高麗
高麗は本来箕子の封ぜられた地であり、また扶餘の別種がかつて居住した。その地は東は新羅に至り、南は百濟に至り、いずれも大海を跨ぎ、西北は遼水を渡って営州に接し、靺鞨はその北にある。その国都を平壤城といい、すなわち漢の楽浪郡である。水は靺鞨の白山より出づるものあり、鴨淥江と号し、平壤はその東南にあり、これに恃んで険と為す。後に地を開き益々広くし、古の新羅、百濟、高句麗の三國を併せて一と為す。その主は高氏を姓とし、初め国を立ててより唐の乾封初年に至りて国亡ぶ。垂拱以来、子孫復たその地を封ぜられ、後に稍々自立する能う。五代時に至り、代々その国を主とし松岳に都を遷す者は、王氏を姓とし、名は建という。建より燾に至るまで凡そ二十七王、四百餘年を歴て未だ嘗て姓を易えず。
四年正月、帝は使いを遣わし璽書を以て㬚を諭す。三月、㬚は中郎将池義源、録事洪巨源、金謙等を遣わし国贐の牒文を齎し撒禮塔の屯所に送る。四月、㬚は其の将軍趙叔(章)〔昌〕、御史薛慎等を遣わし表を奉じて朝に入る。五月、復た詔を下してこれを諭す。六月、㬚は朝廷の置く所の達魯花赤七十二人を尽く殺して以て叛き、遂に王京及び諸州県の民を率いて海島に竄る。洪福源は余民を集めて保聚し、以て大兵を俟つ。八月、復た撒禮塔を遣わし兵を領いてこれを討たしむ。王京の南に至り、其の処仁城を攻む。流矢に中り卒す。別将鉄哥、軍を以て還る。其の已に降れる人は福源に領せしむ。十月、㬚は其の将軍金寶鼎、郎中趙瑞章を遣わし上表して情を陳ぶ。
五年四月、詔して㬚を諭し悔過して来朝せしめ、且つ其の五罪を数う。「契丹賊を平げ、劄剌を殺して後より、未だ嘗て一介を闕に赴かさず、罪一なり。命使をして訓言を齎し省諭せしむるに、輒ち敢えて射り返す、罪二なり。爾等は着古歟を謀害し、乃ち万奴の民戸これを殺すと称す、罪三なり。汝に進軍を命じ、仍って汝弼に入朝せしむるに、爾敢えて抗拒し、諸の海島に竄る、罪四なり。汝等の民戸は拘わらず見数を集むるに、輒ち敢えて妄奏す、罪五なり。」十月、㬚は復た兵を遣わし已に附せる西京等処の降民を攻め陥れ、洪福源の家を劫う。
六年、福源は請いを得、其の降民を領して東京に遷居す。佩金符を賜う。
七年、唐古と洪福源を命じ兵を領いてこれを征せしむ。
九年、其の龍岡、咸從等十餘城を抜く。
十年五月、其の国人趙玄習、李元祐等、二千人を率いて迎え降る。命じて東京に居らしめ、洪福源の節制を受けしめ、且つ御前の銀符を賜い、玄習等にこれを佩せしめ、以て未だ降らざる民戸を招かしむ。又李君式等十二人来り降る。これを玄習の如く待つ。十二月、㬚は其の将軍金寶鼎、御史宋彥琦等を遣わし表を奉じて朝に入る。
十一年五月、詔して㬚を徴し入朝せしむ。㬚は母喪を以て辞す。六月、乃ち其の礼賓卿盧演、礼賓少卿金謙を遣わし進奉使、副を充て、表を奉じて朝に入る。十月、旨有り、㬚を諭し、其の親朝を明年に徴す。十二月、㬚は其の新安公王佺と寶鼎、彥琦等百四十八人を遣わし表を奉じて入貢す。
我が太祖皇帝は大業を開き、聖なる天子が相承し、代々に大勲を有し、群雄を芟夷し、四海を奄有したが、専ら殺戮を嗜むことはなかった。凡そ属国列侯、分茅錫土し、祚を子孫に伝える者は、万里に及ぶも、いずれも向こうの強敵ではなかったか。これを観れば、祖宗の法は言を待たずして章章たるものである。今、普天の下で未だ臣服しない者は、ただ爾が国と宋のみである。宋の恃むところは長江であるが、長江は険を失い、藉るところは川・広であるが、川・広は支えきれない。辺境の戍兵は自らその藩籬を撤し、大軍はすでにその心腹に駐屯し、鼎魚幕燕、滅亡は旦夕に迫っている。
