授時暦議下
交食
暦法の疎密は、交食によって検証されるが、推歩の術は密を得難く、加時に早晚があり、食分に浅深があり、その密合を取るには偶然を容れない。加時を推演するには、必ず躔離朓朒に本づき、食分を考求するには、必ず距交の遠近に本づく。もし入気の盈縮・入転の遅疾が正を得なければ、則ち合朔は先を失わざれば、必ず後を失う。合朔が先後を失えば、則ち虧食の時刻、密ならしめ得るや。日月ともに東行し、日は遅く月は疾く、月が日に追い及ぶ、これが一会である。交値の道に、陽暦・陰暦があり、交会の期に、中前・中後がある。これに地形の南北東西の不同、人目の高下邪直の各異を加えれば、この食分の多寡は、理として一たるを得ざるなり。今、合朔既に正しければ、則ち加時に早晚の差なく、気刻適中すれば、則ち食分に強弱の失なし。推して上れば、詩・書・春秋及び三国以来に載する虧食、合わざるものなし。既往に合すれば、則ちこれを悠久に行う、自ら弊なかるべし。
詩・書に載する日食二事
書経の胤征に「惟れ仲康、四海に位を肇む。乃ち季秋月の朔、辰、房に集まらず。」とある。
今、按ずるに、大衍暦は仲康即位の五年癸巳とし、辛巳より三千四百八年を距て、九月庚戌朔、泛交二十六日五千四百二十一分、食限に入る。
詩経小雅の十月之交は、大夫が幽王を刺したものである。「十月の交、朔日辛卯、日に食有り、亦た孔だ醜し。」
今、按ずるに、梁の太史令虞𠠎が云う、十月辛卯朔は、幽王六年乙丑の朔である。大衍もまた然りと為す。授時暦を以てこれを推すに、是の歳十月辛卯朔、泛交十四日五千七百九分、食限に入る。
春秋の日食三十七事
杜預が云う、「朔を書かざるは、史官のこれを失うなり。」公羊伝に云う、「日食は或いは朔を言い或いは朔を言わず、或いは日を言い或いは日を言わず、或いは前に失い或いは後に失う。前に失う者は朔が前にあるなり、後に失う者は朔が後にあるなり。」穀梁伝に云う、「日を言い朔を言わざるは、晦日に食うなり。」姜岌が春秋の日食を校して云う、「是の歳二月己亥朔、己巳無し、一閏を失うに似たり。三月己巳朔、去交分、食限に入る。」大衍は姜岌と合う。今、授時暦を以てこれを推すに、是の歳三月己巳朔、加時は晝に在り、去交分二十六日六千六百三十一、食限に入る。
姜岌は是の歳七月癸亥朔と為し、壬辰無し、亦た閏を失う。其の八月壬辰朔、去交分、食限に入る。大衍は姜岌と合う。今の暦を以てこれを推すに、是の歳八月壬辰朔、加時は晝に在り、食六分一十四秒。
桓公十七年(丙戌の歳)、冬十月朔、日食あり。
左氏伝に云う、「日を書かず、史官これを失う」と。大衍暦は推して十一月交分食限に入るを得、閏を失うなり。今の暦を以てこれを推すに、この歳十一月加時昼に在り、交分二十六日八千五百六十食限に入る。
荘公十八年(乙巳の歳)、春王三月、日食あり。
穀梁伝に云う、「日を言わず、朔を言わず、夜食なり」と。大衍暦はこの歳五月朔、交分食限に入るを推す、三月は食すべからず。今の暦を以てこれを推すに、この歳三月朔、食限に入らず。五月壬子朔、加時昼に在り、交分食限に入る、蓋し五を三と誤れるなり。
荘公二十五年(壬子の歳)、六月辛未朔、日食あり。
大衍暦これを推すに、七月辛未朔、交分食限に入る。今の暦を以てこれを推すに、この歳七月辛未朔、加時昼に在り、交分二十七日四百八十九食限に入る、閏を失うなり。
荘公二十六年(癸丑の歳)、冬十有二月癸亥朔、日食あり。
今の暦これを推すに、この歳十二月癸亥朔、加時昼に在り、交分十四日三千五百五十一食限に入る。
荘公三十年(丁巳の歳)、九月庚午朔、日食あり。
今の暦これを推すに、この歳十月庚午朔、加時昼に在り、去交分十四日四千六百九十六食限に入る、閏を失うなり。大衍暦同じ。
