巻210

列伝第九十七:外夷三 緬国 占城 暹国 爪哇 瑠求 三嶼 馬八児等国

緬

原文緬

緬国は西南夷に属し、その種族は知られていない。その地は大理に接し、また成都から遠くないところにあるが、その広さが何里あるかもまた知られていない。その人々は城郭や家屋を構えて住み、象や馬に乗り、舟や筏で渡河する。その文字で上奏するものは金葉に書き、次は紙に書き、さらに次は檳榔の葉に書く。おそらく翻訳して後、通じるのであろう。

原文緬國為西南夷,不知何種。其地有接大理及去成都不遠者,又不知其方幾里也。其人有城郭屋廬以居,有象馬以乘,舟筏以濟。其文字進上者,用金葉寫之,次用紙,又次用檳榔葉,蓋騰譯而後通也。

世祖至元八年、大理・鄯闡等路宣慰司都元帥府が乞䚟脱因らを緬国に派遣し、その主君を招諭して内附させようとした。四月、乞䚟脱因らがその使者价博を導いて来朝し、これを報告した。

原文世祖至元八年,大理、鄯闡等路宣慰司都元帥府遣乞䚟脫因等使緬國,招諭其主內附。四月,乞䚟脫因等導其使价博來,以聞。

十年二月、勘馬剌失里・乞䚟脱因らをその国に派遣し、詔を携えてこれを諭して言うには、「先ごろ大理・鄯闡等路宣慰司都元帥府が乞䚟脱因を差し、王国の使者价博を京師に導いた。かつ、かつて王国に至ったが、ただその臣下を見ただけで、未だ王を見ず、また我が大国の舎利を見たいと望んだ。朕は遠来を哀れみ、直ちに来使を引見させ、また舎利を観覧させた。さらにその来由を尋ねると、王に内附の意思があることを知った。国は遠いとはいえ、一視同仁である。今、再び勘馬剌失里および礼部郎中で国信使の乞䚟脱因・工部郎中で国信副使の小云失を派遣して王国を諭す。誠に事大の礼を謹んで行い、その子弟あるいは貴近の臣僚の一人を派遣して来朝させ、我が国家に外無きの義を顕彰し、永好を篤くするならば、これこそ汝の美事であろう。至って兵を用いることについては、誰が好むところであろうか。王はよく考えよ。」といった。

原文十年二月,遣勘馬剌失里、乞䚟脫因等使其國,持詔諭之曰:「間者大理、鄯闡等路宣慰司都元帥府差乞䚟脫因導王國使价博詣京師,且言嚮至王國,但見其臣下,未嘗見王,又欲觀吾大國舍利。朕矜憫遠來,即使來使覲見,又令縱觀舍利。益詢其所來,乃知王有內附意。國雖云遠,一視同仁。今再遣勘馬剌失里及禮部郎中國信使乞䚟脫因、工部郎中國信副使小云失往諭王國。誠能謹事大之禮,遣其子弟若貴近臣僚一來,以彰我國家無外之義,用敦永好,時乃之休。至若用兵,夫誰所好?王其思之。」

十二年四月、建寧路安撫使賀天爵が金歯の頭目阿郭の言葉を得て言うには、「乞䚟脱因が緬に使したのは、亡き父阿必が指図したものである。至元九年三月、緬王は父阿必を恨み、兵数万を率いて来侵し、父阿必を捕らえて去った。やむを得ずその国に厚く献上して、ようやく釈放された。これによって緬中の部落の人はなお群がる犬のようであることが分かった。近ごろ緬が阿的八ら九人を派遣して来たのは、国家の動静を窺うためである。今、白衣の頭目は阿郭の親戚で、緬と隣接している。かつて言うには、緬に入るには三道あり、一つは天部馬より、一つは驃甸より、一つは阿郭の地界より、いずれも緬の江頭城に会する。また阿郭の親戚阿提犯は緬において五甸を管掌し、各戸一万余りで、内附を望んでいる。阿郭はまず阿提犯および金歯の未降の者を招き、道案内としたいと願う。」といった。雲南省はこれにより、緬王に降伏の意思がなく、使者が帰らず、必ず征討すべきであると上言した。六月、枢密院がこれを上奏した。帝は「しばらくこれを緩めよ。」と言った。十一月、雲南省が初めて報告した。「人を差して国使の消息を探らせたが、蒲賊が道を阻んだ。今、蒲人の多くは降伏し、道はすでに通じた。金歯千額総管阿禾を派遣して探らせたところ、国使は緬に達し、ともに無事である。」

原文十二年四月,建寧路安撫使賀天爵言得金齒頭目阿郭之言曰:「乞䚟脫因之使緬,乃故父阿必所指也。至元九年三月,緬王恨父阿必,故領兵數萬來侵,執父阿必而去。不得已厚獻其國,乃得釋之。因知緬中部落之人猶羣狗耳。比者緬遣阿的八等九人至,乃候視國家動靜也。今白衣頭目是阿郭親戚,與緬為鄰。嘗謂入緬有三道,一由天部馬,一由驃甸,一由阿郭地界,俱會緬之江頭城。又阿郭親戚阿提犯在緬掌五甸,戶各萬餘,欲內附。阿郭願先招阿提犯及金齒之未降者,以為引道。」雲南省因言緬王無降心,去使不返,必須征討。六月,樞密院以聞。帝曰:「姑緩之。」十一月,雲南省始報:「差人探伺國使消息,而蒲賊阻道,今蒲人多降,道已通,遣金齒千額總管阿禾探得國使達緬俱安。」

十四年三月、緬人は阿禾が内附したことを怨み、その地を攻め、騰越・永昌の間に寨を立てようとした。当時、大理路蒙古千戸忽都・大理路総管信苴日・総把千戸脱羅脱孩は永昌の西、騰越・蒲・驃・阿昌・金歯の未降部族を討伐する命を受け、南甸に駐屯していた。阿禾が急を告げたので、忽都らは昼夜行軍し、緬軍と一つの河辺で遭遇した。その軍勢はおよそ四五万、象八百頭、馬一万匹であった。忽都らの軍はわずか七百人であった。緬人は前陣は馬に乗り、次は象、次は歩卒である。象は甲冑を着け、背に戦楼を負い、両脇に大竹筒を挟み、その中に短槍数十本を置き、象に乗る者がこれを取って撃刺する。忽都は命令した。「賊は多く我は寡ない。まず河北の軍を衝くべし。」と。自ら二百八十一騎を率いて一隊とし、信苴日は二百三十三騎を率いて河に沿って一隊とし、脱羅脱孩は一百八十七人を率いて山に依って一隊とした。交戦すること久しく、賊は敗走した。信苴日は三里これを追い、寨門に至り、すぐにぬかるみで退却した。忽ち南面の賊兵一万余りが、官軍の背後に回り出た。信苴日が馳せて報告すると、忽都は再び三陣を列ね、河岸に進み、これを撃ち、また敗走させた。その十七寨を追撃して破り、敗走する敵を窄山口まで追撃し、転戦すること三十余里、賊および象馬が自ら踏み躙られて死んだ者が三つの大きな溝に満ちた。日暮れに、忽都が傷を負ったので、兵を収めた。翌日、これを追い、千額に至ったが、追いつかずに帰還した。捕虜は甚だ多く、軍中では一つの帽子あるいは一両の靴・一枚の氈衣で生口一人と交換した。脱走した者はまた阿禾・阿昌に邀撃されて殺され、帰還した者はほとんどいなかった。官軍で負傷した者は多かったが、ただ蒙古軍が一頭の象を捕らえたがその性質を得ず、撃たれて斃れただけで、他に死者はなかった。

