安南国は、古の交趾である。秦が天下を併合し、桂林・南海・象郡を置いた。秦が滅びると、南海尉の趙佗がこれを撃ち併せた。漢は九郡を置き、交趾はその一つであった。後に女子の徴側が叛き、馬援を派遣してこれを平定し、銅柱を立てて漢の境界とした。唐は初めて嶺南を東・西二道に分け、節度を置き、五筦を立て、安南はこれに隷属した。宋は丁部領を交趾郡王に封じ、その子の璉もまた王となった。三世伝わって李公蘊に奪われ、即座に公蘊を王に封じた。李氏は八世伝わって昊旵に至り、陳日煚は昊旵の婿であったが、遂にその国を有するに至った。
八年戊午二月、日煚は長子の光昺に国を伝え、元号を紹隆と改めた。夏、光昺はその婿とその国の人を遣わし、方物を携えて来朝させた。兀良合台はこれを行在所に送り届け、別に訥剌丁を派遣してこれを諭して言った。「昔、我が使いを遣わして通好したのに、汝らはこれを執って返さなかった。それ故に我は去年の軍を起こしたのである。汝が国の主が草野に播遷しているのを以て、再び二使をして招安し国に還らせようとしたのに、汝はまた我が使いを縛って返した。今特に使いを遣わして開諭する。もし汝らが真心を以て内附するならば、国主は親しく来朝せよ。もしなお悔い改めぬならば、はっきりと我に報告せよ。」光昺は言った。「小国が誠心を以て上に事えるならば、大国はどう扱ってくださるのか。」訥剌丁は還って報告した。時に諸王不花が雲南を鎮守しており、兀良合台は王に言上し、再び訥剌丁を派遣して諭し、使いを同道して来させるようにさせた。光昺は遂に降伏の意を示し、かつ言った。「徳音が降るのを待ち、即時に子弟を人質として遣わそう。」王は命じて訥剌丁に駅伝に乗って入奏させた。
四年十一月、訥剌丁が還ると、光昺は楊安養を員外郎に充て、及び内令の武復桓・書舎の阮求・中翼郎の范挙らを派遣し、表を奉じて入謝させた。帝は来使に玉帯・繒帛・薬餌・鞍轡を差等を付けて賜った。
五年九月、忽籠海牙を以て訥剌丁に代えて達魯花赤とし、張庭珍をその副とし、また詔を下して商賈の回鶻人を徴発した。
六年十一月、光昺は上書して心情を陳べ、言った。「商旅の回鶻は、一名は伊温で、死んで久しく、一名は婆婆で、尋ねてみるとまた病死した。また忽籠海牙の謂うところによれば、陛下は巨象数頭を須索されるという。この獣は軀体甚だ大きく、歩行甚だ遅く、上国の馬には及ばない。伏して敕旨を待ち、後の貢の年に当たり進献いたします。」また表を具して貢を納め、別に表を奉じて西錦・幣帛・薬物を賜ったことを謝した。
七年十一月、中書省が牒を光昺に移し、その詔を受けて拝礼せず、使介を王人の礼を以て遇さなかったことを言い、遂に春秋の義を引き以てこれを責め、かつ索められた象を歳貢と共に持って来るように命じ、また以前に貢いだ薬物は品味が佳くなく、徴発した回鶻の輩は託辞を以て欺誑した、今より以後は、よく審察せよ、と。
八年十二月、光昺は返書をして言った。「本国は天朝を欽奉し、既に王爵を封ぜられており、これ王人ではないか。天朝の奉使がまた称するには、王人と均礼するのは、恐らく朝廷を辱しめるであろうと。況んや本国は前に詔旨を奉じ、旧俗に依るべしと令せられ、凡そ詔令を受けるには、正殿に奉安して別室に退避すべしと、これは本国の旧典礼である。来諭に象を索められるが、前に旨に忤うことを恐れ、故に依違して敢えて直に対えず、実は象奴が家を去るに忍びず、差発し難いためである。また儒・医・工匠を索められると諭されるが、陪臣の黎仲佗らが陛見の日、咫尺の威光にありながら、詔諭を聞かなかった。況んや中統四年に既に原宥を蒙り、今また諭し及ばれるとは、勝えず驚愕する。惟うに閣下、これを念われよ。」
九年、葉式捏を安南のダルガチ(達魯花赤)とし、李元をその副とした。
十年正月、葉式捏が卒去したので、李元に式捏の代わりを命じ、合撒児海牙をその副とした。中書省はまた光昺に牒を送り言う。
