元史

列傳第八十七: 列女一

(崔氏 周氏 楊氏 胡烈婦 闞文興妻 郎氏 秦氏二女 焦氏 趙孝婦 霍氏二婦 王德政妻 只魯花真 段氏 朱虎妻 聞氏 馬英 馮氏 李君進妻 朱淑信 葛妙真 王氏 張義婦 丁氏 趙美妻 脫脫尼 趙彬妻 貴哥 臺叔齡妻 李智貞 蔡三玉)

古え、女子の居室には、必ず傅姆師保ありて詩書図史を陳べて以てこれを訓う。左右佩服の儀、内外授受の別、並びに父母舅姑に事えるの道、蓋し備はらざるなし。而して又天子の后妃、諸侯の夫人ありて、躬ら上に行い、以てこれを率化す。則ちその居安にして淑順の称あり、変に臨みて貞特の操あるは、夫れ豈に偶然ならんや。後世この道既に廃れ、女生れて閨闥の中に処り、情愛の私に溺れ、耳箴史の言を聆めず、目防範の具を覩ず、ここより動もすれば礼則を踰え、而して往々自ら邪僻に放つ。苟もこの時に当たりて懿節を以て自ら著わすもの有らば、その生質の美に非ざれば、則ち亦た豈に易くして致さんや。史氏の書する所以、必ず録して敢えて略せざるなり。

元、命を受くること百餘年、女婦の行いを以て朝に聞こゆるもの多し、尽く書くこと能わず、その尤も卓異なるものを采り、篇に具載す。その間、夫の死に忍びず、感慨自殺して以てこれに従うもの有り、或いは過中に失うと雖も、然れども苟くも生を受けて辱しめられ、更に適して愧を知らざる者に較べれば、間有り。故に特らこれを著わし、以て勸厲の義を示すと云う。

崔氏は、周朮忽の妻なり。丁亥の歳、朮忽に従い平陽に官す。金の将来たりて城を攻め、これを克ち、官属妻子敢えて匿す者は死すと下令す。時に朮忽は使事を以て上党に在り、崔氏急ぎ即ち幼子の禎を抱き詭計を以て将に自ら言う、将これを信じ、軍吏をしてその臂に書かしめて出ださしむ。崔氏曰く、「婦人の臂、人をして執りて書かしむは、礼に非ず」と。金を以て吏に賂し、紙にこれを書かしむ。吏曰く、「吾汝の誠に賢婦なるを知る、然れども令違うべからず」と。命じて崔自ら袖を揎げ、吏筆を懸けて書く。既に出づ、その詐りを言う者有り、将怒り、命じてこれを追わしむ。崔と禎土窖に伏すること三日、免るるを得、既に朮忽と会す。

未だ幾ばくもせず、朮忽病を以て亡ぶ、崔年二十九、即ち大いに柩前で慟哭し、再び嫁がざるを誓い、麗飾を斥け去り、皂布の弊衣を服し、婢僕を放散し、躬ら紡績し、悉く資産を親旧に遺す。権貴有りて人をして諷し求めて娶らんとす、輒ち自らその面を爬毀して生を欲せず。四十年妄りに言笑し、吉会に預かること未だ嘗てせず。家を治め子を教うるに法有り、人これを古の烈婦に比すと云う。

周氏は、(灤平)〔平灤〕石城の人なり。年十六、李伯通に適し、一子を生み、名を易と曰う。金末、伯通豊潤県を監す、国兵これを攻め、城破れ、その終わりを知らず。周氏と易虜と為る、偕に行う者に謂いて曰く、「人苟くもその生を愛せば、万一辱しめを受くれば、死するに如かず」と。即ち自ら塹に投ず。主者怒り、佩刀を抜きて三たびその体を刃して去り、死せずを得。遂に易を携えて逃れ、間関して汴に至り、績絍を以て自ら給し、易を教え読書せしめて成る有り。

