元史

列傳第九十二:姦臣

古来史を為す者は、善悪を備えて記し、以て勧善懲悪を示す所以なり。故に孔子が春秋を修むるに、乱臣賊子の事に於いて、具載せざる無く、而して楚の史は檮杌と名づく、皆以て悪を為す者を戒め、懼るる所を知らしめて敢えて肆ならざらしむ。後世史を作る者、酷吏・佞幸・姦臣・叛逆の伝有り、良く以て然る所以有り。

元の旧史は、往々にして善を記すに詳しく、悪を懲らすに略なり、是れ蓋し当時の史臣に忌憚する所有りて、敢えて直書せざるのみ。然れども姦巧の徒、其の才術を挟み、以て富貴を取り、威福を窃む、始めは則ち民を毒し国を誤り、而して終に身を殞し家を亡ぼすに至る者、其の行う事の概、亦或いは実録編年の中に散見し、猶ほ春秋の意の存する有り。謹んで其の尤も彰著なる者を撮り、彙次して之を書き、姦臣伝を作り、以て世の鑑と為す。而して叛逆の臣も、亦各以て類を以て附見せしむ。

阿合馬

阿合馬は、回回の人なり。其の進む所由を知らず。世祖中統三年、始めて中書左右部を領し、諸路都転運使を兼ねることを命じ、専ら財賦の任を之に委ぬ。阿合馬、条画を奏降し、各路運司に宣諭すべしとす。明年、河南の鈞・徐等州俱に鉄冶有るを以て、宣牌を給授し、以て鼓鑄の利を興すことを請う。世祖、開平府を上都に陞す、又阿合馬を以て開平府事を同知せしめ、左右部を領すること旧の如し。阿合馬、礼部尚書馬月合乃を以て已に括したる戸三千を兼領せしめ、鉄冶を興煽し、歳に鉄一百三万七千斤を輸し、就きて農器二十万事を鑄し、粟に易えて官に輸する者凡そ四万石と為すことを奏す。

至元元年正月、阿合馬言う、「太原の民小塩を煑り、境を越えて販売す。民其の価廉きを貪り、競って買い食う。解塩是れを以て故に售げず、歳に入る課銀止むること七千五百両。請う自今歳五千両を増し、僧道軍匠等の戸を問わず、均しく其の賦を出だし、其の民間通用の小塩は便に従わしむ。」是の年秋八月、中書左右部を領するを罷め、併せて中書に入れ、超えて阿合馬を中書平章政事に拝し、階を栄禄大夫に進む。

三年正月、制国用使司を立て、阿合馬又平章政事を以て使職を兼領す。久しくして、制国用使司奏す、「東京の歳課布、疏悪にして用に堪えざる者を以て、就きて彼に於いて羊を市う。真定・順天の金銀、程に中らざる者は、改鑄すべし。別怯赤山は石絨を出だし、布に織れば火然うること能わず、官を遣わして採取せしむることを請う。」又言う、「国家費用浩繁、今歳車駕都に至りてより、已に鈔四千錠を支う。来歳の度支足らざるを恐る、宜しく経用を量り節すべし。」十一月、制国用使司奏す、「桓州峪の採る所の銀鑛、已に十六万斤、百斤にて銀三両・錫二十五斤を得べし。鑛を採るに需うる所、錫を鬻ぎて以て之を給す。」其の請う所に悉く従う。

七年正月、尚書省を立て、制国用使司を罷め、又阿合馬を以て尚書省事を平章せしむ。阿合馬、人と為り多く智巧言を以てし、功利の成效を以て自ら負い、衆咸く其の能を称す。世祖、富国に急にして、以て事を行わしめて試みるに、頗る成績有り。又其の丞相線真・史天澤等と争辨し、屡々以て之を詘する有るを見、是れを以て其の才を奇とし、政柄を授く。言うこと従わざる無く、而して其の専愎益甚だしきを知らざるなり。丞相安童、久しく之を含容し、世祖に言いて曰く、「臣近く言う、尚書省・枢密院・御史臺は、宜しく各常制に循りて事を奏すべし。其の大なる者は臣等の議定に従い聞え奏す、已に旨有りて俞允す。今尚書省一切を以て聞えす、前奏に違うに似たり。」世祖曰く、「汝の言う所是なり。豈に阿合馬朕の頗る信用するを以て、敢えて是の如くせんや。其れ卿と議せざるは是に非ず、宜しく卿の言う如くすべし。」又言う、「阿合馬の用いる部官、左丞許衡以て多く其の人に非ざると為す。然れども已に旨を得て咨請宣付す。与えざれば、恐らくは異日に辞有らん。宜しく其の能ふと否とを試み、久しければ自ら見るべし。」世祖之を然りとす。五月、尚書省、天下の戸口を括ることを奏す。既にして御史臺言う、所在蝗を捕うるに、百姓労擾す。戸を括る事は宜しく少しく緩むべしと。遂に止む。

初め尚書省を立つる時、旨有り、「凡そ各官を銓選するに、吏部資品を擬定し、尚書省に呈し、尚書より中書に咨して聞え奏す。」是に至り、阿合馬私人を擢用し、部の擬する由らず、中書に咨せず。丞相安童以て言う。世祖、阿合馬に問わしむ。阿合馬言う、「事の大小無く、皆臣に委ぬ。用うる所の人、臣宜しく自ら択ぶべし。」安童因りて請う、「自今唯だ重刑及び上路総管に遷すこと、始めて之を臣に属し、余の事は並びに阿合馬に付す。庶幾くは事体明白ならん。」世祖俱に之に従う。

八年三月、尚書省再び戸口を閲実する事を以て、条画を奏して天下に詔諭す。是の歳、太原の塩課を増すことを奏し、千錠を以て常額と為し、仍て本路に兼領せしむ。九年、尚書省を中書省に併入し、又阿合馬を以て中書平章政事と為す。明年、又其の子忽辛を以て大都路総管と為し、大興府尹を兼ぬ。右丞相安童、阿合馬の権を擅にする日を甚だしきを見、其の弊を救わんと欲し、乃ち奏す、大都路総管以次の者多く職に称せず、人を選びて之に代うるを乞うと。尋いで又奏す、「阿合馬・張惠、宰相の権を挟み、商賈と為り、以て天下の大利を網羅し、厚く黎民を毒し、困窮して訴うる所無し。」阿合馬曰く、「誰か此の言を為す。臣等まさに廷にて辯せん。」安童進みて曰く、「省左司都事周祥、木に中りて利を取り、罪状明白なり。」世祖曰く、「此の若き者は、徴畢わりてまさに顕に之を黜すべし。」既にして枢密院、忽辛を以て同僉枢密院事と為さんことを奏す。世祖允さずして曰く、「彼れ賈胡、事猶お知らず、況んや機務を以て責めんや。」

十二年、伯顔師を帥いて宋を伐ち、既に江を渡り、捷報日を逐うて至る。世祖、阿合馬に姚枢・徒単公履・張文謙・陳漢帰・楊誠等と、江南に於ける塩・鈔法を行い、及び薬材を貿易する事を議わしむ。阿合馬奏す、「枢云う、『江南交会行わずんば、必ず小民の失所を致さん。』公履云う、『伯顔已に嘗て榜諭して交会換えず。今亟に行えば、民に失信す。』文謙謂う、『行う可きと否とは、まさに伯顔に詢うべし。』漢帰及び誠皆言う、『中統鈔を以て其の交会を易うる、何の難きか有らん。』」世祖曰く、「枢と公履は事機を識らず。朕嘗て此を以て陳巖に問う。巖も亦宋の交会速やかに宜しく更換すべしとす。今議已に定まる、まさに汝の言に依りて之を行わん。」又奏す、「北塩薬材、枢と公履皆言う、百姓をして便に従い販鬻せしむべしと。臣等以為う、此の事若し小民之を為さば、恐らくは紊乱一ならざらん。南京・えい輝等路に於いて薬材を籍括し、蔡州に塩十二万斤を発し、諸人の私相貿易を禁ずるに擬す。」世祖曰く、「善し、其れ之を行え。」

十二年、阿合馬はまた言上した、「近ごろ軍興の後、編民の徴税を減免し、また転運司の官を廃止し、各路の総管府に課程を兼ねさせたため、国用が不足に至った。臣は思うに、戸数の多寡を検証し、遠いところを近くに合わせて、都転運司を立て、旧額を酌量して増やし、廉潔で有能な官を選んでその事を分掌させるのがよい。公私の鉄鼓鋳造は、官が局を設けて売り、なお諸人の銅器私造を禁ずる。このようにすれば、民力は屈せず、国用は充足するであろう」。そこで諸路転運司を立てることを奏上し、亦必烈金・札馬剌丁・張暠・富珪・蔡德潤・紇石烈亨・阿里和者・完顏迪・姜毅・阿老瓦丁・倒剌沙らを使とした。亦馬都丁という者がおり、官銀を負って罪を得て罷免され、既に死んだが、負った額はなお多かった。中書省が奏議して裁決を請うた。世祖は言った、「これは財穀の事である、阿合馬とこれを議せよ」。

十五年正月、世祖は西京の飢饉を以て、粟一万石を発してこれを賑済した。また阿合馬に諭して、広く貯積を増やすべきこと、欠乏に備えるためである。阿合馬は奏上した、「今後、御史台は省に申告しない限り、倉庫の吏を勝手に召喚せず、また銭穀の数を究明・要求してはならない。また中書で集議するのに至らない者は、これを罪する」。そのようにして台察を抑圧したのである。四月、中書左丞崔斌が奏上して言った、「先に江南の官が冗多で、任ずるに人を得ず、そこで阿里らに淘汰を委ねた。今や既に明らかな証拠があるのに、これを隠して上聞に達せず、これは上を欺くものである。杭州は地が大きく、委任は軽くないのに、阿合馬は私愛に溺れ、不肖の子抹速忽を達魯花赤に充て、虎符を佩かせた。これはまさに才能を量って任に授ける道であろうか」。また言った、「阿合馬は先に自ら陳べて子弟の任を免ずることを請うたのに、今や身は平章でありながら、子や甥はあるいは行省参知政事となり、あるいは礼部尚書・将作院達魯花赤・会同館領となり、一門ことごとく要路に居る。自ら前言に背き、公道を損なっている」。詔勅があり、ともに罷免・貶黜した。しかし終にこれを以て阿合馬の罪とはしなかった。

