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元史
志第十一: 地理二 遼陽 河南江北
遼陽等処行中書省
遼陽等処行中書省は、路七、府一、属州十二、属県十を管轄する。名のみ存して城邑なきものは、この数に含まれない。本省の駅伝は計一百二十箇所。
遼陽路、上。唐以前は高句麗及び渤海の大氏の所有であった。梁の貞明年中、阿保機が遼陽故城を以て東平郡とした。後唐はこれを南京に昇格させた。石晋は東京と改めた。金は遼陽府を置き、遼陽・鶴野の二県を領した。後に再び東京と改め、宜豊・澄・復・蓋・瀋・貴徳州・広寧府・来遠軍を併せてこれに属させた。元初、貴徳・澄・復州・来遠軍を廃し、広寧府・婆娑府・懿州・蓋州を以て四路とし、直に省に隷属させた。至元六年、東京総管府を置き、広寧を散府に降格させてこれに隷属させた。十五年、広寧を割いて仍み自ら路の事を行わせ、直に省に隷属させた。十七年、また婆娑府・懿州・蓋州を以てこれに属させた。二十四年、始めて行省を立てる。二十五年、東京を遼陽路と改め、後に婆娑府を廃して巡検司とした。戸三千七百八、口三万三千二百三十一。壬子年の戸籍調査数。県一、州二を領す。
県一
遼陽。下。倚郭。至元六年、鶴野県・警巡院をこれに併入す。
州二
蓋州、下。初めは蓋州路。至元六年、併せて東京の支郡とし、熊岳・湯池の二県を建安県に併入す。八年、また建安県を本州に併入す。
懿州、下。初めは懿州路。至元六年、東京の支郡とし、領する豪州及び同昌・霊山の二県を廃して順安県に併入し、本州に入る。
広寧府路、下。金は広寧府。元は孛魯古歹を広寧王に封じ、旧く広寧行帥府事を立てる。後に地遠きを以て、治所を臨潢に遷し、総管府を立てる。至元六年、戸口寡少を以て、東京路総管府の属郡に降格す。十五年、復た路に分かれ、総管府事を行う。医巫閭山ありて北鎮と為り、府城の西北一十里に在り。至順の銭糧戸数四千五百九十五。県二を領す:
閭陽、下。初め千戸所を立て、至元十五年、戸口繁夥を以て、復た行千戸所を立てる。後に復た閭陽県と為る。望平。至元六年、鍾秀県を廃してこれに併入す。十五年、望平軍民千戸所と為り、今復た県と為る。
肇州。哈剌八都魯伝に按ずるに:至元三十年、世祖哈剌八都魯に謂いて曰く、「乃顔の故地に阿八剌忽と曰うもの魚を産す。吾今城を立て、兀速・憨哈納思・乞里吉思の三部の人を以てこれに居らしめ、其の城を肇州と名づく。汝往きて宣慰使と為れ。」既に至り、市里を定め、民居を安んず。魚九尾を得て皆千斤、来りて献ず。又、成宗紀に:元貞元年、肇州屯田万戸府を立て、遼陽行省左丞阿散を以て其の事を領せしむ。而して大一統志と経世大典は皆この州を載せず、其の所属し領する所の詳かならざるを知る。今広寧を以て乃顔の分地と為す故に、広寧府の下に附注す。乃顔は、孛魯古歹の孫なり。
山北遼東道粛政廉訪司。
大寧路、上。本は奚部、唐初其の地は営州に属す。貞観中、奚の酋長可度内附し、乃ち饒楽郡を置く。遼は中京大定府と為る。金これに因る。元初は北京路総管府と為り、興中府及び義・瑞・興・高・錦・利・恵・川・建・和の十州を領す。中統三年、興州及び松山県を割きて上都路に属せしむ。至元五年、和州を利州に併入して永和郷と為す。七年、興中府は州に降格し、仍み北京に隷属し、北京を大寧と改む。二十五年、武平路と改め、後に復た大寧と為る。戸四万六千六、口四十四万八千一百九十三。壬子年の数。司一、県七、州九を領す。
録事司。初めに警巡院を置き、至元二年に改めて録事司を置いた。
県七つ。
大定県、下県。中統二年に長興県を廃してここに併合した。龍山県、下県。初めは大定府に属した。至元四年に利州に属し、後にまたここに属した。富庶県、下県。至元三年に興中州に廃入されたが、後にまた置かれた。和衆県、下県。金源県、下県。恵和県、下県。武平県、下県。
州九つ。
義州、下州。
興中州、下州。元初は旧制により興中府とし、後に廃止した。至元七年にまた府を降格して州とした。
瑞州、下州。至元二十三年、伯顔が奏上して認可され、唆都・哈䚟らが収集した戸数を以て、瑞州の西で田を種え屯田を立て、海に臨む荒れた閑地を割り当てて時を移さず開墾させ、打捕屯田総管府を設置し、やはり唆都・哈䚟らを屯田官とした。
高州、下州。
錦州、下州。
利州、下州。
恵州、下州。
川州、下州。
建州、下州。
