元史

列傳第六十一:姚燧、郭貫、夾谷之奇、劉賡、耶律有尚、郝天挺、張孔孫

姚燧

姚燧、字は端甫。世系は燧の伯父樞の傳に見える。父は格。燧は三歳で孤となり、伯父の樞に養育された。樞は蘇門に隠居し、燧が蒙昧であるとして、教え督めること甚だ急であった。燧は堪えられず、楊奐が書を馳せてこれを止めて言うには、「燧は令器なり。成長すれば自ずから成るであろう。どうして急ぐことがあろうか」と。また娘を娶らせることを許した。十三歳の時、蘇門で許衡に会い、十八歳で初めて長安ちょうあんで学を受けた。当時まだ文を作ったことはなく、同輩の作ったものを見ては、ただ古人に及ばないのを見るのみで、心に是としなかった。二十四歳で初めて韓退之の文を読み、試みに習ってこれを作ると、人々は作者の風格があると言った。少し許衡に正してもらうと、衡もその文辞を賞賛し、かつ戒めて言うには、「弓矢は物として、盗賊を待つためのものである。もし盗賊がこれを得れば、また人を待つことになろう。文章は確かに士子が名声を発揮する利器ではあるが、先ず一世の名声を得たならば、どうして人の使役に応じることができようか。その人でない者に与えることと、その人でない者を拒むことは、罪は同じである。身をこの世に全うする道ではない」と。

至元七年、許衡が国子祭酒として貴冑を教えることとなり、旧弟子十二人を召すよう奏上した。燧は太原から駅伝で館下に至らせた。燧は三十八歳で、初めて秦王府文学となった。間もなく、奉議大夫を授かり、兼ねて陝西・四川・中興等路学校提挙を務めた。十二年、秦王の命により、庸・しょくを安輯した。翌年、漢嘉が新たに帰附したので、入ってその民を諭した。また命を受けて合州の王立を招いた。さらに翌年、夔府を撫循した。合わせて三度蜀に使いし、いずれもその職に称した。十七年、陝西漢中道提刑按察司副使に任じられた。延安で囚人を録し、連座して捕らえられた者を皆釈放したので、人々はその明断に服した。山南湖北道に転じた。澧州を巡察し、学を興し民を賑い、孜々として及ばざるが如くであった。二十三年、湖北より旨を奉じて朝廷に急行した。翌年、翰林直学士となった。二十七年、大司農丞を授かった。

元貞元年、翰林学士として召され世祖実録を修した。初めて検閲官を置き、故事を究明・検証したが、燧と侍読の高道凝が総裁を務め、書は完成した。大徳五年、中憲大夫・江東廉訪使を授かり、病を理由に太平に移った。九年、中奉大夫・江西行省参知政事に任じられた。

至大元年、仁宗が藩邸におられた時、宮師府を開いた。燧はすでに七十歳であったが、正字の呂洙を遣わし、漢が四皓を徴した故事にならって、燧を太子賓客として起用した。間もなく、承旨学士に任じ、まもなく太子少傅に任じられた。武宗が面諭すると、燧は拝辞して謝して言うには、「昔、臣の先伯父の樞がかつてこの官に任ぜられた時、なお敢えて拝受しませんでした。臣どうして受けられましょうか」と。翌年、栄禄大夫・翰林学士承旨・知制誥兼修国史を授かった。四年、告を得て南に帰ったが、中書が承旨として召した。翌年、また召された。燧は病を理由に、いずれも赴かなかった。家で卒した。七十六歳。諡は文。