世祖はかつて淮西宣慰使昂吉児に言った、「宰相というものは、天道を明らかにし、地理を察し、人事を尽くす。この三つを兼ねて、初めて称職と言える。阿里海牙・麦朮丁らも、まだ宰相と為すべからず。回回人の中では、阿合馬が宰相の才に任ずる」。そのように上に称揚されたのである。

十六年四月、中書が江西榷茶運司および諸路転運塩使司・宣課提挙司を立てることを奏上した。間もなく、忽辛を中書右丞とした。翌年、中書省が奏上した、「阿塔海・阿里が言うには、今宣課提挙司を立てたが、官吏は五百余員に至る。左丞陳厳・范文虎らは、それが民を擾し、かつ官銭を侵盗すると言う。これを罷めることを乞う」。阿合馬は奏上した、「先に江南の糧穀数を籍する旨があり、たびたび文書を移して取り寄せたが、実数を上申しなかった。そこで枢密院・御史台および廷臣の諸老と集議し、運司を設けるのは官が多く俸禄が重いので、諸路に提挙司を立て、都省・行省がそれぞれ一人を委任してその事に当たらせるのがよいと言った。今、行省はまだ人を委任していないのに、即座にこれを罷めよと請い、かえって臣らに罪を帰する。しかし臣が委任した者は、着任してわずか二月で、その侵用した額は凡そ千百錠を計上する。彼らの管轄した四年と較べれば、またどれほどであろうか。今提挙司を立てて、未だ三月に満たずして罷めるのは、まさに彼らの奸弊が露見するのを恐れ、故に先に自ら言上して跡を絶とうとするのではないか。御史台に能吏を遣わして同行させ、凡そ非法があれば、ことごとく実状を以て上聞させるべきである」。世祖は言った、「阿合馬の言うところは正しい。台の中から人を選んで往かせよ。もし己れ自らが既に白状できてこそ、初めて人を責められるのである」。

阿合馬はかつて大宗正府を立てるべきことを奏上した。世祖は言った、「この事は卿らの輩の言うべきことではなく、朕の事である。しかし宗正という名は、朕はまだ知らなかった。汝の言うことはまことに良い。よく考えよ」。阿合馬は江淮行省平章阿里伯・右丞燕帖木児の行省設立以来の一切の銭穀を理算しようとし、不魯合答児・劉思愈らを遣わして検査させることを奏上し、彼らが勝手に命官八百員を改易し、左右司官を自分で分け、および銅印を鋳造したなどの事を得て、上聞した。世祖は言った、「阿里伯らはどう弁解するのか」。阿合馬は言った、「彼らは行省がかつて印を鋳造したことがあると言います。臣は言います、昔は江南が未だ平定されていなかったので、便宜的に行ったのであり、今と昔では時事が異なると。また勝手に糧四十七万石を支給し、宣課提挙司を廃止することを奏上し、中書が官を遣わして理算し、鈔一万二千錠余を徴収しました」。二人はついにこのことで誅殺された。

時に阿合馬は在位日久しく、ますます貪欲横暴をほしいままにし、奸党の郝禎・耿仁を引き立てて、急に同列に昇進させ、陰謀をめぐらして交わり、専ら蒙蔽に事とし、逋賦を免除せず、衆庶は流亡し、京兆等路の歳辦課は五万四千錠に至ったが、なお未だ実数ではないとされた。民に附郭の美田があれば、すぐにこれを取り上げて己がものとした。内には貨賄を通じ、外には威刑を示し、朝廷の中では互いに見合わせて、敢えて論列する者はいなかった。宿衛士の秦長卿という者がおり、慨然として上書してその奸を発したが、ついに阿合馬に害せられ、獄中で死んだ。事は長卿伝に見える。

十九年三月、世祖は上都におり、皇太子が従っていた。益都千戸の王著という者がおり、平素から悪を憎む志があり、人心の憤怨に乗じて、密かに大銅鎚を鋳造し、自ら誓って阿合馬の首を打ちたいと願った。時に妖僧の高和尚が秘術を以て軍中に行ったが、験がなくて帰り、死んだと詐称し、その徒を殺して、死体で衆を欺き、逃げ去り、人もまた知らなかった。著はそこで彼と謀を合わせ、戊寅の日に、皇太子が都に戻って仏事を行うと詐称し、八十余人を結集し、夜に京城に入った。朝に二人の僧を中書省に遣わし、斎物を買うよう命じたが、省中は疑って訊問し、服さなかった。正午頃、著はまた崔総管に命じて偽りの令旨を伝えさせ、枢密副使張易に兵若干を発し、この夜東宮前に会するよう命じた。易はその偽りを察知せず、即座に指揮使顔義に兵を率いて共に往かせた。著は自ら馳せて阿合馬に会い、太子がまさに至らんとしていると偽って言い、省官を悉く宮前に伺候させよと命じた。阿合馬は右司郎中脱歓察児ら数騎を関門から出させ、北へ十余里行くと、その衆に遇い、偽太子は無礼を責めて、悉くこれを殺し、その馬を奪い、南へ健徳門に入った。夜二更、敢えて問う者なく、東宮前に至ると、その徒は皆下馬し、ただ偽太子だけが馬に立ったまま指揮し、省官を前に呼び寄せ、阿合馬を数言責めた。著は即座に引きずり去り、袖に隠した銅鎚でその脳を砕き、即死させた。続いて左丞郝禎を呼び寄せ、これを殺した。右丞張惠を囚えた。枢密院・御史台・留守司の官は皆遠くから望み見て、その故を測り知れなかった。尚書張九思が宮中から大声で呼び、詐りであると言い、留守司達魯花赤博敦が遂に棒を持って前に進み、馬に立つ者を打ち落とすと、弓矢が乱発し、衆は奔り潰れ、多くが捕らえられた。高和尚らは逃げ去り、著は身を挺して囚われることを請うた。

中丞也先帖木児が馳せて世祖に奏上した。時にちょうど察罕脳児に駐蹕しており、これを聞いて震怒し、即日に上都に至った。枢密副使孛羅・司徒しと和礼霍孫・参知政事阿里らを駅伝で大都に馳せさせ、乱を為す者を討たせた。庚辰、高粱河で高和尚を捕らえた。辛巳、孛羅らが都に至った。壬午、王著・高和尚を市中で誅し、皆これを醢にし、張易をも殺した。著は臨刑に大声で叫んで言った、「王著は天下の害を除いた。今死ぬ。いつの日か必ず我がためにその事を書く者あらん」。

阿合馬が死んだが、世祖はなおその奸悪を深く知らず、中書省に命じてその妻子を問わないようにさせた。やがて孛羅に尋ねたところ、ようやくその罪悪をことごとく知り、初めて大いに怒って言った、「王著が彼を殺したのは、まことに正しいことだ」。そこで墓を発き棺を割き、通玄門外で屍を戮し、犬にその肉を食わせた。百官と士庶は集まって見物し、快哉を称した。子や甥は皆誅殺に伏し、その家属と財産を没収した。その妾に引住という名の者がおり、その蔵を調べると、櫃の中から二枚のなめし皮を得た。両耳がそろっており、一人の宦官が専らその鍵を掌っていた。訊問しても誰かは分からず、ただ「詛呪する時に、神座をその上に置くと、応験が甚だ速い」と言うのみであった。また絹二幅があり、甲騎を数重に描き、一つの幄殿を囲んで守り、兵は皆弦を張り刃を挺して内に向かい、撃刺する様子を描いていた。描いた者は陳という姓であった。また曹震圭という者がおり、かつて阿合馬の生年月日を推算した。王臺判という者は、妄りに図讖を引き合いに出した。皆不軌に言及するものであった。事が聞こえ、四人の皮を剥いで示衆にせよと勅命があった。

盧世榮

盧世榮は大名の人である。阿合馬が政権を専らにすると、世栄は賄賂によって進み、江西榷茶運使となり、後に罪によって廃された。阿合馬が死ぬと、朝廷の臣は財利の事を言うのを忌み、皆世祖の国を豊かにし民を足らしめる意に副うことがなかった。桑哥という者がおり、世栄に才術があると推薦し、鈔法を救い、課額を増やし、上は国を豊かにし、下は民を損なわないと称した。世祖が召して見ると、奏対が意に適った。至元二十一年十一月辛丑、中書省の官を召して世栄と朝廷で論弁させ、なすべき事を論じた。右丞相和禮霍孫らは正を守って撓まず、強弁に勝てず、右丞麥朮丁、参政張雄飛・溫迪罕と共に罷免され、再び安童を右丞相として起用し、世栄を右丞とし、左丞史樞、参政不魯迷失海牙・撒的迷失、参議中書省事拜降は、皆世栄が推薦した者である。

世栄は急に顕用されると、即日中書に命じて鈔法を整え、中外に遍く行き渡らせ、官吏で法を奉じて虔でない者は罪を加えるようにとの旨を奉じた。翌日、右丞相安童と共に奏上した、「老幼疾病の民が衣食に給せず、市に行き乞うのを見るのは、盛世に見るべきことではない。宜しく官が衣糧を与え、各路の正官に委ねてその事を提挙させるべきである」。また懐孟の竹園、江湖の魚課、及び襄淮の屯田の事を奏上した。三日を過ぎて、安童が奏上した、「世栄の陳べた数事について、詔を下して天下に示すことを乞う」。世祖は言った、「乞食者に衣食を与えることを除き、全て陳べた通りにせよ」。そこで詔を下して云った、「金銀は民間で通行する物である。平準庫を立てて以来、百姓の私相売買を禁じたが、今後は民間の便に従って交易することを聴す。懐孟諸路の竹貨は百姓が栽植したものである。有司が拘禁して発売し、民を重く困らせ、また南北の竹貨を通じさせない。今各所の竹監を罷め、民に貨売収税させる。江湖の魚課は既に定例がある。長流で採捕し、貧民がこれに恃って生計を立てている所を拘禁する。今後は民が採用することを聴す。軍国事務の往来は、全て駅驛に資る。馬価が近ごろ増し、また各戸に使臣の飲食を供させたため、疲弊に至っている。今後は驛馬を除き、その余は官が支給する」。

