元史

本紀第三十四: 文宗三

至順元年春正月丙辰、趙世延・趙世安に命じて経世大典の編纂を統轄させた。懐慶路に飢饉あり、鈔四千錠を賑給す。丁巳、明宗の妃按出罕・月魯沙・不顔忽魯都にそれぞれ差等を設けて鈔幣を賜う。知枢密院事伯帖木児を以て遼陽行省左丞相と為す。戊午、璽書を頒布して雲南を諭す。辛酉、時に太廟を享く。回回司天監に命じて星をまつらしむ。壬戌、中興路に飢饉あり、糧一万石を賑糶し、貧しき者はなおその家をすくう。甲子、燕鉄木児・伯顏ともに丞相の職を辞す、許さず、なお阿栄・趙世安に命じてこれを慰諭せしむ。丁卯、雲南の諸王禿堅及び万戸伯忽・阿禾・怯朝ら叛き、中慶路を攻め、これを陥とし、廉訪司の官を殺し、左丞忻都らを執り、諸文牘に署することを迫って令す。庚午、芍陂屯及び鷹坊の軍士飢え、一月分の糧を賑給す。辛未、中書省の臣言う、「科挙会試の日取りは、旧制は二月一日・三日・五日とし、近年は十一日・十三日・十五日に改められました。旧制に従うことを請う」。これに従う。壬申、衡陽の猺(ヤオ族)寇と為り、湘郷州を劫掠す。癸酉、宣徽使撒敦を以て再び知枢密院事と為し、欽察台とともに長寧卿を統轄せしむ。乙亥、燕鉄木児に質庫一を賜う。寧海州文登・牟平県に飢饉あり、糧三千石を以て賑給す。丙子、衡州路に飢饉あり、総管王伯恭が受けし制命を質として官糧一万石を賑給す。丁丑、三宝奴を追封して郢城王と為し、諡して栄敏と曰う。荊王の子脱脱木児を召して闕に赴かしむ。趙世延致仕を請う、許さず。中書省に命じて玉帯二十を作らしめ、臣僚の官一品の者に賜う。使者を遣わし金千五百両・銀五百両をもたせて杭州に詣り仏経を書かしむ。海南の大興龍普明寺に鈔一万錠を賜い、永業の地を買わしむ。戊寅、隆禧総管府に田千頃を賜う。荊襄等処・平松等処の田賦提挙司を立て、ともに太禧宗禋院に隷属せしむ。陝西行省に命じて塩課鈔十万錠を以て復業する流民を賑恤せしむ。徭賊八百余人石康県を寇す。己卯、太医院使野理牙を封じて秦国公と為す。庚辰、羣玉署を陞めて羣玉内司と為し、秩正三品、司尉・亜尉・僉司・司丞を置き、なお奎章閣学士院に隷属せしむ。礼部尚書巎巎(ナオナオ)兼ねて羣玉内司事を監す。辛巳、大都田賦提挙司を改めて宣農提挙司と為し、荊襄田賦提挙司を荊襄済農香戸提挙司と為し、平江提挙司を平江善農提挙司と為す。使者を遣わし鈔三千錠を齎せて甘肅に往き髦牛を買わしむ。濠州去年旱魃あり、一月分の糧を賑給す。大名路及び江浙諸路ともに去年の旱魃を告ぐ。永平路去年八月の雹災を告ぐ。秦のしょく郡太守李冰に加封して聖徳広裕英恵王と為し、その子二郎神を英烈昭恵霊顕仁祐王と為す。

二月壬午朔(一日)、趙世安を御史中丞とし、史惟良を中書左丞とする。癸未(二日)、知樞密院事燕不隣に開府儀同三司を加える。張珪の子五人の家財を没収する。乙酉(四日)、西僧の加瓦蔵卜・蘸八児監蔵を並びに烏思蔵土蕃等処宣慰使都元帥とする。雲南麓川等の土官が方物を貢ぐ。揚州・安豊・廬州等路が飢饉となり、両淮塩課鈔五万錠・糧五万石をもってこれを救済する。真定・蘄・黄等路、汝寧府・鄭州が飢饉となり、それぞれ一月分の糧を救済する。丁亥(六日)、江南・陝西・河南等処の富民に粟を輸納させ官を補うことを命じる。江南で一万石の者は正七品の官、陝西で千五百石・河南で二千石・江南で五千石の者は従七品とし、その余は品級に差がある。四川の富民で江陵へ粟を輸納できる者は、河南の例に依り、仕官を望まず父母に封号を乞うことを聴許する。僧・道が己の粟を輸納した者には、師号を加える。江浙・江西・湖広の賑糶糧価鈔を徴発し京師へ送る。己丑(八日)、禿堅・伯忽等が仁徳府を攻め落とし、馬龍州に至る。八番元帥完沢に八番答剌罕軍千人・順元土軍五百人を率いさせてこれを防がせる。庚寅(九日)、万聖祐国・興龍普明・龍翔万寿の三提点所を改めて並びに営繕都司とし、秩は正四品とする。万安規運・普慶営繕等八提点所を並びに営繕司とし、秩は正五品とする。経世大典の編修が久しく成果が上がらないため、専ら奎章閣の阿隣帖木児・忽都魯都児迷失等に命じて国語で記された典章を漢語に訳させ、纂修は趙世延・虞集等が行い、燕鉄木児は国史の例に倣い監修とする。開元路胡里改万戸府の軍士が飢え、糧を与えて救済する。辛卯(十日)、御史台の贓罰鈔一万錠・金一千両・銀五千両を太禧宗禋院に付し、祭祀の需要に供える。燕鉄木児に駅伝璽書を与え、その食邑の租賦を徴収させる。奎章閣学士の忽都魯都児迷失・撒迪・虞集が辞職を請うたが、詔を下して諭して言う、「昔、我が祖宗は睿知聡明であり、理を致す道については、自然と生知していた。朕は統緒の伝わる所、実に眇躬(朕)に在り、夙夜憂懼し、自ら惟うに、早歳より艱阻を跋渉し、我が祖宗と比べれば、既に生知の明に乏しく、国家の治体について、どうして周知できようか。故に奎章閣を立て、学士員を置き、日々祖宗の明訓・古昔の治乱得失を前に陳説させ、朕をして聴聞を楽しましめている。卿等はその学ぶ所を推し進めて朕の意に称えよ、再び辞するなかれ」。帖麦赤の駅戸及び建康・広徳・鎮江諸路が飢え、一月分の糧を救済する。衛輝・江州二路が飢え、鈔二万錠を救済する。寧国路が飢え、かつて糧二万石を救済したが足りず、さらに一万五千石を救済する。癸巳(十二日)、衛輝路胙城・新郷県が大風雨の災害に見舞われる。甲午(十三日)、庚寅(九日)よりこの日まで、京師は大霜が降り昼も曇る。諸色民匠打捕鷹坊都総管府を立て、秩は正二品とする。奎章閣監書博士二人を置き、秩は正五品とする。禿堅・伯忽等が晋寧州を攻める。禿堅は自ら雲南王と称し、伯忽を丞相とし、阿禾・忽剌忽等を平章等の官とし、城柵を立て、倉庫を焼いて命令に抵抗する。