元史

列傳第七十六:儒學一

前代の史傳は、皆儒學の士を分けて二つとし、経藝に専門なる者を儒林とし、文章に名家なる者を文苑とした。しかし儒の学とする所は一つである。六経は斯の道の在る所であり、文は則ち夫の道を載せる所以のものである。故に経は文なければ以て其の旨趣を発明するに由なく、文が六藝に本づかざれば、又どうして文と謂うべきであろうか。是より言えば、経藝と文章とを分けて二つとすべからざることは明らかである。

元興って百年、上は朝廷内外の名宦の臣より、下は山林布衣の士に至るまで、経を通じ文を能くして当世に顕著なる者は、彬彬として衆かった。今は皆復た其の分別を為さず、而して其の尤も卓然として名を成し、以て教を輔け後世に伝うべき者を採取し、合わせて之を録し、儒學傳と為す。

趙復

趙復は字を仁甫と云い、徳安の人である。太宗の乙未の歳、太子闊出に命じて師を帥い宋を伐たしむ。徳安は嘗て逆戦したので、其の民数十万、皆俘虜とされ戮せられて遺る所無し。時に楊惟中は中書省を行じて軍前に在り、姚樞は詔を奉じて即ち軍中に儒・道・釋・医・卜の士を求め、凡そ儒生で俘虜の籍に掛かる者は、輒ち之を脱して帰らしむ。復は其の中に在り。樞が之と語るに、信じ奇士なり。九族倶に残されたるを以て、北に行くを欲せず、因って樞と訣せんとす。樞は其の自裁を恐れ、帳中に留めて共に宿す。既に覚ゆれば、月色皓然として、惟だ寝衣のみ在り。遽かに馬を馳せて積屍の間を周り号すも、無し。行きて水際に及べば、則ち復が已に髪を被り跣足にて、天を仰いで号し、水に投ぜんと欲して未だ入らざるを見る。樞は徒死は益無きことを以て曉す。「汝が存すれば、則ち子孫或いは以て緒を伝えて百世すべし。吾に随いて北せば、必ず他無かるべし。」復は強いて之に従う。是に先んじて、南北道絶え、載籍相通ぜず。是に至り、復は以て記する所の程子・朱子の著する諸経傳註を、尽く録して以て樞に付す。

復が燕に至ってより、学子従う者百余人。世祖潜邸に在りし時、嘗て召見し問うて曰く、「我宋を取らんと欲す。卿之を導くこと可きか。」対えて曰く、「宋は吾が父母の国なり。他人を引いて吾が父母を伐たしむる者有らざるなり。」世祖悦び、因って強いて之を仕えしめず。惟中は復の論議を聞き、始めて其の学を嗜み、乃ち樞と謀り太極書院を建て、周子の祠を立て、二程・張・楊・游・朱の六君子を以て配食とし、遺書八千余巻を選取し、復に請うて其の中に講授せしむ。復は周・程より後、其の書広博にして、学者未だ貫通すること能わざるを以て、乃ち羲・農・堯・舜の天を継ぎ極を立てる所以、孔子・顔・孟の世に垂れ教を立てる所以、周・程・張・朱氏の紹ぎ継ぐを発明する所以を原り、傳道圖を作り、而して書目を条列して後に于す。別に伊洛發揮を著し、以て其の宗旨を標す。朱子の門人、四方に散在する者は、則ち登載に見る諸と傳聞に得る諸とを以て、共に五十有三人、師友圖を作り、以て私淑の志を寓す。又た伊尹・顔淵の言行を取り、希賢録を作り、学者をして嚮慕すべき所を知らしめ、然る後に端を求め力を用いるの方備わる。樞は既に蘇門に退隠し、乃ち即ち復に其の学を傳えしむ。是より許衡・郝経・劉因、皆其の書を得て之を尊信す。北方程・朱の学有るを知るは、復より始まる。

復の人と為り、楽易にして耿介、燕に居りと雖も、故土を忘れず。人と交わるに、尤も分誼を篤くす。元好問は文名一時に擅りしが、其の南帰するや、復は之に言を贈り、博は心を溺らし末は本を喪うを戒めとし、自修して易を読み文王・孔子の用心を求むるを勉めとす。其の人を愛するや徳を以てする類、此の若し。復は江漢の上に家し、江漢を以て自ら号し、学者之を称して江漢先生と曰う。

張䇓

張䇓は字を達善と云い、其の先はしょくの導江の人。蜀亡び、江左に僑寓す。金華の王柏は朱熹の三傳の学を得、嘗て台の上蔡書院に於いて道を講じ、䇓は従いて業を受く。六経・語・孟の傳註より、周・程・張氏の微言、朱子の嘗て論定する所に至るまで、潜かに心を玩び索め、根柢を究極す。功を用うる既に専らにし、久しくして懈らず、学ぶ所益々弘深微密、南北の士、及ぶ者鮮し。