姜氏(姜岌)云う、「三月朔、交応に食すべからず、誤条に在り;その五月庚午朔、去交分食限に入る」と。大衍暦同じ。今の暦これを推すに、この歳五月庚午朔、加時昼に在り、去交分二十六日五千一百九十二食限に入る、蓋し五を三と誤れるなり。
僖公十五年(丙子の歳)、夏五月、日食あり。
左氏伝に云う、「朔と日とを書かず、史官これを失うなり」と。大衍暦は四月癸丑朔、去交分食限に入るを推し、一閏を差す。今の暦これを推すに、この歳四月癸丑朔、去交分一日一千三百一十六食限に入る。
姜氏は言う、「二月甲午朔、癸亥は無し。三月癸亥朔、食限に入る」と。大衍もまた然りと為す。今の暦でこれを推すに、この歳三月癸亥朔、加時は昼に在り、去交分二十六日五千九百十七分、食限に入る、閏を失せるなり。
文公十五年己酉歳、六月辛丑朔、日に食有り。
今の暦でこれを推すに、この歳六月辛丑朔、加時は昼に在り、交分二十六日四千四百七十三分、食限に入る。
宣公八年庚申歳、秋七月甲子、日に食有り。
杜預は七月甲子晦に食すと為す。姜氏は言う、「十月甲子朔、食す」と。大衍同じ。今の暦でこれを推すに、この歳十月甲子朔、加時は昼に在り、九分八十一秒を食す、蓋し十を誤りて七と為せるなり。
宣公十年壬戌歳、夏四月丙辰、日に食有り。
今の暦でこれを推すに、この月丙辰朔、加時は昼に在り、交分十四日九百六十八分、食限に入る。
宣公十七年己巳歳、六月癸卯、日に食有り。
姜氏は言う、「六月甲辰朔、食すべからず」と。大衍は云う、「この年五月は交限に在り、六月甲辰朔、交分は已に食限を過ぐ、蓋し誤れるなり」と。今の暦でこれを推すに、この歳五月乙亥朔、食限に入る。六月甲辰朔、泛交二日、已に食限を過ぐ、大衍を是と為す。
成公十六年丙戌歳、六月丙寅朔、日に食有り。
今の暦でこれを推すに、この歳六月丙寅朔、加時は昼に在り、去交分二十六日九千八百三十五分、食限に入る。
成公十七年丁亥歳、十有二月丁巳朔、日に食有り。
姜氏は言う、「十二月戊子朔、丁巳無し、閏を失せるに似たり」と。大衍は十一月丁巳朔を推し、交分食限に入る。今の暦でこれを推すに、この歳十一月丁巳朔、加時は昼に在り、交分十四日二千八百九十七分、食限に入る、大衍と同じ。
襄公十四年壬寅歳、二月乙未朔、日に食有り。
今の暦でこれを推すに、この歳二月乙未朔、加時は昼に在り、交分十四日一千三百九十三分、食限に入るなり。
襄公十五年癸卯の歳、秋八月丁巳朔、日食あり。
姜氏曰く、「七月丁巳朔、食す、閏を失うなり」と。大衍暦同じ。今の暦これを推すに、この歳七月丁巳朔、加時昼に在り、去交分二十六日三千三百九十四分、食限に入る。
襄公二十年戊申の歳、冬十月丙辰朔、日食あり。
今の暦これを推すに、この歳十月丙辰朔、加時昼に在り、交分十三日七千六百分、食限に入る。
襄公二十一年己酉の歳、秋七月庚戌朔、日食あり。
今の暦これを推すに、この月庚戌朔、加時昼に在り、交分十四日三千六百八十二分、食限に入る。
冬十月庚辰朔、日食あり。
姜氏曰く、「月を比べて食すは、宜しく誤条に在るべし」と。大衍暦もまた然りと為す。今の暦これを推すに、十月は既に交限を過ぎ、頻りに食すべからず、姜氏の説是なり。
今の暦これを推すに、この月癸酉朔、加時昼に在り、交分二十六日五千七百三分、食限に入る。
襄公二十四年壬子の歳、秋七月甲子朔、日食あり、既まる。
今の暦これを推すに、この月甲子朔、加時昼に在り、日食九分六秒。
八月癸巳朔、日食あり。
襄公二十七年乙卯の歳、冬十有二月乙亥朔、日食あり。
姜氏(姜岌)が言うには、「十一月乙亥朔、交分が限に入り、食すべきである」と。大衍暦も同じ。今の暦(授時暦)でこれを推算すると、この年の十一月乙亥朔、加時は昼間にあり、交分は初日八百二十五分で食限に入る。
