巻174

列傳第六十一:姚燧、郭貫、夾谷之奇、劉賡、耶律有尚、郝天挺、張孔孫

姚燧

姚燧、字は端甫。世系は燧の伯父樞の傳に見える。父は格。燧は三歳で孤となり、伯父の樞に養育された。樞は蘇門に隠居し、燧が蒙昧であるとして、教え督めること甚だ急であった。燧は堪えられず、楊奐が書を馳せてこれを止めて言うには、「燧は令器なり。成長すれば自ずから成るであろう。どうして急ぐことがあろうか」と。また娘を娶らせることを許した。十三歳の時、蘇門で許衡に会い、十八歳で初めて長安で学を受けた。当時まだ文を作ったことはなく、同輩の作ったものを見ては、ただ古人に及ばないのを見るのみで、心に是としなかった。二十四歳で初めて韓退之の文を読み、試みに習ってこれを作ると、人々は作者の風格があると言った。少し許衡に正してもらうと、衡もその文辞を賞賛し、かつ戒めて言うには、「弓矢は物として、盗賊を待つためのものである。もし盗賊がこれを得れば、また人を待つことになろう。文章は確かに士子が名声を発揮する利器ではあるが、先ず一世の名声を得たならば、どうして人の使役に応じることができようか。その人でない者に与えることと、その人でない者を拒むことは、罪は同じである。身をこの世に全うする道ではない」と。

原文姚燧字端甫,世系見燧伯父樞傳。父格,燧生三歲而孤,育於伯父樞。樞隱居蘇門,謂燧蒙暗,教督之甚急,燧不能堪,楊奐馳書止之曰:「燧,令器也。長自有成爾,何以急為!」且許醮以女。年十三,見許衡於蘇門,十八,始受學於長安。時未嘗為文,視流輩所作,惟見其不如古人,則心弗是也。二十四,始讀韓退之文,試習為之,人謂有作者風。稍就正於衡,衡亦賞其辭,且戒之曰:「弓矢為物,以待盜也;使盜得之,亦將待(之)〔人〕。文章固發聞士子之利器,然先有能一世之名,將何以應人之見役者哉!非其人而與之,與非其人而拒之,鈞罪也,非周身斯世之道也。」

至元七年、許衡が国子祭酒として貴冑を教えることとなり、旧弟子十二人を召すよう奏上した。燧は太原から駅伝で館下に至らせた。燧は三十八歳で、初めて秦王府文学となった。間もなく、奉議大夫を授かり、兼ねて陝西・四川・中興等路学校提挙を務めた。十二年、秦王の命により、庸・蜀を安輯した。翌年、漢嘉が新たに帰附したので、入ってその民を諭した。また命を受けて合州の王立を招いた。さらに翌年、夔府を撫循した。合わせて三度蜀に使いし、いずれもその職に称した。十七年、陝西漢中道提刑按察司副使に任じられた。延安で囚人を録し、連座して捕らえられた者を皆釈放したので、人々はその明断に服した。山南湖北道に転じた。澧州を巡察し、学を興し民を賑い、孜々として及ばざるが如くであった。二十三年、湖北より旨を奉じて朝廷に急行した。翌年、翰林直学士となった。二十七年、大司農丞を授かった。

原文至元七年,衡以國子祭酒教貴冑,奏召舊弟子十二人,燧自太原驛致館下。燧年三十八,始為秦王府文學。未幾,授奉議大夫,兼提舉陝西、四川、中興等路學校。十二年,以秦王命,安輯庸、蜀。明年,漢嘉新附,入諭其民。又奉命招王立於合州。又明年,撫循夔府。凡三使蜀,皆稱職。十七年,除陝西漢中道提刑按察司副使。錄囚延安,逮繫詿誤,皆縱釋之,人服其明決。調山南湖北道。按部澧州,興學賑民,孜孜如弗及。二十三年,自湖北奉旨趨朝。明年,為翰林直學士。二十七年,授大司農丞。

元貞元年、翰林学士として召され世祖実録を修した。初めて検閲官を置き、故事を究明・検証したが、燧と侍読の高道凝が総裁を務め、書は完成した。大徳五年、中憲大夫・江東廉訪使を授かり、病を理由に太平に移った。九年、中奉大夫・江西行省参知政事に任じられた。

原文元貞元年,以翰林學士召修世祖實錄。初置檢閱官,究覈故事,燧與侍讀高道凝總裁之,書成。大德五年,授中憲大夫、江東廉訪使,移病太平。九年,拜中奉大夫、江西行省參知政事。

至大元年、仁宗が藩邸におられた時、宮師府を開いた。燧はすでに七十歳であったが、正字の呂洙を遣わし、漢が四皓を徴した故事にならって、燧を太子賓客として起用した。間もなく、承旨学士に任じ、まもなく太子少傅に任じられた。武宗が面諭すると、燧は拝辞して謝して言うには、「昔、臣の先伯父の樞がかつてこの官に任ぜられた時、なお敢えて拝受しませんでした。臣どうして受けられましょうか」と。翌年、栄禄大夫・翰林学士承旨・知制誥兼修国史を授かった。四年、告を得て南に帰ったが、中書が承旨として召した。翌年、また召された。燧は病を理由に、いずれも赴かなかった。家で卒した。七十六歳。諡は文。