東寧路、本来は高句麗の平壌城、また長安城ともいう。漢が朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・玄菟郡を置いたが、ここは楽浪の地である。晋の義熙の後、その王高璉が初めて平瓖城に居を定めた。唐が高麗を征伐し、平壌を陥落させると、その国は東に移り、鴨緑水の東南千余里にあり、平壌の旧地ではない。王建に至り、平壌を西京とした。元の至元六年、李延齢・崔坦・玄元烈らが府・州・県・鎮六十城を以て帰順した。八年に西京を東寧府と改めた。十三年に東寧路総管府に昇格し、録事司を設置し、静州・義州・麟州・威遠鎮を割いて婆娑府に隷属させた。本路は司一つを管轄し、その余の城は埋もれ廃れ、司を設けて存置していないが、今は暫く旧名を存しておく。
録事司。土山県。中和県。鉄化鎮。
都護府は、唐の末期より、その地は高麗に帰し、府・州・県・鎮六十余城を置いた。これが都護府であるが、唐の旧名をなお用いるも、都護府の実態はなかった。至元六年、李延齢らがその地をもって帰順し、後に城邑は廃毀し、ただその名を存するのみとなり、東寧路に属した。
定遠府。郭州。撫州。黄州。安岳・三和・龍岡・咸従・江西の五県を領し、長命一鎮を管す。霊州。慈州。嘉州。順州。殷州。宿州。德州。江東・永清・通海・順化の四県を領し、寧遠・柔遠・安戎の三鎮を管す。昌州。鉄州。定戎一鎮を領す。泰州。价州。朔州。宣州。寧朔・席島の二鎮を領す。成州。樹徳一鎮を領す。熙州。孟州。三登一県を領し、椒島・椴島・寧徳の三鎮を管す。延州。陽巌一鎮を領す。雲州。
瀋陽路は、もと挹婁の故地であり、渤海の大氏が定理府を建て、沈・定の二州を都督した。これが瀋州の地である。契丹は興遼軍とし、金は昭徳軍とし、また顕徳軍と改めたが、後いずれも兵火に焼かれた。元初、遼東を平定するに及び、高麗国麟州神騎都領洪福源が西京・都護・亀州の四十余城を率いて来降し、各々鎮守司を立て、官を設けてその民を撫した。後に高麗が再び叛くと、洪福源は衆を引きいて来帰し、高麗軍民万戸を授けられ、降民を移して遼陽・瀋州に散居させ、初めて城郭を創建し、司存を置き、遼陽の故城に僑治した。中統二年、安撫高麗軍民総管府と改めた。高麗が国を挙げて内附するに及び、四年、また質子(淳)〔綧〕を以て安撫高麗軍民総管とし、二千余戸を分領して、瀋州を治めさせた。元貞二年、両司を併せて瀋陽等路安撫高麗軍民総管府とし、なお遼陽故城に治し、総管五・千戸二十四・百戸二十五を管轄した。至順の錢糧戸数は五千一百八十三。
開元路は、古くは粛慎の地であり、隋・唐では黒水靺鞨と称した。唐初、渠長阿固郎が初めて来朝し、後に臣服し、その地を燕州とし、黒水府を置いた。その後渤海が盛んとなり、靺鞨は皆その隷属となった。またその後渤海が次第に弱まり、契丹に攻められると、黒水が再びその地を専有し、東は海に臨み、南は高麗と境を接し、西北は契丹と接壤した。すなわち金の鼻祖の部落である。初め女真と号し、後に遼の興宗の諱を避けて、女直と改めた。太祖烏古打が既に遼を滅ぼすと、即ち上京に都を設け、海陵が燕に遷都し、会寧府と改めた。金末、その将蒲鮮万奴が遼東を占拠した。元初癸巳の歳、出師してこれを伐ち、万奴を生け捕りにし、師は開元・恤品に至り、東土悉く平定された。開元の名は、ここに始めて見える。乙未の歳、開元・南京の二万戸府を立て、黄龍府に治した。至元四年、遼東路総管府と改めた。二十三年、開元路と改め、咸平府を領した。後に咸平を割いて散府とし、ともに遼東道宣慰司に隷属させた。至順の錢糧戸数は四千三百六十七。
咸平府は、古くは朝鮮の地であり、箕子が封ぜられ、漢は楽浪郡に属し、後に高麗が侵してその地を有した。唐が高麗を滅ぼし、安東都護を置いてこれを統べ、続いて渤海の大氏が占拠した。遼が渤海を平定し、その地が険隘多いため、城を建てて流民を居住させ、咸州安東軍と号し、咸平という県を領した。金は咸平府に昇格し、平郭・安東・新興・慶雲・清安・帰仁の六県を領したが、兵乱により皆廃された。元初これに因襲し、開元路に隷属させたが、後に再び割き出して、遼東宣慰司に隷属させた。
合蘭府水達達等路は、土地は広闊で、人民は散居している。元初、軍民万戸府五を設け、北辺を撫鎮した。一つは桃温といい、上都より四千里。一つは胡里改といい、上都より四千二百里、大都より三千八百里。胡里改江及び混同江があり、また合蘭河があって海に流入する。一つは斡朵憐。一つは脱斡憐。一つは孛苦江。各々司存があり、混同江の南北の地を分領した。その居民は皆水達達・女直の人々で、各々旧俗を守り、市井城郭なく、水草を逐って居を構え、射猟を業とする。故に官を設けて民を治め、俗に随って治め、合蘭府水達達等路を以て相統摂した。俊禽ありて海東青と曰い、海外より飛来し、奴児干に至り、土人がこれを捕らえて、土貢とする。至順の錢糧戸数は二万九百六。
