元史

列傳第五十五: 陳祐 劉宣 何榮祖 陳思濟 秦長卿 趙與𤍟 姚天福 許國禎

陳祐(天祥)

陳祐、一名を天祐、字は慶甫、趙州寧晉の人、代々農を業とす。祖父の忠は経史を博く究め、郷党皆これを尊び師とし、既に歿して後、門人茂行先生と諡す。

祐は少より学を好み、家貧しく、母の張氏嘗て髪を剪り書に易えて読ましむ。長じて遂に経史に博通す。時に諸王は自ら官属を辟くを得、歳癸丑、穆王府祐をその府尚書に署し、その父母に銀十鋌・錦衣一襲を賜う。王既に陝・洛に分土し、祐を表して河南府総管とす。下車の日、まず金季の名士李国維・楊杲・李微・薛玄を礼し、治道を諮訪し、古今を商議す。西軍数百家及び椒竹諸税・糧料等の銭を徴収せざるを請い、又便民事二十余条を上る。朝廷皆これに従う。

世祖即位し、陝・洛を分かちて河南西路とす。中統元年、真に祐を総管に除す。時に州県の官は未だ俸を給せられざるを以て、多く貪暴なり。祐独り清慎を以て称せられ、官に在ること八年、始めの日の如し。至元二年、官を調ぶる法行はれ、南京路治中に改む。時に東方大蝗有り、徐・邳尤も甚だしく、捕るを責めて至急なり。祐部民丁数万人をその地に至らしめ、左右に謂いて曰く、「蝗を捕うるはその稼を傷つけるを慮るなり。今蝗盛んなりと雖も、而して穀既に熟せり。早くこれを刈るを令するに如かず。庶幾くは力省くして得ること有らん」と。或人は事専擅に渉るを以て、不可とす。祐曰く、「民を救いて罪を獲るも、亦甘心する所なり」と。即ちこれを諭して散じ去らしむ。両州の民皆これに頼る。

三年、朝廷祐の官を降すこと名無きを以て、乃ち虎符を賜い、嘉議大夫・衛輝路総管を授く。衛は四方の衝に当たり、治め難しと号す。祐は法令を申明し、孔子廟を創立し、比干の墓を修め、且つ朝廷に請うて祀典に著す。官を去るに及び、民碑を立てて徳を頌す。嘗て世祖に上書し、太平の本を樹つること三有りと言う。一に曰く太子は国の本、建立宜しく早くすべし。二に曰く中書は政の本、責成宜しく専らにすべし。三に曰く人材は治の本、選挙宜しく審かにすべし。事未だ能く尽く行はれざるも、時の論之を称す。

六年、提刑按察司を置き、まず祐を以て山東東西道提刑按察使とす。時に中書・尚書の二省並び立ち、世祖その煩わしきを厭い、一に合わさんと欲し、大臣を集めて雑議す。祐朝に還り、特命してその議に預からしむ。阿合馬尚書平章政事たり、奏して中書右丞相安童を太師に陞し、因りて中書省を罷めんと欲す。祐に異議有るを懼れ、祐を進めて尚書参知政事と為さんことを許して以てこれを啗わんとす。議に入るに及び、祐極言して中書は政の本、祖宗の立てし所、罷むべからず。三公は古の官、今徒にその虚位を存するのみ、設くるを須いずと。事遂に罷む。阿合馬その己に忤うを怒り、祐を除して僉中興等路行尚書省事とす。西涼は永昌王府に隷す。その達魯花赤及び総管人の誣搆する所と為り、家各百余口、王悉くこれを法に致さんと欲す。祐力めてその冤を弁す。王甚だ怒る。祐議を執ること弥固し。王亦尋いで悟る。二人皆免る。祐を把りて泣いて曰く、「公は再生の父母なり」と。

朝廷大いに挙りて宋を伐つ。祐を遣わして軍を簽す。山東の民多く逃匿す。祐の来るを聞き、皆曰く、「陳按察来る、必ず私無からん」と。遂に皆出で、期に応じて辦ず。十三年、南京総管を授け、開封府尹を兼ぬ。吏多く震懾して失措す。祐因りて謂いて曰く、「何ぞ必ずしも是の若くせん。前に盗跖たりしも、今顔子なれば、吾顔子を以てこれを持す。前に顔子たりしも、今盗跖なれば、吾盗跖を以てこれを持す」と。ここより吏修飭を知り、法を弄ぶことを敢えざる。許・蔡の間に巨盗有り、衆を聚めて劫掠す。祐これを捕うること急なり。逃れて宋の境に入る。宋亡び、制置夏貴に随いて汴を過ぐ。祐これを下馬せしめ、これを市に撾殺す。民間帖然たり。

十四年、浙東道宣慰使に遷る。時に江南初めて附く。軍士温・台の民男女数千口を俘虜す。祐悉くこれを奪い還す。未だ幾ばくもあらず、行省民商の酒税を榷む。祐請うて曰く、「兵火の余、傷残の民、宜しく寛恤に従うべし」と。報いず。祐を遣わして慶元・台州の民田を検覆せしむ。還りて新昌に至るに及び、玉山郷の盗に値い、倉卒として備えを為すに及ばず、遂に害に遇う。年五十六。詔して推忠秉義全節功臣・江浙等処行中書省左丞を贈り、河南郡公を追封し、忠定と諡す。父老会稽に留め葬らんことを請うも得ず、乃ち祠を立ててこれを祀る。祐詩文能くし、節斎集有り。

子の夔は芍陂屯田万戸、初め揚州に在り、祐の盗に遇い死するを聞き、泣いて行省に請い、願わくは父の讎を復し、その賊魁を擒え、紹興の市に戮さんとす。臯は昌国州知州。奭は侍儀司通事舎人。孫の思魯は芍陂屯田万戸を襲ぐ。思謙は湖広行省参知政事。弟天祥。

天祥字は吉甫、兄の祐の河南に仕うるに因り、寧晋より家を洛陽らくように徙す。天祥少より軍籍に隷し、騎射に善し。中統三年、李璮叛きて済南に拠り、宋を結びて外援とす。河北河南宣慰司制を承けて天祥を以て千戸とし、三汊口に屯し、宋兵を防遏す。事平ぎて罷め帰り、偃師の南山に居す。田百余畝有り、躬耕して書を読み、これに従いて遊ぶ者甚だ衆し。その居緱氏山に近し、因りて号して緱山先生と曰う。初め、天祥学を知らず、祐これを奇とせず。別れ去ること数歳。為す所の詩を祐に献ず。祐仮手他人を疑う。及びこれと語るに、経史に出入し、談弁該博、乃ち大いに称異す。

