古の君子は、経世の術を負い、時が為すべからざるを度り、故に高蹈してその志を全うす。時に得るあらば、未だ仕えんと欲せざるはなく、仕えて所學を行い、物に及ぼす功豈に少なからんや!後世の士、その蘊蓄する所或いは未だ至らずして、好んで跡を以て高しと為し、邦に道あるの時に当たり、且つ世を遁れ群を離れ、これを隱士と謂う。世の主も亦苟くもその名を取りて強いてこれを起し、その実を考うるに、聞く所に如かざれば、則ち曰く「是れ世を欺き譽を釣る者なり」と、上下豈に両失せざらんや!
元の隱士も亦多し、杜瑛の執政に遺す書、及び張特立の官に居るの政の如きは、則ち徒らに隱する者に非ず、蓋しその時を得れば則ち行い、隱すべくして隱し、頗る古の君子の風有り。而して世の主も亦強いてこれを起さしめず、以て両得たりと謂うべきなり。是れより隱逸と称する者、蓋し往々にして有り、今その傳うべきを摭りて、隱逸傳を作る。
杜瑛
杜瑛、字は文玉、その先は霸州信安の人。父は時昇、金史に傳有り。瑛は長さ七尺、鬚髯美しく、気貌魁偉たり。金将に亡ぼんとするに及び、士は猶お文辞を以て規りて進取す、瑛は独り河南緱氏の山中に避地す。時に兵後のため、文物凋喪し、瑛は諸書を搜訪し、尽くこれを読み、読めば輒ち忘れず、而してその指趣を究め、古今の得失は諸掌を指すが如し。間關轉徙し、汾・晉の間に教授す。中書粘合珪、相に開府す、瑛はその聘に赴き、遂にここに家す。良田千畝を与う、辞して受けず。術者その居る下に蔵金有りと言う、家人発して視んと欲す、輒ちこれを止む。後に来たりて居る者果たして黄金百斤を得たり、その苟も取らざること此の如し。
歳己未、世祖南伐して相に至り、召見して計を問う、瑛従容として対えて曰く、「漢・唐以還、人君の恃みて以て国と為す所は、法と兵と食の三事のみ。国に法無くば立たず、人に食無くば生ぜず、乱に兵無くば守らず。今宋は皆これを蔑ろにす、殆ど将に亡ぼんとす、これを興すは聖主に在り。若し襄樊の師を控え、戈を下流に委ね、以てその背を擣かば、大業定まるべし。」と。帝悦びて曰く、「儒者の中に乃ち此人有るか!」と。瑛復た数事を以て帝を勧め、事此の如くせざれば、後当に彼の如くならんと謂う。帝これを納れ、心に瑛を賢とし、大用すべしと謂い、命じて従行せしむ、疾を以て果たさず。
中統初、詔して瑛を徴す。時に王文統方に用事す、辞して就かず。左丞張文謙、河北を宣撫し、奏して懷孟・彰德・大名等路提舉學校官と為す、又辞し、執政に書を遺す、その略に曰く、「先王の道明らかならず、異端邪説これを害す、横流奔放し、天理線の如く絶えず。今天子神聖、俊乂輻湊し、言を納れ計を用い、先王の礼楽教化、興明修復するは、その時なるかな。若し夫れ簿書期会、文法末節は、漢・唐も猶お屑とせず、執事者陋に因り簡に就き、此れを是れ務む、良く惜しむべし哉!善く始むる者は未だ必ずしも善く終わるに非ず、今流を遡り源を求め、法を明らかにし俗を正し、材を育し化を興し、以て数百千年の禍を拯わざれば、僕後日の弊、将に勝え言うべからざる者有らんことを恐る。」と。人或いは仕を勧むれば、則ち曰く、「後世古に去ること雖遠しと雖も、而して先王の施設する所、本末先後は、猶お考見すべし、故に政を為す者は古を復するに先んずる莫し。苟も習いの旧弊に因りて、以て先王の意に合わんことを求めば、亦た難からずや!吾は又時に随いて俛仰して機會に赴く能わず、将に焉んぞ用いて仕えんや!」と。是れより門を杜して書を著し、一も窮通得喪を以てその志を動かさず、道藝に優游し、以てその身を終う。年七十、その子処立・処愿に遺命して曰く、「吾即ち死せば、当に吾が墓に表して『緱山杜處士』と曰え。」と。天曆中、資德大夫・翰林學士・上護軍を贈り、魏郡公を追封し、諡して文獻と曰う。
