李璮
癸卯、帝璮の反するを聞き、遂に詔を下して其の罪を暴く。甲辰、諸軍に命じて璮を討たしむ。己酉、璮の故を以て、中書平章王文統を戮す。壬子、璮盗みに済南を拠す。癸酉、史枢・阿朮に命じて師を帥い済南に赴かしむ。璮衆を帥いて出で輜重を掠め、将に城に及ばんとす。官軍邀撃し、大いに之を敗り、首級四千を斬る。璮退きて済南を保つ。五月庚申、環城を築きて之を囲む。甲戌、囲み合う。璮是より復た出づるを得ず、猶日夜拒守し、城中の子女を取りて将士に賞し、以て其の心を悦ばしめ、且つ軍を分かち民家に就き食し、其の蓋蔵を発して以て継ぎ、足らざれば、則ち家に塩を賦し、人を以て食と為すことを令す。是に至り、人情潰散し、璮制する能わず、各什伯相結び、城を縋りて以て出づ。璮城将に破らんとするを知り、乃ち手ずから愛妾を刃し、舟に乗じて大明湖に入り、自ら水中に投ず。水浅くして死するを得ず、官軍の獲る所と為り、縛せられて諸王合必赤の帳前に至る。丞相史天澤言う、「宜しく即ち之を誅し、以て人心を安んずべし」と。遂に蒙古軍官囊家と并せて誅せらる。
王文統
王文統、字は以道、益都の人なり。少時権謀の書を読み、言を以て人を撼がすを好む。遍く諸侯に干るも、遇うる所無く、乃ち往きて李璮に見ゆ。璮之と語り、大いに喜び、即ち留めて幕府に置き、其の子彦簡に命じて之に師事せしめ、文統亦た女を以て璮に妻す。是より軍旅の事、咸く諮決に与り、歳毎に辺功を上るも、敵勢を虚張し、以て其の位を固め、官物を用いて私恩を樹て、宋の漣・海二郡を取るは、皆な文統の謀なり。
世祖潜藩に在りし時、才智の士を訪問し、素より其の名を聞く。即位に及び、厲精して治を求め、文統を以て薦むる者有り。亟に召して之を用う。乃ち中書省を立て、以て内外百司の政を総べ、首めて文統を擢て平章政事と為し、庶務を更張するを委ぬ。建元して中統と為し、詔して天下に諭し、十路宣撫司を立て、条格を示し、差発を辦じて民擾れず、塩課常額を失わず、交鈔致して阻滯無からしめんと欲す。尋いで詔して行中書省に中統元寶交鈔を造らしめ、互市を潁州・漣水・光化軍に立つ。是の年冬、初めて中統交鈔を行い、十文より二貫文に至る凡そ十等、年月を限らず、諸路通行し、税賦并せて収受を聴かしむ。
翌年二月、世祖は開平におり、行中書省事の禡禡と王文統を召し、みずから諸路の宣撫使を率いてともに宮闕に赴かせた。世祖は去秋より北方の叛王アリクブケを親征し、民間の差発・宣課塩鉄などの事はすべて文統らに委ねて裁処させていた。軍を整えて宮中に還ったが、その可否がどのようなものであるか知らず、かつては用兵に急であり、事多く講究する暇がなかったが、今まさにその紀綱を振るうべきである。ゆえに文統らを召してその成效を責め、游顕・鄭鼎・趙良弼・董文炳らを諸路宣撫司に任じ、また議定した条格を諸路に詔諭して、これに遵行させた。まもなく、また宣撫司およびダルガチ・管民官・課税所官に詔諭し、私塩・酒酢・麹貨などの禁を厳しく申しつけた。
文統は人を忌み妬む性格で、中書省が初めて立てられた時、張文謙が左丞であった。文謙は平素より国を安んじ民を利することを自任していたので、議論や建言のたびに互いに可否を論じ、文統は積もる不満を抱き、彼を陥れようと企み、文謙はついに本職のまま大名等路宣撫司事として出向して去った。当時、姚枢・竇黙・許衡はいずれも世祖が敬信していた者であったが、文統は世祖にそそのかして枢を太子太師に、黙を太子太傅に、衡を太子太保に任じさせ、外見は彼らを尊ぶふりをしながら、実は左右で朝夕顧問に備えることを望まなかったのである。黙はかつて王鶚および枢・衡とともに世祖に侍り、面と向かって文統を誹謗して言った。「この人の学術は正しくなく、必ずや天下に禍をもたらします。相位に処すべきではありません。」世祖が言うには、「もしそうなら、誰が相たるべきか。」黙は許衡をもって答えた。世祖は不機嫌になってその場を収めた。鶚はかつて右丞相の史天沢に国史の監修を、左丞相の耶律鋳に遼史の監修を、文統に金史の監修を請うたことがあった。世祖は言った。「監修の階銜は、史を修める時に定めよう。」
