李忽蘭吉
李忽蘭吉、一名は庭玉、隴西の人。父の節は金に仕え、乙未の歳、鞏昌石門山より汪世顯に従い城を以て降る。
忽蘭吉は皇子闊端に隷属し質子となり、西川を攻むるに従う。辛丑、功を以て管軍総領と為り、総帥府知事を兼ね、西番南澗を征し功有り。癸丑、世祖潜邸に在り、汪徳臣の言を用い、制を承けて忽蘭吉に命じ銀符を佩かしめ、管軍千戸・都総領と為り、汪惟正を佐け利州を立つ。乙卯正月、兵三万を将いて合江大獲山を取る。宋の劉都統、衆を率いて利州・沙巿を焚かんと謀り、青山に次ぐ。忽蘭吉、伏兵を以て之を取る。俘獲甚だ衆し。都元帥阿答忽、以て聞く。本帥府の経歴に陞り、軍民都弾圧を兼ぬ。丙辰、憲宗更に金符を賜い、仍て千戸・都総領を命ず。戊午、忽蘭吉、兵を以て先ず趨りて劍門を覘伺す。宋兵、糧を長寧に運ぶ。運曲垻に追い至り、之を奪い、将校五人を俘え還る。
憲宗南征す。忽蘭吉、橋道饋餉の事を掌り功有り。璽書を賜う。苦竹隘山寨を攻むるに従い、先ず登り、守将楊立を斬り、都統張寔を獲、長寧・清居・大獲山・運山・龍州等の寨を招降す。十一月、大獲山の守臣楊大淵、款を納る。已にして逃げ帰る。憲宗怒り、将に其の城を屠らんとす。衆、為す所を知らず。徳臣、忽蘭吉に諭して曰く「大淵の去る、事頗る測り難し。亟に之を追え」と。乃ち単騎にて城下に至る。門未だ閉ざさず。大呼して城に入りて曰く「皇帝我を使わしめて汝が軍民を撫す」と。一卒引きて入る。甲士環り立つ。忽蘭吉、馬を下り、大淵の手を執り、之に謂いて曰く「上方宣諭し賞を賜わんとす。待たずして来るは何ぞや」と。大淵曰く「誠に国朝の礼体を知らず、且つ久しく出で、城寨に他の変有らんことを恐る。是を以て亟に帰る。敢えて異謀有るに非ざるなり」と。遂に与に偕に来る。一軍皆喜ぶ。忽蘭吉入りて奏す。憲宗曰く「楊安撫反すや」と。対えて曰く「無し」と。憲宗曰く「汝何を以て之を知るや」と。対えて曰く「軍馬整肅なるは、内乱を防ぐなり。城門閉ざさざるは、他心無きなり。臣が言を一聞きし、即ち軍民を撫綏し、臣に従いて出づ。是を以て之を知る」と。憲宗曰く「汝懼れざるや」と。対えて曰く「臣は上は聖慮を労し、下は諸軍を苦しめ、又た一郡の生霊命脈の寄る所と為るを恐る。故に其の懼れを知らず」と。憲宗悦び、蒲萄酒を賜う。大淵遂に故官の侍郎・都元帥を以て命を聴き、而して民は生全を得たり。
憲宗、忽蘭吉と怯里馬哥に命じ戦船二百艘を領し、釣魚山を掠め、其の糧船四百艘を奪わしむ。憲宗、釣魚山に次ぐ。忽蘭吉、浮梁を作り、以て往来を通ず。己未、怯里馬哥・扎胡打・魯都赤・闊闊朮と蒙古・漢軍二千五百を領し重慶を略す。六月、総帥汪徳臣、軍に没す。忽蘭吉に命じ其の軍を以て殿と為さしむ。宋兵、水陸昼夜接戦す。皆之を敗る。部軍は皆青居の人、賞賚独り厚し。遂に蒲察都元帥と青居を守り、城壁を治め、芻糧を儲え、降附を招納す。宗王穆哥、制を承けて忽蘭吉に命じ金符を佩かしめ、鞏昌元帥と為す。
