三月己丑、遼陽行省右丞洪重喜、高麗国王王璋の国法を奉ぜず恣に暴なる等の事を訴う。中書省臣、重喜をして高麗王と弁対せしむることを請う。勅して中書に弁対せしむることなからしめ、高麗王をして太后に従いて五台山に至らしむ。梁王、雲南に在りて風疾あり。諸王老のを以て梁王に代わりて雲南を鎮めしむ。金二百五十両・銀七百五十両を賜い、従者に幣帛を賜うこと差あり。庚寅、車駕、上都に幸す。五衛の軍五十人を摘発して中都の虎賁司に隷せしむ。諸王也速不干を襄寧王に封ず。辛卯、杭州の白雲宗摂所を罷む。湖広頭陀禅録司を立つ。丙寅、雲南王老のに金印を賜う。戊戌、太陰、氐を犯す。己亥、熒惑、歳星を犯す。公主阿剌的納八剌を趙国公主に封じ、駙馬注安を趙王とす。甲辰、中書省臣言う、「国家の歳賦は常あり。頃歳儉を以てし、収入曾て半に及ばず、而して去歳の支出は、鈔千万錠に至り、糧三百万石なり。陛下嘗て芻粟を求むる者を汰せしむることを命ぜしが、宣徽院の孛可孫竟に行う能わず、去歳より反って三十万石多し。請う、銭穀を知る者二三員を宣徽院に用いて佐けしめてこれを理せしめん。又、中書省の断事官、大徳十年四十三員、今皇太子位に二員を増し、諸王闊闊出・剌馬甘禿剌も亦各一員を増す。旧制に非ず。臣等以為う、皇太子位の増員は宜しく存すべく、諸王の者は宜しく罷むべし。」並びにこれに従う。掌医署を陞めて典医監とす。乙巳、中書省臣言う、「中書は百司の首たり。宜しく先ず冗員を汰すべし。」帝曰く、「百司の汰する所は、卿等議を定めよ。省臣の去留は、朕自らこれを思わん。」己酉、済陰・定陶に雹あり。
夏四月甲寅、中書省臣言う、「江浙杭州の駅、半歳の間に、使人過ぐる者千二百余、桑兀・宝合丁等の獅・豹・鴉・鶻を進むる者有り、二十七日留まり、人畜の食肉千三百余斤。請う、今より遠方より奇獣異宝を来たす者は、駅遞に依らしめ、その商人因りて献ずる所ある者は、自ら資力を備えしめん。」これに従う。辛酉、興聖宮江淮財賦総管府を立て、詔して中外に諭す。癸亥、漢軍五千を摘発し、田十万頃を給し、直沽沿海口に於いて屯種せしめ、又康里軍二千を益し、鎮守海口屯儲親軍都指揮使司を立つ。壬午、詔して中都に皇城の角楼を創らしむ。中書省臣言う、「今農事正に殷なり。蝗蝝野に徧く、百姓食に艱し。請う前旨に依りてその役を罷めん。」帝曰く、「皇城若し角楼無くんば、何を以て壮観せん。先ずその功を畢えしめ、余はこれを緩むべし。」新寺を建つるを以て、提調・監造の三品銀印を鋳す。益都・東平・東昌・済寧・河間・順徳・広平・大名・汴梁・衞輝・泰安・高唐・曹・濮・徳・揚・滁・高郵等の処に蝗あり。
五月丁亥、通政院使憨剌合児を以て枢密院事を知らしめ、興聖宮の建つるを董し、大都留守養安等をしてその工を督めしむ。丁酉、陰陽家の言を以て、今より聖誕節に至るまで土功を興すに宜しからずとし、勅して新寺の工役を権りに停む。甲辰、御史台臣言う、「乗輿北幸す。而して京師の工役正に興り、之に歳旱食乏しきを加う。民愚にして惑い易く、関わる所甚だ重し。請う、一丞相を留めて京師を鎮めしめ、後例と為さん。」制して可とす。