近年使者を奉じて帰還した者の言うところによれば、王は毎度天子の詔令を受けるに、ただ拱手して立ち拝礼せず、使者と相見える時や宴席において、位を使者の上に加えている。今来書を覧るに、自ら謂う、既に王爵を受けた以上、豈に王人(天子の臣)でないことがあろうか、と。春秋を考うるに、王人を諸侯の上に叙している。釈例に云う、王人は下士なり、と。五等の邦君は、外臣の貴き者である。下士は、内臣の微なる者である。微なる者を以て貴き者の上に加えるのは、王命を以て重しとするが故である。後世、王を列ねて爵と為し、諸侯の中の特に貴き者としたが、顧みて、どうして王爵を以て人と為すことがあろうか。王は知らずしてこの言を為すのか、それとも辞令の臣が誤ってこの言を為すのか。天子の詔に至っては、人臣は拝して受くべきであり、これは古今の通義で異なることを容れないものである。乃ち云う、以前詔旨を奉じた時は、並びに旧俗に依り、本国は遵奉して行い、凡そ詔令を受ける時は、正殿に奉安して退き別室に避ける、これは旧典の礼である、と。これを読みここに至り、実に頓に驚訝する。王がこの言を為す、その心自ら安んずることができようか。前の詔旨の言うところは、蓋し天地の間に万国に啻ならず、国それぞれに俗があり、急に変革させれば不便があるので、本俗を用いることを聴許したのであり、どうして天子の詔を拝礼せぬことを以て礼俗と為すであろうか。且つ王の教令が国中に行われる時、臣子でこれを受けて下拝する者がいれば、王はどう思うか。君子は過ちを改めることを貴ぶ。緬想するに高明なる王よ、その亮察せられよ。
十一年、光昺は童子冶・黎文隠を遣わして来貢した。
十四年、光昺が卒去し、国人はその世子日烜を立て、中侍大夫周仲彦・中亮大夫呉徳邵を遣わして来朝した。
十五年八月、礼部尚書柴椿・会同館使哈剌脱因・工部郎中李克忠・工部員外郎董端を遣わし、黎克復等と共に詔を持ち往き日烜を諭し入朝受命させた。初め、使伝の通ずるは、ただ鄯闡・黎化を由って往来していたが、帝は柴椿に江陵より直ちに邕州に抵り、以て交趾に達することを命じた。閏十一月、柴椿等は邕州永平寨に至り、日烜は人を遣わし書を進めて謂う、「今国公が辱くも弊境に臨まれると聞く、辺民は駭愕せぬ者なく、何国の人使か斯くまで至るを知らず、旧路に回軍して進まれることを乞う」と。椿は牒を回して云う、「礼部尚書等の官は上命を奉じ本国の黎克復等と江陵より邕州に抵り安南に入る、導護の軍兵は全て駅馬に乗ずべく、宜しく界首に来て遠く迎えるべし」と。日烜は御史中賛兼知審刑院事杜国計を先に至らせ、その太尉は百官を率いて富良江岸より奉迎し館に入れた。十二月二日、日烜は館に就き使者に会見した。四日、日烜は詔書を拝読した。椿等は旨を伝えて曰く、「汝の国内附して二十余年、向う六事なお従わず。汝もし朝せずんば、則ち爾が城を修め、爾が軍を整え、我が師を待て」と。又云う、「汝の父は命を受けて王と為り、汝は命を請わずして自立し、今また朝せず、異日朝廷罪を加うれば、将に何を以てその責を逃れんか。熟慮せよ」と。日烜は旧例に仍って廊下に宴を設けたが、椿等は宴に就かなかった。既に館に帰ると、日烜は范明字を遣わし書を致して謝罪し、宴を集賢殿に改めた。日烜言う、「先君世を棄て、予初めて位を嗣ぐ。天使の来たり、詔書を開諭し、予をして喜懼胸中に交戦せしむ。窃かに聞く、宋主幼少なるを天子憐れみ、尚ほ公爵を封じ、小国に対しても必ず憐みを加えられんと。昔六事を諭されたが、已に赦免蒙る。親朝の礼に至っては、予は深宮に生長し、乗騎に習わず、風土に諳ぜず、道路に死するを恐れる。子弟太尉以下も皆然り。天使帰らば、謹んで上表して誠を達し、兼ねて異物を献ぜん」と。椿曰く、「宋主は年未だ十歳に満たず、亦た深宮に生長せしが、如何にして亦た京師に至れるか。但だ詔旨の外は、敢えて命を聞かず。且つ我ら四人是実に汝を召しに来たるのであり、物を取りに来たるのではない」と。椿等還るに、日烜は范明字・鄭国瓚・中賛杜国計を遣わし表を奉り情を陳べ、言う、「孤臣は気を禀くこと軟弱、道路艱難を恐れ、徒らに白骨を暴き、陛下を哀傷せしめて天朝の万の一にも益なからしめん。伏して陛下に小国の遼遠なるを憐れみ、臣をして鰥寡孤独と其の性命を保ち、以て陛下に事え終わらしめ給わんことを望む。これ孤臣の至幸、小国生霊の大福なり」と。兼ねて方物及び二頭の馴象を貢した。