原文十四年三月,緬人以阿禾內附,怨之,攻其地,欲立寨騰越、永昌之間。時大理路蒙古千戶忽都、大理路總管信苴日、總把千戶脫羅脫孩奉命伐永昌之西騰越、蒲、驃、阿昌、金齒未降部族,駐劄南甸。阿禾告急,忽都等晝夜行,與緬軍遇一河邊,其眾約四五萬,象八百,馬萬匹。忽都等軍僅七百人。緬人前乘馬,次象,次步卒;象被甲,背負戰樓,兩旁挾大竹筩,置短槍數十於其中,乘象者取以擊刺。忽都下令:「賊眾我寡,當先衝河北軍。」親率二百八十一騎為一隊,信苴日以二百三十三騎傍河為一隊,脫羅脫孩以一百八十七人依山為一隊。交戰良久,賊敗走。信苴日追之三里,抵寨門,旋濘而退。忽南面賊兵萬餘,繞出官軍後。信苴日馳報,忽都復列為三陣,進至河岸,擊之,又敗走。追破其十七寨,逐北至窄山口,轉戰三十餘里,賊及象馬自相蹂死者盈三巨溝。日暮,忽都中傷,遂收兵。明日,追之,至千額,不及而還。捕虜甚眾,軍中以一帽或一兩靴一氊衣易一生口。其脫者又為阿禾、阿昌邀殺,歸者無幾。官軍負傷者雖多,惟〔一〕蒙古軍獲一象不得其性被擊而斃,餘無死者。

十月、雲南省が雲南諸路宣慰使元帥納速剌丁に命じ、蒙古・爨・僰・摩些の軍三千八百四十余人を率いて緬を征伐させ、江頭に至り、酋長細安が寨を立てた所を深く蹂躙し、その磨欲等三百余寨の土官曲蠟蒲折の戸四千・孟磨愛呂の戸一千・磨柰蒙匡里答八剌の戸二万・蒙忙甸の土官甫祿堡の戸一万・木都彈禿の戸二百、合わせて三万五千二百戸を招降した。天熱のため還師した。

原文十月,雲南省遣雲南諸路宣慰使元帥納速剌丁率蒙古、爨、僰、摩些軍三千八百四十餘人征緬,至江頭,深蹂酋首細安立寨之所,招降其磨欲等三百餘寨土官曲蠟蒲折戶四千、孟磨愛呂戶一千、磨柰蒙匡里答八剌戶二萬、蒙忙甸土官甫祿堡戶一萬、木都彈禿戶二百,凡三萬五千二百戶,以天熱還師。

十七年二月、納速剌丁らが上言した。「緬国の輿地と形勢はすべて臣の目中にあります。先に旨を奉じ、もし重慶諸郡が平定されたならば、その後緬国に事を起こすとありました。今、四川はすでに平定されました。兵を増やしてこれを征伐することを請います。」帝が丞相脱里奪海に問うと、脱里奪海は言った。「陛下は初めに合剌章および四川と阿里海牙麾下の士卒六万人を発して緬を征伐することを命じられました。今、納速剌丁はただ一万人を得たいと望んでいるだけです。」帝は「その通りだ。」と言い、直ちに枢密院に命じて甲兵を整え、武備を修め、将を選んで出師することを議させた。五月、詔して雲南行省に四川軍一万人を発させ、薬剌海にこれを率いさせ、以前に派遣した将とともに緬を征伐させた。十九年二月、詔して思・播・敍諸郡および亦奚不薛諸蛮夷等処に士卒を発して緬を征伐させた。

原文十七年二月,納速剌丁等上言:「緬國輿地形勢皆在臣目中矣。先奉旨,若重慶諸郡平,然後有事緬國。今四川已底寧,請益兵征之。」帝以問丞相脫里奪海,脫里奪海曰:「陛下初命發合剌章及四川與阿里海牙麾下士卒六萬人征緬,今納速剌丁止欲得萬人。」帝曰:「是矣。」即命樞密繕甲兵,修武備,議選將出師。五月,詔雲南行省發四川軍萬人,命藥剌海領之,與前所遣將同征緬。十九年二月,詔思、播、敍諸郡及亦奚不薛諸蠻夷等處發士卒征緬。

二十年十一月、官軍が緬を伐ち、これを平定した。先に、詔して宗王相吾答児・右丞太卜・参知政事也罕的斤に兵を将いて緬を征伐させた。この年九月、大軍は中慶を発した。十月、南甸に至り、太卜は羅必甸より進軍した。十一月、相吾答児は也罕的斤に命じて阿昔江より道を取り、鎮西阿禾江に達し、舟二百隻を造り、下流して江頭城に至り、緬人の水路を断たせた。自ら一軍を将いて驃甸より直ちにその国に抵り、太卜軍と会合した。諸将に命じて地を分けて攻め取らせ、その江頭城を破り、一万余人を撃殺した。別に都元帥袁世安に命じて兵をもってその地を守らせ、糧餉を積んで軍士に給し、使者に輿地図を持たせて奏上させた。

原文二十年十一月,官軍伐緬,克之。先是,詔宗王相吾答兒、右丞太卜、參知政事也罕的斤將兵征緬。是年九月,大軍發中慶。十月,至南甸,太卜由羅必甸進軍。十一月,相吾答兒命也罕的斤取道於阿昔江,達鎮西阿禾江,造舟二百,下流至江頭城,斷緬人水路;自將一軍從驃甸徑抵其國,與太卜軍會。令諸將分地攻取,破其江頭城,擊殺萬餘人。別令都元帥(玄)〔袁〕世安以兵守其地,積糧餉以給軍士,遣使持輿地圖奏上。

二十二年十一月、緬王はその塩井大官阿必立相を太公城に至らせ、来朝して帰順しようとしたが、孟乃甸の白衣頭目䚟塞が道を阻み、行くことができず、謄馬宅という者に信搭一片を持たせて来告させた。驃甸の土官匿俗は上司に報告して軍馬の入境を免れるよう求め、匿俗は榜文を与えて謄馬宅を江頭城に戻し、阿必立相を招いて省に赴かせ、かつ鎮西・平緬・麗川等路宣慰司・宣撫司に報じ、三摻に榜文を持たせて江頭城に至らせ、阿必立相・忙直卜算の二人に渡し、二月を期して軍を率いて江頭城に来るよう約し、宣撫司は蒙古軍を率いて驃甸で相見し事を議することを伝えた。阿必立相は朝廷に言上し、悔過を許す旨を降し、その後大官を遣わして闕下に赴くよう乞うた。朝廷はまもなく鎮西平緬宣撫司達魯花赤兼招討使怯烈をその国に遣わした。

原文二十二年十一月,緬王遣其鹽井大官阿必立相至太公城,欲來納款,為孟乃甸白衣頭目䚟塞阻道,不得行,遣謄馬宅者持信搭一片來告,驃甸土官匿俗乞報上司免軍馬入境,匿俗給榜遣謄馬宅回江頭城招阿必立相赴省,且報鎮西、平緬、麗川等路宣慰司、宣撫司,差三摻持榜至江頭城付阿必立相、忙直卜算二人,期以兩月領軍來江頭城,宣撫司率蒙古軍至驃甸相見議事。阿必立相乞言於朝廷,降旨許其悔過,然後差大官赴闕。朝廷尋遣鎮西平緬宣撫司達魯花赤兼招討使怯烈使其國。