六月癸亥、官を選び蝗の捕獲を監督させる。皇太子の言に従い、諸賜田者が馳駅を利用して租を徴収し民を擾乱することを禁ず。庚午、中書省の臣が言うには、「詔旨を奉じて既に新寺の工役を停止したが、その亭苑・鷹坊などの諸役も、併せて罷めることを乞う。また、太医院が使者を遣わして陝西・四川・雲南に薬材を取りに行かせ、公帑を費やし、駅伝を労する。臣ら議うに、事は銭糧に関わるものであり、中書省を隔て越えて直ちに行うことは、禁止を乞う」と。併せてこれに従う。益都・済南・般陽の三路、寧海の一州を宣慰司に属させ、残りは全て省部に直隷させる。大都に隷する儒籍の者四十戸を文廟の楽工に充てる。皇太子の請いに従い、典楽司の提点・大使などの官を卿・少卿・丞に改める。甲戌、宿衛の士が近頃多く冗雑であるとして、旧制に遵い、蒙古・色目のうち閥閲ある者を存し、余は皆罷め去る。皇太子が言うには、「宣政院が先に詔旨を奉じ、西番僧を毆る者はその手を截ち、これを詈る者はその舌を断つ、この法は昔より未だ聞かず、国典に背き、かつ僧にも益なし。僧俗相犯するは、既に明憲あり、その令を改めることを乞う」と。また言うには、「宣政院の文案は検覈せず、憲章に妨げあり、旧制に遵うが宜しい」と。併せてこれに従う。乙亥、中書省の臣が言うには、「河南・江浙省が言うには、宣政院が僧・道・也里可温・答失蠻の租税を免ずることを奏す。臣ら議うに、田には租あり、商には税あり、これ祖宗の成法なり。今宣政院が一体に奏免するは、制に非ず」と。詔旨あり、旧制に依ってこれを徴す。この月、金城・崞州・源州に雨雹あり。延安の神木碾谷・盤西・神川などの処に大雨雹あり。覇州・檀州・涿州・良郷・舒城・歴陽・合肥・六安・江寧・句容・溧水・上元などの処に蝗あり。
秋七月癸未、河が帰徳府の境で決す。壬辰、宣政院の臣が言うには、「武靖王搠思班と朵思麻宣慰司が言うには、『松潘疊宕威茂州などの処安撫司の管内は、西番・禿魯卜・降胡・漢民の四種人が雑居し、先に経歴蔡懋昭を遣わして蛇谷隴迷に往きこれを招き、その八部を降し、戸一万七千、皆数百年にわたり険固を負い頑獷なる人なり、酋長令真巴など八人は既に廷見した。今令真巴がその地が四川に隣接し、未だ降らざる者尚ほ十余万あるという。宣撫司の官は皆他郡の人で、蛮夷の事を知らず、成都灌州に至るや、畏懼して即ち返る、何をもって撫治せん。宜しく安撫司を宣撫司に改め、治を茂州に遷し、松州の軍千人を徙して鎮遏させ、便なり』と。臣ら議うに、宜しくその言に従うべし」と。詔して松潘疊宕威茂州安撫司を宣撫司に改め、治を茂州汶川県に遷し、秩を正三品とし、八児思的斤を宣撫司達魯花赤とし、蔡懋昭を副使とし、併せて虎符を佩かしむ。乙未、贛州の龍南・安遠の二県を復置す。河西の二十駅は往来の使多く、馬数既に少なく、民力耗竭す、中書省・枢密院・通政院に命じ諸部より戸を撥き馬を増してこれを済わしむ。楽実が鈔法大いに壊れたと言い、鈔法を改めることを請い、新鈔の式を図して進め、また保八と尚書省を立てることを議し、詔して乞台普済・塔思不化・赤因鐵木児・脱虎脱に集議して聞かしむ。