元史

列傳第七十三:張楨、歸暘、陳祖仁、成遵、曹鑑、張翥

張楨

張楨、字は約中、汴の人である。幼くして刻苦して書を読み、元統元年に進士に及第し、彰徳路録事に任ぜられ、河南行省掾に辟召された。張楨は初め祁氏を娶ったが、祁氏は富貴の家に生まれ、甚だ驕慢で勝手であり、張楨が貧しいのを見て礼を尽くさず、婚礼を挙げて一ヶ月余りで、即ち彼女を離縁した。祁氏の兄が官に訴え、且つ張楨を曖昧な事で汚したので、左右司の官がこれを聴き入れ、張楨は病と称して出仕せず、滞留する案件が共に積もった。平章政事月魯帖木児は怒って言った、「張楨は剛直な士である、お前たちが議論すべきところではない!」と。郎中の虎者禿が謁して謝罪したので、やっと出仕した。范孟が乱を起こし、偽って月魯帖木児らを殺し、城中は大いに騒擾した。張楨は夜に城を縋り下りて脱出し、難を免れた。

一年余りして、高郵県尹に除され、門に私的な謁見は無かった。県民の張提領は、任侠を尚び、郷里を事実無根で裁断していた。ある日、県に至って何か依頼しようとしたが、張楨は彼を捕らえ、その罪状をことごとく知り得た。里で彼の抑圧を受けた者は、皆やって来て訴えたので、杖罰を加えて流罪に処し、人々はこれを快とした。守城千戸狗児の妻崔氏が、その妾に讒言されて、虐待死し、その亡霊が七歳の娘に憑いて県に訴えに来た。張楨は死に様を詳しく言い、死体が家の後ろに埋められていると告げた。張楨は吏卒を率いてその場所に行き、土を掘って死体を得た。狗児と妾を拘束し、訊問すると、皆罪を認めた。人々はこれを神明の如しとした。

累進して中政院判官に除され、至正八年、監察御史に拝された。太尉阿乞剌の欺瞞の罪を弾劾し、併せて言った、「明里董阿、也里牙、月魯不花は、皆陛下と共に天を戴かざる仇敵であり、伯顔は宗室の嘉王・郯王の一族十二人を賊害し殺した。古法に照らせば、門誅に伏すべきであるのに、その妻子兄弟が尚朝廷に仕えている。急ぎ誅殺し流罪にすべきである。別児怯不花は権姦に阿附した者であり、亦遠く貶すべきである。今災異が重なって現れ、盗賊が蜂起し、海寇は敢えて君を脅かし、辺境の将帥は敢えて賊を侮り軽んじている。もし奮起して取り締まらなければ、唐末の藩鎮が臍を噛む禍いがあるかもしれない」と。聞き入れられなかった。

毛貴が山東を陥落させた時、上疏して十の禍いを陳べた。根本の禍いが六つ、征討の禍いが四つあり、その弊害を歴数した。一つは大臣を軽んずる、二つは権力の綱紀を緩める、三つは安逸に事をなす、四つは言路を塞ぐ、五つは人心を離す、六つは刑獄を濫用する、これが所謂根本の六禍である。その安逸に事をなす禍いについて述べた部分は、大略次の通りである。「臣は伏して見るに、陛下は盛年にして大統を継がれ、艱難を踏んで大宝に登られたが、安泰に因循して、予め慮りを防がず、寛仁恭倹の徳が次第に初めのようでなくなっている。今、天下は多事と言え、海内は不寧と言え、天道は変常と言え、民情は保ち難いと言える。これは陛下が警省すべき時、戦兢して戒め慎むべき日である。陛下は臥薪嘗胆し、奮発して悔い改め、祖宗の創業の難さと、今日墜ち亡びる易さを思い、ここにおいて実徳を修めれば、天意に答えることができ、至誠を推し及ぼせば、人心を挽回できる。凡そ土木の労役、声色の好み、安逸が毒となる戒めは、皆痛く撤廃し勇んで改めるべきである。尽くせないものがあっても、亦微を防ぎ漸を杜ち、未然に禁ずべきである。宮女を退け、無駄な費用を節約し、天を畏れ人を恤れむべきである。然るに陛下は安んじてこれを処し、天下太平無事の時のようにしておられる。これが所謂根本の禍いである」。至りて、調度を慎まず、群策を資とせず、賞罰を明らかにせず、将帥を選ばないこと、これが所謂征討の四禍である。その賞罰を明らかにしない禍いについて述べた部分は、大略次の通りである。「臣は伏して見るに、兵を調発して六年になるが、初めから紀律の法が無く、また激励の適切な措置も無い。将帥は敗北を功績とし、虚を実と指し、大小互いに欺き、上下互いに依頼し、その性情は一つでないが、功を邀え賞を求めることは同じである。それ故に、軍を覆す将、民を害する将、怯懦の将、貪婪の将がいるのに、かつて懲戒を受けたことが無い。その経過する所は、鶏犬一空、貨財ことごとく尽きる。そしてその面諛遊説するに及んでは、反って克服したとして賞を受ける。今、克服した地は、悉く荒廃した廃墟であり、河南の提封は三千余里、郡県は星羅棋布し、歳に輸送する銭穀は数百万計であったが、今存する所は、封丘・延津・登封・偃師の三四県に過ぎない。両淮の北、大河の南、所在蕭条としている。土地があり人民があり財があって、初めて軍旅の不足なく、糧秣の尽きないことを望める。今、寇敵の已に至った境は、固より言うに忍びず、未だ至らざる所は、尤も寒心すべきである。このようにして軍旅の不足なく、糧秣の尽きないことを望み、天に粟を降らせ、地に金を湧かせようとしても、朝夕の存亡さえ保てないのに、況んや地方の有限の費用をもって、将帥の無限の欲望を供給しようとするのか。これが自ら乱の階梯を開くものであり、亦已に危うい。陛下は仏に事えて福を求め、僧に飯を施して禍を消そうとし、天寿節に屠殺を禁じるが、皆虚名である。今、天下は人を殺しているのに、陛下は泰然としてこれを理めず、『私はこれをもって福を求めよう』と言われる。福はどこから来ようか。潁上の賊寇は、初め白蓮を結び、仏法をもって衆を誘い、終には威権を飾り、兵をもって抵抗し、その向かう所を見れば、駸々として畏るべきであり、その勢いは我が社稷を亡ぼし、我が国家を灰燼かいじんにせずには止まない。堂堂たる天朝が、乱を靖めることを思わず、却って乱の階梯となる。その禍いは至って惨く、その毒は至って深く、その関わりは至って大である。識者はこれがために扼腕し、志ある者はこれがために痛心する。これが征討の禍いである」。上疏が奏上されたが、省みられなかった。権臣はその率直な告発を憎んだ。

