巻209

列傳第九十六:外夷二 安南

安南国は、古の交趾である。秦が天下を併合し、桂林・南海・象郡を置いた。秦が滅びると、南海尉の趙佗がこれを撃ち併せた。漢は九郡を置き、交趾はその一つであった。後に女子の徴側が叛き、馬援を派遣してこれを平定し、銅柱を立てて漢の境界とした。唐は初めて嶺南を東・西二道に分け、節度を置き、五筦を立て、安南はこれに隷属した。宋は丁部領を交趾郡王に封じ、その子の璉もまた王となった。三世伝わって李公蘊に奪われ、即座に公蘊を王に封じた。李氏は八世伝わって昊旵に至り、陳日煚は昊旵の婿であったが、遂にその国を有するに至った。

原文安南國,古交趾也。秦并天下,置桂林、南海、象郡。秦亡,南海尉趙佗擊併之。漢置九郡,交趾居其一。後女子徵側叛,遣馬援平之,立銅柱為漢界。唐始分嶺南為東、西二道,置節度,立五筦,安南隸焉。宋封丁部領為交趾郡王,其子璉亦為王。傳三世為李公蘊所奪,即封公蘊為王。李氏傳八世至昊旵,陳日煚為昊旵壻,遂有其國。

元の憲宗三年癸丑、兀良合台は世祖に従って大理を平定した。世祖は還り、兀良合台を留めて未だ帰附せぬ諸夷を攻撃させた。七年丁巳十一月、兀良合台の軍は交趾の北に駐屯し、先ず使者二人を派遣してこれを諭したが、帰らなかった。そこで徹徹都らを遣わし、各々千人を将いて分道進兵し、安南の京北洮江のほとりに到達させた。またその子の阿朮を派遣してこれに援けさせ、併せてその虚実を窺わせた。交人もまた盛大に兵衛を陳べた。阿朮は軍を遣わして還り報告させ、兀良合台は倍道兼行して進み、徹徹都を先鋒とし、阿朮を後方に置いて殿軍とした。十二月、両軍は合流し、交人は震駭した。阿朮はこれに乗じ、交人の水軍を破り、戦艦を鹵獲して還った。兀良合台もまたその陸路の兵を破り、さらに阿朮と合撃してこれを大いに破り、遂にその国に入った。日煚は海島に逃れた。獄中に以前派遣した使者を見出し、破竹を以て体を束ねて膚に入れていた。縛を解く頃には、一人の使者は死んでいた。そこでその城を屠った。国兵は九日留まり、気候が鬱熱であるため、ようやく班師した。再び二使を派遣して日煚を招き帰還させようとした。日煚は還り、国都がことごとく残毀されているのを見て、大いに憤り、二使を縛って送り返した。

原文元憲宗三年癸丑,兀良合台從世祖平大理。世祖還,留兀良合台攻諸夷之未附者。七年丁巳十一月,兀良合台兵次交趾北,先遣使二人往諭之,不返,乃遣徹徹都等各將千人,分道進兵,抵安南京北洮江上,復遣其子阿朮往為之援,并覘其虛實。交人亦盛陳兵衛。阿朮遣軍還報,兀良合台倍道兼進,令徹徹都為先鋒,阿朮居後為殿。十二月,兩軍合,交人震駭。阿朮乘之,敗交人水軍,虜戰艦以還。兀良合台亦破其陸路兵,又與阿朮合擊,大敗之,遂入其國。日煚竄海島。得前所遣使於獄中,以破竹束體入膚,比釋縛,一使死,因屠其城。國兵留九日,以氣候鬱熱,乃班師。復遣二使招日煚來歸。日煚還,見國都皆已殘毀,大發憤,縛二使遣還。

八年戊午二月、日煚は長子の光昺に国を伝え、元号を紹隆と改めた。夏、光昺はその婿とその国の人を遣わし、方物を携えて来朝させた。兀良合台はこれを行在所に送り届け、別に訥剌丁を派遣してこれを諭して言った。「昔、我が使いを遣わして通好したのに、汝らはこれを執って返さなかった。それ故に我は去年の軍を起こしたのである。汝が国の主が草野に播遷しているのを以て、再び二使をして招安し国に還らせようとしたのに、汝はまた我が使いを縛って返した。今特に使いを遣わして開諭する。もし汝らが真心を以て内附するならば、国主は親しく来朝せよ。もしなお悔い改めぬならば、はっきりと我に報告せよ。」光昺は言った。「小国が誠心を以て上に事えるならば、大国はどう扱ってくださるのか。」訥剌丁は還って報告した。時に諸王不花が雲南を鎮守しており、兀良合台は王に言上し、再び訥剌丁を派遣して諭し、使いを同道して来させるようにさせた。光昺は遂に降伏の意を示し、かつ言った。「徳音が降るのを待ち、即時に子弟を人質として遣わそう。」王は命じて訥剌丁に駅伝に乗って入奏させた。

原文八年戊午二月,日煚傳國于長子光昺,改元紹隆。夏,光昺遣其壻與其國人以方物來見,兀良合台送詣行在所,別遣訥剌丁往諭之曰:「昔吾遣使通好,爾等執而不返,我是以有去年之師。以爾國主播在草野,復令二使招安還國,爾又縛還吾使。今特遣使開諭,如爾等矢心內附,則國主親來,若猶不悛,明以報我。」光昺曰:「小國誠心事上,則大國何以待之?」訥剌丁還報。時諸王不花鎮雲南,兀良合台言于王,復遣訥剌丁往諭,使遣使偕來。光昺遂納款,且曰:「俟降德音,即遣子弟為質。」王命訥剌丁乘傳入奏。

世祖中統元年十二月、孟甲を礼部郎中とし、南諭使を充て、李文俊を礼部員外郎とし、副使を充て、詔を奉じて往きこれを諭させた。その要旨は次の通りである。「祖宗は武功を以て創業し、文治は未だ修まらなかった。朕は大業を継承し、鼎新革故し、万方を一つに務めている。丁度大理国の守臣安撫の聶只陌丁が駅伝を馳せて表を奉り聞かせたところ、汝の国に風に嚮き義を慕う誠があるという。卿が昔、先朝において既に臣服し、遠く方物を貢いだことを思い、故に詔旨を頒ち、汝が国の官僚士庶に諭す。凡そ衣冠典礼風俗は一に本国の旧制に依るべし。既に辺将に戒めて勝手に兵甲を興し、汝が疆埸を侵し、汝が人民を乱すことなからしめた。卿が国の官僚士庶は、各々安治を為すこと故の如くすべし。」また甲らに諭し、もし交趾が子弟を入覲させるならば、善くこれを遇し、寒暑の節を失わせ、重ねて苦労させぬようにせよ、と。

原文世祖中統元年十二月,以孟甲為禮部郎中,充南諭使,李文俊為禮部員外郎,充副使,持詔往諭之。其略曰:「祖宗以武功創業,文化未修。朕纘承丕緒,鼎新革故,務一萬方。適大理國守臣安撫聶只陌丁馳馹表聞,爾邦有嚮風慕義之誠。念卿昔在先朝已嘗臣服,遠貢方物,故頒詔旨,諭爾國官僚士庶:凡衣冠典禮風俗一依本國舊制。已戒邊將不得擅興兵甲,侵爾疆埸,亂爾人民。卿國官僚士庶,各宜安治如故。」復諭甲等,如交趾遣子弟入覲,當善視之,毋致寒暑失節,重勞苦之也。

二年、孟甲らが還ると、光昺はその族人の通侍大夫陳奉公・員外郎諸衛寄班の阮琛・員外郎の阮演を遣わし、闕下に赴かせて書を献じ、三年に一度の貢を乞うた。帝はその請いを従え、遂に光昺を安南国王に封じた。

原文二年,孟甲等還,光昺遣其族人通侍大夫陳奉公、員外郎諸衛寄班阮琛、員外郎阮演詣闕獻書,乞三年一貢。帝從其請,遂封光昺為安南國王。

三年九月、西錦三・金熟錦六を賜い、また詔を降して言った。「卿は既に臣として委質した。中統四年より始め、毎三年に一度貢ぐべし。儒士・医人及び陰陽卜筮に通じた者・諸色の人匠を各三人選び、及び蘇合油・光香・金・銀・朱砂・沉香・檀香・犀角・玳瑁・珍珠・象牙・綿・白磁盞等の物を共に至らしめよ。」なお訥剌丁を達魯花赤に充て、虎符を佩かせ、往来して安南国中に在らしめた。

原文三年九月,以西錦三、金熟錦六賜之,復降詔曰:「卿既委質為臣,其自中統四年為始,每三年一貢,可選儒士、醫人及通陰陽卜筮、諸色人匠,各三人,及蘇合油、光香、金、銀、朱砂、沉香、檀香、犀角、玳瑁、珍珠、象牙、綿、白磁盞等物同至。」仍以訥剌丁充達魯花赤,佩虎符,往來安南國中。

四年十一月、訥剌丁が還ると、光昺は楊安養を員外郎に充て、及び内令の武復桓・書舎の阮求・中翼郎の范挙らを派遣し、表を奉じて入謝させた。帝は来使に玉帯・繒帛・薬餌・鞍轡を差等を付けて賜った。

原文四年十一月,訥剌丁還,光昺遣楊安養充員外郎及內令武復桓、書舍阮求、中翼郎范舉等奉表入謝,帝賜來使玉帶、繒帛、藥餌、鞍轡有差。

至元二年七月、使いが還ると、また優詔を以てこれに答え、なお暦を賜い、改元の詔書を頒った。

原文至元二年七月,使還,復優詔答之,仍賜曆及頒改元詔書。

三年十二月、光昺は楊安養を遣わし、三通の表を上った。その一は方物を進献し、その二は索められた秀才工匠の人を免じ、その三は訥剌丁が長く本国の達魯花赤となることを請うた。四年九月、使いが還ると、詔を以て答えこれを許し、なお光昺に玉帯・金繒・薬餌・鞍轡等の物を賜った。未だ幾ばくもなく、また詔を下して六事を以て諭した。一、君長の親朝。二、子弟の入質。三、編民の数。四、軍役の出動。五、税賦の輸納。六、なお達魯花赤を置いてこれを統治すること。十一月、また光昺に詔諭し、その国に回鶻の商賈がいるので、西域の事を訪ねようと欲し、発遣して来させるように命じた。この月、詔して皇子を雲南王に封じ、往きて大理・鄯闡・交趾諸国を鎮守させた。