燧はかつて蘇門山にいた時、『通鑑綱目』を読み、国統が逐年に散在して、一覧してその離合の概略を得られないのを常に問題としていた。江東で病を告げた時、『国統離合表』若干巻を著し、年を経とし国を緯として、『史記しき』の諸表の如くし、朱熹の凡例の後に付け加えようとした。また徽本と建本の二つの版本を校讎し、三つの誤りを得て、表の首に序を付けた。おおよそ次のように言う。「その一、建安二十五年、徽本は『延康元年』と作す。凡例に、中年に改元する場合、興廃存亡の際には、以前を正とする、とある。建本に従うべきで、建安二十五年の下に注して『改元延康』とすべきである。その二、章武三年、徽本は大書して『三年、後主禅建興元年』とし、建本には『三年』がなく、則ち昭烈に終わりがない。徽本・建本ともに『後主』と言うが、君臣父子の教えにとって害するところ甚だ大である。これは十四巻から十六巻までに始まり、後主と称するものは皆、刊正を失っているのである。三年の下に注して『帝禅建興元年』とし、明年に大書して『帝禅建興二年』とすべきで、そうすれば前後に齟齬がないであろう。その三、天宝十五載に注して『粛宗皇帝至徳元載』とし、明年にはただ『二載』と言うのみで、始まりがない。大書して『二載』の上に『粛宗皇帝至徳』を加え、上を開元と同じくすべきである。この三つは皆誤りであるが、建安の取るべき点、至徳の除くべき点は、統は固より存在する。章武から建興に至るまで、わずか三年であるのに、急に帝と父、主と子の違いが生じるのは、統に大いに関係がないと言えようか」と。詳細は序篇に見える。

燧の学問は許衡に得るところがあり、窮理致知から出発し、自ら実践に及んで、世の名儒となった。文を作るに広大にして詳しく、豪放だが放縦でなく、剛直だが厳しすぎず、ゆったりとして盛大で、西漢の風格があり、宋末の弊習を一変させた。延祐以前においては、文章の大家で彼に先んじる者はなかった。ある者が世に燧を知る者がないと言うと、「知るのみならず、読んで句点を打て、句を得てその意味を得る者さえ、なお少ない」と言った。燧は言う。「世に固より空桑を厭いて鼓缶の音を聞こうと思う者がいようか。しかし文章は道によって軽重が決まり、道は文章によって軽重が決まる。あのまた班孟堅のような者が現れ、古今の人物を表にして九品中に必ず一等を欧陽子に置くならば、聖賢から去ること等級あって遠くないのであり、その文は謝や尹に知られなくても、後世に行われるのに妨げはない。一言で古に近いものがあって、将来に聞こえないことがあろうか」と。当時、孝子順孫がその先祖の徳を発揮しようと思えば、必ず燧の文を得て初めて伝信することができた。得られない者は、常に愧耻とした。故に三十年の間、国朝の名臣世勲・顕行盛徳は、皆燧が記したものである。文を請いに来る者があれば、必ずその行い業績が嘉すべきものであることを確認してから許可し、言葉に過分な称美はなかった。また少し広く宴楽を設けると、燧は喜んで筆を取って大書したが、そうでなければ容易に得られなかった。

当時、高麗の瀋陽王父子は帝室と婚姻を結び、財産を傾けて朝臣と交わった。ある日、燧の詩文を求めようとしたが、燧は惜しんで与えず、旨を奉じて初めて与えた。王は謝礼として幣帛・金玉・名画五十篚を贈り、盛大に並べて燧に届けた。燧は即時に諸属官及び史胥・侍従に分け与え、金銀だけを留めて翰林院に渡し公用の器皿とし、燧は少しも取らなかった。人が尋ねると、燧は言う。「あの藩邦小国は、ただ貨利を重んじるのみである。私はこれを軽んじて、大朝がこれを意に介さないことを知らしめるのだ」と。その器量見識の豪邁、人に過ぎることはこのようであった。しかしやや才を恃み、趙孟頫・元明善の輩を軽視したので、君子はこれをもって彼を軽んじた。平生の著作に、『牧庵文集』五十巻が世に行われている。子は三人:壎、圻、城。

郭貫

郭貫、字は安道、保定の人。才能と行いによって推挙され、枢密中書掾となり、南康路経歴に転じ、広西道提刑按察司判官に抜擢されたが、例格に会い、済南路経歴を授かった。至元二十七年、監察御史に任じられた。詔を承って江北沿淮の草地を分け、淮西宣慰使昂吉児父子の専権を弾劾し、久しく遷調せず、政を蝕み民を害することを糾した。三十年、湖南粛政廉訪司事を僉となった。

大徳初年、湖北道に転じ、「四省の軍馬を以て、数万の兵をもって八百媳婦国を征伐し、炎熱瘴癘の万里不毛の地に深入りするは、国に益なし」と上言した。五年、江西道に転じ、飢民を救恤し、善政あり、召されて御史台都事となる。八年、集賢待制に転じ、翰林直学士に進み、詔を奉じて遼陽行省平章政事別速台徹里帖木児とともに高麗鎮撫に赴く。十一年、召されて河東廉訪副使となる。