二十三年十月、招討使張万を征緬副都元帥とし、也先鉄木児を征緬招討司達魯花赤とし、千戸張成を征緬招討使とし、ともに虎符を与えた。戦船を造るよう勅し、兵六千人を将いて緬を征し、禿満帯を都元帥としてこれを総べさせた。雲南王は行省右丞愛魯が旨を奉じて金歯・察罕迭吉連地を征收するのに、軍一千人を撥した。この月、中慶府を発ち、継いで永昌府に至り、征緬省官と会し、阿昔甸を経て、軍五百人を差し遣わし招緬使怯烈を護送して太公城に至らせた。二十四年正月、忙乃甸に至る。緬王はその庶子不速速古里に捕らえられ、昔里怯答剌の地に囚われ、またその嫡子三人を害され、大官木浪周ら四人とともに逆を為し、雲南王の命じた官阿難答らも害された。二月、怯烈は忙乃甸より舟に登り、元の送軍五百人をそこに留めた。雲南省は今秋進討を請うたが、聞き入れられなかった。まもなく雲南王と諸王は進征し、蒲甘に至り、師七千余を喪い、緬は初めて平らぎ、ここに歳貢方物を定めた。

原文二十三年十月,以招討使張萬為征緬副都元帥,也先鐵木兒征緬招討司達魯花赤,千戶張成征緬招討使,並虎符。敕造戰船,將兵六千人征緬,俾禿滿帶為都元帥總之。雲南王以行省右丞愛魯奉旨征收金齒、察罕迭吉連地,撥軍一千人。是月,發中慶府,繼至永昌府,與征緬省官會,經阿昔甸,差軍五百人護送招緬使怯烈至太公城。二十四年正月,至忙乃甸。緬王為其庶子不速速古里所執,囚於昔里怯答剌之地,又害其嫡子三人,與大官木浪周等四人為逆,雲南王所命官阿難答等亦受害。二月,怯烈自忙乃甸登舟,留元送軍五百人于彼。雲南省請今秋進討,不聽。既而雲南王與諸王進征,至蒲甘,喪師七千餘,緬始平,乃定歲貢方物。

大徳元年二月、緬王的立普哇拿阿迪提牙が嘗てその子信合八のを遣わし表を奉じて入朝し、歳ごとに銀二千五百両・帛千匹・馴象二十頭・糧万石を輸納することを請うたので、詔して的立普哇拿阿迪提牙を緬王に封じ銀印を賜い、子信合八のを緬国世子とし虎符を賜うた。

原文大德元年二月,以緬王的立普哇拿阿迪提牙嘗遣其子信合八的奉表入朝,請歲輸銀二千五百兩、帛千匹、馴象二十、糧萬石,詔封的立普哇拿阿迪提牙為緬王,賜銀印,子信合八的為緬國世子,賜以虎符。

三年三月、緬はまたその世子を遣わし表を奉じて入謝し、自ら部民が金歯に殺掠され、率いていずれも貧乏であり、もって上供の金幣を期のごとく輸納することができないと陳べた。帝はこれを憫れみ、ただ歳ごとに象を貢ぐことを命じ、なお衣を賜って遣わし還した。四年四月、使いを遣わし白象を進上した。

原文三年三月,緬復遣其世子奉表入謝,自陳部民為金齒殺掠,率皆貧乏,以致上供金幣不能如期輸納。帝憫之,止命間歲貢象,仍賜衣遣還。四年四月,遣使進白象。

五月、的立普哇拿阿迪提牙がその弟阿散哥也らに殺され、その子窟麻剌哥撒八は京師に逃げ詣でた。忙完禿魯迷失に師を率いて往きその罪を問わしめた。蛮賊は八百媳婦国と通じ、その勢い甚だ張っていた。忙完禿魯迷失は益兵を請い、また薛超兀而らに兵一万二千人を将いてこれを征せしめ、なお諸王闊闊にその軍を節制させた。六月、詔して窟麻剌哥撒八を王に立て、銀印を賜うた。秋七月、緬賊阿散哥也の弟者蘇ら九十一人が各々方物を奉じて入朝した。命じて余人は中慶に置き、者蘇らを上都に来らせた。八月、緬国阿散吉牙ら兄弟は闕下に赴き、自ら主を殺した罪を言い、征緬兵を罷めた。

原文五月,的立普哇拿阿迪提牙為其弟阿散哥也等所殺,其子窟麻剌哥撒八逃詣京師。令忙完禿魯迷失率師往問其罪。蠻賊與八百媳婦國通,其勢張甚。忙完禿魯迷失請益兵,又命薛超兀而等將兵萬二千人征之,仍令諸王闊闊節制其軍。六月,詔立窟麻剌哥撒八為王,賜以銀印。秋七月,緬賊阿散哥也弟者蘇等九十一人各奉方物入朝,命餘人置中慶,遣者蘇等來上都。八月,緬國阿散吉牙等昆弟赴闕,自言殺主之罪,罷征緬兵。

五年九月、雲南参知政事高慶・宣撫使察罕不花は誅せられた。初め、慶らは薛超兀而に従い緬を囲むこと二月、城中薪食ともに尽き、勢い出降せんとしたが、慶らはその重賂を受け、炎暑瘴疫を辞とし、輒ち兵を引いて還った。故にこれを誅した。十月、緬は使いを遣わし入貢した。

原文五年九月,雲南參知政事高慶、宣撫使察罕不花伏誅。初,慶等從薛超兀而圍緬兩月,城中薪食俱盡,勢將出降,慶等受其重賂,以炎暑瘴疫為辭,輒引兵還,故誅之。十月,緬遣使入貢。

占城

占城は瓊州に近く、順風なら舟行一日でその国に抵ることができる。世祖至元の間、広南西道宣慰使馬成旺は嘗て兵三千人・馬三百匹を請いてこれを征しようとした。十五年、左丞唆都は宋平定の後人を占城に遣わし、還って言うにはその王失里咱牙信合八剌麻哈迭瓦に内附の意ありと。詔して虎符を降し、栄禄大夫を授け、占城郡王に封じた。十六年十二月、兵部侍郎教化的・総管孟慶元・万戸孫勝夫を唆都らとともに占城に使わし、その王の入朝を諭した。

原文占城近瓊州,順風舟行一日可抵其國。世祖至元間,廣南西道宣慰使馬成旺嘗請兵三千人、馬三百匹征之。十五年,(右)〔左〕丞唆都以宋平遣人至占城,還言其王失里咱牙信合八剌〔麻〕哈迭瓦有內附意,詔降虎符,授榮祿大夫,封占城郡王。十六年十二月,遣兵部侍郎教化的、總管孟慶元、萬戶孫勝夫與唆都等使占城,諭其王入朝。

十七年二月、占城国王保宝旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶は使いを遣わし方物を貢ぎ、表を奉じて降った。十九年十月、朝廷は占城国主孛由補剌者吾が往年使いを遣わし来朝し、臣と称して内属したので、遂に右丞唆都らに命じその地に省を立ててこれを撫安せしめた。まもなくその子補的が国を専らにし、負固して服さず、万戸何子志・千戸皇甫傑は暹国に使いし、宣慰使尤永賢・亜闌らは馬八児国に使いし、舟は占城を経て、皆捕らえられた。故に兵を遣わしてこれを征した。帝は言う、「老王に罪はない。逆命する者はその子と一蛮人だけである。もしこの両人を得れば、曹彬の故事に依り、百姓一人も戮さないであろう」。

原文十七年二月,占城國王保寶旦拏囉耶卭南詙占把地囉耶遣使貢方物,奉表降。十九年十月,朝廷以占城國主孛由補剌者吾曩歲遣使來朝,稱臣內屬,遂命(左)〔右〕丞唆都等即其地立省以撫安之。既而其子補的專國,負固弗服,萬戶何子志、千戶皇甫傑使暹國,宣慰使尤永賢、亞闌等使馬八兒國,舟經占城,皆被執,故遣兵征之。帝曰:「老王無罪,逆命者乃其子與一蠻人耳。苟獲此兩人,當依曹彬故事,百姓不戮一人。」