楊氏は、東平須城の人なり。夫郭三、軍に従い襄陽にあり、楊氏留まりて舅姑に事え、孝を以て聞こゆ。至元六年、夫戍所に死す、母嫁がしめんと欲して奪わんとす、楊氏号痛自誓し、乃ち已む。久しくして、夫の骨還る、舅曰く、「新婦年少、終には必ず他に適すべし、吾が子をして地下に鰥処せしむべけんや」と。将に里人の亡女の骨を求めて合瘞せんとす。楊氏聞き、益々悲しみ、五日食わず、自ら経死し、遂に夫と共に葬らる。

胡烈婦は、渤海劉平の妻なり。至元七年、平棗陽に戍すべく、車にその家を載せて以て行く。夜沙河の傍に宿す、虎至り、平を銜えて去る。胡覚えて起き、これを追い及び、虎の足を把り、顧みて車中の児を呼び、刀を取らしめて虎を殺す、虎死に、平を扶けて季陽城に還り医を求め、傷を以て卒す。県官状を言う、命じてその母子を恤い、仍ってこれを旌異す。

至大の間、建徳王氏の女、父出でて舍の傍を耘う、豹に遇い、これが為にぜいわれ、これを曳きて山に升る。父大いに呼ぶ、女父の声を識り、驚き趨りて救い、父の棄てし鋤を以て豹の脳を撃ち、これを殺す、父乃ち生くを得。

闞文興の妻王氏、名は醜醜、建康の人なり。文興軍に従い漳州にあり、その万戸府知事と為り、王氏ともに行く。至元十七年、陳吊眼乱を作し、漳州を攻む、文興兵を率いてこれと戦い、これに死す。王氏掠められ、義を受けて辱しまず、乃ち賊に紿いて曰く、「吾が夫を葬るを俟て、即ち汝に従わん」と。賊これを許す、遂に脱れ、屍を負いて還るを得、薪を積みてこれを焚く。火既に熾んなり、即ち自ら火中に投じて死す。至順三年、事聞こゆ、文興に侯爵を贈り、諡して英烈と曰う。王氏を貞烈夫人と曰う。有司これが為に廟を立てて祀り、号して「双節」と云う。

郎氏は、湖州安吉の人、宋の進士朱甲の妻なり。朱嘗て浙東に仕え、郎氏を以て従う。至元の間、朱歿す、郎氏喪を護り還り玉山里に至り、留まり居て盗を避く。勢家の柳氏強いてこれを聘せんと欲す、郎誓いて従わず、夜装を棄て柩を奉じて遁る。柳これを中道に邀う、復た死して拒み、免るるを得。家に居り、姑を養うこと甚だ謹みたり。姑嘗て病む、郎天に禱り、股の肉を刲りて進み啖らしめて愈ゆ。後姑喪し、哀しみを以て聞こゆ。大徳十一年、これを旌美す。

又東平の鄭氏、大寧の杜氏、安西の楊氏有り、並びに少寡にして志を守り、体の肉を割きて姑の病を療す。

秦氏の二女、河南宜陽の人、その名を逸す。父嘗て危疾有り、医云く攻むべからずと。姉戸を閉ざし黙祷し、己が脳を鑿ち薬に和して進み飲ます、遂に愈ゆ。父後復た病みて絶えんと欲す、妹股の肉を刲り粥の中に置く、父小しく啜りて即ち甦る。

