元史

列傳第五十: 李德輝 張雄飛 張德輝 馬亨 程思廉 烏古孫澤 趙炳

李德輝

李德輝、字は仲実、通州潞県の人。五歳の時、父が死に臨み、徳輝を指さして家人に言うには、「私は吏として、獄を治めるに過度に厳しくせず、我が力により救われた者は多い。天が報いるとすれば、この子が我が家門を大いにすることだろう」と。父が死ぬと、徳輝は成人のように慟哭した。凶年にあたり、家に蓄えた粟は僅か五升、母は蓬や稗を搗き、藜や莧を炊いて食べさせた。徳輝は天性孝悌で、操行は清廉で慎み深く、外傅に就いてからは書を読むことを好んだが、貧しさに束縛され、自ら学資を調達できず、学業を止めた。十六歳の時、豊州で酒を監査し、禄食は旨いものを満足に得られ、余れば筆札を買い書を書き写し、夜も休まず誦した。やがて糟麹の仕事を厭い、嘆いて言うには、「志士がどうしてこれに安んじていられようか。仕えても君をただし民を福するに足らず、隠れても親を喜ばせ身を善くするに足らぬ。天地の間、人の寿命は幾ばくかあるというのか。無名のまま草木と共に腐るなどありえぬ」と。そこで交遊していた少年たちと絶ち、先生や長老を求めて講学し、学業を成し遂げた。

時に世祖は潜藩(即位前の領地)におり、劉秉忠の推薦を用いて、裕宗(後の皇太子)の侍講読に仕えさせたので、竇默らと共に召し出された。癸丑(1253年)、憲宗が宗親を封じ、京兆を割いて世祖の潜藩に属させ、朝廷の臣で財賦を理める能力ある者を選んで軍糧を調達させ、従宜府を立て、徳輝と孛得乃とを使者とした。時に汪世顯は利州に兵を駐屯させ、四川の要害を扼し、進取を図り、数万の軍が徳輝に食糧を仰いだ。そこで民を募って綿竹に穀物を入れさせ、銭幣を散じ、塩券を与えて価値とし、陸路では興元から牽引し、水路では嘉陵を漕運し、一年を待たずして軍の蓄えは充実し羨むほどとなり、しょくを取る基礎はここに築かれた。

中統元年(1260年)、燕京宣撫使となる。燕には大賊が多く、偽鈔を造り、死党を結んで人を殺した。徳輝はことごとく捕らえて誅し、令は行き渡り禁は止まった。しかし事柄の多くを中書に報告せず、これにより平章王文統の意に逆らい、官を去った。三年、文統は反逆の罪で誅され、徳輝は起用されて山西宣慰使となった。権勢の家で民を籍没して奴隷としていた者を、ことごとく取り調べて免じ、近く千人に復業させた。

至元元年(1264年)、宣慰司を廃し、太原路総管を授かる。時に潜藩時代の旧傅相で二千石(太守級)に出た者はなく、帝は太原が治め難いと考え、故に徳輝を太守とした。郡に至ると、学校を崇め、孝節を表彰し、耕桑を勧め、社倉を立て、度量衡を統一し、凡そ民を豊かにするものは為さざるはなかった。嘉禾や瑞麦が、六度その境内に現れた。五年、右三部尚書に召される。財産を巡る訴訟で兄の子を失った者がいたが、徳輝は「これは叔父が殺したに違いない」と言い、遂にその獄を完結させた。権貴人で請う者は甚だ多かったが、徳輝は応ぜず、罪状が明らかになると、請う者は慚じて服した。七年、帝は蝗害と旱魃を憂い、徳輝に命じて山西・河東の囚人を記録させた。懐仁に至った時、民の魏某が木偶人を掘り出し、妻が左道の術で厭勝(呪い)をし、自分に不利を謀っていると訴え出た。幾つかの獄を移され、供述は全て整っていた。徳輝はその冤罪を察し、愛妾がいることを知り、妾の仕業を疑い、妻を陥れようとしているのだと考えた。妾を召し出して訊問すると、時を移さずに自白したので、その夫を杖打ち、妾を死罪に論じた。

皇子安西王が関中を鎮守し、徳輝を補佐とするよう奏上したので、安西王相に改めた。着任すると涇水沿いの旧来の牧地を見て、数千頃を得られるとして、廬舎を建て、溝渠を疏浚し、牛・種子・農具を貧民二千家に貸し与え、その中で屯田させ、毎年粟麦や秣を万単位で得た。十二年、詔により王相として蜀を撫でる。時に重慶はなお城を守って降らず、朝廷は東西川にそれぞれ行枢密院を置き、兵一万を合わせて包囲していた。徳輝が成都に至ると、両府は争って使者を遣わし兵糧の方略を諮問した。徳輝は戒めて言うには、「宋は既に滅びた。重慶は弾丸の地、降らぬならどこへ帰るというのか。ただ公らがその掠奪殺戮を利し、民が子女を保有できぬことを恐れて来ぬだけだ。以前、兵は未だ戦わず、中使が璽書を奉じて赦しに来た時、公らは正しい言葉を明らかに告げ、厳しく備えて攻撃を止め、その到着を待つのではなく、かえって軍吏を買収して杖打ちし、罪を得たふりをさせ、恐れて叛き去らせ、水陸の軍は雷鼓を鳴らして続いて進軍した。これでは降らぬことを堅くするだけだ。中使はその詐計を理解せず、遂に明詔を奉じなかったと復命した。このようなことは、寇を侮っているのと何が違うのか。況んや軍政は一つでなく、互いに誹謗し合い、朝夕のうちに敗れるだろう。どうして成功できようか」と。徳輝が出発し、秦に至らぬうちに、瀘州が叛き、重慶の包囲は果たして崩れ、再び瀘州に退いて守った。