九月、火都、西蕃の点西嶺に叛く。汪惟正、師を帥いて之を襲い、怯里馬の地に至る。火都、五百人を以て西蕃に遁入す。詔して宗王只必鐵木兒に、答剌海・察吉里・速木赤を以て蒙古軍二千を将い、忽蘭吉を以て総帥軍一千を将い、火都を西蕃に追襲せしむ。十月、之を擒う。四年、首将答剌海、忽蘭吉の功高きを言う。詔して虎符を賜わんとす。忽蘭吉受けず。其の故を問う。対えて曰く「臣聞く、国制に万軍を将うる者は虎符を佩くと。若し汪氏万軍を将うるは、已に之を佩く。臣何ぞ復た佩く可けんや」と。帝其の言を是とし、総帥汪惟正の下に於いて充てて鞏昌路元帥と為し、所属の官悉く節制を聴かしむ。六月、答機、西蕃に叛く。帝、好里燕納と惟正に命じ之を松州に追わしむ。忽蘭吉、千騎を以て先ず往き、答機を執る。
十年正月、成都利を失う。帝、人を遣わし以て之を失う所以の故及び今措置の方を問わしむ。忽蘭吉附奏して曰く「初め成都を立つるに、惟だ子城を建て、軍民は外城に止まり、別に城壁無し。宋軍、虚に乗じて来り攻む。備え無きに失う。軍官は皆年少事を経ざるの人、此を以て利を失う。西川は地曠く人稀し。宜しく城寨を修置し、以て不虞に備うべし。材智を選任し、軍儲を広く畜え、最も急務なり。今蒙古・漢軍多く正身に非ず、半ば驅奴を以て代う。宜しく之を厳禁すべし。所謂る城寨を修築し、軍馬を練習し、屯田を措画し、糧餉を規運し、舟楫を創造し、軍器を完繕するは、六者一も欠く可からず。又た賢を任じ讒を遠ざけ、賞を信じ罰を必にし、内を脩め外を治め、戦に勝ち攻め取り、良将を用い、機に随い変に応ずれば、則ち辺陲虞無かるべし」と。六月、兵を将いて成都に赴き、察不花と同権省事す。十一月、復た還りて章広平山寨を守る。前後七年、戦う毎に輒ち勝つ。
二十一年、詔を奉じて参政曲里吉思・僉省巴八・左丞汪惟正と分兵し、五溪洞蛮を進取せんとす。時に思州・播州以南、施州・黔州・鼎州・澧州・辰州・沅州の界、蛮獠叛服常ならず、しばしば辺民を劫掠す。乃ち四川行省に詔してこれを討たしむ。曲里吉思・惟正一軍は黔中より出で、巴八一軍は思州・播州より出で、都元帥脱察一軍は澧州より出で、忽蘭吉一軍は夔門より会合す。十一月、諸将山を鑿ち道を開き、千里に綿亘す。諸蛮は険隘に伏を設け、木弩竹矢をもって、間を伺いて窃かに発し、亡命して敵を迎うる者は、皆尽くこれを殺す。諸蛮の酋長に諭して衆を率いて来降せしむ。独り散毛洞の潭順は走りて嵓谷に避け、力屈して始めて降る。
李庭
李庭、小字は労山、本は金人蒲察氏、金末中原に来たり、李氏と改称し、済陰に家し、後に寿光に徙る。至元六年、材武を以て選ばれて軍籍に隷し、権管軍千戸とす。宋を伐つに従い、襄陽を囲む。宋将夏貴、戦船三千艘を率いて来援し、鹿門山西岸に泊す。諸翼の水軍これを攻め、相持すること七日。庭時に歩騎を将い、自ら請うて水軍万戸解汝楫とともにこれを撃ち、その裨将王玘・元勝を斬る。河南行省、制を承けて庭に益都新軍千戸を授く。宋の襄陽守将呂文煥、一万五千人を以て来たりて万山堡を攻む。万戸張弘範、方にこれと接戦す。庭、単騎横槍して陣に入り、二人を殺す。槍折れ、倒に持って回し一人を撃ちて馬を墜とす。庭もまた二創を受け、後軍の槍を奪い、創を裹いて力戦し、これを敗る。
八年春、真に除して益都新軍千戸とし、抜都児の号を賜う。宋兵と襄陽城下に戦い、奔を追い北を逐い、直ちに城門に抵る。流矢左股に中りて止む。九年春、樊城外郭を攻め、砲額及び左右の手を傷つく。その土城を奪い、遂に進んで襄陽東堡を攻む。砲右肩を傷つく。その楼を焚き、一字城を破る。文煥の麾下に胖山王総管なる者あり、驍将なり。庭、伏を設けて誘いこれを擒にし、功を以て金符を授けらる。十年春、大軍樊城を攻む。庭、薪芻土牛を運びて城壕を填め、雲梯を立てる。城上矢石雨の如し。庭、屡たび砲に中り、城下に墜つ。絶えて復た甦る。創を裹いて再び登る。是の如き者数四、殺獲甚だ多し。樊城破れ、襄陽降る。功を以て金虎符を授けられ、管軍総管と為る。