孫氏の女、河間の人。父は癩病を患うこと十年、女は天に祈り、身を以て代わることを求め、且つその膿血を吮い、旬月にして癒ゆ。

許氏の女、安豊の人。父疾あり、股を割きてこれを啖わしむるに乃ち痊ゆ。

張氏の女、廬州の人、嫁して高垕の妻となる。母目を病みて明を喪う、張氏帰省し、母を抱きて泣き、舌を以てこれを舐うに、目忽ち視ることを得たり。

州県各おの状を以て聞かしむ、これを褒表す。

焦氏、涇陽の袁天祐の妻なり。天祐の祖父・父始め皆軍役に従い、祖母楊氏・母焦氏並びに家居して志を守る。至元二十三年、天祐復た征に従い甘州に死す、妻焦氏年少なり、宗族改めて嫁がさんと欲す。焦氏哭き且つ言うに曰く、「袁氏不幸にして三世早く寡す、祖姑より以来、皆節義を守る、豈に吾に至りて遂に廃せんや!吾生くるは袁氏の婦、死すれば則ち袁氏の土に葬らるるのみ、終に能く容を改めて他人に事えざるなり」と。衆復た言うこと敢えず。

周氏、澤州の人、嫁して安西の張興祖の妻となる。年二十四、興祖歿す、舅姑再適せしめんと欲す、周氏従わず、曰く、「妾が家の祖父皆早世し、妾の祖母・妾の母並びに貞操を以て聞こゆ、妾或いは中道に節を易うれば、是れ故夫を忘れて先人を辱しむるなり。夫れ故夫を忘るるは義ならず、先人を辱しむるは孝ならず、不孝不義、妾為さざるなり」と。遂に嫠を居ること三十年、舅姑に奉じ、生事死葬礼に違わず。その父と外祖皆後無く、葬祭の礼も亦周氏これを主る。

有司以て聞かしむ、並びに旌異を賜う。

趙孝婦、徳安応城の人。早く寡し、姑に事えて孝なり。家貧しく、人に傭われて織り、美食を得れば必ず持ち帰りて姑に奉じ、自らは粗糲を啖いて厭わず。嘗て姑の老いたるを思い、一旦不諱あらば、棺を得る由無からんと、乃ち次子を以て富家に鬻ぎ、銭百緡を得、杉木を買いてこれを治む。棺成り、家に置く。南隣火を失う、時に南風烈しきこと甚だし、火勢孝婦の家に及ぶ、孝婦急ぎ姑を扶けて出で避くるも、棺重くして移すべからず、乃ち膺を撫でて大いに哭きて曰く、「吾姑のために児を売りて棺を得たり、吾がためにこれを救う者能わず、苦しみこれより大なるは莫し」と。言い畢りて、風転じて北す、孝婦の家焚けず、人以て孝感の致す所と為す。

霍氏の二婦尹氏・楊氏、夫家鄭州の人。至元の間、尹氏の夫耀卿歿す、姑その更に嫁ぐことを命ず、尹氏曰く、「婦の行は一節のみ、再嫁して節を失うは、妾忍びて為さざるなり」と。姑曰く、「世の婦皆然り、人未だ嘗て以て非と為さず、汝独り何の耻かあらん」と。尹氏曰く、「人の志同じからず、妾妾が志を守るを知るのみ」と。姑強うること能わず。楊氏の夫顯卿継いで歿す、姑その嫁がんことを欲するを慮り、即ち先ず姑に白して曰く、「妾聞く、娣姒猶お兄弟のごとし、相好むべしと。今姒既に留まる、妾独り去るべけんや?願わくは共に婦道を修め、以て終に吾が姑に事えん」と。姑曰く、「汝果たして能く是のごとくならば、吾何をか言わん」と。ここに於いて同処すること二十余年、節孝を以て聞こゆ。

又邠州の任氏・乾州の田氏有り、皆一家一婦、倶に少寡して他に適せずと誓い、力を戮して蚕桑に努め、以て舅姑を養う。

事聞こゆ、並びに命じて褒表す。

王徳政の妻郭氏、大名の人。少くして孤、母張氏に事えて孝謹、女儀を以て郷に聞こゆ。笄に及ぶ、富貴の家これを慕い、争い求めて聘す、張氏許さず。時に徳政里中に教授し、年四十余、貌甚だ古陋なり、張氏貧しくして二子を教うること能わず、徳政を納れて婿と為し、これを教えしめんと欲す。宗族皆然らず、郭氏慨然として母の志に順わんことを願う。既に婚し、徳政と相敬すること賓の如く、二弟を囑教して成ること有り。未幾にして徳政卒す、郭氏年方に二十余、節を励まして自ら守り、甚だ貞名有り。大徳の間その家を表す。