爾は初め世子として幣を奉り款を納め、身を束ねて帰朝し、哀しみを含んで命を請うたのは、まことに憐れむべきである。故に帰国させ、旧疆を完復し、爾の田疇を安んじ、爾の室家を保ち、好生の大徳を弘め、宿構の細故を捐てるのである。これをもってすでに辺将を戒飭し、兵を斂めて命を待たしめた。東方が既定すれば、すなわち戈を回して銭塘に向かうであろう。半年余りを経て、爾が国内乱し盟に背いたことを知り、辺将が再び戒厳を請うた。これは何故か。もし果たして内乱であるならば、権臣は何故自ら立たず、世孫を立てたのか。もし伝聞の誤りであるならば、世子は何故国に帰らず、境上に盤桓しているのか。はたまた世子の帰国が期に遅れたため、左右が自ら猜疑し、私憂過計してこのようになったのか。重ねて島嶼の残民が久しく塗炭に罹っていることを思い、窮兵極討するは、およそ本心ではない。かつ御するにその道を失えば、天下の狙詐ことごとく敵となり、赤心を推して人の腹中に置けば、反側の輩自ら安んずるであろう。悠悠たる言、また何ぞ校ふるに足らん。辺閫に命を申し、予の衷より断じ、逋逃をもって執政を間わず、飛語をもって定盟を乱さず。ただ事を推誠にし、一切問わない。宜しく曠蕩の恩を施し、遐邇の化を一新すべきである。尚書金仁雋以下、中外の枝党・官吏・軍民、聖旨到日の以前に、あるいは首謀して内乱し、旅拒して王師に抗し、すでに降附してまた叛き、仇讎によりて擅に殺し、帰する所なくして主に背き亡命し、已むを得ずして衆に随い脅従した者、国中の人で但だ曾て法を犯した者は、罪の軽重を問わず咸く赦除する。
世子はその趣装命駕し、帰国して政を知り、仇を解き憾を釈し、徳を布き恩を施せ。惟うに瘡痍の民は、まさに撫綏すべき日にあり、彼の滄溟を出で、平壤に宅すべし。刀剣を売りて牛犢を買い、干戈を捨てて耒耜を操り、凡そ援済すべきことは、勤労を憚るなかれ。苟くも富庶の徴あらば、礼義の復すべきことを冀い、亟に疆界を正し、以て民心を定めよ。我が師は復た限を踰えざるであろう。大号一出、朕は食言せず。復た敢えて乱を踵ぎ上を犯す者有らば、爾が主に干するにあらず、乃ち我が典刑を乱す者なり。国に常憲あり、人これを誅すべし。於戲、世子よ、その王たれ。往け、欽せよ。恭しく丕訓を承け、永く東藩たらんことを、以て我が休命を揚げよ。
四月、また旨を降して倎に諭して曰く、「朕は天命を祇若し、祖宗の休烈を承くことを獲、仰ぎ惟うに覆燾は、一視同仁にして、遐邇小大の間なきなり。爾が帰款するにより、既に冊して王とし国に還した。今、爾と辺将との書を得て、これによりその上下の情を知るに、朕甚だ憫む。」倎は水を出で陸に就き、軍馬の侵擾を免れ、虜われた者及び逃民を還すことを求め、皆これに従った。詔して師を班し、乃ちその境内を赦した。六月、倎はその子永安公僖・判司宰事韓即を遣わし、即位を賀し、国王の封冊・王印及び虎符を賜う。この月、また詔を下してこれを撫諭した。
四年二月、禃が詔書に答えなかったため、その使者を詰問した。禃は表を奉り、民生が稍く集まるを俟って、然る後に惟命に従うことを乞うた。帝はその辞意が懇実であるとして、これを允した。朝貢の物数も、またその力に称することを命じた。三月より六月に至るまで、禃は凡そ三度使を遣わし入貢し、禃に羊五百を賜うた。十一月、禃は駅を置き民を籍することを免じられた等の事により、その翰林学士韓就を遣わし表を奉って入謝した。
四年正月、禃は君斐等を遣わし表を奉り黒的等に従って入朝した。六月、帝は禃が辞を飾ったとして、去った使者を徒らに還らせ、また黒的と君斐等を遣わし詔をもって禃を諭し、日本事を委ね、必ずその要領を得るを期とした。九月、禃はその起居舎人潘阜・書状官李挺を国信使に充て、書を持たせて日本に詣らせた。
四月、禃はその門下侍郎李蔵用を遣わし、表を奉じて也孫脱らとともに入朝させた。五月、帝は蔵用に勅して言った、「往って爾が主に諭せ。速やかに軍数を実状奏上せよ。人を遣わしてこれを督するであろう。今、軍を出すに当たり、爾らは必ずや何れの地に出るかを疑うであろう。あるいは南宋を欲し、あるいは日本を欲する。爾が主は舟一千艘を造るべし。大海を渡ることができ、四千石を載せられるものである。」蔵用は言った、「舟艦の事は即時に応命すべきですが、ただ人民が残り少なく、期に及ばないことを恐れます。かつて臣が国には軍四万がありましたが、三十余年の間に兵疫で死に、今はただ牌子頭、五十戸、百戸、千戸の類の虚名があるだけで、軍卒はおりません。」帝は言った、「死者もあれば、生者もある。」蔵用は言った、「聖徳に頼り、撤兵以来、生長した者はわずか十歳に過ぎません。」帝はまた言った、「爾の国から来る者の言うところによれば、海中の事は、宋に対しては順風を得れば三日で至ることができ、日本は朝に出発して夕に至る。舟中に米を載せ、海中で魚を捕って食すれば、どうして行くことができないことがあろうか。」また蔵用に勅して言った、「帰ってこの言葉をもって爾が主に諭せ。」
