元史

列傳第五十四:張立道・張庭珍・張惠・劉好禮・王國昌・姜彧・張礎・呂掞・譚資榮・王惲

張立道

張立道、字は顯卿。その先祖は陳留の人であったが、後に大名に移った。父の善は金の進士に及第した。壬辰の年、国兵が河南を下ると、善は策を以て太弟拖雷に干謁し、必闍赤に任ぜられた。

立道は十七歳の時、父の任により宿衛に備えた。世祖が即位すると、立道は北征に従い、左右を離れなかった。至元四年、立道は西夏に使いし、その部の軍需を給し、幹敏と称された。皇子忽哥赤が雲南王に封ぜられ、その地を鎮めることとなり、詔して立道を王府文学とした。立道は王に勧めて農を務め民を厚くすべしとし、即ち立道を大理等処勧農官に署し、兼ねて屯田事を領せしめ、銀符を佩かせた。まもなく侍郎寗端甫と共に安南に使いし、歳貢の礼を定めた。

雲南三十七部都元帥宝合丁は専制すること久しく、窃かに拠らんとする志があり、忽哥赤が来て王となることを忌み、宴を設けて毒を酒中に置き、かつ王相府の官に賄してその事を漏らさざらしめた。立道これを聞き、急ぎ入って見んとし、門を守る者がこれを拒んだ。立道怒って争うと、王その声を聞き、人を遣わして立道を召し、乃ち入るを得、王にこれを言上した。王その手を引き、口を探らしめると、肉既に腐っていた。この夕べ、王薨じた。宝合丁遂に王座を占め、人を遣わして王妃を諷し王印を求めしめた。立道ひそかに義士を結び、十三人を得、共に賊を討つことを約し、臂の血を刺して金屑と和しこれを飲み、一人を推して京師に走らせて変を告げしめた。事頗る露顕し、宝合丁乃ち立道を囚え、将にこれを殺さんとした。人匠提挙の張忠なる者は、燕の人で、立道にとって族兄にあたり、壮士を結びて夜獄を劫い、これを出し、共に亡れて土蕃の界に至り、帝の遣わした御史大夫博羅歓・王傅別怗と変を告げし者と俱に来るに遇った。二人は遂に立道と俱に還り、宝合丁及び王府の官で嘗て賄を受けし者を按じ、皆誅せられた。旨ありて立道等を召して入朝せしめ、王の薨じた時の状を問うた。帝立道の言を聞き、涙数行下り、歔欷すること久しく、「汝らは我が家の事の為に甚だ労苦せり。今朕に事えんと欲するか、太子に事えんと欲するか、安西王に事えんと欲するか。惟だ汝の意の向かう所に従え」と言われた。立道等は願わくは留まって陛下に事えんと奏し、ここに立道に金五十両を賜い、以てその忠を旌し、張忠等もまた皆官を授けられ差等があった。

八年、再び安南に使いし、建国号の詔を宣した。立道は黒水を併せ、雲南を跨ぎ、以てその国に至り、歳貢の礼遂に定まった。十年三月、大司農事を領し、中書は立道が雲南に熟していることを以て、奏して大理等処巡行勧農使を授け、金符を佩かせた。その地に昆明池あり、碧鷄・金馬の間に介在し、五百余里を環らし、夏の潦暴に至れば必ず城郭を冒した。立道は泉源の出づる所を求め、丁夫二千人を役してこれを治め、その水を泄し、壌地一万余頃を得、皆良田となった。爨・僰の人は蠶桑を知ってはいたが、その法を得ず、立道始めて飼養を教え、収利は従前の十倍となり、雲南の人はこれにより益々富庶となった。羅羅諸山の蛮はこれを慕い、相率いて来降し、その地を収めて悉く郡県とした。

十五年、(忠)〔中〕慶路総管に除され、虎符を佩いた。先に雲南は孔子を尊ぶことを知らず、王逸少を祀って先師としていた。立道は初めて孔子廟を建て、学舎を置き、士人の子弟に学ぶことを勧め、しょくの士の賢者を選び、迎えて弟子の師とし、歳時諸生を率いて釈菜の礼を行い、人は礼譲を習い、風俗稍々変わった。行省平章賽典赤が朝に表して言上し、旨ありて官を進めてこれを褒めた。

十七年、入朝し、力めて帝に請うて雲南王子也先帖木児に王爵を襲がしめんとし、帝これに従った。遂に立道を臨安広西道宣撫使とし、兼ねて管軍招討使を管し、仍虎符を佩かせた。陛辞に際し、弓矢・衣服・鞍馬を賜うた。始めて任に赴くや、禾泥路大首領必思が反し、諸蛮夷を扇動するに会した。急ぎ兵を発してこれを討ち、その城邑を抜き、鼓行して前進し、金歯甸七十城を徇い、麻甸を越え、可蒲に抵り、皆これを下した。馴象・金鳳の異物を遺わす者あり、悉くこれらを朝に献じた。二十二年、また両江の儂士貴・岑従毅・李維屏の所部戸二十五万有奇を籍し、その籍を以て有司に帰した。臨安広西道軍民宣撫使に遷った。また建水路に廟学を創し、公廨に清白の訓を書き、以て貪墨を戒め、風化大いに行なわれた。入朝し、権臣の用事するに値し、遂に散地に退居した。十二策を条陳し、皆当世の務に切実であり、帝嘉してこれを納れた。

二十七年、北京に地陥し、人民震驚した。立道を本路総管に命じた。未だ行かざるに、安南世子陳日燇がその臣厳仲(羅)〔維〕・陳子良等を遣わし京師に詣り襲爵を告げた。先に、その国主陳日烜は累次召しても至らず、僅かにその族父遺愛を遣わして入貢せしめ、朝廷因って安南王に封じた。遺愛還るや、日烜ひそかにこれを害した。使いを遣わして罪を問うと、日烜は使者を拒み命を受けず、遂に将を遣わしてこれを討たしめたが、利を得ずして還った。帝怒り、再び兵を発さんと欲した。丞相完澤・平章不忽木が言うには、「蛮夷の小邦は以て中国を労するに足らず。張立道は嘗て再び安南に使いして功あり。今また使いして往かしめば、宜しく命に従わざるは無からん」と。帝は香殿に召して諭して言われた、「小国恭しからず。今汝を遣わして朕の意を諭す。宜しく乃心を尽くせ」と。立道対えて言う、「君父の命は、水火を蹈むとも敢えて辞せず。臣愚か、専任に足らざるを恐る。重臣一人を乞い、俱にせしめ、臣その副と為らん」と。帝曰く、「卿は朕が腹心の臣なり。一人を卿の上に居らしめば、必ず卿の謀を敗らん」と。遂に礼部尚書を授け、三珠虎符を佩かせ、衣段・金鞍・弓矢を賜って行かしめた。