原文三年十二月,光昺遣楊安養上表三通,其一進獻方物,其二免所索秀才工匠人,其三願請訥剌丁長為本國達魯花赤。四年九月,使還,答詔許之,仍賜光昺玉帶、金繒、藥餌、鞍轡等物。未幾,復下詔諭以六事:一,君長親朝;二,子弟入質;三,編民數;四,出軍役;五,輸納稅賦;六,仍置達魯花赤統治之。十一月,又詔諭光昺,以其國有回鶻商賈,欲訪以西域事,令發遣以來。是月,詔封皇子為雲南王,往鎮大理、鄯闡、交趾諸國。

五年九月、忽籠海牙を以て訥剌丁に代えて達魯花赤とし、張庭珍をその副とし、また詔を下して商賈の回鶻人を徴発した。

原文五年九月,以忽籠海牙代訥剌丁為達魯花赤,張庭珍副之,復下詔徵商賈回鶻人。

六年十一月、光昺は上書して心情を陳べ、言った。「商旅の回鶻は、一名は伊温で、死んで久しく、一名は婆婆で、尋ねてみるとまた病死した。また忽籠海牙の謂うところによれば、陛下は巨象数頭を須索されるという。この獣は軀体甚だ大きく、歩行甚だ遅く、上国の馬には及ばない。伏して敕旨を待ち、後の貢の年に当たり進献いたします。」また表を具して貢を納め、別に表を奉じて西錦・幣帛・薬物を賜ったことを謝した。

原文六年十一月,光昺上書陳情,言:「商旅回鶻,一名伊溫,死已日久,一名婆婆,尋亦病死。又據忽籠海牙謂陛下須索巨象數頭。此獸軀體甚大,步行甚遲,不如上國之馬,伏候敕旨,於後貢之年當進獻也。」又具表納貢,別奉表謝賜西錦、幣帛、藥物。

七年十一月、中書省が牒を光昺に移し、その詔を受けて拝礼せず、使介を王人の礼を以て遇さなかったことを言い、遂に春秋の義を引き以てこれを責め、かつ索められた象を歳貢と共に持って来るように命じ、また以前に貢いだ薬物は品味が佳くなく、徴発した回鶻の輩は託辞を以て欺誑した、今より以後は、よく審察せよ、と。

原文七年十一月,中書省移牒光昺,言其受詔不拜,待使介不以王人之禮,遂引春秋之義以責之,且令以所索之象與歲貢偕來,又前所貢藥物品味未佳,所徵回鶻輩,託辭欺誑,自今已往,其審察之。

八年十二月、光昺は返書をして言った。「本国は天朝を欽奉し、既に王爵を封ぜられており、これ王人ではないか。天朝の奉使がまた称するには、王人と均礼するのは、恐らく朝廷を辱しめるであろうと。況んや本国は前に詔旨を奉じ、旧俗に依るべしと令せられ、凡そ詔令を受けるには、正殿に奉安して別室に退避すべしと、これは本国の旧典礼である。来諭に象を索められるが、前に旨に忤うことを恐れ、故に依違して敢えて直に対えず、実は象奴が家を去るに忍びず、差発し難いためである。また儒・医・工匠を索められると諭されるが、陪臣の黎仲佗らが陛見の日、咫尺の威光にありながら、詔諭を聞かなかった。況んや中統四年に既に原宥を蒙り、今また諭し及ばれるとは、勝えず驚愕する。惟うに閣下、これを念われよ。」

原文八年十二月,光昺復書言:「本國欽奉天朝,已封王爵,豈非王人乎?天朝奉使復稱:王人與之均禮,恐辱朝廷。況本國前奉詔旨,令依舊俗,凡受詔令,奉安于正殿而退避別室,此本國舊典禮也。來諭索象,前恐忤旨,故依違未敢直對,實緣象奴不忍去家,難於差發。又諭索儒、醫、工匠,而陪臣黎仲佗等陛見之日,咫尺威光,不聞詔諭,況中統四年已蒙原宥,今復諭及,豈勝驚愕,惟閤下其念之。」

九年、葉式捏を安南のダルガチ(達魯花赤)とし、李元をその副とした。

原文九年,以葉式捏為安南達魯花赤,李元副之。

十年正月、葉式捏が卒去したので、李元に式捏の代わりを命じ、合撒児海牙をその副とした。中書省はまた光昺に牒を送り言う。

原文十年正月,葉式捏卒,命李元代式捏,以合撒兒海牙副之。中書省復牒光昺言:

近年使者を奉じて帰還した者の言うところによれば、王は毎度天子の詔令を受けるに、ただ拱手して立ち拝礼せず、使者と相見える時や宴席において、位を使者の上に加えている。今来書を覧るに、自ら謂う、既に王爵を受けた以上、豈に王人(天子の臣)でないことがあろうか、と。春秋を考うるに、王人を諸侯の上に叙している。釈例に云う、王人は下士なり、と。五等の邦君は、外臣の貴き者である。下士は、内臣の微なる者である。微なる者を以て貴き者の上に加えるのは、王命を以て重しとするが故である。後世、王を列ねて爵と為し、諸侯の中の特に貴き者としたが、顧みて、どうして王爵を以て人と為すことがあろうか。王は知らずしてこの言を為すのか、それとも辞令の臣が誤ってこの言を為すのか。天子の詔に至っては、人臣は拝して受くべきであり、これは古今の通義で異なることを容れないものである。乃ち云う、以前詔旨を奉じた時は、並びに旧俗に依り、本国は遵奉して行い、凡そ詔令を受ける時は、正殿に奉安して退き別室に避ける、これは旧典の礼である、と。これを読みここに至り、実に頓に驚訝する。王がこの言を為す、その心自ら安んずることができようか。前の詔旨の言うところは、蓋し天地の間に万国に啻ならず、国それぞれに俗があり、急に変革させれば不便があるので、本俗を用いることを聴許したのであり、どうして天子の詔を拝礼せぬことを以て礼俗と為すであろうか。且つ王の教令が国中に行われる時、臣子でこれを受けて下拝する者がいれば、王はどう思うか。君子は過ちを改めることを貴ぶ。緬想するに高明なる王よ、その亮察せられよ。

原文比歲奉使還者言,王每受天子詔令,但拱立不拜,與使者相見或燕席,位加於使者之上。今覽來書,自謂既受王爵豈非王人乎?考之春秋敍王人於諸侯之上,釋例云:王人蓋下士也。夫五等邦君,外臣之貴者也。下士,內臣之微者也。以微者而加貴者之上,蓋以王命為重也。後世列王為爵,諸侯之尤貴者,顧豈有以王爵為人者乎?王寧不知而為是言耶,抑辭令之臣誤為此言耶?至於天子之詔,人臣當拜受,此古今之通義不容有異者也。乃云前奉詔旨,並依舊俗,本國遵奉而行,凡受詔令,奉安於正殿而退避別室,此舊典禮也。讀之至此,實頓驚訝。王之為此言,其能自安於心乎?前詔旨所言,蓋謂天壤之間不啻萬國,國各有俗,驟使變革,有所不便,故聽用本俗,豈以不拜天子之詔而為禮俗也哉?且王之教令行於國中,臣子有受而下拜者,則王以為何如?君子貴於改過,緬想高明,其亮察之。

十一年、光昺は童子冶・黎文隠を遣わして来貢した。

原文十一年,光昺遣童子冶、黎文隱來貢。

十二年正月、光昺は上表して本国のダルガチ(達魯花赤)の廃止を請うた。その文に曰く。

原文十二年正月,光昺上表請罷本國達魯花赤,其文曰:

微臣は僻遠の海隅に在り、聖化に霑い函生と共に歓忭鼓舞する。臣が上国に降附してより、十余年になることを顧み、三年に一度の貢を奉じてはいるが、使者を迭りに遣わし、往来に疲弊して一日も休息したことがない。天朝の遣わすダルガチ(達魯花赤)に至っては、辱くも臣の境に臨む、空しく帰らせるわけにはいかず、況んやその行人は動もすれば恃むところ有り、小国を凌轢する。天子は日月と並び明らかであっても、覆盆を照らし及ぼすことができようか。且つダルガチは辺蛮の小醜に施すべきもので、臣が既に王封を席にして一方の藩屏と為りながら、反ってダルガチを立てて監臨させるなど、寧ろ諸侯の国に笑われぬことがあろうか。監臨を畏れて貢を修めるより、中心悦服して貢を修める方がいかがであろう。臣は恭しく天朝の儲君建立・皇后冊立の大恩が霶霈として四海に施されるに遇い、敢えて哀鳴し、伏して聖慈の特なる矜恤を賜わることを望む。今後は二度に分けて綱貢を発遣し、一つは鄯闡に詣でて奉納し、一つは中原に詣でて拝献する。凡そ天朝の遣わす官は、引進使に易えることを乞う。これによりダルガチの弊を免れ、微臣の幸いのみならず、実に一国の蒼生の幸いである。

原文微臣僻在海隅,得霑聖化與函生,驩忭鼓舞。乞念臣自降附上國,十有餘年,雖奉三年一貢,然迭遣使臣,疲於往來,未嘗一日休息。至天朝所遣達魯花赤,辱臨臣境,安能空回,況其行人,動有所恃,凌轢小國。雖天子與日月並明,安能照及覆盆。且達魯花赤可施於邊蠻小醜,豈有臣既席王封為一方藩屏,而反立達魯花赤以監臨之,寧不見笑於諸侯之國乎?與其畏監臨而修貢,孰若中心悅服而修貢哉?臣恭遇天朝建儲、冊后,大恩霶霈,施及四海,輒敢哀鳴,伏望聖慈特賜矜恤。今後二次發遣綱貢,一詣鄯闡奉納,一詣中原拜獻。凡天朝所遣官,乞易為引進使,庶免達魯花赤之弊,不但微臣之幸,實一國蒼生之幸也。

