元史

列傳第六十二:張珪 李孟 張養浩 敬儼

張珪

張珪、字は公端、弘範の子なり。幼にして強弓を引き命中せしむる能く、嘗て其の父に従ひて林中に出づ、虎有り、珪矢を抽ひて直ちに前に進み、虎人立し、其の喉を洞く、一軍盡く讙ぶ。至元十六年、弘範廣海を平らげ、宋の禮部侍郎鄧光薦水に赴きて死せんとす、弘範救ひて之を禮し、珪に命じて學ばしむ。光薦嘗て一編の書を遺す、目して相業と曰ひ、珪に語りて曰く「此を熟讀せよ、後必ず其の用に頼らん」と。師還り、道江淮に出づ、珪年十六、管軍萬戶を攝る。

十七年、真に拜して昭勇大將軍・管軍萬戶と為り、其の父の虎符を佩き、統ぶる所の軍を治め、建康に鎮す。未幾、弘範卒す、喪畢りて、世祖召見し、親しく之を撫す。奏して曰く「臣年幼く、軍事重し、聶禎なる者は、臣が父・祖に從ひ、久しく行陣を歷たり、幸ひに以て臣を副へしめよ」と。帝嘆じて曰く「老成を求めて自ら副ふ、常兒此を出だすを知らざるなり」と。厚く賜ひて之を遣し、徧く其の從者に及ぶ。十九年、太平・宣・徽の羣盜起こる、行省檄を飛ばして珪に之を討たしむ、士卒數たび賊に敗る、卒に民家の豕を殺し併せて其の主を傷つくる者有り、珪曰く「此れ軍の敗るる所以なり」と。其の卒を斬り、悉く諸盜を平らぐ。

二十九年、朝に入る。時に朝廷の言者謂ふ、天下事定まり、行樞密院は罷むべしと;江浙行省參知政事張瑄、海道を領す、亦た以て言ふ。樞密副使暗伯、珪に問ふ、珪曰く「上に見えて自ら之を言はん」と。召對す、珪曰く「縱令行院罷むべしとすとも、亦た瑄の言ふ所に宜しからず」と。遂に罷まざるを得しむ。命じて樞密副使と為す。太傅月兒魯那演言ふ「珪尚ほ少し、姑く僉書を以て試み、果して大用に可ならば、請ふ他日を俟たん」と。帝曰く「然らず、是の家國の爲に金を滅ぼし、宋を滅ぼし、死力を盡くすこと三世なり、而して此を吝しむべけんや」と。拜して鎮國上將軍・江淮行樞密副使と為す。

成宗即位し、行院罷む。大德三年、使を遣わして天下を巡行せしむ、珪川・陝に使し、民の疾苦を問ひ、孤貧を賑卹し、冗官を罷め、貪吏を黜く。還りて、擢て江南行御史臺侍御史と為し、文階中奉大夫に換へ、浙西肅政廉訪使に遷る。郡長吏以下三十餘人・府史胥徒數百を劾罷し、贓を徵すること巨萬計なり。珪鹽司の奸利の事を得、將に之を發せんとす、事行省に干し、內に自ら安からざる者有り、危法を以て珪を中らんと欲し、近臣に賂遺し、妄りに珪に厭勝の事有りと言ひ、且つ鹽法を沮むとす。帝官を遣わして雜治せしむ、行省の大小の吏及び鹽官の欺罔の狀を得、皆伏罪す。珪を召して拜して僉樞密院事と為し、入見し、只孫冠服を賜ひて宴に侍せしめ、又命じて宅を買ひて賜はんとす、辭して受けず。拜して江南行臺御史中丞と為し、因りて疏を上し、極めて天人の際・災異の故を言ふ、其の目に德行を修め、言路を廣くし、君子を進め、小人を退け、賞を信じ罰を必にし、冗官を減じ、浮費を節し、以て祖宗の成憲に法る有り、數百言を累ぬ。大官の不法なる者を劾す、報へず;併せて近侍の熒惑する者に及ぶ、又報へず。遂に病を謝して歸る。久しうして、拜して陝西行臺中丞と為す、赴かず。

武宗即位し、召して拜して太子諭德と為す。數日ならずして、拜して賓客と為し、復た拜して詹事と為す、辭して就かず。尚書省立ち、中外洶洶たり、中丞久しく闕け、方に人を擇ばんと議す、仁宗時に東宮に在りて曰く「必ずや真の中丞を得んと欲せば、惟だ張珪のみ可なり」と。即日召して拜して中丞と為す。至大四年、帝崩じ、仁宗將に即位せんとす、廷臣(太皇)〔皇太〕后の旨を用ひ、大禮を隆福宮に行ふ、法駕已に陳ぶ、珪言ふ「當に大明殿に御すべし」と。御史大夫之を止めて曰く「議已に定まれり、百たび奏すと雖も益無し」と。珪曰く「未だ一たびも奏せず、豈に益無きを知らんや」と。入奏す、帝悟り、仗を大明に移す。既に即位し、只孫衣二十襲・金帶一を賜ふ。帝嘗て親しく衣を解きて珪に賜ひ、明日復た召し、之に謂ひて曰く「朕卿に寶玉を賜はんと欲す、卿の欲する所に非ず」と。帨を以て面額を拭ひ、諸を珪の懷に納れて曰く「朕が澤の存する所、朕が心の存する所なり」と。

皇慶元年、拜して榮祿大夫・樞密副使と為す。徽政院使失列門請ふ、洪城軍を興聖宮に隷せしめ、而して己れ之を領せんと、上旨を以て文を樞密院に移す、眾恐懼して命を承く、珪固より署せず、事遂に行はれず。延祐二年、拜して中書平章政事と為し、煩冗を減じて還して有司にし、以て政務を清くし、宰相の職を修むるに專らならしむるを請ふ、帝之に從ひ、令と為して著す。教坊使曹咬住拜して禮部尚書と為す、珪曰く「伶人宗伯と為り、何を以て後世に示さん」と。力諫して之を正す。皇太后中書右丞相鐵木迭兒を以て太師と為し、萬戶別薛を行省政事に參知せしむ、珪曰く「太師道を論じ邦を經る、鐵木迭兒其の人に非ず、別薛功無く、外執政と為るを得ず」と。車駕居庸を度る、失列門皇太后の旨を傳へ、珪を召して切責し、之を杖つ、珪創甚だしく、輿にて京師に歸り、明日遂に國門を出づ。珪の子景元符璽を掌る、一日も宿衛を去るを得ず、是に至り、父の病篤きを以て告げ、遽かに歸る。帝驚きて曰く「(卿)〔鄉〕別るる時、卿が父病無かりき」と。景元頓首涕泣し、敢へて言はず。帝懌はず、參議中書省事換住を遣はし、往きて之に酒を賜はしめ、遂に拜して大司徒しとと為し、病を謝して家居す。繼ひて母憂に丁り、墓に廬し苫に寢て粥を啜ること三年。六年七月、帝珪の生日を憶ひ、上尊・御衣を賜ふ。

至治二年、英宗易水の上に召見して曰く「四世の舊臣、朕將に卿に政を畀へんとす」と。珪辭して歸らんとす、近臣を遣はして醴を設けしむ。丞相拜住珪に問ひて曰く「宰相の體何をか先とす」と。珪曰く「君心を格するより先なるは莫く、言路を廣くするより急なるは莫し」と。是の年冬、珪を起して集賢大學士と為す。是に先立ち、鐵木迭兒既に復た丞相と爲り、私怨を以て平章蕭拜住・御史中丞楊朵兒只・上都留守賀伯顏を殺し、大小の臣、自ら保つ能はず。會ひ地震風烈有り、敕して廷臣に集議して災を弭ぐの道をせしむ、珪坐に抗言して曰く「災を弭ぐは、當に其の災を致す所以を究むべし。漢孝婦を殺し、三年雨降らず;蕭・楊・賀寃死す、災沴を致すの端に非ずや!死者固より復た生くる可からずと雖も、而して情義猶ほ昭白す可く、朝廷をして終に之を失はしむる毋かれ」と。又た拜して中書平章政事と爲り、萬壽山に宴に侍し、玉帶を以て賜ふ。