至元十一年、起家して従仕郎・郢復州等処招討司經歷と為り、国兵に従いて江を渡り、軍中の事を論ずるに因り、深く行省参政賈居貞に器重せらる。

十三年、興国軍が兵器を登録したことにより乱が起こり、行省は天祥に命じて本軍の事を権知させた。天祥は軍士わずか十人を率いてその境に入り、城から百里近く離れた所で、二日間滞在してようやく城中に至った。父老が来て謁見すると、天祥は彼らに諭して言った、「郷里を守るには、確かに兵は不可欠であるが、任事者が登録し過ぎたため、乱が起こったのだ。今、お前たちに一時的に武器を置いて自衛することを許そう、どうか」と。民は皆便利だと言った。そこで彼はその事を行省に条陳して言った、「奸邪を鎮圧するには、根本を充実させるべきである。もし内に備え防ぐ資力がなければ、外に覬覦の隙を生じる。これは理勢必然である。この軍の変乱の原因を推せば、正に当時の処置が適切でなく、外を疎かにし内を急いだことにある。軍中にある者はすべて、寸鉄尺杖も手にすることができず、ついに奸人がひそかに発動することを許し、公私ともにその害を受けた。今、軍中は再び破壊を受け、このように単弱である。もしなお互いに防ぎ合い、互いに信頼し保つことがなければ、外寇を憂えるのみならず、ただ恐れるのは舟中の人すべてが敵国となることである。むしろ人に赤心を推し布き、力を合わせ心を同じくさせ、禍福を共にさせれば、人は我が人となり、兵は我が兵となる。乱を靖め奸を止めることは、何でも実行できる。ただ少し優容を加えられ、その後必ず成し遂げる効果を責められることを望む」と。行省は便宜に処置することを許した。

天祥の施した措置はすべて衆望に適い、これにより流亡した者が再び生業に戻り、隣郡の民が帰順する者が相次ぎ、茅を伐り木を斬って、屋を結んで住んだ。天祥は十家を甲とし、十甲に長を置き、兵禁を緩めて民の便に従うことを命じた。人心が既に安らぐと、軍勢もやや振るい、土兵を用いて李必聰の山寨を収め、一人も殺さなかった。他の寨はこれを聞き、それぞれ散り去り、境内はすべて平定された。

当時、州県の官吏にはまだ俸禄がなく、天祥は便宜を図って措置し、月ごとに給与して、その貪りを止めさせ、民は煩わされなかった。隣邑の分寧で変乱が起こり、諜者が時々来たので、吏が捕らえるよう請うたが、天祥は言った、「彼らは官吏の貪暴ゆえに叛いたのだ。今、我が一軍三県では、官は侵漁せず、民はその業を楽しんでいる。彼らに帰ってその仲間に告げさせれば、諜者はかえって我が用いるところとなるだろう」と。そこで一切問わなかった。そして敗れて興国境に逃げ込んだ者が数千人に及んだ時、天祥は命じて口数を調べて食糧を与え、なお土人に侵陵しないよう戒めた。事が定まると、皆が保全されて帰り、その威信に服さない者はなかった。

一年余り経った後、詔によって本軍を路に改め、天祥に代わって総管となった者が、旧政を変更しようと務め、兵を隠匿した者を厳しく取り締まった。天祥が去って間もなく興国は再び変乱を起こし、隣郡の寿昌府及び大江南北の諸城邑は、多く勢いに乗じて守将を殺しこれに応じた。当時、行省を宣慰司に改めたばかりで、参政の忽都帖木児、賈居貞、万戸の鄭鼎臣が宣慰使となっていた。鼎臣は兵を率いてこれを討ち、樊口に至り、兵は敗れて死んだ。黄州はそこで陽羅堡を攻めると声言し、鄂州は大いに震動した。当時、忽都帖木児は臆病で出兵しようとしなかったが、天祥は居貞に言った、「陽羅堡は山に依って堡塁を築き、平素から厳重に備えている。彼らがもし攻めて来れば、我が利である。かつ南人は浮躁で、軽々しく進みやすく退きやすい。官軍は高きに憑り険しきに据え、あの区区たる烏合の衆と相対すれば、二、三日と経たず、死傷者は必ず多く、遁逃する者は十のうち八、九である。我が精兵を出してこれを撃てば、ただ疾く走る者のみがようやく脱することができる。この一勝に乗じれば、大勢は既に定まる。その後、黄州、寿昌を取ることは枯れ木を摧き朽ち木を拉ぐが如きものだ」と。居貞は深くこれを然りとしたが、忽都帖木児の考えはなお決まらなかった。陽羅堡に至ったと聞き、居貞が強く促したので、ようやく兵を率いて青山に宿営し、翌日その衆を大いに破った。すべて天祥の予想した通りであった。

初め、行省は変乱を聞き、鄂州城中の南人をすべて捕らえて殺そうとし、内応を防ごうとした。居貞が救おうとしたができず、天祥は言った、「この州の人は、彼らと勢い本来接しておらず、殺そうとする者は、その財を利するだけだ」と。力説して止めさせ、この時捕らえられていた者は皆釈放された。再び天祥を寿昌府事を権知させ、兵二百余人を与えた。乱を起こした者は官軍が来たと聞き、皆城を棄てて険しい所に依って自らを保った。天祥は衆寡敵せず、力で服させることはできないと考え、そこでその徒に諭しを遣わしてそれぞれ田里に帰らせ、ただその長である毛遇順、周監を生け捕りにして鄂州市で斬った。金二百両を得て、尋ねてみると鄂州の商人の物であることが分かり、召し出して返した。その党の王宗一等十三人も、続いて捕らえられ、冬至の日に放って家に帰らせ、三日後に獄に帰ることを約束させると、皆期日通りに来た。宣慰司に申し出てすべて釈放し、これにより再び叛く者はなく、百姓は生祠を立てた。

二十一年三月、監察御史に任ぜられた。時に右丞の盧世栄が搾取・収斂によって急に執政に昇り、権勢は一時に傾いた。御史中丞の崔彧がこれを言上すると、帝は怒り、法に処そうとしたので、世栄の勢いはますます張った。左司郎中の周戭は、議事の際にわずかに可否を論じたが、世栄は法を沮むと誣告し、杖一百を加えた後に斬るよう奏上した。そこで臣僚は震え恐れ、敢えて言う者はいなかった。二十二年四月、天祥は上疏し、世栄の奸悪を極言した。その概略は次の通りである。

盧世栄は平素文芸もなく、武功もない。ただ商販で得た資産をもって、権臣に趨附し、官職を得ようと求め、贓物を車に載せ賄賂を輦に乗せて権門に輸送し、献上するものが足りないと、さらに別に不足分の文券銀一千錠を立てた。白身から江西の榷茶転運使に抜擢された。その任において、専ら貪饕に務め、犯した贓私は、動けば万を以て数える。その隠秘したものは固より悉く挙げ難いが、発露したもののみ明言できる。凡そ彼が人から搾取し、及び盗んだ官物を略計すると、鈔は錠を以て計って二万五千一百十九、金は錠を以て計って二十五、銀は錠を以て計って一百六十八、茶は引を以て計って一万二千四百五十八、馬は匹を以て計って十五、玉器七点、その他雑多な物件はこれに相当する。既に追納したもの及び未納で現在追徴中のものは、人の共に知るところである。