十四年、詔により徳輝を西川行枢密院副使とし、なお王相を兼ねる。諸軍が出発した後、徳輝は成都に留まって軍糧を供給した。この年、瀘州を回復。十五年、再び重慶を包囲し、一ヶ月余りで陥落させ、紹慶・南平・夔・施・思・播の諸山の砦や水柵も皆降った。しかし東川枢府は、旧来の将であり、以前西川と互いに傍観して敗れたことを懲り、互いに従属するのを嫌い、独力で合州を包囲したいと願った。徳輝はそこで合州の捕虜で順慶の獄に繋がれていた者を釈放し、帰って州将の張珏に告げさせた。天子の威徳は遠くに著しく、宋室は既に亡び、三宮(皇帝・后妃)も皆北に遷り、我が朝は寛大で、功を録して過ちを忘れ、早く自ら帰順すれば、必ずや将相に取り立てられ、夏貴や呂文煥のようになれると。また書簡をしたため、礼義と禍福を以て繰り返し譬え解き、「汝が臣たること、宋の子孫より親しくはなく、合州が州たること、宋の天下より大きくはない。彼の子孫は既に天下を挙げて我に帰したのに、汝はなお泰然として険しい山に拠り、『私は仕えた者に忠である』と言うのは、惑わしいとは思わぬか。かつてこの州の人が自ら謀らなかったのは、国に主君がおり、不義の名を受けるのを恥じたからで、故にその死命を制することができた。主君は今亡びた。なおこれを以て行おうとするなら、麾下の者が盗賊のように君に遇い、君の首を窃って一朝の福を求めることも難しくない」と説いた。張珏が返答する前に、徳輝は王邸に戻った。

やがて合州が李興・張郃ら十二人を成都に偵察に遣わしたが、皆捕らえられた。殺さずに釈放し、再び書簡をしたためて帰らせ、その将の王立に、張珏に諭したのと同じことを告げさせ、言葉はより切実であった。王立も、元来東川枢府と深い怨恨があることを考え、誅殺を恐れ、直ちに李興らに帥幹の楊獬を導かせ、蠟書を懐に密かに成都に至らせて降伏させた。徳輝は従兵僅か数百人で赴いた。東川府はその来訪を害し、皆言うには、「公は昔、書を以て張珏を招いたが、誠に極めて尽力したが、結局功なくして帰った。今の王立は、張珏の牙校であり、狡猾で信用せず、ただ計略で公を招き寄せ、我らと垂成の功を争わせ、命を僅かな時間延ばそうとしているだけで、誠の降伏ではない」と。徳輝は言うには、「昔、合州は重慶が存続していたので、力を合わせて悪を同じくすることができた。今は孤立し絶え、困窮して帰って来るのも、その情勢から当然である。私は人の功を奪う者ではない。ただ公らがその後服を憤り、嘗て先朝の行幸を抗ったと誣い、その掠奪を利し、屠城に快心することを恐れるのだ。私は国のためにこの民を生かすのであって、どうして汝らの嫌疑や怒りを考慮しようか」と。即ち単船で江を渡り、城下に迫り、王立を呼び出して降伏させ、その民を安集し、吏を置くのを止めた。合州の人々は王立から下まで、家にその像を描いて祀った。川蜀が平定され、再び王相として邸に戻った。

至元十七年、行中書省を設置し、徳輝を安西行省左丞とした。この年、西南夷の羅施鬼国は降伏したが再び叛き、詔により雲南・湖広・四川の三軍を合わせて三万人で討伐することとなった。兵がまさに国境に迫ろうとした時、徳輝はちょうど播州に赴任する命を受けており、安珪を駅伝で走らせて三道の兵に進軍を止めさせ、さらに張孝思を派遣して鬼国に降伏を促した。その酋長阿察は徳輝の名を知っており、「これは合州を生かした李公か。その言葉は明らかで信頼できる」と言い、自ら播州に至り、涙を流して告げた。「我が百万人の民は、公が来られなければ死んでも降伏しなかったでしょう。今、帰すべき所を得て、二心はありません」。徳輝はその言葉を上奏し、鬼国を順元路と改め、その酋長を宣撫使とした。その後、鬼国から馬を千頭余り受け取ったと徳輝を朝廷に讒言する者がいたが、帝は言った。「この者は朕が平素から知っている。一頭の羊でさえ妄りに受け取らぬ。どうしてそんなことがあろうか」。

徳輝が卒去した時は六十三歳であった。蛮夷の民は訃報を聞き、私的な親族のように哀哭し、位牌を設けて祭る者は動輒千百人に及んだ。合州安撫使の王立は喪服を着て吏民を率いて拝哭し、その声は山谷に震え、百人を発して喪を興元まで護送させた。播州安撫使の何彦清(清は請の誤か)はその民を率いて廟を立てて祀ることを請うた。

張雄飛

張雄飛、字は鵬挙、琅琊臨沂の人。父の琮は金に仕え、盱眙を守った。金人は彼を疑い、兵権を解き、許州に移住させた。まもなく再び河陰を守るよう命じられたが、家族は許州に留めた。雄飛は幼くして母を失い、琮の妾の李氏が養育した。蒙古軍が許州を屠った時、工匠のみが免れた。田某という者がおり、琮の旧吏であったが、弓を作れると自称し、かつ雄飛と李氏を家族と偽ったため、これによって難を免れ、朔方に移った。雄飛は当時十歳であった。霍州に至り、李氏は逃げようとしたが、自分に累が及ぶのを恐れた。雄飛はそれを察し、片時も傍を離れず、李氏は変装して共に戻り、潞州に寓居した。雄飛が成長すると、趙城で前進士の王宝英に師事した。金が滅び、雄飛は父の所在を知らず、沢州・潞州を往来し、十余年求めたが、常に僧舎に客食した。やがて関陝に入り、懐・孟・潼・華を歴て、ついに父を求めることができず、燕に入った。数年居住し、国語(モンゴル語)及び諸部の言語に通じた。

至元二年、廉希憲が世祖に推薦し、召されて当代の急務を陳べると、世祖は大いに喜んだ。同知平陽路転運司事を授け、弊害を探り出して悉く除いた。帝が処士羅英に誰を大用すべきかと問うと、答えて言った。「張雄飛は真に公輔の器です」。帝はそれを認めた。駅伝で雄飛を召し寄せ、当今の急務を問うと、答えて言った。「太子は天下の根本です。早く定めて人心を繋ぐことを願います。里巷の小人でさえ升斗の蓄えがあれば、託すべきことを知っています。天下は極めて大きく、社稷は極めて重い。早く皇太子を立てないのは、最善の計略ではありません。もし先帝がこのことを知っていたなら、陛下は今日の地位を得ることができたでしょうか」。帝はちょうど臥していたが、驚いて起き上がり、しばらく善しと称えた。