二十一年、僉山南道粛政廉訪司事に除された。着任すると即ち中書参知政事也先不花・枢密院副使脱脱木児・治書侍御史奴奴の権力を弄び国を誤る罪を弾劾したが、また返答が無かった。丁度この時、孛羅帖木児は大同に兵を駐め、察罕帖木児は洛陽らくように兵を駐め、毛貴は山東を占拠し、その勢いは京畿に迫っていた。二将は賊を侮り軽んじて進まず、方に晋・冀を争うことを事とし、兵を構えて相攻撃し、互いに勝敗があった。朝廷は乃ち也先不花・脱脱木児・奴奴を遣わしてこれを和解させようとしたが、既に命を受けたのに、前進しなかった。張楨はまた彼らが「貪婪で懦弱、凡庸で卑しく、苟くも自ら安んずる計らいを懐き、国を憂え身を致す忠誠が無い」と言った。「朝廷は二家に遺憾を釈させ、心を協わせて賊を討たせようとしている。これは国の大事である。風の如く馳せ電の如く走るべきと言うのに、却って迂回して退き怯え、枉げて延安以西の道を取り、曲がりくねって数千里を繞り、遅々として行く。両軍をして日夜仇殺させ、黎庶をして肝脳を地に塗らせているのは、実にこの三人の致す所である。急ぎこれを誅殺して、時の危険を救うべきである」。亦返答が無かった。張楨は乃ち慨然として嘆いて言った、「天下の事は為すべからず」と。即ち辞去し、河中の安邑の山谷の間に居を構え、茅を結んで僅かに膝を容れるのみであった。訪ねて来る者がいても、再び時事を言わず、ただそれに対して流涕するだけであった。

至正二十四年、孛羅帖木兒が宮闕を犯すや、皇太子は冀寧に出居し、贊善に任ぜられんことを奏請し、また翰林學士に任ぜられんことを奏請したが、いずれも起用されなかった。擴廓帖木兒は皇太子を輔けて孛羅帖木兒を討たんとし、使者を遣わして皇太子の旨を伝え、上尊を賜り、かつ時事について諮問した。楨は返書して曰く、「今、燕趙齊魯の境、大河の内外、長淮の南北は、悉く丘墟と化し、關陝の区は、存するもの幾ばくもなく、江左は日々に上国を食わんと図り、湘漢荊楚川しょくは、淫名僭号をなして、我が変有るを幸いとし、我が虞多いを利とす。閣下は国の右族にして、三世二王たり、廉頗・藺相如の趙に於けるが如く、寇恂・賈復の漢に於けるが如く思わざるを得ざるか。京師ひとたび残破せば、仮に不逞の徒ありて、草沢より起こり、名義を借り、君父を尊び、その説を天下に唱うるに至らば、閣下は将に何を以てか之を処せんとするか。京師を守る者は、能く聚むるも散ぜず、外侮を禦ぐ者は、能く進むも退かず、紛紛籍籍として、神分かれ志奪われ、国家の事、能く閣下の為に憂えざらんや。志に曰く『備えず虞らずんば、以て師と為すべからず』と。僕の惓々として言を為す所以は、忠を献ぐるの道なり。然れども言を為すの大要は三つ有り。君父を保つ、これ一なり。社稷を扶くる、これ二なり。生霊を衛る、これ三なり。近似の者を以てその一二を陳ぜんことを請う。衛の出公は国を据えて、父を父とせざるに至り、趙に沙丘の変有り、その臣の成・兌これを平らげ、功無しとは謂えざるも、後に至って君を君とせざるに至る。唐の粛宗は流播の中に在りて、邪謀に怵し、遂に霊武のさんを成す。千載の下、智弁百出する有りと雖も、能く雪ぐこと能わず。嗚呼、是れ豈鑑とすべからざらんや。然れども吾聞く、天の廃する所は驟ならず、驟に其の志を得しめ、其の寵楽を肆にし、覚悟の心を忘れしむるは、之を安んずるに非ず、其の毒を厚くして罰を降すなり。天其の欲を遂げ、民其の汰を厭い、鬼神福せざれば、其れ能く久しからんや。閣下之を覧観し、謀を万全より出ださば、則ち善し。輿議に詢うに、急なれば則ち其の変測るべからず、徐なれば則ち其の釁必ず起こる。往来の使を通じ、上下の情を達せば、其の情を得て、則ち其の策を得ん。孔子曰く、『君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり』と。今、九重の上に在る者は寄るが如く、青宮の下に在る者は寄るが如く、生民の憂い、国家の憂いなり。深く思い熟く計らざるべけんや」と。擴廓帖木兒は深く其の説を納れ、是を以て事克く成る有り。後三年にして卒す。

歸暘

歸暘、字は彥溫、汴梁の人。将に生まれんとするや、其の母楊氏、朝日東山より出で、軽雲来たりて之を掩うを夢み、故に暘と名づく。学に師伝無しと雖も、精敏人に過ぐ。至順元年進士第に登り、同知潁州事を授かり、奸を鋤き強を撃ち、人敢えて年少を以て之を易えず。山東塩司、奏差を潁に遣わし、勢を恃みて不法を為す。暘之を執えて獄に下す。時に州県塩司を奉ずること甚だ謹み、頤指気使すれば、輒ち之に奔走す。暘独り屈せず。大都路儒學提挙に転じ、未だ上らず。

至元五年十一月、杞県人范孟、謀りて軌に合わず、詔使と詐り、河南省中に至り、平章月魯帖木兒・左丞劫烈・廉訪使完者不花・総管撒里麻を殺し、官属及び去位者を召し、署して之を用い、段輔を以て左丞と為し、暘をして北に黄河口を守らしむ。暘力めて拒み従わず。賊怒りて獄に繫ぐ。衆其の為す所を測り難し。暘懼色無し。已にして賊敗る。賊に汚るる者は皆罪を得。暘独り免る。同里に吳炳なる者有り、嘗て翰林待制を以て徴ぜられ、起たず。賊炳を呼びて卯酉暦を司らしむ。炳敢えて辞せず。時人為に之を語りて曰く、「歸暘角を出だし、吳炳光無し」と。暘此より名譽赫然たり。明年、国子博士に転じ、監察御史を拝す。謝に入るに及び、臺臣奏して曰く、「此れ即ち河南にて賊に抗せし者なり」と。帝曰く、「好事は卿宜しく数々之を為すべし」と。上尊を賜う。已にして官を辞し帰り、親を汴上に養う。親既に歿し、家食すること久し。