今、彼は前非を悔い改めず、かえって狂悖ますます甚だしく、苛刻を自ら安んずる策とし、誅求を干進の門とし、既に飽くことを知らぬ心を抱き、広く搾取の計りを蓄えながら、また身は要路に当たり、手に重権を握っている。丞相の下に位するとはいえ、朝省の大政を実に専断できる。これは盗跖に阿衡の任を掌らせるようなもので、当代に災いを流すだけでなく、将来にも笑いを取ることを恐れる。朝廷はその虚誑の説を信じ、彼を相位に就かせ、名目は試験であるが、実は正権を授けている。その能を較べれば、このように欠陥があり、その行いを考れば、毫髪も称すべきところがない。これらはすべて過去の真実の跡であり、既に試された明らかな証拠と言える。もし必ず再試すべきと言うなら、ただ他の官に叙するのみとすべきで、宰相の権は軽々しく授けるべきではない。天下を宰ることは、錦を製するに譬えられる。初めにその能否を験そうとするなら、まず布帛で試すべきである。もし効果がなければ、損害は軽いかもしれない。今、相位を棄てて賢愚を試験することは、美錦を捨てて工拙を較量するようなもので、もし壊れてしまえば、後悔してもどうしようもない。

国家と百姓とは、上下が一つの身体の如く一体である。民は国の血気であり、国は民の膚体である。血気が充実すれば膚体は康強となり、血気が損傷すれば膚体は羸病となる。その血気を消耗して膚体を豊かに栄えさせることはあり得ない。故に民が富めば国も富み、民が貧しければ国も貧しく、民が安らかであれば国も安らかであり、民が困窮すれば国も困窮する。その理は然りである。昔、魯の哀公が民に重税を課そうとして有若に問うたところ、対えて曰く「百姓足りて、君孰れと足らざらん。百姓足らず、君孰れと足らん」と。これを推すに、民は必ず賦税が軽くなって後にはじめて足り、国は必ず民が足りて後にはじめて豊かになるのである。書に曰く「民は邦の本なり、本固ければ邦寧し」と。歴代を考証するに、百姓が富み安んじたために乱が起こり、百姓が困窮したために治まった例は、天地開闢以来、未だ聞いたことがない。そもそも財とは、土地より生じ、民力により集められるもので、天地の間で毎年一定の数量がある。ただそれを取るに節度があればこそ、用いても欠乏しないのである。

今、世栄は一年の期間で十年分の蓄積を成そうとし、万民の命を危うくして一世の栄誉を換えようとしている。増収の功績を広く求め、民の困窮苦難を顧みず、わずかな税を取り立てることを期し、上下に交わって徴収するよう誘っている。民を仇敵の如く見なし、国のために怨みを集めている。果たして国家の遠慮をせず、ただ目前の速効を取ろうとし、恣意的に誅求すれば、何でも得られよう。しかし生財の根本が既に失われているのに、財を集める方法はまた何に頼るというのか。民間がこれにより凋耗し、天下がこれにより空虚となる様を見ることになろう。安危利害の機微は、おそらく言い尽くせないものがある。

その任事以来の百有余日の事績を検証すれば、明らかなことが多い。今、その行いと言葉が既に一致しない点を、いくつか挙げてみよう。初めは鈔法を旧の如くできると言ったが、今や鈔はますます虚になる。初めは百物が自ずから安くなると言ったが、今や物はますます高くなる。初めは税収を三百万錠増やし、民から取らずに達成できると言ったが、今では却って諸路の官司を脅迫して増額を請け負わせている。初めは民を喜ばせ楽にさせられると言ったが、今なすところは全て法を壊し民を擾乱するものばかりである。もし早く改めなければ、自ら敗れるのを待つことになり、ちょうど蠹を除いても木の病は深く、初めは曲突徙薪を嫌い、終には焦頭爛額を見るようなもので、事ここに至れば、救いようもない。

臣もまた、権要に阿附すれば栄寵が期待でき、重臣に逆らえば禍患が測り難いことを知っている。黙して自らを守ることも、できぬことではない。正に事が国家に関わり、その関係が浅くないため、憂い深く慮り切って、言わずにはいられないのである。

世祖はその言葉を聞き、使者を遣わして天祥と世栄を召し、ともに上都に至らせて対質させた。到着すると、その日に内官が旨を伝え、世栄を宮門外で縛った。翌日、入対し、天祥は帝の前で先に言ったこと及び言い尽くせなかったことを再び挙げて述べると、帝は皆これを善しとし、世栄は遂に誅された。五月、朝廷は天祥の従軍して江を渡り、興国・寿昌を平定した功績を記録し、官位を五品に進め、吏部郎中に抜擢した。

二十三年四月、治書侍御史に任じられた。六月、湖北湖南行省の銭糧を理算することを命じられた。天祥は鄂州に至ると、すぐに上疏して平章岳束木の凶暴不法を弾劾した。時に桑哥が国柄を窃み、岳束木と姻党を結び、その爪牙羽翼となっており、天祥に罪を着せ、死に至らせようとし、獄に繋がれてほぼ四百日に及んだ。二十五年春正月、赦に遇って釈放された。二十八年、行臺侍御史に抜擢された。間もなく、病気を理由に辞して帰った。三十年、燕南河北道廉訪使を授けられた。

元貞元年、山東西道廉訪使に改任された。時に盗賊が群れをなして起こり、山東に特に多かった。詔して盗賊を鎮める方略を求めた。天祥は上奏して言うには、「古より盗賊の起こるには、それぞれ原因がある。凶作飢饉の年は天時に帰すべきで、暫く論じないとしても、その他、軍旅が止まず、工役が頻繁に起こり、聚斂に飽くことなく、刑法が紊乱する類い、これらは皆、群盗が起こる原因である。その中間で彼らを保護し存恤し長養するものは、赦令である。赦は、小人の幸いであり、君子の不幸である。一年に二度も赦せば、善人は声を失う。前人が詳しく言っている。あの強梁の徒は、それぞれ兵杖を執り、人を殺し財を奪い、その生命を顧みず、有司が力を尽くしてこれを擒らえても、朝廷が恩を加えてこれを釈放する。朝に縲囚を脱すれば、暮には即ち行劫し、また有司を督勒して期限を結んで追捕させる。賊は皆慣れっこで、習い常となり、既に恩を感じず、また法を畏れず、凶残悖逆で、その性は頑なに定まっている。誠に善き教化で動かせるものではなく、厳刑をもってのみ制することができる」と。提案した事条は、皆時用に切実であった。そこで有司を厳しく督し、盗賊を多く捕らえ、皆杖殺した。他境に逃げ込んだ者は、その向かうところを推し量り、捕盗官及び弓兵を選び、密かに方略を授け、賞罰を示して追捕させた。南は漢・江に至る二千余里の間で、悉く擒らえられ、免れる者はなかった。これにより東方の群盗は息を潜めた。

平陰県の女子劉金蓮が、妖術を仮って衆を惑わし、行く先々で官が神堂を建立し、愚民は皆奔走してこれを奉じた。天祥は同僚に言うには、「この婦が神怪をもって衆を惑わし、声勢がこのようである。もしまた狡猾な人がこれを輔翼すれば、漢の張角、晋の孫恩の所為を倣い、必ず大害となる」と。そこで命じて捕らえて獄に繋ぎ、市中で杖刑に処した。これより神怪は息を潜めた。天祥は、山東宣慰司の官が冗員で廃止すべきだと述べ、その使の貪暴不法を弾劾したが、事は止められて行われず、任満を以て辞して去った。

