釈教と道教は、中国において行われて、千数百年になるが、その盛衰は常に時の君主の好悪に係っている。このため仏教は晋・宋・梁・陳の時代に、黄老の道は漢・魏・唐・宋の時代に盛んとなり、その効果は見ることができる。
元が興ると、釈氏を崇尚し、帝師の盛況は、特に古昔と同様に語ることはできない。道家や方士の流れは、祈祷や祠祀の説を借りて、時に乗じて起こったが、その十分の一にも及ばなかった。宋の旧史はかつて老・釈を志したが、それには意味があったのだ。そこでその意に基づき、釈老伝を作る。
帝師八思巴は、吐蕃の薩斯迦の人で、款氏の一族である。伝えられるところでは、その祖の朵栗赤以来、その法をもって国主を助け西海に覇を唱えたこと十余世。八思巴は七歳で生まれ、経文を数十万言誦し、その大義を通じて理解することができ、国人は彼を聖童と号し、故に名を八思巴といった。少し成長すると、五明の学に富み、故にまた班弥怛と称された。癸丑の歳、十五歳の時、潜邸において世祖に謁見し、語り合って大いに喜ばれ、日に日に親しく礼遇された。
八思巴の時、また国師胆巴という者がいた。一名を功嘉葛剌思といい、西番の突甘斯旦麻の人である。幼くして西天竺の古達麻失利に従い梵祕を伝習し、その法要を得た。中統年間、帝師八思巴がこれを推薦した。時に懐孟が大旱にあったので、世祖が祈祷を命じると、たちまち雨が降った。またかつて食を呪って龍湫に投じると、しばらくして奇花異果や上尊が波面に湧き出し、取って上進すると、世祖は大いに喜んだ。至元末、時の宰相桑哥に容れられず、力を尽くして西帰を請うた。既に召し還された後、潮州に謫された。時に枢密副使月の迷失が潮州を鎮めていたが、妻が奇病を得たので、胆巴が持っていた数珠をその身に加えると、たちまち癒えた。またかつて月の迷失のために異夢と己の還朝の期を言い、後いずれも験があった。
元貞年間、海都が西番の境界を犯すと、成宗は摩訶葛剌神に祈祷を命じ、やがて捷書が果たして届いた。また成宗の病気を祈祷すると、速やかに癒え、賜与は甚だ厚く、かつ詔して御前校尉十人を分けてその導従とさせた。成宗が北巡する時、胆巴に象輿を以て前導を命じた。雲州を過ぎる時、諸弟子に語って曰く、「この地には霊怪があり、恐らく乗輿を驚かすであろう。密かに神呪を持して以てこれを厭うべきである。」未だ幾ばくもなく、風雨大いに至り、衆みな震懼したが、惟だ幄殿のみは虞がなく、また碧鈿盃一を賜った。大徳七年夏、卒した。皇慶年間、大覚普惠広照無上胆巴帝師と追号した。
その後また必蘭納識里という者がいた。初めは只剌瓦弥的理と名乗り、北庭感木魯国の人である。幼くして畏兀児及び西天の書に熟し、成長すると三蔵及び諸国の語を貫通することができた。大徳六年、旨を奉じて広寒殿において帝師より戒を受け、帝に代わって出家し、更に今の名を賜った。皇慶年中、諸梵経典の翻訳を命じた。延祐年間、特に銀印を賜い、光禄大夫を授けた。
この時、諸番の朝貢する表牋の文字で識ることのできないものは、皆必蘭納識理に訳して進めさせた。かつて金に刻んだ字で表を進める者があった。帝はこれを見るよう遣わすと、廷中は愕然として見つめ、どう答えるかを見ようとした。必蘭納識理は随って机上の墨汁を取って金葉に塗り、その字を審らかにし、左右に筆を執らせ、表中の語及び使人の名氏、貢物の数を口授し、書いて上奏した。明日、有司がその物色を閲すると、携えてきた重訳の書と少しも差がなかった。衆みなその博識に服したが、竟にそのどこから授かったか測り知ることができず、ある者は神悟によるものと思った。開府儀同三司を授け、なお三台の銀印を賜い、兼ねて功德使司事を領し、その廪餼を厚くして、以て母を養うことを得させた。
