元史

本紀第二十八: 英宗二

二年春正月己巳の朔、安南・占城各々使者を遣わし来朝して方物を貢ぐ。壬申、保定雄州饑饉あり、これを賑恤す。庚午、太廟を広める。甲戌、漢人の兵器を執りて出猟し及び武芸を習うことを禁ず。丁丑、太陰昴を犯す。親しく太廟を祀り、始めて鹵簿を陳列し、導駕の耆老に幣帛を賜う。戊寅、有司に勅して孔氏子孫の貧乏なる者を存卹せしむ。己卯、山東・保定・河南・汴梁・帰徳・襄陽・汝寧等の処饑饉あり、米三十九万五千石を発してこれを賑恤す。庚辰、太白建星を犯す。公主阿剌忒納八剌下嫁し、鈔五十万貫を賜う。辛巳、太白建星を犯す。勅す:「台憲の用人、資格に拘わるなかれ。」儀封県河溢れて稼を傷つく、これを賑恤す。癸未、徽政院使羅源を躭羅に流す。柳林に行殿を建つ。塔察児を蘭国公に封ず。辛卯、太陰心を犯す。癸巳、西僧羅藏を以て司徒しととなす。漷州饑饉あり、米十万石を糶してこれを賑恤す。甲午、熒惑房を犯す。丁酉、太白牛を犯す。

二月己亥の朔、熒惑建閉星を犯す。庚子、左・右欽察衛親軍都指揮使司を置き、命じて拜住にこれを総せしむ。上都の歇山殿及び帝師寺の役を罷む。辛丑、鉄失の父祖の碑を賜う。癸卯、江南行台御史大夫欽察を以て中書平章政事と為し、江浙行省参政王居仁を以て中書参知政事と為し、薛処敬を罷めて河南行省左丞と為す。丙午、熒惑罰星を犯す。戊申、社稷を祭る。順徳路九県水旱あり、これを賑恤す。太陰井を犯す。庚戌、熒惑東咸を犯す。辛亥、太陰酒旗及び軒轅を犯す。壬子、太白壘壁陣を犯す。諸王案忒不花に鈔七万五千貫を賜う。徹兀台禿忽魯の死事を以て、鈔三万五千貫を賜う。諸王怯伯使者を遣わし文豹を進む。河間路饑饉あり、酒醸を禁ず。癸丑、太陰明堂を犯す。甲寅、太廟の役軍を以て流盃池行殿を造る。広海郡邑の官に曠員あり、勅して往任を願う者に、秩を二等陞す。乙卯、遼陽行省平章政事買驢を以て中書平章政事と為す。西僧亦思剌蛮展普疾あり、詔して大辟の囚一人を釈し、笞罪二十人を釈す。戊午、真定等路の饑を賑恤す。己未、太陰天江を犯す。馬を括りて宗仁衛に賜う。壬戌、太白壘壁陣を犯す。諸王怯伯使者を遣わし海東青鶻を進む。癸亥、遼陽等路饑饉あり、その租を免じ、なお糧一月を賑恤す。甲子、恩州水害あり、民饑饉・疫病あり、これを賑恤す。

三月己巳、中書省臣言う:「国学廃弛せり、請う令して中書平章政事廉惇・参議中書事張養浩・都事孛朮魯翀これを董む。外郡の学校、なお命ず御史台・翰林院・国子監同議して興挙せしむ。」これに従う。四宿衛・興聖宮及び諸王部に南人を用いざることを勅す。斡羅思父母を告訐す、これを斬る。辛未、天鵝を捕うることを禁じ、違う者はその家を籍没す。壬申、張珪の司徒を復す。臨安路河西諸県饑饉あり、これを賑恤す。癸酉、河南両淮諸郡饑饉あり、酒醸を禁ず。丙子、延安路饑饉あり、糧一月を賑恤す。京師諸営繕の役卒四万余人を罷む。河間・河南・陝西十二郡春旱秋霖あり、民饑饉す、その租の半を免ず。戊寅、都城を修す。庚辰、勅す:「江浙の僧寺の田、宋の故有の永業及び世祖の賜うところを除く、余は悉くこれを税す。」癸未、遼陽女直・漢軍等の戸の饑を賑恤す。乙酉、濮州の水災を賑恤す。丙戌、親祀の礼成るを以て、祭に与る者に幣を賜う。内外の官吏の資を一級普く減ず。万戸哈剌那海私粟を以て軍を賑恤す、銀・幣を賜い、なおその直を酬う。行通政院の印を給す。潜邸の四宿衛士に鈔を差等ありて賜う。市舶提挙司を泉州・慶元・広東の三路に復置し、子女・金銀・絲綿の下番を禁ず。丁亥、鳳翔の道士王道明妖言をなし伏誅す。己丑、暈あり日を貫き連環の如し。諸王斡羅温孫に銀印を賜う。命じて有司に木華黎の祠を東平に建てしめ、なお碑を樹つ。国用匱竭を以て、諸王の賞賚及び皇后答里麻失里等の歳賜を停む。庚寅、曹州・滑州饑饉あり、これを賑恤す。命じて将作院に冕旒を更に製せしむ。辛卯、御史を遣わし囚を録す。甘州に八剌哈孫駅を置く。監察御史何守謙贓に坐し杖せられ免ず。壬辰、上都十一駅を賑恤す。宗仁衛の蒙古子女に衣糧を給す。諸王脱烈鉄木児に鈔五万貫を賜う。甲午、遼陽哈里賓の民饑饉あり、これを賑恤す。丁酉、柳林に幸す。駙馬許訥の子速怯訴うて曰く:「臣が父謀叛し、臣が母私かに人に従う。」帝曰く:「人子親に事うるは、隠すありて犯すなし。今過ちありて諫めず、及びまた告訐す。」命じてこれを誅す。奉元路の饑を賑恤す。