ある日、江孝卿と共に召され、帝は言った。「今、職に就いている者は多く非才で、政事は廃れ弛んでいる。譬えば大厦が傾かんとしているのに、良工でなければ支えることができない。卿らはこの任に堪えられるか」。孝卿は辞退して敢えて当たらないと言った。帝が雄飛を見ると、雄飛は答えて言った。「古に御史台があり、天子の耳目となった。凡そ政事の得失、民間の疾苦、皆言うことができ、百官の姦邪・貪穢・不適任な者は即ち糾弾した。このようにすれば、紀綱が挙がり、天下は治まります」。帝は「善し」と言い、御史台を立て、前丞相の塔察児を御史大夫とし、雄飛を侍御史とし、かつ戒めて言った。「卿らは既に台官となった。職は直言にある。朕が汝らの君であっても、もし行いが善くないなら、極諫すべきである。況んや百官においてをや。汝らは朕の意を知るべきである。人が汝らを嫉妬しても、朕が汝らのために処する」。雄飛はますます自ら感奮し、知る限りを言わないことはなかった。

参議枢密院事の費正寅は平素より邪悪で狡猾であり、その罪を告げる者がいた。詔により丞相線真らと雄飛が共同で審理した。請託が次々と来たが、雄飛は顧みることなく、その罪状を悉く得て上奏した。正寅とその党の管如仁らは皆誅された。尚書省を立てる会議があり、雄飛は帝の前で強く争い、旨に逆らい、同知京兆総管府事に左遷された。宗室の公主に家奴がいて、渭南の民間に逃れて婿養子となった。公主がちょうど臨潼を通りかかり、彼を見つけ、その奴隷と妻、および妻の父母を捕らえ、皆枷をはめて拘束し、その家財を全て没収した。雄飛は公主と争い弁明し、言葉も顔色も共に厳しかった。公主は已むなく、奴隷の妻と妻の父母、家財を返したが、ただその奴隷だけを連れて去った。

兵部尚書として朝廷に入った。平章阿合馬が制国用司にいた時、亦麻都丁と不和があり、この時、罪を捏造した。同僚は争って附和したが、雄飛は同意せず言った。「犯したのは制国用司の時である。平章だけが関与しなかったのか」。衆は答えることができなかった。秦長卿・劉仲澤もまた阿合馬に逆らったため、皆獄に下され、殺そうとしたが、雄飛もまた同意しなかった。阿合馬は人を使って彼を誘い、「誠にこの三人を殺すことができれば、参政の地位を与えよう」と言った。雄飛は言った。「無罪の者を殺して大官を求めることは、私はしない」。阿合馬は怒り、雄飛を澧州安撫使として出させるよう奏上し、三人はついに獄中で死んだ。

当時、澧州は降ったばかりで、民は反覆する心を抱いていた。雄飛が到着し、徳教を布き宣べて撫恤すると、民は遂に安堵した。大商人二人が脱税と殴打の罪を犯した。僚佐が賄賂を受け、その罪を寛大にしようとしたが、雄飛はますます厳しく取り締まった。ある者が言った。「これは些細な事である。なぜそれほど固執するのか」。雄飛は言った。「私は脱税と殴打を治めようとしているのではない。宋の弊政を改め、法を畏れぬ者を懲らしめようとしているのだ」。細民は食糧が乏しく、群れをなして富家の倉を開いた。役所は強盗として論じようとしたが、雄飛は言った。「これは食を盗み、死を救おうとしたのであって、強盗ではない」。その獄を寛大にし、百余人を全活させた。澧州の西南は溪洞に接し、徭人が隙に乗じて居民を掠奪した。雄飛は楊応申らを派遣して威徳をもって諭させると、諸徭は皆感服した。

十四年、安撫司を総管府に改め、雄飛を達魯花赤とし、荊湖北道宣慰使に転じた。常徳の富民十余家が徳山寺の僧と乱を起こそうとしていると告げる者があった。衆議は兵で討伐しようとした。雄飛は言った。「告げる者は必ずその仇である。かつ新たに附いた民は、静かに鎮めるべきで、兵を急に用いるべきではない。もし他に事があれば、私がその責を負う」。遂に止め、徐々に察すると、果たしてその言う通りであった。先に、荊湖行省の阿里海牙が降民三千八百戸を没収して家奴とし、自ら吏を置いて治め、毎年その租賦を責め立て、役所は敢えて言う者がなかった。雄飛は阿里海牙に言上し、その民を役所に帰属させるよう請うたが、従わなかった。雄飛は朝廷に入ってこの事を奏上し、詔により籍を民に戻させた。

十六年、御史中丞に拝され、行御史臺事を管掌した。阿合馬は子の忽辛を中書右丞とし、江淮に行省したが、忽辛が容れられぬことを恐れ、雄飛を留めて派遣せず、陝西漢中道提刑按察使に改めた。未だ赴任せず、阿合馬が死に、朝臣は皆罪に坐して去った。参知政事に拝された。阿合馬が権を執ること久しく、官を売り獄を鬻ぎ、紀綱は大いに乱れていた。雄飛はまず自ら一階を降り、これにより僥倖により超擢された者も皆降等させた。忽辛が罪を得た時、勅して中貴人及び中書の諸官が雑問した。忽辛は歴々と宰執を指して言う、「汝らはかつて我が家の銭物を使ったことがあるのに、どうして我を問えるか」と。雄飛が言う、「私はかつて汝の家の銭物を受けたことがあるか」と。忽辛が言う、「ただ公のみがそうでない」と。雄飛が言う、「そうであれば、則ち私は汝を問うべきである」と。忽辛は遂に罪に伏した。二十一年春、尊号を冊上し、天下を大赦することを議した。雄飛は諫めて言う、「古人の言う、赦なき国は、その刑必ず平らかである。故に赦は、平らかならざる政である。聖明の上に在りて、豈に数たび赦すべきであろうか」と。帝は嘉してこれを納れ、雄飛に語って言う、「大いに狩りして後に善射を見、集議して後に能言を知る。汝の言うところは是である。朕は今汝に従う」と。遂に軽刑を降す詔を止めた。

雄飛は剛直廉慎で、終始その節を易えなかった。嘗て省中に坐している時、詔が急ぎ召した。便殿で見え、雄飛に謂って言う、「卿の如きは、真に廉なる者と謂うべし。卿の甚だ貧しきを聞く。今特に卿に銀二千五百両、鈔二千五百貫を賜う」と。雄飛は拝謝し、将に出でんとするに、また詔して金五十両及び金の酒器を加賜した。雄飛は賜物を受け、封緘して識し、家に蔵した。後に阿合馬の党が雄飛が政を罷められたのを以て、省に詣り賜物を追奪することを乞うた。裕宗が東宮に在ってこれを聞き、参政の温迪罕に命じて丞相の安童に諭させて言う、「上が張雄飛を賜う所以は、その廉を旌するためである。汝は豈に知らざるや。小人に欺かれるなかれ」と。塔即古阿散が前省の銭穀を検核することを請い、また阿合馬の党を用い、竟に詔を矯ってこれを追奪した。塔即古阿散ら俄かに罪に坐して誅せられた。帝は校核の失当を慮り、近臣の伯顏に命じてこれを閲させた。中書左丞の耶律老哥が雄飛に勧めて伯顏に詣り自ら弁明せんとした。雄飛は言う、「上は老臣の廉を以て、故に臣に賜う。然れども臣は未だ嘗て軽く用いず、封緘して識して俟つ者は、正に今日を虞うるためである。また自ら弁明すべきか」と。二十一年、盧世栄が利を言うことを以て進用され、雄飛は諸執政と同日に皆罷められた。二十三年、起用されて燕南河北道宣慰使となり、壅滞を決し、姦貪を黜し、政化大いに行わる。官に卒す。

