元史

本紀第三十五: 文宗四

二年春正月己卯、御製の奎章閣記を成す。行樞密の臣言う、「十一月、仁徳府の権達魯花赤曲朮、兵衆を糾集して雲南を討ち、まず伯忽の賊兵を馬龍州にて破り、この月十一日に伯忽の弟拜延を殺し、馘を王に献ず。十三日、馬金山に戦い、伯忽及びその弟伯顔察児・その党の拜不花・卜顔帖木児等十余人を獲て、これを誅す。余兵は皆潰走し、独り祿余なお金沙江に拠る」と。詔ありて進兵してこれを討つことを促す。庚辰、大承天護聖寺の住持僧宝峯に司徒しとを加う。辛巳、大名魏県の民曹革、粟を輸して陝西の饑を賑い、その門を旌ぐ。癸未、侍正府を立てて近侍を総べしめ、秩は従二品。乙酉、時に太廟を享く。丙戌、伯顔・月魯帖木児・玥璐不花・阿卜海牙等十四人、並びに本官をもって侍正を兼ぬ。大都大興県の郭仲安の妻李氏の貞節を旌ぐ。丁亥、寿安山の英宗の建てし寺未だ成らず、詔して中書省に鈔十万錠を給してその費用に供えしめ、なお燕鉄木児・撒迪等にその工役を総督せしむ。後えい指揮使史塤を命じて四川行省に往き、軍官を調選せしむ。戊子、奴都赤阿里火者を命じて北辺の牧地を按行せしむ。晋邸の部民劉元良等二万四千余戸を以て寿安山大昭孝寺に隷せしめ、永業戸と為す。中書省の臣言う、「四川省の臣塔出・脱帖木児等、雲南を討ち、十一月九日に兵を率いて烏撒周泥駅に至る。明日、祿余・阿奴・阿答等の賊兵万余、山後の間道より潜かに出づ。塔出・脱帖木児等進撃し、屡戦してこれを破る。十五日、また七星関に戦い、六日の間に凡そ十七戦、賊大いに敗れて潰走す」と。詔して使を遣わし、銀・幣を以て塔出・脱帖木児等を賞す。歳額鈔本の至元鈔八十九万五十錠・中統鈔五千錠を造る。鈔五千錠を給し、寧海州の饑民を賑う。益都等処の広農提挙司を罷め、田賦総管府を改めて立て、秩は従三品とし、なお隆祥総管府にこれを統べしむ。興和路に命じて燕鉄木児の鷹棚を建てしむ。樞密院の臣言う、「四川行省の地は烏撒に隣り、而して雲南未だ平らかならず。今戍卒単少なり、宜しく兵を増して防遏すべし。夔路の怯憐口戸丁七百・重慶河東五路の両営の兵三百を調発し、ともに往きてこれを戍らしむべし。征進軍の還る日を俟ちて、悉く罷遣すべし」と。これに従う。庚寅、東路蒙古軍万戸府を改めて東路蒙古侍衞親軍指揮使司と為す。諸王哈児蛮、使を遣わして蒲萄酒を貢す。国制として、累朝の行帳には衛士・給事を設け、在位の時と同じくす。近ごと嘗てその冗濫を汰む。武宗・仁宗の両朝、各八百人と定め、英宗は七百人とす。中書省の臣言う、旧給事人に職を失える者ありと。詔してその百人を復す。辛卯、皇太子阿剌忒納答剌薨ず。壬辰、宮相法里及び給事者五十八人を命じて霊轝を護り北に山陵に祔葬せしめ、なお法里等にこれを守らしむ。御史臺の臣劾奏す、「福建宣慰副使哈只、前に広東廉訪副使たりしとき、貪污狼籍す。宜しく罷黜すべし」と。これに従う。己亥、吏部尚書撒里瓦を遣わし、虎符を佩かしめ、礼部郎中趙期頤を遣わし、金符を佩かしめ、即位の詔を齎して安南国に告げしめ、且つ授時暦を賜う。武寧王徹徹禿に金百両・銀五百両を賜い、淮安路の海寧州を以てその食邑と為す。癸卯、皇子古納答剌の疹疾癒ゆるにより、燕鉄木児及び公主察吉児に各金百両・銀五百両・鈔二千錠を賜い、撒敦等には金・銀・鈔各差あり。また医巫・乳おう・宦官・衛士六百人に金三百五十両・銀三千四百両・鈔五千三百四十錠を賜う。甲辰、勅して毎歳四たび五福太一星を祭らしむ。後衞に孔子廟を建つ。至元の末、諸王乃顔の叛を討ち、その部の蒙古軍を獲て、河南・江浙・湖広・江西諸省に分置す。樞密院に命じて使を遣わしその数を括り、二千六百人を得。乙巳、蒙古の巫者の奉ずる神を封じて霊感昭応護国忠順王と為し、その廟の号を霊祐と曰う。衛士万人に歳例の鈔を給す。人ごとに八十錠、内に他物及び粟を以て五の一を折る。鎮西武靖王搠思班・豫王阿剌忒納失里及び行省・行院の官、ともに雲南を討つ。兵十余万、去年十一月十一日をもって、搠思班師を羅羅斯に次ぐ。躍里鉄木児とともに三泊郎に至ることを期し、なお小云失を趣して曲靖馬龍等州に会し、ともに進兵す。躍里鉄木児、倍道兼進して金沙江を奪う。十二月十七日、大兵阿禾の蒙古軍と相値い、戦いてこれを破る。阿禾偽りて降る。明日、その兵三千を率いて三隊と為し来たりて我が営を襲う。搠思班・躍里鉄木児等、十三隊に分かれてまたこれを撃破す。阿禾竄走す。大兵直ちに中慶に向かう。二十六日、賊党の蒙古軍に安寧州にて遇い、また戦い、また大いにこれを破る。二十八日、阿禾来たりて戦いを逆らう。すなわち就禽し、軍前において斬る。三十日、将に中慶に抵らんとす。賊兵七千なお伽橋・古壁口にて拒戦す。兵交わり、躍里鉄木児左頰に流矢中り、耳後を洞く。矢を抜きてまた戦い、大捷す。すなわち行省の治を復す。諸軍皆会し、城中に駐まる。嵩明州にて残賊を追捕するに兵を分つ。樞密院の臣、捷を以て聞く。詔して総兵官に量度緩急し、宜しきに従って区処せしむ。新添安撫司罋河寨の主、訴う、他部の徭・獠その禾を蹂み、民饑うと。湖広行省に命じて鈔二千錠を発し、米を市ってこれを賑わしむ。

