楊恭懿
楊恭懿、字は元甫、奉元の人である。学問に努め記憶力が強く、日に数千言を読み、親に従って乱を逃れた時も、学業を廃したことはなかった。十七歳の時、西に帰り、家は貧しく、労役に服して親を養った。暇な時は学問に就き、書物で読まないものはなく、特に易・礼・春秋に深く通じた。後に朱熹の集註四書を得て、嘆じて言うには、「人倫日用の常、天道性命の妙、皆この書に集まっている」と。父が没すると、水漿を口にすること五日、喪に居て礼を尽くした。宣撫司・行省が掌書記として召し出そうとしたが、就任しなかった。
十六年、詔して安西王相に敦促させて闕に赴かせた。入見し、詔して太史院にて暦を改めさせた。十七年二月、奏を進めて言う、「臣等は漢以来の暦書四十余家を遍く考へ、精思推算するに、旧儀は用い難く、新儀は未だ備わらず、故に日行の盈縮、月行の遅疾、五行周天、その詳かさ皆未だ精察せず。今権りに新儀木表を以て、旧儀の測るところと相較べ、今歳の冬至の晷景及び日躔の所在、列舎分度の差、大都の北極の高下、昼夜刻の長短を得、古制を参酌し、新法を創立し、推算して辛巳暦を成す。或いは未だ精ならざるも、然れども前に暦を改めたる者、暦元に附会し、日法を更に立て、全く故習を蹈むに比すれば、顧みてまた愧じること無し。然れども必ず毎歳測験し修改し、三十年を積めば、ほぼその法を尽くすべし。三代の日官の如く、世々その職を専らにし、測験良久しく、歳を改むること無きを得せしむべし」と。また合朔の議に曰く、
日行が四時を歴て一周するのを一歳と謂い、月が一周を踰えて復た日と合するのを一月と謂う。一月の始まりを言うに、日月相合する故に合朔と謂う。秦より暦紀を廃し、漢の太初は平朔法のみを用い、大小相間し、或いは二大ある者あり、故に日食多くは晦日或いは二日に在り、測験時刻も亦鮮かに中る。宋の何承天は四十余年測験し、元嘉暦を進め、始めて月行の遅速を以て小余を定めて朔望を正し、食を必ず朔に在らしめ、名づけて定朔法と為す。三大二小有り、時に旧法と異なるを以て、これを罷む。梁の虞𠠎は大同暦を造り、隋の劉焯は皇極暦を造り、皆定朔を用いるも、時に阻まれる。唐の傅仁均は戊寅暦を造り、定朔始めて行わる。貞観十九年、四月頻りに大、人皆これを異とし、竟に平朔に従い改む。李淳風は麟徳暦を造り、平朔を用いざるも、四大に遇えば人言を避け、平朔を以て間い、又当世に希合し、進朔法を為し、元日の食無からしむ。一行に至り大衍暦を造り、「天事誠に密なり、四大三小何ぞ傷けん」と謂う。誠に確論なれども、然れども亦常に循りて改めず。
臣等新暦を更に造り、一に前賢の定論に依り、推算皆実に従い改む。今十九年の暦、八月より後、四月併せて大なるは、実に日月合朔の数なり。
詳しくは郭守敬伝に見ゆ。この日、方や列跪し、未だ奏を読まざるに、帝は許衡及び恭懿に起つを命じ、曰く、「卿ら二老、自ら労する毋かれ」と。集賢学士を授け、太史院事を兼ねしむ。
王恂
王恂、字は敬甫、中山唐県の人。父の良は、金末に中山府掾となり、時に民は乱後に遭い、多くは詿誤して獄に繋がれたので、良は前後数百人を生かした。已にして吏業を棄て去り、伊洛の学に潜心し、及び天文律暦に至るまで、精究せざるはなく、年九十二で卒した。
恂は性質穎悟、生後三歳、家人が書帙を示すと、輙ち風・丁の二字を識る。母の劉氏、千字文を授けると、再び目を通すだけで、即成誦した。六歳で学に就き、十三で九数を学び、輙ちその極みに至る。歳己酉、太保劉秉忠が北上し、途中中山を経て、これを見て奇とし、南に還る時、秉忠に従い磁州の紫金山で学んだ。