十四年、入朝す。世祖これを労い、益都の居第・単河の官荘・鈔一万五千貫及び弓矢諸物を賜い、福建行中書省参知政事を拝す。福建道宣慰使に改む。闕に召し赴き、宿衞を備う。
十七年、驃騎衞上将軍・中書左丞を拝し、日本を東征す。十八年、軍竹島に次ぐ。風に遇い、船尽く壊る。庭、壊船板を抱き、漂流して岸に抵る。下りて余衆を収め、高麗より京師に還る。士卒存する者十の一二。継いて父歿するを以て、益都に帰る。召して中書左丞・司農卿を拝す。赴かず。
二十四年、宗王乃顔叛す。駅伝を以て上都に召し至り、諸衞の漢軍を統べ、帝の親征に従う。塔不台・金家奴来たりて拒戦す。衆号十万。帝親しく諸軍を麾してこれを囲む。庭、阿速軍を調べて継進せしむ。流矢胸に中り脅を貫く。創を裹いて復た戦う。帝遣わしてこれを止めしむ。乃ち已む。軍中に令して百弩を備え、敵の陣を列するを俟ち、百弩斉発す。乃ち復た出でず。帝庭に問う「彼今夜当に何如」と。庭奏す「必ず遁去せん」と。乃ち壮士十人を引き、火砲を持ち、夜その陣に入る。砲発し、果たして自ら相殺し、潰散す。帝、何を以てこれを知るやと問う。庭曰く「その兵多しと雖も、紀律無し。車駕ここに駐して戦わざるを見ては、必ず大軍後るに在りと疑わん。是を以てその将に遁せんとするを知る」と。帝大いに喜び、金鞍良馬を以て賜う。庭奏す「若し漢軍二万を得て、臣に従い便宜にこれを用いしめば、乃顔擒にすべし」と。帝これを難じ、月児魯の蒙古軍と並び進ましむ。遂に乃顔を縛りて以て献ず。帝既に南還す。庭また親しく塔不台・金剛奴を獲る。功を以て龍虎衞上将軍を加え、遥かに中書省左丞を授けらる。
二十五年、乃顔の余党ハダン・トルガンが再び遼東で叛く。詔して庭及び枢密副使ハダにこれを討たしむ。大小数十戦、克たずして還る。既にして庭軍を整えて再び戦い、流れ矢左脇及び右股に中る。一大河に追い至り、鋭卒を選び、潜かに火砲を負わせ、夜上流を遡ってこれを発す。馬皆驚き走り、大軍潜かに下流にて悉く渡る。天明進んで戦う。その衆馬無く、相敵する能わず、俘斬二百余人。ハダン・トルガン高麗に走りて死す。資徳大夫・尚書左丞を拝し、枢密院事を商議し、その長子大用に官し、仍て鈔二万五千貫を賜う。庭因りて奏す、「今漢軍の力、北征に困す。若し江南軍に依り、毎歳二八に放散し、以て次第に番上せば、甚だ便なり」と。帝その奏を可とし、令して令と為すことを著す。宗王ハイド将に辺を犯さんとす。バヤン以て聞く。帝命じてユエルルと庭に議せしむ所以に備えを為すことを。庭括馬の令を下すことを請う。凡そ馬十一万匹を得、軍中その用に頼る。栄禄大夫・平章政事を拝し、枢密院事を商議し、諸衛屯田事を提調す。
三十一年春、世祖崩ず。ユエルルとバヤン等策を定めて成宗を立てる。庭翊賛の功多くを占む。成宗と太后眷遇甚だ至れり。毎に食を進むれば必ずこれを分ち賜い、大宴仍て命じて座を左手諸王の下・百官の上に序し、珠帽・珠半臂・金帯各一、銀六鋌を賜い、庄田諸物是に称す。旨を奉じて江浙軍馬五百三十二所を整点し、還り入見す。成宗親しく衣を授け、これを慰労す。