乙未(十四日)、中書省が言う、「江浙の民が飢えている。今年の海運は米二百万石であるが、不足分は来年補運する」。これに従う。丙申(十五日)、雲南の蒲蛮が来朝する。常徳・澧州路の飢饉を救済する。丁酉(十六日)、帝及び皇后・燕王阿剌忒納答剌が並びに仏戒を受ける。己亥(十八日)、明宗の皇子に仏戒を受けることを命じる。監察御史が言う、「中書平章の朵児只は、台衡の職任にありながら、報効を思わず、銓選の際には綱紀を紊乱し、貪污が著しく聞こえ、恬として恥を知らず、罷黜するのが適当である」。これに従う。徭賊が灌陽県に入り、民財を掠奪する。庚子(十九日)、兵興の際に収めた諸王也先帖木児・搠思監等の印を還して与える。壬寅(二十一日)、玥璐不花が御史大夫の職を辞するが、許さない。土蕃等処の民が飢え、命じて有司に糧をもって救済させる。新安・保定諸駅の孳畜が疫病で死に、命じて中書に鈔を与えその不足を補わせる。癸卯(二十二日)、汴梁路封丘・祥符県が霜害に見舞われる。甲辰(二十三日)、王禅の子を吉陽軍に流す。乙巳(二十四日)、明宗の皇子亦璘真班を鄜王に封ずる。王阿剌忒納失里の所部千六百余人が飢え、二月分の糧を救済する。淮安路の民が飢え、両淮塩課鈔五万錠をもって救済する。丙午(二十五日)、再び阿児思蘭海牙を江南行台御史大夫とする。命じて中尚卿小云失に兵を以て雲南を討たせる。御史台臣が言う、「欽察台は天暦初年に上都におり、常に闊闊出等と謀り倒剌沙を捕らえようとしたが、事が洩れ、同謀者は皆死に、欽察台は出征したため免れた。近頃台臣が疑ってこれを弾劾したが、事情に合わず、その冤を雪ぐべきである」。制して「可」とする。丁未(二十六日)、伯顔を知樞密院事とし、前の如く太保・録軍国重事とする。中書に詔を下して諭して言う、「昔、世祖の世に、嘗て宰相一人に庶務を総領させたので、治は一より出で、政に統べる所があった。今、燕鉄木児を右丞相とし、伯顔は既に知樞密院事であるから、左丞相は再び置かないように」。太禧宗禋院に隷属する総管府に、各々副達魯花赤一人を置く。豫王の王傅官に金虎符を賜う。戊申(二十七日)、命じて中書省及び翰林国史院の官に太祖・太宗・睿宗三朝の御容を祭らせる。太禧宗禋使の阿不海牙を中書平章政事とする。史惟良及び参知政事の和尚に建言の事を総督させる。中書省臣が言う、「旧制では、正旦・天寿節に、内外諸司はそれぞれ贄献があったが、近頃これを廃止した。今、江浙省臣が言うには、聖恩は公溥にして覆幬無疆であるが、臣等は殊に補報するところが無く、凡そ慶礼に遇えば、進表して賀し、旧制の如くにするのが宜しいと請う」。これに従う。璽書を下して塩法の禁令を申し述べる。嘉興路崇徳県の民四万戸の輸納する租税を以て、英宗后妃の歳賜銭帛に供える。詔を下して樞密院に諭し、屯田の子粒銭一万錠を以て仏寺建立を助け、その軍卒の土木の役を免ずる。庚戌(二十九日)、茶陵州の民が飢え、同知の万家奴・江存礼が受けた敕を質として糧三千石を賑う。辛亥(三十日)、迤西蒙古の駅戸が飢え、芻粟を給して差がある。河南の流民で帰還する者に鈔五千錠を救済する。泰安州の飢民三千戸、真定南宮県の飢民七千七百戸、松江府の飢民一万八千二百戸、及び土蕃朵里只失監万戸部内の飢饉について、命じて所在の有司に従宜に救済させる。済寧路の飢民四万四千九百戸に、山東塩課鈔一万錠を以て救済する。杭州で火災があり、一月分の糧を救済する。故瀛国公趙㬎の田を買い取り、大龍翔集慶寺の永業とすることを命じる。御史台臣が言うにはその代価を与える必要はないが、帝は言う、「朕が寺を建てるのは子孫黎民のためである。人の田を取って代価を与えなければ、朕の志ではない」。察罕脳児宣慰司の所部の千戸察剌等の衛で飢えた者一万四千四百五十六人に、人ごとに鈔一錠を与える。

三月甲寅、宣政院に命じて顕懿荘聖皇后の神御殿の祭祀を供えさせた。乖西䚟蛮三千人が松梨山に入り、沿辺の官軍の営堡を焼いた。東平路須城県が飢饉となり、山東塩課鈔で賑済した。安慶・安豊・蘄・黄・廬の五路が飢饉となり、淮西廉訪司の贓罰鈔で賑済した。丁巳、済陽王木楠子を移封して呉王とし、呉王潑皮を済陽王とした。八番順元・曲靖・烏撒・烏蒙・蒙慶・羅羅斯・嵩明州の土官に幣帛をそれぞれ賜った。濫りに駅伝を給することを禁じた。四川の官吏で囊加台に脅従した者は皆、元の職に復した。戊午、皇子阿剌忒納答剌を封じて燕王とし、宮相府を立ててその府事を総べさせ、秩は正二品とし、燕鉄木児がこれを領いた。廷試の進士を行い、篤列図・王文燁ら九十七人に及第・出身をそれぞれ賜った。彰徳路に命じて毎年羑里の周文王祠を祭らせた。河南行省平章乞住を雲南行省平章とし、八番順元宣慰使帖木児不花を雲南行省左丞とし、豫王に従って八番道より雲南を討たせた。明宗の近侍七十人に官をそれぞれ賜った。裕宗及び昭献元聖皇后の位の宿衛三千人に、儲政院に命じてその衣糧芻粟を給させた。米十万石を発して京師の貧民を賑糶した。癸亥、諸王桑哥班・撒忒迷失・買哥を遣わして分かれて西北諸王燕只吉台・不賽因・月即別らのもとに使わした。甲子、内外に詔諭し、御史大夫鉄木児補花・玥璐不華に命じて台綱を振挙させた。丁卯、木八剌沙が来て葡萄酒を貢ぎ、鈔幣をそれぞれ賜った。山東塩課鈔一万錠をもって東昌の飢民三万三千六百戸を賑済した。己巳、明宗の升祔を議し、英宗の上に序し、順宗・成宗の廟遷の例に視した。辛未、群臣が皇帝の尊号を上ることを請うたが、許さず、固く請うてやまず、ついにこれを許した。知枢密院事不花帖木児を封じて武平郡王とした。雲南の禿堅・伯忽を討った功を録し、雲南宣慰使土官挙宗・禄余に並びに遥授して雲南行省参知政事とし、その他は賜賚をそれぞれ賜った。