元史

列傳第七十五:董摶霄 劉哈剌不花 王英 石抹宜孫

董摶霄(弟は昂霄)

董摶霄、字は孟起、磁州の人。国子生より陝西行臺掾に辟召された。時に天は大いに旱し、侍御史郭貞に従って華陰県で獄を讞じた。李謀児という者が道で商賈を累ねて殺し、賊となって十五年、事百餘に至った。事が覚り、獄は既に具わったが、有司に賄賂し、徒党が未だ尽く獲られずと称して、五年決せず、人皆憤りと為した。摶霄これを知り、貞に言う。即ち市中に尸を諸し、天乃ち大雨した。四川粛政廉訪司知事を授けられ、涇陽県尹を除された。入って戸部主事となり、員外郎に陞り、監察御史を拝された。また出でて遼東粛政廉訪司事を僉し、江西行省左右司郎中を歴任し、浙東宣慰副使に遷った。その歴官の所至、往々にして冤獄を理め、弊政を革め、才誉益々時に著しく称された。

至正十一年、済寧路総管を除され、旨を奉じて江浙平章教化に従い安豊に征進し、兵は合肥の定林站に至り、賊に遇って大いにこれを破った。時に朱臯・固始の賊復た猖獗し、軍少なくして分討に足らず。大山民寨及び芍陂の屯田軍有り、摶霄皆これを奬労して約束し、遂に朱臯を障蔽するを得た。我が軍は朱家寺に屯し、賊至れば、追いこれを殺した。乃ち進士程明仲を遣わして賊中に往き諭し、招徠する者千二百家、因って悉くその虚実を知る。夜に淝水に浮橋を縛し、既に渡りて、賊始めて覚る。賊衆数万は磵南に拠り、我が軍の渡る者は、輒ちその為に敗れる。摶霄乃ち騎士を麾い、別に浅灘を渡って賊の後を襲わしむ。賊は東南に向きを回し、騎士と迎え敵す。摶霄忽ち馬を躍らせて磵を渡り、衆に揚言して曰く「賊已に敗れたり」と。諸軍皆渡り、一鼓してこれを撃つ。賊大いに敗れ、亟に追いこれを殺し、相藉して死する者二十五里、遂に安豊を復す。

十二年、旨有りて摶霄に濠州を攻めしめ、又た命じて軍を移し江南を援けしむ。遂に江を渡り、湖州徳清県に至る。而して徽・饒の賊は已に杭州を陥す。教化、摶霄に計を問う。摶霄曰く「賊は皆野人、杭城の子女玉帛を見れば、平素の所有に非ず、必ず慾を縱え、備えを為す暇あらず、急ぎこれを攻むべし。今湖州に退き保たんと欲す。設い賊鋭に乗じて直ちに京口に趨らば、則ち江南為すべからず」と。教化猶予して未だ決せず、而して諸将も亦その行を難ず。摶霄正色して曰く「江浙相君方面既に賊に陥ち、今取り得べくして取らず、誰かその咎を任ん」と。復た剣を抜きて諸将を顧みて曰く「諸君国厚恩を荷い、而して難に臨み苟も免れんとす。今相君是に在り、敢えて令を慢にする者有らば斬る」と。計乃ち決す。遂に兵を進めて杭城に至る。賊迎え敵し、塩橋に至る。摶霄壮士を麾いて前に突かしめ、数級を斬殺し、而して諸軍相継いでこれを夾撃す。凡そ七戦、追い殺して清河坊に至る。賊は接待寺に奔り、その門を塞ぎてこれを焚く。賊皆死し、遂に杭州を復す。已にして餘杭・武康・徳清次第に以て平らぎ、摶霄も亦代を受けて去る。

徽・饒の賊復た昱嶺関より於潜に寇す。行省乃ち摶霄を参知政事と仮し、俾く復た兵を提げてこれを討たしむ。摶霄曰く「必ず残を除き暴を去らんと欲せば、敢えて辞せず。若し重爵を以て仮せば、則ち敢えて受けず」と。即日兵を引いて臨安新溪に至る。これは杭に入る要路なり。既に兵を分かちてこれを守りて始めて進む。兵は叫口及び虎檻に至り、賊に遇い、皆大いにこれを破り、追い殺して於潜に至り、遂にその県治を復す。既にして又た昌化県及び昱嶺関を克復し、賊将潘大奫二千人を降す。賊又た千秋関を犯す者有り。摶霄軍を還して於潜に守り、而して賊兵大いに至り、倚郭の廬舎を焚く。摶霄軍を按じて動かず。左右出兵を請う。摶霄曰く「未だせず」と。人を遣わして白旗を執り山に登り賊を望ましめ、約して曰く「賊我を怯と為せば、必ず少しく懈らん。その間に隙有るを伺い、則ち執る所の旗を麾え」と。又た城外に伏兵し、皆火礮を授け、復た約して曰く「旗の動くを見れば、礮即ち発せよ」と。已にして旗動き、礮発し、兵乃ち尽く出で、数千級を斬首し、遂に千秋関を復す。