河南江北等処行中書省
河南江北等処行中書省は、路十二・府七・州一を為し、属州三十四、属県一百八十二を管す。本省の陸站は一百六箇所、水站は九十箇所。
河南江北道粛政廉訪司。
汴梁路、上。唐は汴州総管府を置く。石晋は開封府とす。宋は東京とし、ここに都を建つ。金は南京と改め、宣宗が南遷し、ここに都す。金滅びて帰附す。旧くは帰徳府、延・許・裕・唐・陳・亳・鄧・汝・潁・徐・邳・嵩・宿・申・鄭・鈞・睢・蔡・息・盧氏行襄樊の二十州を領す。至元八年、帰徳をして自ら一府たらしめ、亳・徐・邳・宿の四州を割いてこれに隷属せしむ。申州を南陽府に昇格し、裕・唐・汝・鄧・嵩・盧氏行襄樊を割いてこれに隷属せしむ。九年、延州を廃し、その領する延津・陽武の二県を南京路に属せしめ、蔡・息・鄭・鈞・許・陳・睢・潁の八州を統べ、開封・祥符を倚郭とし、而して属邑十五を管す。旧く警巡院あり、十四年これを録事司と改む。二十五年、南京路を汴梁路と改む。二十八年、河に臨んで南、大江の以北、その地衝要にして、また新たに版図に入るを以て、省を南京に置き以てこれを控治す。三十年、蔡州を汝寧府に昇格し、行省に属せしめ、息・潁の二州を割いてこれに隷属せしむ。本路の戸三万一千十八、口十八万四千三百六十七。壬子年の数。司一・県十七・州五を領す。州は二十一県を領す。
録事司。
県十七
開封、下。倚郭。祥符、下。倚郭。中牟、下。原武、下。旧はこの県を延州に隷せしめ、元初は開封府に隷し、後にまた延州となり、県は旧の如し。至元九年、州廃止、復た来属す。鄢陵、中。滎澤、下。旧は鄭州に隷し、至元二年来属す。封丘、中。金の大定年中、河水湮没し、治所を新城に遷す。元初、新城また河水に壊され、乃ち故城の遺址により、稍々完葺を加えて治所を遷す。扶溝、下。陽武、下。旧は延州に隷し、至元九年、州廃止して来属す。杞縣、中。元初河決し、城の北面水に圮され、遂に大河の道と為る。乃ち故城の北二里河水の北岸に於て、新城を築き県を置く。継いてまた故城を修し、号して南杞縣と曰う。蓋し黄河此に至りて三に分かる。其の大流は二城の間に流れ、其の一は新城の北郭睢河中に流れ、其の一は故城の南に在り、東流し、俗に三叉口と称す。延津、下。旧は延州と為り、河南路に隷す。至元九年、州廃止し、県を以て来属す。蘭陽、下。通許、下。尉氏、下。太康、下。洧川、下。陳留、下。
州五
鄭州、下。唐初は鄭州と為り、又た滎陽郡と改む。宋は奉寧軍と為す。金仍て鄭州と為す。元初は管城、滎陽、汜水、河陰、原武、新鄭、密、滎澤の八県及び司候司を領す。後に新鄭、密を割きて鈞州に属せしめ、滎澤、原武は開封府に隷し、併せて司候司を管城に併入す。四県を領す。
管城下。倚郭。滎陽、下。汜水、下。河陰、下。
許州、下。唐初は許州と為り、後に潁川郡と改め、又た仍て許州と為す。宋は潁昌府に昇格す。金は(武昌)〔昌武〕軍と改む。元初復た許州と為す。五県を領す。
長社、下。長葛、下。郾城、下。襄城、下。臨潁、下。
陳州、下。唐初は陳州と為り、後に淮陽郡と改め、又た仍て陳州と為す。宋は懷德府に昇格す。金復た陳州と為す。元初之に因る。旧は宛丘、南頓、項城、商水、西華、清水の六県を領す。至元二年、南頓、項城、清水皆廃止す。後に南頓、項城を復置す。五県を領す。
宛丘、西華、商水、至元二年、南頓、項城を省きて此に併入す。後に復置す。南頓、項城。
鈞州、下。唐、宋皆郡を置かず、偽齊は潁順軍を置く。金は〔潁〕順州と改め、又た鈞州と改む。元の至元二年、又た鄭州の密縣を割きて来属せしむ。三県を領す。
陽翟、下。新鄭、下。密縣、下。
睢州、下。唐は曹州に属す。宋は拱州と改め、又た保慶軍に昇格す。金は睢州と改む。元之に因る。四県を領す。
襄邑、下。倚郭。考城、下。儀封、下。柘城、下。
河南府路、唐初は洛州と為り、後に河南府と改め、又た東京と改む。宋は西京と為す。金は中京金昌府と為す。元初は河南府と為し、府治は即ち周の王城なり。旧は洛陽、宜陽、永寧、登封、鞏、偃師、孟津、新安、澠池の九県を領す。後に澠池を割きて陝州に隷せしむ。戸九千五百二、口六万五千七百五十一。壬子年の数。司一、県八、州一を領す。州は四県を領す。