至元中、行臺中丞呉曼慶其の名を聞き、延いて江寧の学官に致し、子弟をして業を受けしむ。中州の士大夫、子弟を淑むるに朱子の四書を以てせんと欲する者は、皆遣って䇓に従い游ばしめ、或いは私塾を闢きて之を迎う。其の維揚に在りし時、来り学ぶ者尤も衆く、遠近翕然として、尊んで碩師と為し、敢えて字呼ばず、而して導江先生と称す。大臣朝に之を薦ぐるに、特命して孔・顔・孟の三氏教授と為し、鄒・魯の人、遺訓を服誦し、久しくして忘れず。

䇓は気宇端重、音吐洪亮、講説特に精詳、子弟之に従う者、詵詵たり。其の高第の弟子、名を知る者甚だ多し。夾谷之奇・楊剛中は尤も顕る。䇓に子無し。経説及び文集世に行わる。呉澄其の書に序し、以て議論正しく、援拠博く、貫穿縱横、儼然として新安朱氏の尸祝なりと為す。至正中、眞州の守臣䇓及び郝経・呉澄の皆嘗て儀眞に留まるを以て、祠宇を作りて之を祀り、三賢祠と曰う。

金履祥

金履祥は字を吉父と云い、婺の蘭溪の人。其の先は本劉氏、後呉越の錢武肅王の嫌名を避け、更めて金氏と為る。履祥の從曾祖景文は、宋の建炎・紹興の間に当たり、孝行を以て称せられ、其の父母疾有れば、齋祷を天にし、而して霊応随いて至る。事朝に聞こえ、其の居る鄕を改めて純孝と曰わしむ。

履祥は幼くして聡明で、父兄が少し書物を授けると、すぐに暗誦できた。成長するにつれ、ますます自らを励まし、天文・地形・礼楽・田乗・兵謀・陰陽・律暦の書に至るまで、ことごとく究め尽くした。壮年になって、濂洛の学(宋学)の方向を知り、同郡の王柏に師事し、その導きで何基の門に登った。基は黄榦に学び、榦は朱熹の伝承を直接受けた者である。ここから講義と研究はますます綿密になり、学識の境地はますます深遠になった。

当時、宋の国事はすでに挽回できない状況にあり、履祥はついに進取(官途に進むこと)を断念した。しかし、その経世済民の才略を抱えていたため、この世をすぐに忘れ去ることも忍びなかった。ちょうど襄陽・樊城の戦いが日に日に切迫し、宋人が傍観して救援しようとしないのを見て、履祥は牽制して虚を衝く策を進言し、重兵を海路から直ちに燕・薊に向かわせれば、襄樊の軍は攻めずして自ずから解かれるだろうと請うた。さらに、海船が経由するすべての州郡県邑から、大海や離島に至るまで、難易・遠近を詳細に記述し、歴然として実行の根拠とすべきものを備えて述べた。宋は結局これを用いることがなかった。後に朱瑄・張清が海運の利を献上した時、その経由した海路は、履祥が先に上書したものと寸分違わぬものであったため、人々はその精確さに敬服した。

徳祐の初め、迪功郎・史館編校に起用されたが、辞退して就任しなかった。宋が滅亡しようとし、各地で賊徒が蜂起すると、履祥は金華山中に隠棲した。兵火がやや収まると、岩谷を上下し、雲月を追い求め、嘯吟に心情を託し、世の事柄には淡泊であった。平素独りでいる時は終日厳然とし、人と接する時には盎然として和やかで喜ばしかった。後進を教え導くには懇切で倦むことなく、特に分義(身分に応じた道義)に篤かった。旧友の子が罪に坐し、母子が別々に奴婢にされたが、互いの消息を知らないこと十年、履祥は財産を傾けて買い求め、ついに贖い出して一家を完うさせた。その子は後に貴人となったが、履祥は終に自らそのことを言わず、会って労い苦労を尋ねるだけであった。何基・王柏の喪に際しては、履祥は同門の士を率い、義によって喪服を着用し、見る者は初めて師弟の関係が人倫の常に繋がることを知った。