十一月、占城行省官は兵を率いて広州より航海し占城港に至った。港口は北は海に連なり、海傍に小港五つあり、その国の大州に通じ、東南は山に止まり、西傍に木城がある。官軍は海岸に依り屯駐した。占城兵は木城を治め、四面およそ二十余里、楼棚を起こし、回回三梢砲百余座を立てた。また木城の西十里に行宮を建て、孛由補剌者吾は親しく重兵を率いて屯守し応援した。行省は都鎮撫李天祐・総把賈甫を遣わしこれを招いたが、七度往くも終に服さなかった。十二月、真臘国使速魯蛮は往き招諭することを請い、また天祐・甫と偕に行き、その回書を得て云う、「すでに木城を修め、甲兵を備え、期を刻んで戦を請う」。

原文十一月,占城行省官率兵自廣州航海至占城港。港口北連海,海旁有小港五,通其國大州,東南止山,西旁木城。官軍依海岸屯駐。占城兵治木城,四面約二十餘里,起樓棚,立回回三梢砲百餘座。又木城西十里建行宮,孛由補剌者吾親率重兵屯守應援。行省遣都鎮撫李天祐、總把賈甫招之,七往,終不服。十二月,招真臘國使速魯蠻請往招諭,復與天祐、甫偕行,得其回書云:「已修木城,備甲兵,刻期請戰。」

二十年正月、行省は軍中に令を伝え、十五日の夜半に船を出して城を攻めさせた。期日が来ると、瓊州安撫使陳仲達・総管劉金・総把栗全に兵千六百人を分遣して水路より木城の北面を攻撃させ、総把張斌・百戸趙達に三百人を分遣して東面の沙觜を攻撃させ、省官三千人を三道に分けて南面を攻撃させた。舟行して天明に至り岸に泊すも、風濤に砕かれたものは十のうち七八に及んだ。賊は木城の南門を開き、旗鼓を建て、万余人を出し、象に乗る者数十もまた三隊に分かれて敵を迎え撃ち、矢石が交えて降った。卯の刻より午の刻に至り、賊は敗れて北走し、官軍は木城に入り、さらに東北の二軍と合してこれを撃ち、殺し溺死せしむる者数千人に及んだ。城を守り糧餉を供給する者数万人は悉く潰散した。国主は行宮を棄て、倉廩を焼き、永賢・亜闌等を殺し、その臣とともに山に逃げ入った。十七日、兵を整えて大州を攻めた。十九日、国主は報答者を使わして降伏を求めて来た。二十日、兵は大州の東南に至り、報答者を返し、その降伏を許し、罪を免じた。二十一日、大州に入った。また博思兀魯班者を遣わして来て言うには、「王命を奉じ、国主・太子は後に自ら来るであろう」と。行省は檄を伝えてこれを召し、官軍は再び城外に駐屯した。二十三日、その舅の宝脱禿花ら三十余人を遣わし、国王の信物として雑布二百匹・大銀三錠・小銀五十七錠・碎銀一甕を質とし、帰順して来た。また金葉九節標槍を献じて言うには、「国主は来たいが、病で進むことができず、先にその槍を持たせて来て、誠意を示す。長子の補のは三日を期して謁見を請う」と。省官はその物を退けた。宝脱禿花は言う、「受け取らぬのは、これを軽んずるなり」と。行省は退け難しと推し量り、暫く収め置くよう命じ、そこで上聞に達した。

原文二十年正月,行省傳令軍中,以十五日夜半發船攻城。至期,分遣瓊州安撫使陳仲達、總管劉金、總把栗全以兵千六百人由水路攻木城北面;總把張斌、百戶趙達以三百人攻東面沙觜;省官三千人分三道攻南面。舟行至天明泊岸,為風濤所碎者十七八。賊開木城南門,建旗鼓,出萬餘人,乘象者數十,亦分三隊迎敵,矢石交下。自卯至午,賊敗北,官軍入木城,復與東北二軍合擊之,殺溺死者數千人。守城供餉餽者數萬人悉潰散。國主棄行宮,燒倉廩,殺永賢、亞闌等,與其臣逃入山。十七日,整兵攻大州。十九日,國主使報答者來求降。二十日,兵至大州東南,遣報答者回,許其降,免罪。二十一日,入大州。又遣博思兀魯班者來言:「奉王命,國主、太子後當自來。」行省傳檄召之,官軍復駐城外。二十三日,遣其舅寶脫禿花等三十餘人,奉國王信物雜布二百匹、大銀三錠、小銀五十七錠、碎銀一甕為質,來歸款。又獻金葉九節標槍曰:「國主欲來,病未能進,先使持其槍來,以見誠意。長子補的期三日請見。」省官却其物。寶脫禿花曰:「不受,是薄之也。」行省度不可却,姑令收置,乃以上聞。

宝脱禿花はさらにその主の第四子利世麻八都八德剌・第五子世利印德剌を来見させ、かつ言うには、「先に兵十万あったので、戦を求めた。今は皆敗れ散った。敗兵の言うところによれば、補のは傷ついて既に死んだ。国主は頬に箭を受け、今は少し癒えたが、慚愧して恐れ、まだ見ることができない。故に先に二子を遣わして闕に赴き進見する事を議す」と。省官はこれが真の子でないと疑い、その還るを聴した。国主に早く降るよう諭し、かつ病を問うことを名目として、千戸林子全・総把栗全・李德堅を遣わし、ともに往ってこれを窺わせた。二子は途中で先に帰った。子全らは山に二日行程入ったが、国主は人を遣わして拒み、果たして見ることはできなかった。宝脱禿花は子全に言う、「国主は遷延して出降しようとせず、今は反って我を殺さんと揚言している。帰って省官に告げよ。来るなら来い、来なければ、我がこれを捕らえて往かん」と。子全らは営に帰った。この日、また何子志・皇甫傑ら百余人を殺した。

原文寶脫禿花復令其主第四子利世麻八都八德剌、第五子世利印德剌來見,且言:「先有兵十萬,故求戰。今皆敗散。聞敗兵言,補的被傷已死。國主頰中箭,今小愈,愧懼未能見也,故先遣二子來議赴闕進見事。」省官疑其非真子,聽其還。諭國主早降,且以問疾為辭,遣千戶林子全、總把栗全、李德堅偕往覘之。二子在途先歸。子全等入山兩程,國主遣人來拒,不果見。寶脫禿花謂子全曰:「國主遷延不肯出降,今反揚言欲殺我,可歸告省官,來則來,不來,我當執以往。」子全等回營。是日,又殺何子志、皇甫傑等百餘人。

二月八日、宝脱禿花がまた至り、自ら言うには、「我が祖父・伯・叔は、前みな国主であった。我が兄に至り、今の孛由補剌者吾を我が殺してその位を奪い、我が左右の二大指を斬った。我は実にこれを怨む。願わくは孛由補剌者吾・補の父子、及び大抜撒機児を擒らえて献上せん。大元の服色を給えられたい」と。行省は衣冠を賜い、撫諭して行かせた。十三日、占城に居る唐人曾延らが来て言うには、「国主は大州西北の鴉候山に逃れ、兵三千余を聚め、かつ他郡の兵を招集しているが未だ至らず、近日中に官軍と交戦せんとしている。唐人にその事を洩らすことを懼れ、尽く殺そうとしている。延らは気づいて逃げて来た」と。十五日、宝脱禿花は宰相の報孫達児及び撮及び大師ら五人を伴って来降した。行省官は曾延らを引いて見せると、宝脱禿花はこれを詰めて言う、「延らは奸細の者なり。請う、これを縲紲せよ。国主の軍は皆潰散しており、安んぞ敢えて再び戦わんや」と。また言う、「今未だ附かざる州郡は凡そ十二箇所あり、各州に一人を遣わしてこれを招く。旧州の水路は、行省と陳安撫及び宝脱禿花が各一人を遣わし舟に乗って招諭攻取せしめられたい。陸路は則ち行省官陳安撫と己が往きて国主・補のを擒らえ、その城を攻めんことを請う」と。行省はなおその言を信じ、兵一千を調えて半山塔に屯し、子全・德堅らに軍百人を領させ、宝脱禿花とともに大州に赴き進討させ、急あれば則ち半山の軍に報ぜんことを約した。

