐代に石泉県を置く。宋代に軍に昇格。元の中統五年、安州に昇格。一県を領す:

石泉県、下県。

灌州、下州。唐代は導江県。五代は灌州。宋代は永康軍とし、後に廃して灌口寨とする。元初、再び灌州を立てる。至元十三年、導江・青城の二県は戸数少なきを以て、州に省併。青城の陶壩に屯田万戸府を立てる。

崇慶州、下州。唐代は唐安郡とし、また蜀州とした。宋代は崇慶軍。元の至元十二年、総管府を立てる。二十年、崇慶州に改め、江原県を併せて州に合す。本州に屯田万戸府あり。二県を領す:

晋原県、下県。 新津県、下県。

威州、下州。唐代は維州。宋代に威州に改め、保寧・通化の二県を領す。元の至元十九年、保寧県を州に併合。一県を領す:

通化県、下県。

簡州、下州。唐代に益州を分けて置く。宋代もこれに因る。元の至元二十年、附郭の陽安県を州に併合。二十二年、成都府所属の霊泉県を併せて来属せしむ。而して本州に平泉あり、地荒蕪のため、遂にこれを廃す。

嘉定府路、下路。唐初は嘉州とし、また犍為郡に改め、また仍って嘉州とする。宋代に嘉定府に昇格。元の至元十三年、総管府を立てる。旧来は龍游・夾江・峨眉・犍為・洪雅の五県を領す。二十年、洪雅県を夾江県に併合。一司・四県・二州を領す。州は三県を領す。戸口数は欠く。

録事司。

県四つ

龍游、下県。 夾江、下県。 峨眉、下県。 犍為、下県。

州二つ

眉州、下州。唐は嘉州と改め、またもと通り眉州となす。元の至元十四年、嘉定路に隷す。二県を領す:

彭山、下県。 青神、下県。

卭州、唐初に卭州を置き、また臨卭郡と改め、またもと通り卭州となす。元の至元十四年、安撫司を立て、州事を兼ねて行う。二十一年、臨卭・依政・蒲江の三県を州に併合す。一県を領す:

大邑、下県。

広元路、下路。唐初は利州と為し、また益昌郡と改め、また利州に復す。宋は利州路と為し、端平の後は兵乱にて寧歳無く、地荒れ民散ずること十有七年。元の憲宗三年、利州治を立て、都元帥府を設く。至元十四年、帥府を罷め、広元路と改む。戸一万六千四百四十二、口九万六千四百六。至元二十七年の数。県二・府一・州四を領す。府は三県を領し、州は七県を領す。本路の屯田九頃余り。

県二つ

綿谷、下県。 昭化、下県。元初は葭萌をここに併合す。

府一つ

保寧府、下府。唐は隆州、また閬州と改め、また閬中郡と為す。後唐は保寧軍と為す。元初は東川路元帥府を立てる。至元十三年、保寧府に昇格。二十年、元帥府を罷め、保寧路と改む。初めは新得・小寧の二州を領し、後に閬中県に併合し、また奉国を蒼溪県に併合し、新井・新政・西水は総べて南部県に併合し、なお府に改め、広元路に隷す。本府の屯田一百十八頃余り。三県を領す:

閬中、下県。倚郭。 蒼溪、下県。 南部、下県。

州四つ

剣州、下州。唐は始州と為し、後に剣州と改む。宋は普安軍に昇格し、また隆慶府と為す。元の至元二十年、剣州と改む。二県を領す:

普安は下。至元二十年、普城・劍門を併合してこれに属す。梓潼は下。

龍州は下。唐の初めは龍門郡とし、また龍州と改め、また江油郡と改め、また応霊郡と改む。宋は政州と改め、後に旧に復す。元憲宗の戊午の歳、宋の守将王知府、城を以て降る。至元二十二年、江油・清川の二県を併合してこれに属す。