安南の界に至り、郊労する者に謂って言う、「爾が世子に語れ、当に郭を出でて詔を迎うべし」と。日燇乃ちその属を率い、香を焚き道左に伏謁した。既に府に抵ると、日燇は拝跪し、詔を聴くこと礼の如くであった。立道は上命を伝え、その罪を数え、書を為ってこれを諭した。日燇曰く、「比来三世公使を辱しむ。公は大国の卿、小国の師なり。何を以てか我を教えん」と。立道曰く、「昔、鎮南王が詞を奉じて討ち致すに、汝は能く之に勝てるにあらず。その嚮導を用いず、衆を率いて深入りし、一人を見ず、遅疑して還り、未だ険を出でざるに、風雨驟然として至り、弓矢尽く壊れ、衆は戦わずして自潰したるにより。天子も亦既に之を知れり。汝の恃む所は、山海の険・瘴癘の悪しきのみ。且つ雲南と嶺南の人は、習俗同じくして技力等し。今之を発して用い、継ぐに北方の勁卒を以てすれば、汝復た能く抗せんや。汝戦い利あらずとも、海中に遁れ入るに過ぎず。島夷乗釈して必ず来たり寇抄せん。汝食少なくして支え難く、必ず彼に屈せん。汝その臣と為るは、天子の臣と為るに若かざるなり。今海上の諸夷、歳に汝に貢する者は、亦我が大国の汝と与にするを畏るるなり。聖天子の汝に徳有ること甚だ厚し。前年の師は、殊に上意にあらず、辺将の汝を讒するのみ。汝曾て悟らず、一介の使を遣わして罪を謝し命を請うこと能わず、輒ち兵を称して抗拒し、我が使人を逐い、以て我が大国の師を怒らしむ。今禍将に至らんとす。惟だ世子之を計れ」と。

日燇は拝礼し、かつ涙を流して言うには、「公の言はまことにその通りである。私のために策を謀る者は、皆このような方策を知らない。先日の戦いは、死を救うのみで、どうして天子の使者を恐れないことがあろうか。公が来られれば必ず私を生かしてくださるでしょう」と。北面して再拝し、死を誓って天子の恩徳を忘れないと誓った。そこで立道を迎え入れた。珍奇な宝物を出して賄賂としたが、立道は一切受け取らず、ただ日燇の入朝を求めた。日燇は言った、「生きることを貪り死を恐れるのは、人の常情である。もし詔によって死を赦されるならば、臣として何の言い訳があろうか」と。そこで先にその臣下の阮代之・何惟巖らを立道に随行させて上表し謝罪し、歳貢の礼を以前のように整え、かつ入朝を願う意向を述べさせた。朝廷の臣下でその功績を妬む者がおり、必ず先に入朝させてから赦すべきだと考えた。日燇は恐れ、ついに来ることができず、議論する者はこれを惜しんだ。

二十八年、立道を使者として派遣し両浙を巡行させた。まもなく四川南道宣慰使とし、陝西漢中道肅政廉訪使に転じた。三十年、皇曾孫の松山が梁王に封ぜられ、雲南に出鎮した。大徳二年、朝廷で議論し、梁王を補佐して随行できる旧臣を求めたところ、立道は陝西行臺侍御史のまま雲南行省参知政事に任ぜられた。職務に就いて一ヶ月、官において卒した。

立道は合わせて三度安南に使いし、雲南に官として最も長く在任し、土人の心を大いに得た。彼らのために鄯善城の西に祠を建てた。立道の著した詩文に、『効古集』・『平蜀総論』・『安南録』・『雲南風土記』・『六詔通説』若干巻がある。子の元は、雲南行省左右司郎中であった。

張庭珍・張庭瑞

張庭珍、字は国宝、臨潢全州の人。父の楫は、金の商州南倉使であった。壬辰の年、その民数千を籍して来降し、太宗は北京等路の賦課を監榷することを命じ、まもなく北京都転運使に改め、これにより北京に家を定めた。

辛亥の年、憲宗が即位し、庭珍を必闍赤とした。高麗が命を請わず、勝手に海中の江華島に居を移したため、庭珍を遣わしてこれを問いただした。その王は言った、「臣は本朝に事えて未だ謹んでいないことはないが、大軍が毎年侵掠するので、険地に避けて逃れるのは、已むを得ないことである」と。かつ庭珍に金銀数千両を賄賂として贈ったが、庭珍はこれを退けて帰還し、状況を報告した。帝は戍兵にその地に勝手に入ることを禁じ、高麗は安堵した。帝が宋を伐つに及び、閬州に至り、安撫使に任じた。

世祖が即位し、自ら将となって北伐するにあたり、庭珍が西京から漠南路に入る道に詳しいため、沙井などの駅伝を設置させ、兼ねて糧運を給することを命じ、まもなく同僉土蕃経略使に任じた。