龍慶州を分かちて大都路に隷させた。諸王也孫台の部七百余人が天山県に入り、民の財産を掠め、枢密院・宗正府の官を遣わしてこれを捕らえさせた。壬申、玉冊・玉宝を奉じ、明宗の神主を太廟に祔した。濮州臨清・館陶の二県が飢饉となり、鈔七千錠で賑済した。光州光山県が飢饉となり、官粟一万石を出し、その価を下げて賑糶した。信陽・息州及び光州の固始県が飢饉となり、並びに附近の倉糧で賑済した。甲戌、諸王速来蛮を封じて西寧王とした。乙亥、西番哈剌火州が来て葡萄酒を貢いだ。諸王・駙馬が還鎮し、錫賚をそれぞれ賜った。丙子、山東都万戸府を都督ととく府に改めた。雲南木邦路土官渾都が来て方物を貢いだ。河南登封・偃師・孟津諸県が飢饉となり、両淮塩課鈔三万錠で賑済した。鞏昌・臨洮・蘭州・定西州が飢饉となり、鈔三千五百錠で賑済した。沂・莒・膠・密・寧海の五州が飢饉となり、糧五千石で賑済した。中興・峡州・帰州・安陸・沔陽の飢戸三十万余りに、糧四月分を賑済した。丁丑、太常礼儀院の秩を正二品に陞めた。有司に命じて明宗后八不沙の宮分幣帛二百匹及び阿梯里・脱忽思の幣帛をそれぞれ供えさせた。燕鉄木児に功勲の碑を賜った。広平路が飢饉となり、河間塩課鈔一万三千錠で賑済した。辛巳、諸王哈児蛮が使いを遣わして葡萄酒を貢いだ。広徳・太平・集慶等路が飢饉となり、凡そ数百万戸に及んだ。濮州諸県で虫が桑の葉を食い尽くそうとしている。

夏四月壬午朔、西僧に命じて仁智殿で仏事を行わせ、この日より始め、十二月終わりに罷めた。癸未、怯憐口銭糧都総管府を置き、秩は正三品とした。中書省臣が言うには、「各宮分及び宿衛士の歳賜銭帛は、旧額は一万人であったが、去歳四千人を増やし、近ごろは増数益々広く、旧額に依るのが宜しいと請う。」詔して阿不海牙に命じて裁省して奏聞させた。甲申、時に太廟を享した。丙戌、也真也不干を封じて桓国公とした。燕鉄木児が言うには、「天暦初め、阿速軍士が国のために労があった。鈔十万錠・米十万石を分かちてその家に給することを請う。」従った。戊子、四川行省が重慶五路万戸を調べて兵をもって雲南を救わせた。庚寅、中書省臣が言うには、「近ごろ諸処の民が飢饉となり、累ねて常に賑救したが、去歳は鈔百三十四万九千六百余錠・糧二十五万一千七百余石を賑済した。今、汴梁・懐慶・彰徳・大名・興和・衛輝・順徳・帰徳及び高唐・泰安・徐・邳・曹・冠等州の飢民六十七万六千戸、一百一万二千余口に、鈔九万錠・米一万五千石をもって、有司に命じて分かち賑済することを請う。」制して「可」とした。陝西が飢饉となったため、有司に命じて七日間仏事を行わせた。壬辰、籍没した張珪諸子の田四百頃を、大承天護聖寺に賜って永業とした。沿辺部落の蒙古飢民八千二百人に、人ごとに鈔三錠・布二匹・糧二月分を給し、その部に還遣した。癸巳、豫王の王傅・副尉・司馬を各二員置いた。丁酉、諸王桑兀孫を遣わして雲南に還らせた。金蘭等の駅の馬牛が死に、鈔五百錠で賑済した。庚子、璽書を降して太禧宗禋院に申諭した。天臨の醴陵・湘陰等州、台州の臨海等県が飢饉となり、各々賑糶米五千石を賑済した。辛丑、明宗后八不沙が崩じた。壬寅、益都・般陽・寧海の閑田十六万二千九十頃を括め、大承天護聖寺に賜って永業とした。益都広農提挙司及び益都・般陽・寧海諸提領所を立て、並びに隆祥総管府に隷させた。烏撒土官禄余が烏撒宣慰司の官吏を殺し、伯忽に降った。羅羅諸蛮が俱に叛き、伯忽と相応じ、平章帖木児不花がそのために害された。晋寧・建昌の二路の民が飢饉となり、糧五万五千石・鈔二万三千錠で賑済した。戊申、陝西行台が言うには、「奉元・鞏昌・鳳翔等路は累年の飢饉により、五穀の種を具えることができない。鈔二万錠を給し、他の郡に分かち糴させることを請う。」従った。雲南の賊禄余が蛮兵七百余人をもって烏撒・順元の界に拠り、関を立てて固守した。重慶五路万戸の軍が雲南の境に至り、羅羅蛮に値い、一万余人が害に遇い、千戸祝天祥らが余衆を引いて遁還した。詔して江浙・河南・江西の三省に兵二万を調べ、諸王云都思帖木児及び枢密判官洪浹にこれを将いさせ、湖広行省平章脱歓と会兵して雲南を討たせた。己酉、仏事を行った。この月、滄州・高唐州の属県で虫が桑の葉を食い尽くした。芍陂屯が飢饉となり、糧三月分を賑済した。土蕃等処脱思麻の民が飢饉となり、有司に命じてこれを賑済した。懐慶承恩・孟州等の駅に鈔千錠を賑済した。

五月乙卯、宣徽使定住らを遣わし、尊号を受けたことを告げて南郊で祭祀を行わせた。故四川行省平章寛徹、四川道廉訪使忽都魯養阿らは、皆囊加台に害せられ、官を追贈し諡を賜った。榆次県主簿太帖木児、河中府判官禿塔児は、皆遼東軍に害せられ、共に褒贈を加えられた。戊午、帝は大明殿に御し、燕帖木児が文武百官及び僧道・耆老を率い、玉冊・玉宝を奉じて、尊号を上ること欽天統聖至徳誠功大文孝皇帝と曰う。この日、元号を至順と改め、天下に詔した。河南・懐慶・衛輝・晋寧の四路でかつて賑済を受けた人戸は、今年の差発を全額免除する。その他の被災路分の人民で既に賑済を受けた者は、腹裏の差発・江淮の夏税も三分を免ずる。己未、羅羅斯の権土官宣慰撒加伯、阿漏の土官阿剌、里州の土官徳益が叛き、禄余に附いた。庚申、尊号を受けたことを恭しく太廟に謝した。辛酉、四川行省が雲南を討ち、軍を進めて烏蒙に至った。壬戌、帰徳府の譙県で霧が麦を損なった。癸亥、四川軍が雲南の雪山峡に至り、羅羅斯軍に遭遇してこれを破った。徳州が飢え、山東塩課鈔三千錠を以て賑済した。武昌路が飢え、糧五万石・鈔二千錠を以て賑済した。甲子、重ねて燕鉄木児を中書右丞相と命じ、天下に詔した。