夏四月戊戌の朔、車駕上都に幸す。己亥、嶺北蒙古軍饑饉あり、糧を給してその部に還遣す。庚子、彰徳路の饑を賑恤す。壬寅、真州火災あり、徽州饑饉あり、並びにこれを賑恤す。辛亥、涇州雨雹あり、災を被る者の租を免ず。壬子、公主失憐答里薨じ、鈔五万貫を賜う。甲寅、南陽府西穰等の屯風・雹あり、洪沢・芍陂の屯田去年旱魃・蝗害あり、並びにその租を免ず。丙辰、恩州饑饉あり、酒醸を禁ず。乙丑、中書省臣賞賚を節して以て民力を紓すことを請う、帝曰く:「朕思うに出すところ入るところに倍す、出納の際、卿輩宜しくこれを慎むべし、朕当にその用を撙節せん。」丙寅、辺卒に鈔・帛を賜う。東昌・州の饑民を賑恤す。松江府上海県水害あり、なお旱魃あり。

五月己巳、公主速哥八剌を以て趙国大長公主と為す。徳安府の災を被る民の租を免ず。滹沱河の堤を修す。彰徳府饑饉あり、酒醸を禁ず。庚午、泰符・臨邑の二県の民謀逆し、その首王驢児伏誅す、余は杖して流す。睢・許の二州去年水旱あり、その租を免ず。辛未、駙馬脱脱薨じ、鈔五万貫を賜う。丙子、熒惑退いて東咸を犯す。庚辰、固安州の饑を賑恤す。永平に営を置き、蒙古子女を収養し、使者を遣わし四方に諭し、匿う者はこれを罪す。癸未、御史大夫脱脱を以て江南行台御史大夫と為す。宗仁蒙古侍衛親軍都指揮使司を置く。甲申、車駕五台山に幸す。夏津・永清の二県の饑を賑恤す。只児哈郎を以て御史大夫と為す。乙酉、拜住に宗仁蒙古侍衛親軍都指揮使司事を領せしめ、三珠の虎符を佩せしむ。京師饑饉あり、粟二十万石を発して賑糶す。雲南行省平章答失鉄木児・朵児只贓に坐し杖せられ免ず。戊子、民の衆を集めて神を祈ることを禁ず。庚寅、河南・陝西・河間・保定・彰徳等路饑饉あり、粟を発してこれを賑恤し、なお常賦の半を免ず。各衛の漢軍二千を調し、宗仁衛の屯田卒に充つ。星を五台山に禜す。甲午、鞏昌階州の饑を賑恤す。丙申、呉全節を以て玄教大宗師と為し、特進上卿とす。

閏月戊戌、諸葛忠武侯を威烈忠武顕霊仁済王に封ず。辛丑、万戸李英、良民を以て奴と為し、ほしいままに其の面にいれずみを施し、罪に坐す。癸卯、白蓮仏事を禁ず。睢陽県亳社屯大水、饑、之を賑す。諸王阿馬・承童、脱列捏王の衛士を擅にうつすに坐し、並びに杖して海南に流す。甲辰、御史台臣、監察御史の職にかなわざる者をしりぞけて以て懲戒と勧励を示すを請う、之に従う。丙午、嶺北の戍卒貧乏、鈔三千二百五十万貫・帛五十万匹を賜う。戊申、奉元路郿県及び成州饑、並びに之を賑す。鉄木迭児の子、同知枢密院事班丹を以て枢密院事を知らしむ。己酉、也不干八禿児、辺をまもり功有り、金・鈔を以て賜う。壬子、紫檀殿を作る。乙卯、淮安路は去歳大水、遼陽路は霜隕ちて禾を殺し、南康路はひでり有り、並びに其の租を免ず。壬戌、安豊属県霖雨ながあめ稼をそこなう、其の租を免ず。興元褒城県饑、之を賑す。甲子、真定・山東諸路饑、其の河泊の禁をゆるす。丙寅、辰州沅陵県の洞蛮寇を為す、兵を遣わして之を捕う。敕す、「已にじょせられて赴任せざる者は、其の官を奪え。」公主速哥八剌の乳母を順国夫人に封ず。