至正五年、僉河南廉訪司事を除く。部を西京に行き、法を以て趙王府官属の貪暴なる者を縄す。王三たび使を遣わして請うも、動かされず。宣寧県に人を殺す者有り、蔓衍して数十人を引く。一たび讞して其の情を得、尽く之を釈く。沁州民郭仲玉、人の為に殺さる。有司蒲察山児を以て之に当てんとす。暘其の誣を察し、蹤跡して其の人を殺す者を得。山児遂に死せず。六年、僉淮東廉訪司事に転じ、宣文閣監書博士に改め、経筵訳文官を兼ぬ。

七年、右司都事に遷る。順江酋長楽孫、内附を求めて、宣撫司を立て、及び郡県一十三箇所を置かんことを請う。暘曰く、「古人言有り、鞭長しと雖も馬腹に及ばず、と。郡県果たして設けられ、事有りて救わざれば、則ち来附の意を孤にし、之を救わば、則ち中国を罷めて外夷に事え、所謂虚名を獲て実禍を受くるなり」と。左丞呂思誠と抗弁甚だ力めり。丞相太平笑いて曰く、「歸都事の善く戇なること此の如きは、何ぞ相抗する乃ち爾るや。然れども其の策果たして将に焉くにか出ださん」と。暘曰く、「其の酋長は宣撫を授くべく、其の貢賦を責むる勿れ。使者に金帛を賜い、遣り帰さば足る」と。卒に暘の言に従う。京師寒さに苦しみ、丐有りて丞相の馬前に訴う。丞相皮服を索めて之に予う。仍て官に在る所蔵の皮服の数を覈し、悉く貧民に給す。暘曰く、「宰相は以て広く天下を済すを心とすべし。皮服幾何ぞ有らん、而して之を給せんと欲するや。寒饑する者を録するに若かず、稍々之を賑せよ」と。丞相悟りて止む。雲南の死可伐叛す。詔して元帥述律遵道を以て往きて之を諭さしむ。未幾、平章政事亦都渾を命じて兵を将い之を討たしむ。事久しく功無し。二人上疏紛紜たり。中書述律を罪せんと欲す。暘曰く、「彼の事未だ白からずして、専ら一人を罪すは、豈に法の意ならんや。況んや一は之を諭し一は之を討てば、彼将に何れの適従すべきか。然れども亦た使者の罪に非ざるなり」と。湖広行省左丞沙班卒す。其の子沙的、方に中書掾たり。喪に奔らんことを請う。丞相沙の兄弟有るを以て、許さず。暘曰く、「孝は人子の同情なり。其の兄弟有るを以て其の請を沮ぐは、以て孝を以て天下を治むるに非ざるなり」と。遂に之に従う。広海猺賊寇す。詔して朵児只班をして思播の楊元帥の軍を将いて之を討たしむ。暘曰く、「軍を易え将を将いて教令に諳らざらしむれば、恐らくは勝を決する能わざらん。若し楊を命じて就に其の衆を統せしめば、彼恩命に悦び、必ず能く自ら効わん。所謂夷狄を以て夷狄を攻むるは、中国の利なり」と。帝従わず。後竟に功無し。

八年、左司員外郎に昇進した。中書省は陳暘の意見を用い、河間の余剰塩五万引を削減して民を豊かにした。紙幣が流通せず停滞したため、朝廷の議論で紙幣五百万錠を出して銀と交換し内蔵を充実させようとしたが、暘はまた反対して言った、「富商大賈は、皆その紙幣を私的に交換してしまうので、小民に何の利益があろうか」。六月、参議枢密院事に転じた。当時方国珍がまだ帰順しておらず、詔で江浙行省参知政事の朵児只班を派遣して討伐させたが、全軍が壊滅し、朵児只班は捕らえられた。彼を罪に処そうとしたが、暘は言った、「将軍が敗北した罪は確かにあるが、しかしその配下は皆北方の歩騎兵で、水戦に慣れておらず、これは彼らを死地に追いやったようなものだ。むしろ海辺に住み水利に習熟した民を募ってこれを捕らえるべきである」。その後、国珍が人を遣わして朵児只班に従わせ京師に走らせ降伏を請うたが、暘は言った、「国珍は既に我が王師を破り、また我が王臣を拘束しておきながら、力尽きて来たのであり、真の降伏ではない。必ず討伐して四方に示すべきである」。当時朝廷は姑息な対応をしており、結局その請願に従ったが、後になって果たしてたびたび叛き、暘の言う通りとなった。御史台都事に転じ、まもなくまた参議枢密院事に復し、十二月、枢密院判官に昇進した。

九年正月、河西廉訪使に転じたが、着任せず、礼部尚書に改められた。端本堂が開設され、皇太子が就学するにあたり、暘を召して賛善とした。まもなく、翰林直学士・同修国史に転じ、前職を兼ねた。暘は言った、「師傅は皇太子と東西に向かい合って書を授けるべきであり、その属官も順次列座し、その中の座席を空けて、至尊の臨幸を待つべきである。そうでなければ、師道は立たない」。当時多くの意見が人それぞれで異なったが、結局暘の意見に従った。まもなく病気を理由に辞任しようとした。帝は左司郎中の趙璉を遣わして白金と文綺を賜ったが、受け取らなかった。初め、暘が上都にいた時、脱脱が甘州から戻り、まさに宰相に入ろうとしていた。中書参議の趙期頤と員外郎の李稷が暘の私邸を訪れ、脱脱の命を伝え、詔書の草稿を依頼した。暘は辞退して言った、「丞相は伊尹・周公の事業を行おうとしておられる。宰相就任の詔は、詞臣に草稿を見させるべきであり、今暘に筆を託すのは、恐らく丞相の賢を累わすことになろう」。期頤が言った、「もし帝命でなされたらどうするか」。暘は言った、「事理に順わないなら、固く辞退すべきである」。期頤は屈せられないと知り、やめた。十年正月、四川行省参知政事に転じた。十二年、刑部尚書に任ぜられ、十五年、再び刑部尚書に任ぜられた。三度の転任はいずれも病気を理由に辞退した。