履祥はかつて、司馬文正公(光)が『資治通鑑』を著し、秘書丞劉恕が『外紀』を作って前代の事を記したが、経典を根本とせず百家の説を信じ、是非が聖人の教えに誤り、信頼に足る伝えとは言えないと論じた。帝堯以前は、夫子(孔子)が定められたものではないから、本来野卑で確かめ難く、夫子は魯の史記しきによって『春秋』を作られたが、王朝や列国の事柄で、玉帛(礼物)を持った使者がなければ魯の史記には書かれず、聖人が筆削を加えられたものではない。まして左氏の記すところは、欠落や虚偽があり、この類いのものは皆、経書を避けることを理由とすることはできない。そこで邵氏の『皇極経世暦』、胡氏の『皇王大紀』の例を用い、取捨折衷し、一に『尚書』を主とし、下って『詩』『礼』『春秋』に及び、傍ら旧史や諸子を採り、年を表し事を繫ぎ、唐堯以下から始めて『通鑑』の前につなぎ、一書にまとめて二十巻とし、『通鑑前編』と名付けた。引用する書物には必ず訓釈を加え、その義を裁正し、多くは先儒の未発であったところである。完成後、門人許謙に授けて言った。「二帝三王の盛時の微言懿行は、後の王者が学ぶべきであり、戦国の申不害・商鞅の術の苛法乱政は、後の王者が戒めるべきである。ゆえにこの編は著さざるを得ない。」その他の著書に、『大学章句疏義』二巻、『論語孟子集註考証』十七巻、『書表注』四巻があり、謙がさらに校定を加え、皆、学者の間に伝わった。天暦の初め、廉訪使鄭允中がその書を朝廷に上表して献上した。

初め、履祥が王柏に会った時、まず学問の方法を問うと、柏は必ず先ず志を立てよと告げ、先儒の言葉を挙げた。「敬を以てその志を持ち、志を立ててその本を定め、志は事物の表に立ち、敬は事物の内に行う。これが学問の大方針である。」何基に会った時、基は彼に言った。「会之(王柏)はしばしば賢者の賢さ、理と欲の区別を言っているが、それは今から始めるべきである。」会之とは、柏の字である。当時の評者は、基の清介純実は尹和静に似、柏の高明剛正は謝上蔡に似、履祥はその両者から直接得て、自らに充実させた者であると考えた。

履祥は仁山の下に住んだので、学者は仁山先生と称した。大徳年間に卒去した。元統の初め、同郷の呉師道が国子博士となり、学官に文書を送り、郷学(地方の学校)で履祥を祀った。至正年間、文安と諡された。

許謙

許謙、字は益之、その先祖は京兆の人である。九世の祖延寿は、宋の刑部尚書であった。八世の祖仲容は、太子洗馬であった。仲容の子は洸と洞といい、洞は進士から出仕し、文章と政事で当時に知名であった。洸の子寔は、海陵の胡瑗に師事し、師の法を終始守り通した者である。平江から婺州の金華に移り、謙に至る五代、金華の人となった。父觥は、淳祐七年の進士に及第したが、官位が顕れる前に没した。

謙は数歳で孤児となり、ようやく言葉を話せるようになると、世母(伯母)の陶氏が口授で『孝経』『論語』を教え、耳に入れば忘れなかった。やや成長すると、学問に力を尽くし、課程を立てて自ら課し、四部の書を取って昼夜に分けて読み、病気の時も怠らなかった。その後、金履祥の門で学業を受け、履祥は彼に言った。「士が学問をするのは、五味が調和するようなもので、酢や醤油を加えれば、酸味や塩味がたちまち変わる。あなたが私に会いに来て三日になるが、依然として以前と同じである。私の学問があなたを感発させることができないということか。」謙はこれを聞いて、戒慎の念を抱いた。数年を経て、履祥が伝える奥義をことごとく会得した。書物で読まないものはなく、聖人の微意を窮め探求し、断片的な文や余った言葉でも、軽んじることはなかった。通じないところがあれば、強引に解釈せず、先儒の説に納得できないところがあれば、安易に同調することもなかった。

『四書章句集註』を読み、『叢説』二十巻を著し、学者に言った。「学問は聖人を基準とするが、必ず聖人の心を得て、その後で聖人の事を学ぶことができる。聖賢の心は四書に具わっており、四書の義は朱子に備わっている。しかしその言葉は簡約で意味は広大であるから、読者が安易な心で求めていいものか。」『詩集伝』を読み、『名物鈔』八巻を著し、その音釈を正し、名物や度数を考証して先儒の未備を補い、なおその逸義を保存し、広く採り遠く援用し、自らの考えでまとめた。『書集伝』を読み、『叢説』六巻を著した。史書を観るにあたり、『治忽幾微』を著し、史家の年を経とし国を緯とする方法に倣い、太皞氏から始め、宋の元祐元年秋九月の尚書左僕射司馬光の卒まで至り、その世代を備え、その年歳を総括し、その興亡の根源を探り、その善悪を顕著にした。光が卒すれば、中国の治世は再び興すことができない、まさに治乱の機微であると考えたからである。故に、『春秋』続経に孔子の卒を書いた義に倣って、その意を致したのである。