十六年三月、椿等は先に京師に達し、鄭国瓚を邕州に留めて待たせた。枢密院奏す、「日烜は朝せず、ただ使臣を遣わして命に報い、飾辞して故に托け、歳時を延引し、巧佞多くと雖も、終に詔旨に違う。境上に進兵し、官を遣わして罪を問うべし」と。帝は従わず、来使の入覲を命じた。十一月、その使鄭国瓚を会同館に留めた。再び柴椿等四人と杜国計を遣わし詔を持ち再び日烜を諭し来朝させ、「若し果たして自ら覲することができずんば、則ち金を積み以て其の身に代え、両珠を以て其の目に代え、賢士・方技・子女・工匠各二を副え以て其の土民に代えよ。然らずんば、爾が城池を修め、以て其の審処するを待て」と。
十八年十月、安南宣慰司を立て、卜顔鉄木児を参知政事・行宣慰使都元帥とし、別に僚佐を設けて差等有り。是の月、詔して光昺既に歿し、其の子日烜は命を請わずして自立し、使を遣わし往き召すも、又疾を以て辞と為し、ただ其の叔遺愛をして入覲せしめたる故に、遺愛を立て代わりに安南国王と為す。
二十年(1283年)七月、日烜が平章阿里海牙に書を送り、留め置いた来使を返還するよう請うた。帝は直ちに使者を帰国させた。この時、阿里海牙は荊湖占城行省平章政事であり、帝は交趾に占城討伐の兵糧を援助させることを望み、彼の考えでこれを諭すよう命じた。行省は鄂州達魯花赤趙翥を遣わし、書を以て日烜を諭した。十月、朝廷は再び陶秉直を遣わし、璽書を持って往き諭させた。十一月、趙翥は安南に到着した。日烜は間もなく中亮大夫丁克紹・中大夫阮道学らを遣わし、方物を持たせて趙翥に従い入朝させ、また中奉大夫范至清・朝請郎杜抱直らを行省に遣わして事を計らわせ、かつ平章に書を送り、言うには、
「軍勢を増やす一件について:占城は小国に服事すること久しく、老父はただ徳を以てこれを懐かしめることに務め、孤子(私)の身に至っても、また父の志を継承している。老父が天朝に帰順して以来、今に至るまで三十年、干戈は再び用いないことを示し、軍卒は民丁に戻し、一つには天朝への貢献の資とし、一つには二心なきことを示している。幸い閣下にご憐察を願う。糧食を援助する一件について:小国は地勢が海に臨み、五穀の産する所多くなく、大軍が去って以来、百姓は流亡し、水害旱害が加わり、朝は飽きても暮には飢え、食うに暇あらず与えられない。しかし閣下の命には、敢えて違わず、欽州の境界上の永安州の地において、輸送納入を待ち受けようと思う。続いて孤子が親しく赴闕し、聖訓を面して奉ずるよう諭された。老父の在世時、天朝は憐れみ、度外に置かれた。今、老父は亡くなり、孤子は喪に服し、病を感じ今に至るも、なお常態に復していない。況や孤子は辺境の地に生長し、寒暑に耐えず、水土に慣れず、道途は艱難で、ただ白骨を暴くのみである。小国の陪臣が往来するにも、なお疫気に侵され、あるいは十のうち五六、あるいは死者が過半に及ぶ。閣下もまた平素ご存知であろう。ただ曲げて愛護していただき、天朝に上奏され、孤子の宗族官吏が一々死を畏れ生を貪る思いを知らしめられたい。ただ孤子が恩恵を受けるのみならず、一国の生霊もまたこれに頼って安全を得、共に閣下がこの天より授かる長久の大福を享けられることを祈るものである。」
二十一年(1284年)三月、陶秉直が使いから戻ると、日烜は再び上表して事情を述べ、また荊湖占城行省に書を送り、大意は前の書とほぼ同じであった。また、瓊州安撫使陳仲達が鄭天祐の言「交趾は占城と通謀し、兵二万及び船五百を遣わして応援とす」を聞き入れたことについて、また行省に書を送り、その概略は「占城は小国の内属する所であり、大軍が討伐に赴くのは、哀訴すべきことであるが、しかし敢えて一言も出さなかった。それは天時と人事とを小国もまた知っているからである。今、占城はついに叛逆となり、執迷して悔い改めない。これはいわゆる天を知り人を知ることができない者である。天を知り人を知りながら、かえって天を知り人を知ることができない者と同謀するのは、三尺の児童でさえもこれに与しないと知る。まして小国がどうして与しようか。幸いに貴省の裁断を願う。」であった。八月、日烜の弟昭徳王陳璨が荊湖占城行省に書を送り、自ら進んで帰順降伏を願い出た。十一月、行省右丞唆都が言うには、「交趾は占臘・占城・雲南・暹・緬諸国と接壤しており、その地に即して省を立てることができる。また越里・潮州・毗蘭の三道に屯軍して鎮戍し、その糧餉を以て士卒に給すれば、海道による転輸の労を免れよう。」