只魯花真、蒙古氏。年二十六、夫忽都病みて卒す、再醮せずと誓い、舅姑に孝養す。二十五年を逾え、舅姑歿す、衣に塵し面に垢し、墓に廬して終身す。至元の間これを旌す。

その後また翼城の宋仲栄の妻梁氏有り、舅歿す、土を負うて墳と為す;懐孟の何氏・大名の趙氏、並びに夫歿して志を守り、舅姑を養いて寿を以て終わり、親しく土を負いその墳を築き、高さ三丈余。

段氏、隆興の霍栄の妻なり。栄子無く、嘗て人を乞いて養子と為す。栄卒す、段氏年二十六、舅姑を養いて孝と称さる。舅姑歿す、栄の諸父仲汶その産を貪り、段に謂いて曰く、「汝が子は仮の子なり、帰宗せしむべし。汝子無し、宜しく改めて適すべく、霍氏の業汝に関預せず」と。段曰く、「家資計うべからず、但だ再醮は義ならず、尚お妾にこれを思わしめよ」と。即ち退きて寝室に入り、針を引いて面を刺し、墨を以てこれを漬し、死を誓いて二つならず。大徳二年、府状を中書に上す、羊酒幣帛を給し、仍お門を旌することを命じ、役を復することを制の如くす。

また興和の呉氏(名不詳)は自ら顔を刺し、成紀の謝思明の妻趙氏は自ら髪を剃り、冀寧の田済川の妻武氏と溧水の曹子英の妻尤氏は指を嚙んで血を滴らせ、皆再嫁しないことを誓った。それぞれ役所が請うてこれを表彰した。

朱虎の妻茅氏は崇明の人である。大徳年間、朱虎が都水監の官にあり、罪に坐して家を没収され、役人が茅氏と二人の子を記録して京師へ送った。太醫提點の師甲が彼女を家に帰して娶ろうと乞うた。茅氏は死を誓って従わず、母子三人は裾を結び合わせて連なり、昼夜抱き合って号泣し、容貌は憔悴した。師甲は奪い得ぬと知り、釈放した。茅氏は永明尼寺に仮住まいし、憂憤して食を絶ち死んだ。

聞氏は紹興の俞新の妻である。大徳四年、新之が没し、聞氏は年尚少であったが、父母は彼女が守れぬことを慮り、再嫁させようとした。聞氏は泣いて言う、「一身にして二夫に仕うるは、烈婦の恥ずるところなり。妾は生なきとも、恥なきを得んや。且つ姑は老いて子は幼し、妾が去らば誰をして視せしめんや」と。即ち髪を断ち自ら誓った。父はその志の篤いことを知り、強いるに忍びなかった。姑は久しく風疾を患い、且つ失明していたが、聞氏は手ずから汚穢を洗い怠らず、時に口を漱いで堂に上りその目を舐めると、目は復明した。姑が卒すると、家貧しく、雇い人の資がなく、子と共に土を背負って葬り、朝夕悲号し、聞く者を惨惻ならしめた。郷里はその孝を嘉し、彼女のために語って言う、「孝婦を学ばんと欲せば、当に俞母に問うべし」と。

また劉氏あり、渤海の李伍の妻である。若くして寡となり、父母が再醮させようとしたが従わなかった。舅が疽を患うと、劉氏は天に祈り、数日して潰れ、その血をすすって癒えた。既にして自ら小車を引き、舅を載せて岳祠に詣で、神の賜いに答えた。