恂は早くより算術を以て名有り、裕宗嘗てこれに問う。恂曰く、「算数は六芸の一つ、国家を定め人民を安んずるは乃ち大事なり」と。毎に左右に侍する時は、必ず三綱五常、為学の道、及び歴代治忽興亡の所以然を発明した。又遼・金の事で近く耳目に接するものを、その善悪を区別し、その得失を論著して上った。裕宗が心の守るところを問うと、恂は曰く、「許衡嘗て言う、人心は印板の如し、惟だ板本差わざれば、則ち千万紙を摹すと雖も皆差わず、本既に差えば、則ちこれを紙に摹すに、差わざるは無し、と」と。裕宗は深くこれを然りとす。詔して勳戚の子弟を択び、恂に学ばしむると、師道卓然たり。及んで恂が裕宗に従い軍を撫で称海に至るや、乃ち諸生を許衡に属せしめ、衡が老を告げて去るに及び、復た命じて恂に国子祭酒を領せしむ。国学の制、実にここに始まる。
帝は国朝が金の大明暦を承けて用いてより、歳月が久しく次第に疎漏となったことを以て、これを厘正せんと欲し、王恂が算術に精しいことを知り、遂にこれを命じた。恂は許衡が暦の理を明らかにする能あるを推薦し、詔して駅伝を以て召して闕に赴かせ、改暦の事を領するを命じ、官属は悉く恂の辟置に聴かしめた。恂は衡及び楊恭懿、郭守敬等とともに、歴代の暦書四十余家を遍く考証し、昼夜測験して新法を創立し、古制を参酌し、推算極めて精密を極め、詳しくは守敬伝にある。十六年、嘉議大夫・太史令を授けられた。十七年、暦が完成し、授時暫と名を賜わり、その年の冬、天下に頒行された。
子の寛と賓は、共に許衡に従って遊学し、星暦の伝授を家学として得た。裕宗は嘗て召見し、彼らに語って言われた、「汝らの父は書生より起り、貧しくして資蓄無し。今、汝らに鈔五千貫を賜う。使い尽くしたならば、また聞かせよ」と。恩恤の厚きこと此の如しであった。寛は保章正より、兵部郎中を歴任し、蠡州の知事となった。賓は保章副より、累進して秘書監に至った。
郭守敬
郭守敬、字は若思、順徳路邢台県の人。生まれながらにして異なる操行を持ち、戯れ遊ぶことをしなかった。大父の栄は五経に通じ、算数・水利に精しかった。時に劉秉忠・張文謙・張易・王恂が、州西の紫金山で共に学んでおり、栄は守敬をして秉忠に従って学ばせた。
十七年、新暦が完成を告げ、守敬は諸臣と共に上奏して言った。
是よりまた百七十四年、聖朝専ら臣らに命じて新暦を改治せしめ、臣らは創造の簡儀・高表を用い、其の測実の数に憑り、考正する所凡そ七事あり:
一は冬至。丙子年立冬後より、毎日測到の晷景に依り、逐日取り対え、冬至前後日差同じきを準とす。丁丑年冬至は戊戌日夜半後八刻半に在るを得、また丁丑夏至は庚子日夜半後七十刻に在るを定め、また戊寅冬至は癸卯日夜半後三十三刻に在るを定め、己卯冬至は戊申日夜半後五十七刻半に在るを定め、庚辰冬至は癸丑日夜半後八十一刻半に在るを定む。各々大明暦より十八刻を減じ、遠近相符い、前後応に準ず。
二は歳餘。大明暦以来、凡そ景を測り気を験し、冬至時刻の真数を得る者六あり、用いて相い距ち、各々其の時に合用の歳餘を得。今四年を考験し、相符いて差ず、仍って宋大明壬寅年より今日に至るまで八百十年、毎歳合して得る三百六十五日二十四刻二十五分、其の二十五分は今暦歳餘合用の数なり。
四は月離。丁丑以来今日に至るまで、毎日測到の逐時太陰行度に憑りて推算し、黄道より転に入る極遅・疾及び平行の処を求め、前後凡そ十三転、計五十一事。内真ならざるを除く外、三十事あり、大明暦の転に入りて後天するを得。また交食を考験するに因り、大明暦に三十刻を加え、天道に合す。