巴州は下。唐の初め巴州と改め、また清化郡と改め、また巴州と為す。宋は化城・難江・恩陽・曾口・上通江・下通江の六県を領す。元の至元二十年、難江・恩陽の二県を化城に併合し、上・下通江の二県を曾口に併合す。二県を領す:

化城は下。曾口は下。

沔州は下。唐の初めは興州と為し、また順政郡と為し、また興州と改む。宋は沔州と改む。元の至元十四年、広元路に隷す。二十年、褒州を廃し、只だ鐸水県を設け、沔州を遷してここに治めしむ。三県を領す:

鐸水は下。倚郭。大安は下。本は大安州、至元二十年、県に降格して来属す。略陽は下。至元二十年、長挙及び西県を併合してこれに属す。

順慶路は下。唐は南充郡と為し、また果州と改め、また充州と改む。宋は順慶府に昇格す。元の中統元年、征南都元帥府を立てる。至元四年、東川路統軍司を置き、後に東川府と改む。十五年、再び順慶と為す。二十年、路に昇格し、録事司を設く。戸二千八百二十一、口九万五千百五十六。至元二十七年の数。司一・県二・府一・州二を領す。府は二県を領し、州は五県を領す。

録事司

県二

南充は下。至元二十年、漢初を併合してこれに属す。西充は下。至元二十年、流溪旧県を併合してこれに属す。

府一

広安府は、唐は宕渠・巴西・涪陵の三郡に属す。宋は広安軍を置き、また寧西軍と改む。元の至元十五年、寧西軍を廃す。二十年、広安府に昇格す。旧は渠江・岳池・和溪・新明の四県を領し、後に和溪・新明を岳池に併合す。二県を領す:

渠江は下。倚郭。岳池は下。

州二

蓬州は下。唐は蓬山郡と改め、また仍て蓬州と為す。元初め宣撫都元帥府を立て、後に罷む。至元二十年、蓬州路総管府を立て、後に再び蓬州と為す。三県を領す:

相如(県)、至元二十年、金城寨を併合してこれに属す。 営山(県)、下。至元二十年、良山を併合してこれに属す。 儀隴(県)、下。至元二十年、蓬池・伏虞を併合してこれに属す。

渠州、下。唐の初めは渠州とし、また潾山郡と改め、また渠州とした。宋は潼川府に属す。元の至元十一年、渠州安撫司を立てる。二十年、安撫司を廃し、渠州を散郡とする。二県を領す。

流江(県)、下。 大竹(県)、下。至元二十年、鄰山・鄰水を併合してこれに属す。

潼川府、唐は梓州とし、また梓潼郡と改め、また梓州とした。宋は静戎軍と改め、また静安軍と改め、また潼川府に昇格す。兵乱の後、地は荒廃し、元の初めに再び府治を立てる。至元二十年、涪城県及び録事司を郪県に併合し、通泉県を射洪県に、東関県を塩亭県に、銅山県を中江県に併合す。四県・二州を領す。戸口は欠く。

県四

郪県、下。倚郭。 中江(県)、下。 射洪(県)、下。 塩亭(県)、下。

州二

遂寧州、下。唐は遂州とし、また遂寧郡と改む。宋は遂寧府とす。元の初めこれに因る。至元十九年、遂寧・青石の二県を小溪県に併合し、長江県を蓬渓県に併合し、後にまた州に改む。二県を領す。

小溪(県)、下。 蓬渓(県)、下。

綿州、下。唐は更改常ならず。元の初めは成都路に隷属す。元の至元二十年、魏城県を本州に併合し、潼川路に改めて隷属す。二県を領す。

彰明(県)、下。 羅江(県)、下。

永寧路、下。欠く。一州を領す。

筠連州、下。欠く。至元十七年、枢密院が言うには、「四川行省参政で諸蛮夷部宣慰司を管轄する昝順が言うには、先に高州・筠連州騰川県を安撫使郭漢傑に隷属させて駅伝を立てる旨の詔を奉じたが、今や漢傑は既に蛮洞五十六を併合した。詔により昝順の陳述を、卿らは中書省と議せよとのこと。臣らは使者を遣わしてこれを視察させるのが宜しいと考える。」帝曰く、「この五十六洞が旧来の通り高州・筠連に隷属するならば、郭漢傑に駅伝を立てさせよ。そうでなければ昝順に還せ。」一県を領す。

