巻164

列傳第五十一:楊恭懿、王恂、郭守敬、楊桓、楊果、王構、魏初、焦養直、孟攀麟、尚野、李之紹

楊恭懿

楊恭懿、字は元甫、奉元の人である。学問に努め記憶力が強く、日に数千言を読み、親に従って乱を逃れた時も、学業を廃したことはなかった。十七歳の時、西に帰り、家は貧しく、労役に服して親を養った。暇な時は学問に就き、書物で読まないものはなく、特に易・礼・春秋に深く通じた。後に朱熹の集註四書を得て、嘆じて言うには、「人倫日用の常、天道性命の妙、皆この書に集まっている」と。父が没すると、水漿を口にすること五日、喪に居て礼を尽くした。宣撫司・行省が掌書記として召し出そうとしたが、就任しなかった。

原文楊恭懿字元甫,奉元人。力學強記,日數千言,雖從親逃亂,未嘗廢業。年十七,西還,家貧,服勞為養。暇則就學,書無不讀,尤深於易、禮、春秋,後得朱熹集註四書,歎曰:「人倫日用之常,天道性命之妙,皆萃此書矣。」父沒,水漿不入口者五日,居喪盡禮。宣撫司、行省以掌書記辟,不就。

至元七年、許衡と共に召されたが、恭懿は至らなかった。衡が中書左丞に拝されると、日に右相安童の前で恭懿の賢を称え、丞相がこれを聞こし召した。十年、詔を下して使いを遣わし召したが、病を理由に起たなかった。十一年、太子が中書に教えを下し、漢の恵帝が四皓を聘したようにして恭懿を招聘させ、丞相は郎中張元智を遣わし書を奉じて命を致し、ようやく京師に至った。入見すると、世祖は国王和童を遣わしその遠来を労い、続いて自らその郷里・族氏・師承・子孫のことを尋ね、周到に知らぬことはなかった。十二年正月二日、帝は香殿に御し、大軍が南征して使いが久しく至らないので、占わせたが、その言は秘された。侍読学士徒単公履が取士科を設けることを請うたので、詔して恭懿とこれを議わせた。恭懿は言う、「明詔に謂う、士は経学孔孟の道を治めず、日に賦詩空文を為す、と。この言葉は誠に万世治安の本である。今士を取らんと欲すれば、宜しく有司に勅し、行い有り経史に通じたる士を挙げさせ、牒を投じて自ら売ることをさせず、経義・論策を以て試みるべきである。既に実学に従うならば、士風は淳に還り、民俗は厚きに趨き、国家は才を得るであろう」と。奏が入ると、帝はこれを善しとした。ちょうど北征があり、恭懿は遂に田里に帰った。

原文至元七年,與許衡俱被召,恭懿不至。衡拜中書左丞,日於右相安童前稱譽恭懿之賢,丞相以聞。十年,詔遣使召之,以疾不起。十一年,太子下教中書,俾如漢惠聘四皓者以聘恭懿,丞相遣郎中張元智為書致命,乃至京師。既入見,世祖遣國王和童勞其遠來,繼又親詢其鄉里、族氏、師承、子姓,無不周悉。十二年正月二日,帝御香殿,以大軍南征,使久不至,命筮之,其言祕。侍讀學士徒單公履請設取士科,詔與恭懿議之。恭懿言:「明詔有謂:士不治經學孔孟之道,日為賦詩空文。斯言誠萬世治安之本。今欲取士,宜敕有司,舉有行檢、通經史之士,使無投牒自售,試以經義、論策。夫既從事實學,則士風還淳,民俗趨厚,國家得才矣。」奏入,帝善之。會北征,恭懿遂歸田里。

十六年、詔して安西王相に敦促させて闕に赴かせた。入見し、詔して太史院にて暦を改めさせた。十七年二月、奏を進めて言う、「臣等は漢以来の暦書四十余家を遍く考へ、精思推算するに、旧儀は用い難く、新儀は未だ備わらず、故に日行の盈縮、月行の遅疾、五行周天、その詳かさ皆未だ精察せず。今権りに新儀木表を以て、旧儀の測るところと相較べ、今歳の冬至の晷景及び日躔の所在、列舎分度の差、大都の北極の高下、昼夜刻の長短を得、古制を参酌し、新法を創立し、推算して辛巳暦を成す。或いは未だ精ならざるも、然れども前に暦を改めたる者、暦元に附会し、日法を更に立て、全く故習を蹈むに比すれば、顧みてまた愧じること無し。然れども必ず毎歳測験し修改し、三十年を積めば、ほぼその法を尽くすべし。三代の日官の如く、世々その職を専らにし、測験良久しく、歳を改むること無きを得せしむべし」と。また合朔の議に曰く、

原文十六年,詔安西王相敦遣赴闕。入見,詔於太史院改曆。十七年二月,進奏曰:「臣等徧考自漢以來曆書四十餘家,精思推算,舊儀難用,而新者未備,故日行盈縮,月行遲疾,五行周天,其詳皆未精察。今權以新儀木表,與舊儀所測相較,得今歲冬至晷景及日躔所在,與列舍分度之差,大都北極之高下,晝夜刻長短,參以古制,創立新法,推算成辛巳曆。雖或未精,然比之前改曆者,附會(元曆)〔曆元〕,更(日立)〔立日〕法,全踵故習,顧亦無愧。然必每歲測驗修改,積三十年,庶盡其法。可使如三代日官,世專其職,測驗良久,無改歲之事矣。」又合朔議曰:

日行が四時を歴て一周するのを一歳と謂い、月が一周を踰えて復た日と合するのを一月と謂う。一月の始まりを言うに、日月相合する故に合朔と謂う。秦より暦紀を廃し、漢の太初は平朔法のみを用い、大小相間し、或いは二大ある者あり、故に日食多くは晦日或いは二日に在り、測験時刻も亦鮮かに中る。宋の何承天は四十余年測験し、元嘉暦を進め、始めて月行の遅速を以て小余を定めて朔望を正し、食を必ず朔に在らしめ、名づけて定朔法と為す。三大二小有り、時に旧法と異なるを以て、これを罷む。梁の虞𠠎は大同暦を造り、隋の劉焯は皇極暦を造り、皆定朔を用いるも、時に阻まれる。唐の傅仁均は戊寅暦を造り、定朔始めて行わる。貞観十九年、四月頻りに大、人皆これを異とし、竟に平朔に従い改む。李淳風は麟徳暦を造り、平朔を用いざるも、四大に遇えば人言を避け、平朔を以て間い、又当世に希合し、進朔法を為し、元日の食無からしむ。一行に至り大衍暦を造り、「天事誠に密なり、四大三小何ぞ傷けん」と謂う。誠に確論なれども、然れども亦常に循りて改めず。

原文日行歷四時一周,謂之一歲;月踰一周,復與日合,謂之一月;言一月之始,日月相合,故謂合朔。自秦廢曆紀,漢太初止用平朔法,大小相間,或有二大者,故日食多在晦日或二日,測驗時刻亦鮮中。宋何承天測驗四十餘年,進元嘉曆,始以月行遲速定小餘以正朔望,使食必在朔,名定朔法,有三大二小,時以異舊法,罷之。梁虞𠠎造大同曆,隋劉焯造皇極曆,皆用定朔,為時所阻。唐傅仁均造戊寅曆,定朔始得行。貞觀十九年,四月頻大,人皆異之,竟改從平朔。李淳風造麟德曆,雖不用平朔,遇四大則避人言,以平朔間之,又希合當世,為進朔法,使無元日之食。至一行造大衍曆,謂「天事誠密,四大(二)〔三〕小何傷」。誠為確論,然亦循常不改。

臣等新暦を更に造り、一に前賢の定論に依り、推算皆実に従い改む。今十九年の暦、八月より後、四月併せて大なるは、実に日月合朔の数なり。

原文臣等更造新曆,一依前賢定論,推算皆改從實。今十九年曆,自八月後,四月併大,實日月合朔之數也。

詳しくは郭守敬伝に見ゆ。この日、方や列跪し、未だ奏を読まざるに、帝は許衡及び恭懿に起つを命じ、曰く、「卿ら二老、自ら労する毋かれ」と。集賢学士を授け、太史院事を兼ねしむ。

原文詳見郭守敬傳。是日,方列跪,未讀奏,帝命許衡及恭懿起,曰:「卿二老,毋自勞也。」授集賢學士,兼太史院事。

十八年、辞して帰る。二十年、太子賓客として召す。二十二年、昭文館学士・太史院事を領するとして召す。二十九年、中書省事を議するとして召す。皆行わず。三十一年、卒す。年七十。

原文十八年,辭歸。二十年,以太子賓客召;二十二年,以昭文館學士、領太史院事召;二十九年,以議中書省事召。皆不行。三十一年,卒,年七十。

王恂

王恂、字は敬甫、中山唐県の人。父の良は、金末に中山府掾となり、時に民は乱後に遭い、多くは詿誤して獄に繋がれたので、良は前後数百人を生かした。已にして吏業を棄て去り、伊洛の学に潜心し、及び天文律暦に至るまで、精究せざるはなく、年九十二で卒した。

原文王恂字敬甫,中山唐縣人。父良,金末為中山府掾,時民遭亂後,多以詿誤繫獄,良前後所活數百人。已而棄去吏業,潛心伊洛之學,及天文律曆,無不精究,年九十二卒。

恂は性質穎悟、生後三歳、家人が書帙を示すと、輙ち風・丁の二字を識る。母の劉氏、千字文を授けると、再び目を通すだけで、即成誦した。六歳で学に就き、十三で九数を学び、輙ちその極みに至る。歳己酉、太保劉秉忠が北上し、途中中山を経て、これを見て奇とし、南に還る時、秉忠に従い磁州の紫金山で学んだ。

原文恂性穎悟,生三歲,家人示以書帙,輒識風、丁二字。母劉氏,授以千字文,再過目,即成誦。六歲就學,十三學九數,輒造其極。歲己酉,太保劉秉忠北上,途經中山,見而奇之,及南還,從秉忠學於磁之紫金山。

