元史

列傳第五十一:楊恭懿、王恂、郭守敬、楊桓、楊果、王構、魏初、焦養直、孟攀麟、尚野、李之紹

楊恭懿

楊恭懿、字は元甫、奉元の人である。学問に努め記憶力が強く、日に数千言を読み、親に従って乱を逃れた時も、学業を廃したことはなかった。十七歳の時、西に帰り、家は貧しく、労役に服して親を養った。暇な時は学問に就き、書物で読まないものはなく、特に易・礼・春秋に深く通じた。後に朱熹の集註四書を得て、嘆じて言うには、「人倫日用の常、天道性命の妙、皆この書に集まっている」と。父が没すると、水漿を口にすること五日、喪に居て礼を尽くした。宣撫司・行省が掌書記として召し出そうとしたが、就任しなかった。

至元七年、許衡と共に召されたが、恭懿は至らなかった。衡が中書左丞に拝されると、日に右相安童の前で恭懿の賢を称え、丞相がこれを聞こし召した。十年、詔を下して使いを遣わし召したが、病を理由に起たなかった。十一年、太子が中書に教えを下し、漢の恵帝が四皓を聘したようにして恭懿を招聘させ、丞相は郎中張元智を遣わし書を奉じて命を致し、ようやく京師に至った。入見すると、世祖は国王和童を遣わしその遠来を労い、続いて自らその郷里・族氏・師承・子孫のことを尋ね、周到に知らぬことはなかった。十二年正月二日、帝は香殿に御し、大軍が南征して使いが久しく至らないので、占わせたが、その言は秘された。侍読学士徒単公履が取士科を設けることを請うたので、詔して恭懿とこれを議わせた。恭懿は言う、「明詔に謂う、士は経学孔孟の道を治めず、日に賦詩空文を為す、と。この言葉は誠に万世治安の本である。今士を取らんと欲すれば、宜しく有司に勅し、行い有り経史に通じたる士を挙げさせ、牒を投じて自ら売ることをさせず、経義・論策を以て試みるべきである。既に実学に従うならば、士風は淳に還り、民俗は厚きに趨き、国家は才を得るであろう」と。奏が入ると、帝はこれを善しとした。ちょうど北征があり、恭懿は遂に田里に帰った。

十六年、詔して安西王相に敦促させて闕に赴かせた。入見し、詔して太史院にて暦を改めさせた。十七年二月、奏を進めて言う、「臣等は漢以来の暦書四十余家を遍く考へ、精思推算するに、旧儀は用い難く、新儀は未だ備わらず、故に日行の盈縮、月行の遅疾、五行周天、その詳かさ皆未だ精察せず。今権りに新儀木表を以て、旧儀の測るところと相較べ、今歳の冬至の景及び日躔の所在、列舎分度の差、大都の北極の高下、昼夜刻の長短を得、古制を参酌し、新法を創立し、推算して辛巳暦を成す。或いは未だ精ならざるも、然れども前に暦を改めたる者、暦元に附会し、日法を更に立て、全く故習を蹈むに比すれば、顧みてまた愧じること無し。然れども必ず毎歳測験し修改し、三十年を積めば、ほぼその法を尽くすべし。三代の日官の如く、世々その職を専らにし、測験良久しく、歳を改むること無きを得せしむべし」と。また合朔の議に曰く、

日行が四時を歴て一周するのを一歳と謂い、月が一周を踰えて復た日と合するのを一月と謂う。一月の始まりを言うに、日月相合する故に合朔と謂う。秦より暦紀を廃し、漢の太初は平朔法のみを用い、大小相間し、或いは二大ある者あり、故に日食多くは晦日或いは二日に在り、測験時刻も亦鮮かに中る。宋の何承天は四十余年測験し、元嘉暦を進め、始めて月行の遅速を以て小余を定めて朔望を正し、食を必ず朔に在らしめ、名づけて定朔法と為す。三大二小有り、時に旧法と異なるを以て、これを罷む。梁の虞𠠎は大同暦を造り、隋の劉焯は皇極暦を造り、皆定朔を用いるも、時に阻まれる。唐の傅仁均は戊寅暦を造り、定朔始めて行わる。貞観十九年、四月頻りに大、人皆これを異とし、竟に平朔に従い改む。李淳風は麟徳暦を造り、平朔を用いざるも、四大に遇えば人言を避け、平朔を以て間い、又当世に希合し、進朔法を為し、元日の食無からしむ。一行に至り大衍暦を造り、「天事誠に密なり、四大三小何ぞ傷けん」と謂う。誠に確論なれども、然れども亦常に循りて改めず。

臣等新暦を更に造り、一に前賢の定論に依り、推算皆実に従い改む。今十九年の暦、八月より後、四月併せて大なるは、実に日月合朔の数なり。

詳しくは郭守敬伝に見ゆ。この日、方や列跪し、未だ奏を読まざるに、帝は許衡及び恭懿に起つを命じ、曰く、「卿ら二老、自ら労する毋かれ」と。集賢学士を授け、太史院事を兼ねしむ。

十八年、辞して帰る。二十年、太子賓客として召す。二十二年、昭文館学士・太史院事を領するとして召す。二十九年、中書省事を議するとして召す。皆行わず。三十一年、卒す。年七十。

王恂

王恂、字は敬甫、中山唐県の人。父の良は、金末に中山府掾となり、時に民は乱後に遭い、多くは詿誤して獄に繋がれたので、良は前後数百人を生かした。已にして吏業を棄て去り、伊洛の学に潜心し、及び天文律暦に至るまで、精究せざるはなく、年九十二で卒した。

恂は性質穎悟、生後三歳、家人が書帙を示すと、輙ち風・丁の二字を識る。母の劉氏、千字文を授けると、再び目を通すだけで、即成誦した。六歳で学に就き、十三で九数を学び、輙ちその極みに至る。歳己酉、太保劉秉忠が北上し、途中中山を経て、これを見て奇とし、南に還る時、秉忠に従い磁州の紫金山で学んだ。