昭公七年丙寅の歳、夏四月甲辰朔、日食あり。
今の暦で推算すると、この月甲辰朔、加時は昼間にあり、交分は二十七日二百九十八分で食限に入る。
昭公十五年甲戌の歳、六月丁巳朔、日食あり。
大衍暦は五月丁巳朔に食を推算し、一閏を失う。今の暦で推算すると、この年の五月丁巳朔、加時は昼間にあり、交分は十三日九千五百六十七分で食限に入る。
昭公十七年丙子の歳、夏六月甲戌朔、日食あり。
姜氏が言うには、「六月乙巳朔、交分が合わず、食すべきでない、誤りであろう」と。大衍暦は言う、「九月朔にあるべきで、六月に食すべきでない、姜氏の言う通りである」と。今の暦で推算すると、この年の九月甲戌朔、加時は昼間にあり、交分は二十六日七千六百五十分で食限に入る。
昭公二十一年庚辰の歳、七月壬午朔、日食あり。
今の暦で推算すると、この月壬午朔、加時は昼間にあり、交分は二十六日八千七百九十四分で食限に入る。
今の暦で推算すると、この月癸酉朔、交分は十四日一千八百分で食限に入る。杜預が長暦でこれを推算し、癸卯であるべきとしたのは、正しくない。
昭公二十四年癸未の歳、夏五月乙未朔、日食あり。
今の暦で推算すると、この月乙未朔、加時は昼間にあり、交分は二十六日三千八百三十九分で食限に入る。
昭公三十一年庚寅の歳、十二月辛亥朔、日食あり。
今の暦で推算すると、この月辛亥朔、加時は昼間にあり、交分は二十六日六千一百二十八分で食限に入る。
定公五年丙申の歳。春三月辛亥の朔、日に食あり。
今の暦これを推すに、三月辛卯の朔、加時に昼に在り、交分十四日三百三十四分にして食限に入る。
今の暦これを推すに、是の歳十月丙寅の朔、加時に昼に在り、交分十四日二千六百二十二分にして食限に入る。蓋し一閏を失えるなり。
定公十五年丙午の歳、八月庚辰の朔、日に食あり。
今の暦これを推すに、是の月庚辰の朔、加時に昼に在り、交分十三日七千六百八十五分にして食限に入る。
哀公十四年庚申の歳、夏五月庚申の朔、日に食あり。
今の暦これを推すに、是の月庚申の朔、加時に昼に在り、交分二十六日九千二百一分にして食限に入る。
三国以来の日食
授時暦、食甚は未五刻。
大明暦、食甚は未五刻。
右皆親。二暦推すに戊辰皆七月の朔。
授時暦では、食甚は申の二刻。
大明暦では、食甚は申の三刻。
右は授時暦が親(観測に近く)、大明暦が次親。二つの暦法は庚申の日をいずれも十二月の朔日と推算する。
梁の中大通五年癸丑、四月己未朔の日食、丙の方位にあり。
授時暦では、虧初は午の四刻。
大明暦では、虧初は午の四刻。
右は皆、親。
授時暦では、食甚は申の一刻。
大明暦では、食甚は申の三刻。
右は授時暦が次親、大明暦が親。
陳の太建八年丙申、六月戊申朔の日食、卯と甲の間にあり。
授時暦では、食甚は卯の二刻。
大明暦では、食甚は卯の四刻。
右は授時暦が次親、大明暦が疏遠。
授時暦によれば、食甚は巳の七刻。
大明暦によれば、食甚は巳の五刻。
右は授時暦が密接、大明暦が疎遠。
授時暦によれば、食甚は辰正三刻。
大明暦によれば、食甚は辰正一刻。
右は授時暦が密接、大明暦が疎遠。
嗣聖八年辛卯(692年)、四月壬寅朔(一日)に日食あり、卯の二刻に食甚。
授時暦によれば、食甚は寅の八刻。
大明暦によれば、食甚は卯の初刻。
右は皆、次に密接。
十七年庚子(700年)、五月己酉朔(一日)に日食あり、申の初めに食甚。
授時暦によれば、食甚は申初二刻。
大明暦によれば、食甚は申正初刻。
右は授時暦が親しく、大明暦が疎遠である。
十九年壬寅、九月乙丑朔の食、申三刻に甚だし。
授時暦は、食甚は申一刻。