原文二月八日,寶脫禿花又至,自言:「吾祖父、伯、叔,前皆為國主,至吾兄,今孛由補剌者吾殺而奪其位,斬我左右二大指,我實怨之。願禽孛由補剌者吾、補的父子,及大拔撒機兒以獻。請給大元服色。」行省賜衣冠,撫諭以行。十三日,居占城唐人曾延等來言:「國主逃於大州西北鴉候山,聚兵三千餘,并招集他郡兵未至,不日將與官軍交戰。懼唐人泄其事,將盡殺之。延等覺而逃來。」十五日,寶脫禿花偕宰相報孫達兒及撮及大師等五人來降。行省官引曾延等見,寶脫禿花詰之,曰:「延等姦細人也,請繫縲之。國主軍皆潰散,安敢復戰?」又言:「今未附州郡凡十二處,每州遣一人招之。舊州水路,乞行省與陳安撫及寶脫禿花各遣一人乘舟招諭攻取。陸路則乞行省官陳安撫與己往禽國主、補的及攻其城。」行省猶信其言,調兵一千屯半山塔,遣子全、德堅等領軍百人,與寶脫禿花同赴大州進討,約有急則報半山軍。

子全らは城西に至る頃、宝脱禿花は約に背き間道を行き、北門より象に乗って山に遁れ入った。官軍は諜者を獲て言うには、「国主は実に鴉候山に寨を立て、兵約二万余を聚め、交趾・真臘・闍婆等国に使を遣わして兵を借り、及び賓多龍・旧州等の軍を徴しているが未だ至らず」と。十六日、万戸張顒らに兵を領させて国主の棲む境に赴かせた。十九日、顒の兵は木城に近く二十里の地に至った。賊は濠塹を浚い、大木をもって拒んだ。官軍は斬り刈り、超距して奮撃し、その二千余の衆を破った。転戦して木城の下に至るも、山林険阻にして進むことできず、賊は旁より出でて帰路を遮った。軍は皆殊死に戦い、遂に解けて還り営した。行省は遂に軍を整え糧を聚め、木城を創り、総管劉金、千戸劉涓・岳栄を遣わして守禦させた。

原文子全等比至城西,寶脫禿花背約間行,自北門乘象遁入山。官軍獲諜者曰:「國主實在鴉候山立寨,聚兵約二萬餘,遣使交趾、真臘、闍婆等國借兵,及徵賓多龍、舊州等軍未至。」十六日,遣萬戶張顒等領兵赴國主所棲之境。十九日,顒兵近(水)〔木〕城二十里。賊浚濠塹,拒以大木,官軍斬刈超距奮擊,破其二千餘眾。轉戰至木城下,山林阻隘不能進,賊旁出截歸路,軍皆殊死戰,遂得解還營。行省遂整軍聚糧,創木城,遣總管劉金,千戶劉涓、岳榮守禦。

二十一年三月六日、唆都は軍を率いて回った。十五日、江淮省の遣わした唆都軍を助ける万戸忽都虎らが占城の唆都の旧制行省舒眉蓮港に至り、営舎が焼き尽くされているのを見て、始めて官軍が既に回ったことを知った。二十日、忽都虎は百戸陳奎に命じてその国主を招き降らせた。二十七日、占城主は王通事者を遣わして来て降伏を納れることを称した。忽都虎らはその父子に表を奉じて進献するよう諭した。国主は文労卭大巴南らを遣わして来て、唆都がその国を除蕩したので貧しくて献ずるものなく、来年には礼物を備え、嫡子をして入朝せしめんと称した。四月十二日、国主はその孫の済目理勒蟄・文労卭大巴南らに表を奉じて帰順させた。

原文二十一年三月六日,唆都領軍回。十五日,江淮省所遣助唆都軍萬戶忽都虎等至占城唆都舊制行省舒眉蓮港,見營舍燒盡,始知官軍已回。二十日,忽都虎令百戶陳奎招其國主來降。二十七日,占城主遣王通事者來稱納降。忽都虎等諭令其父子奉表進獻。國主遣文勞卭大巴南等來,稱唆都除蕩其國,貧無以獻,來年當備禮物,令嫡子入朝。四月十二日,國主令其孫濟目理勒蟄、文勞卭大巴南等奉表歸款。

この年、平章政事阿里海牙に命じて鎮南王脱歓を奉じ兵を発し、交趾を仮道して占城を伐たしめようとしたが、果たして行われなかった。

原文是年,命平章政事阿里海牙奉鎮南王脫歡發兵,假道交趾伐占城,不果行。

暹

原文暹

暹国は、成宗の元貞元年に当たり、金字の表を進めて、朝廷にその国に使を遣わさんことを欲した。その表の至るに比べ、既に先に使を遣わしており、蓋し彼らは未だこれを知らなかったのである。来使に素金符を賜って佩かせ、急ぎ詔使を追わせてともに往かせた。暹人が麻里予児と旧く相讎殺していたが、この時に至って皆帰順したので、暹人に「麻里予児を傷つけることなかれ、以て爾の言を践ませよ」との旨を諭した。

原文暹國,當成宗元貞元年,進金字表,欲朝廷遣使至其國。比其表至,已先遣使,蓋彼未之知也。賜來使素金符佩之,使急追詔使同往。以暹人與麻里予兒舊相讎殺,至是皆歸順,有旨諭暹人「勿傷麻里予兒,以踐爾言」。

大徳三年、暹国主が上言して、その父が在位の時、朝廷嘗て鞍轡・白馬及び金縷衣を賜ったので、旧例に循って賜わんことを乞うた。帝は丞相完澤答剌罕の「彼は小国にして馬を賜わば、その隣の忻都の輩が朝廷を譏議するを恐る」との言により、なお金縷衣を賜うも、馬を賜わなかった。

原文大德三年,暹國主上言,其父在位時,朝廷嘗賜鞍轡、白馬及金縷衣,乞循舊例以賜。帝以丞相完澤答剌罕言「彼小國而賜以馬,恐其鄰忻都輩譏議朝廷」,仍賜金縷衣,不賜以馬。

爪哇

爪哇は海外に在り、占城より益々遠い。泉南より舟に登り海行する者は、先ず占城に至り、後にその国に至る。その風俗土産は考うべからず、大率海外の諸蕃国は多く奇宝を出し、中国に貴ばれるも、その人は則ち醜怪にして、情性言語は中国と相通ぜず。世祖は四夷を撫有し、その海外の諸蕃に出師する者は、惟だ爪哇の役を大と為す。

原文爪哇在海外,視占城益遠。自泉南登舟海行者,先至占城而後至其國。其風俗土產不可考,大率海外諸蕃國多出奇寶,取貴於中國,而其人則醜怪,情性語言與中國不能相通。世祖撫有四夷,其出師海外諸蕃者,惟爪哇之役為大。

至元二十九年二月、詔して福建行省に史弼・亦黒迷失・高興を平章政事に除し、爪哇を征討せしむ。福建・江西・湖廣の三行省の兵を合わせて凡そ二万とし、左右軍都元帥府二を設け、征行上萬戸四を置き、舟千艘を発し、糧一年分・鈔四万錠を与え、虎符十・金符四十・銀符百・金衣段百端を降し、功労の賞賜に備う。亦黒迷失ら陛辞す。帝曰く、「卿等爪哇に至り、その国の軍民に明らかに告げよ。朝廷初め爪哇と使節を通じ往来して交好せしも、後に詔使孟右丞の面を刺し、これにより進討するなり」と。九月、軍は慶元に会す。弼・亦黒迷失は省事を領し、泉州に赴く。興は輜重を率い慶元より舟に登り海を渡る。十一月、福建・江西・湖廣の三省の軍は泉州に会す。十二月、後渚より出発す。