二月丙午朔(一日)、上都留守の乃馬台を行嶺北行樞密院事とし、太禧宗禋使の謹只兒・答鄰答里・篤烈捏の四人を並びに知院事とし、遙かに平章政事を授く。戊申(三日)、広教総管府を立て、以て僧尼の政を掌らしむ。凡そ十六所:京畿山後道・河東山右道・遼東山北道・河南荊北道・両淮江北道・湖北湖南道・浙西江東道・浙東福建道・江西広東道・広西両海道・燕南諸路・山東諸路・陝西諸路・甘粛諸路・四川諸路・雲南諸路と曰う。秩は正三品、府には達魯花赤・総管・同知府事・判官各一員を設け、宣政院は流内の官を選び擬注して以て聞えしむ。総管は則ち僧これを為す。四川行省、懐徳府の驢谷什用等四洞及び生蛮十二洞を招諭し、皆内附す。詔して懐徳府を宣撫司に陞げて以て之を鎮撫せしむ。諸洞各長官司及び巡検司を設け、且つ各還す所掠の生口を命ず。湖広参政の徹里帖木児と速速・班丹、倶に怨言を出だすに坐し、鞫問して実を得たり。刑部議して徹里帖木児・班丹は杖一百七に当たり、速速は処死すべしとす。赦に会い、徹里帖木児は広東に流し、班丹は広西に、速速は海南に徙し、皆荒僻の州郡に置く。旨有り:「此の輩朕に怨望す。向に赦してゆるさずんば、倶に之を極刑に置くべし。倶に其の家を籍し、速速は終身禁錮すべし」と。己酉(四日)、白虹日を貫く。鞏昌金州の民杜祖隆の妻張氏の志節を旌す。樞密院臣言う:「徹里鐵木児・孛羅、正月戊寅(二十一日)に烏撒蛮兵を敗り、祿余を射中て、其の民を降し、烏蒙・東川・易良州の蛮兵・夷獠等倶に款附す。鎮西武靖王搠思班等中慶に駐し、復た行省事を行い、豫王阿剌忒納失里等當當驛に至り、其の人民を安輯す」と。又言う:「澂江路の蛮官郡容、賊の古剌忽及び禿堅の弟必剌都迷失等の豫王に偽降して而して之を反囲し、易龍驛に至り、古剌忽等の兵官軍を掩襲すと報ず。四川行省平章の塔出兵を頓して進まず。平章の乞住の妻子孳畜、賊の掠むる所と為る。諜知るに禿堅方に城堡を修め、兵を布き拒守し、出降の意無し」と。詔して速やかに兵を進めて之を討たしむ。探馬赤軍士を勅し、歳に五月十日を以て山後諸州に遷処せしむ。辛亥(六日)、燕鐵木児の居第を興聖宮の西南に建つ。詔して撒迪及び留守司に其の役をつかさどらしむ。壬子(七日)、太白昼に見ゆ。中書平章政事の亦列赤、瀋陽等路安撫使を兼ぬ。燕王宮相の伯撒里を中書平章政事とし、陝西行臺中丞の朵児只班を中書参知政事とし、戸部尚書の高履亨・両淮都転運塩使の許有壬を並びに参議中書省事とす。甲寅(九日)、燕鐵木児言う:「賽因怯列木丁、英宗の時に嘗て宝貨を昭献元聖太后に献ず。議して価鈔十二万錠を給せんとす。故相の拜住、七万錠に酬ゆるを奏す。未だ給せず。泰定の間、塩引一万六百六十道を以て鈔に折りて之を給す。今有司詔書を以て之を奪い還官す。臣等議す、宝貨は太后既に之を用いたり。塩引を以て之を還すを宜しと為す」と。之に従う。燕鐵木児又言う:「安慶万戸の鎖住、家人をして人を殺さしむるに坐し獄に繋がる。久しく未だ款伏せず。宜しく罪無きが若し。之を釈するを乞う」と。制して曰く「可」と。乙卯(十日)、太白昴を犯す。太祖・太宗・睿宗の御容を祀る。雲南の統兵官来たり捷を報ず。諸蛮悉く降る。唯だ祿余追捕未だ獲ず。番休する各衞の漢軍を命じ、十の二を以て三月一日に放遣す。丁巳(十二日)、駙馬の不顔帖木児、北辺より武寧王徹徹禿に従い来朝す。己未(十四日)、西僧を命じて皇子古納答剌の為に仏事一周歳を作らしむ。壬戌(十七日)、武寧王徹徹禿を改めて郯王に封じ、金印を以て賜う。甲子(十九日)、中書省臣言う:「国家の銭穀、歳入に額有り。而して所費浩繁、是を以て足らず。天暦二年、嘗て塩賦の十分の一を以て銀に折りて之を納む。凡そ銀二千余錠を得たり。今請う銀を以て官帑の鈔本に易え、宿衞の士卒に給せん」と。又言う:「陛下経費を用いず、人民を労せずして、大承天護聖寺を創建す。臣等願わくは嚮に易えし所の鈔本十万錠・銀六百鋌を上りて寺を建つるの需を助けん」と。之に従う。丙寅(二十一日)、太祖の四大行帳世に朔方に留まり遷らざる者、其の馬駝孳畜多く死損す。鈔一万錠を発し、内史府を命じて市いて以て之に給せしむ。行樞密院都事の阿里火者来たり雲南の捷を報ず。庚午(二十五日)、宿衞士に歳例の鈔を給す。詔して定額万人の外に出だすこと毋れと。占城国其の臣高暗都剌を遣わし来朝貢す。五福太一宮を京城の乾隅に創建す。上都の洪禧・崇寿等の殿を修す。諸王の徹徹禿・沙哥、妄言不道に坐す。詔して徹徹禿を広州に安置し、沙哥を雷州にす。壬申(二十七日)、遼陽行省を命じて粟を発し国王朵児只及び納忽答児等六部の蒙古軍民一万五千戸を賑恤す。大都の民劉徳仁の妻王氏の貞節を旌す。甲戌(二十九日)、宣譲王の王傅印を給す。荊王也速也不干、犛牛を貢ず。田賦総管府を命じて税鑛の銀を大承天護聖寺に輸せしむ。興和路を命じて玥璐不花の為に鷹棚を作らしむ。雲南景東甸の蛮官阿只弄、子の罕旺を遣わし来朝し、馴象を献じ、甸を景東軍民府に陞げ、阿只弄を知府事とし、罕旺を千戸とし、常賦の外歳に金五千両・銀七百両を増輸するを乞う。之を許す。山東の塩課鈔一万錠を以て、膠州の饑を賑う。龍翊衞を命じて屯田の歳入の粟を以て衞卒の孤貧なる者を贍わしむ。是の月、深・冀二州に虫有り桑を食いて災と為る。

三月丙子朔(一日)、熒惑(火星)が鬼宿を犯す。辛巳(六日)、御史臺の臣が弾劾して奏上する。「燕南廉訪使の卜咱児は、以前閩海廉訪使であった時、賄賂を受け取った総額は鈔二万二千余錠、金五百余両、銀三千余両、男女の生口(奴隷)二十二人、その他宝貨数知れず。たとえ赦免に遇って罪を許されたとしても、制命(任命書)を追奪し、財産を没収して流罪に処すことを乞う。」詔して言う通りとし、なおその罪を天下に示す。壬午(七日)、南郊で侍祠した文武官に金・幣を差等ありて賜う。特命して沙津愛護持必剌忒納失里を三蔵国師とし、玉印を賜う。陝西の塩課鈔一万錠を以て、察罕脳児の蒙古飢民を賑済する。癸未(八日)、外府の幣・帛各千匹を割いて中宮に輸送し、需用に供する。甲申(九日)、皇太子の真容(肖像)を描き、慶寿寺の東鹿頂殿に奉安し、累朝の神御殿の儀礼に倣って祀る。宦官の拜住を訊問する。皇太子の疹疾はしかに侍り、飲食を時を定めずに進めず、酥(バター)を以てその眼鼻を拭い、また禳呪(災いを祓うまじない)を行った。杖一百七、京城より斥出す。冠州に虫あり、桑四十余万株を食う。御史臺の臣が言う。「奎章閣参書の雅琥は、奸臣に阿諛追従し、行い不法なり。その職を罷むるべし。」従う。丙戌(十一日)、雨土(土が降る)、ちり。伯撒里が兼ねる儲政使の職を辞す。許さず。伯顔が諸王の女を娶る。