原文至大元年,仁宗居藩邸,開宮師府,燧年已七十,遣正字呂洙,如漢徵四皓故事,起燧為太子賓客。未幾,除承旨學士,尋拜太子少傅。武宗面諭燧,燧拜辭,謝曰:「昔臣先伯父樞,嘗除是官,尚不敢拜,臣何敢受!」明年,授榮祿大夫、翰林學士承旨、知制誥兼修國史。四年,得告南歸,中書以承旨召;明年,復召。燧以病,俱不赴。卒于家,年七十六。諡曰文。

燧はかつて蘇門山にいた時、『通鑑綱目』を読み、国統が逐年に散在して、一覧してその離合の概略を得られないのを常に問題としていた。江東で病を告げた時、『国統離合表』若干巻を著し、年を経とし国を緯として、『史記』の諸表の如くし、朱熹の凡例の後に付け加えようとした。また徽本と建本の二つの版本を校讎し、三つの誤りを得て、表の首に序を付けた。おおよそ次のように言う。「その一、建安二十五年、徽本は『延康元年』と作す。凡例に、中年に改元する場合、興廃存亡の際には、以前を正とする、とある。建本に従うべきで、建安二十五年の下に注して『改元延康』とすべきである。その二、章武三年、徽本は大書して『三年、後主禅建興元年』とし、建本には『三年』がなく、則ち昭烈に終わりがない。徽本・建本ともに『後主』と言うが、君臣父子の教えにとって害するところ甚だ大である。これは十四巻から十六巻までに始まり、後主と称するものは皆、刊正を失っているのである。三年の下に注して『帝禅建興元年』とし、明年に大書して『帝禅建興二年』とすべきで、そうすれば前後に齟齬がないであろう。その三、天宝十五載に注して『粛宗皇帝至徳元載』とし、明年にはただ『二載』と言うのみで、始まりがない。大書して『二載』の上に『粛宗皇帝至徳』を加え、上を開元と同じくすべきである。この三つは皆誤りであるが、建安の取るべき点、至徳の除くべき点は、統は固より存在する。章武から建興に至るまで、わずか三年であるのに、急に帝と父、主と子の違いが生じるのは、統に大いに関係がないと言えようか」と。詳細は序篇に見える。

原文燧先在蘇門山時,讀通鑑綱目,嘗病國統散於逐年,不能一覽而得其離合之概,至告病江東,著國統離合表若干卷,年經而國緯之,如史記諸表,將附朱熹凡例之後,復取徽、建二本校讎,得三誤焉,序於表首。略曰:「其一,建安二十五年,徽本作『延康元年』。凡例:中歲改元,在興廢存亡之際,以前為正。當從建本,於建安二十五年下,注『改元延康』。其二,章武三年,徽本大書『三年,後主禪建興元年』,建本無『三年』,則昭烈為無終。徽、建皆曰『後主』,於君臣父子之教,所害甚大,是起十四卷、盡十六卷,凡曰後主者,皆失於刊正也。當於三年下注『帝禪建興元年』,明年大書『帝禪建興二年』,庶前後無齟齬也。其三,天寶十五載注『肅宗皇帝至德元載』,明年惟曰『二載』,為無始。當大書『二載』上加『肅宗皇帝至德』,使上同於開元。三者鈞失,而建安之取,至德之去,統固在也。若章武之距建興,纔三年耳,遽有帝父主子之異,豈不於統大有關乎!」詳見序篇。

燧の学問は許衡に得るところがあり、窮理致知から出発し、自ら実践に及んで、世の名儒となった。文を作るに広大にして詳しく、豪放だが放縦でなく、剛直だが厳しすぎず、ゆったりとして盛大で、西漢の風格があり、宋末の弊習を一変させた。延祐以前においては、文章の大家で彼に先んじる者はなかった。ある者が世に燧を知る者がないと言うと、「知るのみならず、読んで句点を打て、句を得てその意味を得る者さえ、なお少ない」と言った。燧は言う。「世に固より空桑を厭いて鼓缶の音を聞こうと思う者がいようか。しかし文章は道によって軽重が決まり、道は文章によって軽重が決まる。あのまた班孟堅のような者が現れ、古今の人物を表にして九品中に必ず一等を欧陽子に置くならば、聖賢から去ること等級あって遠くないのであり、その文は謝や尹に知られなくても、後世に行われるのに妨げはない。一言で古に近いものがあって、将来に聞こえないことがあろうか」と。当時、孝子順孫がその先祖の徳を発揮しようと思えば、必ず燧の文を得て初めて伝信することができた。得られない者は、常に愧耻とした。故に三十年の間、国朝の名臣世勲・顕行盛徳は、皆燧が記したものである。文を請いに来る者があれば、必ずその行い業績が嘉すべきものであることを確認してから許可し、言葉に過分な称美はなかった。また少し広く宴楽を設けると、燧は喜んで筆を取って大書したが、そうでなければ容易に得られなかった。

原文燧之學,有得於許衡,由窮理致知,反躬實踐,為世名儒。為文閎肆該洽,豪而不宕,剛而不厲,舂容盛大,有西漢風,宋末弊習,為之一變。蓋自延祐以前,文章大匠,莫能先之。或謂世無知燧者,曰:「豈惟知之,讀而能句,句而得其意者,猶寡。」燧曰:「世固有厭空桑而思聞鼓缶者乎,然文章以道輕重,道以文章輕重。彼復有班孟堅者出,表古今人物,九品中必以一等置歐陽子,則為去聖賢也有級而不遠,其文雖無謝、尹之知,不害於行後。豈有一言幾乎古,而不聞之將來乎!」當時孝子順孫,欲發揮其先德,必得燧文,始可傳信;其不得者,每為愧耻。故三十年間,國朝名臣世勳、顯行盛德,皆燧所書。每來謁文,必其行業可嘉,然後許可,辭無溢美。又稍廣置燕樂,燧則為之喜而援筆大書,否則弗易得也。