七月、詔して都統領脱朶児、武徳将軍統領王国昌、武略将軍副統領劉傑らをその国に使いさせ、その来朝した大将軍崔東秀と同行させた。八月、その国に至り、禃は昇天府を出てこれを迎えた。これは軍を閲し船を造ることを諭すためである。九月、禃の表奏により潘阜らが使節として奉じて功なくして還ったことを以て、また黒的らを遣わして日本に使いさせ、詔して禃に重臣を遣わして導送させた。十二月、禃はその知門下省事申思佺、礼部侍郎陳井、起居舎人潘阜らを遣わし、国信使黒的らに従って日本に赴かせ、礼部侍郎張鎰を借りて表を奉じて脱朶児に従って入朝させた。
六年正月、禃はその大将軍康允紹を遣わし、表を奉じて権臣金俊らを誅したことを奏上した。三月、禃はまた申思佺を遣わし、表を奉じて黒的について入朝させた。六月、禃はその世子愖を遣わして入朝させた。禃に玉帯一を賜い、愖に金五十両を賜い、従官に銀幣を差等ありて賜った。七月、帝は明威将軍都統領脱朶児、武徳将軍統領王国昌、武略将軍副統領劉傑を遣わし、耽羅等処の道路を視察させ、詔して禃に官を選んで導達させた。これは人の言うところに耽羅の海道は南宋・日本へ往くことが甚だ容易であるからである。
八月、世子愖が朝に至り、本国の臣下が擅に禃を廃しその弟安慶公淐を立てたことを奏上した。詔して使臣斡朶思不花、李諤らを遣わし、その国に至って詳しくこれを問わせた。九月、その枢密院副使金方慶が表を奉じて斡朶思不花らについて入朝した。枢密院御史台が奏上したところによれば、世子愖が言うには、「朝廷もし出征なさるならば、軍三千を整え、糧五箇月を備えることができます。もし官軍が国境に入れば、臣は宜しくともに往き、庶幾くは驚擾しないようにすべきです。」帝はこれを然りとした。詔して世子禃に特進・上柱国を授け、愖に勅して兵三千を率いてその国の難に赴かせた。抄不花を命じてその国を征させようとしたが、病のため果たせず、詔して蒙哥都を遣わしてこれに代えさせた。
十月、帝は禃・淐の廃立が林衍のなしたところであるとして、中憲大夫兵部侍郎黒的、淄萊路総管府判官徐世雄を遣わし、詔して禃・淐・衍らに十二月に同じく闕下に詣で、面と向かって情実を陳べ、その是非を聴かせた。また国王頭輦哥らを遣わし兵を率いて国境に圧させ、もし期を過ぎて至らなければ、即時に首悪を窮めて治め、兵を進めて勦戮すべしとした。趙璧を行中書省として東京に置き、なお詔して高麗国の軍民に諭した。十一月、高麗都統領崔坦らは林衍が乱を起こしたことを以て、西京五十余城を携えて入附した。断事官別同瓦を馳駅して王綧・洪茶丘の管する実科差戸内に軍を簽し東京に至らせ、枢密院に付して三千三百人を得た。高麗西京都統李延齢が兵を増やすことを乞うたので、忙哥都を遣わし兵二千を率いてこれに赴かせた。
枢密院の臣が高麗征討の事を議した。初め、馬亨は「高麗は、もと箕子の封ぜられた地であり、漢・晋はいずれも郡県とした。今、朝に来たとはいえ、その心は測り難い。兵を厳しくして仮道し、日本を取ることを名目として、勢いに乗じてその国を襲い、郡県と定めるに如くはない」と考えた。亨はまた言った、「今、すでに釁端がある以上、兵を遣わしてこれを伐つべきではない。万一勝たなければ、上は国威を損ない、下は士卒を損なう。彼らがもし上表して情を述べるならば、その罪戾を赦し、その貢献を減じて、その民を安撫し、庶幾くは聖化を感慕させるべきである。南宋がすでに平定されるのを待ち、彼らに他志があれば、兵を回してこれを誅するも、また未だ晩くはない。」前枢密院経歴馬希驥もまた言った、「今の高麗は、古の新羅・百済・高句麗の三国が併せて一つとなったものである。大抵、藩鎮の権が分かれれば制し易く、諸侯が強盛であれば臣とし難い。彼の州城の軍民の多寡を験し、離して二つとし、その国を分治して、権を侔え勢を等しくさせ、自ら相維制すれば、徐々に良図を議し、また区処し易いであろう。」黒的らがその国に至り、禃は詔を受けて復位し、礼部侍郎朴烋を借りて黒的らに従い表を奉じて入朝させた。十二月、乃ち親しく京師に朝した。