金二百両・銀千両を賜う。上都で死事した不顔帖木児等十一家に各々鈔百錠を賜う。燕鉄木児に鷹坊の者百人を分賜する。中書省の臣が言う。「宣課提挙司は毎年商税を専売し、鈔十万余錠を得るが、近年数多く達成せず。僧道で商売をする者は全て、その税を徴収することを乞う。」旨あり。「誠に僧たる者は、なお免ずる。」司徒の香山が言う。「陶弘景の胡笳曲に『負扆飛天曆、終是甲辰君』の語あり。今陛下の生年・紀号(年号)、実にこれと合う。これは実に天命を受けた符瑞なり。史館に記録し、中外に頒布告示することを乞う。」詔して翰林・集賢・奎章・礼部に雑議させる。翰林の諸臣が議して謂う。「唐の開元年間、太子賓客の薛譲が武后の鼎銘を進めて『上玄降鑑、方建隆基』と云い、玄宗の受命の符瑞とした。姚崇が表を奉って賀し、史官に宣示し、中外に頒告することを請うた。しかし宋の儒者司馬光は、これを偶然の文を採って符瑞とすることは小臣のへつらいであり、宰相がこれを実証することはその君を侮るものだと斥けた。今、弘景の曲は、生年・紀号に偶々合うように見えるが、陛下は天に応じ人に順い、正統を継いで隆盛させ、今に至るまで四年、海内を薄く(広く)覆う内外、帰心せざるはなく、固より傍らの曲説を引いて符命とするを待つ必要はない。その言うところに従えば、讖緯の端を開く恐れあり、民の志を定める所以ではない。」事遂に止む。趙王不魯納の食邑である沙・浄・徳寧等の処の蒙古部民一万六千余戸が飢える。命じて河東宣慰司に近隣の倉糧一万石を発してこれを賑済させる。また山東の塩課鈔・朱王倉の粟を発して登・萊の飢民を賑い、興和倉の粟を発して宝昌の飢民を賑う。戊子(十三日)、西僧の旭你迭八答剌班的を三蔵国師とし、金印を賜う。龍慶州の流杯園池・水磑・土田を燕鉄木児に賜う。諸王阿魯を命じて陝西行省に出鎮させる。籍没した速速・班丹・徹理帖木児の資産を大承天護聖寺に賜い永業とする。浙西諸路は近年水旱が続き、飢民八十五万余戸。中書省の臣が請う。官私・儒学・寺観の諸田の佃民(小作人)に、その主から銭穀を借りて自ら賑済させ、余りは富家に分を勧め(義捐を募り)、また粟を納めて官を補うことを許し、なお本省の鈔十万錠を加え、併せて僧道の度牒一万道を与える。従う。同知大都府事忙兀禿魯迷失の妻海迷失の貞節を旌表する。己丑(十四日)、雲内州の飢民及び察忽涼楼の戍兵合わせて七千戸を賑済する。庚寅(十五日)、威順王寛徹不花を命じて還って湖広に鎮守させる。癸巳(十八日)、詔して、累朝の神御殿で諸寺にあるものに、各々名を製して冠せしむ。世祖は元寿、昭睿順聖皇后は睿寿、南必皇后は懿寿、裕宗は明寿、成宗は広寿、順宗は衍寿、武宗は仁寿、文献昭聖皇后は昭寿、仁宗は文寿、英宗は宣寿、明宗は景寿。亳州太清宮の道士馬道逸・汴梁朝天宮の道士李若訥・河南嵩山の道士趙亦然を召し、各々その徒を率いて闕に赴き、普天大醮を修めさせる。浙西の塩丁五千余戸を賑済する。玥璐不花を命じて徳興府で仏事を行わせる。監察御史が江浙行省平章の童童を弾劾する。放逸で安逸を貪り、才は輔佐に非ず。詔してその官を免ず。豫王阿剌忒納失里・鎮西武靖王搠思班等が雲南の諸賊、也木干・羅羅・脱脱木児・板不・阿居・澂江路総管羅羅不花・伯忽の叔父怯得該・偽って署した万戸哈剌答児及び諸将校を捕らえ、悉く斬り、屍を磔にして示衆する。遼陽境内の蒙古飢民一万四千余戸を賑済する。山丹州の郝栄の妻李閏の貞節を旌表する。陝州諸県に蝗害あり。八番の軍で雲南に従征した者は皆貴州に屯す。枢密院の臣が使者を遣わして粟を発し与えることを請う。己亥(二十四日)、御史臺の臣が弾劾して奏上する。「大都総管の劉原仁は疾を称し、久しく視事せず、同知儲政院事に遷ると、即ち職に就く。僥倖して巧みに官を求め、難を避け易きに就く。」旨ありてこれを罷む。庚子(二十五日)、上都に幸せんとするに当たり、西僧を命じて乗輿の次舎の所で仏事を行わせる。壬寅(二十七日)、欽察衛の軍士が増えたため、左右二衛に分ける。雲南行省に鈔十万錠を与え、軍資と民食に備えさせる。癸卯(二十八日)、御史臺の臣が弾劾して奏上する。工部尚書の蘇炳は性行貪邪なり。詔してこれを罷む。大同路は累年水旱、民大いに飢う。衛士の馬の芻粟を裁減節約し、四月一日より始む。寿王脱里出・陽翟王帖木児赤・西平王管不八・昌王八剌失里等七部の民で遼陽境内に居る者一万四千五百余戸が飢えを告ぐ。命じて遼陽行省に近境の倉糧を発して二月間賑済させる。宣靖王買奴に命じて王傅等の官を置かせる。宮相都総管府を立て、秩は正三品、銀印を与う。儒学教授が選任の数多く、凡そ任官するに、内郡・江淮より出る者は、江西・江浙・湖広に注す(任命地とする)。陝西・両広より出る者は、福建に注す。甘粛・四川・雲南・福建より出る者は、両広に注す。河南行省右丞の那海に勅して境内の屯田を提督させる。中書省の臣が言う。「嘉興・平江・松江・江陰の蘆場・簜山・沙塗・沙田等の地で官に籍されたものは、嘗て他人に賜ったが、今、燕鉄木児に改めて賜うことを請う。」旨あり。「燕鉄木児は他の臣と比ぶべからず。所在の有司に命じて数の如く給付せしめよ。」通州の官糧を発して檀・順・昌平等の処の飢民九万余戸を賑済する。山東の塩課鈔三千五百錠を以て益都の三万余戸を賑済する。是の月、陝西行省が官を遣わし分けて復業した飢民七万余口に行糧を与える。諸王伯顔也不干の部内の蒙古飢民千余口を賑済する。真定・汴梁二路、恩・冠・晋・冀・深・蠡・景・献等八州に、皆虫が桑を食う災害あり。故戸部主事趙野の妻柳氏の貞節を旌表する。