著する所の書を春秋地理原委十巻、語孟旁通八巻、皇極引用八巻、皇極疑事四巻、極學十巻、律呂律曆礼樂雜志三十巻、文集十巻と曰う。その律に於いては、則ちその始を究め、その義を研ぎ、長短清濁、周徑積実、各おの類を以て分ち、経史の説を取りて以てこれを実し、而してその是非を折衷す。その曆に於いては、則ち曆を造る者は皆十一月甲子朔夜半冬至を以て曆元と為すと謂い、独り邵子は天は子に開くを以てと為し、日甲月子・星甲辰子を取り、元会運世の数と為し、朔虚無く、閏余無く、率い三百六十を以て歳と為し、而して天地の盈虚、百物の消長、能くその中に出でずと謂う。閉物開物を論じて、則ち曰く己に開き、戊に閉ず;五は天の中なり;六は地の中なり;戊己は月の中星なりと。又卦を分ち配して之を紀年す、金の大定庚寅は、小過の初六に交わり;国朝の甲寅三月二十有三日寅時は、小過の九四に交わる。多く先儒の未だ発せざる所、その要を掇りて篇に著す云う。
張特立
張特立、字は文舉、東明の人。初め名は永、金の衞紹王の諱を避け、今の名に易う。泰和の進士に中り、偃師主簿と為る。宣德州司候に改む。州多く金の国戚、号して治め難しとす、特立官に至り、俱に往きてこれを謁す。五将軍有りて家奴を率い民の群羊を劫う、特立命じて大いに閭里を索めしむ、遂に将軍の家を過ぎ、温言を以てこれを誘いて曰く、「将軍の宅に寧ろ羊を盗む者あらんや?聊かこれを見て以て衆口を杜がん。」と。潜かに人をしてその後庭を索めしむ、羊数十を得たり。遂にその奴を縛し獄に繫ぎ、その子は他の舎に匿る、捕えてこれを得、近族を以て死を減じて論ずるを得。豪貴是れより法を遵ひ、民頼りて以て全かる。
正大初、洛陽令に遷る。時に軍旅数起り、郡縣窘迫し、東帥紇石烈牙兀䚟又儒士を侮慢す、会に陝右に移鎮す、道洛陽を経て、特立の淳古なるを見、これを礼せず、遽かに令して糗具を治めしむを責め、期すること三日足れりとし、後期すれば軍法の如しとす。県民素より特立を賢とす、争って庭に輸す、帥大いにこれを奇とす。既にして監察御史を拝し、首に世宗の諸孫幽囚すべからざるを言い;尚書右丞顏盞石魯の細民と田を争うこと、参知政事徒單兀典の近習に諂い事うること、皆当に罷黜すべしとす。執政者これを忌む。会に平章政事白撒陝西に軍を犒う、特立又その掾の法に不法なるを劾す。白撒世宗に訴え、特立の言う所の事実を失うと言う、世宗これを宥し、遂に田里に帰る。
(杜本)
杜本、字は伯原。その先祖は京兆に居し、後に天台に移り、また臨江の清江に移る。今は清江の人となる。本は博学で、文を属するに善し。江浙行省丞相忽剌朮(忽剌木)は、その上る救荒策を得て、大いにこれを奇とし、御史大夫に入るに及んで、武宗に力を以て推薦す。嘗て召されて京師に至るも、未幾にして帰り武夷山中に隠る。文宗が江南に在りし時、その名を聞き、即位するに及んで、幣を以てこれを徴す。起たず。