五は入交。丁丑五月以来、毎日測到の太陰去極度数に憑り、黄道去極度に比擬し、月道黄道に交わるを得、共に八事を得。仍って日食の法度に依りて推求し、皆食分有り、入交の時刻を得、大明暦と差多くならず。
六は二十八宿距度。漢の太初暦以来、距度同じからず、互いに損益有り。大明暦は則ち度下の余分に於いて、太半少を以て附し、皆私意牽就し、未だ嘗て其の数を実測せず。今新儀は皆周天度分を細刻し、毎度を三十六分と為し、距線をもって管窺に代え、宿度余分並びに実測に依り、私意を以て牽就せず。
七は日出入昼夜刻。大明暦の日出入昼夜刻は、皆汴京を以て準と為し、其の刻数は大都と同じからず。今更に本方の北極出地高下、黄道出入内外度を以て、術を立てて推求し、毎日の日出入昼夜刻を得、夏至極長は、日出寅正二刻、日入戌初二刻、昼六十二刻、夜三十八刻。冬至極短は、日出辰初二刻、日入申正二刻、昼三十八刻、夜六十二刻。永く定式と為す。
創める所の法凡そ五事:一は太陽盈縮。四正の定気を用いて升降限を立て、立招差に依りて毎日の行分初末極差積度を求め、古に比べて密なり。二は月行遅疾。古暦は皆二十八限を用う、今は万分日の八百二十分を一限と為し、凡そ三百三十六限に析き、垜疊招差に依りて転分進退を求め、其の遅疾度数逐時に同じからず、蓋し前代未だ有らざる所なり。三は黄赤道差。旧法は一百一度を以て相減相乘す、今は算術の句股弧矢方円斜直の容るる所に依りて、度率積差を求め、差率は天道と実に脗合す。四は黄赤道内外度。累年の実測に拠れば、内外極度二十三度九十分、円容方直矢接句股を法と為し、毎日の去極を求め、測る所と相符う。五は白道交周。旧法は黄道変じて白道を推し斜を以て斜を求む、今は立渾比量を用い、月と赤道正交、春秋二正の黄赤道正交を距ること一十四度六十六分を得、以て法と為さんと擬す。逐月毎交の二十八宿度分を推し、理に於いて尽くせり。
これ以前、通州から大都までは、陸路で官糧を運び、毎年数万石に及んでいたが、秋の長雨の時期には、驢馬などの家畜の死ぬものが数えきれず、この時になってようやく全て廃止された。三十年(1293年)、帝が上都から帰還する途中、積水潭を通り過ぎると、船首船尾が水面を覆っているのを見て大いに喜び、これを通惠河と名付け、守敬に鈔一万二千五百貫を賜い、なお従前の職務のまま通惠河漕運事を提調することを兼ねさせた。守敬はまた言上した、澄清閘のやや東から水を引き、北壩河と接続させ、かつ麗正門の西に閘門を設けて、舟船が城を巡って往来できるようにすることを。この計画は実現せずに中止された。三十一年(1294年)、昭文館大学士・知太史院事に任ぜられた。
楊桓
楊桓、字は武子、兗州の人。幼少より聡明で悟りが早く、『論語』を読んで宰予の昼寝の章に至ると、慨然として志を立て、これにより生涯、病気以外で昼寝をしたことがなかった。弱冠にして郡の諸生となり、当時の名士たちは皆これを称賛した。中統四年(1263年)、済州教授に補せられ、後に済寧路教授から太史院校書郎に召され、勅命を受けて儀表の銘文や暦日の序文を撰し、文辞が典雅であったため、楮幣一千五百緡を賜ったが、辞退して受け取らなかった。秘書監丞に転じた。
至元三十一年(1294年)、監察御史に任ぜられた。木華黎の曾孫碩德の家から玉璽を得た者がおり、楊桓はその文字を辨識して、「受天之命、既寿永昌」であると言い、頓首して言った、「これは歴代伝わってきた伝国の璽です。失われて久しいものでした。今、先帝が崩御され、皇太孫が即位なさるに当たり、璽が再び出現したのは、天が今日に瑞応を顕わされたのでしょう」。即座に文をしたためて璽の由来を述べ、徽仁裕聖皇后に奉った。