二月、再び詔を降し、貢した物は用に益なく、六事を以て諭し、且つ合撒児海牙をダルガチ(達魯花赤)に充て、仍って子弟を入侍させた。十三年二月、光昺は黎克復・文粋を遣わして入貢し、奏上した鄯闡において貢物を輸納する件は不敬に属するとして、上表して謝罪し、併せて六事の免除を乞うた。

原文二月,復降詔,以所貢之物無補於用,諭以六事,且遣合撒兒海牙充達魯花赤,仍令子弟入侍。十三年二月,光昺遣黎克復、文粹入貢,以所奏就鄯闡輸納貢物,事屬不敬,上表謝罪,并乞免六事。

十四年、光昺が卒去し、国人はその世子日烜を立て、中侍大夫周仲彦・中亮大夫呉徳邵を遣わして来朝した。

原文十四年,光昺卒,國人立其世子日烜,遣中侍大夫周仲彥、中亮大夫吳德邵來朝。

十五年八月、礼部尚書柴椿・会同館使哈剌脱因・工部郎中李克忠・工部員外郎董端を遣わし、黎克復等と共に詔を持ち往き日烜を諭し入朝受命させた。初め、使伝の通ずるは、ただ鄯闡・黎化を由って往来していたが、帝は柴椿に江陵より直ちに邕州に抵り、以て交趾に達することを命じた。閏十一月、柴椿等は邕州永平寨に至り、日烜は人を遣わし書を進めて謂う、「今国公が辱くも弊境に臨まれると聞く、辺民は駭愕せぬ者なく、何国の人使か斯くまで至るを知らず、旧路に回軍して進まれることを乞う」と。椿は牒を回して云う、「礼部尚書等の官は上命を奉じ本国の黎克復等と江陵より邕州に抵り安南に入る、導護の軍兵は全て駅馬に乗ずべく、宜しく界首に来て遠く迎えるべし」と。日烜は御史中賛兼知審刑院事杜国計を先に至らせ、その太尉は百官を率いて富良江岸より奉迎し館に入れた。十二月二日、日烜は館に就き使者に会見した。四日、日烜は詔書を拝読した。椿等は旨を伝えて曰く、「汝の国内附して二十余年、向う六事なお従わず。汝もし朝せずんば、則ち爾が城を修め、爾が軍を整え、我が師を待て」と。又云う、「汝の父は命を受けて王と為り、汝は命を請わずして自立し、今また朝せず、異日朝廷罪を加うれば、将に何を以てその責を逃れんか。熟慮せよ」と。日烜は旧例に仍って廊下に宴を設けたが、椿等は宴に就かなかった。既に館に帰ると、日烜は范明字を遣わし書を致して謝罪し、宴を集賢殿に改めた。日烜言う、「先君世を棄て、予初めて位を嗣ぐ。天使の来たり、詔書を開諭し、予をして喜懼胸中に交戦せしむ。窃かに聞く、宋主幼少なるを天子憐れみ、尚ほ公爵を封じ、小国に対しても必ず憐みを加えられんと。昔六事を諭されたが、已に赦免蒙る。親朝の礼に至っては、予は深宮に生長し、乗騎に習わず、風土に諳ぜず、道路に死するを恐れる。子弟太尉以下も皆然り。天使帰らば、謹んで上表して誠を達し、兼ねて異物を献ぜん」と。椿曰く、「宋主は年未だ十歳に満たず、亦た深宮に生長せしが、如何にして亦た京師に至れるか。但だ詔旨の外は、敢えて命を聞かず。且つ我ら四人是実に汝を召しに来たるのであり、物を取りに来たるのではない」と。椿等還るに、日烜は范明字・鄭国瓚・中賛杜国計を遣わし表を奉り情を陳べ、言う、「孤臣は気を禀くこと軟弱、道路艱難を恐れ、徒らに白骨を暴き、陛下を哀傷せしめて天朝の万の一にも益なからしめん。伏して陛下に小国の遼遠なるを憐れみ、臣をして鰥寡孤独と其の性命を保ち、以て陛下に事え終わらしめ給わんことを望む。これ孤臣の至幸、小国生霊の大福なり」と。兼ねて方物及び二頭の馴象を貢した。

原文十五年八月,遣禮部尚書柴椿、會同館使哈剌脫因、工部郎中李克忠、工部員外郎董端,同黎克復等持詔往諭日烜入朝受命。初,使傳之通也,止由鄯闡、黎化往來,帝命柴椿自江陵直抵邕州,以達交趾。閏十一月,柴椿等至邕州永平寨,日烜遣人進書,謂:「今聞國公辱臨敝境,邊民無不駭愕,不知何國人使而至於斯,乞回軍舊路以進。」椿回牒云:「禮部尚書等官奉上命與本國黎克復等由江陵抵邕州入安南,所有導護軍兵,合乘驛馬,宜來界首遠迓。」日烜差御史中贊兼知審刑院事杜國計先至,其太尉率百官自富(梁)〔良〕江岸奉迎入館。十二月二日,日烜就館見使者。四日,日烜拜讀詔書。椿等傳旨曰:「汝國內附二十餘年,向者六事猶未見從。汝若弗朝,則修爾城,整爾軍,以待我師。」又云:「汝父受命為王,汝不請命而自立,今復不朝,異日朝廷加罪,將何以逃其責?請熟慮之。」日烜仍舊例設宴于廊下,椿等弗就宴。既歸館,日烜遣范明字致書謝罪,改宴于集賢殿。日烜言:「先君棄世,予初嗣位。天使之來,開諭詔書,使予喜懼交戰于胸中。竊聞宋主幼小,天子憐之,尚封公爵,於小國亦必加憐。昔諭六事,已蒙赦免。若親朝之禮,予生長深宮,不習乘騎,不諳風土,恐死於道路。子弟太尉以下亦皆然。天使回,謹上表達誠,兼獻異物。」椿曰:「宋主年未十歲,亦生長深宮,如何亦至京師?但詔旨之外,不敢聞命。且我四人實來召汝,非取物也。」椿等還,日烜遣范明字、鄭國瓚、中贊杜國計奉表陳情,言:「孤臣禀氣軟弱,恐道路艱難,徒暴白骨,致陛下哀傷而無益天朝之萬一。伏望陛下憐小國之遼遠,令臣得與鰥寡孤獨保其性命,以終事陛下。此孤臣之至幸,小國生靈之大福也。」兼貢方物及二馴象。

十六年三月、椿等は先に京師に達し、鄭国瓚を邕州に留めて待たせた。枢密院奏す、「日烜は朝せず、ただ使臣を遣わして命に報い、飾辞して故に托け、歳時を延引し、巧佞多くと雖も、終に詔旨に違う。境上に進兵し、官を遣わして罪を問うべし」と。帝は従わず、来使の入覲を命じた。十一月、その使鄭国瓚を会同館に留めた。再び柴椿等四人と杜国計を遣わし詔を持ち再び日烜を諭し来朝させ、「若し果たして自ら覲することができずんば、則ち金を積み以て其の身に代え、両珠を以て其の目に代え、賢士・方技・子女・工匠各二を副え以て其の土民に代えよ。然らずんば、爾が城池を修め、以て其の審処するを待て」と。

原文十六年三月,椿等先達京師,留鄭國瓚待於邕州。樞密院奏:「以日烜不朝,但遣使臣報命,飾辭托故,延引歲時,巧佞雖多,終違詔旨,可進兵境上,遣官問罪。」帝不從,命來使入覲。十一月,留其使鄭國瓚于會同館。復遣柴椿等四人與杜國計持詔再諭日烜來朝,「若果不能自覲,則積金以代其身,兩珠以代其目,副以賢士、方技、子女、工匠各二,以代其土民。不然,修爾城池,以待其審處焉。」

十八年十月、安南宣慰司を立て、卜顔鉄木児を参知政事・行宣慰使都元帥とし、別に僚佐を設けて差等有り。是の月、詔して光昺既に歿し、其の子日烜は命を請わずして自立し、使を遣わし往き召すも、又疾を以て辞と為し、ただ其の叔遺愛をして入覲せしめたる故に、遺愛を立て代わりに安南国王と為す。

原文十八年十月,立安南宣慰司,以卜顏鐵木兒為參知政事、行宣慰使都元帥,別設僚佐有差。是月,詔以光昺既歿,其子日烜不請命而自立,遣使往召,又以疾為辭,止令其叔遺愛入覲,故立遺愛代為安南國王。

二十年(1283年)七月、日烜が平章阿里海牙に書を送り、留め置いた来使を返還するよう請うた。帝は直ちに使者を帰国させた。この時、阿里海牙は荊湖占城行省平章政事であり、帝は交趾に占城討伐の兵糧を援助させることを望み、彼の考えでこれを諭すよう命じた。行省は鄂州達魯花赤趙翥を遣わし、書を以て日烜を諭した。十月、朝廷は再び陶秉直を遣わし、璽書を持って往き諭させた。十一月、趙翥は安南に到着した。日烜は間もなく中亮大夫丁克紹・中大夫阮道学らを遣わし、方物を持たせて趙翥に従い入朝させ、また中奉大夫范至清・朝請郎杜抱直らを行省に遣わして事を計らわせ、かつ平章に書を送り、言うには、

原文二十年七月,日烜致書于平章阿里海牙,請還所留來使,帝即遣還國。是時,阿里海牙為荊湖占城行省平章政事,帝欲交趾助兵糧以討占城,令以己意諭之。行省遣鄂州達魯花赤趙翥以書諭日烜。十月,朝廷復遣陶秉直持璽書往諭之。十一月,趙翥抵安南。日烜尋遣中亮大夫丁克紹、中大夫阮道學等持方物從翥入覲,又遣中奉大夫范至清、朝請郎杜抱直等赴省計事,且致書于平章,言:

「軍勢を増やす一件について:占城は小国に服事すること久しく、老父はただ徳を以てこれを懐かしめることに務め、孤子(私)の身に至っても、また父の志を継承している。老父が天朝に帰順して以来、今に至るまで三十年、干戈は再び用いないことを示し、軍卒は民丁に戻し、一つには天朝への貢献の資とし、一つには二心なきことを示している。幸い閣下にご憐察を願う。糧食を援助する一件について:小国は地勢が海に臨み、五穀の産する所多くなく、大軍が去って以来、百姓は流亡し、水害旱害が加わり、朝は飽きても暮には飢え、食うに暇あらず与えられない。しかし閣下の命には、敢えて違わず、欽州の境界上の永安州の地において、輸送納入を待ち受けようと思う。続いて孤子が親しく赴闕し、聖訓を面して奉ずるよう諭された。老父の在世時、天朝は憐れみ、度外に置かれた。今、老父は亡くなり、孤子は喪に服し、病を感じ今に至るも、なお常態に復していない。況や孤子は辺境の地に生長し、寒暑に耐えず、水土に慣れず、道途は艱難で、ただ白骨を暴くのみである。小国の陪臣が往来するにも、なお疫気に侵され、あるいは十のうち五六、あるいは死者が過半に及ぶ。閣下もまた平素ご存知であろう。ただ曲げて愛護していただき、天朝に上奏され、孤子の宗族官吏が一々死を畏れ生を貪る思いを知らしめられたい。ただ孤子が恩恵を受けるのみならず、一国の生霊もまたこれに頼って安全を得、共に閣下がこの天より授かる長久の大福を享けられることを祈るものである。」

原文添軍一件:占城服事小國日久,老父惟務以德懷之,迨于孤子之身,亦繼承父志;自老父歸順天朝,三十年于茲,干戈示不復用,軍卒毀為民丁,一資天朝貢獻,一示心無二圖,幸閤下矜察。助糧一件:小國地勢瀕海,五穀所產不多,一自大軍去後百姓流亡,加以水旱,朝飽暮饑,食不暇給;然閤下之命,所不敢違,擬於欽州界上永安州地所,俟候輸納。續諭孤子親身赴闕,面奉聖訓。老父在時,天朝矜憫,置之度外;今老父亡歿,孤子居憂,感病至今,尚未復常,況孤子生長遐陬,不耐寒暑,不習水土,艱難道塗,徒暴白骨。以小國陪臣往來,尚為沴氣所侵,或十之五六,或死者過半,閤下亦已素知。惟望曲為愛護,敷奏天朝,庶知孤子宗族官吏一一畏死貪生之意。豈但孤子受賜,抑一國生靈賴以安全,共祝閤下享此長久自天之大福也。

二十一年(1284年)三月、陶秉直が使いから戻ると、日烜は再び上表して事情を述べ、また荊湖占城行省に書を送り、大意は前の書とほぼ同じであった。また、瓊州安撫使陳仲達が鄭天祐の言「交趾は占城と通謀し、兵二万及び船五百を遣わして応援とす」を聞き入れたことについて、また行省に書を送り、その概略は「占城は小国の内属する所であり、大軍が討伐に赴くのは、哀訴すべきことであるが、しかし敢えて一言も出さなかった。それは天時と人事とを小国もまた知っているからである。今、占城はついに叛逆となり、執迷して悔い改めない。これはいわゆる天を知り人を知ることができない者である。天を知り人を知りながら、かえって天を知り人を知ることができない者と同謀するのは、三尺の児童でさえもこれに与しないと知る。まして小国がどうして与しようか。幸いに貴省の裁断を願う。」であった。八月、日烜の弟昭徳王陳璨が荊湖占城行省に書を送り、自ら進んで帰順降伏を願い出た。十一月、行省右丞唆都が言うには、「交趾は占臘・占城・雲南・暹・緬諸国と接壤しており、その地に即して省を立てることができる。また越里・潮州・毗蘭の三道に屯軍して鎮戍し、その糧餉を以て士卒に給すれば、海道による転輸の労を免れよう。」

原文二十一年三月,陶秉直使還,日烜復上表陳情,又致書于荊湖占城行省,大意與前書略同。又以瓊州安撫使陳仲達聽鄭天祐言「交趾通謀占城,遣兵二萬及船五百以為應援」,又致書行省,其略曰:「占城乃小國內屬,大軍致討,所當哀籲,然未嘗敢出一言,蓋天時人事小國亦知之矣。今占城遂為叛逆,執迷不復,是所謂不能知天知人者也。知天知人而反與不能知天知人者同謀,雖三尺兒童亦知其弗與,況小國乎?幸貴省裁之。」八月,日烜弟昭德王陳璨致書於荊湖占城行省,自願納款歸降。十一月,行省右丞唆都言:「交趾與占臘、占城、雲南、暹、緬諸國接壤,可即其地立省;及於越里、潮州、毗蘭三道屯軍鎮戍,因其糧餉以給士卒,庶免海道轉輸之勞。」

二十二年(1285年)三月、荊湖占城行省が言うには、「鎮南王は先ごろ旨を奉じて軍を統率し占城を征伐し、左丞唐兀䚟を駅伝を馳せて占城に赴かせ、右丞唆都に兵を率いて会合するよう約させた。また理問官曲烈・宣使塔海撒里を安南国使阮道学らと同行させ、行省の公文を持たせ、日烜に責めて糧食を運び占城に送り軍を援助するよう求めた。鎮南王が近境を経由するので、彼に会見するよう命じた。」官軍が衡山県に至った時、日烜の従兄興道王陳峻が兵を率いて境界上にいることを聞いた。やがて曲烈及び塔海撒里が安南の中亮大夫陳徳鈞・朝散郎陳嗣宗を引き連れ、日烜の書を持って到着し、その国から占城へは水陸ともに便ならず、力に随って軍糧を奉献したいと述べた。官軍が永州に至ると、日烜は邕州に移牒し、「貢納の期は十月を予定し、途中で予め丁力を準備してほしい。もし鎮南王が下車される日があれば、文書をもって報じてほしい。」と言った。行省は万戸趙修己に命じ、自分の考えで返書を出させ、また公文を移し、道を開き糧食を準備し、親しく鎮南王を迎えるよう命じた。

原文二十二年三月,荊湖占城行省言:「鎮南王昨奉旨統軍征占城,遣左丞唐兀䚟馳驛赴占城,約右丞唆都將兵會合。又遣理問官曲烈、宣使塔海撒里同安南國使阮道學等,持行省公文,責日烜運糧送至占城助軍;鎮南王路經近境,令其就見。」比官軍至衡山縣,聞日烜從兄興道王陳峻提兵界上。既而曲烈及塔海撒里引安南中亮大夫陳德鈞、朝散郎陳嗣宗以日烜書至,言其國至占城水陸非便,願隨力奉獻軍糧。及官軍至永州,日烜移牒邕州,言:「貢期擬取十月,請前塗預備丁力,若鎮南王下車之日,希文垂報。」行省命萬戶趙修己以己意復書,復移公文,令開路備糧、親迎鎮南王。

官軍が邕州に至ると、安南の殿前范海崖が兵を率いて可蘭韋大助等の地に屯した。思明州に至ると、鎮南王は再び文書を移してこれと交渉した。禄州に至ると、また日烜が兵を調えて丘温・丘急嶺の隘路を拒み守っていると聞いた。行省はそこで軍を二道に分けて進んだ。日烜はまたその善忠大夫阮徳輿・朝請郎阮文翰を遣わし、書を持って鎮南王に奉り、「親しくご威光を拝することができませんが、心中欣幸に堪えません。以前、詔を拝し、別に我が軍が爾の境に入らぬと敕されました。今、邕州の営站橋梁がしばしば相接しているのを見て、実に深く驚懼しています。幸いに忠誠を認め、少しばかり憐れみをお与えください。」と言った。また平章政事に書を送り、本国の生霊を保護し、逃散の患いを免れさせてほしいと乞うた。鎮南王は行省に命じ、総把阿里に書を持たせ、徳輿と共に往き、日烜に興兵の理由は実に占城のためであり、安南のためではないことを諭させた。急保県の地に至ると、安南の管軍官阮盝が七源州に屯兵し、また村李県短万劫等の地には、いずれも興道王の兵がおり、阿里は進むことができなかった。行省は再び倪閏を遣わし虚実を探らせ、軍を調えるよう斟酌させたが、しかしその民を殺掠してはならないとした。

原文及官軍至邕州,安南殿前范海崖領兵屯可蘭韋大助等處。至思明州,鎮南王復令移文與之。至祿州,復聞日烜調兵拒守丘溫、丘急嶺隘路,行省遂分軍兩道以進。日烜復遣其善忠大夫阮德輿、朝請郎阮文翰奉書與鎮南王,言:「不能親見末光,然中心欣幸。以往者欽蒙聖詔云別敕我軍不入爾境;今見邕州營站橋梁往往相接,實深驚懼,幸昭仞忠誠,少加矜恤。」又以書抵平章政事,乞保護本國生靈,庶免逃竄之患。鎮南王命行省遣總把阿里持書與德輿同往諭日烜以興兵之故實為占城,非為安南也。至急保縣地,安南管軍官阮盝屯兵七源州,又村李縣短萬劫等處,俱有興道王兵,阿里不能進。行省再命倪閏往覘虛實,斟酌調軍,然不得殺掠其民。