原文至元二十九年二月,詔福建行省除史弼、亦黑迷失、高興平章政事,征爪哇;會福建、江西、湖廣三行省兵凡二萬,設左右軍都元帥府二、征行上萬戶四,發舟千艘,給糧一年、鈔四萬錠,降虎符十、金符四十、銀符百、金衣段百端,用備功賞。亦黑迷失等陛辭。帝曰:「卿等至爪哇,明告其國軍民,朝廷初與爪哇通使往來交好,後刺詔使孟右丞之面,以此進討。」九月,軍會慶元。弼、亦黑迷失領省事,赴泉州;興率輜重自慶元登舟涉海。十一月,福建、江西、湖廣三省軍會泉州。十二月,自後渚啟行。

三十年正月、構欄山に至り方略を議す。二月、亦黒迷失・孫参政は先に本省の幕官及び爪哇等処宣慰司官の曲出海牙・楊梓・全忠祖、萬戸張塔剌赤ら五百余人、船十艘を率い、先に往きてこれを招諭す。大軍は吉利門に進む。弼・興は爪哇の杜並足に進み至り、亦黒迷失らと議し、軍を分けて上陸させ、水陸並びに進む。弼(興)〔と〕孫参政は都元帥那海・萬戸寗居仁らの水軍を帥い、杜並足より戎牙路の港口を経て八節澗に至る。興と亦黒迷失は都元帥鄭鎮国・萬戸脱歓らの馬歩軍を帥い、杜並足より陸行す。萬戸申元を前鋒とす。副元帥土虎登哥、萬戸褚懐遠・李忠らに鑽鋒船に乗じ、戎牙路より麻喏巴歇の浮梁の前を進み、八節澗に赴き期日に会せしむ。

原文三十年正月,至構欄山議方略。二月,亦黑迷失、孫參政先領本省幕官并招諭爪哇等處宣慰司官曲出海牙、楊梓、全忠祖,萬戶張塔剌赤等五百餘人,船十艘,先往招諭之。大軍繼進於吉利門。弼、興進至爪哇之杜並足,與亦黑迷失等議,分軍下岸,水陸並進。弼(興)〔與〕孫參政帥都元帥那海、萬戶寗居仁等水軍,自杜並足由戎牙路港口至八節澗。興與亦黑迷失帥都元帥鄭鎮國、萬戶脫歡等馬步軍,自杜並足陸行。以萬戶申元為前鋒。遣副元帥土虎登哥,萬戶褚懷遠、李忠等乘鑽鋒船,由戎牙路,於麻喏巴歇浮梁前進,赴八節澗期會。

招諭爪哇宣撫司官言う、爪哇主の婿土罕必闍耶は国を挙げて降伏を申し出、土罕必闍耶は軍を離れ難く、先に楊梓・甘州不花・全忠祖にその宰相昔剌難答吒耶ら五十余人を引き連れて来迎せしむ、と。三月一日、軍は八節澗に会す。澗は上は杜馬班王府に接し、下は莆奔の大海に通じ、乃ち爪哇の咽喉必争の地なり。またその謀臣希寧官は河沿いに舟を泊め、成敗を観望し、再三招諭すれども降らず。行省は澗の辺に偃月営を設け、萬戸王天祥に河津を守らせ、土虎登哥・李忠らに水軍を領せしめ、鄭鎮国・省都鎮撫倫信らに馬歩軍を領せしめ、水陸並びに進む。希寧官懼れ、船を棄て夜遁す。鬼頭大船百余艘を獲る。都元帥那海・萬戸寗居仁・鄭珪・高徳誠・張受らに八節澗の海口を鎮守せしむ。

原文招諭爪哇宣撫司官言:爪哇主壻土罕必闍耶舉國納降,土罕必闍耶不能離軍,先令楊梓、甘州不花、全忠祖引其宰相昔剌難答吒耶等五十餘人來迎。三月一日,會軍八節澗。澗上接杜馬班王府,下通莆奔大海,乃爪哇咽喉必爭之地。又其謀臣希寧官沿河泊舟,觀望成敗,再三招諭不降。行省於澗邊設偃月營,留萬戶王天祥守河津,土虎登哥、李忠等領水軍,鄭鎮國、省都鎮撫倫信等領馬步軍水陸並進。希寧官懼,棄船宵遁,獲鬼頭大船百餘艘。令都元帥那海、萬戶寗居仁、鄭珪、高德誠、張受等鎮八節澗海口。

大軍方に進まんとす、土罕必闍耶、使いを遣わし来告す、葛郎王追撃して麻喏巴歇に至り、官軍の救援を請う、と。亦黒迷失・張参政は先に往きて土罕必闍耶を慰撫し、鄭鎮国は軍を引き章孤に赴きて接応す。興は麻喏巴歇に進み至るも、却って葛郎の兵の遠近を知らずと称し、興は八節澗に戻る。亦黒迷失、尋いで賊兵今夜当に至らんと報ず。興を召し麻喏巴歇に赴かしむ。

原文大軍方進,土罕必闍耶遣使來告,葛郎王追殺至麻喏巴歇,請官軍救之。亦黑迷失、張參政先往安慰土罕必闍耶,鄭鎮國引軍赴章孤接援。興進至麻喏巴歇,却稱葛郎兵未知遠近,興回八節澗。亦黑迷失尋報賊兵今夜當至,召興赴麻喏巴歇。

七日、葛郎の兵三路より土罕必闍耶を攻む。八日黎明、亦黒迷失・孫参政は萬戸李明を率いて賊を西南に迎え撃つも、遇わず。興と脱歓は東南路より賊と戦い、数百人を殺し、余は山谷に奔潰す。日中、西南路の賊また至る。興再び戦いて晡時に至り、またこれを破る。十五日、軍を分かち三道として葛郎を伐ち、十九日答哈に会し、砲声を聴きて戦うを期す。土虎登哥らの水軍は流れを遡り上り、亦黒迷失らは西道より、興らは東道より進み、土罕必闍耶の軍はその後に続く。十九日、答哈に至る。葛郎国主、兵十余万を以て交戦す。卯より未に至るまで、三たび戦い連ね、賊敗れて奔潰し、河に擁入りて死する者数万人、五千余人を殺す。国主は内城に入り拒守す。官軍これを囲み、且つその降伏を招く。この夕、国主哈只葛当出でて降る。撫諭して還らしむ。

原文七日,葛郎兵三路攻土罕必闍耶。八日黎明,亦黑迷失、孫參政率萬戶李明迎賊於西南,不遇。興與脫歡由東南路與賊戰,殺數百人,餘奔潰山谷。日中,西南路賊又至,興再戰至晡,又敗之。十五日,分軍為三道伐葛郎,期十九日會答哈,聽砲聲接戰。土虎登哥等水軍泝流而上,亦黑迷失等由西道,興等由東道進,土罕必闍耶軍繼其後。十九日,至答哈。葛郎國主以兵十餘萬交戰,自卯至未,連三戰,賊敗奔潰,擁入河死者數萬人,殺五千餘人。國主入內城拒守,官軍圍之,且招其降。是夕,國主哈只葛當出降,撫諭令還。