七年正月、使者を遣わして言うには、「先に詔を奉じ、臣は既に位に復し、七百人を従えて入朝せよと命ぜられました」と。詔して四百人を従えて来朝せしめ、残りは西京に留め置かせた。詔して西京を内属させ、東寧府と改め、慈悲嶺を境界と定め、忙哥都を安撫使とし、虎符を佩かせ、兵を率いてその西境を守備させた。詔してその国の僚属・軍民に林衍を討伐する理由を諭し、その大意は次のようであった。「朕即位以来、汝が国が久しく兵乱に苦しむを哀れみ、汝が主を冊定し、兵戍を撤還し、十年の間、撫護安全を図ることに至らざる所はなかった。図らずも逆臣林衍自ら不靖を為し、擅に国王禃を廃易し、脅迫して安慶公淐を立て、詔して闕下に赴かせしめたが、また遅延して出でず、どうして釈して誅さずにおられようか。既に行省を遣わして兵を率い東下させ、ただ林衍一身を討つものである。その安慶公淐は本来やむを得ぬところ、在所寛宥すべきである。その余の脅従詿誤の者は、一切問わない。」二月、軍を遣わして禃を送り国に就かせ、詔して高麗国の官吏・軍民に諭して言うには、「朕は思うに、臣が君に事えるには、死すとも二心なし、思いがけず汝が国の権臣が敢えて擅に国主を廃す。彼は既に兵衆を駆り率い、将に汝が衆を危擾不安に致さんとし、汝が黎庶の故を以て、特に兵を遣わし国王禃を護送して還国せしめ、旧京に奠居せしめ、達魯花赤を命じて共に往き鎮撫せしめ、以て汝が邦を靖んずる。ただ汝が東土の人は、汝のためであることを知らず、必ず疑懼を生ずるであろうが、汝が衆は皆畏れることなく、按堵故の如くあるべし。既に別に将帥に勅し、厳に兵士を戒めて侵犯せしめない。汝もし妄動すれば、汝が妻子及び汝が身は俘略に致されるべきである、宜しくこれを審らかに思うべし。」
初め、旨有りて頭輦哥に行省をして西京に駐屯せしめ、忙哥都・趙良弼を以て安撫使と為し、禃と共にその京に入らしめた。既にしてまた行省をしてその王京に入らしめ、脱(脱)朵児を以てその国の達魯花赤と為し、安撫司を罷めた。四月、東京行尚書省の軍は西京に近づき、徹徹都等を遣わし、禃の臣鄭子璵等と共に省札を持たせて高麗国令公林衍を召す。使者還りて言うには、「衍は既に死し、子の惟茂が令公の位を襲う。その国の侍郎洪文(係)〔系〕・尚書宋宗礼が惟茂及び衍の婿崔宗(玿)〔紹〕を殺す。惟茂の弟惟(䄄)〔栶〕自ら剄す。衍の党裴仲孫等また余衆を集め、禃の庶族承化侯を立てて王と為し、珍島に竄入す」と。大軍は王京西関城に次し、人を遣わして林衍の妻子を収繫す。行省は禃と議りて江華島の居民を王京に遷し、なお詔を宣して撫綏すべきことを禃に告げたが、禃は従わず、ついにその旧京に入居して初めて行省の議に従った。六月、禃は人を遣わして報じて、朝廷の逃軍と承化侯を奉ずる者が三別抄軍を以て叛く有りと。世子愖また言うには、「叛兵は江華島を拠る、宜しく軍を率い水陸より進撃すべし」と。禃はまた報じて叛兵は悉く遁去せりと。世子愖言うには、「叛兵は府庫を劫し、図籍を焼き、海中に逃入す」と。行省は人をして江華島中の百姓が皆空なるを覘わしむるに、島の東南、相距ること約四十里、叛兵は船に乗り風を候い、勢い遁れんとす。ここにおいて即ち乃顔に命じて衆を率いこれを追撃せしむ。七月、丞相安童等言う、頭輦哥等は大托・忙古䚟を遣わし来たりて言う、阿海に軍一千五百を領せしめ、王京に屯してその国中を伺察せしむべしと。ここにおいて阿海を安撫使と為す。十一月、中書省臣言う、高麗に屯田経略司を設置すべしと。忻都・史枢を以て鳳州等処経略使と為し、虎符を佩かせ、軍五千を領して金州に屯田せしむ。また洪茶丘をして旧領の民二千を以て屯田せしめ、阿剌帖木児を副経略司と為し、これを総轄せしめ、阿海の軍を罷む。
閏十一月、世子愖還る。詔有りて禃に諭し、その陪臣元傅等が妄りに頭輦哥国王を頭行省官員と為す数事を奏し、及びその国が私に南宋・日本と交通し、また往年言う所の兵を括り船を造ることは今に至るも未だ成效無く、かつこれより以往或いは先ず南宋に事有り、或いは先ず日本に事有らん、兵馬・船艦・資糧は早く宜しく措置すべしと。是の月、また禃に詔して曰く、「嚮に嘗て信使を遣わし日本に通問せしむ、執迷固く善言を以て開諭し難きを謂わず、これ卿の知る所なり。将に彼を経略せんとし、有司に勅して卒を発し屯田せしめ、進取の計と為し、庶幾くは爾が国他日の転輸の労を免れしめん。なお使を遣わし書を持たせ、先ず招懐を示す。卿は其れ心を悉くし慮を尽くし、方略を賛せしめ、成るを期し、以て朕が意に称えよ」と。初め、林衍の変に、百姓驚擾す、ここに至り詔を下してこれを撫慰す。