その徒たる者は、勢いに恃みて恣睢し、日新月盛に気焰熏灼し、四方に延びて、害を為すこと言うに勝えざるものがあった。楊璉真加という者がおり、世祖は江南釈教総統に用い、故宋趙氏の諸陵で銭唐・紹興にあるものおよびその大臣の塚墓凡そ一百一所を発掘し、平民四人を殺害し、人の献ずる美女宝物を数え切れず受け、かつ財物を攘奪盗取し、計うに金一千七百両・銀六千八百両・玉帯九・玉器大小百十一・雑宝貝百五十二・大珠五十両・鈔十一万六千二百錠・田二万三千畝、私かに平民を庇って公賦を輸さざる者二万三千戸、その他所蔵匿して未だ露わならざるものは論じない。
もし歳時の祝釈祷祠の常で、好事と称せられるものは、その目は特に一様ではない。鎮雷阿藍納四というあり、華言では慶讃なり。亦思満藍というあり、華言では薬師壇なり。搠思串卜というあり、華言では護城なり。朶児禅というあり、華言では大施食なり。朶児只列朶四というあり、華言では美妙金剛迴遮施食なり。察児哥朶四というあり、華言では迴遮なり。籠哥児というあり、華言では風輪なり。喒朶四というあり、華言では作施食なり。出朶児というあり、華言では出水済六道なり。党剌朶四というあり、華言では迴遮施食なり。典朶児というあり、華言では常川施食なり。坐静というあり、魯朝というあり、華言では獅子吼道場なり。黒牙蛮答哥というあり、華言では黒獄帝主なり。搠思江朶児麻というあり、華言では護法神施食なり。赤思古林搠というあり、華言では自受主戒なり。鎮雷坐静というあり、吃剌察坐静というあり、華言では秘密坐静なり。斟惹というあり、華言では文殊菩薩なり。古林朶四というあり、華言では至尊大黒神迴遮施食なり。歇白咱剌というあり、華言では大喜楽なり。必思禅というあり、華言では無量寿なり。覩思哥児というあり、華言では白傘蓋呪なり。収札沙剌というあり、華言では五護陀羅尼経なり。阿昔答撒哈昔里というあり、華言では八千頌般若経なり。撒思納屯というあり、華言では大理天神呪なり。闊児魯丳卜屯というあり、華言では大輪金剛呪なり。且八迷屯というあり、華言では無量寿経なり。亦思羅八というあり、華言では最勝王経なり。撒思納屯というあり、華言では護神呪なり。南占屯というあり、華言では壊相金剛なり。卜魯八というあり、華言では呪法なり。また擦擦を作る者あり、泥を以て小浮屠を作るなり。また答児剛を作る者あり。その答児剛を作るは、或いは一所二所より七所に至り、擦擦を作るは、或いは十万二十万より三十万に至る。また嘗て浮屠二百十六を造り、七宝珠玉を以て実し、半ばは海畔に置き、半ばは水中に置き、以て海災を鎮めた。
延祐四年、宣徽使が毎年の内廷仏事の供給を会計したところ、その費用を斤数で計ると、麺四十三万九千五百斤、油七万九千斤、酥二万一千八百七十斤、蜜二万七千三百斤を用いた。至元三十年の頃より、醮祠仏事の項目はわずか百二であった。大徳七年、再び功德司を立てると、遂に五百余りに増加した。僧徒は利を貪って飽くことなく、近侍と結託し、欺瞞して奏請し、布施や無遮斎を求め、必要なものは一つではなく、歳費は千万に及び、大徳の頃と比べれば、幾倍であるか分からない。また毎年必ず善事に因って軽重の囚徒を釈放することを奏し、福利と為し、大臣たる阿里の如き、閫帥たる別沙児の如きも、皆これに仮ってその誅罰を免れている。宣政院参議李良弼は、賄賂を受けて官を売り、ただ帝師の言葉によってこれを放免された。その他、人を殺す盗賊、奸悪を働く者どもが、縁故によって幸いに免れる者は多い。甚だしきに至っては、空名の宣勅を取って布施と為し、その人を任用するありさまは、濫りであると言えよう。凡そこれらは一代の治体に関わるものであるから、今ここに備えて記す。
天下の寺院で内外の宣政院に管轄されるものは、禅・教・律と称し、各々その業を守っているが、ただ白雲宗・白蓮宗と称するものは、またしばしば奸利に通じているという。
丘処機は登州棲霞の人で、自ら長春子と号した。幼い時、相見が彼を見て異日神仙の宗伯となるであろうと言った。十九歳の時、寧海の崑崳山で全真学を学び、馬鈺・譚処端・劉処玄・王処一・郝大通・孫不二と共に重陽王真人に師事した。重陽は処機を見るや、大いに器とした。金・宋の末世、ともに使を遣わして召したが、赴かなかった。