馬英は河内の人、性孝友なり。父の喪に哀毀し、二兄相次いで没す。馬英は独り母に事えて甚だ謹み、また二寡の嫂を奉じて同居し、彼女らが嫠節を全うするを得させた。母の喪に及び、地を卜して諸喪を葬り、親しく土を背負って四つの墳とし、手ずから松柏を植え、墓側に廬して終身を過ごした。

趙氏の女、名は玉児、冠州の人。嘗て李氏の婦となることを許され、未婚のまま夫が死ぬと、遂に嫁がざることを誓い、父母を養った。父母が没すると、土を背負って墳とし、郷里は孝と称した。

馮氏、名は淑安、字は静君、大名の宦家の女、山陰県尹山東の李如忠の後妻である。如忠は初め蒙古氏を娶り、子の任を生み、数歳にして没した。大徳五年、如忠が病篤く、馮に謂う、「吾は已に矣(まさに終わらんとす)、汝を奈何いかんせん」と。馮氏は刀を引いて髪を断ち、他に適さぬことを自ら誓った。如忠が没して二月、遺腹の子を一つ生み、名を伏という。

李氏及び蒙古氏の一族は北におり、如忠が官にて没し、家に遺財多しと聞き、相率いて山陰に来た。馮氏は病みつつあり、隙に乗じてその資財及び子の任を尽く奪い去った。馮はこれと争わず、一室蕭然として、唯余るは如忠及び蒙古氏の柩のみであった。朝夕哭泣し、隣里は聞くに忍びなかった。久しくして、衣を売って二柩を蕺山の下に仮に葬り、その子を携えて墓側に廬した。時に年始めて二十二、羸形苦節、女師となって自ら給した。父母が来てこれを見て、その孤苦を憐れみ、再び人に事えさせようとしたが、馮は顔を爪立てて流血し、肯じて従わなかった。二十年居住し、始めて喪を護って汶上に帰葬した。斉魯の人これ聞き、嘆息せざる者なし。

李君進の妻王氏、遼陽の人。大徳八年、君進が病卒し、葬地を卜し、将に発引せんとし、親戚隣里皆会した。王氏は衆に謂う、「夫婦死して同穴なるは、義なり。吾良人に従いて逝くを得ば、亦た可ならずや」と。因って棺を撫でて大いに慟哭し、嘔血一升余り、即ち地に仆して死んだ。衆がこれを殮め、夫と連柩にして出葬し、送る者数百人、泣きぬれざる者なし。

移剌氏は、同知湖州路事耶律忽都不花の妻である。夫が没し、耳を割いて自ら誓った。葬り終えると、墓側に廬し、悲号して食を絶ち死んだ。

趙氏、名は哇児、大寧の人。年二十、夫の蕭氏が病篤く、哇児に謂う、「我死せば、汝は年少なり、之を奈何せん」と。哇児曰く、「君幸いに自ら寛げ、もし諱むべからざる有らば、妾独り生くることなく、必ず君に従いて地下に至らん」と。遂に工匠に命じて巨棺を造らせた。夫が没すると、即ち自ら経死し、家人同じ棺に殮めて葬った。

また雷州の朱克彬の妻周氏、大都の費巖の妻王氏・買哥の妻耶律氏、曹州の鄭臘児の妻康氏、陝州の陳某の妻別娥娥、大同の宋堅童の妻班氏・李安童の妻胡氏、晉州の劉恕の妻趙氏、冀寧の王思忠の妻張氏、饒州の劉楫の妻趙氏、東平の徐順の妻彭氏、大寧の趙𦞦児の妻安氏・陳恭の妻張氏・武寿の妻劉氏・宋敬先の妻謝氏・撒里の妻蕭氏、古城の魏貴の妻周氏、任城の郭灰児の妻趙氏、棗陽の朱某の妻丁氏、葉県の王保子の妻趙氏、興州の某氏の妻魏氏、灤州の裴某の妻董貴哥、成都の張保童の妻郝氏、利州の高塔必也の妻白氏、河南の楊某の妻盧氏、蒙古氏の太朮の妻阿不察・相兀孫の妻脱脱真、皆早く寡となり独り生くるに忍びず、死をもって夫に従った者である。