至元六年、安南が貢ぎ物を時を定めずに行ったため、庭珍を朝列大夫・安南国達魯花赤とし、金符を佩かせ、吐蕃・大理などの諸蛮を経て安南に至らせた。世子の光昞は立ったまま詔を受け、庭珍はこれを責めて言った、「皇帝は汝の土地を郡県とすることを欲せず、汝が藩と称することを聴き、使者を遣わして旨を諭された。恩徳は極めて厚い。王はなお宋と唇歯の関係を保ち、妄りに尊大をなしている。今百万の師が襄陽を囲み、陥落は旦夕に迫り、巻き席のごとく江を渡れば、宋は亡びる。王は何を恃むのか。かつ雲南の兵は二ヶ月と経たずして汝の境に至り、汝の宗祀を覆すことは難くない。よく謀るがよい」と。光昞は恐れおののき、下がって拝礼し詔を受けた。やがて庭珍に語って言った、「聖天子は私を憐れんでくださるが、来る使者は多く無礼である。汝の官は朝列、私は王である。互いに抗礼するなど、古にあったか」と。庭珍は言った、「ある。王人(天子の使者)はたとえ微賤であっても、諸侯の上に序せられる」と。光昞は言った、「汝は益州を通った時、雲南王に拝礼したか」と。庭珍は言った、「雲南王は天子の子である。汝は蛮夷の小邦に過ぎず、特に王号を仮り与えられたに過ぎない。どうして雲南王と比べられようか。まして天子は私を安南の長と命じ、位は汝の上にある」と。光昞は言った、「大国と称するならば、なぜ我が犀象を求めるのか」と。庭珍は言った、「方物を貢ぐことは、藩臣の職分である」と。光昞は返す言葉がなく、ますます慚愧と憤りを覚え、衛兵に刃を露わにして周りに立たせ、庭珍を脅かした。庭珍は佩いていた弓刀を解き、室の中に平然と臥して言った、「汝の好きにせよ」と。光昞とその群臣は皆敬服した。翌年、使者を庭珍に随行させて入貢させた。庭珍は帝に謁見し、光昞に対して答えた言葉を報告した。帝は大いに喜び、翰林承旨の王磐に命じてこれを記録させた。

襄陽行省郎中に任ぜられた。阿里海牙とともに数騎を従えて襄陽の南門に至り、宋の将呂文煥を呼んで語った、「我が師の攻める所は取らざるはない。汝の孤城は路絶え、外には一兵の援けもなく、死守して空名を求めようとするのは、郡中の人々をどうするつもりか。汝は早く図るべきである」と。文煥の帳前の将田世英・曹彪がその総管武栄を捕らえて来降したため、文煥はますます孤立した。翌日、黒楊都統を遣わして降伏の申し出を協議した。これを返して報告させようとしたが、庭珍は言った、「彼が来たのは、あるいは計略をもって我が様子を窺うためで、必ずしも果たして降伏するとは限らない。この者は呂氏の腹心である。留めておき、その謀を挫く方がよい」と。元帥の阿朮はこれを然りとし、留めて帰さなかった。また翌日、文煥は城を挙げて降伏した。功により中順大夫に昇進し、遥かに知帰徳府行枢密院経歴を授けられた。諸軍が南渡すると、再び行省郎中となり、まもなく金虎符・襄陽総管を授かり、府尹を兼ね、郢州・復州の二州達魯花赤に改められた。

宋が平定されると、平江路達魯花赤に転じ、同知浙東宣慰使司事に改められた。赴任せず、大司農卿に任ぜられた。続けて親の喪に服したが、喪中に起復して南京路総管に任ぜられ、開封府尹を兼ねた。開封には控鶴軍士十数人がおり、大きな邸宅を借りて聚居し、街陌を縦横にしていた。庭珍が着任した初め、彼らが必ず盗賊であると察し、急いで捕らえたところ、宝玩・器服・子女が室に満ちていた。その党を徹底的に捜索し、皆殺しにしたので、民は神のごとく思った。黄河が決壊し、太康に灌ぎ、千里を漂溺した。庭珍は商人や漁師の船を徴発し、また木を縛って筏とし、乾糧を載せて四方に出て救済し、多くを全活させた。水が善利門に入ると、庭珍は自ら人夫を督いて薪土を運び防いだが止められず、ついに城壁を崩して堰とした。水が退くと、直ちに民を発動して外防を百三十里増築させ、人々は水害の憂いを免れた。まもなく官において卒した。

庭珍の性質は清廉で慎み深く、丞相の伯顔はかつて人に語って言った、「諸将が江を渡った時、荒淫貪婪でない者はなかった。ただ私と国宝(庭珍)のみが終始自らを守った」と。聞く者はこれを知言とした。弟に庭瑞がいる。

庭瑞、字は天表、幼少より功業を自ら期し、兵法・地志・星暦・卜筮を推究しなかったものはなかった。宿衛として憲宗に従い蜀を伐ち、先鋒となった。中統二年、元帥府参議に任ぜられ、青居に留まって戍守した。

諸軍が開州・達州を攻めた時、庭瑞は兵を率いて虎嘯山に城を築き、二州の路を扼した。宋の将夏貴が師数万をもってこれを包囲した。城は砲撃に当たり、皆穴が開いたため、柵を築いて守った。柵が壊れると、大樹に依って牛馬の皮を張り、砲撃を防いだ。貴は城中の人が澗で水を飲むのを見て、外からその水を絶った。庭瑞は人畜の小便を沸かして煮、土中に注いで臭気を発散させ、人は日に数合を飲み、唇は皆瘡裂したが、一ヶ月以上堅守し、援兵は進むことができなかった。庭瑞は宋兵がやや懈怠したと見て、兵を三分し、夜に貴の営を襲撃した。宋兵は驚いて潰走し、都統の欒俊・雍貴・胡世雄ら五人を殺し、千余級を斬った。庭瑞もまた数ヶ所傷を負った。功により奉議大夫・知高唐州に任ぜられ、濮州尹に改め、陝西四川道按察副使に転じた。政治が過度に厳しかったため、上官が不便に思い、罪に陥れて四川屯田経略副使に転じさせた。東西川行枢密院が兵を発して重慶を包囲した時、朝廷は庭瑞が軍事に練達していることを知り、成都総管に換え、虎符を佩かせ、舟楫・兵仗・糧儲は皆彼に依って整えさせた。