癸丑、秉忠がこれを世祖に薦め、六盤山にて召見され、裕宗を輔導することを命じられ、太子伴読となった。中統二年、太子賛善に擢げられ、時に年二十八。三年、裕宗が燕王に封ぜられ、中書令を守り、樞密院事を判ずるを兼ね、両府の大臣に勅して、凡そ諮禀有る者は、必ず王恂をして聞かしめよ、と。初め、中書左丞許衡が、唐・虞以来の嘉言善政を集め、書を為して進めた。世祖は嘗て恂に講解せしめ、且つ太子に業を受くことを命じた。又詔して恂に、太子の起居飲食を、慎んで調護し、接すべきに非ざる人を、左右に侍らしむるを得ざらしめよ、と。恂は言う、「太子は天下の本、付託至って重し、名徳を延べてこれと居処すべし。況んや中書・樞密の政を兼領するや、詔条は当に遍く覧るべく、庶務も亦当に屡省すべし。官吏罪を以て免ぜらるる者は更に進ます毋れ。軍官人を害する者は、改用の際尤もその人に非ざるべからず。民は至って愚にして神、変乱の余、吾これ疑わざれば、則ち反覆化して忠厚と為る」と。帝は深くこれを然りとす。

恂は早くより算術を以て名有り、裕宗嘗てこれに問う。恂曰く、「算数は六芸の一つ、国家を定め人民を安んずるは乃ち大事なり」と。毎に左右に侍する時は、必ず三綱五常、為学の道、及び歴代治忽興亡の所以然を発明した。又遼・金の事で近く耳目に接するものを、その善悪を区別し、その得失を論著して上った。裕宗が心の守るところを問うと、恂は曰く、「許衡嘗て言う、人心は印板の如し、惟だ板本差わざれば、則ち千万紙を摹すと雖も皆差わず、本既に差えば、則ちこれを紙に摹すに、差わざるは無し、と」と。裕宗は深くこれを然りとす。詔して勳戚の子弟を択び、恂に学ばしむると、師道卓然たり。及んで恂が裕宗に従い軍を撫で称海に至るや、乃ち諸生を許衡に属せしめ、衡が老を告げて去るに及び、復た命じて恂に国子祭酒を領せしむ。国学の制、実にここに始まる。

帝は国朝が金の大明暦を承けて用いてより、歳月が久しく次第に疎漏となったことを以て、これを厘正せんと欲し、王恂が算術に精しいことを知り、遂にこれを命じた。恂は許衡が暦の理を明らかにする能あるを推薦し、詔して駅伝を以て召して闕に赴かせ、改暦の事を領するを命じ、官属は悉く恂の辟置に聴かしめた。恂は衡及び楊恭懿、郭守敬等とともに、歴代の暦書四十余家を遍く考証し、昼夜測験して新法を創立し、古制を参酌し、推算極めて精密を極め、詳しくは守敬伝にある。十六年、嘉議大夫・太史令を授けられた。十七年、暦が完成し、授時暫と名を賜わり、その年の冬、天下に頒行された。

十八年、父の喪に服し、哀毀して、日に一勺の水を飲むのみであった。帝は内侍を遣わして慰諭させた。未だ幾ばくもせずして卒去した。年四十七。初め、恂が病んだ時、裕宗は屡々医を遣わして診療させ、葬儀に際しては、賻として鈔二千貫を賜わった。後に帝は暦を定めた功績を思い、鈔五千貫をその家に賜わった。延祐二年、推忠守正功臣・光禄大夫・司徒しと・上柱国・定国公を追贈され、諡して文肅といった。

子の寛と賓は、共に許衡に従って遊学し、星暦の伝授を家学として得た。裕宗は嘗て召見し、彼らに語って言われた、「汝らの父は書生より起り、貧しくして資蓄無し。今、汝らに鈔五千貫を賜う。使い尽くしたならば、また聞かせよ」と。恩恤の厚きこと此の如しであった。寛は保章正より、兵部郎中を歴任し、蠡州の知事となった。賓は保章副より、累進して秘書監に至った。

郭守敬

郭守敬、字は若思、順徳路邢台県の人。生まれながらにして異なる操行を持ち、戯れ遊ぶことをしなかった。大父の栄は五経に通じ、算数・水利に精しかった。時に劉秉忠・張文謙・張易・王恂が、州西の紫金山で共に学んでおり、栄は守敬をして秉忠に従って学ばせた。

中統三年、文謙は守敬が水利に習熟し、巧思人に絶するを推薦した。世祖は召見し、水利に関する六事を面陳した。第一は、中都の旧漕河を、東は通州に至り、玉泉水を引いて舟を通じさせ、歳毎に雇車の銭六万緡を省くことができる。通州以南では、藺楡河口から直ちに開削導水し、蒙村・跳梁務を経て楊村で還河し、浮鶏甸の浅瀬や風浪による遠回りの難を避ける。第二は、順徳の達泉を城中に引き入れ、三渠に分けて城東の地を灌漑する。第三は、順徳の灃河が東は古任城に至るも、その故道を失い、民田千三百余頃を没している。この水を開修して河となせば、その田は即ち耕種可能となり、小王村より滹沱河を経て、御河に合流し、舟栰を通じさせることができる。第四は、磁州東北の滏水と漳水の合流する所で、水を引き、滏陽・邯鄲・洺州・永年を経て下り、鶏沢で合流して灃河に入れ、三千余頃の田を灌漑できる。第五は、懐州・孟州の沁河は、既に灌漑に用いているが、なお漏堰の余水があり、東は丹河の余水と相合する。これを東流に引き、武陟県の北に至り、御河に合流させれば、二千余頃の田を灌漑できる。第六は、黄河を孟州の西から開削して引き、少しばかり一渠を分け、新・旧孟州の中間を経由し、黄河の古岸に沿って下り、温県の南で再び大河に入れ、その間も二千余頃の田を灌漑できる。一つの事を奏上する毎に、世祖は歎じて言われた、「事を任ずる者がかくの如くならば、人は素餐せざるなり」と。諸路河渠提挙を授けられた。四年、銀符を加授され、副河渠使となった。