己卯の年、太祖(チンギス・カン)は乃蛮より近臣札八児・劉仲祿に詔を持たせて彼を求めさせた。処機はある日突然弟子に語り、行装を整えさせて言った、「天使が我を召しに来る、我は行かねばならぬ」。翌日、二人が到着すると、処機は弟子十八人と共に会見に向かった。翌年、山北に宿留し、先に表を馳せて謝し、拳拳として殺生を止めることを勧めた。また翌年、使いが再び至り急がせたので、撫州を発ち、数十国を経て、地万余里を行った。戦場の血を踏み、賊寇を避け、叛域を過ぎ、沙漠で糧食が絶え、崑崳より四年を経てようやく雪山に到達した。常に深雪の中を馬で行き、馬上で鞭を挙げて試みると、積雪の半分にも及ばなかった。会見すると、太祖は大いに喜び、食を賜い、廬帳を設けて大いに整えた。
太祖は当時西征中で、日々攻戦に事としていたが、処機は常に天下を統一しようとする者は、必ずや人を殺すことを好まないことにあると言った。また治世の方策を問われると、敬天愛民を本とすべしと答えた。長生久視の道を問われると、清心寡欲を要とすべしと告げた。太祖はその言葉に深く感銘し、「天が仙翁を賜り、朕の志を悟らしめた」と言い、左右に命じて書き留めさせ、かつ諸子を訓戒させた。そこで虎符を賜い、璽書を副え、その名を呼ばず、ただ「神仙」と称した。ある日雷が鳴り、太祖が問うと、処機は答えて言った、「雷は天の威である。人の罪で不孝より大なるはなく、不孝は天に順わない。故に天の威が震動してこれを戒めるのである。聞くところによれば境内に不孝の者が多いようである。陛下は天威を明らかにして、衆民を導かれるべきである」。太祖はこれに従った。
癸未の年、太祖が東山で大規模な狩猟を行い、馬が倒れた。処機が請うて言った、「天道は生を好みます。陛下はご年齢も高く、しばしば狩猟されるのは宜しくありません」。太祖はこれにより長らく狩猟をやめた。当時、国兵(モンゴル軍)は中原を蹂躙し、河南・河北は特に甚だしく、民は捕虜となり殺戮され、逃れて命を全うする術がなかった。処機が燕に戻ると、その徒に牒を持たせて戦乱の余波の中で招き求めさせ、これにより人奴隷となっていた者が再び良民となり、死に瀕していた者が更生する者は、おおよそ二三万人に及んだ。中州の人々は今なおこれを称えている。
乙酉の年、熒惑(火星)が尾宿を犯し、その占いは燕にあった。処機がこれを祈ると、果たして退舎した。丁亥の年、また旱魃のために祈り、三日の内に雨が降ることを期して瑞応と名付けると言うと、やがてこれも験があった。旨があり宮名を長春と改めて賜り、かつ使を遣わして労問し、制書に「朕は常に神仙を思い、神仙も朕を忘れるなかれ」とあった。六月、東溪で沐浴し、二日を過ぎて天大雷雨となり、太液池の岸北の水が東湖に入り、その音は数里に聞こえ、魚鱉は全て去り、池は遂に涸れ、北口の高岸も崩れた。処機は嘆いて言った、「山は摧けるか、池は涸れるか、我はこれと共にあろうか」。遂に卒去した。八十歳。その弟子尹志平らは代々璽書を奉じてその教えを襲掌し、至大年間に金印を加えて賜わった。
処機の四伝に祁志誠という者がおり、雲州金閤山に居て、道誉が甚だ著しかった。丞相安童がかつて訪れて問うと、志誠は修身治世の要を告げた。安童はその言葉に感銘を受け、故に世祖に宰相として仕える時、清静忠厚を主とした。罷免されて邸宅に戻ると、退いて世に関わらないかのようであり、人々は志誠の言葉を得たものと思った。その後、安童は再び召されて宰相に入ることを求められたが、辞退して許されず、遂に志誠の下を訪れて決断を求めた。志誠は言った、「昔、子と同列にあった者は誰か。今、同列にある者は誰か」。安童は悟り、世祖に謁見して辞して言った、「臣が昔宰相であった時は、年尚若く、幸いにも陛下の事を誤らなかったのは、輔佐の臣が皆臣の師友であったからです。今、臣に事える者は、皆進んで臣と共にある者ばかりです。では臣の為政が以前より優れることがありましょうか」。世祖は言った、「誰が卿にこのように言ったのか」。答えて言った、「祁真人です」。世祖は長く嘆き驚いた。
