元史

列伝第八十九: 釈老

釈教と道教は、中国において行われて、千数百年になるが、その盛衰は常に時の君主の好悪に係っている。このため仏教は晋・宋・梁・陳の時代に、黄老の道は漢・魏・唐・宋の時代に盛んとなり、その効果は見ることができる。

元が興ると、釈氏を崇尚し、帝師の盛況は、特に古昔と同様に語ることはできない。道家や方士の流れは、祈祷や祠祀の説を借りて、時に乗じて起こったが、その十分の一にも及ばなかった。宋の旧史はかつて老・釈を志したが、それには意味があったのだ。そこでその意に基づき、釈老伝を作る。

帝師八思巴は、吐蕃の薩斯迦の人で、款氏の一族である。伝えられるところでは、その祖の朵栗赤以来、その法をもって国主を助け西海に覇を唱えたこと十余世。八思巴は七歳で生まれ、経文を数十万言誦し、その大義を通じて理解することができ、国人は彼を聖童と号し、故に名を八思巴といった。少し成長すると、五明の学に富み、故にまた班弥怛と称された。癸丑の歳、十五歳の時、潜邸において世祖に謁見し、語り合って大いに喜ばれ、日に日に親しく礼遇された。

中統元年、世祖が即位すると、国師として尊び、玉印を授けた。蒙古新字の制作を命じ、字が完成すると上奏した。その字はわずか千余りで、その字母は凡そ四十有一。その関連して紐となり字を成すものには、韻関の法があり、二合・三合・四合によって字を成すものには、語韻の法があり、大要は諧声を宗としている。至元六年、詔して天下に頒行した。詔に曰く、「朕惟うに、字は以て言を書き、言は以て事を紀す、これは古今の通制である。我が国家は朔方に基を肇き、俗は簡古を尚び、制作に遑がなかったが、凡そ文字を施用するには、漢楷及び畏吾字を用い、以て本朝の言を達してきた。遼・金及び遐方諸国を考うるに、例としてそれぞれ字を持つ。今文治は漸く興り、而るに字書に欠けるところがあり、一代の制度として、実に未備である。故に特に国師八思巴に命じて蒙古新字を創らせ、一切の文字を訳写し、期するところは言に順い事を達するのみである。今より後、凡そ璽書を頒降するものは、併せて蒙古新字を用い、なおそれぞれその国字を副える。」遂に八思巴の号を大寶法王に昇め、更に玉印を賜った。

十一年、西還を告げて請うたが、留めることができず、その弟の亦憐真を嗣がせた。十六年、八思巴が卒す。訃報を聞き、賻贈を加え、号を皇天之下・一人之上〔開教〕宣文輔治大聖至徳普覚真智佑国如意大宝法王・西天仏子・大元帝師と賜った。至治年間、特に詔して郡県に廟を建て通祀させた。泰定元年、また絵像十一を以て、各行省に頒ち、そのために塑像を作らせた。

亦憐真が帝師を嗣ぎ、凡そ六年、至元十九年に卒した。答児麻八剌(乞列)〔剌吉塔〕が嗣ぎ、二十三年に卒した。亦摂思連真が嗣ぎ、三十一年に卒した。乞剌斯八斡節児が嗣ぎ、成宗は特に宝玉五方仏冠を造って賜った。元貞元年、また更に双龍盤紐の白玉印を賜い、文は「大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印」といった。大徳七年に卒した。明年、輦真監蔵を以て嗣がせ、また明年に卒した。(都)〔相〕家班が嗣ぎ、皇慶二年に卒した。相児加思〔巴〕が嗣ぎ、延祐元年に卒した。二年、公哥羅古羅思監蔵班蔵卜を以て嗣がせ、至治三年に卒した。旺出児監蔵が嗣ぎ、泰定二年に卒した。公哥列思八冲納思監蔵班蔵卜が嗣ぎ、玉印を賜い、璽書を降して天下に諭し、その年に卒した。天暦二年、輦真吃剌失思を以て嗣がせた。