至元元年、張文謙に従って西夏に行省した。先だって、中興府にある古渠は、一つは唐来渠といい、その長さ四百里、一つは漢延渠といい、長さ二百五十里、他の州の正渠十は、皆長さ二百里、支渠大小六十八、灌漑する田九万余頃であった。兵乱以来、廃壊淤浅していた。守敬は改めて閘堰を設け、皆その旧に復させた。

二年、都水少監を授けられた。守敬は言上した、「舟は中興より河に沿って四昼夜で東勝に至り、漕運を通じさせることができる。また査泊・兀郎海に古渠甚だ多いを見る。修理を加うべきである」と。また言上した、「金の時、燕京の西麻峪村より、盧溝の一支流を分引して東流させ、西山を穿って出た。これを金口という。その水は金口より以東、燕京より以北、若干頃の田を灌漑し、その利益は勝計すべからず。兵興以来、典守の者は過失を恐れ、大石を以てこれを塞いだ。今もし故蹟を按視し、水を通流せしめれば、上は西山の利を致し、下は京畿の漕を広めることができる」と。また言上した、「金口の西に予め減水口を開き、西南は大河に還し、これを深く広くして、漲水の突入する患いを防ぐべきである」と。帝はこれを善しとされた。十二年、丞相伯顔が南征するに当たり、水駅を立てることを議し、守敬に命じて河北・山東において舟の通じ得る所を行視させ、図を為して奏上させた。

初め、劉秉忠は大明暦が遼・金より承用されて二百余年、次第に天象に後れるようになったことを以て、修正を議したが果たさずに卒去した。十三年、江左が既に平定されると、帝はその言を用いんと思われた。遂に守敬と王恂を以て、南北の日官を率い、下って測験推歩を分掌させ、文謙と枢密張易をして上って主領裁奏を為さしめ、左丞許衡をしてこの事に参預せしめた。守敬はまず言上した、「暦の根本は測験に在り、而して測験の器は儀表に先んずるは莫し。今、司天監の渾儀は、宋の皇祐年間に汴京で造られたもので、此の処の天度と符合せず、南北二極を比量すれば、約四度差あり。表石は年深く、また傾側している」と。守敬は乃ちその誤りを尽く考証して移し置いた。既にしてまた別に高爽の地を図り、木を以て重棚を為し、簡儀・高表を創作し、用いて相覆い比べた。また天枢が極星に附いて動くと考え、昔人は嘗て管を展げてこれを望んだが、その的確を得ず、候極儀を作った。極辰が既に位すれば、天體は斯く正しくなるので、渾天象を作った。象は形は似ているが、適する所用が無いので、玲瓏儀を作った。表の矩方を以て天の正円を測るには、円を以て円を求めるに若くは莫く、仰儀を作った。古に経緯儀有りと雖も、結んで動かず、守敬はこれを改易し、立運儀を作った。日には中道有り、月には九行有り、守敬はこれを一つにし、證理儀を作った。表高くして影虚しく、形象真ならず、景符を作った。月は明有りと雖も、影を察するは難しく、闚几を作った。暦法の験は交会に在り、日月食儀を作った。天に赤道有り、輪を以てこれに当て、両極の低昂有り、標を以てこれを指し、星晷定時儀を作った。また正方案・丸表・懸正儀・座正儀を作り、四方を行って測る者の用に供した。また仰規覆矩図・異方渾蓋図・日出入永短図を作り、上記の諸儀と互いに参考とした。

十六年、局を改めて太史院とし、王恂を太史令とし、守敬を同知太史院事とし、印章を給し、官府を立てた。儀表の式を奏進するに及んで、守敬は帝の前で理致を指陳し、日が暮れるに至るも、帝は倦むこと無かった。守敬は因って奏上した、「唐の一行は開元年間に南宮説に命じて天下に測影させ、書中に見えるもの凡そ十三箇所である。今、疆宇は唐よりも尤も大きく、もし遠方で測験しなければ、日月の交食する分数時刻同じからず、昼夜の長短同じからず、日月星辰の天より去る高下同じからず。即ち目下測験の人少なし。先ず南北に表を立て、直線を取り影を測るべし」と。帝はその奏を許可された。遂に監候官十四員を設け、分道して出で、東は高麗に至り、西は滇池を極め、南は朱崖を踰え、北は鉄勒を尽くし、四海に測験し、凡そ二十七箇所であった。

十七年、新暦が完成を告げ、守敬は諸臣と共に上奏して言った。

臣らはひそかに聞く、帝王の事は、暦より重きはなしと。黄帝が日を迎えて策を推し、帝堯が閏月をもって四時を定めて歳を成し、舜が璿璣玉衡に在りて七政を斉しくす。爰に三代に及び、暦に定法なく、周・秦の間、閏餘次に乖く。西漢は三統暦を造り、百三十年にして後是非始めて定まる。東漢は四分暦を造り、七十余年にして儀式方に備わる。また百二十一年、劉洪が乾象暦を造り、始めて月行に遅速あるを悟る。また百八十年、姜岌が三紀甲子暦を造り、始めて月食の衝をもって日宿度の所在を検するを悟る。また五十七年、何承天が元嘉暦を造り、始めて朔望及び弦を以て皆大小餘を定むるを悟る。また六十五年、祖冲之が大明暦を造り、始めて太陽に歳差の数あるを悟り、極星不動の処を去ること一度余り。また五十二年、張子信が始めて日月の交道に表裏あるを悟り、五星に遅疾留逆あるを悟る。また三十三年、劉焯が皇極暦を造り、始めて日行に盈縮あるを悟る。また三十五年、傅仁均が戊寅元暦を造り、旧儀を頗る採り、始めて定朔を用う。また四十六年、李淳風が麟徳暦を造り、古暦の章蔀元首分度斉しからざるを以て、始めて総法を為し、進朔を用いて晦晨月見を避く。また六十三年、一行が大衍暦を造り、始めて朔に四大三小あるを以て、九服交食の異を定む。また九十四年、徐昂が宣明暦を造り、始めて日食に気・刻・時の三差あるを悟る。また二百三十六年、姚舜輔が紀元暦を造り、始めて食甚の泛餘差数を悟る。以上計千一百八十二年、暦経七十改、其の法を創める者十有三家。

