元史

列傳第七十四:烏古孫良楨、賈魯、逯魯曾、貢師泰、周伯琦、吳當

烏古孫良楨

烏古孫良楨、字は幹卿、世次は父の澤の傳に見える。資質器量は人に絶し、書を読むことを好んだ。至治二年、蔭補により江陰州判官となり、まもなく母の喪に遭い、喪が明けて、婺州武義縣尹に転じ、恵みある政績があった。漳州路推官に改め、疑わしいある獄事は、ことごとく平反した。上言して曰く、「律では、徒刑の者は杖刑を受けない。今は杖刑を加え、さらに徒刑とするのは、刑を憐れむ意に非ず。徒刑を加え、杖刑を減ずるべし」。遂にこれを令として定めた。泉州に移り、ますます能吏として称された。延平判官に転じ、陝西行臺監察御史に拝され、遼陽行省左丞相達識帖睦邇が国を売り忠ならざることを弾劾し、漢の高帝が丁公を斬った故事を引き、以て人臣の大義を明らかにした。併せて御史中丞胡居祐の奸邪を弾劾し、皆罷免させ、朝廷内外震動した。都事に昇進したが、なお言が尽く行われざるを以て、解任して去った。

再び起用されて監察御史となり、良楨は帝が万機を覧るに当たり、賢を求めて自らを輔けざるべからずとし、ここに連続して上疏した。「天暦の数年間、紀綱は大いに壊れ、元気は傷ついた。天が聖明を祐け、大統を膺けたが、西宮が政を執り、奸臣が権を弄び、憾みを蓄えること十余年。天威一怒し、陰晦開明し、以て大名を正し、以て大孝を顕わす。これは誠に兢兢業業、天に祈り命を永くすべき秋、その術は身を敬い徳を修めるに在るのみ。今、経筵は多く職事の臣を以て領し、数日に一度進講するも、数刻を過ぎずして已む。而して側近の小臣は常に左右に侍る。盛徳に何の益かあらん。臣は願わくば、許衡のごとき儒臣数人を招き延べ、禁密に置き、常に唐・虞・三代の道を以て、宸衷を啓沃し、日にその徳を新たにせしめ、実に万世無疆の福となさん」。また国俗として父死すればその従母を妻とし、兄弟死すればその妻を収め、父母死して憂制無きを以て、遂に言う。「綱常は皆天より出でて変ずべからず。法を議する吏は、乃ち国人はこの例に拘わらず、諸国人は各々本俗に従うと言う。これは漢人・南人は綱常を守るべく、国人・諸国人は必ずしも綱常を守らざるべしというに等しい。名はこれを優遇するも、実はこれを陥れる。外はこれを尊ぶが如く、内は実にこれを侮る。その本心を推せば、国人を待つ所以は、漢人・南人の厚きに及ばざるなり。礼官有司及び右科進士で朝に在る者に下して会議せしめ、天子より庶人に至るまで、皆礼制に従い、以て列聖未遑の典を成し、万世不易の道を明らかにせんことを請う」。また言う。「隠士劉因は、道学経術において許文正公衡に比すべく、孔子廟庭に従祀すべし」。皆報いられず。御史臺が新たに風憲を作るに及び、またその行うべきところを疏し、賢才を挙ぐるを綱とし、而して風俗を厚くし、賦役を均しくし、審理を重んじ、冗官を汰し、守令を選び、奉使を出し、公田を均しくするを目とし、指摘剴切、忌諱に触るるも顧みなかった。宦者罕失が寵妾にその妻を殺させ、その肉を糜して犬に飼わせた。上疏して重刑を正すを乞い、併せて宦寺が廷臣と結び政を撓乱して害をなすを論じ、汰黜すべしとした。憸佞の輩は側目した。

至正四年、召されて刑部員外郎となり、御史臺都事に転じた。五年、中書左司都事に改め、出て江東道肅政廉訪司副使となった。上官して一日、辞して帰った。六年、平江路総管を授けられたが拝命せず。八年、再び召されて右司員外郎となった。九年、郎中に昇進し、まもなく広東道肅政廉訪使に遷ったが、未だ行かず、還って郎中となり、福建道肅政廉訪使に遷り、途中召還され、中書省事を参議し、経筵官を兼ねた。十一年、治書侍御史に拝され、中書参知政事・同知経筵事に昇進した。