六月丁卯朔、車駕五台山に至る、扈従の宿衛に禁じて、民禾をますからしむ。中慶・大理二路の推官各一員を置く。戊辰、揚州属県旱、其の租を免ず。己巳、広元路綿谷・昭化二県饑、官米をい之を賑す。壬申、熒惑心を犯す。癸酉、日者の天象をみだりに談ずるを禁ずるをべる。甲戌、新平・上蔡二県水、其の租を免ず。丙子、渾河の堤を修す。壬午、辰州江水溢れ、民廬舎を壊す。丁亥、奉元属県水、淮安属県旱、並びに其の租を免ず。庚寅、思州風・雹、建德路水、皆之を賑す。

秋七月戊戌、淮安路水、民饑、其の租を免ず。己亥、熒惑天江を犯す。丁未、拜住に平江田一万畝を賜う。壬子、親王闍闍禿を遣わして兵を北辺にべしめ、金二百五十両・銀二千五百両・鈔五十万貫を賜う。戊午、太陰井宿の鉞星を犯す。車駕応州にとどまり、金城県の囚徒を曲赦す。庚申、靖州を路にのぼす。辛酉、渾源州に次まる。中書左丞張思明、罪に坐し杖して免じ、其の家をとりあげる。甲子、京師諸役の軍匠病む者千人をとりあげり、各鈔を賜い遣還す。南康路大水、廬州六安県大雨、水暴にわかに至り、平地数尺の深さ、民饑、命じて有司に一月の糧をほどこさしむ。

八月戊辰、社稷を祭る。己巳、道州寧遠県の民符翼軫乱を為す、有司討ちて之をとらう。壬申、蔚州の民嘉禾を献ず。甲戌、奉聖州に次まる。宗仁衛の営を築く。廬州の流民業に復する者に行糧こうりょうを給す。戊寅、詔して蚕麦の図を鹿頂殿の壁にえがかしめ、時に之を観て、以て民事を知るべしとす。己卯、廬州路六安・舒城県水、之を賑す。庚辰、寿安山寺の役卒七千人を増す。庚寅、鉄木迭児卒す、命じてあたいを給して其の葬地を市わしむ。甲午、瑞州高安県饑、命じて有司に之を賑さしむ。

九月戊戌、大寧路水達達等の駅水、稼を傷う、之を賑す。蒙古子女の貧乏なる者に鈔七百五十万貫を給す。戊申、寿安山に寺を造る役の軍匠死する者に鈔を給す、人百五十貫。庚戌、江南の妻妾を典雇かしうりするを禁ずるを申べる。辛亥、寿安山寺にいでます、監役の官に鈔を賜う、人五千貫。甲寅、淮東泰興等県の饑を賑す。丙辰、太皇太后崩ず。戊午、蒙古子女に鈔百五十万貫を賜う。己未、太陰明堂を犯す。庚申、敕して今年の冬の南郊を祀るを停む。癸亥、地震す。甲子、臨安河西県春夏雨無く、種土に入らず、居民流散す、命じて有司に賑給せしめ、復業せしむ。層楼を涿州鹿頂殿の西に作る。丙寅、西僧班吉疾やまい有り、鈔五万貫を賜う。

冬十月丁卯、太史院、明年の土功を興作するを禁ずるを請う、之に従う。戊辰、太廟をすすむ、国哀を以て香を迎え楽を去り、廟を修する工役未だおわらず、宮懸をつらぬるを妨ぐるを以て、登歌を用いるに止む。丙子、押済思国、使いを遣わして来たり方物を貢ぐ。江南行台大夫脱脱、こくを請うて未だ旨を得ざるにすなわち職を去るに坐し、杖して雲南につかわす。庚辰より辛巳に至る、太陰井を犯す。甲申、太祖の神御殿を興教寺に建つ。己丑、熒惑壘壁陣を犯す。拜住を以て中書右丞相と為す。南恩州の賊潭庚生等降る。