癸丑、秉忠がこれを世祖に薦め、六盤山にて召見され、裕宗を輔導することを命じられ、太子伴読となった。中統二年、太子賛善に擢げられ、時に年二十八。三年、裕宗が燕王に封ぜられ、中書令を守り、樞密院事を判ずるを兼ね、両府の大臣に勅して、凡そ諮禀有る者は、必ず王恂をして聞かしめよ、と。初め、中書左丞許衡が、唐・虞以来の嘉言善政を集め、書を為して進めた。世祖は嘗て恂に講解せしめ、且つ太子に業を受くことを命じた。又詔して恂に、太子の起居飲食を、慎んで調護し、接すべきに非ざる人を、左右に侍らしむるを得ざらしめよ、と。恂は言う、「太子は天下の本、付託至って重し、名徳を延べてこれと居処すべし。況んや中書・樞密の政を兼領するや、詔条は当に遍く覧るべく、庶務も亦当に屡省すべし。官吏罪を以て免ぜらるる者は更に進ます毋れ。軍官人を害する者は、改用の際尤もその人に非ざるべからず。民は至って愚にして神、変乱の余、吾これ疑わざれば、則ち反覆化して忠厚と為る」と。帝は深くこれを然りとす。

原文癸丑,秉忠薦之世祖,召見于六盤山,命輔導裕宗,為太子伴讀。中統二年,擢太子贊善,時年二十八。三年,裕宗封燕王,守中書令,兼判樞密院事,敕兩府大臣:凡有咨禀,必令王恂與聞。初,中書左丞許衡,集唐、虞以來嘉言善政,為書以進。世祖嘗令恂講解,且命太子受業焉。又詔恂於太子起居飲食,慎為調護,非所宜接之人,勿令得侍左右。恂言:「太子,天下本,付託至重,當延名德與之居處。況兼領中書、樞密之政,詔條所當徧覽,庶務亦當屢省,官吏以罪免者毋使更進,軍官害人,改用之際尤不可非其人。民至愚而神,變亂之餘,吾不之疑,則反覆化為忠厚。」帝深然之。

恂は早くより算術を以て名有り、裕宗嘗てこれに問う。恂曰く、「算数は六芸の一つ、国家を定め人民を安んずるは乃ち大事なり」と。毎に左右に侍する時は、必ず三綱五常、為学の道、及び歴代治忽興亡の所以然を発明した。又遼・金の事で近く耳目に接するものを、その善悪を区別し、その得失を論著して上った。裕宗が心の守るところを問うと、恂は曰く、「許衡嘗て言う、人心は印板の如し、惟だ板本差わざれば、則ち千万紙を摹すと雖も皆差わず、本既に差えば、則ちこれを紙に摹すに、差わざるは無し、と」と。裕宗は深くこれを然りとす。詔して勳戚の子弟を択び、恂に学ばしむると、師道卓然たり。及んで恂が裕宗に従い軍を撫で称海に至るや、乃ち諸生を許衡に属せしめ、衡が老を告げて去るに及び、復た命じて恂に国子祭酒を領せしむ。国学の制、実にここに始まる。

原文恂早以算術名,裕宗嘗問焉。恂曰:「算數,六藝之一;定國家,安人民,乃大事也。」每侍左右,必發明三綱五常,為學之道,及歷代治忽興亡之所以然。又以遼、金之事近接耳目者,區別其善惡,論著其得失,上之。裕宗問以心之所守,恂曰:「許衡嘗言:人心如印板,惟板本不差,則雖摹千萬紙皆不差;本既差,則摹之於紙,無不差者。」裕宗深然之。詔擇勳戚子弟,使學於徇,師道卓然。及恂從裕宗撫軍稱海,乃以諸生屬之許衡,及衡告老而去,復命恂領國子祭酒。國學之制,實始於此。

帝は国朝が金の大明暦を承けて用いてより、歳月が久しく次第に疎漏となったことを以て、これを厘正せんと欲し、王恂が算術に精しいことを知り、遂にこれを命じた。恂は許衡が暦の理を明らかにする能あるを推薦し、詔して駅伝を以て召して闕に赴かせ、改暦の事を領するを命じ、官属は悉く恂の辟置に聴かしめた。恂は衡及び楊恭懿、郭守敬等とともに、歴代の暦書四十余家を遍く考証し、昼夜測験して新法を創立し、古制を参酌し、推算極めて精密を極め、詳しくは守敬伝にある。十六年、嘉議大夫・太史令を授けられた。十七年、暦が完成し、授時暫と名を賜わり、その年の冬、天下に頒行された。

原文帝以國朝承用金大明曆,歲久浸疏,欲釐正之,知恂精於算術,遂以命之。恂薦許衡能明曆之理,詔驛召赴闕,命領改曆事,官屬悉聽恂辟置。恂與衡及楊恭懿、郭守敬等,徧考曆書四十餘家,晝夜測驗,創立新法,參以古制,推算極為精密,詳在守敬傳。十六年,授嘉議大夫、太史令。十七年,曆成,賜名授時曆,以其年冬,頒行天下。

十八年、父の喪に服し、哀毀して、日に一勺の水を飲むのみであった。帝は内侍を遣わして慰諭させた。未だ幾ばくもせずして卒去した。年四十七。初め、恂が病んだ時、裕宗は屡々医を遣わして診療させ、葬儀に際しては、賻として鈔二千貫を賜わった。後に帝は暦を定めた功績を思い、鈔五千貫をその家に賜わった。延祐二年、推忠守正功臣・光禄大夫・司徒・上柱国・定国公を追贈され、諡して文肅といった。

原文十八年,居父喪,哀毀,日飲勺水。帝遣內侍慰諭之。未幾,卒,年四十七。初,恂病,裕宗屢遣醫診治,及葬,賻鈔二千貫。後帝思定曆之功,以鈔五千貫賜其家。延祐二年,贈推忠守正功臣、光祿大夫、司徒、上柱國、定國公,諡文肅。

子の寛と賓は、共に許衡に従って遊学し、星暦の伝授を家学として得た。裕宗は嘗て召見し、彼らに語って言われた、「汝らの父は書生より起り、貧しくして資蓄無し。今、汝らに鈔五千貫を賜う。使い尽くしたならば、また聞かせよ」と。恩恤の厚きこと此の如しであった。寛は保章正より、兵部郎中を歴任し、蠡州の知事となった。賓は保章副より、累進して秘書監に至った。

原文子寬、賓,並從許衡游,得星曆之傳於家學。裕宗嘗召見,語之曰:「汝父起於書生,貧無貲蓄,今賜汝鈔五千貫,用盡可復以聞。」恩恤之厚如此。寬由保章正,歷兵部郎中,知蠡州。賓由保章副,累遷祕書監。

郭守敬

郭守敬、字は若思、順徳路邢台県の人。生まれながらにして異なる操行を持ち、戯れ遊ぶことをしなかった。大父の栄は五経に通じ、算数・水利に精しかった。時に劉秉忠・張文謙・張易・王恂が、州西の紫金山で共に学んでおり、栄は守敬をして秉忠に従って学ばせた。

原文郭守敬字若思,順德邢臺人。生有異操,不為嬉戲事。大父榮,通五經,精於算數、水利。時劉秉忠、張文謙、張易、王恂,同學於州西紫金山,榮使守敬從秉忠學。

中統三年、文謙は守敬が水利に習熟し、巧思人に絶するを推薦した。世祖は召見し、水利に関する六事を面陳した。第一は、中都の旧漕河を、東は通州に至り、玉泉水を引いて舟を通じさせ、歳毎に雇車の銭六万緡を省くことができる。通州以南では、藺楡河口から直ちに開削導水し、蒙村・跳梁務を経て楊村で還河し、浮鶏甸の浅瀬や風浪による遠回りの難を避ける。第二は、順徳の達泉を城中に引き入れ、三渠に分けて城東の地を灌漑する。第三は、順徳の灃河が東は古任城に至るも、その故道を失い、民田千三百余頃を没している。この水を開修して河となせば、その田は即ち耕種可能となり、小王村より滹沱河を経て、御河に合流し、舟栰を通じさせることができる。第四は、磁州東北の滏水と漳水の合流する所で、水を引き、滏陽・邯鄲・洺州・永年を経て下り、鶏沢で合流して灃河に入れ、三千余頃の田を灌漑できる。第五は、懐州・孟州の沁河は、既に灌漑に用いているが、なお漏堰の余水があり、東は丹河の余水と相合する。これを東流に引き、武陟県の北に至り、御河に合流させれば、二千余頃の田を灌漑できる。第六は、黄河を孟州の西から開削して引き、少しばかり一渠を分け、新・旧孟州の中間を経由し、黄河の古岸に沿って下り、温県の南で再び大河に入れ、その間も二千余頃の田を灌漑できる。一つの事を奏上する毎に、世祖は歎じて言われた、「事を任ずる者がかくの如くならば、人は素餐せざるなり」と。諸路河渠提挙を授けられた。四年、銀符を加授され、副河渠使となった。

原文中統三年,文謙薦守敬習水利,巧思絕人。世祖召見,面陳水利六事:其一,中都舊漕河,東至通州,引玉泉水以通舟,歲可省雇車錢六萬緡。通州以南,於藺榆河口徑直開引,由蒙村跳梁務至楊村還河,以避浮雞𣵦盤淺風浪遠轉之患。其二,順德達泉引入城中,分為三渠,灌城東地。其三,順德(澧)〔灃〕河東至古任城,失其故道,沒民田千三百餘頃。此水開修成河,其田即可耕種,自小王村(徑)〔經〕滹沱,合入御河,通行舟栰。其四,磁州東北滏、漳二水合流處,引水由滏陽、邯鄲、洺州、永年下經雞澤,合入(澧)〔灃〕河,可灌田三千餘頃。其五,懷、孟沁河,雖澆灌,猶有漏堰餘水,東與丹河餘水相合。引東流,至武陟縣北,合入御河,可灌田二千餘頃。其六,黃河自孟州西開引,少分一渠,經由新、舊孟州中間,順河古岸下,至溫縣南復入大河,其間亦可灌田二千餘頃。每奏一事,世祖歎曰:「任事者如此,人不為素餐矣。」授提舉諸路河渠。四年,加授銀符、副河渠使。