また『自省編』があり、昼に行ったことは、夜必ず書き記し、書けないようなことは行わなかった。その他、天文・地理・典章・制度・食貨・刑法・字学・音韻・医経・術数の説も、ことごとく通貫し、傍らに仏教・道教の言説も、その蘊奥を洞察し究めた。かつて言った。「学者は異端を排斥すると言わない者はいないが、もしその奥深くを探求せず、その所以然を識らずして、その同異を弁じ、その是非を別つことができる者はほとんどいない。」またかつて九経・儀礼及び春秋三伝に句読を施し、その宏綱要領や錯簡衍文について、すべて鉛黄や朱墨で区別し、意味が明らかになったところは、表にして示した。その後、呉師道が呂祖謙の点校した『儀礼』を購得したが、謙の定めたものと比べると、異なるのは十三条だけであった。謙は誇示することを好まず、詩文を作るにも、経義を扶翼し世教を張り維くものでなければ、軽々しく筆を執って書くことはなかった。

延祐の初め、許謙は東陽の八華山に居を構え、学者たちがこぞって彼に従った。まもなく門を開いて講学し、遠くは幽州・冀州・斉・魯から、近くは荊州・揚州・呉・越に至るまで、皆百里の道を厭わず来て学業を受けた。その人を教えるやきわめて誠実で懇切周到、内面外面をことごとく尽くし、かつて言った、「自分が知っていることを、人にも知らせる、これこそ快いことではないか」と。あるいは質問や論難があって言葉でうまく表現できない者には、その者の言いたいことを代わって言い、その惑いを解いてやった。討論し講義し貫通させ、終日倦むことがなく、粗雑なところを拾い上げて、緻密微妙なところに入り込ませた。聞く者がまさに耳を傾けて受け入れようとすると、その言葉はますます真実切実であった。怠惰な者は奮い立たせ、鋭すぎる者は抑制し、こだわる者は開き、放縦な者は制約した。門に及んだ士で、名簿に記録された者は千余人、その才能に応じて、皆何かを得た。しかしただ科挙の文章だけは人に授けず、言った、「これが義と利の分かれるところである」と。許謙は孝友に篤く、人並み外れた行いがあった。その処世は古に拘泥せず、俗に流れなかった。里門を出ること四十年、四方の士はその門に及ばないことを恥とし、縉紳先生でその郷里を通り過ぎる者は、必ずその家を訪ねて慰問した。あるいは典礼や政事について尋ねると、許謙はそれらの融通を観察し、それに折衷を加え、聞く者は皆満足して心服した。

大徳年間、熒惑(火星)が南斗に入り句巳の形で運行した。許謙は災いが呉・楚にあると考え、ひそかに深く憂慮した。この年は大凶作で、許謙の容貌はますます瘠せた。ある人が尋ねた、「まさか食が足りないのではないでしょうね」と。許謙は言った、「今公私ともに困窮し、路上に餓死者が相望んでいる。私一人が満腹していられようか」と。その心の持ちようはこのようなものであった。廉訪使の劉庭直、副使の趙宏偉は、皆中州の雅望ある人物で、許謙を深く推服し、朝廷に論薦した。内外の名臣がその行義を列挙して上奏する者は、前後数十通に上った。また郡も遺逸として詔に応じ、郷試の大比では、その文衡を司るよう請うた。しかし皆招くことができなかった。その晩節に至って、ただ一人で正学の重責を担い、遠近の学者は、その身の安否をもって、この道の盛衰の指標とした。至元三年に卒去、六十八歳。かつて白雲山人と号し、世は白雲先生と称した。朝廷は諡して文懿と賜った。

これより先、何基・王柏および金履祥が没したが、その学はまだ大いに顕れず、許謙に至ってその道はますます顕著となった。故に学者はその系統を推し究め、朱熹の正統を継ぐ者とみなした。江浙行中書省が朝廷に請うて、四賢書院を建て、その祭祀を奉じ、学官に列した。

同郡の朱震亨、字は彦修、許謙の高弟である。その清修苦節は、古の篤行の士に極めて似ており、至るところで人々を感化した。

陳櫟

陳櫟、字は寿翁、徽州休寧の人。陳櫟は三歳の時、祖母の呉氏が口授した孝経・論語を、たちまち暗誦した。五歳で小学に入り、すぐに経史に渉猟した。七歳で進士の業に通じた。十五歳で、郷里の人々は皆彼を師とした。

宋が滅び、科挙が廃止されると、陳櫟は慨然として発憤し、聖人の学に力を注ぎ、涵濡玩索し、古今を貫通した。かつて聖門に功ある者は朱熹に及ぶ者なしと考え、朱熹の没後間もないのに諸家の説が往々にしてその本真を乱すのを憂え、『四書発明』『書集伝纂疏』『礼記集義』などの書を著し、およそ数十万言に及んだ。凡そ諸儒の説で朱熹に背くものは削除し、その微辞隠義は引き伸ばして明らかにし、その備わっていないところはさらに説を補って欠落を埋めた。こうして朱熹の説は世に大いに明らかになった。