未だ幾ばくもせず、賊復た独松・百丈・幽嶺の三関を攻む。摶霄乃ち先ず兵を以て多渓を守る。多渓は三関の要路なり。既にして又た三軍に分かつ。一は独松に出で、一は百丈に出で、一は幽嶺に出づ。然る後に兵を会して賊の巣を擣き、遂に勝に乗じて安吉を復し、七戦してこれを克ち、賊将その徒を以て来降する者数百人。既にして数日、賊復た来たりて独松を窺う。摶霄即ち兵を以て苦嶺及び黄沙嶺を守る。賊帥梅元来たり降り、且つ言うに復た帥十一人降らんと欲する者有りと。即ち偏将余思忠を遣わして賊寨に至りてこれを諭す。賊皆暗室に入り潜かに議す。思忠火を持ちて室内に投じ、剣を抜きて衆に語りて曰く「元帥我を命じて汝を活かさんとす。汝復た何を議せん」と。已にして火起り、その寨を焚き、賊党を叱して散去せしめ、而して賊帥を引いて来降す。明日、兵を進めて広徳に至り、これを克つ。蘄賊と饒・池諸賊有り、復た徽州を犯す。賊中に道士有り、十二里の霧を作る能くす。摶霄兵を以てこれを撃つ。已にして妖霧開豁し、諸伏兵皆起ち、賊兵の後を襲う。賊大いに潰乱し、数万級を斬首し、千餘人を擒う。道士を獲、その妖書を焚きてこれを斬る。遂に徽州を平ぐ。

十四年、水軍都万戸を除く。俄に枢密院判官に陞り、丞相トクトに従い高郵に征し、塩城・興化に分戍す。賊の巣は大縦・徳勝の両湖の間に在り、凡そ十有二、悉く勦平す。即ちその地に芙蓉寨を築く。賊入れば、輒ち故道に迷い、尽くこれを殺す。ここより自ら復た敢えて犯さず。賊は水に習うを恃み、淮を渡り北して安東州に拠る。摶霄水戦に善き者五百人を招き、賊と安東の大湖に戦い、大いにこれを敗り、遂に安東を復す。

十六年、北沙・廟湾・沙浦等の寨を勦平す。尋いで兵を進めて泗州に至るも、利あらず。賊勝に乗じて東下し、我が軍の糧道を断つ。乃ち軍を回して北沙に屯し、糧且つ絶えんとす。賊と死戦し、凡そ七昼夜。賊敗走し、賊船七十餘を奪い、乃ち淮を渡り得て、泗州を保つ。時に方に暑雨、湖水溢れ、諸営皆避けて去る。而して摶霄独り孤城を守り、賊は数十里を環繞してこれを攻む。摶霄城上に坐し、偏将を遣わして騎士を以て四門より賊の後に突出せしめ、約して曰く「旗一たび麾えば即ち還れ」と。既にして旗動き、騎士還る。歩卒自ら城中より出で、これを夾撃す。賊大いに敗る。然れども賊寨猶お西行の路を阻む。乃ち陣を結びて往き、奇兵を以て翊し、転戦数十合、軍始めて海寧に至るを得。朝廷その功を嘉し、同僉淮南行枢密院事に陞る。摶霄朝に建議して曰く、

淮安は南北の襟喉・江淮の要衝の地なり。その地一たび失わば、両淮皆未だ易く復すべからず。則ち淮安を救援するは、誠に急務なり。今日の計と為すは、黄河の上下に於いて、へいびに淮海に瀕する地及び南は沭陽より、北は沂・莒・贛榆の諸州県に抵るまで、連珠営を布き、毎三十里に一つの総寨を設け、三十里の中に就いて又た一小寨を設け、斥堠烽燧相望み、而して巡邏往来し、賊に遇えば則ち力を併せて野戦し、事無ければ則ち屯種して食らわしむ。然る後に進むには援有り、退くには守り有り。これ善く戦う者の以て常に勝つべからざるを為し、以て敵の勝つべきを待つ所以なり。