至大二年、仁宗が五台山に至り、郭貫が進見すると、仁宗は因って問うた、「廉訪使滅里吉歹はどうして善政があるのか」。左右が答えて言うには、「皆、副使郭貫の教えによるものです」。因って郭貫に瑪瑙の数珠・金織の文幣を賜い、召されて吏部考功郎となり、遂に治書侍御史に拝される。四年、礼部尚書に除され、帝自らその官階を「嘉議大夫」と書いて、有司に授けた。

皇慶元年、淮西廉訪使に抜擢されるが、まもなく留め置かれて派遣されず、侍御史に改め、俄かに翰林侍講学士に転じる。翌年、出て淮西廉訪使となる。「常平倉を設置し、各路の農事を考課すべし」と建言する。延祐二年、召されて中書参知政事に拝される。翌年、左丞に昇進し、集賢大学士を加えられる。五年、太子詹事に除される。郭貫が言うには、「皇太子が金宝を受けて既に三年、冊立の礼を行うべきである。また、輔導の官は早く選置すべきである」。これに従う。六年、太子賓客を加えられ、告暇して帰郷する。

至治元年、再び起用されて集賢大学士となるが、まもなく致仕する。泰定元年、翰林学士承旨に転じるが、起きず。至順二年、病により卒す。享年八十二。光禄大夫・河南行省平章政事・柱国を贈られ、蔡国公を追封され、諡して文憲という。郭貫は博学で、篆籀に精通し、当世の冊宝・碑額は多くその手によるという。

夾谷之奇

夾谷之奇、字は士常。その先祖は女真の加古部より出で、後に夾谷と訛り、馬紀領撒曷水より滕州に移り住む。之奇は幼くして孤となり、舅の杜氏がこれを連れて東平に至り、因って康曄に師事する。済寧教授に授けられ、中書省掾に辟召される。大軍が南伐して宋を征する時、行省左右司都事に授けられる。当時、行省官と中書の権臣に不和があり、特に使者を遣わしてその財用を査核させたが、之奇は文書を職務としていたため、これも審問を受けた。張弘範がその配下を率いて使者に詣り言うには、「夾谷都事は平素より公正清廉であり、若し少しでも侵漁があれば、弘範は連座すべきである」。御史台が設立されるに及び、之奇は江南浙西道提刑按察司事に抜擢され、既にして江北淮東に移る。

至元十九年、召されて吏部郎中となり、官吏の昇降・淘汰の法を定め、令式として著す。大旱があり、有司が穀価を平準して高騰の患いを抑えようと議した。之奇は言う、「経費を省き、土木の役を止めるに如くはない。これによってこそ和気を召し、災変を消し、豊作の期が得られよう」。

二十一年、左賛善大夫に転ず。当時、裕宗が皇太子であり、之奇が進見する度に必ず座を賜い、待遇は甚だ厚かった。権臣で均輸法によって国賦を増やそうとする者がおり、提刑按察司がその事を阻むことを慮り、按察司と転運司を一つの職に併合するよう請うた。詔して群臣を集めて議する。之奇は言う、「按察司は諸路を統制し、奸悪を摘発するもので、責任軽からず。若し理財をさせれば、心労し事冗にして、自らを繕い救うのに暇あらず、又どうして他人を糾弾できようか。併合すべきではない」。事は遂に止む。また、諭徳の李謙とともに、時政に関する十か条の事柄を列挙し、皇太子上に上奏した。一に心を正す、二に親を睦まじくする、三に倹を崇める、四に幾諫(微かな諫言)を行う、五に兵を収める、六に賢を親しむ、七に弊を革める、八に文を尚ぶ、九に律を定める、十に名を正す。皇太子が薨じるに及び、翰林直学士に除され、吏部侍郎に改め、遂に侍御史に拝される。二十五年、母の喪に服す。吏部尚書として起復を命じられるが、たびたび喪に終わることを請い、許されず。翌年、卒す。

之奇は思慮識見が精細周密で、大綱に明るく、しかも細微を疎かにせず、政事は卓然として称えられるに足りた。吏学に老練な者でも、及ばないと自ら認めた。文章は特に簡潔厳正で法があり、多く世に伝わるという。