成宗が即位すると、楊桓は時務に関する二十一事を上疏した。一、天地を郊祀すること。二、太廟を親しく享け、四時の祭祀を備えること。三、まず首相を定めること。四、群臣を朝見し、時政の得失を訪問すること。五、儒臣に時を以て侍講させるよう詔すること。六、太学及び府州の儒学を設け、生徒を教養すること。七、誥命を行って善を褒め労を叙すること。八、章服を異にして貴賤を区別すること。九、礼儀を正して宮庭を粛清すること。十、官制を定めて内外の冗員を省くこと。十一、銭穀を講究して国用を豊かにすること。十二、音律に通暁する者を訪求して太常の雅楽に協わせること。十三、国子監を集賢院に隷属させるべきでなく、その名を正すこと。十四、六部・寺監及び府州司県の吏を試補すること。十五、内外官吏の俸禄を増すこと。十六、父子骨肉や奴婢が互いに告発することを禁ずること。十七、婚姻の聘財を定めること。十八、官銭を用いて十分の一の利を営むことを罷めること。十九、笞杖の刑を復活して罪の軽重を区別すること。二十、中統以前より仕官した郡県の吏は、優遇を加えるべきこと。二十一、治道は各々その本俗に従うべきこと。疏が奏上されると、帝はこれを嘉して採用した。
楊桓は人となり寛厚で、親に仕えることに篤く孝行し、群籍を博覧し、特に篆籀の学に精通していた。『六書統』『六書泝源』『書学正韻』を著し、おおむね許慎の説を推明しつつ、その意味を深めたもので、いずれも世に行われた。
楊果
楊果、字は正卿、祁州蒲陰の人。幼くして父母を失い、宋から亳に移り、さらに許昌に移り住み、章句を教えて徒弟をとることを業とし、流寓して困窮すること十余年であった。金の正大甲申年(1224年)、進士に及第した。折しも参政李蹊が許で大司農の職務を行っており、楊果が詩を送ると、李蹊は大いに称賞し、帰朝して朝廷に言上し、偃師県令に任用された。官に着くと、廉潔で有能と称され、蒲城県令に改められ、さらに陝県令に改められたが、いずれも政務の煩雑な県であった。楊果には応変の才があり、煩劇な政務を治めることができ、諸県の中で楊果の治績が最も優れていた。
楊果は性質聡敏で、風姿が美しく、文章に巧みで、特に楽府に長じていた。外見は沈黙しているようだが、内には智謀を抱き、諧謔を善くし、聞く者を笑い転がせた。微賤の時、河南に避難し、流浪の旅の中で女を娶ったが、後に科挙に合格し、顕官を歴任しても、結局ともに老いるまで、その初心を変えず、人々はこれを称賛した。『西菴集』があり、世に行われた。
王構
王構、字は肯堂、東平の人。父の王公淵は、金末の乱に遭い、その三人の兄は家族を連れて南へ逃げたが、公淵はただひとり死を誓って墳墓を守り、草むらに伏せていた。諸兄が呼んでも出ようとせず、号泣して去ったが、ついにその家を存続させた。一方、三人の兄は行方知れずとなった。
王構は幼少より聡明で悟りが早く、風采は重厚であった。学問は広く博く、文章は典雅で、弱冠にして詞賦により選抜され、東平行臺の掌書記となった。参政の賈居貞は一度会っただけで彼を重んじ、自分の子に学ばせた。