また海寧の一境は舟楫が通じず、軍糧は陸運のみ可能であるが、凡そ淮海に臨む地域は人民が盗賊に幾度も遭っているので、これを慰撫し、暫く軍人に運搬させよ。その陸運の方法は、一人が十歩行けば、三十六人で一里を行け、三百六十人で十里を行け、三千六百人で百里を行く。一人が米四斗を背負い、夾布の囊に盛り、印を押して封じる。人は肩を休めず、米は地に着かず、列を成して並び、一日に五百回往復する。道のりを計算すると二十八里、軽く行くのが十四里、重く行くのが十四里で、一日に米二百石を運ぶことができる。毎回の運搬に米一升を与えれば、二万人を養える。これが百里を一日で運糧する術である。

また江淮の流移の民、及び安東、海寧、沭陽、贛榆等の州県は全て廃され、その民の壮者は既に軍となり、老弱で帰依する所のない者は、軍民防禦司を設置し、軍官で牧守に堪える材幹の者を選び、その職に就かせ、その民を籍に編入し、もとの地を屯田させよ。そこで兵を練り穀を積み、耕しながら戦い、内には山東の完固なる邦を全うし、外には淮海に出没する寇を防ぎ、その後で恢復を図るのである。

十七年、毛貴が益都、般陽等の路を陥落させ、旨があり摶霄に知樞密院事卜蘭奚に従ってこれを討つことを命じた。しかし済南もまた危急を告げたので、摶霄は兵を率いて済南を救援した。賊の衆は南山より来たりて済南を攻め、これを望むと両山皆赤かった。摶霄は兵を城中に押さえ、先ず数十騎でこれを挑発すると、賊の衆は悉く来て戦い、騎兵は少し退き、磵の上に至り、伏兵が起こり、遂に合戦し、城中の兵もまた大いに出て、これを大破した。しかし般陽の賊はまた泰安の徒党と約し、南山を越えて来襲し済南を襲った。摶霄は兵を城上に列ね、動じなかった。賊は夜に南門を攻めたが、ただ矢石をもってこれを防いだ。黎明に、ひそかに東門を開き、兵を出して賊の背後に放った。既に明るくなると、城上の兵は皆下り、大いに南門を開いて合撃し、賊は敗走した。また追撃してこれを殺し、賊の衆は悉く残る者無かった。ここに於いて済南は初めて寧かになった。詔して就いて淮南行樞密院副使に昇進させ、山東宣慰使都元帥を兼ね、仍って上尊、金帯、楮幣、名馬を賜ってこれを労った。その功を嫉む者がおり、総兵太尉紐的該に讒言し、摶霄に前の詔に依り、卜蘭奚に従って共に益都を征討するよう命じた。摶霄は直ちに済南城を出たが、老いて且つ病であることを理由に、その弟の昂霄に代わってその衆を率いることを請うた。朝廷はこれに従った。昂霄を淮南行樞密院判官に任じた。間もなく、旨があり摶霄に河間の長蘆を守ることを命じた。

十八年、摶霄は兵を率いて北行し、且つ言うには「我が去れば、済南は必ず保てないであろう」。既にして済南は果たして陥落した。摶霄が兵を南皮県の魏家荘に駐屯させている時、丁度使者が詔を奉じて摶霄を河南行省右丞に拝するために来た。拝命したばかりで、毛貴の兵が既に至り、営塁はまだ完成していなかった。諸将が摶霄に言うには「賊が至ったらどうするか」。摶霄は言うには「我は命を受けてここに至った。死をもって国に報いるのみである」。そこで剣を抜いて兵を督して戦おうとしたが、賊の衆が突如摶霄の前に至り、掴んで問うには「汝は誰か」。摶霄は言うには「我は董老爺である」。衆は刺し殺したが、血は無く、ただ白気が天を衝くのを見た。この日、昂霄もまたこれに死した。事が聞こえ、宣忠守正保節功臣、栄禄大夫、河南行省平章政事、柱国を贈られ、魏国公を追封され、諡して忠定といった。昂霄には推誠孝節功臣、嘉議大夫、礼部尚書、上軽車都尉を贈り、隴西郡侯を追封し、諡して忠毅といった。