十七年、集賢学士を授けられ、国子祭酒を兼ねた。使者が迫ったので、暘は車に乗って病を抱え京師に至り、南城に臥して起き上がらなかった。当時海内は多難であったので、暘は三つの策を上奏した。第一は紀綱を振るうこと、第二は将材を選ぶこと、第三は形勢を審らかにすることである。数千言にわたって切々と述べたが、当時は老生常談と見なされ、用いられなかった。十一月、集賢学士・資徳大夫の官で致仕し、終身半俸を給されたが、辞退して受け取らなかった。翌年、骸骨を乞い、弘州に僑居し、蔚州に移り、また宣徳に移った。いずれも艱難を避けて兵乱を逃れ、まもなく大同に至り、関陝が小康を得ると、解州の夏県に来て住んだ。皇太子が冀寧に出た時、強いて起用しようとしたが、数か月住んで、また夏県に戻った。二十七年に卒去、六十三歳。

陳祖仁、王遜志

陳祖仁、字は子山、汴の人である。その父の安国は、常州晋陵尹に仕えた。祖仁は学問を好む性質で、早くから南方で師に従い、文名があった。

至正元年、科挙が再び行われ、祖仁は春秋で河南郷貢に合格した。翌年の会試では前列にあり、大廷での対策に及んで、遂に多くの士を抜いて首位となり、進士及第を賜り、翰林修撰・同知制誥を授けられ、国史院編修官を兼ねた。太廟署令・太常博士を歴任し、翰林待制に転じ、出て山東粛政廉訪司事を僉とし、監察御史に抜擢され、また出て山北粛政廉訪司副使となり、召されて翰林直学士に任ぜられ、侍講学士に昇進し、参議中書省事に任ぜられた。

二十年五月、帝が上都の宮闕を修復しようとし、工役が大いに起こされた。祖仁が上疏し、その大意は次のようであった、「昔から人君が、不幸にも艱難多難の時に遇えば、誰しも奮発して有為の志を立て、世に並ぶなき功を成し、以て祖宗の業を光復しようとしない者はいない。もし上は天道に奉ぜず、下は民心に順わず、緩急を誤り、挙措が当たらずしては、たとえこの道をもって盈を保ち成を守るとしても、なお乱を招くことがあり、ましてや乱世を撥してこれを正に反そうとするにあたってはなおさらである。上都の宮闕は、先帝によって創建され、累朝によって修築されたものであるが、兵火を経て以来、焼き尽くされてほとんど残っておらず、言うに忍びない。これは陛下が日夜痛心しておられ、急いで興復を図るべきものである。しかし今、四海は未だ靖まらず、瘡痍は未だ癒えず、倉庫は空虚を告げ、財用は将に尽きようとしている。疲弊した民を駆り立てて大役に供し、その耕作を廃して田畝を荒廃させようとするのは、その喉を扼んで食を奪い、その死を速めるのと何ら異ならない。陛下は祖宗の宮闕を追想し、これを念じておられるが、今日なすべき興復には、これよりも大いなるものがあることを思わない。仮令上都の宮闕が復興されなくとも、陛下の寝処には固より妨げはない。もしこれによって天道に背き、人心を失い、あるいは大業の廃れることを招くならば、天下もまた祖宗の天下であり、生民もまた祖宗の生民である。陛下もまた安んじてこれを軽く棄てられようか。願わくは陛下、生養民力を本とし、天下を恢復することを務めとされ、賞を信じ罰を必ずし、以て英雄を駆策し、正人に親しみ邪佞を遠ざけ、以て治道を図謀されたい。かくしてこそ、承平の観は日ならずして皆復するであろう。豈に上都の宮闕のみに止まらんや」。上疏が奏上されると、帝はこれを嘉して受け入れた。

二十三年十二月、治書侍御史に任ぜられる。時に宦官の資正使朴不花と宣政使槖驩は、内には皇太子を恃み、外には丞相搠思監と結び、驕り恣に法を犯していた。監察御史傅公讓が上章してその過ちを暴くと、皇太子の意に逆らい、吐蕃宣慰司經歷に左遷された。他の御史も連章して諫めたが、皆外任に除された。祖仁は皇太子上疏して言う、「御史が槖驩・不花の姦邪等の事を糾劾したのは、これは御史の私言ではなく、天下の公論である。台臣が審問して特に詳しく知ったので、以て上啓したのである。今殿下が未だ詳察を賜わらず、直ちに沮抑を加え、御史を擯斥し、台臣を詰責し、姦臣が政を蠹す情を、君父に達せしめないのは、これまた過ちである。そもそも天下は祖宗の天下であり、台諫は祖宗の建立したものである。二竪の微なる者を以て、天下の重きこと、台諫の言を、一切顧みないのは、独り祖宗を念わないことにならないか。且つ殿下の職分は、監国撫軍・問安視膳に止まる。この外の予奪賞罰の権は、自ずから君父にある。今まさに春宮に徳を毓するに当たり、諫臣をして舌を結ばしめ、凶人をして志を肆にせしめるのは、豈に君父が徒らに虚器を擁するのみならず、天下の蒼生もまた何を望まんとするか」。疏が上ると、皇太子は怒り、御史大夫老的沙に命じて祖仁を諭させ、「台臣の言う所は是ではあるが、但し槖驩等は皆そのような事実はない。御史の糾言は実を失い、既に美除を与えた。昔、裕宗が皇太子であった時、中書令・枢密使を兼ね、凡そ軍国の重事で奏聞に合うものは、乃ち上聞を許したのであり、独り我が今日のみがこのようであるのではない」と言わせた。祖仁は乃ち再び上疏して言う、「御史の劾した所は、田野の間に得たものであり、殿下の詢ねた所は、宮牆の外に出ず。この二人を全うする所以は、ただその姦を見ないに縁るのみである。昔、唐の徳宗が『人言う、盧杞は姦邪なりと、朕は殊に覚えず』と言った。もし徳宗が早く覚っていたならば、杞どうして相たり得ようか。これは杞の姦邪を、当時は知り、独り徳宗のみ知らなかったのである。今この二人も皆姦邪であり、挙朝知り、在野知り、天下知る。独り殿下のみ知らぬのみである。且つ裕宗は既に軍国重事を領した以上、理として先ずその綱を閲すべきである。若し台諫の封章に至っては、自ずから御前で開拆すべきものである。仮使必ず皆東宮を経由するならば、君父に或いは差失があれば、諫臣に言があれば、太子は之をして聞奏せしめようか、聞奏せしめまいか。之をして聞奏せしめれば、その父の心を傷つけ、聞奏せしめなければ、父を悪に陥れる。殿下は将に何れの処かあらん。もしこの説を知るならば、則ち今日の糾劾の章は、阻むべからず、御史は斥くべからず。その人を斥けてその除を美にするのは、御史の言う所が天下国家のためか、一身の官爵のためか知らない。斥かるる者は去り、来る者は言う。言う者は窮まりなく、美除は限りがある。殿下はまた何れの処かあらん」。祖仁の疏が既に再上されると、即ち職を辞し、御史より下吏卒に至るまで皆閑職を辞した。ここにおいて皇太子はその事を聞こえ、朴不花・槖驩は乃ち皆辞退した。而して天子は老的沙に命じて祖仁等に旨を諭させた。祖仁は復た天子に上書して曰く、「祖宗は天下を以て陛下に伝えられた。今乃ち壊乱して救い難し。天運の然らしむると雖も、亦た陛下の刑賞明らかならざるに由る所である。且つ区々たる二竪さえも除くことができず、況んや大なる者においてをや。願わくは陛下、台諫の言に俯従し、この二人を擯斥し、辞退を名としてその姦計を成さしめず、海内に皆陛下の信賞必罰が二人より始まることを知らしめられよ。然らば則ち将士孰か効力せざらん。天下は全うし得て、以て祖宗の旧に還ることができよう。若し猶ほ優柔断ぜずんば、則ち臣は寧ろ家に餓死せんとも、誓って之と同朝せず、牽連して禍に及び、以て後世の正人に同罪を待たん」。書が奏されると、天子は大いに怒った。而して是の時、侍御史李国鳳も亦た上疏し、この二人は必ず当に斥くべしと言った。ここにおいて台臣は老的沙以下皆左遷され、祖仁は出でて甘粛行省参知政事となる。時に天極めて寒く、衣は甚だ単薄であった。弱女をその友朱毅に託し、即日道に就いた。

