二月己亥の朔、熒惑建閉星を犯す。庚子、左・右欽察衛親軍都指揮使司を置き、命じて拜住にこれを総せしむ。上都の歇山殿及び帝師寺の役を罷む。辛丑、鉄失の父祖の碑を賜う。癸卯、江南行台御史大夫欽察を以て中書平章政事と為し、江浙行省参政王居仁を以て中書参知政事と為し、薛処敬を罷めて河南行省左丞と為す。丙午、熒惑罰星を犯す。戊申、社稷を祭る。順徳路九県水旱あり、これを賑恤す。太陰井を犯す。庚戌、熒惑東咸を犯す。辛亥、太陰酒旗及び軒轅を犯す。壬子、太白壘壁陣を犯す。諸王案忒不花に鈔七万五千貫を賜う。徹兀台禿忽魯の死事を以て、鈔三万五千貫を賜う。諸王怯伯使者を遣わし文豹を進む。河間路饑饉あり、酒醸を禁ず。癸丑、太陰明堂を犯す。甲寅、太廟の役軍を以て流盃池行殿を造る。広海郡邑の官に曠員あり、勅して往任を願う者に、秩を二等陞す。乙卯、遼陽行省平章政事買驢を以て中書平章政事と為す。西僧亦思剌蛮展普疾あり、詔して大辟の囚一人を釈し、笞罪二十人を釈す。戊午、真定等路の饑を賑恤す。己未、太陰天江を犯す。馬を括りて宗仁衛に賜う。壬戌、太白壘壁陣を犯す。諸王怯伯使者を遣わし海東青鶻を進む。癸亥、遼陽等路饑饉あり、その租を免じ、なお糧一月を賑恤す。甲子、恩州水害あり、民饑饉・疫病あり、これを賑恤す。
三月己巳、中書省臣言う:「国学廃弛せり、請う令して中書平章政事廉惇・参議中書事張養浩・都事孛朮魯翀これを董む。外郡の学校、なお命ず御史台・翰林院・国子監同議して興挙せしむ。」これに従う。四宿衛・興聖宮及び諸王部に南人を用いざることを勅す。斡羅思父母を告訐す、これを斬る。辛未、天鵝を捕うることを禁じ、違う者はその家を籍没す。壬申、張珪の司徒を復す。臨安路河西諸県饑饉あり、これを賑恤す。癸酉、河南両淮諸郡饑饉あり、酒醸を禁ず。丙子、延安路饑饉あり、糧一月を賑恤す。京師諸営繕の役卒四万余人を罷む。河間・河南・陝西十二郡春旱秋霖あり、民饑饉す、その租の半を免ず。戊寅、都城を修す。庚辰、勅す:「江浙の僧寺の田、宋の故有の永業及び世祖の賜うところを除く、余は悉くこれを税す。」癸未、遼陽女直・漢軍等の戸の饑を賑恤す。乙酉、濮州の水災を賑恤す。丙戌、親祀の礼成るを以て、祭に与る者に幣を賜う。内外の官吏の資を一級普く減ず。万戸哈剌那海私粟を以て軍を賑恤す、銀・幣を賜い、なおその直を酬う。行通政院の印を給す。潜邸の四宿衛士に鈔を差等ありて賜う。市舶提挙司を泉州・慶元・広東の三路に復置し、子女・金銀・絲綿の下番を禁ず。丁亥、鳳翔の道士王道明妖言をなし伏誅す。己丑、暈あり日を貫き連環の如し。諸王斡羅温孫に銀印を賜う。命じて有司に木華黎の祠を東平に建てしめ、なお碑を樹つ。国用匱竭を以て、諸王の賞賚及び皇后答里麻失里等の歳賜を停む。庚寅、曹州・滑州饑饉あり、これを賑恤す。命じて将作院に冕旒を更に製せしむ。辛卯、御史を遣わし囚を録す。甘州に八剌哈孫駅を置く。監察御史何守謙贓に坐し杖せられ免ず。壬辰、上都十一駅を賑恤す。宗仁衛の蒙古子女に衣糧を給す。諸王脱烈鉄木児に鈔五万貫を賜う。甲午、遼陽哈里賓の民饑饉あり、これを賑恤す。丁酉、柳林に幸す。駙馬許訥の子速怯訴うて曰く:「臣が父謀叛し、臣が母私かに人に従う。」帝曰く:「人子親に事うるは、隠すありて犯すなし。今過ちありて諫めず、及びまた告訐す。」命じてこれを誅す。奉元路の饑を賑恤す。
