元史

本紀第三十八: 順帝一

順帝は諱を妥懽貼睦爾といい、明宗の長子である。母は罕祿魯氏、名は邁來迪、郡王阿児厮蘭の裔孫である。初め、太祖が西北諸国を取った時、阿児厮蘭はその衆を率いて降伏し、そこで郡王に封ぜられ、その部族を統領させた。明宗が北狩の際、その地を過ぎ、罕祿魯氏を娶った。延祐七年四月丙寅、帝は北方に生まれた。

泰定帝の崩御に当たり、太師燕鐵木兒は諸王・大臣と共に文宗を迎え立てた。文宗が即位すると、明宗が嫡長であることを以て、再び使者を遣わして迎え立てた。明宗は和寧の北で即位し、文宗を皇太子に立てた。明宗が崩ずると、文宗は再び正位に即いた。至順元年四月辛丑、明宗后八不沙が讒言に遭い害され、そこで帝を高麗に移し、大青島の中に居住させ、人と接触させなかった。一年を経て、再び天下に詔し、明宗が朔漠に在った時、平素より己が子ではないと言っていたとし、広西の静江に移した。

元統元年

三年八月己酉、文宗が崩御し、燕鐵木兒は文宗后に太子燕帖古思を立てるよう請うたが、后は従わず、明宗の次子懿璘只班を立てるよう命じ、これが寧宗である。十一月壬辰、寧宗が崩御し、燕鐵木兒は再び燕帖古思を立てるよう請うた。文宗后は言った、「我が子はまだ幼い。妥懽貼睦爾は広西に在り、今年十三歳である。かつ明宗の長子であり、礼として彼を立てるべきである」と。そこで中書右丞闊里吉思をして静江より帝を迎えさせた。良郷に至り、鹵簿を整えてこれを迎えた。燕鐵木兒は帝に会うと、馬を並べてゆっくり行き、迎え立てる旨を詳しく述べたが、帝は幼くかつ彼を畏れ、一言も答えなかった。そこで燕鐵木兒は彼を疑った。故に帝は京に至っても、長らく立つことができなかった。丁度太史もまた帝を立てるべからず、立てれば天下乱れると言ったので、議論は決しなかった。数ヶ月遷延し、国事は全て燕鐵木児が決し、文宗后に奏してこれを行った。やがて燕鐵木兒が死ぬと、后は大臣と議を定めて帝を立て、かつ言った、「万歳の後は、その位を燕帖古思に伝えよ、武宗・仁宗の故事の如くに」と。諸王宗戚は璽綬を奉りて進むを勧めた。

至順四年

四年六月己巳、帝は上都において即位し、詔して曰く、

大いなるかな我が太祖皇帝は、天より命を受け、区夏を肇造し、世祖皇帝は四海を奄有し、治功大いに備わり、列聖相伝え、前烈を丕承した。我が皇祖武宗皇帝は大統に入り継ぎ、致和の末に及び、皇考明宗皇帝は遠く朔漠に居し、札牙篤皇帝は内難を戡定し、天下を譲った。我が皇考が賓天すると、札牙篤皇帝は再び宸極を正した。治化まさに隆んにせんとする時、臣庶を奄かに棄てた。

今、皇太后は大臣燕鐵木兒・伯顔らを召して言うには、「昔、闊徹〔伯〕・脫脫木兒・只児哈郎らが謀逆し、明宗の太子を名目とし、また先に八不沙が妬忌より始め、妄りに誣言を構え、骨肉を疏離した。逆臣らは既にその罪を正したので、太子は遂に外に遷された。札牙篤皇帝は後にその妄りたるを知った。尋ねて大漸に至り、顧命に曰く、『朕の大位は、朕の兄の子を以てこれに継がしめよ』とあった」と。時に朕は南服に遠征していたので、朕の弟懿璘只班をして大位に登らせ、百姓を安んじたが、乃ち急に大故に至った。皇太后は札牙篤皇帝の遺意を体して承け、武宗皇帝の元孫、明宗皇帝の世嫡たる者を、賢を以て長を以て、予一人に在りとし、使者を遣わして迎え還した。宗室諸王を徴集して来会せしめ、合辞して推戴した。今、皇太后の勉進の篤きを奉じ、宗親大臣の懇請の至りに依り、至順四年六月初八日をもって、皇帝の位に即く。

ああ、天と祖宗とが全く予に家を付す、慄慄として危懼し、淵氷を渉るが若く、済う所を知らず。尚お宗親臣隣の頼みとし、交わりて及ばざるを修め、以て隆平に至らしめん。その天下を赦す。