子大用、帰徳府事同知、哀毀を以て卒す。大椿、職を襲い金虎符を佩き、宣武将軍・益都新軍万戸と為り、建康に戍す。大誠、職を襲い後衛親軍都指揮使と為る。
史弼
史弼、字は君佐、一名はタラフン、蠡州博野の人。曾祖彬、胆勇有り。太師・国王ムカリ兵を南下す。居民虜われ、蠡守城を閉じて自ら守る。彬諸子に謂いて曰く、「吾が恃む所は、郡守なり。今民を棄てて自ら保つ。吾その束手して死するに、何ぞ死中に生を求むるに若かんや」と。乃ち郷人数百家を率い、ムカリに詣で降を請う。ムカリ帛に書いて符と為し、遣わして還らしむ。既にして州破る。独り彬と同降の者のみ免る。
弼長じて国語に通じ、膂力人に絶え、強弓を挽く能くす。里門石を鑿ちて獅と為し、重さ四百斤、弼これを挙げ、数歩外に置く。潼関守将王彦弼その材を奇とし、女を以て妻とし、又その材勇を左丞相耶律鑄に薦む。弼鑄に従い北京に往く。近侍ホリタイ弼の挽く弓を見、名を以て世祖に聞こゆ。これを召し、遠垜を以て試みる。連発的に中る。左右に給事せしめ、馬五匹を賜う。
兵瓜洲に駐す。アタハイ言う、「揚子橋は乃ち揚州出入の道なり。宜しく堡を立て、驍将を選びてこれを守るべし」と。バヤン弼に三千人を授け、木堡を立て、その地を拠らしむ。弼遽かに数十騎を以て揚州城に抵る。或るものこれを止めて曰く、「宋将姜才倔強、未だ易うべからず」と。弼曰く、「吾揚子橋に柵し、その必ず争わんとする所の地を拠る。才未だ固からざるに乗じ、必ず来たりて我を攻めん。則ち我が利なり」と。才果たして万衆を以て、夜に乗じて来攻す。人束薪を挟みて塹を填む。弼軍中に戒めて譁する無からしめ、その至るを俟ち、櫑木を下し、砲石を発してこれを撃つ。千余人を殺し、才乃ち退く。弼兵を出してこれを撃つ。会うに相威・アジュの兵継ぎて至り、大戦す。才敗走し、その将張都統を擒う。
十五年、朝に入る。中奉大夫・江淮行中書省参知政事に陞り、黄州等路宣慰使を行る。盗淮西司空山に起こる。弼これを平ぐ。十七年、南康都昌に盗起こる。弼往きて討ち、その親党数十人を誅し、脅従する者はこれを宥す。江州宣課司税民米に及び、米商避けて去り、民皆門を閉じ市を罷む。弼立ってこれを罷む。十九年、浙西宣慰使に改む。二十一年、黄華建寧に反す。春復た霖雨、米価湧き貴し。弼即ち米十万石を発し、平価にこれを糶し、而して後に省に聞く。省臣その価を増さんと欲す。弼曰く、「吾失信すべからず。寧ろ吾が俸を輟みて以てこれを足さん」と。省奪う能わず、益々十万石を出し、民饑えざるを得。淮東宣慰使に改む。弼凡そ三たび揚州に官す。人喜び、石を刻みてこれを頌し、号して三至碑と曰う。僉書沿江行枢密院事に遷り、建康に鎮す。
二十六年、台州の盗楊鎮龍を平ぐ。尚書左丞を拝し、淮東宣慰使を行る。冬、朝に入る。時に世祖爪哇を征せんと欲し、弼に謂いて曰く、「諸臣吾が腹心と為る者少なし。爪哇の事を汝に付せんと欲す」と。対えて曰く、「陛下臣を命ず。臣何ぞ敢えて自ら愛せんや」と。二十七年、遥かに尚書省左丞を授け、浙東宣慰使を行い、処州の盗を平ぐ。