鈔四万錠を分けて宮人に給した。魯国大長公主に鈔一万錠を賜う。丁卯、翰林国史院が英宗実録を修し成る。戊辰、車駕は大都を発ち、大口に駐まる。尚舎寺の秩を正三品に昇す。阿鄰帖木児を大司徒しとと命ず。豫王阿剌忒納失里を遣わして西番を鎮めさせ、金印を授けた。諸王脱歓に金印を、大司徒不蘭奚に銀印を賜う。趙世延に翰林学士承旨を加え、魯国公に封ず。衛輝・大名・廬州の飢民に鈔六千錠・糧五千石を賑済す。開元路胡里該万戸府・寧夏路哈赤千戸所の軍士が飢え、各々二月分の糧を賑済す。己巳、龍虎台に駐まる。粛王寛徹に傅・尉・司馬各一員を置く。辛未、宣忠扈衛親軍都万戸府を置き、秩正三品とし、幹羅思軍士を総べ、枢密院に隷属させる。太禧宗禋使亦列赤を中書平章政事とする。左・右欽察・龍翊侍衛の軍士五千三百七十戸が飢え、戸ごとに鈔二錠・布一匹・一月分の糧を賑済す。癸酉、使者を遣わして雲南において軍を労う。時に諸王禿剌が万戸忽都魯沙・怯列・孛羅らを率い、皆兵を領して禿堅・伯忽を進討す。甲戌、八番乖西䚟の苗阿馬・察伯秩ら一万人が辺境を侵擾し、詔して枢密臣に分兵してこれを討たしむ。乙亥、順元宣撫司を置き、答剌罕軍を統率して雲南に征し、人ごとに鈔五錠を賜う。衛輝路の輝州は、穀種が荒廃して乏しいため、鈔三千錠を給し、他郡において買い入れさせしむ。己卯、使者を遣わして五台山に詣り仏事を行わしむ。庚辰、湖広行省に命じ、鈔五万錠を以て雲南の軍需に給せしむ。この月、右衛左右手屯田に大水有り、禾稼八百余頃を害す。広平・河南・大名・般陽・南陽・済寧・東平・汴梁等の路、高唐・開・濮・輝・徳・冠・滑等の州、及び大有・千斯等の屯田に蝗有り。浙東宣慰使陳天祐・湖広参知政事樊楫が王事に死したことを以て、贈封を特一級加う。龍興の張仁興の妻鄒氏・奉元の李郁の妻崔氏は志節を以て、汴梁の尹華は孝行を以て、皆その門を旌表す。

六月辛巳朔、燕鉄木児言う、「かつて旨有り、惟だ臣及び伯顔のみ三職を兼領することを許す。今趙世延は平章政事を以て翰林学士承旨・奎章閣大学士を兼ね、疾を引いて辞す」と。帝曰く、「朕は老成人を重んず。其れ世延をして仍中書に視事せしめよ。果たして病なば、銓選に預からざるべし」と。丙戌、大駕は上都に至る。戊子、左・右欽察・龍翊侍衛の軍士に糧を給す。壬辰、鎮江飢え、糧四万石を賑済す。饒州飢え、亦た有司に命じてこれを賑済す。癸巳、御史台臣言う、「宣徽院の銭穀は、出納に経無く、上供の飲饍に充て、冒昧なる者多し。其の案牘を稽へざれば、則ち弊日々に滋さん。宜しく旧制の如く、実を具して省部に上し、以て考覈に備うべし」と。これに従う。丙申、行枢密院を立てて雲南を討ち、駅伝に用いる璽書十五・銀字円符五を賜う。河南行省平章徹里鉄木児を行枢密院事とし、陝西行省平章探馬赤・近侍教化を同知・副使とする。朵甘思・朵思麻及び鞏昌諸処の軍一万三千人を発し、人ごとに馬三匹に乗ず。徹里鉄木児は鎮西武靖王搠思班らと共に四川より、教化は豫王阿剌忒納失里らに従い八番より、分道して軍を進む。黄河溢れ、大名路の属県民田五百八十余頃を没す。庚子、内侍中瑞卿撒里を大司徒とする。四川行省左丞孛羅に金虎符を賜う。塩課鈔二十万錠を以て雲南の軍需に供す。河南・湖広・江西・甘肅行省に命じ、蔵経六百五十部を誦せしめ、鈔三万錠を施す。知枢密院事闊徹伯・脱脱木児、通政使只児哈郎、翰林学士承旨教化的・伯顔也不干、燕王宮相教化的・幹羅思、中政使尚家奴・禿烏台、右阿速衛指揮使那海察・拝住は、謀を以て変を為さんとし罪有り、並びに市に棄て、其の家を籍没す。癸卯、四川の孛羅は蒙古漸丁軍五千を以て雲南に往かしむ。乙巳、羅羅斯土官撒加伯が烏蒙蛮兵一万人を合わせて建昌県を攻め、雲南行省右丞躍里怗木児これを拒ぎ、首級四百余を斬る。四川軍も亦た蘆古駅において撒加伯を破る。丙午、朵思麻の蒙古民飢え、一月分の糧を賑済す。丁未、東路蒙古軍元帥府を東路欽察軍万戸府と改む。この月、高唐・曹州及び前・後・武衛屯田に水災有り。大都・益都・真定・河間諸路、献・景・泰安諸州、及び左都威衛屯田に蝗有り。迤北の蒙古飢民三千四百人に、人ごとに糧二石・布二匹を給す。真定の梁子益の妻李氏らの貞節、徐州の胡居仁の孝行を旌表す。

秋七月辛亥、諸王按渾察を広寧王に封じ、金印を授ける。壬子、西僧に命じて星を禜らしむ。丙辰、闊徹伯の大司徒の印を撒里に授く。丁巳、中書省・翰林国史院の官に命じ、大普慶寺において太祖・太宗・睿宗の御容を祀らしむ。西僧に命じて皇子燕王のため仏事を行わしむ。西域諸王不賽因、使いを遣わして来朝賀す。監察御史、籍没した闊徹伯の衣物を宿衛軍士に分賜することを請う。これに従う。己未、闊徹伯の邸宅を太禧宗禋院に賜い、衣服を群臣に賜う。通渭に山崩れ、民家を圧し、陝西行省に命じて被災者十二家を賑恤せしむ。庚申、脱脫木兒の家財を籍没し、内府に輸送す。辛酉、哈思罕万戸府を総管府に改め、秩四品とす。詔して曰く、「僧・道・猟戸・鷹坊で璽書を得るべき者は、翰林院は中書省を越えて奏聞してはならない」と。真定路の平棘、広平路の肥郷、保定路の曲陽・行唐等県、大風雨雹ありて禾稼を傷つく。許失台速怯・月謹真孛可等部、人口牧畜を献じ、命じてその価を酬う。江西建昌万戸府の軍で広海に戍る者は、一年ごとに交替し、往来労苦す。詔して元来の至元の旧制に戻し、二年に一度交替とす。乙丑、翰林学士承旨也児吉尼、枢密院事を知る。諸衛の卒を調発し、漷州柳林海子の堤堰を築かしむ。丙寅、蒙古の百姓で饑乏のため上都に至る者、口数を検閲して行糧を与え、各々その部に還らしむ。大都の賑糶米を五万石増やす。大都の順州・東安州、大風雨雹ありて禾稼を傷つく。戊辰、寿寧公主薨じ、その印を収む。