蜀が平定されると、諸蠻夷部宣慰使に昇進し、蠻夷の心を大いに得た。碉門の羌が婦人や老幼を連れて市場に入り、価格をめぐって争い人を殺したため、碉門魚通司がその者を拘束した。羌の酋長は怒り、繩橋を断ち切り、襲撃して奪還しようと謀った。魚通司が急を告げて来たので、左丞汪惟正が策を問うと、庭瑞は言った、「羌の習俗は暴悍で、鬪殺をもって勇と為す。今、蜂が一人を刺したごときことで、直ちに門牆の寇として扱うのは、よろしくない。使者を遣わして禍福を説き諭すべきである。彼らが悟れば、自ずから引き下がるだろう。」惟正は言った、「使者は君に過ぎる者はいない。」そこで数騎を従えて、羌の境界に至った。

羌は兵を陳べて待ち受けていたが、庭瑞は進み出て彼らに語った、「人を殺せば死をもって償うのは、羌と中国の法は同じである。役所が諸人を拘束したのは、証拠を見せようとしただけである。しかるに汝らは直ちに無礼をほしいままにした。もし行省が朝廷に上奏すれば、近隣の郡の兵を召集して汝らの巣穴を空しくするだろう。」その酋長は槍や弩を棄てて羅拜し言った、「私は近ごろ生きた羊の脾臓を裂いて占い、肉の文理がどうであるかを見て吉兆を占ったところ、『白馬の将軍が来れば、兵を用いずに事が済む』と出た。今、公の馬は果たして白い。命に従わないわけにはいかない。」そこで人を殺した者を論罪し、残りは全て釈放して帰した。そして約束を結び、今後交易する者は、碉門を境界とし、互いに出入りしないこととした。

官が蜀の茶を買い上げ、価格を上げて羌に売りつけていたため、人々はこれを患いとしていた。庭瑞は引法を改め、一引ごとに二緡を納めさせ、文券を民に渡して、彼らが羌と自由に取引することを許したので、羌も蜀も便利とした。以前は、運糧は楊山から江を遡っていたが、しばしば転覆沈没した。庭瑞が初めて屯田を設けたので、人々はその患いを免れた。都掌蠻が叛いた。蠻は飛鎗を得意とし、松の枝を連ねて盾とし自らを防いだ。行省は庭瑞に討伐を命じた。庭瑞の射た矢は、その盾を半簳も貫き出した。蠻は驚いて言った、「いかなる弓矢か、かくも力強いとは!」直ちに降伏を請うた。ただその酋長(蘭德)〔德蘭〕酉ら十余人を斬っただけで、残りの民は招き戻した。

敍州等處蠻夷部宣撫使に任じられ、後に潭州路総管に転じた。当時、湖広省の臣は民を収奪して功績としていた。庭瑞は抗しがたいと知り、関中に帰ることを願い出た。三年後、成都を懐かしみ、漢中から家奴を分けてそこに住んだ。病気で死去した。

庭瑞が初めて青居に駐屯した時、その土地は橘が多かった。当時、中州では蜀の薬材が得難く、その価格は常時の倍であった。庭瑞は暇な兵士に課して、毎日橘皮を数升ずつ取り入れ貯蔵させたが、人々はその理由がわからなかった。商人で資金を失って帰れなくなった者がいると、一人に橘皮一石を与え、それで得た銭で救済したので、皆感激した。家に愛妾がいた。ある日、老人が彼女と話しているのを見ると、それは彼女の父であった。妾が庭瑞に告げた。召し出して見ると、その容貌はよく似ていた。「娘を連れて帰りたいのか?」と問うと、その者は幸いにも側に仕えさせていただくことを望み、帰すことを求めるなどとは申し上げられないと言った。庭瑞は言った、「汝の娘が我が家にいるのは、ただの婢女に過ぎない。帰して嫁がせれば良人となるのだ。」化粧道具や書類を全て取り出して返した。当時の人々はこれを難事と見なした。

張惠

張惠、字は廷傑、成都新繁の人、宋の尚書右僕射張商英の裔孫である。先祖は青河に移り住み、後に蜀に移った。丙申の年、恵は十四歳の時、兵が蜀に入り、捕らえられて杭海に至った。数年住むうちに、諸国の言葉に通じた。丞相蒙速速がこれを愛でて推薦し、世祖の藩邸に侍らせた。謹慎で機敏であると称され、兀魯忽訥特の名を賜った。世祖が即位すると、燕京宣慰副使に任じられた。政治は寛大で簡素であり、分數銭の免除を奏上し、硝碱局を廃止した。まもなく侍中に転じた。

至元元年冬、参知政事に任じられ、山東に行省した。銀で捕虜二百余家を贖い出して民とし、帰れない者には僧侶となることを許し、寺を建てて住まわせた。李璮の乱の際、山東の民で軍士に虜掠された者が非常に多かったが、恵が到着すると、軍中を大々的に捜索し、全て釈放した。また良吏を選び、冗官を省き、民の苦しみを和らげるよう奏上した。制国用司副使に転じた。ちょうど制国用司が尚書省に改められると、参知政事に任じられ、中書左丞に転じ、さらに右丞に進んだ。伯顔が師を率いて宋を伐った時、十二年夏、詔により恵がその糧餉を主管し、江淮の銭穀を全て管轄した。

十(二)〔三〕年春、宋が降伏すると、伯顔は恵と参知政事阿剌罕らに命じて城内に入り、府庫の版籍を検査し、その太廟及び景霊宮の礼楽器物、冊宝、郊天の儀仗を収めた。江南の民を工匠として登録したのは凡そ三十万戸であったが、恵は技芸のある者を選んで僅か十余万戸とし、残りは全て民に戻すよう奏上した。伯顔は宋の主君を北還させるに当たり、恵に居守を命じた。恵は命令を待たず、勝手に府庫の封鑰を開けたので、伯顔がこれを上聞した。詔により左丞相阿朮、平章政事阿塔海がこれを詰問し、京師に召還した。

二十年、栄禄大夫・平章政事に任じられ、揚州に行省した。二十二年、入朝し、再び平章政事として杭州に行省することを命じられた。無錫に至って卒去した。六十二歳。恵の赴任した地には能吏の名声があったが、老いてからは、かなり浮沈して譏りを受けた。子に遵誨がいる。