延祐の初め、詔して科挙で士を取ることとなり、陳櫟は試験を受けようとしなかったが、役人が強いて受けさせ、郷試に合格した。そこで礼部の試験には再び赴かなかった。家で教授し、数十年門戸を出なかった。性質は孝友、とりわけ剛正で、日常の行動は礼法に適っていた。人と交わるに、勢いで結びつかず、利益で変節しなかった。学者を善く誘導し、諄々として倦まなかった。臨川の呉澄はかつて、陳櫟の朱熹に対する功績が多いと称え、江東から呉澄に学びに来る者をことごとく帰らせて陳櫟に師事させた。陳櫟の居る堂を定宇と称し、学者はこれにより定宇先生と称した。元統二年に卒去、八十三歳。

掲徯斯がその墓誌を書き、呉澄と並べて称して言った、「澄は通都大邑に居り、またしばしば朝廷に登用されたので、天下の学者が四方から帰服した。故にその道は遠くまで及び明らかで、尊ばれ明らかである。櫟は万山の間に居り、木石とともにあり、足跡は郷里を出たことがない。故にその学はその書が行われるのを待って、天下が初めて知ることができた。そしてその行われるや、これを阻む者もいなかった。これは豪傑の士と言うべきである」。世はこれを名言と認めた。

胡一桂

胡一桂、字は庭芳、徽州婺源の人。父は方平。一桂は生まれつき聡明で悟りが早く、書を読むことを好み、特に易に精通した。初め、饒州徳興の沈貴宝が董夢程から易を受けた。夢程は黄榦から朱熹の易を受けた。そして一桂の父方平は沈貴宝・董夢程に従って学び、かつて『易学啓蒙通釈』を著した。一桂の学は方平に出て、朱熹の源流の正統を得た。

宋の景定甲子年、一桂十八歳の時、郷薦に合格したが、礼部の試験には及第せず、退いて講学し、遠近の者が師事し、双湖先生と号した。著書に『周易本義附録纂疏』『本義啓蒙翼伝』『朱子詩伝附録纂疏』『十七史纂』があり、ともに世に行われた。

その同郡の胡炳文、字は仲虎、また易を以て一家を成し、『易本義通釈』を著した。また朱熹の著した四書に特に力を入れ、余干の饒魯の学は本来朱熹に出たが、その説は多く朱熹と矛盾し、炳文は深くその非を正し、『四書通』を著した。凡そ言葉は異なるが道理が同じものは合わせて一つにし、言葉は同じだが趣旨が異なるものは分析して弁別し、往々にしてその尽くされていない蘊奥を発揮した。東南の学者はその自ら号するところにより、雲峰先生と称した。炳文はかつて推薦者により、明経書院の山長に任じられ、再び蘭渓州学正に転じた。

黄澤

黄澤、字は楚望、その先祖は長安ちょうあんの人。唐末、舒芸が資州内江県の知事となり、卒去して当地に葬られ、子孫は遂に資州の人となった。宋初、延節が大理評事兼監察御史となり、累贈して金紫光禄大夫となった。これは黄澤の十一世の祖である。五世の祖の拂は、二人の兄の播・揆と同年に進士に及第し、蜀人はこれを栄誉とした。父の儀可は累次挙げられたが及第せず、兄の驥子に従って九江に官を求め、蜀が乱れて帰れず、そこで家を構えた。

蕭沢は生まれつき異質な資質を持ち、慨然として明経学道を志とし、苦思を好み、しばしば病に陥ったが、病が癒えるとまた思索を続け、長くして、何かを見出したかのように、『顔淵仰高鑽堅論』を作った。蜀の人が経学を修めるには、必ず古注疏を先にしたが、沢は名物度数について、考覈を精審にし、義理は一貫して程子・朱子に依拠し、『易春秋二経解』『二禮祭祀述略』を作った。

大徳年間、江西行省の相臣がその名声を聞き、江州景星書院の山長に任じ、禄を与えて教えを施させた。また洪州の東湖書院の山長となり、学を受ける者がますます多くなった。初め沢はかつて夫子(孔子)の夢を見たが、偶然のことと思っていた。その後しばしば夢に見るようになり、最後には夫子が手ずから校訂した六経を授ける夢を見た。文字の筆画が新しく、これによって深く感発し、初めて自らの経解が多く旧説に従っていたのは誤りであると悟り、『思古吟』十章を作り、聖人の徳容の盛んなことを極言し、文王・周公にまで遡った。任期が満ちるとすぐに帰郷し、門を閉じて弟子を教え親を養い、再び仕官を口にしなかった。