己巳、江浙行省に命じて鈔十万錠を雲南に送り、その軍需を増やす。庚午、歳星、氐宿を犯す。開平路、雨雹ありて禾稼を傷つく。中書省臣言う、「近年、国庫空虛す。その費に五つあり、賞賜・仏事・衙門創置・濫冒支請・続増衛士鷹坊なり。枢密院・御史台・各怯薛官とともに汰減を加えんことを請う」と。これに従う。御史台臣、新たに除された河南府総管張居敬が難を避けて官に赴かざることを劾奏す。旨ありて授けた官を免じ、その罪に笞を加う。甲戌、諸王養怯帖木児・孛欒台・徵棘斯・察阿兀罕等に金銀鈔幣を差等ありて賜う。丙子、中書省・御史台に勅し、官を江浙・江西・湖広・四川・雲南諸行省に遣わし、三品以下の官を遷調せしむ。四川行省に命じ、来年の茶塩引内において鈔八万錠を与えて軍需を増やし、もって雲南を討たしむ。木隣・扎里より苦塩泊に至る九駅を賑恤し、各駅に鈔五百錠。居庸関に戍る軍士の糧を増給す。海潮溢れ、河間運司の塩二万六千七百余引を漂没す。丁丑、駅伝用璽書五・銀字円符二を陝西蒙古都万戸府に増給し、もって雲南を討たしむ。故丞相鉄木迭児の子、将作使鎖住とその弟観音奴・姉婿太醫使野理牙、怨望・符録造作・北斗祭祀・咒咀の罪に坐し、事覚る。詔して中書にこれを鞫問せしむ。事、前刑部尚書烏馬児・前御史大夫孛羅・上都留守馬児及び野理牙の姉阿納昔木思等に連なり、ともに誅せらる。雲南の禿堅・伯忽等、勢い愈々猖獗す。烏撒の祿余もまた勢いに乗じて烏蒙・東川・茫部諸蛮と連約し、伯忽の弟拜延(順)等に兵を率いさせて順元を攻めんと欲す。枢密臣これを聞く。詔して即ち使いを遣わし、豫王阿納忒剌失里及び行枢密院・四川・雲南行省を督し、諸軍を急ぎ会して分道進討せしむ。烏蒙・烏撒及び羅羅斯の地は西番に接し、碉門安撫司と唇歯をなすをもって、宣政院に命じて所属の軍民を督し厳に守備を加えしめ、また鞏昌都総帥府に命じて兵千人を調発し四川に戍らしむ。開元・大同・真定・冀寧・広平諸路及び忠翊侍衛左右の屯田、夏よりこの月に至るまで雨なし。奉元・晉寧・興国・揚州・淮安・懷慶・えい輝・益都・般陽・濟南・濟寧・河南・河中・保定・河間等路及び武衞・宗仁衞・左衞率府諸屯田に蝗あり。永平の龐遵は孝行により、福州の王薦は隠逸により、大同の李文実の妻齊氏・河南の閻遂の妻楊氏・大都の潘居敬の妻陳氏・王成の妻高氏は志節により、順徳の馬奔の妻胡閏奴・真定の民の妻周氏・冀寧の民の妻魏益紅は夫の死に自縊して殉葬したことにより、並びにその門を旌表す。

閏七月庚辰朔、諸王卯澤を永寧王に封じ、金印を授け、及び銀字円符を与え、駅伝璽書を給し、併せてその隷属する封邑の歳賦を賜う。癸未、諸王篤憐・渾禿・孛羅等を遣わし、銀千両・幣二百匹を齎らせ、諸王朵列鉄木児を賜う。監察御史葛明誠言う、「中書平章政事趙世延は、年齢七十を踰え、智慮耗衰し、固位苟容し、事に補うところ無し。請う、斥けて田里に帰らしめん」と。台臣以て聞す。詔して中書に議せしむ。雲南茫部路九村の夷人阿斡・阿里、四川行省に詣でて自ら陳う、「本路は旧に四川に隷す。今、土官撒加伯、雲南と連叛す。願わくは糧四百石・民丁千人を備え、大軍の進征を助けん」と。事聞こゆ。詔してその逆を去り順に效うを嘉し、厚く慰諭す。上都に駐冬する衛士は、給する糧を三分を率とし、二分は鈔を給す。大駕将に還らんとす。上都兵馬司の官二員に勅し、兵士を率いて偏嶺より明安に至り巡邏せしめ、以て盗賊を防がしむ。槖駝百・牛三百を市い、扈従属軍の用に充つ。丙戌、忠翊衛左右屯田、霜隕りて稼を殺す。鎖住・野里牙等の庫蔵・田宅・奴僕・牧畜を籍没し、大承天護聖寺に給して永業とす。黄金神仙符命印を鋳造し、掌全真教の道士苗道一に賜う。己丑、掌医署を立て、秩正五品。庚寅、籍没したる野理牙の宅を以て都督府の公署とす。辛卯、陝西行台御史中丞脱亦納を以て中書参知政事とす。燕鉄木児言う、「趙世延、向って自ら年老いりと言い、屡々致仕を乞う。臣等以て聞す。嘗て旨有り、世延は旧人なり、宜しく中書と政を共にすべし。御史の言は、前に旨有るを知らざるなり」と。帝曰く、「御史の言の如くんば、世延固より中書に任じ難し。其れ仍って翰林・奎章の職に任ずべし」と。四川行省平章汪寿昌言う、「雲南伯忽叛逆し、兵を興して進討し、調遣餽餉は、皆寿昌之を領す。頃に馬を市い、器械を造り、軍官の俸給・軍士の行糧に、已に鈔十五万錠を給す。今、伯忽未だ殄滅せず、而して烏撒・烏蒙相継いで乱を為す。大兵深入し、朝廷を去ること益々遠し。元請の軍需、早く頒降を乞い、本省に従い其の緩急を酌み、便宜を行わしめ、庶幾く稽誤せざらん」と。之に従う。寧夏・奉元・鞏昌・鳳翔・大同・晋寧諸路の属県、霜隕りて稼を殺す。癸巳、月魯帖木児を以て大司徒とす。哈剌赤軍士に鈔一万錠・糧十万石を賜う。察罕脳児へいびに東・西涼亭諸衛士九百五十人、人ごとに鈔五錠・糧二月を賜う。朔漠の軍士、人ごとに鈔三錠・布二匹・糧二月。燕鉄木児に命じ、鈔一万錠を以て、天暦初めの諸王・群臣死事の家に分賜せしむ。行枢密院言う、「征戍雲南の軍士二人逃帰し、捕獲す。法当に死すべし」と。詔して曰く、「戦陣に臨みて逃ぐるが如きは、死すべきなり。戦を接せずして逃ぐるに、輒ち以て死を当つるは、何ぞ人命を視ることの易きや!其れ杖して之を流せ」と。丁酉、大駕上都を発つ。阿憐帖木児に大司徒の印を授く。戊戌、甘粛平章政事乃馬台、宣寧郡王に封ぜられ、金印を授けらる。駙馬謹只児、鄆国公に封ぜられ、銀印を授けらる。並びに行枢密院事を知る。安南国王陳益稷に儀同三司・湖広行省平章政事を贈り、王爵は旧の如く、諡して忠懿とす。益稷は世祖の時に其の国より来帰し、遂に国王を授けらる。即ち漢陽府に居す。天暦二年卒す。是に至り加贈・諡す。