事聞こえ、悉く褒め表彰することを命じ、或いは銭を賜い諡を贈った。

朱淑信は山陰の人。若くして寡となり、再嫁せざることを誓った。一女妙淨あり、幼くして父を哭き両目共に失明した。長ずるに及び、配偶を選ぶ者至らず、家貧しく凶年にあい、母子相依り、苦節を以て自ら励んだ。士人の王士貴その孝を重んじ、乃ち娶ることを求めた。

葛妙真は宣城の民家の女。九歳の時、日者の言を聞き、母は五十歳にして当に死すべしと。妙真は即ち悲憂して天に祝い、嫁がざることを誓い、終身斎素して、以て母の年を延ばした。母後年八十一にして卒した。

畏吾氏の三女、家は錢塘にあり。諸兄は遠く仕えて帰らず、母はこれを思って病み、三女は母の心を慰めんと欲し、乃ち共に髪を断ち天に誓い、終身嫁がずして母を養い、力を合わせて侍護すること四十餘年。母は遂に壽を以て終わる。

事が上聞され、並びに旌異を賜う。

王氏は、燕の人張買奴の妻なり。年十六にして、買奴は錢塘に官し病みて歿し、城西十里外に葬る。王氏は毎旦髪を被いて歩み往きて之を奠し、墓に伏して大いに慟哭し絶えんと欲し、久しくして疾を致す。舅姑力めて其の行を止め、乃ち已む。服闋し、舅姑之に謂いて曰く、「吾が子已に歿せり、新婦年尚ほ少し、宜しく自ら終身の計を図るべし、徒らに吾が家に淹る毋れ」と。王氏泣いて曰く、「父母妾を命じて箕帚を張氏に奉ぜしむ、今夫不幸にして早く逝く、天なり。此の足豈に復た他人の門を履くべけんや」と。固より従わず。煢として居ること三十年、貞白にして少しの玷無し。

又た馮翊の王義の妻盧氏、睢陽の劉澤の妻解氏、東平の楊三の妻張氏有り、並びに志を守り節有り。命じて其の門を旌ぐ。

張義婦は、濟南鄒平の人、年十八にして里人李伍に嫁ぐ。伍は從子の零と福寧に戍り、未幾にして戍所に死す。張獨り家居し、舅姑を養うこと至って甚だし。父母舅姑病み、凡そ四度股肉を刲いて救い懈かず。及び死し、喪葬に遺礼無し。既にして歎いて曰く、「妾が夫は数千里の外に死し、妾其の骨を帰して葬る能わざるは、舅姑父母在りて、仰ぐ所無きを以ての故なり。今不幸にして父母舅姑已に死し、而して夫の骨終に遠土に暴棄せらる、妾無きに即ち已まん、妾在りて、敢えて死を愛せんや」と。乃ち積氷の上に臥し、誓いて曰く、「天若し妾に夫の骨を取るを許さば、寒きこと甚だしと雖も、当に死せざるを得ん」と。踰月して、竟に死せず。郷人之を異とし、乃ち相率いて銭を贈り、大いに其の事を衣に書して行く。

四十日行きて、福寧に至り、零を見、夫の葬地を問うと、則ち榛莽四塞し、識るべからず。張哀慟して絶えんと欲す。夫忽ち童に降り、言動其の生時の如く異ならず、張に死時の事を告げ、甚だ悲しみ、且つ骨の在る所を指示す。張其の言の如く発して之を得、骨を持ちて祝して曰く、「爾信じて妾が夫なるか?口に入れば当に冰雪の如く、膠の如く黏るべし」と。已にして果然なり。官之を義とし、大府に上り、零をして喪を護りて還らしめ、銭を給うて葬らしめ、仍って門を旌ぎ、其の役を復す。