明年七月、孛羅帖木兒が中書に入り丞相となる。祖仁を山北道粛政廉訪使に除し、召して国子祭酒に拝し、枢密副使に遷す。累次軍政の利害を上疏して言うも、報いられず、職を辞す。翰林学士に除され、遂に中書参知政事に拝される。是の時、天下の乱已に甚だしく、而して祖仁の性剛直、事に遇うと時宰と論議し数回合わず。乃ちその階を超授して栄禄大夫とし、而して仍って翰林に還って学士と為し、尋いで太常礼儀院使に遷す。

二十七年、大明兵已に山東を取る。而して朝廷方に拡廓帖木兒に不臣の心あるを疑い、専ら撫軍院を立て、兵馬を総べて以て之を備える。祖仁は乃ち翰林学士承旨王時・待制黄哻・編修黄肅と共に、闕に伏して上書して言う、「近頃南軍が全斉を侵陥し、一月を踰えずして畿甸に逼る。朝廷は丞相也速に出師を命じたと雖も、軍馬数少なく、勢力孤危なり。而して中原の諸軍は、左牽右掣し、調度宜しきを失う。京城四面、茫として屏蔽無し。宗社の安危、正に今日に在り。臣愚等、天下の勢を馭するには、当にその軽重強弱・遠近先後を論ずべく、一偏に膠着し故轍に狃うるべからずと以為う。前日は南軍僻在一方に在り、而して拡廓帖木兒は肘腋に近く在り、勢将に国柄を窃持せんとす。故に宜しく先ず致討に於てすべく、則ち南軍は遠くして軽く、拡廓帖木兒は近くして重し。今拡廓帖木兒の勢已に窮蹙し、而して南軍突至す。勢将に宗社に利あらざらんとす。故に宜しく先ず救難に於てすべく、則ち拡廓帖木兒は弱くして軽く、南軍は近くして重し。陛下は寛仁涵育し、皇太子は賢明英断なり。此の時に当たり、宜しくその軽重強弱を審らかにし、弦を改め轍を更むべし。而して撫軍の諸官も亦た公天下を心と為し、時に審らかにして宜しきを制すべし。今拡廓帖木兒の党与離散し、豈に復た振るうことを得ん。若し止だ一軍を分撥して逼襲せしめば、必ず就擒せられん。その余の彼の中に見調の一応の軍馬は、之に倍道東行し、王に勤め難に赴き、也速等と声勢相援せしむべし。仍って重臣を遣わし、分道宣諭催督せしむれば、庶幾く宜しきを得ん。若し復た前説に膠着し、動もすれば言う者を以て拡廓帖木兒の游説と為し、而して天下の口を鉗せば、不幸猝かに意外の変有らば、朝廷も亦た聞くことを得ず、而して天下の事去らん」。書上るも、報いられず。

十二月、祖仁はまた皇太子上書し、言うには、「近ごろ詔を降し、河南の軍馬の権を削ぐ。これは当然のことながら、しかしこの軍馬は、終には南軍の忌むところとなる。もし彼らに悖逆の心があるならば、朝廷が忠臣として扱えば、その心は愧じて沮喪し、何を施すことがあろうか。今まだ見るところがないのに、急にこの名を加える。彼らがもし甘んじてこの名に就くならば、その害は言うべからざるものがある。朝廷がもしうまく用いれば、助けがないわけではあるまい。しかし人皆これを知りながら敢えて言わないのは、誠に財を受け遊説したという罪名で誣えられ、昭雪するすべがないことを恐れるからである。況んや拡廓帖木児が屡々上書し、その心の内を明らかにしていると聞く。これはその心が朝廷を絶っていないのであり、朝廷の悟りを開くのを待っているのである。当今朝廷のために計るものは、戦・守・遷の三事に過ぎない。戦について言えば、その掎角の勢いを資とし、守について言えば、その勤王の師を望み、遷について言えば、その藩衛の力を借りるのである。極力勉励して行わせるにしても、なお遅きに過ぎることを恐れる。どうして数万の師を一方に棄て置くことができようか。この危急の秋に当たり、宗社の存亡は旦夕に在る。不幸にして一日に唐の玄宗の倉卒の出奔のようなことがあれば、これは祖宗百年の宗社を朝廷が委ねて棄てることであり、この時たとえ首を砕き身を殺すとも、何か事に済むことがあろうか。故に今は再び避忌せず、ただ宗社の存亡を重んじ、疏を奉って聞かせる。」疏が上っても、また返答がなかった。