時に阿魯輝帖木兒という者がいた。明宗の親臣で、帝に言うには、「天下の事は重く、宜しく宰相に委ねてこれを決せしめ、庶幾くばその成功を責め得べし。若し躬自ら聴断すれば、則ち必ず悪名を負わん」と。帝はこれを信じた。ここにより深く宮中に居し、毎事専らにする所無かった。辛未、伯顔を太師・中書右丞相・上柱国・監修国史とし、奎章閣大学士を兼ね、学士院・太史院・回回・漢人司天監事を領せしめ、撒敦を太傅・左丞相とした。この月、大いに霖雨し、京畿の水は平地より丈余に及び、飢民四十余万、詔して鈔四万錠を以てこれを賑恤した。涇河が溢れ、関中に水災あり。黄河が大いに溢れ、河南に水災あり。両淮は旱魃し、民大いに飢えた。

秋七月、霖雨。潮州路に水害あり。己亥、太陰、房宿を犯す。

八月壬申、鞏昌徽州に山崩れあり。この月、燕鐵木兒の女伯牙吾氏を立てて皇后とした。

九月甲午、太陰、填星を犯す。乙未、太陰、天江を犯す。甲寅、中書省臣言う、「官員の遞陞は、選法を窒礙す。今請う、省・院・臺の官を除く外、その余は遞陞を許さざらん」と。これに従う。丁巳、太陰、填星を犯す。己未、太陰、氐宿を犯す。庚申、詔して太師・右丞相伯顔、太傅・左丞相撒敦に、専ら国家の大事を理めしめ、その余の官は三職を兼領することを得ざらしむ。秦州に山崩れあり。寧夏の飢民五万三千人を一月賑恤す。詔して儒人の役を免ず。

冬十月甲子、太陰が斗宿を犯す。丙寅、鳳州に山崩れ。戊辰、元号を改め、詔して曰く:

昔、世祖皇帝は大業を継ぎ開き、古を考へて元号を建て、経を立て紀を陳べ、列聖相継ぎ、謹んで成憲を導く。今、予沖人、大統を嗣ぎ、治を図るの初めに当たり、民と共に更始を嘉する。乃ち新たに紀号を定め、広く諸方に告ぐ。至順四年を以て元統元年と為す。嗚呼!一元は四時に運び、裁成の有道なるを惟う。大統は万世に綿き、保佑の無疆なるを思う。

中書省臣言う:「朝賀に雨に遇へば、便服にて礼を行ふことを請ふ。」従ふ。己巳、知樞密院事・答剌罕答里に金紫光禄大夫を加ふ。庚午、詔して察罕脳児宣慰司の人民は、只だ徽政院の差発に応当せしむ。癸酉、雲南𠎺羅の土官渾鄧馬弄、方物を貢ぎ来る。詔して其の地を散府に陞立す。丁丑、皇太后の行年の数に依り、罪囚二十七人を釈放す。庚辰、文宗皇帝及び太皇太后の御容を大承天護聖寺に奉安す。左丞相撒敦を隆祥使と為し、其の祭祀を奉ぜしむ。乙酉、詔して高郵府を伯顔の食邑と為す。戊子、撒敦を栄王に封じ、食邑を廬州に賜ふ。唐其勢、父の封を襲ぎ太平王と為り、金紫光禄大夫に進階す。庚寅、中書省臣、武宗・英宗・明宗三朝の皇后の陞祔を集議することを請ふ。

十一月辛卯朔、富州の金課を罷む。甲午、太陰が壘壁陣を犯す。丙申、鞏昌成紀県に地裂け山崩る。有司をして被災人民を賑はしむ。丁酉、太廟に享く。辛丑、棕毛殿を起す。丙午、塩運司を申飭す。辛亥、江西・湖広・江浙・河南に復た榷茶運司を立つ。札牙篤皇帝を追諡して聖明元孝皇帝と為し、廟号を文宗とす。時に寢廟未だ建たず、英宗室の次に権て綵殿を結び、以て神主を奉安す。伯顔を秦王に封じ、金印を賜ふ。是の日、秦州に山崩れ地裂く。夜、太陰が太微東垣上相を犯す。壬子、太陰が填星を犯す。癸丑、太陰が亢宿を犯す。乙卯、燕鉄木児に平江に賜はりし田五百頃を、復た其の子唐其勢に賜ふ。河間大報恩寺諸色人匠総管府を罷む。江浙旱饑、義倉糧を発し、富人を募り粟を入れて以て之を賑ふ。詔して秦王・右丞相伯顔、栄王・左丞相撒敦、百官を統べ、庶政を総べしむ。