やがて中書省がまた奏上した、「塩は毎引十五両で、国家は嘗て多く取らず、民の食を便にしようとした。今、官豪が詭名を用いて利を罔り、貨を停めて価を待ち、一引を八十貫で売り、京師でも百二十貫に至り、貧しい者は多く食することができない。二百万引を商に与え、百万引を諸路に散らし、常平塩局を立て、もし販売者が価を増せば、官がその直を平らげて売り、庶民の用を給し、国計もまた得られるように議する」。世祖はこれに従った。

世栄が中書に在って十日と経たぬうちに、御史中丞崔彧が彼を相とすべからずと言い、大いに旨に忤い、彧を吏に下して按問させ、職を罷めた。世栄は言った、「京師の富豪戸が酒を醸して売り、価高く味薄く、かつ課を時に輸さない。宜しく一切禁罷し、官自ら売るべきである」。明年正月壬午、世祖が香殿に御すると、世栄が奏上した、「臣が言うには、天下の歳課鈔九十三万二千六百錠の外に、臣が更に経画し、民から取らず、権勢の侵す所を裁抑すれば、三百万錠を増やすことができる。初めに行下せず、中外が既に非議している。臣は台院と面議し、上前でこれを実行することを請う」。世祖は言った、「必ずしもそうするには及ばない。卿はただ言え」。世栄が奏上した、「古に榷酤の法がある。今宜しく四品提挙司を立て、以て天下の課を領せしめ、歳に千四百四十錠の鈔を得られる。王文統が誅されて以来、鈔法は虚弊している。今の計は、漢・唐の故事に依り、銅を括って至元銭を鋳造し、及び綾券を製し、鈔と参行するに如くはない」。因って織った綾券を上った。世祖は言った、「便益の事は、速やかに行うべきである」。

また奏上した、「泉・杭二州に市舶都転運司を立て、船を造り元手を与え、人をして商販せしめ、官にその利の七分を持たせ、商にその三分を持たせる。私に海を泛ぶる者を禁じ、その先に蓄えた宝貨を拘え、官がこれを買う。匿す者は告げることを許し、その財を没収し、半分を告げる者に与える。今国家に常平倉はあるが、実に蓄える所がない。臣は一銭も費やさず、ただ権勢の擅にする産鉄の所を尽く禁じ、官が炉を立て鼓鑄して器とし売り、得た利を常平塩課と合わせ、倉に粟を糴って積み、貴い時に糶せば、必ずや物価を恒に賤しくし、厚利を得ることができる。国家は平準を立てたが、然るに規運に曉る者がいないため、鈔法が虚弊し、諸物が踊貴している。宜しく各路に平準周急庫を立て、その月息を軽くし、以て貧民に貸せば、かくの如くすれば、貸す者が多く、かつ元手も失わない。また、随朝の官吏は俸を増したが、州郡は及んでいない。各都に市易司を立て、諸牙儈人を領せしめ、商人の物貨を計り、四十分の一を取り、十を率として、四分を牙儈に与え、六分を官吏の俸とする。国家は兵をもって天下を得た。糧餉に藉らず、ただ羊馬に資る。宜しく上都・隆興等路において、官銭で幣帛を買い、北方で羊馬と易え、蒙古人を選んでこれを牧せしめ、その皮毛・筋角・酥酪等の物を収め、十分を率として、官はその八分を取り、二分を牧者に与える。馬は軍興に備え、羊は賜与に充てる」。帝は言った、「汝が先に言った数事は皆善く、固より速やかに行うべきである。この事もまた善い。祖宗の時もまたこれを行おうとして果たさなかった。朕は考えよう」。世栄は因って奏上して言った、「臣の行う事は、多く人の怨む所となり、後必ず臣を譖る者があるでしょう。臣は実にこれを懼れます。先ずこれを言うことを請います」。世祖は言った、「汝の言うことは皆是である。ただ人に言わせないことを欲するのは、どうしてその理があろうか。汝は朕を防がずともよい。飲食起居の間は自ら防ぐがよい。疾足の犬は、狐はこれを愛さないが、主人はどうしてこれを愛さないことがあろうか。汝の行う所は、朕自ら愛する。彼の奸偽の者は愛さないだけだ。汝の職分は既に定まった。その一二人を以て従行せず、また謹んで門戸を衞うべきである」。遂に丞相安童に諭してその従人を増やさせた。その帝に倚眷されることこの如くであった。

また十余日を経て、中書省が行御史臺を罷めることを請い、その隷する按察司を内臺に隷させた。また随行省の所在に行樞密院を立てることを請うた。世祖は言った、「行院の事は、前日に既に議した。阿合馬が智を任せ私にし、その子忽辛に行省を兼ねて兵権を持たせようとして止んだ。汝が今これを行うのは、事に宜しい」。明日、六部を二品に陞めることを奏上した。また按察司に各路の錢穀を総べさせ、幹済の者を選んで用い、その刑名の事は御史臺に上し、錢穀は部より省に申すように奏上した。世祖は言った、「汝は老臣と共に議し、然る後にこれを行うがよい」。

二月辛酉、御史臺が奏上した。「中書省が行臺を廃止し、按察司を提刑転運司に改め、銭穀の事務を兼務させようと請うています。臣らはひそかに考えるに、初めに行臺を設置したとき、朝廷の老臣が集議して有益であるとし、今も損なうところはなく、軽々に廃止すべきではありません。また按察司が転運を兼ねれば、糾弾の職務は廃れます。右丞相に再び朝廷の老臣と集議させてください。」詔旨を得て、その請いの通りとした。壬戌、御史臺が奏上した。「先に奉った詔旨により、臣らに行臺の廃止及び転運事務の兼務について議させました。世栄は、按察司に任用された者は皆、優れた才能を持ち職務に適う者であり、銭穀を兼務できると言います。しかし廷臣は皆、不可としています。彼が取り立てる人物については、臣は止めることはできませんが、ただ行臺を廃止すべきでないと言う点は、衆議が皆そうなのです。」世祖が言った。「世栄はどう思っているのか。」奏上して言った。「廃止したいと思っているようです。」世祖が言った。「世栄の言う通りにせよ。」

中書省が規措所を設置することを奏上し、その官秩を五品とし、その役所の官吏には善く商売をする者を用いるとした。世祖が言った。「これはどのような職務か。」世栄が答えて言った。「銭穀を規画する者です。」そこで従った。また奏上した。「天下で銭穀の規画運営ができる者は、以前は皆阿合馬の門下にいましたが、今は汚濁の徒として記録されており、これらを全て廃してよいものでしょうか。臣はその中から通才で用いることができる者を選びたいと思いますが、しかし臣が罪人を用いるという非難を恐れます。」世祖が言った。「どうしてそのようなことを言う必要があるか。用いることができる者を用いよ。」そこで以前の河間転運使張弘綱・撒都丁・不魯合散・孫桓を、共に河間・山東等路都転運塩使とした。その他抜擢任用された者は非常に多かった。

世栄は既に利益追求を自ら任じていたが、怒る者が多いことを恐れ、九つの事柄を以て世祖を説き、天下に詔を下させた。第一に、民間の包銀を三年間免除すること。第二に、官吏の俸給について民間に帯納させないこと。第三に、大都の地税を免除すること。第四に、江淮の民で失業貧困に陥り、妻子を売って自らを養う者については、その所在の官がこれを買い戻し、良民とすること。第五に、逃亡・移住した者が再び生業に就く場合、その差役・税を免除すること。第六に、郷民で酢を造る者については、課税を免除すること。第七に、江南の田主が佃客から収取する租課を、一分減免すること。第八に、内外の官吏の俸給を五分増支すること。第九に、百官の考課昇擢の法を定めること。おおよそ怨みを解き名声を得ようとしたに過ぎないが、世祖は全て従った。

既にしてまた奏上した。「真定・済南・江淮等の処に宣慰司を立て、都転運使司を兼務させ、課程を治めさせるとともに、条例を立て、諸司が管課の官吏を追捕したり、あるいは人を遣わして勝手に課税事務を行う場所に行き沮害擾乱させたりすることを禁じ、按察司が文巻を検査することを許さない。」また奏上した。「大都の酒課は、一日に米千石を用いる。天下の衆を以て京師と比べれば、三分の二を占めるべきであり、酒課も一日に米二千石を用いるべきである。今、各路はただ総計して一日に米三百六十石を用いるに過ぎない。その奸欺・盗隠がこのようなものであり、どうして禁じないでいられようか。臣らは既に各官に旧課の二十倍を増やすよう責めています。後に数に満たない者があれば、その罪を重くします。」皆従った。

三月庚子、世栄が宣徳と王好礼を共に浙西道宣慰使とするよう奏上した。世祖が言った。「宣徳については、多くの人がその悪行を言っている。」世栄が奏上して言った。「彼は中書省に申し出て、歳ごとに七十五万錠の鈔を調達できると言いました。それで行かせようとしたのです。」従った。四月、世栄が奏上して言った。「臣は伏して聖眷を蒙り、事は皆臣に委ねられています。臣愚かながら考えるに、今日の事は、数万頃の田のようで、昔はこれを耕す者がなく、草がその間に生えていました。臣が今これを耕し始め、既に耕した所もあり、未だ耕していない所もあり、或いは種を播いたばかりであり、或いは既に苗が生えています。しかし人をしてこれを守らせなければ、物に踏み荒らされてしまうのは惜しいことです。今、丞相安童が臣の行うことを監督するのは、田を守る者です。しかし力を貸さなければ、田を耕す者も徒労に終わります。田を守る者が力を貸しても、天が雨を降らさなければ、結局成就しません。いわゆる天の雨とは、陛下が臣に力を添えられることです。どうか陛下は臣を憐れんでください。」世祖が言った。「朕は分かった。」行うべき事柄の項目を奏上させ、皆従った。