大徳三年六月、河北河南廉訪使に遷任されたが、病気のため起ち上がらなかった。冤屈を抱える人が、しばしば天祥の家に来て公正を求めたが、天祥はその位にいないことを理由に断った。六年、江南行臺御史中丞に昇進し、上章して西南夷征討の事を論じた。曰く、

兵には、已むを得ずして已まざるものもあり、また已むべくして已まざるものもある。ただ已むべくすれば已むことができ、兵力を永く強くして、已むを得ずして已まざる用に備えることができるのが、これを善く兵を用いる者という。去年、行省右丞劉深が八百媳婦国を遠征したが、これは已むべくして已まざる兵である。あの荒遠の小邦は、雲南の西南さらに数千里の遠方にあり、その地は僻陋で用のない地であり、人は皆頑愚で無知である。取っても利益とならず、取らなくても害とはならない。

深は上を欺き下を罔し、兵を帥いてこれを伐ち、八番を経過するに当たり、縦横に自ら恣にし、その威力を恃み、居民を虐害したため、中途で変事が生じ、所在皆叛いた。深は既に乱を制することができず、反って乱衆に制せられ、軍中に糧が乏しく、人が自ら相食い、計窮まり勢い蹙まり、慌てて退走したところ、土兵が随って撃ち、大敗に至った。深は衆を棄てて奔逃し、僅かに身一つで免れ、兵の十八九を喪い、地を千余里棄てた。朝廷は再び陝西・河南・江西・湖広の四省の諸軍を発し、劉二都を総督として、叛地を回復しようと図った。湖北・湖南では大いに丁夫を徴発し、軍糧を運送して播州で納入させた。その正夫と自分自身の食糧を担ぐ者を通計すると二十余万に及んだ。丁度農時であるのに、この大役を興し、愁苦の人を駆り立て、数千里を往復させる中で、何事が起こらぬということがあろうか。運んだ米が全て到着すれば、確かに幸いである。しかし数万の軍は、ただ今度の一回の運送の米に頼っている。この後、またどうするというのか。

近頃西征の敗卒及びその将校に問うと、西南の遠夷の地は重山複嶺、険しい渓谷と深い林、竹木が叢茂し、皆長い刺があることをよく知っている。軍の行く道はその間にあり、狭い所は僅かに一人一騎を通すのみで、上は天に登るが如く、下は井戸に入るが如し。賊もし険を乗じて邀撃すれば、我が軍は衆と雖も、また施為し難きなり。またその毒霧煙瘴の気は、皆人を傷つけることができ、群蛮は既に大軍の将に至らんとするを知り、もし皆清野して遠く遁れ、その要害を阻みて我が師を老いさせ、或いは進んで前を得ず、傍らに掠うる所無く、士卒飢餓し、疫病死亡すれば、将に戦わずして自ら困るの勢いあらん、深慮せざるべからざるなり。

かつ倭国・占城・交趾・爪哇・緬国を征伐して以来、近く三十年、未だ嘗て尺土一民の内属の益あるを見ず、その費やす所の钱财、死損する軍数を計れば、言い勝うべけんや!去歳の西征、及び今この挙、また復た何の異なることあらん。前鑑遠からず、見難きに非ず。軍労し民擾り、休期を見ず、ただ劉深一人、これその禍の本なり。

また聞く、八番羅国の人は、向うて征西の軍に擾害せられ、生業を捐棄し、相継いで逃叛し、怨み骨髓に深入り、皆その肉を得て分かち食わんと欲す。人心皆悪み、天意もまた憎む、ただ上は天意を承け、下は人心に順い、早く劉深の罪を正し、続いて明詔を下し、彼一方に聖朝数十年撫養の恩を示し、なお諭して自今再び遠征の役無きことを。これをもって招けば、自ら相続いて帰順の日あり、その官民上下をして、未だ須らく遠く王師を労して、区々の小醜と一旦の勝負を争うに及ばざることを皆知らしめん。昔、大舜師を退けて苗氏格まり、充国戦を緩めて羌衆安んず、事経伝に載せ、万世の法と為す。

今の計と為すは、宜しく且つ兵を近境に駐め、その水路遠近を通ずるを得しめ、或いは塩引茶引を用い、或いは実鈔を用い、米価を多く増し、軍糧を和市すべし。ただ法令厳明にし、官信を失わざれば、米船をして江を蔽いて上らしむるを得、軍自ら食足り、民もまた擾らず、内は根本を安んじ、外は辺陲を固くす。我が鎮静をもって、彼が猖狂を御し、恩を布いてその心を柔げ、威を畜えてその力を制し、久しきを期し、漸次にこれを服せしむ。これ王者の師、万全の利なり。もし業すでに此の如しと謂い、罷めんと欲して能わざるも、また当にその関繫の大なるを慮り、成敗を審詳し、算定して行うべし。彼の溪洞の諸蛮は、各々種類あり、今の相聚うる者は、皆烏合の徒、必ず久しく能く同心して我に敵するの理無し。ただ急げば則ち相救い、緩ませば則ち相疑い、計をもってして互いに讎怨せしめ、彼に乗ずべき隙あるを待ち、我に動くべき時あるに、徐ろに諸軍に命じ数道倶に進ましむ。服従する者は仁をもってこれに恩し、敵を拒ぐ者は武をもってこれに威す、恩威相済い、功乃ち易く成る。もし恩を捨てて威に任せ、劉深の覆轍を蹈まば、恐らくは他日の患い、今日に甚だしきあらん。

上奏に応えず、遂に病を謝して去る。

七年、召されて集賢大学士に拝され、中書省事を商議す。八月、地震あり、河東特に甚だし、詔して災を弭ぐの道を問う。天祥上章し、極言して陰陽和せず、天地位せざるは、皆人事の宜しきを失うによる所とす。執政者その言の切直なるを以て、抑えて以て聞こえしめず。

天祥召されて還京してより、ここに至り且つ一年、未だ嘗て帝に見えて事を言うを得ず、忠を輸する地無く、常に鬱々として自ら釈せず、また苟も廩禄を糜すを欲せず、八年正月、疾を移して謝して去る。通州に至り、中書使いを遣わして追留す、還らず。帝これを聞き、鈔五千貫を賜い、なお伝給を命じ、専官をして護送してその家に至らしむ。天祥闕を望み拝謝し、賜う所の鈔を辞して行く。九年五月、中書右丞に拝され、枢密院事を議し、諸衛の屯田を提調す。使者五たび詔を致すも、年老いて能わずと辞す。十一年、仁宗懷州に在り、使いを遣わして幣帛・上尊酒を賜う。至大四年、仁宗即位し、復た使いを遣わしてこれを召すも、老疾を以て起たずと辞す。延祐三年四月、家に卒す、年八十。累贈して推忠正義全徳佐理功臣・河南江北等処行中書省平章政事とし、趙国公を追封し、諡して文忠と曰う。