至元元年、張文謙に従って西夏に行省した。先だって、中興府にある古渠は、一つは唐来渠といい、その長さ四百里、一つは漢延渠といい、長さ二百五十里、他の州の正渠十は、皆長さ二百里、支渠大小六十八、灌漑する田九万余頃であった。兵乱以来、廃壊淤浅していた。守敬は改めて閘堰を設け、皆その旧に復させた。

原文至元元年,從張文謙行省西夏。先是,古渠在中興者,一名唐來,其長四百里,一名漢延,長二百五十里,它州正渠十,皆長二百里,支渠大小六十八,灌田九萬餘頃。兵亂以來,廢壞淤淺。守敬更立牐堰,皆復其舊。

二年、都水少監を授けられた。守敬は言上した、「舟は中興より河に沿って四昼夜で東勝に至り、漕運を通じさせることができる。また査泊・兀郎海に古渠甚だ多いを見る。修理を加うべきである」と。また言上した、「金の時、燕京の西麻峪村より、盧溝の一支流を分引して東流させ、西山を穿って出た。これを金口という。その水は金口より以東、燕京より以北、若干頃の田を灌漑し、その利益は勝計すべからず。兵興以来、典守の者は過失を恐れ、大石を以てこれを塞いだ。今もし故蹟を按視し、水を通流せしめれば、上は西山の利を致し、下は京畿の漕を広めることができる」と。また言上した、「金口の西に予め減水口を開き、西南は大河に還し、これを深く広くして、漲水の突入する患いを防ぐべきである」と。帝はこれを善しとされた。十二年、丞相伯顔が南征するに当たり、水駅を立てることを議し、守敬に命じて河北・山東において舟の通じ得る所を行視させ、図を為して奏上させた。

原文二年,授都水少監。守敬言:「舟自中興沿河四晝夜至東勝,可通漕運,及見查泊、兀郎海古渠甚多,宜加修理。」又言:「金時,自燕京之西麻峪村,分引盧溝一支東流,穿西山而出,是謂金口。其水自金口以東,燕京以北,灌田若干頃,其利不可勝計。兵興以來,典守者懼有所失,因以大石塞之。今若按視故蹟,使水得通流,上可以致西山之利,下可以廣京畿之漕。」又言:「當於金口西預開減水口,西南還大河,令其深廣,以防漲水突入之患。」帝善之。十二年,丞相伯顏南征,議立水站,命守敬行視河北、山東可通舟者,為圖奏之。

初め、劉秉忠は大明暦が遼・金より承用されて二百余年、次第に天象に後れるようになったことを以て、修正を議したが果たさずに卒去した。十三年、江左が既に平定されると、帝はその言を用いんと思われた。遂に守敬と王恂を以て、南北の日官を率い、下って測験推歩を分掌させ、文謙と枢密張易をして上って主領裁奏を為さしめ、左丞許衡をしてこの事に参預せしめた。守敬はまず言上した、「暦の根本は測験に在り、而して測験の器は儀表に先んずるは莫し。今、司天監の渾儀は、宋の皇祐年間に汴京で造られたもので、此の処の天度と符合せず、南北二極を比量すれば、約四度差あり。表石は年深く、また傾側している」と。守敬は乃ちその誤りを尽く考証して移し置いた。既にしてまた別に高爽の地を図り、木を以て重棚を為し、簡儀・高表を創作し、用いて相覆い比べた。また天枢が極星に附いて動くと考え、昔人は嘗て管を展げてこれを望んだが、その的確を得ず、候極儀を作った。極辰が既に位すれば、天體は斯く正しくなるので、渾天象を作った。象は形は似ているが、適する所用が無いので、玲瓏儀を作った。表の矩方を以て天の正円を測るには、円を以て円を求めるに若くは莫く、仰儀を作った。古に経緯儀有りと雖も、結んで動かず、守敬はこれを改易し、立運儀を作った。日には中道有り、月には九行有り、守敬はこれを一つにし、證理儀を作った。表高くして影虚しく、形象真ならず、景符を作った。月は明有りと雖も、影を察するは難しく、闚几を作った。暦法の験は交会に在り、日月食儀を作った。天に赤道有り、輪を以てこれに当て、両極の低昂有り、標を以てこれを指し、星晷定時儀を作った。また正方案・丸表・懸正儀・座正儀を作り、四方を行って測る者の用に供した。また仰規覆矩図・異方渾蓋図・日出入永短図を作り、上記の諸儀と互いに参考とした。

原文初,秉忠以大明曆自遼、金承用二百餘年,浸以後天,議欲修正而卒。十三年,江左既平,帝思用其言。遂以守敬與王恂,率南北日官,分掌測驗推步於下,而命文謙與樞密張易為之主領裁奏於上,左丞許衡參預其事。守敬首言:「曆之本在於測驗,而測驗之器莫先儀表。今司天渾儀,宋皇祐中汴京所造,不與此處天度相符,比量南北二極,約差四度;表石年深,亦復欹側。」守敬乃盡考其失而移置之。既又別圖高爽地,以木為重棚,創作簡儀、高表,用相比覆。又以為天樞附極而動,昔人嘗展管望之,未得其的,作候極儀。極辰既位,天體斯正,作渾天象。象雖形似,莫適所用,作玲瓏儀。以表之矩方,測天之正圜,莫若以圜求圜,作仰儀。古有經緯,結而不動,守敬易之,作立運儀。日有中道,月有九行,守敬一之,作證理儀。表高景虛,罔象非真,作景符。月雖有明,察景則難,作闚几。曆法之驗,在於交會,作日月食儀。天有赤道,輪以當之,兩極低昂,標以指之,作星晷定時儀。又作正方案、(九)〔丸〕表、懸正儀、座正儀,為四方行測者所用。又作仰規覆矩圖、異方渾蓋圖、日出入永短圖,與上諸儀互相參考。

十六年、局を改めて太史院とし、王恂を太史令とし、守敬を同知太史院事とし、印章を給し、官府を立てた。儀表の式を奏進するに及んで、守敬は帝の前で理致を指陳し、日が暮れるに至るも、帝は倦むこと無かった。守敬は因って奏上した、「唐の一行は開元年間に南宮説に命じて天下に測影させ、書中に見えるもの凡そ十三箇所である。今、疆宇は唐よりも尤も大きく、もし遠方で測験しなければ、日月の交食する分数時刻同じからず、昼夜の長短同じからず、日月星辰の天より去る高下同じからず。即ち目下測験の人少なし。先ず南北に表を立て、直線を取り影を測るべし」と。帝はその奏を許可された。遂に監候官十四員を設け、分道して出で、東は高麗に至り、西は滇池を極め、南は朱崖を踰え、北は鉄勒を尽くし、四海に測験し、凡そ二十七箇所であった。

原文十六年,改局為太史院,以恂為太史令,守敬為同知太史院事,給印章,立官府。及奏進儀表式,守敬當帝前指陳理致,至於日晏,帝不為倦。守敬因奏:「唐一行開元間令南宮說天下測景,書中見者凡十三處。今疆宇比唐尤大,若不遠方測驗,日月交食分數時刻不同,晝夜長短不同,日月星辰去天高下不同,即目測驗人少,可先南北立表,取直測景。」帝可其奏。遂設監候官一十四員,分道而出,東至高麗,西極滇池,南踰朱崖,北盡鐵勒,四海測驗,凡二十七所。

十七年、新暦が完成を告げ、守敬は諸臣と共に上奏して言った。

原文十七年,新曆告成,守敬與諸臣同上奏曰:

臣らはひそかに聞く、帝王の事は、暦より重きはなしと。黄帝が日を迎えて策を推し、帝堯が閏月をもって四時を定めて歳を成し、舜が璿璣玉衡に在りて七政を斉しくす。爰に三代に及び、暦に定法なく、周・秦の間、閏餘次に乖く。西漢は三統暦を造り、百三十年にして後是非始めて定まる。東漢は四分暦を造り、七十余年にして儀式方に備わる。また百二十一年、劉洪が乾象暦を造り、始めて月行に遅速あるを悟る。また百八十年、姜岌が三紀甲子暦を造り、始めて月食の衝をもって日宿度の所在を検するを悟る。また五十七年、何承天が元嘉暦を造り、始めて朔望及び弦を以て皆大小餘を定むるを悟る。また六十五年、祖冲之が大明暦を造り、始めて太陽に歳差の数あるを悟り、極星不動の処を去ること一度余り。また五十二年、張子信が始めて日月の交道に表裏あるを悟り、五星に遅疾留逆あるを悟る。また三十三年、劉焯が皇極暦を造り、始めて日行に盈縮あるを悟る。また三十五年、傅仁均が戊寅元暦を造り、旧儀を頗る採り、始めて定朔を用う。また四十六年、李淳風が麟徳暦を造り、古暦の章蔀元首分度斉しからざるを以て、始めて総法を為し、進朔を用いて晦晨月見を避く。また六十三年、一行が大衍暦を造り、始めて朔に四大三小あるを以て、九服交食の異を定む。また九十四年、徐昂が宣明暦を造り、始めて日食に気・刻・時の三差あるを悟る。また二百三十六年、姚舜輔が紀元暦を造り、始めて食甚の泛餘差数を悟る。以上計千一百八十二年、暦経七十改、其の法を創める者十有三家。

原文臣等竊聞帝王之事,莫重於曆。自黃帝迎日推策,帝堯以閏月定四時成歲,舜在璇璣玉衡以齊七政。爰及三代,曆無定法,周、秦之間,閏餘乖次。西漢造三統曆,百三十年而後是非始定。東漢造四分曆,七十餘年而儀式方備。又百二十一年,劉洪造乾象曆,始悟月行有遲速。又百八十年,姜岌造三紀甲子曆,始悟以月食衝檢日宿度所在。又五十七年,何承天造元嘉曆,始悟以朔望及弦皆定大小餘。又六十五年,祖冲之造大明曆,始悟太陽有歲差之數,極星去不動處一度餘。又五十二年,張子信始悟日月交道有表裏,五星有遲疾留逆。又三十三年,劉焯造皇極曆,始悟日行有盈縮。又三十五年,傅仁均造戊寅元曆,頗采舊儀,始用定(制)〔朔〕。又四十六年,李淳風造麟德曆,以古曆章蔀元首分度不齊,始為總法,用進朔以避晦晨月見。又六十三年,一行造大衍曆,始以朔有四大三小,定九服交食之異。又九十四年,徐昂造宣明曆,始悟日食有氣、刻、時三差。又〔二〕百三十六年,姚舜輔造紀元曆,始悟食甚泛餘差數。以上計千一百八十二年,曆經七十改,其創法者十有三家。