大明暦は、食甚は申四刻。
右は授時暦が親しく、大明暦が親しい。
授時暦は、食甚は午正二刻。
大明暦は、食甚は未初初刻。
右は授時暦が親しく、大明暦が疎遠である。
開元(元)〔九〕年辛酉、九月乙巳朔の食、午正後三刻に甚だし。
授時暦は、食甚は午正一刻。
大明暦は、食甚は午正二刻。
右は授時暦が親しく、大明暦が親しい。
宋慶曆六年丙戌、三月辛巳朔の食、申正三刻に復満す。
授時暦は、復満は申正三刻。
大明暦では、復満(食の終わり)が申正一刻(午後4時15分)である。
右は授時暦が密合(最もよく合う)し、大明暦が次親(次によく合う)である。
授時暦では、食甚は午初三刻(午前11時45分)である。
大明暦では、食甚は午正初刻(正午)である。
右は授時暦が親(よく合う)で、大明暦が密合である。
五年癸巳歳(1053年)、十月丙申朔(1日)に日食があり、食甚は未一刻(午後1時15分)である。
授時暦では、食甚は未三刻(午後1時45分)である。
大明暦では、食甚は未初刻(午後1時)である。
右は授時暦が次親で、大明暦が親である。
授時暦では、食甚は申正一刻(午後4時15分)である。
大明暦では、食甚は申正二刻(午後4時30分)である。
右は授時暦が密合で、大明暦が親である。
嘉祐四年己亥(1059年)、正月丙申朔(1日)に日食があり、復満は未三刻(午後1時45分)である。
授時暦では、復円は未の初刻の二刻である。
大明暦では、復円は未の初刻の二刻である。
右は皆、密合している。
六年辛丑、六月壬子朔の食、未の初刻に虧初。
授時暦では、虧初は未の初刻である。
大明暦では、虧初は未の一刻である。
右は授時暦が密合、大明暦が次に密合。
授時暦では、食甚は未の三刻である。
大明暦では、食甚は未の四刻である。
右は授時暦が密合、大明暦が次に密合。
授時暦では、食甚は辰の五刻である。
大明暦では、食甚は辰の四刻である。
右は授時暦が次に密合、大明暦が密合。
授時暦は、食甚は巳五刻。
大明暦は、食甚は巳二刻。
右は授時暦が親しく、大明暦が疎遠なり。
授時暦は、食甚は未五刻。
大明暦は、食甚は未五刻。
右は皆親し。
授時暦は、虧初は未三刻、食甚は申初刻、復満は申六刻。
大明暦は、虧初は未初刻、食甚は未七刻、復満は申五刻。
右は授時暦の虧初・食甚は皆親しく、復満は密合す。大明暦の虧初は次に親しく、食甚・復満は皆親し。
授時暦は、虧初は申一刻。
大明暦は、虧初は未七刻。
右は皆、親(近し)。
淳熙十年癸卯、十一月壬戌朔の食、巳正二刻に甚だし。
授時暦、食甚は巳正二刻。
大明暦、食甚は巳正一刻。
右は授時暦が密合し、大明暦は親(近し)。
授時暦、虧初は午初一刻。
大明暦、虧初は午初二刻。
右は授時暦の虧初が親(近く)、大明暦の虧初は密合す。
授時暦、虧初は巳正三刻。
大明暦、虧初は午初三刻。
右は皆、親(近し)。
嘉定九年丙子、二月甲申朔の食、申正四刻に甚だし。
授時暦、食甚は申正三刻。
大明暦では、食甚は申正二刻である。
右は授時暦が密合、大明暦が次密合。
授時暦では、食甚は巳初一刻。
大明暦では、食甚は巳初初刻。
右は授時暦が密合、大明暦が次密合。
授時暦では、食甚は申正一刻。
大明暦では、食甚は申初三刻。
右は授時暦が密合、大明暦が疏。
至元十四年丁丑、十月丙辰朔の日食、午正初〔刻〕に虧初、未初一刻に食甚、未正二刻に復満。
授時暦では、虧初は午正初刻、食甚は未初一刻、復満は未正一刻。
大明暦では、虧初は午正三刻、食甚は未正一刻、復満は申初二刻。
右は授時暦は虧初・食甚ともに密合、復満は密合;大明暦は虧初が疏、食甚・復満ともに疏遠。
前代の月食