十二月、詔して禃に諭し、使を送り日本に通好せしめ、曰く、「朕は惟うに日本は昔より中国と通好し、実に相密邇す、故に嘗て卿に詔して去使を導達せしめ、信を講じ睦を修めしめんとす、その疆吏に梗まれて、竟に朕が心を明諭するを得ず。後に林衍の乱を以ての故に、暇あって及ばず。今既に爾が家を輯寧す、少中大夫・秘書監趙良弼を遣わし国信使と充て、必達を期す。なお忽林赤・王国昌・洪茶丘を以て兵を将い海上に送り抵らしむ。国信使の還るに比し、姑く金州等処に屯駐せしむ。所需の糧餉は、卿専ら官を委して彼に赴き、逐近これを供給し、并せて金州旁左の船艦を鳩集し、金州に於いて需待せしめ、稽緩匱乏を致すこと無からしめよ」と。
八年正月、禃はその枢密使金鍊を遣わし表を奉り入見し、結婚を請う。安撫使阿海は珍島を略地し、逆党と遇い、多く亡失有り。中書省臣言う、諜知するに珍島の余糧将に竭きんとす、弱きに乗じてこれを攻むべしと。詔して許さず。二月、忽都答児に命じて詔を持たせ裴仲孫に諭す。三月、仲孫は諸軍の退屯を乞い、然る後に内附せんとす。忻都未だその請に従わず、詔有りてこれを諭す。四月、忻都言う、仲孫は詔使を稽留し、負固して服さず、虎林赤・王国昌と分道進討を乞うと。これに従う。珍島を討つことを以て禃に諭す。五月、忻都は史枢・洪茶丘と共に珍島の賊を大いに破り、承化侯を獲てこれを斬る。その党金通精は耽羅に走る。七月、禃はその上将軍鄭子璵を遣わし表を奉り珍島平定を謝す。世子愖はその尚書右丞宋玢・軍器監薛公儉等、衣冠の胤冑二十八人を率いて入侍す。八月、忽林赤は鎮辺合浦県の屯所に赴く。九月、禃はその通事別将徐(称)〔偁〕を遣わし、宣撫趙良弼を導送して日本に使わす。帝は愖を遣わし還国せしむ。十一月、禃はその同知枢密院事李昌慶を遣わし表を奉り婚事許容を謝す。
九年正月、禃はその別将白琚を張鐸等十二人に偕わせて表を奉り入見す。世子愖はその国尚書右丞宋玢・玢の父上将軍宗礼が林惟茂を討った状を、その功を中書省に言う。郎中不花・馬璘を遣わし高麗に使わし、戦船を供し軍糧を輸する事を諭す。二月、禃は日本に致書し、朝に通好せしむ。六月、西京属城の諸達魯花赤及び質子金鎰等を遣わし帰国せしむ。
十年正月、禃はその世子愖を遣わし入朝せしむ。四月、経略使忻都は洪茶丘と共に兵を領して海に入り、耽羅城を攻め抜き、金通精等を禽え、詔を奉じてこれを誅す。六月、禃はその大将軍金忻を遣わし表を奏し済州攻破を報ず。九月、禃は屡々言う、「小国は地狭く、比歳荒歉す、その生券軍は東京に駐まることを乞う」と。詔して北京界に営せしめ、なお東京路に勅して米二万石を運びこれを賑わす。達魯花赤焦天翼は朝に還る。
十一年正月己卯の朔、宮闕が完成し、帝は初めて正殿に御し、皇太子・諸王・百官の朝賀を受けた。禃はその少卿李義孫らを遣わして入賀させた。三月、木速塔八・撒木合を遣わし、詔を持って高麗に使いし、五千六百人を徴発して日本征討を助けさせた。五月、皇女忽都魯掲里迷失が世子愖に降嫁した。七月、その枢密院副使奇蘊が表を奉って王禃の薨去を告げたので、世子愖に命じて爵を継がせ、高麗国王の宗族および大小官員・百姓らに詔を諭した。その要旨は「国王王禃の存命中、しばしば世子愖を継嗣とすべしと申していた。今、愖に爵を継がせて王とする。凡そ所属の者は、みなその節制を聴け」というものであった。八月、世子愖がその国に還り着き、位を襲った。九月、その斉安侯王淑を遣わして表を上り、恩を謝した。十一月、皇女が京城に入った。愖はまたその判閤門事李信孫らを遣わし、表を奉って入朝謝恩させた。十二月、黒的を高麗のダルガチとし、李益は交代して還った。
十四年正月、金方慶らが乱を起こしたので、愖に命じてこれを治めさせ、なお忻都・洪茶丘に兵を整えさせて防備させた。
十六年正月、その国に大灰艾州・東京・柳石・孛落の四駅を置くよう命じた。