三年(泰定三年)秋八月、御史大夫鉄失が既にしいしいぎゃくを行い、夜に都門に入り、中書堂に坐して、詔を偽り符印を奪い執った。張珪は密かに上疏して言う、「賊党の罪は免れがたい」と。既に皆誅殺されたが、鉄木迭児の子で治書侍御史の鎖南のみ、遠流に処することを議した。張珪は言う、「法によれば、強盗は首謀・従犯を分たず、墳墓を発き死体を傷つける者も死罪である。鎖南は弑逆に従い、自ら丞相拜住の腕を斬った。それで彼を生かそうとするのか」と。遂に誅殺された。仁宗廟の神主を盗んだ時、参知政事馬剌が太常礼儀使を兼ねており、左丞に遷るべきところであった。張珪は言う、「参政から左丞に遷るのは、姑く叙進と言う。しかし太常として宗廟の神主を謹んで奉じず、罪を待つべきであるのに、反って官を遷すのは、何をもって在天の霊に謝すべきか」と。命令は遂に下されなかった。

泰定元年六月、車駕は上都にあった。先に、帝は災異により、百官に集議を詔した。張珪は枢密院・御史台・翰林院・集賢院の官と共に、当世の得失を極論し、左右司員外郎宋文瓚と共に上都に赴いて上奏した。その議は次の通りである。

国家の安危は、宰相を論ずるに在り。昔、唐の玄宗は、前に姚崇・宋璟を用いれば治まり、後に李林甫・楊国忠を用いれば天下騒動し、殆ど亡国に至った。郭子儀ら諸将が忠を尽くし旧物を克復したとはいえ、然れども此より藩鎮縦横となり、紀綱も再び振るわなかった。まことに李林甫が忠良を妬み害し、邪党を布置し、奸を以て蒙蔽し、禄を保ち禍を養ったことに由る。死してなお余辜有り。前宰相鉄木迭児の如きは、奸狡険深にして陰謀叢出し、十年にわたり専政した。宗戚で己に忤う者は、巧みに危間を飾り、陰に法を以て中て、忠直なる者が誅殺・流竄された者は甚だ多し。初め贓罪で敗れ、権奸失列門及び嬖幸也里失班の徒に諂附し、苟くも其の生を全うし、尋で太子太師に任ぜられた。未だ幾ばくもせず、仁宗崩御し、時乗じて幸変し、再び中書に入る。英宗の初め、失列門らと恩義を相許し、表裏姦を為し、蕭・楊らを誣殺して私怨を快くした。天が元凶を討ち、失列門の党が既に誅せられると、上功に坐して遂に信任を得、諸子は内に宿衛を布き、外に顕要を占め、上を蔽い下を抑え、言路を杜絶し、官を売り獄を鬻ぎ、威福己より出で、一令口より発すれば上下股栗し、稍々己に附せざれば其の禍直ちに至り、権勢日々熾んにして中外寒心す。是より群邪並び進み、逆賊鉄失の徒の如きは、名は義子と為すも、実に其の腹心たり、忠良は跡を屏き、坐して収繫を待つ。先帝其の奸悪を悟り、碑を仆し爵を奪い、其の家を籍没したが、終に遺患を以て弑逆を構成す。其の子鎖南は親しく逆謀に与し、其の由来する所漸し。棺を剖き尸を戮し、其の家を夷滅すとも、猶ほ以て責を塞ぐに足らず。今また所籍の家産を回給し、諸子尚ほ京師に在り、縁故を以て再び宿衛に入る。世祖の時、阿合馬貪残事を敗るも、死して猶ほ其の罪を正す。況んや鉄木迭児の奸悪の如き者においてをや。臣等議ずるに、宜しく成憲に遵い、仍ほ鉄木迭児の家産を籍没し、其の子孫を遠く外郡に竄して、大奸を懲らしむべし。

君父の讐は、天を戴かず、是れ以て綱常を明らかにし、上下を別つ所以なり。鉄失の党は、謀を結び殺逆し、宰相害せられ、天下の人、痛心疾首し、聞くに忍びざる所なり。比来旨を奉ずるに、「鉄失の徒既に其の辜に伏し、諸王按梯不花・孛羅・月魯鉄木児・曲呂不花・兀魯思不花も亦已に流竄せり。逆党脅従の者衆し、何ぞ尽く誅すべけん。後に事を言う者は、其れ復た挙ぐる勿れ」と。臣等議ずるに、古法、弑逆は、官に在る者は凡そ赦さず。聖朝の立法、強盗庶民を劫殺するは、其の同情の者猶ほ首従倶に罪す。況んや弑逆の党は、天地容れず。宜しく按梯不花の徒を誅して、天下に謝すべし。

書に曰く、惟れ辟のみ福を作し、惟れ辟のみ威を作す。臣に福を作し威を作す有ること無し。臣にして福を作し威を作す有らば、而が家に害し、而が国に凶なり、と。蓋し生殺与奪は、天子の権にして、臣下の盗み用うる所得る所に非ざるなり。遼王脱脱は、位宗室に冠し、遼東に鎮して居り、属任軽からず。国家不幸、非常の変有り、賊を討たずして乃ち赦恩を覬幸し、讐忿を報復し、親王の妃主百余人を殺し、其の羊馬畜産を分ち、骨肉を残忍し、主権を盗竊す。聞く者歯を切る。今之を罪せず、乃ち復た厚賜を加え放還し、仍ほ爵土を守らしむ。臣恐らくは国の紀綱、此に由りて振わず。設い或いは之に倣わば、何の法を以て治めん。且つ遼東地広く、素より重鎮と号す。若し脱脱をして久しく居らしめば、彼既に縦肆にして、将に忌憚無からん。況んや死者に冤を含ませ、和気を感傷せしむるをや。臣等議ずるに、累朝の典憲、赦を聞きて人を殺すは、罪原すべからず。宜しく其の爵土を奪削し、他の所に置きて、天威を彰らかにすべし。

刑は以て悪を懲らしむ。国に常憲有り。武備卿即烈、前太尉不花は、累朝待遇の隆なるを以て、倶に高列に致るも、補報を思わず、専ら姦欺に務め、旨を奉ずると詐称し、鷹師をして鄭国宝の妻古哈を強収せしめ、其の家人畜産を貪り、権貴を恃みて、何ぞか為す莫し。事官に聞こえ、刑曹逮えて鞫し実を服すも、竟に其の罪を原す。輦轂の下、肆に行い忌憚無し。遠く外郡に在りては、何事か為さざらん。夫れ京師は天下の本、悪を縦すこと此の如く、何を以て政を為さん。古人言有り、一婦冤を銜めば三年雨降らず、と。此を以て論ずれば、即ち細務に非ず。臣等議ずるに、宜しく即烈・不花を刑曹に付して之を鞫すべし。

中売宝物は、世祖の時は其の事を聞かず、成宗以来より始めて此の弊有り。珠を分け石を寸するも、価値数万を售り、当時民憤怨を懐き、台察交えて言う。且つ酬うる所の鈔は、率ね皆天下生民の膏血、錙銖之を取るも、従いて捶撻を以てす。何ぞ其れ之を用いるに吝からざるや。経国有用の宝を以て、此の飢寒を済えざる物と易え、又た有司聘和買に非ざるは、大抵皆時貴と斡脱中宝の人、呈献と妄称し、回賜を冒給し、其の価値を高めて且つ十倍し、国財を蚕蠹し、暗に行い分用す。沙不丁の徒の如きは、頃に増価中宝の事敗れ、具に吏牘に存す。陛下即位の初め、首に其の弊を知り、下令禁止し、天下欣幸す。臣等比聞く、中書乃ち復た累朝未酬の宝価四十余万錠を奏給すと。其の元の価値を較ぶれば、利已に数倍す。事経年遠なる者三十余万錠有り、復た市舶番貨を以て給せしむ。計るに今天下の徴する包銀差発、歳入止むところ十一万錠、已に四年徴入の数なり。比来経費足らず、科徴に急なり。臣等議ずるに、番舶の貨は宜しく以て国用を資し民力を紡ぐべし。宝価は請う、国用饒給の日の議を俟つべし。