宋の元嘉十一年甲戌、七月丙子の望(満月)に食あり、四更二唱に虧初、四更四唱に食既。
授時暦では、虧初は四更三點、食既は四更四點。
大明暦では、虧初は四更二點、食既は四更五點。
右、授時暦は虧初が親(近似)、食既が密合;大明暦は虧初が密合、食既が親。
一更三唱に食既。
授時暦では、食既は一更三點。
大明暦では、食既は一更四點。
右、授時暦は密合、大明暦は親。
十四年丁丑、十一月丁亥の望に食あり、二更四唱に虧初、三更一唱に食既。
授時暦では、虧初は二更五點、食既は三更二點。
大明暦では、虧初は二更四點、食既は三更二點。
右、授時暦は虧初・食既ともに親;大明暦は虧初が密合、食既が親。
授時暦では、食甚は子正初刻に在る。
大明暦では、食甚は子正初刻に在る。
右は皆密合す。
大同九年癸亥、三月乙巳の望食、三更三唱に虧初す。
授時暦では、虧初は三更一点なり。
大明暦では、虧初は三更三点なり。
右は授時が次親、大明は密合す。
授時暦では、虧初は一更四点に在り。
大明暦では、虧初は一更五点に在り。
右は授時が親、大明が次親なり。
十五年乙卯、十一月庚午の望食、一更四点に虧初し、二更三点に食甚し、三更一点に復満す。
授時暦では、虧初は一更三点に在り、食甚は二更二点に在り、復満は二更五点に在り。
大明暦では、虧初は一更五点に在り、食甚は二更三点に在り、復満は二更五点に在り。
右は授時は虧初・食甚・復満皆親なり。大明は虧初・復満皆親、食甚は密合す。
十六年丙戌、十一月甲子の望食、四更三籌に復満す。
授時暦は、復満を四更四點とする。
大明暦は、復満を四更五點とする。
右は授時暦が親し、大明暦が次に親し。
授時暦は、虧初を四更五點とする。
大明暦は、虧初を四更一點とする。
右は授時暦が親し、大明暦が次に親し。
宋皇祐四年壬辰、十一月丙辰の望食、寅四刻に虧初す。
授時暦は、虧初を寅二刻とする。
大明暦は、虧初を寅一刻とする。
右は授時暦が次に親し、大明暦が疎し。
嘉祐八年癸卯、十月癸未の望食、卯七刻に甚だし。
授時暦は、食甚を辰初刻とする。
大明暦は、食甚を辰初刻とする。
右は皆、親(観測と密接に合致)である。
授時曆によれば、虧初は亥六刻、食甚は子五刻、復満は丑三刻。
大明曆によれば、虧初は子初刻、食甚は子六刻、復満は丑四刻。
右の授時曆は虧初・食甚が密合(極めて密接に合致)、復満が親;大明曆は虧初次親(次いで密接)、食甚が親、復満が密合。
四年辛亥、十一月丙申の望の食、卯二刻に虧初、卯六刻に食甚。
授時曆によれば、虧初は卯初刻、食甚は卯五刻。
大明曆によれば、虧初は卯四刻、食甚は卯七刻。
右は虧初が皆次親、食甚が皆親。
六年癸丑、三月戊午の望の食、亥一刻に虧初、亥六刻に食甚、子四刻に復満。
授時曆によれば、虧初は戌七刻、食甚は亥五刻、復満は子三刻。
大明曆によれば、虧初は亥二刻、食甚は亥七刻、復満は子四刻。
右の授時曆は虧初次親、食甚・復満が皆親;大明曆は虧初・食甚が皆親、復満が密合。
七年甲寅、九月己酉の望の食、四更五點に虧初、五更三點に食既(皆既食の始まり)。
授時曆によれば、虧初は四更五點、食既は五更三點。
大明暦では、虧初が四更三點、食既が五更二點。
右の授時暦の虧初・食既はともに密合する。大明暦の虧初は次親、食既は親。
崇寧四年乙酉、十二月戊寅の望食、酉三刻に甚、戌初刻に復滿。
授時暦では、食甚が酉一刻、復滿が酉七刻。
大明暦では、食甚が酉三刻、復滿が戌二刻。
右の授時暦の食甚・復滿はともに次親。大明暦の食甚は密合、復滿は次親。
本朝至元七年庚午、三月乙卯の望食、丑三刻に虧初、寅初刻に食甚、寅六刻に復滿。
授時暦では、虧初が丑二刻、食甚が寅初刻、復滿が寅六刻。