十二月庚申朔、伯顔に彰徳威武えいを提調せしむ。乙丑、広西徭、湖南を寇し、道州を陥とす。千戸郭震戦死し、寇は焚掠して去る。壬申、省・臺官を遣はし分ちて天下の囚を理めしむ。罪状明かなる者は処決し、冤なる者は之を辨し、疑はしき者は之を讞じ、淹滞する者は其の有司を罪す。奴列你他を以て其の父塔剌赤に代へて耽羅国軍民安撫使司達魯花赤と為し、三珠虎符を賜ふ。癸酉、太陰が鬼宿を犯す。甲戌、禿堅帖木児致仕し、太尉の印を賜ひ、僚属を置く。乙亥、皇太后の為に徽政院を置き、官属三百六十六員を設く。太白が壘壁陣を犯す。太陰が軒轅を犯す。己卯、太陰が進賢を犯す。癸未、太陰が東咸を犯す。

元統二年

元統二年春正月庚寅朔、汴梁に雨血し、衣を着すれば皆赤し。辛卯、東平須城県・済寧済州・曹州済陰県水災、民饑ふ。詔して鈔六万錠を以て之を賑ふ。御史大夫脱別台を中書平章政事と為し、阿里海牙を河南行省左丞相と為す。丁酉、太廟に享く。戊戌、四川大盤洞蛮の謀谷什用、男謀者什用を遣はして方物を貢ぐ。即ち其の地に盤順府を立て、謀谷什用を知府と為す。吏部尚書帖住・礼部郎中智熙善を遣はし交趾に使はし、授時暦を以て之を賜ふ。太陰が軒轅を犯す。癸卯、僧道と民と一体に役に充つるを敕す。己酉、上りし文宗皇帝の諡号を以て、官を遣はし南郊に告祭す。庚戌、太陰が房宿を犯す。甲寅、広教総管府を罷め、行宣政院を立つ。乙卯、雲南土酋姚安路総管高明、方物を献じ来る。符印を賜ひて之を遣す。

二月己未朔、詔して内外に学校を興挙す。癸亥、広西徭辺を寇し、官吏を殺す。広海の官已に除され而未だ上らざる者は之を罪す。甲子、塞北東涼亭に雹、民饑ふ。詔して上都留守に倉廩を発して之を賑はしむ。乙丑、有司をして時に宿衞の冬衣を給せしむ。燕不隣を太保と為し、僚属を置く。戊辰、也真也不干を昌寧王に封じ、金印を賜ふ。癸酉、太陰が太微上相を犯す。丁丑、皇姑妥妥輝を英寿大長公主に封ず。癸未、安豊路旱饑、有司を敕し麦一万六千七百石を賑糶せしむ。甲申、太廟の木陛壊る。官を遣はし告祭す。丁亥、太白天を経る。是の月、灤河・漆河溢れ、永平諸県水災、鈔五千錠を賑ふ。瑞州路水、米一万石を賑ふ。

三月己丑朔、詔す:「科挙に士を取る、国子学積分・饍学銭糧、儒人の免役、悉く累朝の旧制に依る。学校の官は德行学問有る人を選び以て充つ。」辛卯、陰陽家の言に依り、造作を四年罷む。太陰が填星を犯す。癸巳、広西徭賊復た起り、同知元帥吉烈思を殺し、庫物を掠む。右丞禿魯迷失を遣はし兵を将ひて之を討たしむ。復た西番巡捕都元帥府を立つ。広誼司を罷め、復た覆実司を立つ。吉烈思に官を贈り、其の子孫に職を襲はしむ。庚子、杭州・鎮江・嘉興・常州・松江・江陰に水旱疾疫有り。有司を敕し義倉糧を発し、饑民五十七万二千戸を賑ふ。癸卯、月食既。甲辰、中書省臣言う:「興和路に仏事を起建す。一路の費、鈔一万三千五百三十余錠に為る。上都・大都の例に依り、饍僧銭を給し、其の冗費を節せんことを請ふ。」従ふ。乙巳、中書省臣言う:「益都・真定に盗起る。省・院官を選び往き督捕せしめ、仍ほ能く擒獲する者を募りて其の賞を倍にし、三人を獲る者に一官を与へんことを請ふ。」従ふ。丁未、河南行省左丞相阿里海牙を江浙行省左丞相と為す。壬子、広西慶遠府の徭賊、全州を寇す。詔して平章政事探馬赤に兵二万人を統べしめて之を撃たしむ。丁巳、詔す:「蒙古・色目、奸盗詐偽の罪を犯す者は、宗正府に隷す。漢人・南人の犯す者は、有司に属す。」是の月、山東霖雨、水湧き、民饑ふ。米二万二千石を賑糶す。淮西饑、米二万石を賑糶す。湖広旱、是の月より雨なくして八月に至る。