十三年、左丞に昇進し、大司農卿を兼ね、なお同知経筵事を兼ねた。当時中書には非人を参用し、事多く異同あり、一一志の如くならざるを得ず。会に軍餉給せず、右丞悟良哈台と共に屯田を主ることを請い、歳入二十万石を得た。東宮久しく未だ建たず、懇々として言上し、車駕上都に幸するに及び、始めて皇太子を冊立した。詹事院を立て、駅伝を以て召されて副詹事となり、毎に端本堂に直すときは、則ち正心誠意の説、君子に親しみ小人を遠ざけるの道を進講し、皇太子嘉して納れた。当時盗賊蜂起し、帝聞き、これを悪み、詔を下して分討し、必ず尽く誅して後已まんとした。良楨言う。「賊を平らぐるは人心を収め、以て天意を回らすに在り。多く殺すは道に非ず」。乃ち赦して以てこれを安んぜしめた。

十四年、淮南行省左丞に遷った。初め、泰州の賊張士誠は既に降りてまた叛き、淮南行省参知政事趙璉を殺し、進んで高郵・六合を占拠した。太師脫脫が詔を奉じ、諸王の軍を総べて南征し、而して良楨及び参議龔伯璲・刑部主事廬山等がこれに従った。六合を平定し、高郵を垂に克たんとするに、会に詔して脫脫の兵権を罷め、ここに上変して伯璲等が脫脫を勧めて兵を勒し北向せしめんとする者あり、その事を下して逮問し、詞は良楨に連なり、簿対して験する所無し。即日に中書左丞に還り、命じて彰德に分省し、軍食の調達を主らせ、半歳居りて、中書に還った。十六年、階を進めて栄禄大夫と為り、玉帯一を賜わった。

十七年、大司農を除された。明年、右丞に昇進し、大司農を兼ねたが、辞し、許されず。賊に陥れたる者の延坐の令を罷むるを論じた。悪少年あり、宜興州知州張復が賊に通ずる罪を誣うるを、中書将にその妻子を籍没せんとし、吏案を抱えて署を請う。良楨曰く、「手は断たるるも可なり、案は署すべからず」。同列は色を変じたが、遂に署さず。

良楨は左曹より政府に登り、多く建白するところあり。福建・山東の食塩、浙東・西の長生牛租、瀕海の被災した囲田の税を罷め、民皆その徳を感した。嘗て至正格の軽重倫を同じくせざるを論じ、吏が併せて縁りて奸を為すを得、明律の者数人を挙げ、古今を参酌し、重ねて律書を定め、書成って罷めた。家居するときは輒ち諸子を訓えて曰く、「我は人に過ぐる者無し。惟だ人を誠を以て待つのみ。人も亦た誠を以て我に遇う。汝ら宜しくこれを志すべし」。晩年病み痩せ、数度謁告し、病ますます侵し、遂に卒した。自ら約斎と号す。詩文奏議凡そ若干巻あり、家に蔵す。

賈魯

賈魯、字は友恒、河東高平の人。幼くして志節を負い、既に長ずるに及び、謀略人に過ぐ。延祐・至治の間、両度明経を以て郷貢を領す。泰定初め、恩授により東平路儒学教授となり、憲史に辟され、行省掾を歴任し、潞城縣尹を除され、丞相東曹掾に選ばれ、戸部主事に擢でられたが、未だ上ならず。一日、心悸を覚え、尋ねて父の書を得るに、筆勢顫縮す。即ち辞して帰り、家に至る比、父は既に風疾あり、未幾卒した。

魯は喪に居り服闋し、起きて太医院都事となった。会に詔して遼・金・宋の三史を修め、魯を召して宋史局官と為す。書成り、魯を選んで燕南山東道奉使宣撫幕官と為し、考績最も上に居り、中書省検校官に遷った。上言して曰く、「十八河倉、近年官糧百三十万斛を淪没す。その弊は富民の兼へい、貧民の流亡に由る。宜しく先ず経界を正すべし。然れども事体重大、処置尽く善くせざれば、軽く発すべからず」。書累数万言、その弊に切中す。俄かに監察御史に拝され、まず言う、御史に封事あれば、宜しく専ら聖聴に達すべく、臺臣先ず可否有るべからずと。臺都事に昇進し、山北廉訪副使に遷り、再び召されて工部郎中となり、考工十九事を言上した。