劉宣

劉宣、字は伯宣、その先は潞の人なり。出戍に因りて忻に留居し、金末陝に避地し、後に太原に徙る。宣は沈毅清介にして、家に居て孝友、幼より喜んで書を読み、経世の志あり。宣撫張徳輝河東に至り、見て器重し、朝に還り、薦めて中書省掾と為す。宣暇あれば則ち往きて国子祭酒許衡に従い理学を講明す。初め河北河南道巡行勧農副使に命ぜらる。

至元十二年、入りて中書戸部郎中と為り、行省郎中に改む。丞相伯顔・平章阿朮に従い軍を統べ江南を平らげ、賛画多し。伯顔嘗て宣を命じて闕に詣り捷書を上せしむ、世祖召見し、親しく南征の事を問う、応対旨に称し、器服を賜い寵嘉す。江南平らぎ、宣を命じて江淮の冗官を沙汰せしむ、その存革する所、悉く公論に合す。松江府知事を除し、未だ幾ばくもあらず浙西宣慰司同知事と為る。官に在ること五年、威恵並び著し。江淮行省参議に陞り、江西湖東道提刑按察使に擢でらる。

二十三年、入りて礼部尚書と為り、遂に吏部に遷る。時に将に交趾を伐たんとす、宣上言して曰く、「連年日本の役、百姓愁戚し、官府擾攘す、今春停罷し、江浙軍民歓声雷の如し。安南小邦、臣事すること年有り、歳貢未だ嘗て期を愆たず。辺帥事を生じて兵を興し、彼因りて海島に避竄し、大挙をして功無からしめ、将士傷残す。今また令を下し再征す、聞く者莫れ不恐懼せず。古より兵を興すは、須らく天時を要す、中原平土、猶お盛夏を避く、交広炎瘴の地、毒気人を害すること、兵刃に甚だし。今七月を以て、諸道の兵を静江に会せば、安南に比し至れば病死必ず衆く、緩急敵に遇いて何を以てこれに応えん。また交趾糧無く、水路通じ難く、車馬牛畜の䭾載無く、陸運を免れず。一夫米五斗を担い、往還自ら食う外、官その半を得、もし十万石とせば、四十万人を用い、止だ一二月を供すべし。軍糧搬載、船料軍須、通用五六十万衆。広西・湖南調度頻数、民多く離散し、戸令をして役を供せしむるも、また能く弁ぜず。況んや湖広密邇、溪洞の寇盗常に多し。万一姦人隙を伺い、大岳一出し、虚に乗じて変を生ぜば、留後有りと雖も、人馬疲弱衰老、卒に応変に難し。何ぞ彼の中の軍官事体を深く知る者と、万全の方略を論量せざる、然らずんば将に復た前轍を蹈まんとす。」

日本再征の際、王宣はまた上書し、その要旨は次のようであった。「近頃征東行省を再設置し、日本征討の軍を再興する議論があるが、この戦役が止まなければ、国家の安危がかかっている。唆都は占城討伐を献策し、海牙は交趾平定を言上したが、この二、三年の間、湖広・江西は船隻・軍需糧秣の供給に応じ、官民は大いに擾乱し、広東では群盗が一斉に蜂起し、軍兵は江海の瘴毒の地に遠く赴き、死傷は半数を超え、今なお連年の出兵が解かれていない。しかも交趾は我が国と境を接する蕞爾たる小国であるのに、親王を遣わして兵を率い深入りさせても、まだ功績の報いを見ず、唆都は賊に殺され、自ら恥辱を招いた。まして日本は海洋万里、疆土は広遠で、二国(占城・交趾)と比べるべくもない。今度出兵すれば、衆を動かし険路を踏み、たとえ風に遭わずとも彼岸に到着できたとしても、倭国は地が広く、徒衆は猥多であり、彼らの兵が四方から集まり、我が軍には援けがなく、万一不利となって救兵を発しようとしても、どうして飛んで渡ることができようか。隋が高麗を伐った時、三度大挙したが、しばしば敗北し、百万の軍を喪失した。唐太宗は英武を以て自ら任じ、親征して高麗を伐ったが、数城を取っただけで帰還し、徒らに後悔を増したのみである。しかも高麗の平壌諸城は皆陸地にあり、中原から遠くない。二国(隋・唐)の大軍を以てしても、尚かつ克服できなかったのに、まして日本は海の隅に僻在し、中国と万里も懸け離れているのである。」帝はその言を嘉して採用した。

二十三年十二月、中書省が旨を伝え、鈔を改め銭を用いることを議した。王宣が意見を献じて言うには、「そもそも交鈔の起こりは、漢・唐以来、未だ嘗て有ったことがない。宋の紹興の初め、軍餉が続かず、これを造って商旅を誘い、辺境での買い入れの策とした。銅銭に比べて携帯しやすく、民は甚だ便利とした。少しでも滞りがあれば、すぐに現銭を用い、尚古人の子母相権の意を存していた。日増し月増しにその法は次第に弊害を生じ、目前の速効を求めても、良策は見られない。新鈔を必ず創造し、旧鈔を権衡しようとするのは、ただ名目を改換するだけで、金銀を本として引き上げる(準備)がなく、軍国支出を抑制せず、二、三年後には元宝(中統元宝交鈔)と同じようになるであろう。宋・金の弊害は、十分に殷鑑とすべきである。銅銭を鋳造することも、また詳しく究明すべきである。秦・漢・隋・唐・金・宋の利病は、史策に著されており、逐一陳べるまでもない。国朝では銭を廃して久しく、一旦これを行えば、功費は計り知れず、遠大な計略とは言えない。およそ民を利し物を権衡する要諦は、妄りに用いないことから始まる。もし丘壑(欲望)の用を満たそうとするならば、鋳造が間に合わないばかりでなく、また久しからずして自ら弊害を生じるであろう。」時に桑哥が尚書省を立てて国権を専らにしようと謀り、銭の議論は遂に中止された。

二十五年、集賢学士より行臺御史中丞に除せられた。時に江浙行省丞相忙古臺は、悍戾で縦恣であり、常に臺臣がその罪を糾弾することを慮り、特に王宣を忌んだ。ある日、御史大夫と中丞が建康城を出て、軍船を点検視察した時、群御史が従った。軍船で葦を積載している者がおり、御史張諒がこれを詰問し、行省の官が使役したことを知り、揚州に赴いて実情を覆核した。忙古臺は大いに怒り、すぐに報復を図った。時に大夫の父が属郡に官をしていたが、すぐに弾劾を受けた。忙古臺はその党を遣わして建康に至らせ、臺中の過失を伺わせた。臺官は皆恐れ慄き、密かに往って自らの弁解を懇願したが、ただ王宣だけは屹然として動じなかった。忙古臺は王宣をますます怨み、王宣の子をでっち上げて揚州の獄に繋いだ。また建康の酒務・淘金等の官および録事司の官で罪により免職された者に命じ、行臺が銭糧を沮害したと誣告させ、朝廷に上聞して、必ずや王宣を死地に置こうとした。朝廷はこれにより官二員を遣わし、行省に獄を置いてその事を審問させた。王宣および御史六人ともども逮捕され、舟に登ると、行省は軍船を列ね兵えいを以て駆り立て、到着すると各所に分け隔て、往来させなかった。九月朔日、王宣は舟中で自刎した。