夏四月丙午朔(一日)、全寧の民王脱歡が銀鉱を献上した。詔して銀場提挙司を設置し、中政院に隷属させた。中書省・枢密院の臣が言うには、「天暦年間の兵乱において、諸軍を率いて敵と戦った者は、功績の賞を定めるべきである。臣らの議するところでは、諸王には各々金百両・銀五百両・金腰帯一・織金等の幣帛各十八匹を、諸臣で四戦以上に及んだ者は同じく、三戦および一戦の者はそれぞれ差等をつける。」とのことであった。旨があり、「賞の基準は卿らの議の通りとせよ。燕鉄木児はまず大義を唱え、自ら甲冑を着け、伯顔は河南において先に離反者を誅し、朕の道中の憂いをなくした。両人の功績は比類なく、その賞は衆人と同じくすべきではない。燕鉄木児には七宝腰帯一・金四百両・銀九百両を賜い、伯顔には金腰帯一・金二百両・銀七百両を賜え。」と。賞を受けた者は合わせて九十六人、金二千四百両・銀一万五千六百両・金腰帯九十一副・幣帛千三百余匹を用いた。西僧に命じて五台山および霧霊山において各一月ずつ仏事を行わせ、皇太子古納答剌の福を祈らせた。糧五万石をもって京師の貧民を救済し売り出させた。戊申(三日)、皇姑魯国大長公主が薨去した。宮中の高麗女子不顔帖你を燕鉄木児に賜うこととし、高麗国王は国中の田を割いて資送とするよう請うたので、詔して使者を派遣してこれを受け取らせた。衛卒三千人を発して大承天護聖寺の工事を助けさせた。庚戌(五日)、詔して燕鉄木児の生祠を紅橋の南に建て、碑を立ててその勲功を記させた。御史台の臣が言うには、「平章政事曹立は、累任して江浙に在ったが、今は閑職にあるとはいえ、なお富民と交際している。その本籍である大同路に還すべきである。また、監察御史万家居はかつて中丞和尚を推薦し、脱脱はかつて廉訪使卜咱児を挙げたが、今、和尚・卜咱児はともに贓罪により除名された。万家居・脱脱は台省の職に任じ難い。」と。ともにこれに従った。真定路涉県で地震があり、一ヶ月を過ぎても止まなかった。壬子(七日)、燕鉄木児に命じて宮相都総管府の事を総制させ、也不倫・伯撒里にはともに本官のまま宮相都総管府の都達魯花赤を兼ねさせた。諸王哈児蛮が使いを派遣して朝貢した。甲寅(九日)、宣忠扈衛親軍都万戸府を宣忠斡羅思扈衛親軍諸指揮使司と改め、銀印を賜った。中書省の臣が言うには、「越王禿剌は武宗の時に紹興路を食邑とし、毎年この路の租賦鈔四万錠を割いて賜っていた。今、その子阿剌忒納失里が王号を襲い、毎年その半額を与えるべきである。」と。これに従った。乙卯(十日)、時享を太廟で行った。鎮西武靖王搠思班らはすでに雲南を平定し、それぞれ使いを派遣して捷報を伝えてきた。諸王朶列捏は雲南品甸を鎮め、自らの財力で軍に供給し、賊討伐に協力したので、詔して襲衣を賜った。丙辰(十一日)、太祖が用いた大行帳を修繕した。戊午(十三日)、集慶路の玄妙観を大元興崇寿宮とした。興和に命じて屋を建てて海青を住まわせ、上都に屋を建てて鷹鶻を住まわせた。庚申(十五日)、特に河南の儒士呉炳を芸文監典簿とし、なお対品の階を授けた。寧国路涇県の民張道は、人を殺して盗賊となった。張道の弟の吉はこれに従ったが加功はせず、囚われて七年も判決が下らなかった。吉の母は老いており、他に子孫がいなかったので、中書省の臣がこれを上聞し、勅して死を免じ、杖刑を加えて追放し、その母を養わせた。辛酉(十六日)、山東の塩課鈔五千錠をもって博興州の飢民九千戸を救済し、一千錠をもって信陽等場の塩丁を救済した。御史台の臣が言うには、「儲政使哈撒児不花は陛下が潜邸におられた時、馬七十九匹を受け取り、また官庫の物を盗用した。天暦初年、瀘溝橋で兵を率い、敵を迎え撃つやすぐに逃げ、勝手に城門を閉ざし、民衆を驚かせ惑わせた。度支卿納哈出はかつて官馬を隠し、また詔命を偽って増やし、また諸王斡即から七宝帯一・鈔百六十錠を受け取った。臣らの議するところでは、その罪は杖一百七、除名、郷里に斥けるべきである。」と。これに従った。壬戌(十七日)、枢密院の臣が言うには、「雲南の事はすでに平定した。鎮西武靖王搠思班が言うには、蒙古軍および哈剌章・羅羅斯の諸種族の反乱者は、誅殺されたり降伏したりし、すでにおおむね平定されたが、その余党は山谷に逃げ込み、必ずしも再び反側しないとは限らない。今、荊王也速也不干および諸王鎖南らにそれぞれ率いる所部を留め駐屯させ一二歳とし、威重を示すことを請う。」と。これに従った。なお豫王阿剌忒納失里に命じて兵を分け、探馬赤三百・乞赤伯三百を与えて共に一年守らせ、これを鎮撫させ、残りの軍は皆その所部に還し、統兵官は召し出して闕に赴かせた。時にすでに探馬赤を雲南行省平章政事に任じており、遂に命じて境内の軍事を総制させた。潞州潞城県で大水があった。癸亥(十八日)、諸王完者也不干の所部の蒙古民二百八十余戸が飢饉を訴えたので、河東宣慰司に命じて官粟を発してこれを救済させた。甲子(十九日)、陝西行省が終南の屯田で去年大水があり、禾稼四十余頃を損なったと上言したので、詔してその租を免除した。鎮寧王那海の部曲二百は、風雪で家畜を損なったので、嶺北行省に命じて二ヶ月分の糧を救済させた。欽察台が名園を献上したので、御史台に命じて贓罰鈔千錠を与えてその価に酬いさせた。諸王乞八が言うには、「臣は毎年扈従して時巡するのに、費用が甚だ広い。臣の兄豫王阿剌忒納失里・弟亦失班には、毎年鈔五百錠・幣帛各五千匹を与えている。敢えてその例にならって請う。」と。制して可とした。詔して、「故尚書省丞相脱脱は、三宝奴の例に準じて、没収した家財をその家に還すべし。」とした。御史台の臣が言うには、「同僉中政院事殷仲容は、姦貪邪佞で、喪中に服しながら官に居る。」と。詔してこれを罷免した。揚州泰興県の飢民一万三千余戸に対し、河南行省が先に一月分の糧で救済した後で上聞したので、これを許した。遼陽行省に命じて粟を発し、孛羅部内の蒙古飢民を救済させた。戊辰(二十三日)、奎章閣が経世大典を纂修するため、翰林国史院から脱卜赤顔一書を取って太祖以来の事蹟を記すよう請うたので、詔して翰林学士承旨押不花・塔失海牙に命じた。押不花が言うには、「脱卜赤顔の事は秘禁に関わり、外人に伝写させるべきではない。臣らは詔を奉じることを敢えてしない。」と。これに従った。拱衛司の儀仗を増設した。武備寺の諸匠官に命じて元の籍を避けさせた。使いを派遣して趙世延を集慶から召し出した。詔して泥金の畏兀児文字で無量寿仏経千部を書かせた。壬申(二十七日)、宣忠扈衛に新たに籍を置いた軍士六百人を散遣して郷里に還し、七月一日を期して営に還らせることとした。衡州路の属県は連年旱魃・蝗害があり、さらに大水があり、民は草木を食い尽くし、また疫癘が流行し、死者は十のうち九に及んだ。湖南道宣慰司が糧米一万石の救済を請うたので、これに従った。河中府で蝗害があった。晋寧・冀寧・大同・河間の諸路の属県は、皆旱魃で種を蒔けず飢饉を訴えた。甘州の阿児思蘭免古の妻忽都的斤は貞節によりその門を旌表された。