錄事司。
県八
洛陽、宜陽、下県。永寧、下県。登封、下県。中嶽嵩山ここに在り。鞏縣、下県。孟津、下県。新安、偃師。下県。
州一。
陝州、下州。唐初は陝州と為し、また陝府と改め、また陝郡と改む。宋は保義軍と為す。元は仍て陝州と為す。四県を領す。
陝縣、下県。霊寶、下県。至元三年、省きて陝縣に入る。八年、虢州を廃して虢略と為し、陝州に隷す。併せて虢略を治めて霊寶とし、虢略を以て巡検司と為し、併せて朱陽縣をこれに入る。閿郷、下県。至元二年、湖城縣を省きてこれに入る。澠池。下県。金は昇めて韶州と為し、澠池司候司を置く。元至元三年、司候司を省く。八年、韶州を省き、復た縣と為し、河南府路に隷し、後に割きて来たりて属す。
南陽府、唐初は宛州と為し、而して縣名は南陽、後に州廃し、縣を以て鄧州に属す。五代を歴て宋に至るまで皆縣と為す。金は昇めて申州と為す。元至元八年、昇めて南陽府と為し、唐・鄧・裕・嵩・汝の五州を以てこれに隷す。二十五年、改めて汴梁路に属し、後に直隷行省と為す。戸六百九十二、口四千八百九十三。壬子年の数。縣二、州五を領す。州は十一県を領す。
縣二。
南陽、下県。倚郭。鎮平。下県。
州五。
鄧州、下州。唐初は鄧州と為し、後に南陽郡と改め、また仍て鄧州と為す。宋は京西南路に属す。金は南京開封府に属す。旧は穰縣・南陽・内郷・淅川・順陽の五県を領す。元初は淅川・順陽を以て内郷に省き入る。旧は録事司を設く、至元二年併せて穰縣に入る。三県を領す。
穰縣、下県。倚郭。内郷、下県。至元二年、順陽を以て来たりて属す。新野。下県。
唐州、下州。唐初は顯州と為し、後に唐州と改む。宋は京西南路に属す。金は裕州と改む。元初は復た唐州と為す。至元三年、民力及ばずして、湖陽・比陽・桐柏の三県を廃す。一県を領す。
泌陽。倚郭。
嵩州、下州。唐は陸渾・伊闕の二県と為す。宋は昇めて順州と為す。金は嵩州と改め、伊陽・福昌の二県を領す。元初は福昌を以て河南に隷す。至元三年、伊陽を省きて州に入る。一県を領す。
盧氏。下県。至元二年、南京路に隷す。八年、南陽府に属す。十一年来たりて属す。
汝州、下州。唐初は伊州と為し、また汝州と改む。宋は京西北路に属す。元至元三年、郟城・寶豐の二県を廃して梁縣に入れ、後に復た郟縣を置く。三県を領す。
梁縣、下。魯山、下。郟縣、下。
裕州、下。唐初に北澧州を置き、また魯州と改め、後に廃して縣とし、唐州に属した。金代に裕州に昇格した。旧来は方城・舞陽・葉縣を領した。元初には葉縣において随州の事務を代行し、あわせて昆陽縣を置いて属邑とした。至元三年、州を廃し、昆陽・舞陽の二縣を葉縣に併合したが、後に舞陽を再び置いた。三縣を領する。
方城、下。倚郭。葉縣、下。舞陽、下。
汝寧府、唐の蔡州。上蔡・西平・確山・遂平・平輿が属邑であった。至元七年、遂平・平輿を省いて汝陽に併合し、汴梁路に隷属させた。三十年、河南江北行省平章伯顏が言上した。「蔡州は汴梁から地遠く、諸事遅滞しがちである。散府に昇格させるのが適当である。」そこで汝寧府に昇格させ、行省に直隷させ、息・潁・信陽・光の四州をこれに隷属させ、遂平縣を再び置いた。戸籍抄出の戸口は欠落している。至順年間の錢糧戸数は七千七十五戸。五縣・四州を領する。州は十縣を領する。
縣五
汝陽、下。元初に廃止されたが、後に蔡州の治所をここに置き、引き続き縣を再設置した。上蔡、下。西平、下。確山、下。遂平、下。元初に省いて汝陽に併合したが、後に再設置した。
州四
潁州、下。唐初は信州とし、後に汝陰郡と改め、また潁州と改めた。宋は順昌府に昇格させた。金は再び潁州とした。旧来は汝陰・太和・沈丘・潁上の四縣を領した。元の至元二年、四縣及び錄事司を省いて州に併合した。後に三縣を領するようになった。
太和、下。沈丘、下。潁上、下。
息州、下。唐初は息州とし、後に新息縣とし、蔡州に隷属した。五代から宋まで皆これに因った。金は再び息州を置いた。旧来は新息・新蔡・真陽・褒信の四縣を領した。元の中統三年、李璮の叛により州を廃止した。四年、再設置した。至元三年、四縣を併合して州とした。後に二縣を領するようになった。
新蔡、下。真陽、下。
光州、下。唐初は光州とし、後に弋陽郡と改め、また光州に復した。宋は光山軍に昇格させた。元の至元十二年に帰順し、蘄黃宣慰司に属した。二十三年、蘄・黃等州とともに行省に直隷した。三十年、汝寧府に隷属した。三縣を領する。