十一月甲午朔、日食有り。己亥、右丞相を立つるを以て天下に詔す。流民業に復する者は、差税を三年免ず。站戸貧乏にして妻子を鬻売うるする者は、官贖あがないて之を還す。凡そ差役造作は、先ず商賈末技の富実の家に科し、以て農力をゆうせしむ。陝西の明年の差税を十の三免じ、各処の官佃田の明年の租を十の二免じ、江淮の創科包銀を全く之を免ず。御史李端言す、「近者京師地震し、日月薄蝕す、皆臣下の職を失するに由る所なり。」帝自ら責めて曰く、「是れ朕が思慮の及ばざるに由りて然らしむるなり。」よって羣臣に敕して亦た当に修飭しゅうちょくすべく、以て天戒をつつしましむ。世祖以後の冗置の官を罷む。江南の僧にして妻有る者をくくりて民と為す。安南国、使いを遣わして来たり方物を貢ぐ、回賜として金四百五十両・金幣九、帛之にひとし。癸卯、地震す。甲辰、太白壘壁陣を犯す。徽政院を罷む。乙巳、熒惑壘壁陣を犯す。丙午、龍船三艘を造る。戊申、太陰井をおおう。岷州旱・疫、之を賑す。北辺を戍る万戸・千戸等の官に金帯を賜う。御史李端言す、「朝廷、起居注を設くといえども、録する所は皆臣下の聞奏する事目なり。上の言動は、宜しく悉く之を書し、以て史館に付すべし。世祖以来の定むる所の制度は、宜しく令としてあらわし、吏をして奸を為すを得ざらしめ、獄を治むる者遵守する所有らしむべし。」並びに之に従う。乙卯、西僧高主瓦を遣わして帝師を迎えしむ。宣徳府宣徳県、地屡しばしば震す、災を被る者に糧・鈔を賑す。己未、太陰東咸を犯す。脱脱禾孫を流官選に入るるを定め、印と俸を給す。八番軍民安撫司を置き、長官所二十有八を州県に改む。庚申、太陰天江を犯す。辛酉、熒惑歳星を犯す。真人蔡道泰人を殺し、誅に伏す。刑部尚書不答失里其の金を受くるに坐し、范徳郁詭随きずいに坐し、並びに杖して免ず。平江路水、官民田四万九千六百三十頃を損じ、其の租を免ず。

十二月甲子朔(一日)、南康路建昌州に大水が起こり、山が崩れ、死者四十七人、民は飢え、命じてこれを賑恤させた。乙丑(二日)、太白星・歳星・熒惑の三星が室宿に集まり、太白星が壘壁陣星を犯した。丁卯(四日)、中書平章政事買驢を罷免して大司農とし、廉恂を罷免して集賢大学士とし、集賢大学士張珪を中書平章政事に任じた。戊辰(五日)、道教を掌る張嗣成・呉全節・藍道元に各々三度授けられた制命・銀印のうち、二つを奪うよう勅命を下した。壬申(九日)、河西に屯戍する回回人戸の銀税を免除した。甲戌(十一日)、両江の来安路総管岑世興が乱を起こしたので、兵を派遣してこれを討った。鉄木迭児の子で宣政院使の八思吉思は、劉夔が田地を偽って献上したのを受け取った罪で誅殺され、さらにその家を没収した。乙亥(十二日)、太陰が井宿を掩った。丙寅(三日)、鎮南王脱不花の戍兵を増強した。戊寅(十五日)、太白星が歳星を犯した。庚辰(十七日)、葛蛮安撫司副使龍仁貴が乱を起こし、湖広行省が兵を督してこれを捕らえた。知枢密院事欽察台を宣政院使とし、参知政事速速を中書左丞とし、宗仁侍衛親軍都指揮使馬剌を参知政事に任じた。癸未(二十日)、紹興路柔遠州の洞蛮把者が寇掠したので、兵を派遣してこれを捕らえた。御史大夫只児哈郎を知枢密院事に任じた。闍闍禿を武寧王に封じ、金印を授けた。地震と日食があったため、中書省・枢密院・御史台・翰林院・集賢院に命じ、国家の利害に関する事柄を集議して奏聞させた。両都の営繕は従来通りとするよう勅命し、その他は議した通りとした。河南・陝西等の処の酒禁を解除した。近侍が没収した銭物を奏請して取ることを禁じた。乙酉(二十二日)、杭州で火災があり、これを賑恤した。丙戌(二十三日)、太皇太后の諡を昭献元聖と定め、太常礼儀院使朶台に諡議を太廟に告げさせた。寧昌府を下路に昇格し、一県を増置した。雲南の西沙県を寧州に併合した。淮安忠武王伯顔の祠に祭田二十頃を賜った。己丑(二十六日)、熒惑が外屏星を犯した。太陰が建星を犯した。辛卯(二十八日)、蒙古の流民に糧食と鈔を与え、本部に送還させた。張珪は足の病のため朝賀を免じられた。西僧灌頂が病み、囚人を釈放するよう請うたが、帝は言った、「囚人を釈放して福を祈るなど、師のために惜しむことではあるまい。朕は思うに、悪人がたびたび赦されれば、かえって善良な者を害することになり、何の福があろうか」。宣徽院の臣が言うには、「世祖の時、晃吉剌は毎年尚食羊二千頭を輸納し、成宗の時には三千頭に増えました。今、五千頭に増やすよう請います」。帝は許さず、言った、「天下の民は皆朕の所有である。もし不足があれば、朕がこれを救済すべきである。賦税を重くすれば、百姓は必ず困窮に至り、国にとっても何の益があろうか」。世祖の旧制に従うよう命じた。徽州・廬州・済南・真定・河間・大名・帰徳・汝寧・鞏昌諸処および河南の芍陂屯田に水害が、大同・衛輝・江陵の属県および豊贍署大恵屯に風害が、河南および雲南烏蒙等の処の屯田に旱害が、汴梁・順徳・河間・保定・慶元・済寧・濮州・益都の諸属県および諸衛の屯田に蝗害があった。