官軍が邕州に至ると、安南の殿前范海崖が兵を率いて可蘭韋大助等の地に屯した。思明州に至ると、鎮南王は再び文書を移してこれと交渉した。禄州に至ると、また日烜が兵を調えて丘温・丘急嶺の隘路を拒み守っていると聞いた。行省はそこで軍を二道に分けて進んだ。日烜はまたその善忠大夫阮徳輿・朝請郎阮文翰を遣わし、書を持って鎮南王に奉り、「親しくご威光を拝することができませんが、心中欣幸に堪えません。以前、詔を拝し、別に我が軍が爾の境に入らぬと敕されました。今、邕州の営站橋梁がしばしば相接しているのを見て、実に深く驚懼しています。幸いに忠誠を認め、少しばかり憐れみをお与えください。」と言った。また平章政事に書を送り、本国の生霊を保護し、逃散の患いを免れさせてほしいと乞うた。鎮南王は行省に命じ、総把阿里に書を持たせ、徳輿と共に往き、日烜に興兵の理由は実に占城のためであり、安南のためではないことを諭させた。急保県の地に至ると、安南の管軍官阮盝が七源州に屯兵し、また村李県短万劫等の地には、いずれも興道王の兵がおり、阿里は進むことができなかった。行省は再び倪閏を遣わし虚実を探らせ、軍を調えるよう斟酌させたが、しかしその民を殺掠してはならないとした。
間もなく、撒答児䚟・李邦憲・孫祐らが言うには、可離隘に至り、交趾兵が拒み敵対するのに遇い、孫祐がこれと戦い、その管軍奉御杜尾・杜祐を生け捕りにし、初めて興道王が果たして兵を率いて迎え撃っていることを知った。官軍は可離隘を過ぎ、洞板隘に至り、またその兵に遇い、戦ってこれを破り、その首将秦岑は傷つき死んだ。興道王が内傍隘にいると聞き、また兵を進めて変住村に至り、兵を収め道を開き、鎮南王を迎え拝するよう諭したが、従わなかった。内傍隘に至り、令旨を奉じて人を遣わし招いたが、また従わなかった。官軍はそこで六道に分かれて進攻し、その将大僚班段台を捕らえた。興道王は逃げ去り、万劫まで追撃し、諸隘を攻め、皆これを破った。興道王はなお兵船千余艘を持ち、万劫から十里の距離にいた。そこで兵士を沿江に遣わして船を求め、及び板木・釘・灰を集め、場を設けて創造し、各翼の水軍を選び、烏馬児抜都に部領させ、数度戦い、皆これを破った。その江岸に遺棄された文字二紙を得たが、それは日烜が鎮南王及び行省平章に送った書で、また称して「以前の詔には別に我が軍が爾の境に入らぬと敕された。今、占城が既に臣従しながらまた叛いた故に、大軍を発し、本国を経由し、百姓を残害するのは、太子の行うところが誤りであり、本国が誤ったのではない。伏して前詔を外さず、大軍を引き回されんことを望む。本国は貢物を整えて馳せて献上し、以前とは異なるものをまた備えよう。」とあった。行省はまた書を以てこれに答え、「朝廷が兵を調えて占城を討つに当たり、屡々文書を移して世子に道を開き糧食を備えるよう求めたが、思いがけず故意に朝命に違背し、興道王の輩に兵を率いて迎え撃たせ、我が軍を射傷させ、安南の生霊に禍いをもたらしたのは、爾が国の行ったことである。今、大軍が爾が国を経由して占城を討つのは、上命である。世子はよく考えよ、爾が国の帰附すること久しく、宜しく皇帝の広大慈憫の徳を体し、直ちに兵を退け道を開き、百姓を安んじ諭し、各々生業に務めさせるべきである。我が軍の過ぎる所、秋毫も侵さず。世子は宜しく出て鎮南王を迎え、共に軍事を議すべきである。そうでなければ、大軍は安南に止まり府を開くであろう。」とした。そこでその使者阮文翰にこれを伝えさせた。