五月丙子、皇太子の影殿において祭器を造り、裕宗の故事の如くとする。宮相都総管府の公廨を建てることを命ず。丁丑、熒惑が軒轅左角を犯す。宮相都総管府に駅伝使用の璽書を与える。衛兵を徴発して金水河を浚渫す。己卯、安南の世子陳日㷆、その臣段子貞を遣わして来朝貢す。安慶の望江県、淮安の山陽県は去歳いずれも水災あり、その田租を免ず。丙戌、太禧宗禋院の臣言う、「累朝の建てたる大萬安等十二寺、旧額の僧三千百五十人、歳例として糧を与う。今その徒猥多なり、九百四十三人を汰去せんことを請う」と。制して可とす。常徳の桃源州は去歳水災あり、その租を免ず。丁亥、怯憐口提挙司を復立し、仍び中政院に隷属せしむ。枢密院に命じて軍士を調発し京城を修繕せしむ。己丑、八百等処宣慰司都元帥府を置き、土官の昭練を以て宣慰使都元帥とす。又た臨安元江等処宣慰司兼管軍万戸府を置く。孟定路、孟肙路は並びに軍民総管府と為し、秩従三品。者線、蒙慶甸、銀沙羅等甸は並びに軍民府と為し、秩従四品。孟併、孟広、者様等甸は並びに軍民長官司を設け、秩従五品。益都路の宋徳譲、趙仁各々米三百石を輸じて膠州の飢民九千戸を賑恤す。中書省の臣、輸粟補官の例に依り官を与うることを請う。これに従う。駐冬の衛士二万千五百戸に四月分の糧を賑給す。庚寅、雲南省蘆伝路軍民総管府を立て、土官を以てこれに当たらしめ、制を授くる者は各々金符を与う。癸巳、雲南威楚路の蒲蛮猛吾、来朝貢し、銀を納れて歳賦と為さんことを願う。詔して散府一及び土官三十三所を置き、皆金銀符を賜う。甲午、太白が畢宿を犯す。宣政使脱因を薊国公に封ず。平江の官田五百頃を以て稻田提挙司を立て、宮相都総管府に隷属せしむ。乙未、陝西行台御史大夫脱別台を以て枢密院事を知らしむ。御史大夫玥璐不花累ねて職を辞し、江西行省平章朵児只疾を以て新任を辞す。並びにこれを許す。脱忽思娘子継いで明宗の幄殿を主る。詔して湘潭州の民戸四万を賜い湯沐邑と為す。奎章閣学士院、皇朝経世大典を纂修し成る。詔して泥金を以て仏経一蔵を書写せしむ。丙申、大駕上都に幸す。四川行省平章汪寿昌職を辞す。允さず。在京の百司に命じ、日々公署に集まり、晨より暮れまで事を廃せざらしむ。灤陽、桓州、李陵台、昔宝赤、失児禿の五駅に各々鈔二百錠を賑給す。桓州の民、種うる所の麦を献ず。詔して幣帛二匹を賜い、慰めてこれを遣わす。戊戌、紅橋に次ぎ、燕鉄木児の生祠を臨視す。太禧宗禋院の隷する昭孝営繕司を崇祥総管府に隷属せしむ。遼陽東路蒙古万戸府の飢民三千五百戸に両月分の糧を賑給す。己亥、也児吉尼、行枢密院事を行なう。八番乖西蛮の官阿馬路、方物を奉じて入貢す。高郵、宝応等県は去歳水害あり、その租を免ず。庚子、太陰太白を犯す。辛丑、太白天を経る。阿速万戸府を宣毅万戸府と改め、銀印を賜い、伯顔にこれを領せしむ。済南章丘県の馬万の妻晋氏の志節を旌表す。癸卯、也児吉尼に太尉を加え、銀印を賜う。河間の塩課鈔四千錠を以て河間属県の飢民四千百戸を賑恤す。甲辰、通政院に詔して内外の水陸駅伝を整治せしむ。宣政院の臣言う、「旧制、列聖の神御殿及び諸寺の作る仏事、毎歳計二百十六、今その十六を汰り定式と為す」と。制して可とす。東昌、保定の二路、濮、唐の二州、虫あり桑を食う。寧夏、紹慶、保定、徳安、河間諸路の属県、大水。

六月乙巳朔、儲政院より鈔三万錠を徴発し、中宮の道路の用に給す。河南行省に命じて阿不海牙の政蹟碑を立てしむ。監察御史韓元善言う、「歴代国学皆盛んなり、独り本朝の国学生僅かに四百員、又復た蒙古、色目、漢人の額を分辨す。請うらくは凡そ蒙古、色目、漢人、員額を限らず、皆入学を得しむべし」と。又た監察御史陳守中言う、「請うらくは凡そ仕うる者親老にして、別に侍丁奉養する者なきは、地方名次を限らず、宜しく優しく附近に遷調すべく、庶くは忠孝の道を広むべし」と。皆報いず。米五千石を発して興和属県の飢民を賑恤す。丁未、太白昼に見ゆ。乙卯、監察御史陳良、浙東廉訪使脱脱赤顔が権姦の倒剌沙に阿附し、その生母何氏は本父の妾にして、而して兄これを妻とし、朝廷を欺誑し、温国夫人に封ぜらるるを劾す。憲職を黜罷し、贈恩を追還するを宜しとすべしと請う。御史台の臣以て聞く。これに従う。大都右警巡院の胡徳の妻曹氏の貞節を旌表す。壬戌、鈔一万五千錠を以て国王朵児只等九部の蒙古飢民三万三百六十二戸を賑恤す。癸亥、詔す、「諸官吏職役に在り或いは守代未任にして、人の為に行賄関説し、即ち取る所ある者は、官は十二章の贓を論ずる如く、吏は罷めて終身叙用せず。取る所無くとも、訟の起滅己より由る者は、罪常人に一等を加う」と。甲子、太府監、宮嬪、閹宦及び宿衛士の行帳資装を頒つ。控鶴衛士の当たる駅戸を免ず。丙寅、雲南出征軍悉く還る。烏撒の羅羅蛮復た戍軍の黄海潮等を殺し、撒加伯又た良民を殺掠して乱を為す。雲南行省及び行枢密院に命ず、「凡そ境上の諸関の戍兵、軽々に撤すべからず、宜しく緩急を視て以てその変を制すべし」と。丁卯、太陰畢を犯し、太白井を犯す。庚午、揚州の泰興、江都の二県は去歳雨害して稼を損なう。今年の租を免ず。枢密院の臣言う、「征西万戸府の軍七百人、泰定以来累ねて優恤を経、放還する者四百五十人。今辺防軍少なく、例に当り追いて営に還らしむべし」と。これに従う。是月、晋寧、亦集乃の二路旱魃。済寧路虫あり桑を食う。河南、晋寧の二路諸属県蝗害。大都、保定、真定、河間、東昌諸路の属州県及び諸屯水害。彰徳路臨漳県にて漳水決す。