三年春正月癸巳朔(一日)、暹国および八番の洞蛮酋長が、各々使者を遣わして来貢した。曹州禹城県は去秋霖雨が農作物を害し、県人邢著・程進が粟を出して飢えた民を賑ったので、役所に命じてその門を表彰させた。乙未(三日)、太廟を享祭した。己亥(七日)、思明州で盗賊が起こり、湖広行省が兵を督してこれを捕らえた。庚子(八日)、刑部尚書烏馬児は贓罪により杖罰を受け免官された。壬寅(十日)、太僕寺に命じて牝馬百匹を増給し、世祖・仁宗の御容殿祭祀の馬乳に供させた。和林の阿蘭禿等の駅戸が貧乏なので、鈔を与えてこれを賑恤した。行中書省平章政事に再び軍政を兼掌させ、軍官に罪があれば、重いものは奏聞し、軽いものはその場で決断させることとした。上都・雲州・興和・宣徳・蔚州・奉聖州および鶏鳴山・房山・黄蘆・三叉の諸金銀鉱を廃止し、民に採錬を許し、十分の三を官に納めさせた。前枢密院副使呉元珪・王約を集賢大学士に、翰林侍講学士韓従益を昭文館大学士に任じ、いずれも中書省事を商議させた。拜住が言うには、「前集賢侍講学士趙居信・直学士呉澄は、いずれも徳行ある老儒です。これを徴用するよう請います」。帝は喜んで言った、「卿の言はまさに朕の心に適う。さらに山林に隠逸する士を捜し訪ねるべきである」。そこで居信を翰林学士承旨に、澄を学士に任じた。上都留守司に判官二員を増置し、漢人をこれに充て、専ら刑名を掌らせた。仁宗中宮位提挙司を二つ置き、秩を正五品とし、承徽寺に隷属させた。太陰が鉞星を犯し、また井宿を犯した。癸卯(十一日)、太陰が井宿を犯した。甲辰(十二日)、鎮西武寧王の部が飢えたので、これを賑恤した。諸王忽剌出を派遣して雲南に鎮守させ、鈔一万五千貫を賜った。辛亥(十九日)、鉄失に改めて台綱を振挙するよう命じた。壬子(二十日)、京師に諸王の駅を建てた。回回砲手万戸を汝寧・新蔡に派遣し、世祖の旧制に従って砲法を教習させた。静江・邕・柳諸郡の獠が寇掠したので、湖広行省に命じて兵を督してこれを捕らえさせた。甲寅(二十二日)、宗仁衛の蒙古子女の数が一万戸に満ちたので、収集を停止するよう命じた。乙卯(二十三日)、征東の末吉地の兀者戸が、貂鼠・水獺・海狗の皮を携えて来献したので、詔して三年間存恤させた。丙辰(二十四日)、泉州の民留応総が乱を起こしたので、江浙行省に命じて兵を派遣してこれを捕らえさせた。丁巳(二十五日)、封贈官の等級を定めた。辛酉(二十九日)、子孫を故意に殺して平民を誣告することを禁じた。兵部尚書を一員増置した。四川行省平章政事趙世延は、その弟が不法の事を訴えたため、獄に繋がれて対決を待っていたが、その弟が逃げ去ったので、詔してこれを釈放した。さらに令として定めた、逃げた者が百日たっても出頭しなければ、対決を待つ者を釈放する。枢密副使完顔納丹・侍御史曹伯啓・也可扎魯忽赤不顔・集賢学士欽察・翰林直学士曹元用に命じ、仁宗の時に纂集された累朝の格例を聴読させた。勅命を下した、「常調の官の外、格次を超えて選抜任用する者は、ただ職を昇進させるだけで、その階位を昇進させてはならない」。