二十九年、栄禄大夫・福建等処行中書省平章政事に拝し、爪哇征討に赴き、亦黒迷失・高興を副将とした。金符百五十・幣帛各二百を授け、功績を待った。十二月、弼は五千の兵を率いて諸軍と合流し、泉州より出発した。風強く濤湧き、舟は揺れ簸り、士卒は皆数日間食事ができなかった。七洲洋・万里石塘を過ぎ、交趾・占城の境界を経て、翌年正月、東董西董山・牛崎嶼に至り、混沌大洋橄欖嶼に入り、仮里馬答・勾闌等の山に至り、兵を駐めて木を伐り、小船を造って進んだ。時に爪哇は隣国葛郎と怨みを構えており、爪哇主ハジ・ガダナガラは既に葛郎主ハジ・ガダンに殺され、その婿トゥハン・ビジャヤはハジ・ガダンを攻めたが勝てず、麻喏八歇に退いて守った。弼らの到来を聞き、使者を遣わしてその国の山川・戸口及び葛郎国の地図を献じて降を迎え、救援を求めた。弼は諸将と共に葛郎兵を進撃し、大いにこれを破り、ハジ・ガダンは逃げ帰国した。高興が言うには、「爪哇は降ったとはいえ、もし中途で変心し、葛郎と合流すれば、我が孤軍は懸絶し、事態は測りがたい」。弼はそこで兵を三道に分け、興及び亦黒迷失と各々一道を率いて、葛郎を攻めた。答哈城に至ると、葛郎兵十余万が迎え撃ち、朝から正午まで戦い、葛郎兵は敗れて城に入り自守した。そこでこれを包囲した。ハジ・ガダンは出て降り、その妻子・官属を捕らえて帰還した。
トゥハン・ビジャヤは帰国して降表を改め、所蔵の珍宝を携えて入朝することを乞うた。弼と亦黒迷失はこれを許し、万戸タンジ・ブディン・甘州不花に兵二百を付けて護送させ帰国させた。トゥハン・ビジャヤは途中で二人を殺して叛き、軍の帰還に乗じ、道の両側で略奪した。弼は自ら後衛を断ち、戦いながら進み、三百里を行って舟に乗ることができ、六十八昼夜航行して泉州に達した。士卒の死者は三千余人に及んだ。有司が捕虜・鹵獲した金宝・香布などを数えると、価値五十余万に相当し、また没理国が献上した金字の表及び金銀犀象などの物品を進上した。事の詳細は高興及び爪哇国伝にある。ここにおいて朝廷はその損失が多いとして、杖十七を加え、家財の三分の一を没収した。
高興
高興、字は功起、蔡州の人である。その祖先は薊より汴に移り、曾祖父は拱之、祖父は子洵、代々農業を業としていた。金末の兵乱に際し、父の青はまた蔡に移り住んで興を生んだ。
興は若くして慷慨として大節を重んじ、二石の弓を引き絞る力を有し、嘗て南陽の山中を歩き猟をしていた時、虎に出会い、跳踉して大吼した。衆は皆驚いて逃げたが、興は神色自若として一矢を放ちこれを斃した。至元十一年冬、八騎を従えて黄州に至り、宋の制置使陳奕に謁見した。奕は彼を麾下に配属し、また興の相貌を奇として、甥女を妻とさせた。
十四年春、婺州に還鎮し、元より降った虎符を佩び、衢婺招討使を充任した。東陽・玉山の群盗張念九・強和尚らが新昌で宣慰使陳祐を殺害したので、興はこれを捕らえて斬った。また都元帥マングタイに従って福・建・漳の三州を平定し、敏陽寨を破り、福成寨を屠った。十五年夏、詔してマングタイに福建に行省を立てさせ、興には建寧に行都元帥府を立てさせてこれを鎮撫させた。政和の人黄華、邵武の人高日新・高従周が衆を集めて叛いたが、皆これを討って降伏させ、招討使として右副都元帥の職務を行った。