己亥、河が汴梁の封丘で決す。甲辰、昔保赤八剌合孫総管府を奉時院に改む。乙巳、保八が言うには、「臣と塔思不花・乞台普済らが尚書省を立てる事を集議す。臣今窃かにこれを思うに、政事の得失は、皆前日の中書省の臣の為す所なり。今正しきを挙げんと欲すれば、彼ら累あるを懼れ、誰か願って行わんとする者あらん。臣今言わざれば、誠に大事を懼るるなり。陛下若し保八・楽実の議を矜み憐れみ、尚書省を立てることを請わば、旧事は中書に従い、新政は尚書に従わしむ。尚書には、乞台普済・脱虎脱を丞相とし、三宝奴・楽実を平章とし、保八を右丞とし、王羆を参知政事とすることを請う。姓江の者に鈔式を画かしめ、印鈔庫大使と為す」と。併せてこれに従う。塔思不花が言うには、「これは大事なり、急にこれを更張す、老臣と更に議することを乞う」と。帝従わず。この月、済南・済寧・般陽・曹・濮・徳・高唐・河中・解・絳・耀・同・華などの州に蝗あり。
八月壬子、中書省の臣が言うには、「甘粛省は僻遠の辺陲にあり、城中に金穀を蓄えて諸王の軍馬に給す。世祖・成宗常にその城池を修す。近頃撒的迷失が擅に兵甲を興し、豳王出伯の輜重を掠め、民大いに驚擾す。今撒的迷失は既に誅せられた。その城若し修せざれば、寇心を啓くを慮る。また、沙・瓜州は軍を摘発して屯田し、歳に糧二万五千石を入る。撒的迷失叛き、その軍を屯に入れしめず、遂に廃す。今乞うらくは旧に仍って軍を遣わし屯種せしめ、屯田の地利を知る色目・漢人各一名を選びこれを領せしむ」と。皆これに従う。癸丑、尚書省を立て、乞台普済を太傅・右丞相とし、脱虎脱を左丞相とし、三宝奴・楽実を平章政事とし、保八を右丞とし、忙哥鐵木児を左丞とし、王羆を参知政事とし、中書左丞劉楫を尚書左丞・商議尚書省事に授け、詔して天下に告ぐ。甲寅、海剌孫が昔伯顔・阿朮と江南を平らげ、兵事を知るを以て、平章政事・商議枢密院事に授くべしと勅す。阿速衛の軍五百人を諸王怯里不花に隷せしめ、和林に駐し、鈔一万五千錠を給し、人に四馬を備えしむ。己未、皇太子右衛率府を立て、秩を正三品とし、尚書右丞相脱虎脱・御史大夫不里牙敦に命じ併せて右衛率府事を領せしむ。尚書省の臣が言うには、「中書省には尚ほ逋欠の銭糧で追理すべき者あり、宜しく断事官十人を存し、余は皆尚書省に併入すべし」と。また言うには、「往時大辟の獄具は、尚書省が議定し、中書省に裁酌させて聞かしむ、宜しく旧制に依うべし」と。これに従う。江西等処行中書省参知政事郝彬を尚書省参知政事とする。甲戌、太師𠇗頭に脱児赤顔の名を賜う。丁丑、永平路に霜が降り禾を殺す。己卯、三宝奴が言うには、「尚書省が立ち、庶政を更新し、鈔法を変易するに、官六十四員を用う。その中には宿衛の士あるもあり、品秩未だ至らざる者あるもあり、未だ任に歴らざる者あるもあり。これら皆素より事に習熟し、既にこれを任ずる以上は、例に拘わらず宣勅を授くることを乞う」と。制して可とす。詔して天下に、敢えて尚書省の事を沮撓する者有らば、これを罪す。真定・保定・河間・順徳・広平・彰徳・大名・衛輝・懐孟・汴梁などの処に蝗あり。