丁氏は、新建の鄭伯文の妻なり。大徳の間、伯文病みて将に歿せんとす、丁氏と訣別して曰く、「妾自ら巾櫛に侍るを得て、偕老を誓う。君今不幸にして疾是の如し、脱し不諱有らば、妾当に従わん。但し君の父母已に老い、他に子婦侍養する無く、妾苟くも復た自ら亡きせば、君の父母をして食甘味ならしめば、則ち君亦た瞑目せざらん。妾且く死を忍び、以て其の餘年を奉らん、必ず改めて他人に事えず、以て君に冥冥に負かん」と。

伯文卒し、丁氏年二十七、居喪して哀毀す。服既に除くや、父母屢議して嫁ぐを奪わんとす、丁氏毎に聞けば必ず慟哭して曰く、「妾の死せざる所以の者は、苟くも生くるに他志有るに非ず、良人と約し、将に以て舅姑に事えんとす耳。今舅姑堂に在りて固より恙無し、妾棄て去りて良人に信ならざらんや」と。父遂に止む。舅姑嘗て病み、丁氏夙夜護視し、衣帯を解かず。及び死し、喪葬礼を尽くす。事上聞され、其の門を表す。

白氏は、太原の人。夫は釈氏の道を慕い、家を棄てて僧と為る。白氏年二十、留まりて姑を養い去らず、服勤して績絍し、以て租賦を供す。夫一日還り、他に適せんことを迫る。白は髪を断ち誓いて従わず、夫奪う能わず、乃ち去る。姑年九十にして卒し、力を竭くして葬を営み、姑の像を画きて之を祀ること終身。

趙美の妻王氏、内黄の人。至治元年、美水に溺れて死す、王氏誓って志を守らんとす、舅姑其の年少にして子無きを念い、更に人に適せしめんと欲す。王氏曰く、「婦の義再醮無し、且つ舅姑在り、妾棄てて去るべけんや」と。舅姑乃ち族姪を以て継婚せんと欲す、王氏拒みて従わず。舅姑之を迫ること力有り、王氏免れざるを知り、即ち縄を引いて自ら経死す。

李冬児は、甄城の人、丁従信の妻なり。年二十三、従信歿し、服闋し、父母呼び帰りて之を問い、曰く、「汝年少にして孀に居り、又た子無し、何を以て自立せん、吾汝が為に再び婿を択ばんこと如何」と。冬児従わず、従信の冢に詣りて哭き、墓の樹上に縊らんと欲す、家人之を防ぎ、果たさず。日暮れに従信の家に還り、夜二鼓、室に入り新衣を更え、自ら経死す。

李氏は、濱州の恵高児の妻なり。年二十六、高児歿し、父奪い帰りて之を嫁がさんと欲す、李氏従わず、自ら縊れて死す。

脱脱尼は、雍吉剌氏、色有り、女工を善くす。年二十六、夫哈剌不花卒す。前妻に二子有り皆壮なり、婦無く、本俗の制を以て之を収継せんと欲す、脱脱尼は死を以て自ら誓う。二子復た百計求めて遂げんとす、脱脱尼恚り且つ罵って曰く、「汝禽獣の行、母を妻せんと欲するか?若し死せば何の面目を以て汝が父の地下に見えん」と。二子慚懼して謝罪し、乃ち業を析きて居る。二十年貞操を以て聞こゆ。

王氏は、成都の李世安の妻なり。年十九、世安卒し、夫弟の世顯之を収継せんと欲す。王氏従わず、刃を引いて髪を断ち、復た自ら其の耳を割き、創甚だし。親戚驚嘆し、為に医療すること百日にして乃ち愈ゆ。