間もなく、撒答児䚟・李邦憲・孫祐らが言うには、可離隘に至り、交趾兵が拒み敵対するのに遇い、孫祐がこれと戦い、その管軍奉御杜尾・杜祐を生け捕りにし、初めて興道王が果たして兵を率いて迎え撃っていることを知った。官軍は可離隘を過ぎ、洞板隘に至り、またその兵に遇い、戦ってこれを破り、その首将秦岑は傷つき死んだ。興道王が内傍隘にいると聞き、また兵を進めて変住村に至り、兵を収め道を開き、鎮南王を迎え拝するよう諭したが、従わなかった。内傍隘に至り、令旨を奉じて人を遣わし招いたが、また従わなかった。官軍はそこで六道に分かれて進攻し、その将大僚班段台を捕らえた。興道王は逃げ去り、万劫まで追撃し、諸隘を攻め、皆これを破った。興道王はなお兵船千余艘を持ち、万劫から十里の距離にいた。そこで兵士を沿江に遣わして船を求め、及び板木・釘・灰を集め、場を設けて創造し、各翼の水軍を選び、烏馬児抜都に部領させ、数度戦い、皆これを破った。その江岸に遺棄された文字二紙を得たが、それは日烜が鎮南王及び行省平章に送った書で、また称して「以前の詔には別に我が軍が爾の境に入らぬと敕された。今、占城が既に臣従しながらまた叛いた故に、大軍を発し、本国を経由し、百姓を残害するのは、太子の行うところが誤りであり、本国が誤ったのではない。伏して前詔を外さず、大軍を引き回されんことを望む。本国は貢物を整えて馳せて献上し、以前とは異なるものをまた備えよう。」とあった。行省はまた書を以てこれに答え、「朝廷が兵を調えて占城を討つに当たり、屡々文書を移して世子に道を開き糧食を備えるよう求めたが、思いがけず故意に朝命に違背し、興道王の輩に兵を率いて迎え撃たせ、我が軍を射傷させ、安南の生霊に禍いをもたらしたのは、爾が国の行ったことである。今、大軍が爾が国を経由して占城を討つのは、上命である。世子はよく考えよ、爾が国の帰附すること久しく、宜しく皇帝の広大慈憫の徳を体し、直ちに兵を退け道を開き、百姓を安んじ諭し、各々生業に務めさせるべきである。我が軍の過ぎる所、秋毫も侵さず。世子は宜しく出て鎮南王を迎え、共に軍事を議すべきである。そうでなければ、大軍は安南に止まり府を開くであろう。」とした。そこでその使者阮文翰にこれを伝えさせた。

原文未幾,撒答兒䚟、李邦憲、孫祐等言:至可離隘,遇交兵拒敵,祐與之戰,擒其管軍奉御杜尾、杜祐,始知興道王果領兵迎敵。官軍過可離隘,至洞板隘,又遇其兵,與戰敗之,其首將秦岑中傷死。聞興道王在內傍隘,又進兵至變住村,諭其收兵開路,迎拜鎮南王,不從。至內傍隘,奉令旨令人招之,又不從。官軍遂分六道進攻,執其將大僚班段台。興道王逃去,追至萬劫,攻諸隘,皆破之。興道王尚有兵船千餘艘,距萬劫十里。遂遣兵士於沿江求船,及聚板木釘灰,置場創造,選各翼水軍,令烏馬兒拔都部領,數與戰,皆敗之。得其江岸遺棄文字二紙,乃日烜與鎮南王及行省平章書,復稱:「前詔別敕我軍不入爾境,今以占城既臣復叛之故,因發大軍,經由本國,殘害百姓,是太子所行違誤,非本國違誤也。伏望勿外前詔,勒回大軍,本國當具貢物馳獻,復有異於前者。」行省復以書抵之,以為:「朝廷調兵討占城,屢移文與世子俾開路備糧,不意故違朝命,俾興道王輩提兵迎敵,射傷我軍,與安南生靈為禍者,爾國所行也。今大軍經爾國討占城,乃上命。世子可詳思爾國歸附已久,宜體皇帝涵洪慈憫之德,即令退兵開道,安諭百姓,各務生理。我軍所過,秋毫無擾,世子宜出迎鎮南王,共議軍事。不然,大軍止於安南開府。」因令其使阮文翰達之。

官軍が捕虜を捕らえると、彼らは日烜がその聖翊等の軍を動員し、船千余艘を率いて興道王を助けて防戦したと称した。鎮南王は行省の官と共に東岸に臨み、兵を派遣してこれを攻撃し、甚だ多くの殺傷を与え、船二十余艘を奪った。興道王は敗走し、官軍は筏を縛って橋とし、富良江の北岸を渡った。日烜は江沿いに兵船を配置し、木柵を立て、官軍が岸に至るのを見ると、直ちに砲を発し大声で呼び戦いを求めた。夜になると、またその阮奉御を遣わして鎮南王及び行省の官に書を奉り、大軍を少し退けるよう請うた。行省はまた移文してこれを責め、遂に再び進兵した。日烜は城を棄てて遁走し、なお阮效鋭に命じて書を奉り謝罪させ、方物を献上し、かつ班師を請うた。行省はまた移文して招諭し、遂に兵を調発して江を渡り、安南城下に陣を布いた。

原文及官軍獲生口,乃稱日烜調其聖翊等軍,船千餘艘,助興道王拒戰。鎮南王遂與行省官親臨東岸,遣兵攻之,殺傷甚眾,奪船二十餘艘。興道王敗走,官軍縛栰為橋,渡富良江北岸。日烜沿江布兵船,立木柵,見官軍至岸,即發砲大呼求戰。至晚,又遣其阮奉御奉鎮南王及行省官書,請小却大軍。行省復移文責之,遂復進兵。日烜乃棄城遁去,仍令阮效銳奉書謝罪,并獻方物,且請班師。行省復移文招諭,遂調兵渡江,壁於安南城下。

翌日、鎮南王がその国に入ると、宮室はことごとく空で、ただ度々降した詔勅及び中書の牒文が残されており、ことごとく抹消されていた。外に文字があるものは、皆その南北の辺将が官軍の消息及び敵に抵抗した事情を報告したものであった。日烜は僭称して大越国主憲天體道大明光孝皇帝陳威晃とし、皇太子に禅位し、太子妃を立てて皇后とし、上顕慈順天皇太后に表章を上り、上の者に用いる「昊天成命之宝」を用いた。日烜は即ち太上皇の位に居り、現に立てる安南国王は日烜の子で、紹宝の年号を行い、居る宮室の五門の額には大興之門、左掖門、右掖門と書き、正殿九間には天安御殿と書き、正南門には朝天閣と書いた。また諸所に榜を張り、「凡そ国内の郡県、仮に外寇が至れば、当に死戦すべし。或いは力敵せずば、山沢に逃竄するを許し、迎えて降ることを得ず」と云う。その険隘で防衛する所には、皆庫屋を設けて兵甲を貯蔵した。その船を棄てて岸に登った軍はなお多く、日烜は宗族官吏を率いて天長・長安に屯聚し、興道王・范殿前は兵船を率いて再び万劫江口に集まり、阮盝は西路永平に駐屯した。

原文明日,鎮南王入其國,宮室盡空,惟留屢降詔敕及中書牒文,盡行毀抹。外有文字,皆其南北邊將報官軍消息及拒敵事情。日烜僭稱大越國主憲天體道大明光孝皇帝陳威晃,禪位于皇太子,立太子妃為皇后,上顯慈順天皇太后表章,於上行使「昊天成命之寶」。日烜即居太上皇之位,見立安南國王係日烜之子,行紹寶年號。所居宮室五門,額書大興之門,左、右掖門;正殿九間書天安御殿;正南門書朝天閣。又諸處張榜云:「凡國內郡縣,假有外寇至,當死戰。或力不敵,許於山澤逃竄,不得迎降。」其險隘拒守處,俱有庫屋以貯兵甲。其棄船登岸之軍猶眾,日烜引宗族官吏於天長、長安屯聚,興道王、范殿前領兵船復聚萬劫江口,阮盝駐西路永平。

行省は軍を整えて追襲に備え、唐兀䚟と唆都等の兵が占城から到着して大軍と合流した。その境に入って以来、大小七戦し、地二千余里・王宮四所を取った。初め、その昭明王の兵を破り、その昭孝王・大僚護を撃って皆死なせ、昭明王は遠く遁走して再び出でることを敢えなかった。また安演州・清化・長安で亡宋の陳尚書の婿・交趾の梁奉御及び趙孟信・葉郎将等四百余人を捕らえた。

原文行省整軍以備追襲,而唐兀䚟與唆都等兵至自占城與大軍會合。自入其境,大小七戰,取地二千餘里、王宮四所。初,敗其昭明王兵,擊其昭孝王、大僚護皆死,昭明王遠遁不敢復出。又於安演州、清化、長安獲亡宋陳尚書壻、交趾梁奉御及趙孟信、葉郎將等四百餘人。

万戸李邦憲・劉世英は軍を率いて道を開き永平から安南に入り、三十里毎に一寨を立て、六十里毎に一駅を置き、一寨一駅毎に三百の軍を屯して鎮守巡邏させた。また世英に命じて堡を築かせ、専ら寨駅の公事を提督させた。

原文萬戶李邦憲、劉世英領軍開道自永平入安南,每三十里立一寨,六十里置一驛,每一寨一驛屯軍三百鎮守巡邏。復令世英立堡,專提督寨驛公事。

右丞寛徹は万戸忙古䚟・孛羅哈答児を率いて陸路より、李左丞は烏馬児抜都を率いて水路より、日烜の兵船を破り、その建徳侯陳仲を捕らえた。日烜は逃げ去り、膠海口まで追ったが、どこへ行ったか分からなかった。その宗族の文義侯・父武道侯及び子明智侯・婿の彰懐侯並びに彰憲侯・亡宋の官曾参政・蘇少保の子蘇宝章・陳尚書の子陳丁孫が、相次いで衆を率いて来降した。唐兀䚟・劉珪は皆、占城には糧がなく、軍は久しく駐屯し難いと述べた。鎮南王は唆都に命じて元軍を率い長安等の処で糧食を調達させた。日烜は安邦海口に至り、その舟楫甲仗を棄てて山林に走り匿れた。官軍は船一万艘を獲得し、良いものを選んで乗り、余りは皆焼き棄て、また陸路で三昼夜追撃した。

原文右丞寬徹引萬戶忙古䚟、孛羅哈答兒由陸路,李左丞引烏馬兒拔都由水路,敗日烜兵船,禽其建德侯陳仲。日烜逃去,追至膠海口,不知所往。其宗族文義侯、父武道侯及子明智侯、壻(張)〔彰〕懷侯并(張)〔彰〕憲侯、亡宋官曾參政、蘇少保子蘇寶章、陳尚書子陳丁孫,相繼率眾來降。唐兀䚟、劉珪皆言占城無糧,軍難久駐。鎮南王令唆都引元軍於長安等處就糧。日烜至安邦海口,棄其舟楫甲仗,走匿山林。官軍獲船一萬艘,擇善者乘之,餘皆焚棄,復於陸路追三晝夜。