劉賡

劉賡、字は熙載、洺水の人。五世の祖の劉逸は郡吏として獄事を治め、陰徳があった。祖父の劉粛は左三部尚書であった。劉賡は幼くして文名があり、翰林学士王磐に師事した。至元十三年、推薦により国史院編修官に授けられる。十六年、応奉翰林文字に転ず。司徒しと府長史に辟召され、なお応奉を兼ねる。外補され、同知德州事となり、考課満了して、太廟署丞・太常博士に抜擢され、監察御史に拝される。この時、御史中丞崔彧は気勢を張って人に接するのを好み、他の御史が拝謁すると、平然としてこれを受けることもあったが、劉賡にだけは上客として遇した。大徳二年、翰林直学士に昇進。六年、陝西に宣撫使として赴く。侍講学士より学士に昇る。

至大二年、礼部尚書に転じ、なお翰林学士を兼ねる。まもなく侍御史に拝される。間もなく、翰林に戻って学士承旨となり、国子祭酒を兼ねる。国学の故事では、伴読生は順次に出て吏に補されるが、先を争って出ようとしない者はなかった。時に一人の学生が、親が老いて貧しかった。同舎の生で名次が前にある者が、博士を通じて告げて言うには、「私は年齢が少し若いので、彼に先を譲りたい」。劉賡は言う、「譲りは、徳の恭しきものである」。その譲りに従い、別に書を作ってその人を推薦すると、朝廷はかえって先に彼を用いた。これより六館の士は皆、譲ることが美徳であることを知った。

皇慶元年、集賢大学士に転じ、なお国子祭酒を兼ねる。延祐元年、再び承旨となる。六年、太子賓客に拝される。七年、再び集賢に入って大学士となる。まもなくまた翰林に入って承旨となる。泰定元年、光禄大夫を加えられる。会議を集めて尊号を上奏しようとした時、劉賡のみが強くその不可を主張し、事は遂に止む。天暦元年卒。享年八十一。

劉賡は長く文翰を司り、当時の大規模な制作は多くその手による。高齢で徳望があり、朝廷に推重されたという。

耶律有尚

耶律有尚は字を伯強といい、遼の東丹王の十世の孫である。祖父は金の時代に東平に官職を得て、そこに家を構えた。有尚は資質と識見が人に優れ、学問に篤く志し、許衡の門下で学び、高弟と称された。その学問は性理に深く、特に誠を根本とし、儀容と辞令は規矩に合致し、知る者も知らぬ者も、有道の君子として敬服した。

至元八年、許衡が中書左丞を罷免され、集賢大学士に任じられ、国子祭酒を兼ねて、国人の子弟を教えることとなり、門人十二人を斎長として伴読させるよう奏上し、有尚もその一人であった。十年、許衡が免職を願い出て郷里に帰ると、朝廷は有尚らを助教とし、その後学事を継承させた。しばらくして、監察御史に任じられたが赴任せず、秘書監丞に任じられ、薊州の知州として出向し、寛簡な政治で民情を得た。

裕宗が東宮にあった時、詹事院長史に召された。有尚が去ってから、国学の事はかなり廃れ、朝廷の議論では有尚でなければ許衡の後を継ぐ者はいないとして、国子司業に任じた。当時学館は未だ建てられず、師弟は皆民家に寓居していたが、有尚はたびたびこれを言上し、二十四年、朝廷はようやく大規模に学舎を建て、国子監を設立し、監官を置き、弟子員を増やした。そこで有尚は国子祭酒に昇進し、儒風は大いに振るった。二十七年、親が年老いたため、職を辞して帰郷した。

大徳に改元すると、再び国子祭酒に召された。まもなく集賢学士に任じられ、その職を兼ねた。ほどなく太常卿に転じ、さらに集賢学士に転じた。八年、父を葬って郷里に帰った。やがて朝廷は老儒を用いて安定させようと考え、安車で家に召し出したが、たびたび辞退しても許されず、再び起用されて昭文館大学士となり、国子祭酒を兼ね、階は中奉大夫となった。

有尚は前後五度国学に在職し、その教えは義理を根本とし、省察は必ず真摯であり、恭敬を先とし、実践は必ず端正で誠実であった。凡そ文詞の小技で、綴緝や彫琢など、聖人の大道を破壊するに足るものは、すべて排除した。これにより諸生は正学に趨り、正道を尊び、経術を尊び、躬行を務め、皆成徳達材の士となった。おおよそその教法は許衡の旧法を遵守し、勤謹さを加えた。自ら学者の師表となって数十年、海内で尊崇され、かつて許衡を尊んだのと同じようであった。有尚は年老いたため、力いっぱい帰郷を請い、朝廷はさらに楮幣七千緡を下賜し、その家で賜った。八十六歳で卒去し、諡を文正と賜った。