夏四月戊戌の朔、車駕上都に幸す。己亥、嶺北蒙古軍饑饉あり、糧を給してその部に還遣す。庚子、彰徳路の饑を賑恤す。壬寅、真州火災あり、徽州饑饉あり、並びにこれを賑恤す。辛亥、涇州雨雹あり、災を被る者の租を免ず。壬子、公主失憐答里薨じ、鈔五万貫を賜う。甲寅、南陽府西穰等の屯風・雹あり、洪沢・芍陂の屯田去年旱魃・蝗害あり、並びにその租を免ず。丙辰、恩州饑饉あり、酒醸を禁ず。乙丑、中書省臣賞賚を節して以て民力を紓すことを請う、帝曰く:「朕思うに出すところ入るところに倍す、出納の際、卿輩宜しくこれを慎むべし、朕当にその用を撙節せん。」丙寅、辺卒に鈔・帛を賜う。東昌・霸州の饑民を賑恤す。松江府上海県水害あり、なお旱魃あり。
五月己巳、公主速哥八剌を以て趙国大長公主と為す。徳安府の災を被る民の租を免ず。滹沱河の堤を修す。彰徳府饑饉あり、酒醸を禁ず。庚午、泰符・臨邑の二県の民謀逆し、その首王驢児伏誅す、余は杖して流す。睢・許の二州去年水旱あり、その租を免ず。辛未、駙馬脱脱薨じ、鈔五万貫を賜う。丙子、熒惑退いて東咸を犯す。庚辰、固安州の饑を賑恤す。永平に営を置き、蒙古子女を収養し、使者を遣わし四方に諭し、匿う者はこれを罪す。癸未、御史大夫脱脱を以て江南行台御史大夫と為す。宗仁蒙古侍衛親軍都指揮使司を置く。甲申、車駕五台山に幸す。夏津・永清の二県の饑を賑恤す。只児哈郎を以て御史大夫と為す。乙酉、拜住に宗仁蒙古侍衛親軍都指揮使司事を領せしめ、三珠の虎符を佩せしむ。京師饑饉あり、粟二十万石を発して賑糶す。雲南行省平章答失鉄木児・朵児只贓に坐し杖せられ免ず。戊子、民の衆を集めて神を祈ることを禁ず。庚寅、河南・陝西・河間・保定・彰徳等路饑饉あり、粟を発してこれを賑恤し、なお常賦の半を免ず。各衛の漢軍二千を調し、宗仁衛の屯田卒に充つ。星を五台山に禜す。甲午、鞏昌階州の饑を賑恤す。丙申、呉全節を以て玄教大宗師と為し、特進上卿とす。
閏月戊戌、諸葛忠武侯を威烈忠武顕霊仁済王に封ず。辛丑、万戸李英、良民を以て奴と為し、擅に其の面に文を施し、罪に坐す。癸卯、白蓮仏事を禁ず。睢陽県亳社屯大水、饑、之を賑す。諸王阿馬・承童、脱列捏王の衛士を擅に徙すに坐し、並びに杖して海南に流す。甲辰、御史台臣、監察御史の職に称わざる者を黜けて以て懲戒と勧励を示すを請う、之に従う。丙午、嶺北の戍卒貧乏、鈔三千二百五十万貫・帛五十万匹を賜う。戊申、奉元路郿県及び成州饑、並びに之を賑す。鉄木迭児の子、同知枢密院事班丹を以て枢密院事を知らしむ。己酉、也不干八禿児、辺を戍り功有り、金・鈔を以て賜う。壬子、紫檀殿を作る。乙卯、淮安路は去歳大水、遼陽路は霜隕ちて禾を殺し、南康路は旱有り、並びに其の租を免ず。壬戌、安豊属県霖雨稼を傷う、其の租を免ず。興元褒城県饑、之を賑す。甲子、真定・山東諸路饑、其の河泊の禁を弛す。丙寅、辰州沅陵県の洞蛮寇を為す、兵を遣わして之を捕う。敕す、「已に除せられて赴任せざる者は、其の官を奪え。」公主速哥八剌の乳母を順国夫人に封ず。
六月丁卯朔、車駕五台山に至る、扈従の宿衛に禁じて、民禾を践ます毋からしむ。中慶・大理二路の推官各一員を置く。戊辰、揚州属県旱、其の租を免ず。己巳、広元路綿谷・昭化二県饑、官米を市い之を賑す。壬申、熒惑心を犯す。癸酉、日者の天象を妄りに談ずるを禁ずるを申べる。甲戌、新平・上蔡二県水、其の租を免ず。丙子、渾河の堤を修す。壬午、辰州江水溢れ、民廬舎を壊す。丁亥、奉元属県水、淮安属県旱、並びに其の租を免ず。庚寅、思州風・雹、建德路水、皆之を賑す。