本は湛静にして寡欲、疾言遽色なし。人と交わるに特に義に篤く、親を養うに貧しくして資なく、学を為すに貲なき者あれば、皆これを済す。平居書冊未だ手を釈かず。天文・地理・律暦・度数、通究せざるなく、特に篆隸に工なり。著す所に四経表義・六書通編・十原等の書あり、学者これを清碧先生と称す。至正十年卒す。年七十五。
時に張枢、字は子長という者あり。婺州の金華の人。亦た屡々徴されて起たず。枢は幼くして聡慧、外家の潘氏は書数万巻を蓄え、枢は尽く取りてこれを読み、目に過ぐれば輒ち忘れず。既に長じ、筆を肆にして章を成し、頃刻に数千言。古今の沿革・政治の得失・宇宙の分合・礼楽の廃興を問うに至り、帝号官名・歳月の先後に至るまで、歴歴として諸掌を指すが如し。その文を為すに、務めて経史を推明し、以て教道を扶翼し、特に叙事に長ず。嘗て三国時の事を取りて漢本紀列伝を撰し、魏呉の載記を附し、続後漢書七十三巻と為す。臨川の危素はその立義の精密なるを称し、勧講に備うべしとし、朝廷その書を取りて宣文閣に置く。浙東部使者交えてこれを推薦し、前後章凡そ九たび上る。
孫轍
同郡の呉定翁、字は仲谷。その先祖は宋初に当たり金陵より来り徙る。定翁は幼歳より儼として成人の如く、寒暑衣冠少しくも懈らず、清修文雅、孫轍と斉名す。而して最も詩を為すに善く、掲傒斯はその幽茂疏澹なるを称し、盧摯に比すべしとす。御史及び江西の方伯牧守部使者、辟薦相望むも、終身動かされず。程鉅夫嘗て書を貽して曰く、「臨川の士友門に及ぶ者、踵相接なり。何ぞ足下の耿耿として玉人の如く、して見るを得ざるを相望まんや」と。定翁嘗て曰く、「士は世に用いられんことを求むる無く、惟だ世に媿じざるを求む」と。人これを名言と為す。
(何中)
同郡の危復之、字は見心。宋末太学生と為り、湯漢に師事し、群書を博覧し、易を読むを好み、特に詩に工なり。至元初、元帥郭昂屡々儒学官として推薦す。就かず。至元中、朝廷累ねて奉御察罕及び翰林応奉詹玉を遣わし幣を以てこれを徴す。皆起たず。紫霞山中に隠れ、士友私しく貞白先生と諡す。
(武恪)
武恪、字は伯威。宣徳府の人。初め神童として江南に遊学し、呉澄が江西儒学副提挙と為り、国子学に推薦して肄業せしむ。明宗が潜邸に在りし時、恪を選び説書秀才と為し、雲南に出鎮するに及び、恪は行に在り。明宗、陝西に兵を起さんと欲す。恪諫めて曰く、「太子北行す、国に於いては君命あり、家に於いては叔父の命あり。今若し京師に向かって一箭を発せば、史官必ず太子反と書かん」と。左右恪の言を悪み、乃ち曰く、「武秀才は母京師に在り。合せて其の回らしむべし」と。恪遂に京師に還り、陋巷に居り、子弟を教訓す。
文宗はその名を知り、秘書監典簿に任じた。任期が満ちて母の喪に服し、再び中瑞司典簿に任じられ、汾西県尹に改められたが、いずれも起任しなかった。ある人が仕官を勧めると、恪は言った、「かつては親のために屈したが、今は親は既に死んだ。再び仕えることはない」と。数年を経て、朝廷が守令を選ぶこととなり、泰不華が恪を平陽沁水県尹に推挙したが、これにも赴かなかった。近臣がまた授経郎に推薦すると、恪は遂に仮に瘖啞を装い、就任しなかった。
恪は『周易』を読むことを好み、毎日堅く坐した。ある人がこれを問うて言った、「先生の学は、何を以て本と為すか」と。恪は言った、「敬を以て本と為す」と。著す所に『水雲集』若干巻がある。その学に従う者多く成す所あり、仏家奴は太尉となり、完者不花は枢密院事を僉となし、皆賢名有り。