官軍が捕虜を捕らえると、彼らは日烜がその聖翊等の軍を動員し、船千余艘を率いて興道王を助けて防戦したと称した。鎮南王は行省の官と共に東岸に臨み、兵を派遣してこれを攻撃し、甚だ多くの殺傷を与え、船二十余艘を奪った。興道王は敗走し、官軍は筏を縛って橋とし、富良江の北岸を渡った。日烜は江沿いに兵船を配置し、木柵を立て、官軍が岸に至るのを見ると、直ちに砲を発し大声で呼び戦いを求めた。夜になると、またその阮奉御を遣わして鎮南王及び行省の官に書を奉り、大軍を少し退けるよう請うた。行省はまた移文してこれを責め、遂に再び進兵した。日烜は城を棄てて遁走し、なお阮效鋭に命じて書を奉り謝罪させ、方物を献上し、かつ班師を請うた。行省はまた移文して招諭し、遂に兵を調発して江を渡り、安南城下に陣を布いた。
翌日、鎮南王がその国に入ると、宮室はことごとく空で、ただ度々降した詔勅及び中書の牒文が残されており、ことごとく抹消されていた。外に文字があるものは、皆その南北の辺将が官軍の消息及び敵に抵抗した事情を報告したものであった。日烜は僭称して大越国主憲天體道大明光孝皇帝陳威晃とし、皇太子に禅位し、太子妃を立てて皇后とし、上顕慈順天皇太后に表章を上り、上の者に用いる「昊天成命之宝」を用いた。日烜は即ち太上皇の位に居り、現に立てる安南国王は日烜の子で、紹宝の年号を行い、居る宮室の五門の額には大興之門、左掖門、右掖門と書き、正殿九間には天安御殿と書き、正南門には朝天閣と書いた。また諸所に榜を張り、「凡そ国内の郡県、仮に外寇が至れば、当に死戦すべし。或いは力敵せずば、山沢に逃竄するを許し、迎えて降ることを得ず」と云う。その険隘で防衛する所には、皆庫屋を設けて兵甲を貯蔵した。その船を棄てて岸に登った軍はなお多く、日烜は宗族官吏を率いて天長・長安に屯聚し、興道王・范殿前は兵船を率いて再び万劫江口に集まり、阮盝は西路永平に駐屯した。
行省は軍を整えて追襲に備え、唐兀䚟と唆都等の兵が占城から到着して大軍と合流した。その境に入って以来、大小七戦し、地二千余里・王宮四所を取った。初め、その昭明王の兵を破り、その昭孝王・大僚護を撃って皆死なせ、昭明王は遠く遁走して再び出でることを敢えなかった。また安演州・清化・長安で亡宋の陳尚書の婿・交趾の梁奉御及び趙孟信・葉郎将等四百余人を捕らえた。
万戸李邦憲・劉世英は軍を率いて道を開き永平から安南に入り、三十里毎に一寨を立て、六十里毎に一駅を置き、一寨一駅毎に三百の軍を屯して鎮守巡邏させた。また世英に命じて堡を築かせ、専ら寨駅の公事を提督させた。
右丞寛徹は万戸忙古䚟・孛羅哈答児を率いて陸路より、李左丞は烏馬児抜都を率いて水路より、日烜の兵船を破り、その建徳侯陳仲を捕らえた。日烜は逃げ去り、膠海口まで追ったが、どこへ行ったか分からなかった。その宗族の文義侯・父武道侯及び子明智侯・婿の彰懐侯並びに彰憲侯・亡宋の官曾参政・蘇少保の子蘇宝章・陳尚書の子陳丁孫が、相次いで衆を率いて来降した。唐兀䚟・劉珪は皆、占城には糧がなく、軍は久しく駐屯し難いと述べた。鎮南王は唆都に命じて元軍を率い長安等の処で糧食を調達させた。日烜は安邦海口に至り、その舟楫甲仗を棄てて山林に走り匿れた。官軍は船一万艘を獲得し、良いものを選んで乗り、余りは皆焼き棄て、また陸路で三昼夜追撃した。
捕虜の言によれば、上皇・世子には船四艘しかなく、興道王とその子には三艘、太師には八十艘あり、清化府へ走ったという。唆都もまた、日烜・太師が清化へ走ったと報告した。烏馬児抜都は軍一千三百人・戦船六十艘を以て、唆都を助けてその太師等の兵を襲撃した。また唐兀䚟に命じて沿海を追わせ日烜を追ったが、やはりどこへ行ったか分からなかった。
日烜の弟昭国王陳益稷はその本宗と妻子官吏を率いて来降した。そこで明里・昔班等を遣わして彰憲侯・文義侯及びその弟明誠侯・昭国王の子義国侯を入朝させた。文義侯は北上することができたが、彰憲侯・義国侯は皆興道王に殺され、彰憲侯は死に、義国侯は身を脱して軍中に還った。