十六年秋、召されて朝に入り、大明殿で宴に侍した。江南で得た珍宝を全て献上した。世祖は言った、「卿は何ぞ少しも留めて自ら用いないのか」。対えて言った、「臣は元より貧賤であり、今幸いに富貴を得たのは皆陛下の賜り物です。どうして鹵獲の物を隠し持ちましょうか」。帝は喜んで言った、「直臣である」。興はそこで配下の士卒の戦功を奏上し、彼らに官職を与えるよう乞うた。帝は自らその官秩を定めるよう命じ、爵賞を差等を付けて頒布させた。興を浙東道宣慰使に遷し、西錦の服・金線の鞍轡を賜った。省の檄を奉じて、処州・福建及び温・台の海洋群盗を討ち、これを平定した。
二十四年、尚書省立つ。行尚書省参知政事を拝し、婺州において柳分司を捕斬す。母憂に服す。詔して起復を命じ、処州の盗賊詹老鷂・温州の盗賊林雄を討つ。興は潜かに青田より其の巣穴を擣ち、葉山に戦い、老鷂及び雄等二百余人を擒え、温州市において斬る。又、省檄を奉じて徽州の盗賊汪千十等を平らぐ。二十八年、福建行省を罷め、参知政事として福建宣慰使を行い、漳州の盗賊欧狗を諭して降す。召し入朝し、江西行省左丞を拝す。
二十九年、復た福建行省を立て、右丞を拝す。爪哇、使者孟琪を黥す。詔して興を平章政事と為し、史弼・亦黒迷失と師を帥いて之を征し、玉帯・錦衣・甲冑・弓矢・大都良田千畝を賜る。三十年春、海を浮かびて爪哇に抵る。亦黒迷失は水軍を将い、興は歩軍を将い、八節澗に会す。爪哇主の婿土罕必闍耶降る。進んで葛郎国を攻め、其の主哈只葛当を降す。事は弼伝に見ゆ。又、諸小国を諭して降す。哈只葛当の子昔剌八的・昔剌丹不合、山谷に逃げ入る。興独り千人を帥いて深く入り、昔剌丹不合を虜う。還りて答哈城に至る。史弼・亦黒迷失は已に使を遣わし土罕必闍耶を護りて帰国せしめ、具に入貢の礼を具す。興深く其の失計を言う。土罕必闍耶果たして使者を殺し以て叛き、衆を合して来攻す。興等力戦し、之を却く。遂に哈只葛当父子を誅して以て帰る。詔して爪哇を縦せし者を治む。弼と亦黒迷失は皆罪を得、興独り議に預からざるを以て、且つ功多しとて、金五十両を賜る。
子、久住は泉州総管。長寿は建寧路総管府事同知。忙古台は万戸を襲う。伯顔は寧国路総管府事同知。完者都は辰州路総管。宝哥は治書侍御史。
劉國傑
劉國傑、字は國寶、本は女真人なり。姓は烏古倫、後に入中州し、劉氏に改姓す。父は德寧、宗王斡臣の必闍赤と為り、管領益都軍民公事を授かる。
國傑、貌は魁雄、騎射に善くし、胆力人に過ぐ。少く軍に従い漣海し、材武を以て隊長と為る。至元六年、其の兵を選びて襄陽を取り、益都新軍千戸として張弘範に従い万山堡に戍る。宋兵窺伺す。衆出でて薪を取る。大いに兵を出して来たり堡を攻む。國傑等数百人を以て之を敗り、首級四千余を斬る。是より有名有り。荊南を略し、帰峽に抵り、数千里を転戦し、還り、宋兵を襄陽の下に破る。樊城を攻むるに従い、外城を破る。火砲股を傷つく。創を裹きて復た戦い、其の外城を平らぐ。武略将軍を授け、金符を佩ぶ。張貴の兵を櫃門関に破るに従い、戦い甚だ力めり。再び樊城を攻め、数箇所に傷つけられ、血戦し、竟に之を破る。襄陽降る。世祖其の勇を聞き、召見し、武德将軍・管軍総管に遷し、銀百両・錦衣・弓矢を賜いて以て之を寵す。