二十八年秋、大明の兵が近郊に迫り、旨があり祖仁及び同僉太常礼儀院事王遜志らに命じて太廟の神主を載せ、皇太子に従って北行させた。祖仁らはそこで奏上して言うには、「天子に大事があって出る時は、主を載せて行くのであり、皇太子に従うのは礼に非ず。」帝はこれを然りとし、太廟を守って命を待たせた。やがて天子が北奔し、祖仁は神主を守り、果たして従わなかった。八月二日、京城が陥落し、健徳門から出ようとして、乱軍に害せられた。時に年五十五。

祖仁は一目が眇で、容貌は醜く、身は短く瘠せていたが、語音は清亮で、議論は偉然としており、気を負って剛直、犯すべからざる者のようであった。その学は博くして精しく、天文・地理・律暦・兵乗・術数・百家の説に至るまで、皆その要を通じていた。文を為すには簡質であり、詩は清麗で、世に多く称え伝えられた。

王遜志は字を文敏といい、王惲の曾孫である。蔭により侍儀司通事舎人に任じられ、歴任して隰州判官・大寧県尹となり、抜擢されて陝西行台監察御史となり、累遷して僉漢中・河西・山北三道粛政廉訪司事となり、入朝して工部員外郎となり、礼部郎中に遷り、監察御史を拝した。詹事不蘭奚・平章宜童を弾劾し、皆逆臣の子孫であるから、遐裔に屏斥すべきであるとした。太府少監を除され、出て江西廉訪副使となり、召されて僉太常礼儀院事となった。

京城が守られず、公卿は争って出降したが、遜志は独り家に居て、衣冠を正して坐していた。その友の中政院判官王翼が来て告げて言うには、「新朝は寛大で、ただ死なないだけでなく、なお官を与える。どうして出て官に詣でて自ら状を言わないのか。」遜志は艴然としてこれを斥けて言うには、「君は既に自ら不忠であるのに、また人を誘って不義を為さしめるのか。」因ってその子に戒めて言うには、「汝は謹んで我が宗を継げ。」即ち自ら井戸に投じて死んだ。

成遵

成遵は字を誼叔といい、南陽穣県の人である。幼くして敏悟で、読書は日に数千百言を記した。十五歳で父を喪った。家は貧しく、勤苦して学問を廃さなかった。二十歳で文章を能くした。時に郡中の先輩で進士の業を治める者はなく、遵はこれを為さんとしたが、程式に合わないことを患えた。一日、憤然として言うには、「四書・五経は我が師である。文は史記しき漢書かんじょ・韓愈・柳宗元に過ぎるものはない。区区たる科挙の作、何か難かろうか。」時に楊恵が初めて登第し、穣の尹として来た。遵はそこで自作数十篇を書いてこれに見せた。恵は巻を撫して大いに喜び、これに語って言うには、「これをもって科第を取るは、芥を拾うが如し。」

至順辛未(至順二年)、京師に至り、夏鎮に春秋の業を受け、遂に成均に入って国子生となった。時に陳旅が助教であり、その文を喜び、屡々奎章閣侍書学士虞集に語った。集は亟にこれを見たがり、旅は己の馬を以て遵に馳せて集に詣らせた。集はちょうど目疾を患っており、遵の来たるを見て、近づいてこれを見て言うには、「先ほど生の文を見、今生の貌を見る。公輔の器である。我は老いた。及んで見ることを恐れる。生は自ら愛重すべし。」元統に改元し、進士第に中り、将仕郎・翰林国史院編修官を授かった。明年、泰定・明宗・文宗三朝実録の編修に預かった。後至元四年、応奉翰林文字に昇った。五年、御史台掾に辟された。

至正に改元し、太常博士に擢られた。明年、中書検校に転じ、尋ねて監察御史を拝した。扈従して上京に至り、封事を上書し、天子は起居を慎み、嗜慾を節して聖躬を保養すべく、聖躬安らかならば宗社安らかであると述べた。言葉は甚だ切迫しており、帝は顔色を改めて善しと称した。また台察の四事を述べた。第一は台臣を差遣して職を越えて事を問うこと、第二は御史を左遷して言路を杜塞すること、第三は御史が尽く言うことを思わず、叙を循って進を求めること、第四は廉訪の声蹟を体覆して実を失い、賢否混淆することである。帝は皆これを嘉納し、台臣に諭して言うには、「遵の言うところは甚だ善し。皆世祖の風紀の旧規である。」特に上尊を賜ってその忠を旌った。遵はまた江浙の火災は賑恤すべきこと、及び火魯忽赤の不法十事を劾すべきことを述べ、皆従われた。また封事を上書し、時務の四事を述べた。第一は祖宗に法る、第二は財用を節す、第三は奔競を抑える、第四は激勧を明らかにする。奏が入ると、帝は久しく善しと称し、中書に命じて速やかに議して行わせた。この年、言事及び挙劾は凡そ七十余事に及び、皆時弊を指弾したので、執政者はこれを憎んだ。三年、刑部員外郎から出て陝西行省員外郎となったが、母の病を以て辞して帰った。五年、母の憂に服した。

八年、僉淮東粛政廉訪司事に擢られ、礼部郎中に改め、山東・淮北に奉使して守令の賢否を察し、循良なる者九人、貪懦なる者二十一人を得て、これを奏上した。九人の者には上尊幣帛を賜い、なお顕擢を加え、その二十一人は悉く罷黜した。

九年、刑部郎中に改め、尋ねて御史台都事に遷った。時に台臣に、贓吏が多く父母の憂を以て免れることを嫉む者がおり、建論して今後官吏は、凡そ案劾されて贓私があれば、たとえ父母が死んでも帰葬を許さず、須らくその獄を竟うべく、これによって悪人の幸免を得させぬようにすべきだと述べた。遵は言うには、「悪人は確かに怒るべきだが、しかし人倫とどちらが重いか。且つ国家は孝をもって天下を治める。寧ろ罪人千百を失うとも、天下に親無き吏あらしむべからず。」御史大夫はその言を是とした。戸部侍郎に昇った。