冬十月庚戌朔、皇太子を尚書令と為し天下に詔し、州県の正官を以て九年を任と為すことを天下に詔し、又銅錢法を行ふことを天下に詔す。辛亥、皇太子言ふ、「旧制、百官の宣敕散官は皆中書に帰す、臣を中書令と為すが故なり。今よりは敕牒は宜しく尚書省に令して給降せしむべく、宣命は仍ほ中書に委すべし」と。制可す。丙辰、樂實言ふ、「江南平れて垂四十年、其の民は止だ地税・商税を輸するのみ、余は皆与せず。其の富室に王民を蔽占して奴使する者有り、動輒百千家、萬家に多き者有り、其の力知るべし。乞ふ、今よりは歳に糧を収むること五萬石以上なる者有らば、石に二升を官に輸せしめ、仍ほ一子を質して之を軍せしむべし。其の輸する所の糧は、其の半を移して京師に入れ以て御士を養ひ、半を彼に留めて以て凶年に備ふべし。富國安民、此に善きは無し」と。帝曰く、「樂實の言ふが如く之を行へ」と。辛酉、酒禁を弛め、酒課提舉司を立つ。尚書省、錢穀繁劇なるを以て、戸部侍郎・員外郎各一員を増し、又禮部侍郎・郎中各一員を増し、凡そ時政を言ふ者は之に属す。太廟廩犧署を立て、令・丞各一員を設く。癸亥、翰林學士承旨不里牙敦を以て御史大夫と為す。乙丑、皇太后疾有るを以て、天下に詔して大辟百人を釋す。丁卯、御史大夫只兒合郎及び中書左丞相脫脫・尚服院使大都を以て、並びに樞密院事を知らしむ。壬申、太陰左執法を犯す。癸酉、尚書省臣言ふ、「比來冗官を柬汰するの故に、百官の俸今に至るまで未だ給せず、大德十年の設くる所の員数の如く之を給し、余は給せざるを乞ふ」と。之に從ふ。知樞密院事禿忽魯に左丞相を加ふ。丁丑、遼陽行尚書省平章政事合散を以て左丞相・行中書省平章政事と為し、中書參知政事伯都を平章政事・行中書右丞と為し、商議中書省事忽都不丁を右丞・行中書省左丞と為し、參議中書省事鐵里脫歡・賈鈞を並びに中書參知政事と為す。戊寅、御史臺臣言ふ、「常平倉は本民を益さんと為す、然れども歳登らず、遽に之を立てば、必ず反つて民を害し、之を罷むる便なり」と。又言ふ、「至大銀鈔始めて行はる、品目繁碎にして、民猶ほ未だ悟らず、而して又銅錢を兼ねて行はば、相妨ぐる有らんことを慮る」と。又言ふ、「民間銅器を拘する甚だ急なり、便ならず、省臣と詳議するを乞ふ」と。又言ふ、「歳凶にして食乏し、宜しく遽に酒禁を弛むべからず」と。旨有り、「其れ省臣と之を議せよ」と。
十二月乙卯、親しく太廟を饗し、太祖聖武皇帝の尊諡・廟號及び光獻皇后の尊諡を上り、また睿宗景襄皇帝の尊諡・廟號及び莊聖皇后の尊諡を上る。執事者は人ごとに散階一等を陞し、太廟の礼楽戸に鈔帛を賜うこと差等あり。和林省右丞相・太師月赤察児言う、「臣と哈剌哈孫答剌罕が共に事えた時、銭穀は必ず臣と議した。哈剌哈孫没してより、凡そ出入は復た関聞せず、予奪失当にして、右丞曩家帶は反って相凌侮し、輒ち故を託して京師に赴く」と。旨あり、「曩家帶を鎖し、和に詣でてこれを鞫せよ」と。武昌の婦人劉氏、御史臺に詣でて訴う、三宝奴がその進めたる亡宋の玉璽一・金椅一・夜明珠二を奪いしと。