至正四年、黄河が白茅堤で決壊し、また金堤でも決壊した。河に沿った郡邑は、民家が水没し、壮健な者は離散した。帝はこれを大いに憂い、使者を派遣して実情を視察させ、さらに大臣に督促して治河の方策を訪ね求めさせ、特に賈魯を行都水監に任命した。賈魯は河道を巡行し、地形を考察し、往復数千里にわたり、要害の地をことごとく把握し、図を作成して二つの策を上奏した。その一つは、北堤を修築して横流を制することを提案し、これなら工事の費用が省けるというものである。もう一つは、疏導と堰止めを併用し、黄河を東流させて旧河道に戻すことを提案し、その功績は数倍になるというものであった。ちょうど右司郎中に転任となり、議論は結論に至らなかった。右司在任中、時政について二十一事を上奏し、いずれも実施に移された。都漕運使に転じ、再び漕運について二十事を上奏した。朝廷はそのうち八事を採用した。第一は京畿での和糴、第二は漕司が旧来管轄していた漕戸への優遇措置、第三は接連の委官、第四は通州総治における予め定めた委官、第五は船戸が壩夫に苦しめられ、海運が壩戸によって損なわれていること、第六は運河の疏濬、第七は臨清運糧万戸府を漕司に隷属させるべきこと、第八は宣忠の船戸を本司の節制下に置くことである。事柄は全て実行されなかった。その後、黄河の水が北へ侵して安山に至り、運河に流入し、済南・河間に広がり、両漕司の塩場を破壊しようとし、実に国家の財政を妨げた。

九年、太傅・右丞相トクトが再び丞相となり、黄河の決壊について論じ、民の艱難を救い、詔旨に応えることを思い、廷臣を集めて広く議論したが、意見は人それぞれであった。賈魯が声をあげて言った。「黄河は必ず治めねばならない。」再び以前の二策を進言した。丞相はその後の策を採用し、賈魯と協議を定め、かつその事を賈魯に委ねた。賈魯は固辞したが、丞相は言った。「この事はあなたでなければできない。」そこで入奏し、大いに帝の意にかなった。十一年四月、賈魯を工部尚書・総治河防使に任命し、位階を二品に進め、銀章を授け、河南・河北諸路の軍民を統率させ、汴梁・大名の十三路から民十五万人、廬州などの戍守十八翼の軍二万人を徴発して労役に当たらせ、一切の大小軍民官はみなその指揮を受け、適宜に工事を興すこととした。この月に工事を開始し、七月に河道を開鑿して完成し、八月に水を旧河道に導き、九月に舟楫が通行し、十一月に諸々の堤防が完成し、水土の工事が終わり、黄河は旧河道に戻った。事柄は河渠志に見える。帝は使者を派遣して河伯に報告祭祀を行い、賈魯を召し還して京師に帰らせた。賈魯は河平図を献上した。帝がちょうど御史台の臣の奏疏を閲覧し、トクトの治河の功績を褒賞するよう請うているのを見、次いで賈魯の功績を論じ、栄禄大夫・集賢大学士に超昇任命し、金帛を賞賜し、翰林承旨の欧陽玄に命じて河平碑を制作させ、トクトの労績を顕彰し、賈魯の功績を詳しく記載させ、かつ史館に宣付して記録させ、さらに賈魯の先臣三代に贈官した。

まもなく中書左丞に任命され、トクトに従って徐州を平定した。トクトがすでに軍を返した後、賈魯に命じて残党を追討させ、濠州を分攻させ、総兵官平章のヨケチャルとともに督戦した。賈魯は軍勢に誓って言った。「私は旨を奉じて八衛の漢軍を統率し、濠に七日間駐屯している。諸将は心を合わせ力を協せ、必ず今日の巳の刻・午の刻に城池を陥とし、その後で食事をとれ。」賈魯は馬に乗って指揮を進め、城下に到着した時、突然めまいがして馬から下り、しかも兵馬が散らぬよう戒めた。病はますます重くなり、薬を退けて発汗を促そうとせず、ついに軍中で卒した。五十七歳。十三年五月壬午のことであった。ヨケチャル自ら喪を治め、兵士を選んで柩を護送して高平に還らせた。旨があり交鈔五百錠を賜って葬事の費用に充てさせた。子に賈稹がいる。