十年、中書右司郎中に遷る。時に刑部の獄は審理が長く決せられないものが数百件積もり、遵はその同僚と分かれてこれを閲覧し、共にその軽重を議し、各々その罪に相当する処置を施し、間もなく、遺漏する事案は無くなった。時に穀物を輸納して官職を補う令があり、その姦罪を隠して穀物を納め七品の雑流を得た者が、怨家に訴えられた。有司が穀物輸納の事例を議するに、過失があっても与えないという条文は無かったが、遵は言う、「官爵を売ることは、既に盛んな典制ではない。況してまた姦淫の人に官を売るなど、どうして政治を行えようか。必ずその勅書を奪い、その穀物を返還させ、令として明記すべきである」と。省臣はこれに従った。工部尚書を除す。先に、黄河が白茅で決壊し、鄆城・済寧はいずれも大浸水となった。或いは堤防を築いて水勢を抑えるべきと言い、或いは必ず南河の故道を疏浚して水勢を減殺すべきと言い、漕運使賈魯は言う、「必ず南河を疏浚し、北河を塞ぎ、故道に復させるべきである。工役を大いに興さなければ、害は止められない」と。朝廷の議論は決することができなかった。そこで遵に大司農禿魯と共に河を巡視させ、その疏浚・堵塞の方策を議して報告するよう命じた。

十一年春、済寧・曹・濮・汴梁・大名より、数千里を行き、井戸を掘って地形の高低を量り、岸を測って水勢の浅深を究め、史籍を遍く閲覧し、輿論を博く採り、以て河の故道は復し得ないと謂い、その議論八条あり。而して丞相脱脱は、既に先んじて賈魯の言を容れていた。遵と禿魯が至ると、力を尽くして不可を陳べ、且つ言う、「済寧・曹・鄆は、連年饑饉にて民は聊生するに足らず、若し二十万人をこの地に聚めば、恐らく後日の憂いは、河患より重きもの有らん」と。脱脱は怒って言う、「汝は民が反するというのか」と。辰の刻より酉の刻まで、弁論終に聞き入れられず。明日、執政の者が遵に謂う、「河川修築の役は、丞相の意既に定まり、且つその責を任ずる者あり。公は多く言うことなかれ。幸いに両可の議を為せ」と。遵は言う、「腕は断たれようとも、議は易えられない」と。ここにより遂に外任として大都河間等処都転運塩使と為る。初め、汝・汴の二郡には富商多く、運司はこれを頼みとしていた。この時、汝寧に盗賊起こり、汴の境を侵す。朝廷兵を調発して討ち往き、船を徴発して糧を運ぶ。この故に舟楫通ぜず、商販遂に絶える。遵は事に随い宜しきを処し、国家の課税は皆集まった。

十四年、武昌路総管に転ず。武昌は十二年より沔の寇賊に残燬され、兵乱と疫病により死んだ民は十の六七に及び、而して大江の上下は、皆劇賊が阻絶し、米価は高騰し、民心は慌ただしかった。遵は省臣に言上し、軍儲の鈔一万錠を借り受け、勇敢の士を募り、戈船を具え、兵境を遮断し、且つ戦い且つ行き、太平・中興にて穀物を買い入れ、民これにより全活する者多く。時に省臣が出師するに会い、遵は省事を摂行す。ここにおいて省中府中、惟だ遵一人のみ。乃ち斥候を遠くに置き、城門を塞ぎ、民を籍して兵と為し、五千余人を得、万夫長四名を設け、四門に配して守らせ、以て防御の備えを極めて周到にし、号令厳粛、賞罰明当たり。賊船は江中に往来するも、終に岸に近づくことを敢えず、城はこれにより安泰なり。

十五年、江南行台治書侍御史に抜擢され、召されて参議中書省事に拝される。時に河南の賊は、数度黄河を渡って北に至り、郡県を焚掠するも、上下これを見て常事の如し。遵は左右司の僚佐を率い、その文書を持って丞相に詣り言う、「今天下の州県、喪乱過半す。河北の民が稍々安んずるは、天塹たる黄河を以て障壁と為し、賊兵至るも飛んで渡ること能わず、以て膚を剥ぎ髄を椎って軍儲を供するも深怨無きは、河南の民を見て猶その室家を保つを得るを故とす。今賊北に河を渡るに官軍禦げず、是れ大河の険已に守ること能わざるなり。河北の民また何を恃まんや。河北の民心一たび揺らげば、国勢将に之を如何せん」と。語未だ畢らざるに、哽咽して言うこと能わず、宰相以下皆これが為に涕を揮う。乃ち以て奏上す。帝詔して即ち使を遣わして河を守る将帥を罪し、而して守禦は是より亦頗る厳し。

先に、湖広の倪賊が、威順王の子を人質とし、人を遣わして降伏を請い、湖広行省平章となることを求む。朝臣の許さんとする者半ば。遵は言う、「平章の職は、宰相に次ぐものなり。承平の時は、徳望ある漢人といえども抑えて与えず。今叛逆の賊が、勢いを挟んで要求し、軽々しくこれを与うれば、綱紀を如何にせん」と。或いは言う、「王子は世皇の嫡孫なり。許さざれば、是れこれを賊に棄つるなり。親親の道に非ず」と。遵は言う、「項羽こうう太公たいこうを執り、烹らんとして以て高祖こうそを挟まんとす。高祖乃ち分羹を以てこれに答う。奈何ぞ今王子の故を以て、天下の大計を廃せんや」と。衆皆その論を是とす。治書侍御史を除し、俄に復た中書に入り参知政事と為る。省を離るること僅か六日、丞相は毎に大議を決するに則ち曰く「姑く少しくこれを緩めよ」と。衆その意を曉らざりしが、遵が執政に拝されるに及び、喜んで曰く「大政事今決すべし」と。

十七年、中書左丞に昇り、階は資善大夫、分省して彰德に在る。是の時、太平が相位に在り、事にて皇太子に忤い、皇太子深くこれを銜み、これを去らんと欲するも未だ発する所無し。遵及び参知政事趙中は、皆太平の党なりと為し、遵・中の両人去らば則ち太平の党孤しと以為う。十九年、用事の者風旨を承望し、宝坻県尹鄧守禮の弟鄧子初等を嗾け、遵と参政趙中・参議蕭庸等六人皆贓を受けしと誣う。皇太子は御史台・大宗正府等の官に命じて雑問せしめ、鍛錬して獄を成さしめ、遵等竟に皆杖死す。中外これを冤とす。二十四年、御史台の臣、遵等皆誣枉なりと弁明す。詔して復たその授かりし宣敕を給還す。

曹鑑

曹鑑、字は克明、宛平の人。穎悟人に過ぎ、挙止常児に異なり、既に冠すと、南に遊学し、具に五経の大義を通ず。

大徳五年、翰林侍講学士郝彬の薦めにより、鎮江淮海書院山長と為る。十一年、南行台中丞廉恒、掾史に辟く。内艱に遭い、復た起き、掾史を補し、興文署を除す。命を受けて安南の使者を伴送し、沿途問難倡和すれども、応答響くが如し。使者歎服し、以て中国に人ありと為す。