庚子、魯王阿剌哥識里の部三万余人饑を告ぐ。鈔一万錠・糧二万石を賑う。中書省臣言う、「内外の仏寺三百六十七所、金・銀・鈔・幣を用いること貲えず。今、国用充たず。宜しく裁省に従うべし」と。省人及び宣政院臣に命じ裁減せしむ。上都の歳に作す仏事百六十五所、百四所と定め、有司に令して永く歳例と為さしむ。乙巳、雲南使い来たり捷を報ず。使いを遣わし、雲南・四川省臣・行枢密院臣に上尊を賜う。丙午、諸王卜顔帖木児、鞍馬を給せんことを請い、願わくは諸軍に従い雲南を撃たんとす。帝其の意を嘉し、之に従う。戊申、孔子の父斉国公叔梁紇を加封して啓聖王とし、母魯国太夫人顔氏を啓聖王夫人とし、顔子を兖国復聖公とし、曾子を郕国宗聖公とし、子思を沂国述聖公とし、孟子を鄒国亜聖公とし、河南伯程顥を豫国公とし、伊陽伯程頤を洛国公とす。羅羅斯土官撒加伯及び阿陋土官阿剌・里州土官徳益、兵八千を以て棧道を撤毀し、把事曹通を遣わし潜かに西番を結び、大渡河を拠りて進み建昌を寇せんと欲す。四川行省、碉門安撫司の軍七百人、成都・保寧・順慶・広安諸屯の兵千人を調発し、万戸周戡に統領せしめ、直ちに羅羅斯の界に抵り、以て西番及び諸蛮部を控扼せしむ。又、成都・順慶二翼万戸昝定遠等を遣わし、軍五千を以て邛部知州馬伯の部する蛮兵と同し、周戡等に会し、便道より共に之を討たしむ。成都の沙糖戸二百九十人を発し、叙州を防遏せしむ。重慶・夔州の逃亡軍八百人を徴し、成都に赴かしむ。広西猺于国安、千五百人を率い修仁・荔浦等県を寇す。広西元帥府兵を発して之を捕え、賊衆潰走し、国安を生擒す。大都・大寧・保定・益都諸属県及び京畿諸衛・大司農諸屯水、田八十余頃を没す。杭州・常州・慶元・紹興・鎮江・寧国諸路及び常徳・安慶・池州・荊門諸属県皆水、田一万三千五百八十余頃を没す。松江・平江・嘉興・湖州等路水、民廬を漂い、田三万六千六百余頃を没し、饑民四十万五千五百七十余戸。詔して江浙行省に入粟補官鈔三千錠及び富人を勧率して粟十万石を出さしめ、以て之を賑わしむ。宝慶・衡・永諸処、田に青虫生じ、禾稼を食う。冠州郁世復・大都趙祥及び弟英、孝行を以て其の門を旌す。大都愛祖丁・塔朮、漷州劉仲温、米を輸し貧を賑うを以て其の門を旌す。

八月庚戌、河南府路の新安・沔池など十五駅が飢饉と疫病に見舞われ、人には米を、馬には芻粟をそれぞれ一月分給与した。辛亥、雲南の躍里鐵木兒が兵を建昌に駐屯させ、羅羅斯の把事曹通を捕らえて斬った。丁巳、北辺の諸王月即別が使者を京師に派遣した。燕鐵木兒は西道より狩猟中で未だ到着せず、詔して機務の至重なるを以て、使者を遣わし急ぎ召還させた。己未、大駕は京師に到着した。労をねぎらい、人士を還営させた。蔚州広霊県に銀の産地があるとの言あり、詔して中書省・太禧院に人を遣わしその事に臨ませ、歳ごとに得る銀を大承天護聖寺に帰属させた。辛酉、世祖がこの月に生まれたことを以て、京師に命じて僧百七十人を率い七日間の仏事を行わせた。御史台の臣が燕王を皇太子に立てることを請うたが、帝は「朕の子はまだ幼く、裕宗が燕王であった時の比ではない。燕帖木兒が至るのを待ち、共に議する」と言った。甲子、忠州の土官黄祖顕がその子宗忠を派遣して来朝し、方物を献上した。乙丑、使者を真定の玉華宮に派遣し、睿宗及び顕懿荘聖皇后の神御殿を祀った。戊辰、太白が氐宿を犯した。壬申、詔して蒙古字学を興挙させた。中書省・枢密院・御史台が言うには、「臣らは比来、旨を奉じて衛士を裁減した。今、大内四宿衛の士を定め、各宿衛は四百人を超えず、累朝の宿衛の士は各二百人を超えない。鷹坊一万四千二十四人は、減ずべき者四千人。内饔九百九十人、四ケシェは各百人を留めるべき。累朝の旧邸宮分の饔人三千二百二十四人は、千一百二十人を留めるべき。媵臣・ケレンコウ合わせて一万人は、六千人を留めるべき。淘汰された者は、斥けて帰属する本部に籍を著け役に応じさせる。裁減の後、各宿衛が再び漢人・南人・高麗人及び奴隷を匿い濫りに充てる者があれば、ケシェの官とその長は杖五十七、犯した者と典給散の者は皆杖七十七、家財の半分を没収し、籍没した半分を告発者の賞とする。なお監察御史にこれを察させる」と。制して可とした。

九月庚辰、江浙行省が言うには、「今年夏秋、霖雨大水により民田多くが水没し、税糧は旧額に満たず、来年の海運は本省では二百万石に止め、余数は他省に補運させるのが便宜である」と。これに従った。粟を納めて官を補う例を廃止した。河間・保定等路、冠・恩・高唐等州において豆二十三万石を買い入れ、馬八万匹を出し、諸路に命じて分牧させた。大寧路で地震があった。甲申、不蘭奚及び月魯鐵木兒に大司徒の印を授けた。史惟良が中書左丞の職を辞したが、許さなかった。芸文監に命じて燕鐵木兒の世家を刻板して行わせた。河南行省に命じて湖広行省に鈔四千錠を給し、軍需とし、雲南を討たせた。遼陽の諸王老的・蛮子台の諸部が民を擾したので、枢密院・宗正府及び行省に勅し、毎年官を遣わし共に往き巡問し、その獄訟を治めさせた。監察御史葛明誠が弾劾上奏した。「遼陽行省平章哈剌鐵木兒は、かつて贓罪に坐し杖罪を受けたが、今また宰執の任に就け、東藩を制御させている。これも国家の名爵の濫れを見るに足りる。罷黜するのが宜しい」。これに従った。丙戌、邛部州の土官馬伯が征雲南軍を嚮導して功があり、征進招討とし、本州の事を知らせた。江西・湖広の蒙古軍で雲南に進征する者は、人ごとに鈔五錠を給与した。雲南の羅羅斯が叛き、成都に甚だ近いが、成都の軍馬は皆雲南に進征している。詔して四川の隣境の諸王に、藩部の丁壮二千人を発して成都を戍らせた。広源の賊弗道閉覆が龍州の羅回洞を寇した。