子五人:師野、師諤、師白、師儼、師約。師野が東宮に宿衛していた時、荊湖行省平章政事の阿里海牙が入覲し、宰相に言って、皇太子に白いて、師野を荊南総管とせんことを請おうとした。雄飛は固くこれを止めた。帰って師野に謂って言う、「今日汝に官せんと欲する者あり。汝は宿衛日久しく、固より官を得るべきである。然れども我方執政たり。天下必ず我が汝を私すと為さん。我一日この位を去らざれば、汝輩は官あることを望むなかれ」と。その介慎この如し。

張德輝

張德輝、字は耀卿、冀寧交城の人。少時に力学し、数たび郷挙に挙げられる。金の貞祐年間に兵が興り、家業殆ど尽き、御史臺の掾を試みた。会に盗が卜者を殺し、有司がその跡を追うて、僧が一婦人を匿うのを獲、搒掠して誣服させ、獄が具わる。徳輝はその冤を疑い、その後果たして盗を得た。趙秉文・楊慥皆その材を器とした。金滅び、北に渡り、史天沢が真定に開府し、辟いて経歴官とした。歳乙未、天沢に従い南征し、籌画調発は多く徳輝より出づ。天沢が逃兵を誅せんとすると、徳輝が救い止め、穴城を命じて配した。光州蓽山の農民が寨を為して以て自ら固めしを、天沢が攻むるを議す。徳輝がこれを招き降すことを請い、全活すること甚だ衆し。

歳丁未、世祖が潜邸に在り、召見して問うて言う、「孔子歿すること已久しい。今その性は安くにか在るか」と。対えて言う、「聖人は天地と終始し、往くとして在らざるは無し。殿下能く聖人の道を行えば、性は即ち是に在り」と。また問う、「或いは云う、遼は釈を以て廃り、金は儒を以て亡ぶと。これ有るか」と。対えて言う、「遼の事は臣未だ周知せず。金の季は乃ち親しく睹しところなり。宰執中に一二の儒臣を用うるも、余は皆武弁世爵なり。及び軍国大事を論ずるに、また預からしめず。大抵儒を以て進む者は三十の一なり。国の存亡は、自らその責を任ずる者有り。儒に何の咎かあらん」と。世祖然りとす。因って徳輝に問うて言う、「祖宗の法度具在す。而れども未だ尽く施設せざる者甚だ多し。将に之を如何にせん」と。徳輝は銀の槃を指し、喩えて言う、「創業の主は、此の器を製するが如し。精選したる白金良匠を以て、規してこれを成し、後人に畀え付けて、これを伝えて窮まり無からしむ。謹厚なる者を求めて司掌せしむべし。乃ち永く宝用と為す。然らずんば、惟だ缺壊するのみならず、亦た窃みてこれを去る者有らんことを恐る」と。世祖良久くして言う、「此れ正に吾が心の忘れざる所なり」と。また中国人材を訪う。徳輝は魏璠・元裕・李冶等二十余人を挙ぐ。また問う、「農家は労を作すに、何ぞ衣食の贍かざるや」と。徳輝対えて言う、「農桑は天下の本、衣食の従い出づる所なり。男は耕し女は織り、終歳勤苦し、その精なる者を択びて官に輸す。余の麄悪なる者を以て仰いで事え俯して育たんとす。而るに民に親しむ吏復た横斂して以てこれを尽くせば、則ち民に凍餒せざる者鮮し」と。

歳戊申春、釈奠し、胙を世祖に致す。世祖言う、「孔子廟食の礼は如何」と。対えて言う、「孔子は万代王者の師たり。国ある者はこれを尊べば、則ちその廟貌を厳にし、その時祀を修む。その崇むと否とは、聖人に損益無し。但だこれを以て時君の儒を崇め道を重んずるの意の如何なるかを見るのみ」と。世祖言う、「今より後、この礼廃するなかれ」と。世祖また問う、「兵を典ることと民を宰むることとは、害孰れか甚だし」と。対えて言う、「軍に紀律無く、縦して残暴ならしむれば、害固より軽からず。若し民を宰むる者、頭会箕斂して以て天下を毒し、祖宗の民を水火を蹈むが如くならしむれば、害尤も甚だし」と。世祖黙然たり、言う、「然らば則ち奈何にせん」と。対えて言う、「族人の賢なる者、口溫不花の如き者を更に遣わして、兵権を掌らしめ、勲旧は則ち忽都虎の如き者をして、民政を主とせしむるに若かず。若し此くの如くせば、則ち天下均しく賜を受くべし」と。

是の年夏、徳輝は告を得て、将に還らんとす。更に白文挙・鄭顯之・趙元徳・李進之・高鳴・李槃・李濤数人を薦む。陛辞するに、また先務七事を陳ぶ:孝友を敦くし、人材を択び、下情を察し、兼聴を貴び、君子に親しみ、賞罰を信じ、財用を節す。世祖は字を以てこれを呼び、坐を賜い、錫賚瀀渥なり。有る頃、旨を奉じて冑子の孛羅等を教う。壬子、徳輝は元裕とともに北覲し、世祖に請いて儒教の大宗師と為さんことを請う。世祖悦んでこれを受けしむ。因って啓す、「累朝に旨有りて儒戸の兵賦を蠲す。乞うらくは有司に遵行せしめよ」と。これに従う。仍って徳輝に命じて真定学校を提調せしむ。

世祖が即位すると、徳輝を起用して河東南北路宣撫使とし、任地に着くと、豪強を撃ち、贓吏を罷免し、賦役を均しくした。

老人たちは数千里を遠しとせず来て会い、「六十年ぶりにこのような太平の官府を見た」と言い、神明のように崇めた。

西川の帥紐鄰が兵士千余人を重ねて徴発し、守吏はその威を恐れて敢えて申し立てず、鳳翔の屯田に隷属する者八百余人は、屯田が廃止されても兵籍に戻らず、防戍兵の徴発に際し、河中の浮橋には元々守卒がいたのに、その数を充てなかった。