是よりまた百七十四年、聖朝専ら臣らに命じて新暦を改治せしめ、臣らは創造の簡儀・高表を用い、其の測実の数に憑り、考正する所凡そ七事あり:

原文自是又百七十四年,聖朝專命臣等改治新曆,臣等用創造簡儀、高表,憑其測實數,所考正者凡七事:

一は冬至。丙子年立冬後より、毎日測到の晷景に依り、逐日取り対え、冬至前後日差同じきを準とす。丁丑年冬至は戊戌日夜半後八刻半に在るを得、また丁丑夏至は庚子日夜半後七十刻に在るを定め、また戊寅冬至は癸卯日夜半後三十三刻に在るを定め、己卯冬至は戊申日夜半後五十七刻半に在るを定め、庚辰冬至は癸丑日夜半後八十一刻半に在るを定む。各々大明暦より十八刻を減じ、遠近相符い、前後応に準ず。

原文一曰冬至。自丙子年立冬後,依每日測到晷景,逐日取對,冬至前後日差同者為準。得丁丑年冬至在戊戌日夜半後八刻半,又定丁丑夏至在庚子日夜半後七十刻;又定戊寅冬至在癸卯日夜半後三十三刻;己卯冬至在戊申日夜半後五十七刻〔半〕;庚辰冬至在癸丑日夜半後八十一刻〔半〕。各減大明曆十八刻,遠近相符,前後應準。

二は歳餘。大明暦以来、凡そ景を測り気を験し、冬至時刻の真数を得る者六あり、用いて相い距ち、各々其の時に合用の歳餘を得。今四年を考験し、相符いて差ず、仍って宋大明壬寅年より今日に至るまで八百十年、毎歳合して得る三百六十五日二十四刻二十五分、其の二十五分は今暦歳餘合用の数なり。

原文二曰歲餘。自大明曆以來,凡測景、驗氣,得冬至時刻真數者有六,用以相距,各得其時合用歲餘。今考驗四年,相符不差,仍自宋大明壬寅年距至今日八百一十年,每歲合得三百六十五日二十四刻二十五分,其二十五分為今曆歲餘合用之數。

三は日躔。至元丁丑四月癸酉望月食既を用い、日躔を推求し、冬至日躔赤道箕宿十度、黄道箕九度奇有るを得。仍って毎日測到の太陽躔度に憑り、或いは星を憑りて月を測り、或いは月を憑りて日を測り、或いは径に星度を憑りて日を測り、術を立てて推算す。丁丑正月より己卯十二月に起り、凡そ三年、共に一百三十四事を得、皆箕に躔し、月食と相符う。

原文三曰日躔。用至元丁丑四月癸酉望月食既,推求日躔,得冬至日躔赤道箕宿十度,黃道箕九度有奇。仍憑每日測到太陽躔度,或憑星測月,或憑月測日,或徑憑星度測日,立術推算。起自丁丑正月至己卯十二月,凡三年,共得一百三十四事,皆躔於箕,與(日)〔月〕食相符。

四は月離。丁丑以来今日に至るまで、毎日測到の逐時太陰行度に憑りて推算し、黄道より転に入る極遅・疾及び平行の処を求め、前後凡そ十三転、計五十一事。内真ならざるを除く外、三十事あり、大明暦の転に入りて後天するを得。また交食を考験するに因り、大明暦に三十刻を加え、天道に合す。

原文四曰月離。自丁丑以來至今,憑每日測到逐時太陰行度推算,變從黃道求入轉極遲、疾并平行處,前後凡十三轉,計五十一事。內除去不真的外,有三十事,得大明曆入轉後天。又因考驗交食,加大明曆三十刻,與天道合。

五は入交。丁丑五月以来、毎日測到の太陰去極度数に憑り、黄道去極度に比擬し、月道黄道に交わるを得、共に八事を得。仍って日食の法度に依りて推求し、皆食分有り、入交の時刻を得、大明暦と差多くならず。

原文五曰入交。自丁丑五月以來,憑每日測到太陰去極度數,比擬黃道去極度,得月道交於黃道,共得八事。仍依日食法度推求,皆有食分,得入交時刻,與大明曆所差不多。

六は二十八宿距度。漢の太初暦以来、距度同じからず、互いに損益有り。大明暦は則ち度下の余分に於いて、太半少を以て附し、皆私意牽就し、未だ嘗て其の数を実測せず。今新儀は皆周天度分を細刻し、毎度を三十六分と為し、距線をもって管窺に代え、宿度余分並びに実測に依り、私意を以て牽就せず。

原文六曰二十八宿距度。自漢太初曆以來,距度不同,互有損益。大明曆則於度下餘分,附以太半少,皆私意牽就,未嘗實測其數。今新儀皆細刻周天度分,每度為三十六分,以距線代管窺,宿度餘分並依實測,不以私意牽就。

七は日出入昼夜刻。大明暦の日出入昼夜刻は、皆汴京を以て準と為し、其の刻数は大都と同じからず。今更に本方の北極出地高下、黄道出入内外度を以て、術を立てて推求し、毎日の日出入昼夜刻を得、夏至極長は、日出寅正二刻、日入戌初二刻、昼六十二刻、夜三十八刻。冬至極短は、日出辰初二刻、日入申正二刻、昼三十八刻、夜六十二刻。永く定式と為す。

原文七曰日出入晝夜刻。大明曆日出入晝夜刻,皆據汴京為準,其刻數與大都不同。今更以本方北極出地高下,黃道出入內外度,立術推求每日日出入晝夜刻,得夏至極長,日出寅正二刻,日入戌初二刻,晝六十二刻,夜三十八刻。冬至極短,日出辰初二刻,日入申正二刻,晝三十八刻,夜六十二刻。永為定式。

創める所の法凡そ五事:一は太陽盈縮。四正の定気を用いて升降限を立て、立招差に依りて毎日の行分初末極差積度を求め、古に比べて密なり。二は月行遅疾。古暦は皆二十八限を用う、今は万分日の八百二十分を一限と為し、凡そ三百三十六限に析き、垜疊招差に依りて転分進退を求め、其の遅疾度数逐時に同じからず、蓋し前代未だ有らざる所なり。三は黄赤道差。旧法は一百一度を以て相減相乘す、今は算術の句股弧矢方円斜直の容るる所に依りて、度率積差を求め、差率は天道と実に脗合す。四は黄赤道内外度。累年の実測に拠れば、内外極度二十三度九十分、円容方直矢接句股を法と為し、毎日の去極を求め、測る所と相符う。五は白道交周。旧法は黄道変じて白道を推し斜を以て斜を求む、今は立渾比量を用い、月と赤道正交、春秋二正の黄赤道正交を距ること一十四度六十六分を得、以て法と為さんと擬す。逐月毎交の二十八宿度分を推し、理に於いて尽くせり。

原文所創法凡五事:一曰太陽盈縮。用四正定氣立為升降限,依立招差求得每日行分初末極差積度,比古為密。二曰月行遲疾。古曆皆用二十八限,今以萬分日之八百二十分為一限,凡析為三百三十六限,依垜疊招差求得轉分進退,其遲疾度數逐時不同,蓋前所未有。三曰黃赤道差。舊法以一百一度相減相乘,今依算術句股弧矢方圜斜直所容,求到度率積差,差率與天道實脗合。四曰黃赤道內外度。據累年實測,內外極度二十三度九十分,以圜容方直矢接句股為法,求每日去極,與所測相符。五曰白道交周。舊法黃道變推白道以斜求斜,今用立渾比量,得月與赤道正交,距春秋二正黃赤道正交一十四度六十六分,擬以為法。推逐月每交二十八宿度分,於理為盡。

十九年、恂卒す。時に暦は頒つと雖も、然れども其の推歩の式と、夫れ立成の数とは、尚皆未だ定藁有らず。守敬は是に於いて篇類を比次し、分秒を整斉し、裁して推歩七巻、立成二巻、暦議擬藁三巻、転神選択二巻、上中下三暦注式十二巻と為す。二十三年、継いて太史令と為り、遂に表を上りて奏進す。また時候箋注二巻、修改源流一巻有り。其の測験書は、儀象法式二巻、二至晷景考二十巻、五星細行考五十巻、古今交食考一巻、新測二十八舍雑坐諸星入宿去極一巻、新測無名諸星一巻、月離考一巻有り、並びに官に蔵す。

原文十九年,恂卒。時曆雖頒,然其推步之式,與夫立成之數,尚皆未有定藁。守敬於是比次篇類,整齊分杪,裁為推步七卷,立成二卷,曆議擬藁三卷,轉神選擇二卷,上中下三曆注式十二卷。二十三年,繼為太史令,遂上表奏進。又有時候箋注二卷,修改源流一卷。其測驗書,有儀象法式二卷,二至晷景考二十卷,五星細行考五十卷,古今交食考一卷,新測二十八舍雜坐諸星入宿去極一卷,新測無名諸星一卷,月離考一卷,並藏之官。

二十八年(1291年)、ある者が言うには、灤河は永平から舟を引いて山を越えて上れば、開平に至ることができるという。またある者は、瀘溝は麻峪から尋麻林に至ることができるという。朝廷は郭守敬を派遣して視察させたが、灤河はすでに通行不可能であり、瀘溝の舟も通じなかった。そこで守敬は水利に関する十一事を上奏した。その第一は、大都の運糧河は、一畝泉の旧水源を用いず、別に北山の白浮泉水を引き、西に折れて南へ向かい、瓮山泊を経て、西水門から城に入り、積水潭に環流して集め、さらに東に折れて南へ出て、南水門から出て、旧運糧河に合流させるというものであった。十里ごとに一つの閘門を設置し、通州に至るまで、合わせて七つの閘門とし、閘門から一里ほど上流に重ねて斗門を設け、互いに堤防と堰とし、舟を通し水を止めるようにした。帝は上奏文を覧て、喜んで言った、「速やかに実行すべきである」。そこで再び都水監を設置し、守敬にこれを統轄させた。帝は丞相以下に命じて、皆自ら箕と鍤をとって工事を先導させ、守敬の指示を受けてから事を行わせた。