逯魯曾

逯魯曾、字は善止、修武の人。性質は剛直で、経術に通じ、天暦二年に進士に及第し、翰林国史院編修官に任じられ、御史台の掾に辟召され、機密を掌った。監察御史が中丞の史顕夫が簡傲であると弾劾した時、魯曾が大夫の前で実封を開いて言った。「中丞は平素から慎重であり、人と付き合うことができない。御史が人情をもってこれを弾劾するのは、公論ではない。」これによって皆その正直さを知った。

太常博士に任じられた。武宗の一廟には、まだ后主を立てて配享していなかった。群臣を集めて朝廷でこれを議した。魯曾が直言した。「先朝は武宗皇后の真哥に子がなかったため、その神主を立てなかった。」当時、バヤンが右丞相であり、明宗の母の亦乞列氏を配享できると考えた。徽政院が太后の旨を伝え、文宗の母の唐兀氏を配享できるとした。バヤンが魯曾に問うて言った。「先朝はすでに真哥皇后に子がないため、神主を立てなかったが、今立てるべきは、明宗の母か、文宗の母か。」答えて言った。「真哥皇后は武宗の朝において、すでに玉冊を受けているから、武宗の皇后である。明宗・文宗の二母后は、もとより妾である。今、子がないことを理由に神主を立てず、妾であった后を正宮とするのは、臣として先君の后を廃し、子として先父の妾を追封することであり、礼に適わない。かつて燕王慕容垂が即位し、その母后を追廃して、生母を后に立て、先王に配享させたことは、万世の笑いものとなった。どうして再びその過ちを踏襲できようか。」集賢大学士の陳顥は、平素から魯曾を憎んでおり、出て言った。「唐太宗が曹王李明の母を后に冊立した。これも二后である。どうしてできないことがあろうか。」魯曾は言った。「堯の母は帝嚳の庶妃であった。堯が帝に立てられたが、后に冊立して嚳に配享させたとは聞かない。皇上は大元の天子であられ、堯・舜に倣わず、唐太宗に倣われるというのか。」衆人はその議論に服し、バヤンもこれに同意し、ついに真哥皇后を配享とした。

再び監察御史に任命され、ダシハイヤ・アギラ太尉、コンバラ右丞、ウトマン刑部尚書、ギダンプ監察御史、カラワンジャ・ヨルブカ院使、呂思誠郎中を弾劾し、いずれも罷免させた。八人のうち、ただ呂思誠だけが少し過失があったが、これも祖宗の選法を変えたものであり、残りは皆バヤンの与党であった。朝廷は粛然とした。

枢密院都事に任じられ、上奏して言った。「以前バヤンが専権で大臣を殺害した時、その与党はその妻女を利するため、巧みに罪を誣いた。今より大小の官および諸人が罪を犯した場合は、ただその身のみを罰し、その妻女を没収してはならない。郯王はバヤンに陥れられ、妻女が離散した。その無実を雪ぎ、子孫に復権を与えるべきである。」従われた。刑部員外郎に任じられ、横にバヤンによって誣かれた者をことごとく弁明し正した。宗正府郎中に転じ、出向して遼陽行省左右司郎中となり、僉山北道粛政廉訪司事に任じられ、入朝して礼部郎中となった。

至正十二年、丞相トクトが徐州の賊を討伐するにあたり、官軍が水土に慣れていないため、沿海の塩丁を募って軍とし、そこで魯曾を超昇して資善大夫・淮南宣慰使とし、征討の事を統率させ、塩丁五千人を募って従征させた。徐州が平定された後、引き続いてその率いる軍を率いて淮東を討伐させ、軍中で卒した。