是よりまた百七十四年、聖朝専ら臣らに命じて新暦を改治せしめ、臣らは創造の簡儀・高表を用い、其の測実の数に憑り、考正する所凡そ七事あり:

一は冬至。丙子年立冬後より、毎日測到の晷景に依り、逐日取り対え、冬至前後日差同じきを準とす。丁丑年冬至は戊戌日夜半後八刻半に在るを得、また丁丑夏至は庚子日夜半後七十刻に在るを定め、また戊寅冬至は癸卯日夜半後三十三刻に在るを定め、己卯冬至は戊申日夜半後五十七刻半に在るを定め、庚辰冬至は癸丑日夜半後八十一刻半に在るを定む。各々大明暦より十八刻を減じ、遠近相符い、前後応に準ず。

二は歳餘。大明暦以来、凡そ景を測り気を験し、冬至時刻の真数を得る者六あり、用いて相い距ち、各々其の時に合用の歳餘を得。今四年を考験し、相符いて差ず、仍って宋大明壬寅年より今日に至るまで八百十年、毎歳合して得る三百六十五日二十四刻二十五分、其の二十五分は今暦歳餘合用の数なり。

三は日躔。至元丁丑四月癸酉望月食既を用い、日躔を推求し、冬至日躔赤道箕宿十度、黄道箕九度奇有るを得。仍って毎日測到の太陽躔度に憑り、或いは星を憑りて月を測り、或いは月を憑りて日を測り、或いは径に星度を憑りて日を測り、術を立てて推算す。丁丑正月より己卯十二月に起り、凡そ三年、共に一百三十四事を得、皆箕に躔し、月食と相符う。

四は月離。丁丑以来今日に至るまで、毎日測到の逐時太陰行度に憑りて推算し、黄道より転に入る極遅・疾及び平行の処を求め、前後凡そ十三転、計五十一事。内真ならざるを除く外、三十事あり、大明暦の転に入りて後天するを得。また交食を考験するに因り、大明暦に三十刻を加え、天道に合す。

五は入交。丁丑五月以来、毎日測到の太陰去極度数に憑り、黄道去極度に比擬し、月道黄道に交わるを得、共に八事を得。仍って日食の法度に依りて推求し、皆食分有り、入交の時刻を得、大明暦と差多くならず。

六は二十八宿距度。漢の太初暦以来、距度同じからず、互いに損益有り。大明暦は則ち度下の余分に於いて、太半少を以て附し、皆私意牽就し、未だ嘗て其の数を実測せず。今新儀は皆周天度分を細刻し、毎度を三十六分と為し、距線をもって管窺に代え、宿度余分並びに実測に依り、私意を以て牽就せず。

七は日出入昼夜刻。大明暦の日出入昼夜刻は、皆汴京を以て準と為し、其の刻数は大都と同じからず。今更に本方の北極出地高下、黄道出入内外度を以て、術を立てて推求し、毎日の日出入昼夜刻を得、夏至極長は、日出寅正二刻、日入戌初二刻、昼六十二刻、夜三十八刻。冬至極短は、日出辰初二刻、日入申正二刻、昼三十八刻、夜六十二刻。永く定式と為す。

創める所の法凡そ五事:一は太陽盈縮。四正の定気を用いて升降限を立て、立招差に依りて毎日の行分初末極差積度を求め、古に比べて密なり。二は月行遅疾。古暦は皆二十八限を用う、今は万分日の八百二十分を一限と為し、凡そ三百三十六限に析き、垜疊招差に依りて転分進退を求め、其の遅疾度数逐時に同じからず、蓋し前代未だ有らざる所なり。三は黄赤道差。旧法は一百一度を以て相減相乘す、今は算術の句股弧矢方円斜直の容るる所に依りて、度率積差を求め、差率は天道と実に脗合す。四は黄赤道内外度。累年の実測に拠れば、内外極度二十三度九十分、円容方直矢接句股を法と為し、毎日の去極を求め、測る所と相符う。五は白道交周。旧法は黄道変じて白道を推し斜を以て斜を求む、今は立渾比量を用い、月と赤道正交、春秋二正の黄赤道正交を距ること一十四度六十六分を得、以て法と為さんと擬す。逐月毎交の二十八宿度分を推し、理に於いて尽くせり。

十九年、恂卒す。時に暦は頒つと雖も、然れども其の推歩の式と、夫れ立成の数とは、尚皆未だ定藁有らず。守敬は是に於いて篇類を比次し、分秒を整斉し、裁して推歩七巻、立成二巻、暦議擬藁三巻、転神選択二巻、上中下三暦注式十二巻と為す。二十三年、継いて太史令と為り、遂に表を上りて奏進す。また時候箋注二巻、修改源流一巻有り。其の測験書は、儀象法式二巻、二至晷景考二十巻、五星細行考五十巻、古今交食考一巻、新測二十八舍雑坐諸星入宿去極一巻、新測無名諸星一巻、月離考一巻有り、並びに官に蔵す。

二十八年(1291年)、ある者が言うには、灤河は永平から舟を引いて山を越えて上れば、開平に至ることができるという。またある者は、瀘溝は麻峪から尋麻林に至ることができるという。朝廷は郭守敬を派遣して視察させたが、灤河はすでに通行不可能であり、瀘溝の舟も通じなかった。そこで守敬は水利に関する十一事を上奏した。その第一は、大都の運糧河は、一畝泉の旧水源を用いず、別に北山の白浮泉水を引き、西に折れて南へ向かい、瓮山泊を経て、西水門から城に入り、積水潭に環流して集め、さらに東に折れて南へ出て、南水門から出て、旧運糧河に合流させるというものであった。十里ごとに一つの閘門を設置し、通州に至るまで、合わせて七つの閘門とし、閘門から一里ほど上流に重ねて斗門を設け、互いに堤防と堰とし、舟を通し水を止めるようにした。帝は上奏文を覧て、喜んで言った、「速やかに実行すべきである」。そこで再び都水監を設置し、守敬にこれを統轄させた。帝は丞相以下に命じて、皆自ら箕と鍤をとって工事を先導させ、守敬の指示を受けてから事を行わせた。