秋七月戊戌、淮安路水、民饑、其の租を免ず。己亥、熒惑天江を犯す。丁未、拜住に平江田一万畝を賜う。壬子、親王闍闍禿を遣わして兵を北辺に総べしめ、金二百五十両・銀二千五百両・鈔五十万貫を賜う。戊午、太陰井宿の鉞星を犯す。車駕応州に次まり、金城県の囚徒を曲赦す。庚申、靖州を路に陞す。辛酉、渾源州に次まる。中書左丞張思明、罪に坐し杖して免じ、其の家を籍る。甲子、京師諸役の軍匠病む者千人を録り、各鈔を賜い遣還す。南康路大水、廬州六安県大雨、水暴に至り、平地数尺の深さ、民饑、命じて有司に一月の糧を賑さしむ。
八月戊辰、社稷を祭る。己巳、道州寧遠県の民符翼軫乱を為す、有司討ちて之を擒う。壬申、蔚州の民嘉禾を献ず。甲戌、奉聖州に次まる。宗仁衛の営を築く。廬州の流民業に復する者に行糧を給す。戊寅、詔して蚕麦の図を鹿頂殿の壁に画かしめ、時に之を観て、以て民事を知るべしとす。己卯、廬州路六安・舒城県水、之を賑す。庚辰、寿安山寺の役卒七千人を増す。庚寅、鉄木迭児卒す、命じて直を給して其の葬地を市わしむ。甲午、瑞州高安県饑、命じて有司に之を賑さしむ。
九月戊戌、大寧路水達達等の駅水、稼を傷う、之を賑す。蒙古子女の貧乏なる者に鈔七百五十万貫を給す。戊申、寿安山に寺を造る役の軍匠死する者に鈔を給す、人百五十貫。庚戌、江南の妻妾を典雇するを禁ずるを申べる。辛亥、寿安山寺に幸す、監役の官に鈔を賜う、人五千貫。甲寅、淮東泰興等県の饑を賑す。丙辰、太皇太后崩ず。戊午、蒙古子女に鈔百五十万貫を賜う。己未、太陰明堂を犯す。庚申、敕して今年の冬の南郊を祀るを停む。癸亥、地震す。甲子、臨安河西県春夏雨無く、種土に入らず、居民流散す、命じて有司に賑給せしめ、復業せしむ。層楼を涿州鹿頂殿の西に作る。丙寅、西僧班吉疾有り、鈔五万貫を賜う。
冬十月丁卯、太史院、明年の土功を興作するを禁ずるを請う、之に従う。戊辰、太廟を享む、国哀を以て香を迎え楽を去り、廟を修する工役未だ畢らず、宮懸を陳ぬるを妨ぐるを以て、登歌を用いるに止む。丙子、押済思国、使いを遣わして来たり方物を貢ぐ。江南行台大夫脱脱、告を請うて未だ旨を得ざるに輒ち職を去るに坐し、杖して雲南に謫す。庚辰より辛巳に至る、太陰井を犯す。甲申、太祖の神御殿を興教寺に建つ。己丑、熒惑壘壁陣を犯す。拜住を以て中書右丞相と為す。南恩州の賊潭庚生等降る。
十二月甲子朔(一日)、南康路建昌州に大水が起こり、山が崩れ、死者四十七人、民は飢え、命じてこれを賑恤させた。乙丑(二日)、太白星・歳星・熒惑の三星が室宿に集まり、太白星が壘壁陣星を犯した。丁卯(四日)、中書平章政事買驢を罷免して大司農とし、廉恂を罷免して集賢大学士とし、集賢大学士張珪を中書平章政事に任じた。戊辰(五日)、道教を掌る張嗣成・呉全節・藍道元に各々三度授けられた制命・銀印のうち、二つを奪うよう勅命を下した。壬申(九日)、河西に屯戍する回回人戸の銀税を免除した。甲戌(十一日)、両江の来安路総管岑世興が乱を起こしたので、兵を派遣してこれを討った。鉄木迭児の子で宣政院使の八思吉思は、劉夔が田地を偽って献上したのを受け取った罪で誅殺され、さらにその家を没収した。乙亥(十二日)、太陰が井宿を掩った。丙寅(三日)、鎮南王脱不花の戍兵を増強した。戊寅(十五日)、太白星が歳星を犯した。庚辰(十七日)、葛蛮安撫司副使龍仁貴が乱を起こし、湖広行省が兵を督してこれを捕らえた。知枢密院事欽察台を宣政院使とし、参知政事速速を中書左丞とし、宗仁侍衛親軍都指揮使馬剌を参知政事に任じた。