八思巴の時、また国師胆巴という者がいた。一名を功嘉葛剌思といい、西番の突甘斯旦麻の人である。幼くして西天竺の古達麻失利に従い梵祕を伝習し、その法要を得た。中統年間、帝師八思巴がこれを推薦した。時に懐孟が大旱にあったので、世祖が祈祷を命じると、たちまち雨が降った。またかつて食を呪って龍湫に投じると、しばらくして奇花異果や上尊が波面に湧き出し、取って上進すると、世祖は大いに喜んだ。至元末、時の宰相桑哥に容れられず、力を尽くして西帰を請うた。既に召し還された後、潮州に謫された。時に枢密副使月の迷失が潮州を鎮めていたが、妻が奇病を得たので、胆巴が持っていた数珠をその身に加えると、たちまち癒えた。またかつて月の迷失のために異夢と己の還朝の期を言い、後いずれも験があった。

元貞年間、海都が西番の境界を犯すと、成宗は摩訶葛剌神に祈祷を命じ、やがて捷書が果たして届いた。また成宗の病気を祈祷すると、速やかに癒え、賜与は甚だ厚く、かつ詔して御前校尉こうい十人を分けてその導従とさせた。成宗が北巡する時、胆巴に象輿を以て前導を命じた。雲州を過ぎる時、諸弟子に語って曰く、「この地には霊怪があり、恐らく乗輿を驚かすであろう。密かに神呪を持して以てこれを厭うべきである。」未だ幾ばくもなく、風雨大いに至り、衆みな震懼したが、惟だ幄殿のみは虞がなく、また碧鈿盃一を賜った。大徳七年夏、卒した。皇慶年間、大覚普惠広照無上胆巴帝師と追号した。

その後また必蘭納識里という者がいた。初めは只剌瓦弥的理と名乗り、北庭感木魯国の人である。幼くして畏兀児及び西天の書に熟し、成長すると三蔵及び諸国の語を貫通することができた。大徳六年、旨を奉じて広寒殿において帝師より戒を受け、帝に代わって出家し、更に今の名を賜った。皇慶年中、諸梵経典の翻訳を命じた。延祐年間、特に銀印を賜い、光禄大夫を授けた。

この時、諸番の朝貢する表牋の文字で識ることのできないものは、皆必蘭納識理に訳して進めさせた。かつて金に刻んだ字で表を進める者があった。帝はこれを見るよう遣わすと、廷中は愕然として見つめ、どう答えるかを見ようとした。必蘭納識理は随って机上の墨汁を取って金葉に塗り、その字を審らかにし、左右に筆を執らせ、表中の語及び使人の名氏、貢物の数を口授し、書いて上奏した。明日、有司がその物色を閲すると、携えてきた重訳の書と少しも差がなかった。衆みなその博識に服したが、竟にそのどこから授かったか測り知ることができず、ある者は神悟によるものと思った。開府儀同三司を授け、なお三台の銀印を賜い、兼ねて功德使司事を領し、その廪餼を厚くして、以て母を養うことを得させた。

至治三年、改めて金印を賜い、特に入沙(律)〔津〕愛護持を授け、かつ諸国引進使を命じた。至順二年、また玉印を賜い、号を普覚円明広照弘弁三蔵国師と加えた。三年、安西王子の月魯帖木児等と謀って不軌を図り、誅に坐した。その訳した経は、漢字では則ち楞厳経があり、西天字では則ち大乗荘厳宝度経・乾陀般若経・大涅槃経・称讃大乗功徳経があり、西番字では則ち不思議禅観経があり、通じて若干巻ある。