当時、高麗の瀋陽王父子は帝室と婚姻を結び、財産を傾けて朝臣と交わった。ある日、燧の詩文を求めようとしたが、燧は惜しんで与えず、旨を奉じて初めて与えた。王は謝礼として幣帛・金玉・名画五十篚を贈り、盛大に並べて燧に届けた。燧は即時に諸属官及び史胥・侍従に分け与え、金銀だけを留めて翰林院に渡し公用の器皿とし、燧は少しも取らなかった。人が尋ねると、燧は言う。「あの藩邦小国は、ただ貨利を重んじるのみである。私はこれを軽んじて、大朝がこれを意に介さないことを知らしめるのだ」と。その器量見識の豪邁、人に過ぎることはこのようであった。しかしやや才を恃み、趙孟頫・元明善の輩を軽視したので、君子はこれをもって彼を軽んじた。平生の著作に、『牧庵文集』五十巻が世に行われている。子は三人:壎、圻、城。

原文時高麗瀋陽王父子,連姻帝室,傾貲結朝臣。一日,欲求燧詩文,燧靳不與,至奉旨,乃與之。王贈謝幣帛、金玉、名畫五十篚,盛陳致燧。燧即時分散諸屬官及史胥侍從,止留金銀,付翰林院為公用器皿,燧一無所取。人問之,燧曰:「彼藩邦小國,唯以貨利為重,吾能輕之,使知大朝不以是為意。」其器識豪邁過人類如此。然頗恃才,輕視趙孟頫、元明善輩,故君子以是少之。平生所著,有牧庵文集五十卷行于世。子三:壎,圻,城。

郭貫

郭貫、字は安道、保定の人。才能と行いによって推挙され、枢密中書掾となり、南康路経歴に転じ、広西道提刑按察司判官に抜擢されたが、例格に会い、済南路経歴を授かった。至元二十七年、監察御史に任じられた。詔を承って江北沿淮の草地を分け、淮西宣慰使昂吉児父子の専権を弾劾し、久しく遷調せず、政を蝕み民を害することを糾した。三十年、湖南粛政廉訪司事を僉となった。

原文郭貫字安道,保定人。以才行見推擇,為樞密中書掾,調南康路經歷,擢廣西道提刑按察司判官,會例格,授濟南路經歷。至元二十七年,拜監察御史。承詔分江北沿淮草地,劾淮西宣慰使昂吉兒父子專權,久不遷調,蠹政害民。三十年,僉湖南肅政廉訪司事。

大徳初年、湖北道に転じ、「四省の軍馬を以て、数万の兵をもって八百媳婦国を征伐し、炎熱瘴癘の万里不毛の地に深入りするは、国に益なし」と上言した。五年、江西道に転じ、飢民を救恤し、善政あり、召されて御史台都事となる。八年、集賢待制に転じ、翰林直学士に進み、詔を奉じて遼陽行省平章政事別速台徹里帖木児とともに高麗鎮撫に赴く。十一年、召されて河東廉訪副使となる。

原文大德初,遷湖北道,言「令四省軍馬,以數萬計,征八百媳婦國,深入炎瘴萬里不毛之地,無益於國」。五年,遷江西道,賑恤饑民,有惠政,入為御史臺都事。八年,遷集賢待制,進翰林直學士,奉詔與遼陽行省平章政事別速(合)〔台〕徹里帖木兒往鎮高麗。十一年,召為河東廉訪副使。

至大二年、仁宗が五台山に至り、郭貫が進見すると、仁宗は因って問うた、「廉訪使滅里吉歹はどうして善政があるのか」。左右が答えて言うには、「皆、副使郭貫の教えによるものです」。因って郭貫に瑪瑙の数珠・金織の文幣を賜い、召されて吏部考功郎となり、遂に治書侍御史に拝される。四年、礼部尚書に除され、帝自らその官階を「嘉議大夫」と書いて、有司に授けた。

原文至大二年,仁宗至五臺山,貫進見,仁宗因問:「廉訪使滅里吉歹何以有善政?」左右對曰:「皆副使郭貫之教也。」因賜貫瑪瑙數珠、金織文幣,入為吏部考功郎,遂拜治書侍御史。四年,除禮部尚書,帝親書其官階曰嘉議大夫,以授有司。

皇慶元年、淮西廉訪使に抜擢されるが、まもなく留め置かれて派遣されず、侍御史に改め、俄かに翰林侍講学士に転じる。翌年、出て淮西廉訪使となる。「常平倉を設置し、各路の農事を考課すべし」と建言する。延祐二年、召されて中書参知政事に拝される。翌年、左丞に昇進し、集賢大学士を加えられる。五年、太子詹事に除される。郭貫が言うには、「皇太子が金宝を受けて既に三年、冊立の礼を行うべきである。また、輔導の官は早く選置すべきである」。これに従う。六年、太子賓客を加えられ、告暇して帰郷する。

原文皇慶元年,擢淮西廉訪使,尋留不遣,改侍御史,俄遷翰林侍講學士。明年,出為淮西廉訪使。建言「宜置常平倉,考校各路農事」。延祐二年,召拜中書參知政事。明年,陞左丞,加集賢大學士。五年,除太子詹事。貫言:「皇太子受金寶已三年,宜行冊禮;又,輔導之官,早宜選置。」從之。六年,加太子賓客,謁告還家。