すべて条を立てて上奏すると、帝はその請いを許可した。

戦乱の後、弱い民は多く豪族に寄り庇われ、あるいは身を傭って衣食を得ていたが、年月が経つうちに家奴にされてしまった者を、すべて帰して民とした。

二年、考課の成績が十路の中で最も優れた。

帝に謁見すると、帝は労い、急務を上疏するよう命じ、四事を条陳した。第一は保挙を厳しくして人材を取ること、第二は俸祿を給して廉能を養うこと、第三は世官を改めて都邑に遷すこと、第四は刑罰を正しくして赦しを繰り返さないことである。

帝はこれを嘉納した。

東平路宣慰使に遷る。春に旱魃があり、泰山に祈ると雨が降った。

東平は賦税が多く訴訟が頻繁で、河東の数倍に及び、贓罪や姦悪に遇えばすべて徹底的に追及し、少しも容赦しなかった。

遠方への豆粟二十万斛の輸送と、和糴粟十万斛を免除するよう奏上した。

至元三年、嘉議大夫・左三部尚書に進み、まもなく戸部尚書に改められ、金穀の出納は条理整然として乱れなかった。時に胡人の商人がおり、制国用使阿合馬を恃み、交鈔の元本を売買し、平準の利を私して、歳課を増やすことを口実とした。帝は亨に問うたところ、亨は答えて言った、「交鈔が万貨を権衡しうるのは、法がそうさせるのである。法とは主上の柄である。今、一商人にこれを専らせしめ、法を廃して私に従わせるならば、何をもって天下に令せんとするのか」。事はここに止んだ。亨はまた常平倉・義倉を立てることを建言し、備荒の具であるから、速やかに施行すべきであると言った。しかし当時は財用が不足していたため、義倉のみを設けるにとどまった。

七年、尚書省が立てられ、やはり亨を尚書とし、左部を領させた。亨は上言した、「尚書省は金穀百工の事を専ら領するものであり、その銓選は中書に帰すべきで、濫りなきことを示すべきです」。まもなく平章阿合馬に忌まれ、誣告によって免官された。時に国軍が襄陽・樊城を包囲し、朝廷で河南行省に軍餉の調達・発送を命じる議論があり、詔により阿里を右丞、姚樞を左丞、亨を僉省としてその任に当たらせた。水陸の供給輸送に欠けることがなく、亨の力が多かった。十年、京師に戻ると、帝はちょうど重用しようとしていたが、末疾を患った。十四年、卒去。七十一歳。

子の紹庭は、雲南諸路粛政廉訪司副使となった。

程思廉

程思廉、字は介甫。その先祖は洛陽らくようの人で、元魏の時に豪族として雲中に移され、東勝州に家を定めた。父の恒は、国初に金符を佩び、沿辺監榷規運使・解州塩使となった。

思廉は太保劉秉忠の推薦により、裕宗の潜邸に給事し、謹直で篤実であると聞こえた。枢密院監印を命ぜられ、平章政事ハダンが河南に行省した時、都事に任じられた。丞相史天澤は特に彼を器重した。当時ちょうど襄陽・樊城を攻略しようとしており、転餉の任に当たらせた。城を築き倉を設けて粟を受け入れようとしたが、輸送する者と民が門を争い、時に至っても届かなかった。思廉は行く者に別の道を行かせた。粟が届くと多くは露天に積まれたが、ある夜大雨が降った。思廉は安らかに臥して起きなかった。省中が召して詰問すると、思廉は言った、「ここは敵に近く、夜中に騒動すれば、衆は必ず驚き疑い、あるいは他の変事を招くであろう。たとえ流れ濡れても、軍中の一日分の糧に過ぎない」。聞いた者はこれを是とした。

至元十二年、同知淇州に転じ、東平路判官に移り、入朝して監察御史となり、権臣阿合馬を弾劾して獄に繋がれた。その党羽が巧みに罠を仕掛けたが、思廉は泰然としており、ついに害することはできなかった。累進して河北河南道按察副使となり、道すがら彰徳を通った時、両河の地で凶作が続き、租税の徴収がますます厳しいと聞き、これを止めようとした。有司は法に照らして上請すべきだと言ったが、思廉は言った、「もしそうすれば、民はすでに命に堪えられないであろう」。即時に移文して徴収を停止し、後になって許可を得た。二十年、河北が再び大飢饉となり、流民が黄河を渡って食を求めた。朝廷は使者を遣わし、官属を集めて、黄河を遮ってこれを止めさせた。思廉は言った、「民が急いで食を求めるのは、やむを得ないことではないか。天下一家であり、河北も河南も皆わが民である」。急いでこれを解放させよと命じ、さらに言った、「たとえ罪を得て死んでも恨みはない」。上奏文が上がると、罪には問われなかった。衛輝・懐孟で大水害があり、思廉は臨視して賑貸し、多くを全活させた。水が城壁に迫り、数板を残して浸からなかった時、即時に堤防を修築し、露宿して工事を監督したため、水害とはならず、衛の人々はその恩徳を感じた。陝西漢中道按察使に遷ったが、母が老齢のため赴任しなかった。まもなく母の喪に服した。

二十六年、雲南行御史台が立てられ、思廉は喪中を起復されて御史中丞となった。着任早々、蛮夷の酋長が来賀し、言葉は謙遜だが態度は甚だ傲慢であった。思廉は上意を奉じて宣べ、遠人を綏撫懐柔し、かつ明らかに禍福を示して、自ら外に立たせないようにし、聞いた者は畏服した。雲南には以前から学校があったが、礼教が盛んではなかった。思廉は力を振るってこれを興し、初めて学問礼儀に従う者が現れた。

成宗が即位すると、河東山西廉訪使に任ぜられた。太原では毎年諸王の駱駝・馬一万四千余匹を飼育していたが、思廉が請願して、千匹のみの飼育にとどめた。平陽諸郡は毎年租税を北方に輸送しており、民は甚だ苦しんでいた。思廉が請願して、河東の近くの倉に輸送することができた。旧法では、事を決するには皆議札があり、権は曹吏に帰していた。思廉は自ら牘尾に判を下し、某は某の罪に当たるとし、吏は皆手を束ねた。