さらに翌年二月、李璮が反乱を起こし、漣・海の三城を宋に献じた。先に、その子の彦簡が京師から逃げ帰り、璮は人を遣わして中書省に報告させていた。反乱の報が聞こえると、人々は多く文統がかつて子の蕘を遣わして璮と音信を通じさせたと言った。世祖は文統を召して問うた。「汝が璮に逆心を教えたのは、すでに数年を経て、世の中の誰もが知っている。朕が今汝に問うのは、汝の策はどういうものか、すべてを答えるがよい。」文統は答えて言った。「臣も忘れてしまいました。どうか臣にすべてを書いて上奏させてください。」書き終わると、世祖は読ませた。その中に「螻蟻の命、もし全うできれば、必ずや陛下のために江南を取ることを保証します」とあった。世祖は言った。「汝は今なお朕に弁解をしようというのか。」ちょうど璮が人を遣わして文統の三通の手紙を洺水から持って来たので、その手紙を見せると、文統は初めて驚き慌てて汗をかいた。手紙の中に「甲子の期」という言葉があった。世祖が言うには、「甲子の期とはどういうことか。」文統は答えて言った。「李璮は久しく反心を抱いており、臣が中央にいるので、すぐには発動できませんでした。臣は陛下に璮を縛るよう告げようと久しく思っていましたが、ただ陛下が北方に兵を加えられ、まだ平定されていないためです。甲子の年までには、なお数年あります。臣がこのようなことを言ったのは、ただ彼の反乱の時期を遅らせようとしただけです。」世祖は言った。「多くを言うな。朕は汝を布衣から抜擢し、政権を授けた。汝を遇すること薄くはなかった。何を負うてこのようなことをしたのか。」文統はなおも枝葉の言葉を並べて言い訳し、終いに「臣の罪は死に当たる」とは自ら言わなかった。そこで左右の者に命じて斥けさせ、ようやく外に出て縛られた。世祖はなおも竇黙・姚枢・王鶚・僧子聰および張柔らを召し、先の手紙を示して言った。「汝らは文統がどのような罪を得るべきだと思うか。」文臣たちは皆言った。「人臣に将(謀反の心)あってはならず、将あれば必ず誅せられます。」張柔のみが声を疾くして大声で言った。「磔刑にすべきです!」世祖はまた言った。「汝ら同じ言葉で言え。」諸臣は皆言った。「死罪に当たります。」世祖は言った。「彼もまた朕の前で自ら服したのだ。」
文統はついに誅殺された。子の蕘もまたともに殺された。天下に詔諭して言った。「人臣に将あってはならぬことは、千古の彝訓として垂れている。国の制度には定めがあり、二心を抱く者は必ず誅せられる。なんと輔弼の僚が、かくも姦邪の志を蓄えていたとは。平章政事王文統は、下僚より起用され、台司に抜擢された。倚付すること深からずといえず、待遇すること厚からずといえず、成效を収めて太平を致さんことを望んだ。どうして李璮と同謀し、ひそかに子の蕘を使って音信を通じさせていたことを知ろうか。近ごろその自筆の書数幅を獲て、その反状あること累年なるを審らかにする。まさに肆市の誅を加え、滔天の悪を著わすべきである。すでに今月二十三日、反臣王文統およびその子の蕘を正しく典刑に処した。ああ、国恩に背き大逆を謀り、死してなお余辜あり。相位に処しながら極刑に遭う、時に未だ悟らざる者あらん。爾ら衆庶よ、朕の至懐を体せよ。」しかし文統は反逆の罪で誅されたとはいえ、元の立国の規模法度は、世間では文統の功績によるものが多いと言われている。
アルクイ・テムル
ちょうど汝州・潁州で兵乱が起こり、天下がみな震動すると、帝はたびたび宗王に詔して、北方の兵で南討させた。アルクイ・テムルは国事がすでに為すべからざることを知り、機に乗じて数万の衆を擁し、ムルグチュの地に屯して、宗王を脅して反乱を起こした。かつて帝に使者を遣わして言わせた。「祖宗は天下を汝に付したのに、汝はどうしてその大半を失ったのか。どうして国璽を我に授けないのか。我が自ら為そう。」帝はこれを聞いて、神色自若として、ゆるやかに言った。「天命はあるところにある。汝が為さんと欲すれば、為すがよい。」そこで詔を降りて開諭し、その罪を悔い改めさせようとしたが、アルクイ・テムルは聞き入れなかった。そこで知枢密院事のトクゲン・テムルらに命じてこれを撃たせた。行って称海に至り、ハラチ一万人を徴発して軍とした。この者たちは平素より兵となることを習わず、一朝に駆り出して戦わせた。陣を布いたが、兵がまだ接する前に、皆その号衣を脱ぎ捨て、アルクイ・テムルの軍中に奔った。トクゲン・テムルの軍はついに敗績し、単騎で上都に還った。