初め王宣が行こうとした時、後事を書いて封をし従子の自誠に託し、開けて見るなと命じた。王宣の死後、その書を見ると、文辞に云う、「大臣の怒りに触れ、誣構して罪を成す。どうして経断(法を曲げて裁断する)小人と口を交えて弁訟し、怨家の前に膝を屈して容色を整えることができようか。身は臺臣たり、義辱けを受くべからず、自ら引決すべきである。ただ身を以て国に殉ずるを得ざるを恨みとするのみ。嗚呼、天よ、実にこの心を照覧せよ。」また別に公文書で忙古臺の罪状を述べていたが、後にその草稿を得ると、塗りつぶし注記し勾抹して、文句は判別し難かった。前治書侍御史霍肅がその文を順序立てて整理し、読む者は悲憤した。

王宣が既に引決すると、行省は朝廷に報告し、王宣が罪の重きを知って自殺したとした。前後してこの事をでっち上げた者は、郎中張斯立であった。しかし王宣の忠義節操は、世に重んぜられ、聞く者は誰もが嗟悼しなかった者はない。延祐四年、従子の自持が王宣の行実を上奏し、御史臺がこれを上聞した。制により資善大夫・御史中丞・上護軍を追贈し、彭城郡公を追封し、諡して忠憲とした。

何栄祖

何栄祖、字は継先、その先祖は太原の人である。父の瑛は、金の貞祐年間に文法の試験で優等に入り吏に補され、後に明威将軍を授かり、鉅鹿尹を守り、軍器監主事を権知した。金が滅びると、広平に家を移した。

栄祖は体つきが魁偉で、額に双樹のような赤い文様があり、背中は隆起していた。相見が言うには、「あなたは人臣の極位に至り、かつ長寿の相である。」何氏は代々吏を業とし、栄祖は特に精通習熟し、遂に吏から累遷して中書省掾となり、御史臺都事に抜擢された。ここに至って節を折り曲げて読書に励み、日に数千言を記した。阿合馬がまさに権勢を振るい、その家に総庫を置いて四方の利を収め、和市と号した。監察御史范方らがその非を斥け、論じることは甚だ力強かった。阿合馬は栄祖がその謀を主としていることを知り、左右司都事に奏して己に隷させた。間もなく、御史臺が治書侍御史に除し、侍御史に昇進し、また出て山東按察使となったため、阿合馬はその志を遂げることができなかった。

帖木剌思という者がおり、貪墨(汚職)のため僉事李唐卿に弾劾された。帖木剌思は計略の出る所なく、丁度済南に変事を上告する者がいた。唐卿はその虚妄を察し、訴状を取って焼いた。帖木剌思はこれを摘み取って口実とし、唐卿が反逆者を放縦したと告発し、数十人を逮捕拘束した。獄は久しく決せず、詔により栄祖と左丞郝禎・参政耿仁傑がこれを審問した。栄祖はその実情を得て、告発者に罪を科そうとした。禎と仁傑は、失口乱言の罪に処することを議したが、栄祖は同意しなかった。間もなく栄祖は河南按察使に転じたため、二執政は結局失口乱言の罪でその人を杖刑に処し、株連した者は皆釈放され、唐卿の誣告は遂に晴れた。

平涼府が、南人二十余名が叛いて江南に帰ったと報告した。安西行省は朝廷に上聞しようとしたが、丁度栄祖が参政として来たので、これを止めて言うには、「どうして必ず朝廷に上聞する必要があろうか。この連中は去った者皆人奴(奴隷)である。今江南が平定されたと聞き、遁走してその家を求めに行ったのだ。移文して召捕すればよい。」既にして逃亡者は皆捕らえられ、果たして人奴であった。本来の罪で処罰してその主人に引き渡した。その事に対する明快な決断は多くこの類いであった。雲南行省参知政事に除せられたが、母老を理由に辞した。また御史中丞に拝され、再び出て山東東西道按察使となった。

時に宣慰使楽実・姚演が膠州の海道を開いたが、制があり諸人の沮撓を禁じていた。糧運船が暴風に遭い多く漂流転覆した。楽実は信じず、諸漕卒に督いて償わせ、鞭打ち拷問は惨毒を極め、自殺する者が相次いだ。按察官は制に違うことを恐れ、敢えて言う者はいなかった。栄祖は言う、「ただ言上せよ。もし朝廷から譴責があれば、我が自ら当たる。」すぐに文辞を草して上奏し、詔によりその徴収を免じた。召し入れて尚書参知政事とした。

時に桑哥が専政し、急いで銭穀の理算を行い、人々はその害を受けた。

栄祖はしばしばこれを罷めるよう請うたが、帝は従わず、たびたび懇請してやまなかったので、ようやく少し緩和された。

しかし畿内の民は苦しみが特に甚だしく、栄祖は毎度これを言上した。

同僚が言うには、「上はすでに諸路を免じたが、在京にはまだ及んでいない。少し止めて言わない方がよい。」

栄祖はますます固執し、ついには旨に逆らい少しも屈せず、ついにその文書に署名しなかった。

一ヶ月も経たないうちに、民を害する弊害がすべて聞こえ、帝はようやく栄祖の言葉を思い、召して問うて適宜を尋ねた。

栄祖は歳末に局を立てて考校するよう請うた。

人々はこれを便利とし、常式として立てられ、詔して鈔一万一千貫を賜った。

栄祖は中外の官規程を条陳し、時の弊を矯正しようとしたが、桑哥は抑えて通さなかった。

栄祖はすでに彼と異議を唱えたので、病を理由に告げ、特旨で集賢大学士を授けられた。

間もなく、尚書右丞として起用された。

桑哥が敗れると、中書右丞に改めた。

定めた至元新格を施行するよう奏上し、提刑按察司を肅政廉訪司に改め、監治の法を立てるよう請うた。

また上言して言うには、「国家の用度は不足であってはならず、天下の百姓は安んじられてはならない。

今理財の者は民力の困窮を顧みず、治を言う者は国計の大を図らない。

趙與𤍟は字を晦叔といい、宋の宗室の子孫であり、かつて進士に及第し、鄂州の教授となった。至元十一年、丞相伯顏がすでに長江を渡ると、與𤍟は鄂州にいる同族の人々を率いて、軍門に赴き上書し、殺戮を好まなければ天下を統一できることを力説し、かつその宗族を全うするよう請願した。後に伯顏が京師に朝見したとき、世祖が宋の宗室で賢者を問うと、伯顏は真っ先に與𤍟を挙げて答えた。