思廉は累任して風憲の職にあり、剛正で悪を疾み、事を言うには切実であり、例えば早く儲貳を立てること、賢俊を訪求すること、車服を弁ずること、封諡を議すること、軍力を養うこと、律令を定めることなどを請うたが、これらは皆急務であった。人と交わるには終始あり、あるいは疾病死喪があれば、見舞い贈り物をして救済し、往復数百里を労を厭わず、なおその家事を経営し、その子孫を撫視した。家族に対しては、特に恩情を尽くした。人物を推薦して達することを好み、ある者はこれを好名と見なしたが、思廉は言った、「もし好名の誹りを避けるならば、人は再び善を行おうとはしなくなるであろう」。卒去。六十二歳。諡は敬粛。

烏古孫澤

烏古孫澤、字は潤甫、臨潢の人。その先祖は女真の烏古部であり、これをもって氏とした。祖父の璧は金に仕えて明威将軍・資用庫使となり、金主に従って汴に遷った。汴城が陥落すると、転々として大名に住んだ。父の仲は、倜儻として奇節があり、金の末世に遭い、憤慨して施すところなく、高言危行を用いたため、親交もこれを避け、遂に酒に耽り陽狂して自ら晦ましたが、しかし澤を教えることは特に厳格であった。

澤は性質剛毅で、書を読んで大略を挙げ、一切を己に求め、章句に事とせず、才幹は人に過ぎた。世祖が江南を取ろうとした時、澤は選ばれて鈔を淮南に輸送し軍に給した。丞相アジュはこれを見て奇異とし、淮東大都督ととく府掾に補した。

至元十四年、元帥ソドが兵を閩・越に下し、澤を見て語り合い意気投合し、即時に元帥府提控案牘に辟召した。当時、宋の広王が福州を占拠し、元号を炎興と改め、我が軍がまもなく到ると推し量り、海に入り、再び兵を甲子門に集めた。その将張世傑は泉州を攻め、興化の守臣陳瓚は郡を挙げてこれに応じた。文天祥は南剣州に都督府を置き、守臣張清が都督府事を行い、建寧の回復を謀った。閩中の郡県は往々にして再び宋に従い、江東は大いに擾乱した。ソドは当時浙東に軍を置き、建寧・信州から急報が来た。ソドは衆に謀って言った、「我が軍は何を先にすべきか」。澤は言った、「彼らは閩・広を占拠し、我らが浙右に向かうのは、策の善きものではない。木を伐るに譬えれば、その根を除くことを務め、先ず南に向かうべきである」。時に行省がソドに檄を飛ばし、左丞タチュと兵を甲子門で合わせよとし、遂に兵を閩関に渡し、八戦して南剣に至り、その守臣張清を殺し、宋軍は遂に退いた。

冬十月、福州を収め、興化に進攻してこれを陥落させた。ソドはその民が反覆したことを怒り、屠城を下令した。澤はたびたび諫めたが聞き入れられず、さらに前に進んで説いて言った、「世傑は我が軍の急至を予期せず、ちょうど泉州を急攻し、その基盤を固めようと謀っている。我らは泉州を新たに得たばかりで、民の志は未だ固まっておらず、旦夕のうちに失陥するであろう。我らが興化を平定し、兵を整えて南に向かう間に、彼らの基盤は日に日に固まっていくであろう。その遺民を逃がし、泉南に走らせて扇動させるに如くはない。世傑は胆を落として逃げるであろう。これは我らが戦わずして泉州を保全することであり、我が兵が馳せ救うよりも捷速である」。ソドは喜び、南門を開いて民を逃がし、これによって死を免れた者は甚だ多かった。世傑は逃げた民を得て、興化がすでに陥ちたことを知り、泉州の包囲を解いて去った。ソドは泉州に至り、別将を部署し、大艦を整えて甲子門に向かわせ、自ら将兵を率いて漳州を下り、海豊に軍を置き、精騎を率いてタチュと合流した。十二月、広州に入った。

十五年(1278年)春正月、潮州に還って撃つ。守将馬発の備えは甚だ堅固であった。孫沢は言う、「潮州の人が城を守って降伏しないのは、外に多くの堡塁があり、それらが援応するからである。ただその外応を断てば、潮州は必ず陥落するであろう」と。そこで兵を分けてその一大堡塁を攻撃し、これを破った。残りの堡塁は皆散り散りに逃走し、二十日で潮州は陥落し、馬発はそこで死んだ。やがて文天祥の軍は江西で潰え、広王(趙昺)及び張世傑は海中で死に、唆都は軍を返して福建に至った。

夏五月、詔して福建に行中書省を立て、唆都を行参知政事とし、孫沢を行省都事とした。京師に朝するに従い、興化軍の知事を命じ、金織の衣を賜い、その善謀を賞した。続いて興化軍を路と改め、孫沢に行総管府事を授けた。民は道で歌舞して迎え、「これこそ我が民を再生させた父母である」と言った。喜びの極みに泣き継いだ。郡は新たに兵禍に残され、白骨が野にあり、まずこれを掩埋することを命じた。また流離の民に衣食を与え、道に子を棄てた者があれば、慈幼曹を設けて籍に登録しこれを撫育した。郡中の悪少年は不義を好み、資財を以て卒伍の名に潜り込むことを求め、後に功績を計って版授を得ることを望んだ。官吏は激変を恐れて詰問できなかったが、孫沢は全て追って授けたものを毀ち、その特に不良な者を誅し、貪暴な風はようやく収まった。

初め陳瓚が郡を挙げて張世傑に応じた時、民多く戦死した者がいた。この時、吏が先例に援けてその財産を没収しようとした。孫沢は吏に言った、「国家は至仁であり、誅するは陳瓚に止まり、陳瓚に従った者はなおも宥されている。民をどうして連座させようか」と。急いで令を出して言った、「民が不幸にも誤って陳瓚に従って誅され、及び戦闘で死んで後継ぎのない者の田畑・屋敷・資産は全てその一族・姻族に与えよ。役所はこれに関与しない」と。吏は逆らえず、やめた。江南が未だ平定されていない時、盗賊は所在にいた。民は自ら什伍を組み、郷里を保衛した。時が平らかになった時、行省がこれを兵として籍に登録することを議した。上下が騒然とした。孫沢は行省に申し出て言った、「国の兵は少なくない。今、民を籍に登録して少ないことを示すのは、反側の心を安んずる道ではない。かつ登録すべき者は多く、民はあるいは他心を抱くであろう」と。議は遂に止んだ。孫沢はまた学校を興し、長老及び諸生を召して経義を講習させ、郷飲酒の礼を行った。傍らの郡はこれを聞いて慕った。興化は故より多士の地と号し、士は皆向慕することを知り、孫沢を常衮・方儀と並べて学官に肖像を祀った。