定城、固始、下。宋末に兵乱があり、治所を移転して定まらなかった。至元十二年に旧治に復した。光山、下。兵乱で土地が荒廃したが、至元十二年に旧治を再建した。
信陽州、下。唐初は申州とし、また義陽郡と改めた。宋は信陽軍と改めた。端平年間、兵乱で土地が荒廃し、凡そ四十余年を経た。元の至元十四年、信陽府を立て、羅山・信陽の二縣を領した。十五年、信陽州と改めた。二十年、羅山縣が駅伝の要衝に当たるため、州治をここに移し、縣治を西南に移して羅山新縣と号した。現在の州治は旧縣である。戸三千四百十四、口二万三千七百五十一。至元七年の数。二縣を領する。
羅山、倚郭。信陽。
帰徳府は、唐・宋の州であり、また睢陽郡であった。後唐は帰徳軍とした。宋は南京に昇格させた。金は帰徳府とした。金が滅亡すると、宋は再びこれを奪取した。旧来は宋城・寧陵・下邑・虞城・穀熟・碭山の六県を管轄した。元初に亳州の酇県と同時に帰順し、京東行省を設置したが、まもなく廃止された。壬子の年、また司府州県の官を立て、新たに居住する民を安んじ定めた。中統二年、民戸の多寡を審査し、官吏の員数を定めた。至元二年、虞城・碭山の二県が枯黄河の北にあるため、済寧府に割属させ、また穀熟を睢陽に併合し、酇県を永州に併合し、永州を永城県に降格させ、寧陵・下邑とともに本府に隷属させた。八年、宿・亳・徐・邳の四州を併せて隷属させた。土地は平坦で、しばしば黄河の水害があった。府は散郡であり、知府・治中・府判を各一名設置し、行省に直隷した。戸籍の戸数は欠落している。至順年間の銭糧戸数は二万三千三百十七戸である。四県・四州を管轄する。州は八県を管轄する。
県四つ
睢陽、下県。倚郭。唐は宋城といい、また睢陽といった。金は睢陽といった。宋は宋城といった。元はなお睢陽という。 永城、下県。 下邑、下県。 寧陵、下県。
州四つ
徐州、下州。唐初は徐州とし、また彭城郡に改め、また武寧軍に昇格させた。宋はこれに因った。金は山東西路に属した。金が滅亡すると、宋はこれを回復した。元初に帰順した後、すべての州県は民の多少に応じて官吏を設置した。至元二年、例により下州に降格した。旧来は彭城・蕭・永固の三県及び録事司を管轄したが、この時に永固は蕭県に併合され、彭城と録事司は州に併合された。一県を管轄する:
蕭県、下県。至元二年、徐州に併合されたが、十二年に再び設置された。
宿州、中州。唐に設置され、宋は保静軍に昇格させ、金は防禦使を設置した。金が滅亡すると、宋はこれを回復した。元初は帰徳府に隷属し、臨渙・蘄・霊壁・符離の四県及び司候司を管轄した。至元二年、四県一司を州に併合した。四年、霊壁を泗州に属させたが、十七年に再び本州に属した。一県を管轄する:
霊壁、下県。
邳州、下州。唐初は邳州とし、後に廃止して泗州に属し、また徐州に属した。宋は淮陽軍を設置した。金は再び邳州とした。金が滅亡すると、宋は一時これを有した。元初は民が少ないため、三県を州に併合した。至元八年、州を帰徳府に属させた。十二年、再び睢寧・宿遷の両県を設置し、淮安路に属させた。十五年、再び本州に属した。三県を管轄する:
下邳、下県。州の治所。 宿遷、下県。 睢寧、下県。
亳州、下州。唐初は亳州とし、後に譙郡に改め、またなお亳州とした。宋は集慶軍に昇格させた。金は再び亳州とした。金が滅亡すると、宋はこれを回復した。元初は譙・酇・鹿邑・城父・衞真・穀熟の六県を管轄した。後に民戸が少ないため、城父を譙に併合し、衞真を鹿邑に併合し、穀熟を睢陽に併合し、酇を永城に併合した。その睢陽・永城は帰徳府に隷属させ、後に再び城父を設置した。三県を管轄する:
譙県、下県。 鹿邑、下県。この邑はしばしば水害があり、歴代を通じて民が安住できなかった。 城父、下県。
襄陽路、唐初は襄州とし、後に襄陽郡に改めた。宋は襄陽府とした。元の至元十年、兵が樊城を破り、襄陽の守臣呂文煥が降伏したため、宋の京西安撫司を廃止し、河南等路行中書省を立て、襄陽府を散府に改めたが、まもなく行省を廃止した。十一年、襄陽府を総管府に改め、また荊湖等路行枢密院を立てた。十二年、荊湖行中書省を立てたが、後に再び廃止した。本府は四県・一司を管轄したが、十九年に均・房の二州と光化・棗陽の二県を割属させた。戸籍の戸口数は欠落している。至順年間の銭糧戸数は五千九十戸である。一司・六県・二州を管轄する。州は四県を管轄する。
録事司。
県六つ
襄陽、下。倚郭。南漳、下。宜城、下。穀城、下。光化、至元十三年南伐、明年に官を設け縣を置き、南陽に屬す、十九年に來屬す。棗陽。至元十四年、南陽に屬す、十九年に來屬す。