官軍は諸将を集めて議した。「交人は官軍に敵対し、幾度か敗れ散ったが、兵を増してますます多くなった。官軍は困窮疲弊し、死傷もまた多く、蒙古軍馬もその技を施すことができない」。そこでその京城を棄て、江を渡って北岸に至り、退兵して思明州に屯することを決議した。鎮南王はこれを認め、軍を率いて還った。この日、劉世英は興道王・興寧王の兵二万余りと力戦した。
また官軍が如月江に至ると、日烜は懐文侯を遣わして戦わせ、行って冊江に至り、浮橋を繋いで江を渡ったが、左丞唐兀䚟等の軍が渡り終わらないうちに林内の伏兵が発し、官軍は多く溺死し、力戦してようやく国境を出ることができた。唐兀䚟等は駅伝を馳せて上奏した。七月、枢密院は兵を調発して今年十月に潭州で会合し、鎮南王及び阿里海牙に将帥を選んで総括させるよう請うた。
五月、忙古台の麾下の士卒を発して鄂州行省軍と合せて共にこれを征した。官兵がその境に入ると、日烜はまた城を棄てて遁走した。
六月、湖南宣慰司が上言した。「連年日本を征し、及び占城に用兵し、百姓は転輸に疲弊し、賦役は煩重で、士卒は瘴癘に触れて多く死傷し、衆生は愁嘆し、四民は業を廃し、貧者は子を棄てて偷生し、富者は産を売って役に応じ、倒懸の苦しみは日増しに甚だしい。今また交趾に事有り、百万の衆を動かし、千金の費を虚しくすることは、士民を恤れむ所以ではない。かつ挙動の間、利害は一つならず、また兼ねて交趾は既に使を遣わし表を納れて藩を称した。もしその請に従って民力を蘇らせば、計の上である。已むを得なければ、則ち百姓の賦を寛め、糧餉を積み、甲兵を繕い、来年天時稍々利あるを俟ち、然る後に大挙するも、また未だ晩からず」。湖広行省の臣線哥はこの議を是とし、使を遣わして入奏し、かつ言う。「本省の鎮戍は凡そ七十余所、連年征戦し、士卒の精鋭なる者は外で疲弊し、存する者は皆老弱で、一城邑毎に多くとも二百人を超えない。窃かに恐れるのは、姦人が虚実を窺うことを得ることであろう。往年平章阿里海牙が出征した時、糧三万石を輸送し、民はなお病を告げた。今またその数を倍にする。官に儲蓄なく、民間に和糴すれば、百姓は将にその困窮に堪えられないであろう。宣慰司の言う如く、師を緩めて南伐することを乞う」。枢密院がこれを聞き、帝は即日に詔して軍を止め、士卒を放って各営に還らせた。益稷は師に従って鄂に還った。
二十四年正月、新附軍千人を発して阿八赤に従い安南を討たしむ。また詔して江淮・江西・湖広の三省の蒙古・漢・券軍七万人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州の黎兵一万五千を発し、海道運糧万戸の張文虎・費拱辰・陶大明に糧十七万石を運ばせ、分道して進軍せしむ。征交趾行尚書省を置き、オルチ(奥魯赤)を平章政事とし、ウマル(烏馬兒)・樊楫を参知政事としてこれを総べさせ、ともに鎮南王の節制を受く。五月、右丞程鵬飛を命じて荊湖行省に還り兵を治めしむ。六月、枢密院ふたたび奏し、ウマル(烏馬児)と樊参政に軍士を率い水陸ともに進ませしむ。九月、瓊州路安撫使陳仲達・南寧軍民総管謝有奎・延欄軍民総管符庇成に兵船を出して交趾征討を助けしめ、ともに従征せしむ。日烜、その中大夫阮文通らを遣わして入貢す。
十一月、鎮南王思明に次ぐ。兵二千五百人を留め、万戸賀祉にこれを統べさせ、輜重を守らしむ。程鵬飛・ボロカダル(孛羅合答児)は漢・券兵一万人を率いて西道の永平より、オルチ(奥魯赤)は一万人を率いて鎮南王に従い東道の女兒関より進む。アバチ(阿八赤)は一万人を前鋒とし、ウマル(烏馬児)・樊楫は兵を率いて海道より、玉山・双門・安邦口を経て、交趾の船四百余艘に遇い、これを撃ち、首級四千余を斬り、百余人生擒し、その舟百艘を奪い、ついに交趾に向かう。程鵬飛・ボロカダル(孛羅合答児)は老鼠・陷沙・茨竹の三関を経て、合わせて十七戦し、皆これに捷つ。