十七年五月、賰は民が飢えたため、糧一万石の貸与を乞うたので、これを許した。七月、その国が初めて駅站を設置したため、民が食に乏しいとして、一年分の糧を与えるよう命じ、なお使臣の往来に飲食を求め索めることを禁じた。十月、賰に開府儀同三司・中書左丞相・行中書省事を加えた。
十八年二月、賰が言うには、本国のビチクチは行移文書に通じていないので、郎中・員外各一員を除授して参佐としたいと請うた。賰はまた宣命の職銜を改め、駙馬の字を増やすよう請うたので、これを許した。六月、賰が言うには、本国に四十駅を置いたため、民と家畜が疲弊している。命じて二十站に併合させ、なお馬代八百錠を与えた。八月、その僉議府を従三品に昇格させた。十一月、金州などに鎮辺万戸府を置き、日本を制御した。
十九年正月、賰は日本がその辺海の郡邑を寇し、居室を焼き子女を掠めて去ったため、闍里帖木児麾下の蒙古軍五百人を発して金州に戍らせるよう請うたので、またこれを許した。
二十年五月、征東行中書省を立て、高麗国王と阿塔海に共同で事に当たらせた。
二十八年五月、賰の子謜を世子とし、特進・上柱国を授け、銀印を賜った。十月、その国が飢えたため、米二十万斛を与えた。
三十年二月、賰は使いを遣わして入奏し、また名を昛と改め、功臣号を乞うた。制書に曰く「特進・上柱国・開府儀同三司・征東行中書省左丞相・駙馬高麗王昛は、代々王爵を守り、我が家に選ばれて尚す。藩屏の功を顕彰するに足り、褒嘉の寵を示すべきである。推忠宣力定遠功臣の号を賜うべし。その余はもとの如し。ますますその勲を励み、休命に対揚せよ」。十一月、昛が入朝した。
五月、哈散が高麗より使いして還り、昛がその衆を服させられないと申し上げ、朝廷宜しく官を遣わして共にこれを治めるべきであると言った。遂に再び征東行省を立て、闊里吉思を高麗行省平章政事に命じた。九月、昛は使節を派遣して入貢し、朝廷が行省を増置したことを以て、上表して情を陳べ、その概略に言うには、「累世に勤王の功有り、凡そ八十余年、歳々職貢を修む。嘗て世子を以て入侍し、帝室と婚姻を聯ね、遂に甥舅となり、実に至恩を感ず。小国をして祖風を廃せず、永く侯職を修めしむるは、是れ望む所なり。」
四年二月、征東行省平章闊里吉思が言うには、「高麗国王が自ら官府三百五十八所を署し、官四千五十五員、衣食は皆民より取り、また苛斂を加える。またその大会では、王は曲蓋・龍扆・警蹕を用い、諸臣は舞蹈山呼し、一に朝儀の如く、僭擬甚だ過ぎる。」山東宣慰使塔察児・刑部尚書王泰亨を遣わし、詔を齎してこれを諭し、釐正して奏聞せしめた。三月、闊里吉思がまた上言した、「僉議司官は民戸の版籍・州県の疆界を供報することを肯んぜず。本国は横科暴斂し、民少なく官多く、刑罰一ならず。もし只だ本俗に依って事を行わば、実に撫治し難し。」
五年二月、昛のために行省官を罷め、詔を下して昛に諭した。秋七月、昛が上表して言うには、「昔、海島に居た時、嘗て山呼を用いたが、後に改めて千秋と称した。今、既に明詔を奉じ、一切皆罷む。また官府九十余所を革め、官吏二百七十余員を汰す。他の雑徭が民を病み、馹騎が駅伝を煩わすものも、亦皆これを省く。」詔して曰く、「卿其れ朕が意を諭せ、言う所の事は当に終始これを実行すべし、若し然らずんば、寧く羞懼せざらんや?」
耽羅
耽羅は、高麗の与国である。世祖は既に高麗を臣服させ、耽羅を南宋・日本の衝要と為すも、亦これに注意した。至元六年七月、明威将軍都統領脱脱児・武徳将軍統領王国昌・武略将軍副統領劉傑を遣わし、耽羅等処の道路を視察させ、詔して高麗国王王禃に官を選び導送せしめた。時に高麗の叛賊林衍の余党、金通精が耽羅に遁入した。九年、中書省臣及び枢密院臣が議して曰く、「若し先ず日本に事有らば、その逆順の情を見ず、後辞有るを恐る。先ず耽羅を平らげ、然る後に日本の従否を観、徐にその事を議すべし。且つ耽羅国王は嘗て朝覲に来たり、今叛賊その主を逐い、その城を拠りて乱を為す。兵を挙げてこれを討つは、義先ず行う所なり。」
十年正月、経略使忻都・史枢及び洪茶丘等に命じ、兵船大小百八艘を率い、耽羅の賊党を討たせた。六月、これを平定し、その地に耽羅国招討司を立て、鎮辺軍千七百人を屯させた。その貢賦は歳に毛施布百匹を進める。招討司は後に軍民都達魯花赤総管府と改め、また軍民安撫司と改めた。