秋七月甲戌朔(一日)、野馬川等の地に駐冬する衛士に衣を賜う。藝文少監歐陽玄が言うには、「先聖(孔子)の五十四代孫が襲封して衍聖公となり、爵は五等の最上、秩は三品に登るが、四品の銅印を用いているのは、爵秩に相応しくない」。詔して従三品の印を鋳造してこれを給する。徳安府は去年水害あり、今年の田租を免ず。徳安応山県の高可燾の孝行を旌表す。己卯(六日)、雲南が既に平定されたが、ただ祿余らが罪を懼れて竄伏しているため、詔を降してこれを曲赦す。辛巳(八日)、只児哈答児は罪に坐して遠流に当たるが、唐其勢の舅であるが故にこれを釈す。壬午(九日)、太祖・太宗・睿宗の御容を翰林国史院に祀る。監察御史張益らが言うには、「欽察台は英宗朝において、密かに中政使咬住と謀りを造り、脱歓察児が異図を構えんとしていると誣告し、その言辞は潜邸(帝の即位前の邸宅)に連なり、出て海南に居させるに至った。天暦の初め、倒剌沙が上都を拠るや、欽察台を遣わして兵をもって命に抗せしめたが、倒剌沙はその異志あるを疑い、またこれを禽えて帰し、即時に昔日の咬住の謀りを追言して自らを解した。皇上即位し、旧悪を念わず、中書に抜擢して居らしめたが、また自らその咎をのこし、官を奪われ産を籍没されるに至った。まもなくまた釈宥し、四川平章とした。今雲南未だ平らず、しょくと境を接し、その人反覆にして信任すべからず、官を削り遠くのがらしめ、なおその家産を没収すべきである」。台臣これを聞くに上る。詔してその制命・金符を奪い、妻子とともに広東に禁錮し、その家を籍没せしめない。なお御史に詔諭して、「凡そ憸人(邪悪な者)欽察台の如き者は、極言せよ、隠すなかれ」と。鉄木児補化、御史大夫の職を辞す。許さず。乙酉(十二日)、使者を遣わして代わりに護国庇民広済福恵明著天妃を祀らしむ。西僧に命じ、大都の万歳山憫忠閣において仏事を行わしめ、八月八日より起り、車駕が大都に還る日まで止む。丁亥(十四日)、海南の黎賊乱を起こす。詔して江西・湖広両省に兵を合わせてこれを捕えしむ。諸王搠思吉亦児甘卜・哈児蛮、駙馬完者帖木児、使者を遣わして来朝し蒲萄酒を献ず。壬辰(十九日)、知枢密院事脱別台を御史大夫とす。癸巳(二十日)、辰州・興国二路、虫が稼を傷つく。今年の租を免ず。甲午(二十一日)、帰徳府、雨が稼を傷つく。今年の租を免ず。諸衛士及び蒙古戸に四月分の糧を給す。乙未(二十二日)、済南に閔子書院を立つ。杭州火災あり、被災民百九十戸を賑恤す。丁酉(二十四日)、甘州兵千人・撒里畏兀兵五百人を調発し参卜郎を守らしめ、以て土番に備う。戊戌(二十五日)、伯顔を浚寧王に封じ、金印を賜い、前の如く太保・知枢密院事とす。高郵府、去年水災あり、今年の租を免ず。湖州安吉県、大水暴漲し、漂死すること百九十人、人ごとに鈔二十貫を給してこれをうずみ、存する者には糧を二月分賑恤す。庚子(二十七日)、広西の徭賊平定す。諸王雲都思帖木児を召し還す。辛丑(二十八日)、懐徳府洞蛮二十一洞の田先什用らが方物を以て来貢し、虜掠した生口八百余人を還してその家に給す。癸卯(三十日)、行枢密院事徹里帖木児、兵を以て叛蛮鎖力哈迷失を討ち、その党七百余人を戮す。是の月、河南・奉元の属県に蝗あり。大都・河間・漢陽の属県に水あり、冀寧の属県に雨雹ありて稼を傷つく。廬州は去年水害あり、寧夏は霜災あり、並びに今年の田租を免ず。寧夏鳴沙・蘭山の二駅の戸二百九十、定西州の新軍戸千二百、応理州の民戸千三百に、各一月分の糧を賑恤す。また龍興路の飢民九百戸に一月分の糧を賑恤す。大寧和衆県の何千の妻柏都賽児、夫亡き後身を以て殉葬す。その門を旌表す。

八月甲辰朔(一日)、日食あり。脱憐忽禿魯を靖恭王に、沙藍朵児只を懿徳王に封じ、並びに塗金銀印を給す。西域諸王卜賽因、使者忽都不丁を遣わして来朝す。灤陽駅の戸に馬牛各一を増置し、その和市雑役を免ず。上都孔子廟に碑を賜う。御史台臣が劾奏す、「宣徽副使桑哥、比来旨を奉じて宿衛士の銭糧を給するに、九日遅滞し、法を玩び公を欺く、罪は黜罷に当たる」。これに従う。己酉(六日)、銀符二十八を拱衛直百戸に賜う。燕鉄木児に命じ、鈔一万錠を以て蒙古の孤寡なる者に分賜せしむ。辛亥(八日)、大駕南還して大都に至る。壬子(九日)、西域諸王答児麻失里、朵列帖木児の位を襲う。諸王孛児只吉台らを遣わして来朝貢す。甲寅(十一日)、雪別台の孫月魯帖木児・買閭也先、来朝して失剌奴を献ず。金百両・銀千五百両・鈔五百錠・金帯一を賜う。宣課提挙司に命じ、燕鉄木児の邸舎の商貨税を収めしめず。斡児朵思の地、頻年災害あり、畜牧多く死に、民戸一万七千百六十、内史府に命じ鈔二万錠を給してこれを賑恤す。乙卯(十二日)、太白星、軒轅大星を犯す。丙辰(十三日)、内史怯列該を豊国公に封ず。星変ありて、群臣に赦を議せしむ。丁巳(十四日)、邠王不顔帖木児に命じ、撫州において囲猟せしむ。己未(十六日)、撫州に鎮寧王総管府を立つ。公主脱脱灰来朝す。汴梁路尉氏県を伯顔に賜い食邑とす。詔して刑部に内侍撒里不花の巫蠱の事をきくせしめ、凡そ死に当たる者は杖一百七、広東・広西に流す。中書省臣言う、「明年の海運糧二百四十万石、既に江浙に二百二十万石、河南に二十万石を運ばしむるを令す。今請う江浙に復た二十万石を増やし、本省参政杜貞に督領せしめん」。これに従う。復た命じて賑糶米五万石を以て京城の貧民を済わしむ。済寧路の魏鐸の孝行、揚州路の呂天麟の妻韋氏の貞節を旌表す。庚申(十七日)、太白星、軒轅左角を犯す。中書・枢密の臣言う、「西域諸王不賽因、その臣怯列木丁が王命をいつわって来朝す。不賽因、使者を遣わして来たり言い、執えて帰らんことを請う。臣ら議うに、宗藩の国、行人往来するに、執えてこれを付すは不可なり。宜しく駅伝に乗じて帰国せしめ自ら弁明せしむべし」。制して可とす。壬申(二十九日)、侍正府の秩を正二品にすすむ。是の月、江浙諸路、水潦ありて稼を害し、田十八万八千七百三十八頃を計う。景州、六月より是の月まで雨なし。澧州・泗州等の県、去年水害あり、今年の租を免ず。沅州飢饉あり、賑糶米二千石を給す。金州及び西和州、頻年旱災あり、民飢え、陝西塩課鈔五千錠を以て賑恤す。