十二月、鎮南王茅羅港に次ぐ。交趾の興道王遁走す。よって浮山寨を攻め、これを破る。また程鵬飛・アリ(阿里)に命じて兵二万人をもって萬劫を守らしめ、かつ普頼山および至霊山の木柵を修めしむ。ウマル(烏馬児)に水兵を将い、アバチ(阿八赤)に陸兵を将いて、まっすぐに交趾城に向かわしむ。鎮南王、諸軍を率いて富良江を渡り、城下に次ぎ、その守兵を破る。日烜、その子とともに城を棄て敢喃堡に走る。諸軍これを攻め下す。
二十五年正月、日烜およびその子ふたたび海に入って走る。鎮南王、諸軍を率いてこれを追い、天長海口に次ぐ。その行くところを知らず、兵を引き還り交趾城に至る。ウマル(烏馬児)に命じて水兵を将い大滂口より張文虎らの糧船を迎えしめ、オルチ(奥魯赤)・アバチ(阿八赤)らは分道して山に入り糧を求む。交趾が兵を箇沉・箇黎・磨山・魏寨に集めると聞き、兵を発して皆これを破り、万余級を斬る。
二月、鎮南王兵を引き還り萬劫に至る。アバチ(阿八赤)前鋒を将い、関繫橋を奪い、三江口を破り、堡三十二を攻め下し、数万余級を斬り、船二百艘・米十一万三千余石を得る。ウマル(烏馬児)は大滂口より塔山に向かい、賊船千余に遇い、これを撃ち破る。安邦口に至り、張文虎の船を見ず、ふたたび萬劫に還り、米四万余石を得る。普頼・至霊山の木柵成る。諸軍に命じてここに居らしむ。諸将、よって言う、「交趾には守るべき城池・食すべき倉庾なく、張文虎らの糧船至らず、かつ天時すでに熱く、糧尽き師老ゆるを恐れ、久しく支えることなく、朝廷の羞とならん。全師して還るべし」と。鎮南王これに従う。ウマル(烏馬児)・樊楫に命じて水兵を将いて先に還らしめ、程鵬飛・タチュ(塔出)に兵を将いて護送せしむ。三月、鎮南王諸軍を率いて還る。
張文虎の糧船は去年十二月屯山に次ぎ、交趾の船三十艘に遇う。文虎これを撃つ。殺し略したところほぼ相当す。緑水洋に至り、賊船ますます多く、敵しがたしと度り、また船重くして行くべからず。すなわち米を海に沈め、瓊州に向かう。費拱辰の糧船は十一月惠州に次ぎ、風進むを得ず、漂いて瓊州に至り、張文虎と合す。徐慶の糧船は漂いて占城に至り、また瓊州に至る。合わせて士卒二百二十人・船十一艘・糧一万四千三百石余を亡う。
鎮南王内傍関に次ぐ。賊兵大いに集まる。王これを撃ち破る。万戸張均に命じて精鋭三千人をもって殿とし、力戦して関を出しむ。諜者が日烜および世子・興道王らが兵三十余万を分かち、女兒関および丘急嶺を守り、連亘百余里にして、帰師を遏つと知る。鎮南王すなわち単己県より盝州に向かい、間道より出で、思明州に次ぐ。アイル(愛魯)に命じて兵を引き還り雲南に至らしめ、オルチ(奥魯赤)に諸軍を率いて北還せしむ。日烜まもなく使を遣わして来謝し、金人を進めて己が罪に代う。十一月、劉庭直・李思衍・万奴らを安南に使し、詔を持して日烜を諭し来朝せしむ。
二十六年二月、中書省臣、征交趾を罷むれば、行省の符印を拘収すべしと奏す。四月、日烜、その中大夫陳克用らを遣わして来り方物を貢ぐ。
二十七年、日烜卒す。子の日燇、使を遣わして来貢す。
二十八年十一月、鎮守永州両淮万戸府上千戸の蔡栄上書し、軍事の大要を言い、朝廷の賞罰明らかならず、士命を用いず、将帥和せず、事機を失うに坐するを以て、その弊言うべからざるもの有りとす。書上るも、報いず。
二十九年九月、吏部尚書梁曾・礼部郎中陳孚を遣わし、詔を持してふたたび日燇を諭し来朝せしむ。詔に曰く、「表を省みて悉す。去歳礼部尚書張立道言う、曾て安南に到り、彼の事体を識り、往きて開諭し、之を来朝せしめんことを請うと。よって立道を遣わして彼に往かしむ。今汝が国の罪愆すでに自ら陳す。朕また何をか言わん。若し孤制に在り、および道路の死を畏れて敢えて来朝せずと言わば、かつ生けるの類に寧くも長久安全なる者あらんや。天下またまた死せざるの地あらんや。朕未だ諭せざるところ、汝まさに具に聞くべし。徒に虚文の歳幣を以て、巧みに飾りて見欺くは、義に於いて安んぞ在らん」と。