太廟の神主は、祖宗の霊を妥する所なり。国家孝を以て天下を治め、四時の大祀、誠に重典と為す。比者仁宗皇帝・皇后の神主、其の金を利して窃み之、今に至るまで未だ獲ず。斯れ乃ち非常の事なり。然るに捕盗官兵、杖責を聞かず。臣等議ずるに、庶民盗を失えば、応捕官兵尚ほ三限の法有り。監臨主守、倘ひ官物を失えば、亦た行わず知覚せざるの罪有り。今神主を失うは、宜しく太常を罪すべし。請う、其の官属を揀びて之を免せしむべし。

国家の経常の租税は、すべて民より出で、収入を量りて支出を為すは、有司の事なり。近ごろ西山寺を建つるに、軍を損じ民を害し、費やすところ億万を以て計る。刺繍の経幡、江浙に馳驛し、郡県を逼迫し、男女を雑役し、動もすれば年歳を経、窮奢にして怨みを致す。近詔にて既にこれを罷むと雖も、又聞く、姦人の間を乗じて奏請し、復た興修せんと欲し、流言喧しく播き、群情驚駭す。臣等議ずるに、宜しく前詔を守り、民に信有るを示すべし。その創造・刺繍の事、歳用の常ならざる者は、悉くこれを罷むべし。

人に冤抑有れば、必ず当に昭雪すべく、事に枉直有れば、尤も宜しく明辨すべし。平章政事蕭拜住・中丞楊朵児只等、枉くも鉄木迭児の誣陷に遭い、その家を籍没し、以て人に分賜す。聞く者嗟悼す。近ごろ明詔を奉じて、元の業を還し給い、子孫家廟を奉祀し、修葺苟くも完うするも、未だ寧処に及ばず、復たその家財を以て旧人に仍て賜い、直を以て酬うるに止まり、即ち再び断没に罹るに異ならず。臣等議ずるに、宜しく前詔の如く、元の業を以てこれを還すべし。その直を量りて後賜する者に酬い、則ち人冤憤無からん。

徳は以て治を出だし、刑は以て姦を防ぐ。若し刑罰立たずんば、奸宄滋長し、智者有ると雖も、禁止すること能わず。近ごろ也先鉄木児の徒、朱太醫の妻女に遇うこと故省門外、強いて拽きて入り、姦宿館所す。事聞こえ、有司上都に扈従するを以て解と為し、竟に就鞫せず。輦轂の下、悪を肆にして忌憚無く、京民憤駭す、何を以て四方に則を取らんや。臣等議ずるに、宜しく世祖の成憲に遵い、姦人を以て命じ有司に鞫わしむべし。臣等又議ずるに、天下囚繫、冤滞無からず、方今盛夏なるを、宜しく省臺に命じ官を選び審録せしめ、重刑を結正し、軽繫を疏決し、疑わしき者は申し聞かせ詳讞せしむべし。辺鎮の利病は、宜しく行省・行臺に命じ体究興除せしめ、広海鎮戍の卒更に病む者には、粥食薬を給し、力死する者には、人ごとに鈔二十五貫を給し、責むる所の司及び同郷の者に、その家に骨を帰せしむべし。

歳貢の方物には常制有り。広州東筦県大步海及び惠州珠池は、始め大徳元年より、姦民劉進・程連利を言い、蜑戸七百余家を分ち、官之に糧を給し、三年一採す。僅かに小珠五両六両を獲るのみ、水に入りて虫魚に傷死する者衆く、遂に珠戸を罷めて民と為す。その後、同知広州路事塔塔児等、又た失列門に利を献じ、提挙司を創設し監採せしむ。廉訪司その民を擾すを言い、復た罷めて有司に帰す。既にして内正少卿魏暗都剌、冒して中旨を啓し、馳驛して督採し、廩食を耗し、民驛を疲せしむ。旧制に非ず、請う、悉く罷め遣わして民に帰すべし。

善良なる者非命に死すれば、国法当に昭雪すべし。鉄失の弑逆の変に、学士不花・指揮不顔忽里・院使禿古思、皆無罪にて死す、未だ褒贈せず。鉄木迭児専権の際、御史徐元素言事を以て項を鎖さられ東平に死し、及び賈禿堅不花の属、皆未だ申理せず。臣等議ずるに、宜しく死者を追贈し、その子孫を優敍し、且つ刑部及び監察御史に命じ、その余に冤抑有る者を体勘し、実を具して以て聞かしむべし。

政多門より出ずるは、古人の戒むる所なり。今内外官署を増置し、員冗にして俸濫り、白丁驟に出身を陞し、入流壅塞日甚だし、軍民倶にその害を蒙る。夫れ治を為すの要は、民を安んずるに先んずる莫く、民を安んずるの道は、濫費を除き冗員を汰つに急なる莫し。世祖官を設け職を分ち、倶に定制有り。至元三十年已後、改陞創設し、日積月増す。嘗て旨を奉じて取勘減降すと雖も、近侍各その署を私し、夤縁して禄を保ち、姑息して中止す。英宗の時に至り、始めて鋭然として崇祥・寿福院の属十有三署を減罷し、徽政院断事官・江淮財賦の属六十余署を減罷す。不幸大故に遭罹し、その余を竟えず。近ごろ詔を奉ず、凡そ事悉く世祖の成憲に遵う。若し復た常に循い取勘し、虚文を調え、歳月を延ばば、必ず実効無く、即ち詔旨に異なり。臣等議ずるに、宜しく中外軍民に勅し、官吏を署置するに、世祖の制に非ざる、及び至元三十年已後に改陞創設し員冗なる者有らば、詔格の至る日に、悉く減併除罷すべし。近侍巧みなる詞を以て復奏するを得ず、常調に該らざるの人も亦た濫りに常選に入るべからず。累朝の斡耳朵の立てる長秋・承徽・長寧寺及び辺鎮の屯戍は、別にこれを処議すべし。

古より聖君、惟だ治政に誠なるを以て、天地を動かし鬼神を感ずることを得、初め嘗て僧道に福を徼して、以て民を厲し国を病ますこと無し。且つ至元三十年を以てこれを言えば、醮祠仏事の目、止むるところ百有二。大徳七年、再び功徳使司を立て、積むところ五百有余。今年その目を一増し、明年即ち例と指し、已に四倍の上に倍す。僧徒又復た近侍に営幹し、仏事を作り買い、算卦を指し、欺昧して奏請し、布施莽斎を増修し、自ら特奉・伝奉と称す。所司敢えて較問せず、供給後るるを恐る。況んや仏は清浄を本とし、奔らず欲せず。而るに僧徒貨利を貪慕し、自らその教に違う。一事の需むる所、金銀鈔幣数うる可からず、歳に用うる所の鈔数千万錠、至元の間より数倍す。凡そ供する物、悉く己が有と為し、布施等の鈔、復たその外に出ず。生民の脂膏、その欲する所に縦し、取りて自ら利し、妻子を畜養す。彼既に行い修潔せず、適足して天神を褻慢す、何を以て福を要せんや。比年仏事愈繁く、累朝享国永からず、災を致すこと愈速く、事応験無し、断じて知る可し。臣等議ずるに、宜しく功徳使司を罷むべし。その至元三十年以前及び累朝忌日の醮祠仏事名目に在るは、止むるところ宣政院に令し主領修挙せしめ、余は悉く減罷すべし。近侍の属、並びに巧計を以て擅に奏し、妄りに名目を増すことを得ず。若し特奉・伝奉有らば、中書より復奏して乃ち行うべし。