騰川(県)、下。

四川南道宣慰司。至元十六年に立てる。

重慶路、上。唐代は渝州。宋代に恭州と改称し、また重慶府に昇格。元の至元十六年、重慶路総管府を設置。二十一年、上路に昇格し、忠州・涪州の二州を属郡として割く。二十二年、また瀘州・合州を割いて所属させ、壁山県を巴県に併合し、南平軍を廃して南川県とし属邑とし、録事司を置く。戸数二万二千三百九十五、口数九万三千五百三十五。至元二十七年の数。司一、県三、州四を管轄。州は十県を管轄。本路の三堆・中嶆・趙市等の処の屯田は四百二十頃。

録事司。

県三

巴県、下。倚郭。 江津、下。至元十六年、四川行省参政昝順に江津県において田民百八十戸を賜う。 南川。下。

州四

瀘州、下。唐代に瀘川郡を瀘州と改む。宋代は瀘川軍。元の至元二十年、瀘川県を併合。二十二年、重慶路に隷属。三県を管轄:

江安、下。 納溪、下。 合江。下。

忠州、下。唐代に南賓郡と改め、また忠州となる。宋代は咸淳府に昇格。元代はなお忠州。三県を管轄:

臨江、下。 南賓、下。 豊都。下。

合州、下。唐代は合州、また巴川郡と改め、またなお合州となる。宋代はこれに因る。元の至元十五年、宋の安撫使王立が城を以て降る。二十年、散郡とし、録事司・赤水県を石照県に併合。二十二年、州に改め、重慶路に隷属。三県を管轄:

銅梁、下。元初に巴川県を併合。 定遠、下。本来は宋の地、名は女菁平。元の至元四年、便宜都総帥が部兵を率いて武勝軍を創設、後に定遠州となる。二十四年、県に降格。 石照。下。

涪州、下。唐代に涪陵郡と改め、また涪州と改む。宋代はこれに因る。元の至元二十年、涪陵・楽温の二県を併合。一県を管轄:

武龍。下。

紹慶府、下。唐代は黔州、また黔中郡。宋代に紹慶府に昇格。元の至元二十年、なお府を置く。戸数三千九百四十四、口数一万五千百八十九。至元二十七年の数。二県を管轄:

彭水、下。 黔江。下

懐徳府。四州を領す。闕(詳細不明)。

来寧州、下。柔遠州、下。酉陽州、下。服州、下。皆闕(詳細不明)。

夔路、下。唐の初めは信州と為し、また夔州と為し、また雲安郡と為し、またなお夔州と為す。宋は帥府に昇格す。元の至元十五年、夔州路総管府を立て、施・雲安・万・大寧の四州をこれに隷属せしむ。二十二年、また開・達・梁山の三州を以て来属せしむ。戸二万二十四、口九万九千五百九十八。至元二十七年の数。司一、県二、州七を領す。州は五県を領す。本路の屯田は五十六頃。

録事司。

県二

奉節、下。巫山、下。

州七

施州、下。唐は清江郡と改め、また清化郡と改め、また復た施州と為す。宋はこれに因る。もと清江・建始の二県を領す。元の至元二十二年、清江を併せて州に入る。一県を領す:

建始、下。

達州、下。唐は通州と為し、また通川郡と改め、また仍通州と為す。宋は達州と更名す。元の至元十五年、四川東道宣慰司に隷属す。二十二年、夔路に改めて隷属す。二県を領す:

通川、下。新寧、下。

梁山州、下。本は梁山県、宋は梁山軍に昇格す。元の至元二十年、州に昇格す。一県を領す:

梁山、下。

万州、下。唐は浦州を万州と改め、また南浦郡と改む。宋は浦州と為す。元の至元二十年、南浦を以て万州と為す。一県を領す:

武寧。

雲陽州は下州である。唐代は雲安監であった。宋代に安義県を置き、後に再び監となった。元代の至元十五年、雲安軍を立てた。二十年、雲陽州に昇格し、雲陽県を併合してこれに編入した。

大寧州は下州である。旧大昌県で、宋代に監を置いた。元代の至元二十年、州に昇格し、大昌県を併合してこれに編入した。

開州は下州である。唐代に盛山郡と改め、また開州に復した。宋代及び元代も皆これに因った。

敍南等処蛮夷宣撫司。

敍州路は、古の僰国、唐代の戎州である。貞観初年に治所を僰道に移し、蜀江の西、三江口にあった。宋代に上州に昇格し、東川路に属し、後に易名して敍州となり、咸淳年間に登高山に城を築いて治所とした。元代の至元十二年、郭漢傑が城を挙げて帰順した。十三年、安撫司を立てた。間もなく、山城を破却し、再び治所を三江口に移し、安撫司を廃して敍州を立てた。十八年、再び路に昇格し、諸部蛮夷宣撫司に隷属させた。県四、州二を領した。

県四つ。

宜賓は下県。慶符は下県。南溪は下県。宣化は下県。元貞二年、本県に万戸府を置き、軍を率いて四十余頃を屯田した。

州二つ。

富順州は下州である。唐代は富義県。宋代は富義監、後に富順県と改めた。元代の至元十二年、富順監安撫司を改めて立てた。二十年、安撫司を廃し、富順州に昇格させた。

高州は下州である。古の夜郎の属境で、烏蛮に隣接し、長寧軍の地と相接し、共に西南の羌族であり、前代は化外の地として置いて論じなかった。唐代に辺地を開拓し、本部に高州を立てた。宋代は長寧軍を設け、十州の族姓は皆順従した。元代の至元十五年、雲南行省が官を遣わして招諭し内附させた。十七年、知州郭安が再び州事を行い、蛮人は村や屯に散居し、県邑や郷鎮はなかった。

馬湖路は下路である。古の牂柯の属地で、漢、唐代以下は馬湖部と称した。宋代には蛮主が湖内に屯した。元代の至元十三年に内附した後、総管府を立て、夷部の溪口に遷し、馬湖の南岸に臨んで府治を創設した。その民は山の笹藪に散居し、県邑や郷鎮はなかった。軍一、州一を領した。初め、馬湖蛮が来朝し、嘗て独本葱を献じたことがあり、これにより毎年到来し、郡県は伝送に疲弊したので、元貞二年に詔してこれを罷めた。

軍一つ。

長寧軍は、唐代に長寧等の羈縻十四州、五十六県を置き、共に瀘州都督ととく府に隷属させた。宋代は長寧の地が衝要に当たるとして、長寧軍に昇格させ、安寧県を立てた。元代の至元十二年、郡守黄立が城を挙げて帰順した。二十二年、録事司を設け、後に安寧県と共に本軍に省併された。

州一つ。

戎州は下州である。本来は夜郎国の西南蛮種で、大壩都掌と号し、十九の族に分かれ、前代は化外として置いて論じなかった。唐代の武后の時、蛮の境域を恢拓し、十四州、五団、二十九県を設け、本部に晏州を置いた。元代の至元十三年、昝順を蛮夷部宣撫司とし、官を遣わして招諭した。十七年、本部の官得蘭紐が来見し、大壩都総管を授けられた。二十二年、戎州に昇格した。叛服常ならず、州治は笹藪の前にあった。領する所は皆村や屯であり、県邑や郷鎮はなかった。