旨を奉じ、尚書省臣及び御史中丞冀徳方・也可扎魯忽赤別鉄木児・中政使搠只等をして雑問せしむ。劉氏は故翟万戸の妻と称し、三宝奴が武昌に謫せられた時、(留)〔劉〕と往来し、三宝奴の貴くなるに及び、劉は逃婢を追うことを託して京師に来り、その家に三宝奴を謁すも、答えず、その西廊に入り、榻の上に逃婢の窃める所の宝鞍及びその手縫の錦帕あるを見て、以て問うも、三宝奴また答えず。忿恨して出で、即ち書状人喬瑜を求めて状と為し、乃ち尹栄に因りて察院の吏李節を見、入りて臺に訴う。獄成り、劉氏を妄と為す。旨あり、喬瑜を斬り、李節を笞し、劉氏及び尹栄を杖し、元の籍に帰す。丙辰、中書省左右司を併す。使いを諸路に遣わして逋負を分揀し、合わして徴すべきはこれを徴し、合わして免すべきはこれを免す。庚申、太陰参を犯す。尚書省臣言う、「塩価は毎引宜しく至大銀鈔四両に増すべし、広西の者は故の如し。その煮塩の工本は、至大銀鈔四銭に増すを請う」と。制して可とす。辛酉、漢人の弓矢・兵仗を執ることを申し禁ず。壬戌、陽曲県地震し、声雷の如し。西僧迷不韻子を封じて寧国公と為し、金印を賜う。丁丑、詔す、「百官の俸を増し、流官の封贈等第を定む。応に封贈すべき者は、或いは遠使して節に死し、陣に臨みて事に死するは、見授の散官の上にこれを加う。若し六品七品にして節に死し事に死する者は、事を験して特に官を贈る。内外の百官を封贈し、三品以上は諡を請うことを許す。凡そ諡を請う者は、その家に本官平素の勲労・政績・徳業・芸能を具えさせ、所在官司を経由して保勘し、本家の供する所と相同じきを以て、転じて吏部に申し考覆して都省に呈し、都省準擬し、太常礼儀院をして事蹟を験して諡を定めしむ。若し勲戚大臣にして旨を奉じて諡を賜わる者は、この例に在らず」と。
二月庚戌、皇后が冊を受けしを以て、官を遣わし太廟に告謝す。辛亥、熒惑月星を犯す。鷹坊の馬速忽に金百両・銀五百両を賜う。己未、会通河を浚い、鈔四千八百錠・糧二万一千石を与えて民を募り、河南省平章政事塔失海牙に命じて其の役を董せしむ。商議尚書省事劉楫を遣わし鈔法を整治せしむ。大都の警巡院を二つ増し、四隅を分治せしむ。壬戌、太陰左執法を犯す。甲子、皇太后の尊号を上るを以て、南郊に告祀す。乙丑、また僉樞密院事賈鈞を以て中書参知政事と為す。尚書省臣言う、「官階の差等は既に定制有り。近く聖旨・懿旨・令旨を奉じて官階を要索する者は、率ね躐等多し。願わくは世祖皇帝の旧制に依り、次第に之を与えん」と。制して可とす。丁卯、尚書省臣言う、「昔、至元鈔初めて行わるるや、即ち中統鈔の本を以て供億し、及び其の板を銷せり。今既に至大銀鈔を行わば、乞うらくは至元鈔を万億庫に輸し、其の板を銷毀し、止むるに至大鈔を以て銅錢と相権し通行するを便と為さん」と。又言う、「今夏、上都に朝会し供億せんと請う。先ず鈔百万錠を発して往かしむ」と。並びに之に従う。楚王牙忽都の隷する戸貧乏なり、米万石・鈔六千錠を以て之を賑う。己巳、寧王闊闊出、謀りて不軌を為さんとす。越王禿剌の子阿剌納失里、力を助けんと許す。