二月辛丑朔(2月1日)、八番の苗蠻駱度が来朝して地方の産物を貢ぐ。癸卯(2月3日)、諸王也先帖木児薨ず。甲辰(2月4日)、諸王答児馬失里、哈児蠻が各々使者を遣わして来朝し、蒲萄酒、西馬、金鴉鶻を貢ぐ。乙巳(2月5日)、湖広行省平章玥璐不華を以て陝西行台御史大夫とする。豳王及びその王傅に禄を給する。戊申(2月8日)、雲南行省が言上するには、「会通州の土官阿賽及び河西の阿勒らが羅羅の賊兵一千五百人とともに会川路の卜龍村を寇した。また、祿余が兵を引きいて茫部と合流し羅羅斯を寇し、大渡河、金沙江を遮断して東川、会通等州を攻めようとしている。臣らは敢えて先に降った詔書を奉じてこれを招諭し、命に従わなければ適宜進軍したい」。制して可とする。己酉(2月9日)、怯薛官完者帖木児及び阿昔児に珠の衣帽を賜う。徳寧路は去年旱魃があり、また霜雹に遭い、民は飢えた。粟三千石を以て賑恤する。晋寧路沁州の劉瑋の妻張氏の志節を旌表する。祿余が四川行省に言うには、「父祖より代々烏撒の土官宣慰使となり、虎符を佩び、素より異心はなかった。かつて伯忽に誘脅されたが、近頃朝廷の招諭を聞き、しかるに今や期限は過ぎた。再び詔赦を降すことを乞い、直ちに四路の土官を率いて出降したい。また四川省に改属し、永寧路に隷属することを乞い、休息を得たい」。四川行省がこれを聞上する。中書、枢密、御史の諸大臣に詔してこれを雑議させる。己未(2月19日)、寧夏路の趙那海の孝行を旌表する。辛酉(2月21日)、燕鉄木児を奎章閣大学士とし、奎章閣学士院事を領せしむ。己巳(2月29日)、燕鉄木児に命じて翰林、集賢、太禧宗禋院を集め、太祖の神御殿を立てることを議わせる。曲阜の宣聖廟を修するよう詔す。邛州に二つの井戸があり、宋代の旧名を金鳳、茅池といった。天暦初年、九月に地震があり、塩水が湧き溢れた。州民の侯坤が什器を作って塩を煮、官に課を輸納したいと願う。四川転運塩司にこれを主掌させるよう詔す。済州任城県の王德の妻秦氏、婺州路金華県の呉塤の妻宋氏、廬州路の高仁の妻張氏、甘州路の岳忽南の妻失林、蓋州の完顔帖哥住の妻李氏の志節を旌表する。
三月庚午朔、帝師が京師に至る。西域に使者を遣わし、諸王不賽因に繍綵幣帛二百四十匹を賜う。中書省の臣が言うには、「遠く戍守する軍官で死して帰葬する者は、民官の例に準じ、道里の費を給すべきである。また、四川の驛戸は近ごろ軍興により消乏しているので、官を遣わして行省とともに量り賑済すべきである」と。制して可とする。燕鐵木兒が言うには、「平江・松江の澱山湖圩田は方五百余頃あり、官に入るべき糧は七千七百石である。その総佃者が死し、頗る人に占耕されている。今臣は糧を増やして万石を官に入れ、人に佃種させ、得たる余米をもって臣の弟撒敦を贍わんことを願う」と。これに従う。洛水が溢れる。爪哇国がその臣僧伽剌ら八十三人を遣わし、金書表及び方物を奉じて来朝貢す。己卯、詔して「西寧王速來蠻は鎮禦に労あり、安定王朵兒只班の例のごとく、王傅官四人を置き、印を鋳してこれを給すべし」と。