上羅計長官司は、蛮地の羅計・羅星を管轄し、古の夜郎の境域であり、西南の種族であって、前代には化外の地とされた。宋代に長寧軍を設置し、十州の族姓は皆帰順し、それぞれ官職を授けられた。その後、姓が分かれて他に居住し、遂に上羅計と下羅計の区別が生じた。これはまた唐代の羈縻の如く、西蜀の後戸の屏障としたものである。元の至元十三年、蛮夷部宣撫の昝順が本部の夷酋得頼阿当を率いて帰順した。十五年、得頼阿当に千戸を授けた。十八年、黎州同知の李奇が武略将軍として羅星長官に充てられた。二十二年、夷人が叛き、上羅星の夷人を誘い出し、行樞密院がこれを討伐平定した。その民人は村や箐(竹林)に散居し、県邑や郷鎮はなかった。

下羅計長官司は、蛮地を管轄した。その境域は烏蛮に近く、敍州・長寧軍と接し、いずれも西南夷族であり、上羅計と同じである。至元十二年、長寧知軍が率先して内附した。十三年、昝順が本部の夷酋得顔箇を率いて行樞密院に赴き降伏し、下羅計蛮夷千戸に任じるよう奏上した。二十二年、諸蛮は皆叛いたが、ただ本部には異心がなかった。

四十六囤蛮夷千戸所は、豕蛾夷の地を管轄し、慶符(夢符の誤りを慶符に訂正)から南に定川に至る地域で、古の夜郎に属し、唐代に羈縻とした定州の支江県である。至元十三年に収附し、慶符県に仮に千戸所を設置し、四十六囤を管轄した。

黄水口上下落骨、山落牟許満呉、麼落財、麼落賢、騰息奴、屯莫面、落搔、麼落梅、麼得幸、上落松、麼得会、麼得悪、落魂、落昧下村、落島、麼得享、落燕、落得慮、麼得了、麼騰斛、許宿、麼九色、落搔屯右、麼得晏、落能、山落寡、水落寡、落得擂、麼得具、麼得淵、騰日彯、落昧上村、頼扇、許焰、騰郎、周頭、売落炎、落女、愛答落、愛答速、麼得奸、阿郎頭、下得辛、上得辛、愛得婁、落鷗。

諸部蛮夷。

秦加大散等洞(以下、各々蛮夷官を設置)。

斜崖冒朱等洞。

隴堤紂皮等洞。

石耶洞。

散毛洞。

彭家洞。

黒土石等処。

市備洞。

楽化兀都剌布白享羅等処。

洪望冊徳等族。

大江九姓羅氏。

水西。

鹿朝。

阿永蛮部。至元二十一年、酋長阿泥が入朝し、自ら言うには、阿永の隣境の烏蒙等の蛮は皆皇太子位に属しており、願わくは例に依って附属させてほしいと。詔してその請いを従え、阿永蛮を宮府に隷属させた。

師壁洞安撫司(宣撫司)。

永順等処軍民安撫司。

阿者洞。以下各々蛮夷官を設く。

謝甲洞。

上安下壩。

阿渠洞。

下役洞。

驢虗洞。

銭満等処。

水洞下曲等寨。

必蔵等処。

酌宜等の処。

雍邦等の寨。

崖筍等の寨。

冒朱洞。

麻峽柘歌等の寨。

新附の嵬羅金井。

沙溪等の処。

宙窄洞。

新容米洞。

甘粛等処行中書省。

甘粛等処行中書省は、路七、州二、属州五を管轄する。本省の馬站は六箇所。

河西隴北道粛政廉訪司。

甘州路、上。唐代は甘州、また張掖郡であった。宋の初め西夏に占拠され、鎮夷郡と改め、また宣化府を立てた。元初はなお甘州と称した。至元元年、甘粛路総管府を置く。八年、甘州路総管府と改める。十八年、行中書省を立て、以て河西諸郡を制御す。戸千五百五十、口二万三千九百八十七。至元二十七年の数。本路の黒山、満峪、泉水渠、鴨子翅等の処の屯田は、計一千一百六十余頃。