古今帝王の治国理財の要は、用を節するに先んずる莫し。蓋し侈用すれば則ち財を傷つけ、財を傷つくれば必ず民を害するに至る。国用匱しくして重斂生ず、塩課の価を増すの類の如きは、皆以て民を厲するに足る。比年游惰の徒、妄りに宿衛部属及び宦者・女紅・太醫・陰陽の属に投ずること、勝えず数う可からず。一人収籍すれば、一門蠲復し、一歳に請う所の衣馬芻糧、数十戸の徴入する所も以てこれを給するに足らず、国を耗し民を損すること甚だし。臣等議ずるに、諸の宿衛宦女の属は、宜しく世祖の時の支請の数に如くこれを給し、余は悉く簡汰すべし。

闊端赤の馬駝を牧養するは、歳に常法有り、郡県に分布し、各々常数有り。而るに宿衛近侍、これを僕御に委ね、民を役して放牧せしむ。始めて至れば、即ちその居を奪い、これに飲食せしめ、桑果を残傷し、百害蠭起す。その僕御四出し、拘鈐する所無く、私に芻豆を鬻ぎ、馬駝を瘠損す。大徳中、始めて州県の正官に責めて監視せしめ、蓋し暖棚・団槽櫪を以てこれを牧す。至治初、復た民間にこれを散じ、その害旧の如し。監察御史及び河間路の守臣屡これを言う。臣等議ずるに、宜しく大徳の団槽の制に如く、正官監臨し、肥瘠を閲視し、宿衛の僕御を拘鈐し、令と為して著すべし。

兵戎を興すことは凶器と称され、みだりに辺境の争いを開くことは国の福ではない。蛮夷は無知であり、わずかに王化にそむくが、得ても益なく、失っても損はない。至治三年、参卜郎の盗賊は、初めは使臣を劫殺し、その財物を利するのみであったが、大軍を用いるに至り、一年を期しても鎮まらず、我が士卒を傷つけ、国の資糧を費やした。臣らが議するに、生を好み死を憎むのは人の恒常の性である。宣政院に命じて守将に辺防を厳しくさせ、良き使者を遣わしてその巣窟に至り招諭すべきである。冗兵を簡略に罷め、辺吏に明らかに勅して謹んで守禦し、事を生ぜしめなければ、遠人も服するであろう。

天下の官田の歳入は、もって衛士を贍い、戍卒に給するものである。至元三十一年以後より、累朝この田を以て諸王・公主・駙馬、及び百官・宦者・寺観の属に分賜し、ついに中書に命じて海漕の価を酬い、国儲を虚耗せしめた。その田を受けた家は、それぞれ土着の姦吏を庄官に任じ、催甲・斗級とし、巧みな名目で多く取り立て、また郵伝を駆り立て、饋廩を徴求し、州県を折辱し、逋負の償いを閉ざし、倉に至る日には変売して帰る。官司は交々忿り、農民は窘迫して逃散する。臣らが議するに、諸王・公主・駙馬・寺観については、公主桑哥剌吉及び普安三寺に与えた制のごとく、公廩に輸納させ、月ごとの価値を計算して鈔に折り支給し、有司に命じて兼ねて省部に輸させ、大都に給すべきである。その百官及び宦者に賜った田は、ことごとく拘え還して官とし、令として定めるべきである。

国家の経費は、皆民より取る。世祖の時、淮北の内地では、ただ丁税を輸するのみであった。鉄木迭児が相となって、専ら聚斂に務め、使者を遣わして両淮・河南の田土を括勘し、糧を重ねて科し、また両淮・荊襄の沙磧を熟田と作して徴収し、利を興す名を設け、農民は流徙した。臣らが議するに、旧制のごとく、ただ丁税を徴するのみとし、その括勘して重併した糧及び沙磧で田とすることのできない畝の税は、悉く除くべきである。

世祖の制は、田ある者はすべてこれに役し、民が田を典売するときは、随って収めて戸に入れた。鉄木迭児が相となって、江南の諸寺の賄賂を受け、僧人が民田を買う者は、里正・主首の属をもってこれに役するなかれと奏令し、今に至るまで細民に流毒する。臣らが議するに、累朝が僧寺に賜った田及び亡宋の旧業は、旧制のごとく徴するなかれ。その僧道が民田を典買し及び民間が施した産業は、宜しく悉くこれに役し、令として定めるべきである。

僧道は出家し、妻子を屏絶するのは、世表を超え出んと欲するからである。これをもって国家は優しく遇し、徭役なく、かつ官寺に処する。清浄にして俗を絶つことを心とし、経を誦して寿を祝すべきである。近年、僧道は往々にして妻子を畜い、常人と異ならず、蔡道泰・班講主の徒のごとき、人を傷つけ欲を逞しくし、教を壊し刑を干す者は、どうして数え勝てようか。これに祠典を奉ぜしめることは、天を褻し神を瀆すことではあるまいか。臣らが議するに、妻子を畜う僧道は、宜しく旧制をもって罪し、罷めて民に遣すべきである。

功を賞し善を勧めるのは、人主の大柄である。どうして軽々しく人に与えるべきであろうか。世祖が臨御すること三十五年、左右の臣は、甚だ愛幸されても、功なくして一つの賞を与えられたと聞かない。近年、賞賜は汎濫し、近侍の人が天顔の喜悦する際を窺い、あるいは財乏しく居なしと称し、あるいは嫁女・娶婦と称し、あるいは技物を呈献し、少しも寸功小善なく、互いに奏請し、賞賜回奉を要求し、国家の金銀珠玉及び断没した人畜産業を奄有する。このごとく功なくして賞を受けるのは、どうして激勧できようか。すでに財用を傷つけ、また倖門を開く。臣らが議するに、功勲・労効が著明な実蹟あるものでなければ、賞賜を加えるべからず。令として定めることを乞う。

臣らの言うところは、弑逆未だ討たず、姦悪未だ除かず、忠憤未だ雪がれず、冤枉未だ理められず、政令信ならず、賞罰公ならず、賦役均ならず、財用節せず、民怨み神怒る、これら皆和気を感傷するに足る。惟うに陛下の裁択を以て、天意に答え、災変を消弭せんことを。

帝は従わなかった。張珪また進みて曰く、「臣聞く、日食には徳を修め、月食には刑を修む。天に応ずるには実を以てし文を以てせず、民を動かすには行を以てし言を以てせず。刑政平を失うが故に、天象これに応ずる。惟うに陛下矜察し、臣らの議を允し、悉くこれを行わんことを乞う」と。帝は終に従うことができなかった。

未だ幾ばくもせず、張珪の病は増劇し、扶掖しなければ行くことができなかった。詔があり、常に拝跪を免じ、小車を賜い、殿門下まで乗ることを得た。帝は始めて経筵を開き、左丞相に張珪とともにこれを領せしめ、張珪は翰林学士呉澄らを進めて顧問に備えた。ここより辞位を甚だ力めて請うたが、なお蔡国公に封ぜられ、経筵事を知り、別に蔡国公の印を刻んで賜った。泰定二年夏、旨を得て暫く帰った。

三年春、上は使者を遣わして張珪を召し、必ず見ることを期した。張珪至ると、帝曰く、「卿の来たるとき、民間は如何であったか」と。対えて曰く、「臣は老い、賓客少なく、遠く知ることはできません。真定・保定・河間は臣の郷里でありますが、民は飢え甚だしく、朝廷は金帛を以て賑恤しても、恵みの及ばない者が十の五六あります。惟うに陛下これを念わんことを」と。帝は惻然とし、有司に勅して畢くこれを賑わしめた。翰林学士承旨・知制誥兼修国史に拝し、国公・経筵はもと通りとした。帝はその誠に病めることを察し、西山に養疾せしめ、続いて旨を得て家に還った。

未だ幾ばくもせず、張珪を起して中書省事を商議せしめたが、疾を以て起たなかった。四年十二月に薨じ、遺命して蔡国公の印を上った。張珪は嘗て自ら号して澹菴といった。子六人。

李孟

李孟、字は道復、潞州上党の人。曾祖父の李執は、金末に進士に挙げられた。祖父の李昌祚は、帰朝して金符・潞州宣撫使を授かった。父の李唐は、秦・しょくに歴仕し、因って漢中に徙居した。