捕虜の言によれば、上皇・世子には船四艘しかなく、興道王とその子には三艘、太師には八十艘あり、清化府へ走ったという。唆都もまた、日烜・太師が清化へ走ったと報告した。烏馬児抜都は軍一千三百人・戦船六十艘を以て、唆都を助けてその太師等の兵を襲撃した。また唐兀䚟に命じて沿海を追わせ日烜を追ったが、やはりどこへ行ったか分からなかった。

原文獲生口稱上皇、世子止有船四艘,興道王及其子三艘,太師八十艘,走清化府。唆都亦報:日烜、太師走清化。烏馬兒拔都以軍一千三百人、戰船六十艘,助唆都襲擊其太師等兵。復令唐兀䚟沿海追日烜,亦不知所往。

日烜の弟昭国王陳益稷はその本宗と妻子官吏を率いて来降した。そこで明里・昔班等を遣わして彰憲侯・文義侯及びその弟明誠侯・昭国王の子義国侯を入朝させた。文義侯は北上することができたが、彰憲侯・義国侯は皆興道王に殺され、彰憲侯は死に、義国侯は身を脱して軍中に還った。

原文日烜弟昭國王陳益稷率其本宗與其妻子官吏來降。乃遣明里、昔班等送彰憲侯、文義侯及其弟明誠侯、昭國王子義國侯入朝。文義侯得北上,彰憲侯、義國侯皆為興道王所殺,彰憲侯死,義國侯脫身還軍中。

官軍は諸将を集めて議した。「交人は官軍に敵対し、幾度か敗れ散ったが、兵を増してますます多くなった。官軍は困窮疲弊し、死傷もまた多く、蒙古軍馬もその技を施すことができない」。そこでその京城を棄て、江を渡って北岸に至り、退兵して思明州に屯することを決議した。鎮南王はこれを認め、軍を率いて還った。この日、劉世英は興道王・興寧王の兵二万余りと力戦した。

原文官軍聚諸將議:「交人拒敵官軍,雖數敗散,然增兵轉多;官軍困乏,死傷亦眾,蒙古軍馬亦不能施其技。」遂棄其京城,渡江北岸,決議退兵屯思明州。鎮南王然之,乃領軍還。是日,劉世英與興道王、興寧王兵二萬餘人力戰。

また官軍が如月江に至ると、日烜は懐文侯を遣わして戦わせ、行って冊江に至り、浮橋を繋いで江を渡ったが、左丞唐兀䚟等の軍が渡り終わらないうちに林内の伏兵が発し、官軍は多く溺死し、力戦してようやく国境を出ることができた。唐兀䚟等は駅伝を馳せて上奏した。七月、枢密院は兵を調発して今年十月に潭州で会合し、鎮南王及び阿里海牙に将帥を選んで総括させるよう請うた。

原文又官軍至如月江,日烜遣懷文侯來戰,行至冊江,繫浮橋渡江,左丞唐兀䚟等軍未及渡而林內伏發,官軍多溺死,力戰始得出境。唐兀䚟等馳驛上奏。七月,樞密院請調兵以今年十月會潭州,聽鎮南王及阿里海牙擇帥總之。

二十三年正月、詔して省臣に共に議させ、遂に大挙して南伐した。二月、詔して安南の官吏百姓を諭し、日烜の罪悪を数え、その叔父陳遺愛を害し、及び達魯花赤不顔鉄木児等を納れなかった事を述べた。陳益稷等が自ら抜けて来帰したことを以て、益稷を安南国王に封じ、符印を賜い、秀嵈を輔義公とし、以て陳氏の祭祀を奉らせた。重ねて鎮南王脱歓・左丞相阿里海牙に命じてその国を平定し、兵を以て益稷を納れさせた。

原文二十三年正月,詔省臣共議,遂大舉南伐。二月,詔諭安南官吏百姓,數日烜罪惡,言其戕害叔父陳遺愛及弗納達魯花赤不顏鐵木兒等事。以陳益稷等自拔來歸,封益稷為安南國王,賜符印,秀嵈為輔義公,以奉陳祀。申命鎮南王脫懽、左丞相阿里海牙平定其國,以兵納益稷。

五月、忙古台の麾下の士卒を発して鄂州行省軍と合せて共にこれを征した。官兵がその境に入ると、日烜はまた城を棄てて遁走した。

原文五月,發忙古臺麾下士卒合鄂州行省軍同征之。官兵入其境,日烜復棄城遁。

六月、湖南宣慰司が上言した。「連年日本を征し、及び占城に用兵し、百姓は転輸に疲弊し、賦役は煩重で、士卒は瘴癘に触れて多く死傷し、衆生は愁嘆し、四民は業を廃し、貧者は子を棄てて偷生し、富者は産を売って役に応じ、倒懸の苦しみは日増しに甚だしい。今また交趾に事有り、百万の衆を動かし、千金の費を虚しくすることは、士民を恤れむ所以ではない。かつ挙動の間、利害は一つならず、また兼ねて交趾は既に使を遣わし表を納れて藩を称した。もしその請に従って民力を蘇らせば、計の上である。已むを得なければ、則ち百姓の賦を寛め、糧餉を積み、甲兵を繕い、来年天時稍々利あるを俟ち、然る後に大挙するも、また未だ晩からず」。湖広行省の臣線哥はこの議を是とし、使を遣わして入奏し、かつ言う。「本省の鎮戍は凡そ七十余所、連年征戦し、士卒の精鋭なる者は外で疲弊し、存する者は皆老弱で、一城邑毎に多くとも二百人を超えない。窃かに恐れるのは、姦人が虚実を窺うことを得ることであろう。往年平章阿里海牙が出征した時、糧三万石を輸送し、民はなお病を告げた。今またその数を倍にする。官に儲蓄なく、民間に和糴すれば、百姓は将にその困窮に堪えられないであろう。宣慰司の言う如く、師を緩めて南伐することを乞う」。枢密院がこれを聞き、帝は即日に詔して軍を止め、士卒を放って各営に還らせた。益稷は師に従って鄂に還った。

原文六月,湖南宣慰司上言:「連歲征日本及用兵占城,百姓罷於轉輸,賦役煩重,士卒觸瘴癘多死傷者,羣生愁嘆,四民廢業,貧者棄子以偷生,富者鬻產而應役,倒懸之苦日甚一日。今復有事交趾,動百萬之眾,虛千金之費,非所以恤士民也。且舉動之間,利害非一,又兼交趾已嘗遣使納表稱藩,若從其請以甦民力,計之上也。無已,則宜寬百姓之賦,積糧餉,繕甲兵,俟來歲天時稍利,然後大舉,亦未為晚。」湖廣行省臣線哥是其議,遣使入奏,且言:「本省鎮戍凡七十餘所,連歲征戰,士卒精銳者罷於外,所存者皆老弱,每一城邑,多不過二百人。竊恐姦人得以窺伺虛實。往年平章阿里海牙出征,輸糧三萬石,民且告病,今復倍其數。官無儲畜,和糴於民間,百姓將不勝其困。宜如宣慰司所言,乞緩師南伐。」樞密院以聞,帝即日下詔止軍,縱士卒還各營。益稷從師還鄂。

二十四年正月、新附軍千人を発して阿八赤に従い安南を討たしむ。また詔して江淮・江西・湖広の三省の蒙古・漢・券軍七万人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州の黎兵一万五千を発し、海道運糧万戸の張文虎・費拱辰・陶大明に糧十七万石を運ばせ、分道して進軍せしむ。征交趾行尚書省を置き、オルチ(奥魯赤)を平章政事とし、ウマル(烏馬兒)・樊楫を参知政事としてこれを総べさせ、ともに鎮南王の節制を受く。五月、右丞程鵬飛を命じて荊湖行省に還り兵を治めしむ。六月、枢密院ふたたび奏し、ウマル(烏馬児)と樊参政に軍士を率い水陸ともに進ませしむ。九月、瓊州路安撫使陳仲達・南寧軍民総管謝有奎・延欄軍民総管符庇成に兵船を出して交趾征討を助けしめ、ともに従征せしむ。日烜、その中大夫阮文通らを遣わして入貢す。

原文二十四年正月,發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人,船五百艘,雲南兵六千人,海外四州黎兵萬五千,海道運糧萬戶張文虎、費拱辰、陶大明運糧十七萬石,分道以進。置征交趾行尚書省,奧魯赤平章政事,烏馬兒、樊楫參知政事總之,並受鎮南王節制。五月,命右丞程鵬飛還荊湖行省治兵。六月,樞密院復奏,令烏馬兒與樊參政率軍士水陸並進。九月,以瓊州路安撫使陳仲達、南寧軍民總管謝有奎、延欄軍民總管符庇成出兵船助征交趾,並令從征。日烜遣其中大夫阮文通等入貢。

十一月、鎮南王思明に次ぐ。兵二千五百人を留め、万戸賀祉にこれを統べさせ、輜重を守らしむ。程鵬飛・ボロカダル(孛羅合答児)は漢・券兵一万人を率いて西道の永平より、オルチ(奥魯赤)は一万人を率いて鎮南王に従い東道の女兒関より進む。アバチ(阿八赤)は一万人を前鋒とし、ウマル(烏馬児)・樊楫は兵を率いて海道より、玉山・双門・安邦口を経て、交趾の船四百余艘に遇い、これを撃ち、首級四千余を斬り、百余人生擒し、その舟百艘を奪い、ついに交趾に向かう。程鵬飛・ボロカダル(孛羅合答児)は老鼠・陷沙・茨竹の三関を経て、合わせて十七戦し、皆これに捷つ。

原文十一月,鎮南王次思明,留兵二千五百人,命萬戶賀祉統之,以守輜重。程鵬飛、孛羅合答兒以漢、券兵萬人由西道永平,奧魯赤以萬人從鎮南王由東道女兒關以進。阿八赤以萬人為前鋒,烏馬兒、樊楫以兵由海道,經玉山、雙門、安邦口,遇交趾船四百餘艘,擊之,斬首四千餘級,生擒百餘人,奪其舟百艘,遂趨交趾。程鵬飛、孛羅合答兒經老鼠、陷沙、茨竹三關,凡十七戰,皆捷。