これ以前、通州から大都までは、陸路で官糧を運び、毎年数万石に及んでいたが、秋の長雨の時期には、驢馬などの家畜の死ぬものが数えきれず、この時になってようやく全て廃止された。三十年(1293年)、帝が上都から帰還する途中、積水潭を通り過ぎると、船首船尾が水面を覆っているのを見て大いに喜び、これを通惠河と名付け、守敬に鈔一万二千五百貫を賜い、なお従前の職務のまま通惠河漕運事を提調することを兼ねさせた。守敬はまた言上した、澄清閘のやや東から水を引き、北壩河と接続させ、かつ麗正門の西に閘門を設けて、舟船が城を巡って往来できるようにすることを。この計画は実現せずに中止された。三十一年(1294年)、昭文館大学士・知太史院事に任ぜられた。

大徳二年(1298年)、守敬を上都に召し、鉄幡竿渠の開削を議した。守敬は上奏して言った、「山の水が毎年激しく流れ下るので、大規模な渠と堰を造り、幅を五七十歩としなければなりません」。執政は工費を惜しみ、その言葉を過大であるとして、幅を三分の一に縮小した。翌年大雨が降り、山の水が流れ下ったが、渠はそれを容れることができず、人畜や廬帳を押し流し、ほとんど行宮にまで及ぼうとした。成宗は宰臣に言った、「郭太史は神人のようなものだ。その言葉を用いなかったことを惜しむ」。七年(1303年)、内外の官で年齢七十に達した者は、皆致仕を許すとの詔が出たが、守敬だけはその請いを許さなかった。これより以後、翰林・太史・司天の官は致仕しないことが、令として定められた。延祐三年(1316年)に卒去、八十六歳。

楊桓

楊桓、字は武子、兗州の人。幼少より聡明で悟りが早く、『論語』を読んで宰予の昼寝の章に至ると、慨然として志を立て、これにより生涯、病気以外で昼寝をしたことがなかった。弱冠にして郡の諸生となり、当時の名士たちは皆これを称賛した。中統四年(1263年)、済州教授に補せられ、後に済寧路教授から太史院校書郎に召され、勅命を受けて儀表の銘文や暦日の序文を撰し、文辞が典雅であったため、楮幣一千五百緡を賜ったが、辞退して受け取らなかった。秘書監丞に転じた。

至元三十一年(1294年)、監察御史に任ぜられた。木華黎の曾孫碩德の家から玉璽を得た者がおり、楊桓はその文字を辨識して、「受天之命、既寿永昌」であると言い、頓首して言った、「これは歴代伝わってきた伝国の璽です。失われて久しいものでした。今、先帝が崩御され、皇太孫が即位なさるに当たり、璽が再び出現したのは、天が今日に瑞応を顕わされたのでしょう」。即座に文をしたためて璽の由来を述べ、徽仁裕聖皇后に奉った。

成宗が即位すると、楊桓は時務に関する二十一事を上疏した。一、天地を郊祀すること。二、太廟を親しく享け、四時の祭祀を備えること。三、まず首相を定めること。四、群臣を朝見し、時政の得失を訪問すること。五、儒臣に時を以て侍講させるよう詔すること。六、太学及び府州の儒学を設け、生徒を教養すること。七、誥命を行って善を褒め労を叙すること。八、章服を異にして貴賤を区別すること。九、礼儀を正して宮庭を粛清すること。十、官制を定めて内外の冗員を省くこと。十一、銭穀を講究して国用を豊かにすること。十二、音律に通暁する者を訪求して太常の雅楽に協わせること。十三、国子監を集賢院に隷属させるべきでなく、その名を正すこと。十四、六部・寺監及び府州司県の吏を試補すること。十五、内外官吏の俸禄を増すこと。十六、父子骨肉や奴婢が互いに告発することを禁ずること。十七、婚姻の聘財を定めること。十八、官銭を用いて十分の一の利を営むことを罷めること。十九、笞杖の刑を復活して罪の軽重を区別すること。二十、中統以前より仕官した郡県の吏は、優遇を加えるべきこと。二十一、治道は各々その本俗に従うべきこと。疏が奏上されると、帝はこれを嘉して採用した。

間もなく、秘書少監に昇進し、『大一統志』の編纂に参与した。任期が満ちて兗州に帰ると、財産と家業を全て弟の楊楷に譲り、郷里で称賛された。大徳三年(1299年)、国子司業に召されたが、赴任しないうちに卒去、六十六歳。

楊桓は人となり寛厚で、親に仕えることに篤く孝行し、群籍を博覧し、特に篆籀の学に精通していた。『六書統』『六書泝源』『書学正韻』を著し、おおむね許慎の説を推明しつつ、その意味を深めたもので、いずれも世に行われた。

楊果

楊果、字は正卿、祁州蒲陰の人。幼くして父母を失い、宋から亳に移り、さらに許昌に移り住み、章句を教えて徒弟をとることを業とし、流寓して困窮すること十余年であった。金の正大甲申年(1224年)、進士に及第した。折しも参政李蹊が許で大司農の職務を行っており、楊果が詩を送ると、李蹊は大いに称賞し、帰朝して朝廷に言上し、偃師県令に任用された。官に着くと、廉潔で有能と称され、蒲城県令に改められ、さらに陝県令に改められたが、いずれも政務の煩雑な県であった。楊果には応変の才があり、煩劇な政務を治めることができ、諸県の中で楊果の治績が最も優れていた。