至元二十一年(1284年)、永州路判官に転任した。湖広平章政事要束木は貪欲で放縦、淫虐で、誅求飽くことを知らなかった。ある妄言に、「帰附した初め、州県の長吏及び吏胥・富人が家ごとに銀を徴収し、これを官に納めようとしたが、銀は既に揃ったのに事は遂に中止された」とあった。要束木は即ち令を下し、民に自ら実状を申告することを責めた。使者が縦横に行き来し、地ごとに獄を設け、株連蔓引し、極めて惨酷を尽くした。民は拷掠や獄死する者が道に満ち、得たものは莫大であったが、要束木は全てこれを隠し占めた。使者が永州に来た時、孫沢は吏に命じて供帳を美しくし、酒食を豊かにして、その意に順い適うよう務めさせた。使者は感愧し、その毒気を発する所がなく、機会を窺って利害を以てこれを諭した。一郡はこれによって安泰を得た。この年、宝慶・武崗で盗賊が起こった。これらは皆永州の傍らの郡である。行省は孫沢を遣わしてこれを討平させた。俘虜五百余人を得たが、その中から誤って巻き込まれた者百五十人を選び出し、上書して状況を言上し、その首悪者三十一人を誅し、残りは死罪を減じることができた。

二十六年(1289年)、丞相桑哥が銭穀の考校を建議し、天下は騒動した。孫沢は嘆いて言った、「民は命に堪えられない」と。即ち自ら行省に上計した。要束木は怒って言った、「郡国の銭糧は増羨しないものはない。永州だけがどうしてそうでないのか。これはまさに孫府判がその才弁を恃んで我を侮っているのだ。急いでこれを拘束せよ。死なない限り釈放するな」と。翌年、桑哥が失脚し、要束木は誅せられた。孫沢はようやく釈放された。

二十九年(1292年)、湖広平章政事闊里吉思が孫沢の才が将帥に堪えると推薦し、行省員外郎として海南の黎征討に従軍させた。黎人が平定され、軍が還ると、功績を上奏し、広南西道宣慰副使を授かった。秋七月、左右両江道を併せて広西宣慰司に帰属させ、都元帥府を置き、孫沢は広西両江道宣慰副使・僉都元帥府事となった。両江は荒遠で瘴癘の地、百夷と接し、礼法を知らない。孫沢は司規三十二章を作り、漸次に教化し、その民は今日までこれを遵守している。また厩置を二十二所省き、民力を緩めた。凶年の飢饉に、田租を免除するよう上言し、象州・賀州の官粟三千五百石を発して飢えた者を賑った。既に発した後、その事を上奏した。時に行省平章哈剌哈孫は、その心が誠に民を愛することを察し、専擅の罪に問わなかった。邕管の境外の蛮がしばしば寇掠した。孫沢は辺境を行き巡り、要害の地を得て、遠近に計画を布き、民で強健な者四千六百余戸を募り、雷留・那扶など十屯を置き、営堡を列ねてこれを守らせた。陂塘の水を引き田を開墾し、八つの堰を築いて貯水と放流を調節し、若干畝の稻田を得、毎年若干石の穀物を収穫して軍の儲えとし、辺民はこれに頼った。海北元帥薛赤干が贓利の事が発覚し、行省は孫沢に檄を飛ばして検治させた。孫沢は馳せて雷州に至り、その奸贓をことごとく暴き、掠った男女四百八十二口・牛数千頭、及びそれに相当する金銀器物を解放した。海北の民は欣び忭って互いに慶賀した。

御史臺が言上した、「烏古孫沢は使を奉じて大體を知り、汲長孺の如く、将として万全を計り、趙充国の如し。大任を委ねることができる」と。詔してこれを抜擢して海北海南廉訪使とした。旧例では、圭田の租は秋になってから納入したが、後には月を計って受け取るようになった。孫沢が職務について三月、民が租を納めた計米は五百石であった。孫沢は言った、「夫子(孔子)が言われた、『君に事える者は先ずその事に勤め、後にその食を受ける』と。我が政に臨む日は浅いのに、禄を四倍も受けるのは、心情として安らかでない」と。食する分を量って納め、残りは全て学官に委ね、諸生に給して学業を勧めた。常に言った、「士は倹でなければ廉を養うことができず、廉でなければ徳を養うことができない」と。身には一つの布袍を数年着、妻子は質素で華美がなく、人々は皆これを言ったが、孫沢は意に介さなかった。

雷州の地は海に近く、潮汐がその東南を齧り、陂塘は塩鹼化し、農民はこれを苦しんでいた。一方、西北は広く平坦で、陂塘に適していた。孫沢は城の陰を行視し、言った、「三つの溪流はただ海へ走るだけで、灌漑に用いない。これこそ史起が西門豹を軽んじた所以である」と。そこで民に教えて古い湖を浚い、大堤を築き、三溪を堰き止めて貯水し、七つの斗門、六つの堤堰を作ってその増減を制し、二十四の渠に分けてその注水と輸送を達した。渠は皆枝分かれして水門を設け、看守者を置いてその開閉を時宜に合わせ、数千頃の良田を得た。海に臨んだ広い塩鹼地も共に膏腴の土となった。民はこれを歌った、「塩鹼地を田となすは、孫父の教え。渠の水の広々たるは、我が粳稻を育てる。今より豊年ありて、旱魃も澇もなし」と。

至大元年(1308年)、福建廉訪使に改めた。孫沢は以前より閩に徳があり、閩人はこれを安んじた。五色の芝が憲司の澄清堂に生じ、士民は孫沢の徳によるものとした。母の年が八十を超えたため、長沙に帰って養うことを求めた。一年余りして母が喪に服し、孫沢は哀毀のあまり卒した。妻の杜氏は、夫が死んだため、飲食を口にしないこと十三日、死なず、ようやく再び食した。孫沢は積官して承直郎から中大夫に至り、諡は正憲。