永昌路、下。唐代は涼州。宋の初めは西涼府、景德年中に西夏に陥る。元初はなお西涼府であった。至元十五年、永昌王の宮殿の在る所を以て、永昌路を立て、西涼府を降して州とし、これに隷せしむ。

西涼州。下。

粛州路、下。唐は粛州とし、また酒泉郡とした。宋初に西夏に占拠された。元太祖二十一年、西征し、粛州を攻めてこれを下す。世祖至元七年、粛州路総管府を置く。戸千二百六十二、口八千六百七十九。至元二十七年の数。

沙州路、下。唐は沙州とし、また燉煌郡とした。宋もなお沙州とし、景祐初め、西夏が瓜・沙・粛の三州を陥とし、河西の故地をことごとく得る。金これに因る。元太祖二十二年、その城を破り八都大王に隷属させる。至元十四年、ふたたび州を立てる。十七年、沙州路総管府に昇格し、瓜州をこれに隷属させる。沙州は粛州より千五百里離れており、内附した貧民が沙州で食糧を乞おうとするには、必ず粛州に申し出て、その後で与えられる。朝廷はその不便を以て、故に沙州を路に昇格させた。

瓜州、下。唐は晋昌郡と改め、また瓜州に復す。宋初に西夏に陥ちる。夏滅びて、州廃す。元至元十四年ふたたび立てる。二十八年、居民を粛州に移し、ただ名のみ存するに過ぎない。

亦集乃路、下。甘州の北千五百里に在り、城の東北に大沢あり、西北はともに沙磧に接す。乃ち漢の西海郡居延故城にして、夏国嘗て威福軍を立てたり。元太祖二十一年内附す。至元二十三年、総管府を立てる。二十三年、亦集乃総管忽都魯言う、「管轄する所に耕作すべき田あり、新軍二百人を以て亦集乃の地に合即渠を穿ち、併せて傍近の民西僧の余戸を以てその力を助けんことを乞う」と。これに従う。計らく屯田九十余頃。

寧夏府路、下。唐は霊州に属す。宋初に廃して鎮とし、蕃部を領す。唐末より拓拔思恭という者あり、夏州を鎮め、代々銀・夏・綏・宥・静の五州の地を有す。宋天禧の間、その孫徳明に伝わり、懐遠鎮に城して興州とし以て居り、後に興慶府に昇格し、また中興府と改む。元至元二十五年、寧夏路総管府を置く。至元八年、西夏中興等路行尚書省を立てる。元貞元年、寧夏路行中書省を革し、その事を甘粛行省に併合す。州三を領す。本路の棗園・納憐站等処の屯田千八百頃。

霊州、下。唐は霊州とし、また霊武郡とした。宋初に夏国に陥ち、翔慶軍と改む。

鳴沙州、下。隋は環州を置き、鳴沙県を立てる。唐は州を革め県を以て霊州に隷属させる。宋は夏国に没し、旧名のまま。元初め鳴沙州を立てる。屯田四百四十余頃。

応理州、下。蘭州と境を接し、東は大河に阻まれ、西は沙山に拠る。図志を考うるに、乃ち唐の霊武郡の地なり。その州城は建立の始め詳らかならず、元初めなお州を立てる。

山丹州、下。唐は刪丹県とし、甘州に隷属す。宋初め夏国の所有となり、甘粛軍を置く。元初め阿只吉大王の分地となる。至元六年、山丹城の事を行い、刪を訛って山とす。二十二年、州に昇格し、甘粛行省に隷属す。

西寧州、下。唐は鄯州を置き、湟水県を治め、上元の間土蕃に没し、青唐城と号す。宋は西寧州と改む。元初め章吉駙馬の分地となる。至元二十三年、西寧州等処拘搉課程所を立てる。二十四年、章吉を寧濮郡王に封じ、以てその地を鎮めしむ。

兀剌海路。欠く。太祖四年、黒水城の北兀剌海の西関口より河西に入り、西夏の将高令公を獲る。兀剌海城を克つ。