至治元年、再び起用されて集賢大学士となるが、まもなく致仕する。泰定元年、翰林学士承旨に転じるが、起きず。至順二年、病により卒す。享年八十二。光禄大夫・河南行省平章政事・柱国を贈られ、蔡国公を追封され、諡して文憲という。郭貫は博学で、篆籀に精通し、当世の冊宝・碑額は多くその手によるという。

原文至治元年,復起為集賢大學士,尋致仕。泰定元年,遷翰林學士承旨,不起。至順二年,以疾卒,年八十有二。贈光祿大夫、河南行省平章政事、柱國,追封蔡國公,諡文憲。貫博學,精於篆籀,當世冊寶碑額,多出其手云。

夾谷之奇

夾谷之奇、字は士常。その先祖は女真の加古部より出で、後に夾谷と訛り、馬紀領撒曷水より滕州に移り住む。之奇は幼くして孤となり、舅の杜氏がこれを連れて東平に至り、因って康曄に師事する。済寧教授に授けられ、中書省掾に辟召される。大軍が南伐して宋を征する時、行省左右司都事に授けられる。当時、行省官と中書の権臣に不和があり、特に使者を遣わしてその財用を査核させたが、之奇は文書を職務としていたため、これも審問を受けた。張弘範がその配下を率いて使者に詣り言うには、「夾谷都事は平素より公正清廉であり、若し少しでも侵漁があれば、弘範は連座すべきである」。御史台が設立されるに及び、之奇は江南浙西道提刑按察司事に抜擢され、既にして江北淮東に移る。

原文夾谷之奇字士常,其先出女真加古部,後訛為夾谷,由馬紀領撒曷水徙家於滕州。之奇少孤,舅杜氏攜之至東平,因受業於康曄。授濟寧教授,辟中書省掾。大兵南伐宋,授行省左右司都事。時行省官與中書權臣有隙,特遣使覈其財用,而之奇職文書,亦被按問。張弘範率其屬詣使者言:「夾谷都事素公清,若少有侵漁,弘範當與連坐。」會御史臺立,〔擢〕之奇僉江南浙西道提刑按察司事,既而移僉江北淮東。

至元十九年、召されて吏部郎中となり、官吏の昇降・淘汰の法を定め、令式として著す。大旱があり、有司が穀価を平準して高騰の患いを抑えようと議した。之奇は言う、「経費を省き、土木の役を止めるに如くはない。これによってこそ和気を召し、災変を消し、豊作の期が得られよう」。

原文至元十九年,召為吏部郎中,立陟降澄汰之法,著為令式。歲大旱,有司議平穀價,以遏騰涌之患。之奇言:「莫若省經費,輟土木之役,庶足召和氣,弭災變,而有豐稔之期。」

二十一年、左賛善大夫に転ず。当時、裕宗が皇太子であり、之奇が進見する度に必ず座を賜い、待遇は甚だ厚かった。権臣で均輸法によって国賦を増やそうとする者がおり、提刑按察司がその事を阻むことを慮り、按察司と転運司を一つの職に併合するよう請うた。詔して群臣を集めて議する。之奇は言う、「按察司は諸路を統制し、奸悪を摘発するもので、責任軽からず。若し理財をさせれば、心労し事冗にして、自らを繕い救うのに暇あらず、又どうして他人を糾弾できようか。併合すべきではない」。事は遂に止む。また、諭徳の李謙とともに、時政に関する十か条の事柄を列挙し、皇太子上に上奏した。一に心を正す、二に親を睦まじくする、三に倹を崇める、四に幾諫(微かな諫言)を行う、五に兵を収める、六に賢を親しむ、七に弊を革める、八に文を尚ぶ、九に律を定める、十に名を正す。皇太子が薨じるに及び、翰林直学士に除され、吏部侍郎に改め、遂に侍御史に拝される。二十五年、母の喪に服す。吏部尚書として起復を命じられるが、たびたび喪に終わることを請い、許されず。翌年、卒す。

原文二十一年,遷左贊善大夫。時裕宗為皇太子,每進見,必賜坐,顧遇甚優。權臣有欲以均輸法益國賦者,慮提刑按察司撓其事,請令與轉運司併為一職,詔集羣臣議之。之奇言:「按察司者,控制諸路,發擿姦伏,責任匪輕。若使理財,則心勞事冗,將彌縫自救之不暇,又安能繩糾他人哉!併之弗便。」事遂寢。又與諭德李謙,條具時政十事,上之皇太子:一曰正心,二曰睦親,三曰崇儉,四曰幾諫,五曰戢兵,六曰親賢,〔七曰革敝〕,八曰尚(友)〔文〕,九曰定律,十曰正名。會皇太子薨,除翰林直學士,改吏部侍郎,遂拜侍御史。二十五年,丁母憂,以吏部尚書起復,屢請終制,不許。明年,卒。

之奇は思慮識見が精細周密で、大綱に明るく、しかも細微を疎かにせず、政事は卓然として称えられるに足りた。吏学に老練な者でも、及ばないと自ら認めた。文章は特に簡潔厳正で法があり、多く世に伝わるという。