夏四月戊午朔、日食あり。庚申、宗室の蠻子を文濟王に封ず。乙丑、順元等処軍民宣撫使・八番等処沿辺宣慰使伯顏溥花に父の職を承襲せしむ。丙寅、龍慶州黒峪道上の勝火児站を罷む。庚午、詔す「雲南出征の軍士にして亡歿する者は、人ごとに鈔二錠を賜ひて以て葬らしむ」と。壬申、唐其勢を総管高麗女直漢軍萬戸府達魯花赤と為し、馬札児台と並びて御史大夫と為す。丁丑、太白天を経る。戊寅、太白昼に見ゆ。己卯、奉聖明元孝皇帝文宗の神主を太廟に祔し、躬ら告祭の礼を行ひ、楽は宮懸を用ひ、礼は三献。是に先立ち御史臺臣言ふ「郊廟は国の大典、王者必ず親祀の礼を行ふ所以は、尊尊・親親の誠を尽くすにあり、宜しく陞祔に因りて、太廟に事有るべし」と。帝之に従ふ。是日、夏季の時享を罷む。詔して栄王・左丞相撒敦に開府儀同三司・上柱国・録軍国重事を加へ、食邑を廬州に賜ふ。杭州四隅録事司を復立す。太白昼に見ゆ。壬午、復た如し。帝、許衡の世祖を輔へて以て一天下を殺さざるを嘉し、特に関孫の従宗を録して章佩監異珍庫提点と為す。癸未、塩局を京師の南北城に立て、官自ら塩を売り、専利の弊を革む。乙酉、中書省臣言ふ「仏事の布施、費用太だ広し、世祖の時に較ぶれば、歳に金三十八錠・銀二百三錠四十両・繒帛六万一千六百余匹・鈔二万九千二百五十余錠を増す。累朝の期年忌日の外は、余は皆罷めんことを請ふ」と。之に従ふ。是月、車駕時に上都に巡幸す。益都・東平路水あり、酒禁を設く。大名路桑麦の災あり。成州旱饑、詔して庫鈔を出し及び常平倉米を発して之を賑す。河南旱、是の月より雨なくして八月に至る。

五月己丑、詔して威武西寧王阿哈伯の子亦里黒赤に其の父の封を襲がしむ。宦者孛羅帖木児、皇后の旨を伝へ、塩十万引を取って中政院に入る。辛卯、唐其勢を以て撒敦に代はり中書左丞相と為し、撒敦は仍商量中書省事。壬辰、中書平章政事撒的をして蒙古国子監を領せしむ。癸巳、洪教提点所を罷む。戊申、詔して文濟王蠻子をして大名に鎮ましめ、雲南王阿魯をして雲南に鎮ましめ、銀字団牌を給ふ。是月、中書省臣言ふ「江浙大饑、戸を以て計る者五十九万五百六十四、米六万七百石・鈔二千八百錠を発し、及び富人を募りて粟を出さしめ、常平・義倉を発して之を賑し、並びに海運糧七十八万三百七十石を存して以て不虞に備へんことを請ふ」と。之に従ふ。詔す「王侯宗戚の軍站・人匠・鷹房・控鶴、但だ京師諸県に隷する者は、所在の一体之を役せしむ」と。故中書平章政事王泰亨に諡して清憲を贈る。旧令、三品以上の官、朝に立ち大節有り及び王室に大功勳有る者は、功臣号及び諡を賜ふを得。時に寖く冗濫して実を失ふ、惟だ泰亨中書に在りし時、安南仏書を請ふに、九経を以て之に賜はんことを乞ひ、高麗に使して礼遺を受けず、尚書として貧しくして自ら給ふ能はざりし故に、特に関是の諡を賜ふ。漳州万戸府知事闞文興に英毅侯を贈り、妻王氏に貞烈夫人を贈り、廟号を双節とす。

六月丁巳朔、中書省臣言ふ「雲南大理・中慶諸路、曩に脱肩・敗狐の反叛に因り、民多く失業し、災傷を加へ、民饑ゆ、鈔十万錠を発し、官を差し賑恤せんことを請ふ」と。之に従ふ。戊午、淮河漲ぎ、淮安路山陽県満浦・清岡等処の民畜房舍多く漂溺す。丙寅、宣徳府水災、鈔二千錠を出して之を賑す。乙亥、唐其勢左丞相を辞して拝せず、復た撒敦を左丞相と為すを命ず。辛巳、詔して蒙古・色目人に父母の喪を行はしむ。癸未、繕工司を復立し、繒帛を造る。乙酉、燕鉄木児に公忠開済弘謨同徳翊運佐命功臣・開府儀同三司・太師・中書右丞相を贈り、徳王を追封し、諡して忠武とす。是月、彰徳に白毛を雨ふ。大寧・広寧・遼陽・開元・瀋陽・懿州水旱蝗、大饑、詔して鈔二万錠を以てし、官を遣はし之を賑す。