事覚る。闊闊出獄に下り、其の妻完者を賜いて死せしむ。阿剌納失里及び其の祖母・母・妻を伯鉄木児の所に竄す。畏吾児僧鉄里等二十四人を以て同謀し、或いは謀を知りて首わざるを、並びに市に磔く。其の獄を鞫く者、並びに秩を二等陞す。牙忽都に金千両・銀七千五百両を賞す。三宝奴に答剌罕の号を賜い、闊闊出の食邑清州を以て之に賜う。達魯花赤より下、並びに挙用を聴す。辛未、脱児赤顔に軍国重事を録するを加う。故中書右丞相塔剌海の妻也里干に金七百五十両・銀一千五百両・鈔四百錠を賜う。壬申、楽実を尚書左丞相・駙馬都尉と為し、斉国公に封ず。癸酉、左丞相・行中書省平章政事合散を以て遼陽行省事を商議せしむ。甲戌、太白月星を犯す。皇太后の尊号を上るを以て、太廟に告祀す。
三月己卯朔、樞密院臣言う、「国家官を設け職を分つ。都省は金穀を治め、樞密は軍旅を治む。各おの定制有り。邇者、尚書省成憲に遵わず、本院の官を易置す。令して大徳十年の員数に依り聞奏せしむ。臣等議す、鉄木児不花・脱而赤顔・床兀児・也速・脱脱・也児吉尼・脱不花・大都を以て知樞密院事と為し、撒的迷失・史弼を以て同知樞密院事と為し、呉元珪を以て樞密副使と為し、塔海姑を令して副樞と為さん」と。旨有り、樞密院に令して旧制の如く官十七員を設けしむ。乙酉、知樞密院事只児合郎を以て陝西行尚書省平章政事と為す。刑部尚書馬児を遣わし甘肅に往きて羊馬を和市し、諸王那木忽里の蒙古軍に分かち賚い、鈔七万錠を与う。庚寅、太陰氐を犯す。尚書省臣言う、「昔、世祖旨有り、叛王海都の分地の五戸絲を以て幣帛と為し、彼の来降を俟ちて之を賜わんとし、二十余年蔵す。今其の子察八児、徳化に慕いて向い、闕廷に帰覲す。請うらくは以て之を賜わん」と。帝曰く、「世祖の謀慮、かくの如く深遠なり。諸王の朝会を待ち、頒賞既に畢わりて、卿等備しく其の故を述べ、然る後に之を与え、彼をして愧を知らしめよ」と。辛卯、康里軍を発して永平に屯田せしめ、官之に牛を与う。壬辰、車駕上都に幸す。興聖宮章慶使司を立て、秩正二品。丙申、太陰南斗を犯す。丁未、太白井を犯す。
夏四月己酉、興聖宮鷹坊等の戸四千を遼陽に分処し、万戸府を建てて以て之を統べしむ。容米洞の官田墨、蛮酋を糾合し、千戸及び戍卒八十余人を殺し、良民を俘掠す。永順保靖南渭安撫司を永順等処軍民安撫司に改め、安撫副使梓材を以て使と為し往きて之を招撫せしむ。高麗国王王璋に功臣の号を賜い、瀋王に改封す。大承華普慶寺総管府を崇祥監に改む。庚戌、鈔九千一百五十八錠有奇を以て耕牛農具を市い、直沽酸棗林の屯田軍に給す。戊辰、太白昼に見ゆ。己巳、怯憐口諸色人匠都総管府を立て、秩正三品。提挙司二、大都・上都を分治し、秩正五品。江浙等処財賦提挙司、秩従五品。端州等路営民都提挙司、秩従四品。並びに章慶使司に隷す。辛未、角觝者阿里に銀千両・鈔四百錠を賜う。丙子、管領軍匠千戸所を立て、秩正五品。左都威衞の軍匠八百を割きて之に隷せしめ、興聖宮の営繕に備う。国子生を三百員に増す。霊寿・平陰の二県、雨雹有り。塩山・寧津・堂邑・茌平・陽穀・高唐・禹城等の県、蝗有り。