九月癸酉朔(一日)、阿魯渾撒里の邸宅を買い取り、燕鐵木兒に命じて皇子古納答剌を奉じてそこに住まわせた。中書省の臣が言うには、「今年は馬と駱駝十四万八千四百匹を飼育すべきであり、京城で六万匹を飼い、残りは外郡に分けて飼わせ、一匹ごとに芻粟の代価として鈔四錠を与えるべきです」と。これに従った。乙亥(三日)、留守司に命じて軍士を発し、大承天護聖寺の東に駐蹕臺を築かせた。御史臺の臣が弾劾して奏上した、「四川行省参政の馬鎔は、食糧六千石を発して雲南軍に供給する途中で勝手に引き返し、俸給の鈔十九錠を前借りして妾を娶り、また平章の汪壽昌を罵った。罪は赦されたとはいえ、宰輔の任に堪え難い」と。帝は言った、「綱常の理、尊卑の分けを、ぼんやりとして知らない者が、どうして上に立って下を治められようか。速やかに罷免せよ」と。丙子(四日)、太白星が填星を犯した。枢密院の臣が言うには、「雲南東川路総管の普折の兄の那具が、祿余の兵と合流し、烏撒宣慰使の月魯、東川路府判の教化的ら二十余人を殺害した。また伯忽の甥の阿福と合流し、蒙古兵を率いて羅羅斯を撃とうとしている。臣らは燕鐵木兒と協議し、西域指揮使の鎖住らを派遣し、陝西都万戸府の兵を発して羅羅斯に直行させ、碉門安撫司の兵を発して大渡河を渡り、卭部州に直行させ、関隘を巡守させたい」と。詔して宣政院にも使者を派遣し、共に往ってこれを監督させた。海南の賊の王周が十九洞の黎蠻二万余人を糾合して乱を起こした。広東・福建の兵を徴発し、湖広行省左丞の移剌四奴の統領に属させて討伐・捕縛するよう命じた。阿速および新たに辺境を守備するオロス(斡羅思)の者に、遼陽行省が牛具・食糧を与えるよう命じた。己卯(七日)、粟五千石を発して興和路の鷹坊を救済した。庚辰(八日)、枢密院の臣が言うには、「六月の中旬、行枢密院の官が兵をもって烏撒の賊兵と五度戦い、これを破ったが、祿余だけは潜伏して捕らえられていない」と。四川行省に命じてその軍の糧秣を支給させた。興和宝昌州の飢民に米二千石を救済した。御史臺の臣が言うには、「大聖寿万安寺の壇主司徒の厳吉祥は、公物を盗み、妻子を養っている。その司徒・壇主の職を免ずべきである」と。これに従った。諸駅に駿馬を飼うことを禁じた。控鶴戸の雑役を免除した。湖州安吉県で長雨が続き、太湖が溢れ、二千八百九十戸の民家が流され、男女百五十七人が溺死した。江浙行省に命じて救済・撫恤させた。丁亥(十五日)、御史臺の臣が言うには、「江西行省参政の李允中は、かつての内侍李邦寧の養子であり、器量・資質が凡庸で劣っており、誤って重職に選ばれた。罷免すべきである」と。これに従った。庚寅(十八日)、大承天護聖寺に行幸した。鈔五万錠および四川の来年の塩課鈔五万錠を前貸ししたものを、行枢密院の軍需に給した。祿余が順元路を寇した。癸巳(二十一日)、供需府覆実司を廃止し、広誼司を設置した。官秩は正三品とし、右丞の撒迪にその事務を統轄させた。御史臺の臣が、太禧宗禋使の童童は淫侈で潔白でなく、明禋を奉ずるにふさわしくないと弾劾した。また、奎章閣監書博士の柯九思は、性質が純良でなく、行いが極めて偽り欺くものであり、その末技をたのんで権門に趨り附いている。罷免すべきであると請うた。乙未(二十三日)、金虎符を中書平章政事の亦列赤に賜った。思州鎮遠府が飢饉にあった。米五百石を救済した。丁酉(二十五日)、雲南行省が都事の那海、鎮撫の欒智らを派遣し、詔を奉じて祿余のもとに往き諭し、参政の制命を授けようとした。撒家関に至ると、祿余は受け入れを拒んだ。間もなく賊が大挙して来たので、那海は力戦し、賊はようやく退いた。夕方になって、烏撒の兵が順元の境内に入った。左丞の帖木兒不花が防戦し、那海は再び陣中で詔を宣して招いたが、ついに害に遭い、帖木兒不花らは兵を収めて帰還した。壬寅(三十日)、隆祥総管府を隆祥使司と改め、官秩を従二品とした。

冬十月甲辰(二日)、祕書太監の王珪らを派遣し、代わって嶽鎮・海瀆・后土を祀らせた。乙巳(三日)、行枢密院の徹里鐵木兒、小云失を召し還して朝廷に帰らせた。以前の東川路総管の普折の子の安楽に、その父の職を継がせた。己酉(七日)、太廟で時享を行った。皇子古納答剌のために仏事を行い、在京の囚人を釈放し、死罪の者二人、杖罪の者四十七人を赦した。辛亥(九日)、江南行臺御史大夫の阿兒思蘭海牙を召して朝廷に赴かせた。癸丑(十一日)、大承天護聖寺に行幸した。蒙古都元帥の怯烈が兵を率いて澂江路海中山で阿禾の賊党を撃ち、雲梯で山に登り、その柵を破り、賊五百余人を殺した。禿堅の弟の必剌都古彖失は一家を挙げて海に身を投げて死んだ。また禿堅の弟二人、子三人を捕らえ、これを誅した。甲寅(十二日)、杭州で火災があった。江浙行省に命じて、自活できない者を救済させた。丁巳(十五日)、中書省の臣が言うには、「江浙平江・湖州等路で水害により作物が損なわれ、来年の海運による漕米二百六十万石では不足する恐れがある。百九十万石を運ばせ、河南に三十万石、江西に十万石を発送させるのがよい。また、官を派遣し、鈔十万錠、塩引三万五千道を持たせ、通・漷・陵・滄の四州で、優れた価格で和糴により米三十万石を買い上げる。