元朝は朔方より興り、もとより釈教を崇尚していた。西域を得るに及んで、世祖はその地が広く険遠であり、民が獰猛にして闘争を好むことを以て、その俗に因りてその人を柔らげる方策を考え、土番の地を郡県とし、官を設け職を分かち、これを帝師に統領させた。そこで宣政院を立て、その長官たる使の次位には必ず僧を以てこれに充て、帝師の推挙する所に出で、その政を内外に総べる者は、帥臣以下も必ず僧俗を併用し、軍民を通じて管轄した。ここにおいて帝師の命は、詔勅と並んで西土に行われた。百年の間、朝廷が礼を敬い尊信する所以は、至らざる所なく用いられた。帝后妃主といえども、皆受戒によりてこれに膜拜した。正衙の朝会には、百官が班列する中、帝師もまた時に座隅に専席を設けた。かつて毎帝即位の初めには、詔を降して褒護し、必ず章佩監に命じて絡珠を以て字を作り賜う。その重んずることはこの如きである。その未だ至らざるを迎えるには、中書大臣が駅伝を馳せて累百騎を以て往き、過ぐる所で供億送迎した。京師に至るに及んでは、大府に命じて法駕の半仗を仮し、以て前導と為し、省・臺・院の官および百司庶府に詔して、皆銀鼠の質孫を服させた。毎年二月八日に仏を迎える儀式には、威儀を整えて往き迎え、かつ礼部尚書・郎中を命じて専ら迎接を監督させた。その卒して帰葬し舎利を送るには、また百官を命じて郭外に出で祭餞させた。大徳九年には、専ら平章政事鉄木児を遣わし駅伝に乗じて護送させ、賻として金五百両・銀千両・幣帛万匹・鈔三千錠を賜うた。皇慶二年には、賻を加えて金五千両・銀一万五千両・錦綺雑綵合わせて一万七千匹とした。その昆弟子姓の往来するにも、有司はまた供億して欠くことがなかった。泰定年間、帝師の弟公哥亦思監が将に至らんとするに、詔して中書に羊酒を持たせ郊労させた。その兄瑣南蔵卜は遂に公主を尚し、白蘭王に封ぜられ、金印を賜い、円符を与えられた。その弟子の司空しくう司徒しと・国公と号し、金玉の印章を佩く者は、前後相望んだ。

その徒たる者は、勢いに恃みて恣睢し、日新月盛に気焰熏灼し、四方に延びて、害を為すこと言うに勝えざるものがあった。楊璉真加という者がおり、世祖は江南釈教総統に用い、故宋趙氏の諸陵で銭唐・紹興にあるものおよびその大臣の塚墓凡そ一百一所を発掘し、平民四人を殺害し、人の献ずる美女宝物を数え切れず受け、かつ財物を攘奪盗取し、計うに金一千七百両・銀六千八百両・玉帯九・玉器大小百十一・雑宝貝百五十二・大珠五十両・鈔十一万六千二百錠・田二万三千畝、私かに平民を庇って公賦を輸さざる者二万三千戸、その他所蔵匿して未だ露わならざるものは論じない。

また至大元年、上都開元寺の西僧が民の薪を強制売買し、民は留守李璧に訴えた。璧がまさにその由縁を問うていると、僧はすでにその党を率いて白梃を持ち公府に突入し、机を隔てて璧の髪を引き、地に引きずり倒し、捶撲交々下し、引きずって帰り、空室に閉じ込め、久しくしてようやく脱し、朝廷に奔訴したが、赦に遇って免れた。二年、また僧龔柯ら十八人が諸王合児八剌の妃忽禿赤的斤と道を争い、妃を車から引きずり落として殴打し、かつ犯上などの言葉あり、事が聞こえ、詔して釈放し問わなかった。そして宣政院の臣がまさに旨を取るよう奏上した。凡そ民が西僧を殴打する者はその手を截ち、罵る者はその舌を断て、と。時に仁宗は東宮に居り、これを聞き、急ぎ奏上してその令を止めさせた。