癸未(二十日)、紹興路柔遠州の洞蛮把者が寇掠したので、兵を派遣してこれを捕らえた。御史大夫只児哈郎を知枢密院事に任じた。闍闍禿を武寧王に封じ、金印を授けた。地震と日食があったため、中書省・枢密院・御史台・翰林院・集賢院に命じ、国家の利害に関する事柄を集議して奏聞させた。両都の営繕は従来通りとするよう勅命し、その他は議した通りとした。河南・陝西等の処の酒禁を解除した。近侍が没収した銭物を奏請して取ることを禁じた。乙酉(二十二日)、杭州で火災があり、これを賑恤した。丙戌(二十三日)、太皇太后の諡を昭献元聖と定め、太常礼儀院使朶台に諡議を太廟に告げさせた。寧昌府を下路に昇格し、一県を増置した。雲南の西沙県を寧州に併合した。淮安忠武王伯顔の祠に祭田二十頃を賜った。己丑(二十六日)、熒惑が外屏星を犯した。太陰が建星を犯した。辛卯(二十八日)、蒙古の流民に糧食と鈔を与え、本部に送還させた。張珪は足の病のため朝賀を免じられた。西僧灌頂が病み、囚人を釈放するよう請うたが、帝は言った、「囚人を釈放して福を祈るなど、師のために惜しむことではあるまい。朕は思うに、悪人がたびたび赦されれば、かえって善良な者を害することになり、何の福があろうか」。宣徽院の臣が言うには、「世祖の時、晃吉剌は毎年尚食羊二千頭を輸納し、成宗の時には三千頭に増えました。今、五千頭に増やすよう請います」。帝は許さず、言った、「天下の民は皆朕の所有である。もし不足があれば、朕がこれを救済すべきである。賦税を重くすれば、百姓は必ず困窮に至り、国にとっても何の益があろうか」。世祖の旧制に従うよう命じた。徽州・廬州・済南・真定・河間・大名・帰徳・汝寧・鞏昌諸処および河南の芍陂屯田に水害が、大同・衛輝・江陵の属県および豊贍署大恵屯に風害が、河南および雲南烏蒙等の処の屯田に旱害が、汴梁・順徳・河間・保定・慶元・済寧・濮州・益都の諸属県および諸衛の屯田に蝗害があった。
三月壬辰朔(一日)、車駕が上都に行幸した。諸王喃答失に鈔二百五十万貫を賜い、また諸王脱歡に歳賜を与えた。丁酉(六日)、平江路嘉定州が飢饉となり、粟六万石を発して賑給した。戊戌(七日)、安豊芍陂の屯田女直戸が飢えた。一か月分の糧を賑給した。庚子(九日)、崇明州が飢饉となり、米一万八千三百石を発して賑給した。甲辰(十三日)、台州路黄巖州が飢饉となり、二か月分の糧を賑給した。丁未(十六日)、西番の参卜郎諸族が叛き、鎮西武靖王搠思班らに兵を発して討伐するよう命じた。戊申(十七日)、太皇太后を順宗廟室に合祀し、摂太尉・中書右丞相拜住を派遣し玉冊・玉宝を奉じて尊諡を上り、昭献元聖皇后と称した。辛亥(二十日)、円明・王道明の乱により、僧・道の度牒・符録を禁じた。丙辰(二十五日)、命じた、「医・卜・匠官は、喪に服する間も職を離れることを許さず、七十歳でも致仕を認めず、子孫に蔭叙はないが、その業を継ぐことができる者は、才能に応じて任用する」。監察御史の拜住・教化が、八思吉思を推挙したことが不適当であった罪で、ともに罷免・免官された。諸王火魯灰部の軍駅戸が飢え、賑給した。