また、鈔二万五千錠、塩引一万五千道をもって、通・漷の二州で、和糴により粟豆十五万石を買い上げる。また、鈔三十万錠をもって、遼陽の懿・錦の二州に往き、和糴により粟豆十万石を買い上げる」と。いずれもこれに従った。在京で積年の返還・倒れた昏鈔二百七十余万錠を焼却した。戊午(十六日)、詔して平江路の大玉清昭応宮の田百頃を返還し、官はその租を徴収しないこととした。己未(十七日)、宿衛士で官職を持つ者に芻豆を給した。諸王の卜賽因の使者が西域に還るにあたり、詔してその貢いだ薬物の価値を報酬として与えた。辛酉(十九日)、西僧に命じて興聖宮で仏事を行わせ、十五日で終わらせた。呉江州で大風雨があり、太湖が溢れ、家屋・資産・家畜千九百七十家が流され没した。江浙行省に命じて鈔千五百錠を給してこれを救済させた。乙丑(二十三日)、昭功万戸都総使府を設置し、伯顏、鐵木兒補化の両名をともに昭功万戸都総使を兼ねさせた。丙寅(二十四日)、大都路に命じて時価を定め、毎月の朔望に広誼司に送り、物価の調整に用いさせた。燕鐵木兒が西域から犛牛五十頭を取って来て献上した。

十一月壬申朔(一日)、日食あり。雲南行省言う、「亦乞不薛の地に牧する国馬は、毎年塩を給し、毎月上寅の日にこれを啖わせれば、馬は健やかで病なし。近ごろ伯忽の叛乱により、雲南の塩は届かず、馬多く病死す」と。詔して四川行省に命じ塩を給せしむ。乙亥(四日)、李彦通・蕭不蘭奚ら謀反し、誅せらる。丙子(五日)、諸王斡即を封じて保寧王とし、印を賜う。その先に受けし印を諸王渾禿帖木児の子庚兀台に賜う。詔して移剌四奴に分行省の印を給す。丁丑(六日)、興和路の鷹坊及び蒙古民一万一千百余戸、大雪にて畜牧凍死す。米五千石を賑恤す。戊寅(七日)、枢密院臣言う、「天暦の兵興に際し、揚州は重鎮なるを以て、嘗て淮東宣慰司に兵権を仮せり。今事既に寧んず。宜しくその部兵をして復た河南行省に隷せしむべし。また、征西元帥府は泰定初より兵四千一百人を調発し龍剌・亦集乃を戍り、期を五年とし交代せしむ。今既に七年、逃亡者衆し。宜しく優しく恤み、期を来歳五月として代わり還らしむべし」と。並びにこれに従う。己卯(八日)、醮班を封じて豳国公とす。庚辰(九日)、左・右欽察衛の軍士千四百九十戸飢う。上都留守司に命じてこれを賑恤す。辛巳(十日)、戸部尚書耿煥を以て中書参知政事とす。癸未(十二日)、詔して燕鉄木児の子塔剌海を養い子とし、居第及び没収した李彦通の資産を賜う。荊王也速也不干、犛牛四百を献ず。詔す、「毎年、枢密院・宗正府より官を遣わし、遼陽行省官とともに諸郡を巡歴し、諸王の部衆に民を擾乱せしむることなからしめよ」と。隆祥司使晃忽児不花言う、「海南に建つ大興龍普明寺は、工費浩大にして、黎人はその擾乱に耐えず、故に乱を為す」と。詔して湖広行省臣玥璐不花及び宣慰・宣撫二司にその役を領せしめ、なお廉訪司にこれを監せしむ。辛卯(二十日)、諸王撒児蛮、使者七十四人を遣わして来朝す。左欽察衛撒敦等翼の頂也児古に駐冬する軍千五百八十戸を賑恤す。諸塩課鈔を以て十分の一を割き銀を収め、銀は毎錠五十両、鈔二十五錠に折る。乙未(二十四日)、勅して宮相都総管府をして昭功都総使府に隷せしめず。丁酉(二十六日)、南陽府の嵩州を以て、更に伯顔に食邑として賜う。

十二月戊申(八日)、陝西行台御史捏古伯・高坦ら劾奏す、「本台監察御史陳良、勢いに恃み毒をほしいままにし、私にしたがって法を破る。職を罷め贓を籍没し、田里に還帰せしむるを請う」と。旨あり、「赦に会うといえども、風憲の例に準じ、勅命を追奪すべし。余は奏するが如くせよ」と。黄金符に文をり「翊忠徇義迪節同勳」と曰い、西域親軍副都指揮使欽察に賜い、以てその天暦初めの紅橋における戦功をむ。壬子(十二日)、復た諸王忽剌出を命じて雲南に還鎮せしむ。癸丑(十三日)、撒敦、斡羅思十六戸を献ず。銀百鋌・鈔五千錠を以て酬いる。河間路清池・南皮県の牧地を以て斡羅思の駐冬に賜い、なお忽里の牧する官羊を以てこれを給す。河南河北道廉訪副使僧家奴言う、「古より忠臣を求むるには必ず孝子の門にす。今朝に官する者、十年省覲せざる者有り。親を思う心無きに非ず、実に朝廷に給假省親の制無く、而して官次をほしいままに離るるの禁有るによる。古律に、諸職官父母三百里に在るは、三年に一たび定省の假二十日を給するを聴く。父母無き者は、五年に一たび墓を拝する假十日を給するを聴く。これを推すに、父母三百里より万里に至るまで、宜しく道里の遠近を計り、假期を定立すべし。その省覲すべきに匿して省覲せざる者は罪に坐すべし。もし假期を詐冒し、規避して以てその罪を掩うは、詐りて奔喪する者と同科とすべし」と。御史台臣以て聞く。中書省・礼部・刑部及び翰林・集賢・奎章閣に命じてこれを議せしむ。丁巳(十七日)、木氷(霧氷)降る。戊午(十八日)、西域諸王禿列帖木児、使いを遣わし西馬及び葡萄酒を献ず。四宿衛及び諸潜邸の衛士の歳賜鈔を予め給し、人ごとに二十錠。庚申(二十日)、集賢直学士答失蛮を遣わし真定玉華宮に詣らしめ、睿宗及び顕懿荘聖皇后の神御殿を祀らしむ。辛酉(二十一日)、兵部尚書也速不花・同僉通政院事忽納不花を遣わし帝師を迎えしむ。詔して中書省・御史台に官を遣わし各道に詣らしめ、廉訪司とともに囚を録せしむ。癸亥(二十三日)、木氷降る。征東元帥府に兵仗を給す。丁卯(二十七日)、御史台臣言う、「甘粛行省平章月魯帖木児は、既に蒙古の族姓に非ず、且つ事機に暗し。兵柄を総べしむるは、恐らく宜しからざるか」と。詔して枢密院に命じ軍馬を提調せしめず。己巳(二十九日)、御史台臣言う、「河東道廉訪副使忽哥児不花、僉燕南道廉訪司事不顔忽都・王士元・郝志善は、憲綱振わず、宜しく官を免ずべし」と。これに従う。寧海州崔惟孝の孝行を旌む。

この年、真定路属州水害あり。冀寧・河南の二路旱魃、大飢饉。