泰定二年、西台御史李昌が言う。「かつて平涼府・静・会・定西等州を経て、西番僧が金字円符を佩き、道途に絡繹し、騎を馳せて累百、伝舎は容れられず、則ち民舎を仮館し、因って男子を追い逐い、女婦を姦污す。奉元一路、正月より七月に至るまで、往復する者百八十五回、用いる馬八百四十余匹に至り、諸王・行省の使に較べれば、十の内六七を占む。駅戸は訴える所なく、台察は誰何するを得ず。かつ国家の円符を製するは、もと辺防警報の虞のためなり。僧人は何事ぞや、輒ちこれを佩く。乞う、僧人に給駅する法を更正し、かつ台憲に糾察せしめよ。」報いず。必蘭納識里の誅せらるるに、有司がこれを籍没し、その人畜土田・金銀貨貝銭幣・邸舎・書画器玩、および婦人の七宝装具を得、価値巨万万という。

もし歳時の祝釈祷祠の常で、好事と称せられるものは、その目は特に一様ではない。鎮雷阿藍納四というあり、華言では慶讃なり。亦思満藍というあり、華言では薬師壇なり。搠思串卜というあり、華言では護城なり。朶児禅というあり、華言では大施食なり。朶児只列朶四というあり、華言では美妙金剛迴遮施食なり。察児哥朶四というあり、華言では迴遮なり。籠哥児というあり、華言では風輪なり。喒朶四というあり、華言では作施食なり。出朶児というあり、華言では出水済六道なり。党剌朶四というあり、華言では迴遮施食なり。典朶児というあり、華言では常川施食なり。坐静というあり、魯朝というあり、華言では獅子吼道場なり。黒牙蛮答哥というあり、華言では黒獄帝主なり。搠思江朶児麻というあり、華言では護法神施食なり。赤思古林搠というあり、華言では自受主戒なり。鎮雷坐静というあり、吃剌察坐静というあり、華言では秘密坐静なり。斟惹というあり、華言では文殊菩薩なり。古林朶四というあり、華言では至尊大黒神迴遮施食なり。歇白咱剌というあり、華言では大喜楽なり。必思禅というあり、華言では無量寿なり。覩思哥児というあり、華言では白傘蓋呪なり。収札沙剌というあり、華言では五護陀羅尼経なり。阿昔答撒哈昔里というあり、華言では八千頌般若経なり。撒思納屯というあり、華言では大理天神呪なり。闊児魯丳卜屯というあり、華言では大輪金剛呪なり。且八迷屯というあり、華言では無量寿経なり。亦思羅八というあり、華言では最勝王経なり。撒思納屯というあり、華言では護神呪なり。南占屯というあり、華言では壊相金剛なり。卜魯八というあり、華言では呪法なり。また擦擦を作る者あり、泥を以て小浮屠を作るなり。また答児剛を作る者あり。その答児剛を作るは、或いは一所二所より七所に至り、擦擦を作るは、或いは十万二十万より三十万に至る。また嘗て浮屠二百十六を造り、七宝珠玉を以て実し、半ばは海畔に置き、半ばは水中に置き、以て海災を鎮めた。

延祐四年、宣徽使が毎年の内廷仏事の供給を会計したところ、その費用を斤数で計ると、麺四十三万九千五百斤、油七万九千斤、酥二万一千八百七十斤、蜜二万七千三百斤を用いた。至元三十年の頃より、醮祠仏事の項目はわずか百二であった。大徳七年、再び功德司を立てると、遂に五百余りに増加した。僧徒は利を貪って飽くことなく、近侍と結託し、欺瞞して奏請し、布施や無遮斎を求め、必要なものは一つではなく、歳費は千万に及び、大徳の頃と比べれば、幾倍であるか分からない。また毎年必ず善事に因って軽重の囚徒を釈放することを奏し、福利と為し、大臣たる阿里の如き、閫帥たる別沙児の如きも、皆これに仮ってその誅罰を免れている。宣政院参議李良弼は、賄賂を受けて官を売り、ただ帝師の言葉によってこれを放免された。その他、人を殺す盗賊、奸悪を働く者どもが、縁故によって幸いに免れる者は多い。甚だしきに至っては、空名の宣勅を取って布施と為し、その人を任用するありさまは、濫りであると言えよう。凡そこれらは一代の治体に関わるものであるから、今ここに備えて記す。