十二月、鎮南王茅羅港に次ぐ。交趾の興道王遁走す。よって浮山寨を攻め、これを破る。また程鵬飛・アリ(阿里)に命じて兵二万人をもって萬劫を守らしめ、かつ普頼山および至霊山の木柵を修めしむ。ウマル(烏馬児)に水兵を将い、アバチ(阿八赤)に陸兵を将いて、まっすぐに交趾城に向かわしむ。鎮南王、諸軍を率いて富良江を渡り、城下に次ぎ、その守兵を破る。日烜、その子とともに城を棄て敢喃堡に走る。諸軍これを攻め下す。

原文十二月,鎮南王次茅羅港,交趾興道王遁,因攻浮山寨,破之。又命程鵬飛、阿里以兵二萬人守萬劫,且修普賴山及至靈山木柵。命烏馬兒將水兵,阿八赤將陸兵,徑趨交趾城。鎮南王以諸軍渡富良江,次城下,敗其守兵。日烜與其子棄城走敢喃堡,諸軍攻下之。

二十五年正月、日烜およびその子ふたたび海に入って走る。鎮南王、諸軍を率いてこれを追い、天長海口に次ぐ。その行くところを知らず、兵を引き還り交趾城に至る。ウマル(烏馬児)に命じて水兵を将い大滂口より張文虎らの糧船を迎えしめ、オルチ(奥魯赤)・アバチ(阿八赤)らは分道して山に入り糧を求む。交趾が兵を箇沉・箇黎・磨山・魏寨に集めると聞き、兵を発して皆これを破り、万余級を斬る。

原文二十五年正月,日烜及其子復走入海。鎮南王以諸軍追之,次天長海口,不知其所之,引兵還交趾城。命烏馬兒將水兵由大滂口迓張文虎等糧船,奧魯赤、阿八赤等分道入山求糧。聞交趾集兵箇沉、箇黎、磨山、魏寨,發兵皆破之,斬萬餘級。

二月、鎮南王兵を引き還り萬劫に至る。アバチ(阿八赤)前鋒を将い、関繫橋を奪い、三江口を破り、堡三十二を攻め下し、数万余級を斬り、船二百艘・米十一万三千余石を得る。ウマル(烏馬児)は大滂口より塔山に向かい、賊船千余に遇い、これを撃ち破る。安邦口に至り、張文虎の船を見ず、ふたたび萬劫に還り、米四万余石を得る。普頼・至霊山の木柵成る。諸軍に命じてここに居らしむ。諸将、よって言う、「交趾には守るべき城池・食すべき倉庾なく、張文虎らの糧船至らず、かつ天時すでに熱く、糧尽き師老ゆるを恐れ、久しく支えることなく、朝廷の羞とならん。全師して還るべし」と。鎮南王これに従う。ウマル(烏馬児)・樊楫に命じて水兵を将いて先に還らしめ、程鵬飛・タチュ(塔出)に兵を将いて護送せしむ。三月、鎮南王諸軍を率いて還る。

原文二月,鎮南王引兵還萬劫。阿八赤將前鋒,奪關繫橋,破三江口,攻下堡三十二,斬數萬餘級,得船二百艘、米十一萬三千餘石。烏馬兒由大滂口趨塔山,遇賊船千餘,擊破之;至安邦口,不見張文虎船,復還萬劫,得米四萬餘石。普賴、至靈山木柵成,命諸軍居之。諸將因言:「交趾無城池可守、倉庾可食,張文虎等糧船不至,且天時已熱,恐糧盡師老,無以支久,為朝廷羞,宜全師而還。」鎮南王從之。命烏馬兒、樊楫將水兵先還,程鵬飛、塔出將兵護送之。三月,鎮南王以諸軍還。

張文虎の糧船は去年十二月屯山に次ぎ、交趾の船三十艘に遇う。文虎これを撃つ。殺し略したところほぼ相当す。緑水洋に至り、賊船ますます多く、敵しがたしと度り、また船重くして行くべからず。すなわち米を海に沈め、瓊州に向かう。費拱辰の糧船は十一月惠州に次ぎ、風進むを得ず、漂いて瓊州に至り、張文虎と合す。徐慶の糧船は漂いて占城に至り、また瓊州に至る。合わせて士卒二百二十人・船十一艘・糧一万四千三百石余を亡う。

原文張文虎糧船以去年十二月次屯山,遇交趾船三十艘,文虎擊之,所殺略相當。至綠水洋,賊船益多,度不能敵,又船重不可行,乃沉米於海,趨瓊州。費拱辰糧船以十一月次惠州,風不得進,漂至瓊州,與張文虎合。徐慶糧船漂至占城,亦至瓊州。凡亡士卒二百二十人、船十一艘、糧萬四千三百石有奇。

鎮南王内傍関に次ぐ。賊兵大いに集まる。王これを撃ち破る。万戸張均に命じて精鋭三千人をもって殿とし、力戦して関を出しむ。諜者が日烜および世子・興道王らが兵三十余万を分かち、女兒関および丘急嶺を守り、連亘百余里にして、帰師を遏つと知る。鎮南王すなわち単己県より盝州に向かい、間道より出で、思明州に次ぐ。アイル(愛魯)に命じて兵を引き還り雲南に至らしめ、オルチ(奥魯赤)に諸軍を率いて北還せしむ。日烜まもなく使を遣わして来謝し、金人を進めて己が罪に代う。十一月、劉庭直・李思衍・万奴らを安南に使し、詔を持して日烜を諭し来朝せしむ。

原文鎮南王次內傍關,賊兵大集,王擊破之。命萬戶張均以精銳三千人殿,力戰出關。諜知日烜及世子、興道王等分兵三十餘萬,守女兒關及丘急嶺,連亘百餘里,以遏歸師。鎮南王遂由單己縣趨盝州,間道以出,次思明州。命愛魯引兵還雲南,奧魯赤以諸軍北還。日烜尋遣使來謝,進金人代己罪。十一月,以劉庭直、李思衍、萬奴等使安南,持詔諭日烜來朝。

二十六年二月、中書省臣、征交趾を罷むれば、行省の符印を拘収すべしと奏す。四月、日烜、その中大夫陳克用らを遣わして来り方物を貢ぐ。

原文二十六年二月,中書省臣奏既罷征交趾,宜拘收行省符印。四月,日烜遣其中大夫陳克用等來貢方物。

二十七年、日烜卒す。子の日燇、使を遣わして来貢す。

原文二十七年,日烜卒,子日燇遣使來貢。

二十八年十一月、鎮守永州両淮万戸府上千戸の蔡栄上書し、軍事の大要を言い、朝廷の賞罰明らかならず、士命を用いず、将帥和せず、事機を失うに坐するを以て、その弊言うべからざるもの有りとす。書上るも、報いず。

原文二十八年十一月,鎮守永州兩淮萬戶府上千戶蔡榮上書,言軍事大要,以朝廷賞罰不明,士不用命,將帥不和,坐失事機,其弊有不可勝言者。書上,不報。

二十九年九月、吏部尚書梁曾・礼部郎中陳孚を遣わし、詔を持してふたたび日燇を諭し来朝せしむ。詔に曰く、「表を省みて悉す。去歳礼部尚書張立道言う、曾て安南に到り、彼の事体を識り、往きて開諭し、之を来朝せしめんことを請うと。よって立道を遣わして彼に往かしむ。今汝が国の罪愆すでに自ら陳す。朕また何をか言わん。若し孤制に在り、および道路の死を畏れて敢えて来朝せずと言わば、かつ生けるの類に寧くも長久安全なる者あらんや。天下またまた死せざるの地あらんや。朕未だ諭せざるところ、汝まさに具に聞くべし。徒に虚文の歳幣を以て、巧みに飾りて見欺くは、義に於いて安んぞ在らん」と。

原文二十九年九月,遣吏部尚書梁曾、禮部郎中陳孚持詔再諭日燇來朝。詔曰:「省表具悉。去歲禮部尚書張立道言,曾到安南,識彼事體,請往開諭,使之來朝。因遣立道往彼。今汝國罪愆既已自陳,朕復何言?若曰孤在制,及畏死道路不敢來朝,且有生之類寧有長久安全者乎?天下亦復有不死之地乎?朕所未喻,汝當具聞。徒以虛文歲幣,巧飾見欺,於義安在?」

三十年、梁曾ら使いより還る。日燇、陪臣陶子奇らを遣わして来貢す。廷臣、日燇終に入朝せず、またこれを征するを議す。すなわち子奇を江陵に拘留し、劉国傑と諸侯王イリギダイ(亦里吉䚟)らに命じてともに安南を征せしめ、鄂州に至り陳益稷と議せよと敕す。八月、平章不忽木ら湖広安南行省を立て、二印を与え、蜑船百斛のもの千艘を市い、軍五万六千五百七十人・糧三十五万石・馬料二万石・塩二十一万斤を用い、軍官の俸津を予め給し、軍人水手の人ごとに鈔二錠を遣わし、器仗合わせて七十余万事を預けしむ。国傑幕官十一人を設け、水陸分道ともに進む。また江西行枢密院副使チェリマン(徹里蛮)を右丞とし、安南征討に従わしめ、陳巌・趙修己・雲従龍・張文虎・岑雄らもまたともに事に従わしむ。益稷軍に随い長沙に至り、兵を寝むるに会いて止む。

原文三十年,梁曾等使還,日燇遣陪臣陶子奇等來貢。廷臣以日燇終不入朝,又議征之。遂拘留子奇於江陵,命劉國傑與諸侯王亦(里吉)〔吉里〕䚟等同征安南,敕至鄂州與陳益稷議。八月,平章不忽木等奏立湖廣安南行省,給二印,市蜑船百斛者千艘,用軍五萬六千五百七十人、糧三十五萬石、馬料二萬石、鹽二十一萬斤,預給軍官俸津、遣軍人水手人鈔二錠,器仗凡七十餘萬事。國傑設幕官十一人,水陸分道並進。又以江西行樞密院副使徹里蠻為右丞,從征安南,陳巖、趙修己、雲從龍、張文虎、岑雄等亦令共事。益稷隨軍至長沙,會寢兵而止。