州二
均州、下。唐初は均州と爲し、又武當郡と爲す。宋は武當軍と爲す。元至元十二年、江陵歸附し、割きて湖北道宣慰司に隷す。十九年、還りて襄陽に屬す。二縣を領す。
武當、下。兵亂にて治を遷すこと常なく、至元十四年に復た置く。鄖縣。下。兵後に僑治すること常なく、至元十四年に復た置く。
房州、下。唐初は遷州と爲し、後房州と爲し、又房陵郡と改む。宋は保康軍を置く。德祐中、知州黃思賢土を納れ、千戶に鎮守を命じ、仍て思賢に州事を領せしむ。至元十九年、襄陽路に隷す。二縣を領す。
房陵、下。竹山。下。
蘄州路、下。唐初は蘄州と爲し、後蘄春郡と改め、又仍て蘄州と爲す。宋は防禦州と爲す。至元十二年、淮西宣撫司を立つ。十四年、總管府と改め、錄事司を設く。戶三萬九千一百九十、口二十四萬九千三百二十一。此より以後德安府に至るまで、皆至元二十七年の數を用ふ。一司、五縣を領す。
錄事司
縣五
蘄春、中。倚郭。蘄水、中。廣濟、中。宋嘉熙兵亂に、治を大江中洲に徙す、歸附後舊治に復す。黃梅、中。嘉熙兵亂に、中洲に僑治し、後舊に復す。羅田。下。兵亂に縣廢し、歸附後始めて立つ。
黃州路、下。唐初は黃州と爲し、後齊安郡と改め、又仍て黃州と爲す。宋は團練軍州と爲す。元至元十二年歸附す。十四年、總管府を立つ。十八年、又黃蘄州宣慰司の治所と爲す。二十三年、宣慰司を罷め、直に行省に隷す。戶一萬四千八百七十八、口三萬六千八百七十九。一司、三縣を領す。
錄事司
縣三
黃岡、中。州の治所。黃陂、下。兵亂に鄂州青山磯に僑治し、歸附後舊治に還る。麻城。下。兵亂に什子山に治を徙し、歸附後舊治に還る。
淮西江北道肅政廉訪司。
廬州路、上。唐は廬江郡と改め、またもと通り廬州となす。宋は淮南西路。元の至元十三年、淮西総管府を設く。明年、本路に総管府を立て、淮西道に隷す。二十八年、六安軍を以て県となし来属せしめ、後六安県を州に昇す。戸三万一千七百四十六、口二十二万九千四百五十七。司一、県三、州三を領す。州は八県を領す。
録事司。
県三
合肥、上。倚郭。 梁県、中。 舒城。中。
州三
和州、中。唐は歴陽郡と改め、後もと通り和州となす。宋は淮南西路に隷す。元の至元十三年、鎮守万戸府を置く。明年、安撫司を改めて立てる。又明年、和州路に昇す。二十八年、州に降し、廬州路に隷す。旧録事司を設く、後州の自治に入る。三県を領す:
歴陽、上。倚郭。 含山、中。 烏江。中。
無為州、中。唐初は光州に隷す。宋初めて城口鎮を以て無為軍を置き、天下とともに無事に安んぜんことを思い、「無為にして治まる」の意を取りて以てこれに名づく。元の至元十四年、路に昇す。二十八年、州に降し、鎮巣州を罷めて県となし以てこれに属せしむ。三県を領す:
無為、上。倚郭。 廬江、中。 巣県。下。
六安州、下。唐は霍山県を以て霍州を置き、後州廃れてなお県となす。梁は灊山県と改む。宋は六安軍と改む。元の至元十二年帰附し、二十八年県に降し、廬州路に隷し、後州に昇す。二県を領す:
六安、中。 英山。中。
安豊路、下。唐初は寿州と為し、後寿春郡と改む。宋は寿春府と為し、又安豊県を以て安豊軍と為し、継いて安豊軍を寿春府に遷す。元の至元十四年、安豊路総管府と改む。十五年、散府と定め、寿春・安豊・霍丘の三県を領す。二十八年、復た路に昇し、臨濠府を以て濠州と為し、下蔡・蒙城とともに来属せしむ。戸一万七千九百九十二、口九万七千六百十一。司一、県五、州一を領す。州は三県を領す。
録事司。
県五
寿春、中。倚郭。 安豊、下。至元二十一年、江淮行省言う:「安豊の芍陂は田万頃を溉ぐべく、若し屯を立て開耕せば、実に便益なり」と。これに従う。安豊県に万戸府を立て、屯戸一万四千八百余。 霍丘、下。 下蔡、下。至元十三年、寿春府に隷す。二十八年府を罷め、蒙城とともに皆来属す。 蒙城。下。
州一
濠州、下州。唐代初期は濠州とし、後に鍾離郡と改め、また濠州に戻った。淮河に阻まれ山を帯び、寿陽とともに淮南の険要な郡であり、郡名は初め豪(豪州)に従い、後に水を加えて濠とした。南唐は定遠軍を置いた。宋代は団練州とし、初め淮南路に隷属し、後に淮南西路に隷属した。元の至元十三年に帰順し、濠州安撫司を設置した。十五年、臨濠府と定めた。二十八年、再び濠州とし、懐遠を下県に改めて属させた。三県を領する。
鍾離、下県。倚郭。 定遠、下県。 懐遠。下県。宋代は懐遠軍とし、荊山一県を領した。至元二十八年、軍を県とし、濠州に隷属させ、荊山を廃してこれに併合した。