大明暦では、虧初が丑四刻、食甚が寅一刻、復滿が寅七刻。
右の授時暦の虧初は親、食甚・復滿は密合。大明暦の虧初・食甚・復滿はともに親。
九年壬申、七月辛未の望食、丑初刻に虧初、丑六刻に食甚、寅三刻に復滿。
授時暦では、虧初が子七刻、食甚が丑四刻、復滿が寅一刻。
大明暦では、虧初が丑二刻、食甚が丑六刻、復滿が寅二刻。
右の授時暦の虧初は親、食甚・復滿はともに次親。大明暦の虧初は次親、食甚は密合、復滿は親。
十四年丁丑、四月癸酉の望食、子六刻に虧初、丑三刻に食既、丑五刻に甚、丑七刻に生光、寅四刻に復滿。
授時暦では、初虧が子の六刻、食既が丑の四刻、食甚が丑の五刻、生光が丑の六刻、復円が寅の四刻。
大明暦では、初虧が丑の初刻、食既が丑の七刻、食甚が丑の七刻、生光が丑の八刻、復円が寅の六刻。
右の授時暦は、初虧・食甚・復円が皆密合し、食既・生光が皆親である。大明暦は、初虧・食甚・復円が皆次親であり、食既は疏遠、生光は親である。
十六年己卯、二月癸酉の望食は、子の五刻に初虧、丑の二刻に食甚、丑の七刻に復円。
授時暦では、初虧が子の五刻、食甚が丑の二刻、復円が丑の七刻。
大明暦では、初虧が子の七刻、食甚が丑の三刻、復円が丑の七刻。
右の授時暦は、初虧・食甚・復円が皆密合する。大明暦は、初虧が次親、食甚が親、復円が密合する。
八月己丑の望食は、丑の五刻に初虧、寅の初刻に食甚、寅の四刻に復円。
授時暦では、初虧が丑の三刻、食甚が寅の初刻、復円が寅の四刻。
大明暦では、初虧が丑の七刻、食甚が寅の二刻、復円が寅の四刻。
右の授時暦は、初虧が次親、食甚・復円が皆密合する。大明暦は、初虧・食甚が皆次親、復円が密合する。
十七年庚辰、八月甲申の望食は、昼間にあり、戌の一刻に復円。
授時暦では、復円が戌の一刻。
大明暦では、復円が戌の四刻。
右の授時暦は密合し、大明暦は疏である。
以上四十五事:密合するものは、授時暦に十八、大明暦に十一;親(近い)ものは、授時暦に十八、大明暦に十七;次親(やや近い)ものは、授時暦に九、大明暦に十四;疏(遠い)ものは、授時暦に無く、大明暦に二;疏遠(最も遠い)ものは、授時暦に無く、大明暦に一。
定朔
太陽は一日に一度平行し、月は一日に十三度と十九分度の七平行する。一昼夜の間に、月は太陽より十二度余り先を行き、二十九日五十三刻を経て再び太陽に追いつき、これと同度となる。これを経朔という。経朔とは、合朔の大略がこれより出ないことをいう。太陽には盈縮があり、月には遅疾がある。この盈縮遅疾の数によって損益し、初めて定朔となる。
初め暦法は平朔を用い、ただ一大一小を知るのみで、法の易え難きことを知り、初めて三大二小の説を聞いて、皆然りとせざる所であった。暦有って以来、下って麟徳に至り、定朔が初めて行われ、四大三小は理数自然である。唐人天に若くすること能わず、ただ平朔を用いるに止まった。本朝至元に至って、漸く常議が革められた。進朔の意に至っては、ただ晦日の月見を避けんとするのみで、殊に合朔が酉戌亥にある時、前日の卯より十八九辰を距たっていることを思わない。もし一日を進めれば、則ち晦に月を見ず、この論は誠に然り。もし合朔が辰申の間にある時、法は進むべからず、前日の卯より已に十四五度を踰えているならば、則ち月は晦に見え、どうして免れられようか。且つ月の隠見は、本来天道の自然であり、朔の進退は、人の為す牽強に出る。孰れか人を廃して天を用い、再び虚進せず、その実を得るに若くはあらんや。至理の所在、何ぞ人言を恤れん、知者に道うべきなり。
積年日法を用いず