二月癸亥朔(一日)、上都の華厳寺・八思巴帝師寺及び拜住の邸宅を造営し、軍役六千二百人を動員した。軍官の職襲封を定め、嫡長子孫が幼少の場合は諸兄弟・甥に代行させ、受けた制勅書を暫定的に襲封させ、争訟を止めしめた。この夜、熒惑・太白・填星の三星が胃宿に集まった。丙寅(四日)、翰林国史院が仁宗実録を進呈した。教化らを西番に派遣し、新たに帰附した民を慰撫し、畜牧を徴収し、郵伝を整備させた。戊辰(六日)、社稷を祭った。天寿節に、賓丹・爪哇等の国が使者を派遣して来貢した。己巳(七日)、(広)〔通〕恵河の閘門十九箇所を修築した。野狐・桑乾の道路を整備した。癸酉(十一日)、柳林で狩猟し、顧みて拜住に言った、「近ごろ地道が安寧を失い、風雨が時ならず、これは朕が大位を継承し行事に欠けるところがあるからではないか」。対えて言った、「地震は古来よりあるもので、陛下が自ら責められるのはもっともであるが、実は臣らが職を失い、よく調和を図れなかったためです」。帝は言った、「朕が位に就いて三年、億兆の民と万物に対して、そぐわぬことがなかったと言えようか。卿らは百官と議し、民に便益をもたらすものがあれば、朕は直ちに行う」。鎮遠王也不干に王傅の官属を置いた。播州黄平府の長官所一つを廃止し、その民を黄平に移して隷属させた。この夜、太白が昴宿を犯した。辛巳(十九日)、五輅を造った。司徒劉夔・同僉宣政院事囊加台が、妄りに地土を献じ、官銭を騙し取った罪で誅殺された。格例が完成し定まり、総計二千五百三十九条、内訳は断例七百一十七、条格千百五十一、詔赦九十四、令類五百七十七、名を『大元通制』とし、天下に頒布施行した。この夜、太陰が東咸を犯した。癸未(二十一日)、北辺の軍に鈔二十五万錠・糧二万石を賑給した。宣徽院に命じて蒙古の子弟四百人を選び宿衛に入らせた。徽政院の総管府三つを廃止した。都総管府は有司に隷属させ、怯憐口及び人匠総管府は陝西行中書省に隷属させた。開成路を州に降格した。丙戌(二十四日)、土が降った。京師が飢饉となり、粟二万石を発して賑糶した。五輅の旗を造った。丁亥(二十五日)、金字で書写した蔵経二部を造るよう命じ、拜住らに総監させた。戊(午)〔子〕(二十六日)、鷹師の不花を趙国公に封じた。辛卯(二十九日)、太子賓客伯都が廉潔で貧しいため、鈔十万貫を賜った。諸王月思別が使者を派遣して来朝した。称海宣慰司及び万戸府を廃止し、改めて屯田総管府を立てた。諸王怯伯が使者を派遣して葡萄酒を貢いだ。海運の糧が直沽に到着し、使者を派遣して海神天妃を祀った。

三月壬辰朔(一日)、車駕が上都に行幸した。諸王喃答失に鈔二百五十万貫を賜い、また諸王脱歡に歳賜を与えた。丁酉(六日)、平江路嘉定州が飢饉となり、粟六万石を発して賑給した。戊戌(七日)、安豊芍陂の屯田女直戸が飢えた。一か月分の糧を賑給した。庚子(九日)、崇明州が飢饉となり、米一万八千三百石を発して賑給した。甲辰(十三日)、台州路黄巖州が飢饉となり、二か月分の糧を賑給した。丁未(十六日)、西番の参卜郎諸族が叛き、鎮西武靖王搠思班らに兵を発して討伐するよう命じた。戊申(十七日)、太皇太后を順宗廟室に合祀し、摂太尉・中書右丞相拜住を派遣し玉冊・玉宝を奉じて尊諡を上り、昭献元聖皇后と称した。辛亥(二十日)、円明・王道明の乱により、僧・道の度牒・符録を禁じた。丙辰(二十五日)、命じた、「医・卜・匠官は、喪に服する間も職を離れることを許さず、七十歳でも致仕を認めず、子孫に蔭叙はないが、その業を継ぐことができる者は、才能に応じて任用する」。監察御史の拜住・教化が、八思吉思を推挙したことが不適当であった罪で、ともに罷免・免官された。諸王火魯灰部の軍駅戸が飢え、賑給した。