五月甲申、諸王完者を衞王に封ず。癸巳、東平の人饑う、米五千石を賑う。乙未、尚書参知政事王羆に大司徒を加う。是の月、合肥・舒城・歴陽・蒙城・霍丘・懐寧等の県、蝗有り。
秋七月戊寅(三日)、太陰、右執法を犯す。己卯(四日)、太陰、上相を犯す。庚辰(五日)、皇伯晋王の長女宝答失憐を韓国長公主に封ず。丙戌(十一日)、循州に大水あり、廬舎二百四十四間を漂い、死者四十三人、米を発してこれを賑す。庚寅(十五日)、称海也可扎魯忽赤を罷む。定王薬木忽児、例のごとく王府官六員を設くることを乞う。これに従う。癸巳(十八日)、親民長吏に考功印歴を与え、監治官に歳終にその行蹟を験し、書して上らしむ。廉訪司・御史台・尚書礼部、考校して以て陞黜の資となす。尚書省の客省使・副各一員を増し、直省舎人十四員を置く。河南打捕鷹坊・魚課都提挙司を立て、秩は正四品。乙未(二十日)、中都に光禄寺を立てる。丁酉(二十二日)、汜水・長林・当陽・夷陵・宜城・遠安諸県に水害あり、尚書省にこれを賑恤せしむ。己亥(二十四日)、権要の商販の聖旨・懿旨・令旨を挟みて会通河の民船を阻礙する者を禁ず。壬寅(二十七日)、詔して近侍の御香を奏降する者及び諸王駙馬の降香する者を禁ず。磁州・威州諸県、旱魃・蝗害あり。
八月丁未(二日)、江浙行尚書省左丞相忽剌出と、遙授中書右丞相釐日を以て、並びに御史大夫とし、詔して中外に諭す。甲寅(九日)、白虹、日を貫く。尚服院の秩を従一品に陥(昇)す。丙辰(十一日)、行用銅錢を以て詔して中外に諭す。甲子(十九日)、昴兀脳児の地に狩猟す。己巳(二十四日)、諸王只必鉄木児の貧しきにより、仍西涼府の田を以てこれを賜う。尚書省臣言く、「今歳頒賚已に多し。凡そ各位下、聖旨・懿旨・令旨を奉じて財物を賜わる者は、分汰を請う。」旨あり、「卿等但だ名を具して進めよ。朕自らこれを分汰せん。」汴梁・懐孟・衛輝・彰徳・帰徳・汝寧・南陽・河南等路に蝗害あり。
十一月甲戌朔、太白星が亢宿を犯す。戊寅、済寧・東平等路が飢饉に遭い、かつて賑恤を受けた諸戸の今年の差税を免除し、未だ賑恤を受けていない者は、その半額を量って減ずる。詔を下して釐日に移文を尚書省に諭し、凡そ憲臺の官を除く事は、後に関与せざるべしと。庚辰、河南に水害あり、死者には棺を与え、家屋が流された者には鈔を与え、口数を検して二か月分の食糧を賑給する。今年の租賦を免除し、未納の責めを停止す。辛巳、尚書省の臣が言うには、「今年は既に至大鈔本を百万錠印刷しましたが、二十万錠を増やし、及び銅銭を併用して、以て侍衞及び鷹坊の急な需要に備えたい」と。また言うには、「上都・中都の銀冶提挙司の達魯花赤別都魯思は、去年は銀四千二百五十両を納め、今秋さらに三千五百両を納め、且つ新たな鉱脈を得たと言い、銀の産出は増加するであろうから、嘉議大夫を加授することを乞う」と。併せてこれに従う。脱虎脫を太師・録軍国重事に加え、義国公に封ずる。壬午、大崇恩福元寺規運総管府を隆禧院に改め、秩は従二品とする。丁亥、太陰が畢宿を犯す。戊子、皇太子妃怯憐口都総管府を典内司に改む。