李孟は生まれながらにして敏悟、七歳にして文を作ることができ、倜儻として大志あり、博学強記、経史を通貫し、古今の治乱を論ずるに善く、門を開いて徒を授けると、遠近争ってこれに従った。一時の名人商挺・王博文らは、皆行輩を折ってこれと交わった。郭彦通は人を知るに能く名あり、嘗て李唐に語って曰く、「この児は骨相異常、宰輔の器なり」と。至元十四年、父に随って蜀に入り、行省は掾に辟したが、赴かず。晋原県主簿に調されたが、また辞し、行御史台は交々これを薦めたが、また就かなかった。後に事あって京師に至り、中書右丞楊吉丁は一見してこれを奇とし、裕宗に薦め、東宮に召見を得た。未だ幾ばくもせず、裕宗薨じ、擢用に及ばなかった。

成宗が立つと、まず先朝の聖政を採訪し、以て史官の紀述に備えよと命じ、陝西省は李孟に討論編次させ、駅を乗り継いで進上させた。時に武宗・仁宗は皆未だ出閤せず、徽仁裕聖皇后は名儒を求めて輔導せしめ、薦むる者ありて曰く、「布衣の李孟に宰相の才あり、宜しく太子の師傅とすべし」と。大徳元年、武宗は北方に軍を撫で、仁宗は宮中に留まった。李孟は日に善言正道を陳べ、多く進益するところがあった。成宗はこれを聞いて嘉し、詔して太常少卿を授けんとしたが、執政は李孟が嘗て一度もその門を造らなかったことを以て、沮んで行わしめず、礼部侍郎に改めたが、命もまた中止した。

仁宗が昭献元聖皇后に侍して懐州に降居し、また官山に赴いた際、孟は常に単騎で従い、懐州に四年在り、誠節一にして変わることなく、左右の人々を感化し、皆儒雅の風を帯びるに至った。これにより上下の親しみは益々深まった。孟はしばしば進言して言うには、「堯舜の道は、孝悌のみである。今、大兄(武宗)は朔方に在り、大母(皇太后)には居外の憂いがある。殿下はその意旨を迎え奉りて楽しませるべきであり、そうすれば孝悌の道は共に成就するであろう」と。仁宗は深くその言を容れ、日々安否を問い膳を視、婉容愉色を以てし、天下は孝と称えた。暇あれば、孟に就いて古先帝王の得失成敗、及び君君臣臣父父子子の義を講論した。孟は特に事を論ずるに長け、忠愛懇惻、言うに厭わず、治天下の大経大法は、深く切にして明白であった。その後、仁宗が内に入りて内難を清め、武皇を敬事し、母后に篤く孝行し、端拱して太平の功を成し、文物典章が極盛と号された所以は、嘗て群臣に語り、拳を握って示して言うには、「儒者を重んずる所以は、その綱常を握持すること、此の如く固きが為なり」と。その講学の功が此の如きは、実に孟が啓発したのである。

成宗が崩御すると、安西王アナンダが大統を継ごうと謀り、成后がこれを主とし、丞相・枢密は同声附和した。中書右丞相ハラハサン・ダラハンが密かに使者を遣わして来告したが、仁宗は疑って行動しなかった。孟は言う、「支子は嗣がず、これは世祖の典訓である。今、宮車晏駕し、大太子(武宗)は万里の遠方に在り、宗廟社稷危疑の秋である。殿下は大母を奉じて急ぎ宮庭に還り、奸謀を折り人心を固めるべきである。然らずんば、国家の安危は保つべからず」と。仁宗はなお躊躇して決断しなかった。孟は再び進みて言う、「邪謀が成就すれば、一紙の書を以て召還され、殿下母子は自ら保つこと叶わず、宗族を論ずる暇があろうか」と。仁宗は喜び、「先生の言は、宗廟社稷の福である」と言い、遂に太后を奉じて都に還った。

時にハラハサンは病と称して堅く臥していた。仁宗は孟を遣わして問わせた。丁度成后が人を遣わして病状を問うており、絡繹として絶えなかった。孟が入ると、長揖して坐し、やがてその手を引き、脈を診た。衆人は医者と思い、疑わなかった。既に安西王の即位が目前であることを知ると、還って告げて言う、「事急なり。先んずる者は人を制し、後れる者は人に制せられる。早く図らざるべからず」と。左右の人々は皆決断できず、ただキュチュとベルテムルのみがその実行を勧めた。或る者は言う、「皇后は九重深く居り、八璽を手にし、四衛の士は一呼して応ずる者累万である。安西王府中の従者は林の如し。殿下の侍衛は寡弱にして、数十人に過ぎず、兵仗も備わらず、赤手を奮って往けば、事必ずしも成るべからず。静かに守りてアハ(武宗)の至るを俟ち、然る後にこれを図るも、未だ晩からず」と。アハとは、中国で兄を称する語で、武宗を指す。

孟は言う、「群邪は祖訓を違棄し、中宮に党附して、庶子を立てんと欲する。天命人心、必ず皆与せざるべし。殿下が内庭に入り、大義を以てこれを責めれば、君臣の義を知る者は、彼を捨てて殿下のために用いられざるはなく、何を求めて獲ざらんや。宮禁を清めて大兄の至りを迎えるは、また可ならずや。且つ安西が既に位号を正せば、仮に大太子至るとも、彼安んぞ両手を進めて璽を奉じ、退きて藩国に就かんや。必ずや国中に鬭い、生民塗炭、宗社危うからん。且つ身を危うくして其の親に及ぼすは、孝に非ず。禍難を大兄に遺すは、悌に非ず。時に得て為さざるは、智に非ず。機に臨みて断ぜざるは、勇無きなり。義に仗りて動けば、事必ず万全ならん」と。

仁宗は言う、「卜を以て決すべし」と。命じて卜人を召す。儒服を着て囊を持ち市に遊ぶ者がおり、召し至らせた。孟が出迎え、これに語って言う、「大事汝を待って決す。ただ其の吉を言え」と。乃ち入って筮う。乾の三五皆九に遇い、立って卦を献じて言う、「是れ乾の睽を謂う。乾は剛なり。睽は外なり。剛を以て外に処するは、乃ち内を定むるなり。君子乾乾は、事を行うなり。飛龍天に在りは、上治むるなり。輿曳き牛掣かるは、其人耏且つ劓るは、内兌廃するなり。厥の宗膚を筮うは、往けば必ず済うなり。大君外より至るは、明相麗うなり。乾にして乾せざるは、事乃ち睽するなり。剛運よく断ずるは、惑疑無きなり」と。孟は言う、「筮は人に違わず。是れ大同を謂う。時に失うべからず」と。仁宗は喜び、袖を振るって起ち、乃ち共に上馬を扶け、孟及び諸臣は皆歩いて従い、延春門より入った。ハラハサンは東掖より来りてこれに就き、殿廊に至り、首謀及び同悪者を収め、悉く都獄に送った。御璽を奉じ、北して武宗を迎え、中外翕然として随いて定まった。

仁宗が監国すると、孟を参知政事に任じた。孟は久しく民間に在り、閭閻の幽隠を備え知り、庶務を損益すること悉く利病に中り、遠近悦服せざるはなかった。然し特に僥倖を抑絶したため、群小多くは楽しまず、孟は変えなかった。事定まって後、仁宗に言う、「執政大臣は、天子自ら親用すべきである。今鸞輿道に在り、孟未だ顔色を見ず、誠に重任に当たるを敢えて冒さず」と。固く辞して許されず、遂に逃げ去り、行く所を知らなかった。夏五月、武宗即位す。帝に言う者有り、「内難の初め定まらんとする時、李孟嘗て皇弟を勧めて自ら取らしめんとす。彼の言の如くならば、豈に今日あらんや」と。武宗は其の誣を察し、聴かず、仁宗もまた敢えて復た孟のことを言わなかった。