夏四月壬戌朔(一日)、天下の諸司に命じて僧に経十万部を誦経させた。丙寅(五日)、察罕脳児の蒙古軍駅戸が飢え、賑給した。丁卯(六日)、内黄県の節婦王氏を表彰した。己巳(八日)、金水河を疏浚した。甲戌(十三日)、張珪及び右司員外郎王士熙に命じて国子監学を激励させた。都功德使の闊児魯を京師に至らせるよう命じた。大辟の囚三十一人を釈放し、杖五十七以上の者六十九人を釈放した。籠の鳥十万羽を放し、有司にその代価を償わせた。己卯(十八日)、助役法の施行を詔し、使者を派遣して税籍の高低を調査させ、田若干畝を出させ、応役の者が交替でこれを管理し、その歳入を収めて役費を助成させ、官は関与しないこととした。北辺の軍が飢え、賑給した。蒙古大千戸部は、ここ数年風雪で畜牧が斃れ、鈔二百万貫を賑給した。京師の万安・慶寿・聖安・普慶の四寺、揚子江金山寺、五台万聖祐国寺に命じ、水陸仏事を七昼夜行わせた。丁亥(二十六日)、故羅羅斯宣慰使述古の妻漂末が暫く司事を領し、その子娑住邦を派遣して方物を献上させた。戊子(二十七日)、南豊州の民及び鞏昌の蒙古軍が飢え、賑給した。
五月辛卯朔(一日)、大理路白塩城に榷税官を設置し、秩は正七品とした。中慶路に榷税官を設置し、秩は従七品とした。安慶灊山県・雲南寧遠州を置いた。戊戌(八日)、太白が経天した。庚子(十日)、大風が吹き、雹が降り、柳林行宮内外の大木二千七百本を抜いた。辛丑(十一日)、鉄失をして単独で御史大夫の事務を署理させた。壬寅(十二日)、雲南行省平章政事忽辛が贓罪により杖罰を受け免官された。中外に言路を開くよう詔した。慶元路嶧山県を置き、尉を一員増員した。安寨県を龍安駅に移転した。癸卯(十三日)、太陰が房宿を犯した。乙巳(十五日)、嶺北で米価が高騰し、酒造りを禁止した。戊申(十八日)、監察御史の蓋継元・宋翼が言上した、「鉄木迭児は奸険で貪污である。立てた碑を毀つことを請う」。これに従い、さらに官爵及び封贈の制書を追奪した。帝が大安閣に臨み、太祖・世祖の遺された衣服がすべて絹・木綿で作られ、重ねて継ぎはぎされているのを見て、しばらく嘆息し、侍臣に言った、「祖宗が創業されたのは艱難で、服用は節倹してこのようであった。朕はどうして片時も忘れられようか」。太白が畢宿を犯した。癸丑(二十三日)、荊湖宣慰使脱列が賄賂を受け、事が発覚し、京師に召還された。御史台の臣が派遣して審問するよう請うたが、許さなかった。乙卯(二十五日)、勲旧の子の撒児蛮・按灰鉄木児・也先鉄木児に鈔を賜い、各一万五千貫とした。鈔千万貫をもって羊馬を買い、嶺北の戍卒に給し、各人に去勢馬二頭・牝馬二頭・羊十五頭を与えた。駅戸に、官地を質入れ・売却することを禁じた。丙辰(二十六日)、東安州で水害があり、民田千五百六十頃を損なった。戊午(二十八日)、真定路武邑県で雨水が農作物を害した。奉元行宮の正殿が火災に遭った。上都利用監の倉庫が火災に遭い、帝は衛士に命じて消火させた。そこで群臣に言った、「世皇(世祖)が宮室を建て始められ、今日まで安泰であった。朕が大位を継いだのに、このような焼失に遭うのは、朕がよく治められなかったためである」。欽察衛の兵が辺境を戍守し、功績を重ねた兵卒が官位を賞賜として請うたが、帝は言った、「名爵はどうして人を賞するものか」。鈔三千貫を賜うよう命じた。大名路魏県で長雨が降った。大同路鴈門の屯田で旱魃により麦が損害を受けた。諸衛の屯田及び永清県で水害があった。保定路帰信県で蝗害があった。