十三年秋九月、使者を遣わして上京に召し寄せると、幅巾に深衣を着て拝謁し、宋が敗亡した原因はすべて権力のある奸臣を用いた誤りにあると述べ、言葉の趣旨は激切で、人を感動させた。世祖はこれを憐れみ、ただちに翰林待制に任じ、朝廷が法を立てる際には多く諮問し、與𤍟は忠言正論を憚るところなく述べた。直学士に進み、侍講に転じた。上疏して江南における徴税の急迫と督促、大姓の取り調べと移転、宋の時代の墳墓が暴かれていることなどは、すべて大臣が勝手に明詔を変更した所為であると述べた。二十七年、京師に霧が四方に満ちた。翌年正月甲寅、虎が南城に入った。與𤍟はまた上疏して権臣が専政する咎を述べ、退いて家に居り罪を待った。

間もなく桑哥が失脚すると、平章不忽木が與𤍟は貧窮しているが節操があり、抱負があると奏上した。世祖は「権臣を虎と指した者ではないか」と言い、鈔一万三千貫を賜り、毎年その妻子に衣服と食糧を給することとした。後に累進して翰林学士となった。その伯祖の師淵は、かつて朱熹に学び、家庭での授受にはきちんとした系統があった。そこで許衡と伊洛の学の奥義について論じると、衡は大いに彼を敬った。

與𤍟が老いた後、成宗は特にその子の孟実に官職を与えて終生養わせるよう命じた。大徳七年、病気で卒去した。家が貧しく葬るに及ばず、成宗は有司に命じて葬儀費用として鈔五千貫を与え、舟車を支給して台州の黄巖に帰葬させた。通議大夫・礼部尚書・上軽車都尉・天水郡侯を追贈され、諡は文簡といった。

姚天福

姚天福は字を君祥といい、絳州の人である。父の居実は、兵乱を避けて雁門に移った。天福は幼い頃『春秋』を読み、その大義を通曉した。成長すると、その才能により召し出されて懐仁の丞となった。至元五年、詔により御史台が設立されると、天福を架閣管勾とし、まもなく監察御史に任じた。しばしば朝廷で権臣を論難すると、帝はその剛直を嘉し、バルス(巴兒思)という名を賜り、強悍を畏れぬことは虎のようだと言った。なお厚く賜与してその忠誠を表彰しようとしたが、天福は言った。「臣の職は弾劾にあり、爵禄を負っていることを恐れるのみです。どうして厚い賞賜を貪り、臣の罪を重くすることができましょうか」。

当時、御史台には大夫が二人置かれ、綱紀に統制がなかった。天福は世祖に言上した。「古くは一蛇九尾といい、頭が動けば尾が従う。一蛇二首では、一寸も進むことができない。今、台綱が張られず、一蛇二首の患いがあります。陛下が急いでこれを救わなければ、久しくなれば紊乱して治められなくなります」。帝は玉速帖木児と孛羅に詔してこれを諭させた。孛羅は自分が年少であることを理由に自らを弾劾した。天福が当時、畿内を巡察していたとき、使者として出向いた者が民を虐げ賄賂を取る者がいた。天福は服装を変えて密かに行きその実状を得て、上奏してこれを斬って見せしめにし、豪族たちは畏服した。

十二年、詔して各道の按察司を廃止しようとした。天福は大夫の玉速帖木児に言った。「この役所の設置は、視聴を広め、非常事態に備えるためであり、考慮は極めて深遠で、ただ役人を糾弾するだけのものではありません」。大夫は驚いて言った。「あなたの言葉がなければ、ほとんど過ちを犯すところでした」。夜、帝の寝所に入り、その言葉を奏上した。帝は大いに悟り、詔して再びこれを設立させた。権臣は喜ばず、天福を左遷して朝列大夫・衡州路同知としたが、就任せず、起用されて河東道提刑按察副使となった。当時、北方の辺境で戦争が起こり、輸送が煩雑で急を要し、河東の民は徭役に苦しんでいた。天福は反乱を憂慮し、執政が失策したことを弾劾し、その役務を廃止するよう上奏した。召されて中順大夫・治書侍御史に任じられた。

十六年、江南が平定されると、嘉議大夫・淮西道按察使に任じられた。淮甸は軍事上の要衝に当たり、将吏で豪猾で民の害となる者はすべてこれを剷除し、民は大いに喜んだ。湖北道按察使に転じ、省臣の汚職事件数十件を摘発して上聞した。帝は彼がかつて勲労があったとして、特にこれを許し、その党与を流罪とした。州郡はよく治まった。二十年、山北道按察使に転じた。その民は農耕を知る者が少なく、天福が栽培の方法を教えると、皆豊かになり、民は祠を建て、石碑を刻んでこれを記念した。二十二年、入朝して刑部尚書となり、まもなく出向して揚州路総管となった。二十六年、再び淮西按察使となり、大姦一人を糾弾し、その家財を没収した。政治と教化は大いに行き渡った。

二十八年、桑哥が失脚し、その党与を審問追及すると、平陽が多かったため、天福を平陽総管として、その事を徹底的に糾明させた。まもなく甘粛行省参知政事に任じられたが、母が老いていることを理由に辞退した。三十一年、陝西漢中道粛政廉訪使に任じられ、まもなく真定路総管に除かれた。真定の駅伝に必要なものは、多くが民の害となっていた。天福は改めて措置の方法を議論し、民を煩わせないようにしたが、憲司の長官がこれに異議を唱えた。省臣がその事を上聞すると、詔してこれに従い、その制度を天下の模範として頒布した。

大徳二年、江西行省参政に任じられたが、病気を理由に辞退した。四年、参知政事・大都路総管に任じられ、大興府尹を兼ねた。畿内は大いに治まった。後に京師を治める者は、天福を第一と称した。六年、病気で卒去した。七十三歳であった。

初め、天福が御史に任じられたとき、その母は戒めて言った。「古くは公にいて私を忘れるといい、臣として身を委ねるには、その衷心を尽くしてその職責を全うすべきである。未亡人である私を気にかけず、私が陵母(王陵の母)の跡を追わせよ。死ぬ日は生きている年と同じであろう」。天福もまた憲府に請うて言った。「監察の責めは言路に当たり、犯すところあれば隠さず、もし譴責を受けることがあれば、親族に累が及ばないようお願いします」。ある者がこれを上聞すると、帝は嘆じて言った。「バルス母子は今の世に生きていても、その義烈の言葉は古人の中に求めるべきものである」。

子の祖舜は、秘書監著作郎となった。侃は、内蔵庫副使となった。

許国禎〔扆〕

許国禎は字を進之といい、絳州曲沃の人である。祖父の済は、金の絳州節度使であった。父の日厳は、栄州節度判官であった。皆、医業を営んでいた。

許國禎は経史に博通し、特に医術に精通していた。金の乱の際、嵩州永寧県に避難した。河南が平定されると、太原に寓居した。世祖が潜邸にあった時、國禎は医者として徴用され翰海に至り、留守として医薬を掌った。荘聖太后が病に臥せると、國禎がこれを治療し、期日通りに全快したので、宴を張って座を賜った。太后は当時五十三歳であったため、白銀の鋌を年数と同じ数だけ賜った。伯撒王妃が眼病を患い、治療者が鍼を誤ってその目を損じた。世祖は怒り、死罪に処そうとしたが、國禎は従容として諫めて言った、「罪は確かに死に当たりますが、その心情を推し量れば恐怖のあまり度を失ったためです。もしこれを誅するならば、今後誰が再び進んで治療しようとするでしょうか」。世祖の怒りは解け、さらにこれを賞して言った、「國禎の直諫は、諫官とすることができよう」。宗王の昔班はたびたび國禎を自らの帳下に隷属させようと請うたが、世祖はその請いを重んじて断りがたく、遣わそうとした。國禎は辞して言った、「國禎は恩寵により抜擢され、心を尽くして報いることを誓っております。今仕えている主君を変えることはできません」。そこで結局遣わされることはなかった。