原文二十八年,有言灤河自永平挽舟踰山而上,可至開平;有言瀘溝自麻峪可至尋麻林。朝廷遣守敬相視,灤河既不可行,瀘溝舟亦不通,守敬因陳水利十有一事。其一,大都運糧河,不用一畝泉舊原,別引北山白浮泉水,西折而南,經瓮山泊,自西水門入城,環匯於積水潭,復東折而南,出南水門,合入舊運糧河。每十里置一牐,比至通州,凡為牐七,距牐里許,上重置斗門,互為提閼,以過舟止水。帝覽奏,喜曰:「當速行之。」於是復置都水監,俾守敬領之。帝命丞相以下皆親操畚(牐)〔鍤〕倡工,待守敬指授而後行事。

これ以前、通州から大都までは、陸路で官糧を運び、毎年数万石に及んでいたが、秋の長雨の時期には、驢馬などの家畜の死ぬものが数えきれず、この時になってようやく全て廃止された。三十年(1293年)、帝が上都から帰還する途中、積水潭を通り過ぎると、船首船尾が水面を覆っているのを見て大いに喜び、これを通惠河と名付け、守敬に鈔一万二千五百貫を賜い、なお従前の職務のまま通惠河漕運事を提調することを兼ねさせた。守敬はまた言上した、澄清閘のやや東から水を引き、北壩河と接続させ、かつ麗正門の西に閘門を設けて、舟船が城を巡って往来できるようにすることを。この計画は実現せずに中止された。三十一年(1294年)、昭文館大学士・知太史院事に任ぜられた。

原文先是,通州至大都,陸運官糧,歲若干萬石,方秋霖雨,驢畜死者不可勝計,至是皆罷之。三十年,帝還自上都,過積水潭,見舳艫敝水,大悅,名曰通惠河,賜守敬鈔萬二千五百貫,仍以舊職兼提調通惠河漕運事。守敬又言:於澄清牐稍東,引水與北壩河接,且立牐麗正門西,令舟楫得環城往來。志不就而罷。三十一年,拜昭文館大學士、知太史院事。

大徳二年(1298年)、守敬を上都に召し、鉄幡竿渠の開削を議した。守敬は上奏して言った、「山の水が毎年激しく流れ下るので、大規模な渠と堰を造り、幅を五七十歩としなければなりません」。執政は工費を惜しみ、その言葉を過大であるとして、幅を三分の一に縮小した。翌年大雨が降り、山の水が流れ下ったが、渠はそれを容れることができず、人畜や廬帳を押し流し、ほとんど行宮にまで及ぼうとした。成宗は宰臣に言った、「郭太史は神人のようなものだ。その言葉を用いなかったことを惜しむ」。七年(1303年)、内外の官で年齢七十に達した者は、皆致仕を許すとの詔が出たが、守敬だけはその請いを許さなかった。これより以後、翰林・太史・司天の官は致仕しないことが、令として定められた。延祐三年(1316年)に卒去、八十六歳。

原文大德二年,召守敬至上都,議開鐵幡竿渠,守敬奏:「山水頻年暴下,非大為渠堰,廣五七十步不可。」執政吝於工費,以其言為過,縮其廣三之一。明年大雨,山水注下,渠不能容,漂沒人畜廬帳,幾犯行殿。成宗謂宰臣曰:「郭太史神人也,惜其言不用耳。」七年,詔內外官年及七十,並聽致仕,獨守敬不許其請。自是翰林太史司天官不致仕,定著為令。延祐三年卒,年八十六。

楊桓

楊桓、字は武子、兗州の人。幼少より聡明で悟りが早く、『論語』を読んで宰予の昼寝の章に至ると、慨然として志を立て、これにより生涯、病気以外で昼寝をしたことがなかった。弱冠にして郡の諸生となり、当時の名士たちは皆これを称賛した。中統四年(1263年)、済州教授に補せられ、後に済寧路教授から太史院校書郎に召され、勅命を受けて儀表の銘文や暦日の序文を撰し、文辞が典雅であったため、楮幣一千五百緡を賜ったが、辞退して受け取らなかった。秘書監丞に転じた。

原文楊桓字武子,兗州人。幼警悟,讀論語至宰予晝寢章,慨然有立志,由是終身非疾病未嘗晝寢。弱冠,為郡諸生,一時名公咸稱譽之。中統四年,補濟州教授,後由濟寧路教授召為太史院校書郎,奉敕撰儀表銘、曆日序,文辭典雅,賜楮幣千五百緡,辭不受。遷祕書監丞。

至元三十一年(1294年)、監察御史に任ぜられた。木華黎の曾孫碩德の家から玉璽を得た者がおり、楊桓はその文字を辨識して、「受天之命、既寿永昌」であると言い、頓首して言った、「これは歴代伝わってきた伝国の璽です。失われて久しいものでした。今、先帝が崩御され、皇太孫が即位なさるに当たり、璽が再び出現したのは、天が今日に瑞応を顕わされたのでしょう」。即座に文をしたためて璽の由来を述べ、徽仁裕聖皇后に奉った。

原文至元三十一年,拜監察御史。有得玉璽於木華黎曾孫碩德家者,桓辨識其文,曰「受天之命、既壽永昌」,乃頓首言曰:「此歷代傳國璽也,亡之久矣。今宮車晏駕,皇太孫龍飛,而璽復出,天其彰瑞應於今日乎!」即為文述璽始末,奉上于徽仁裕聖皇后。

成宗が即位すると、楊桓は時務に関する二十一事を上疏した。一、天地を郊祀すること。二、太廟を親しく享け、四時の祭祀を備えること。三、まず首相を定めること。四、群臣を朝見し、時政の得失を訪問すること。五、儒臣に時を以て侍講させるよう詔すること。六、太学及び府州の儒学を設け、生徒を教養すること。七、誥命を行って善を褒め労を叙すること。八、章服を異にして貴賤を区別すること。九、礼儀を正して宮庭を粛清すること。十、官制を定めて内外の冗員を省くこと。十一、銭穀を講究して国用を豊かにすること。十二、音律に通暁する者を訪求して太常の雅楽に協わせること。十三、国子監を集賢院に隷属させるべきでなく、その名を正すこと。十四、六部・寺監及び府州司県の吏を試補すること。十五、内外官吏の俸禄を増すこと。十六、父子骨肉や奴婢が互いに告発することを禁ずること。十七、婚姻の聘財を定めること。十八、官銭を用いて十分の一の利を営むことを罷めること。十九、笞杖の刑を復活して罪の軽重を区別すること。二十、中統以前より仕官した郡県の吏は、優遇を加えるべきこと。二十一、治道は各々その本俗に従うべきこと。疏が奏上されると、帝はこれを嘉して採用した。

原文成宗即位,桓疏上時務二十一事:一曰郊祀天地;二曰親享太廟,備四時之祭;三曰先定首相;四曰朝見羣臣,訪問時政得失;五曰詔儒臣以時侍講;六曰設太學及府州儒學,教養生徒;七曰行誥命以褒善敍勞;八曰異章服以別貴賤;九曰正禮儀以肅宮庭;十曰定官制以省內外冗員;十一曰講究錢穀以裕國用;十二曰訪求曉習音律者以協太常雅樂;十三曰國子監不可隸集賢院,宜正其名;十四曰試補六部寺監及府州司縣吏;十五曰增內外官吏俸祿;十六曰禁父子骨肉、奴婢相告訐者;十七曰定婚姻聘財;十八曰罷行用官錢營什一之利;十九曰復笞杖以別輕重之罪;二十曰郡縣吏自中統前仕宦者,宜加優異;二十一曰為治之道宜各從本俗。疏奏,帝嘉納之。

間もなく、秘書少監に昇進し、『大一統志』の編纂に参与した。任期が満ちて兗州に帰ると、財産と家業を全て弟の楊楷に譲り、郷里で称賛された。大徳三年(1299年)、国子司業に召されたが、赴任しないうちに卒去、六十六歳。

原文未幾,陞祕書少監,預修大一統志。秩滿歸兗州,以貲業悉讓弟楷,鄉里稱焉。大德三年,以國子司業召,未赴,卒,年六十六。

楊桓は人となり寛厚で、親に仕えることに篤く孝行し、群籍を博覧し、特に篆籀の学に精通していた。『六書統』『六書泝源』『書学正韻』を著し、おおむね許慎の説を推明しつつ、その意味を深めたもので、いずれも世に行われた。

原文桓為人寬厚,事親篤孝,博覽羣籍,尤精篆籀之學。著六書統、六書泝源、書學正韻,大抵推明許慎之說,而意加深,皆行于世。

楊果

楊果、字は正卿、祁州蒲陰の人。幼くして父母を失い、宋から亳に移り、さらに許昌に移り住み、章句を教えて徒弟をとることを業とし、流寓して困窮すること十余年であった。金の正大甲申年(1224年)、進士に及第した。折しも参政李蹊が許で大司農の職務を行っており、楊果が詩を送ると、李蹊は大いに称賞し、帰朝して朝廷に言上し、偃師県令に任用された。官に着くと、廉潔で有能と称され、蒲城県令に改められ、さらに陝県令に改められたが、いずれも政務の煩雑な県であった。楊果には応変の才があり、煩劇な政務を治めることができ、諸県の中で楊果の治績が最も優れていた。

原文楊果字正卿,祁州蒲陰人。幼失怙恃,自宋遷亳,復徙居許昌,以章句授徒為業,流寓轗軻十餘年。金正大甲申,登進士第。會參政李蹊行大司農於許,果以詩送之,蹊大稱賞,歸言於朝,用為偃師令。到官,以廉幹稱,改蒲城,改陝,皆劇縣也。果有應變材,能治煩劇,諸縣以果治效為最。