三十一年五月、成宗即位し、征討を罷むるを命ず。陶子奇を帰国せしむ。日燇、使を遣わして表を上り国哀を慰め、ならびに方物を献ず。六月、礼部侍郎李衎・兵部郎中蕭泰登を遣わし、詔を持して往きこれを撫綏せしむ。その略に曰く、「先皇帝新たに天下を棄て、朕大統を嗣ぎ守る。践祚の始め、大いに赦宥を行い、遠近を間わず。惟れ爾安南もまた寛宥に従う。すでに有司に敕して兵を罷め、陪臣陶子奇を帰国せしむ。今より以往、天を畏れ大(=大国、元朝)に事うる所以のもの、その審らかにこれを思え」と。

原文三十一年五月,成宗即位,命罷征。遣陶子奇歸國。日燇遣使上表慰國哀,并獻方物。六月,遣禮部侍郎李衎、兵部郎中蕭泰登持詔往撫綏之,其略曰:「先皇帝新棄天下,朕嗣守大統,踐祚之始,大肆赦宥,無間遠近。惟爾安南,亦從寬宥,已敕有司罷兵,遣陪臣陶子奇歸國。自今以往,所以畏天事(天)〔大〕者,其審思之。」

大徳五年二月、太傅完沢らが奏上して、安南の来使鄧汝霖が宮苑の図本を窃かに描き、輿地図及び禁書等の物を私買し、また陳言徴収交趾文書を抄写し、及び北辺の軍情及び山陵等の事を私記し、使を遣わし詔を持して大義を以て責めた。三月、礼部尚書馬合馬・礼部侍郎喬宗亮を遣わし詔を持して日燇を諭し、大意は「汝霖等の為す所は不法、窮治すべき所なり。朕は天下を以て度と為し、有司に勅して放還せしむ。今より使价は必ず選択すべし。陳請有るは必ず情悃を尽くすべし。向に虚文を以て紿かれたるは、曾て何ぞ事に益あらんや。改図を憚ること勿れ、以て後悔を貽すことなからん」と。中書省復た牒を移して万戸張栄実等二人を取り、去使と偕に還らしむ。

原文大德五年二月,太傅完澤等奏安南來使鄧汝霖竊畫宮苑圖本,私買輿地圖及禁書等物,又抄寫陳言征收交趾文書,及私記北邊軍情及山陵等事宜,遣使持詔責以大義。三月,遣禮部尚書馬合馬、禮部侍郎喬宗亮持詔諭日燇,大意以「汝霖等所為不法,所宜窮治,朕以天下為度,敕有司放還。自今使价必須選擇;有所陳請,必盡情悃。向以虛文見紿,曾何益於事哉?勿憚改圖,以貽後悔」。中書省復移牒取萬戶張榮實等二人,與去使偕還。

武宗即位し、詔を下して之を諭し、屡々使を遣わして来貢す。至大四年八月、世子陳日㷃使を遣わし表を奉じて来朝す。

原文武宗即位,下詔諭之,屢遣使來貢。至大四年八月,世子陳日㷃遣使奉表來朝。

仁宗皇慶二年正月、交趾軍約三万余衆、馬軍二千余騎、鎮安州雲洞を犯し、居民を殺掠し、倉廩廬舎を焚焼し、また禄洞・知洞等の処を陥し、生口孳畜及び居民の資産を虜して還り、復た兵を三道に分かち帰順州を犯し、兵を屯して未だ退かず。廷議して湖広行省に俾して兵を発して之を討たしむ。四月、復た報を得たり。交趾世子親しく兵を領して養利州の官舎民居を焚き、二千余人を殺掠し、且つ声言して「昔右江帰順州五度我が大源路を劫し、我が生口五千余人を掠めり。養利州事趙珏をして我が思浪州の商人を禽えしめ、金一碾を取り、田一千余頃を侵さん。故に来たりて讎殺す」と。

原文仁宗皇慶二年正月,交趾軍約三萬餘眾,馬軍二千餘騎,犯鎮安州雲洞,殺掠居民,焚燒倉廩廬舍,又陷祿洞、知洞等處,虜生口孳畜及居民貲產而還,復分兵三道犯歸順州,屯兵未退。廷議俾湖廣行省發兵討之。四月,復得報:交趾世子親領兵焚養利州官舍民居,殺掠二千餘人,且聲言,「昔右江歸順州五次劫我大源路,掠我生口五千餘人;知養利州事趙珏禽我思浪州商人,取金一碾,侵田一千餘頃,故來讎殺」。

六月、中書省は兵部員外郎阿里温沙に俾し、枢密院は千戸劉元亨に俾し、同しく湖広行省に赴き之を詢察せしむ。元亨等親しく上・中・下由村に詣り、地所を相視し、之を居民農五に詢い、また下思明知州黄嵩寿を遣わし往きて之を詰ましむ。阮盝世子太史の奴なりと謂うも、然れども亦た是なるや否やを知らず。ここに於て牒を以て安南国を諭す。其の略に曰く「昔漢九郡を置き、唐五管を立て、安南は実に声教の及ぶ所の地なり。況や図を献げ貢を奉ずるは、上下の分素より明らかなり。厚く往き薄く来たるは、懐撫の恵亦た至れり。聖朝果たして何ぞ貴国に負くこと有らん。今胡ぞ自ら不靖を作し、禍焉くにか斯く啓くや。由村の地は係る所至って微なれども、国家の輿図に関すること甚だ大なり。兼ねて之が殺し虜にせし所は、皆朝廷の係籍編戸なり。省院未だ敢えて奏聞せず。然れども未だ審らかにせず、不軌の謀誰か実に之を主るや」と。安南牒に回して云く「辺鄙の鼠窃狗偷の輩自ら不靖を作す。本国安んぞ知らんや」と。且つ貨賂を以て偕に至る。元亨復た牒を以て安南の飾辞実ならざるを責め、其の貨賂を却け、且つ曰く「南金・象歯は貴国宝と為すも、使者は不貪を以て宝と為す。来物は就きて回使に付す。請う事情を審察し、明らかに以て我に告げよ」と。而して道里遼遠、情辞虚誕、終に其の要領を得ず。元亨等其の由を推原す。「交人の向嘗て永平辺境を侵すに因り、今復た倣効して風と成る。兼ねて聞く、阮盝世子は乃ち交趾の跋扈するの人なり。今の計と為すは、莫し遣使して安南を諭し、我が土田を帰し、我が人民を返し、仍て当国の人に其の疆界を正さしめ、其の主謀を究め、釁を開くの人を境上に戮し、辺吏に申飭して侵越せしむる毋からしむるに若かず。却って永平に於て寨を置き兵を募り、官を設けて統領せしめ、田土牛具を与え、自ら耕食せしめ、部伍を編立し、賞罰を明らかに立て、其の緩急首尾相応ぜしむ。斯くの如くせば則ち辺境安静、永く虞無きを保たん」と。事聞こえ、旨有り、安南使の至るを俟ち、即ち以て之を諭せしむ。

原文六月,中書省俾兵部員外郎阿里溫沙,樞密院俾千戶劉元亨,同赴湖廣行省詢察之。元亨等親詣上、中、下由村,相視地所,詢之居民農五,又遣下思明知州黃嵩壽往詰之,謂是阮盝世子太史之奴,然亦未知是否。於是牒諭安南國,其略曰:「昔漢置九郡,唐立五管,安南實聲教所及之地。況獻圖奉貢,上下之分素明;厚往薄來,懷撫之惠亦至。聖朝果何負於貴國,今胡自作不靖,禍焉斯啟?雖由村之地所係至微,而國家輿圖所關甚大。兼之所殺所虜,皆朝廷係籍編戶,省院未敢奏聞。然未審不軌之謀誰實主之?」安南回牒云:「邊鄙鼠竊狗偷輩自作不靖,本國安得而知?」且以貨賂偕至。元亨復牒責安南飾辭不實,却其貨賂,且曰:「南金、象齒,貴國以為寶,而使者以不貪為寶。來物就付回使,請審察事情,明以告我。」而道里遼遠,情辭虛誕,終莫得其要領。元亨等推原其由:「因交人向嘗侵永平邊境,今復倣效成風。兼聞阮盝世子乃交趾跋扈之人。為今之計,莫若遣使諭安南,歸我土田,返我人民,仍令當國之人正其疆界,究其主謀,開釁之人戮於境上,申飭邊吏毋令侵越。却於永平置寨募兵,設官統領,給田土牛具,令自耕食,編立部伍,明立賞罰,令其緩急首尾相應,如此則邊境安靜,永保無虞。」事聞,有旨,俟安南使至,即以諭之。

延祐初元より以て至治の末に及び、疆埸寧謐、貢献絶えず。泰定元年、世子陳日爌陪臣莫節夫等を遣わして来貢す。

原文自延祐初元以及至治之末,疆埸寧謐,貢獻不絕。泰定元年,世子陳日爌遣陪臣莫節夫等來貢。

益稷久しく鄂に居し、遥かに授く湖広行省平章政事。成宗朝に当たり、田二百頃を賜う。武宗朝、銀青栄禄大夫に進み、金紫光禄大夫を加え、復た儀同三司を加う。文宗天暦二年夏、益稷卒す。寿七十六。詔して銭五千緡を賜う。至順元年、忠懿王と諡す。

原文益稷久居於鄂,遙授湖廣行省平章政事;當成宗朝,賜田二百頃;武宗朝,進銀青榮祿大夫,加金紫光祿大夫,復加儀同三司。文宗天曆二年夏,益稷卒,壽七十有六,詔賜錢五千緡。至順元年,諡忠懿王。

三年夏四月、世子陳日㷆其の臣鄧世延等二十四人を遣わし方物を来貢す。

原文三年夏四月,世子陳日㷆遣其臣鄧世延等二十四人來貢方物。