六月、賊が寧都を包囲した。州民の孫正臣が糧食を出して軍を養い、その門を旌表した。丁卯、西番の参卜郎の諸賊が未だ平定せず、徽政使の醜驢を遣わして師を督かせた。戊辰、鉄木迭児の父祖の碑を毀ち、元より受けし制書を追収し、中外に告諭した。乳母の忽禿台に定襄郡夫人を贈り、その夫の阿来に定襄王を追封し、諡して忠愍とした。壬申、将作院使の哈撒児不花が上を欺き利を営む罪に坐し、杖罰の上東方に流し、その家を籍没した。留守司が雨を理由に都城の修繕を請うたが、旨有りて「今年は大いに土木の工を興すべからず、略々これを完うせよ」という。癸酉、太廟の夾室を置く。燕赤吉台太赤に襄安王を贈る。諸王の別思鉄木児が北部に兵を統べるため、別に歳賜を頒つ。太常が累朝の儀礼を纂修することを請い、従う。癸未、填星が畢を犯す。乙酉、易・安・滄・莫・霸・祁の諸州及び諸衛の屯田に水害あり、田六千余頃を損なう。諸王の怯伯が数度辺境を寇し、ここに至り使いを遣わして来降した。帝曰く「朕は彼の土地人民を欲するにあらず、ただ我が民が辺患に罹からず、軍士が労役を免れれば、これ幸いである。今既に来降した以上、厚く賜を与えてこれを安んずべし」と。
秋七月辛卯朔、宣政使の欽察台が自ら伝旨して事を署す。中書が体制宜しからずとして、通行を禁止するよう請う。従う。壬辰、占城国王がその弟の保佑八剌遮を遣わし、表を奉じて方物を貢ぐ。真定路の駅戸飢え、糧二千四百石を賑う。癸卯、太廟成る。班丹が贓罪に坐し杖罰の上免職。剌禿の屯田貧民に鈔四十六万八千貫を賜い牛具を市わしむ。甲辰、諸王の帖木児が雲南より還り、宿衛に入る。鈔二万五千貫を賜う。乙巳、左右両江の黄勝許・岑世興を招諭す。己酉、諸王の忽都鉄木児を封じて威遠王とし、金印を授く。海道の歳運糧を二十万石減じ、併せて江淮の増科糧を免ず。甲寅、行宮の駕車の馬六百五十匹を買う。丙辰、永寧王の卜顔鉄木児が法に従わず。宗正府及び近侍に命じてその傅を雑治せしむ。鉄木迭児の家資を籍没す。諸王の徹徹禿が入朝して印を請う。帝はその政績未だ著しからずとして允さず、鈔二十五万貫を賜う。御史台が旨を降して言路を開くことを請う。帝曰く「言路何ぞ嘗て開かざらんや、但だ卿等の選人当たらず爾」と。漷州雨あり、水害して屯田の稼を損なう。真定州諸路の属県に蝗あり。冀寧・興和・大同の三路の属県に霜隕る。東路蒙古万戸府飢え、糧を二月賑う。
英宗の性質剛明なり。嘗て地震ありて膳を減じ、楽を徹し、正殿を避けたる時、近臣ありて觴を称えて賀す。問うて「何をか賀すべき。朕方に徳を修むるに暇あらず、汝大臣たるもの、匡輔すること能わず、反って諂うか」と。斥いて出だす。拜住進みて曰く「地震は乃ち臣等の失職なり、賢を求めて代うるべし」と。曰く「多く遜る毋れ、これ朕が過ちなり」と。嘗て群臣に戒めて曰く「卿等高位に居り、厚禄を食む、勉めて図り報いるべし。苟くも或いは貧乏ならば、朕汝に賜うを惜しまず。若し法に従わざれば、則ち必ず刑し赦さず」と。八思吉思が獄に下された時、左右に謂いて曰く「法は祖宗の制する所、朕の私すべきに非ず。八思吉思は朕に事うること日久しといえども、今その罪有り、法の如く論ずべし」と。嘗て鹿頂殿に御し、拜住に謂いて曰く「朕幼沖を以て大業を嗣承し、錦衣玉食、何ぞ求め得ざらん。惟だ我が祖宗櫛風沐雨し、万方を戡定せしに、嘗て此の楽しみ有りしや。卿は元勲の裔なり、朕が至懐を体し、爾が祖を辱しむる毋れ」と。拜住頓首して対えて曰く「創業は惟だ艱し、守成は易からず。陛下の睿思此に及ぶは、億兆の福なり」と。又大臣に謂いて曰く「中書は人を選び事を署するに旬日に満たず、御史台即ちこれを改除す。台の除する者は、中書も亦然り。今山林の下に遺逸多く、卿等尽心して求訪せず、惟だ親戚故旧を以て更相引用するか」と。その明断此の如し。然れども刑戮に果なるを以て、奸党誅されるを畏れ、遂に大変を構うるに至る。