郝天挺(子の郝佑を付す)

郝天挺は字を継先といい、朵魯別族の出身で、曾祖より以前は安粛州に住み、父の和上拔都魯は太宗・憲宗の時代に多くの武功を立て、河東行省五路軍民万戸となった。

天挺は英爽で剛直、志略があり、遺山元好問に学び、勲臣の子として世祖に召し出され、その容止を嘉されて、旨があった。「政事に任ずるにふさわしく、文字を執らせ、春宮の宿衛に備えよ」と。裕宗は彼を厚く遇した。雲南に省が建てられ、官属が選ばれると、参議雲南行尚書省事に任じられ、まもなく参知政事に昇進し、さらに陝西漢中道廉訪使に抜擢された。間もなく吏部尚書として朝廷に入り、まもなく陝西行御史台中丞に任じられ、さらに四川行省参政及び江浙行省左丞に転じたが、いずれも赴任しなかった。中書左丞に任じられ、宰相と事を論じるに、合わないことがあれば、面と向かって叱責した。ある日、奏事を明らかに述べて允当であったため、特に黄金百両を賜ったが、受け取らなかった。帝は言った。「汝に利を与えるためではない、ただ汝がよく言うことを褒めるのだ」と。

成宗が崩御すると、仁宗は太后の命により、まず大難を定め、武宗が朔方から還ると、正統を継いで帝位につき、策定の際、天挺は力があった。仁宗が即位すると、故老の天挺と少保張閭ら十人を召し集め、大政を共に議し、尚書省の弊を革めて、皇慶の治を成し遂げた。また地方に出て江西・河南二省の右丞となり、召されて御史中丞に任じられた。入朝して謁見し、まず紀綱の要を述べ、狩猟を例えて言った。「御史の職は奸を撃つにあり、鷹が禽を揚げるが如し。弱き者は獲やすく、力大なる者は必ず人力を借りねばならぬ。さもなくば、前の禽を失うのみならず、なお鷹を傷つける患いがある」と。帝はその言葉を嘉し、退出すると、台臣は皆これを賀した。風紀は大いに振るった。また上疏して七事を陳べた。名爵を惜しみ、浮費を抑え、括田を止め、任使を久しくし、好事を論じ、農を奨励して本とし、学を励まして士を養う、と。詔して中書省にこれを施行させた。まもなく外に出て閑職に就かせ、河南行省平章政事に任じた。当時河南王卜憐吉歹が丞相であり、師礼をもって遇したため、政化が大いに行われた。

皇慶二年に卒去、六十七歳。光禄大夫・中書平章政事・柱国を追贈され、冀国公に追封され、諡は文定。天挺はかつて『雲南実録』五巻を編纂し、また『唐人鼓吹集』十巻に注を加え、世に行われた。

子の郝佑は字を君輔といい、小字を朵魯別台という。宿衛から補官され、仁宗の時に殿中侍御史に任じられ、廉直で著名であり、大いに知遇を受けた。陝西行省参知政事に転じ、陝西行御史台侍御史に任じられた。

張孔孫

張孔孫は字を夢符といい、その祖先は遼の烏若部の出身で、金人に併合され、隆安に遷った。父の之純は東平万戸府参議であり、夜に孔子廟に参拝する夢を見て、嘉果を賜り、やがて孔孫が生まれたため、衍聖公に名を乞い、今の名を得た。成長すると、文学で名を知られ、万戸府議事官に辟召された。万戸厳忠範の兄が陝西行省平章政事となり、孔孫を招聘したが、母が老いているため応じなかった。

当時汴梁が既に陥落し、太常楽師が東平に流寓し、旧章は欠落して、登歌一章のみが残っていた。世祖が潜邸にあった時、かつて楽師を日月山に召して観覧させたが、この時、徐世隆が帝に奏上し、宮県及び文・武二舞を増設して大典に備えるべきと述べた。そこで詔して徐世隆を太常卿とし、孔孫を奉礼郎としてその副とし、楽師を監督させ、習熟して京師に献上した。廉希憲が政府に在るとき、掾に辟召した。安童が宰相となると、特に礼遇して重んじ、戸部員外郎を授け、南京総管府判官として出向した。