原文之奇慮識精審,明於大體,而不忽細微,為政卓卓可稱;雖老於吏學者,自以為不及。為文章尤簡嚴有法,多傳於世云。

劉賡

劉賡、字は熙載、洺水の人。五世の祖の劉逸は郡吏として獄事を治め、陰徳があった。祖父の劉粛は左三部尚書であった。劉賡は幼くして文名があり、翰林学士王磐に師事した。至元十三年、推薦により国史院編修官に授けられる。十六年、応奉翰林文字に転ず。司徒府長史に辟召され、なお応奉を兼ねる。外補され、同知德州事となり、考課満了して、太廟署丞・太常博士に抜擢され、監察御史に拝される。この時、御史中丞崔彧は気勢を張って人に接するのを好み、他の御史が拝謁すると、平然としてこれを受けることもあったが、劉賡にだけは上客として遇した。大徳二年、翰林直学士に昇進。六年、陝西に宣撫使として赴く。侍講学士より学士に昇る。

原文劉賡字熙載,洺水人。五世祖逸,以郡吏治獄,有陰德。祖肅,為(右)〔左〕三部尚書。賡幼有文名,師事翰林學士王磐。至元十三年,用薦者授國史院編修官。十六年,遷應奉翰林文字。辟為司徒府長史,仍兼應奉;補外,同知德州事,考滿,擢太廟置丞、太常博士,拜監察御史。是時,御史中丞崔彧,好盛氣待人,他御史拜謁,或平受之,獨見賡,則待以上客。大德二年,陞翰林直學士。六年,奉使宣撫陝西。由侍講學士陞學士。

至大二年、礼部尚書に転じ、なお翰林学士を兼ねる。まもなく侍御史に拝される。間もなく、翰林に戻って学士承旨となり、国子祭酒を兼ねる。国学の故事では、伴読生は順次に出て吏に補されるが、先を争って出ようとしない者はなかった。時に一人の学生が、親が老いて貧しかった。同舎の生で名次が前にある者が、博士を通じて告げて言うには、「私は年齢が少し若いので、彼に先を譲りたい」。劉賡は言う、「譲りは、徳の恭しきものである」。その譲りに従い、別に書を作ってその人を推薦すると、朝廷はかえって先に彼を用いた。これより六館の士は皆、譲ることが美徳であることを知った。

原文至大二年,遷禮部尚書,仍兼翰林學士;尋拜侍御史;頃之,還翰林為學士承旨,兼國子祭酒。國學故事,伴讀生以次出補吏,莫不爭先出。時有一生,親老且貧,同舍生有名在前者,因博士以告曰:「我齒頗少,請讓之先。」賡曰:「讓,德之恭也。」從其讓,別為書薦其人,朝廷反先用之。自是六館之士,皆知讓之為美德也。

皇慶元年、集賢大学士に転じ、なお国子祭酒を兼ねる。延祐元年、再び承旨となる。六年、太子賓客に拝される。七年、再び集賢に入って大学士となる。まもなくまた翰林に入って承旨となる。泰定元年、光禄大夫を加えられる。会議を集めて尊号を上奏しようとした時、劉賡のみが強くその不可を主張し、事は遂に止む。天暦元年卒。享年八十一。

原文皇慶元年,遷集賢大學士,仍兼國子祭酒。延祐元年,復為承旨;六年,拜太子賓客;七年,復入集賢為大學士;尋又入翰林為承旨。泰定元年,加光祿大夫。會集議上尊號,賡獨抗言其不可,事遂已。天曆元年卒,年八十一。

劉賡は長く文翰を司り、当時の大規模な制作は多くその手による。高齢で徳望があり、朝廷に推重されたという。

原文賡久典文翰,當時大製作多出其手,以耆年宿德,為朝廷所推重云。

耶律有尚

耶律有尚は字を伯強といい、遼の東丹王の十世の孫である。祖父は金の時代に東平に官職を得て、そこに家を構えた。有尚は資質と識見が人に優れ、学問に篤く志し、許衡の門下で学び、高弟と称された。その学問は性理に深く、特に誠を根本とし、儀容と辞令は規矩に合致し、知る者も知らぬ者も、有道の君子として敬服した。

原文耶律有尚字伯強,遼(金)〔東〕丹王十世孫。祖父在金世嘗官于東平,因家焉。有尚資識絕人,篤志于學,受業許衡之門,號稱高第弟子。其學邃於性理,而尤以誠為本,儀容辭令,動中規矩,識與不識,莫不服其為有道之君子。

至元八年、許衡が中書左丞を罷免され、集賢大学士に任じられ、国子祭酒を兼ねて、国人の子弟を教えることとなり、門人十二人を斎長として伴読させるよう奏上し、有尚もその一人であった。十年、許衡が免職を願い出て郷里に帰ると、朝廷は有尚らを助教とし、その後学事を継承させた。しばらくして、監察御史に任じられたが赴任せず、秘書監丞に任じられ、薊州の知州として出向し、寛簡な政治で民情を得た。

原文至元八年,衡罷中書左丞,除集賢大學士,兼國子祭酒,以教國人之子弟,乃奏以門人十二人為齋長以伴讀,有尚其一也。十年,衡告免還鄉里,朝廷乃以有尚等為助教,嗣領其學事。居久之,拜監察御史,不赴。除秘書監丞,出知薊州,為政以寬簡得民情。

裕宗が東宮にあった時、詹事院長史に召された。有尚が去ってから、国学の事はかなり廃れ、朝廷の議論では有尚でなければ許衡の後を継ぐ者はいないとして、国子司業に任じた。当時学館は未だ建てられず、師弟は皆民家に寓居していたが、有尚はたびたびこれを言上し、二十四年、朝廷はようやく大規模に学舎を建て、国子監を設立し、監官を置き、弟子員を増やした。そこで有尚は国子祭酒に昇進し、儒風は大いに振るった。二十七年、親が年老いたため、職を辞して帰郷した。