貢師泰

貢師泰、字は泰甫、寧国路宣城県の人。父の貢奎は、文学をもって名家となり、延祐・至治の間、京師に官し、集賢直学士となり、卒し、文靖と諡された。

師泰は早く国子学で学業に励み諸生となった。泰定四年、科挙に合格して官途に就き、従仕郎・太和州判官に任じられた。父の喪に服し、改めて徽州路歙県丞となり、江浙行省が掾に辟召したが、まもなく土着の者であることを理由に、自ら弾劾して去った。大臣がその名を聞き上げた者があり、応奉翰林文字に抜擢された。母の喪に服し、喪が明けると、紹興路総管府推官に任じられた。郡に疑わしい獄事があると、ことごとく詳しく審理して判決を下した。

山陰の白洋港に大船が岸に漂着し、史甲ら二十人がたまたま海浜で塩を取っていたところ、その船に主人がいないのを見て、篙櫓を取ったが、船中には二人の死人があった。徐乙という者が、物がなく死人があるのを怪しみ、史らが奪ったものだと訴えた。史は富民の高丙の家で雇われていたので、事は高にも連座した。史が誣かって服罪すると、高も捕らえられた。師泰が密かに尋問したところ、里中の沈丁が荷物を杭州に運んで帰る途中、漁師が海中に網を張っていたのを盗んで魚を取ろうとして漁師に殺されたのであり、史は実際には人を殺し物を奪ったのではなく、高もその情を知らなかったので、その冤罪は皆明らかになった。

遊徼の徐裕が、巡塩を名目として村落の間で暴虐をほしいままにしていた。ある日、諸暨の商人に会い、その携えていた銭を奪い、撲殺して水中に死体を投げ込み、走って県に告げて言うには、「私塩の犯人を捕らえたが、罪を恐れて水に赴いて死にました」と。官が検視したところ、傷があったので疑った。そこで疑獄として釈放した。師泰が追及して覆審したところ、裕が人を殺した様子をことごとく得たので、再び待報させた。

餘姚の孫国賓が、盗賊を求めるうちに姚甲が偽鈔を造るのを捕らえ、賄賂を受けて釈放し、高乙と魯丙を執って役所に赴き、同造偽の罪を誣告した。高はかつて姚のために偽鈔を使ったことがあったが、実際には自分で造ったのではなく、孫は姚を赦したので、高に罪を加え、魯は孫と不和があったので、一緒に連座させたのであり、魯と高はかつて面識がなかった。師泰は高らが覆造に合わないのを疑い、孫を詰問したところ、言葉が窮して実情が現れた。すぐに魯を釈放し、高に本来の罪を加え、姚は処死され、孫も法に服した。その冤獄を詳しく審議して明らかにすることは多くこの類であった。この故に郡民は自ら冤罪がないことを知り、その治績は諸郡の第一であった。

考課が満了し、再び翰林院に入って応奉となり、后妃・功臣列伝の編纂に参与し、事が終わると、宣文閣授経郎に遷り、翰林待制・国子司業を歴任し、礼部郎中に抜擢され、再び吏部に遷り、監察御史に拝された。世祖以後、省・台の職は南人が斥けられて用いられなかったが、この時になって初めて旧制が復活し、ここに南人の士が再び省・台に居ることを得たのは師泰から始まり、当時の論は人を得たと以為った。

至正十四年、吏部侍郎を除された。当時江淮で兵乱が起こり、京師の食糧が不足したので、師泰は命を受けて浙右で和糴を行い、百万石の糧を得て、京師に給した。兵部侍郎に遷る。朝廷は京師から上都に至るまで、駅戸が凋弊しているのを以て、師泰に巡視整頓を命じた。到着するとその病源を歴究し、その富貧を検証してその徭役を均しくし、数十郡の民は頼ってやや蘇った。豪貴はこれが己に不利であるとして深く嫉んだが、中傷することができなかった。ちょうど朝廷が再び浙西で和糴を行おうとしたので、師泰を都水庸田使に除した。