益都・寧海等の処が連年飢饉に遭ったため、鷹坊の放鷹狩猟を罷め、その他の狩猟地は、併せて禁約を命じ、秋の収穫を待つ。尚書省の臣が言うには、「雲南省の臨安・大理等処宣慰司・麗江宣撫司及び普定路の管轄する部曲が、蛮寇と連結し、良民を殺掠し、諭しても服従せず、且つ今まさに兵を調べて八百媳婦を討伐しようとしているところ、軍力が消耗している。今、蒙古軍人には馬一頭を、漢軍十人には馬二頭を与え、その価値を計算して支給することを計画し、鈔三万錠を賜わることを乞う」と。また言うには、「四川行省紹慶路の管轄する容米洞の田墨が、諸蛮と連結し、麻寮等の寨を攻撃略奪し、今まさに兵を調べて討捕しようとしているところ、千戸塔朮を遣わして田墨施什用等を諭し来降させた。宜しく黄沙寨を立て、田墨施什用を千戸とし、塔朮を河東陝西等処万戸府千戸所の達魯花赤とし、廖起龍を来寧州の判官とし、田思遠を懐徳府の判官とし、賞賜を与えて帰還させるべきである」と。皆これに従う。朱清の子の虎と張瑄の子の文龍をして海運を治めさせ、没収した宅一区・田百頃を与える。尚書省の臣が言うには、「昔、世祖が皇子脱歓を鎮南王と命じて揚州に居させた。今、その子の老章が、出入りの導衞において、上儀を僭窃している。官を遣わして詰問することを敕し、併せて僭窃した儀物を献上させるべし」と。これに従う。中都の城を築くことを敕し、牛車で土を運搬させ、各部の衛士にこれを助けさせ、来年の四月十五日を期限として集結させ、期限に遅れた者はその部長を罪とし、自ら進んで車牛で輸運する者は別に賞する。江浙省左丞相答失蛮・江西省左丞相別不花が来朝す。世祖の宮人伯牙倫に金七百五十両・銀二千五百両・鈔六百錠を賜う。丙申、南郊で祭祀を行う。太祖皇帝を尊び昊天上帝に配享す。己亥、尚書省が武衞親軍都指揮使鄭阿児思蘭が兄の鄭栄祖・段叔仁等と図って不軌を謀ったとして、獄を置いてこれを鞫いたところ、皆誣服したので、詔して叔仁等十七人を併せて典刑に正し、その家を籍没す。
十二月甲辰朔、大崇恩福元寺を建立するに当たり、乞失剌を遥授左丞とし、曲列・劉良を遥授参知政事とし、併せて行工部の事を領せしむ。崇輝署を立て、中政院に隷属させる。戊申、冀寧路で地震あり。己未、中外に諭し、役を避けて諸王に籍を占める者は、軍駅に充てるべしと。鎮南王老章が儀衞を僭擬したことについて、究問して証拠あり、老章を召して闕に赴かしむ。
至大四年
四年春正月癸酉朔、帝、御体不豫につき朝賀を免じ、大赦天下す。庚辰、帝、玉徳殿にて崩御す。在位五年、寿三十一。壬午、霊駕発引し、起輦谷に葬り、諸帝の陵に従う。
夏五月乙未、文武百官也先鉄木児等、尊諡を上りて仁恵宣孝皇帝と曰い、廟号を武宗とす。国語(モンゴル語)にては曲律皇帝と曰う。この日、南郊にて諡を請う。
閏七月丙午、太廟に祔す。
武宗は富有の大業に当たり、慨然として治を創め法を改めて有為たらんと欲した。故にその封爵は甚だ盛んであり、遥授の官は多く、賜賚は甚だ隆んであり、泛賞の恩は溥く、至元・大徳の政は、ここにおいて稍々変更されることとなった。