劉好禮

劉好禮、字は敬之、汴梁祥符の人。父の仲澤は、金の大理評事であり、遙授で同知許州となり、家を保定の完州に移した。

好禮は幼い頃から志があり、読書を知り、国語(モンゴル語)に通じた。憲宗の時、廉訪府が参議に辟召した。乙卯の年、永興府達魯花赤に改任された。至元元年、侍儀廉希逸の推薦により召し出されて謁見し、人材を挙げるなど数事を言上して、帝の意にかなった。五年、詔に応じて建言した、「凡そ役所が奏請する際は、まず皇太子に啓上し、庶政を閲覧習熟させられるようにすべきで、これが社稷生民の福である。陝西は重地であるから、皇子諸王を封じてこれを鎮守させるべきである。都城を築造する際は、価値を与えて民地を買い取るべきである。選格は中統三年を限りとすべきでなく、それ以後の者も記録すべきである。」帝はその言を是とし、中書に施行を命じた。

七年、益蘭州等五部断事官に転じ、古の都護に比すべきものとされ、益蘭を治めた。その地は京師から九千余里離れており、民俗は陶冶を知らず、水には舟航がなかった。好禮は朝廷に工匠を請い、その民に教えさせたので、今に至るまで便利と称されている。ある者が塩酒の専売で経費を補えると言うと、好禮は言った、「朝廷が要荒の地に官を設けるのは、遠方を安んじることを務めとするのであって、どうしてその利益を奪おうとしようか。」言った者は慚愧して服した。

十年、北方の諸王が叛き、好禮を軍中に捕らえ、ほとんど死にそうになったが、その大将は好禮が応対に長けているとして釈放した。十六年春、叛王が好禮を欠欠州に召し出して言った、「皇帝が私を疑ったので、今日の事態になったのだ。」好禮は言った、「疑ってはいない。もし王を疑ったなら、王を京師に召し出して、帰すことを肯うだろうか。」十七年春、好禮は衆を率いて別の部族に走り、要害を守って援軍の到着を待った。叛王の軍に遭遇し、好禮は西の雪峩嶺を越えるよう迫られた。好禮は自ら考えた、これを越えれば帰還の望みはないと。そこで衣服で叛王の千戸に賄賂を贈り、ようやく東の鉄壁山口から出ることができ、間道を南に数日走り、従う者が続々と集まり千人近くになった。途中で食糧が尽き、狩猟して食とした。七月、菊海に至り、ようやく戍兵と連絡がつき、駅伝に乗って昌州に至ることができた。入朝して謁見すると、帝は食事と鈔を賜った。

十八年、嘉議大夫・澧州路総管を授かる。十九年、召されて刑部尚書となり、まもなく礼部に改め、さらに吏部に改まる。好禮は中書に建言して言う、「象の力は最も巨大である。上(皇帝)が両都を往還される際、乗輿の象駕に万一異変があれば、従者は多くとも、どうして力及ぶことがあろうか」。間もなく、象が驚き、従者を危うく傷つけるところであった。二十一年、出て北京路総管となる。再び召されて戸部尚書となる。二十五年六月、卒す。享年六十二。

子の晸は、河西隴右道粛政廉訪使となる。

王國昌の子、通。

王國昌は、膠州高密の人。初め膠州千戸となり、中統元年、入朝して拝謁し、世祖はその才能を見抜き、左武衛親軍千戸に遷し、金符を佩かせる。召して軍旅のことを問うと、國昌は奏対が甚だ詳しかったので、帝はこれを嘉し、白金・錦袍を賜う。

至元五年、ある者が上書して言うには、高麗境内の黒山から海路で宋の境に至るのが近いと。帝は國昌に命じてこれを視察させた。海を千余里渡り、風濤が洶湧する中、従者は恐れて還るよう勧めたが、國昌は神色自若として、ゆるりと言う、「天子の威命を奉じて、事を未だ畢えずして急ぎ返ることは、よろしいか」。遂に黒山に至ってから還った。帝は引見して慰労した。そして東夷は皆内属したが、ただ日本のみが正朔を受け入れない。帝は隋の時に曾て中国と通交したことを知り、使者を遣わして威徳を諭し、國昌に兵を率いて護送させ、道すがら高麗を経由した。時に高麗に叛臣が珍島城を占拠していたので、帝はよって國昌に命じて経略使印突・史樞らとこれを攻め落とさせた。八年、再び使者を日本に遣わし、やはり國昌に命じて高麗の義安郡に屯駐させて援けとした。冬十月、軍中に卒す。子の通が嗣ぐ。

通は、初め爵を襲い左衛親軍千戸となる。十二年、諸軍に従って宋を伐ち、江を渡り、鄂州を鎮守する。時に潭州が降らず、兵をその城に迫ると、通は率いる千人をもってその柵を破り、宋兵は遁走した。通は兵を放って追撃し、殺戮捕獲甚だ多く、功により武節将軍に進む。静江を攻め落とすのに従う。十四年、侍衛親軍千戸に改まる。明年、通は上書し、今南方は既に平定されたが、北辺は未だ安寧でないと述べ、和林に屯田し、配下を率いて自ら尽力することを請うた。帝は慰労してこれを遣わした。金山において敵兵を破るのに従い、生口及び馬・羊・牛・駱駝を俘獲すること算え知れず、顕武将軍に進み、金虎符を賜り、僉左衛親軍都指揮使に昇る。叛王乃顔を討つに従い、副都指揮使に遷る。明年、瓜州・沙州諸州に屯田し、明威将軍に進階する。

武宗即位、命じて京城の衛兵を総べしむ。枢密院がまた奏上して通に左丞を摂行させ、諸衛の屯田兵を領せしむ。まもなく屯儲衛親軍都指揮使に遷り、海口を鎮守する。疾を以て卒す。

子の燕出不花、武徳将軍・左衛親軍副都指揮使を襲ぐ。

姜彧。

姜彧、字は文卿、萊州萊陽の人。父は椿、乱を避けて済南の張榮に依り、よってそこに家を定める。彧は幼くして穎悟好学、張榮が済南を守ると、掾に辟召され、左右司知事に昇り、まもなく郎中に遷り、参議官に進む。