子の良禎は、仕えて中書右丞に至り、功名を全うして終わった。

趙炳

趙炳は字を彦明といい、惠州灤陽の人である。父の趙弘は勇略があり、国初に征行兵馬都元帥となり、累進して奉国上将軍に至った。趙炳は幼くして父母を失い、従兄に養育された。凶年に当たり、平州へ食を求めに行く途中、盗賊に遭い、殺されようとしたところ、兄が衣を解いて縛に就こうとした。趙炳は十二歳で、泣いて兄の代わりを請うた。盗賊は驚き、彼らを捨てて去った。弱冠に達するや、勲閥の子として、世祖の潜邸に侍り、謹んで勤め怠らず、ついに寵遇を受けた。世祖が桓州・撫州の間に駐蹕した時、趙炳を撫州長に任じ、城邑の規制は一新された。己未(1259年)、王師が宋を伐った。間もなく北方に警報があり、兵を徴発し財を徴収したため、燕薊は騒動した。王師が北還する途中、趙炳は遠く出迎え、事の次第を詳しく上聞し、徴発した兵と横領した財物を追及して、すべて民に返還させた。世祖はその忠を嘉した。

中統元年(1260年)、北京宣撫司事を判ずることを命じられた。北京は遼東を制御し、蕃夷が雑居し、治め難いと称されていた。時に参知政事楊果が宣撫使であったが、趙炳の到着を聞いて喜び、「我々は憂いなし」と言った。三年、北京の鷹坊などの戸丁を兵として徴発し、その賦を免除し、趙炳にこれを統括させた。時に李璮が叛き、済南を占拠した。趙炳はこれを討つことを請うた。国兵が城を包囲すると、趙炳は千人を率いて単独で北面を担当し、捕虜を得るとすぐに釈放して去らせ、「脅従の徒は、取り立てて治めるに足らぬ」と言った。

済南が平定されると、入朝して刑部侍郎となり、中書省断事官を兼ねた。時に妓を連れて龍舟に登った者がいたので、ただちに法によって取り調べた。間もなくその者が死に、その子が蹕を犯して冤罪を訴えた。詔が趙炳を責めたが、趙炳は「臣は法を執り君を尊ぶ、職分として為すべきことです」と言った。帝は怒り、退出を命じたが、やがて侍臣に「趙炳は法を用いるのが厳しすぎるが、しかし私情に従う者ではない」と言った。枢密院断事官に改めた。済南の妖民が乱を起こしたので、金虎符を賜り、昭勇大将軍・済南路総管を加えられた。趙炳が到着すると、首悪のみを罪に問い、残党は解散させた。凶年に当たり、倉を開いて民を賑済し、その後で上聞した。朝廷はこれを罪としなかった。遼東提刑按察使に遷ると、遼東では彼の来ることを聞き、豪猾な者は姿を潜めた。

至元九年(1272年)、帝は関中が重地であり、風俗が強悍であることを思い、剛鯁な旧臣を得てこれに臨ませようと考え、趙炳を京兆路総管に任じ、府尹を兼ねさせた。皇子安西王が秦に開府すると、詔で宮室を造営することを命じ、すべて趙炳の裁制に任せた。王府の吏卒で横暴に民を擾乱する者がいれば、ただちに上申し、法によって制裁した。王は命じて「今後犯す者があれば、再び啓上せず、お前が自ら処置せよ」と言った。これより豪猾な者は行いを慎み、秦の民は安堵した。旨があり、解州の塩賦を王府の経費に充てることとなったが、年を経て、積もった未納が二十余万緡に達し、有司が追及しても、わずかに三分の一を得るのみで、民はすでに耐えられなかった。趙炳は密かに王に啓上して「十年の未納を、一日で償わせようとして、誰が耐えられましょうか!民を苦しめて徴収するよりは、むしろ恵沢を民に加える方がよいのでは」と言った。王はその言葉を善しとし、遂に徴収免除を命じた。時に王が北伐するにあたり、詔で京兆の一年の賦を軍資に充てることとなった。趙炳は再び請うて「未納の租税を徴収すれば、軍用を補うに足ります。歳賦を貸し免じて、民力を蘇らせることができます」と言った。命令が下ると、秦の民は大いに喜んだ。

十四年(1277年)、鎮国上将軍・安西王相を加えられた。王府は冬は京兆に居り、夏は六盤山に移り、毎年これを常とした。王が北伐した後、六盤の守備兵が乱を企てた。趙炳は京兆から兵を率いて捕らえに行き、わずか二十日ほどで、首謀者の首を取った。十五年春、六盤で再び乱が起こり、再び討伐して平定した。王が北から帰還し、戦功を嘉賞し、賜物を加えて与えた。この年の十一月、王が薨去した。

十六年(1279年)秋、旨を受けて便殿に入見した。帝は労って「卿が去って数年、衰えて白髪となったのはこのようである。関中の事が煩わしかったことが知れる」と言った。民間の利害を尋ねると、趙炳はことごとく陳述し、ついで王の薨去の後、運使郭琮・郎中郭叔雲が威権を弄び、ほしいままに不法を為していることを言上した。帝は臥して聞いていたが、急に起き上がって「卿のこの言葉を聞いて、老いた者が健やかさを増す思いだ」と言い、上尊の馬乳酒を賜って飲ませた。中奉大夫・安西王相に改め、陝西五路西蜀四川課程屯田事を兼ね、その他の職はもとのままとし、ただちに駅伝に乗り数人の勅使とともに郭琮らを審理するよう命じた。到着すると、郭琮は嗣王の旨を偽り、趙炳に罪を着せ、その妻子を捕らえて囚禁した。時に嗣王は六盤におり、趙炳らを平涼の北の崆峒山に移し、囚禁をますます厳しくした。趙炳の子の仁栄が上訴すると、ただちに詔で近侍二人を駅伝を馳せて西に向かわせ、趙炳を解放し、かつ郭琮の一味を枷をはめて連れて来させた。郭琮らは使者を引き留め、酒で酔わせ、先に人を遣わして趙炳を平涼の獄中で毒殺した。その夜、星が落ち、雷のような音がした。享年五十九。実に十七年(1280年)三月のことである。帝はこれを聞き、腿を打って嘆き「我が良臣を失った!」と言った。間もなく郭琮ら百余人が枷をはめられて到着した。帝は自ら審問し、ことごとくその情実を得た。それぞれ罪を認めた後、仁栄に命じて東城で郭琮・郭叔雲を手ずから斬らせた。その家財を没収して仁栄に与えようとしたが、仁栄は「不倶戴天の仇の蓄えた物は、すべて民から取ったものです。どうして受けられましょうか」と言った。帝はこれを善しとし、別に鈔二万二千五百緡を賜り、葬儀の具とさせた。国朝の旧制には、臣下に賻を与える礼はなく、これは殊恩であった。六月、詔で趙炳の冤罪を雪ぎ、特に中書左丞を追贈し、諡を忠愍とした。

子は六人:仁顕は早世した。次に仁表、仁栄、仁旭、仁挙、仁軌。仁栄は中書平章政事に至った。その他も皆、顕官に登った。