宋亡び、入朝し、僉書西川行枢密院事を加え、淮南兵を選びて之を将い蜀を平らがしむ。未だ行かず。会う北辺に警有り。鎮国上将軍・漢軍都元帥を加え、衛兵を将いて北方を定む。冬、召還さる。帝親しく衣を解き玉帯を加えて之を賜う。十五年、復た左・右・中三衛兵を将い、北辺に戍る。詔して「命を用いざる者有らば、之を斬りて以て聞せよ」と。十六年、諸王脱脱木反し、和林を寇す。國傑其の衆悉く至るを度り、営中必ず虚ならんと、軽騎を選びて之を襲い、其の衆万計を獲る。脱脱木屡戦利あらず、又残暴にして、衆心を失う。衆之を殺して来降す。十八年、輔国上将軍を加う。
二十五年、湖南の賊詹一仔が衡州・永州・宝慶・武岡の人々を誘い、四望山に嘯聚し、官軍は長らく討つことができなかった。劉国傑はこれを破り、賊の首領を斬首し、残党はことごとく降伏した。将校が請うて言うには、「この連中は長く乱を起こし、窮すれば降伏し、降伏して隙あればまた反逆します。ことごとく坑に埋めてしまうのがよろしいでしょう」と。国傑は言う、「多く殺すことはならぬ。ましてや降伏した者を殺すなど。私はこれを処置する方法がある」と。そこで要害の地を選んで三つの屯とし、衡州にあるものを清化、永州にあるものを烏符、武岡にあるものを白倉とし、その人々を移して守らせ、それぞれの屯に五百人を置き、賊に備えさせ、かつ荒廃した田畑の雑木や荊棘を開墾させ、賊が巣窟とすることができないようにした。降伏者に以前の田宅がある者はことごとく返還し、ない者は屯の中で雑耕させ、後にみな良民となった。
詔があり江西の諸盗賊を討つよう命じられ、国傑は急行してこれに向かった。十一月、陳古水において蕭太獠を破り、数百人を斬首し、進んで懐集の諸寨の賊を平定した。二十六年春、東進して肇慶に入り、清遠において閆太獠を攻め、引き返して懐集において蕭太獠を攻めてこれを生け捕りにし、さらに厳太獠を攻め走らせた。四月、金林において曾太獠を攻め、またこれを破って敗走させた。賊は険阻な要害に深く入り込んだ。国傑は山を穿って進入し、賊衆五千人を襲撃してほぼ殲滅した。七月、賀州に駐屯した。兵士は瘴気に冒され、みな疫病にかかった。国傑は自ら慰問し、医薬で治療し、多くが死なずに済んだ。ちょうど国傑も病にかかったので、軍を道州に移した。広東の賊陳太獠が道州を寇掠したので、国傑はこれを討ち捕らえ、ついで赤水の賊寨を攻め落とした。
二十七年、江西の盗賊が竜泉で蜂起した。国傑は出撃を命じたが、諸将はこもごも諫めて言うには、「これは他省の盗賊です」と。国傑は言う、「賊を放って患いを生ぜしめれば、その患いは図り難くなる。どうして彼我の別で言えようか」と。そこで軽兵を選び、旗鼓を捨て、纓飾を外し、一昼夜で賊の境域に急行した。賊衆数千が迎え撃ったが、軍容の整わないのを見て、「これは郷丁だ」と言い、侮った。国傑は数十騎で敵陣に突入し、兵士がこれに従った。賊は大敗し、五百余級を斬首し、掠奪した男女を奪回した。日暮れになって、突然兵を収めて去った。堡の民はこれを見て怪しみ、誰であるか知らなかった。翌日、また突然現れ、堡の民を呼んでその男子を返し、「我は劉二覇都である」と言った。民はみな驚き神のごとく思い、ついで別の賊鍾太獠が南安の十八耒に居ることを告げた。国傑は霧に乗じて、その巣窟に突入した。賊衆は驚き乱れ、自ら踏み合い、官軍がこれを撃ち、朝から昼までかかって、捕らえ殺すところ甚だ多かった。兵を返して桂東に帰った。二月、竜泉の賊がまた酃県を寇掠したので、国傑はついに酃県に戻った。賊は退いて大井山に拠った。そこで軍を三道に分けて進軍し、道は険しく、馬を捨てて進入した。時に大雨が降り、賊は備えをしていなかったので、ことごとく襲撃してこれを殲滅し、道州に帰鎮した。八月、永州の賊李末子千七が全州を寇掠し、官兵を破り、郡の長官土魯を殺した。国傑は進軍して討ち、これを捕らえ、首をさらして帰還した。前後の功績により、湖広右丞を加えられた。