至大二年、仁宗が皇太子となった。嘗て帝に侍し太后と共に内宴す。飲み半ば、仁宗は深く思い、戚然として容を改めた。帝顧みて語りて言う、「吾が弟今日楽しまず、何を思うところぞ」と。仁宗は従容として起ち謝して言う、「天地祖宗の神霊に頼り、神器帰する所あり。然れども今日の母子兄弟の歓を成すは、李道復(李孟)の功最も多し。適思い有り、自ら其の色に変ずるを知らず」と。帝は甚だ友愛に篤く、其の言に感じ、即ち命じてこれを捜訪させ、許昌の陘山に得て、使者を遣わし召した。

三年春正月、玉徳殿にて武宗に謁見す。帝は孟を指して宰執大臣に謂いて言う、「此れ皇祖妣の命にて朕が賓師と為す者なり。速やかに任ずべし」と。三月、特授して栄禄大夫・中書平章政事・集賢大学士、同知徽政院事とす。仁宗嗣いで立つと、真に中書平章政事を拝し、階を進めて光禄大夫とし、其の三世に恩を推し、且つ諭して言う、「卿は朕が旧学なり。其れ心を尽くして朕の及ばざるを輔けよ」と。孟は知遇を感じ、力を国事を己が任と為し、賜与を節し、名爵を重んじ、太官の濫費を覈し、宿衛の冗員を汰った。貴戚近臣は其の己に便ならざるを悪んだが、心其の公に服し、間言無かった。

仁宗が初めて懐州に出居した時、吏弊が深く見え、痛くこれを剗除せんと欲した。孟が進言して言うには、「吏にも賢者あり、変化激厲するに在るのみ」と。帝は言う、「卿は儒者なり、宜しく此の曹と気類合わざるべし、而るに曲く相護祐すること此の如し、真に長者の言なり。卿が朕の前に在りては、惟だ人の長を挙げて、其の短を斥けず、尤も朕の深く嘉する所なり」と。時は承平の日久しく、風俗奢靡に流れ、車服僭擬し、上下章なく、近臣恩を恃み、求請厭きることなし。時宰裁制を為さず、乃ち更に相汲引し、幸を望み恩賜を求め、公儲を耗竭して、以て私惠と為す。孟言う、「貴賤章有り、以て民志を定むる所以なり;賜與節有り、以て臣下を勧むる所以なり。各々之が為に限制を為さんことを請う」と。帝皆之に従う。

孟が政府に在りては、多く補益する所有りと雖も、自ら視るに常に若し及ばざるが如く、嘗て間を因りて請うて言う、「臣聖人の道を学び、陛下に遭遇す。陛下は堯・舜の主なり。臣天下をして堯・舜の民たらしむること能わず、上は陛下に負い、下は所学に負う。政権を解罷し、賢路を避けんことを乞う」と。帝は言う、「朕位に在らば、必ず卿中書に在らん。朕卿と相与に終始せん。自今より其れ復た言う勿れ」と。継いで爵を秦国公に賜い、帝親しく印章を授け、学士院に命じて制を降さしむ。又其の像を図り、詞臣を敕して之が為に贊を為さしめ、及び御書「秋谷」の二字、璽を以て識して之を賜う。入見すれば必ず坐を賜い、語移時し、其の字を称して名とせず、其の尊礼せらるること此の如し。

帝嘗て近臣に語りて言う、「道復道德を以て朕を相い、天下をして蒙沢せしむ」と。之に鈔十万貫を賜い、将作をして第を治めしむ。孟辞して言う、「臣布衣の際遇、陛下に望む所は、富貴の謂い非ざるなり」と。悉く辞して受けず。皇慶元年正月、翰林学士承旨・知制誥兼修国史を授け、仍って平章政事と為す。未だ幾ばくもあらざるに、告を請うて其の父母を帰葬せんとす。帝労餞して之に言う、「事訖れば、宜しく速やかに還るべし、久しく留まる毋れ、朕の望む所を孤にす勿れ」と。十二月、朝に入る。帝大いに悦び、慰労甚だ至り、因りて謝事を請う。優詔して允さず。請うこと益々堅く、乃ち平章政事を以て中書省事を議し、翰林に承旨せしむ。二年夏、国公の印を還さんことを乞う。奏三上し、始めて請う所の如くす。帝毎に孟と用人之方を論ずるに、孟曰く、「人材の出づるは、固より一途に非ず、然れども漢・唐・宋・金、科挙人を得ること盛んなり。今天下の賢能を興さんと欲せば、科挙を以て之を取るが如きは、猶お多門より進むに勝れり。然れども必ず先ず德行経術、而して後文辞、乃ち真材を得べし」と。帝深く其の言を然りとし、決意之を行わんとす。

延祐元年十二月、復た平章政事を拝す。二年春、貢挙を知ることを命じ、及び廷策進士に及び、監試官と為る。七月、金紫光禄大夫・上柱国に進み、改めて韓国公に封ぜられ、職任旧の如し。已にして衰病を以て事に任ぜず、政権を解き田里に帰らんことを乞う。帝已むを得ず請う所に従い、復た翰林学士承旨と為し、宴閒に侍入し、礼遇尤も厚し。

延祐七年、仁宗崩じ、英宗初めて立ち、太師鉄木迭兒復た相と為る。孟が前共に政する時己に附せざるを以て、讒搆誣謗し、尽く前後封拝の制命を収め、降授して集賢侍講学士・嘉議大夫と為し、其の必ず辞すを度り、因りて中害せんとす。孟命を拝して欣然たり。適翰林学士劉賡来りて慰問す。即ち之と同しく院に入る。宣徽使以て聞こえしめて言う、「李孟今日職に供す。旧例当に酒を賜うべし」と。帝愕然として言う、「李道復乃ち肯て集賢に俯就せんや」と。時鉄木迭兒の子八爾吉思帝の側に侍す。帝顧みて之に謂いて言う、「爾輩彼肯て是の官を為さずと謂う。今定めて何如」と。是より讒行わるること得ず。嘗て人に語りて言う、「老臣中書に待罪し、国に補うこと無し。聖恩寛宥し、其の禄を奪わず。今老いたり。其れ何を以て報称せんや」と。帝聞きて之を善しとし、恩意稍く加う。至治元年卒す。御史累章して其の誣を辨し、詔して元の官を復す。至治中、旧学同徳翊戴輔治功臣・太保・儀同三司・上柱国を贈り、追って魏国公に封じ、諡して文忠と曰う。

孟は宇量閎廓、材略人に過ぎ、三たび中書に入り、民間の利害、知りて言わざる無く、古を引き今に証し、務めて至当に帰す。士貴賤無く、苟くも賢なれば、進拔せざること已まず。其の門に遊ぶ者、後皆知名なり。一室に退居し、蕭然として布衣の如し。文を為すに奇気有り、其の論必ず理に主り、其の献納謀議、常に自ら其の藁を毀ち、家に幾ばくも存せず。皇慶・延祐の世、一政の繆る毎に、人必ず以て鉄木迭兒の為す所と為し;一令の善きは、必ず之を孟に帰す。子献、御史中丞・同知経筵事。

張養浩

張養浩は字を希孟と曰い、済南の人なり。幼より行義有り。嘗て出でて、人途に楮幣を遺す有るに遇う。其の人已に去れり。追いて之を還す。年方に十歳、書を読みて輟まず。父母其の過ぎて勤むるを憂い而して之を止む。養浩は昼は則ち默誦し、夜は則ち戸を閉じ、灯を張りて窃かに読む。山東按察使焦遂之を聞き、薦めて東平学正と為す。京師に遊び、平章不忽木に書を献ず。大いに之を奇とし、辟いて礼部令史と為し、仍って御史台に薦入す。一日病む。不忽木親しく其の家に至りて疾を問う。四顧壁立す。歎じて言う、「此れ真に台掾なり」と。及んで丞相掾と為り、選授されて堂邑県尹と為る。人官舎利せず、居るに免るる者無しと言う。竟に之に居る。首に淫祠三十余所を毀ち、旧盗の朔望に参する者を罷む。曰く、「彼皆良民、饑寒の迫る所、已むを得ずして盗と為るのみ。既に之に刑を加うるも、猶お以て盗を目すは、是れ其の自新の路を絶つなり」と。衆盗感泣し、互いに戒めて曰く、「張公に負く毋れ」と。李虎と曰う者有り。嘗て人を殺す。其の党暴戾害を為し、民命に堪えず。旧尹敢えて詰問する者莫し。養浩至りて、尽く諸法に置く。民甚だ之を快とす。官を去ること十年、猶お碑を立て徳を頌す。