十五年、庸田司が廃止され、江西廉訪副使に抜擢されたが、赴任せず、福建廉訪使に遷り、間もなく、礼部尚書を除された。当時平江に守が欠け、廷議はその人を得難く、師泰がまた選ばれて平江路総管となった。その年の冬、視事を始めたばかりで、張士誠が高郵から衆を率いて江を渡り、直ちに城下に抵り、攻囲が甚だ急であった。翌年春、守将は支えることができず、関を斬って遁走し、師泰は義兵を率いて出戦したが、力及ばず、また印綬を懐にして城を棄てて遁走し、海浜に匿れて久しくいた。

士誠が既に降伏を納めると、江浙行省丞相の達識帖睦邇が便宜を以て師泰に両浙都転運塩使を授けた。到着するとその積年の蠹を剔り、その利源を通じ、大課が集まり、国用はこれを資とした。丞相はまた制を承けて師泰を江浙行省参知政事に除した。

二十年、朝廷は戸部尚書を除し、閩中に分派して、閩塩で糧と交換し、海路を経由して転運し京師に給することとし、凡そ数十万石の糧となり、朝廷はこれを頼った。二十二年、秘書卿に召されたが、杭州の海寧に行き着いて病気を得て卒した。

師泰の性格は倜儻で、状貌は偉然としており、既に文字で知名であったが、政事には特に長け、至るところで績効が直ちに顕著であった。特に後進を接引することを喜び、士の賢なる者は、識る識らざると問わず、即ち推轂を加えたので、この故に士の誉れは翕然として皆これに帰した。詩文若干巻が世に行われている。

周伯琦

周伯琦は字を伯温といい、饒州の人である。父の応極は、至大の間、仁宗が皇太子であった時、召見され、皇元頌を献じ、武宗に言上されて、翰林待制と為された。後に皇太子の説書となり、日々英邸に侍した。仁宗が即位すると、集賢待制に遷り、終に池州路同知総管府事となった。伯琦は幼い頃から官に従って京師に遊学し、国学に入って上舎生となり、積分して高等に及んだ。去って蔭授により将仕郎・南海県主簿となり、三転して翰林修撰となった。

至正元年、奎章閣を宣文閣と改め、芸文監を崇文監と改め、伯琦は宣文閣授経郎となり、戚里大臣の子弟を教え、毎回進講するごとに旨に称し、且つ日々顧問を受けた。帝は伯琦が書法に巧みであるのを以て、「宣文閣宝」を篆書させ、また宣文閣の扁額を題させ、及び王羲之の書いた蘭亭序と智永の書いた千文を模写して、閣中に石に刻ませた。ここから累転して官に就いたが、皆宣文・崇文の間であり、眷遇は益々隆盛となった。帝はかつてその字の伯温を呼んで名を呼ばなかった。ちょうど御史が風憲には近臣を用いるべきだと奏上したので、特命で広東廉訪司事を僉とした。八年、召入されて翰林待制となり、后妃・功臣列伝の編纂に参与し、累陞して直学士となった。

十二年、旨があり、南士は皆省・台に居ることを得るとされた。伯琦を兵部侍郎に除し、ここに貢師泰と共に監察御史に抜擢された。両人とも南士の声望であり、一時栄えた。当時御史大夫の也先帖木児が大軍を率いて南討したが、律を失い師を喪い、陝西行台監察御史の劉希曾ら十人が共にこれを劾奏した。伯琦は乃ち希曾らが分を越えて誉を干すことを劾し、希曾らは皆左遷に坐し、郡判官に補され、ここから公論に与せられなかった。

十三年、崇文太監に遷り、経筵官を兼ね、天妃の代祀を行った。母の喪に服した。十四年、起復して江東粛政廉訪使となった。長槍の鎖南班が寧国を陥落させると、伯琦は僚佐と倉皇として出てこれに会い、尋ねて遁走して杭州に至り兵部尚書を除されたが、未だ行かず、浙西粛政廉訪使に改められた。江南行台監察御史の余観が、伯琦が寧国を失陥したことを糾弾し、その罪を正すべきだと言上した。

十七年、江浙行省丞相の達識帖睦邇が制を承けて伯琦に参知政事を仮し、平江の張士誠を招諭させた。

士誠が既に降伏すると、江南行臺監察御史も亦辯釋伯琦の罪を釈明し、同知太常禮儀院事に任じたが、士誠が彼を留め置いたため赴任せず、資政大夫・江浙行省左丞に拝された。かくて平江に留まること十餘年、士誠が滅ぼされて後、伯琦はようやく鄱陽に帰ることができ、間もなく卒した。