世栄が中書省に在ったのは僅か数ヶ月であったが、委任の専一を恃み、肆にして憚るところなく、丞相をも虚位と見なした。左司郎中周戭は世栄と少し合わず、詔旨を廃格した罪に坐し、奏上して殺害したので、朝中は凜々とした。監察御史陳天祥が上章してこれを弾劾し、おおよそ「苛酷に誅求し、国のために怨みを集め、民間が凋耗し、天下が空虚となる様を見ることになろう。その行う所と言う所を考証すれば、既に相副わない。初めは鈔法を旧の如くにできると言い、今は弊害がますます甚だしい。初めは百物を自ずから安価にできると言い、今は百物がますます高価である。初めは課程を三百万錠まで増やせ、民から取らないと言い、今は諸路を迫脅し、数通りに虚偽の認めを強いているに過ぎない。初めは民をして楽しませると言い、今なす所は非ずして民を擾乱する事ばかりである。もし早くこれを更張しなければ、自ら敗れるのを待つのは、正に蠹が除かれても木は既に病んでいるようなものだ」と述べた。世祖は当時上都におり、御史大夫玉速帖木児がその状を以て奏聞すると、世祖は初めて大いに悟り、即日に唆都八都児・禿剌帖木児等を大都に還らせた。安童に命じて諸司の官吏・老臣・儒士及び民間の事を知る者を集め、世栄と共に天祥の弾劾文を聴かせ、さらに世栄と天祥を上都に赴かせた。

壬戌、御史中丞阿剌帖木児・郭佑、侍御史白禿剌帖木児、参政撒的迷失等が、世栄の伏した罪状を以て奏上して言った。「丞相安童に告げず、鈔二十万錠を支給した。六部を擅に二品に昇格させた。李璮に倣い、急遞鋪に紅・青・白の三色の囊を用いて文書を転送させた。枢密院と議せず、三行省の一万二千人を調発して済州に置き、漕運使陳柔を万戸に任じて管領させた。沙全を以て万戸寗玉に代わって浙西呉江を戍守させた。阿合馬の党人潘傑・馮珪を杭・鄂の二行省参政に用い、宣徳を杭州宣慰とし、その他中外に分布させた者は多い。鈔が虚であるため、回易庫を閉鎖し、民間の昏鈔は流通しなくなった。白酵課を廃止した。野麵・木植・磁器・桑棗・石炭・匹段・青果・油坊等の諸牙行を立てた。県官の鈔八十六万余錠を調出した。」丞相安童が言った。「世栄は以前奏上して、民から取ることなく歳ごとに三百万錠の鈔を調達でき、鈔を再び実体あるものにし、諸物を悉く安価にし、民をして休息を得させ、数ヶ月で成效があると言いました。今や既に四ヶ月経過しましたが、行う所は言う所に符合せず、銭穀の支出は収入より多く、奸邪の人を引用し、選法を紊乱しています。」翰林学士趙孟伝等もまた、「世栄は初め財賦を自ら任じ、当時の人情は敢えて予測せず、別に方術があり、国用を増益できるであろうと言いました。今に至って観るに、御史の言う通りに過ぎません。更張の機は、正に今日にあります。もし再びその行う所を恣にすれば、害は小さくありません」と述べた。

阿剌帖木児が天祥等と共に世祖の前で世栄と対決し、一つ一つ罪状を認めさせた。忽都帯児を遣わして中書省に旨を伝え、丞相安童に諸老臣と議させ、世栄の行ったことで廃止すべきものは廃止し、変更すべきものは変更し、用いた人で実際に罪のない者は、朕自ら裁処すると命じた。そこで世栄を獄に下した。十一月乙未、世祖が忽剌出に問うて言った。「汝は盧世栄について何か言うことはあるか。」答えて言った。「近頃漢人で新たに中書省に居る者が、世栄は罪状を認め、遺漏する罪はなく、獄は既に決したが、なお日々養っており、徒らに廩食を費やしていると言います。」誅殺の旨があり、世栄を誅し、その肉を刲いて禽獺に食わせた。

桑哥

桑哥は、膽巴国師の弟子である。諸国の言語に通じていたので、かつて西蕃の訳史を務めた。人となりは狡猾で横暴であり、財利の事を好んで言い、世祖はこれを喜んだ。後に貴幸を得ると、師事した膽巴のことを隠して背いた。至元年間、総制院使に抜擢された。総制院とは、浮屠氏の教えを掌り、兼ねて吐蕃の事を治めるものである。御史台がかつて章閭を按察使にしようとしたとき、世祖は言った、「この者は桑哥がかつて言及した者だ」と。また盧世栄が任用されたのも、桑哥の推薦によるものであった。中書省がかつて李留判という者に油を買わせようとしたとき、桑哥は自らその金を得て買うことを請うた。司徒の和禮霍孫は、これは汝のなすべきことではないと言ったが、桑哥は服せず、ついには互いに殴り合い、かつ彼に言った、「漢人に侵盗させるよりは、僧寺や官府に営利させたほうがよいではないか」と。そこで油一万斤を与えた。桑哥は後に営んだ利息の金を進上した。和禮霍孫は言った、「私は当初このことを理解していなかった」と。ある日、桑哥が世祖の前で和雇・和買の事を論じ、このことに言及したので、世祖はますます喜び、大任させる意向を初めて持った。かつて旨があり、桑哥に省臣の姓名を具えて進上させた。朝廷に何か建置があり、人材の進退があれば、桑哥はことごとく参与して知るところとなった。

二十四年閏二月、尚書省を再び置き、ついに桑哥と鐵木兒を平章政事とした。詔して天下に告げ、行中書省を行尚書省と改め、六部を尚書六部とした。三月、鈔法を改定し、至元宝鈔を天下に頒行し、中統鈔は従前通り通用させた。桑哥はかつて旨を奉じて中書省の事を検査し、校出した欠損鈔四千七百七十錠、昏鈔一千三百四十五錠をすべて挙げた。平章の麥朮丁はただちに自ら伏し、参政の楊居寬はわずかに自ら弁明し、実は銓選を掌り、銭穀は専管ではないとした。桑哥は左右の者に命じてその顔を拳で打たせ、そこで問うて言った、「すでに選事を典じている以上、果たして黜陟を失当にした者がいないというのか」と。まもなくこれも服罪した。参議の伯降以下、すべて鈎考の違惰・耗失などの事、および参議の王巨濟がかつて新鈔は不便と言って旨に逆らったことについて、それぞれ服罪した。参政の忻都を遣わして奏聞させた。世祖は丞相の安童に桑哥と共に議させ、かつ諭して言った、「麥朮丁らが他日に脅問して誣伏させたと言い訳することを許すな。この輩はもとより狡猾な者である」と。

数日後、桑哥はまた奏上した、「中書参政の郭佑を訊問したところ、滞納が多く、職に居ながら言わず、病気を口実にしていた。臣は言う、中書の事務がこのように廃惰であるなら、汝の力が及ばないのであれば、なぜ蒙古大臣に告げなかったのか、と。そこで殴り辱めたが、今はすでに服罪した」と。世祖は徹底的に詰問するよう命じた。郭佑と楊居寬は後にいずれも市で処刑され、人々はみな冤罪と思った。台吏の王良弼はかつて人と尚書省の政事を議論し、また言った、「尚書省が中書省を鈎校するのは余力を遺さない。他日我々が尚書省の奸利を発覚させることができれば、その誅殺と財産没収は難しくない」と。桑哥はこれを聞き、王良弼を捕らえて至らせ、中書台院の札魯忽赤とともに訊問した。服罪し、この輩は誹謗したので、誅殺しなければ後を懲らしめられないと言った。ついに王良弼を誅殺し、その家を没収した。呉徳という者がいた。かつて江寧県の達魯花赤を務め、官職を求めて果たせず、ひそかに人と時政を非議し、また言った、「尚書省が今日中書省の弊を覈正するが、他日また中書省に覈正される。汝だけが死なないというのか」と。ある者がこれを桑哥に告げたので、急いで呉徳を捕らえて審問し、殺し、その妻子を没収して官に属させた。

桑哥はかつて沙不丁を遥かに授けて江淮行省左丞とし、烏馬兒を参政とし、前の通り泉府・市舶両司を領させ、拜降を福建行省平章とするよう奏上した。すでに旨を得ると、世祖に言った、「臣が以前に言ったのは、すべて省臣と行省官を任ずるには、丞相の安童と共に議すべきだということでした。今、沙不丁・烏馬児らを用いることを奏上したのは、ちょうど丞相が大都に還り、通議するに及ばなかったからです。臣は以前の奏上を口実にする者がいるのではないかと恐れます」と。世祖は言った、「安童がいないなら、朕が主である。朕はすでに允行した。言う者がいれば、朕の前で言わせよ」と。

当時、江南行台と行省の間には文書のやり取りがなく、事の大小を問わず、必ず内台に諮問して省に呈し奏聞しなければならなかった。桑哥はその往復が滞留して事を誤らせるとして、内台の例の如く、各省に分けて呈すべきだとした。また言った、「按察司の文案は、各路の民官が検査し、互いに糾挙すべきである。かつ太祖の時より旨があり、すべて官事に臨む者は互いに監察せよ、これは故事である」と。従った。