中統二年、彧は張榮の孫の宏と入朝し、よって益都の李璮の反状既に露わなれば、その未発に先んじてこれを制すべきと進言したが、返答はなかった。明年の春、李璮は果たして反した。時に諸郡は兵備を為さず、李璮は即ち襲って済南を占拠した。彧は家を棄てて張榮に従い、散亡を招集し、諸王哈必赤を迎えて進兵しこれを討たせた。秋七月、生口を捕え得て、城中は食糧尽きて勢い窮すると言う。彧は昏夜に請い見えて王に言う、「王が陛辞の時、面して詔を受けたと聞きます、『兵を発して璮を誅するのみ、無辜に及ぶなかれ』と。今旦夕にして城将に破れんとす。王は早く諸将に諭して城門を分守せしめ、兵を縦することを許さざるべし。然らずんば、城中に噍類無かるべし」。王曰く、「汝の言う城破は、陰陽を解するか」。彧曰く、「人事を以てこれを知るなり。若し城破を待って王に言わば、晩し」。王は悟る。明日、賊衆は門を開いて出降す。王は諸軍に下令し、敢えて城に入る者は軍法に論ずと。李璮は就擒し、城中は按堵として故の如し。彧は功により大都督ととく府参議を授かり、濱州知事に改まる。

時に行営の軍士多く民田を占めて牧地とし、牛馬を放って民の禾稼桑棗を損なう。彧は中書に言上し、官を遣わして疆畔を分画させ、その強猾不法なる者を捕えて法に置かしめた。そして民に課して桑を植えさせ、歳余にして新桑野に遍く、人はこれを太守桑と名付けた。東平府判官に遷る時、民は遮り留まるよう請い、馬は為に行かず。

至元五年、召されて治書侍御史に拝され、出て河北河南道提刑按察使となり、金虎符を賜り、信州路総管に改まる。後に累遷して陝西漢中・河東山西道提刑按察使となり、行臺御史中丞に拝される。後に老病を以て済南に帰り、まもなく燕南河北道提刑按察使に擢でられる。三十年二月、疾を以て卒す。享年七十六。子に迪吉。

張礎。

張礎、字は可用、その先祖は渤海の人。金末、曾祖の琛は燕の通州に徙る。祖の伯達は、忽都忽那顔に従って燕・薊の地を攻略し、金の守将蒲察七斤は城を以て降る。忽都忽は制を承けて伯達を通州節度判官とし、遂に通州を知る。父の範は真定勧農官となり、よってそこに家を定める。

張礎は儒学を修め、丙辰の年(1256年)、平章廉希憲が世祖(クビライ)の潜邸に推薦した。当時真定は諸王アリクブケの分地であり、アリクブケは張礎が自分に従わないのを恨み、使者を遣わして世祖に言った。「張礎は我が分地の者である。我に帰属させるべきだ。」世祖は使者に命じて返答させた。「兄弟は至親である。どうして彼此の区別があろうか。かつ我は今宋に事を構えている。張礎のような者は、まさに倚任すべき人材である。天下が平定されたならば、必ず返還しよう。」己未(1259年)、世祖に従って宋を伐ち、すべて軍旅の徴発や文檄は彼の手から出た。

中統元年(1260年)、中書省が立てられ、張礎に左右司事を権行させた。まもなく出て彰徳路拘榷官となり、再び入朝して三部員外郎となり、金符を賜り、平陽路同知転運使となった。献州知州に改め、東平府同知事となり、また威州知州に改めた。ある婦人が驢馬に乗って市を通りかかると、投下官アンチの奴僕が鳴鏑を引いて婦人を射落とし、奴僕はアンチの家に匿われた。張礎はこの事を上聞しようとしたところ、アンチは恐れて奴僕を出し、奴僕を法に照らして処断した。

至元十四年(1277年)、諸道提刑按察司が立てられ、張礎は江南浙西道提刑按察副使となり、金符を佩いた。宣慰使シリが貪暴で、良民を掠めて奴隷としたので、張礎はこれを弾劾して罷免した。遂安県の民が衆を集めて険阻な地に拠り乱を起こしたので、命を受けて張礎と同知浙西道宣慰使劉宣が兵を率いて捕らえた。劉宣はすぐに進兵しようとしたが、張礎は言った。「江南は新たに帰附したばかりで、守吏の中には撫育の道を失う者もいる。人を遣わして招諭し、衆の命を全うすべきである。」劉宣は同意しなかったが、張礎は言った。「諭して来なければ、誅伐を加えても遅くはない。」そこで人を遣わして諭したところ、逆党は果たして自ら縛られて罪を請うたので、張礎はこれを釈放し、劉宣は嘆服した。

嶺南広西道提刑按察使に転じた。広西宣慰使エリトが民財を強奪したので、張礎はその罪を糾弾した。嶺北湖南道提刑按察副使に転じ、賓州路総管に任じられたが赴任せず、国子祭酒に拝され、まもなく出て安豊路総管となった。三十一年(1294年)、官において卒した。年六十三。昭文館大学士・正奉大夫を追贈され、清河郡公に封ぜられ、諡は文敏といった。子の張淑は、衛輝路推官となった。

呂𡌳

呂𡌳、字は伯充、河内の人である。七世の祖は呂公緒で、宋の丞相呂公著とは従兄弟の関係であった。祖父の呂庭は、金の末年に乱を避けて郷里を離れた。父の呂佑は帰附し、初め兵籍に属し、北郡に転徙し、再び関中に至り、そこに家を定めた。廉希憲が京兆を宣撫した時、許衡を招聘して生徒を教授させ、呂𡌳は許衡に従って学んだ。許衡が国子祭酒となると、呂𡌳を伴読に推挙し、教養を輔成するのに、呂𡌳の功績が多かった。

至元十三年(1276年)、陝西道按察司知事に抜擢された。未だ赴任しないうちに、宋の降人が言うには、襄・漢は新たに帰附し、民情が未だ安まらず、呂子開という者がおり、かつて襄陽制置司参謀官であったが、今は鄂に退居している。この人は宋の事情に詳しいので、徴用すべきである。朝廷は使者を遣わすことを議したが、適任者に難渋した。ある者が言うには、子開の旧名は呂偉で、金の乱で宋に入り、名を文蔚と改め、字を子開とし、呂𡌳の従叔父にあたる。呂𡌳を遣わすのがよい。当時江淮の兵は未だ収まっておらず、呂𡌳はこれを聞き、慨然として行くことを請うた。子開が入覲すると、襄・漢を安撫する便宜を上奏し、詔して子開を翰林直学士としたが、辞して就任しなかった。