龍州万戸府が移文して安南国を詰問すると、その国は返答して言うには、「本国は天朝に帰順して以来、臣職を恪守し、彼の疆我が界は尽く一統に帰している。どうして羅回が元来本国に隷属していたことを以て、争端を起こすことがあろうか。これは辺吏が釁を生じ、閉覆を仮りて名とするのみ。本府は自ら窮治を加うべきである」。湖広行省がその言葉を備えて奏聞したので、龍州万戸府に命じて辺防を厳しく申し合わせさせた。己丑、熒惑が鬼宿を犯した。辛卯、陝西の蒙古軍で雲南に征する者三十人に賜い、人ごとに鈔六錠を給した。監察御史朵羅台・王文若が言うには、「嶺北行省は太祖の肇基の地である。武宗の時、太師月赤察児が右丞相、太傅答剌罕が左丞相となり、辺境を保安し、朝廷は遂に北顧の患い無し。今天子が御位に臨み、哈八児禿を平章政事に任じたが、この人に正大の誉れ無く、鄙俚の称あり、銭穀甲兵の事は懵として知らず、どうして皇猷を昭宣し、国政を賛襄できようか。かつ月赤察児の輩を前に居らせ、この人をその後に継がせるのは、賢不肖は固より弁を待たずして明らかである。理宜しく罷黜すべき」。制して「可」とした。癸巳、白虹が日を貫いた。麓川路軍民総管府を置いた。哈剌火州に総管府を再び立てた。甲午、熒惑が鬼宿の積尸気を犯した。魏王阿木哥の子阿魯を西靖王に封じた。乙未、立冬を以て五福十神・太一真君を祀った。御史台の臣が弾劾上奏した。「前中書平章速速は、台鼎に叨り居り、専ら貪淫を肆にし、二度にわたり杖断一百七を受け、流竄を議する方であったが、幸いに恩赦を蒙り、量って湖広に徙された。再び法を畏れて自ら守らず、しかるに妻を携え妾を娶り、濫汚百端。況んや湖広は屯兵の重鎮である。どうしてここに居らしめようか。遠裔に屏斥し、至公を示すことを乞う」。詔して永く雷州に竄し、湖広行省に人を遣わし械送してその所に至らせた。丙申、魯国大長公主の邸第が未だ完成せず、また鈔一万錠を給し、中書平章亦列赤に命じてその役を監督させた。己亥、奎章閣が経世大典を纂修するに当たり、省・院・台の諸司に命じて順次その官属を宴せしめた。平江等処の官田五百頃を賜い、魯国大長公主に与えた。勅して「諸人、その本俗に非ざる者は、敢えて弟がその嫂を収め、子が庶母を収むることを有する者は、罪に坐す」とした。壬寅、諸衛の軍戸の物力を覈実した。魯国大長公主に鈔一万錠を賜い、燕鐵木兒に命じてその邸第に詣でてこれを送らせた。丙午、西僧に命じて大明殿で仏事を行わせた。史惟良がまた職を辞し帰養することを乞うたので、その請いを允し、なお鈔二百錠を賜った。丁未、中書参知政事張友諒を左丞とした。知枢密院事脱別台を陝西行台御史大夫とした。鐵里干・木隣など三十二駅は、夏秋より雨が降らず、牧畜多く死に、民大いに飢えたので、嶺北行省に命じて人ごとに賑糧二石を与えた。至治初年に白雲宗の田を寿安山寺に給して永業としたが、至る今その僧沈明琦が言上したので、旨あり、中書省に命じてこれを改正させた。有司に命じて南郊の斎宮を繕治させた。遼陽行省水達達路は、去夏より霖雨があり、黒龍・宋瓦の二江が水溢し、民は魚を食とすることができなかった。至る今、末魯孫の一十五狗駅は、狗多く餓死し、糧を二か月分賑い、狗が死んだ者は、鈔を給して買い替えさせた。辰州万戸図格里不花の母石抹氏は志節により、漳州龍渓県の陳必達は孝行により、並びにその門を旌表した。

冬十月戊申朔(一日)、璽書を降して衍聖公に孔子廟の事を崇奉するよう申し飭める。雲南行省参政忽都沙に三珠虎符を賜う。辛亥(四日)、湖広行省に命じて諸王雲都思鉄木児に幣百匹を与え、将士で徭賊を捕らえて功のあった者を賞させる。壬子(五日)、諸王・大臣が再び燕王を皇太子に立てるよう請うた。帝は「卿等の言うことは誠にもっともである。しかし燕王はまだ幼く、その識慮が未だ広大でなく、負荷に堪えられぬことを恐れる。ゆっくり議するに遅くはない」と言った。大都の北に宣忠扈衛親軍都万戸営を立て、市民の田百三十余頃を買い上げてこれを賜う。戊午(十一日)、大明殿で斎戒する。己未(十二日)、亜献官中書右丞相燕鉄木児・終献官貼木爾補化を遣わし、諸執事を率いて廟に告げ、太祖皇帝を南郊の配享に請う。庚申(十三日)、出て郊宮にやどる。辛酉(十四日)、帝は大裘・袞冕を着け、南郊で昊天上帝を祀り、太祖皇帝を配する。礼が成り、この日大駕還宮す。甲子(十七日)、奉元の駅馬が瘠せ死したため、陝西行省に命じて鈔三千錠を与え、補って買い求めさせる。木納火失温に居住する諸牧人三千戸・黄河のほとりに居住する鷹坊五千戸に、それぞれ二か月分の食糧を賑給する。乙丑(十八日)、広西の徭賊が横州及び永淳県を寇す。広西元帥府に兵を率いて捕らえるよう勅す。枢密院の臣が言うには、「毎年大駕が上都に幸するとき、各衛の軍士千五百人を発して扈従させ、また諸衛の漢軍一万五千人を発して山後に駐屯させ、蒙古軍三千人を官山に駐屯させて関梁を守らせる。旧例の数に従って調遣し、来年を待つよう願う」。これに従う。辛未(二十四日)、烏蒙路の土官阿朝が帰順し、その通事阿累らを遣わして方物を貢ぐ。壬申(二十五日)、御史台の臣が言うには、「内外の官吏が家人に財を受け取らせる者は、その名分を干し義を犯す罪により、罪は四十七に止め解任とする。今貪污の者はこれにより犯法がますます多い。十二章に依って贓の多寡を計り罪を論ずるよう請う」。これに従う。甲戌(二十七日)、勅す。「累朝の宮分官署は、凡そ文移に皇后と称することを得ず、ただ某位下娘子と称すべし。その委用する官属は、すべて中書より擬して聞かしむべし」。乙亥(二十八日)、打捕鷹坊総管府を仁虞都総管府と改む。知枢密院事撒敦・宣徽使唐其勢に、ともに答剌罕の号を賜う。中書省の臣が言うには、「近く雲南を討つに当たり、既に鈔二十万錠を与えて軍需としたが、今費用は既に尽きた。鎮西武靖王搠思班及び行省・行院が再び前と同じ数の鈔を求める。臣ら議うに、まさに進討する際であるから、請いに依ってこれを与えるべきである」。制して「可」と言う。伯夷・叔斉の廟額に聖清と賜い、歳ごと春秋に少牢をもって祠る。使者を遣わして四川・雲南行省の兵を促し進討させる。ここにおいて四川行省平章塔出は兵を率いて永寧より、左丞孛羅は兵を率いて青山・茫部よりともに進み、周泥駅に陳兵し、祿余らと戦い、蛮兵三百余人を斬首する。祿余の衆は潰え、即ちその関隘を奪い、もって順元の諸軍を導く。時に雲南行省平章乞住らは皆期に遅れて至らなかった。