十月乙酉、世祖は旨を伝えて翰林の諸臣に諭した、「丞相が尚書省を領するのは、漢・唐にこの制度があるか」と。みな答えて言った、「あります」と。翌日、左丞の葉李が翰林・集賢の諸臣の答えたことを奏上し、かつ言った、「前の省官が行えなかったことを、平章の桑哥は行える。右丞相とするのがよい」と。制して「可」と言った。ついに桑哥を尚書右丞相とし、兼ねて総制院使とし、功德使司事を領させ、階を進めて金紫光禄大夫とした。ここにおいて桑哥は、平章の鐵木兒を代わってその位につけ、右丞の阿剌渾撒里を平章政事に昇進させ、葉李を右丞に遷し、参政の馬紹を左丞に昇進させるよう奏上した。

十一月、桑哥は言った、「臣が以前に諸道の宣慰司および路・府・州・県の官吏が、稽緩して事を誤るので、旨を奉じて人を遣わして遍く笞打して責めた。今、真定宣慰使の速哥、南京宣慰使の答失蠻は、いずれも勲賢旧臣の子である。聖裁を取るべきです」と。勅してその任を罷免させた。明年正月、甘粛行尚書省参政の鐵木哥が職事に心を留めず、また協力しないので、乞牙帯を代わりとするよう奏上した。まもなく、また江西行尚書省平章政事の忽都鐵木兒が職を尽くさないので、奏上して罷免した。兵部尚書の忽都答兒がその職に勤勉でないので、桑哥は殴って罷免してから奏上した。世祖は言った、「このような者を罷免しなければ、汝の事はどうして行えようか」と。万億庫に旧牌絛七千余条があった。桑哥は言った、年が経つと腐るので、解いて他に用いるべきだと。諸王の出伯に銀二万五千両、幣帛一万匹を賜り、官驢に載せて運んだが、到着するとともに賜った。桑哥は言った、「驢に玉を載せて帰らせるほうがよい」と。世祖は大いにこれを然りとした。かくの如く小利をもって知遇を結ぼうとしたのである。

漕運司の達魯花赤の怯來は、かつて沿河の諸倉を巡察せず、盗難・詐偽・腐敗する者が多いに至らせた。桑哥は兵部侍郎の塔察兒を代わりとするよう議した。尚書省を立てて以来、すべての倉庫諸司を、ことごとく鈎考し、先に六部官を抜擢して委ねたが、また専任でないとして、ついに徴理司を置き、追徴すべき財穀を治めさせた。当時桑哥は理算を事とし、毫分縷析し、倉庫に入る者は、ことごとく破産し、交代の時となれば、人々はみな家を棄てて避けた。十月、桑哥は奏上した、「湖広行省の銭穀は、すでに平章の要束木に自首償還を責めました。外省の欺盗は必ず多いでしょう。参政の忻都、戸部尚書の王巨済、参議尚書省事の阿散、山東西道提刑按察使の何榮祖、札魯忽赤の禿忽魯、泉府司卿の李佑、奉御の吉丁、監察御史の戎益、僉樞密院事の崔彧、尚書省断事官の燕真、刑部尚書の安祐、監察御史の伯顏ら十二人に、江淮・江西・福建・四川・甘粛・安西の六省を理算させ、各省それぞれ二人ずつとし、特に印章を与えましょう。省部官が既に去れば、事は廃せられません。代わりの者を選ぶことを擬し、元の俸給を食むことを聴すべきです。理算の間、使令に備え、かつ護衛とするため、兵を与えるのがよいでしょう」と。世祖はすべて従った。

この時、天下は騒然とし、江淮の地は特に甚だしく、諂諛の徒はまさに都の民史吉らを唆して桑哥のために石碑を立てて徳を称えさせようとした。世祖はこれを聞いて言った、「民が立てたいならば立てさせよ、なお桑哥に告げて、彼を喜ばせよ」と。そこで翰林が文を製し、題して王公輔政之碑と曰う。桑哥はまた総制院が統轄する西蕃諸宣慰司は、軍民財穀の事柄が甚だ重いので、これを崇異する方法があるべきとし、宣政院に改めるよう奏上し、秩は従一品とし、三臺の銀印を用いた。世祖は誰を用いるかと問うと、答えて言った、「臣と脱因です」と。そこで桑哥を開府儀同三司・尚書右丞相とし、宣政使を兼ね、功德使司事を領せしめ、脱因を同じく使とした。世祖はかつて桑哥を召して言った、「朕は葉李の言により、至元鈔に改めた。用いるのは法であり、貴ぶのは信である。汝は紙幣として軽んじてはならぬ。その根本を失ってはならぬ。汝はよく心得よ」と。

二十六年、桑哥は甘粛行尚書省及び益都淄萊淘金総管府を鈎考するよう請うた。僉省趙仁栄・総管明里らは皆罪により罷免された。世祖が上都に行幸した時、桑哥は言った、「昨年陛下が上都に行幸された時、臣は毎日内帑諸庫を視察しました。今年は小輿に乗って行こうと思いますが、人々は必ずひそかに議論するでしょう」と。世祖は言った、「人に議論させよ、汝は乗るがよい」と。桑哥はまた奏上した、「近頃省臣に左右司の文簿を検査させたところ、監察御史が稽照したものでも、遺逸がまだ多い。今後は監察御史に省部で即座に稽照させ、巻末に姓名を書かせるべきです。もし遺逸があれば、罪を帰しやすくなります。なお侍御史堅童に視察させ、過失があれば連坐させましょう」と。世祖はこれに従い、監察御史四人を笞打った。この後、監察御史が省部に赴くと、掾令史は彼らと対等の礼をとり、ただ小吏に文簿を持たせて机に置いて去るだけで、監察御史は遍く閲覧するのみとなり、臺綱は廃れた。参政忻都が既に去った後、まもなく召されて朝廷に赴いた。戸部尚書王巨済を専任して理算を担当させ、江淮省左丞相忙兀帯がこれを総轄した。

閏十月、桑哥の輔政碑が完成し、省の前に建てられ、楼閣で覆い丹塗りした。桑哥は言った、「国家の経費は既に広く、歳入は常に支出に償わず、往年の計算では、不足分は百万錠余りです。尚書省が天下の財穀を鈎考して以来、陛下の福により、徴収したもので補填し、未だ百姓に徴収したことはありません。臣は今後この方法を用いるのは難しいと恐れます。なぜなら、倉庫で徴収できるものは少なく、盗む者もまた少ないからです。臣はこれを憂えます。臣の愚見では、塩課は毎引現在中統鈔三十貫の価値ですが、一錠に増やすべきです。茶は毎引現在五貫の価値ですが、十貫に増やすべきです。酒酢税課は、江南では十万錠増額すべきです。内地では五万錠です。協済戸十八万は、籍に入ってから今まで十三年、半賦のみを輸納していますが、その力が既に完備したと聞きます。全賦に増やすべきです。このようにすれば、国用はどうにか支えられ、臣らも罪を免れるでしょう」と。世祖は言った、「議するとおりに行え」と。

桑哥が既に政権を専断すると、内外の官を銓調する全ては己によるものとなったが、その宣勅は尚だ中書省から出ていた。桑哥がこれを言上すると、世祖は命じて今後は宣勅ともに尚書省に付すようにした。これにより刑罰と爵位を商品として売買し、皆その門を走り、高価を払って欲しいものを買った。高価が入れば、刑を受けるべき者は免れ、爵を求める者は得た。綱紀は大いに乱れ、人心は驚愕した。

二十八年春、世祖は漷北で狩猟した。也里審班及び也先帖木児・徹里らが、桑哥が権力を専断し賄賂を貪ったことを弾劾奏上した。この時不忽木は出使中であったが、三度人を遣わして急ぎ召し寄せ、行殿で拝謁させた。世祖が問うと、不忽木は答えて言った、「桑哥は聡明を蔽い、政事を紊乱し、言う者があれば即ち他罪を誣いて殺します。今、百姓は失業し、盗賊が蜂起し、乱を招くのは旦夕の間です。急いで誅さなければ、陛下の憂いとなるでしょう」と。留守賀伯顔もかつて世祖にその奸欺を陳述していた。久しくして言う者が益々多くなり、世祖は初めて誅する決意を固めた。

二月、世祖は大夫月児魯に諭して言った、「しばしば桑哥が臺綱を沮抑し、言う者の口を塞ぎ、またかつて御史を捶撻したと聞く。その罪とする事柄は何か、弁明すべきである」と。桑哥らは御史李渠らの既に刷った文巻を持って来て、侍御史杜思敬らに勘験弁論させた。往復数回、桑哥らは言葉に窮した。翌日、帝は大口に駐蹕し、再び御史臺及び中書・尚書両省の官を召して弁論させた。尚書省は巻を執って奏上した、「前浙西按察使只必は、監焼鈔の際に賄賂を受け取って千錠に至り、かつて臺に檄してこれを徴したが、二年も報告がない」と。思敬は言った、「文書の順序は全て巻中にあります。今、尚書省が巻を開いて対抗するとは、その弊が見えます」と。速古児赤闍里が巻を抱えて前に進み出て奏上した、「紙の継ぎ目を朱印で封じるのは、欺瞞を防ぐためです。彼らが宰相たる者が、巻を開き印を破って人と弁論するとは、吏に奸を行うことを教えるもので、その罪を治めるべきです」と。世祖はこれを是とした。御史臺を責めて言った、「桑哥が悪を行ったのは、四年にわたり、その奸贓が顕著なのは一つではない。汝ら臺臣は知らぬとは言い難い」と。中丞趙国輔は答えて言った、「知っています」と。世祖は言った、「知りながら弾劾しないのは、自ら何の罪に当たるか」と。思敬らは答えて言った、「官を奪い俸を追うのみで、ただ上のお裁き次第です」と。数日決しなかった。大夫月児魯が奏上した、「臺臣で久しく任にある者は斥罷し、新任の者は留めるべきです」と。そこで桑哥の輔政碑を倒し、獄に下して究問した。七月に至り、ようやく誅殺された。