かつて、聖人が去って久しく、経籍は残欠し、伝注家は概ね傅会が多く、近世の儒者はまたそれぞれ才識をもってこれを求めるので、議論は多いが経の主旨はますます晦渋になると考えた。必ず誠を積み精を研ぎ、悟入する所があって、その後初めて聖人の本真を窺うことができる。そこで六経中の疑義千有余条を掲げて学者に示した。その後、失伝した旨をことごとく悟った。自ら言うには、毎に幽閑寂寞・顛はい流離・疾病無聊の際に得たもので、その久しくなるに及んで、豁然として貫通しないものはなかった。天地が定位し、人物が未生以前から、下って、凡そ邃古の初め、万化の原で、載籍に具えることのできないものは、皆明らかにして蒙を啓くが如く、掌を示すが如しであった。それから伏羲・神農・五帝・三王、および春秋の末に至るまで、皆身をその間に置き、目撃してその事を見る者のようであった。ここにおいて『易』『春秋』の伝注の誤り、『詩』『書』の未決の疑義、『周礼』が聖人の書でないという誹謗、凡そ数十年苦思して通じなかったものが、皆氷解し、それぞれ条理に就いた。故に『易』では象を明らかにすることを先とし、孔子の言に因り、上って文王・周公の意を求めることを主とし、その機栝は全て十翼にあるとして、『十翼挙要』『忘象辯』『象略』『辯同論』を作った。『春秋』では書法を明らかにすることを主とし、その大要は三伝を考覈して向上の功を求めることにあり、その脈絡は全て『左伝』にあるとして、『三伝義例考』『筆削本旨』を作った。また『元年春王正月辯』『諸侯娶女立子通考』『魯隠公不書即位義』『殷周諸侯禘祫考』『周廟太廟単祭合食説』を作り、『丘甲辯』を作り、このようなもの凡そ十余通を作り、古今の礼俗の異なることを明らかにし、虚辞で経を説くことの益なきことを示した。

かつて言った。「学者は必ず経旨が廃失した由縁を悟って、その後聖人の本意が見える。もし易象と春秋書法の廃失の大略が相似ているならば、仮にその一つを通じれば、機に触れて悟ることができる。」また学者が創聞を得て、再び思索を致さないことを恐れ、故に著したものは多く引き出して発しないようにし、『易学濫觴』『春秋指要』を作り、人に端を求め力を用いる方途を示した。礼学については、鄭氏は深いが未だ完備せず、王粛は明らかだが実は浅いと言い、『礼経復古正言』を作った。例えば王粛が郊丘を混同し五天帝を廃し、崑崙と神州を一つに併せたこと、趙伯循が王者はその始祖の出づる所を禘し、始祖を以てこれに配するが、群廟の主には及ばないと言ったこと、胡宏の家学が周礼を信じず、社を以て地を祭るとした類を、皆経を引いてその非を証した。諸経の要旨を弁釈したものには『六経補注』がある。百家の異義を詆排するには、杜牧の「言うべからざるを言う」の義を取って、『翼経罪言』を作った。近代の覃思の学は、沢を第一と推した。

呉澄はかつてその書を見て、平生見た明経の士でこれに及ぶ者はいないと考え、人に言った。「楊墨を距てることを言う能う者は、聖人の徒なり。楚望(蕭沢)こそ真にその人であろうか。」しかし沢は雅に自ら慎重で、軽々しく人と語ることはなかった。李泂が使いで九江を過ぎ、北面して弟子と称し、一経を受け、かつその家を経紀しようと請うた。沢は謝して言った。「君の才をもって、何の経が明らかにできよう。しかしまた筆授してその義を伝えるに過ぎない。もし私のような者は、艱苦の余りにして、乃ち見る所がある。私は邵子(邵雍)ではない。二十年林下の期を君に約することは敢えてしない。」泂は嘆息して去った。ある人が沢に問うた。「このように自ら秘めて、伝わらないことを恐れないのか。」沢は言った。「聖経の興廃は、上は天運に関わる。子は区区たる人力の致す所と思うか。」

沢の家は甚だ窶貧で、かつ年老いて、再び教授することができず、経年大いに凶作となり、家人は木の実や草の根を採って飢えを療したが、晏然として少しもその意を動かさず、ただ聖人の心が明らかでなく、経学が伝を失ったことを、己が罪があるかのように大いに憂えた。至正六年に卒去。八十七歳。その書で世に存するものは十二三である。門人では新安の趙汸が高弟で、その春秋の学を得ることが多かった。