秋七月丁亥、陰陽人に戒めて貴戚の家に於て妄りに禍福を言ふこと毋からしむ。辛卯、太祖・太宗・睿宗三朝の御容を祭る。秋季の時享を罷む。壬辰、帝大安閣に幸す。是日、侍臣を奎章閣に宴す。甲午、太白昼に見ゆ。己亥、太白天を経る。壬寅、詔す「蒙古・色目人盗を犯す者は刺を免ず」と。甲辰、太白天を経る。丙午、復た如し。帝楠木亭に幸す。己酉、太白昼に見ゆ。夜、流星酒盃の如く大、色赤、長さ五尺余、光明地を燭し、天津より起り、離宮の南に没す。庚戌、太白天を経る。壬子、復た如し。夜、熒惑鬼宿を犯す。癸丑・甲寅、太白復た天を経る。是月、池州青陽・銅陵饑、米一千石を発し及び富民を募りて粟を出さしめて之を賑す。

八月丙辰朔、太白天を経る、凡そ四日。戊午、社稷を祭る。癸亥、太白天を経る。丙寅より戊辰に至る、太白復た天を経る。辛未、天下を赦す。京師地震す。鶏鳴山崩れ、陷ちて池と為る、方百里、人死する者甚だ衆し。是日より甲戌に至る、太白天を経る、丁丑・己卯、復た如し;夜、軒轅を犯す。庚辰より壬午に至る、太白復た天を経る。癸未、中書平章政事阿里海牙罷む。是月、南康路諸県旱蝗、民饑、米十二万三千石を以て之を賑糶す。

九月庚寅、太白天を経る。辛卯、車駕上都より還る。壬辰、太陰南斗に入る。癸巳、太白霊台を犯す。甲午、太白天を経る。徭賊賀州を陷る、河南・江浙・江西・湖広諸軍及び八番義従軍を発し、広西宣慰使・都元帥章伯顔をして将として以て之を撃たしむ。乙未、太白天を経る。己亥・壬寅、復た如し。乙巳、太白太微垣を犯す。壬子、吉安路水災、民饑、糧二万石を発して賑糶す。夜、太白太微垣を犯す。

冬十月乙卯朔(一日)、内外の官の朝会儀班の順序を正し、すべて品階に従わせた。戊午(四日)、太廟で祭祀を行った。辛酉(七日)、侍御史許有壬を中書参知政事とした。癸亥(九日)、太白星が太微垣の上相星を犯し、また進賢星を犯した。丁卯(十三日)、湖広黎兵屯田万戸府を設置し、千戸所十三箇所を統轄させ、各所の兵は千人、屯戸は五百とし、すべて土人でこれを行わせ、官が田地・牛・種子・農具を与え、その差役徭役を免除した。また武安県を創立した。石山寨巡検司を清水寨に移した。霍丘県淮陰郷臨水山巡検司を設置した。乾寧軍民安撫司を乾寧安撫司と改称した。乙亥(二十一日)、太陰星が軒轅星を犯し、太白星が填星を犯した。己卯(二十五日)、玉冊・玉宝を奉り、皇太后の尊号を上って「賛天開聖仁寿徽懿昭宣皇太后」とした。詔して曰く、「朕は大宝に登り、万方を君臨する。永く大母の擁佑の勤めを思い、神器は安んじ、海宇は寧謐である。実に慈訓の致すところである。ここに衆議を協わせ、再び徽称を挙げようとしたが、皇太后は文宗皇帝が未だ廟に祔せられていないことを以て、至誠謙抑し、允諾を賜わらなかった。今、告祔の礼が成り、また既に一年を経たので、始めてその請いに従う。乃ち吉日を以て尊号を奉上し、普天とともにこの大慶を同じくせんと思う。天下を赦す」。今年の民租の半額を免除した。内外の官で四品以下の者は一資を減じた。天鵝の献上を退けた。癸未(二十九日)、台憲部の官に命じ、それぞれ才能が守令に堪える者一人を挙げさせた。

十一月戊子(四日)、中書省の臣が両䑸船を発して下番させ、皇后のために営利させようと請うた。済南萊蕪県が飢饉となり、官の冶鉄を一年間停止した。辛卯(七日)、行宣政院に廃寺の銭一千錠を賜い、公廨を営ませた。乙未(十一日)、填星が亢宿を犯した。庚戌(二十六日)、熒惑星が太微垣を犯した。この月、鎮南王孛羅不花が来朝した。

十二月、道州永明県白面墟と江華県濤墟に巡検司をそれぞれ一つ設置し、徭賊を鎮圧させた。甲戌(二十一日)、学校を整備するよう詔した。

この年、私的に寺観庵院を創建することを禁じた。僧道が銭五十貫を納めれば、度牒を与え、初めて出家を許した。

至元元年

至元元年春正月癸巳(十一日)、廉訪司に命じて郡県の勧農官の勤惰を察し、大司農司に報告して昇進・降格の根拠とさせた。乙未(十三日)、徽政院の属官である侍正府を設置した。丙午(二十四日)、雲南の婦人が一産で三男を生んだ。