安慶路、下路。唐代初期は東安州とし、また舒州と改め、また同安郡と改め、また舒州に戻った。宋代は安慶府とした。元の至元十三年、安撫司を立てた。十四年、安慶路総管府と改め、蘄黄宣慰司に属した。二十三年、宣慰司を廃し、行省に直隷した。戸三万五千百六、口二十一万九千四百九十。司一、県六を領する。
録事司。
県六
懐寧、中県。 宿松、中県。 望江、下県。 太湖、中県。 桐城、中県。 灊山。至治三年に初めて立てる。
淮東道宣慰使司。
江北淮東道粛政廉訪司。
揚州路、上路。唐代初期は南兗州と改め、また邗州と改め、また広陵郡と改め、また揚州に戻った。宋代は淮南東路とした。元の至元十三年、初めて大都督府を建て、江淮等処行中書省を置いた。十四年、揚州路総管府と改めた。十五年、淮東道宣慰司を置き、本路はこれに属した。十九年、宣慰司を廃し、本路総管府を行省に直隷させた。二十一年、行省が杭州に移り、再び淮東道宣慰司を立て、ただ本路及び淮安の二郡を統轄し、本路は高郵府及び真、滁、通、泰、崇明の五州を領した。二十三年、行省が再び遷り、宣慰司は遂に廃止され、所属は従前の通りであった。後に河南江北等処行中書省を改めて立て、治所を汴梁路に移し、再び淮東道宣慰司を立て、高郵府を割いて散府とし、宣慰司に直隷させた。戸二十四万九千四百六十六、口百四十七万一千百九十四。司一、県二、州五を領する。州は九県を領する。
録事司。
県二
江都、上県。倚郭。 泰興。上県。
州五
真州、中州。五代以前は地は揚州に属し、宋代は迎鑾鎮に建安軍を置き、また真州に昇格させた。元の至元十三年、初めて真州安撫司を立てた。十四年、真州路総管府と改めた。二十一年、再び州とし、揚州路に隷属した。二県を領する。
揚子県、上県。倚郭。至元二十年、録事司を廃して本県に併入した。 六合県。下県。
滁州、下州。唐代初期に揚州の地を分けて設置し、後に永陽郡と改め、また滁州に復した。元の至元十五年、滁州路総管府と改める。二十年、再び州とし、揚州路に隷属させた。三県を管轄する:
清流県、中県。至元十四年、録事司を廃して本県に併入した。 来安県、下県。 全椒県。中県。
泰州、上州。唐代に海陵県を呉陵と改め、呉州を設置したが、まもなく廃止した。南唐が泰州に昇格させた。元の至元十四年、泰州路総管府を立てる。二十一年、州に改め、揚州路に隷属させた。二県を管轄する:
海陵県、上県。倚郭。 如皋県。上県。
通州、中州。唐代は揚州に属した。南唐が海陵県の東境に静海鎮を置いた。周が淮南を平定し、通州と改める。宋代は静海郡と改めた。元の至元十五年、通州路総管府と改める。二十一年、再び州に復し、揚州路に隷属させた。二県を管轄する:
静海県、上県。倚郭。 海門県。中県。
崇明州、下州。もとは通州の海浜の沙洲であり、宋代の建炎年間に昇州句容県の姚氏・劉氏という者が、兵乱を避けてこの沙洲に移り、その後次第に人が住むようになり、遂に姚劉沙と称した。嘉定年間に塩場を設置し、淮東制置司に属した。元の至元十四年、崇明州に昇格した。
淮安路、上路。唐代は楚州、後に臨淮郡と改め、また楚州に復した。宋代は淮安州となった。元の至元十三年、淮東安撫司を置く。十四年、総管府を立て、山陽・塩城・淮安・淮陰・新城・清河・桃園の七県を管轄し、録事司を設けた。二十年、淮安府路に昇格し、淮安・新城・淮陰の三県を山陽県に併合し、兼ねて臨淮府・海寧・泗・安東の四郡を管轄した。その盱眙・天長・臨淮・虹・五河・贛榆・朐山・沭陽の各県はそれぞれ所属する所に帰属させた。二十七年、臨淮府を廃し、盱眙・天長を泗州に隷属させた。戸数九万一千二十二、人口五十四万七千三百七十七。一司・四県・三州を管轄する。州は八県を管轄する。至元二十三年、本路の白水塘・黄家疃等の地に洪沢屯田万戸府を設置した。
録事司。
県四つ
山陽県、上県。至元十二年、安東州が帰順し、本県の馬羅軍寨をもって山陽県とした。十三年、淮安路が帰順し、依然として淮安県を存置した。二十年、淮安・新城の両県を廃して本県に併入した。 塩城県、上県。 桃園県、下県。 清河県。下県。もとは泗州の清河口であり、宋代に清河軍を立て、至元十五年県とした。
州三つ
海寧州、下州。唐代は海州。宋代は淮南東路に隷属した。元の至元十五年、海州路総管府に昇格し、後に海寧府と改め、まもなく州に降格し、淮安路に隷属させた。初め録事司を設けたが、二十年、東海県とともに朐山県に併入された。三県を管轄する:
朐山県、中県。 沭陽県、下県。 贛榆県。下県。
泗州は下州。唐は臨淮郡と改め、後に再び泗州となった。宋は淮南東路に隷属した。元の至元十三年、下州に降格された。旧来は臨淮・淮平・虹・霊壁・睢寧の五県を管轄した。十六年、睢寧を割いて邳州に属させた。十七年、霊壁を割いて宿州に入れ、五河県を当州に属させた。二十一年、淮平を臨淮に併合した。二十七年、臨淮府を廃し、盱眙・天長の二県を当州に隷属させた。五県を管轄する。
臨淮は下県。 虹県は下県。 五河は下県。元は臨淮府に隷属し、十七年に当州に属した。 盱眙は上県。宋は招信軍。至元十三年、招信軍安撫司事を行い、盱眙・天長・招信・五河の四県を管轄した。翌年、招信路総管府に昇格した。十五年、臨淮府と改称した。十七年、五河県が淮水の北にあるため、泗州に改属させた。二十年、招信を盱眙に併合した。二十七年、臨淮府を廃して盱眙県とした。 天長は中県。
安東州は下州。
高郵府は、唐では県であった。宋は軍に昇格した。元の至元十四年、高郵路総管府に昇格し、録事司及び高郵・興化の二県を管轄した。二十年、安宜府を廃して宝応県とし当府に属させ、また録事司を併合し、高郵路を府に改め、揚州路に属させた。今は宣慰司に隷属する。戸籍の戸口数は欠落しており、至順年間の銭糧戸数は五万九十八戸。三県を管轄する。
高郵は上県。 興化は中県。 宝応は上県。旧来は宝応軍であり、至元十六年に安宜府と改めた。二十年、府を廃して県とし、当府に属した。
荊湖北道宣慰司。
山南江北道粛政廉訪司。
中興路は上路。唐は荊州、後に江陵府となった。宋は荊南府。元の至元十三年、上路総管府に改め、録事司を設置した。天暦二年、文宗が潜藩であったため、中興路と改称した。戸十七万六百八十二、口五十九万九千二百二十四。一司・七県を管轄する。
録事司。
県七
江陵は上県。 公安は中県。 石首は中県。 松滋は中県。 枝江は下県。 潜江は中県。 監利は中県。宋末の兵乱で民が離散したが、帰順収附後にようやく旧に復した。
峡州路は下路。唐は夷陵郡と改め、また峡州となった。宋は荊湖北路に隷属し、後に治所を江南に移した。元の至元十三年に帰順し、十七年に峡州路に昇格した。戸三万七千二百九十一、口九万三千九百四十七。四県を管轄する。
夷陵は中県。宋末は州に随って治所を移し一定せず、帰順後、江北の旧治に復した。 宜都は下県。 長陽は下県。 遠安は下県。
安陸府は、唐の郢州、また富水郡と改め、また郢州となった。宋は京西南路に隷属した。元の至元十三年に帰順し、十五年安陸府に昇格した。戸一万四千六百六十五、口三万三千五百五十四。二県を管轄する。
長寿は中県。 京山は中県。兵乱で治所を漢水のほとりに移したが、至元十二年に旧治に戻った。
沔陽府は、唐代には復州であり、また竟陵郡と改め、さらに復州となった。宋代の端平年間に州治を沔陽鎮に移した。至元十二年(1275年)に帰順し、復州路と改め、十五年(1278年)に沔陽府に昇格した。戸数一万七千七百六十六、人口三万九百五十五。管轄する県は二つ。
玉沙県、中県。倚郭(府治所在地)。景陵県、中県。兵乱により治所を移転して定まらず、帰順後に旧治に戻った。
荊門州、下州。唐代は県であった。宋代に軍に昇格し、端平年間に治所を当陽県に移した。元の至元十三年(1276年)に帰順し、十四年(1277年)に府に昇格、十五年(1278年)に府治を古城に遷し、州に降格した。戸数二万九千四百七十一、人口十六万五千四百三十五。管轄する県は二つ。
長林県、上県。当陽県、中県。
徳安府は、唐代は安州であり、また安陸郡と改め、さらに安州に戻った。宋代は徳安府となり、咸淳年間に治所を漢陽に移した。元の至元十三年(1276年)に旧治に戻り、湖北道宣慰司に隷属した。十八年(1281年)に宣慰司を廃し、鄂州行省に直隷し、散府となった。後に割譲されてここに属した。戸数一万九百二十三、人口三万六千二百十八。管轄する県四つ、州一つ。州は二県を管轄する。
県四つ
安陸県、下県。孝感県、下県。応城県、中県。雲夢県、下県。
州一つ
随州、下州。唐代初期は随州であり、また漢東郡と改め、さらに随州に戻った。宋代は崇信軍、また棗陽軍となり、後に兵乱により治所の移転が定まらなかった。元の至元十二年(1275年)に帰順した。十三年(1276年)、黄仙洞を州治とした。戸数一万五千九百六十六、人口五万二千六十四。管轄する県二つ。
随県、下県。応山県、下県。