天下の寺院で内外の宣政院に管轄されるものは、禅・教・律と称し、各々その業を守っているが、ただ白雲宗・白蓮宗と称するものは、またしばしば奸利に通じているという。

丘処機は登州棲霞の人で、自ら長春子と号した。幼い時、相見が彼を見て異日神仙の宗伯となるであろうと言った。十九歳の時、寧海の崑崳山で全真学を学び、馬鈺・譚処端・劉処玄・王処一・郝大通・孫不二と共に重陽王真人に師事した。重陽は処機を見るや、大いに器とした。金・宋の末世、ともに使を遣わして召したが、赴かなかった。

己卯の年、太祖(チンギス・カン)は乃蛮より近臣札八児・劉仲祿に詔を持たせて彼を求めさせた。処機はある日突然弟子に語り、行装を整えさせて言った、「天使が我を召しに来る、我は行かねばならぬ」。翌日、二人が到着すると、処機は弟子十八人と共に会見に向かった。翌年、山北に宿留し、先に表を馳せて謝し、拳拳として殺生を止めることを勧めた。また翌年、使いが再び至り急がせたので、撫州を発ち、数十国を経て、地万余里を行った。戦場の血を踏み、賊寇を避け、叛域を過ぎ、沙漠で糧食が絶え、崑崳より四年を経てようやく雪山に到達した。常に深雪の中を馬で行き、馬上で鞭を挙げて試みると、積雪の半分にも及ばなかった。会見すると、太祖は大いに喜び、食を賜い、廬帳を設けて大いに整えた。

太祖は当時西征中で、日々攻戦に事としていたが、処機は常に天下を統一しようとする者は、必ずや人を殺すことを好まないことにあると言った。また治世の方策を問われると、敬天愛民を本とすべしと答えた。長生久視の道を問われると、清心寡欲を要とすべしと告げた。太祖はその言葉に深く感銘し、「天が仙翁を賜り、朕の志を悟らしめた」と言い、左右に命じて書き留めさせ、かつ諸子を訓戒させた。そこで虎符を賜い、璽書を副え、その名を呼ばず、ただ「神仙」と称した。ある日雷が鳴り、太祖が問うと、処機は答えて言った、「雷は天の威である。人の罪で不孝より大なるはなく、不孝は天に順わない。故に天の威が震動してこれを戒めるのである。聞くところによれば境内に不孝の者が多いようである。陛下は天威を明らかにして、衆民を導かれるべきである」。太祖はこれに従った。

癸未の年、太祖が東山で大規模な狩猟を行い、馬が倒れた。処機が請うて言った、「天道は生を好みます。陛下はご年齢も高く、しばしば狩猟されるのは宜しくありません」。太祖はこれにより長らく狩猟をやめた。当時、国兵(モンゴル軍)は中原を蹂躙し、河南・河北は特に甚だしく、民は捕虜となり殺戮され、逃れて命を全うする術がなかった。処機が燕に戻ると、その徒に牒を持たせて戦乱の余波の中で招き求めさせ、これにより人奴隷となっていた者が再び良民となり、死に瀕していた者が更生する者は、おおよそ二三万人に及んだ。中州の人々は今なおこれを称えている。

乙酉の年、熒惑(火星)が尾宿を犯し、その占いは燕にあった。処機がこれを祈ると、果たして退舎した。丁亥の年、また旱魃のために祈り、三日の内に雨が降ることを期して瑞応と名付けると言うと、やがてこれも験があった。旨があり宮名を長春と改めて賜り、かつ使を遣わして労問し、制書に「朕は常に神仙を思い、神仙も朕を忘れるなかれ」とあった。六月、東溪で沐浴し、二日を過ぎて天大雷雨となり、太液池の岸北の水が東湖に入り、その音は数里に聞こえ、魚鱉は全て去り、池は遂に涸れ、北口の高岸も崩れた。処機は嘆いて言った、「山は摧けるか、池は涸れるか、我はこれと共にあろうか」。遂に卒去した。八十歳。その弟子尹志平らは代々璽書を奉じてその教えを襲掌し、至大年間に金印を加えて賜わった。