摶霄は早くより儒生として身を起こし、すぐに能吏となり、天下大乱に遭い、乃ちまた武功をもって自ら奮い立ち、その才略には大いに人に過ぐる所があったが、当時これを用いてその才を尽くすことができず、君子はこれを惜しんだ。

劉哈剌不花

劉哈剌不花、その先祖は江西の人である。倜儻として義を好み、家産に事とせず、古の侠士の風があった。燕趙に年を経て住み、遂に探馬赤軍戸となった。

至正十二年、潁、亳に盗賊が起こり、朝廷は泰不花を河南行省平章政事とし、兵を総べてこれを討たせた。哈剌不花は上書して十事を陳べ、その七は兵機及び攻守の方略を言った。泰不花は大いに喜び、即ち辟いて掾史とした。間もなく、奏して左右司都事に除した。泰不花は哈剌不花が嘗て探馬赤であり、膂力があり、騎射に優れているので、これに前八翼軍を統率させ、先鋒将とした。号令を明らかにし、賞罰を信じ、士卒は皆これを用いることを楽しみ、敵の成敗を料り、向かう所失うことが無かった。この時、答失八都魯の軍が長葛で潰え、散卒を収集し、また中牟に屯した。哈剌不花は軍を汴梁の南、彭子岡に置いた。長葛より来た者が言うには、総兵官は既に賊に敗れ、中牟に次いでいる。哈剌不花は言うには「賊は既に勝利した。兵は必ず再び来る。我は往援せざるを得ない」。遂に兵を整えて進んだ。既にして使者が馳せて報ずるには、夜の四鼓、賊は洧川より河を渡り、その向かう所を知らない。哈剌不花は言うには「これは必ずや答失八都魯の営を襲うであろう。我が行くのは既に遅く、事に及ばない。精鋭をもって賊の帰路を断つに如かず、必ずやこれを覆すであろう」。ここにおいて軍を率いてゆっくりと進んだ。天未だ明けず、その帰路に伏軍した。賊は果たして答失八都魯の営を襲い、輜重を大いに掠めて戻った。哈剌不花の伏軍が四方より起こり、賊は大敗し、悉くこれを俘獲した。この当時、答失八都魯は平章政事として大兵を総べていたが、哈剌不花の功名はこれと相伯仲した。

十七年、山東の毛貴がその賊衆を率い、河間より直沽に向かい、遂に漷州を犯し、棗林に至った。已にして柳林を略し、畿甸に迫り、樞密副使達国珍が戦死し、京師の人心は大いに駭いた。朝廷の臣の中で、或いは乗輿の北巡を勧めてこれを避けようとし、或いは関陝への遷都を勧め、衆議紛然としたが、独り左丞相太平が執って不可とした。哈剌不花はこの時同知樞密院事であり、詔を奉じて兵をもってこれを拒ぎ、柳林でこれと戦い、大勝した。貴の衆は悉く潰退し、走って済南を拠り、京師は遂に安んじたが、哈剌不花の功が多かった。哈剌不花は後に河南行省平章政事に遷り、任地で卒した。

初め、哈剌不花は信州の人倪晦(字は孟晣)と共に泰不花に事えて掾史となった。晦は書史に渉猟し、文墨に精しく、機識警敏であり、泰不花は深くこれを委任し、言うこと従わざる無かった。しかし哈剌不花が或いは論白することがあっても、多く沮まれて行われず、これによって心に泰不花を恨んだ。泰不花が事敗れた時、走って哈剌不花に詣でて救援を求めたが、哈剌不花は曲ってこれを保全することができず、乃ち泰不花を縛って京師に送り、死地に致した。君子はこれをもってこれを軽んじた。

王英

王英、字は邦傑、益都の人。性質剛果、大節有り、膂力人に絶し、騎射に優れた。父の職を襲い、莒州翼千戸となった。父子共に双刀を用いることを善くし、人はこれを号して刀王といった。

至元二十九年、江西行樞密院は命じて師を帥いて南雄に赴き、賊の丘大老を討たせた。賊六百余人が突如として至り、英はこれと戦い、その渠帥劉把東を殺し、九十余人を獲た。元貞元年、左丞董士選に従って大山の賊劉貴を討ち、これを擒らえた。二年、永新、安福二州の賊を討ち、余党は皆息んだ。