夏四月壬戌朔(一日)、天下の諸司に命じて僧に経十万部を誦経させた。丙寅(五日)、察罕脳児の蒙古軍駅戸が飢え、賑給した。丁卯(六日)、内黄県の節婦王氏を表彰した。己巳(八日)、金水河を疏浚した。甲戌(十三日)、張珪及び右司員外郎王士熙に命じて国子監学を激励させた。都功德使の闊児魯を京師に至らせるよう命じた。大辟の囚三十一人を釈放し、杖五十七以上の者六十九人を釈放した。籠の鳥十万羽を放し、有司にその代価を償わせた。己卯(十八日)、助役法の施行を詔し、使者を派遣して税籍の高低を調査させ、田若干畝を出させ、応役の者が交替でこれを管理し、その歳入を収めて役費を助成させ、官は関与しないこととした。北辺の軍が飢え、賑給した。蒙古大千戸部は、ここ数年風雪で畜牧が斃れ、鈔二百万貫を賑給した。京師の万安・慶寿・聖安・普慶の四寺、揚子江金山寺、五台万聖祐国寺に命じ、水陸仏事を七昼夜行わせた。丁亥(二十六日)、故羅羅斯宣慰使述古の妻漂末が暫く司事を領し、その子娑住邦を派遣して方物を献上させた。戊子(二十七日)、南豊州の民及び鞏昌の蒙古軍が飢え、賑給した。

五月辛卯朔(一日)、大理路白塩城に榷税官を設置し、秩は正七品とした。中慶路に榷税官を設置し、秩は従七品とした。安慶灊山県・雲南寧遠州を置いた。戊戌(八日)、太白が経天した。庚子(十日)、大風が吹き、雹が降り、柳林行宮内外の大木二千七百本を抜いた。辛丑(十一日)、鉄失をして単独で御史大夫の事務を署理させた。壬寅(十二日)、雲南行省平章政事忽辛が贓罪により杖罰を受け免官された。中外に言路を開くよう詔した。慶元路嶧山県を置き、尉を一員増員した。安寨県を龍安駅に移転した。癸卯(十三日)、太陰が房宿を犯した。乙巳(十五日)、嶺北で米価が高騰し、酒造りを禁止した。戊申(十八日)、監察御史の蓋継元・宋翼が言上した、「鉄木迭児は奸険で貪污である。立てた碑を毀つことを請う」。これに従い、さらに官爵及び封贈の制書を追奪した。帝が大安閣に臨み、太祖・世祖の遺された衣服がすべて絹・木綿で作られ、重ねて継ぎはぎされているのを見て、しばらく嘆息し、侍臣に言った、「祖宗が創業されたのは艱難で、服用は節倹してこのようであった。朕はどうして片時も忘れられようか」。太白が畢宿を犯した。癸丑(二十三日)、荊湖宣慰使脱列が賄賂を受け、事が発覚し、京師に召還された。御史台の臣が派遣して審問するよう請うたが、許さなかった。乙卯(二十五日)、勲旧の子の撒児蛮・按灰鉄木児・也先鉄木児に鈔を賜い、各一万五千貫とした。鈔千万貫をもって羊馬を買い、嶺北の戍卒に給し、各人に去勢馬二頭・牝馬二頭・羊十五頭を与えた。駅戸に、官地を質入れ・売却することを禁じた。丙辰(二十六日)、東安州で水害があり、民田千五百六十頃を損なった。戊午(二十八日)、真定路武邑県で雨水が農作物を害した。奉元行宮の正殿が火災に遭った。上都利用監の倉庫が火災に遭い、帝は衛士に命じて消火させた。そこで群臣に言った、「世皇(世祖)が宮室を建て始められ、今日まで安泰であった。朕が大位を継いだのに、このような焼失に遭うのは、朕がよく治められなかったためである」。欽察衛の兵が辺境を戍守し、功績を重ねた兵卒が官位を賞賜として請うたが、帝は言った、「名爵はどうして人を賞するものか」。鈔三千貫を賜うよう命じた。大名路魏県で長雨が降った。大同路鴈門の屯田で旱魃により麦が損害を受けた。諸衛の屯田及び永清県で水害があった。保定路帰信県で蝗害があった。

六月、賊が寧都を包囲した。州民の孫正臣が糧食を出して軍を養い、その門を旌表した。丁卯、西番の参卜郎の諸賊が未だ平定せず、徽政使の醜驢を遣わして師を督かせた。戊辰、鉄木迭児の父祖の碑を毀ち、元より受けし制書を追収し、中外に告諭した。乳母の忽禿台に定襄郡夫人を贈り、その夫の阿来に定襄王を追封し、諡して忠愍とした。壬申、将作院使の哈撒児不花が上を欺き利を営む罪に坐し、杖罰の上東方に流し、その家を籍没した。留守司が雨を理由に都城の修繕を請うたが、旨有りて「今年は大いに土木の工を興すべからず、略々これを完うせよ」という。癸酉、太廟の夾室を置く。燕赤吉台太赤に襄安王を贈る。諸王の別思鉄木児が北部に兵を統べるため、別に歳賜を頒つ。太常が累朝の儀礼を纂修することを請い、従う。癸未、填星が畢を犯す。乙酉、易・安・滄・莫・霸・祁の諸州及び諸衛の屯田に水害あり、田六千余頃を損なう。諸王の怯伯が数度辺境を寇し、ここに至り使いを遣わして来降した。帝曰く「朕は彼の土地人民を欲するにあらず、ただ我が民が辺患に罹からず、軍士が労役を免れれば、これ幸いである。今既に来降した以上、厚く賜を与えてこれを安んずべし」と。