金が滅亡した歳の己丑年(1229年)、楊奐が河南の課税を徴収する際、楊果を起用して経歴とした。間もなく、史天沢が河南を経略すると、楊果は参議となった。当時は戦乱の余波で法度が草創期にあり、楊果は状況に応じて補佐し画策したので、民はこれによって安んじた。世祖中統元年(1260年)、十道の宣撫使を設け、楊果を北京宣撫使に任命した。翌年、参知政事に任ぜられた。定例により罷免された後も、なお詔により左丞姚枢らと共に日に省に赴き議事することを命ぜられた。至元六年(1269年)、外任として懐孟路総管となり、大いに学廟を修築した。以前に中書の執政官を務めていたため、移文を部に申し送る際、特に署名しなかった。老齢を理由に致仕し、家で卒去、七十五歳、諡は文献。

楊果は性質聡敏で、風姿が美しく、文章に巧みで、特に楽府に長じていた。外見は沈黙しているようだが、内には智謀を抱き、諧謔を善くし、聞く者を笑い転がせた。微賤の時、河南に避難し、流浪の旅の中で女を娶ったが、後に科挙に合格し、顕官を歴任しても、結局ともに老いるまで、その初心を変えず、人々はこれを称賛した。『西菴集』があり、世に行われた。

王構

王構、字は肯堂、東平の人。父の王公淵は、金末の乱に遭い、その三人の兄は家族を連れて南へ逃げたが、公淵はただひとり死を誓って墳墓を守り、草むらに伏せていた。諸兄が呼んでも出ようとせず、号泣して去ったが、ついにその家を存続させた。一方、三人の兄は行方知れずとなった。

王構は幼少より聡明で悟りが早く、風采は重厚であった。学問は広く博く、文章は典雅で、弱冠にして詞賦により選抜され、東平行臺の掌書記となった。参政の賈居貞は一度会っただけで彼を重んじ、自分の子に学ばせた。

至元十一年、翰林国史院編修官に任ぜられた。時に丞相伯顏を遣わして宋を伐たんとし、先ず詔を下してこれを責め、王構に草稿を作らせて進上させたところ、世祖は大いに喜んだ。宋が滅びると、王構は李槃と共に旨を受け、杭州に至り三館の図籍・太常天章の礼器儀仗を取って京師に帰した。凡そ推薦抜擢した者は、皆当時の名士であった。十三年秋、帰還し入朝し、応奉翰林文字に遷り、修撰に昇進した。丞相の和禮霍孫が翰林学士承旨より司徒に任ぜられ、王構を司直に辟召した。時に丞相阿合馬が盗賊に撃たれて死に、世祖もその奸を悟り、再び和禮霍孫を丞相とし、諸政務を改めたが、王構の謀画が多かった。吏部・礼部郎中を歴任し、河南で囚人を審理し、多く冤罪を晴らした。太常少卿に改め、親享太廟の儀注を定めた。淮東提刑按察副使に抜擢され、便殿で召見され、親しく制書を授け、上尊酒を賜わって遣わされた。まもなく治書侍御史として召還された。時に桑哥が丞相となり、平章の卜忽木と共に燕南の銭穀を検査し、その滞納を督させることとなった。十一月晦に出発し、年末に復命する期日であった。翌年春帰還し、盧溝驛に宿泊したが、期日を過ぎたことを慮り、禍い測るべからざるものがあると、卜忽木に言った。「もし罪があるならば、構が身をもってこれを引き受け、公に累を及ぼさない。」ちょうど桑哥が死んだので、免れた。旨があり、江西の銓選に出向した。翰林に入り、侍講学士となった。世祖が崩ずると、王構が諡冊を撰した。

成宗が立つと、侍講より学士となり、実録を纂修し、書が成ると、中書省事を参議した。時に南方の士人で、便利を陳べて田賦の捜括を請う者がおり、執政はこれに従おうとした。王構は平章の何榮祖と共にその不可を言い、極力弁論して、行われずに済んだ。病により東平に帰った。久しくして、済南路総管として起用された。諸王の従者が勢いを頼んで州県を行き、民は敢えて逆らう者なく、王構は朝廷に奏聞し、彼らを北境に移した。学田が牧地に侵されているものを整理して返還させた。官が民に粟を貸し、凶年であるのに償いを責めてやまないので、王構は来年に納入するよう請うた。武宗が即位すると、国史を纂修するため、急ぎ召し出されて朝廷に赴き、翰林学士承旨に拝され、まもなく病で卒した。享年六十三。

王構は三朝に仕え、台閣の典故に習熟し、凡そ祖宗の諡冊冊文は皆彼が撰定し、朝廷に大議がある毎に必ず諮問された。寒士を推薦引立てることを喜び、前後して省台・翰苑が辟召した者は、数十人に及び、後に清要の職に就き、皆当時に名を成した。

子の士熙は、中書参政に至り、南台御史中丞の官で卒した。士点は、淮西廉訪司僉事となり、皆文学をもって家を継ぐことができた。

魏初

魏初、字は大初、弘州順聖の人である。従祖父の璠は、金の貞祐三年の進士で、尚書省令史に補せられた。金の宣宗が直言を求めた時、璠は真っ先に将相が人に非ず、及び徳陵の事を立てるは当たらずと論じ、疏を奏上したが、報いられなかった。後に再び上言した。「国勢は危険に迫り、四方に勤王の挙げあるを聞かず、隴右は地険にして食足り、その帥の完顏胡斜虎も委任できましょう。宜しく人を遣わして大計を論ぜしむべし。」大臣が喜ばず止んだ。数ヶ月を経て、胡斜虎の兵が来援したが、既に及ばず、金主はこれを悔いた。