当時ちょうど襄樊を攻め落とすことが議され、朝廷は兵を用いることを急いでいた。孔孫は言った。「今、越境して私販した罪に坐する者は、動かすに千数を以てする。自新の条を開き、戦功を立てて死罪を贖うことを許すべきである」と。朝廷の議論はこれを採用した。四川道提刑按察司事に僉とされ、まもなく湖北道提刑按察副使に昇進した。巴陵に行部すると、囚人が三百人おり、龔乙が銀利を興すことを建言したことに怒り、その墳墓を暴き、家を焼き、焼死者三人を出した。有司は真の図財殺人として罪に坐せようとしたが、孔孫はその情状を酌量して罪を減じた。浙西提刑按察副使に転じ、同知保定路総管府事に改められ、まもなく侍御史に任じられ、行御史台事を執り行った。

至元二十二年(1285年)、安童が再び宰相となると、帝に言上して曰く、「阿合馬が専権をふるって十年、その親族や縁故で迎合する者は、しばしば急激に昇進し、顕位を占めております。ただ劉宣と張孔孫の二人のみが、淡々として従来の節操を守り、終始一貫しております」と。そこで宣を吏部尚書に任じ、孔孫を礼部侍郎に任じた。まもなく孔孫を礼部尚書に昇進させ、燕南提刑按察使に抜擢した。二十八年(1291年)、提刑按察司が肅政廉訪司に改められると、引き続きその長官(使)となり、大名に赴任して治めた。一度に、没収した贓物で粟五千斛を買い入れ、飢えた民を救済した。僉河南江北行中書省事に任ぜられた。間もなく、大名路総管に任ぜられ、府尹を兼ね、学校を大いに興した。ある者が旧河隄三百余里を太后に献上しようとした際、ただちに上奏文を奉り、ことごとく小民に返還すべきであると述べた。帝はこれに従った。淮東道肅政廉訪司使に抜擢され、塩場での裁判に関与した際、民の尹執中兄弟が強盗の罪をでっち上げられて自白していたのを、平反した。召還されて集賢大学士・中奉大夫に任ぜられ、中書省事を商議した。丞相完澤が没すると、孔孫は陳天祥とともに封事を奉り、和禮霍孫を宰相に推挙した。

ちょうど地震があり、詔で災害を鎮める方策を問うと、孔孫は八つの事柄について条理を立てて答えた。その概略は以下の通りである。蛮夷の諸国に対しては、兵力を尽くして遠征討伐すべきではない。濫りに官職を与えられて罷免された者は、再び任用すべきではない。善を賞し悪を罰することについては、たびたび赦免や宥恕を与えるべきではない。宝物を献上・売買することは、禁止しなければならない。仏に供えることは益がなく、財用を無駄に費やすべきではない。上下ともに豪華奢侈に流れており、倹約に従わなければならない。官は冗員で吏は繁雑であり、これを削減しなければならない。太廟の神主に対しては、祭祀を備えて供えなければならない。帝はことごとくこれを嘉納し、鈔五千貫を賜った。また累次上疏して言うには、「およそ七十歳で致仕する者は、一官を加えるべきである。父母の喪に服し喪明けした者は、起復を待つべきである。宿衛で濫りに名を冒す者は、必ず革めなければならない。州郡の職務は、必ず選び抜かなければならない。長く達魯花赤を務めた者は、適宜昇進・転任させるべきである。また官吏の俸禄を増給すべきである。京師の廟学を修建し、国子生徒を設置し、曲阜の孔廟に洒掃戸を給賜すべきである。宰相の地位には儒臣を参用すべきで、文吏のみを専任すべきではない。故相の安童・伯顏・和禮霍孫と廉希憲らは、それぞれ贈諡すべきである」と。長い時を経て、老齢を理由に帰郷を請うた。翰林学士承旨・資善大夫に任ぜられ、致仕したが、集賢大学士は従前の通りであった。大徳十一年(1307年)、卒去。享年七十五。

孔孫は平素より文学で名を知られ、また琴をよくし、山水竹石の画に巧みで、騎射は特に精妙であった。そして朝廷に立つに及んでは、正しい言論と嘉言は、見るべきものがあり、士論はこれを敬服した。