二月甲寅朔(一日)、冗官を廃止した。乙卯(二日)、車駕が柳林で狩猟を行おうとしたところ、御史台の臣が諫めて言った、「陛下は春秋に富み、文皇(文宗)が付託された重責を思い、天下を隆平に致すべきです。況んや今、赤県の民は供給が繁労し、農務がまさに興らんとしている時に、冰雪の地を馳騁なされば、もしも銜橛の変があれば、宗廟社稷をどうなさいますか」。遂に止めた。丁巳(四日)、縹甸散府一つ、穆由甸・范陵甸軍民長官司二つを設置した。薊州宝坻県の稻田提挙司が管轄する田地を伯顔に賜った。戊午(五日)、社稷を祭った。甲戌(二十一日)、熒惑星が逆行して太微垣に入った。己卯(二十六日)、上皇太后の冊・宝を以て、官を遣わし天地に告祭させた。

三月癸未朔(一日)、詔して五府の官を遣わし天下の囚人を決断させた。御史台の臣が言う、「丞相は既に軍国の重事を領しております。省・院・台の官は、すべて各衛を兼領してはなりません」。これに従った。平伐・都雲・定雲の酋長宝郎・天都虫らが来降した。その地に宣撫司を再び設置し、その土酋を官に参用した。辛卯(九日)、上皇太后の宝・冊を以て、官を遣わし太廟に告祭させた。壬辰(十日)、河州路に大雪が十日間降り、深さ八尺、牛羊駱駝馬の凍死者は十のうち九に及び、民は大いに飢えた。丙申(十四日)、中書省の臣が言う、「甘粛甘州路の十字寺に世祖皇帝の母別吉太后を奉安しております。祭礼を定めるよう請います」。これに従った。丁酉(十五日)、霑益州が管轄する羅山・石梁・交水の三県を巡検司に併合させた。月食があった。己亥(十七日)、龍興路が飢饉となり、糧九万九千八百石を出してその民を賑済した。庚子(十八日)、御史台の臣が言う、「高麗は国として真っ先に臣節を尽くしましたが、近年たびたび使者を遣わして媵妾を選び取るため、女児を育てず、女が成長しても嫁がせない事態に至っています。禁止を賜わるよう乞います」。これに従った。中書省の臣が言う、帝の生母である太后の神主は太廟に安奉すべきであると。その礼を集議するよう命じた。甲辰(二十二日)、山東・河間・両淮・福建の四箇所で塩課を十八万五千引増やしたが、中書が暫く徴収を停止し、正額のみを催辦させるよう請うた。乙巳(二十三日)、中書左丞王結・参知政事許有壬に経筵事を知らせた。安南の世子陳端午を安南国王に封じた。この月、益都路の沂水・日照・蒙陰・莒県が旱魃と飢饉に見舞われ、米一万石を賑済した。

夏四月癸丑朔(一日)、詔して「諸官で軍馬を節制しない者は、金虎符を佩用してはならない」とした。辛酉(九日)、太廟で祭祀を行った。江南行御史台中丞不花を中書省参知政事とした。壬戌(十日)、太陰星が左執法星を犯した。丙寅(十四日)、詔して鈔五十万錠を以て、徽政院に命じ達達兀魯思・怯薛丹・各愛馬に散給させた。己巳(十七日)、唐其勢に開府儀同三司を加えた。己卯(二十七日)、詔して翰林国史院に累朝の実録及び后妃・功臣の列伝を纂修させた。庚辰(二十八日)、功德・典瑞・営繕・集慶・翊正・羣玉・繕工・金玉珠翠の諸提挙司を廃止した。撒的を御史大夫とした。御名を犯すことを禁じた。この月、河南が旱魃となり、芍陂の屯軍に二月分の糧を賑恤した。

五月壬午朔(一日)、皇太后が宝・冊を受けたことを以て、恭しく太廟に謝した。丙戌(五日)、占城国がその臣剌忒納瓦児撒を遣わして方物を献上し、かつ交趾がその貢道を阻んでいることを言上した。詔して使者を遣わし交趾に宣諭させた。戊子(七日)、車駕が時に上都に巡幸した。使者を曲阜の孔子廟に詣でさせて祭祀を行わせた。伯撒里に金紫光禄大夫を加えた。壬辰(十一日)、諡法を厳格にするよう命じ、冒濫を絶たせた。京畿の民が飢えた。詔して有司に賑恤を議わせた。癸卯(二十二日)、太陰星が壘壁陣星を犯した。甲辰(二十三日)、伯顔が右丞相の職を唐其勢に譲ろうと請うたが、詔して允さず、唐其勢を左丞相とした。この月、永新州が飢饉となり、これを賑済した。