原文裕宗在東宮,召為詹事院長史。自有尚既去,而國學事頗廢,廷議以謂非有尚無足以繼衡者,除國子司業。時學館未建,師弟子皆寓居民屋,有尚屢以為言,二十四年,朝廷乃大起學舍,始立國子監,立監官,而增廣弟子員。於是有尚陞國子祭酒,儒風為之丕振。二十七年,以親老,辭職歸。

大徳に改元すると、再び国子祭酒に召された。まもなく集賢学士に任じられ、その職を兼ねた。ほどなく太常卿に転じ、さらに集賢学士に転じた。八年、父を葬って郷里に帰った。やがて朝廷は老儒を用いて安定させようと考え、安車で家に召し出したが、たびたび辞退しても許されず、再び起用されて昭文館大学士となり、国子祭酒を兼ね、階は中奉大夫となった。

原文大德改元,復召為國子祭酒。尋除集賢學士,兼其職。頃之,遷太常卿,又遷集賢學士。八年,葬父還鄉里。已而朝廷思用老儒,以安車召之于家,累辭不允,復起為昭文館大學士,兼國子祭酒,階中奉大夫。

有尚は前後五度国学に在職し、その教えは義理を根本とし、省察は必ず真摯であり、恭敬を先とし、実践は必ず端正で誠実であった。凡そ文詞の小技で、綴緝や彫琢など、聖人の大道を破壊するに足るものは、すべて排除した。これにより諸生は正学に趨り、正道を尊び、経術を尊び、躬行を務め、皆成徳達材の士となった。おおよそその教法は許衡の旧法を遵守し、勤謹さを加えた。自ら学者の師表となって数十年、海内で尊崇され、かつて許衡を尊んだのと同じようであった。有尚は年老いたため、力いっぱい帰郷を請い、朝廷はさらに楮幣七千緡を下賜し、その家で賜った。八十六歳で卒去し、諡を文正と賜った。

原文有尚前後五居國學,其立教以義理為本,而省察必真切;以恭敬為先,而踐履必端慤。凡文詞之小技,綴緝雕刻,足以破裂聖人之大道者,皆屏黜之。是以諸生知趨正學,崇正道,以經術為尊,以躬行為務,悉為成德達材之士。大抵其教法一遵衡之舊,而勤謹有加焉。身為學者師表者數十年,海內宗之,猶如昔之宗衡也。有尚既以年老,力請還家,朝廷復頒楮幣七千緡,即其家賜之。卒年八十六,賜諡文正。

郝天挺(子の郝佑を付す)

原文郝天挺子佑附

郝天挺は字を継先といい、朵魯別族の出身で、曾祖より以前は安粛州に住み、父の和上拔都魯は太宗・憲宗の時代に多くの武功を立て、河東行省五路軍民万戸となった。

原文郝天挺字繼先,出於朵魯別族,自曾祖而上,居安肅州,父和上拔都魯,太宗、憲宗之世多著武功,為河東行省五路軍民萬戶。

天挺は英爽で剛直、志略があり、遺山元好問に学び、勲臣の子として世祖に召し出され、その容止を嘉されて、旨があった。「政事に任ずるにふさわしく、文字を執らせ、春宮の宿衛に備えよ」と。裕宗は彼を厚く遇した。雲南に省が建てられ、官属が選ばれると、参議雲南行尚書省事に任じられ、まもなく参知政事に昇進し、さらに陝西漢中道廉訪使に抜擢された。間もなく吏部尚書として朝廷に入り、まもなく陝西行御史台中丞に任じられ、さらに四川行省参政及び江浙行省左丞に転じたが、いずれも赴任しなかった。中書左丞に任じられ、宰相と事を論じるに、合わないことがあれば、面と向かって叱責した。ある日、奏事を明らかに述べて允当であったため、特に黄金百両を賜ったが、受け取らなかった。帝は言った。「汝に利を与えるためではない、ただ汝がよく言うことを褒めるのだ」と。

原文天挺英爽剛直,有志略,受業於遺山元好問,以勳臣子,世祖召見,嘉其容止,有旨:宜任以政,俾執文字,備宿衛春宮。裕宗遇之甚厚。建省雲南,選官屬,遂除參議雲南行尚書省事,尋陞參知政事,又擢陝西漢中道廉訪使;未幾,入為吏部尚書,尋除陝西行御史臺中丞,又遷四川行省參政及江浙行省左丞,俱不赴。拜中書(右)〔左〕丞,與宰相論事,有不合,輒面斥之。一日,以奏事敷陳明允,特賜黃金百兩,不受。帝曰:「非利汝也,第旌汝肯言耳。」

成宗が崩御すると、仁宗は太后の命により、まず大難を定め、武宗が朔方から還ると、正統を継いで帝位につき、策定の際、天挺は力があった。仁宗が即位すると、故老の天挺と少保張閭ら十人を召し集め、大政を共に議し、尚書省の弊を革めて、皇慶の治を成し遂げた。また地方に出て江西・河南二省の右丞となり、召されて御史中丞に任じられた。入朝して謁見し、まず紀綱の要を述べ、狩猟を例えて言った。「御史の職は奸を撃つにあり、鷹が禽を揚げるが如し。弱き者は獲やすく、力大なる者は必ず人力を借りねばならぬ。さもなくば、前の禽を失うのみならず、なお鷹を傷つける患いがある」と。帝はその言葉を嘉し、退出すると、台臣は皆これを賀した。風紀は大いに振るった。また上疏して七事を陳べた。名爵を惜しみ、浮費を抑え、括田を止め、任使を久しくし、好事を論じ、農を奨励して本とし、学を励まして士を養う、と。詔して中書省にこれを施行させた。まもなく外に出て閑職に就かせ、河南行省平章政事に任じた。当時河南王卜憐吉歹が丞相であり、師礼をもって遇したため、政化が大いに行われた。