成宗が立つと、侍講より学士となり、実録を纂修し、書が成ると、中書省事を参議した。時に南方の士人で、便利を陳べて田賦の捜括を請う者がおり、執政はこれに従おうとした。王構は平章の何榮祖と共にその不可を言い、極力弁論して、行われずに済んだ。病により東平に帰った。久しくして、済南路総管として起用された。諸王の従者が勢いを頼んで州県を行き、民は敢えて逆らう者なく、王構は朝廷に奏聞し、彼らを北境に移した。学田が牧地に侵されているものを整理して返還させた。官が民に粟を貸し、凶年であるのに償いを責めてやまないので、王構は来年に納入するよう請うた。武宗が即位すると、国史を纂修するため、急ぎ召し出されて朝廷に赴き、翰林学士承旨に拝され、まもなく病で卒した。享年六十三。
王構は三朝に仕え、台閣の典故に習熟し、凡そ祖宗の諡冊冊文は皆彼が撰定し、朝廷に大議がある毎に必ず諮問された。寒士を推薦引立てることを喜び、前後して省台・翰苑が辟召した者は、数十人に及び、後に清要の職に就き、皆当時に名を成した。
子の士熙は、中書参政に至り、南台御史中丞の官で卒した。士点は、淮西廉訪司僉事となり、皆文学をもって家を継ぐことができた。
魏初
金の将軍武仙の軍が五垜山に駐屯して進まない。武仙に使わす者を求め、或る者が璠を推薦したので、即座に朝列大夫・翰林修撰を授け、騎兵四人を与えて従わせた。到着すると武仙は既に逃げ去り、部曲も多く散亡していたが、璠は慰撫招集し、数千人を得て、その中で材勇ある者を帥長に推し、なお符印を制してこれに与え、矯制を以て自ら劾した。金主はその処置が適宜であるとした。続いて武仙が余衆を率いて留山に保つと聞き、璠は直ちに武仙の所に趣き宣諭した。或る者が武仙に讒言し、璠がその軍を奪わんとしていると言うと、武仙は怒り、兵士に命じて刃を抜き璠を刺さんばかりにし、且つ一吏を引いて璠と弁明させた。璠は動じず、大声で言った。「王人たる者、微賤ではあれども諸侯の上に序せられる。将軍たとえ礼を加えずとも、いかんぞ讒邪の言を聴き、小吏を以て対せしめんとするや。且つ将軍は山谷を跳梁するも、左右に異心なきは、天子の大臣たるが故なり。もし天子を尊ぶを知らざれば、安んぞ麾下に将軍の如き者なきを知らん。然らずんば、我れ死すとも命を辱しめじ。」武仙は彼を屈服させられなかった。璠はさらに激して進兵を促したが応ぜず、帰還する頃には、金主は既に帰徳に遷り、さらに蔡州に遷っていた。金が滅び、璠は帰す所なく、乃ち北に郷里に還った。
庚戌の歳、世祖が潜邸に居られた時、璠の名を聞き、和林に徴し至らせ、当世の務めについて訪ねた。璠は便宜三十余事を条陳し、名士六十余人を挙げて答えた。世祖は嘉納し、後多く採用した。病により和林で卒した。享年七十、諡を靖肅と賜わった。
帝が上都の行宮で群臣を宴した時、大杯を飲み干せない者は冠服を免じた。初が上疏して言った。「臣聞く、君は猶天の如く、臣は猶地の如し。尊卑の礼は粛にせざるべからず。方今内には太常・史官・起居注があり、以て典礼を議し言動を記し、外には高麗・安南の使者が入貢し、以て中国の儀礼を観る。昨、大臣に賜宴し、威儀謹まずと聞く。朝廷を尊び上下を正す所以に非ず。」疏が入ると、帝は欣んでこれを納れ、なお侍臣に諭して今後再びこの挙をなすことなからしめた。時に襄樊未だ下らず、民を徴発して兵とせんとし、或る者は大興より始めんことを請うた。初が言う。「京師は天下の根本、要は殷盛にあり、邦を建つるの初め、豈に騒動すべきや。」遂に大興の兵を徴発することを免じた。
初はまた言う。「旧制に、常参官・諸州刺史は、上任三日にして一人を挙げて自ら代わらしむ。況んや風紀の職は常員と異なる。請う、今より監察御史・按察司官は、在任一歳にして各一人を挙げて自ら代わらしめ、挙ぐる所当たらずば罰ありとせん。風節を砥礪するのみならず、また国に人を得ることを為すべし。」遂に勧農副使劉宣を挙げて自ら代わらしめた。陝西四川按察司事を僉として出向し、陝西河東按察副使を歴任し、治書侍御史として入朝した。また侍御史として揚州にて行御史台事を行い、江西按察使に抜擢され、まもなく侍御史として召し出された。行台が建康に移ると、中丞として出向し、卒した。享年六十一。子の必復は、集賢侍講学士となった。