六月辛酉(十一日)、有司が言う、甘粛の撒里畏兀が金銀を産出するので、官を遣わしてこれを課税するよう請うた。壬戌(十二日)、太陰星が心宿を犯した。癸酉(二十三日)、服色が上を僭んではならないことを禁じた。乙亥(二十五日)、江淮財賦総管府が管轄する杭州・平江・集慶の三箇所の提挙司を廃止し、その事務を有司に帰属させた。詔して湖南宣慰使司に都元帥府を兼ねさせ、管轄する諸路の鎮守軍馬を総領させた。庚辰(三十日)、伯顔が唐其勢とその弟塔剌海が謀反を企てたと奏上し、これを誅殺した。皇后伯牙吾氏を捕らえ別の場所に幽閉した。大雨が長く降った。

秋七月辛巳朔(初一日)、馬札児台と阿察赤を並べて御史大夫とする。壬午、伯顔が皇后伯牙吾氏を開平の民舎で殺す。丁亥、太廟にて饗宴を行う。壬辰、馬札児台に銀青栄禄大夫・開府儀同三司を加え、承徽寺を領させる。乙未、太陰が壘壁陣星を犯す。壬寅、専ら伯顔を中書右丞相と命じ、左丞相を罷めて置かず。癸卯、察罕脳児の地に脱脱禾孫を置く。乙巳、燕鉄木児・唐其勢が挙用した人々を罷免する。戊申、答里及び剌剌等を市で誅し、詔して曰く、「かつて文宗皇帝は燕鉄木児が嘗て功労があったとして、父子兄弟を朝廷に顕列させたが、彼は事を構えて釁を起こし、朕を遠方に出した。文皇は後にその甚だ妄りであることを悟り、朕に伝位する旨があった。燕鉄木児は幼弱を利して貪り、再び朕の弟懿璘質班を立てたが、不幸にも崩じた。今、丞相伯顔が遺詔を追奉し、朕を南より迎え、大都に至った後も、燕鉄木児はなお両端を懐き、数ヶ月遷延したが、天がその身を隕した。伯顔等が同辞して翊戴し、宸極を正した。後に撒敦・答里・唐其勢が相襲いて用事し、宗王晃火帖木児と交通し、社稷を危うくしようと図り、阿察赤もまた嘗てその謀に与ったが、伯顔等が次第に掩捕し、明らかにその罪を正した。元凶が難を構え、我が皇太后に震驚を遺したので、朕は用いて兢惕する。永く惟うに、皇太后はその生んだ子を後とし、一に至公を以て心とし、親しく大宝を挈き、朕の兄弟に畀えた。その両朝に策を定めた跡は、功徳隆盛にして近古に比類稀である。嘗て尊号を奉上したが、朕の心に揆うに、なお未だ尽きず、已に大臣に命じて特議して礼を加えさせた。伯顔は武宗のために北辺を捍禦し、文皇を翼戴し、茲に又大憝を克く清め、国憲を明らかに飭したので、爰に答剌罕の号を賜い、子孫に至るまで、世々永く頼らしむ。天下を赦すべし」。是の月、西和州・徽州に雨雹があり、民飢え、米を発して賑貸す。

八月辛亥朔(初一日)、熒惑が氐宿を犯す。戊午、社稷を祭る。癸亥、詔して岐陽王完者帖木児・知枢密院事帖木児不花を並べて御史大夫とする。甲子、完者帖木児に太傅を加える。戊寅、道州・永興に水災があり、米五千石及び義倉の糧を発してこれを賑う。己卯、皇太后を太皇太后と尊ぶことを議し、許有壬が非礼なりと諫めるも従わず。是の月、広西の徭が反し、湖広行省右丞完者に命じてこれを討たしむ。沅州等処の民飢え、米二万七千七百石を賑う。

九月庚辰朔(初一日)、車駕が扼胡嶺に駐る。丙戌、赦す。丁亥、知枢密院事闊里吉思を宜国公に封じ、太保・中書平章政事定住を宣徳王に封ず。夜、太陰が斗宿を犯す。庚寅、太陰が壘壁陣星を犯す。庚子、中書平章政事徹里帖木児に銀青栄禄大夫を加える。有司に命じて太皇太后の玉冊・玉宝を造らしむ。御史台臣言う、「国朝初め宦官を用いるも、数人に過ぎず、今、内府の執事は千余を下らず。旧制に依り、冗濫を裁減し、仁愛の心を広め、糜費の患を省くことを乞う」。従う。丙午、詔して烏撒・烏蒙の地を四川行省に隷せしむ。是の月、耒陽・常寧・道州の民飢え、米一万六千石並びに常平米を以て賑糶す。車駕、上都より還る。京畿の塩を以て羊二万口と換える。