処機の四伝に祁志誠という者がおり、雲州金閤山に居て、道誉が甚だ著しかった。丞相安童がかつて訪れて問うと、志誠は修身治世の要を告げた。安童はその言葉に感銘を受け、故に世祖に宰相として仕える時、清静忠厚を主とした。罷免されて邸宅に戻ると、退いて世に関わらないかのようであり、人々は志誠の言葉を得たものと思った。その後、安童は再び召されて宰相に入ることを求められたが、辞退して許されず、遂に志誠の下を訪れて決断を求めた。志誠は言った、「昔、子と同列にあった者は誰か。今、同列にある者は誰か」。安童は悟り、世祖に謁見して辞して言った、「臣が昔宰相であった時は、年尚若く、幸いにも陛下の事を誤らなかったのは、輔佐の臣が皆臣の師友であったからです。今、臣に事える者は、皆進んで臣と共にある者ばかりです。では臣の為政が以前より優れることがありましょうか」。世祖は言った、「誰が卿にこのように言ったのか」。答えて言った、「祁真人です」。世祖は長く嘆き驚いた。

正一天師は、漢の張道陵に始まり、その後四代目を張盛といい、信州の龍虎山に来て住んだ。相伝えて三十六代目の張宗演に至り、至元十三年、世祖が既に江南を平定した時、使を遣わして召した。到着すると廷臣に命じて郊外で労い、客礼をもって遇した。謁見すると、語って言った、「昔の己未の年、朕が鄂渚に駐蹕した時、王一清を遣わして卿の父を訪ねさせた。卿の父は朕に報じて言った、『後二十年にして天下は混一すべきである』と。神仙の言葉は今に験された」。そこで座を命じ、宴を賜い、特に玉芙蓉冠・組金無縫服を賜い、江南道教を主領することを命じ、なお銀印を賜った。

十八年、二十五年に再び入朝した。世祖はかつてその祖天師の伝える玉印・宝剣を取って観ることを命じ、侍臣に語って言った、「朝代の更易は既に幾たびか知れない。しかるに天師の剣印が子や孫に伝わって今日に至っている。果たして神明の加護があるのであろうか」。長く嗟嘆した。二十九年に卒去し、子の張与棣が嗣ぎ、三十七代となり、江南道教を襲掌した。三十一年、入朝し、京師で卒去した。元貞元年、弟の張与材が嗣ぎ、三十八代となり、道教を襲掌した。

当時、潮が塩官・海塩の両州を嚙み、被害が特に甚だしかった。与材は術をもってこれを治めた。ある夕べ大雷電が震い、翌日、魚の頭で亀の形をしたものが水辺に磔にされているのを見た。潮の害は遂に止んだ。大徳五年、上都の幄殿で召見された。八年、正一教主を授けられ、三山符籙を主領した。武宗が即位すると、来朝し、特に金紫光禄大夫を授けられ、留国公に封ぜられ、金印を賜った。仁宗が即位すると、特に宝冠・組織文金の服を賜った。延祐三年に卒去した。四年、子の張嗣成が嗣ぎ、三十九代となり、江南道教を襲領し、従前の如く三山符籙を主領した。