十五年、玄教宗師を授け、銀印を賜う。また特にその父を信州路治中に任じ、まもなくさらに江東道同知宣慰司事に昇進させた。この時天下は大いに定まり、世祖は民と休息することを考えていた。留孫は尚方に詔を待つ身であり、黄老の治道が清浄を貴び、聖人が天下を宥う(寛容に治める)旨を論じ、深く主上の心に合った。また完沢を宰相にしようとする時、留孫に占わせたところ、同人の豫を得た。留孫は進言して言うには、「『同人は、柔が位を得て乾に応ず』、君臣の合いです。『豫は、侯を建つるに利あり』、宰相を命ずる事です。これほど吉なことはありません。願わくは陛下疑わないでください」と。完沢を拝した時、天下は果たして賢相を得たと思った。
全節はかつて代わって岳瀆を祀り還った時、成宗が問うて言うには、「卿が過ぎた郡県に、民を善く治める者がいるか」と。答えて言うには、「臣が洛陽を過ぎた時、太守の盧摯は平易で無為であり、民は安靖でした」と。成宗は言う、「私はその人を憶えている」と。即日に召して集賢学士に拝した。成宗が崩じ、仁宗が懐孟より至った時、狂士が危険な言葉で翰林学士の閻復を告発する事件があり、事の成り行きは測りがたかった。全節は力を尽くして李孟に言上し、孟がこれを聞き届けると、仁宗の意が解け、閻復は老齢を理由に去った。当時、朝廷が大臣を敬う礼をわきまえ、口先の言葉で賢者を傷つけなかったのは、全節に力があったからだと考えられた。
全節は風雅を好んで士大夫と交わり、その交わりを傾けぬ者はなく、年長者には特に親しまれ敬われた。善類を推挙するには、その力を尽くさないことを恐れた。窮乏を救い急難を周済するに至っては、また恩怨によってその心を異にすることはなく、当時は頗る侠気があると評された。全節が卒し、年八十二、その門徒の夏文泳が嗣いだ。
真大道教とは、始め金の末季に、道士の劉徳仁が立てたものである。その教えは苦節と危行を要とし、人から妄りに取らず、己のために苟しく奢侈しないことを旨とする。五伝して酈希成に至り、燕城の天宝宮に住み、憲宗に知られ、始めてその教えを真大道と名付け、希成に太玄真人を授け、教事を領させ、内より冠服を出して賜う。なお紫衣三十襲を給し、その従者に賜うた。
至元五年、世祖はその門徒の孫徳福に命じて諸路の真大道を統轄させ、銅章を賜うた。二十年、改めて銀印二つを賜うた。さらに三伝して張清志に至り、その教えはますます盛んとなり、演教大宗師・凝神冲妙玄応真人を授けられた。清志は親に仕えて孝行であり、特に辛苦に耐え、行いを制して堅峻であった。東海の珠山・牢山は旧来虎が多かったが、清志が往って茅を結んで住むと、虎は皆避けて去ったが、しかし人に害をなすことが多かった。清志は言う、「これは我がその所を奪ったからだ」と。ついにそこを去った。後に臨汾に住んだ時、大地震があり、城郭や邑屋が倒壊圧死し、死者は数えきれなかったが、ただ清志の住居だけは裂けて二つになったが、少しも損なわれなかった。そこで木石の間をくまなく巡り、呻吟する声を聞き、救い生き返らせた者は甚だ多かった。朝廷はその名を重んじ、駅伝を給して掌教事に招致した。清志は伝馬を捨てて徒歩で京師に至り、深く住んで簡出し、人はその面を知らない者もあった。貴人や達官が来て会おうとしても、大抵病気と告げ、臥内に伏して起き上がらなかった。道徳ある縉紳の先生に対しては、履を納め杖を履いて求見し、難事としなかった。当時の人はその風を高く評価し、ついに図を描いて互いに伝えた。
太一教とは、始め金の天眷年間に道士の蕭抱珍が、太一三元法籙の術を伝え、よってその教えを太一と名付けたものである。四伝して蕭輔道に至る。世祖が潜邸にあった時その名を聞き、史天沢に命じて召し和林に至らせ、応対が意にかなったので、宮邸に留めて住まわせた。老齢のため、弟子の李居寿に教事を掌らせることを請うた。