冬十月甲寅、熒惑が南斗を犯す。丙辰、大司農塔失海牙を太尉とし、僚属を置き、中書省事を商議せしむ。丁巳、塔失帖木児を太禧院使とし、軍国重事を議せしむ。晃火帖木児・答里・唐其勢の子孫を辺地に流す。詔して海道都漕運万戸府の船戸は民と一体に役を充つべし。壬戌、御史大夫帖木児不花に銀青栄禄大夫を加える。癸亥、御史大夫完者帖木児を広海に流して安置す。完者帖木児は賊臣也先鉄木児の骨肉の親なり、監察御史が以て言うところとなり、故にこれを斥く。省・院・台・宗正府の刑獄に通練した官を選び、各道に分行し、廉訪司とともに天下の囚を審決せしむ。甲子、太陰が昴宿を犯す。丁卯、太陰が斗宿を犯す。戊辰、太白が昼に現る。宗王亦思干児の弟撒昔にその兄の封を襲わしむ。監察御史呂思誠等十九人が徹里帖木児の罪を劾奏するも、聴かず、皆辞去し、惟だ陳允文のみ署名せず留まる。辛未、太皇太后の玉冊・玉宝成り、官を遣わして太廟に告祭す。是の月、伯顔を独り中書右丞相に任ずることを以て天下に詔す。

十一月庚辰、所在の儒学貢士の庄田租を以て宿衛の衣糧に給することを敕す。詔して科挙を罷む。甲申、太白が天を経る。乙酉、伯顔が内外の官は悉く資に循って銓注し、今後保挙するを得ず、選法を澀滞せしむることなからんことを請う。従う。癸巳、知枢密院事馬札児台に命じて武備寺を領せしむ。丙戌、太白が天を経る。己丑、辰星が房宿を犯す。甲午、燕鉄木児・唐其勢・答里が奪った高麗の田宅を、その王阿剌忒納失里に還す。丁酉、戸部尚書徐奭・吏部尚書定住を参議中書省事とする。戊戌、前知枢密院事福丁・失剌不花・撒児的哥を京師に召還す。初め、二人は帝未だ立たず、燕鉄木児を誅せんと謀り、誣られて貶せられたので、故にこれを正す。己亥、太陰が太微垣を犯す。庚子、太陰が左執法を犯す。辛丑、詔を下して元号を改め、詔して曰く、

朕は天明を祗紹し、丕緒に入り纂ぐこと、今に三年、夙夜寅畏し、敢えて怠荒せず。茲に年穀順成し、海宇清謐す。朕方に厥の徳を増修し、日を以て天を敬い民を恤むることを務とす。太史の言に属するに、星文が儆を示すと。将に朕の徳菲薄にして、未だ逮わざるか。天心仁愛にして、予をして治めしめ、告戒する所あるか。災を弭むるに道あり、善政を先とす。号を更え年を紀すは、実に惟うに旧典なり。惟うに世祖皇帝は、在位長久にして、天人協和し、諸福咸く至る。祖述の志は、良く朕の懐に切なり。今、特ちに元統三年を改めて仍び至元元年と為す。成憲に遹遵し、寛条を誕布し、庶幾くは禎祥に格り、永く景祚を綏んぜん。天下を赦す。

常平倉を立つ。丁未、知枢密院事徹里帖木児に三珠虎符を賜う。

閏月乙酉、詔して曰く、「四川塩運司は塩井において旧に従って塩を造り、余りの井は民に煮造を許し、その課の十の三を収めよ。」熒惑が壘壁陣を犯す。丁亥、日が赭の如く赤く、凡そ三日。戊子、また宗正府を大宗正府とする。壬辰、詔して宗室脱脱木児に荊王を襲封させ、金印を賜い、忙来諸軍を掌らせ、王府の官属を設立せしむ。丁酉、御史大夫撒的を銀青栄禄大夫に加え、奎章閣を領し、経筵事を知らしむ。戊戌、御史台臣また中書平章政事徹里帖木児の罪を劾奏し、これを罷む。庚子、太陰が心星を犯す。壬寅、徹里帖木児を南安に流す。太陰が箕宿を犯す。癸卯、太陰が南斗を犯す。丙午、詔して平章政事塔失海牙に都水・度支二監を領せしむ。

この年、江西大水、民飢え、米七万七千石を賑糶す。天下の田租の半ばを賜う。凡そ妻室ある僧は、還俗して民と為すことを命じ、既にしてまた僧と為ることを聴す。犍為県を移して旧治に還す。