附 要束木

平章要束木は、桑哥の妻の一族である。湖広にいた時、正月朔日、百官が行省に会し、朝服を着て待っていた。要束木は彼らを自宅に召し寄せ、賀を受け終わってから、ようやく省に詣でて闕に向かい、常の儀礼通りに賀した。また密かに卜者を召して不軌の言があった。ここに至り、中書省がその罪状を列挙して上聞すると、世祖は命じて械につないで湖広に送り、その省において誅戮した。

鉄木迭児

鉄木迭児は、木児火赤の子である。かつて世祖に仕えた。成宗大徳年間、同知宣徽院事、兼通政院使。武宗が即位すると、宣徽使となった。至大元年、江西行省平章政事から、雲南行省左丞相に拝された。二年在任した後、職を離れて擅かに朝廷に赴いた。尚書省が奏上し、旨を奉じて詰問させたが、まもなく皇太后の旨により、罪を赦されて職に還った。明年正月、武宗が崩御し、仁宗が東宮におられた時、丞相三宝奴らが旧章を変乱したとして、これを誅殺した。完沢及び李孟を中書平章政事に用い、鋭意庶務を更張しようとした。しかし皇太后が興聖宮におられ、既に旨があり、鉄木迭児を中書右丞相に召していた。一月余りして、仁宗が即位し、これにより彼を丞相とした。上都に行幸した時、鉄木迭児に命じて大都を留守させた。平章完沢らが奏上した、「故事では、丞相が京師に留まって治める者は、出入りに蓋を張ることができます。今、右丞相鉄木迭児が大都を居守するに当たり、時はまさに盛暑です。故事のように蓋を張ることを得させてください」と。許された。この年冬、制を下して鉄木迭児の曾祖唆海に翊運宣力保大功臣・太尉を贈り、諡して武烈とし、祖不憐吉帯に推誠保徳定遠功臣・太尉を贈り、諡して忠武とし、父木児火赤に推忠佐理同徳功臣・太師を贈り、諡して忠貞とし、ともに開府儀同三司・上柱国とし、追封して帰徳王とした。

皇慶元年三月、鐵木迭兒が上奏した。「臣は誤って聖恩を蒙り、中書に抜擢任用されましたが、年老いて病んでおり、政体を深く理解することはできませんが、忠誠を尽くして報いようと努め、事を始めるにあたっては、敢えて自らを励ましてきました。以前の省の弊政は、今まさに更新しようとしています。謹んで思うに、歴代の聖帝が相承け、天下を統一され、日々万機の政務がありますが、これを整えなければ、弛緩に至る恐れがあります。今後、朝夕政務を視察し、左右司・六部の官で心を尽くさない者がいれば、論決すべきであり、再び改めない者は罷免して叙用せず、また口実を設けて他職を僥倖する者も叙用しないでください。」仁宗はその言を是とした。既にして病により職を去った。

延祐に改元し、丞相ハサンが上奏した。「臣は世勲の族姓ではなく、幸い陛下に宰相に任じられましたが、丞相鐵木迭兒のように政体に練達し、かつ国史の監修を嘗て務めた者に、その印を授け、翰林国史院を領させ、軍国の重務を悉く議させてください。」仁宗は言った。「その通りだ。卿は皇太后に啓上せよ。印を与え、大事は必ず預からせて聞かせよ。」遂に開府儀同三司・監修国史・録軍国重事に拝された。数ヶ月後、再び中書右丞相に拝され、ハサンは左丞相となった。鐵木迭兒が上奏した。「陛下が臣を憐れみ、再び首相に抜擢されました。迎合して言わなければ、誠に聖眷に背きます。近頃聞くところでは、内侍が隔越して奏旨する者が多く、もし禁止しなければ、治世を実現するのは難しいです。諸司に勅して、今後は中書の政務に干渉しないよう命じてください。また、以前は富民が諸蕃に商販に行き、概ね厚利を得たため、商う者が益々増え、中国の物価は軽く、蕃貨は逆に重くなりました。今、江浙右丞曹立にその事を領させ、船十綱を発し、牒を与えて行かせ、帰還したら制に従って徴税し、私的に行った者はその貨を没収してください。また、経費が足りず、もし事前に計画しなければ、必ず過誤に至ります。臣らが諸老を集めて議したところ、皆、鈔本を動かせば鈔法は益々虚しくなり、賦税を加えれば毒は黎庶に流れ、課額を増やせば国初に比べて既に五十倍になっていると言います。ただ、山東・河間の運使の来年の塩引を予め買い、及び各冶の鉄貨を以てすれば、おそらく今年の用を足すことができます。また、江南の田糧は、往年に嘗て経理しましたが、多くは実を覈していません。江浙から始め、江東・江西に及ぶべきであり、先ず厳格な制限と信賞必罰を以てし、田主に手ずから頃畝の状を官に実らせ、諸王・駙馬・学校・寺観にも同様に命じ、なお私的に民田を匿うことを禁じ、貴戚勢家が沮撓することを許さないでください。台臣に勅して協力して成し遂げさせれば、国用は足ります。」仁宗は皆これに従った。間もなく使者を各省に分遣し、田を括り税を増やしたが、苛酷で急迫し煩わしく擾乱し、江右が最も甚だしく、贛州の民蔡五九が寧都で乱を起こすに至り、南方は騒動し、遠近は驚き恐れた。乃ちその事を罷めた。

翌年、鐵木迭兒が上奏した。「天下の庶務は、中書に統べられますが、旧制では省臣も分けて領していました。銭帛・鈔法・刑名を平章李孟・左丞アブハイヤ・参政趙世延等に委ねて領させ、糧儲・選法・造作・駅伝を平章張驢・右丞蕭拜住・参政曹従革等に委ねて領させてください。」旨を得て請う如くとなった。七月、詔を内外に諭し、右丞相鐵木迭兒に宣政院事を総べさせた。十月、太師に進位した。十一月、大宗正府が上奏した。「累朝の旧制では、凡そ重刑を議するには、必ず蒙古大臣に決させます。今は太師右丞相に聴くべきです。」従った。

鐵木迭兒は既に再び中書に入り、首相の座に居て、勢いを恃み貪婪で暴虐であり、兇悪で穢らわしいことが益々甚だしくなった。ここにおいて蕭拜住が御史中丞から中書右丞となり、間もなく平章政事に拝され、少しずつ彼を牽制した。そして楊朵児只が侍御史から中丞に拝され、慨然としてその罪を糾弾することを己が任務とした。上都の富人張弼が人を殺して獄に繋がれていたが、鐵木迭兒が家奴を遣わして留守賀伯顏を脅し、彼を出獄させようとしたが、伯顏は正を保持して撓がなかった。そして朵児只は既に丞相が張弼から賄賂を受けた明らかな証拠を入手しており、乃ち拜住及び伯顏と共にこれを奏上した。「内外の監察御史凡そ四十余人が共に鐵木迭兒の桀黠で姦貪、陰賊で険狠、上を蒙き下を罔い、政を蠹し民を害し、爪牙を布置し、朝野を威讋し、善人を誣陥し、利を要して己が為すべきことならば、至らざる所はないと弾劾しました。晋王の田千余畝、興教寺の後ろの壖園地三十畝、衛兵の牧地二十余畝を奪い取りました。郊廟の供祀馬を窃かに食しました。諸王ハルバンダの使人から鈔十四万貫を受け、宝珠・玉帯・𣰽毺・幣帛はまた鈔十余万貫に計上されます。杭州永興寺の僧章自福から賄賂の金一百五十両を受け取りました。殺人囚張弼から鈔五万貫を取りました。且つ既に人臣の極位にありながら、また宣政院事を領し、その子バリギスをその使としました。諸子は国に功が無いのに、皆貴顕の地位に居ます。家奴を放って官府を陵虐させ、百端の害を為しました。以て陰陽不和となり、山が移動し地震が起こり、災異が数多く現れ、百姓が流亡するに至りましたが、己は恬然として少しも省み悔い改めません。私的な富は、またアフマド・サンガの上にあります。四海の疾怨は久しく、皆車裂き斬首してその心を快くすることを願っています。もし早く顕戮を加えて天下に示せば、後世の臣たる者の戒めと知るでしょう。」奏上された後、仁宗は震怒し、詔して逮捕尋問させたが、鐵木迭兒は興聖宮の近侍の家に匿れ、有司は捕えることができなかった。仁宗は数日間機嫌を損ね、またこれが皇太后の意向かと恐れ、重く傷つけて逆らうことを忍びず、乃ち僅かにその相位を罷めたのみであった。

鐵木迭兒が家居して一年も経たないうちに、また起用されて太子太師となった。中外これを聞き、驚かぬ者はなかった。参政趙世延が御史中丞となり、諸御史を率いてその不法数十事を論じ、また内外の御史がその東宮を輔導すべからざることを論じた者は、また四十余人に及んだ。しかし皇太后の故に、終にその罪を明らかに正すことができなかった。

翌年正月辛丑、仁宗が崩御した。四日後、鐵木迭兒は皇太后の旨を以て、再び中書に入り右丞相となった。また一月余り後、英宗がまだ東宮にいる時、鐵木迭兒は太后の旨を宣し、蕭拜住と朵児只を徽政院に召し、徽政院使シリムン・御史大夫トクトハと雑問し、以前に太后の旨に違ったことを責めて、罪に伏するよう命じた。即ち起ち入って奏上し、急いで旨を称え、二人を捕えて市に棄てさせた。この日、白昼が晦冥となり、都人は恟懼した。