三十年、入朝した。帝は朝臣に言った、「湖広は重地である。ただ劉二覇都のみがこれを鎮めることができる。他の者にはできない」と。他官に遷さぬよう命じた。まもなく交趾に問罪することを議し、湖広安南行平章事を加えられ、諸王亦吉列台を監軍としてこれを征伐させた。出発しないうちに、帝が崩御したので、やめた。
成宗が即位すると、また衡州に行枢密院を設置し、やはり副使に任じられた。初め、黔中の諸蛮酋は内附した後また叛き、また巴洞の何世雄が澧州を犯し、泊崖洞の田万頃・楠木洞の孟再師が辰州を犯した。朝廷はかつてこれを討って降伏させ、泊崖を施溶州に昇格させ、万頃を以て知州事とした。三十一年、万頃がまた叛き、攻撃したが陥落させられなかった。ここに至り、帝が即位し、天下を赦し、万頃らをも赦したが、やはり降伏しなかった。帝は国傑に命じた。
六月、入朝し、玉帯・錦衣・弓矢を賜られた。台臣が言うには、国傑は軍中でしばしば家財を以て将士を賞したと。帝は倍償するよう命じ、部曲で功のあった者はそれぞれ官を遷された。大徳五年、羅鬼の女子蛇節が反逆し、烏撒・烏蒙・東川・芒部の諸蛮がこれに従ってみな叛き、貴州を陥落させた。詔により国傑が諸翼の兵を将い、四川・雲南・思播の兵と合わせてこれを討った。賊兵は強勁で鋭く、かつ健馬が多く、官軍は戦って利を得ず敗れた。国傑は人に一枚の盾を持たせ、その上に釘を布き、陣が合するのを待ち、すぐに盾を棄てて偽って逃げた。賊は果たしてこれを追い、馬が奮って止まらず、盾に遇うとみな倒れた。国傑が進軍の鼓を鳴らすと、賊は大敗した。まもなくまた衆を合わせて戦いを請うたが、国傑は応じなかった。数日後、その気勢が衰えたと推し量り、一鼓してこれを破り走らせ、数千里を追撃した。七年春、蛇節・宋隆済・阿女らを捕らえて斬り、西南夷はことごとく平定された。詔によりその将士を率いて入見し、宴を張って饗し、賞賜は甚だ厚かった。光禄大夫に進み、将士を賞した金一千九百両・鈔一万五千錠を償い、将士はそれぞれ官を遷され、益都に帰って墓参りするよう命じられた。
八年、還って鎮守す。国傑は久しく辺境を行き、瘴気に患い、ここに至り病篤し。平章卜隣吉台、僚属を率いて之を問う。国傑曰く、「交賊は臣とせず、若し病幸いに小愈し、此の虜を滅し得ば、則ち死して憾なし」と。家事を以て問うも、言わず。二月卒す。年七十二。
国傑は性質雄猛にして、死を帰するが如く視る。嘗て人に語りて曰く、「吾れ国為に力を宣べ、身草野に棄つると雖も恨みず、何ぞ必ずしも馬革に屍を裹み還り葬らんや」と。且つ誠を推すに善くして士心を得、故に能く此の如く功を立てたり。訃聞き、帝深く悼惜し、推忠効力定遠功臣・光禄大夫・司徒・柱国を贈り、斉国公を封じ、武宣と諡す。
子の脱歓、湖広行省平章政事、憲宗の孫女を尚ぶ。