原文成宗崩,仁宗以太后命,首定大難,及武宗還自朔方,遂入正大統,定策之際,天挺與有力焉。仁宗臨御,收召故老天挺與少保張閭等十人,共議大政,革尚書省之弊,遂成皇慶之治。又出為江西、河南二省右丞,召拜御史中丞。入見,首陳紀綱之要,以獵為喻曰:「御史職在擊奸,猶鷹揚焉禽之,弱者易獲也,其力大者,必借人力。不然,不惟失其前禽,仍或有傷鷹之患矣。」帝嘉其言,既出,臺臣皆以為賀。風紀大振。又上疏陳七事,曰惜名爵、抑浮費、止括田、久任使、論好事、奬農務本、勵學養士,詔中書省舉行之。尋俾均逸于外,拜河南行省平章政事。時河南王卜憐吉歹為丞相,待以師禮,由是政化大行。

皇慶二年に卒去、六十七歳。光禄大夫・中書平章政事・柱国を追贈され、冀国公に追封され、諡は文定。天挺はかつて『雲南実録』五巻を編纂し、また『唐人鼓吹集』十巻に注を加え、世に行われた。

原文皇慶二年卒,年六十七。贈光祿大夫、中書平章政事、柱國,追封冀國公,諡文定。天挺嘗修雲南實錄五卷,又註唐人鼓吹集一十卷,行于世。

子の郝佑は字を君輔といい、小字を朵魯別台という。宿衛から補官され、仁宗の時に殿中侍御史に任じられ、廉直で著名であり、大いに知遇を受けた。陝西行省参知政事に転じ、陝西行御史台侍御史に任じられた。

原文子佑,字君輔,小字朵魯別台。由宿衛補官,仁宗時拜殿中侍御史,以廉直著名,大受知遇。遷陝西行省參知政事,拜陝西行御史臺侍御史。

張孔孫

張孔孫は字を夢符といい、その祖先は遼の烏若部の出身で、金人に併合され、隆安に遷った。父の之純は東平万戸府参議であり、夜に孔子廟に参拝する夢を見て、嘉果を賜り、やがて孔孫が生まれたため、衍聖公に名を乞い、今の名を得た。成長すると、文学で名を知られ、万戸府議事官に辟召された。万戸厳忠範の兄が陝西行省平章政事となり、孔孫を招聘したが、母が老いているため応じなかった。

原文張孔孫字夢符,其先,出遼之烏若部,為金人所并,遂遷隆安。父之純,為東平萬戶府參議,夜夢謁孔子廟,得賜嘉果,已而孔孫生,因丐名於衍聖公,遂名今名。既長,以文學名,辟萬戶府議事官,萬戶嚴忠範之兄為陝西行省平章政事,聘孔孫,以母老不應。

当時汴梁が既に陥落し、太常楽師が東平に流寓し、旧章は欠落して、登歌一章のみが残っていた。世祖が潜邸にあった時、かつて楽師を日月山に召して観覧させたが、この時、徐世隆が帝に奏上し、宮県及び文・武二舞を増設して大典に備えるべきと述べた。そこで詔して徐世隆を太常卿とし、孔孫を奉礼郎としてその副とし、楽師を監督させ、習熟して京師に献上した。廉希憲が政府に在るとき、掾に辟召した。安童が宰相となると、特に礼遇して重んじ、戸部員外郎を授け、南京総管府判官として出向した。

原文時汴梁既下,太常樂師流寓東平,舊章缺落,止存登歌一章而已。世祖居潛邸,嘗召樂師至日月山觀之,至是,徐世隆奏帝,宜增設宮縣及文、武二舞,以備大典。因詔徐世隆為太常卿,而孔孫以奉禮郎為之副,以董樂師,肄成,獻之京師。廉希憲居政府,辟為掾。及安童為相,尤禮重之,授戶部員外郎,出為南京總管府判官。

当時ちょうど襄樊を攻め落とすことが議され、朝廷は兵を用いることを急いでいた。孔孫は言った。「今、越境して私販した罪に坐する者は、動かすに千数を以てする。自新の条を開き、戦功を立てて死罪を贖うことを許すべきである」と。朝廷の議論はこれを採用した。四川道提刑按察司事に僉とされ、まもなく湖北道提刑按察副使に昇進した。巴陵に行部すると、囚人が三百人おり、龔乙が銀利を興すことを建言したことに怒り、その墳墓を暴き、家を焼き、焼死者三人を出した。有司は真の図財殺人として罪に坐せようとしたが、孔孫はその情状を酌量して罪を減じた。浙西提刑按察副使に転じ、同知保定路総管府事に改められ、まもなく侍御史に任じられ、行御史台事を執り行った。

原文時方議下襄樊,朝庭急用兵,孔孫謂:「今以越境私販坐罪者,動以千數,宜開自新之條,俾得效戰贖死。」朝論采之。僉四川道提刑按察司事,尋陞湖北道提刑按察副使。行部巴陵,有囚三百人,因怒龔乙建言興銀利,發其墳墓,而燒其家,燒死者三人,有司以真圖財殺人坐之,孔孫原其情,減罪。遷浙西提刑按察副使,改同知保定路總管府事,俄拜侍御史,行御史臺事。