延祐二年、寧都に賊が起こり、行省は王英に命じて各万戸の軍を率いてこれを討たせた。賊の勢いは甚だ盛んであったが、英は屡々戦って皆勝ち、斬獲は数え切れず、積み重なった屍は野を満たし、水は流れなくなった。行省平章の李世安は、英を遣わして江浙平章張閭の率いる軍を閩の境で迎えさせ、木麻坑に至り、賊の蔡五九を擒らえた。また賊を上虎嶂まで追撃し、賊三千余人に出会い、これをことごとく殲滅した。

至治元年、大臣の推薦により、忠武校尉こうい・益都淄萊万戸府副千戸を授けられた。天暦元年、宣武将軍を授けられた。至順二年、行省は英に命じて桂陽州の賊張思進ら二千人を招捕させた。英が到着すると、威信をもって布告し、皆相次いで降伏を請うた。元統元年、懐遠大将軍・同知海北海南道宣慰使司事を授けられた。

至元三年、万安軍の賊呉汝期らが乱を起こし、三千人の衆を集めた。英が到着すると、賊は皆捕らえられた。間もなく、李志甫が漳州で、劉虎仔が潮州で起こり、詔により江西行省右丞燕帖木児にこれを討たせた。賊が起こった時、英は既に致仕していたが、平章政事伯撒里は僚佐に言った。「これは鼠窃狗盗とはいえ、刀王(王英)でなければならぬ。その人は年老いてはいるが、必ずや義によって奮い立たせることができよう。」そこで人をやって迎えさせた。英は言った。「国家に事あれば、我は年老いても、どうして坐視していられようか!」鞍に据え槊を横たえ、精神は飛動し、馳せ赴いた。賊が平定された時、英の功績が最も多かった。

至正年間、毛貴が益都を陥落させた時、英は九十六歳であったが、子の王弘に言った。「我は代々国恩を受け、美官厚禄を備え嘗めてきた。今老いた。たとえ戎馬に事えて天子に報いることはできなくとも、どうして異姓の粟を食って生きながらえようか!」水漿を口にすること数日、遂に卒去した。毛貴はこれを聞き、棺と衾を整えさせて葬らせた。殯の時、その屍を挙げようとしたが動かず、香を焚いて祝して言った。「子の弘が公に請う、先塋に帰葬することを。」祝し終わると、屍は遂に起き上がり、見る者は皆驚異しなかった者はなかった。山東宣慰使普顔不花及び憲司が、朝廷に卹典を請うた文に曰く、「寇の粟を食わず、芹泉に餓死す、夷・斉の風有り、臣たる者の清き者なり」と。芹泉は谷の名で、英の居た所である。

石抹宜孫 邁里古思

石抹宜孫は字を申之という。その先祖は遼の迪烈糺の人である。五世祖は也先といい、太祖に仕えて御史大夫となり、独自の伝がある。也先の曾孫は継祖といい、字は伯善、父の職を襲い、沿海の上副万戸となった。初め沿海軍を率いて台州を鎮め、皇慶元年にまた婺州・処州の両州に移鎮した。軍を統御すること厳粛で、寧都の寇を平定し戦功があった。かつ政事に明達し、塩策を講究し、多く時宜に合った。学問は経術を本とし、兼ねて名法・縦横・天文・地理・術数・方技・釈老の説に通じ、薦紳の間で称えられた。宜孫はその子である。

宜孫は性質聡敏で、学問を嗜み、書物については博覧を務め、詩歌に長じていた。嘗て嫡弟の厚孫の蔭を借り、父の職を襲い、沿海の上副万戸となり、処州を守った。弟が成長すると、即ちその職を譲って返し、退いて台州に居た。

至正十一年、方国珍が海上で起こると、江浙行省は宜孫に檄を飛ばして温州を守らせ、宜孫は即ち起ち上がってその任に就いた。その年、閩の寇が処州を犯すと、再び宜孫に檄を飛ばして兵でこれを平定させた。功により、浙東宣慰副使に昇進し、台州に分府した。間もなく、処州に属する県の山賊が一斉に起こり、宜孫は再び省の檄を受け往き討った。到着すると処州城を築き、敵を防ぐ計略とした。

十七年、江浙行省左丞相達識鉄睦邇が制を承って宜孫を行枢密院判官に昇進させ、処州を総制し、分院を処州に治めた。また江浙儒学副提挙劉基をその院の経歴とし、蕭山県尹蘇友龍を照磨とし、宜孫はまた郡人の胡深・葉琛・章溢を辟いてその軍事に参謀させた。処州は郡として、山谷が連絡し、盗賊は険阻な地に拠り、たびたび窃発し、平治しがたかった。宜孫は劉基らの謀を用い、あるいは兵で擣き、あるいは計略で誘い、間もなく皆殲滅して遺類を残さなかった。尋ねて同僉行枢密院事に昇進した。この時、天下は既に多事であり、所在の守将は各自が計を為し相保ち守っていた。ここにおいて浙東では宜孫が処州に、邁里古思が紹興にいて首と称された。