十一月庚辰(朔日)、中書に命じて糧十万石を賑糶し、京師の貧民を救済させる。辛巳(二日)、御史台の臣が言うには、「陝西行省左丞怯列が、僮奴一人及び鸚鵡を受け取った罪に坐す。律に照らして論ずるよう請う」。詔して言うには、「位は宰執に至り、国の厚禄を食む者が、なお人の生口を受けるは、理として罪すべきである。しかし鸚鵡は微物である。これをもって贓と論ずるは、あまりに苛酷に失する。その重きに従って罪を議せよ。今後凡そ禽鳥を饋る者は、贓と論ぜず、令として著すべし」。癸未(四日)、上都灤河に駐冬する各宮分の怯憐口一万五千七百戸に糧二万石を賑給する。甲申(五日)、熒惑が退いて鬼宿を犯す。帝師に命じて西僧を率いて仏事を行わせ、内外凡そ八所、この日より始め、歳末に罷む。丙戌(七日)、太白が壘壁陣を犯す。中書省の臣が言うには、「至元の間、安豊・安慶・廬州等路に未附籍の戸千四百三十六あり、世祖はその歳賦を床兀児に賜うと命じられた。後に既に附籍し、輸する歳賦は皆官に入り、別に万億庫に命じて歳ごとに鈔二百錠を与えさせた。今給する鈔を停め、またその戸を床兀児の子燕鉄木児に還して賜うよう請う」。これに従う。羅羅斯の撒加伯・烏撒の阿答らが諸蛮一万五千人を合わせて建昌を攻める。躍里鉄木児らが兵を率いて木托山下で追撃し、これを破り、五百余級を斬首する。襄・鄧の畏兀民で西兵の害を受けた者六十三戸を賑恤し、戸ごとに鈔十五錠・米二石を与える。西兵に掠められた者五百七十七戸を賑恤し、戸ごとに鈔五錠・米二石を与える。広西廉訪司が言うには、「今叛徭を討つに当たり、各行省の官が兵二万人を将いて、皆静江に屯駐し、遷延して進まず、日を費やし時を久しくするは、恐らく事機を失うであろう」。詔して使者を遣わしてこれを促す。知枢密院事燕不憐が、旧制に依って鷹坊の芻粟を全給し、貧乏せしめないよう請う。帝は「国用は皆百姓の供する所である。量入為出すべきである。朕どうして鷹坊の失所を以て、わが民を重ねて困窮させようか」と言い、従わない。辛卯(十二日)、闊闊台を以て知枢密院事とす。山東の塩課鈔三千錠を与え、曹州済陰等県の饑民を賑恤する。癸巳(十四日)、臨江・吉安両路の天源延聖寺の田千頃の入る租税を以て、太禧宗禋院に隷属させる。戊戌(十九日)、打捕鷹坊紅花総管府を遼陽行省に立て、秩は四品。辛丑(二十二日)、河南行省の民間に自ら実田土の糧税を徴し、舟楫の通ぜざる所は鈔をもって代納させる。陝西行省に命じて河州の蒙古屯田衛士に二か月分の食糧を賑給する。甲辰(二十五日)、司天監に命じて星を禜らしむ。丙午(二十七日)、恩州の諸王按灰が、巡検張恭を撃傷した罪に坐し、杖六十七、広寧王の所部に謫して軍役に充てる。

十二月戊申、伯顔らを遣わし、燕王アラトナダラを皇太子に立てんとすることを以て、郊・廟に告祭せしむ。己酉、董仲舒を孔子廟に従祀せしめ、その位を七十子の下に列す。国子生の積分及第の者、省・臺・集賢院・奎章閣の官が同様に試験し、中式の者は等第に応じて官を試み、不中の者は復た学に入りて肄業せしむ。粟十万石、米・豆各十五万石を以て、河北諸路の牧官馬の家に給す。宣忠扈衛オロス屯田に、牛・種・農具を給す。辛亥、燕王アラトナダラを皇太子に立て、天下に詔す。甲寅、永平・灤州・豊閏・玉田に居る西域軍士、人ごとに鈔三錠・布二匹・糧両月を給す。監察御史言う、「昔、裕宗は燕邸よりして儲位に正し、世祖は耆旧老臣たる王顒・姚燧・蕭𣂏らを選びて之が師・保・賓客と為せり。今、皇太子仁孝聡睿、天より成る所出、誠に宜しく徳望老成・学行純正の者を慎選し、之をして左右に輔導せしめ、以て養正の功を宏めしむべし、実に宗社生民の福なり」と。帝嘉し其の言を納る。詔す、「龍翔集慶寺の工役・仏事、江南行臺悉く之を給す」と。戊午、十月の郊祀の礼成るを以て、帝大明殿に御し文武百官の朝賀を受け、大赦天下す。癸亥、知枢密院事ククタイ大都留守を兼ぬ。乙丑、集賢侍読学士ジュグを真定に遣わし、以て明年正月二十日、睿宗及び后を玉華宮の神御殿に祀らしむ。丁卯、西僧を命じて興聖・光天宮十六所に仏事を行わしむ。癸酉、宣忠扈衛親軍都万戸府に詔す、「凡そ営司を立て境内に所属する山林川澤、其の鳥獣魚鼈悉く内膳に供し、諸の狩猟捕獲する者は罪に坐す」と。甲戌、御史中丞和尚、婦人を以て賂を受けしに坐し、赦に遇い罪を原る。監察御史言う、「和尚の為す所貪縦、臺綱を汚す有り、罪は見原すと雖も、理宜しく受けたる制命を追奪し、元籍に禁錮して其の身を終わらしむべし」と。臺臣以て聞す、制可す。諸行省に勅す、「凡そ辺防に警有るに遇い、便宜に兵を発するを許し、事緩なれば則ち駅を以て聞せよ」と。龍慶州懐来県の前歳兵を被れる一万一千八百六十戸に糧両月を賑う。冀寧路梁世明の妻程氏・中興路伯顔の妻アディテを志節を以て、大都宛平県鄭珪を行義を以て、並びに其の門を旌す。遼陽行省に居る鷹坊戸に糧一月を賑う。