伯琦は容姿温雅、玉の如く純粋で、時に遭う艱難多きも、よく自らを保つ。博学にして文章に巧み、特に篆・隸・真・草を以て当時に名を擅にす。嘗て『六書正譌』『説文字原』の二書を著し、また詩文藁若干巻あり。

吳當

吳當、字は伯尚、澄の孫なり。當は幼くして祖訓を承け、穎悟篤実と称せらる。長じて経史百家の言に精通し、その祖に侍して京に至り、国子生に補せらる。久しくして、澄既に舘を捐てたる後、四方の学子で澄に従って遊んだ者は、皆當に就いて卒業せしむ。

至正五年、父の文蔭により、萬億四庫照磨に授けられるも未だ上らず、推薦者により改めて国子助教となる。講解に勤め、肄習を厳にし、諸生皆楽しんでこれに従う。詔して遼・金・宋三史を修するに会し、當は編纂に預かる。書成りて、翰林修撰を除す。七年、国子博士に遷る。明年、監丞に陞る。十年、司業に陞る。明年、翰林待制に遷る。又明年、礼部員外郎に改む。十三年、監察御史に擢でられ、間もなく復た国子司業となる。明年、礼部郎中に遷る。又明年、翰林直学士を除す。

時に江南に兵乱起こること既に五年、大臣に當が世々江西に居り、江西の民俗に習熟し、且つその才政事に任ずるに足ると推薦する者あり、詔して特旨を以て江西粛政廉訪使を授け、江西行省参知政事火你赤・兵部尚書黄昭とともに、江西諸郡を招捕し、便宜を以て事を行わしむ。當は朝廷の兵力足らざるを以て、命を受け江南に至るや、即ち民兵を召募し、浙より閩に入る。江西境建昌界に至り、新城の孫塔を招安し、李三を擒殄す。道路既に通ずるや、乃ち進んで南豊を攻め、渠兇鄭天瑞は遁走し、鄭原は自刎して死す。十六年、檢校章迪を調してその本部兵を率い、黄昭と挟撃して撫州を攻め、首寇胡志学を勦殺し、進兵して崇仁・宜黄を復す。かくて建・撫両郡悉く定まる。

是の時、参知政事朵歹が兵を総べて撫・建に在り、積年功無し。當の屡捷を忌み、功己が上に在るを以て、又南人は兵を総ぶるに宜しからずと為し、則ち飛語を構えて、當と黄昭皆寇と通ずと謂う。旨有りて二人の兵権を解き、當を撫州路総管に除し、昭を臨江路総管に除し、並びに平章火你赤の軍に供億せしむ。火你赤、當の從事官范淳及び章迪を殺す。将士皆憤怒平らかならず、當これを諭して曰く「上命違うべからず」と。而して火你赤又上章して言う「二人は牧民に任じ難し」と。間もなく旨有りて當と昭皆総管を罷め、除名せらる。

十八年、火你赤が瑞州より龍興に還るに及び、當・昭皆軍に随い敢えて去らざりき。先に、當と昭の賊を平らげたる功状は、広東より海路を由りて未だ京師に達せず、而して朵歹・火你赤等の公牘乃ち先に至る。故に朝廷當・昭を責め、皆左遷せり。及んで當・昭の功状を得て、乃ち始めてその誣なりを知り、詔して當を中奉大夫・江西行省参知政事に拝し、昭を湖広行省参知政事とす。命未だ下らざるに、陳友諒已に江西諸郡を陥す。火你赤城を棄てて遁走し、當乃ち黄冠を戴き道士服を著し、門を杜ぎて出でず、日を以て著書を事とす。友諒人を遣わしてこれを辟くも、當は床に臥し食わず、死を以て自ら誓い、乃ち床を舁いで舟に載せ、江州に送り、一年拘留すれども、終に屈せず。遂に廬陵吉水の谷坪に隠居す。一年を踰え、疾を以て卒す。年六十五。著する書に、『周禮纂言』及び『學言藁』あり。