蕭𣂏

蕭𣂏、字は惟斗。その先祖は北海の人。父が秦中に仕え、遂に奉元の人となった。𣂏は性至孝で、児時より、ぎょう楚にして凡ならず。稍々出でて府史となったが、上官の語が合わず、即ち引退し、南山で三十年読書した。革衣一つを作り、身の半ば以下に着け、臥す時は輒ちその榻に倚り、玩誦して少しも置かず、ここにおいて群書を博く極め、天文・地理・律暦・算数を研究しないものはなかった。侯均は元が天下を有して百年、ただ蕭惟斗のみが識字人であると言った。学者でその門に及び業を受ける者は甚だ衆かった。かつて出でて、一人の婦人に遇い、道端で金の釵を失い、𣂏が拾ったと疑い、言うには「他に人はおらず、ただ翁だけが後ろにおられた。」𣂏は彼女に従って門まで来させ、家の釵を取って償った。その婦人は後に遺した釵を得て、愧謝して返した。郷人が城中から暮れに帰る者があり、寇に遇い、害を加えようとしたが、詭って「私は蕭先生である」と言うと、寇は驚愕して放して去った。

世祖が秦に分藩した時、𣂏と楊恭懿・韓択を秦邸に侍らせようと辟召したが、𣂏は病を理由に辞し、陝西儒学提挙に授けられたが赴任しなかった。省憲の大臣がその家に具えて宴を設け賀した時、一人の従史を先に𣂏の舎に詣らせた。𣂏は水を汲んで園を灌いでいた。従史が至り、それが𣂏であると知らず、その馬に水を飲ませよと言うと、即ち応じて拒まず、冠帯して賓を迎える時、従史が𣂏を見て懼色があったが、𣂏は少しも意に介さなかった。後に累次集賢直学士・国子司業に授けられ、集賢侍読学士に改められたが、皆赴任しなかった。大徳十一年、太子右諭徳に拝され、病を押して京師に至り、東宮に入覲し、『酒誥』を書いて献じた。朝廷で時として酒を尚ぶ故である。尋いで病を理由に力請して職を去ろうとした。人がその故を問うと、則ち言った。「礼において、東宮は東面し、師傅は西面す。この礼は今行うことができるか。」俄かに集賢学士・国子祭酒を除され、前の如く右諭徳を兼ねたが、疾が発し、固く辞して帰郷した。卒年七十八。諡を貞敏と賜う。

𣂏は行いを制すること甚だ高く、真の履践を実践した。その人を教えるには、必ず小学から始めた。文辞を作るには、立意精深で、言は近くして指す所は遠く、一に洙泗を本とし、濂洛・考亭を拠り所とし、関輔の士は翕然としてこれを宗とし、一代の醇儒と称した。著したものに『三礼説』『小学標題駁論』『九州志』及び『勤斎文集』があり、世に行われる。

附 韓択

韓擇は、字を従善といい、これも奉元の人である。天資は超絶して異なり、道を信じて惑わず、その教学者は、たとえ中年以後であっても、必ず小学等の書から始めさせた。ある者が陵節して苦労するのではないかと疑うと、言うには、「人は学ぶことを知らず、白首童心であり、しかも童蒙の知るべきことを、皓首となって知らないでよいのか」と。韓擇は特に礼学に精通し、質問する者がいれば、口で講じ指で画き、倦む様子がなかった。士大夫が遊宦して秦中を過ぎる時は、必ず韓擇を訪ね、誰もが虚しく往きて実を得て帰った。世祖はかつて彼を召して京に赴かせようとしたが、病気のため果たせなかった。その死に際しては、門人が緦麻の喪服を着た者が百余人いた。

附 侯均

侯均は、字を伯仁といい、これも奉元の人である。父母は早く亡くなり、ただ継母と共に住み、薪を売って奉養の資を賄った。学を積むこと四十年、群経百氏に通じないものはなく、傍らに釈・老の外典にも通じた。毎回書を読むには、必ず熟誦してからやめた。かつて言うには、「人は書を読んで千遍に至らなければ、結局は己に益がない」と。故に諸生の問いに答える時は、窮索極探し、あたかも篋笥から取り出すが如くであり、その名は関中に響き、学者は彼を宗とした。推薦者によって起用され太常博士となったが、後に上疏して時の宰相の意に逆らい、返答を待たずに、ただちに帰って田里で休養した。

侯均は容貌魁偉であり、気性は剛直で、人々は多く彼を厳しく畏れたが、応接の際には、和やかで親しみやすかった。たとえ方言古語で世に未だ知られていないものでも、問いに従って答えないものはなく、世は皆その博聞に敬服した。

附 同恕

同恕は字を寛甫といい、その先祖は太原の人である。五世の祖が秦中に移り、遂に奉元の人となった。祖父は昇。父は継先、博学で文を能くし、廉希憲が陝右を宣撫した時、召し出されて庫鑰を掌った。家は代々儒を業とし、同居二百口、間然たる言葉はなかった。