金が滅亡した歳の己丑年(1229年)、楊奐が河南の課税を徴収する際、楊果を起用して経歴とした。間もなく、史天沢が河南を経略すると、楊果は参議となった。当時は戦乱の余波で法度が草創期にあり、楊果は状況に応じて補佐し画策したので、民はこれによって安んじた。世祖中統元年(1260年)、十道の宣撫使を設け、楊果を北京宣撫使に任命した。翌年、参知政事に任ぜられた。定例により罷免された後も、なお詔により左丞姚枢らと共に日に省に赴き議事することを命ぜられた。至元六年(1269年)、外任として懐孟路総管となり、大いに学廟を修築した。以前に中書の執政官を務めていたため、移文を部に申し送る際、特に署名しなかった。老齢を理由に致仕し、家で卒去、七十五歳、諡は文献。

原文金亡,歲己丑,楊奐徵河南課稅,起果為經歷。未幾,史天澤經略河南,果為參議。時兵革之餘,法度草創,果隨宜贊畫,民賴以安。世祖中統元年,設十道宣撫使,命果為北京宣撫使。明年,拜參知政事。及例罷,猶詔與左丞姚樞等日赴省議事。至元六年,出為懷孟路總管,大修學廟。以前嘗為中書執政官,移文申部,特不署名。以老致政,卒于家,年七十五,諡文獻。

楊果は性質聡敏で、風姿が美しく、文章に巧みで、特に楽府に長じていた。外見は沈黙しているようだが、内には智謀を抱き、諧謔を善くし、聞く者を笑い転がせた。微賤の時、河南に避難し、流浪の旅の中で女を娶ったが、後に科挙に合格し、顕官を歴任しても、結局ともに老いるまで、その初心を変えず、人々はこれを称賛した。『西菴集』があり、世に行われた。

原文果性聰敏,美風姿,工文章,尤長於樂府,外若沉默,內懷智用,善諧謔,聞者絕倒。微時,避亂河南,娶覉旅中女,後登科,歷顯仕,竟與偕老,不易其初心,人以是稱之。有西菴集,行於世。

王構

王構、字は肯堂、東平の人。父の王公淵は、金末の乱に遭い、その三人の兄は家族を連れて南へ逃げたが、公淵はただひとり死を誓って墳墓を守り、草むらに伏せていた。諸兄が呼んでも出ようとせず、号泣して去ったが、ついにその家を存続させた。一方、三人の兄は行方知れずとなった。

原文王構字肯堂,東平人。父公淵,遭金末之亂,其兄三人挈家南奔,公淵獨誓死守墳墓,伏草莽中,諸兄呼之不出,號慟而去,卒得存其家,而三兄不知所終。

王構は幼少より聡明で悟りが早く、風采は重厚であった。学問は広く博く、文章は典雅で、弱冠にして詞賦により選抜され、東平行臺の掌書記となった。参政の賈居貞は一度会っただけで彼を重んじ、自分の子に学ばせた。

原文構少穎悟,風度凝厚。學問該博,文章典雅,弱冠以詞賦中選,為東平行臺掌書記。參政賈居貞一見器重,俾其子受學焉。

至元十一年、翰林国史院編修官に任ぜられた。時に丞相伯顏を遣わして宋を伐たんとし、先ず詔を下してこれを責め、王構に草稿を作らせて進上させたところ、世祖は大いに喜んだ。宋が滅びると、王構は李槃と共に旨を受け、杭州に至り三館の図籍・太常天章の礼器儀仗を取って京師に帰した。凡そ推薦抜擢した者は、皆当時の名士であった。十三年秋、帰還し入朝し、応奉翰林文字に遷り、修撰に昇進した。丞相の和禮霍孫が翰林学士承旨より司徒に任ぜられ、王構を司直に辟召した。時に丞相阿合馬が盗賊に撃たれて死に、世祖もその奸を悟り、再び和禮霍孫を丞相とし、諸政務を改めたが、王構の謀画が多かった。吏部・礼部郎中を歴任し、河南で囚人を審理し、多く冤罪を晴らした。太常少卿に改め、親享太廟の儀注を定めた。淮東提刑按察副使に抜擢され、便殿で召見され、親しく制書を授け、上尊酒を賜わって遣わされた。まもなく治書侍御史として召還された。時に桑哥が丞相となり、平章の卜忽木と共に燕南の銭穀を検査し、その滞納を督させることとなった。十一月晦に出発し、年末に復命する期日であった。翌年春帰還し、盧溝驛に宿泊したが、期日を過ぎたことを慮り、禍い測るべからざるものがあると、卜忽木に言った。「もし罪があるならば、構が身をもってこれを引き受け、公に累を及ぼさない。」ちょうど桑哥が死んだので、免れた。旨があり、江西の銓選に出向した。翰林に入り、侍講学士となった。世祖が崩ずると、王構が諡冊を撰した。

原文至元十一年,授翰林國史院編修官。時遣丞相伯顏伐宋,先下詔讓之,命構屬草以進,世祖大悅。宋亡,構與李槃同被旨,至杭取三館圖籍、太常天章禮器儀仗,歸于京師。凡所薦拔,皆時之名士。十三年秋,還,入覲,遷應奉翰林文字,陞修撰。丞相和禮霍孫由翰林學士承旨拜司徒,辟構為司直。時丞相阿合馬為盜擊死,世祖亦悟其姦,復相和禮霍孫,更張庶務,構之謀畫居多。歷吏部、禮部郎中,審囚河南,多所平反。改太常少卿,定親享少廟儀注。擢淮東提刑按察副使,召見便殿,親授制書,賜上尊酒以遣之。尋以治書侍御史召。屬桑哥為相,俾與平章卜忽木檢覈燕南錢穀,而督其逋負。以十一月晦行,期歲終復命。明年春還,宿盧溝驛,度逾期,禍且不測,謂卜忽木曰:「設有罪,構當以身任之,不以累公也。」會桑哥死,乃免。有旨出銓選江西。入翰林,為侍講學士。世祖崩,構撰諡冊。

成宗が立つと、侍講より学士となり、実録を纂修し、書が成ると、中書省事を参議した。時に南方の士人で、便利を陳べて田賦の捜括を請う者がおり、執政はこれに従おうとした。王構は平章の何榮祖と共にその不可を言い、極力弁論して、行われずに済んだ。病により東平に帰った。久しくして、済南路総管として起用された。諸王の従者が勢いを頼んで州県を行き、民は敢えて逆らう者なく、王構は朝廷に奏聞し、彼らを北境に移した。学田が牧地に侵されているものを整理して返還させた。官が民に粟を貸し、凶年であるのに償いを責めてやまないので、王構は来年に納入するよう請うた。武宗が即位すると、国史を纂修するため、急ぎ召し出されて朝廷に赴き、翰林学士承旨に拝され、まもなく病で卒した。享年六十三。

原文成宗立,由侍講為學士,纂修實錄,書成,參議中書省事。時南士有陳利便請搜括田賦者,執政欲從之。構與平章何榮祖共言其不可,辨之甚力,得不行。以疾歸東平。久之,起為濟南路總管。諸王從者怙勢行州縣,民莫敢忤視,構聞諸朝,徙之北境。學田為牧地所侵者,理而歸之。官貸民粟,歲饑而責償不已,構請輸以明年。武宗即位,以纂修國史,趣召赴闕,拜翰林學士承旨,未幾,以疾卒,年六十三。

王構は三朝に仕え、台閣の典故に習熟し、凡そ祖宗の諡冊冊文は皆彼が撰定し、朝廷に大議がある毎に必ず諮問された。寒士を推薦引立てることを喜び、前後して省台・翰苑が辟召した者は、数十人に及び、後に清要の職に就き、皆当時に名を成した。

原文構歷事三朝,練習臺閣典故,凡祖宗諡冊冊文皆所撰定,朝廷每有大議,必咨訪焉。喜薦引寒士,前後省臺、翰苑所辟,無慮數十人,後居清要,皆有名于時。

子の士熙は、中書参政に至り、南台御史中丞の官で卒した。士点は、淮西廉訪司僉事となり、皆文学をもって家を継ぐことができた。

原文子士熙,仕至中書參政,卒官南臺御史中丞;士點,淮西廉訪司僉事,皆能以文學世其家。

魏初

魏初、字は大初、弘州順聖の人である。従祖父の璠は、金の貞祐三年の進士で、尚書省令史に補せられた。金の宣宗が直言を求めた時、璠は真っ先に将相が人に非ず、及び徳陵の事を立てるは当たらずと論じ、疏を奏上したが、報いられなかった。後に再び上言した。「国勢は危険に迫り、四方に勤王の挙げあるを聞かず、隴右は地険にして食足り、その帥の完顏胡斜虎も委任できましょう。宜しく人を遣わして大計を論ぜしむべし。」大臣が喜ばず止んだ。数ヶ月を経て、胡斜虎の兵が来援したが、既に及ばず、金主はこれを悔いた。

原文魏初字大初,弘州順聖人。從祖璠,金貞祐三年進士,補尚書省令史。金宣宗求直言,璠首論將相非人,及不當立德陵事,疏奏,不報。後復上言:「國勢危逼,四方未聞有勤王之舉,隴右地險食足,其帥完顏胡斜虎亦可委仗,宜遣人往論大計。」大臣不悅而止。閱數月,胡斜虎兵來援,已無及,金主悔焉。

金の将軍武仙の軍が五垜山に駐屯して進まない。武仙に使わす者を求め、或る者が璠を推薦したので、即座に朝列大夫・翰林修撰を授け、騎兵四人を与えて従わせた。到着すると武仙は既に逃げ去り、部曲も多く散亡していたが、璠は慰撫招集し、数千人を得て、その中で材勇ある者を帥長に推し、なお符印を制してこれに与え、矯制を以て自ら劾した。金主はその処置が適宜であるとした。続いて武仙が余衆を率いて留山に保つと聞き、璠は直ちに武仙の所に趣き宣諭した。或る者が武仙に讒言し、璠がその軍を奪わんとしていると言うと、武仙は怒り、兵士に命じて刃を抜き璠を刺さんばかりにし、且つ一吏を引いて璠と弁明させた。璠は動じず、大声で言った。「王人たる者、微賤ではあれども諸侯の上に序せられる。将軍たとえ礼を加えずとも、いかんぞ讒邪の言を聴き、小吏を以て対せしめんとするや。且つ将軍は山谷を跳梁するも、左右に異心なきは、天子の大臣たるが故なり。もし天子を尊ぶを知らざれば、安んぞ麾下に将軍の如き者なきを知らん。然らずんば、我れ死すとも命を辱しめじ。」武仙は彼を屈服させられなかった。璠はさらに激して進兵を促したが応ぜず、帰還する頃には、金主は既に帰徳に遷り、さらに蔡州に遷っていた。金が滅び、璠は帰す所なく、乃ち北に郷里に還った。