至元二十二年(1285年)、安童が再び宰相となると、帝に言上して曰く、「阿合馬が専権をふるって十年、その親族や縁故で迎合する者は、しばしば急激に昇進し、顕位を占めております。ただ劉宣と張孔孫の二人のみが、淡々として従来の節操を守り、終始一貫しております」と。そこで宣を吏部尚書に任じ、孔孫を礼部侍郎に任じた。まもなく孔孫を礼部尚書に昇進させ、燕南提刑按察使に抜擢した。二十八年(1291年)、提刑按察司が肅政廉訪司に改められると、引き続きその長官(使)となり、大名に赴任して治めた。一度に、没収した贓物で粟五千斛を買い入れ、飢えた民を救済した。僉河南江北行中書省事に任ぜられた。間もなく、大名路総管に任ぜられ、府尹を兼ね、学校を大いに興した。ある者が旧河隄三百余里を太后に献上しようとした際、ただちに上奏文を奉り、ことごとく小民に返還すべきであると述べた。帝はこれに従った。淮東道肅政廉訪司使に抜擢され、塩場での裁判に関与した際、民の尹執中兄弟が強盗の罪をでっち上げられて自白していたのを、平反した。召還されて集賢大学士・中奉大夫に任ぜられ、中書省事を商議した。丞相完澤が没すると、孔孫は陳天祥とともに封事を奉り、和禮霍孫を宰相に推挙した。

原文至元二十二年,安童復入相,言于帝曰:「阿合馬顓政十年,親故迎合者,往往驟進,據顯位;獨劉宣、張孔孫二人,恬守故常,終始如一。」乃除宣吏部尚書,孔孫禮部侍郎。尋陞孔孫禮部尚書,擢燕南提刑按察使。二十八年,提刑按察司改肅政廉訪司,仍為使,蒞治于大名,一以所沒贓糴粟五千斛,賑饑民。拜僉河南江北行中書省事;亡何,除大名路總管,兼府尹,大興學校。有獻故河隄三百餘里于太后者,即上章,謂宜悉還細民,從之。擢淮東道肅政廉訪司使,因讞獄鹽場,民尹執中兄弟誣伏為強盜,平反之。召還,拜集賢大學士、中奉大夫,商議中書省事。丞相完澤卒,孔孫與陳天祥上封事,薦和禮霍孫可為相。

ちょうど地震があり、詔で災害を鎮める方策を問うと、孔孫は八つの事柄について条理を立てて答えた。その概略は以下の通りである。蛮夷の諸国に対しては、兵力を尽くして遠征討伐すべきではない。濫りに官職を与えられて罷免された者は、再び任用すべきではない。善を賞し悪を罰することについては、たびたび赦免や宥恕を与えるべきではない。宝物を献上・売買することは、禁止しなければならない。仏に供えることは益がなく、財用を無駄に費やすべきではない。上下ともに豪華奢侈に流れており、倹約に従わなければならない。官は冗員で吏は繁雑であり、これを削減しなければならない。太廟の神主に対しては、祭祀を備えて供えなければならない。帝はことごとくこれを嘉納し、鈔五千貫を賜った。また累次上疏して言うには、「およそ七十歳で致仕する者は、一官を加えるべきである。父母の喪に服し喪明けした者は、起復を待つべきである。宿衛で濫りに名を冒す者は、必ず革めなければならない。州郡の職務は、必ず選び抜かなければならない。長く達魯花赤を務めた者は、適宜昇進・転任させるべきである。また官吏の俸禄を増給すべきである。京師の廟学を修建し、国子生徒を設置し、曲阜の孔廟に洒掃戸を給賜すべきである。宰相の地位には儒臣を参用すべきで、文吏のみを専任すべきではない。故相の安童・伯顏・和禮霍孫と廉希憲らは、それぞれ贈諡すべきである」と。長い時を経て、老齢を理由に帰郷を請うた。翰林学士承旨・資善大夫に任ぜられ、致仕したが、集賢大学士は従前の通りであった。大徳十一年(1307年)、卒去。享年七十五。

原文會地震,詔問弭災之道,孔孫條對八事,其略曰:蠻夷諸國,不可窮兵遠討;濫官放譴,不可復加任用;賞善罰惡,不可數賜赦宥;獻鬻寶貨,不可不為禁絕;供佛無益,不可虛費財用;上下豪侈,不可不從儉約;官冗吏繁,不可不為裁減;太廟神主,不可不備祭享。帝悉嘉納之,賜鈔五千貫。又累疏言:「凡七十致仕者,宜加一官;丁憂服闋者,宜待起復;宿衛之冒濫者,必當革;州郡之職,必當遴選,久任達魯花赤,宜量加遷轉;又宜增給官吏俸祿;修建京師廟學,設國子生徒,給賜曲阜孔廟洒掃戶;相位宜參用儒臣,不可專任文吏;故相安童、伯顏、和禮霍孫與廉希憲等,各宜贈諡。」久之,請老還家,拜翰林學士承旨、資善大夫,致仕,集賢大學士如故。大德十一年,卒,年七十有五。

孔孫は平素より文学で名を知られ、また琴をよくし、山水竹石の画に巧みで、騎射は特に精妙であった。そして朝廷に立つに及んでは、正しい言論と嘉言は、見るべきものがあり、士論はこれを敬服した。

原文孔孫素以文學名,且善琴,工畫山水竹石,而騎射尤精。及其立廟,讜言嘉論,有可觀者,士論服之。