十四年(1277年)、呂𡌳を四川行枢密院都事に任じた。当時、宋の制置使張珏が重慶を守り、安撫使王立が合州を守っていた。詔により枢府が兵を分けてこれを取ることとなった。李徳輝が成都で西院事を行い、王立の偵察兵張郃ら数人を捕らえ、殺そうとした。呂𡌳は言った。「彼らがすぐに降らないのは、かつて抗命したことがあり、城が降れば誅殺を恐れるからである。今は張郃らを釈放し、帰って王立を諭させるべきだ。」間もなく、王立は果たして張郃らに蠟書を持たせて成都に遣わした。李徳輝は東院と共に降伏を受けようと請うた。後日になっても来ないので、李徳輝は制を承って王立を引き続き安撫使・合州知事に任じ、倉を開いて民を賑済し、掠奪を禁じた。すると瀘・叙・崇慶・思・播・夔・万等の郡がこれを聞き、相次いで帰順の意を示した。巴・黔の民は呂𡌳と李徳輝の恩恵に感じ、共に祠を建てて祀った。東院は功績が無いことを恥じ、李徳輝が越境して功を邀えたと誣告し、王立を長安ちょうあんの獄に繋ぎ、誅殺しようとした。呂𡌳がちょうど用事で京師に至り、許衡に言上した。許衡が留守賀仁傑に告げ、遂に上奏して王立を釈放させ、金虎符を賜り、元の官職に留任させた。呂𡌳もまた四川平定の功により、詔して金織衣・弓刀・鞍勒・白金を賜り、奉訓大夫・四川行省左右司郎中に昇進した。

十九年(1282年)、同知順慶路総管府事に転じたが、病気を理由に辞した。二十年(1283年)、国子司業に徴されたが、喪に服していないことを理由に辞した。三十年(1293年)、華州知州に改め、農を勧め学を興し、著しい成效を挙げた。交代の時、民は争って留めようとした。

大徳年間(1297-1307年)、河東・関隴で地震が起こり、一ヶ月余り止まなかった。呂𡌳は集賢学士蕭𣂏と共に、各々問答数千言を設けてその理を究め、かつ廟堂に書を送り、災害を救い患いを消す道を陳述した。

仁宗が即位すると、召して翰林侍読学士に拝した。当時ちょうど科挙施行が議論されていた。呂𡌳は言った。「経学に明るく品行を修め、質実で華美でないのは、士に実学があるばかりでなく、国家も真の人才を得て、治平を達成すべきである。」間もなく致仕した。延祐元年(1314年)、使者を遣わし駅伝を給して関中に送還させた。十二月、病気で卒した。年七十八。陝西行省参知政事を追贈され、東平郡公に追封され、諡は文穆といった。

子は三人:呂杲・呂果・呂楨、皆顕官となった。孫の呂魯は、済寧路総管となった。

譚資栄

譚資栄、字は茂卿、徳興懐来の人である。敦厚で寡言、よく書を読むことを知り、金に仕えて県令となった。己卯の年(1219年)、河朔が版図に帰すると、資栄は衆を率いて帰順した。主帥はかねてよりその名を聞いていたので、即日に金符を授けて元帥左都監とし、県令は元の通りとした。後に征戦に従い、功により金虎符を賜り、行元帥府事に昇進し、またその弟の資用を代わりに元帥左監軍に充てた。

壬辰の年(1232年)、資栄は汴梁攻めに従って功績があった。やがて資用を推挙して自らに代え、退いて田を耕し書を読み、安逸に老いる計画を立てた。時に年四十であった。子は二人:譚澄と譚山阜である。

澄は読書を好み、また国語(モンゴル語)を習得し、監県として多くの善政を行った。世祖が潜邸(即位前の邸宅)におられた時、澄が謁見すると、世祖はその容姿と立ち居振る舞いが安詳であることを嘉し、藩府に留めて住まわせ、その官職で呼び名を避け、その弟の山阜を代わりに県官とした。近臣を遣わして出使させる時は、必ず澄を同道させた。中統元年、制書で褒め称えられ、懐孟路総管に任じられた。翌年、入朝して謁見し、金符を賜った。四年、虎符に替えた。官に在る時は、訴訟が来れば即座に判決し、民に農業に力を入れ本業に務めるよう教えた。彰徳同知を歴任し、河南路総管に転じ、府尹を兼ねた。翌年、父の喪に服すため帰郷した。中書省はその喪に服し終えることを許さず、起復して職務に就くよう上奏した。

後に司農少卿を歴任し、陝西四川提刑按察使に転じた。一年余り後、西南夷の羅羅斯が内附した。帝は澄が文武の資質を兼ね備えているとして、新たに帰順した国を鎮撫させるのに適任と考え、副都元帥・同知宣慰使司事に任じた。その地に至ると、諭して言った。「皇元は一視同仁で、遠近を問わず、特に大帥を置き、安集招撫し、外侮を防ぐためであり、汝らから徴求して利益を得ようとするのではない。」夷人は大いに喜んだ。まもなく病気で死去した。

子の克修は、裕宗に東宮で仕え、出仕して江南湖北・河北河南・陝西漢中の三道提刑按察使となった。孫は三人:忠、質、文。

王惲

王惲、字は仲謀、えい州汲県の人。曾祖父は経。祖父は宇、金に仕え、敦武校尉こういの官に至った。父は天鐸、金の正大初年、律学で首席に選ばれ、戸部主事に至った。

惲は才幹があり、品行は方正で、学問を好み文章をよくし、東魯の王博文、渤海の王旭と並び称された。史天澤が兵を率いて宋を攻める時、衞を通過し、一度会って賓礼をもって遇した。中統元年、左丞姚樞が東平を宣撫した時、詳議官に辟召された。当時省部が創設されたばかりで、諸路にそれぞれ財理に能ある儒吏を一人ずつ推薦させたところ、惲が選ばれて京師に至り、時政について上書し、渤海の周正と共に中書省詳定官に抜擢された。二年春、翰林修撰・同知制誥に転じ、国史院編修官を兼ね、まもなく中書省左右司都事を兼ねた。銭穀の管理、有能な人材の登用、典礼の議論、制度の考証など、いずれもその長所を究め、同僚は敬服した。