暦法の作る所以は、日月の躔離を歩み、気朔の盈虚を候うためである。その端を揆えざれば、天道を測知してこれと脗合する術なし。然るに日月の運行は遅速同じからず、気朔の運転は参差不一である。昔人の立法は、必ず往古の生数の始まりを推求し、これを演紀上元と謂う。この際に当たり、日月五星は同度となり、合璧連珠の如し。ただその世代は綿遠で、その数を馴積して億万を踰えるに至る。後人はその布算繁多を厭い、互いに推考し、その数を断截して日法を増損し、改憲の術を得たりと為す。これが歴代の積年日法が同じからざる所以である。然るに行うこと未だ遠からずして、漸く差失を復す。蓋し天道は自然であり、人の為す附会が苟くも合する所であろうか。夫れ七政は天に運行し、進退自ら常度有り。もし原始要終し、候験周匝すれば、則ち象数は昭著で、隠すこと許されざる者あり。又何必に目前の簡易の法を捨てて、億万年の宏闊の術を求めんや。
今授時暦は至元辛巳を元とし、用いる数は、一に諸天に本づき、秒より分、分より刻、刻より日、皆百を率とす。これに比べれば、他の暦の積年日法は、推演附会して人の為すに出るもので、自然を得たりとは為し難い。
或いは曰く、「昔人は暦を建つるの本は、必ず先ず元を立て、元正して然る後に日法を定め、法定して然る後に周天を度り分至を定む、と謂う。然らば則ち暦に積年日法有ることは尚(久)し。黄帝以来、諸暦は転相祖述し、殆ど七八十家、これを捨てて能く成るを聞かず。今一切これを削去するは、本原に昧くして、考求未だその方を得ざるに非ずや」と。これは殆ど然らず。晋の杜預に云う有り、「暦を治むる者は、当に天に順いて以て合を求め、合を為して以て天を験すに非ず」と。前代の演積の法は、合して天を験する為に過ぎない。今旧暦頗る疏なるを以て、乃ち厘正を命ず。法の密ならざるは、必ず更むべき所に在り。何ぞ暇あって故習を踵がんや。遂に漢以来の諸暦の積年日法及び行用年数を取り、具に後に列し、仍演積数法を附し、以て或者の疑いを解く。
積年、一十四万四千五百一十一。
日法、八十一。
積年、一万五百六十一。
日法、四。
乾象暦は建安十一年丙戌(206年)に劉洪が造り、三十一年間施行され、魏の景初丁巳(237年)に至り、七刻後天した。
積年は八千四百五十二。
日法は一千四百五十七。
積年は五千八十九。
日法は四千五百五十九。
元嘉暦は宋の元嘉二十年癸未(443年)に何承天が造り、二十年間施行され、大明七年癸卯(463年)に至り、五十刻先天した。
積年は六千五百四十一。
日法は七百五十二。
大明暦は宋の大明七年癸卯(463年)に宋の祖冲之が造り、五十八年間施行され、魏の正光辛丑(521年)に至り、二十九刻後天した。
積年は五萬二千七百五十七。
日法は三千九百三十九。
積年は一十六萬八千五百九。
日法は七萬四千九百五十二。
積年は二十万四千七百三十七。
日法は二十万八千五百三十。
積年は十一万一千二百五十七。
日法は二万三千六百六十。
積年は八十七万六千五百七。
日法は二万三千四百六十。
積年は四万二千二百五十五。
日法は一万二千九百九十二。
開皇暦は隋の開皇四年甲辰に張賓が造り、二十四年間施行され、大業戊辰に至り、七刻後天す。
積年は四百十二万九千六百九十七。
日法は十万二千九百六十。
大業暦は大業四年戊辰に張冑玄が造り、十一年間施行され、唐の武徳己卯に至り、七刻後天す。
積年、一百四十二萬八千三百一十七。
日法、一千一百四十四。
積年、一十六萬五千三。
日法、一萬三千六(百)。
積年、二十七萬四百九十七。
日法、一千三百四十。
大衍暦は開元十六年戊辰に僧一行が造り、三十四年間施行され、宝応壬寅に至り、一十三刻先天す。
積年、九千六百九十六萬二千二百九十七。
日法、三千四十。
積年、二十七萬四百九十七。
日法、一千三百四十。
積年は四十万三千三百九十七。