秋七月辛卯朔、宣政使の欽察台が自ら伝旨して事を署す。中書が体制宜しからずとして、通行を禁止するよう請う。従う。壬辰、占城国王がその弟の保佑八剌遮を遣わし、表を奉じて方物を貢ぐ。真定路の駅戸飢え、糧二千四百石を賑う。癸卯、太廟成る。班丹が贓罪に坐し杖罰の上免職。剌禿の屯田貧民に鈔四十六万八千貫を賜い牛具を市わしむ。甲辰、諸王の帖木児が雲南より還り、宿衛に入る。鈔二万五千貫を賜う。乙巳、左右両江の黄勝許・岑世興を招諭す。己酉、諸王の忽都鉄木児を封じて威遠王とし、金印を授く。海道の歳運糧を二十万石減じ、併せて江淮の増科糧を免ず。甲寅、行宮の駕車の馬六百五十匹を買う。丙辰、永寧王の卜顔鉄木児が法に従わず。宗正府及び近侍に命じてその傅を雑治せしむ。鉄木迭児の家資を籍没す。諸王の徹徹禿が入朝して印を請う。帝はその政績未だ著しからずとして允さず、鈔二十五万貫を賜う。御史台が旨を降して言路を開くことを請う。帝曰く「言路何ぞ嘗て開かざらんや、但だ卿等の選人当たらず爾」と。漷州雨あり、水害して屯田の稼を損なう。真定州諸路の属県に蝗あり。冀寧・興和・大同の三路の属県に霜隕る。東路蒙古万戸府飢え、糧を二月賑う。

八月癸亥、車駕南還し、南坡に駐蹕す。この夕、御史大夫の鉄失・知枢密院事の也先帖木児・大司農の失禿児・前平章政事の赤斤鉄木児・前雲南行省平章政事の完者・鉄木迭児の子で前治書侍御史の鎖南・鉄失の弟で宣徽使の鎖南・典瑞院使の脱火赤・枢密院副使の阿散・僉書枢密院事の章台・衛士の禿満及び諸王の按梯不花・孛羅・月魯鉄木児・曲呂不花・兀魯思不花等、謀逆を図り、鉄失の領する阿速衛の兵を外応とし、鉄失・赤斤鉄木児が丞相の拜住を殺し、遂に行幄において帝をしいす。年二十一、諸帝陵に従葬す。泰定元年二月、尊諡を上りて睿聖文孝皇帝と曰い、廟号を英宗とす。四月、国語の廟号を上りて格堅と曰う。

英宗の性質剛明なり。嘗て地震ありて膳を減じ、楽を徹し、正殿を避けたる時、近臣ありて觴を称えて賀す。問うて「何をか賀すべき。朕方に徳を修むるに暇あらず、汝大臣たるもの、匡輔すること能わず、反って諂うか」と。斥いて出だす。拜住進みて曰く「地震は乃ち臣等の失職なり、賢を求めて代うるべし」と。曰く「多く遜る毋れ、これ朕が過ちなり」と。嘗て群臣に戒めて曰く「卿等高位に居り、厚禄を食む、勉めて図り報いるべし。苟くも或いは貧乏ならば、朕汝に賜うを惜しまず。若し法に従わざれば、則ち必ず刑し赦さず」と。八思吉思が獄に下された時、左右に謂いて曰く「法は祖宗の制する所、朕の私すべきに非ず。八思吉思は朕に事うること日久しといえども、今その罪有り、法の如く論ずべし」と。嘗て鹿頂殿に御し、拜住に謂いて曰く「朕幼沖を以て大業を嗣承し、錦衣玉食、何ぞ求め得ざらん。惟だ我が祖宗櫛風沐雨し、万方を戡定せしに、嘗て此の楽しみ有りしや。卿は元勲の裔なり、朕が至懐を体し、爾が祖を辱しむる毋れ」と。拜住頓首して対えて曰く「創業は惟だ艱し、守成は易からず。陛下の睿思此に及ぶは、億兆の福なり」と。又大臣に謂いて曰く「中書は人を選び事を署するに旬日に満たず、御史台即ちこれを改除す。台の除する者は、中書も亦然り。今山林の下に遺逸多く、卿等尽心して求訪せず、惟だ親戚故旧を以て更相引用するか」と。その明断此の如し。然れども刑戮に果なるを以て、奸党誅されるを畏れ、遂に大変を構うるに至る。