金の将軍武仙の軍が五垜山に駐屯して進まない。武仙に使わす者を求め、或る者が璠を推薦したので、即座に朝列大夫・翰林修撰を授け、騎兵四人を与えて従わせた。到着すると武仙は既に逃げ去り、部曲も多く散亡していたが、璠は慰撫招集し、数千人を得て、その中で材勇ある者を帥長に推し、なお符印を制してこれに与え、矯制を以て自ら劾した。金主はその処置が適宜であるとした。続いて武仙が余衆を率いて留山に保つと聞き、璠は直ちに武仙の所に趣き宣諭した。或る者が武仙に讒言し、璠がその軍を奪わんとしていると言うと、武仙は怒り、兵士に命じて刃を抜き璠を刺さんばかりにし、且つ一吏を引いて璠と弁明させた。璠は動じず、大声で言った。「王人たる者、微賤ではあれども諸侯の上に序せられる。将軍たとえ礼を加えずとも、いかんぞ讒邪の言を聴き、小吏を以て対せしめんとするや。且つ将軍は山谷を跳梁するも、左右に異心なきは、天子の大臣たるが故なり。もし天子を尊ぶを知らざれば、安んぞ麾下に将軍の如き者なきを知らん。然らずんば、我れ死すとも命を辱しめじ。」武仙は彼を屈服させられなかった。璠はさらに激して進兵を促したが応ぜず、帰還する頃には、金主は既に帰徳に遷り、さらに蔡州に遷っていた。金が滅び、璠は帰す所なく、乃ち北に郷里に還った。

庚戌の歳、世祖が潜邸に居られた時、璠の名を聞き、和林に徴し至らせ、当世の務めについて訪ねた。璠は便宜三十余事を条陳し、名士六十余人を挙げて答えた。世祖は嘉納し、後多く採用した。病により和林で卒した。享年七十、諡を靖肅と賜わった。

魏初は、その従孫である。璠に子がなく、初を後嗣とした。初は読書を好み、特に春秋に長じ、文章は簡にして法あり、冠に及んで名声があった。中統元年、始めて中書省が立てられると、掾史に辟召され、兼ねて掌書記を執った。まもなく祖母が老いたことを理由に辞して帰り、隠居して教授した。時に詔があり左丞許衡・学士竇默及び京師の諸儒に、各々経史に載る前代帝王の嘉言善政を陳べさせ、進読の士を選ぶこととなり、有司が初を詔に応じさせた。帝は璠の名を殊の外重んじ、古の直臣に比し、初が璠の子であると知って歎賞すること久しく、即座に国史院編修官を授け、まもなく監察御史に拝した。まず言う。「法は天下を保持する具であり、御史台は法を守る司である。方今法未だ定まらず、百司持循する所なし。宜しく参酌考定し、天下に頒行すべし。」

帝が上都の行宮で群臣を宴した時、大杯を飲み干せない者は冠服を免じた。初が上疏して言った。「臣聞く、君は猶天の如く、臣は猶地の如し。尊卑の礼は粛にせざるべからず。方今内には太常・史官・起居注があり、以て典礼を議し言動を記し、外には高麗・安南の使者が入貢し、以て中国の儀礼を観る。昨、大臣に賜宴し、威儀謹まずと聞く。朝廷を尊び上下を正す所以に非ず。」疏が入ると、帝は欣んでこれを納れ、なお侍臣に諭して今後再びこの挙をなすことなからしめた。時に襄樊未だ下らず、民を徴発して兵とせんとし、或る者は大興より始めんことを請うた。初が言う。「京師は天下の根本、要は殷盛にあり、邦を建つるの初め、豈に騒動すべきや。」遂に大興の兵を徴発することを免じた。

初はまた言う。「旧制に、常参官・諸州刺史は、上任三日にして一人を挙げて自ら代わらしむ。況んや風紀の職は常員と異なる。請う、今より監察御史・按察司官は、在任一歳にして各一人を挙げて自ら代わらしめ、挙ぐる所当たらずば罰ありとせん。風節を砥礪するのみならず、また国に人を得ることを為すべし。」遂に勧農副使劉宣を挙げて自ら代わらしめた。陝西四川按察司事を僉として出向し、陝西河東按察副使を歴任し、治書侍御史として入朝した。また侍御史として揚州にて行御史台事を行い、江西按察使に抜擢され、まもなく侍御史として召し出された。行台が建康に移ると、中丞として出向し、卒した。享年六十一。子の必復は、集賢侍講学士となった。

焦養直

焦養直、字は無咎、東昌堂邑の人。早くより才器を以て称せらる。至元十八年、世祖、符寶郎を改めて典瑞監と為し、一の儒者を得て之に居らしめんとす。近臣に養直を以て薦むる者有り、帝即ち命して召見し、敷対して旨に称し、真定路儒學教授より超えて典瑞少監に拝す。二十四年、乃顔の征に従う。二十八年、宅一区を賜う。帷幄に入り侍し、古先帝王の政治を陳説す、帝之を聴き、毎に倦を忘る。嘗て漢高帝の側微より起るに及び、旧聞を誦す、養直従容に論弁し、帝即ち開納し、是より高帝を薄しめず。

大徳元年、成宗柳林に幸し、養直に命じて資治通鑑を進講せしめ、規諫の言を陳ぶるに因り、詔して酒及び鈔一万七千五百貫を賜う。二年、金帯・象笏を賜う。三年、集賢侍講学士に遷り、通犀帯を賜う。七年、詔して宮中に於て太子に傅せしめ、啓沃誠に至り、帝之を聞き、大いに悦ぶ。八年、南海を代祀す。九年、集賢学士に進む。十一年、太子諭徳に陞る。至大元年、集賢大学士を授け、大政を謀議すること悉く之に与る。老を告げて帰り卒す、資徳大夫・河南等処行中書省右丞を贈られ、諡して文靖と曰う。

子の徳方、蔭を以て興国路総管府判官と為る。

孟攀鱗

孟攀鱗、字は駕之、雲内の人。曾祖の彦甫、明法を以て西北路招討司知事と為る。疑獄有りて当に死すべき者百余人、彦甫執いて従わず、後三日実を得、皆之を釈す。祖の鶴・父の沢民、皆金の進士。

攀鱗幼にして日に万言を誦し、文を綴ること能く、時に奇童と号す。金正大七年、進士第に擢でられ、朝散大夫・招討使に至る。歳壬辰、汴京下り、北帰して平陽に居る。丙午、陝西帥府詳議官と為り、遂に長安ちょうあんに家す。世祖中統三年、翰林待制・同修国史を授かる。