至元五年、御史台が設置されると、まず監察御史に任じられ、知る限りのことを言い、論じ列挙すること凡そ百五十余章に及んだ。当時、都水劉晸が権勢と結託し、任用が甚だ専横で、官糧四十余万石を横領していた。惲がこれを弾劾し、その姦利を暴くと、権貴たちは畏れた。また言上した。「劉晸は太廟の監修を完了させ、特に官を転じ賞賜を受けたが、今や僅か数年で梁柱が朽ち崩れている。これは不敬に当たる事柄であり、法に照らして処断すべきである。」劉晸はついに憂いのうちに死去した。任期が満ちると、陳天祐・雷膺が朝廷に交えて推薦した。

九年、承直郎・平陽路総管府判官を授かった。初め、絳州太平県の民に陳氏という者が兄を殺し、賄賂を贈って裁判を遅らせ、蔓引して逮捕・拘束された者が三百余人に及び、五年を経ても判決が下らなかった。朝廷は惲にこれを審理させたところ、一度訊問しただけでその実情を得て、逮捕・拘束されていた者を全て釈放した。当時、絳州は長く旱魃が続いていたが、一晩で大雨が降った。十三年、河南で儒人を試験することを命じられた。十四年、翰林待制に任じられ、朝列大夫・河南北道提刑按察副使に任じられた。まもなく諸道制が下されると、燕南河北道に転じ、管下の諸郡を巡察し、汚職官吏を多く罷免・左遷した。十八年、中議大夫・行御史台治書侍御史に任じられたが、赴任しなかった。

裕宗が東宮にいた時、惲は『承華事略』を進呈した。その項目は、広孝、立愛、端本、進学、擇術、謹習、聽政、達聰、撫軍、崇儒、親賢、去邪、納誨、幾諫、従諫、推恩、尚儉、戒逸、知賢、審官の二十篇であった。裕宗がこれを閲覧し、漢の成帝が馳道を絶やさなかったこと、唐の粛宗が服を絳紗から朱明服に改めたことの箇所に至ると、心から喜び、「私がもしこの礼に遇したならば、やはりこのようにすべきであろう」と言った。また邢峙が斉の太子が邪蒿を食べるのを止めた箇所に至ると、侍臣を顧みて言った。「一つの野菜の名が、すぐに人を邪にするというのか?」詹事丞張九思が傍らから答えて言った。「正しい臣下が微細な点を防ぐのは、道理として当然のことです。」太子はその説を善しとし、酒を賜って慰労した。諸皇孫に伝え見させ、その書が裨益するところが多いと称賛した。

十九年春、山東東西道提刑按察副使に改められた。在官一年で、病気のため衞州に帰った。二十二年春、左司郎中として召された。当時、右丞盧世栄が聚斂(収奪)によって登用され、たびたび赴任を促されたが応じなかった。ある者がその理由を尋ねると、惲は言った。「力が小さく任が大きく、衆を剥ぎ己を利する者は、全うしたと聞いたことがない。遠ざけていてもなお汚されることを恐れるのに、どうして近づけようか。」まもなく世栄は果たして失脚し、人々はその識見に敬服した。

二十六年、少中大夫・福建閩海道提刑按察使を授かった。官吏で貪汚不法な者を罷免したこと凡そ数十人。囚人で冤罪や滞っている者を調査し、判決して釈放した。戍兵が民家に寄寓することを禁じ、兵営を創設して住まわせた。常に政治の根本は人材を得ることにあると言い、朝廷に進言して言った。「福建の管轄する郡県は五十余り、山を連ね海に至り、実に辺境の要地である。しかし民情は軽薄で詭詐であり、平定以来、官吏が貪婪で残酷であったため、山賊がしばしば嘯聚し、愚民がそれに蟻のように付き従い、村落を掠奪し、官兵が討伐に赴くと、また甚だしく蹂躙する。これは朝廷の一視同仁の意に適わない。今や一一守令を選任することはできないとしても、行省の官僚である平章・左丞はなお欠員である。清望が素より著しく、帝心に簡在され、文をもって黎庶を撫綏し、武をもって外侮を折衝するに足る者を特に選び、これを鎮静させれば、治安が期待できるであろう。」

当時、行省が大賊鍾明亮を討伐して功がなく、惲は再び利害を条陳して言った。「福建の帰附した民戸はほぼ百万、黄華の一変で、十のうち四、五を失った。今、大賊が猖獗し、また黄華よりも酷い。これを尋常の草賊と見做すことができようか。況んやその地には溪山の険があり、東を撃てば西に走り、出没が測り難い。招いても降らず、攻めても克てない。精兵を選び、号令を申明し、専ら重臣に命じて節制させ、計略をもって討伐し、彼らを勢窮力竭に追い込めば、取ることができるであろう。」

二十八年、京師に召された。二十九年春、柳林行宮で帝に謁見し、万言書を上奏して時政を極言した。翰林学士・嘉議大夫を授かった。

成宗が即位すると、『守成事鑑』十五篇を献上し、論じるところは全て経書の主旨に基づいていた。元貞元年、通議大夫・知制誥同修国史を加えられ、聖旨により世祖実録の纂修を命じられ、これにより聖訓六巻を集めて上進した。大徳元年、中奉大夫に進んだ。二年、鈔一万貫を賜った。致仕を乞うたが、許されなかった。五年、再び上章して退任を求め、その子の公孺を衞州推官とし、養い易くするためとし、なおその孫の笴を秘書郎とした。大徳八年六月、死去した。翰林学士承旨・資善大夫を追贈され、太原郡公に追封され、諡は文定。その著述に『相鑑』五十巻、『汲郡志』十五巻、『承華事略』、『中堂事記』、『烏臺筆補』、『玉堂嘉話』があり、雑著詩文と合わせて一百巻となった。