焦養直
焦養直、字は無咎、東昌堂邑の人。早くより才器を以て称せらる。至元十八年、世祖、符寶郎を改めて典瑞監と為し、一の儒者を得て之に居らしめんとす。近臣に養直を以て薦むる者有り、帝即ち命して召見し、敷対して旨に称し、真定路儒學教授より超えて典瑞少監に拝す。二十四年、乃顔の征に従う。二十八年、宅一区を賜う。帷幄に入り侍し、古先帝王の政治を陳説す、帝之を聴き、毎に倦を忘る。嘗て漢高帝の側微より起るに及び、旧聞を誦す、養直従容に論弁し、帝即ち開納し、是より高帝を薄しめず。
子の徳方、蔭を以て興国路総管府判官と為る。
孟攀鱗
孟攀鱗、字は駕之、雲内の人。曾祖の彦甫、明法を以て西北路招討司知事と為る。疑獄有りて当に死すべき者百余人、彦甫執いて従わず、後三日実を得、皆之を釈す。祖の鶴・父の沢民、皆金の進士。
尚野
尚野、字は文蔚、其の先は保定の人、満城に徙る。野幼にして穎異、祖母の劉、厚く資して之を就学せしむ。至元十八年、処士として徴されて国史院編修官と為る。二十年、兼ねて興文署丞、出でて汝州判官と為り、廉介として為す有り、憲司屡く之を薦む。二十八年、南陽県尹に遷る。初めて官に至り、獄訟充斥す、野裁決して留滞無く、旬に渉り、遂に事無し。懐孟河渠副使に改む、会に使を遣わして民の疾苦を問わしむ、野建言して「水利成法有り、宜しく有司に隷すべく、復た河渠官を置くべからず」と。事朝に聞こえ、河渠官遂に罷まる。
大徳六年、国子助教に遷る。諸生宿衛に入る者は、歳に従いて上都に幸し、丞相哈剌哈孫始めて野に命じて上都に於て学を分かち、以て諸生を教えしめ、仍く印を鋳て之を与う、上都分学は野より始まる。俄に国子博士に陞り、人を誨うに先ず経学にして後に文芸、毎に諸生に謂いて曰く「学未だ得る有らず、徒らに華藻を事とすることは、銭を持ちて水を買うが若く、取る所限り有り、能く自ら井を鑿りて泉に及び之を汲まば、用うるに勝えざるなり」と。時に学舍未だ備わらず、野密かに御史台に請い、帑蔵の積む所を出だし、大いに学舍を建てて以て教育を広めんことを乞う。仁宗東宮に在り、野は太子文学と為り、裨益する所多し、時に賓客姚燧・諭徳蕭𣂏に従いて入見し、帝為に礼を加う。
野性開敏、志趣正大、継母に事うること孝を以て聞こえ、文辞典雅、一に理に本づく。
子の師易、蘄州路総管府判官。師簡、中奉大夫・奎章閣侍書学士・同知経筵事。
李之紹
李之紹は字を伯宗といい、東平平陰の人である。幼い頃より聡明で悟りが早く、東平の李謙に師事して学んだ。家は貧しく、郷里で教授し、学ぶ者が皆集まった。至元三十一年、世祖実録を編纂修訂するにあたり、名儒を徴用して史職に充てるため、馬紹・李謙の推薦により、将仕佐郎・翰林国史院編修官に任じられた。直学士の姚燧がその才能を試そうと、翰林として応酬すべき文章を十数件まとめて彼に託した。之紹は筆を執ってたちまち書き上げ、草稿をまとめて進呈した。燧は驚喜して言った、「まさに名に虚しき士なしというべきである」。
子の勗は父の官職の恩蔭を受け、諸暨州事の同知となった。
之紹は平素より自らの性格が事に臨んで悠揚迫らず決断に乏しいと感じていたため、果斎と号して自らを励ました。文集が家に蔵されていた。