その門徒に張留孫という者がいた。字は師漢、信州貴渓の人である。若い時に龍虎山に入って道士となり、ある道士が彼を見て言った、「神仙宰相である」と。至元十三年、天師張宗演に従って入朝し、世祖と語り、その意にかなったので、ついに宮中に留めて侍らせた。世祖がかつて自ら幄殿で祭祀を行った時、皇太子が侍っていた。突然風雨が激しく至り、人々は驚き恐れたが、留孫が祈るとたちまち止んだ。またかつて日月山に駐在した時、昭睿順聖皇后が重篤な病を得たので、急ぎ留孫を召して祈祷を請うた。やがて皇后は夢を見た、朱衣で長い髯の者が、甲士に従われ、朱い輦に白い獣を引かせて草の間を行くという夢である。目覚めてこれを怪しみ、留孫に問うたところ、答えて言うには、「甲士が輦と獣を導く者は、臣の佩く法籙中の将吏です。朱衣で長い髯の者は、漢の祖天師です。草の間を行く者は、春の時です。殿下の病は、春に及んで癒えるでしょう」と。皇后は命じて自分が祀る画像を取り寄せて進上させ、見ると果たして夢に見た者であった。帝と皇后は大いに喜び、ただちに留孫を天師に任じようとしたが、留孫は固辞して敢えて当たらなかった。そこで上卿の号を賜い、尚方に命じて宝剣を鋳造させて賜い、両京に崇真宮を建て、留孫をそこに住まわせ、専ら祭祀の事を掌らせた。

十五年、玄教宗師を授け、銀印を賜う。また特にその父を信州路治中に任じ、まもなくさらに江東道同知宣慰司事に昇進させた。この時天下は大いに定まり、世祖は民と休息することを考えていた。留孫は尚方に詔を待つ身であり、黄老の治道が清浄を貴び、聖人が天下を宥う(寛容に治める)旨を論じ、深く主上の心に合った。また完沢を宰相にしようとする時、留孫に占わせたところ、同人のを得た。留孫は進言して言うには、「『同人は、柔が位を得て乾に応ず』、君臣の合いです。『豫は、侯を建つるに利あり』、宰相を命ずる事です。これほど吉なことはありません。願わくは陛下疑わないでください」と。完沢を拝した時、天下は果たして賢相を得たと思った。

大徳年間、玄教大宗師の号を加えられ、集賢院道教事を同知し、かつその三代を追封して皆魏国公とし、官階品はいずれも第一とした。武宗が立つと、召し出されて会見し、座を賜い、大真人に昇進し、集賢院を管知し、大学士の上位に置かれた。まもなくまた特進を加えられた。老子を進講して謙譲の道を推し明かした。仁宗が即位すると、なお常にその言葉を誦し、かつ近臣に諭して言うには、「累朝の旧徳は、ただ張上卿のみが残っている」と。開府儀同三司に進め、輔成賛化保運玄教大宗師の号を加えられ、玉を刻んで玄教大宗師の印を作り賜うた。至治元年十二月に卒し、年七十四。天暦元年、道祖神徳真君を追贈された。その門徒の呉全節が嗣いだ。

全節は字を成季といい、饒州安仁の人である。十三歳の時、龍虎山で道を学んだ。至元二十四年、京師に至り、留孫に従って世祖に謁見した。三十一年、成宗が朔方より至ると、召し出されて会見し、古い彫玉の蟠螭環一つを賜い、毎年行幸に侍従することを勅し、所司に廬帳・車馬・衣服・廩餼を給することを令として定めた。大徳十一年、玄教嗣師を授けられ、銀印を賜い、二品に準じた。至大元年、七宝金冠・織金文の服を賜う。三年、その祖父に昭文館大学士を贈り、その父を司徒・饒国公に封じ、母を饒国太夫人とし、その住む郷を栄禄郷、里を具慶里と名付けた。至治元年、留孫が卒した。二年、制により特進・上卿・玄教大宗師・崇文弘道玄徳真人・総摂江淮荊襄等処道教・知集賢院道教事を授け、玉印一つ・銀印二つを併せて授けられた。