三十一年、高麗王が上言した、耽羅の地は、祖宗以来その国に臣属す。林衍の逆党既に平定の後、尹邦宝が招討副使に充て、計略を以て径に朝廷に隷属せんことを求めしを、旧に仍らんことを乞う。帝曰く、「此れ小事なり、高麗に還属せしむべし。」ここより遂に再び高麗に隷した。
日本
その土疆の至る所と国王の世系及び物産風俗は、『宋史』本伝に見ゆ。
その風土を問うと、只だ書を以て対え、その国中に五経の書及び仏経・白居易集七十巻有りと云う。
熙寧以後に至り、連ねて方物を貢し、その来る者は皆僧なり。
書に曰く、大蒙古国皇帝、書を奉る日本国王に。
朕惟うに、古より小国の君、境土相接するも、尚ほ信を講じ睦を修むるを務む。
況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有し、遐方異域威を畏れ徳を懐く者は、悉く数うべからず。
朕即位の初め、高麗の辜なきの民久しく鋒鏑に瘁するを以て、即ち兵を罷め其の疆域に還し、其の旄倪を反すことを令す。
尚ほ恐らくは王国の之を知る未だ審ならざるを、故に特に関使を遣わし書を持ち、朕が志を布告し、冀くは今より以往、通問し好を結び、以て相親睦せん。
且つ聖人は四海を以て家と為す、相い通好せざれば、豈に一家の理ならんや。以て兵を用うるに至りては、夫れ孰れか好む所ぞ。王其れ之を図れ。
四年六月、帝王禃に謂ひて辞を以て解すとし、使を去り徒に還るを令し、復た黒的等を遣わし高麗に至り禃を諭し、日本事を委ね、必ず其の要領を得るを期とす。
五年九月、黒的・弘に命じ復た書を持ち往かしむ、対馬島に至る、日本人拒みて納れず、其の塔二郎・弥二郎の二人を執へて還る。
六年六月、高麗の金有成に命じ執へたる者を送還せしめ、中書省をして牒を其の国にせしむ、亦た報ぜず。
十二月、又た秘書監趙良弼に命じ往使せしむ。
書に曰く、「蓋し聞く、王者に外無し、高麗と朕既に一家と為す、王国実に隣境たり、故に嘗て信使を馳せ好を修めんとす、疆埸の吏の為に抑へて通ぜず。
獲たる所の二人、有司に勅し慰撫せしめ、牒を齎して以て還らしむ、遂に復た寂として聞く所無し。
継いで通問せんと欲す、高麗の権臣林衍の乱を構うるに属し、是に坐して果たさず。
豈に王も亦た此に因りて使を遣わすを輟め、或いは已に遣はして中路梗塞す、皆知るべからず。
然らずんば、日本素より礼を知るの国と号す、王の君臣寧んぞ漫りに思はざるの事を為さんや。
近く已に林衍を滅ぼし、旧王の位を復し、其の民を安集し、特た少中大夫秘書監趙良弼を命じ国信使に充て、書を持ち往かしむ。」
もし直ちに使者を発して彼らと共に来朝させれば、親仁善隣は国の美事である。
あるいは躊躇して兵を用いるに至れば、それは誰が楽しんで為すところか。王はよく図るがよい。」
朝廷の議論では、その国との上下の分が未だ定まらず、礼数を言うべきでないとした。帝はこれに従った。
七年十二月、詔を下して高麗王禃に告げ、国信使趙良弼を日本に送り通好させ、必ず到達することを期させた。
なお忽林失・王國昌・洪茶丘に命じて兵を率いて海上まで送り届けさせ、国信使の帰還を待つ間、暫く金州などの地に駐屯させた。
八年六月、日本の通事曹介升らが上言した。「高麗は迂路を取って国使を導いているが、外に捷徑があり、もし順風を得れば半日で到着できる。
もし使臣が行くのであれば、敢えて同行はしない。もし大軍が進征するのであれば、郷導を願う。」帝は言った。「そうであれば、よく考えるべきである。」
九月、高麗王禃がその通事別将徐偁を遣わして良弼を導き日本に送らせた。日本は初めて彌四郎なる者を遣わして入朝させた。帝は宴を賜い労って帰国させた。
九年二月、枢密院の臣が言うには、「日本に奉使した趙良弼が書状官張鐸を遣わして来て言うには、去る九月、日本の国人彌四郎らと太宰府西の守護所に至った。
守護の者は言うには、以前高麗に欺かれて、しばしば上国が来伐すると言われた。豈図らんや皇帝は生を好み殺しを悪み、先に行人を遣わして璽書を示された。然るに王京はここから尚遠い。願わくは先に人を遣わし、奉使に従って返報させたい。」