世祖が過度に馬乳酒を飲んで足の病を得た時、國禎が進めた薬は味が苦く、服用を拒んだ。國禎は言った、「古人の言葉に、良薬は口に苦くして病に利あり、忠言は耳に逆らいて行いに利あり、とあります」。やがて足の病が再発し、國禎を召して診させた。世祖は言った、「汝の言うことを聞かなかったので、果たしてこの病に苦しむことになった」。國禎は答えて言った、「良薬が口に苦いことは既にご存知です。忠言が耳に逆らうことにも、どうかご留意ください」。世祖は大いに喜び、七宝を飾った馬鞍を賜った。

憲宗三年癸丑、雲南征討に従軍し、機密の事柄すべてに参与し、朝夕常に左右を離れなかった。ある時假を取ると、帝はそれによって不機嫌になった。九年己未、世祖が軍を率いて鄂州を包囲した時、宋人数百家族を捕虜にした。諸将は皆これを生き埋めにしようとしたが、國禎は力を尽くして凶暴な者だけを誅し、残りは皆免れるように請うた。また軍が還る時、降伏した民数十万口を招き寄せたが、疲労と飢えで倒れ伏す者が道に満ちていた。國禎は進み出て蔡州の軍備蓄えの食糧を発してこれを救済し、多くを全活させた。

世祖が即位すると、以前の功労を記録し、榮祿大夫・提點太醫院事を授け、金符を賜った。至元三年、金虎符に改めて授けられた。十二年、禮部尚書に遷った。國禎はかつて上疏して言った、財賦を慎み、服色を禁じ、法律を明らかにし、武備を厳にし、諫官を設け、衞兵を均しくし、学校を建て、朝儀を立てよ、と。多くが施行された。彼が推薦した者は皆知名の士であり、士人もまた彼を重んじた。帝が近臣と勲旧の大臣について語った時、國禎に対して言った、「朕が昔出征した時、共に艱難を踏んだ者は、卿ら数人だけである」。そこで集賢大學士を拝し、光祿大夫に進階した。進見する度に、帝は許光祿と呼んで名を呼ばず、これによって内外の諸王大臣も皆許光祿と呼んだ。翰林集賢大學士に陞った。七十六歳で卒した。当時、勲功や徳行が帝に知られていない大臣は、贈諡を得ることは稀であったが、特に國禎に金紫光祿大夫を贈り、諡して忠憲とした。人々はこれを栄誉とした。後に推誠廣德協恭翊亮功臣・翰林學士承旨・上柱國を加贈され、薊國公に追封された。

初め、國禎の母の韓氏もまた医術に長じていたため荘聖太后に侍り、さらに食物の味を調和するのが巧みで、意に適った。四方から献上される珍しい御膳や旨い酒は皆、彼女に掌らせた。太后はその労を憐れみ、真定の邸宅一区を賜い、生涯にわたり毎年衣服と食糧を給することとした。國禎はこれによってここに家を定めた。子に扆がいる。

許扆は字を君黼といい、一名を忽魯火孫という。父の國禎に従って潜邸で世祖に仕え、進退が荘重であったので、世祖はこれを喜び、今の名を賜った。許衡に学ばせ、宿衞に加えて忠実で慎み深く小心であった。ある時事によって帝の意に逆らい、罪に処そうとしたが、帝は後悔し、近侍の帖哥に言った、「朕が忽魯火孫を罪しようとした時、汝はなぜ言わなかったのか。汝ら二人は今後兄弟となり、もし譴責があれば互いに進諫せよ」。そこで金を酒の中に置き、二人に飲ませて盟とさせた。当時裕宗が東宮に居たが、帝はまた忽魯火孫に諭して言った、「もし太子が汝を罪するならば、誰が諫めようか」。そこで東宮の臣である慶山奴にも同じく金酒を飲ませた。まもなく禮部尚書・提點太醫院事に除かれ、日月龍鳳紋の綺衣二襲を賜った。外国の使者が来る度に、必ず彼に命じて言葉を交わさせたが、言辞道理が明らかで弁別があり、心服しない者はなかった。尚醫太監に改めた。帝はかつて画工に命じてその肖像を描かせて賜った。正議大夫に転じ、引き続き提點太醫院事を務めた。

大安閣の礼神用の幣帛を盗んだ者がおり、誅殺しようとしたが、群臣は敢えて言う者なく、忽魯火孫だけが諫めて言った、「神を敬うことは善き事です。それによって人を死地に置くならば、臣は神がその祭祀を享けないのではないかと恐れます」。帝は即座に命じてこれを釈放させた。忽魯火孫は丞相の安童と親しく、国政について多く賛益した。桑哥はこれを忌み、たびたび帝に讒言したが、帝は信じなかった。桑哥が失脚し、左掖門に拘束された時、帝は忽魯火孫に命じてその顔に唾を吐かせようとしたが、辞してできないと言った。帝はその仁厚を称え、白玉の帯を賜った。そして諭して言った、「汝が明潔で瑕がないことは、この玉に似ている。故に汝に賜るのである」。

成宗が即位すると、中書右丞に遷り、太常卿を行った。固辞したので、中書右丞として太常の事を署することを命じた。まもなく陝西行中書省右丞に改めた。当時関中が飢饉に陥り、倉の粟を発して救済することが議されたが、同僚たちは朝廷に請うて許可を得ていないからできないと言った。忽魯火孫は言った、「民は邦の本である。今このように飢えているのに、命令が下るのを待っていては間に合わない。独断で発した罪は、私が独りで負う。公らに累を及ぼすことはしない」。そこで大いに粟を発し、数日もしないうちに命令も下った。翌年旱魃があり、終南山で祈ると雨が降り、大いに豊作となり、民は皆その画像を描いて祀った。

忽魯火孫は生業に従事せず、田畑や邸宅は全て上から賜ったものであった。足の病があり歩行ができなかったが、仁宗は先朝の老臣であるとして、特に詔を下して小輿に乗って禁中に入ることを許し、旧事について尋ねた。後に足がさらに弱り、外出できなくなると、国に大政がある度に、詔を下して近侍をその家に遣わして問わせた。特に榮祿大夫・大司徒しとを授け、その禄を終身にわたって食した。推忠守正佐理功臣・光祿大夫・陝西等處行中書省平章政事・柱國を贈られ、趙國公に追封され、諡して僖簡といった。