日法は一千九十五。
積年は七百七万五百九十七。
日法は八千四百。
積年は五千三百九十四万七千六百九十七。
日法は一万三千五百。
積年は七千二百六十九万八千七百七十七。
日法は七千二百。
積年は四百八十二万五千八百七十七。
日法は一万単二。
乾元暦は太平興国六年辛巳に呉昭素が造り、二十年間施行され、咸平辛丑に至り、合致した。
積年は三千五十四万四千二百七十七。
日法は二千九百四十。
積年は七十一万六千七百七十七。
日法は一万一百。
積年は九千七百五十五万六千五百九十七。
日法は一万五百九十。
積年は七十一万一千九百七十七。
日法は三万九千。
奉元暦は熙寧七年甲寅に衛朴が造り、十八年間施行され、元祐壬申に至り、後天七刻となった。
積年は八千三百一十八万五千二百七十七。
日法は二万三千七百。
観天暦は元祐七年壬申に皇居卿が造り、十一年間施行され、崇寧癸未に至り、先天六刻。
積年、五百九十四万四千九百九十七。
日法、一万二千三十。
積年、二千五百五十万一千九百三十七。
日法、二万八千八十。
紀元暦は崇寧五年丙戌に姚舜輔が造り、二十一年間施行され、金の天会丁未に至り、合。
積年、二千八百六十一万三千四百六十七。
日法、七千二百九十。
積年、三億八千三百七十六万八千六百五十七。
日法、五千二百三十。
重修大明暦は大定二十年庚子に趙知微が重修し、百一年間施行され、元朝の至元辛巳に至り、後天一十九刻。
積年、八千八百六十三万九千七百五十七。
日法、五千二百三十。
積年は九千四百二十五万一千七百三十七。
日法は六千九百三十。
積年は九千一百六十四万五千九百三十七。
日法は三万。
積年は五千二百四十二万二千七十七。
日法は五千六百四十。
積年は二千五百四十九万四千八百五十七。
日法は三万八千七百。
統天暦は慶元五年己未に楊忠輔が造り、八年行用され、開禧丁卯に至り、先天六刻。
積年は三千九百一十七。
日法は一万二千。
積年は、七百八十四万八千二百五十七。
日法は、一万六千九百。
淳祐暦は淳祐十年庚戌(1250年)に李德卿が造り、一年間施行され、壬子(1252年)に合致した。
積年は、一億二千二十六万七千六百七十七。
日法は、三千五百三十。
積年は、一千百三十五万六千百五十七。
日法は、九千七百四十。
成天暦は咸淳七年辛未(1271年)に陳鼎が造り、四年間施行され、至元辛巳(1281年)に至り、天象より一刻遅れた。
積年は、七千百七十五万八千百五十七。
日法は、七千四百二十。
これ以下は施行されず、典籍に記載され朝廷に進呈された暦が二つある。
積年は、百万九千五百十七。
日法は、一千二百四十二。
乙未暦は大定二十年庚子に耶律履が造ったが、行用されず、辛巳に至り、後天十九刻。
積年は、四千四十五萬三千一百二十六。
日法は、二萬六百九十。
授時暦は元至元十八年辛巳を元とする。
積年と日法を用いない。
実測により至元十八年辛巳の歳を得る。
気応は、五十五日六百分。
閏応は、二十日一千八百五十分。
経朔は、三十四日八千七百五十分。
日法は二千一百九十、演紀上元己亥、至元辛巳より九千八百二十五萬一千四百二十二算を距る。
気応は、五十五日六百二分。
閏応は、二十日一千八百五十三分。
経朔は、三十四日八千七百四十九分。
日法は八千二百七十、演紀上元甲子、辛巳より五百六十七萬五百五十七算を距り、日は甲子を命ず。
気応、五十五日五百三十三分。
閏応、二十日一千八百八分。
経朔、三十四日八千七百二十五分。
日法、六千五百七十、演紀上元甲子、辛巳より距ること三千九百七十五萬二千五百三十七算。
気応、五十五日六百三十一分。
閏応、二十日一千九百一十九分。
経朔、三十四日八千七百十二分。