四月二日、土罕必闍耶を遣わしその地に還らしめ、入貢の礼を具えしむ。萬戸捏只不丁・甘州不花に兵二百を率いて護送せしむ。十九日、土罕必闍耶背叛して逃去し、軍を留めて拒戦す。捏只不丁・甘州不花・省掾馮祥皆害に遇う。二十四日、軍還る。哈只葛当の妻子官属百余、及び地図戸籍・上進の金字表を得て以て還る。事は史弼・高興伝に見ゆ。

原文四月二日,遣土罕必闍耶還其地,具入貢禮,以萬戶捏只不丁、甘州不花率兵二百護送。十九日,土罕必闍耶背叛逃去,留軍拒戰。捏只不丁、甘州不花、省掾馮祥皆遇害。二十四日,軍還。得哈只葛當妻子官屬百餘人,及地圖戶籍、所上金字表以還。事見史弼、高興傳。

瑠求

瑠求は、南海の東に在り。漳・泉・興・福の四州の界内にある彭湖諸島は、瑠求と相対し、亦た素より通ぜず。天気清明の時、これを望むに隠約として煙の若く霧の若し。その遠きこと幾千里なるを知らず。西南北の岸は皆水なり。彭湖に至りて漸く低く、瑠求に近づけば則ちこれを落漈と謂う。漈とは水下に向かいて回らざるなり。凡そ西岸の漁舟、彭湖に到りて已下、颶風の発作に遇い、漂流して落漈すれば、回る者は百に一なり。瑠求は、外夷の中にて最も小さくして険しき者なり。漢・唐以来、史に載せざる所、近代諸蕃の市舶その国に至ると聞かず。

原文瑠求,在南海之東。漳、泉、興、福四州界內彭湖諸島,與瑠求相對,亦素不通。天氣清明時,望之隱約若煙若霧,其遠不知幾千里也。西南北岸皆水,至彭湖漸低,近瑠求則謂之落漈,漈者水趨下而不回也。凡西岸漁舟到彭湖已下,遇颶風發作,漂流落漈,回者百一。瑠求,在外夷最小而險者也。漢、唐以來,史所不載,近代諸蕃市舶不聞至其國。

世祖至元二十八年九月、海船副萬戸楊祥、六千の軍を以て往きてこれを降伏せしめ、命を聴かざれば則ち遂にこれを伐たんことを請う。朝廷その請いに従う。継いて書生の呉志斗なる者上言す、福建に生長し、海道の利害を熟知す。若し収附せんと欲せば、且つ彭湖に就きて船を発し往きて諭し、水勢地利を相し、然る後に兵を興すも未だ晩からず、と。冬十月、乃ち楊祥を宣撫使に充て、金符を与え、呉志斗を礼部員外郎とし、阮鑒を兵部員外郎とし、並びに銀符を与え、瑠求に往きて使せしむ。詔して曰く、「江南を収撫すること已に十七年、海外の諸蕃臣属せざるは無し。惟だ瑠求は閩境に邇く、未だ曾て帰附せず。議者即ち兵を加うるを請う。朕惟うに祖宗の法を立て、凡そ庭にせざるの国には、先ず使を遣わし招諭し、来れば則ち按堵故の如く、然らずば必ず征討を致す。今その兵を止め、楊祥・阮鑒を命じ汝が国を諭し往かしむ。果たして義を慕い来朝せば、爾が国祀を存し、爾が黎庶を保たん。若し効順せず、自ら険阻を恃み、舟師奄かに及ばば、後悔を貽すを恐る。爾其れ慎みてこれを択べ」と。

原文世祖至元二十八年九月,海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之,不聽命則遂伐之,朝廷從其請。繼有書生吳志斗者上言生長福建,熟知海道利病,以為若欲收附,且就彭湖發船往諭,相水勢地利,然後興兵未晚也。冬十月,乃命楊祥充宣撫使,給金符,吳志斗禮部員外郎,阮鑒兵部員外郎,並給銀符,往使瑠求。詔曰:「收撫江南已十七年,海外諸蕃罔不臣屬。惟瑠求邇閩境,未曾歸附。議者請即加兵。朕惟祖宗立法,凡不庭之國,先遣使招諭,來則按堵如故,否則必致征討。今止其兵,命楊祥、阮鑒往諭汝國。果能慕義來朝,存爾國祀,保爾黎庶;若不效順,自恃險阻,舟師奄及,恐貽後悔。爾其慎擇之。」

二十九年三月二十九日、汀路尾澳より舟行し、この日の巳時に至る。海洋の中、正東に山長くして低きもの有るを見る。約す五十里去る。祥は是れ瑠求国なりと称し、鑒は確かならざるを知らずと称す。祥は小舟に乗り低き山の下に至る。その人衆なるを以て、親しく上らず、軍官劉閏ら二百余人に小舟十一艘を以て軍器を載せ、三嶼人の陳煇なる者を領して登岸せしむ。岸上の人衆、三嶼人の語を解せず、そのために殺害せらるること三人、遂に還る。四月二日、彭湖に至る。祥は鑒・志斗を責め「已に瑠求に到る」の文字を求めしも、二人従わず。明日、志斗の蹤跡を見ず、これを求めしも有らず。先に、志斗嘗て祥が事を生じ功を要し、富貴を取らんと欲すと斥言し、その言誕妄にして信じ難しとせしが、ここに至り、祥がこれを害せしを疑う。祥は顧みて志斗が初め瑠求に往くべからずと言いしも、今祥已に瑠求に至りて還る。志斗は罪を懼れて逃去す、と称す。志斗の妻子、官に訴う。旨有り、祥・鑒を発して還し福建に置き対決せしむ。後に赦に遇い、その事を竟えず。

原文二十九年三月二十九日,自汀路尾澳舟行,至是日巳時,海洋中正東望見有山長而低者,約去五十里。祥稱是瑠求國,鑒稱不知的否。祥乘小舟至低山下,以其人眾,不親上,令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘,載軍器,領三嶼人陳煇者登岸。岸上人眾不曉三嶼人語,為其殺死者三人,遂還。四月二日,至彭湖。祥責鑒、志斗「已到瑠求」文字,二人不從。明日,不見志斗蹤跡,覔之無有也。先,志斗嘗斥言祥生事要功,欲取富貴,其言誕妄難信,至是,疑祥害之。祥顧稱志斗初言瑠求不可往,今祥已至瑠求而還,志斗懼罪逃去。志斗妻子訴于官。有旨,發祥、鑒還福建置對。後遇赦,不竟其事。

成宗元貞三年、福建省平章政事高興が言上した。今、省を泉州に置いているが、瑠求に近い。その消息を窺い、招撫すべきか討伐すべきかを判断でき、他から兵力を調達する必要はない。高興は近くで試みることを請うた。九月、高興は省都鎮撫張浩と福州新軍萬戸張進を瑠求国に派遣し、生口(捕虜)一百三十余人を捕らえた。

原文成宗元貞三年,福建省平章政事高興言,今立省泉州,距瑠求為近,可伺其消息,或宜招宜伐,不必它調兵力,興請就近試之。九月,高興遣省都鎮撫張浩、福州新軍萬戶張進赴瑠求國,禽生口一百三十餘人。

三嶼

三嶼国は、瑠求に近い。世祖至元三十年、人を選んでこれを招誘するよう命じた。平章政事伯顏らが言上した。「臣らと識者と議したところ、この国の民は二百戸に満たず、時に泉州に来て商売をする者がいる。去年、瑠求に入った際、軍船がその国を通ったが、国人は糧食を供給し、我が将校を宿泊させ、他意はなかった。使者を派遣しないよう乞う。」帝はこれに従った。

原文三嶼國,近瑠求。世祖至元三十年,命選人招誘之。平章政事伯顏等言:「臣等與識者議,此國之民不及二百戶,時有至泉州為商賈者。去年入瑠求,軍船過其國,國人餉以糧食,館我將校,無它志也。乞不遣使。」帝從之。