庚辰、安陸府を以て并王晃火帖木児に食邑として賜う。大都良郷県の韋安の妻張氏の貞節を旌す。丁亥、諸王伯岳兀・完者帖木児が来朝す。戊子、占城国がその臣阿南那那里沙ら四人を遣わし、金書表及び方物を奉じて来朝貢す。己丑、復た功德使司を立つ。癸巳、皇子古納答剌、名を改めて燕帖古思とす。興瑞司を置き、中宮の歳作の仏事を掌らしむ、秩は正三品。乙未、燕鐵木児に命じ、旧例により鈔一万錠を以て蒙古の孤寡者に分給せしむ。帝師のために西山高梁河に舟を泛べしめ、衛士三百を調発して舟を挽かしむ。丙申、怯薛官篤憐鐵木児に璽書を賜い、その所部を申飭す。木憐・苦鹽濼・札哈・掃憐の九驛の貧者四百五十二戸を賑う。丁酉、緬国が使者阿落ら十人を遣わし、方物を奉じて来朝貢す。己亥、行樞密院に鈔四万錠を賜い、征烏撒・烏蒙に調発したる陝西・四川の蒙古軍及び漸丁一万人に分給す。高唐・徳・冀の諸州、大名・汴梁・広平の諸路に、虫有りて桑葉を食い尽くす。
五月己巳朔、高昌王蔵吉薨ず、その弟太平奴位を襲う。壬申、木憐・七里等二十三驛を賑い、人に米二石を給す。癸酉、熒惑東井を犯す。燕鐵木児に流盃池に宴を賜う。雲南の大理・中慶等路大いに饑う、鈔十万錠を賑う。甲戌、尚舎寺を従三品に陞す。撒迪が請う、皇上の登極以来の固めて大凡を譲る往来の奏答、その余の訓敕・辞命及び燕鐵木児等の力を宣べ忠を効うる蹟を備え録し、朵来に命じて継ぎて蒙古脱卜赤顔一書となし、これを奎章閣に置かんと。これに従う。湖広行省平章政事脱亦納に金虎符を賜う。保定路の郭璹の孝行・探忒の妻霊保の賢孝を旌す。戊寅、大承天護聖寺に幸す。京師地震し声有り。己卯、諸王也失班に命じて還って鎮ましむ。浙西道廉訪司が副使三宝の兇悪陰険、紀綱を紊るを劾す、詔してこれを罷む。壬午、復た糶米五万石を賑い、京城の貧民を済う。戊子、唐其勢疾を以て先んじて上都に往く、薬価鈔千錠を賜う。帝師の居ます撒思吉牙の地に使者を遣わし、珠織の制書を以てその属に宣諭し、仍って鈔四千錠・幣帛各五千匹を給し、分かちてこれを賜う。帖里干・不老・也不徹温等十九驛を賑い、人に米二石を給す。庚寅、大駕大都を発し、時に上都に巡る。山東益都等処金銀銅鉄提挙司を置く。辛卯、復た司徒の印を万安寺の僧厳吉祥に給す。詔して鈔五万錠を給し、帝師巴思八の影殿を修せしむ。壬辰、太常博士王瓚が言うには、「各処神廟に加封を請う、濫れて淫祠に及ぶ。礼経に按ずるに、以て国を定むるに労し、以て事に勤むるに死し、能く大災を禦ぎ、能く大患を捍ぐ、則ちこれを祀る。その祀典に非ざるの神は、今後加封を許すべからず」と。制して可とする。丁酉、白虹並びに日出で、天に竟きて長し。顔子の父顔無繇を追封して杞国公とし、諡して文裕とす;母の齊姜氏を杞国夫人とし、諡して端献とす;妻の宋戴氏を兖国夫人とし、諡して貞素とす。甘州大雹有り。揚州の江都・泰興、徳安府の雲夢・応城県水有り。汴梁の睢州・陳州・開封・蘭陽・封丘の諸県河水溢る。滹沱河決し、河間清州等処の屯田四十三頃を没す。常寧州饑う、糶米二千四百石を賑う。杭州火有り、災い被る九十一戸、池州火有り、災い被る七十三戸、江浙行省に命じて量りてこれを賑わしむ。