至治二年、江浙行省左右司員外郎を授かる。明年、旨を奉じて釈氏白雲宗の田を括り、稽検方有り、数ヶ月ならずして事集まり、纖豪も擾わさず。泰定七年、湖広行省左右司員外郎に遷る。時に丞相忽剌歹、勢いを怙り恣に縱し、妄りに威福を為す。僚属多く畏避すれども、鑑は事に遇いて理に徇い、輒ち行い、独り回撓せられず。湖北廉訪司、鑑の風紀に居るに宜しきを挙ぐるも、報いず。

天暦元年、江浙財賦府副総管に転ず。淮・浙の大水に属し、民災を以て告ぐ。鑑その賦を什六七損じ、勢家に因りて詭免する者あれば、鑑は実を覈し、諭して首輸せしむ。元統二年、同僉太常礼儀院に陞る。鑑は典故に習熟し、今古に通達し、凡そ礼楽・度数・名物、周知せざる無し。明宗皇后の祔廟の事を集議するに因り、礼を援き経に拠り、弁析詳明、君子多くこれを称す。至元元年、中大夫を以て礼部尚書に陞り、俄に疾を感じて卒す。年六十五。追封して譙郡侯と為し、諡して文穆と曰う。

鑑は天性純孝にして、親族の貧乏なる者は、周卹して後れるを恐れた。官を歴ること三十餘年、屋を僦いて居る。歿するの日、家に餘貲無く、唯だ書数千巻を蓄ふるのみ、皆鑑の手に較定せるものなり。鑑は詩賦を作るに、騒・雅を尚び、文を作るに西漢に法り、篇成る毎に、学者争ひて相傳誦す。文集若干巻有りて家に藏す。

鑑が湖廣員外に任ぜられた時、故掾の顧淵伯有りて、辰砂一包を以て鑑に餽る。鑑は漫爾として篋笥の中に置く。半載の後、薬剤を合せんと欲するに因り、命じて取らしめて之を視るに、乃ち黄金三兩其の中に雑る有り。鑑驚歎して曰く、「淵伯我を以て何如なる人と為すや!」淵伯は既に歿す。鑑其の子を呼びて之を帰す。其の廉慎にして欺かざる、此の如し。

張翥

張翥、字は仲舉、晉寧の人。其の父は吏と為り、江南に従征し、饒州安仁県の典史に調ぜられ、又杭州鈔庫の副使と為る。

翥は少時、其の才雋を負ひ、豪放不羈にして、蹴踘を好み、音楽を喜び、家業を以て其の意に屑せず、其の父以て憂ふと為す。翥一旦に翻然として改めて曰く、「大人憂ふること勿れ、今請ふ業を易へん」と。乃ち客に謝し、門を閉ぢて書を読み、晝夜暫くも輟まず、因りて李存先生に業を受く。存は安仁に家し、江東の大儒なり、其の學は陸九淵氏に傳はり、翥之に從ひて游び、道德性命の説、多く研究す。未だ幾ばくもあらず、杭に留まり、又仇遠先生に從ひて學ぶ。遠は詩に於て最も高く、翥之を學び、盡く其の音律の奥を得、是に於て翥遂に詩文を以て一時に知名と為る。已にして薄く維揚に游び、久しく居るに、学者門に及ぶこと甚だ衆し。

至元の末、同郡の傅巖起居中書に在り、翥の隱逸を薦む。至正の初、召されて國子助教と為り、上都の生を分教す。尋いで淮東に退居す。會ふ朝廷遼・金・宋の三史を修するに、起されて翰林國史院の編修官と為る。史成りて、應奉・修撰を歴へ、太常博士に遷り、禮儀院の判官に陞り、又翰林に遷り、直學士・侍講學士を歴へ、乃ち侍讀を以て祭酒を兼ぬ。翥は後進を誘掖するに勤めて、崖岸を絕ち去り、徒らに師道を以て自ら尊ばず、用ひて是に学者親炙するを樂しむ。經義を以て請問する者有れば、必ず衆説を歷舉し、之が爲に折衷し、論辯の際、談笑を雜へ、其の得る所に厭ふること無くして後已む。

嘗て旨を奉じて中書に詣り、時政を集議す。衆論蜂起すれども、翥獨り默然たり。丞相搠思監曰く、「張先生は平日事を論ずるを好む、今一語も出さざるは何ぞや」と。翥對へて曰く、「諸人の議、皆是なり。但だ事勢に緩急有り、施行に先後有り、丞相の決する所に在るのみ」と。搠思監之を善しとす。明日、集賢學士を除き、俄に翰林學士承旨を以て致仕し、階は榮祿大夫。

孛羅帖木兒の京師に入るや、翥に命じて詔を草せしめ、擴廓帖木兒の官爵を削奪し、且つ兵を發して之を討たしむ。翥は毅然として從はず。左右或ひは之を勸む。翥曰く、「吾が臂は斷つべしと雖も、筆は操ること能はざるなり」と。天子其の意奪ふべからざるを知り、乃ち他の學士をして之が爲を爲さしむ。孛羅帖木兒と雖も之を知るも、亦以て怨みと爲さず。孛羅帖木兒既に誅せらるるに及び、詔して乃ち翥を河南行省平章政事と爲し、仍り翰林學士承旨を以て致仕し、全俸を給して其の身を終はしむ。二十八年三月卒す。年八十二。

翥は詩に長け、其の近體・長短句は特に工なり。文は詩に如かずと雖も、而も每に文を以て自ら負ふ。常に人に語りて曰く、「吾は文に於て已に化す、蓋し吾未だ嘗て構思せず、特だ意に任せて筆を屬するのみ」と。它日、翰林學士沙剌班其の爲す所の文を示して、數字を易置せんことを請ふ。苦思すること移時、終に就かず。沙剌班曰く、「先生文に於て、豈に猶ほ未だ化せざるや、何ぞ思ふことの苦きや」と。翥因りて相視して大笑す。蓋し翥は平日諧謔を善くし、談吐の語を出だせば、輒ち人をして失笑せしめ、一座盡く傾く。其の室に入れば、藹然として春風の中に在り。爲す所の詩文甚だ多し。丈夫子無し。及び死し、國遂に亡ぶ。以て故に其の遺藳傳はらず。其の傳はるる者は、律詩・樂府有りて、僅かに三卷。翥嘗て兵興以来節に死し事に死するの人を集めて書と爲し、忠義錄と曰ふ。識者之を韙とす。