原文金將武仙軍次五垜山不進。求使仙者,或薦璠,即授朝列大夫、翰林修撰,給騎四人以從。至則仙已遁去,部曲亦多散亡,璠撫循招集,得數千人,推其中材勇者為帥長,仍制符印予之,以矯制自劾,金主謂其處置得宜。繼聞仙率餘眾保留山,璠直趣仙所宣諭之。或讒於仙,謂璠欲奪其軍,仙怒,命士拔刃若欲鏦璠然,且引一吏與璠辨。璠不為動,大言曰:「王人雖微,序于諸侯之上,將軍縱不加禮,奈何聽讒邪之言,欲以小吏置對耶!且將軍跳山谷,而左右無異心者,以天子大臣故也,苟不知尊天子,安知麾下無如將軍者。不然,吾有死,無辱命。」仙不能屈。璠復激使進兵,不應,比還,金主已遷歸德,復遷蔡州。金亡,璠無所歸,乃北還鄉里。

庚戌の歳、世祖が潜邸に居られた時、璠の名を聞き、和林に徴し至らせ、当世の務めについて訪ねた。璠は便宜三十余事を条陳し、名士六十余人を挙げて答えた。世祖は嘉納し、後多く採用した。病により和林で卒した。享年七十、諡を靖肅と賜わった。

原文庚戌歲,世祖居潛邸,聞璠名,徵至和林,訪以當世之務。璠條陳便宜三十餘事,舉名士六十餘人以對,世祖嘉納,後多采用焉。以疾卒于和林,年七十,賜諡靖肅。

魏初は、その従孫である。璠に子がなく、初を後嗣とした。初は読書を好み、特に春秋に長じ、文章は簡にして法あり、冠に及んで名声があった。中統元年、始めて中書省が立てられると、掾史に辟召され、兼ねて掌書記を執った。まもなく祖母が老いたことを理由に辞して帰り、隠居して教授した。時に詔があり左丞許衡・学士竇默及び京師の諸儒に、各々経史に載る前代帝王の嘉言善政を陳べさせ、進読の士を選ぶこととなり、有司が初を詔に応じさせた。帝は璠の名を殊の外重んじ、古の直臣に比し、初が璠の子であると知って歎賞すること久しく、即座に国史院編修官を授け、まもなく監察御史に拝した。まず言う。「法は天下を保持する具であり、御史台は法を守る司である。方今法未だ定まらず、百司持循する所なし。宜しく参酌考定し、天下に頒行すべし。」

原文初,其從孫也,璠無子,以初為後。初好讀書,尤長於春秋,為文簡而有法,比冠,有聲。中統元年,始立中書省,辟為掾史,兼掌書記。未幾,以祖母老辭歸,隱居教授。會詔左丞許衡、學士竇默及京師諸儒,各陳經史所載前代帝王嘉言善政,選進讀之士,有司以初應詔。帝雅重璠名,方之古直,詢知初為璠子,歎奬久之,即授國史院編修官,尋拜監察御史。首言:「法者,持天下之具,御史臺則守法之司也。方今法有未定,百司無所持循,宜參酌考定,頒行天下。」

帝が上都の行宮で群臣を宴した時、大杯を飲み干せない者は冠服を免じた。初が上疏して言った。「臣聞く、君は猶天の如く、臣は猶地の如し。尊卑の礼は粛にせざるべからず。方今内には太常・史官・起居注があり、以て典礼を議し言動を記し、外には高麗・安南の使者が入貢し、以て中国の儀礼を観る。昨、大臣に賜宴し、威儀謹まずと聞く。朝廷を尊び上下を正す所以に非ず。」疏が入ると、帝は欣んでこれを納れ、なお侍臣に諭して今後再びこの挙をなすことなからしめた。時に襄樊未だ下らず、民を徴発して兵とせんとし、或る者は大興より始めんことを請うた。初が言う。「京師は天下の根本、要は殷盛にあり、邦を建つるの初め、豈に騒動すべきや。」遂に大興の兵を徴発することを免じた。

原文帝宴羣臣於上都行宮,有不能釂大巵者,免其冠服。初上疏曰:「臣聞君猶天也,臣猶地也,尊卑之禮,不可不肅。方今內有太常、有史官、有起居注,以議典禮、記言動;外有高麗、安南使者入貢,以觀中國之儀。昨聞錫宴大臣,威儀弗謹,非所以尊朝廷、正上下也。」疏入,帝欣納之,仍諭侍臣自今毋復為此舉。時襄樊未下,將括民為兵,或請自大興始。初言:「京師天下之本,要在殷盛,建邦之初詎宜騷動!」遂免括大興兵。

初はまた言う。「旧制に、常参官・諸州刺史は、上任三日にして一人を挙げて自ら代わらしむ。況んや風紀の職は常員と異なる。請う、今より監察御史・按察司官は、在任一歳にして各一人を挙げて自ら代わらしめ、挙ぐる所当たらずば罰ありとせん。風節を砥礪するのみならず、また国に人を得ることを為すべし。」遂に勧農副使劉宣を挙げて自ら代わらしめた。陝西四川按察司事を僉として出向し、陝西河東按察副使を歴任し、治書侍御史として入朝した。また侍御史として揚州にて行御史台事を行い、江西按察使に抜擢され、まもなく侍御史として召し出された。行台が建康に移ると、中丞として出向し、卒した。享年六十一。子の必復は、集賢侍講学士となった。

原文初又言:「舊制,常參官諸州刺史,上任三日,舉一人自代。況風紀之職與常員異,請自今監察御史、按察司官,在任一歲,各舉一人自代,所舉不當,有罰,不惟砥礪風節,亦可為國得人。」遂舉勸農副使劉宣自代。出僉陝西四川按察司事,歷陝西河東按察副使,入為治書侍御史。又以侍御史行御史臺事于揚州,擢江西按察使,尋徵拜侍御史。行臺移建康,出為中丞,卒,年六十一。子必復,集賢侍講學士。

焦養直

焦養直、字は無咎、東昌堂邑の人。早くより才器を以て称せらる。至元十八年、世祖、符寶郎を改めて典瑞監と為し、一の儒者を得て之に居らしめんとす。近臣に養直を以て薦むる者有り、帝即ち命して召見し、敷対して旨に称し、真定路儒學教授より超えて典瑞少監に拝す。二十四年、乃顔の征に従う。二十八年、宅一区を賜う。帷幄に入り侍し、古先帝王の政治を陳説す、帝之を聴き、毎に倦を忘る。嘗て漢高帝の側微より起るに及び、旧聞を誦す、養直従容に論弁し、帝即ち開納し、是より高帝を薄しめず。

原文焦養直字無咎,東昌堂邑人。夙以才器稱。至元十八年,世祖改符寶郎為典瑞監,思得一儒者居之。近臣有以養直薦者,帝即命召見,敷對稱旨,以真定路儒學教授超拜典瑞少監。二十四年,從征乃顏。二十八年,賜宅一區。入侍帷幄,陳說古先帝王政治,帝聽之,每忘倦。嘗語及漢高帝起自側微,誦所舊聞,養直從容論辨,帝即開納,由是不薄高帝。

大徳元年、成宗柳林に幸し、養直に命じて資治通鑑を進講せしめ、規諫の言を陳ぶるに因り、詔して酒及び鈔一万七千五百貫を賜う。二年、金帯・象笏を賜う。三年、集賢侍講学士に遷り、通犀帯を賜う。七年、詔して宮中に於て太子に傅せしめ、啓沃誠に至り、帝之を聞き、大いに悦ぶ。八年、南海を代祀す。九年、集賢学士に進む。十一年、太子諭徳に陞る。至大元年、集賢大学士を授け、大政を謀議すること悉く之に与る。老を告げて帰り卒す、資徳大夫・河南等処行中書省右丞を贈られ、諡して文靖と曰う。

原文大德元年,成宗幸柳林,命養直進講資治通鑑,因陳規諫之言,詔賜酒及鈔萬七千五百貫。二年,賜金帶、象笏。三年,遷集賢侍講學士,賜通犀帶。七年,詔傅太子於宮中,啟沃誠至,帝聞之,大悅。八年,代祀南海。九年,進集賢學士。十一年,陞太子諭德。至大元年,授集賢大學士,謀議大政悉與焉。告老歸而卒,贈資德大夫、河南等處行中書省右丞,諡文靖。

子の徳方、蔭を以て興国路総管府判官と為る。

原文子德方,以廕為興國路總管府判官。

孟攀鱗

孟攀鱗、字は駕之、雲内の人。曾祖の彦甫、明法を以て西北路招討司知事と為る。疑獄有りて当に死すべき者百余人、彦甫執いて従わず、後三日実を得、皆之を釈す。祖の鶴・父の沢民、皆金の進士。

原文孟攀鱗字駕之,雲內人。曾祖彥甫,以明法為西北路招討司知事。有疑獄當死者百餘人,彥甫執不從,後三日得實,皆釋之。祖鶴、父澤民,皆金進士。

攀鱗幼にして日に万言を誦し、文を綴ること能く、時に奇童と号す。金正大七年、進士第に擢でられ、朝散大夫・招討使に至る。歳壬辰、汴京下り、北帰して平陽に居る。丙午、陝西帥府詳議官と為り、遂に長安に家す。世祖中統三年、翰林待制・同修国史を授かる。