仁宗東宮に在りし時、召して司経と為す。未だ至らざるに、文学に改め、監察御史を拝す。初め、尚書省を立つるを議す。養浩其の不便を言う。既に立ち、又言う、法を変え政を乱し、将に天下を禍せんとすと。台臣抑えて聞こえしめず。乃ち揚言して曰く、「昔桑哥用事す。台臣言わず。後幾ばくも免れざらんとす。今御史既に言う。又聞こえしめず。台将に何を用いん」と。時武宗将に親しく南郊を祀らんとす。せず。大臣を遣わして代祀せしむ。風忽ち大いに起こり、人多く凍死す。養浩祀する所に於いて揚言して曰く、「代祀人に非ざるを以て、故に天変を示す」と。大いに時相の意に違う。

時省臣台臣を用うるを奏す。養浩歎じて曰く、「尉専ら盗を捕う。縦いえ職に称わずと雖も、盗をして自ら選ばしむる可けんや」と。遂に時政を疏すこと万余言:一に曰く賞賜太だ侈、二に曰く刑禁太だ疏、三に曰く名爵太だ軽、四に曰く台綱太だ弱、五に曰く土木太だ盛、六に曰く号令太だ浮、七に曰く倖門太だ多、八に曰く風俗太だ靡、九に曰く異端太だ横、十に曰く相を取るの術太だ寛。言皆切直、国を当る者容るる能わず。遂に翰林待制を除き、復た罪を搆えて之を罷め、省台を戒めて復た用いる勿れとす。養浩禍に及ぶを恐れ、乃ち姓名を変えて遁れ去る。

尚書省が廃止されると、召されて右司都事となった。堂邑にいた時、その県のダルガチ(達魯花赤)がかつて彼と不和であったが、ちょうど選挙を求めていたので、養浩は宰相に申し出て、良い官職を与えた。翰林直学士に転じ、秘書少監に改めた。延祐の初め、進士科が設けられると、礼部侍郎として貢挙を管掌し、進士が面会に来ても皆受け入れず、ただ人をやって戒めて言わせた、「諸君子はただ報効を思うだけでよい、どうして労して謝する必要があろうか」。陝西行台治書侍御史に抜擢され、右司郎中に改め、礼部尚書に拝された。

英宗が即位すると、中書省事に参議するよう命じられた。ちょうど元宵節の夜、帝が内庭に灯籠を飾り亀山(灯籠の山)を作ろうとしたので、ただちに左丞相の拜住に上疏した。拜住はその上疏を袖に入れて諫言に入り、その大意は、「世祖が御宇された三十余年の間、毎年元宵節の夜には、里巷の間でも灯火を禁じられました。まして宮廷の厳重さ、宮中の奥深さにおいては、特に戒め慎むべきです。今、灯籠の山を構えることは、臣が思うに、楽しむところは小さく、かかわるところは大きく、喜ぶところは浅く、憂えるところは深い。伏して、倹約を尊び遠慮することを法とし、奢侈を喜び近くを楽しむことを戒めとされるよう願います」。帝は初め大いに怒ったが、読んでから喜んで言った、「張希孟(張養浩)でなければ言えまい」。ただちにこれをやめ、さらに尚服の金織の幣一、帛一を賜い、その正直を表彰した。後に父が年老いたため、官を棄てて帰り養った。吏部尚書に召されたが拝命しなかった。父の喪に服した。喪が終わらないうちに、また吏部尚書に召されたが、力辞して起ち上がらなかった。泰定元年、太子詹事丞兼経筵説書に召されたが、また辞退した。淮東廉訪使に改められ、翰林学士に進められたが、皆赴任しなかった。

天暦二年、関中で大旱魃があり、飢えた民が互いに食い合う事態となり、特に陝西行台中丞に拝された。命を聞くと、すぐに家の所有する物を全て郷里の貧しい者に分け与え、車に乗って出発し、途中で飢えた者に会えばこれを救済し、死者に会えばこれを葬った。道すがら華山を通り、嶽祠で雨乞いをし、泣きながら拝礼して起き上がれず、天が突然曇り、雨が二日降った。官に着任すると、また社壇で祈ると、大雨が注ぐように降り、水が三尺に達してやみ、禾黍が自然に生え、秦の人々は大いに喜んだ。当時、一斗の米が十三緡の値段で、民が紙幣を持ち出して米を買おうとすると、少しでも古びていると受け取ってもらえず、官庫に行き替えようとすると、豪族や狡猾な者が結託して妨害し、十枚で五枚と替える有様で、何日も待っても替えられず、民は大いに困窮した。そこで庫の中のまだ破棄されていない古びた紙幣で文書で確認できるものを調べ、一千八十五万五千余緡を得て、全てその裏に印を押し、また十貫、五貫の券を刻んで、貧しい者に給付し、米商人に印を見せて米を売り出させ、官庫で数を確かめて替えるよう命じた。これによって役人の不正は行えなくなった。また富民に粟を出させるよう率先し、これにより上疏して粟を納めて官職を補う法令の施行を請願した。民間に子を殺して母に捧げる者がいると聞き、これに大いに慟哭し、私財を出してこれを救済した。

官に着任して四か月、一度も家に住まず、公署に泊まり、夜は天に祈り、昼は出て飢えた民を救済し、終日少しも怠ることがなかった。一たび思い至るごとに、胸を撫でて痛哭し、ついに病を得て起き上がれず、六十歳で卒去した。関中の人々は、父母を失ったかのように哀しんだ。至順二年、攄誠宣恵功臣・栄禄大夫・陝西等処行中書省平章政事・柱国を追贈され、濱国公に追封され、諡は文忠。二人の子、彊と引。彊は先に卒去した。

敬儼

敬儼、字は威卿。その先祖は河東の人であったが、後に易水に移った。五世の祖の嗣徽は金に仕え、参知政事の官に至った。曾祖の子淵は楽陵令。祖の鑑は嵩州事の同知。皆進士から出発した。父の元長は学問と品行があり、太常博士の官に至った。儼はその次男である。幼い頃から遊戯をせず、成長して学問を好み、文章をよくした。御史中丞の郭良弼が殿中知班に推薦し、憲章若干巻を著した。広平王の月呂祿那演(ヨルルク・ノヤン)に知られ、太傅・太師の両府の掾に相次いで召され、高郵県尹に転じたが、赴任せず、選ばれて中書省の掾を充てられた。朱清と張瑄が海運万戸となり、豪勢で法を守らなかったが、ちょうど儼がその文書を管掌し、かつて多額の賄賂を贈られたが、儼は怒って拒絶した。二人は罪により誅殺され、権貴の多くは賄賂により連座して失脚したが、儼だけは関与しなかった。

大徳二年、吏部主事に任じられ、集賢司直に改めた。ちょうど湖湘に警報があり、丞相の哈剌合孫答剌罕(カラハスン・ダルハン)が儼が詔を奉じて民を慰撫し、かつ隙を観察するよう奏上したが、大いに旨にかなった。六年、礼部員外郎に抜擢された。ある故郡守の子が、蔭補によって官に補われるべきところ、継母が彼が嫡子でないと訴えた。儼はその誣告を察知し、取り調べると、果たして言う通りであった。