馬八兒等国

原文馬八兒等國

海外の諸蕃国の中で、馬八兒と俱藍だけが諸国を統率するに足り、而して俱藍はまた馬八兒の後方の障壁である。泉州からその国までは約十万里。その国から阿不合大王城までは、水路で順風を得れば約十五日で到着でき、他の国々に比べて最も大きい。

原文海外諸蕃國,惟馬八兒與俱藍足以綱領諸國,而俱藍又為馬八兒後障,自泉州至其國約十萬里。其國至阿不合大王城,水路得便風,約十五日可到,比餘國最大。

世祖至元年間、行中書省左丞唆都らが璽書十通を奉じて、諸蕃を招諭した。間もなく、占城・馬八児国はともに表を奉じて藩属と称したが、その他の俱藍などの国々は未だ降伏しなかった。行省は使者十五人を派遣して諭すことを議した。帝は言った。「これは唆都らが専断できることではない。朕の命令がなければ、勝手に使者を派遣してはならない。」

原文世祖至元間,行中書省左丞唆都等奉璽書十通,招諭諸蕃。未幾,占城、馬八兒國俱奉表稱藩,餘俱藍諸國未下。行省議遣使十五人往諭之。帝曰:「非唆都等所可專也,若無朕命,不得擅遣使。」

十六年十二月、広東招討司達魯花赤楊庭璧を派遣して俱藍を招いた。

原文十六年十二月,遣廣東招討司達魯花赤楊庭璧招俱藍。

十七年三月、その国に到着した。国主必納的はその弟肯那却不剌木省に命じて、回回字の降表を書かせ、楊庭璧に託して進上させ、来年使者を派遣して入貢すると言った。十月、哈撒児海牙を俱藍国宣慰使に任じ、楊庭璧とともに再び往き招諭させた。

原文十七年三月,至其國。國主必納的令其弟肯那却不剌木省書回回字降表,附庭璧以進,言來歲遣使入貢。十月,授哈撒兒海牙俱藍國宣慰使,偕庭璧再往招諭。

十八年正月、泉州から海に入り、三ヶ月航行して僧伽耶山に着いた。船人鄭震らが風に阻まれて糧食が乏しいことを理由に、馬八児国へ行き、あるいは陸路を借りて俱藍国に至ることを勧めたので、これに従った。四月、馬八児国新村馬頭に至り、上陸した。その国の宰相馬因的が言った。「官人(使者)のこの度の来訪は誠に善い。本国の船が泉州に着いた時、官司もまた慰労してくれたが、報いるものがない。今、何事でここに来られたのか。」楊庭璧らはその理由を告げ、ついでに陸路通過のことを言及した。馬因的は通じないことを理由に辞退した。その宰相不阿里と会見し、また陸路通過のことを言った。不阿里もまた他の事を理由に辞退した。五月、二人(馬因的と不阿里か)が早朝に宿舎に来て、人を退け、その官者に命じて実情を通じさせた。「朝廷に伝えて頂きたい。私は一心に皇帝の奴隷となることを願っている。我が使者札馬里丁が入朝した際、我が大必闍赤が算彈(国主の意)の許へ赴き、変事を告げた。算彈は我が金銀・田産・妻子を没収し、また私を殺そうとしたが、私は詭弁を用いて免れた。今、算彈の兄弟五人皆が加一の地に集まり、俱藍と交戦することを議している。及び天使が来たと聞き、衆に向かって本国は貧しく粗末であると称した。これは妄言である。凡そ回回国の金珠宝貝は尽く本国より出て、その他の回回は皆商売に来る。ここに諸国は皆降伏の心がある。もし馬八児が既に下れば、我が使人が書を持って招けば、皆降伏させることができる。」この時、哈撒児海牙と楊庭璧は風に阻まれて俱藍に至らず、遂に帰還した。哈撒児海牙は入朝して事を計り、十一月の北風を期して再び挙行することとした。期日に至り、朝廷は使者を遣わし、楊庭璧に単独で往かせた。

原文十八年正月,自泉州入海,行三月,抵僧伽耶山,舟人鄭震等以阻風乏糧,勸往馬八兒國,或可假陸路以達俱藍國,從之。四月,至馬八兒國新村馬頭,登岸。其國宰相馬因的謂:「官人此來甚善,本國船到泉州時官司亦嘗慰勞,無以為報。今以何事至此?」庭璧等告其故,因及假道之事,馬因的乃託以不通為辭。與其宰相不阿里相見,又言假道。不阿里亦以它事辭。五月,二人蚤至館,屏人,令其官者為通情實:「乞為達朝廷,我一心願為皇帝奴。我使札馬里丁入朝,我大必闍赤赴算彈華言國主也。告變,算彈籍我金銀田產妻孥,又欲殺我,我詭辭得免。今算彈兄弟五人皆聚加一之地,議與俱藍交兵;及聞天使來,對眾稱本國貧陋。此是妄言。凡回回國金珠寶貝盡出本國,其餘回回盡來商賈。此間諸國皆有降心,若馬八兒既下,我使人持書招之,可使盡降。」時哈撒兒海牙與庭璧以阻風不至俱藍,遂還。哈撒兒海牙入朝計事,期以十一月俟北風再舉。至期,朝廷遣使令庭璧獨往。

十九年二月、俱藍国に到着した。国主及びその宰相馬合麻らが璽書を迎えて拝礼した。三月、その臣祝阿里沙忙里八的を派遣して入貢させた。この時、也里可温(キリスト教徒)の兀咱児撒里馬及び木速蠻(イスラム教徒)の主馬合麻らもまたその国にいて、詔使の到着を聞き、皆相率い来たりて歳幣を納め、使者を派遣して入覲することを願い告げた。丁度蘇木達国もまた人を遣わし、俱藍の主を通じて降伏を乞うたので、楊庭璧は皆その請いに従った。四月、還る途中那旺国に至った。楊庭璧はまた説得してその主忙昂比を降伏させた。蘇木都剌国に至ると、国主土漢八的が使者を迎えた。楊庭璧はそこで大意を諭したところ、土漢八的は即日に款を納めて藩属と称し、その臣哈散・速里蠻の二人を派遣して入朝させた。

原文十九年二月,抵俱藍國。國主及其相馬合麻等迎拜璽書。三月,遣其臣祝阿里沙忙里八的入貢。時也里可溫兀咱兒撒里馬及木速蠻主馬合麻等亦在其國,聞詔使至,皆相率來告願納歲幣,遣使入覲。會蘇木達國亦遣人因俱藍主乞降,庭璧皆從其請。四月,還至那旺國。庭璧復說下其主忙昂比。至蘇木都剌國,國主土漢八的迎使者。庭璧因喻以大意,土漢八的即日納款稱藩,遣其臣哈散、速里蠻二人入朝。

二十年、馬八児国が僧撮及班を派遣して入朝した。五月、上京に将に到らんとする時、帝は即ち使者を遣わし、途中で迎えさせた。

原文二十年,馬八兒國遣僧撮及班入朝;五月,將至上京,帝即遣使迓諸途。

二十三年、海外の諸蕃国は楊庭璧が詔を奉じて招諭したため、この時に至って皆来降した。諸国は凡そ十:馬八児、須門那、僧急里、南無力、馬蘭丹、那旺、丁呵児、来来、急蘭亦䚟、蘇木都剌で、皆使者を派遣して方物を貢いだ。

原文二十三年,海外諸蕃國以楊庭璧奉詔招諭,至是皆來降。諸國凡十:曰馬八兒,曰須門那,曰僧急里,曰南無力,曰馬蘭丹,曰那旺,曰丁呵兒,曰來來,曰急蘭亦䚟,曰蘇木都剌,皆遣使貢方物。