帝はその国の主が彼らを来させたのではないかと疑い、守護所と称するのは偽りであろうと考えた。
詔して翰林承旨和禮霍孫に命じ、姚樞・許衡らに問わせた。皆答えて言うには、「誠に聖算の如くである。
彼らは我が兵を加えることを恐れ、故にこの輩を発して我が強弱を窺っているのである。宜しく寛仁を示すべきであり、且つ彼らを入見させるべきではない。」帝はこれに従った。
この月、高麗王禃が日本に書を送った。五月、また書を送り、必ず大朝と通好するよう命じたが、いずれも返答がなかった。
十年六月、趙良弼が再び日本に使いし、太宰府に至って帰還した。
十一年三月、鳳州経略使忻都と高麗軍民総管洪茶丘に命じ、千料舟・抜都魯軽疾舟・汲水小舟をそれぞれ三百艘ずつ、
合わせて九百艘で、士卒一万五千を載せ、七月を期して日本を征伐させた。
冬十月、その国に入り、これを破った。しかし官軍は整わず、また矢も尽き、ただ四境を虜掠して帰還した。
十四年、日本は商人に金を持たせて来て銅銭と交換しようとしたので、これを許した。
十七年二月、日本は国使杜世忠らを殺害した。
五月、范文虎を召して日本征伐を議した。八月、詔を下して日本征伐の士卒を募集した。
十八年正月、日本行省右丞相阿剌罕・右丞范文虎および忻都・洪茶丘らに命じ、十万人を率いて日本を征伐させた。
二月、諸将が陛辞した。帝は勅して言った、「初めは彼の国の使者が来たので、朝廷もまた使者を遣わしたが、彼は我が使者を留めて返さなかった。故に卿らにこの行をさせたのである。
朕は漢人の言うところを聞くに、人の家国を取るには、百姓と土地を得ようとするもので、もし百姓をことごとく殺してしまえば、ただ土地を得ても何の役に立とうか。
また一事、朕が実に憂えるのは、卿らの不和を恐れることである。仮に彼の国の人が来て、卿らと議することがあれば、心を同じくして謀を協え、あたかも一つの口から出たように答えるべきである」。
五月、日本行省参議裴国佐らが言上した、「本省右丞相阿剌罕・范右丞・李左丞は先に忻都・茶丘とともに朝廷に入った。
時に同院官が議定して、舟師を率いて高麗の金州に至り、忻都・茶丘の軍と会し、それから日本に入征することとした。
また風水の便が悪いため、再び議定して一岐島で会することとした。
今年三月、日本の船が風水に漂って来た者があったので、その水工に地図を描かせたところ、それによって太宰府の西に平戸島というものがあるのを見た。周囲はすべて水で、軍船を屯駐させることができる」。
この島は彼らの防ぐところにあらず、もし直ちに往きてこの島を占拠し、人をして船に乗り一岐に往かしめ、忻都・茶丘を呼び来会させて進討するは利あり。」
帝曰く、「此間は彼中の事宜を悉くせず、阿剌罕の輩は必ず知るべし、その自らこれを処せしめよ。」
六月、阿剌罕は病を以て行く能わず、阿塔海を命じて軍事を代総せしむ。
八月、諸将は敵を見ずして、全師を喪いて還る。乃ち言う、「日本に至り、太宰府を攻めんと欲す。暴風舟を破る。猶議戦せんと欲す。
本省は余軍を載せて合浦に至り、散遣して郷里に還らしむ。」
未だ幾ばくもあらざるに、敗卒の閶脱帰りて言う、「官軍六月に入海し、七月平壺島に至り、五龍山に移る。
八月一日、風舟を破る。五日、文虎等諸将各自堅好の船を択びてこれに乗り、士卒十余万を山下に棄つ。
衆議して張百戸なる者を推して主帥と為し、これを号して張総管と曰い、その約束を聴く。
方に木を伐り舟を作りて還らんと欲す。七日、日本人来たり戦い、尽く死す。余二三万はその虜と為りて去る。
九日、八角島に至り、蒙古・高麗・漢人を尽く殺す。新附軍を唐人と謂い、殺さずしてこれを奴とす。閶の輩これなり。」
蓋し行省の官議事相下らず、故に皆軍を棄てて帰る。
久しくして、莫青と呉万五なる者も亦逃げ還る。十万の衆の還るを得る者は三人のみ。
二十年、阿塔海を命じて日本省の丞相と為し、徹里帖木児右丞・劉二抜都児左丞とともに、兵を募り舟を造り、復た日本を征せんと欲す。
二十一年、またその俗の仏を尚ぶを以て、王積翁と補陀の僧如智を遣わして往かしめ使わす。
舟中に願わず行く者あり、共に謀りて積翁を殺すも、果たして至らず。
帝曰く、「今は其の時ならず、朕徐ろに之を思わん」と。