三十年、梁曾ら使いより還る。日燇、陪臣陶子奇らを遣わして来貢す。廷臣、日燇終に入朝せず、またこれを征するを議す。すなわち子奇を江陵に拘留し、劉国傑と諸侯王イリギダイ(亦里吉䚟)らに命じてともに安南を征せしめ、鄂州に至り陳益稷と議せよと敕す。八月、平章不忽木ら湖広安南行省を立て、二印を与え、蜑船百斛のもの千艘を市い、軍五万六千五百七十人・糧三十五万石・馬料二万石・塩二十一万斤を用い、軍官の俸津を予め給し、軍人水手の人ごとに鈔二錠を遣わし、器仗合わせて七十余万事を預けしむ。国傑幕官十一人を設け、水陸分道ともに進む。また江西行枢密院副使チェリマン(徹里蛮)を右丞とし、安南征討に従わしめ、陳巌・趙修己・雲従龍・張文虎・岑雄らもまたともに事に従わしむ。益稷軍に随い長沙に至り、兵を寝むるに会いて止む。
三十一年五月、成宗即位し、征討を罷むるを命ず。陶子奇を帰国せしむ。日燇、使を遣わして表を上り国哀を慰め、ならびに方物を献ず。六月、礼部侍郎李衎・兵部郎中蕭泰登を遣わし、詔を持して往きこれを撫綏せしむ。その略に曰く、「先皇帝新たに天下を棄て、朕大統を嗣ぎ守る。践祚の始め、大いに赦宥を行い、遠近を間わず。惟れ爾安南もまた寛宥に従う。すでに有司に敕して兵を罷め、陪臣陶子奇を帰国せしむ。今より以往、天を畏れ大(=大国、元朝)に事うる所以のもの、その審らかにこれを思え」と。
大徳五年二月、太傅完沢らが奏上して、安南の来使鄧汝霖が宮苑の図本を窃かに描き、輿地図及び禁書等の物を私買し、また陳言徴収交趾文書を抄写し、及び北辺の軍情及び山陵等の事を私記し、使を遣わし詔を持して大義を以て責めた。三月、礼部尚書馬合馬・礼部侍郎喬宗亮を遣わし詔を持して日燇を諭し、大意は「汝霖等の為す所は不法、窮治すべき所なり。朕は天下を以て度と為し、有司に勅して放還せしむ。今より使价は必ず選択すべし。陳請有るは必ず情悃を尽くすべし。向に虚文を以て紿かれたるは、曾て何ぞ事に益あらんや。改図を憚ること勿れ、以て後悔を貽すことなからん」と。中書省復た牒を移して万戸張栄実等二人を取り、去使と偕に還らしむ。
武宗即位し、詔を下して之を諭し、屡々使を遣わして来貢す。至大四年八月、世子陳日㷃使を遣わし表を奉じて来朝す。
六月、中書省は兵部員外郎阿里温沙に俾し、枢密院は千戸劉元亨に俾し、同しく湖広行省に赴き之を詢察せしむ。元亨等親しく上・中・下由村に詣り、地所を相視し、之を居民農五に詢い、また下思明知州黄嵩寿を遣わし往きて之を詰ましむ。阮盝世子太史の奴なりと謂うも、然れども亦た是なるや否やを知らず。ここに於て牒を以て安南国を諭す。其の略に曰く「昔漢九郡を置き、唐五管を立て、安南は実に声教の及ぶ所の地なり。況や図を献げ貢を奉ずるは、上下の分素より明らかなり。厚く往き薄く来たるは、懐撫の恵亦た至れり。聖朝果たして何ぞ貴国に負くこと有らん。今胡ぞ自ら不靖を作し、禍焉くにか斯く啓くや。由村の地は係る所至って微なれども、国家の輿図に関すること甚だ大なり。兼ねて之が殺し虜にせし所は、皆朝廷の係籍編戸なり。省院未だ敢えて奏聞せず。然れども未だ審らかにせず、不軌の謀誰か実に之を主るや」と。安南牒に回して云く「辺鄙の鼠窃狗偷の輩自ら不靖を作す。本国安んぞ知らんや」と。且つ貨賂を以て偕に至る。元亨復た牒を以て安南の飾辞実ならざるを責め、其の貨賂を却け、且つ曰く「南金・象歯は貴国宝と為すも、使者は不貪を以て宝と為す。来物は就きて回使に付す。請う事情を審察し、明らかに以て我に告げよ」と。而して道里遼遠、情辞虚誕、終に其の要領を得ず。元亨等其の由を推原す。「交人の向嘗て永平辺境を侵すに因り、今復た倣効して風と成る。兼ねて聞く、阮盝世子は乃ち交趾の跋扈するの人なり。今の計と為すは、莫し遣使して安南を諭し、我が土田を帰し、我が人民を返し、仍て当国の人に其の疆界を正さしめ、其の主謀を究め、釁を開くの人を境上に戮し、辺吏に申飭して侵越せしむる毋からしむるに若かず。却って永平に於て寨を置き兵を募り、官を設けて統領せしめ、田土牛具を与え、自ら耕食せしめ、部伍を編立し、賞罰を明らかに立て、其の緩急首尾相応ぜしむ。斯くの如くせば則ち辺境安静、永く虞無きを保たん」と。事聞こえ、旨有り、安南使の至るを俟ち、即ち以て之を諭せしむ。