同恕は安静で端凝、幼少の頃から成人の如く、郷の先生に学び、日に数千言を記した。十三歳の時、書経で郷校の魁となった。至元年間、朝廷が初めて六部を分け、名士を選んで吏属とした時、関陝は同恕を礼曹に貢したが、辞して行かなかった。仁宗が践祚すると、その家に赴いて国子司業に任じ、階は儒林郎としたが、三度召しても起たなかった。陝西行台侍御史趙世延が、奉元に魯斎書院を置くことを請うと、中書が奏上して同恕に教事を領させ、制により許可された。先後して来学する者は千数に及んだ。延祐に科挙が設けられると、再び郷試を主考し、人々はその公正さに敬服した。六年、奉議大夫・太子左賛善として召され、東宮に参内し、酒を賜って慰問された。続いて書を献じ、歴史上の古誼を陳べ、開悟涵養の道を尽くした。翌年春、英宗が継統すると、病気を理由に帰郷した。致和元年、集賢侍読学士に任じられたが、老病を理由に辞した。

同恕の学問は、程・朱より上って孔・孟に遡り、事理を貫徹して利行に務めた。人を教えるには曲を尽くして開導し、趣向の正しきを得させた。性は整潔で、平素たとえ大暑でも冠帯を去らなかった。母の張夫人が亡くなると、異母を事えること実母の如くであった。父の喪には、哀毀して目疾を来たし、時祀には斎粛詳至であった。かつて言うには、「養生に備えざるあれば、事はなお復すべし、追遠に誠なからざれば、これ神を誣るなり、罪を逭るべけんや」と。人と交わるには、外には適莫なくとも、中には繩尺があった。里人が騾を借りて死なせた時、その代価を償おうとしたが受け取らず、言うには、「物の数なり、何を以て償えんや」と。家に儋石の儲けもなかったが、書を数万巻集め、居所に「榘菴」と扁した。当時蕭𣂏が南山の下に居り、また道の高さをもって当世に重んぜられ、城府に入る時は必ず同恕の家を主とし、士論はこれを称して「蕭同」といった。

同恕は京より還ってから、家に居ること十三年、縉紳は彼を景星麟鳳の如く仰ぎ、郷里では姓を呼ばずに先生と称した。至順二年に卒し、七十八歳であった。制により翰林直学士を贈られ、京兆郡侯に封ぜられ、諡して文貞といった。その著書は『榘菴集』二十巻である。

同恕の弟子 第五居仁

同恕の弟子第五居仁は、字を士安といい、幼くして蕭𣂏に師事し、弱冠にして同恕に従って学を受けた。経史に博通し、自ら子弟を率いて農畝に力を尽くし、学徒は門に満ちた。その宏度雅量は、人の容れられざるをも容れることができた。かつて田間を行く時、桑を窃む者に遇うと、居仁は常にこれを避けた。郷里はその行義を高く評価し、多くが感化されて服した。字を書くには必ず楷書で整え、その門を遊ぶ者は、学が明らかであるだけでなく、行いも一層修まった。卒した日、門人は相集って易名の礼を議し、私諡して静安先生といった。

安熙

安熙は字を敬仲といい、真定藁城の人である。祖父は滔、父は松、ともに学行をもってその郷人を淑くした。安熙は既にその家学を受け継ぎ、保定の劉因の学問を聞いて、心に慕い向かった。安熙の家と劉因の居所は数百里離れていたが、劉因もまた安熙が己のための学に力を尽くしていることを聞き、深く称許して与した。安熙がまさにその門を訪れようとした時、劉因は既に歿しており、そこで劉因の門人烏叔備に従ってその緒説を問うた。そもそも劉因は宋の儒者朱熹の書を得て、即座に尊信して力行したので、その教えは必ず朱氏を尊んだ。しかし劉因の為人は高明堅勇、その進むところ阻むものなく、安熙は簡靚和易で、下学の功に務めた。その先聖に告げる文に曰く、「旧聞を追憶し、卒えて前業を究む。灑掃応対、行いを謹み言を信じ、余力をもって文を学び、理を窮め性を尽くす。循循として序あり、聖途に発軔し、以て諸心に存し、以て諸己に行い、以て物に及び、以て郷に化す」と。その用功は平実切密、朱氏を善く学んだ者と言えよう。

安熙は時に承平に遭い、仕進を屑とせず、家に居て教授すること数十年に垂れ、四方より来学する者多く成就した。歿した後、郷人は藁城の西筦鎮に祠を立てた。その門人蘇天爵がその遺文を輯め、虞集がこれに序して曰く、「安熙が劉氏に会い得て、高明をもって廓め、奮発をもって厲したならば、劉氏の学は当時に益々昌大したであろう」と。