至元初、召見せられ、七十事を条陳す、大抵上を勧めて天地を郊祀し、太廟を祠り、礼楽を制し、学校を建て、科挙を行い、守令を択びて以て民を字し、米粟を儲えて以て軍を贍し、名無きの賦を省き、急ならざるの役を罷め、百司庶府を六部に統し、紀綱制度悉く中書より由らしむ、是れ長久の計なりと。世祖悉く之を嘉納し、諮問諄諄たり。後に王百一・許仲平の優劣を論ず、対えて曰く「百一文華の士、翰苑に置くべし。仲平経を明らかにし道を伝う、後学の矜式と為すべし」と。帝深く之を然りとす。又嘗て召して宗廟・郊祀の儀制を問う、攀鱗悉く経典に拠りて以て対う。時に帝将に親祀せんとし、詔命して攀鱗に太常と会して礼儀を議定せしむ、攀鱗夜に郊祀及び宗廟の図を画きて以て進む、帝皆親ら覧む。復た病を以て西帰を請う、帝に令して就いて陝西五路四川行中書省事を議せしむ。四年卒す、年六十四。延祐三年、翰林学士承旨・資徳大夫・上護軍・平原郡公を贈られ、諡して文定と曰う。

尚野

尚野、字は文蔚、其の先は保定の人、満城に徙る。野幼にして穎異、祖母の劉、厚く資して之を就学せしむ。至元十八年、処士として徴されて国史院編修官と為る。二十年、兼ねて興文署丞、出でて汝州判官と為り、廉介として為す有り、憲司屡く之を薦む。二十八年、南陽県尹に遷る。初めて官に至り、獄訟充斥す、野裁決して留滞無く、旬に渉り、遂に事無し。懐孟河渠副使に改む、会に使を遣わして民の疾苦を問わしむ、野建言して「水利成法有り、宜しく有司に隷すべく、復た河渠官を置くべからず」と。事朝に聞こえ、河渠官遂に罷まる。

大徳六年、国子助教に遷る。諸生宿衛に入る者は、歳に従いて上都に幸し、丞相哈剌哈孫始めて野に命じて上都に於て学を分かち、以て諸生を教えしめ、仍く印を鋳て之を与う、上都分学は野より始まる。俄に国子博士に陞り、人を誨うに先ず経学にして後に文芸、毎に諸生に謂いて曰く「学未だ得る有らず、徒らに華藻を事とすることは、銭を持ちて水を買うが若く、取る所限り有り、能く自ら井を鑿りて泉に及び之を汲まば、用うるに勝えざるなり」と。時に学舍未だ備わらず、野密かに御史台に請い、帑蔵の積む所を出だし、大いに学舍を建てて以て教育を広めんことを乞う。仁宗東宮に在り、野は太子文学と為り、裨益する所多し、時に賓客姚燧・諭徳蕭𣂏に従いて入見し、帝為に礼を加う。

至大元年、国子司業を除く。近臣奏して国学西序を分かちて大都路学と為さんとす、帝已に其の奏を可とす、野謂う国学・府学混居するは、礼制に合わずと、事遂に寝る。四年、翰林直学士・知制誥同修国史を拝す。詔して野を吏部に赴かしめ、蔭補官を試用せしむ、野多く優仮す、或いは其の太だ寛なるを病む、野曰く「今初めて此法を設く、将来の者の詩書を習い、礼義を知らんことを冀うのみ、必ずしも目前に効を責むるに非ず」と。衆乃ち服す。

皇慶元年、翰林侍講学士に陞る。延祐元年、集賢侍講学士に改め、兼ねて国子祭酒。二年夏、疾を移して満城に帰り、四方来学する者益々衆し。六年、家に卒す、年七十六。通奉大夫・太常礼儀院使・護軍を贈られ、上党郡公を追封し、諡して文懿と曰う。

野性開敏、志趣正大、継母に事うること孝を以て聞こえ、文辞典雅、一に理に本づく。

子の師易、蘄州路総管府判官。師簡、中奉大夫・奎章閣侍書学士・同知経筵事。

李之紹

李之紹は字を伯宗といい、東平平陰の人である。幼い頃より聡明で悟りが早く、東平の李謙に師事して学んだ。家は貧しく、郷里で教授し、学ぶ者が皆集まった。至元三十一年、世祖実録を編纂修訂するにあたり、名儒を徴用して史職に充てるため、馬紹・李謙の推薦により、将仕佐郎・翰林国史院編修官に任じられた。直学士の姚燧がその才能を試そうと、翰林として応酬すべき文章を十数件まとめて彼に託した。之紹は筆を執ってたちまち書き上げ、草稿をまとめて進呈した。燧は驚喜して言った、「まさに名に虚しき士なしというべきである」。

大徳二年、祖母の病気を聞き、辞して帰郷した。再び編修官に任じられ、将仕郎に昇進した。六年、応奉翰林文字に昇進した。七年、太常博士に転じた。九年、母の喪に服し、たびたび喪中起復を命じられたが、ついにその志を奪うことはできなかった。至大三年、引き続き太常博士に任じられ、階は承事郎となった。四年、承直郎・翰林待制に昇進した。皇慶元年、国子司業に転じた。延祐三年、奉政大夫・国子祭酒に昇進した。朝夕努め励み、ただ人材を教育することに心を砕いた。四年十二月、朝列大夫・同僉太常礼儀院事に昇進した。六年、翰林直学士に改められ、また病気のため帰郷した。七年、翰林直学士として召された。至治二年、翰林侍講学士・知制誥同修国史に昇進した。三年、老齢を理由に辞して帰郷した。泰定三年八月に卒去、享年七十三。

子の勗は父の官職の恩蔭を受け、諸暨州事の同知となった。

之紹は平素より自らの性格が事に臨んで悠揚迫らず決断に乏しいと感じていたため、果斎と号して自らを励ました。文集が家に蔵されていた。