全節はかつて代わって岳瀆を祀り還った時、成宗が問うて言うには、「卿が過ぎた郡県に、民を善く治める者がいるか」と。答えて言うには、「臣が洛陽らくようを過ぎた時、太守の盧摯は平易で無為であり、民は安靖でした」と。成宗は言う、「私はその人を憶えている」と。即日に召して集賢学士に拝した。成宗が崩じ、仁宗が懐孟より至った時、狂士が危険な言葉で翰林学士の閻復を告発する事件があり、事の成り行きは測りがたかった。全節は力を尽くして李孟に言上し、孟がこれを聞き届けると、仁宗の意が解け、閻復は老齢を理由に去った。当時、朝廷が大臣を敬う礼をわきまえ、口先の言葉で賢者を傷つけなかったのは、全節に力があったからだと考えられた。

全節は風雅を好んで士大夫と交わり、その交わりを傾けぬ者はなく、年長者には特に親しまれ敬われた。善類を推挙するには、その力を尽くさないことを恐れた。窮乏を救い急難を周済するに至っては、また恩怨によってその心を異にすることはなく、当時は頗る侠気があると評された。全節が卒し、年八十二、その門徒の夏文泳が嗣いだ。

真大道教とは、始め金の末季に、道士の劉徳仁が立てたものである。その教えは苦節と危行を要とし、人から妄りに取らず、己のために苟しく奢侈しないことを旨とする。五伝して酈希成に至り、燕城の天宝宮に住み、憲宗に知られ、始めてその教えを真大道と名付け、希成に太玄真人を授け、教事を領させ、内より冠服を出して賜う。なお紫衣三十襲を給し、その従者に賜うた。

至元五年、世祖はその門徒の孫徳福に命じて諸路の真大道を統轄させ、銅章を賜うた。二十年、改めて銀印二つを賜うた。さらに三伝して張清志に至り、その教えはますます盛んとなり、演教大宗師・凝神冲妙玄応真人を授けられた。清志は親に仕えて孝行であり、特に辛苦に耐え、行いを制して堅峻であった。東海の珠山・牢山は旧来虎が多かったが、清志が往って茅を結んで住むと、虎は皆避けて去ったが、しかし人に害をなすことが多かった。清志は言う、「これは我がその所を奪ったからだ」と。ついにそこを去った。後に臨汾に住んだ時、大地震があり、城郭や邑屋が倒壊圧死し、死者は数えきれなかったが、ただ清志の住居だけは裂けて二つになったが、少しも損なわれなかった。そこで木石の間をくまなく巡り、呻吟する声を聞き、救い生き返らせた者は甚だ多かった。朝廷はその名を重んじ、駅伝を給して掌教事に招致した。清志は伝馬を捨てて徒歩で京師に至り、深く住んで簡出し、人はその面を知らない者もあった。貴人や達官が来て会おうとしても、大抵病気と告げ、臥内に伏して起き上がらなかった。道徳ある縉紳の先生に対しては、履を納め杖を履いて求見し、難事としなかった。当時の人はその風を高く評価し、ついに図を描いて互いに伝えた。

太一教とは、始め金の天眷年間に道士の蕭抱珍が、太一三元法籙の術を伝え、よってその教えを太一と名付けたものである。四伝して蕭輔道に至る。世祖が潜邸にあった時その名を聞き、史天沢に命じて召し和林に至らせ、応対が意にかなったので、宮邸に留めて住まわせた。老齢のため、弟子の李居寿に教事を掌らせることを請うた。

至元十一年、両京に太一宮を建て、居寿をそこに住まわせ、祠事を領させ、かつ六丁を禋祀して、太保劉秉忠の術を継がせた。十三年、太一掌教宗師の印を賜うた。十六年十月辛丑、月が元辰に直る日、居寿に祠醮を行わせ、赤章を天に奏することを勅し、凡そ五昼夜に及んだ。事が終わると、居寿は隙を求めて言うには、「皇太子は春秋に鼎盛です。国政に参預されるのが宜しいでしょう」と。かつまた典瑞の董文忠を通じて言上させた。世祖は喜んで言う、「行く行く及ぶであろう」と。その後、詔して太子に朝政を参決させ、諸事は皆先に啓上して後聞するようになったのは、居寿がその先駆けをなしたからである。