原文攀鱗幼日誦萬言,能綴文,時號奇童。金正大七年,擢進士第,仕至朝散大夫、招討使。歲壬辰,汴京下,北歸居平陽。丙午,為陝西帥府詳議官,遂家長安。世祖中統三年,授翰林待制、同修國史。

至元初、召見せられ、七十事を条陳す、大抵上を勧めて天地を郊祀し、太廟を祠り、礼楽を制し、学校を建て、科挙を行い、守令を択びて以て民を字し、米粟を儲えて以て軍を贍し、名無きの賦を省き、急ならざるの役を罷め、百司庶府を六部に統し、紀綱制度悉く中書より由らしむ、是れ長久の計なりと。世祖悉く之を嘉納し、諮問諄諄たり。後に王百一・許仲平の優劣を論ず、対えて曰く「百一文華の士、翰苑に置くべし。仲平経を明らかにし道を伝う、後学の矜式と為すべし」と。帝深く之を然りとす。又嘗て召して宗廟・郊祀の儀制を問う、攀鱗悉く経典に拠りて以て対う。時に帝将に親祀せんとし、詔命して攀鱗に太常と会して礼儀を議定せしむ、攀鱗夜に郊祀及び宗廟の図を画きて以て進む、帝皆親ら覧む。復た病を以て西帰を請う、帝に令して就いて陝西五路四川行中書省事を議せしむ。四年卒す、年六十四。延祐三年、翰林学士承旨・資徳大夫・上護軍・平原郡公を贈られ、諡して文定と曰う。

原文至元初,召見,條陳七十事,大抵勸上以郊祀天地,祠太廟,制禮樂,建學校,行科舉,擇守令以字民,儲米粟以贍軍,省無名之賦,罷不急之役,百司庶府統於六部,紀綱制度悉由中書,是為長久之計。世祖悉嘉納之,咨問諄諄。後論王百一、許仲平優劣,對曰:「百一文華之士,可置翰苑;仲平明經傳道,可為後學矜式。」帝深然之。又嘗召問宗廟、郊祀儀制,攀麟悉據經典以對。時帝將親祀,詔命攀鱗會太常議定禮儀,攀(龍)〔鱗〕夜畫郊祀及宗廟圖以進,帝皆親覽焉。復以病請西歸,帝令就議陝西五路四川行中書省事。四年卒,年六十四。延祐三年,贈翰林學士承旨、資德大夫、上護軍、平原郡公,諡文定。

尚野

尚野、字は文蔚、其の先は保定の人、満城に徙る。野幼にして穎異、祖母の劉、厚く資して之を就学せしむ。至元十八年、処士として徴されて国史院編修官と為る。二十年、兼ねて興文署丞、出でて汝州判官と為り、廉介として為す有り、憲司屡く之を薦む。二十八年、南陽県尹に遷る。初めて官に至り、獄訟充斥す、野裁決して留滞無く、旬に渉り、遂に事無し。懐孟河渠副使に改む、会に使を遣わして民の疾苦を問わしむ、野建言して「水利成法有り、宜しく有司に隷すべく、復た河渠官を置くべからず」と。事朝に聞こえ、河渠官遂に罷まる。

原文尚野字文蔚,其先保定人,徙滿城。野幼穎異,祖母劉,厚資之使就學。至元十八年,以處士徵為國史院編修官。二十年,兼興文署丞,出為汝州判官,廉介有為,憲司屢薦之。二十八年,遷南陽縣尹。初至官,獄訟充斥,野裁決無留滯,涉旬,遂無事。改懷孟河渠副使,會遣使問民疾苦,野建言:「水利有成法,宜隸有司,不宜復置河渠官。」事聞于朝,河渠官遂罷。

大徳六年、国子助教に遷る。諸生宿衛に入る者は、歳に従いて上都に幸し、丞相哈剌哈孫始めて野に命じて上都に於て学を分かち、以て諸生を教えしめ、仍く印を鋳て之を与う、上都分学は野より始まる。俄に国子博士に陞り、人を誨うに先ず経学にして後に文芸、毎に諸生に謂いて曰く「学未だ得る有らず、徒らに華藻を事とすることは、銭を持ちて水を買うが若く、取る所限り有り、能く自ら井を鑿りて泉に及び之を汲まば、用うるに勝えざるなり」と。時に学舍未だ備わらず、野密かに御史台に請い、帑蔵の積む所を出だし、大いに学舍を建てて以て教育を広めんことを乞う。仁宗東宮に在り、野は太子文学と為り、裨益する所多し、時に賓客姚燧・諭徳蕭𣂏に従いて入見し、帝為に礼を加う。

原文大德六年,遷國子助教。諸生入宿衞者,歲從幸上都,丞相哈剌哈孫始命野分學於上都,以教諸生,仍鑄印給之,上都分學自野始。俄陞國子博士,誨人先經學而後文藝,每謂諸生曰:「學未有得,徒事華藻,若持錢買水,所取有限,能自鑿井及泉而汲之,不可勝用矣。」時學舍未備,野密請御史臺,乞出帑藏所積,大建學舍以廣教育。仁宗在東宮,野為太子文學,多所裨益,時從賓客姚燧、諭德蕭𣂏入見,帝為加禮。

至大元年、国子司業を除く。近臣奏して国学西序を分かちて大都路学と為さんとす、帝已に其の奏を可とす、野謂う国学・府学混居するは、礼制に合わずと、事遂に寝る。四年、翰林直学士・知制誥同修国史を拝す。詔して野を吏部に赴かしめ、蔭補官を試用せしむ、野多く優仮す、或いは其の太だ寛なるを病む、野曰く「今初めて此法を設く、将来の者の詩書を習い、礼義を知らんことを冀うのみ、必ずしも目前に効を責むるに非ず」と。衆乃ち服す。

原文至大元年,除國子司業,近臣奏分國學西序為大都路學,帝已可其奏,野謂國學、府學混居,不合禮制,事遂寢。四年,拜翰林直學士、知制誥同修國史。詔野赴吏部,試用廕補官,野多所優假,或病其太寬,野曰:「今初設此法,冀將來者習詩書、知禮義耳,非必責效目前也。」眾乃服。

皇慶元年、翰林侍講学士に陞る。延祐元年、集賢侍講学士に改め、兼ねて国子祭酒。二年夏、疾を移して満城に帰り、四方来学する者益々衆し。六年、家に卒す、年七十六。通奉大夫・太常礼儀院使・護軍を贈られ、上党郡公を追封し、諡して文懿と曰う。

原文皇慶元年,陞翰林侍講學士。延祐元年,改集賢侍講學士,兼國子祭酒。二年夏,移疾歸滿城,四方來學者益眾。六年,卒于家,年七十六。贈通奉大夫、太常禮儀院使、護軍,追封上黨郡公,諡文懿。

野性開敏、志趣正大、継母に事うること孝を以て聞こえ、文辞典雅、一に理に本づく。

原文野性開敏,志趣正大,事繼母以孝聞,文辭典雅,一本於理。

子の師易、蘄州路総管府判官。師簡、中奉大夫・奎章閣侍書学士・同知経筵事。

原文子師易,蘄州路總管府判官;師簡,中奉大夫、奎章閣侍書學士、同知經筵事。

李之紹

李之紹は字を伯宗といい、東平平陰の人である。幼い頃より聡明で悟りが早く、東平の李謙に師事して学んだ。家は貧しく、郷里で教授し、学ぶ者が皆集まった。至元三十一年、世祖実録を編纂修訂するにあたり、名儒を徴用して史職に充てるため、馬紹・李謙の推薦により、将仕佐郎・翰林国史院編修官に任じられた。直学士の姚燧がその才能を試そうと、翰林として応酬すべき文章を十数件まとめて彼に託した。之紹は筆を執ってたちまち書き上げ、草稿をまとめて進呈した。燧は驚喜して言った、「まさに名に虚しき士なしというべきである」。

原文李之紹字伯宗,東平平陰人。自幼穎悟聰敏,從東平李謙學。家貧,教授鄉里,學者咸集。至元三十一年,纂修世祖實錄,徵名儒充史職,以馬紹、李謙薦,授將仕佐郎、翰林國史院編修官。直學士姚燧欲試其才,凡翰林應酬之文,積十餘事,併以付之。之紹援筆立成,併以藁進。燧驚喜曰:「可謂名下無虛士也。」

大徳二年、祖母の病気を聞き、辞して帰郷した。再び編修官に任じられ、将仕郎に昇進した。六年、応奉翰林文字に昇進した。七年、太常博士に転じた。九年、母の喪に服し、たびたび喪中起復を命じられたが、ついにその志を奪うことはできなかった。至大三年、引き続き太常博士に任じられ、階は承事郎となった。四年、承直郎・翰林待制に昇進した。皇慶元年、国子司業に転じた。延祐三年、奉政大夫・国子祭酒に昇進した。朝夕努め励み、ただ人材を教育することに心を砕いた。四年十二月、朝列大夫・同僉太常礼儀院事に昇進した。六年、翰林直学士に改められ、また病気のため帰郷した。七年、翰林直学士として召された。至治二年、翰林侍講学士・知制誥同修国史に昇進した。三年、老齢を理由に辞して帰郷した。泰定三年八月に卒去、享年七十三。

原文大德二年,聞祖母疾,辭歸。復除編修官,陞將仕郎。六年,陞應奉翰林文字。七年,遷太常博士。九年,丁母憂,累起復,終不能奪。至大三年,仍授太常博士,階承事郎。四年,陞承直郎、翰林待制。皇慶元年,遷國子司業。延祐三年,陞奉政大夫、國子祭酒。夙夜孳孳,惟以教育人材為心。四年十二月,陞朝列大夫、同僉太常禮儀院事。六年,改翰林直學士,復以疾還。七年,召為翰林直學士。至治二年,陞翰林侍講學士、知制誥同修國史。三年,告老而歸。泰定三年八月卒,年七十三。

子の勗は父の官職の恩蔭を受け、諸暨州事の同知となった。

原文子勗,蔭父職,同知諸暨州事。

之紹は平素より自らの性格が事に臨んで悠揚迫らず決断に乏しいと感じていたため、果斎と号して自らを励ました。文集が家に蔵されていた。

原文之詔平日自以其性遇事優游少斷,故號果齋以自勵。有文集藏于家。