十八年十二月、大明兵が蘭溪を取ると、かつ婺州に迫り、宜孫の母は実に婺城にいた。宜孫は泣いて言った。「義は君親より重きは莫し。禄を食みながらその事に事えざるは、君無きなり。母難に在りて赴かざるは、親無きなり。君無く親無くして、尚お天地の間に立つことあらんや!」即ち胡深らに将として民兵数万を率い往き援けさせ、自らは精鋭を率いてその殿となった。兵が婺州に至り、大明兵と甫めて接するや、即ち敗績して還った。時に経略使李国鳳が浙東に至り、制を承って宜孫を江浙行省参知政事に拝し、階は中奉大夫とした。

明年、大明兵が処州に入ると、宜孫は数十騎を率いて福建の境上に走り、報復を図ろうとしたが、至る所で人心は既に散じ、事は再び為すべくもなかった。嘆いて言った。「処州は我が守るところなり。今我が勢いは既に窮まり、往くところ無し。処州の境に還るに如かず。死すとも処州の鬼とならん!」既に還り、処州の慶元県に至り、乱兵に害された。事が聞こえ、朝廷は推誠宣力効節功臣・集賢大学士・栄禄大夫・上柱国を贈り、越国公を追封し、諡して忠愍とした。

邁里古思は寧夏の人で、字は善卿。至正十四年の進士で、紹興路録事司達魯花赤を授けられた。苗軍の主将楊完者が杭州にいて、その軍に掠奪を恣にさせ、誰も敢えてどうすることもできず、民は甚だこれを苦しんだ。俄かに紹興城中に至り人馬を強奪する者がいたので、邁里古思は数人を擒らえて斬り、苗軍は乃ち懼れ、再びその境に至らなくなった。邁里古思の名声は遂に大いに振るった。

江南行台が治めを紹興に移すと、邁里古思を行台鎮撫に檄し、乃ち大いに民兵を募り、守禦の計略とした。処州の山賊が婺州の永康・東陽を焚掠すると、邁里古思は兵を提げ往きこれを撃ち、石抹宜孫と期を約してその巣穴を挟撃し、山賊は平定された。江東廉訪司経歴に抜擢され、仍って紹興に留まり、兵をもって台治を衛った。時に浙東・西の郡県は多く残破していたが、独り邁里古思が紹興を保障し、境内は晏然として、民は父母の如くこれを愛した。江浙省臣は乃ち制を承って行枢密院判官を授け、分院を紹興に治めた。

方国珍が兵を遣わして紹興の属県を侵し拠ると、邁里古思は言った。「国珍は本より海賊なり。今既に降りて大官となりながら、復た来たりて我が民を害する、可ならんや!」兵を率いて往き罪を問わんとした。先ず部将黄中を遣わして上虞を取らせたが、黄中が還り、兵の増加を請うた。この時朝廷は方国珍を倚重し、その舟を資して糧を運んでおり、御史大夫拜住哥は国珍と素より賄賂を通じ、情好甚だ厚く、邁里古思が擅に兵を挙げることを憤り、且つ事を生ずるを恐れ、即ち人をして邁里古思を召しその私第に至らせ、事を計らわせた。至ると左右に命じて鉄鎚でこれを撾き殺し、その頭を断って厠溷の中に擲った。城中の民はこれを聞き、男女老幼を問わず、慟哭せざる者はなかった。

黄中はそこでその衆を率いて復讎し、拜住哥の家族および台府の官員掾史をことごとく殺し、ただ拜住哥だけを殺さずに留め、張士誠に告げた。士誠はそこでその将を遣わして兵をもって紹興を守らせた。拜住哥はまもなく行宣政院使に遷り、監察御史真童が糾弾して言うには、「拜住哥は陰に帥臣を害し、ほとんど激変を致すところであり、不法不忠、これより甚だしいものはない。宜しく諸の彝典に稽え、厳刑に置くべし。」そこで詔して拜住哥の官職を削り、潮州に安置し、邁里古思の冤罪は初めて明らかとなった。