六月己亥朔(一日)、月魯帖木兒等の罪を以て詔を中外に告げ、天下を赦す。四川行省の今年の差稅、陝西行省の今年の商稅を免ず。朵朵・王士熙・脱歡等を録用す。己酉(十一日)、御史中丞趙世安を以て中書左丞と為す。癸丑(十五日)、使を遣わし分ちて嶽鎮海瀆を祀らしむ。戊午(二十日)、鈔五万錠を給し、雲南行省に賜いて公儲と為す。己未(二十一日)、燕鉄木兒言ふ、「頃に伯顏は浚寧王に封ぜられ、食邑を嵩州に賜はりしが、今瀕汴の一州を択びて之を賜はらんことを請ふ」と。詔して改めて陳州を賜ふ。癸亥(二十五日)、知樞密院事也卜倫に開府儀同三司を加授す。乙丑(二十七日)、御史臺臣、遼陽行省参政賽甫丁の庸鄙にして任に勝へざるを劾し、之を罷む。監察御史陳思謙言ふ、「内外の官、文武の全才にして、出処天下の安危に係り、金革の難を拯ふ能はざる者は、奪情起復を許すなかれ」と。制して可とす。諸の卜筮・陰陽人の諸王公大臣の家に出入するを禁ず。晉寧・冀州、桑に災有り。益都・済寧、大雨。無為州・和州、水有り。帰徳府永城県の民張氏の孝節を旌す。
秋七月戊辰朔(一日)、諸王答里麻失里等、使を遣わし来りて虎豹を貢ぐ。雲南行省言ふ、「本省旧に降給せし驛璽書六十九・金字円符四、伯忽の乱に散失殆んど尽き、更に賜はらるるを宜しと乞ふ」と。勅して更に璽書三十二・円符四を賜ひ、仍ほ失ひし者を詰究せしむ。辛未(四日)、車坊官園を以て伯顔に賜ふ。雲南に従征せし将校三百四十七人に鈔幣を差等有りて賜ふ。軍士を調し柳林海子の橋道を修めしむ。乙亥(八日)、僧を命じて鉄幡竿に於て仏事を修めしめ、金百両・銀千両・幣帛各五百匹・布二千匹・鈔万錠を施す。丁丑(十日)、蒙古軍にして陝西に流離せし四百六十七戸に三月分の糧を賑ひ、其の居に復せしめ遣はし、戸ごとに鈔五十錠を給す。湖広行省言ふ、「黎賊勢猖獗なり、兵三千を益し調用に備へんことを乞ふ」と。旨有り、「前詔に依り、移剌四奴に日を剋して進兵せしむべし」と。壬午(十五日)、江西行省、螺鈿の几榻を造り燕鉄木兒に遺す。詔して匠者に幣帛各一を賜ふ。甲申(十七日)、燕鉄木兒、斡羅思二千五百人を献ず。裕州の民李庭瑞の孝行を旌す。庚寅(二十三日)、鈔万錠を給し、燕鉄木兒を命じて累朝の宮分嬪御の貧乏なる者に分ち賜はしむ。壬辰(二十五日)、西域諸王不賽因、哈只怯馬丁を遣はし七宝水晶等の物を以て来り貢ぐ。蒙古民及び各部の衞士に鈔幣を差等有りて給し、仍ほ五月分の糧を賑ふ。甲午(二十七日)、北辺諸王月即別、南忽里等を遣はし来朝貢す。燕鉄木兒言ふ、「諸王徹徹禿・沙哥、曩に罪に坐し南荒に流さる、矜閔を賜ひ、俾く本部に還らしめんことを乞ふ」と。之に従ふ。宗仁衞の軍士九百戸を賑ひ、各鈔一錠を給す。滕州の民饑ふ、糶米二万石を以て賑ふ。慶都県大饑し、河間塩課鈔万錠を以て之を賑ふ。