状上り、並びに之を旌ぐ。

趙彬の妻朱氏、名は錦哥、洛陽らくようの人である。天暦の初め、西兵が河南を掠奪し、朱氏は兵士五人に遭遇し、捕らえられ、乱行を強要された。朱氏は拒んで言った、「私は良家の婦人である、どうして汝ら賊に従えようか」。兵士は怒り、引きずり出し鞭で打った。朱氏は逃れられぬと覚り、すぐに欺いて彼らに言った、「幸いにも私を放してくれ、家の後ろの井戸の傍に埋めた金がある、掘り出して汝らに与えよう」。兵士はこれを信じ、彼女の後について行った。朱氏は井戸に近づくことができ、すぐに三歳の娘を抱いて身を躍らせ井戸の中に投身して死んだ。

この年、また偃師の王氏の娘、名は安哥が、父に従って印山の丁家洞に兵を避けた。兵士が入り、彼女を捜し出し、安哥の容色が美しいのを見て、追い立てて出させ、汚そうとした。安哥は従わず、澗に投身して死んだ。

役所が状況を報告し、ともにその家を表彰した。

貴哥、蒙古氏、同知宣政院事羅五十三の妻である。天暦の初め、五十三が罪を得て、海南に貶謫され、その家は没収され、詔によって貴哥は近侍の卯罕に賜わった。卯罕は自ら車騎を率いてその家に至り迎えた。貴哥は免れられぬと覚り、婢僕に命じて飲食で卯罕を応接間に引き止めさせ、厩舎に入り自縊して死んだ。

臺叔齢の妻劉氏、順寧の人である。少し書物を知り、よく婦道を修めた。ある日地震で家屋が崩壊し、叔齢を押さえつけて起き上がれず、家はまた火災に見舞われた。叔齢の母が先に救おうとしたができず、焼け死にそうになった。叔齢が見て呼んだ、「私はすでに出ることはできない、急いで我が母を救え」。劉は夫の妹に言った、「汝は汝の母を救え、兄は必ず死ぬ、私は生きる必要はない」。すぐに自ら火の中に投身して死んだ。火が消え、家人が二つの屍を灰燼かいじんの中から得たが、なお手を握り合って離れなかった。官はその烈節を嘉し、朝廷に上奏し、命により史臣に記録させた。

李智貞、建寧浦城の人。父は子明、子がなかった。智貞は七歳で書を読むことができた。九歳の時、母が病み、看病に大いに心を配った。母が亡くなると、悲嘆のあまり絶えんばかりで、三年間葷を食べず、女工をして祭祀を支え、また父に美味を奉じて欠かさず、郷里では孝女と称された。父はかつて鄭全の妻とすることを許していたが、まだ嫁がず、父に従って邵武に客居した。邵武の豪族陳良はその聡明さを気に入り、強いて納采して聘を求めた。智貞は髪を断って拒み、かつしばしば自ら死を求めたので、良は奪うことができず、ついに全に嫁いだ。舅姑と父母に仕えること皆道があった。泰定年間、全が病没すると、智貞は悲泣して食事をとらず、数日で死んだ。

蔡三玉、龍溪の陳端才の妻である。盗賊が漳州で蜂起し、龍溪を掠奪した。父の広瑞と端才はそれぞれ逃げ去り、三玉はただ夫の妹とともに出て隣の祠の中に避難した。盗賊が入り、夫の妹を斬りつけ、三玉の美しさを見て、傷つけるに忍びず、里の婦人歐氏とともに追い立てて舟の中に納めた。柳営江まで行き、妻とすることを迫った。三玉は偽って承諾し、そこで起きて更衣し、自ら江水に投身して死んだ。三日後、屍が流れて広瑞の舟の側に至り、広瑞は娘と認め、収殮した。歐氏が脱出して帰り状況を話した。役所はその節操を高く評価し、表彰を請うた。そこで命じて門を旌表し徭役を免除し、さらに銭を与えて葬らせた。