英宗が即位の礼を行おうとした時、鐵木迭兒は常に足を病んでいた。中書省が啓上した。「祖宗以来、皇帝が登極される時、中書は百官を率いて称賀し、班首はただ上の命に従います。」英宗は言った。「鐵木迭兒をそれとせよ。」即位した後、鐵木迭兒は即ち奏上して平章王毅・右丞高昉等に委ね、在京の倉庫に貯蔵された糧を徴理させ、七十八万石の不足を出し、倉官及び監臨の出納者に償わせた。貢納した幣帛に紕繆のあるものは、その事を董る本処の官吏に償わせた。なお程限を立てて厳しく督し、違反者は杖刑に処した。五月、英宗が上都にいた時、鐵木迭兒は留守賀伯顏が平素から己に附かないことを嫉み、乃ち奏上してその便服で詔を迎えたことを不敬とし、五府に下して雑治させ、遂に彼を殺した。都民はこれに流涕した。

趙世延は当時四川行省平章政事であったが、鉄木迭児は彼がかつて自分を論難したことを恨み、ちょうど丞相に就任した時、東宮(皇太子)を通じて英宗に上奏し、人を派遣して彼を逮捕させた。世延が到着する前に、鉄木迭児は使者を遣わして世延をそそのかし、良い官職を餌に、同時に自分と意見を異にする者を告発させるよう求めたが、世延は従おうとしなかった。この時、詔に背き不敬の罪に問い、法司に厳しく取り調べさせ、極刑に処するよう請うた。英宗は言った、「彼の罪は赦免の前のことである。釈放すべきである」。鉄木迭児は答えて言った、「かつて世延は省・台の諸人と謀って老臣(自分)を害そうとしました。その姓名を究明するようお願いします」。英宗は言った、「事はすべて赦免の前のことである。どうして尋ねる必要があろうか」。数日後、また世延を死罪に処すべきと上奏したが、またも許されなかった。役人はその意向を窺い、罪状を捏造して自害させようとしたが、世延は終に屈することなく、英宗が平素より彼の忠良さを聞いていたおかげで、死を免れた。

鉄木迭児はその権勢と寵愛を頼みに、隙に乗じて毒を振るい、些細な恨みでも報いないものはなかった。英宗は彼が誹謗中傷する者が皆先帝(仁宗)の旧臣であることに気づき、その行いをますます快く思わず、そこで拜住を左丞相に任じ、腹心として委ねた。鉄木迭児は次第に疎遠にされ、病気で自宅で死去した。御史の蓋継元と宋翼が上言して、彼は上は国恩に背き、下は民望を失い、生前に顕戮を逃れ、死してもなお余辜があると述べた。そこで彼が建てた碑を壊し、官爵と封贈の制書を追奪し、家財を没収するよう命じた。

子の班丹は知枢密院事となったが、まもなく贓罪で失脚し、叙用されなかった。鎖南はかつて治書侍御史を務めたが、その後、鉄失が英宗をしいしいぎゃくした際、鎖南は逆党として誅殺された。

(哈麻)

哈麻は字を士廉といい、康里の人である。父は禿魯、母は寧宗の乳母であった。禿魯はこの縁故で冀国公に封ぜられ、太尉を加えられ、階は金紫光禄大夫となった。哈麻とその弟の雪雪は早くから宿衛に備え、順帝の深い寵愛を受けた。哈麻は弁舌に優れ、特に帝に親昵され、累進して殿中侍御史となった。雪雪は累官して集賢学士となった。帝はしばしば内殿で哈麻と双陸をして遊んだ。ある日、哈麻が新衣を着て側に侍っていると、帝がちょうど茶を啜り、その衣に茶を吹きかけた。哈麻は帝を見つめて言った、「天子がこのようなことをなさるのですか」。帝はただ一笑しただけだった。その寵愛を受ける様は、比べるものがないほどであった。

これにより哈麻の権勢は日増しに盛んとなり、藩王や外戚からもみな賄賂を贈った。まもなく脱脱を謀害しようとして、南安に左遷されたが、召還されて礼部尚書となり、間もなく同知枢密院事に転じた。至正初年、脱脱が丞相となり、その弟の也先帖木児が御史大夫となると、哈麻は日ごとに彼ら兄弟の門に趨り付き従った。ちょうど脱脱が丞相の座を去り、別児怯不花が丞相となった時、別児怯不花は脱脱と旧怨があり、ひどく彼を中傷しようとしたが、哈麻はしばしば帝の前で力を尽くして彼を庇護したため、脱脱は難を免れた。

初め、別児怯不花は太平・韓嘉納・禿満迭児ら十人と兄弟の契りを結び、情誼は非常に密接であった。別児怯不花が罷免された後、至正九年、太平が左丞相となり、韓嘉納が御史大夫となると、哈麻を罷免しようと謀り、監察御史の斡勒海寿にそそのかして、その罪悪を列挙して弾劾上奏させた。その小罪は、宣譲王らから駱駝や馬などの物品を受けたこと。その大罪は、御幄の後ろに帳房を設け、君臣の分け目がないこと。また、提調寧徽寺を名目として、脱忽思皇后の宮闈に間隙なく出入りし、分を越えた罪が特に大きいこと。寧徽寺とは、脱忽思皇后の銭糧を掌る役所であり、脱忽思皇后は帝の庶母である。哈麻は御史が何かを言おうとしていることを知り、あらかじめ帝の前でその無罪を弁明し、事柄はすべて太平と韓嘉納がでっち上げたものであるとした。韓嘉納が御史の言うところを奏上すると、帝は大いに怒り、斥けて受け入れなかった。翌日、弾劾文が再び上ると、帝はやむを得ず、哈麻と雪雪の官職を奪い、草地に居住させるだけにとどめた。そして斡勒海寿を陝西廉訪副使に左遷し、太平は罷められて翰林学士承旨となり、韓嘉納は罷められて宣政使となり、まもなく江浙行省平章政事として出された。しばらくして、脱忽思皇后が帝に泣きついて訴え、御史が弾劾した哈麻の事柄が自分を侵害するものであると言ったので、帝はますます怒り、詔を下して海寿の官を奪い、田舎に追い返して禁錮した。やがて脱脱が再び丞相となり、也先帖木児も再び御史大夫となると、太平を陝西に左遷し、韓嘉納には贓罪を加えて杖罰の上、奴児干に流して死なせた。別児怯不花は罷免された後、なおも般陽に出居させられ、禿満迭児は中書右丞から四川右丞に出されたが、これも罪を着せられ、途中まで追いかけて殺害した。やがて哈麻は再び召し出されて任用され、脱脱兄弟は特に彼に恩義を感じた。

至正十二年八月、哈麻は中書添設右丞に任ぜられた。翌年正月、正式に右丞となった。当時、脱脱は汝中柏を信任しており、彼は郎中から参議中書となり、平章政事以下の者たちは彼の議事を見て、みな唯々諾々とするばかりであった。ただ哈麻だけが性剛直で決断力があり、彼と議論して、しばしば意見が合わなかった。汝中柏はそこで脱脱に哈麻を讒言した。八月、哈麻を宣政院使として出し、また位は第三位とした。哈麻はこれにより脱脱を深く恨んだ。

初め、哈麻は密かに西天僧を進めて、運気術で帝に媚びた。帝はこれを習い、演揲児法と号した。演揲児とは、漢語で大喜楽である。哈麻の妹婿である集賢学士の禿魯帖木児は、もとより帝の寵愛を受け、老的沙・八郎・答剌馬吉的・波迪哇児禡ら十人とともに、みな倚納と号した。禿魯帖木児は性姦佞狡猾で、帝は彼を愛し、言うことを聞き従った。彼もまた西蕃僧の伽璘真を帝に推薦した。その僧は秘密法に長けており、帝に言った、「陛下は万乗の尊位にあり、四海を富ませておられますが、ただ現世を保つに過ぎません。人生はどれほど続くものでしょうか。この秘密大喜楽禅定を受けられるべきです」。帝はまたこれを習った。その法はまた双修法とも名付けられ、演揲児といい、秘密といい、みな房中術である。帝はそこで詔を下して西天僧を司徒とし、西蕃僧を大元国師とした。その徒たちはみな良家の女を選び、四人あるいは三人で一人に奉じ、これを供養といった。そこで帝は日ごとにこの法に従事し、広く婦女を集め、ただ淫戯を楽しんだ。また采女を選んで十六天魔舞を舞わせた。八郎とは帝の諸弟であり、いわゆる倚納たちはみな帝の前で互いに褻狎し、ついには男女裸体で一緒に過ごし、その部屋を皆即兀該と号した。漢語で事事無礙である。君臣が淫を公然と行い、群僧が禁中に出入りして何の禁止もなく、醜い評判と穢らわしい行いは外にまで知れ渡り、市井の人でさえも聞くのを嫌がった。皇太子は年齢が日増しに長ずるにつれ、特に禿魯帖木児らの行いを深く憎み、彼らを除こうとしたが、できなかった。

十四年(至正十四年)の秋、トクトが大軍を率いて高郵を討つと、ハマは隙に乗じて再び中書省に入り平章政事となった。トクトが出師するに当たり、汝中柏を治書侍御史とし、エセン・テムルを補佐させた。汝中柏はしばしばハマを必ず排斥すべきであると述べ、そうしなければ必ず後患となると言ったが、エセン・テムルは従わなかった。ハマはこのことを知り、ついに自らが保たれないことを恐れ、皇后奇氏に訴えて言った、「皇太子は既に立てられたのに、冊宝及び郊廟の礼が行われないのは、トクト兄弟の意向によるものです」。皇后はこれをかなり信じ、ハマはまた汪家奴の子サンガシリ、エセン・テムルの客明理明古とともに皇太子に讒言した。折しもエセン・テムルが病気を理由に官を辞して家にいたので、監察御史エン・サインブカらはただちにハマの意向を察して奏上し、エセン・テムルの罪悪を弾劾し、上奏文は合わせて三度に及び、ようやく帝はこれを許し、詔を下して御史台の印を回収し、エセン・テムルに都門を出て詔勅を聴くよう命じた。そして知枢密院事汪家奴を御史大夫とした。まもなく詔を下してトクトが軍を疲弊させ財を費やした罪を数え上げ、ただちに軍中でその兵権を奪い、淮安に安置した。ほどなくトクト、エセン・テムルはともに貶逐されて死に、その家財と人口を没収し、没収したエセン・テムルの分をハマに賜った。