七年、監察御史に拝された。当時、省臣の中に既に罷免されながらまた任用された者がおり、参預官が巧みに諂い、これと結託して、賄賂を貪り法を乱していたので、即日に弾劾して罷免した。江浙行省と浙西憲司が互いに上章して攻撃し合い、事が朝廷に聞こえると、省と台が官を派遣してこれを治めるよう命じ、儼は阿思蘭海牙(アルスラン・カヤ)と共に行ったが、議論が多く合わず、両方の意見を上奏した。朝廷はついに儼の議を是とした。七月、中書左司都事に転じ、上京に扈従した。西京の商人で、運糧して北辺に供給して官を得た者が、盗用して数十万石に至り、利益で主事者を誘い、隠して発覚させなかった。儼はこれを取り調べて徴収し、辺境に輸送させた。

九年、吏部郎中に任じられたが、父の病気を理由に辞退した。やがて父が卒去し、喪が終わると、また御史台に入って都事となった。中丞の何某が執政と不和であり、省議が台の選挙の当否を審査しようとした。儼は言った、「近ごろ、省が千余人の官吏を任命したが、台もまたこれを区別すべきでしょうか」。言葉が聞こえると、議はついに取りやめとなった。江南行御史台と江浙省が政務を争い、事が聞こえると、儼は言った、「省と台の政事は、風化の根本である。それぞれ職務を尽くすべきであり、まさか些細なことで憤って争い、上聞を汚すようなことがあろうか」。建康路総管の侯珪が、貪欲で勝手なことが発覚した。儼は急いで官を派遣してその事を決断させた。彼が近幸に取り入って、奏請して赦免を求めた時には、命令が下る頃には、もう間に合わなかった。

武宗が北辺で軍を慰撫していた時、成宗が崩御し、宰臣の中に異謀を企てる者がいた。事が定まると、儼にその審問に参与するよう命じ、ことごとくその実情を得た。山北廉訪副使に任じられ、入朝して右司郎中となった。武宗が即位すると、湖広省臣の中に、偽りの警報を作り、駅伝を駆って入奏し、権力を握ろうとした者がいた。儼は面と向かって詰問して言った、「汝は方面を守る者であり、既に警報があれば、どうして職を離れることができようか。これは必ず虚偽であろう」。その者はついに事実が露見して斥けられた。旱魃と蝗害が災いとなり、民の多くは飢えのために盗賊となった。役所が捕らえて治め、真犯として論じた。獄が上奏されると、朝議は互いに従うべきか違うべきかで意見が分かれた。儼は言った、「民が飢えて盗みをするのは、やむを得ず迫られてのことであり、故意にそうするのではない。かつ死者は再び生き返らせることはできない。まさに哀れみ許すべきである」。これによって死罪を減じられる者が大勢いた。

至大元年、左司郎中に任じられ、江南諸道行御史台治書侍御史に抜擢された。先に、儼が尚書省の設立を議論したことで、宰臣の意に逆らった。ちょうど両淮の塩法が長く滞っていたので、儼を左遷して転運使とし、陥れようとした。到着すると、まず塩場の官で貪汚な者を弾劾し、法が大いに施行されると、塩の引数が増加して余剰が二十五万引に達した。河南行省参政が塩策について会議に来て、余剰の数を歳入の常額としようとした。儼は、塩戸がすでに非常に疲弊しており、余剰を定額とすれば、民力は尽きてしまう、人を苦しめて己の功績とすることは、宰臣のすべきことではない、と言い、事はついに止んだ。仁宗が即位すると、戸部尚書に召された。廷議が尚書省の弊政を革めようとした。儼は言った、「急に紙幣を使わなくすれば、恐らく細民が損害を受けるでしょう」。従わず、病気を理由に辞退した。

皇慶元年、浙東道廉訪使に任ぜられる。錢塘の退卒あり、僧衣を詐って着用し、太后の旨と称し、婺州雙谿の石橋を建て、大いに工役を興して民を苦しめていた。儼は有司に命じてその奸贓を発覚させ、杖罰を加えて追放し、なおその役事を罷めるよう奏請した。郡に大火あり、数千家を焼く。儼は倉を開いて貧窮飢餓の者を賑済せしめる。憲司の廃堂の材木および諸路の学廪の余剰を取って、孔子廟を建立した。

二年、江西等処行中書省参知政事に拝される。旧来の習俗として、民に争いがあると、往々にして省に越訴し、吏はこれに便乗して奸利を得、訴訟はこの故に煩雑であった。儼は省府に命じて、有司でない者は民を侵してはならずと下知し、訴訟事は簡素となった。詔して科挙を設ける。儼は臨川の呉澂・金陵の楊剛中を推薦して試験官とし、人材を得ること多かった。その年の冬、病を移して退き、真州に居を定める。江南諸道行御史台侍御史に任ぜられるも、赴任せず。

四年春、詔して前職に就くよう促されるが、病を理由に辞す。七月、侍御史として召される。十月、太子副詹事に遷る。御史大夫脱歡答剌罕が奏してこれを留め、制して「可」とす。湖広省臣が贓罪で失脚する。儼は一日に五度奏上し、ついにその罪を正した。台臣に弾劾されて去りながら復職した者あり、御史が再びこれを弾劾し、奏章を再上する。旨ありて丞相・枢密に共同で決裁せしむ。儼曰く、「かくの如くならば、台事は廃れん」と。すなわち帝の前で奏してこれを罷免し、殿上に伏して叩頭し、代わりを請う。帝これを諭して曰く、「事は汝によるにあらず、汝その位に復せよ」と。

五年夏五月、中書参知政事に拝される。台臣また奏してこれを留め、儼もまた陛辞するも、許されず。『大学衍義』および服用の犀帯を賜わる。毎回入見するに、帝は字をもってこれを呼び、威卿と称して名を呼ばず、その礼遇されることかくの如し。旧制として、諸院および寺監はその僚属を奏除することができ、歳月久しく多くは冒濫し、富民あるいは賄賂をもって進み、大官に至る者あり。儼は名爵は慎み惜しむべきものとし、ちょうど台臣もまたこれを言上したので、奏請して悉くこれを追奪せしめ、ついに令として定着させた。六年、病を告げ、衣一襲を賜わり、医者を遣わして診療せしむ。儼はその郷里が近畿にあることを以て、再び徴用されることを恐れ、すなわち淮南に移り住み、親戚故旧といえども、皆接見しなかった。

至治元年、陝西諸道行御史台中丞に任ぜられる。泰定元年、江南諸道行御史台中丞に改める。いずれも赴任せず。六十五歳にして、すなわち老齢を理由に退官を請う。朝廷はその子自強を安慶総管府判官に任じたが、その請いには従わなかった。四年春、使者を遣わして酒を賜い、集賢大学士・栄禄大夫、中書省事商議として徴用せんとする。儼は使者を先に返し、家を携えて易水に帰る。九月、帝は特に中政院使に任命し、また酒を賜い、召し出す。すなわち病を車に乗せて入見し、食を賜わり慰労され、親しく吉日を選んで視事せしめ、朝会の日には拝礼せぬことを命じられる。この月、中書平章政事に拝されるが、また老病を理由に辞すも、従わず。

天曆に改元し、朝議として上京にいる朝臣をことごとく誅戮せんとす。儼は抗論し、これらは皆例年の慣例に従って従行したものであり、殺すのは罪にあたらないと謂う。衆人これに頼って免れることを得た。一ヶ月余り在職し、足を傷めて帰還を請う。家に居ること十数年、痺れて歩行できず、なお書物に勤しんで廃さず。臨終に際し、子弟を戒めて曰く、「国恩未だ報いずして不禄に至る、いかんせん。汝らは清白を守り恒業を保ち、急いで仕進するなかれ」と。冠幘を正し、端坐して逝去す。翰林学士承旨・光禄大夫・柱国を追贈され、魯国公に封ぜられ、諡して文忠と曰う。

自強は、朝散大夫・礼部員外郎。儼には詩文若干巻あり、家に蔵す。叔祖の鉉は、太原の元好問とともに金の進士第に登り、国初に中都提学となり、『春秋備忘』四十巻を著す。仁宗朝に命じてその書を刻ませ、今世に行わる。