十五年四月、シェシェは知枢密院事から御史大夫に任ぜられた。五月、ハマはついに中書左丞相に任ぜられ、国家の大権はことごとくその兄弟二人に帰した。

翌年(十六年)二月、ハマは既に丞相となったが、以前に進めた蕃僧のことを自ら恥じ、その父トルに告げて言った、「我が兄弟は宰輔の位にあり、人主を正しく導くべきである。今トル・テムルは専ら淫褻をもって上を媚びている。天下の士大夫は必ず我らを嘲笑うであろう。どのような面目をもって人に会えようか。私はこれを除こうと思う。かつ上は日に日に昏暗に向かっている。どうして天下を治められようか。今皇太子は年長で、聡明人に過ぎている。帝として立て、上を太上皇として奉るに如くはない」。その妹がこれを聞き、帰ってその夫に告げた。トル・テムルは皇太子が帝となれば、自分が必ず先に誅殺されると恐れ、ただちに帝にこれを報告したが、淫褻の事柄を直接は言わず、ただ「ハマは陛下が年老いたからだと申しております」と言った。帝は大いに驚いて言った、「朕の頭はまだ白くなく、歯はまだ落ちていない。急に我を老いだと言うのか」。帝はただちにトル・テムルと謀ってハマ、シェシェを除くことを決め、計略が定まると、トル・テムルは走って尼寺に隠れた。翌日、帝は使者を遣わしてハマとシェシェに詔を伝え、早朝に入朝せず、その家にいて詔を聴くよう命じた。

御史大夫チョスカンがこれに乗じてハマとシェシェの罪悪を弾劾して奏上すると、帝は言った、「ハマ、シェシェ兄弟二人は罪があるが、しかし朕に長く仕え、かつ朕の弟イリンジバル皇帝と実に同じ乳を飲んだ。しばらくその罰を緩め、出征させよ」。やがて中書右丞相定住、平章政事サンガシリが再びハマ、シェシェの罪を糾弾してやまなかったので、ついにその兄弟に城外に出て詔を受けるよう命じ、詔してハマを惠州に、シェシェを肇州に安置した。出発に際し、ともに杖で打ち殺された。ハマが死ぬと、その家財を没収したが、エセン・テムルが封じた庫蔵は、その封印は固より開けられていなかった。ハマ兄弟の寵幸はまさに固かったが、一朝にして急に外に廃されたので、人々は皆、帝が彼らがトクト兄弟を讒言して害したことを怒ったためであると言ったが、その罪が不軌によるものであることを知らなかった。その兄弟の死を、哀れむ者は誰もいなかった。

(チョスカン)

チョスカンは、ケレイト氏で、エセン・ブカの孫、イリンジンの子である。早くから性質寛厚で、言葉は簡潔であり、皆、遠大な器量を期待した。泰定初年、宿衛を継承し、必闍赤ケシクの官となった。至順二年、内八府宰相に任ぜられた。元統初年、出て福建宣慰使都元帥となった。三年間在任し、政治に通達し、威厳と恵みが甚だ顕著であった。後至元三年、江浙行中書省参知政事に任ぜられた。国用の頼るところは海運が重く、この年、チョスカンは命を受けてその役を監督し、措置に方策があり、漕運した米三百余万石はすべて京師に達し、損耗したものはなかった。六年、湖北道粛政廉訪使に抜擢されたが、赴任せず、江浙行省右丞に改められた。福建の塩法は久しく乱れており、詔してチョスカンを遣わしてその私売、盗売及び出納の弊を究めさせた。到着すると、ことごとくその利害を察知し、行うべきことと廃すべきことを定めた。

至正元年、山東粛政廉訪使に改められ、まもなく召されて中政使に任ぜられた。翌年正月、陝西行台御史中丞に任ぜられた。三月、再び中政使となった。八月、太府卿に転じた。四年、中書参知政事に任ぜられ、まもなく右丞に昇進した。六年、御史中丞に転じ、ついに翰林学士承旨に任ぜられ、ほどなく再び中丞となった。また資政使から宣徽使に昇進した。九年、大宗正府也可扎魯火赤に任ぜられ、宗正と国人は皆その明察果断を称えた。まもなく再び中書省に入り右丞となった。十年正月、平章政事に昇進し、階位は光禄大夫となった。十一年十一月、御史大夫に任ぜられ、銀青栄禄大夫に進んだ。十二年四月、再び中書平章となり、丞相トクトに従って徐州を平定し功績があった。十三年、再び御史大夫に任ぜられ、まもなくまた中書平章となった。

十四年九月、命を受けて軍を率いて淮南の賊を討ち、身を士卒に先んじ、顔に流れ矢を受けたが動じなかった。十五年、陝西行省平章に転じ、再び召還されて知枢密院事に任ぜられた。ほどなく再び中書平章に任ぜられ、大司農分司を兼ね、大都留守司及び屯田の事を提調した。ある日、入侍すると、帝はその顔に箭痕があるのを見て、深く嘆き哀れんだ。首平章に進められた。十六年、再び御史大夫に転じた。四月、ついに中書左丞相に任ぜられ、翌年(十七年)五月、右丞相に進んだ。十八年、太保を加えられ、詔してその曾祖ボルカイを雲王に、祖エセン・ブカを瀛王に、父イリンジンを冀王に封じた。

この時、天下の多事は日を追って甚だしく、外には軍旅が頻繁に起こり、疆宇は日々狭まり、内には帑蔵が空虚で、用度が足りず、しかも帝は娯楽に溺れて、政務を顧みなかった。ここにおいてチョスカンは相位に久しく居ながら、匡救するところなく、しかも公然と賄賂を受け、貪婪の名声が聞こえ、世間の議論が喧しかった。この年(十八年)の冬、監察御史エンチ・ブカが弾劾して奏上し、チョスカンが私的な者ドレ及び妾の弟崔完者帖木兒を用いて偽鈔を印造し、事が敗れそうになると、ドレに自殺させて口を封じさせたと述べた。チョスカンはそこで事を謝し、機務を解くことを請うた。詔してただその印綬を収めるのみとした。しかし御史ダリマシリ、王彝が言うのをやめず、帝は終に聞き入れなかった。折しも遼陽の賊の勢いが甚だしく盛んになったので、翌年(十九年)、ついに遼陽行省左丞相として起用されたが、赴任しなかった。二十年三月、再び中書右丞相に任ぜられ、なお詔を下して天下に諭した。

時に帝はますます政事を厭い、宦官の資正院使朴不花が隙に乗じて事を為し奸利を貪り、搠思監はこれと結託して互いに表裏を成し、四方の警報及び将臣の功績の状況は、皆遮られて上聞に達しなかった。孛羅帖木児・拡廓帖木児は各々外に強兵を擁し、権勢を以て相軋ぎ、遂に隙が生じた。搠思監と朴不花は拡廓帖木児に与し、而して孛羅帖木児を無実の罪で誣いた。二十四年三月、帝は詔を下してその官爵を削奪し、且つ拡廓帖木児に兵を以てこれを討たせた。然るに宗王不顔帖木児・禿堅帖木児等は皆兵を挙げて孛羅帖木児と合流し、上表してその無罪を言上した。ここにおいて帝は詔を降して曰く、「至正十一年より妖賊が窃かに発し、嘗て将相を選び命じ、職を分けて任じ、心膂の如く視て、凡そその庶政は悉くこれを委ねた。豈に期せんや、搠思監・朴不花が縁故を頼みて奸を為し、互いに壅蔽し、以て外に在って宣力するの臣はこれにより解体し、内に在る忠良の士は悉く非辜に陥った。又復たその私讐を奮い、孛羅帖木児・老的沙等を誣いて同謀不軌と構えた。朕は信任の専らなるを以て、究察を失い、遂に兵を調べて往討せしめた。孛羅帖木児は既に陳詞したるに、而るに寝匿して行わず。今、宗王不顔帖木児等、明威を仰ぎ畏れ、遠く来りて控訴し、以てその情を表す。朕は惻然として思いを興し、而るに搠思監・朴不花は猶お虚詞を飾り、朕の聴くを簧惑す。搠思監を以て嶺北に屏し、朴不花を甘粛に竄え、以て衆憤を快くすべし。孛羅帖木児等は悉く改正し、その官職を復すべし」と。然るに詔書は下ったと雖も、搠思監・朴不花は仍って京師に留まった。

四月、孛羅帖木児は乃ち禿堅鉄木児を遣わして兵を称して闕を犯わしめ、必ず搠思監・朴不花を得てやまんとした。帝は已むを得ず、二人を縛ってこれに与え、遂に皆孛羅鉄木児に殺された。已にして監察御史が復た奏言して曰く、「搠思監は丞相太平を矯殺し、鈔板を盗用し、私家で詔を草し、任情に選を放ち、獄を鬻ぎ官を売り、庫蔵を費耗し、廟堂に居ること前後十数年、天下八省の地をして悉く淪陷に致らしめた。乃ち国を誤るの奸臣なり、その罪悪を究めれば、大赦も原うる難し。曩に、奸臣阿合馬の死に際しては、棺を剖き尸を戮した。搠思監の罪は、阿合馬を見るに有過ぎたり。今その死したるに雖も、必ず棺を剖き尸を戮するを宜しとす」と。旨有りてこれに従う。而して臺臣の言猶お已まず、遂に復たその家産を没収し、而してその子宣徽使観音奴を遠方に竄えた。

怯烈氏は四世にわたり丞相たる者八人、世臣の家にして、これに比盛なるは鮮し。而して搠思監は早くより才望有り、及んで相位に居るに及び、人皆その有為を仰ぎしが、時に遭うこと多事、顧みて乃ち懦を以てこれを守り、貪を以てこれを済し、遂に天下をして乱亡に至らしめ而して為すべからざるに至らしめた。論ずる者、元の亡ぶるは、搠思監の罪居多しと謂う。